先日、仕事先で政治の話になった際、その場にいたひとりが「野田って頭がおかしいとしか言いようがないよ」とぽつり言ったら、みんなも「ホントにそんな感じだよな」「普通の感覚では理解できないよ」と口々に言ってました。

その理由はいまさら言うまでもないでしょう。ところが、本人は続投の意思が固く、今月の代表選に再び出馬するようです。しかも、誰が見たって民主党凋落の張本人なので、党内では総スカンかと思ったら、実際は逆で、再選間違いなしだそうです。

まったく民主党というのは、「普通の感覚」では理解できない政党です。どう見ても自殺行為をしている(みずから解体する方向に向かっている)としか思えないのですが、野田氏を支持する民主党の議員たちにそんな切迫感はないみたいです。

ある人は「マニフェストはなにひとつ実行されず、やらないと言っていた増税だけが実行されたなんて冗談みたいな政党だよ」と言ってましたが、それが「普通の感覚」でしょう。ところが、民主党の議員たちに言わせれば、それが「決断する政治」ということになるのです。まったく常人には理解しがたい感覚です。

数日前の朝も、駅前で、民主党の現職国会議員が街頭演説をしていましたが、私はそれを見て、「エエッ、まだこんなことしているのだ?」と思いました。今日のていたらくを考えると、とてもじゃないが有権者に顔向けできるとは思えないし、もう次の選挙もあきらめていると思っていたからです。実際に、私が見ている限り、ビラを受け取る人なんていませんでした。誰が見ても「民主党は終わった」としか思えないのです。

民主党の議員たちが能天気に現実を糊塗しつづける理由のひとつに、連合(日本労働組合総連合会)の存在があります。彼らにとって、有力な支持母体である連合の組織票は大きな魅力です。「党内改革」なんて詭弁を弄しながらいつまでもドロ船にいつづけるのも、その魅力から離れられないからでしょう。

連合のなかには、自治労や日教組など、かつての官公労の組合も名を連ねています。官公労の組合も大きな票田で、民主党のなかには組合出身の議員も多く、輿石東幹事長が日教組の出身であるのはよく知られています。自治労や日教組は、かつては左派の有力組合で、戦後の労働運動をけん引する存在でした。いわゆる「革新幻想」の担い手だったのです。

しかし、政界再編のなかで民主党に合流してからは、そのイメージも大きく変わりました。今回の消費税増税や原発再稼動も然りで、ひと昔前なら一大反対運動を展開したでしょうが、今回は政権与党に同調して、明確に反対の姿勢はとりませんでした。昔のイメージをもっていた人にはさぞショックだったでしょうが、むしろこれは自治労や日教組の本質が露わになっただけだとも言えます。戦後政治の一角を担った「革新幻想」も完全に終わったのです。

では、右でも左でもない未来に向かう政治はあるのか。そこで出てくるのが「エコ」です。先日も、鶴見済が『完全自殺マニュアル』以来12年ぶりに『脱資本主義宣言』(新潮社)という本を書いたというので読んでみたら、エコ宣言の本だったのでびっくりしました。『完全自殺マニュアル』の著者のコペルニクス的転回とも言える”未来志向”にはただ戸惑うばかりでした。

一方、日本でも先月、緑の党が誕生しました。緑の党誕生の背景に、福島第一原発の事故があったのはたしかでしょう。緑の党誕生の思想的なバックボーンになったとも言える中沢新一氏の『日本の大転換』(集英社新書)も読みましたが、しかし、そこで使われている言葉が現実の政治に機能するかと言えば、ちょっと疑問を持たざるを得ませんでした。

「小さな太陽」を地上に持ち込むことによって「内閉化」する原発技術と、市場が社会を包摂するなかで外部性を失っていった資本主義システムはパラレルな関係にある、という指摘は鋭いものがあると思いましたし、これからの文明は、ユダヤ思想が生んだ一神教的(超越論的な)な考え方から仏教的な中庸思想に向かわねばならないという主張は示唆に富んでいると思いました。しかし、それを私たちをとりまく政治や経済や社会の現実にどう適用するかと考えると、私の勉強不足かもしれませんが、やはりいまひとつ具体性に欠ける気がしてなりません。

「エコ」を個人の”自己満足”から社会の”自己満足”にどう止揚していくのか、そこには、私のような人間の想像力ではとても及ばないくらい、大きな課題があるように思えてなりません。それこそ「日本の大転換」どころではない、世界史的な思想転換が必要な気がします。それに、中沢新一氏は否定していましが、私は、どうしても「エコ」のなかに、現代版ラッダイト(機械打ち壊し運動)のような発想を見てしまうのです。それでは元も子もない気がします。

個人的には、右であれ左であれなんであれ、”動員の思想”からできる限り身を離していきたいと思っています。まるでタイムカプセルに乗ったかのようなアナクロな政治が跋扈する今の状況では、政治に絶望したり無関心であることのほうが、むしろ知的で賢明な態度であるような気さえします。埴谷雄高が言った「政治の幅は生活の幅より狭い」というのは当たり前の話で、安易に政治の誘惑や扇動に乗らない(乗せられない)姿勢も大事ではないかと思っています。”動員の思想”からは批判されるでしょうが、私は、こういう時代だからこそ、あえてシニカルな目が必要ではないかと思うのです。
2012.09.08 Sat l 社会・時事 l top ▲