先日、久しぶりにバス(横浜市営バス)に乗りました。市営バスの場合、220円(現金の場合)の均一料金ですが、私はあいにく10円玉の持ち合せがなかったので、百円玉3個を握って乗りました。しかし、普段バスを利用しないので要領がよくわかりません。昔は別に両替機があってそこで両替して料金箱に入れていたような記憶がありますが、両替機のようなものは見当たりません。

それで、私は、運転手に300円を示しながら、「これ、どこに入れればいいんですか?」と尋ねました。すると、運転手はぶっきらぼうに「早く入れて」と言うばかりなのです。

「エエッ、どこに?」
「早く」
「どこにですか?」
「そこに入れて」

どうやら目の前の料金箱に入れろと言っているみたいです。でも、お釣りは出てくるのか?

「ここに入れればいいんですか?」
「早く、入れて」
「お釣りは出るんですか?」
「早く、入れて」

あとでわかったのですが、料金箱にお金を入れれば、下から自動的に釣り銭が出るしくみだったのです。だったら、どうしてそう説明しないのか? 

運転手は、つぎのバス停を案内するアナウンスもなにを言っているのかよく聞き取れず、小さい声でぼそぼそ言っているだけでした。しかし、それは私が乗ったバスの運転手だけではありませんでした。終点の市営地下鉄の駅では、停車しているバスが発車する際、運転手が外に向かってどこどこ行きのバスが出発しますというようなアナウンスをするのですが、やはりなにを言っているかよく聞きとれず、同じようにぼそぼそと言っているだけでした。

私は、それを見て、昔の国鉄の車内アナウンスを思い出しました。あの頃、国鉄の職員たちは、制服のボタンを外して帽子を斜めにかぶっているような者もめずらしくなく、態度も横柄でした。窓口で切符を買う際も、返事もせず仏頂面で切符を投げるように寄越したものです。でも、私たちは彼ら国鉄労働者を”革命の闘士”のように仰ぎ見ていたのです。菜っ葉服にヘルメットをかぶってジグザグデモをする彼らをカッコいいなと思って見ていました。

今どきこんな運転手がいるんだと私はあらためてびっくりしました。どうして普通に仕事ができないんだろうと不思議でなりませんでした。以前、横浜の市営バスの運転手たちの給与がやり玉にあがった際、運転手たちの平均年収が830万円だとか言われていましたが(今は下がっているみたいですが)、だったらもう少し謙虚に、普通に仕事をしてもいいんじゃないかというのが、市民の感覚ではないでしょうか。

横浜市の場合、ゴミ収集も、ビンや缶やペットボトルやプラスティックなどは民間委託で、生ゴミは直営(職員が直接収集)が一般的です。一時、生ゴミも民間に委託する方向で進んでいたのですが、資源循環局によれば、「燃やすゴミの中には危険物が入っていたり、業者が倒産した場合の危機管理も考えてやはり市の収集がいいだろうと、途中で方針を変えて」、生ゴミは直営に戻したそうです。

そのためか、収集日に収集拒否される生ゴミがやたら多いのです。道路脇には「収集できません」という警告文の貼られたゴミがあちこちに放置されています。しかも、横浜市は分別していないゴミの持ち主を特定して過料(罰金)を課す条例も施行しており、実際に職員が「開封調査」してゴミのなかの個人情報からゴミの持ち主を特定することもやっているのです。たしかにちゃんと分別しないのは問題かもしれませんが、そのやり方はまるで全体主義国家のようです。

しかも、組合も、自治研集会の発言(横浜市におけるごみ減量化の取り組みについて)などを見る限り、そういったやり方に対して明確に反対しているわけではありません。むしろ、それも「直営だからこそ出来る業務」で「付加価値」なんだという意見さえあるようです。要するに、自分たちの利益になれば多少のことは目をつむるということなのかもしれません。そして、言うまでもなく現場でゴミのなかから個人情報を収集しているのは、自治労の組合員なのです。

横浜市の場合、10分別15品目の細かい分別を要求されるので、悪意があるというより複雑すぎて理解できないケースが多いのではないかと思いますが、(分別をしている)正直者がバカをみるというあのお役所お得意の論理で、市民の俗情と結託して、全体主義国家の秘密警察まがいのやり方を当然視しているのでした。直営の自治体ほど、分別が細かくて硬直した収集がおこなわれているという話を聞いたことがありますが、さもありなんと思います。ホントにゴミの減量化や資源の有効利用のためなのか、首を捻らざるをえません。

一方で、これはゴミ問題に限ったことではありませんが、ゴミの減量化や資源の有効利用なるものがいつの間にか問答無用な”絶対的な正義”となり、一種の”エコ・ファシズム”のようなものが跋扈している気がしてなりません。労働組合のような古い観念の組織は、そういったデリケートな問題に対してきわめて鈍感な気がします。もとより左翼的な理念を背負っている組織が、本質的にその手の全体主義(的傾向)と親和性が高いのは否定できないでしょう。

労働組合なのですから、ゴミ問題に対してももっと別の視点(プライバシーを侵害するような管理化とは別の市民目線)に立った考えがあってもよさそうですが、組合が主張しているは、市当局とまったく同じ効率優先、自分たちの都合優先の論理にすぎません。まるで市当局が言っていることをそのままなぞっているかのようです。これが労使協調ということなのかと思ってしまいます。

