大阪市立桜宮高のバスケット部員の自殺や女子柔道の有力選手たちの告発などをきっかけに、にわかに問題が表面化した体罰問題に対して、多くの識者がさまざまな意見を述べていますが、そのなかで意外にも、と言ったら失礼かもしれませんが、元ラグビー日本代表の大八木淳史さんの発言がいちばんこの問題の本質を衝いているように思いました。

大八木さんは、毎日新聞のインタビューにこう答えていました。

「体罰の歴史と目的を理解しないと。体罰は明治時代以降の富国強兵に使われた。目的は強い軍隊、つまり国益。では今は? スポーツ関連の国家予算を見ればわかる」
「競技スポーツ、つまりメダル獲得プロジェクト。これも国益やないですか。富国強兵時代と一緒。国益や学校のブランド力のためのスポーツだから体罰が生まれる」
(毎日JPより 毎日新聞 2013年03月06日東京夕刊)
特集ワイド:愛ある体罰「ないですわ」 ラガーマンで教育者、大八木淳史さんが語る


大八木さんが言うように、スポーツが国益や学校の経営と結びついたところから、今のスポーツ界のゆがんだ体質が生まれたというのは、その通りでしょう。そもそもスポーツの成り立ちやその伝来は軍隊と切っても切れない関係にあると言われますが、とりわけスポーツの勝利至上主義は、安倍首相の「強い国」思想に代表されるような国粋主義とパラレルな関係にあると言ってもいいでしょう。

私は、高校に「体育科」やスポーツ推薦制度があって、勉強よりスポーツを優先するような教育が行われていること自体、間違っているように思えてなりません。まして甲子園に出場するために全国から選手を集めているような”強豪校”は論外です。

勉強がすべてではないことは言うまでもありません。勉強ばかりやって頭でっかちにになるのもたしかに問題です。ただ、彼らはまだ高校生なのです。少なくとも高校生ぐらいまでは、勉強ができるかどうかは二の次にしても、まず勉強することを優先すべきではないでしょうか。

勉強しないでスポーツばかりすることが「個性を伸ばす」ことになるのでしょうか。勉強というのは、内田樹氏が言うように、経済合理性でははかれないものだし、功利的なものの考え方からみれば、まったく役に立たない「無駄なもの」かもしれません。でも、デッサンの基礎がないのに、思うがままに絵を描いても、それを「個性」とは言わないし芸術とも言わないのです。

ナショナリズム(愛国)の裏には必ず国家を食い物にする思惑とその構造がありますが、競技スポーツの勝利至上主義の裏にも、全柔連にみられるように、組織や学校を食い物するする思惑とその構造が伏在しているのです。女子柔道の選手たちが、全柔連の組織のあり方そのものに疑問を投げかけているのは当然です。それになにより男子選手ではなく女子選手たちが体罰を告発したというところに、体罰問題の本質が表れているように思います。

今回の告発がオリンピック誘致に大きなダメージになったという声がありますが、それこそスポーツを政治に従属させる国益優先の考え方の最たるものでしょう。そして、その裏にも国家を食い物にする思惑とその構造(オリンピックでひと儲けしようという思惑とその構造)があるのです。もとより、大八木さんが言うように、競技スポーツだけがスポーツではないはずです。

それに、もうひとつ大きな問題は、体罰にも虐待と同じように、先輩から受けた体罰を後輩に同じように行う、いわゆる世代連鎖の問題があるということです。体罰を行う者と体罰を受ける者との間に、絶対的な支配服従関係が存在するのは言うまでもありませんが、そういった関係性のなかにいれば孔子や孟子でもない限り正常な倫理観がマヒしていくのは当然ではないでしょうか。桜宮高校の顧問教師のなかに、人を服従させるサゾヒスティックな快感がまったくなかったとは言えないでしょう。そして、体罰はさらにエスカレートしていくのです。

昔、菅平でのラグビーの夏合宿をみたイギリスの指導者は、「crazy!!」と叫んだそうですが、日本のスポーツ界に深く根をおろす体罰やしごきは、会社のなかにも軍隊的規律の残滓が未だに宿る日本社会の”後進性”を映していると言えなくもないのです。石原慎太郎や橋下徹などは、今でこそ口をぬぐっていますが、かつては体罰やしごきを容認する発言をくり返していました。その根底には、軍隊的規律で国民を支配し国家を統治しようという彼らの国粋主義的な考え方があったのはたしかでしょう。

>> 『下流志向』
2013.03.09 Sat l 社会・時事 l top ▲