先日、田舎の友人からどこか居候させてくれるところを知らないかと電話がありました。といって、居候するのはその友人ではなく、彼の甥っ子です。なんでも俳優になるために上京すると言ってきかないらしいのです。しかし、住むところのあてもなく、本人は「ホームレスをしてもいい」と言っているのだとか。

私はその気持がまぶしく思えてなりませんでした。それで、「五木寛之は早稲田に入るために上京したとき、下宿するお金がなかったので、早稲田の穴八幡神社の床下に寝泊まりしたらしいぞ。そのほうが大物になるんじゃないか」と言いました。

折しも、先日、『ヤンキー進化論』を書いた難波功士氏の新著『人はなぜ〈上京〉するのか』(日本経済新聞出版社)を読んだばかりなのですが、今の若者たちの人生にとっても、上京は大きな意味をもつのだろうかと思いました。

「東京・東京・東京と書けば書くほど哀しくなる」と言った寺山修司と同じように、私はとにかく東京に行きたくてなりませんでした。東京に行かなければなにもはじまらない、東京から自分の人生ははじまるのだ、と思っていました。しかし、今になり、じゃあなにがはじまったんだと自問すると、ただ自己嫌悪におちいるばかりです。結局このざまだ、という気持しかありません。

しかし、それでも上京したことを後悔する気持はありません。それは自分でも不思議です。だから、将来田舎に帰りたいという気持もまったくありません。むしろ、(何度も言いますが)たとえ野垂れ死にしても田舎には帰らない、という気持のほうが強くあります。

『人はなぜ〈上京〉するのか』のなかでは、つぎのような五木寛之の文章が紹介されていました。

 九州出身者なら、九州から鈍行を乗りつぎ、参考書を枕にごろ寝しつつ悠々上京してくるような受験生が好きだ。東京の宿が高いと思えば、新宿あたりのフーテンと共に街に眠って、デパートの便所を使い、大学の池で顔を洗って試験場に臨むような高校生が好きだ。場合によったら、ジャズ喫茶か何かで金持ちの遊び人女子学生でも引っかけ、相手の車でも貸してもらって、その中で寝るような若者が好きだ。新宿旭町付近でも、どこでも一泊二百円のベットハウスぐらいびくともしない受験生が好きだ。(五木寛之『風に吹かれて』新潮文庫、1972年)


私も五木寛之の真似をして、ゴーリキーの『私の大学』を携えて上京し、友人のアパートを転々としていました。受験のために上京したときも、ホテルなんて望むべくもなく、このエッセイと似たようなことをしていました。あの頃のことを思い出すと、息苦しくなるくらいなつかしくてなりません。

今の私にとって、春はどこかせつないものがあります。いつの頃からか、そんな季節になりました。春は希望に満ちた旅立ちのイメージがありますが、この年になると、もうそんな季節が訪れることがないからでしょうか。
2012.03.25 Sun l 東京 l top ▲