ワールドカップですが、案の定、日本の決勝トーナメント進出はほぼ絶望的な状況になっています。このままでは1勝もできない可能性も大です。

グループリーグ最終戦のコロンビア戦を前に、主力選手たちは、記者会見で、「奇跡を信じている」(本田)「信じて戦うしかない」(長友)「無心でやるしかない」(岡崎)などと、およそスポーツ選手とも思えないような意味不明なことばを並べていますが、それは選手だけでなくマスコミも同様です。「前を向いて戦うしかない」「どれだけ心をひとつにできるかだ」「最後まであきらめない気持が大切だ」「選手たちを信じるしかない」などとこれまた言語明瞭意味不明な精神論のオンパレードです。

あの戦争のときもそうでしたが、戦況が不利になるとこのように精神論で現実から目をそらすのがこの国の特徴です。そして、竹槍で本土決戦に備えるなどという、カルトの妄想のような荒唐無稽な発想に対しても、誰も異をとなえることができず唯々諾々と従っていくのです。なかには竹槍でB29を撃ち落とすと本気で信じていた人もいたそうで、それが「愛国心」だと称賛されたのです。

この国ではサッカーファンも、ネトウヨと同じです。実際に、サッカーファンとネトウヨは重なる部分が大きく、前に触れた杉山茂樹氏に対しても、ネットでは「頭がおかしい」「反日スポーツライター」などとくそ散々な言われようでした。そして、案の定、「在日」認定までされる始末です。

杉山茂樹氏は、今大会の日本代表について、ブログで、つぎのように書いていました。

 メディアの商法として、手っ取り早いのは「がんばれ、ニッポン!」を煽ることだ。応援報道というヤツである。これを成立させるためには、日本がある程度、強い存在に見える必要がある。メディアのそうした願い、思惑と、日本サッカー協会の親善試合の組み方(ホーム戦過多)は実に相性がいい。それには負けにくい設定が施されている。
 しかもアジアの本大会出場枠は4.5。アジアの世界的なレベルを考えれば、緩すぎる設定だ。日本が予選落ちする可能性は10%程度。本当に接戦が期待できる試合は、せいぜい2試合ぐらいだ。他は楽勝して当たり前。平素の試合を通して問題点は露呈しにくいのだ。

 こうした環境の中に置かれていると、世界が狭く見えてくる。サッカー観戦に不可欠な世界観も生まれにくい。コートジボワール? ギリシャ? 馴染みのない集団に対して、畏敬の念を払えなくなる。相手をリスペクトする習慣が芽生えにくくなる。サッカーの試合を戦う上で、これは好ましくないスタンスだ。研究を怠り、毎度「我々のサッカーをすれば」と言っている国に、幸は訪れにくい。

杉山茂樹のBLOGマガジン
日本のサッカーを見ているのは、日本人だけではない」(2014 6/22)


杉山氏が言わんとすることも同じでしょう。「自演乙」して現実を直視しないメディアとサポーターのお粗末さ。

日本はすばらしい、日本は世界中からリスペクトされている、などいくら「自演乙」しようとも、サッカーの場合、相撲や野球と違って、世界の舞台で戦うことを宿命づけられているのです。そこで示される結果はごまかしようがない(「自演乙」のしようがない)のです。

テレビ解説者のなかで、杉山氏と同じように、この当然の結果(!)を事前に予想した人間がいるでしょうか。テレビ解説者の大半はJリーグ関係者で、ただ無用な期待を抱かせるためだけに存在している”茶坊主”と言っても過言ではありません。

私の知る限り、杉山氏以外では、あのセルジオ越後氏が辛辣なコメントを残していました。

「これが実力だ。結果は驚きでもなんでもない。今大会の他の試合を見れば一目瞭然だ。日本はどの国よりも未熟で、どの国よりも走っていないし、迫力がない。にも関わらず、一番期待されている国だ。海外組ブランドが喧伝され、選手たちは大スターのように扱われてきた。ヌルい親善試合と、本当のことを言おうとしないメディア。強化よりも興行に気を取られてきた結果、自分たちの実力が実態以上に大きく見えるようになってしまった。しかし、現実は隠せないということだ」
「『自分たちのサッカー』がどうこうというフレーズが騒がれているけど、一つ答えを出すとすれば、今日のこの試合で見せたプレーが、まさに『自分たちのサッカー』だよ。本来の力を出せていないのではなくて、これが世界における我々の本来の力なんだ。そこを見誤っては成長がない。他の試合をよく見てほしい」

サッカーキング
ギリシャ戦ドローにセルジオ越後氏『“自分たちのサッカー”とはこの程度。日本はどの国よりも未熟』


コロンビアは、ラテンアメリカの人間特有の気質から、既に決勝リーグ進出が決まっているので、日本戦は気を抜くのではないかとか、決勝トーナメントではイタリアよりコスタリカと戦いたいので、日本戦では負け試合をして2位通過を狙うのではないかなどという見方が一部にありますが、いづれにしても日本にはもうコロンビア頼みの「奇跡」しか残ってないのです。これがイタいサッカーファンやスポーツメディアが目をそむけている現実なのです。

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「自演乙」とカルトな指導者
2014.06.23 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
映画「アナと雪の女王」の日本語吹き替え版で、ヒロインのエルサを演じる松たか子が作中で歌う「Let It Go」の歌唱力が「すごい」と話題になっているようですが、昔からの松たか子ファンとしては、「してやったり」という思いとともに、やや戸惑う気持があることも事実です。

以前、ミュージカル女優の卵の女の子に、松たか子が好きだと言ったら、彼女は「お父さんは声が通らなくてダメだけど、松たか子は声もよく通るし、歌唱力も演技力もお父さんより全然上だよ」と言ってました。ミュージカル関係者の間では、松たか子の才能は前から定評があったのです。

また、旧知の会社が原宿で経営していた居酒屋があり、その店は業界関係者がよく集まる店として有名だったのですが、私も一度だけ松たか子が来ているのに遭遇したことがありました。ちょうどその頃、週刊誌に某スタイリストとのロマンスの記事が出たことがありましたが、その店には件のスタイリストもよく来ていましたので、そういった関係で噂が出たのかもしれません。

スタイリストをよく知る業界関係者の知り合いなどは、「いくらなんでもそれはないだろう」「もしそれがホントなら松たか子にはがっかりだな」と言ってました。のちに松たか子がギタリストの佐橋佳幸氏と結婚したと聞いて、私も含めて周辺の松たか子ファンはみんな、ホッと胸をなでおろしたものです。

私は、「明日、春が来たら」にしても、「桜の雨、いつか」にしても、「コイシイヒト」にしても、どっちかと言えば、素朴で素人っぽい歌い方がいいなと思っていましたので、「歌唱力がすごい」とか「海外で絶賛されている」なんて書き込みを目にすると、どうしても戸惑う気持が先に立つのです。私は、その素朴で素人っぽい歌い方に、どこかなつかしさのようなものを感じていました。いつまでも心の片隅に残っている青春の甘酸っぱさのようなものを感じていたのです。

そんな個人的な感覚からすると、「Let It Go」の松たか子はちょっと違います。もし「海外で絶賛されている」(と言っても、You Tubeの書き込みで絶賛されているとかいった話のようですが)から「すごいのだ」と言うのなら、それはやはりニッポン人お得意の「自演乙」と言わざるをえません。

私は、「Let It Go」よりも、やはり、「明日、春が来たら」や「桜の雨、いつか」や「コイシイヒト」の松たか子のほうが好きです。
2014.06.09 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
ASKAの覚せい剤事件ですが、その後、気になる展開を示しています。ASKAは、既に覚せい剤の使用も認めているそうですが、一緒に覚せい剤を使用したとして逮捕された栩内(とちない)香澄美容疑者は、未だに否認しているのだとか。そして、栩内容疑者に関して、つぎのような報道も出てきているのです。

警視庁によると、ASKA容疑者は覚せい剤所持の容疑を認めた上、「覚醒剤を使ったことがある」と供述している。これに対し、知人の栩内香澄美容疑者は否認を続けているが、その後の捜査関係者への取材で、「覚醒剤は使っていない」と供述していることが分かった。栩内容疑者の尿と毛髪からは覚醒剤の成分が検出されおり、警視庁は、ASKA容疑者が覚醒剤とは明確に伝えずに、栩内容疑者と覚醒剤を使用していた可能性もあるとみて、慎重に調べている。
ASKA容疑者の知人、覚醒剤知らず使用か
日テレNEWS24( 2014年5月26日 12:02)


もしこれがホントなら、ASKAは栩内容疑者をジャブ漬けにしたということになります。ヤクザ顔負けの鬼畜な所業と言わざるをえません。栩内容疑者は、ASKAによって地獄に落とされたとも言えるのです。

その筋に詳しい人間に聞くと、最初は「女性用のバイアグラ」だとかなんとか言って、覚せい剤入りの飲み物などを与え、徐々にシャブ漬けにしていくのだそうです。そういった誘惑は、私たちのすぐ近くにいくらでもあるのです。

ホテルの関係者に聞くと、部屋に1日も2日も閉じこもっている怪しいカップルがいて、カップルがチェックアウトしたあと、部屋の清掃に入ると、案の定、床などに白い粉がこぼれていることがあるそうです。しかし、警察に届けると、半日も1日も事情聴取を受け仕事にならないので、そのまま拭き取って終わりにするケースが大半なのだそうです。

そのように覚せい剤が私たちの日常にも浸透している現実があるのですが、にもかかわらず不思議なのは、今まで「入手ルート」が解明されたという話をほとんど聞いたことがないということです。「警察は入手ルートなどを詳しく調べることにしている」と決まり文句のように言うのですが、しかし、曖昧なまま捜査が終了するのが常です。酒井法子の場合も然りでした。

いつも摘発されるのは、シャブ漬けになった末端の人間ばかりで、売人やその元締めが摘発されることはめったにないのです。おそらく今回も「入手ルート」は曖昧なまま終わるのかもしれません。覚せい剤事件には、そんな不可解な部分がいつもつきまとうのです。そして、暴力団関係者でない限り、初犯で反省のポーズを示せば、執行猶予付きの判決で社会復帰して一件落着です。

ASKAの作品が出荷停止・回収の処置になったことに対して、疑問を呈する意見がありますが、たしかに出荷停止・回収こそ典型的な日本式建前主義と言うべきで、ややもすればそれが禊になる可能性だってありえます。それに、裁判では出荷停止・回収が「社会的制裁」を受けたと看做され、「情状酌量の余地がある」と判断される可能性は大です。極端なことを言えば(過去の事例から言えば)、出荷停止・回収の先に芸能界復帰が予定されているのかもしれないのです。「才能がもったいない」という言い方も、「金の成る木なのにもったいない」という意味に読めないこともありません。実際に、チャゲアスの利権を狙う芸能界のドンが、既に「復帰」を視野に裏工作をはじめたという噂さえあるのです。

でも、事件の一連の経緯を見ても、ASKAの罪はきわめて大きいのです。ASKAの芸能界復帰なんてとんでもない話です。
2014.05.28 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
ASKAの覚せい剤事件は、安倍政権がすすめる「解釈改憲による集団的自衛権の行使容認」への批判を避けるための”目くらまし”ではないかという見方が一部にありますが、そういった”妄想”を前提で言えば、私はむしろ逆のような気がしてなりません。

なぜなら、既にネットなどにも書かれていますが、ASKA と一緒に逮捕された栩内(とちない)香澄美容疑者をたどっていくと、アベノミクスの「成長戦略」を仕切る人脈に行き当たるからです。成り行き次第では、規制緩和を利権にする政商たちのスキャンダルが暴きだされる可能性さえあるのです。

栩内容疑者は、青森の高校を卒業後上京して職を転々とし、パソナグループの医療系人材派遣会社に勤務したのをきっかけに(逮捕時は別の関連会社に在籍)、パソナの創業者・南部康之氏の目にとまり、同グループが政財界のVIPを接待する際の「接待要員」に抜擢されたと言われています。

パソナグループは、現在、港区元麻布に「仁風林」という専用の迎賓館をもっていますが、「仁風林」には安倍首相や森喜朗元首相や前原誠司元民主党代表など、多くの政治家も訪れて「接待」を受けていたそうです。ちなみに、前原元代表の奥さんも、南部代表の「元秘書」と言われていますが、実際は「接待要員」で、パーティで知り合い結婚したという噂がもっぱらです(栩内容疑者も逮捕時の報道では「社長秘書」となっていました)。そして、ASKAと栩内容疑者が知り合ったのも、パソナのパーティだったのです。「接待要員」というのは、言わば北朝鮮の「喜び組」のようなものなのかもしれません。

現在、パソナグループの会長は、小泉政権で製造業派遣の解禁や郵政民営化で辣腕をふるった竹中平蔵氏ですが、竹中氏は安部首相とも親しく、アベノミクスの成長戦略を担う産業競争力会議のメンバー(民間議員)でもあります。同会議は、地域限定で大幅な規制緩和をおこなう「国家戦略特区」を提唱しており、そして、特区における「解雇ルール」「労働時間規制」「有期雇用制度」の見直しを提言しています。つまり、自由に解雇できて、残業手当は廃止して、派遣の期限も廃止するというものです。もちろん、そこには、「日本を、取り戻す!」(自民党のポスター)ならぬ「日本を、売り渡す!」TPPの受け皿作りという側面があることは間違いないでしょう。これが絶望的な格差社会をもたらすグローバル資本主義の本質であり、「愛国」を隠れ蓑にグローバル資本主義に拝跪して「国を売る」安倍政権の実態なのです。

マスコミは、ユニクロが1万6千人のアルバイトを正社員化するという話を大々的に報道して、あたかも安倍政権の経済政策によって正社員化が進んでいる(景気が回復している)かのような幻想をふりまいていますが、実際は、総務省が発表した労働力調査(基本集計)の2013年の平均でも、非正規雇用の割合は36.5%(正規労働3302万人、非正規労働1906万人)で、前年(2012年)より93万人増加し過去最高を更新しているのです(正規雇用は46万人減少)。

また、給与の面でも労働分配率は一貫して下がりつづけており、国税庁が発表した直近の民間給与実態統計調査(平成24年度)によれば、年収200万円以下の給与所得者は5年連続で1千万人を超えています(非正規雇用の平均年収は168万円)。特に女性が深刻で、200万円以下の割合は42.7%にのぼるそうです。

パソナの南部代表は、「派遣こそ終身雇用だ」とうそぶいていたそうですが、若い女の子を脇にはべらせ美酒に酔い痴れる私的なパーティで築かれた人脈を中心に、実際に(「成長戦略」の名のもとに)終身派遣(!)が現実になるような政策がすすめられているのです。

一方、昼のテレビでは、栩内容疑者が高校時代まですごした地元の青森を取材した模様が放送されていました。それによれば、栩内容疑者の一家は、お母さんが白血病にかかったため家計は苦しく、市営住宅で質素な生活を送っていたそうです。そして、高校生のときにお母さんが亡くなり、高校を卒業すると誰にも告げずにひとりで上京したということでした。

東京に出てきた栩内容疑者は、この生き馬の目をぬくような大都会で、みずからが如何に非力な存在かということを思い知らされたのではないでしょうか。そんななかで、コネも学歴もなんにもない自分が、東京でのし上がっていくには(つまり、階層上昇を果たすには)、唯一のとりえである容姿を武器にするしかないという考えにたどり着いたとしても、誰も非難できないでしょう。

私も似たような女性を知っていますが、しかし、哀しいかな、若いときはまだしも、年を取ると往々にしてみじめな末路が待っていることが多いのも事実です。なぜなら、女を武器にする生き方は、所詮男社会を前提にした生き方にすぎないからです。容姿(美醜)が女性性の大きな要素であることは否定できませんが、世の中は残酷なもので、ときにそれが躓きの石になることもあるのです。

先日、都心の住宅街を車で走っていたら、前からベンツやBMWなど高級車がつぎつぎとやってくるのでした。しかも、運転しているのは、見るからに「女性偏差値」の高そうな女性が多いのです。まわりを見れば、家賃が何十万円もするような「高級マンション」ばかりです。私たちのような下層貧民からすると、どうしてあんな車に乗ることができるのか、なんの仕事をしているのか、不思議でなりません。普通の仕事では、とてもそんな生活はできないでしょう。でも、それが東京という街なのです。

栩内容疑者も、そんな東京という街に翻弄され、政財界のお歴々や芸能人と知り合うなかで、徐々に現実感覚を失っていったのかもしれません。ただ、ひとつだけ言えるのは、栩内容疑者が美人でなかったなら(南部代表の寵愛を受けていなかったら)、彼女もまた、年収200万以下の生活を余儀なくされた可能性が高いということです。それがコネも学歴もなんにもない多くの女性の現実なのです。

ASKAについては、早くも「才能がもったいない」とかなんとか言われていますので、ご多分に漏れず禊をすませたらまた芸能界に復帰するのでしょう。しかし、栩内容疑者は、南部代表が今後も面倒を見てくれるわけではないでしょうから(既に逮捕の翌日に会社は解雇されたようですし)、前科者として社会の底辺にいっきに落ちていくのは避けられないように思います。そして、ワルたちにボロボロにされて、「波乱万丈の女の一生」を終えるのではないでしょうか。そう思うと、自業自得とは言え、なんだかせつない気持にならざるをえません。

※下記は、この記事のあとにアップされたおすすめの「関連情報」です(5/29)。
参照
パソナ南部代表、女性スキャンダル&セクハラ疑惑 秘書の覚せい剤逮捕生む企業体質
栩内容疑者“学校1の美女”が覚せい剤に溺れるまで…
2014.05.23 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
今月3日放送のフジテレビ「めちゃ2イケてるッ!」で、小保方さんのパロディが見送られた件に関して、ナインティナインの岡村隆史は、ニッポン放送「ナインティナインのオールナイトニッポン」のなかで、つぎのように語っていたそうです。

 「オンエアしていない状態でダメやというのはちょっと」と納得できない様子の岡村。実際の内容については「ただのクイズコーナーだった」と説明し「おそらく小保方さんがこのコーナーを観たら多分笑ったと思う。放送されないなら(小保方さんが入院している)病院に持って行ったら笑顔も戻るのではないか」と小保方氏を元気づける内容であったことを強調した。
ナイナイ岡村 「阿呆方」見たら「小保方さん笑ったと思う」 スポニチアネックス 2014年5月9日)


