1987年5月3日の憲法記念日に、朝日新聞阪神支局に散弾銃を持った何者かが押し入り、同支局の小尻知博記者が殺害される事件がありました。これは、1987年から1990年にかけて「赤報隊」を名乗るグループによる一連のテロ事件のきっかけになった事件です。しかし、なぜかすべての事件が未解決のまま時効を迎えています。(Wikipedia 赤報隊事件

毎年、事件が発生した5月3日に、朝日新聞労組の主催で「言論の自由を考える5・3集会」が開催されているのですが、今年のゲストに右派の田母神俊雄氏が招かれたことに対して、作家の辺見庸がブログで、朝日新聞労組は「『良心的』にファシズムを誘導している」と批判していました。

朝日新聞労組は「民主主義」をことさらわざとらしく演じてみせつつ、いわば「良心的に」ファシズムを誘導している。反ファシズムに似せたそれは、紛うことないファシズムの再演である。ほんらい恐怖をかきたてるべき「微妙で相対的な差異」(ドゥギー)は消滅したのではなく、怠惰で無知で傲慢なメディアのあんちゃん、ねえちゃんたちには、右も左も、クソもミソも、さっぱり見わけがつかなくなっただけのことだ。朝日新聞労組員の多くや、週刊金曜日編集部は、反ファシズム運動にはかならずファシズムがまぎれこむこと、さらには、ファシズムはその身体に一見反ファッショ的なるものをすっぽり包含して、はじめて強靭なファシズムになりうることを、あまりにも知らなすぎる。
辺見庸ブログ「私事片々」2014/05/03)


また、安田浩一氏も同様に、朝日新聞労組の姿勢に対して、ツイッターでつぎのように批判していました。

仲間が殺された日じゃないか。それを「義挙顕彰」とまで言われたんだぜ。田母神さん呼んでシンポジウムもけっこうだけれど、真剣な怒りを見せてほしいよ。俺は怒ってる。(2014年4月30日


前日の5月2日に、朝日は社説「朝日支局襲撃 『「排他』に立ち向かう」で、ヘイト・スピーチについて、「理不尽に攻撃される人たちを守る側に立つことはもちろんである。そのうえで、攻撃的な言葉を繰り出す人、そうした主張に喝采を送る人々の背景にも目を向け、日本社会に広がる溝を埋めていきたい。」と書いていましたが、これに対してヘイト・スピーチに反対する活動をおこなっている人たちから「他人目線」の「ユルい」文章だという批判がありました。たしかに、そこにあるのは、いつもの常套句(おためごかし)でしかありません。そんな常套句でお茶を濁す危機感のなさ=「ユルさ」が、田母神氏をゲストに招待する感覚につながっているように思えてなりません。

ヘイト・スピーチに「言論の自由」は許されるのか。某新左翼系雑誌の編集者は、反原発の集会の妨害にやってきた彼らに向かって、あなたたちにも「言論の自由」はある、それは認める、と檀上で発言して失笑をかったそうです。しかも、そんなプロの活動家に限って、ヘイト・スピーチをおこなう側もそれにカウンターをかける側も「どっちもどっちだ」と言って現実から目をそむけるだけなのです。

でも、竹中労が言うように「言論の自由なんてない」のです。あるのは「自由な言論」だけです。「言論の自由」を守るというような姿勢では、こんな「ユルい」対応しかできないのは当然でしょう。

今の「嫌韓ビジネス」の先駆けとも言うべき「マンガ嫌韓流」の作者・山野車輪氏は、講談社の『G2』(Vol.15)の対談「嫌韓とヘイトスピーチ」のなかで、安田浩一氏の「(在日の反応が)怖くないですか?」という質問に対して、最初は怖かったけど、有罪判決が出た京都朝鮮学校への街宣でなにもなかったので、それから怖くなくなったと言ってました。

宮台真司は、近著『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬社)のなかで、今日の最先端の政治学や政治哲学では、全体主義に抗うのに、非全体主義的な(徹底して民主主義的な)やり方は、もはや有効性が低く、そういった(「ユルい」)やり方に対して悲観的な見方が広がっていると書いていました。その背後にあるのは、グローバリゼーションと民主主義は両立しないという現実です。グローバリゼーションによって、中間層が没落し、民主主義の基盤が崩れた社会で、いくら「民主的でない」ことを訴えても、もはやそれは”論理矛盾”でしかありません。

(引用者:グローバル化=)資本自由化によって、格差化と貧困化が進む。中間層が分解し、共同体が空洞化して、個人が不安と鬱屈にさいなまれるようになる。そのぶん、多くの人々がカタルシスと承認を求めて右往左往しはじめる。かくしてヘイトスピーチとクレージークレーマーが溢れがちなポピュリズム社会になるのだ。
 そうなると、不完全情報領域があれば、極端な意見を言う人ほど、カタルシスと承認を調達できるがゆえに、ポピュリズム的に他を圧倒しがちになる。こうした傾向が、投票行動において見られるのみならず、投票に先だつ熟議においてすら見られるようになる。
(『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』「まえがき」より)


こうした傾向に抗うためには、バータナリズム(父権主義)的な「卓越者」の働きが重要になると言います。宮台は、その例として、敗戦後の日本におけるGHQの存在をあげていました。

「全体主義を以て全体主義を制す」というような考えが、非常に危ういものであるのは言うまでもありません。でも、今の「カルト化するニッポン」の現実を考えるとき、それがもっともリアルな感覚かもしれないと思ったりもするのです。「不幸」なことですが、この全体主義的な流れを押しとどめるためには、もはや「毒を以て毒を制す」ような方法しかないということなのかもしれません。
2014.04.30 Wed l 社会・時事 l top ▲