愛と暴力と戦後とその後


著者の赤坂真理は、アメリカの歴史家ジョン・ダワーが著した『敗北を抱きしめて』という占領期研究の書名について、「抱きしめて」の原題”Embracing”には、日本語の「抱きしめる」よりもっと性的なニュアンスが強く、そこには「性的な含み」さえあると書いていました。

どうして日本人は、”昨日の敵”をあれほど愛したのか。

赤坂真理はそう問います。そして、日本国憲法や日米安保条約の文言のなかに、その甘美な関係を成り立たせている「欲望」のありかを探ろうとするのでした。

たとえば、「戦争を放棄する」の「放棄」は、原文では”renounce”という動詞ですが、これは「自発的に捨てる」というニュアンスが含まれているのだそうです。「他者の(引用者注:傍点あり)言葉で、『私はこれを自発的に捨てる』と言うことほど、倒錯的なことはない」「こういう単語が、私たちの憲法に、他者のしるしとして刻印されている」と。

「侵略戦争」ということばも然りです。東京裁判の起訴状では、”War of aggression”と書かれているのですが、”aggression”は「攻撃性」を意味することばであり、先制攻撃をかけた戦争、それが「侵略戦争」と訳されるのです。

1951年の日米安保条約にも、同じように二者の関係性が戦勝国のことばで、そして、戦勝国の論理で表現されているのでした。

”Japan desires a Security Treaty with the United States of America”
日本国は欲する / アメリカ合衆国との間に安全条約を結ぶことを

”Japan grants, and the United States of America accepts to dispose United States land, air ”
日本国は保証し、アメリカ合衆国を受け容れる / 陸、海、空の武力を日本国内と周辺に配置することを。


そして、赤坂真理は、つぎのように書きます。

 日本が欲し、アメリカ合衆国にお願いする。
 日本が保証し、アメリカ合衆国は受け容れる。
 決して、逆ではなく。
 それをアメリカ合衆国が、書く。
 他人の手で、ありもしない欲望を、自分の欲望として書かれること。まるで「共犯」めいた記述を、入れ子のような支配と被支配性。ほとんど男女関係のようだと思う。誘うもの、誘発されること。条約にここまで書かれるものなのか。いや、条約とはもともと関係の写し絵なのか。二者しか知らない直接の占領期の生々しさがここにある。そして、二者にしかわかりがたい、占領期の甘美さも、ここにある。


もちろん、それらは日本語に翻訳され日本語として解釈されます。その日本語のなかには、当然「漢字」も含まれています。「漢字」は、英語では”Chinese character”と言うそうで、文字通りそれは漢=中国の文字なのです。私たちの元に届くまでには、二重の翻訳が存在しているとも言えるのです。

 漢字はもともとは中国でも言葉が通じない人たちのための字だったらしい。広い国土で、放言同士が通じないような人たちが商売をするときの、読めなくても見ればわかる符牒であったらしい。そんな漢字を、日本人が日本語として、外国語の翻訳に使ったとき、実はかなり危険なことが起きたと思う。
 そして私たちはその上に自らを規定している。


私たちはただわかったつもりになっているだけではないのか。赤坂真理が言うように、私たちは、自らが告発されたことばを「私たちの言語に照らし、じっくり精査したことが、一度だってあったのか」。そもそも私たちは「私たちの言語」をもっているのか。

天皇を「元首」とする自民党の改憲案について、赤坂真理はこう書きます。

 けれど、権力を渡す気などさらさらないのに、「元首」である、と内外に向けて記述するのは、まずいだろう?
 しかし・・・。
 私はここではたと考え込んでしまった。
 それが、明治に日本国をつくり運営し記述した者の、したことではないのか?
 天皇権威を崇め、利用し、しかし実権を与えない。


それは誰も責任を取らない巧妙なシステムです。そんなこの国の近代を貫く「無責任体系」が、歴史修正主義という亡霊をよみがえらせる要因になっているのではないか。責任を取るべき人間が責任を取らずに、”昨日の敵”に取り入り、挙句の果てにはあの戦争は正しかったと言い出す。一方で、私たちには、戦死者より病死者や餓死者のほうがはるかに多かったあの無謀な戦争に、国民を駆り出した戦争指導者たちを告発することばさえもってないのです。

戦争に負けたにもかかわらず、甘美な幸福に包まれていたなんてこれ以上の「侮辱」があるでしょうか。しかも、その「侮辱」を旗印に「愛国」が叫ばれているのです。誰も責任を取らず、誰も「総括」しなかった。だから、戦争の暴力の残り香が連合赤軍やオウムを生み出したのだ、という著者の解釈は、そのとおりだと思いました。

「私たちは敗戦を忘れることにした。そして、他人の欲望を先読みして自分の欲望とすることに夢中になった」のです。それを対米従属と言ってしまえば簡単ですが、しかし、産経新聞に見られるように、ナショナリズムでさえ”対米従属「愛国」主義”とも言うべきゆがんだものにならざるを得ないほど、その”病理”は深刻なのです。

著者は、80年代のバブル期で「戦後は終わった」と書いていましたが、しかし、(何度も同じことをくり返しますが)戦後は終わってはいないし、はじまってもいないのです。あの戦争を「総括」しない限り、戦後は終わらないし、はじまりもしないのです。「敗戦を忘れることにする」ような(歴史に対する)不誠実な態度で、どうして戦後なんてあり得るだろうと思います。

>> 『永続敗戦論』
2014.09.21 Sun l 本・文芸 l top ▲