最近は散歩に行くのに、カメラをもって出かけることが少なくなりました。あたらしくカメラを買ったものの、ほとんど本の上に置きっぱなしで(私の場合、なんでも本の上に置きっぱなしですが)、数えるほどしか使っていません。

だったらスマホで写真を撮ればいいのにと思うかもしれませんが、写真屋の息子としてはスマホで写真を撮るのはどうも気が進まないのです。やっぱり、写真はカメラを構えてナンボのような観念からぬけ切れないのでした。

昨日の散歩も写真はありませんが、いつものように横浜駅からみなとみらい・馬車道・伊勢佐木町・桜木町・野毛をまわり、再び横浜駅まで戻りました。

私は、日曜日の夕暮れどきの横浜の街を歩くのが好きです。私は、運動会のときにの校舎の裏に行ったり、終着駅のある街や人里離れた山奥にある湖などを訪れるのが好きなのですが、日曜日の夕暮れの横浜の街にもそれらとどこか似た感覚があります。それは、祭りのあとのさみしさと似ています。そして、それが東京の街にない横浜の魅力なのです。

夕暮れの街を歩きながら、いつの間にか感傷的になっている自分がいました。ネオンの灯りに照らされた表通りとその横から薄暗い闇のなかに伸びている路地。そんな路地にいっそう寂寥感をかきたてられるのでした。そして、すれ違う人ひとりひとりに人生の物語があり、それが透けて見えるような気がするのでした。

人生が露出した等身大の街。それは、生き方も生活もなにもかもが規格化された郊外の街にない魅力です。昔、「喜びも悲しみも幾歳月」というタイトルの映画がありましたが、そんな「喜びも悲しみも幾歳月」のような人生の風景がある街に、平岡正明は「場末美」を見たのでしょう。

途中、伊勢佐木町の有隣堂本店に立ち寄りましたが、いつの間にか有隣堂にも「嫌中憎韓本」のコーナーができていました。「有隣堂よ、お前もか」と言いたくなりました。ヘイト・スピーチにも「言論・表現の自由」があると考えているのなら、出版文化(ことばの文化)に携わる者としては失格と言わざるをえません。国連の「勧告」でも示されているように、自由の敵に自由を許すなというような考えも必要なのです。貧すれば鈍するではないですが、今の書店に、その程度の見識を求めることさえ無理な相談なのでしょうか。最低限のモラルとして、「製造者責任」だけでなく「販売者責任」もあるはずです。

帰って万歩計を見たら、1万7千歩を歩いていました。

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野毛
2014.10.27 Mon l 横浜 l top ▲