昨日、九州の友人から久しぶりに電話がかかってきて、また”男の長電話”で2時間以上も長話をしてしまいました(電話代は相手持ちなので気が楽でしたが)。彼は九州の山間の町で家業を継いでいるのですが、私が最近身体の調子が悪くて元気がないと風の便りに聞いたらしく、心配して電話してきたのです。「わが道を行くお前が元気がないなんてさみしいじゃないか」と言ってました。

でも、正直言って「わが道を行く」のも、結構しんどいのです。だからと言って、サラリーマンのように右へ倣いして生きていくのもしんどい。私はサラリーマンを10数年やりましたが、これほどの苦痛はありませんでした。しかし、「それくらい我慢できなくてどうする」とまわりから散々言われました。なんとか言ってもこの社会は「サラリーマンこそ人生」のドグマにおおわれていて、サラリーマンができなければ社会的不適格者の烙印さえ押されかねないのです。しかも、日本の場合、サラリーマンは「会社人間」と同義語なのです。昔、上司から「サラリーマンの給料は我慢料だ」と言われたことがありますが、言い得て妙だなと思いました。

年金だって25年保険料を納めなければ受給資格を得ることもできません。国民年金なんてとても生活できるような金額ではありませんので、現実的には最低でもサラリーマンを25年つづけなければまともな老後も送れないようになっているのです。そんな制度をそのままにして、「サラリーマンだけが人生ではない」「もっと多様な生き方があるべきだ」なんてよく言えるもんだと思います。そもそも社会保障の制度からして多様な生き方なんてできないようになっているのです。

その意味では、ベーシックインカムは一考の価値があるかもと最近思うようになりました。そうすればもっと多様な生き方を選択できるようになり、そこから新しい社会の活力も生まれるかもしれません。

この社会の閉塞状況は、そのまま人生の閉塞感につながっています。特に若者にその気持が強いのではないでしょうか。昔はシラケと言われ、モラトリアムと言われ、今はニートや引きこもりと言われていますが、彼らがそうやって現実から逃避したくなる気持はわからないでもありません。掛け声だけは立派だけど、この社会は生き方の選択肢があまりにも少なすぎるのです。
2011.01.12 Wed l 社会・時事 l top ▲