「めちゃイケ」のサイトには、タレントの重盛さと美が扮する「小保方さん」が会見の場で「あります!」と言った瞬間、頭をスリッパで思い切り叩かれる次回の予告の映像がアップされていて、その映像には「阿呆方さんが緊急会見涙目で○○はあります」というスーパーが付けられていたそうです。

これがどうして小保方さんが見たら「笑ったと思う」のか。どうして(この映像を)「病院に持って行ったら笑顔も戻る」と言えるのか。もし、自分がメンヘラで休業していたとき、同じようなことをされたらどう思ったか。ホントに「笑った」か。

そもそもあの休業についても、業界で絶大な権力をもつ吉本興業の圧力で、芸能マスコミはどこも病気のことを書きませんでした。小保方さんと違って、岡村は手厚く保護されていたのです。メンヘラになるのは繊細な心の持ち主のようなイメージがありますが、岡村はデリカシーの欠片もない傲岸な人間のように見えて仕方ありません。岡村の発言は、思い上がりもはなはだしい詭弁だと言っていいでしょう。

小保方さんは、一般人です。権力をもつ政治家や官僚でもなく、プライバシーを切り売りする芸能人でもないのです。「めちゃイケ」の発想は、どう考えてもイジメのそれと同じでしょう。ここにも”小保方叩き”の本質が出ているように思います。

岡村には何様のつもりなんだと言いたい。たかが芸能人の分際で、なにを偉ぶっているんだと言いたい。そこにあるのは、テレビ局に揉み手して低劣な俗情に媚びを売る卑しい心根だけです。芸能人の風上にもおけないのです。

芸能人は、芸能人であると言うだけで差別される存在です。誤解を怖れずに言えば、世間に身を晒し自分のプライバシーを切り売りするような人間が差別されないわけがないのです。だから芸能人は芸能人たり得るのです。だからその差別を逆手にとって技芸に生きることができるのです。芸能人があこがれられたり拍手喝さいを浴びたりするのは、あくまでその技芸に対してなのです。

芸能人は、市民社会の公序良俗の論理とは異なる論理で生きている「特殊××」の人間たちです。彼らには市民社会の埒外で生きる「河原乞食」としての矜持と覚悟があるはずです。芸能人に「在日」が多いのもヤンキー(不良)が多いのも家庭的に恵まれない人間が多いのもそれゆえです。

岡村隆史は勘違いをしているのではないか。それは、岡村が立命館大学(?)出身の”高学歴芸人”であることと関係があるのかもしれません。その高慢ちきな意識は、ビートたけしや爆笑問題の太田光などにも共通していますが、なにか出世して社会的な名声を得たつもりにでもなっているのではないか。

岡村もまた、「分をわきまえず偉ぶる芸人」(竹中労)と言うべきでしょう。

関連記事:
「官邸にキタノ」
酒井法子復帰と芸能界
2014.05.10 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
先日、東京新聞に、「『全生園は私の支え』 宮崎駿氏、『人権の森』構想を全面支援」という見出しで、つぎのような記事が掲載されていました。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014012090100115.html

多摩全生園を囲っている柊の垣根ひとつとっても、そこには筆舌に尽くしがたい入所者の悲惨な歴史とこの国の医療行政が犯した暗黒の歴史が刻印されているのです。宮崎駿氏の多摩全生園に寄せる思いに共鳴する人も多いでしょう。もちろん、私もそのひとりです。

ただ、その一方で、宮崎駿氏をはじめとするスタジオジブリの姿勢について、違和感を覚える部分があることも事実です。それは、ヘイトスピーチの巣窟になっているニコニコ動画との関係についてです。

ニコニコ動画を運営する株式会社ドワンゴの川上量生会長は、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーと意気投合して、会長職のまま「プロデューサー見習い」としてスタジオジブリに入社、週に1回出社して同社で「修行」しているのだそうです。

川上会長は、スタジオジブリとの関係について、「ジブリで学んだことをドワンゴで練習してジブリの仕事に活かす戦略です」(ニコ動とジブリは「サブカル界の正反対」 ドワンゴ川上会長、2足のわらじで見つめる未来)と言ってました。

一方、スタジオジブリは、同社が発行する小冊子『熱風』では護憲の立場を明確にしており、宮崎駿氏らは日本共産党の選挙パンフレットにも「推薦人」として名前を連ねるくらい、同党のシンパとしても知られています。そんなスタジオジブリがもっているリベラルでヒューマンなイメージと川上氏との関係を考えると、戸惑いを禁じえません。

ニコ動は、言うまでもなくヘイトスピーチにとって欠かすことのできないプロパガンダの拠点です。ニコ動とヘイトスピーチの「親密な関係」を指摘する人もいるくらいで、ニコ動があったからこそ、ヘイトスピーチが街頭に進出することになったと言っても過言ではないでしょう。お金のためならヘイトスピートでも利用する川上氏の姿勢は、ネットの守銭奴の面目躍如たるものがあります。あれはただ自分たちが預り知らぬところでユーザーが勝手にやっているだけだと言うなら、それこそ「凡庸な悪」(ハンナ・アーレント)と言うべきでしょう。

ハンセン病とヘイトスピーチ。文字通り「正反対」のこの問題について、スタジオジブリはどう折り合いをつけているのか。そう問い質したい気持があります。川上会長のように、「言霊」の問題として片付けるのでしょうか。あるいは、ヘイトスピーチにも「言論の自由」があるとでも言うのでしょうか。

私は、こういったところにもスタジオジブリの「きれい事」があるように思えてなりません。スタジオジブリの作品が体現する平和や人権や共生ややさしさや思いやり、あるいはせつなさや哀しみといったものは、純粋培養された恣意的な場所でしか成立しえない「きれい事」、夜郎自大な自己完結のセカイにすぎないのではないか。

ハンセン病の悲惨な歴史を思う気持と「朝鮮人を殺せ!」というヘイトスピーチを見て見ぬふりするスタジオジブリの姿勢には、どう考えても合点がいかないのです。

>> 『差別とハンセン病』
>> インディーズ文化の精神
2014.01.25 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
明日(9/6)2020年の五輪開催都市を決めるIOCの総会が、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催され、最終候補に残った東京は、マドリード、イスタンブールと最後のプレゼンテーションを行うそうです。

東京有利の報道もあるようですが、しかし、福島第一原発の事故による海洋汚染が問題になっているなかで、オリンピックなんかやっている場合か、と思うのは私だけでしょうか。まして、開催地の選定に悪影響を与えるからという理由で、汚染水対策の国会審議もあとまわしにするなど、本末転倒もはなはだしいのです。

参院選のために汚染水の問題が伏せられ、今度はオリンピックのために対策があとまわしにされる。原発事故やそれに伴う放射能汚染の問題は、その程度のものなのかと言いたくなります。私は、ここにも不条理を感じてなりません。

もっとも、先の選挙結果を見る限り、国民に不条理という感覚はあまりないようです。それがこのような、原発事故の処理を二の次にするような政治をもたらしているのではないでしょうか。大変言いにくいけど、あれほどの被害を受けた福島においても、選挙では原発事故に対する明確な意思は示されなかったのです。

オリンピック開催が決まれば、巨額の公共投資が実施されます。お台場・青海・晴海を中心とした湾岸エリアの大規模な開発が行われ、国立競技場の建て替えだけでなく、首都高の大規模な改修も行われると言われています。オリンピック誘致の言いだしっぺは、都知事時代の石原慎太郎氏ですが、その際、(”石原タブー”のない)一部のメディアに、彼の選挙の面倒を見た某ゼネコンとの関係が取り上げられたことがありました。いわゆる”五輪利権”もあるはずで、ゼネコンをはじめ広告代理店やマスコミなど関連業界が、ヨダレを垂らしながらIOC総会に熱い視線をそそぐのは当然でしょう。

一方で、これから何十年もかかって原発を廃炉にしなければならず、それには途方もない費用と知恵が必要になると言われています。専門家のなかには、人類がかつて経験したことのない難題が待ち構えていると言う人もいます。また、汚染水の問題も、単にタンクから汚染水が漏れたとかいう話ではなく、メルトスルーして格納容器からぬけ落ちた核燃料が地下水脈を汚染している可能性もあり、もしそうなら抜本的な解決策はない、お手上げだという話さえあります。オリンピック誘致に首を傾げたくなるのが普通の感覚ではないでしょうか。

にもかかわらずマスコミは、拝金亡者ご用達の日経&テレビ東京を筆頭に、経済効果の皮算用をしてはしゃぐばかりで、この「無理が通れば道理が引っ込む」現実に疑問を呈するような視点は皆無なのです。

機を見るに敏なテレビのニュースキャスターやワイドショーのコメンテーターたちも、みんないっせいに風にそよぐ葦になっています。オリンピックについては、昨今の商業主義や勝利至上主義、国家主義などによって、スポーツが歪められているという指摘がありますが、いつの間にかそんな問題もどこかに吹っ飛び、疑義をさしはさむのもはばかられるようなオリンピック招致の大合唱がはじまっているのです。

内田樹氏は、みずからのブログ(内田樹の研究室)で、五輪招致について、つぎのように書いていましたが、私もまったく同感です。

原発事故のことを忘れたがり、隣国を口汚く罵倒する人たちが政治の要路に立ち、ひたすら金儲けの算段に夢中になっている国に五輪招致の資格があるかどうか、それをまず胸に手を当てて考えてみた方がいい。
五輪招致について

2013.09.05 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲

照實氏らと一緒に棺を霊きゅう車に運び、助手席に乗り込んだ。膝上に白い菊の花束を乗せ、火葬場のある品川区の桐ケ谷斎場に向かった。潤んだ目が、うつろに宙を見つめていた。
(スポニチアネックス 2013年8月28日06:00 配信記事)


追悼の空気に水を差すようですが、私は、この場面をテレビで見て、ちょっと引っかかるものを感じました。

聞けば、撮影しやすいように、霊柩車の運転席と助手席の窓は開けられていたそうです。事前にどんなやり取りがあったのか知りませんが、そうやってマスコミに「サービス」していたのです。

悲しみにうち沈んでいたのは事実なのでしょう。「潤んだ目が、うつろに宙を見つめていた」のも事実かもしれません。しかし、それでも、マスコミ向けの「サービス」は忘れなかったのです。その結果、私たちが目にするのは、上の記事のイメージに合致したような宇多田ヒカルの写真です。案の定、翌日のスポーツ新聞は、どこも似たような「うつろに宙を見つめて」いる宇多田ヒカルの写真が掲載されたのでした。そうやって永遠にメディアで使いまわされる(であろう)写真が「撮影された」のです。

また、スポーツ新聞やテレビのワイドショーなどの報道も、その日を境に、前日に宇多田ヒカルが公式サイトにアップしたコメントに沿った、「家族の愛情が溢れている」「胸を打たれる」というようなトーンに変わったのでした。写真とコメントがワンセットになったのです。

たしかに、母親を失った宇多田ヒカルの気持を思うとき、コメントに記されたことばにウソはないのでしょう。

ただ、コメントを出すタイミングといい、コメントの文面といい、あまりにも「できすぎている」気がしないでもないのです。そして、それまでの報道がすべてコメントに収れんされるようなマスコミの変わり身のはやさには、逆に首をひねらざるをえないのです。

それじゃ、ペニオク詐欺ではないですが、芸能人のブログになんの留保もなく、「すてき!」「感動しました!」「私もほしい!」「がんばってください!」とコメントを書き込むファンと同じです。

どうして医療施設ではなく新宿のマンションだったのか。身の回りの世話をするのに、どうして女性ではなく男性だったのか。宇多田ヒカルは、本当に母親の居場所を知らなかったのか。

悲しみにうちひしがれているなかで、さりげなく行われた”演出”に、私のようなひねくれ者は、いろいろと勘繰ってしまうのですが、まして芸能マスコミは、”下衆の勘繰り”が売りのはずです。みんなでバンザイしてどうするんだ、と言いたいのです。
2013.08.29 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
昨日の「情熱大陸」(TBS系列)は、「芸能界復帰から8か月。アラフォーとなった『朋ちゃん』のリ・スタート舞台裏に密着取材!」と銘打ち、華原朋美をとり上げていました。

それにしても、世間は移り気で、芸能マスコミはいい加減です。あれだけ叩いていた「朋ちゃん」ですが、今度は一転「朋ちゃん、がんばって!」に変わっているのです。特に女性誌にその傾向が強く、握手会などでは、「朋ちゃん」の顔を見て涙ぐむ女性ファンも多いのだとか。

ただ、この番組はドキュメンタリーというよりは、再デビュー&セルフカバーアルバム発売のパブ企画のような感じでした。さすが尾木プロダクション(正確には、プロダクション尾木)。過去のマイナスイメージを逆手にとって「朋ちゃん、がんばって!」に持っていく”力技”は見事というしかありません。

彼女をプロデュースした小室哲哉は、「アーティストに手をつけたのではない。恋人に曲を書いてデビューさせただけだ」(Wikより)とうそぶいていたそうですが、「遠峯ありさ」というB級アイドルが、当代の売れっ子プロデューサーと寝んごろになり、一躍トップアイドルの座を射止めたのですから、「シンデレラストーリー」と言われたのも当然でしょう。一方で、「公私混同だ」という批判もありましたが、しかし、芸能界は売れてなんぼの世界ですから、売れりゃそんなの関係ねぇ、逆に女王様のようにチヤホヤされるのです。私も実際に、当時小室が仕切っていた深夜のテレビ番組で、やたらチヤホヤされている彼女を見て嫌な感じがしたことを覚えています。

しかし、栄光も長くはつづきませんでした。小室に棄てられた彼女は、睡眠導入剤などのクスリに依存、救急搬送やドタキャンなど度重なるスキャンダルを演じ、ついに所属事務所のプロダクション尾木から解雇され、芸能界から姿を消したのでした。

恋人を失った心の痛みだったのか、それとも仕事の後ろ盾を失った絶望感だったのか、いづれにしてもクスリに溺れていた頃の彼女には、たしかにアイドルではないひとりの女性としての素の部分がさらけ出されていたように思います。だから、ファンたちは、今の「がんばっている」彼女を見て応援したくなるのでしょう。ファンというのは、芸能界はなんでもありだなんてひねくれた見方はしないのです。

でも、”同情”だけでやっていけるほど、芸能界が甘い世界でないことは言うまでありません。再デビューに際しての彼女の姿勢にも、危なっかしいところがないわけではありません。芸能界から身を引いたあとは、二十歳の頃から疎遠になっていたフィリピンに永住している父親のもとに行き、現地でめぐまれない子どもたちをサポートしている父親の活動を手伝ったりしていたそうですが、なのにどうしてまた生き馬の目をぬく(クスリに溺れるほど痛い目にあった)芸能界に戻ってきたのか。私は、「歌が好き」とかいう以前に、一度華やかなスポットライトを浴びた人間がもっている”哀しい性”のようなものを感じてならないのです。彼女が、再びお人好しなファンを裏切らないことを願うばかりです。

そして、再デビュー曲の「夢やぶれて」のようなお涙頂戴ではなく、過去の栄光に負けないようなオリジナル曲で勝負するのを待ちたいと思いました。
2013.08.20 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
先日、新聞各紙につぎのような記事が出ていました。

週刊文春:上原多香子さんの記事 名誉毀損で賠償命令
 
 週刊文春の記事で暴力団関係者と交際しているかのように書かれ、名誉毀損されたとして、「SPEED」のメンバー上原多香子さんが発行元の文芸春秋側に計3000円の損害賠償などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は24日、110万円の支払いを命じた。
 問題となったのは、2011年9月15日号の「暴力団排除条例に狙われる『黒い芸能人』」とする記事の見出しと中づり広告。上原さんが、暴力団関係者が訪れる東京・西麻布の飲食店に出入りしている、という内容。
 畠山稔裁判長は「上原さんはテレビでこの飲食店を紹介した際に一度訪れただけで、暴力団と関わりがあるとはいえない」と指摘。(共同)
(毎日新聞 2013年07月24日 18時21分)


高級ラウンジ「西麻布迎賓館」のオーナーは、いわゆる闇社会とつながりが深いと言われる一方で、芸能界にも幅広い人脈をもっていた不動産会社社長(のちに競売妨害で逮捕・有罪判決)でした。それで、『週刊文春』が、日本テレビの「ヒルナンデス」で「西麻布迎賓館」をレポートした上原多香子をとりあげ、普段から「西麻布迎賓館」に出入りしていて、あたかも暴力団関係者と付き合いがあり、東京都でも施行された暴力団排除条例に抵触しているかのような記事を書いたのでした。

『文春』の記事に対しては、アクセスジャーナルの山岡俊介氏も、当初からなんの根拠もないただの憶測記事(人身攻撃)だと批判していました。たしかに、とかく噂のあった「西麻布迎賓館」を紹介するコーナーを企画した日本テレビがやり玉にあがるのならわかりますが、どうして日テレではなく上原多香子だったのかという疑問は残ります。

問題は『文春』だけではありません。こういった記事が出ると、それがJ-CASTニュースのようなミドルメディアに思わせぶりに紹介され、さらにネットのまとめサイトなどに転載、拡散されるのが常です。そして、「ネットこそ真実」と信じて疑わないネット住人がブログや掲示板などにコピペすることで、ターゲットにされた人間の負のイメージがネットでひとり歩きをはじめるのです。しかも、いったんネットにアップされると、Google でいつでも検索可能になり、永遠にネットで晒されることになるのです。

これがマスコミとネットの共犯によって生み出される”私刑”の構図です。現在はなんでも関東連合と関係があるかのように書く”関東連合ネタ”が盛んです。

オヤジ週刊誌が生み出すネットネタというのはお笑いでしかなく、なによりネット言論なるもののお粗末さを象徴していると思いますが、しかし、そこには笑って済まされない問題が存在していることもたしかです。

もっとも、『文春』にしても所詮は、団塊の世代とともに消えていくメディアにすぎません。こういうメディアは一日もはやく消えてもらうのが「世のため人のため」かもしれません。『文春』が消えたら、林真理子や小林信彦や伊集院静や中村うさぎやミドルメディアの編集者やまとめサイトの管理人や2ちゃんねるの住人は困るかもしれませんが、私たちはちっとも困らないのです。

