今月8日、東京都三鷹市で18才の女子高生が元交際相手の男に殺害された事件ですが、私は、この事件に対しての世間の反応のなかで、看過できないものがありました。

それは、犠牲になった女子高生を、「自業自得だ」という非難する声に対してです。しかも、非難の根拠になっているのは、ネットの情報なのです。

つまり、加害者によって、被害者のプライベート画像がネットにアップされたため、興味本位から画像を見た人間たちが、いっせいに被害者に対して「自業自得だ」という非難を浴びせるようになったのです。そして、その非難には、「軽率な女」「ふしだらな女」という、おなじみの倫理観が使われているのでした。

プライベート画像を見たいだけのデバガメにすぎないのに、非難するときだけそんな下劣な自分を棚に上げて、都合のいい倫理観を持ち出して叩くのは、彼らのいつもの手口です。もとより、それは市民社会の住人たちの常套手段でもあるのですが、ネットによってそれがよけい露骨になった気がします。そこには、「もし自分だったら」という仮定や留保も、そういった想像力や知性も皆無なのです。2ちゃんねるなんて、それこそおぞましいような鬼畜の書き込みであふれていました。

裕福な家庭に一人っ子として大事に育てられ、しかも私立の女子高に通っているような世間知らずの女の子が、ろくに働きもせずネットナンパに明け暮れているような男の本質を見抜くのは、やはり無理があるのかもしれません。一方、男から見れば、そんな世間オンチの女の子を籠絡するなんて造作ないでしょう。

両親が芸術家でキリスト教を信仰していたことを考えれば、「人間は信じるに値するものだ」「人間はみんな平等だ」「職業に貴賤はない」というような崇高な理念を家族で共有していたのかもしれません。でも、悲しいことに現実の世の中は、崇高な理念で解釈できるほど立派なものではないのです。悪い人間はいくらでもいる。どうしようもない人間も掃いて捨てるほどいる。少しでも気を許せば危険な人間だっています。そういった崇高な理念は、現実を生きる上ではあまりにも心もとなくてひ弱だと言わざるをえません。生きる術としては、もっと冷徹でシニカルな、いわば文学的な考え方のようなものが必要なのではないか。文学に触れることは決して無駄ではないのです。

Facebookの実名主義に対しても、いちばん無防備なのは日本人だという話を聞いたことがありますが、実名だからと言ってすべて本当のことを書いているとは限らないのです。ましてFacebookでその人間の人となりがわかるはずはないのです。人間はそんな簡単なものではないでしょう。

それにしても、よく言われることですが、この手の事件が起きるとどうしていつも決まって、「自業自得だ」とか「軽率だった」とか、さも女性の側に非があるような発言が出てくるのか。その背景にあるのは、女性を性の対象としてしか考えることのできない古色蒼然とした女性観です。つまり、「良妻賢母」と「ふしだらな女」を都合よく使いわける男の身勝手な論理です。そして、その二枚舌は、従軍慰安婦問題での橋下徹や石原慎太郎や、彼らに同調するネトウヨたちの男根主義的なそれと通底しているのです。国家がどうの日本がどうの日本人の誇りがどうのとご立派なことを言ってますが、橋下徹の「コスプレプレイ」や石原慎太郎の「お妾」や「隠し子」にこそ、彼らの女性観とその本音が露呈しているのです。

加害者の男は、犯行前も犯行後も携帯でLINEやTwitterに書き込みをしていたそうですが、その異常性を考えると、ニートやフリーターに典型的なネット依存の人間だったのではないか。彼もまた、2ちゃんねるやニコ動にどっぷりと浸かった「ネットこそすべて」「ネットこそ真実」の人間だったのかもしれません。

もっとも、2ちゃんねるやニコ動にどっぷりと浸かっているのは、なにも若者ばかりではありません。40代50代の「いい年した」大人だっていくらでもいます。フリーターの第一世代が既に50代にさしかかり、20歳~59歳の「孤立的無業者」が162万人(2011年統計)もいるという時代背景を考えれば、それも頷ける話なのです。

まともな社会経験もなく社会的訓練も受けてない、「世の中」や「人間」を知らない(理解できない)人間が、幅広い年齢層にマスとして存在しているという現実を、私たちはもっと知る必要があるのではないか。彼らに特徴的なのは、国家や社会や人間やあるいは歴史が、自分たちに都合よく二項対立的に単純化して描かれ、すべてが了解可能だと思い込んでいることです。だから、ヘイトスピーチのように”異物”は徹底して排除しなければならないし、この事件の加害者のように了解できないものは無理強いでも了解させなければならないのです。それはオウムとよく似ています。それどころかむしろカルト(カルト的要素)は、オウムの頃より私たちの日常に浸透していると言えます。「オウムは終わってない」のです。

ネットに依存している人間たちと話をするたびにいつも思うのは、彼らには人間に対するやさしさや思いやりといった感覚が決定的に欠けているのではないかということです。人の涙や心の痛みがわからないのではないか。そして、そこには、人生がうまくいってない僻みや妬みや嫉みといった個人の問題だけでなく、社会病理的な問題もあるように思えてならないのです。

私は、今回の事件に対する世間の反応にも、そんなカルト化した社会の一端が垣間見えたように思えてなりません。もちろん、それが加害者の病理と重なっていることは言うまでもありません。
2013.10.16 Wed l 社会・時事 l top ▲