さよなら、韓流


北原みのり氏の『さよなら、韓流』(河出書房新社)を読みました。

この本は、韓流にはまった著者が、エッセイや同じように韓流にはまった女性たちとの対話をとおして描く「韓流の物語」であり「”非国民女”の欲望史」(”帯”より)です。

著者は言います。「韓流はエロである」と。そして、「女の欲望は正義じゃない。だからこそ、しなやかに強く根深く自由だ」と。

それに対して、フェミニズムの先達の上野千鶴子氏は、著者との対談で、韓流にきわめて否定的な見方をするのでした。韓流も所詮は「思うさま消費して使い捨てができる」便利な消費財にすぎない、「その背後には植民地時代からの優劣関係の記憶がきっとある」、だから韓流ブームは「不愉快だ」と言うのです。

でも、私には、今の韓流ブームは、上野千鶴子氏が言うような「歴史」や「政治」と切断されたところに成り立っているのが特徴で、むしろそこに韓流ブームの斬新さや可能性があるように思えてならないのです。

北原 むしろ、私はいままで男臭さや男らしさっていうのを否定してきたけれど、肯定すべき男らしさがここにあるんだ!と思って。
信田(引用者注:信田さよ子氏。臨床心理士) そうなんだ、韓流ではじめて?
北原 そう、韓流で自分の中のフェミニズムが変わったんですよ。いままで身体性のない「男らしさ」とかに対して、苛立っていたんだけど、肉体を伴った男が出てきた途端にいろんなことが解決されちゃった。それがすごく斬新で。
(略)
信田 (略)それって、ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』で書いていることだよね。つまり、いままでジェンダー規範に取り込まれていた北原さんが東方神起を見て、ジェンダーにとらわれない本物のセクシャリティによってむしろ解放された、みたいな。
(信田さよ子×澁谷知美×北原みのり「韓流はフェミである!」)


こういった「しなやかに強く根深く自由」な「女の欲望」の解釈に比べれば、上野千鶴子氏のような旧来の(左派的な)解釈は、なんと不自由で紋切型なんだろうと思わざるをえません。

著者は、「韓流ドラマは不幸じゃなければ、はまらないものだ」「何の不幸もない、何の痛みもない人に、韓流ドラマは効かないだろう」と言ってました。

もちろん、男たちにも女たちとは違った「不幸」や「痛み」はあります。でも、男たちのそれは、いともたやすく国家(「愛国」)に収斂され、自閉的な嫌中や嫌韓に向かっていくのです。そして、それは、誤解と批判を怖れずに言えば、上野千鶴子氏の左派的で紋切り型の解釈の不自由さと重なって見えて仕方ないのです。

ただ一方で、『ネット右翼の矛盾』で指摘されていたように、2ちゃんねるのなかでは、意外にも既婚女性板に嫌中嫌韓の書き込みが多く、結婚生活におけるストレスが排外主義に結びつくという、女性たちのもうひとつの(ゆがんだ)現実があることも忘れてはならないでしょう。

安倍政権の誕生で、韓流に対する逆風は強くなる一方です。「さよなら、韓流」という著名もそういった状況に対する意味合いがあるそうですが(韓流を卒業するという意味ではない)、それでも韓流は紆余曲折を経ながらしなやかにしぶとく生き延びていくだろうと思います。なぜなら、韓流とは、前述したように、もともとそういった「歴史」や「政治」と切断したところに成立しているものであり、なにより韓流の背後には、「今を感じたい」この国の女たちの渇望や絶望や欠落が伏在しているからです。信田さよ子氏が言うように、彼女たちにとって、「韓流は嗜癖」なのです。そして、それは、「国に愛されたい」「女性に慰安されたい」ヘタレで甘ちゃんの日本の男たちに対するアンチテーゼでもあるのです。そう考えると、男たちにとっても、韓流が意味するものは大きいと言えるでしょう。
2013.06.06 Thu l 本・文芸 l top ▲