それに忘れてはならないのは、『文春』は上原多香子や安藤美姫のスキャンダルはこれ見よがしに(でっち上げてでも)書くけど、林真理子や小林信彦や伊集院静や中村うさぎのスキャンダルや、「横田めぐみさんは誰か偉い人のお妾にされているに違いない」と放言した石原慎太郎氏の「お妾」スキャンダルを書くことは絶対にない、ということです。

いつもの『週刊文春』なら、石原発言に対して、<石原慎太郎「横田めぐみさん」「お妾」発言の裏でささやかれる 「銀座ホステス」「劇団女優」を「お妾」の過去>(やや週刊新潮風ですが)なんていうスカートの裾をめくるような記事が出てもおかしくないのですが、絶対に出ることはないのです。
2013.07.26 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
さる6月8日、「第5回AKB選抜総選挙」の開票イベントが、日産スタジアムで大々的に行われました。テレビでも生中継していましたが、私がなにより驚いたのは、朝日新聞の入れ込みようでした。

朝日新聞デジタルでは、次々と発表される順位を速報で掲載していて、まるでホンモノの総選挙の開票速報のようでした。しかも総選挙のあとは、選挙結果について、濱野智史氏(『前田敦子はキリストを超えた―<宗教>としてのAKB48』の著者)が、池上彰のように「総評」する熱の入れようでした。

また、総選挙の当日付けのWEBRONZAでは、佐藤優氏が「宗教現象としてのAKB48――「センター」に神を求め続けて」という文章を書いていて、そのなかで佐藤氏は、「吉本隆明氏の『マチウ書試論』のキリスト理解を導きの糸にして、AKB48を宗教現象として理解する」濱野智史氏の視点を、「神学的にとてもよいセンスをしている」と高く評価しているのでした。

しかし、佐藤氏の文章は、何事も「宗教(性)」ということばで解釈すれば、もっともらしく説明がつくという氏お得意の”手慰みの論理”でしかありません。佐藤氏の言う「貨幣の宗教性」とマルクス経済学が言う「貨幣の物神性」は、ことばの概念においてまったく異なる(似て非なる)ものですが、そういった初歩的な概念さえ混同する、実に粗雑で頓珍漢な文章です。AKBのことなんて何もわかってないのに、なんだか無理してAKBを語っているような感じです。

(略)前田敦子さんの「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という発言も、AKB48という宗教教団の集合的無意識を言語化したものだ。AKB48には、商業主義の中にこの利他性が埋め込まれている。それが他の芸能集団とAKB48を区別する重要な差異と思う。


「集合的無意識」とは、あのユングの集合的無意識? こういう文章には、「バカバカしい」ということばしか思い浮かびません。

一方、肝心なオタクたちは、今回の総選挙に対しては多分に冷めているのでした。数年前までは秋葉原のAKB劇場に通っていたような知り合いの(中年の)オタクたちに今回の総選挙のことを聞いても、気のない返事しか返ってこず、あまり関心がない様子でした。そりゃそうでしょう。数々のスキャンダルと露骨な炎上商法、そして河西智美や篠田麻理子らと運営会社の社長との「不適切な関係」疑惑(文春との裁判で、同じマンションに住んでいることや、混浴に行けば「一緒に入浴する仲」であることを、当の社長自身が証言しているそうです)をあれだけ見せつけられれば、冷めるなと言うほうが無理というものです。AKBブームが終わりつつあるのは、もはや誰の目にも明らかなのです。

にもかかわらず、この朝日新聞のはしゃぎっぷりはなんなのでしょうか。なんだか無理して若づくりしている周回遅れのオヤジのようです。フジテレビの軟弱路線を真似た挙句、気持の悪いカマトト女子アナばかり輩出して、視聴率競争でテレビ東京にも追い抜かれるほど凋落した”お堅いTBS”とよく似ています。

まさかこれで朝日新聞のイメージが向上して部数減に歯止めがかかり、あらたな購読者を獲得できると思っているわけではないでしょうが、総選挙がどうたらこうたらではなく、せめてAKBブームの裏にある芸能界の魑魅魍魎や児童ポルノとの関連を記事にするくらいの気概と見識をもってもらいたいものです。それがメディアのあるべき姿でしょう。AKBだけでなくアベノミクスでも(二大超大国が世界の覇権について話し合った歴史的な)米中首脳会談でも同じです。

貧すれば鈍するなのか、朝日新聞は部数減に浮足立ち、メディアとしての本来の役割を忘れているように思えてなりません。
2013.06.16 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
今日の朝日新聞に「官邸にキタノ」という見出しで、ビートたけしが安倍首相と並んで映っている写真が掲載されていました。

それは、「世界のたけし」が安部首相の肝入りで設置された「アジア文化交流懇談会」のメンバーに任命され、その第一回会合に出席した写真でした。排外主義的なネトウヨとの関係が取りださされる安倍首相が「アジア文化交流」とは悪い冗談だとしか思えませんが、それ以上にたけしが「有識者」として「政府委員」に任命されるなんて、まさに悪貨が良貨を駆逐する今の時代を象徴する光景のように思えてなりません。

原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)


前にも紹介しましたが、これは福島第一原発事故の前年に行われた原子力委員会委員長(当時)・近藤俊介氏との対談における、たけしの発言です。

彼は同じ対談で、「新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年のほうがマスコミ的にはウケがいい」「相変わらず原子力発電に反対する人もいるけど、交通事故の年間の死者の数を考えて自動車に乗るのを止めましょうとは言わない」などと言って、原発を懸念する声をヤユしていました。このようにたけしは、弟子の浅草キッドなどとともに、電事連ご用達の”原発芸人”と言ってもいいくらい、原発に関しては確信犯でした。

もとより彼の”毒舌”も、このような事大主義と背中合わせなものでしかありません。ベネチア映画祭など海外の映画賞にあれほど執心するのも(たけしが照れ笑いを浮かべながら映画祭から帰ってくる映像は、毎年の恒例行事のようになっていますが)、ひとえに自分の映画を権威づけたいからなのでしょう。そうやって「世界のたけし」の虚像がつくられたのでした。強いもの・大きなものにはヘラコラして、弱いもの・マイナーなものには”毒舌”を吐きこきおろす、それが彼の芸風にほかならないのです。

三國連太郎と被差別民の研究で有名な沖浦和光氏との対談集『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)のなかで、「支配文化」に対する「反文化」、「上層文化」に対する「下層文化」、「中央文化」に対する「周辺文化」の担い手であった芸能が、国家の庇護のもとに入ることについて、二人はつぎのように語っていました。

沖浦 権力のヒモが付いて国家の庇護下に入って、お上から勲章やゼニカネを貰って喜んでいると、そこから芸能の堕落が始まるのが世界の芸能史の通例ですね。
三國 やはり時代を主導する精神に疑問を抱き、既成の支配体制の矛盾を批判して、時代のあり方や人間の生き方を、飽くことなく追及していこうとする意欲 ― それをどう表現していくかという貪欲な意欲が、その時代を生きようとする芸人にとって本当に大事なんですね。
沖浦 そうです。地位が安定しフトコロ具合が良くなると、想像力や構想力もしだいに自由奔放性を失って、芸能表現の生命力が枯渇してしまうんですね。(略)
(「ヒモ付き芸能の堕落」)


たけしも浅草フランス座の「寄席的見世物」(沖浦和光氏)の出身です。だから逆に上昇志向が強いのかもしれませんが、あえて言えば、「河原乞食」なら「河原乞食」でいいじゃないかと思います。そんなに権力や権威にすり寄って偉ぶりたいのかと思います。偉ぶることが芸人にとってなにほどの意味があるのかと思います。技芸に生きる人間の、「河原乞食」としての矜持はないのかと言いたいのです。

フライデー事件で彼が干された際、志村けんがたけし軍団を援助したという”美談”(嘘八百)がネットで流布されているそうですが、実際は逆で、当時、「たけしが(闇社会に食い物にされて)かわいそうだ」という同情論さえあったのです。先述した『大阪府警暴力団担当刑事』にもたけしの名前が出てきますが、事件をきっかけに右翼の街宣のターゲットになったたけしに対して、その筋のある人物(故人)が”後見人”になることで、ことを収めたそうです。右翼の高名な活動家が参院選に出馬した際、麻布十番で行われた会見の場に、横山やすしとともにたけしが同席しているのを見て、私も奇異に思ったことを覚えています。

たけしの任命が自民党のマスコミ対策であることは明白ですが、「TVタックル」のような”時事討論番組”の司会者が「政府委員」に任命されてもなお、彼を司会者として登用しつづけるテレビ局の見識も問われて然るべきでしょう。

「官邸にキタノ」なんて、能天気にオヤジギャクを言ってる場合じゃないのです。

>> 酒井法子の復帰と芸能界
2013.04.20 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
昨日、たまたまテレビを観ていたら、オセロの中島知子がテレビ朝日の番組に出演していて、一連の騒動の”真相”をみずからの口で語っていました。

彼女によれば、マインドコントロールなんてまったくの絵空事であって、家賃滞納は世間知らずのわがままと浪費癖が原因で、その背景には相方(松嶋尚美)や会社(松竹芸能)との確執があったと言うのです。

もちろん騒動の当事者の発言ですから、ある程度割引いて考える必要はあるでしょうが、私自身もちょうど1年前に、マインドコントロールに疑問を投げかける記事を書いていましたので、放送を観てやっぱりと思うところはありました。

それにしても(彼女の話を割り引いても)、報道と今回の「激白」の間にはあまりにも落差がありすぎるのです。もしマインドコントロールが絵空事であったなら、芸能マスコミの”暴走”などといったレベルを越えて、もはや2ちゃんねるなどと同質の”言論の犯罪”と言われても仕方ないでしょう。

この国が総理大臣を先頭にカルト化している現実が、ここにも表れているように思います。既存のマスコミとネットは、一見対立しているかのように見えますが、実はカルト化する現実のもとでは見事なくらい共犯関係にあるのです。生活保護叩きや尖閣や竹島問題など、マスコミとネットの結託はいろんなところで見られますが、この騒動もそのひとつと言ってもいいでしょう。ネットとマスコミによる”捏造される真相”のカラクリを知る上でも、この騒動は格好のサンプルになるように思います。

もちろん、これで中島知子も無事芸能界復帰というわけにはいかないでしょう。むしろ逆に、芸能マスコミによる中島知子叩きはエスカレートしていくのではないでしょうか。なぜなら芸能マスコミは、”捏造される真相”をこれからも糊塗しつづけなければならないからであり、さらにそこに芸能界のオキテを破った中島に対して制裁を科す松竹芸能の意向もはたらくからです。哀しいかな、中島知子も「言ってることが変だ」「辻褄が合わない」とかなんとか難癖をつけられて、”狂人”扱いされるのがオチでしょう。

怖い、怖い、芸能界。所詮やくざな人買い稼業でしかない芸能界。芸能界は、カタギが足を踏み入れてはいけない”特殊な”世界だということをあらためて痛感させられます。

>> マインドコントロール
2013.03.30 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
先日、若い子に「あのきゃりーぱみぱみだけどさぁ~」と言ったら、「きゃりーぱみぱみではなく、きゃりーぱみゅぱみゅですっ」と訂正されました。

このように未だ正確に名前も言えないおじさんですが、テレビできゃりーぱみゅぱみゅ(この部分はコピーして貼り付けています)を見るにつけ、なんだか痛ましささえ覚えてならないのです。きゃりーぱみゅぱみゅは、文字通り”お人形さん”という感じですが、しかし、それを演じているのは、(年齢にサバを読んでないのなら)れっきとした二十歳前の多感な年代にある女の子なのです。

さすがに最近は、その奇抜なファッションと大人になりつつある容姿の間にギャップが生じはじめているような気がしないでもありませんが、それより私が気になるのは、彼女のあのどこか悲しげな目です。

AKBもそうですが、きゃりーぱみゅぱみゅも、売れている間に仕事を選ばずとことん稼がさせようという事務所の思惑がミエミエで、ホントにいろんなところで見かけます。ケーブルテレビのマイナーな番組にレギュラー出演しているのを見て、こんなところにも出ているのかとびっくりしたことがあります。

きゃりーぱみゅぱみゅも、AKBの大島優子と同じように、12歳のときにロリコン向けDVDにスクール水着で出演した”過去”があるそうです。「ジュニアアイドル」と言えば聞こえはいいですが、その手のDVDが、建前はともかく本音では、小児性愛の特殊な大人たちをターゲットにして制作されていることは間違いないのです。

つまり、お金のために(?)、まだ物心もつかない小学生の彼女を、ロリコンたちの舌舐めずりするような淫靡な視線にさらした保護者や業界関係者が彼女の後ろにいたということです。おそらくそれは今も変わらないのでしょう。勝手な想像ですが、そのこととあの悲しげな目は本当に関係がないのだろうかと思います。

児童ポルノの規制に関しては、表現の自由との兼ね合いでさまざまな意見がありますが、同性愛者向けの男児のビデオも含めて、背景に変態、いや、”特殊な性癖”をもつ人間たちの市場があり、そのために子どもたちが犠牲になっている現実があるということを忘れてはならないでしょう。

もとより芸能界も「特殊な」世界で、カタギにはとてもできない仕事です。それはAKBも「ジュニアアイドル」もきゃりーぱみゅぱみゅも例外ではないのです。そして、なによりAKBに代表されるようなアイドル商法が、児童ポルノと背中合わせであるということも忘れてはならないでしょう。

>> 峯岸みなみの丸刈り謝罪
2013.03.14 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
大阪市立桜宮高のバスケット部員の自殺や女子柔道の有力選手たちの告発などをきっかけに、にわかに問題が表面化した体罰問題に対して、多くの識者がさまざまな意見を述べていますが、そのなかで意外にも、と言ったら失礼かもしれませんが、元ラグビー日本代表の大八木淳史さんの発言がいちばんこの問題の本質を衝いているように思いました。

大八木さんは、毎日新聞のインタビューにこう答えていました。

「体罰の歴史と目的を理解しないと。体罰は明治時代以降の富国強兵に使われた。目的は強い軍隊、つまり国益。では今は? スポーツ関連の国家予算を見ればわかる」
「競技スポーツ、つまりメダル獲得プロジェクト。これも国益やないですか。富国強兵時代と一緒。国益や学校のブランド力のためのスポーツだから体罰が生まれる」
(毎日JPより 毎日新聞 2013年03月06日東京夕刊)
特集ワイド:愛ある体罰「ないですわ」 ラガーマンで教育者、大八木淳史さんが語る


大八木さんが言うように、スポーツが国益や学校の経営と結びついたところから、今のスポーツ界のゆがんだ体質が生まれたというのは、その通りでしょう。そもそもスポーツの成り立ちやその伝来は軍隊と切っても切れない関係にあると言われますが、とりわけスポーツの勝利至上主義は、安倍首相の「強い国」思想に代表されるような国粋主義とパラレルな関係にあると言ってもいいでしょう。

私は、高校に「体育科」やスポーツ推薦制度があって、勉強よりスポーツを優先するような教育が行われていること自体、間違っているように思えてなりません。まして甲子園に出場するために全国から選手を集めているような”強豪校”は論外です。

勉強がすべてではないことは言うまでもありません。勉強ばかりやって頭でっかちにになるのもたしかに問題です。ただ、彼らはまだ高校生なのです。少なくとも高校生ぐらいまでは、勉強ができるかどうかは二の次にしても、まず勉強することを優先すべきではないでしょうか。

勉強しないでスポーツばかりすることが「個性を伸ばす」ことになるのでしょうか。勉強というのは、内田樹氏が言うように、経済合理性でははかれないものだし、功利的なものの考え方からみれば、まったく役に立たない「無駄なもの」かもしれません。でも、デッサンの基礎がないのに、思うがままに絵を描いても、それを「個性」とは言わないし芸術とも言わないのです。

ナショナリズム(愛国)の裏には必ず国家を食い物にする思惑とその構造がありますが、競技スポーツの勝利至上主義の裏にも、全柔連にみられるように、組織や学校を食い物するする思惑とその構造が伏在しているのです。女子柔道の選手たちが、全柔連の組織のあり方そのものに疑問を投げかけているのは当然です。それになにより男子選手ではなく女子選手たちが体罰を告発したというところに、体罰問題の本質が表れているように思います。

今回の告発がオリンピック誘致に大きなダメージになったという声がありますが、それこそスポーツを政治に従属させる国益優先の考え方の最たるものでしょう。そして、その裏にも国家を食い物にする思惑とその構造(オリンピックでひと儲けしようという思惑とその構造)があるのです。もとより、大八木さんが言うように、競技スポーツだけがスポーツではないはずです。

それに、もうひとつ大きな問題は、体罰にも虐待と同じように、先輩から受けた体罰を後輩に同じように行う、いわゆる世代連鎖の問題があるということです。体罰を行う者と体罰を受ける者との間に、絶対的な支配服従関係が存在するのは言うまでもありませんが、そういった関係性のなかにいれば孔子や孟子でもない限り正常な倫理観がマヒしていくのは当然ではないでしょうか。桜宮高校の顧問教師のなかに、人を服従させるサゾヒスティックな快感がまったくなかったとは言えないでしょう。そして、体罰はさらにエスカレートしていくのです。

昔、菅平でのラグビーの夏合宿をみたイギリスの指導者は、「crazy!!」と叫んだそうですが、日本のスポーツ界に深く根をおろす体罰やしごきは、会社のなかにも軍隊的規律の残滓が未だに宿る日本社会の”後進性”を映していると言えなくもないのです。石原慎太郎や橋下徹などは、今でこそ口をぬぐっていますが、かつては体罰やしごきを容認する発言をくり返していました。その根底には、軍隊的規律で国民を支配し国家を統治しようという彼らの国粋主義的な考え方があったのはたしかでしょう。

>> 『下流志向』
2013.03.09 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
かぞくのくに


新宿のテアトル新宿で、「かぞくのくに」(ヤン・ヨンヒ監督)を観ました。

ウェブサイトに「2012年インディペンデント映画を代表する一作」というキャッチコピーがありましたが、そのコピーどおり、第86回キネマ旬報ベスト・テンにおいて日本映画ベスト・テン第1位に選出され、同時に主演女優賞(安藤サクラ)を受賞した作品です。その他、第55回ブルーリボン賞(作品賞、主演女優賞、助演男優賞)、第67回毎日映画コンクール(脚本賞)、「映画芸術」2012年日本映画ベストテン第1位、第62回ベルリン国際映画祭(国際アートシアター連盟賞)など数々の映画賞を受賞。文字通り2012年の日本映画を代表する作品と言ってもいいでしょう。また、受賞は映画賞だけにとどまらず、第64回読売文学賞でも 戯曲・シナリオ賞が与えられ、文学的な視点においてもヤン・ヨンヒ監督の脚本が高く評価されたのでした。

