Crossfire Hurricane

夜中にふと目が覚めたら、つけっぱなしになっていたテレビ(フジテレビ)で、ローリング・ストーンズ結成50周年記念の公式ドキュメンタリー映画「Crossfire Hurricane(クロスファイアー・ハリケーン)」をやっていたので、いっぺんに目が覚めてしまいました。

「Crossfire Hurricane」は、先月、1週間限定で全国で上映されたばかりなのに、もうテレビで放映されるとはびっくりですが、これも来週のDVD発売に合せた企画なのかもしれません。

映画では、主に60年代から70年代のストーンズの活動を丹念に追っていましたが、ただあくまで「公式」のドキュメンタリー映画なので、たとえば、コアなストーンズファンが指摘しているように、ブライアン・ジョーンズの脱退についても、メンバーの口からは当たり障りのない”公式な発言”しか出てこないなど、やや物足りない部分もありました。

ローリング・ストーンズと言えば、どうしてもクスリと暴力のイメージがつきまといます。ビル・ワイマンはバンドを脱退する理由として、「クスリから家族を守りたかった」と発言していましたが、この映画でもその場面がふんだんに出てきます。なかでもキース・リチャードのヤク中ぶりが際立っていましたが、それは、ミック・ジャガーが「キースが車を運転するのはやめてほしいと思っていた」「家に帰っても事故の電話があるんじゃないかといつもビクビクしていた」と言うほどです。やがてキースは、大量のヘロインを持ち込んだ罪で、カナダの警察当局に逮捕・拘留され、それを機に精神療法によってヤク中から脱出する決意をするのですが、映像は逮捕のシーンからいっきに2006年の「Shine a Light(シャイン・ア・ライト)」のコンサートシーンに飛んで、好々爺になったかのような60代の彼らが登場して終わるのでした。

1969年、サンフランシスコ郊外のオルタモントでのコンサート(このコンサートでは4名が死亡したと言われています)で発生した刺殺事件、いわゆる「オルタモントの悲劇」に至る会場の殺気立った異様な雰囲気からは、60年代後半のヒッピー文化に代表される時代の緊張感(ハチャメチャぶり)がひしひしと伝わってきます。私は、それをみて、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が『群像』新人賞を受賞した際の選評で、埴谷雄高が言っていた「ロックとファックの時代の汚なさの美学」ということばを思い出しました。60~70年代初頭にかけてのローリング・ストーンズは、まさに存在自体がスキャンダラスだったのです。

私は、この映画をみているうちに、もしかしたらネットのない時代のほうが自由だったのかもしれない、なんて思ったりしました。折しも愚劣な政治の八百長ゲームがはじまりましたが、どうして現代の若者は、あんなにみずからすすんで愚劣な政治や国家に拝跪したがるのでしょうか。そして、どうしてわざわざ自分で自分の生き方を窮屈なものにしなければならないのかと思います。それが「ヘタレ」と言われるゆえんですが、まるでネットに囲い込まれることによって、ただ国家に愛されたいだけのいじましくも哀しい飼い猫になったかのようです。

この映画には、ストーンズのメンバーだけでなく、当時のファンの若者たちも含めて、私たちが久しく忘れていた、国家や時代を逸脱する(逸脱せざるをえない)魂が描かれているように思いました。年寄りじみた言い方になりますが、若者というのはもともとそういう逸脱する存在だったはずです。そこからあたらしい文化や風俗も生まれたのです。その意味では、若者が若者でなくなった今の時代のほうが”異常”だと言えるのかもしれません。

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2012.12.05 Wed l 芸能 l top ▲