まだ途中までしか読んでないのですが、大塚英志氏の新著『メディアミックス化する日本』(イースト新書)のなかで、KADOKAWAとドワンゴの合併に関連して、つぎのような文章がありました。

「世論」を極端な方向に誘導した朝日新聞など旧メディアは糾弾される一方で、例えばニコ動上の「世論」形成に対して、川上量生も角川歴彦も、自らが「責任」を問われるという感覚がそもそもないでしょう。もし朝日新聞の報道がつくり出した「空気」の責任を朝日というメディや、その経営者に問うことが妥当なら、プラットフォームの責任をプロバイダ責任制限法を持ち出してよもや免責することはあってはならないわけです。自分たちが「発話」のためのプラットフォームの提供者だから、その中身に責任はないというのは、一方でその投稿をコンテンツとしている以上、通用しないロジックです。


言うまでもなく、ニコ動はヘイト・スピーチの一大拠点です。そして、ドワンゴは、その「流言飛語」の「多元的発話システム」を「マネタイズ」しているのです。つまり、ヘイト・スピーチや歴史修正主義のようなカルト思想に「場」を提供することによって、金儲けをしているのです。金儲けをしている限り、間違っても責任がないなんていうことはないでしょう。

今までヘイト・スピーチを煽っていた政治家や官僚や桜井よしこなどの”右派文化人”たちは、ここにきていっせいに手のひらをかえしたように、ヘイト・スピーチの梯子を外しはじめていますが(そして、先日の飯田橋の暴力事件に警視庁公安部が乗り出してきたことからもわかるように、これからヘイト・スピーチに対する規制が本格化するのは間違いないと思いますが)、だからと言って、彼らがこれまでヘイト・スピーチを煽ってきた責任から逃れられるわけではないのです。それは、ニコ動も同じです。

 そもそも「個人の表現の自由」がより広く個人に与えられ、それに基づく「合意形成」がなされることは、民主主義システムの見果てぬ夢でした。それがWEBである程度可能になった時、それを運用する企業に「倫理」が不在なのは解せません。けれど、少なくともぼくも多少はインサイダーな話が漏れ伝わる立場にいたこともあるKADOKAWAやドワンドで、その経営陣がこのような「倫理」について言及したことを知りませんでした。


川上量生はジブリ関係者の前では「ぼくの夢はニコ動からネット右翼を追い出すこと」とかつて語っていますが(そういうオフレコ発言を書くのはフェアではないかもしれませんが、彼は公人なので)、問題なのはむしろ彼がニコ動というプラットフォームのもたらしたものに責任を持つ意思がないことです。安倍に政治的に加担するならすればいいのです。しかし、彼に限らずプラットフォームのトップは、「ニュートラル」などというものではなく「責任」という概念を全く持つことのできない、いや「それって何?」と本気で思える人たちです。


たしかに、ネットというのは「発話」(発言)すること自体は「自由」です。その意味では、「民主的」と言えるのかもしれません。しかし、現実において、私たちが「発話」するためには、ニコ動や2ちゃんねるやTwitterやFacebookやLINEなどなんらかのプラットフォームを利用しなければなりません。そして、プラットフォームを利用すれば、「発話」は立ちどころにあらかじめコントロールされたシステムのなかに組み込まれることになるのです。「一人ひとりの断片的な書き込みやツイートは、実は今や『民意』という『大きな物語』に収斂する仕掛け」になっているのです。私たちの「発話」は、その”宿命”から逃れることはできないのです。

一企業の金儲けの論理のなかに「言論・表現の自由」が担保されているというこのあやふやな現実。これがネット「言論」なるものの特徴です。そして、それは、私たちの「発話」だけに限った話ではないのです。Google 検索やYahoo!ニュースなどもまったく同じ構造のなかにあるのです。

先日、テレビの深夜番組で、Yahoo!トピックスが取り上げられていましたが、それによれば、Yahoo!トピックスを担当するのは、わずか25人だそうです。25人が国内にある3つの拠点に分散して、日々のニュースを編集しているのだとか。メンバーを見ると、ほとんどが20代後半~30代の新聞社や通信社の元記者たちでした。そんな彼らが、契約先からあがってくる記事を取捨選択し編集して、まとめサイトと同じようにトップページに掲載する作業をおこなっているのでした。

新聞記者というのは、みずから取材してみずから記事を書くことに生きがいを見いだすのが普通ではないでしょうか。そのために新聞記者になったのではないか。でも、彼らは取材することはありませんし、みずから記事を書くこともありません。一日中パソコンの前に座って他人が書いた記事をピックアップするだけなのです。

と言うことは、彼らは記者の落ちこぼれではないのか。ジャーナリストになれなかった人間たちではないのか。私にはそう思えてなりませんでした。本来なら靴底を減らして取材し、自分で記事を書くことに生きがいを見い出すはずなのに、それを捨てた人間たちなのです。そんな25人の青年たちが、月間45億ページビューというとてつもない影響力をもつYahoo!トッピックスを編集しているのです。そして、その背後には、言うまでもなくあのソフトバンクの拝金思想、いや、企業の論理が伏在しているのです。おそらくそこには、「編集権」という考えさえ存在してないのでしょう。

私は、その番組を見て、どうしてときおりYahoo!のトップページにヘイトな記事がアップされるのか、その理由がわかったような気がしました。2ちゃんねるの内紛によって、その一端があきらかになりましたが、政治権力にとって、一企業のあけすけな論理で運営されているニュース媒体をコントロールすることなど、それこそ赤子の手をひねるように簡単なことでしょう。むしろ、コントロールされてないと考えるほうが無理があるのではないでしょうか。

Yahoo!は、間違っても「報道機関」ではないのです。Yahoo!ニュースの担当者は、間違っても「ジャーナリスト」ではないのです。ネットにおいてはニュースさえ、「責任」も「倫理」もない、お金の論理に支配された(身も蓋もない)構造のなかで流通しているのです。そのことを忘れてはならないでしょう。

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2014.11.02 Sun l ネット・メディア l top ▲