映画は昨夏に公開されたのですが、あいにく私は見逃していたので、今回受賞記念のアンコール上映を機に観に行ったのでした。平日の午前でしかも再上映にもかかわらず、上映前から受付に行列ができるほど多くの観客がつめかけていました。

ストーリーの大半は、ヤン・ヨンヒ監督の家族の実話に基づいているそうです。そのあたりの経緯については、アジアプレスのウェブサイトに掲載されているヤン・ヨンヒ監督のインタビューで詳しく語られています。

ヤン・ヨンヒ監督はもともとドキュメンタリー映画出身で、帰還事業で北朝鮮に帰国した3人の兄とその家族を撮った「ディア・ピョンヤン」や「愛しきソナ」で知られていますが、この「かぞくのくに」は、そんな生涯のテーマをフィクションの手法をとることでさらに飛躍させ、「ついにやったか!」と言いたくなるような、生まれるべくして生まれた映画だと言えます。

隣に座っていた若い女性の観客も、上映中しきりに涙をぬぐっていましたが、「政治に翻弄された」という常套句で言い表せないような、悲しくてやりきれない映画です。この映画が低予算のため、わずか2週間で撮られたというのは驚きですが、名作というのは、予算や期間に関係なく生まれるべくして生まれるもんだなとあらためて思いました。

なにより主演の井浦新(兄ソンホ)と安藤サクラ(妹リエ)の演技が光っており、この映画の質をより高めているように思いました。特に安藤サクラの個性が際立っていました。安藤サクラは、昨年度の各映画賞で主演女優賞と助演女優賞を総ナメして、一気に女優としての評価を高めましたが、おそらく「かぞくのくに」は彼女にとっても記念碑的な作品になるのではないでしょうか。

北朝鮮に帰国していた兄ソンホが25年ぶりに帰ってきた。それは頭にできた腫瘍を治療するためでした。「総連」(映画では「同胞協会」)の活動家である父親と喫茶店をやって家計を支える母親が、5年かけて働きかけやっと実現した「一時帰国」でした。しかし、その帰国には監視役のヤン同志が同行し、帰国中も常にソンホの行動に目を光らすのでした。

滞在予定は3ヶ月でした。それでも診察した医師からは、3ヶ月では責任を持てないと手術を断られます。両親は本国にかけあえば6ヶ月くらい延ばせるのではないかと考えるのですが、そんな淡い期待を打ち砕くように、突然「明日帰国するように」という命令が下されるのでした。6ヶ月どころか3ヶ月の予定がわずか2週間で打ち切りになり、怒り悲嘆する家族たち。でも、ソンホだけは「こういうのはよくあるんだよ」と淡々とそれを受け入れます。「理由は?」と問う妹に、ソンホは「理由なんてない。あの国に理由なんて何の意味もない」と答えます。

通りかかった店でシルバーのスーツケースをみつけて、妹に「お前は、そういうのを持って、色んな国に行けよ」という兄。この映画には、こういった胸をしめつけられるようなセリフが至るところに出てきます。

「考えずにただ従うだけだ。考えると頭がおかしくなる」
「考えるのはどう生き抜くかだけだ」
「あとは思考停止。楽だぞ~、思考停止は」

こんなセリフに込められたソンホの現実。私たちは、同じようなセリフを拉致被害者の蓮池薫さんからも聞いた覚えがあります。それは、「あなたもあの国も大っ嫌い!」と監視をなじる妹に対して、ヤン同志が放った次のセリフにも重なるものでした。

「私にも家族がいますし、お兄さんにも家族がいます」「あの国で、私もあなたのお兄さんも生きているんです。死ぬまで生きていくんです」

16才で単身北朝鮮に渡ったソンホは、帰国船に乗る寸前、新潟の赤十字センターで見送りにきた叔父に、「ここで行くのをやめたらアボジに迷惑がかかるだろうか」と言ったそうです。その話を初めて聞かされ、父親はもちろん母親も妹も、ただ首をうなだれて涙を流すしかないのでした。

朝鮮人である限り、日本では差別され仕事もなく希望もない。子供の将来のためには、祖国に帰るのがいちばんだと親が考えたとしても、誰も非難はできないでしょう。ただ一方で、帰国者が「社会主義建設」という美名のもとに、一種の”人身御供”のように扱われたこともたしかです。そうやって彼らの受難の人生に、祖国が独裁国家であったという悲劇がさらに追い打ちをかけたのでした。

そのソンホにも北朝鮮に家族がいます。家族のためにも、さまざまな思いを胸の奥にしまい、口を閉ざすしかないのです。妹に工作員(スパイ)にならないかと誘ったのも、そう言わせられる(言わなければならない)祖国のむごい現実があります。そうやってすべてを諦観し、「凍土の共和国」での過酷な人生をこれからも生きていくしかないのです。

やせ細った息子の写真を見て以来、喫茶店の売上から小銭をためてはそれを北朝鮮の息子に送金する母親。一方、「地上の楽園と言われた国の人間が、栄養失調だったなんてね」と皮肉を言う娘。これは多くの在日が見聞きし実際に経験している現実でしょう。でも、ヤン・ヨンヒ監督が言うように、一方でそれを日本人から言われたくないという気持も朝鮮人のなかにはあるのです。

「じゃあ公の場で自分で先に言えってことですよ。でも、飲み屋で愚痴ってるだけ」「総連が情けないんですよ、はっきり言うて」というヤン・ヨンヒ監督のことばは、今の若い在日の多くが共有する気持でもあるのかもしれません。

個人的な話になりますが、私は、このインタビューを読んで、昔親しくしていた女性とヤン・ヨンヒ監督が重なって見えて仕方ありませんでした。そして、やはり同じような視点で在日の本音を描いた「月はどっちに出ている」(崔洋一監督)を彼女と一緒に観たことを思い出しました。

拉致問題がまだ公になる前でしたが、当時、私もこの映画の背景にあるような話を聞いたことがあります。ただ、金日成の誕生日の「プレゼント」として(!)、朝鮮総連が指名した朝鮮大学の学生たちが半ば強制的に帰国させられた話や、自分の進路を総連に委ねる「組織委託」の強要が朝鮮学校で行われていたという話は初耳でした。まったくヤン・ヨンヒ監督ならずとも「ヒットラー顔負けやん」と言いたくなるような蛮行と言わねばなりません。朝鮮総連や朝鮮学校が指弾されるのも当然でしょう。

ただ(と言うべきか、「だからこそ」と言うべきか)私たちは、(北朝鮮に限った話ではないですが)その国が好きだ嫌いだとかいう前に、まずその国で生きる(生きていかざるをえない)人間を見るべきで、そういった政治と一線を引いた視点をもつことがなにより大切ではないかと思うのです。何度も同じことをくり返しますが、坂口安吾が言うように、人間というのは政治という粗い網の目からこぼれおちる存在なのです。それは、北朝鮮の国民であれ在日であれ日本人であれみんな同じなのです。

ヤン・ヨンヒ監督は、朝鮮総連の幹部だった父親に焦点を当てた「ディア・ピョンヤン」で、北朝鮮当局の逆鱗に触れ入国禁止になっているのですが、それでも映画を撮りつづける”覚悟”について、次のように語っていました。

(前略)昔はとてもじゃないけど、「兄貴たちに迷惑がかからないように考慮して作ってます」としか言えなかったけど、最近は変わりました。申し訳ないけど、家族に迷惑かかっても作ります。オッパ(=お兄ちゃん)たちが収容所に入れられますけど、どないしますか?って言われたとしても、やっぱり、私、やめますって言わないと思う。だってそこでやめたら、オモニらと一緒になるんですよ。もうええやんそれは、そんな時代は終わりにしようって本当に言いたい。そのためには、まだ何人犠牲になるか分からないけど。


兄がお気に入りだったリモアのスーツケースを引いて交差点を渡る最後のシーンにも、ヤン・ヨンヒ監督の”覚悟”が表現されているように思いました。”覚悟”があるからこそ、この映画が私たちの胸を打つのでしょう。


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「かぞくのくに」予告編
2013.02.28 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
自宅軟禁でヒマなので、再びAKBネタを。

今週発売の『週刊文春』(2月14日号)に、今度は柏木由紀の「深夜に合コン」の記事が掲載されるのだとか。オヤジ週刊誌の『文春』がこうやってつぎつぎとAKBを狙い撃ちしているのは、なにか裏があるのだろうかと勘繰りたくなります。

個人的にはAKBのなかでは柏木由紀がいちばんのお気に入りでしたので、「ブルータス、お前もか」という心境ですが、ただ、若いオスとメスがお互いを求め合うのは、動物としては自然な欲望であり当然の行為です。まして彼女たちは、「シロウトのお嬢さま」ではないのです。

「恋愛禁止」なんてオキテを作ったがために、逆に合コンしただけで「スクープ記事」になるような状況を招来したわけで、これでは痛し痒しではないのか。

・・・と考えるのは、既にAKBの術中にはまっているのかもしれません。お泊りデート発覚、移籍や降格、といった一連の「処分」もすべて計算されたものかもしれないのです。「炎上商法」という言い方があるそうですが、記事にインパクトがなくなって騒がれなくなるのをいちばん恐れているのは、ほかでもなくAKBの背後にいる「人形使い」たちかもしれません。

そう考えれば考えるほど、「ショックだ」「裏切られた」とか言って騒いでいるファンはキモいし”異常”だと言わざるをえません。妄想と現実をはき違えて、「ぼくたちのユキリン」なんて本気で思っているのだとしたら、それはもはやカルトと呼ぶしかないでしょう。

オウム真理教事件から20年、「オウムは怖い」などとオウムを特別視する見方とは裏腹に、カルトと一般社会の融合は進み、今やカルト(的要素)がビジネスにまでも利用されるようになったのです。その先端にいるのがネットとオタクです。

そして、その背後には『物語消費論改』で大塚英志が指摘した「旧メディアのネット世論への迎合」、つまり「マスゴミ」とネットの結託とも言うべき状況があるのです。それは、AKBだけでなく、「尖閣」でも「竹島」でも「ナマポ」でも同じです。「カルト化するニッポン」というのは、決してオーバーな話ではないのです。その象徴としてAKBがあるのかもしれません。
2013.02.05 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
AKB48の峯岸みなみの丸刈り謝罪について、「識者」と称する人たちが「恋愛禁止は人権侵害だ」なんてのたまっているのを見るにつけ、思わず目をおおいたくなりました。相手の白濱亜嵐に「丸刈りにしないんですか?」と問いかけた東スポの記者同様、AKBをめぐる話題になると、なぜかみんな醜態をさらしてしまうようです。『前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48』(ちくま新書)なんて本を書いた濱野智史も然りです。そこには時流におもねる能天気であざとい心根しか感じられません。それがいわゆる「ゼロ年代批評」の特徴でもあります。

AKBはアイドル商法だと言われますが、それを言うならむしろオタク商法と言うべきでしょう。

女性に縁のないオタク相手に商売をするのですから、表向き恋愛をご法度にせざるをえないのは、営業上当然かもしれません。非モテのオタクたちにひとりで100枚も200枚もCDを買わせるには、それは最低限のオキテなのでしょう。私には、そのオタク商法の”異常さ”を誰も指摘しないのが不思議でなりません。丸刈りが異様に見えるのは、なによりそれがオタク商法だからです。

一方で、以前『週刊新潮』が、AKBの活動資金には振り込め詐欺のお金が使われていたというような記事を掲載して、秋元康から抗議を受けましたが、そういった芸能界の裏人脈からこの問題を考えることも無駄ではないかもしれません。

AKBというのは、気をもたせてお金を巻き上げる、キャバクラみたいなものです。AKB加入前の大島優子が、ロリコン向けの”ジュニアアイドル”として、ブルマーやスクール水着でマニア雑誌のグラビアに出ていたのは有名な話ですが、AKBの「恋愛禁止」も、そうやってオタクたちの”ゆがんだ劣情”を商売に利用していると言えなくもないのです。「恋愛禁止」を重要なコードとして機能させるには、カルト的要素は不可欠で、それがオタク商法の”異常さ”につながっているのだと思います。

ヤンキーとロリコンは、芸能界にとって不滅のキャラクターです。女子高生を買春したりスカートのなかを盗撮すればただの犯罪ですが、ロリコンのアイドルに妄想の世界で”疑似恋愛”するのは、巨万の富を生むビジネスになるのです。その違いは紙一重と言ってもいいでしょう。そう考えれば、この騒動から見えてくるものがあるのではないでしょうか。
2013.02.03 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
中村勘三郎さんの葬儀には1万2千人が参列して別れを惜しんだそうです。また、平成中村座の公演を行ったゆかりの地・浅草では、三社祭りのお神輿が出て、葬列を見送ったのだとか。

葬儀の会場では、家族と旅行した際のプライベート映像も流れていたそうですが、そう言えば、数日前に特番で放送されたドキュメンタリー番組でも、湯布院に旅行したシーンが出ていました。

歌舞伎という伝統芸の継承を義務づけられた梨園の御曹司たちも、それはそれで苦悩はあるのかもしれませんが、しかし、生まれついて仕事は保障されているし、生活の心配もないし、プライベートではおもしろおかしく生きることも可能で、はたからみるとうらやましくもあります。

元来、歌舞伎者というのは、「河原乞食」と蔑まれ、天下の往来では編笠をかぶって歩かなければならないような被差別の存在でした。住居も、一般庶民から「暗所」とみられていたようなマージナルな区域に限られていました。でも、今はまったく逆に、梨園はセレブの代名詞のようになっています。

一方で、誰にも看取られることもなく、郊外の福祉専門のような病院でひっそりと息をひきとる老人たちもいます。もちろん、葬儀なんて望むべくもありません。

病院に入院して、もう二度と娑婆に戻ることが叶わないとわかれば、アパートも解約され、そのあとは福祉専門の病院を転々としながら死を待つことになるそうです。

「亡くなったとき、持ち物が紙袋や段ボール箱がひとつかふたつしかないケースが多く、それをみるとよけい悲しくなりますよ」と言っていた医療関係者がいました。故人が眠るベットの横に、全財産が入った紙袋や段ボール箱がぽつんと置かれた病室を想像すると、なんと悲しい光景なんだろうと思います。1万2千人のなかでひとりでもいいから、涙を流してくれる人はいないのかと思います。

築地本願寺で盛大に葬儀が執り行われる梨園の御曹司でも、段ボール箱ひとつを残して亡くなっていく老人でも、同じ日本人です。日本を愛するというのは、みんな同じ日本人じゃないかという気持を共有することではないでしょうか。

新しい政権が言う「日本」や、ネットで飛び交っている「日本」には、福祉専門の病院で人知れず亡くなっていく老人たちは入ってないかのようです。それどころか、そういった老人たちのために使われる医療費は「無駄金」みたいな考えすらあるように思えてなりません。

どうしてこんなに冷たい国になったんだろうと思います。しかも、「愛国」の声が大きくなればなるほど、冷たい国になっていくような気がしてならないのです。
2012.12.28 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
Crossfire Hurricane

夜中にふと目が覚めたら、つけっぱなしになっていたテレビ(フジテレビ)で、ローリング・ストーンズ結成50周年記念の公式ドキュメンタリー映画「Crossfire Hurricane(クロスファイアー・ハリケーン)」をやっていたので、いっぺんに目が覚めてしまいました。

「Crossfire Hurricane」は、先月、1週間限定で全国で上映されたばかりなのに、もうテレビで放映されるとはびっくりですが、これも来週のDVD発売に合せた企画なのかもしれません。

映画では、主に60年代から70年代のストーンズの活動を丹念に追っていましたが、ただあくまで「公式」のドキュメンタリー映画なので、たとえば、コアなストーンズファンが指摘しているように、ブライアン・ジョーンズの脱退についても、メンバーの口からは当たり障りのない”公式な発言”しか出てこないなど、やや物足りない部分もありました。

ローリング・ストーンズと言えば、どうしてもクスリと暴力のイメージがつきまといます。ビル・ワイマンはバンドを脱退する理由として、「クスリから家族を守りたかった」と発言していましたが、この映画でもその場面がふんだんに出てきます。なかでもキース・リチャードのヤク中ぶりが際立っていましたが、それは、ミック・ジャガーが「キースが車を運転するのはやめてほしいと思っていた」「家に帰っても事故の電話があるんじゃないかといつもビクビクしていた」と言うほどです。やがてキースは、大量のヘロインを持ち込んだ罪で、カナダの警察当局に逮捕・拘留され、それを機に精神療法によってヤク中から脱出する決意をするのですが、映像は逮捕のシーンからいっきに2006年の「Shine a Light(シャイン・ア・ライト)」のコンサートシーンに飛んで、好々爺になったかのような60代の彼らが登場して終わるのでした。

1969年、サンフランシスコ郊外のオルタモントでのコンサート(このコンサートでは4名が死亡したと言われています)で発生した刺殺事件、いわゆる「オルタモントの悲劇」に至る会場の殺気立った異様な雰囲気からは、60年代後半のヒッピー文化に代表される時代の緊張感(ハチャメチャぶり)がひしひしと伝わってきます。私は、それをみて、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が『群像』新人賞を受賞した際の選評で、埴谷雄高が言っていた「ロックとファックの時代の汚なさの美学」ということばを思い出しました。60~70年代初頭にかけてのローリング・ストーンズは、まさに存在自体がスキャンダラスだったのです。

私は、この映画をみているうちに、もしかしたらネットのない時代のほうが自由だったのかもしれない、なんて思ったりしました。折しも愚劣な政治の八百長ゲームがはじまりましたが、どうして現代の若者は、あんなにみずからすすんで愚劣な政治や国家に拝跪したがるのでしょうか。そして、どうしてわざわざ自分で自分の生き方を窮屈なものにしなければならないのかと思います。それが「ヘタレ」と言われるゆえんですが、まるでネットに囲い込まれることによって、ただ国家に愛されたいだけのいじましくも哀しい飼い猫になったかのようです。

