案の定、「誤報」問題以後、朝日新聞の紙面から安倍政権に対する批判的な記事が消えています。

この国のメディアは、カルトな政権にあっけないほど簡単に膝を屈したと言えるでしょう。どうしてなのか。そこには、アメリカの占領政策の置き土産にすぎない「言論の自由」に依拠する”あなたまかせの思想”しかなかったからです。朴槿恵大統領に関する記事をめぐり、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が韓国の検察に在宅起訴されたことに対して、日本政府が「『言論の自由』の観点から憂慮を表明し抗議した」というのは、まさに「言論の自由」のご都合主義を表わしていると言えます。朝日新聞の「言論の自由」は「反日」として封殺するが、産経新聞やヘイト・スピーチの「言論の自由」は、「民主主義の根幹」だとして「守る」のです。竹中労が言っていたように、「『言論の自由』なんてない」のです。あるのは「自由な言論」だけです。

この手の話は、どうしてもベタな政治の話にならざるをえないのですが、先日、Yahoo!ニュースに、つぎのような記事が掲載されていました。

Yahoo!ニュース
正恩氏側近が訪韓 北、経済難・孤立焦り…対南懐柔で打開狙う

人の振り見て我が振り直せという諺がありますが、どうやら安倍政権に「恋ボケ」した産経新聞や読売新聞(読売も同じ記事を書いていた)は、北朝鮮の「孤立」に、彼の国の誘惑に乗って「調査団」の訪朝を検討している自国の「孤立」と「焦り」を重ねて見ることはできないみたいです。

拉致に関する日朝合意に、アジアで孤立を深める日本の焦りが反映していることは、誰の目にもあきらかなのです。北朝鮮は、そんな日本の足元を見る「したたか」な外交を展開していると言えるでしょう。これでは、拉致問題が外交カードに使われ、北朝鮮に「ふりまわされる」のは当然でしょう。

また、北朝鮮サイドから見れば、日朝合意の裏に、関係が冷えていると言われる中国への「恋のさや当て」があるのはたしかで、日本は北朝鮮に二重に利用されているとも言えるのです。世界の常識ではこんな外交を「無能」と言うのですが、しかし、サティアンのなかでは、その「無能」が「愛国」になるのでした。そして、中国も韓国も北朝鮮も、日本なしでは生きていけないので、ホントは日本との復縁を切望しているのだと自演乙するのでした。

先月末、インドのモディ首相が来日した際も、日本のメディアは、経済・安保で連携強化をはかり、国境問題で中国と対立するインドとの間に対中包囲網を築くことを確認した、とまるで”明日は戦争”みたいな記事を書いていました。しかし、その10日後、タジキスタンで開かれた上海協力機構(SCO)の首脳会議では、インドの加盟申請を受け、2015年からインドが正式メンバーとしてSCOに加盟することが決定したというニュースが流れたのでした。対中包囲網どころか、対日包囲網が築かれているのです。あの日本の報道はなんだったんだと思いますが、このメディアのネトウヨ化こそ、カルト化するニッポンを象徴する光景と言えるでしょう。

中国とロシアとインドが経済的利害を一致させ、経済的な同盟関係を結ぶ上海協力機構(SCO)が、これからのアジア経済をけん引していくのは間違いありませんが、そのとき仲間外れにされた「カルトの国」がどうなっていくのか、想像したくもない近未来です。カルト思想は、サティアンのなかでしか通用しない妄想ですから、こうなったらテレビ東京がやっているように、日本(人)は世界中でリスペクトされているというような「慰撫史観」(宮台真司)で、ますます夜郎自大に自閉していくしかないのかもしれません。

折しもネットでは、書評家でフリーライターの豊崎由美氏の以下のようなツイッターでの発言が論議を呼んでいますが、ここにも「言論の自由」の虚妄が露呈されているように思います。

豊崎由美@ガタスタ屋ですが、それが何か?
豊崎由美@ガタスタ屋ですが、それが何か?

豊崎氏の発言は、「一部」という断りがあるものの、よく耳にする「どっちもどっち」論です。でも、これはなにも語ってない、なにも考えてない、ただの事なかれ主義です。文筆家でありながら「排外主義」のことばの意味も理解していない、思考停止の最たるものです。

豊崎氏は、片山さつきではないですが、「言論の自由」は誰でも等しく天賦として与えられ、何人も侵すことのできない基本的な人権だと思っているのでしょうか。少なくともものを書く人間であれば、その「建前」に気づいてよさそうですが、そんなデリカシーさえないようです。もしかしたら、この発言には取引先の文春や新潮に対する”政治的配慮”がはたらいているのかもしれませんが、だとしたらもっとタチが悪いと言えます。彼女の仇敵である百田尚樹のほうが、単細胞な分、よほど”正直者”に思えるほどです。

ただ一方で、豊崎氏のトンチンカンな発言によって、「あたらしいことば」がどこにあるかということがあらためてわかったような気がします。豊崎氏の言う「穏やかな対話」というのは、文字通り「閉ざされた言語空間」で予定調和のことば(常套句)をかけあい、現実を糊塗するだけの、「話せばわかるごっこ」にすぎません。でも、話してもわからないこともあるのではないか。況んや、「本音モード」というカルトな時代においてをや、です。私たちに今、求められているのは、このような迷妄する現実に冷水を浴びせる「あたらしいことば」なのです。「あたらしいことば」は、建前も本音も、右か左かという政治的イデオロギーも、「言論・表現の自由」という天賦説も凌駕し、「どっちもどっち」論の虚妄を露呈させるような、ぬきさしならない、それこそ豊崎氏のような(能天気な)「民主主義者」が眉をひそめるような、ある意味暴力的なことばが飛び交う場所にしか生まれないのではないか。

そして、そんな”講壇民主主義”とは真逆の「あたらしいことば」こそが、サティアンで自演乙するテレビ東京的「慰慰史観」を溶解させ、ベタな政治の風景も含めて、見たくないけど見なければならない現実を私たちの目の前に提示する役割を担っているのだと思います。何度も言いますが、「言論の自由」なんてないのです。あるのは「自由な言論」だけです。
2014.10.12 Sun l ネット・メディア l top ▲