私は、今の労働組合を見るにつけ、前も書きましたが、労働というのを生産点で考えるのではなく、消費の観点から考えるべきだという吉本隆明氏の状況論を思い出さずにはおれません。吉本氏は、労働とか労働者とかいう概念も変わるべきだと言います。そして、消費というのは時間と空間をずらした生産である、という言い方をしていました。今やGDP(国内総生産)のなかで、「個人消費」が占める割合は6割近くになっているのです。ゆえに「個人消費」が重要な景気指標にもなっているのですが、そんな高次の消費社会において、いわゆる従来の左翼的な運動論である「生産点からの変革」なんてのは、もはやほとんど意味を為さなくなっているのはないか。それは原発問題における東電労組や連合の姿勢を見れば一目瞭然でしょう。現代の資本主義が怖れるのは、デモやストより消費のサボタージュなのです。

自治労横浜市従業員労働組合(環境事業支部)は、東日本大震災の支援活動の経験から、「直営体制の持つ優位性」について、つぎのように自画自賛していました。

横浜ではこれまでも当局交渉において、行政が市民に対して果たすべきセーフティー・ネットとしての位置づけを強く訴え、結果として、『さらなるごみの減量化資源化の推進、安定的で確実な収集の確保、災害時の危機管理の観点から、燃やすごみについては本市職員が収集することにいたしてまいります。』との市長答弁を引き出し、家庭ごみの収集をそれまでの行政区委託から品目別の委託に変更し、『燃やすごみ』の収集は直営に戻すことを市当局に判断させてきました。
東日本大震災における横浜市の取り組みと、「新たな防災対策の策定」に向けた取り組みについて


ゴミ収集の直営は、「行政が市民に対して果たすべきセーフティー・ネット」だと言うのですが、この論理を理解できる市民がどれだけいるでしょうか。

先日、古賀茂明氏がテレビ番組で、野党再編について、改革はするけど戦争はしないという野党が出て来なければ、真に自公体制と対決することはできない、というような発言をしていましたが、でも、その前に改革の中身も問題なのではないかと思います。

私たちが本来求めていたのは、自由に解雇できる改革や残業手当を廃止する改革や派遣の期限をなくす改革や法人税率を引き下げる改革や混合診療を認める改革などではなく、行政をスリムにする(国家を食い物にする構造にメスを入れる)改革だったはずです。いつの間にか改革の中身が大きく変質しているのです。実際に、安部政権になって”公務員改革”は後退して有名無実化しているのです。

行政サービスの民間委託を主張することは、自治労が言うように、自治体労働者を攻撃する保守反動なのか。安部政権の手先なのか。たしかに、行政サービスの民間委託と市場原理主義は微妙に近接しており、その見極めも必要でしょう。ただ一方で、そういうこけおどしの(平和と民主主義を偽装した)”左翼的言辞”には、眉に唾して聞く必要があるように思います。

かつて自治労は、裏金・不正経理・脱税・ヤミ専従(給与の二重取り)などが発覚して批判を浴び、「不祥事のデパート」と呼ばれたことがありました。

 当時、銀座のクラブで「自治労だ」と聞くと、ホステスたちが群がってきたという。自治労の本部役員が、一晩で使うお金は十万円以上。飲んだ翌日は、昼頃に市ヶ谷の本部に出てばいい。ホステスを愛人にしていた役員もいた。(略)
 それぞれの(引用者:傘下の組合の)支払う組合費から、本部に集まるの年間百億円ほど。そのうち十億円が遊興に使われていた。それを可能にしていたのが、十六もあった裏口座だ。
(深笛義也著『労働貴族』・鹿砦社)


その背景にあるのが、「当局と組合が一体となって作り上げている公務員天国」(『労働貴族』)です。深笛氏は、「自治労に『弱者の見方』というイメージがあったのは、はるかに遠い、昔のことである」と書いていました。

深笛氏によれば、「組合から嫌われている職員は出世できない」のだそうです。労使交渉で、組合がその職員を吊るし上げるのは、目に見えているから」です。深笛氏は、「組合は、異分子を排除するフィルターになっている」と言います。

(略)縁故採用も多いことから、県庁・市役所職員は地元の名士、大地主、神社の神主なども多い。彼らは、役所では労働者の顔をして、自分たちは弱者との外面を作って見せている。だが、退職すると地元の自民党議員の後援会幹部になっていたりする。
 平均年収は七〇〇万円、退職金は二五〇〇万~三〇〇〇万、退職後は月額二五万円ある共済年金、というのが地方公務員の得られる恩恵だ。
 一方、非正規職員の平均賃金は、時給で九五〇円ほど、フルタイムで働いても年収が二〇〇万円を下回る。その差は歴然としている。
(同上)


こういった批判に対して、組合は鄧小平の「先豊論」のような反論をするのが常です。それは、旧総評の「弱者救済」「国民春闘」路線の頃から変わっていません。そのため、給与の問題をとりあげると、逆に妬みだとか嫉みだとか言われるのがオチです。

私は、公務員を批判することは新自由主義に手を貸すことだ、保守反動の策動(分断工作)に乗せられているのだという主張には、論理のすり替えがあるような気がしてなりません。何度も言いますが、もう右も左も「終わった」のです。その結果、左右が同工異曲のような状況さえ生まれているのです。既得権者の詭弁にまどわされることなく、もう一度改革の中身が問い直されるべきではないでしょうか。

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2014.06.10 Tue l 社会・時事 l top ▲