この映画には、ストーンズのメンバーだけでなく、当時のファンの若者たちも含めて、私たちが久しく忘れていた、国家や時代を逸脱する(逸脱せざるをえない)魂が描かれているように思いました。年寄りじみた言い方になりますが、若者というのはもともとそういう逸脱する存在だったはずです。そこからあたらしい文化や風俗も生まれたのです。その意味では、若者が若者でなくなった今の時代のほうが”異常”だと言えるのかもしれません。

>> 「シャイン・ア・ライト」
>> ローリング・ストーンズ
2012.12.05 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
今日、渋谷の本屋に行ったら、朝日文庫の『松田聖子論』が復刊されていて、ちょっとびっくりしました。著者の小倉千加子氏が、『文藝春秋』の2012年8月号に書いた文章(第4章・あなたに逢いたくてー東アジアの女系家族)があらたに追加され、「増補版」となっていました。

文庫の発売から23年(単行本の発売から25年)、『松田聖子論』が復刊されるほど、今また松田聖子に関心が寄せられているというわけなのでしょうか。

『文藝春秋』の文章もそうですが、やはり三度目の結婚というニュースが大きいのかもしれません。ただ、私自身は、前の記事(『松田聖子論』)でも書いたように、木嶋佳苗被告の事件も無関係ではないように思うのです。

木嶋佳苗被告に関しては、前の記事のくり返しになりますので、言及するのは避けますが、次のような文章を読むにつけ、私は、木嶋佳苗被告が、バッシングされる松田聖子を「好きだ」と言った理由がよくわかるのです。(以下、引用はすべて第4章からです)

 度重なる不倫騒動、そして神田正輝との離婚という激動の三十代を経て、本人は辛かったでしょうが、聖子はますます輝いていきました。現在ではスキャンダルを超越した存在にまで到達したといってもいいでしょう。
 これだけのスキャンダルにまみれても、彼女が潰れなかったのは、女性という生き物が他人の視線の数で自己の存在を確認する生き物だということをよく理解しているからです。バッシングによって一時、雲隠れしても、しばらくするとフラッシュを浴びたくなる自らの性質を自分で分かっているのです。
 男性は、社会的地位、家柄など自己確認できるものはありますが、現代の女性は他人の視線なしに自信を持つことが難しいのです。まして芸能界にいる女性なら尚更です。


小倉千加子氏は、松田聖子は美空ひばりのような国民的歌手になっていくのではないかと書いていましたが、美空ひばりの頃と違って、もはや「国民的歌手」なんて存在する時代ではありませんので、いくらなんでもそれは買い被りというものでしょう。

それよりも、やはり、現代の母娘関係における松田聖子の存在のほうがよりリアルな気がします。それは、次のようなものです。

 今の日本の母親たちの最大の問題点は、娘に依存しないと生きられないということです。これが娘の晩婚化の最大の原因になっているといってもよい。だから娘の自立を恐れるという感情が強い。夫に何も期待できない五十歳前後の母親にとって、幸せになるために必要なのは自立するための経済力と娘の自立です。
(中略)
 多くの母親は、娘に恋人ができて結婚が近づくと、「しなくていいわよ」と本能的に動いてしまう。しかし聖子の場合、娘の自立=結婚を妨げようとする必要はない。なぜから彼女はワーキングウーマンとして経済的に自立しており、女性としての資源を身に付けているからです。


「身体は嫁いでも心は実家に置く」娘。「将来は介護士にもなりうる」娘。そういう娘にとっても、あるいは、そうやって娘に頼って(娘を縛って)生きていかざるをえない母親にとっても、松田聖子は自分たちができないことをやってのけるあこがれの存在なのでしょう。ポイントは単に経済的な自立だけのような気もしますが、女性の人生にとって、それがいかに大変かをいちばんよくわかっているのも女性なのです。

同時代的に松田聖子に喝采を送った世代の女性たちの関心が、最近、韓流スターに向いているのがやや気になりますが、ワンレン・ボディコンを謳歌した女性たちにとって、でも、日本的土着性から自由になれなかった女性たちにとって、女性性を逆手に自分の手で時代を切りひらいていった松田聖子が、いつの時代も輝いて見えるのは当然でしょう。

ただ、小倉千加子氏も書いているように、今回の(三度目の)結婚にいくらか守りが入っている感はなきしもあらずで、結婚でどう変わるのか、今までどおり輝きつづけることができるのか、ファンならずとも興味があります。「ただのおばさんになりたい」なんて言い出さないことを願うばかりですが、いづれにしても、これほどまでに時代と世代を越えて女性たちに影響を与えつづけてきた松田聖子が、日本のアイドルのなかで傑出した存在であることは間違いないでしょう。

>> 『松田聖子論』
>> 松田聖子という存在
2012.09.22 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
酒井法子が12月に舞台で芸能界復帰することになったそうです。本人は、「罵声を浴びてもかまわない」と言っているそうですが、介護の仕事だったら罵声を浴びることはないのに、どうしてそこまで芸能界にこだわるのでしょうか。なんて言うのは、カマトトというものでしょう。

芸能人というのは「普通」ではないのです。吉本隆明が芸能界のことを「特殊××」と言ったら、差別発言だとして人権団体から抗議されたそうですが、やはり彼らは「特殊」なのです。私たちの感覚とは違うのです。一度でもスポットライトを浴びて生きてきた人間は、なかなかそんな生活から抜けだせないのでしょう。

一般社会なら、覚せい剤の常習者でクスリをぬくために逃亡したような人間が、職場に復帰するなどあり得ないでしょう。それがあり得るのが芸能界で、芸能界が「特殊」な世界であるゆえんです。なんだか酒井法子を通して、あらためて芸能界とはなにか、芸能人とはなにか、ということを考えさせられた気がします。

私は、芸能界という「特殊××」にいながら、一般社会に対して偉そうに説教を垂れたり、市民的な価値観を口にして善人ぶる手合いが嫌いです。社会の底辺で技芸に生きている身でありながら、「分をわきまえず偉ぶる芸人」(竹中労)が反吐が出るほど嫌いです。それは差別ではありません。「河原乞食」なら「河原乞食」でいいじゃないかと思うのです。市民社会の公序良俗とは別の価値観で生きる「河原乞食」の矜持はあるはずです。そして、砂を噛むように味気ない私たちの日常に、慈雨のようなすぐれた技芸をみせてくれるのが彼らのあるべき姿で、であるからこそ私たちは、彼らに対して、その技芸に対して、心から拍手喝さいを送るのです。

「河原乞食」がいやなら芸能人をやめればいいだけの話です。「河原乞食」であるからこそ、彼らはベンツやポルシェなど高級車を乗りまわし、シャネルやプラザなどの高価なブランドで身を飾り、田園調布や成城に豪邸を構えることができるのです。しかし、世間の人々から羨ましがられたり妬まれたりすることはあっても、尊敬されることはありません。芸能人は所詮芸能人なのです。プライバシーを暴かれ、あることないこといちいち芸能マスコミに書きたてられ、そのたびに世間の好奇の目に晒されるのです。一方で彼ら自身も、ときにプライバシーを切り売りして、それを飯のタネにすることも厭わないのです。文字通り、彼らは、真正なことばの意味において、やくざな存在なのです。どんなに成金な生活を送ろうとも、社会の底辺で技芸に生きることには変わりがないのです。そして、そういった「河原乞食」としてのみずからの存在を自覚し、それに徹しようとする者だけが一流の芸人(芸能人)たり得るのです。それがいやなら芸能人をやめればいいだけの話です。

酒井法子が芸能人をやめられないのも、彼女を利用しようというまわりの思惑もあるのでしょうが、なにより彼女自身が「普通のお嬢さま」ではないからでしょう。いわばカタギではないからです。彼女がどれだけの技芸の持ち主かわかりませんが、だったらこれから「罵声」をはね返すような「河原乞食」の気概と技芸をみせるしかないのです。世間に身を晒して芸能界で生きるには、それしかないのです。

>> 魔性
>> 「介護の勉強がしたい」
>> 酒井法子の芸能界復帰
2012.09.21 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
松田聖子論

小倉千加子著『松田聖子論』(朝日文庫)を久しぶりに読み返しました。文庫のあとがきが1995年8月、単行本のあとがきが1989年1月7日ですから、もう25年前の本になります。

どうしてこの本を読み返そうと思ったのかと言えば、いわゆる首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗被告が、中学生のとき、「松田聖子の歌も好きだけど、彼女が女性週刊誌で悪口を言われているところも好きだ」「小倉千加子さんも好きだ」と、文章に書いていたということを思い出したからです。松田聖子だけでなく小倉千加子の名前も出てくるということは、中学生の木嶋被告がこの本を読んでいた可能性があります。もしそうだとしたら、彼女の早熟ぶりには驚くばかりですが、それも『朝日ジャーナル』を定期購読していたという父親の影響があったのかもしれません。

書名は「松田聖子論」となっていますが、本で扱っているのは、松田聖子と山口百恵です。ふたりを比較するなかで、著者独自のアイドル論を展開しているのですが、今あらためて読むと、著者も若かったなと思う部分もあります。

かつての山口百恵ファンとしては、著者の山口百恵論には多少違和感がありますが、それはともかく、松田聖子論を木嶋佳苗被告の事件に重ねると、木嶋被告の心の奥底にあるものがなんとなく見えてくるような気がしました。そして、北原みのり氏をはじめ、多くの女性たちが彼女に関心を寄せた理由もわかるような気がしました。

山口百恵と違い、実人生でも「<近代家族の退屈>という温室の中で育った、芸能人としては稀有のケースに属する少女」の松田聖子は、和製ロックの伝説的なバンド「はっぴいえんど」の元メンバーである松本隆らによって、文字通り爛熟した資本主義の時代にふさわしいアイドルとして、時代の先端に躍り出たのでした。1960年代の終わりに登場し、「はっぴいえんど」から「キャラメルママ」「ティン・パン・アレー」へと推移した和製ロックは、80年代「松田聖子にたどり着いた」と著者は書いていました。そして、その本質は、「<都市>の<お金持ち>の音楽」だと。たしかに当時の時代の気分は、先行するユーミンに代表されるように、生活感が希薄な”都市”や”プチブル”でした。ただそれはあくまで「気分」だけで、現実は違っていたのです。

 日本中の女の子は、都市的リゾートを求めて、軽井沢に湘南にセブ島にフィジー島にと回遊しているのですが、それはしょせん有給休暇の範囲内であって、日常は、会社という<田舎>で周囲の眼に監視されて生活し、挙句の果ては、都市周辺部の<田舎>で新婚生活に入っていくのです。
 普通の女の子が<田舎>に苦しめられながら、つかの間の<都市>のファンタジーを楽しむという疑似解放を生きているのに対し、聖子ひとりが、日本という巨大な<田舎>で、<都市の夢>を手に入れるために、<田舎>の風圧に耐えているのです。


だから、若い女の子たちは、そういった松田聖子の「ミーハー・ラディカリズム」に魅かれたのだと言います。そして、木嶋佳苗被告のなかにも、同じように、<田舎>の風圧に耐え<都市の夢>を追いかける「ミーハー・ラディカリズム」があったように思います。

恋愛にしても然りです。著者は、恋愛は「近代の中で最後に残った不条理」だと言っていました。「人間は平等だ、男と女は対等だと言っても、ある男の前で二人の女は平等ではないし、ある男の前で、恋する女の対等が保障されるものでもないのです。つまり、、男は女の『女』という記号を愛しているのであって、個人を愛しているわけではない」のだと。

松田聖子は、そういった「恋愛とセクシュアリティの不条理」に戦いを挑み、多くの女性から支持されたのですが、一方、木嶋佳苗被告は、恋愛の「不条理」を逆手にとって、犯罪を重ねたのでした。

もっと具体的に言えば、木嶋佳苗被告が利用したのは、『松田聖子論』」から25年、日本中がファスト風土化し、都市文化に覆い尽くされてもなお、未だに残る次のような「日本の土着性」なのです。

 梅雨期のふくれ上がった畳の部屋でなくても、障子や襖が四方になくても、たとえ都心のマンションの洋室であっても、ホテルの一室であっても、男と女が二人だけでそこにいる限り、男は<田舎>になってしまうのです。
 男は<都市>の記号を背負う職業に就いていようが、インテリであろうが、年が若かろうが、そんな条件に一切関係なく、私的で閉鎖的な空間の中では、女にお茶を入れさせてしまうのです。
 生活の場の中で男と女の二者関係のモデルを親の世代にしか持ってこなかった男は、父親が母親にやっていた保守性と本音以外のふるまいようを知らないのです。ですから、「崩れそうな強がり」か、「くつろぎすぎた幼児性」の二つを交互に出して、女に弱さと母親性を求めてくるのです。


木嶋佳苗被告は、幼い頃から母親との葛藤を抱えていたそうですが、早熟で聡明な彼女が見つけたのが母親の人生に張り付いているこの「土着性」だったのではないでしょうか。そして、文字通り「ママのようなつまらない生き方」をしたくない「不機嫌な娘」になったのでしょう。それゆえに彼女の犯罪は、母親への意趣返しの意味合いもあったように思えてならないのです。

>> 木嶋佳苗 100日裁判傍聴記
2012.07.10 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
VOCALIST VINTAGE

最近、徳永英明の「VOCALIST VINTAGE」というカバーアルバムをダウンロードして聴いています。

カバーされているのは、「夢は夜ひらく」「人形の家」「再会」「ブルーライトヨコハマ」など、いわゆる昭和歌謡の14曲です。もちろん、私とてすべてを同時代的に聴いていたわけではありません。

しかし、いつの間にかこれらの歌にしんみり聴き入っている自分がいます。昭和歌謡には今の歌にはないあふれるような叙情があります。歌は世につれではないですが、それは私達の若い頃の心情とどこか重なるものがあるように思うのです。

私は中学を卒業すると親元を離れて、いわゆる街の高校に入ったのですが、そのときから深夜放送を聴くようになりました。また、まわりの影響で洋楽にも興味をもちました。

しかし、ストーンズがいいとかザ・フーがいいとかグランドファンクがいいとか言いながら、その一方で、子どもの頃ラジオから流れていた、聞き覚えのある歌謡曲に耳を傾けている自分がいました。また、入院中に枕元のイヤホーンから流れてきた歌には、今でも当時の思い出がオーバーラップしてきます。それはちょっと垣間見た大人の世界で、斎藤綾子の『結核病棟物語』ではないですが、恋もあったけど死もありました。

昭和歌謡には、「しんみり」ということばが似合います。思い出は遠くなるばかりですが、しんみりする気持ちはいつまでも残っているのです。

中沢新一が「エコレゾウェブ」での小林武史との対談(「いま、僕らが探さなければならないこと」)で、「音楽には『みぞおちの辺りが疼いてくる』というようなものと求めている」という細野晴臣のことばを紹介していましたが、「しんみり」というのはそういうことなのでしょう。

>> 『結核病棟物語』
2012.06.22 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
酒井法子の弟(異母弟)が例の覚せい剤事件に関連した恐喝容疑で逮捕というニュースがありました。久々の酒井法子ネタですが、3年前、相前後して姉と弟が覚せい剤で逮捕されたという話まで蒸し返され、彼女にしてみれば迷惑この上もない行為でしょう。

既に元マネージャーを中心に、3年の執行猶予が明ける11月以降の芸能界復帰が着々と進められているそうですが、これで復帰も少し遠のくのではないかという話もあります。しかし、いづれにしても芸能界には復帰するつもりなのでしょう。そう言えば、長男は今春小学校を卒業して、私立の有名中学に進学することになったそうですが、そういった生活費はどこから出ているのだろうと思ったりします。なんだか優雅な執行猶予生活と言えなくもありません。芸能マスコミはどうでもいい話にうつつをぬかすのではなく、そういった庶民の疑問(!)にこそ答えてほしいものです。

もうひとつ、「あれはどうなったんだ?」と思ったことがあります。逮捕後、彼女が口にしていた「介護の仕事」です。「介護の仕事」はしないのでしょうか。あのときは、「芸能界復帰は考えてない。介護の勉強がしたい」と言ってました。あれはただ殊勝な態度を印象づけるための”イメージ戦略”だったのでしょうか。もしかしたら、そのときから将来の復帰をにらんで”戦略”が練られていたのかもしれません。

それにしても、芸能人はすごいなとしみじみ思いますね。芸能人をやめても芸能人なのです。スポットライトをあびて人様に身をさらす仕事をしている人間というのは、並みの神経の持ち主ではないようです。並みの神経ではそんな仕事はできないのでしょうか。

「広尾に行きたい」山口智子と同じように、最近は広尾に行くことが多いのですが、広尾あたりではそういった人様に身をさらす仕事から落ちこぼれた人間たちが、やや奇抜な格好をして歩いているのをよく目にします。そんな姿をみるにつけ、(よけいなお世話と言われるかも知れませんが)そうやって人生を踏み間違えたまま老いていくんだろうかと思ったりします。広尾に住んだことのある小倉千加子と中村うさぎも、対談で、広尾や麻布を「虚栄の町だ」「みんな成り上がりだ」と言ってましたが、世間のイメージと違って、広尾の路地にはそういった「虚栄」や「成り上がり」の裏に貼り付いたさみしさやかなしさが漂っているような気がしてなりません。それは酒井法子とて例外ではないはずです。

魑魅魍魎が跋扈する、なんでもありの芸能界ですから、いいようにたかられ、”キズもの芸能人”としてボロボロになるまで利用されポイ捨てされるのは目にみえている気がします。それでも芸能界に復帰して、恥を忍んで人様に身をさらすというのは、なんだかそうせざるをえない「宿命」を背負っているかのようです。もっとも、芸能の民がかつて「河原乞食」と蔑まれ、市民社会の公序良俗の埒外にいたことを考えれば、酒井法子が芸能界にすがるのもわからないでもないし、もとより芸能人というのは、そういうさみしくもかなしい「宿命」を背負った人間なのかもしれない、と思ったりもするのです。

>> 介護の勉強をしたい
>> 魔性

2012.03.28 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
今朝のフジテレビの「とくダネ」に、オセロの中島知子をマインドコントロールしていたと言われていた占い師が登場して、マスコミの一連の報道に反論していました。マスコミの報道では、占い師は美食家で、豚のようにブクブク太っていると言われていましたが、実際はそうでもありませんでした。私は、同郷ということもありますが、どこか素朴な感じがするものの言い方に、逆に親近感を覚えたくらいです(それが彼女の”手”だと言う芸能レポーターもいますが)。宗教学者の島田裕巳氏も自身のブログ・島田裕巳の「経堂日記」で、「洗脳」に疑問符を付けていましたが、依存する関係ではあるものの、マインドコントロール(洗脳)というのはオーバーかもしれないと思いました。

