長崎県佐世保市で起きた同級生殺害事件の加害生徒の心の闇について、専門家によるさまざまな分析がマスコミに出ていますが、私はそのなかで「純粋殺人」ということばに興味をひかれました。「純粋殺人」というのは、動機はなく、ただ人を殺すことだけが目的の殺人という意味だそうです。

今回の事件に際して、私の頭に浮かんだのは、「理由なき殺人」を描いたカミュの小説『異邦人』と1997年に神戸で起きた連続児童殺傷事件(いわゆる酒鬼薔薇事件)でした。

『異邦人』の主人公のムルソーは、殺人の動機を問われると、「太陽がまぶしかったから」と答え、人々から憎悪を浴び呪詛されるなかで処刑されることを望むのでした。そこにあるのは、神もいない不条理な世界です。

『異邦人』と比較されるのが、19世紀を代表する文学と言われるドフトエフスキーの『罪と罰』です。『罪と罰』の主人公のラスコーリニコクは、金貸しの老婆を殺すために、合理的な理由を懸命にひねり出そうとします。それでもラスコーリニコクは、罪の意識から逃れることはできず、最後は娼婦に身をやつしながらも高潔な精神を失わないソーニャの胸のなかで、みずからの罪を悔いて涙するのでした。そこには間違いなく神がいました。それが19世紀と20世紀の違いなのだと言われたのです。

でも、『異邦人』にしても、『罪と罰』とはまた違った意味で、罪の意識はあったように思います。だから、ムルソーは、見物人から罵倒されるなかで処刑されることを望んだのでしょう。

それに比べれば、酒鬼薔薇事件や今回の事件には、最初から罪の意識は不在のように思えてなりません。たしかに、動機もなく人を殺すことだけが目的だったかのようです。

子どもの頃、私たちもよく仲間内で”小動物”を殺していました。蛇を捕まえてそれを石に叩きつけ、肉片が飛び散るのを楽しんだりしていました。あるいは、捕まえたネズミを水に浸けてもがき苦しみながら絶命するのを笑って見ていました。カエルの肛門に枯草の茎を挿入して、そこから息を吹き込み、カエルの腹を破裂させる競争をしていました。また、中学になると実際に授業でカエルの解剖も行いました。メスで腹を切裂いたときの感触は今でも覚えています。

田舎だったということもあるのでしょうが、”小動物”の死なんて当たり前だったし、それどころか、人の死体を見ることさえあったのです。私が生まれ育ったのは山間の温泉町でしたので、周辺の集落から酒屋や食堂に酒を飲みにやってくる人たちがいました。そんな人たちは、夜遅く、千鳥足で数キロの道を歩いて帰るのですが、途中、道路端で寝込んでしまい、そのまま凍死する人がいたのです。

朝、「人が死んじょるぞ!」と叫びながら、全速力で現場に走って行き、ハァーハァー肩で息をしながら、大人たちに交じって目の前の死体をまじまじと眺めたものです。あの頃は大人たちも「子どもが見るもんじゃない」なんて言わなかったのです。

思春期の頃の自分を考えると、私のなかにも人を殺す誘惑みたいなものはあったように思います。フロイトが言うように、人を殺すんじゃないかとか、人を殺したらどうなるんだろうというような想像は、思春期にありがちなものなのかもしれません。しかし、それは、あくまで心の片隅にある小さな想像にすぎず、自分が突き動かされるほど大きなものではありませんでした。

一方、今回の事件や神戸の事件では、いとも簡単に想像と現実が結びついているのです。「人を殺してみたかった」と言って実際に人を殺しているのです。その情動はどこからきているのか。専門家のように「反社会性人格障害」と言えば、話は簡単でしょう。でも、そんな簡単な話ではないような気がするのです。もっと別の要因もあるのではないか。

神もいない、倫理もない、そんな社会が進んでいくと、こんな「純粋殺人」のようなものが出てくるようになるのかもしれません。なにより、「純粋殺人」が多感な思春期の少年や少女によって行われているということが、この社会や時代の病理を暗示しているように思えてならないのです。彼らの心の闇は、この社会や時代の闇につながっているのではないか。

『異邦人』でも描くことができなかった犯罪が、今、私たちの目の前に提示されているのかもしれません。それに対して、私たちは、為す術もなくただ茫然と立ちすくんでいるというのが実状ではないでしょうか。

私自身は、彼らの心の闇の奥深くに分け入っていけるのは、精神分析や心理学より文学のことばのような気がします。神や倫理の不在に代わるのは、文学しかないように思います。でも、その文学はあまりにも頼りないのです。それどころか、もう文学も成り立たない時代だとさえ言われているのです。『異邦人』に代わるつぎの小説の登場は、望むべくもないのでしょうか。

実体経済の数十倍のバーチャルなお金が、あらたに創造された時間と空間のシステムによって日々世界中をかけまわり、それに翻弄される私たちの社会。そんななかで、個人の存在はあまりにもか弱くてつたないものです。それが現代の寄る辺なき生の実態です。命の実感なんてもてるはずもありません。

私たちは、思春期の少年や少女の「純粋殺人」を、もはや「反社会的人格障害」などということばで解釈してわかったふりをするしかないのかもしれません。彼らの心の闇を解明するには、私たちがもっていることばはあまりにも貧しいのです。
2014.08.01 Fri l 社会・時事 l top ▲