酒井法子が12月に舞台で芸能界復帰することになったそうです。本人は、「罵声を浴びてもかまわない」と言っているそうですが、介護の仕事だったら罵声を浴びることはないのに、どうしてそこまで芸能界にこだわるのでしょうか。なんて言うのは、カマトトというものでしょう。

芸能人というのは「普通」ではないのです。吉本隆明が芸能界のことを「特殊××」と言ったら、差別発言だとして人権団体から抗議されたそうですが、やはり彼らは「特殊」なのです。私たちの感覚とは違うのです。一度でもスポットライトを浴びて生きてきた人間は、なかなかそんな生活から抜けだせないのでしょう。

一般社会なら、覚せい剤の常習者でクスリをぬくために逃亡したような人間が、職場に復帰するなどあり得ないでしょう。それがあり得るのが芸能界で、芸能界が「特殊」な世界であるゆえんです。なんだか酒井法子を通して、あらためて芸能界とはなにか、芸能人とはなにか、ということを考えさせられた気がします。

私は、芸能界という「特殊××」にいながら、一般社会に対して偉そうに説教を垂れたり、市民的な価値観を口にして善人ぶる手合いが嫌いです。社会の底辺で技芸に生きている身でありながら、「分をわきまえず偉ぶる芸人」(竹中労)が反吐が出るほど嫌いです。それは差別ではありません。「河原乞食」なら「河原乞食」でいいじゃないかと思うのです。市民社会の公序良俗とは別の価値観で生きる「河原乞食」の矜持はあるはずです。そして、砂を噛むように味気ない私たちの日常に、慈雨のようなすぐれた技芸をみせてくれるのが彼らのあるべき姿で、であるからこそ私たちは、彼らに対して、その技芸に対して、心から拍手喝さいを送るのです。

「河原乞食」がいやなら芸能人をやめればいいだけの話です。「河原乞食」であるからこそ、彼らはベンツやポルシェなど高級車を乗りまわし、シャネルやプラザなどの高価なブランドで身を飾り、田園調布や成城に豪邸を構えることができるのです。しかし、世間の人々から羨ましがられたり妬まれたりすることはあっても、尊敬されることはありません。芸能人は所詮芸能人なのです。プライバシーを暴かれ、あることないこといちいち芸能マスコミに書きたてられ、そのたびに世間の好奇の目に晒されるのです。一方で彼ら自身も、ときにプライバシーを切り売りして、それを飯のタネにすることも厭わないのです。文字通り、彼らは、真正なことばの意味において、やくざな存在なのです。どんなに成金な生活を送ろうとも、社会の底辺で技芸に生きることには変わりがないのです。そして、そういった「河原乞食」としてのみずからの存在を自覚し、それに徹しようとする者だけが一流の芸人(芸能人)たり得るのです。それがいやなら芸能人をやめればいいだけの話です。

酒井法子が芸能人をやめられないのも、彼女を利用しようというまわりの思惑もあるのでしょうが、なにより彼女自身が「普通のお嬢さま」ではないからでしょう。いわばカタギではないからです。彼女がどれだけの技芸の持ち主かわかりませんが、だったらこれから「罵声」をはね返すような「河原乞食」の気概と技芸をみせるしかないのです。世間に身を晒して芸能界で生きるには、それしかないのです。

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2012.09.21 Fri l 芸能 l top ▲