中島知子がみるみる太っていったのも、占い師の命令で焼肉だがすき焼きだかを食べさせられたからだと芸能レポーターは(みてきたようなウソを)言ってましたが、あれはむしろ摂食障害のような心の病が原因のように思えてなりません。

谷原章介や井上陽水との関係がどんなものだったのか、恋愛だったのか、あるいは単に芸能界の女たらしに遊ばれただけなのか。そういった男性関係で傷ついた部分もあるのではないでしょうか。また、相方の松嶋尚美との関係で心おだやかでないものもあったかもしれません。アラフォーを迎える女性が、生き馬の目をぬくような芸能界をひとりで生きぬいていくには、さまざまなストレスやプレッシャーがあるだろうことは想像できます。芸能界はカタギの世界ではないのです。そんななかで、本音を吐き出して相談できる相手に出会えば、多少なりとも依存するようになるのは仕方ないでしょう。それをマインドコントロール(洗脳)と言ったら、身も蓋もないように思います。

それより、マインドコントロールと言うなら、野田佳彦首相のほうが深刻でしょう。まるでなにかにとり憑かれたかのように消費税増税に狂奔するその姿をみるにつけ、精神病理学的な分析も必要ではないかと冗談ではなく思います。なんだかヒロイズムに酔っている感じさえあります。

若い頃からただ政治家になりたい一心で松下政経塾に入った彼らにとっての政治と、私たちが考える政治とは全然違うのかもしれません。松下政経塾は、政党ではないのです。いわば政治家予備校みたいなもので、テクノクラートな政治家を養成する機関なのです。彼らは政党人ではないので、政党政治という観念も薄いのではないでしょうか。その意味では、官僚からマインドコントロールされやすいのはたしかでしょう。

民主党が「官僚政治の打破」を掲げて政権をとったことを考えれば、「官僚の言うまま」の彼らは”稀代の詐欺師”と言われても仕方ないでしょう。自民党が言うように、消費税増税はあきらかなマニフェスト違反です。それは増税の是非以前の問題です。どうして誰も今の状況が「異常だ」と言わないのか。マスコミは、中島知子なんかより野田首相らのマインドコントロールの問題を取り上げるべきではないでしょうか。そのほうがよっぽど深刻です。
2012.03.26 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
江角マキコ

このところ久々にこのブログのアクセスが伸びています。それは、2007年5月の「江角マキコさんの手紙」という記事にアクセスされる方が多いからです。

というのも、江角さんが6日放送のTBS系「ぴったんこカンカン」に出演して、日本たばこ産業(現JT)のバレーボール選手だった頃の思い出の場所を訪ねるシーンが感動を呼んだからでしょう。たまたま私も見ていましたが、バレーボール部の寮を逃げ出して、ジャージ姿のまま島根の実家に帰ったというエピソードには、思わずもらい泣きしそうになりました。退部して会社を辞めるときも、見送りに来たのは同期の二人だけだったというのも、なんだかせつない話です。

江角さんは、芸能界に入っても当時の話は封印していたようですが、でもそんな挫折した経験があったからこそ、生き馬の目をぬく芸能界のなかでもがんばることができたのではないでしょうか。

私は当時の江角さんのエピソードを聞くにつけ、やはりJTに入る3年前に経験したお父さんの死が影を落としているような気がしてなりませんでした。そして、芸能界に入ってから、さらに弟さんの死も経験することになるのです。

生きていくことは同時にいろんな悲しみに遭遇することでもあります。たしかに江角さんが経験したことは悲しくつらいことかもしれませんが、しかし、女優としては大きな”財産”になっているのではないでしょうか。誰しもが人生の奥底にもっている悲しみ、江角さんにはそんな悲しみを表現できるような女優さんになってほしいと思います。
2012.01.12 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
島田紳助引退でにわかに脚光を浴びた「暴力団排除条例」に関して、背景に警察の利権拡大の思惑があるという声もありますが、なんだかオウムの一連の事件によって、公安調査庁が生き返ったという話と似ている気がします。しかし、だからといって、オウムの犯罪が免罪されるわけではないのです。それは「暴力団排除条例」も同じでしょう。

その「暴力団排除条例」に関連して、昨日、民放連(日本民間放送連盟)が、都内で開かれた民間放送60周年記念全国大会で、新たに「反社会的勢力に対する基本姿勢」を策定したという新聞記事がありました。それによれば、(1)市民としての良識を持ち「放送基準」や「報道指針」を守る、(2)介入のすきを与えないために社内一丸となり行動する、(3)暴力団排除条例で、契約相手が反社会的勢力でないことを確認する努力義務規定が設けられていることに留意する、という3点が「基本姿勢」としてあげれられているそうです。相変わらず言うことだけはご立派なのです。

テレビについて、私が前からおかしいんじゃないかと思っていることがあります。それはタレントや歌手が所属していたプロダクションから独立した場合です。なぜか決まって独立をめぐって「トラブル」がおきるのです。そして、件のタレントがテレビから消えるのです。仮にタレントとプロダクションの間で、「トラブル」があったとしても、テレビ局は関係ないはずです。しかし、独立したら仕事を干されるという芸能界のやくざなオキテに、なぜかテレビ局も一枚かんでいるのです。それで、「市民としての良識を持ち『放送基準』や『報道指針』を守る」とか、「介入のすきを与えないために社内一丸となり行動する」とか、よく言えるもんだと思います。

そういったテレビ局と芸能プロとのズブズブの関係が、とかく噂のあるプロダクションを一大勢力としてのさばらせ、島田紳助や橋下徹や北野武を高登りさせることになったのではないでしょうか。一方で「暴排条例」に関連して、「芸能界のご意見番」だの「演歌の大御所」だの「毒舌お笑い芸人」だの「ニューミュージックの旗手」だの「”夏バンド”のミュージシャン」だの、さまざまな噂が飛び交っていますが、そういった「大物芸能人」たちの”黒い交際”を見て見ぬふりをして、臭いものに蓋をしてきたのも同じでしょう。

なんのことはない、テレビ局の「反社会的勢力に対する基本姿勢」こそカマトトと言うべきなのかもしれません。
2011.11.02 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
島田紳助引退のニュースは、「激震が走った」はオーバーにしても、「驚きをもって」列島をかけめぐったことは事実でしょう。

このニュースに関しては、やしきたかじんの「たい積したマグマが爆発する前の超措置法だ」というTwitter での発言が、もっとも核心を衝いていたように思います。

会見前から一部のマスコミの間では「紳助逮捕」がささやかれていたようですし、そもそも問題視された6年前の”親密メール”のネタ元が警察であるのは明白で、要は逮捕を免れるために引退というケジメをつけたというのは、充分納得できる見方だったと言えます。

勝谷誠彦の女性マネージャーに対する暴行事件では、吉本興業は一貫して紳助を擁護しました。そのため、被害者のマネージャーは、被害者でありながら意に反して退職に追い込まれたのです。しかし、今回、会社は紳助を見棄てるかたちで、さっさと先に逃げたのでした。その姿勢の違いが、お家騒動に決着をつけた昨年の上場廃止にあるのは間違いないでしょう。

紳助の引退について、橋下徹大阪府知事は、自分がいま府知事でいるのも「紳助さんのおかげです」と言ってました。また、東国原前宮崎県知事も知事選に出るとき、いちばん最初に相談したのは「紳助さんだった」と言ってました。タレント知事の誕生も、「紳助さんのおかげ」だったというわけです。

別に紳助に限った話ではないでしょうが、「ケツ持ち」なる言葉が未だに存在する芸能界というのは、今更ながらに「カタギにはできない」仕事なんだなと思います。ただ、それがタレント知事まで生みだしているとなれば、「芸能界は特殊だ」というだけでは済まされない問題もあるのではないでしょうか。

今、テレビは「残念」「お世話になった」「潔い」「紳助さんらしい」などといった芸能人たちのコメントであふれていますが、それも紳助の番組を残すためのテレビ局の弁解のように受取れないこともありません。たけしも同様ですが、竹中労風に言えば「分をわきまえず偉ぶる芸人」紳助をここまでピノキオにしたテレビ局の”罪”は大きいと言わねばなりません。

一方で、どこのチャンネルをひねっても出てくるのは同じ顔ぶれの芸人ばかりというような今の状況にいい加減辟易しているのも事実ですので、これをきっかけにテレビ界を席巻している”お笑いブーム”が急速にしぼんでいくことも考えられます。もともと今の”お笑いブーム”は、”韓流ブーム”と同じで、コストカットというテレビ局の台所事情によって作られたブームにすぎないわけですから、状況次第で(”お笑いブーム”を牛耳る吉本との関係次第で)用済みにされる可能性はあるのです。そう考えれば、ひな壇芸人たちに「激震が走った」のは事実かもしれません。
2011.08.25 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
竹中労 没後20年・反骨のルポライター

今日、河出書房新社の「KAWADE 道の手帖」シリーズの竹中労特集(「竹中労 没後20年・反骨のルポライター」)を買ったら、浅草キッドの水道橋博士のインタビュー記事「俺の根本はやっぱり竹中労なんだ」が出ていました。水道橋博士も竹中労ファンだったことは前から知っていましたが、私が注目したのは、水道橋博士が今回の原発事故について、発言していたことです。

というのも、浅草キッドは、「東電、電事連のPR記事の常連」で、原発の広告塔をつとめていたからです。あろうことか、事故発生時に店頭に並んでいた『週刊現代』(3月19日号)でも、「浅草キッドが行った!見た!聞いた! 原子力発電最前線」というパブ記事に登場し、刈羽柏崎原発を訪問した印象をつぎのように語っていたそうです。

今から3年前の7月16日、マグニチュード6.8の中越沖地震に見舞われたわけですが、とくに大きな事故がなかったということは特筆すべき点ですよね。
(『別冊宝島1796号・原発の深い闇』 中田順「『原発文化人』の妄言メッタ斬り!」より)


「安全第一で運営されていることを知りました。東京電力さんにはこうした事実をどんどんアピールしていってほしいですね。そして、『安全供給しているんだ!』ってガツンと言ってもらったほうが、安心できますよね。」(玉袋筋太郎)
「あらゆることをオープンにして理解してもらおうという電力会社の方向転換の姿勢が強く印象に残りました」(水道橋博士)
(前掲書 佐々木圭一「週刊誌・新聞の『東電広告』出稿頻度ワーストランキング!」より)


今思えば、これほどトンマな芸人もいませんが、これらは、師匠・ビートたけしのつぎのような発言と見事にリンクしているというべきかもしれません。

原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)


上記の記事で中田順氏が書いているように、これじゃ「稀代の欠陥商品」をPRする「詐欺師の一味」だと言われても仕方ないでしょう。

しかも、事故が発生したら、みずからの発言などどこ吹く風で、放射能を怖れて家族を愛知県の奥さんの実家に避難させたのだとか。

彼の行動について、彼も愛読していたという『噂の真相』の元編集者の神林広恵は、『日刊サイゾー』で、「もちろん小さな子どもがいるのだから、こうした判断も当然だ。だが、直前に『原発は大丈夫』と言った自身の言動への自己批判、いや言及さえ一切ないのはいかがなものか。」と批判していました("原発擁護"芸能人に強まる風当たり インテリ芸人・水道橋博士はどう動く?)。

どう弁解しようとも、広告塔であった事実とその罪は消えるものではありません。要するに、高額なギャラに目が眩んで魂を売ったのではないのか。だったら、神林広恵が書いているように、正直にそう言えばいいのです。

しかし、このインタビュー記事でもそんな反省はうかがえません。たとえば、(前にとり上げた)『週刊現代』での佐野眞一氏と原武史氏との対談で、佐野氏が東浩紀やホリエモンを「被災地の実情も知らないで発言している」と批判していることに対しても、「じゃあ現場に行った奴しか発言権はないのか?」「俯瞰で見るからこそ言える意見だってある。」などと子どものような屁理屈で”反論”する始末です。そうやって遠まわしに自己弁解しているのでしょう。

週刊誌草創期に、『女性自身』の名物記者として、いわゆる「芸能の論理」をひっさげて、今日の芸能ジャーナリズムの原型をつくったといわれる竹中労について、この本に所収されている論考「『トップ屋』竹中労はなぜ芸能記事を捨てたか」で関川夏央は、つぎのように書いていました。
 

竹中労は芸能人をおなじ仲間とみなした。社会の底辺にあって技芸だけで生きる、その技芸で世間に衝撃と影響を与えることができるという意味で、トップ屋と芸能人はおなじだと考えた。「芸があるひと」「性格のいいひと」「性格は悪いが芸のあるひと」はみとめたが、「芸のない有名人」と「分をわきまえず偉ぶる芸人」を徹底して憎んだ。


また、たけしのフライデー事件についても、「芸能人にプライバシーがないのは当たり前」だとして、つぎのように言っていたそうです。

 この世の中には面(つら)はさらしたい、有名にはなりたい、ゼニは稼ぎたい、自分の生活は隠しておきたいなんてそんなムシのいい話はないでしょう。


インタビュー記事のなかで、この混迷の中にあって竹中労がいたら何を言ったと思うかと質問されて、彼は、「どうだろう、もしかしたら、東電側に立っていたかもしれない」と答えていましたが、表では差し障りのないお約束の「毒舌」を吐きながら、裏では「強い人」「偉い人」に揉み手をして媚びへつらう北野武や水道橋博士のような”二枚舌”を、竹中労は絶対に許さなかったはずです。これも自己弁解のひとつなのでしょうが、なんだか竹中労を愚弄しているように読めなくもありません。

どう考えても、竹中労ファンであるということと、原発の広告塔であったという事実に整合性はないのです。竹中労ファンのひとりとして、論語読みの論語知らずの水道橋博士には、竹中労のことを語ってほしくないと思います。と言うか、語る資格はないと思います。
2011.07.29 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
福島に帰ったら

私は、福島には2回しか行ったことがありません。一回は、夏に野地温泉に泊りがけで行ったことがあります。帰りに猪苗代湖に立ち寄り、さらに三春町を通って太平洋側に出たことを覚えています。もう一回は、郡山に帰った彼女に会いに行って、帰りの新幹線の中で、別れる決心をしたという苦い思い出があります。私にとって福島はそれくらいの思い出しかありません。

しかし、たまたまFMラジオから流れてきた「予定 ~福島に帰ったら~ 」という歌を聴いていたら、なぜか涙があふれそうになりました。福島のことはあまり知らないのに、悲しくて仕方ありませんでした。

故郷の風景はどうしてこんなに悲しいんだろうと思います。そして、年をとればとるほど悲しくなっていくのです。

先日もたまたま人を介して知った高校の先輩の方と会う機会がありました。その方は私より30才年長の大先輩なのですが、病気のため、長い間入院生活を送っており、近いうちに老人施設に入る予定だと言ってました。

高校の校舎がどうだったとか、駅前にはなにがあったとか、海岸通りにどんな建物があったとか、二人でそんな話をしました。その方は、窓際のベットに横になったまま、なつかしい風景を思い出すかのようにときどき目をつむって、一心に喋っていました。最後に、「ありがとう」と言って手をあげたとき、目に光るものがありました。私は笑いを返しただけですが、帰りの電車の中でそのときの顔を思い出したら、やはりこみ上げてくるものがありました。

老いていくのは、さみしくてつらいもんだなとしみじみ思います。故郷の風景も悲しいものでしかありません。しかし、それでも私たちにとって、故郷の思い出は、どこかで心のよすがになりなぐさめになっているのです。そして、故郷の風景は、いつまでも鮮明に私たちのなかに残っているのです。

この歌を聴く福島の人達の気持を思うと、同じ地方出身者として、やはりいたたまれないものがあります。
2011.06.02 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
ちょっと前の話になりますが、年末のレコード大賞でスマイレージが最優秀新人賞を受賞したのにはびっくりしました。スマイレージなるグループなんて知らなかったからです。私は、最優秀新人賞は少女時代で決まりだろうと思っていました。マスコミの露出度から言ってもCDの売上げ実績などから言っても少女時代と考えるのが妥当でしょう。

案の定、この不可解な選考に対して怪文書が出ているようで、先日、アクセスジャーナル(有料版)でその怪文書がとりあげられていました。それによれば、現在日本の芸能界を席巻しているK-POPをめぐって、日本側のマネジメントを行っているプロダクションとそれを心よく思ってないプロダクションの暗闘が背景にあり、スマイレージの逆転劇は後者の前者に対する意趣返しだったというのです。さもありなんと思いました。

 それにしても、なぜ、K-POPなのか。
 この点につき、ある芸能プロ社長はこう解説する。
 「ともかく経費が安く済む。韓国芸能人の人権なんか無きに等しく、10分の1もかからない。だから、わが国でヒットを飛ばせば我々の実入りはそれだけ美味しいからですよ」。

  
そして、その「美味しい」背景には、「わが国芸能界など比ではない、韓国芸能界と組織暴力団との蜜月関係」があるのだとか。

そう言えば、今、KARAのメンバーと所属プロダクションの間で契約解除をめぐってトラブルが発生していますが、メンバーも「人権を無視された」と主張していました。しかも、少女時代の日本側のマネジメントを行っている会社は、KARAやあの東方神起のマネジメントも行っていたそうですから、東方神起の分裂以後のK-POPをめぐる一連の騒動は全て1本の糸でつながっていると言えるのかもしれません。

もともと韓国の芸能界には「セックス接待」なんていう醜聞もありましたが、日本の芸能マスコミはそういった背景はいっさい報道しません。だから、東方神起にしてもKARAにしても、マスコミの報道を見ている限り、「売れたのでわがままになった」芸能人が独立したがっているとかいった感じで受けとられがちです。

もっとも、日本のテレビにしても、一方で、K-POPのアーチスト達を「人権なんか無きに等しく」安く使っていた(それに加担していた)わけですから、こんな現代版女工哀史のような背景を報じるわけがないのです。
2011.01.27 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
海老蔵事件はマスコミの格好の餌食になっていますが、一連の報道を見て面白いなと思ったのは、週刊誌やスポーツ新聞などが「海老蔵事件」と呼び捨てしているのに対して、新聞やテレビなどは「海老蔵さん事件」と「さん」付けしていることです。海老蔵は被害者なので、「さん」付けしているのでしょうか。それにしても、ついこの前まで海老蔵を「平成の光源氏」なんてもてはやしていたマスコミが、途端に手の平をかえしたようにバッシングしているのは、いつものことながらあきれるばかりです。

ネットの掲示板を見ていたら、市川海老蔵を「林家海老蔵」と書き込んでいる人間がいました。落語家じゃないんだからと思いましたが、マスコミに比べればまだしもネットの方がほほえましく思えます。

海老蔵にはかつて元歌手との隠し子騒動もありましたが(市川染五郎にも同じような騒動がありましたが)、「女遊びも芸の肥やし」なんていう俗言をいいことに遊び呆けている、それこそテレビドラマなどに出てくるような典型的なバカ息子であるのは間違いないでしょう。あの(六本木界隈では有名な)米倉涼子とも一時つきあっていたようですが、六本木や麻布はその手の人間達が夜毎集まりバカ騒ぎする街なので、頬に傷があるような連中も彼らの周辺に自然と集まってくるのです。

今や「人間国宝」にまで祭り上げられるほど社会的に上昇した歌舞伎者に、「女遊びも芸の肥やし」なんて時代錯誤のようなことを言うからバカが勘違いして高のぼりするのでしょう。”河原乞食”として蔑まれていた芸能の民が、差別されていたがゆえにまつろわぬ者として「市民社会」の埒外にいたのはたしかでしょう。そして、そうやって「市民社会」の公序良俗とは真逆の”芸能の論理”が形成されていったのも事実でしょう。しかし、それはあくまで体制に順応しないマージナルな存在という意味であって、2億円だか3億円だかの豪邸(実は競売物件の中古で名義は松竹らしいけど)に住みセレブな生活を演じる一方で、六本木でバカ騒ぎして「オレは人間国宝だ」とか「おたく、給料いくら?」なんてほざくようなこととはまったく次元の異なる話です。

私は最初に勤めた会社が六本木にあった関係で、当時は芸能人にまつわるいろんな噂を耳にしました。行きつけの喫茶店で顔見知りになり、よく話をしていた(噂のネタ元の)自称「モデル」の女の子がいたのですが、店のマスターから「あの娘(こ)はクスリをやっているよ。気を付けた方がいいよ」と言われたことがあります。そして、ある日、麻布十番のレストランに行ったら、彼女が男と二人で食事をしているのに出くわしたのです。ところが、相手の男はどう見てもシロウトとは思えないヤバそうな感じで、「やっぱり」と思ったことがありました。

それから半年くらい経った頃、私は、偶然目にした週刊誌の記事を見てびっくり仰天しました。それは、彼女が超大物お笑いタレントの一夜妻だったというスキャンダラスな記事で、しかもグラビアにヌード写真まで掲載されていたからです。記事では彼女は「AV女優」となっていました。私はそれを見て「ああ、これが芸能界なんだな」とあらためて思ったものです。

村西とおる氏が言うように、芸能人というのはシロウトのお嬢様にはできないやくざな職業なのです。私は、今回の事件を見るにつけ、じゃあ、その「AV女優」と「恋のから騒ぎ」出身の小林麻央や米倉涼子にどれほどの違いがあるのかと思いました。上野千鶴子氏が言う「性の二重基準」ではないですが、ただ一流大卒でカマトトだったので正妻の座を射止めただけじゃないのか、なんて意地悪い見方をしたくなります。

歌舞伎ファンが言うように、市川海老蔵は歌舞伎俳優として魅力のある役者なのかもしれません(それを言うなら米倉涼子だっていい女優です)。しかし、今回海老蔵は、はからずも品性下劣で甘チャンな素の自分をさらけ出してしまったのです。これでは「海老さま」のイメージも台なしでしょう。中には「歌舞伎の名家に生まれた苦悩」なんてことを言うお人好しもいるようですが、それがどうして「恋のから騒ぎ」や六本木のバカ騒ぎになるんだ?と言いたいです。彼のやっていることはデカダンスとはまったく無縁なただのバカの高のぼりでしかありません。それを芸能マスコミが「平成の光源氏」ともてはやしてきただけです。

>>魔性
2010.12.12 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
宇多田ヒカルが「無期限活動休止」というニュースを聞いたとき、私は「やっちゃったな」と思いました。こんなことを言うと宇多田ファンから叱られそうですが、むしろ引退してくれた方がよかったように思います。そうすれば、宇多田ヒカルは山口百恵と同じように”伝説”になるでしょう。

「無期限活動中止」する理由は「人間活動専念」で、「常識的」な大人になることだそうですが、彼女がそこまで世間的な「常識」にこだわるのなら、むしろ常識がないのは、7回も離婚と復縁をくり返している両親や、娘が稼いだ1億円近くの大金をもってラスベガスでギャンブルに興じていた母親ではないかと皮肉のひとつも言いたくなります。

彼女の夢は作家になることだそうですから、もしかしたら作家に転身なんてこともあるのかもしれません。どこぞのイケメン俳優のように、田舎芝居のような出来レースで作家デビューなんていうことになったら目も当てられませんが、ただ、宇多田ヒカルなら条件付きで読んでみたいという気持はあります。アクセスジャーナルで、藤圭子を発掘した芸能評論家の渡辺正次郎氏が、「怨嗟の連鎖? 藤圭子(宇多田ヒカルも)が母(祖母)の葬儀に出なかった理由」(有料記事)と題して、藤圭子と実母との複雑な関係などを暴露していますが、そういったドロドロした家族関係を題材にすればいい小説が書けるかもしれません。

先行配信された「Goodbye Happiness」もさっそくダウンロードして聴きましたが、(ネットでは相変わらず絶賛の嵐ですが)やはりマンネリ感は否めませんでした。もしかしたらそういうことも「無期限活動休止」の理由かもと思いました。

「常識人」であろうがなかろうがそんなことは、宇多田ヒカルにとって、彼女の才能にとって、どうでもいいことです。渡辺正次郎氏も書いていましたが、芸能人なんてもともと「売るためには何でもする」非常識な存在なのです。そんなに「常識人」になりたいのなら、やはり芸能界から足を洗って、彼女が言うように「家賃がいくら」「電車の乗り換えはどうする」というような”小市民的日常”の中で、つつましやかでささやかな幸せを求めた方がいいように思います。残念だけど。

>>宇多田ヒカル賛
>>宇多田ヒカル
2010.11.23 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
日本映画監督・俳優論

『日本映画[監督・俳優]論』(ワニブックス【PLUS】新書)を読みました。この本は、絓(すが)秀実氏のインタビューによるいわば萩原健一の日本映画論ですが、個人的には萩原健一と絓(すが)氏が組んで本をつくったということに、まずびっくりしました。私は、絓(すが)秀実氏の本は昔からけっこうマメに読んでいるつもりで、先日も『吉本隆明の時代』(作品社)を読み終えたばかりでした。

「国をすてようと思ったことがある」と言う萩原健一について、絓(すが)氏は、「中上健次に似ている」と書いていました。「アメリカン・ドリームのような『欲望』ではなく、いかなる意味でも実現不可能な名づけえぬ『衝動(欲動)』」に二人の共通点があるのだ、と。

萩原は、欲動を演じられる数少ない俳優である。それは、誰もが感得している萩原の、あの過剰さが可能にしているものだろう。一般に萩原は欲望の過剰さが指摘される俳優だが、それは欲動という過剰さにほかならない。そして、中上健次もまた、欲望を描く作家ではなく、欲動の作家であった。


それにしても、この本で自在に発揮されている萩原健一の批評眼には目をみはるものがあります。つかこうへい氏は、かつて文芸誌で対談したあと、ショーケンの「感受性の質の高さに圧倒された」と書いていたそうですが、その気持はよくわかります。

たとえば、神代辰巳監督について、ショーケンはつぎのように語っていました。

 これはあの人のいいところでもあるんだけど、名刀を持っているくせして、止めを刺せない優しさがあるんです。獲物を捕ってもさらに止めを刺せ、というんだ。でも刺せない。それがあの人の優しさなんだな。止めを刺せよ。もう死んでるも同然じゃないか。これ以上生かしておいたらかわいそうだよ。生き物なんだから。映画監督なら止めを刺さなきゃ。それが黒澤にも溝口(健二)にも小津(安二郎)にもあるんだよ。人間としての残酷さが。


まさに映画や文学の本質を衝いた言葉ですね。

最近、政治の季節を知らない口舌(屁理屈)の徒の間で、「新左翼文化」なる言葉がまことしやかに流通していますが、この萩原健一の感性と知性もまた、絓(すが)氏が書いているように、60年代後半の政治の季節が生んだ時代の空気と無縁ではないのでしょう。

絓(すが)氏による巻末の「あとがき」風の文章に、”百年の孤独を生きる、現代の「危険な才能」”というタイトルが付いていて、「百年の孤独」なんて焼酎の銘柄じゃないかと思ったら、今年が大逆事件からちょうど百年という意味だったのです。この本を読むと、なるほどと思いますね。そして、日本映画の腑抜けどもがショーケンを使えない理由もわかった気がしました。

>>ショーケンはカッコええ
2010.11.15 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
今日のヤフーニュースにつぎのような記事が出ていました。

 テレビ番組のアンケートコーナーが「ヤラセだ」と因縁をつけ、収録スタジオが入る新宿アルタ内に脅迫の落書きをしたとして、警視庁新宿署は威力業務妨害の疑いで埼玉県坂戸市鶴舞、アルバイト、×××容疑者(37)を逮捕した。

 同署によると、××容疑者は、フジテレビのバラエティー番組「笑っていいとも」で、スタジオ観覧者100人に出演者がアンケートし、該当者が1人ならば商品が当たるコーナーに憤慨。「制作者のヤラセは許せないので、コーナーをやめさせようと思った」と容疑を認めている。(以下略)
(産経新聞 9月24日(金)12時47分配信)


実は私もあれはヤラセではないかと思っていました。案外そう思っている人は多いのではないでしょうか。あんなに1人的中が頻発するのはどうみても不自然です。以前はあんなに1人的中が出てなかったように思います。数年前にタモリの携帯ストラップを配るようになってから(?)、急に的中率が上がったのです。

だからといって、わざわざ東武東上線と山手線を乗り継ぎ、坂戸から新宿のアルタまで出かけて直接行動に走るというのは、あまりにも直情的ですが、ただ、私はこの犯人の”義憤”の5%くらいは理解できます。タモリだってホントは心の中で、「またかよ」「しょうがねえな」なんて思っているのかもしれません。

もっとも、テレビというのは、こういったヤラセというか、「お約束」で成り立っているところがあります。だから、その手の”暗黙の了解”を媒介するには、お笑い芸人がうってつけなのでしょう。にもかかわらず、この犯人のように「王様は裸じゃないか!」と青筋を立てて怒るのは、それこそ「身も蓋もない」「シャレがわからない」ということになるのかもしれません。しかし、むしろ問題なのは、丸の内や新橋の街頭やネットの掲示板などでよく見かけますが、王様は裸なのに王様は裸ではないと本気で思いこんでいるような人達ではないでしょうか。それに比べれば、この犯人は王様が裸だとわかっている分、まだ救いがあるように思います(半分冗談ですが)。

いづれにしても今回の事件をきっかけに、再び昔のように的中率が下がったら笑えます。今後の「笑っていいとも!」から目が離せません。
2010.09.24 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
Hello Again~昔からある場所~

最近のお気に入りは、JUJUの「Hello,Again ~昔からある場所~」です。言うまでもなくMy Little Loverのカバーですが、JUJUもまさるとも劣らずいいのです。

歌詞の中にも「夜の間でさえ 季節は変わっていく」というフレーズがありますが、この歌は今のような季節の変わり目によく似合うような気がします。「リグレット」という言葉がとても新鮮でした。主人公が江ノ電の「鎌倉高校前」におりて行くミュージックビデオも、あじさいの季節の湘南を舞台に人生の哀歓が表現されていてとてもよかったです。

いくつになってもどんなに年をとっても、なにかの拍子にふと恋愛の記憶がよみがえることがあります。そうやって恋愛というのは、ままならない人生を生きる私達にとって、どこかで心のよすがになっているような気さえします。歌詞にあるように、誰しも「君の声が今も胸に響く」ことがあるのではないでしょうか。

他に、古内東子の新曲「特別な街」もちょっと平板だけどいいなと思いました。「恋愛至上主義」は悪いことではないのです。少なくとも、ネットにひきこもり、妬み僻み嫉みを合理化するだけのヘタレな(恋愛もできない)男子に比べれば、はるかに真っ当だと思います。

>>つないでいたい

JUJU - Hello,Again ~昔からある場所~

2010.09.20 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
萩原健一

萩原健一がカリスマ主婦モデル(と言っても既に離婚しているみたいですが)の冨田リカと熱愛だとか。相変わらずショーケンはカッコええですな。昨年放送されたフジテレビの「ザ・ノンフィクション」を観て書いたのでしょうか、酒と薬と女を封印して、自分で掃除や洗濯や料理をする独身生活を送っていた、というような記事がありましたが、でも、やはりただの還暦を迎えたひとり暮らしのおっさんではなかったのです。旦那を捨てて(?)恋に走った冨田リカも、なんだかいい女に見えてくるから不思議です(ホントは、冨田リカなんて知らなかったけど)。

例の恐喝未遂事件以後、萩原健一の姿をスクリーンで観ることはなくなり、去年公開された「TAJOMARU」(中野裕之監督)は4年ぶりの銀幕復帰だったそうです。猛獣使いでないと使いこなせないとか言われますが、ショーケンは日本映画には欠かせない個性です。だから、こんなゴシップが出てくるだけでもホッとします。

「ザ・ノンフィクション」でもその模様が出ていましたが、演出家の蜷川幸雄は、みずから演出した井上ひさし作「道元の冒険」(阿部寛主演)のパンフレットの中の対談で、ショーケンのすごさについて次のように語っていました。

蜷川 今日はね、ショーケンという俳優の、演技の革命的な新しさをちゃんと話したいなと思ってね。

萩原 あっそう~。そんな、何もやってないよ(笑)。

蜷川 ほら、初期の頃の『約束』(72年)って映画とか見ると、いつも思うんだよ。たとえばマーロン・ブランドやジェームス・ディーンやチブルスキーは、許容できない現実を生きる青年の鬱屈を擬態というスタイルで表現したんだよね。その、世界的な演技の流れを日本で最初にやったのがショーケンだったんだよ。それは革命的な出来事だったと思うよ。
(2008年7月7日「合縁奇縁」・株式会社東急文化村)


蜷川氏は「ザ・ノンフィクション」のインタービューの中で、ショーケンを称して「トップを走る孤立」と言ってました。私はそれを聞いて、かつて五木寛之が鈴木いづみを称して「一周速すぎるトップランナー」と言っていたのを思い出しました。蜷川氏も言ってましたが、「トップランナーの悲劇」というのはあるのだと思います。

日本映画の腑抜けども、「俺には部下はいない。いるのは仲間だけだ」とか「見習い警察犬の愛と感動の物語」だとか、そんなヘタレな映画ばかり撮ってないで、たまには「約束」や「青春の蹉跌」を超えるような時代を表現した大人の(ホンモノの)映画をつくってみろと言いたいです。
2010.08.19 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
マラドーナ

スター不在と言われた今回のW杯ですが、もし決勝トーナメントでアルゼンチンがドイツに勝っていたら、今大会の主役は間違いなくアルゼンチンのマラドーナ監督になっていたはずです。それくらい彼は常にマスコミの注目を一身に集めていました。

今日、アルゼンチンサッカー協会が、マラドーナに対して、代表監督としてあらたに4年契約を(つまり、ブラジル大会までの続投を)提示するというニュースがありました。マラドーナは、日本では未だに「薬物常習者」とか「堕ちた偶像」とかいったヒールのイメージがありますが、アルゼンチンに限らずラテンアメリカでは、”マラドーナ信仰”と言われるくらい熱狂的な人気をほこっているのだそうです。

折しも先日届いた某記者クラブの会報に、「マラドーナ:反帝国主義の10番」というマラドーナに関する記事が出ていました。これは、ホセ・ステインスヘルというコラムニストがメキシコの日刊紙「ラ・ホルナダ」に書いた記事を転載したものですが、この記事には、「貧困から這い出して頂点に駆け上がった天才プレイヤーが貧困に苦しむラテンアメリカの民衆から熱狂的に支持されるもう一つの理由」(編集部のリード)が書かれていました。

マラドーナが「ラテンアメリカの民衆に熱狂的に支持されるもう一つの理由」、それは彼が反米・反帝国主義という「下層で左派的な人々に由来する理念」をラテンアメリカの民衆と共有しているからです。「そして、これが、彼と、サッカー資本主義界におけるアンクル・サムであるペレとの違い」なのだと。

マラドーナは、右の肩にチェ・ゲバラの入れ墨を、左のふくらはぎにはフィデル・カストロの入れ墨を入れているのだそうです。一方で、サッカー選手の組合結成も呼びかけているのだとか。サッカー界の利権を握る権力者たちから煙たがられるのは当然です。

この記事では、ブッシュ(元アメリカ大統領)のことを「ブッシュのゴミ野郎」と呼んだり、ローマ法王の話を聞いたあと、サン・ピエトロ寺院の黄金の天井を見上げて、「カトリック教会が貧しい子どもたちのことを心配してるっていうなら、この天井を売っぱらって、なんとかしろよ」とかいった彼の発言も紹介していました。

こういったマラドーナのような存在が可能なのは、サッカーが野球や相撲と違って、常に「世界」にひらかれているインターナショナルなスポーツだからではないでしょうか。そして、人々はサッカーを通して「世界」と出会うのです。

私のまわりでも彼のパフォーマンスが話題になっていましたが、ぜひ代表監督を続投して、これからもあのパフォーマンスとともに「五大陸の貧しく抑圧された人々の良心を揺さぶる」メッセージを発信してもらいたいものです。

※この記事は、Yahoo!トピックスに「関連情報」として紹介されました。
2010.07.15 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
私鉄沿線

野口五郎の「私鉄沿線」は、私の中では松田聖子の「赤いスィートピー」と並ぶ名曲です。これから先老いても尚、心の中に残りつづけるのではないでしょうか。特養ホームの中庭で日向ぼっこをしながら、ふと口ずさんだりするのかもしれません。

「おじいちゃん、いい歌ですねぇ。誰の歌ですか?」なんて、西野カナ世代の(いや、もっとあとか)ヘルパーの女の子に話しかけられたりするのでしょうか。しかし、私は、永井荷風のように偏屈で、岸部シローのようにネガティブな老人になりたいので、絶対に無視するようにします。「あっちへ行け!」なんて悪態が吐けたら上出来です。

昔は「私鉄沿線」を聴くと、なぜか大井町線の駅を思い出しました。一度だけ会社の女の子をアパートまで送ったことがあるのです。シャッターのおりた駅前の商店街をぬけると、住宅街の中の狭い路地に入りました。そして、何度か路地を曲がると、彼女のアパートがありました。「お茶でも飲んでいく?」と言われて、中に入ると、部屋の真ん中にハシゴがありました。それは天井とのわずかなすき間に造られたロフトに上がるためのものでした。

ココアかなにかをご馳走になり、ホントにお茶だけを飲んで帰ったのですが、それ以来「私鉄沿線」を聴くと、なぜかそのときの情景がオーバーラップしてなりませんでした。別にその子が好きだったというわけでもないし、今に至っては名前すら思い出せないのですが、ただ、その夜の情景だけはいつまでも心に残っています。

ところが、最近ちょっと困ったことになっています。「私鉄沿線」を聴くと、目の前にコロッケの顔が浮かぶようになったのです。パブロフの犬ではないですが、払っても払ってもヌエのように浮かんできます。

「おじいちゃん、誰の歌ですか?」
「コロッケ」
と答えたら面白いかもしれませんが、コロッケも知らない”ポスト西野カナ世代”のヘルパーの女の子から、「いよいよ認知がはじまったか」と思われるのもシャクですね。
2010.06.28 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
自宅で仕事をするときはずっとRadikoでFMラジオを聴いていますが、先日、びっくりすることが二つありました。

ひとつは、ある番組に7~8歳の女の子が出ていたときです。パーソナリティーの女性がその子に「××ちゃんはSMAPは好き?」と質問したのです。すると、まったく予想外の答えが返ってきたのでした。

「SMAPって名前は聞いたことがあるけど、よくわかりません」
「エエッ、そうなんだ?」

あとで話題になっていましたが、彼女達の世代ではもうSMAPは「過去の人」なのですね。「質問するなら嵐の方でしょ」と誰かが言ってましたが、私も「へぇ、そうなんだ」と思いました。私なんてついこの前まで「スナップ(SNAP)」だと思っていて、若い女の子から指摘され(ついでに笑われて)、初めて「スマップ(SMAP)」だということを知ったばかりなのですが。

もうひとつは、あるJ-POPのカリスマシンガーのご主人でもあるミュージシャンの某氏のことです。彼がパーソナリティーを務める番組に、鹿島茂氏がゲストで出たとき、某氏が「僕は本を読まない人なんで、小説なんてまったくわかりません」と言ったのです。番組のアシスタントの女性も、「そうですよね。××さんは本を読まないんですよね」と言ってました。

考えてみれば、とっくに50歳をすぎている某氏はネット世代でもないわけで、と言うことは若い頃からずっと本を読まなかったんだろうかと思いました。たしかに、都会のボンボンの中には、ろくに本も読んでないくせにやけに口だけが達者な屁理屈人間が多いのですが、彼もそうだったのかと思いました。それにしても、「恋愛の教祖」のご主人が本をまったく読まない人間だったなんて、ちょっと”奥さん”のメージとそぐわないような気がしてなりません。「いつまでも少年のような心をもっている」というのは案外そういうことかもしれない、なんて思いました。
2010.06.07 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
エリカ様離婚のニュースを聞いて、やっぱりと思ったのは私だけでしょうか。彼女の結婚でいちばん問題だったのは、ハイパー・メディアクリエーターという職業だったのかもしれません。どうして「映像作家」ではいけないのか。エリカ様もそう考えることができたならもう少し冷静な判断ができたかもと思います。

渋谷や原宿に行けば、あの手の人間はいくらでもいます。ひと昔前の「女子高生が流行をつくる」なんていうホラ話をマスコミに売り込んでいた"業界通"なんてみんなそうでした。

とは言っても一方で、同じ中年男として、若い女の子に捨てられたハイパー・メディアクリエーター氏に同情したい気持もあります。現実は非情なもので、ことの成り行きが雄弁に物語っているのは、くたびれた中年男なんかよりエリカ様の方に「世間的な価値」があるという冷厳な事実です。若いということはそれだけで「価値」があることです。捨てられた中年男がよけいみじめにならざるをえないゆえんです。

もっとも、エリカ様も若気の至りの代償は大きく、もう一度「パッチギ」の沢尻エリカに戻るには至難なことのように思います。「パッチギ」を見たとき、女優として前途洋々という感じで、その将来性は誰しもが認めるところでした。それだけにもったいないなと思っていました。今回も裏で芸能界の魑魅魍魎が蠢いているようですが、「普通のお嬢様にはなれない」(カタギではない)女優という職業は、本来「家庭の幸福」などとは対極にあるものです。あらたな受け皿はエイベックスだそうですが、ということは、今のイメージのままエイベックスお得意のヤンキー路線で行くのでしょうか。

ところで、他人の悪口ばかり言ってるのでバチが当たったのか、ここ数日体調がよくありません。熱はないものの、とにかく寒気がして仕方ないのです。そのため一日に何度も風呂に入っています。それに、空咳も止みません。

体調がよくないとガックリきて、体力がなくなったなとしみじみ思います。気持は若いつもりでも身体はごまかしようがありません。私ももう一度ハイパー・メディアクリエーターなんてハッタリをかますくらいの元気がほしいなと思います。

>>魔性
2010.04.27 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
仕事をしながら久しぶりにオールナイトニッポンを聴いていたら、ニッポン放送のアナウンサーのくり万太郎とかという人がユーミンのベストアルバムを紹介していました。

ユーミンの歌を聴いていたら、ふと、昔田舎にいた頃に顔見知りだった女の子のことを思い出しました。当時、私は人口2万足らずの山間の小さな町に住んでいました。大分の地元の会社に勤めていたのですが、その町に新しくできた営業所に転勤になったのです。アパートなんてないので、古い民家を借りてひとり暮らしをしていました。

そんな町の取り引き先に小さな自動車の修理工場がありました。田んぼの中にあるその工場は社長と事務の女の子がいるだけでした。女の子は20代の中頃で、ごく普通の田舎の素朴な子でした。聞けば、隣町に実家があるにもかかわらず、その町でアパートを借りてひとり暮らしをしているということでした。しかし、私はその町に5年近くいましたが、彼女のアパートがどこにあったのか知らないままでした。そもそも女の子がひとり暮らしするようなアパートがあったとはとても思えないのです。

私は若い女の子がどうしてこんな田舎でひとり暮らしをしているんだろうと不思議でなりませんでした。どうせひとり暮らしをするなら都会に出て行けばいいのにと。かく言う私ももう一度東京に行きたいと思って、悶々とした日々をすごしていたのです。いったんは田舎に骨をうずめる覚悟をしたものの、やはり、どうしても東京に行きたいという気持をぬぐい去ることができなかったのです。

だから、その子に対しても、同じような目で見ていたのだろうと思います。のちに彼女が同じ町の魚屋のオヤジと愛人関係にあることを知りました。その話を聞いたとき、「どうして?」と俄かに信じられませんでしたが、それでよけい「どうしてこんなところで、あんなオヤジの愛人になんかになってくすんでいるんだろう?」と思いました。羽ばたいて自由になればいいのにと。

その彼女がユーミンが好きで、よくユーミンの話をしていたのです。ユーミンのアメリカナイズされたオシャレな世界と田舎で魚屋のオヤジと愛人関係をつづけている現実をどう折り合いをつけているのか、それも不思議でした。

でも、今になるとなんとなくわかるのです。世の中にはどうしても羽ばたけない人間っているのです。田舎で生まれて田舎の生活しか知らない女の子にとって、田舎を離れるということはとても勇気のいることなのでしょう。それに、他人にはわからない事情もあったのかもしれません。そして、そんな彼女にとってユーミンというのは、ある意味で「宗教」のようなものだったのかもしれません。東京や横浜で聴くユーミンもあるけど、そうやって田舎で心の支えとして聴くユーミンもあるのではないでしょうか。

会社を辞めて再び東京に行くことを決心して修理工場に挨拶に行ったら、彼女は「すごいですね」と言ってました。もちろん、羽ばたいても山の彼方に幸せがあるとは限らないのですが、ユーミンの歌を聴きながら、彼女はどうしているんだろう、幸せになっているんだろうか、と思いました。
2010.03.23 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
ハジマリノウタ

サンディライオンのレアシールの企画を行ったところ、おかげさまでご注文が殺到して、ここ数日は昼夜を問わず、ひらすら発送作業に没頭していました。途中、疲れたらベットに横になり、30分~1時間くらい休憩してまた作業に戻るというくりかえしで、最後は疲労と寝不足でパソコンや伝票の文字が二重に見える始末でした。今日あたりからやっと落ち着いた感じです。

その間、作業をしながら聴いていたのがいきものがかりの新しいアルバム・「ハジマリノウタ」です。特に、「YELL」はいい曲です。これは昨年度のNHK全国学校音楽コンクール「中学生の部」の課題曲だそうですが、今の中学生はこんな歌が課題曲だなんて幸せだなと思いました。私達の頃は、地元の滝廉太郎音楽祭に参加するのが精いっぱいで、それも課題曲は「春の小川」や「故郷」などいわゆる”文部省唱歌”と決まっていました。

年末のレコード大賞はいきものがかりじゃないかと思っていたので、残念でしたが、それにしても、2009年はレコード大賞だけでなく、天皇即位20年の奉祝歌もEXLEで、なんだかヤンキー文化が平成の日本文化の代名詞にでもなったかのようです(ちなみに、即位10年のときはYOSHIKIでした)。そういえば、押尾学もエイベックスでしたが、今やエイベックスなんてヤンキーの一大拠点と化していますし、社長からしてヤンキーっぽいのです。現物が街から姿を消しつつある中、ヤンキー文化(あるいはヤンキー的なもの=ヤンキーテイスト)は益々増殖する一方なのです。ヤンキー文化おそるべしです。
2010.01.09 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
ジョン・レノン

今日12月8日はジョン・レノンの命日でした。ニューヨークの自宅ダコタ・ハウス前の路上で暗殺されてからもう29年も経ったと聞いて、今更ながらに時の流れのはやさを実感せざるをえませんでした。

私は、ジョン・レノンというと、ひとりの同級生を思い出します。彼はジョン・レノンの熱烈なファンで、高校時代から髪型やあの丸メガネなどを真似していました。あるとき、放課後の教室で、ギターを手に「イマジン」を唄っていたのを今でも覚えています。そして、彼は高校を卒業すると、医学部に進学したのですが、ほどなく精神的な病におかされ精神病院に入院したという噂を耳にしました。私は、その話を聞いたとき、高校時代、彼がシュールリアリズムに凝っていたことや、シャガールが好きだったことを思い出しました。

ジョン・レノンを暗殺したマーク・チャップリンは今も刑務所に収監されているそうですが、ジョン・レノンファンだった彼も未だ精神病院に入ったままなのです。

同級生に会うと、よく「まだ、入っているのか?」「まだ、入っているらしいぞ」という話になるのですが、そのたびになんともいえずやりきれない気持になります。このままでは人生の大半を精神病院の中ですごすことになりそうで、「そんな人生があるか!」と思いますが、実際はそんな人生もあるのです。
2009.12.08 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
sweet sweet

今日はこちらは真冬のような寒さでした。しかも、冷たい雨まで降っていて、さすがに出かけるのもおっくうで、終日、家にこもっていました。

こんなときは暖かい部屋で音楽でも聴くのがいちばんです。たまたまラジオで耳にしたのあのわの「Sweet Sweet」という歌がいいなと思い、くり返し聴いています。たしかにcharaに似たところがありますが、この空気感というか、醸し出す雰囲気がなんともいえず都会的でオシャレなのです。せつない恋の歌にもかかわらず、私は、なぜか原宿や渋谷の路地裏にあったひと昔前の輸入雑貨の店を思い出しました。ちなみに、「Sweet Sweet」にも「つないだ手」という歌詞が出てきます。

ところで、今日は小林麻央が市川海老蔵と婚約?とかで、終日この話題で持ちっきりでした。これでは現場の記者達に同情せざるをえません。「オレ達が夜討ち朝駆けで取材しているというのに、歌舞伎役者やプロ野球選手とチャラチャラしてるんじゃねぇ~よ」という声が聞えてきそうです。

私はまだ読んでいませんが(というか、帯に山本モナの推薦文があったので買うのをやめたのですが)、柳美里の『オンエア』(講談社)もこういった世界を描いているのかもしれません。以前、モデルの女の子から、自分達がいかに業界の男達から欲望の対象として見られているかという話を聞いたことがありますが、女子アナもそういった世界と無縁だとは思えません。

雑誌『サイゾー』(12月号)のインタビューで、柳美里は、女子アナというのは同性に嫌われる傾向があると言ってましたが、なんとなくわかりますね。出自がよくて(いいとこのお嬢さんで)、容姿端麗で、一流大学卒なのですが、一方で、カマトトでどこか男に媚びているようなイメージがあるのです。女性にとって、「男に媚びる」というのは間違いなく嫌われる要素なのですね。テレビ局にすれば単なる視聴率稼ぎのお人形さんでしかないのかもしれませんが、それがどうして結構計算高く世渡り上手な面もあるのです。そういったところも同性の視聴者に反感をもたれる理由かもしれません。

そんな欲望や羨望や嫉妬などさまざまな視線にさらされる中で、今や女子アナという職業も女優やタレントと同じように「普通の(シロウトの)お嬢様にはできない」特殊な仕事になりつつあるのかもしれません。
2009.11.19 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
このところずっと忙しくて、これではいけないなと自分でも思っていました。それで、昨日今日と時間が空くので、久しぶりにどこかに出かけようかと思っていたら、あいにく雨でした。なんだかよけい気が滅入ってしまいました。

それでというわけではないのですが、突然、今流行りの歌を聴いてみたいと思いました。といって、何を聴いていいのかわからないので、いつも利用しているmoraで、邦楽の「楽曲ランキング」の中から女の子の歌を5曲選んでダウンロードしてみました。下記がダウンロードした曲です。ちなみに、この中で私が知っていたのは、いきものがかりと中島美嘉だけでした(Cil'BとRYTHEMは読み方もわかりません)。

いきものがかり「なくもんか」
Cil'B「つないだ手」
中島美嘉「流れ星」
西野カナ「もっと‥」
RYTHEM「ツナイデテ」

たまたまなのかもしれませんが、この5曲のうち「もっと‥」をのぞく4曲の歌詞に共通した言葉があることに気付きました。「つなぐ」という言葉です。心や手を「つないでいたい」「つないでいくんだ」というのです。「もっと‥」にも「どんな時でも離さない」というフレーズがありました。最近の歌にはこの「つなぐ」という歌詞がホントに多いですね。

恋をすれば、手をつなぎたい気持もわからないでもありませんが、大塚英志氏の言葉を借りれば、なんだか恋愛に仮託しながらみずからの実存を承認してもらいたい気持がありありと出ている気がして、これが今の若者の特徴なのかと思いました。

そう言えば(ちょっと小難しい話になりますが)、東浩紀より7才若い宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(早川書房)などを読んでも、どこかで群れることを志向しているような気がします。やはり、手をつなぎたいのかもしれません。

宇野は、国家や村のような伝統的な共同体や会社のようなコミュニティが求心力をもたなくなった今、グローバル化がもたらした「アイデンティティ不安」の受け皿として、「木更津キャッツアイ」のような「郊外型のコミュニティ」(中間共同体)が必要だと言っていました。でも、もしかしたら「木更津キャッツアイ」がそのノリでよさこいソーラン祭りになるかもしれないし、また「木更津キャッツアイ」にしても、宇野らが罵倒する派遣村とコインの表と裏でしかないのかもしれないのです。

いつでもだれでも入れ替え可能なそんなシステム化された仕事しかなく、それに、どこまでがウソでどこまでがホントかわからないような膨大な情報(データ)に晒されて生きることを余儀なくされるこの時代は、若者達にとって生きにくい時代であることはたしかでしょう。でも、前にも書いたように、「絶望の虚妄なること、まさに希望と相同 じい」(魯迅)ではないですが、私は、寄る辺なき生は寄る辺なき生でいいじゃないか、そんな孤独に耐え絶望に耐えて生きていくことが人生じゃないかと思っています。

いわゆる「恋愛至上主義」にしても、「生きがい」を与えてくれた会社共同体が機能不全になったため、個人的な人間関係にしか人生の意味を見いだせなくなり、その結果、「友人関係と家族関係を媒介する」恋愛が特権的な人生の価値になったというのですが、考えてみれば、それは今にはじまったことではありません。伝統的な共同体や会社共同体が十全に機能していた神代の昔から恋愛は特権的でした。だから、坂口安吾だって「恋愛は人生の花だ」と言ったのです。

そもそも人生に「生きがい」なるものがあるとしても、私は、恋愛のようなものにしかそれはないように思います。その意味では、「個人的な人間関係にしか人生の意味をみいだせなくなった」今の状況はむしろいいことだと思います。要は、好きなものを好きだという感覚と、『無印ニッポン』で三浦展氏が言っていた「ものを見て、かわいいとか、楽しいとかいう感覚」、この二つを肯定できれば、共同体などに依拠しなくても人生はそれなりに幸せなものになるのではないでしょうか。そう考えると、女子の方がはるかに時代を自分のものにしているという気がしますね。手をつないでいないと不安で仕方ないのは男子の方なのでしょう。
2009.11.14 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
先日、FM横浜の「濱ジャズ」という番組を聴いていたら、茅ヶ崎在住の南佳孝さんがゲストで出ていて、「最近、音楽をやる情熱が薄らいできた」と言ってました。それを聴いて私は加藤和彦さんのことが頭に浮かんだのですが、どうして情熱が薄らいてきたかというと、「結局、なんだかんだ言っても売れてなんぼみたいなところがあるから」だと言うのです。問答無用の市場原理主義におおわれた昨今の風潮は、音楽もまた例外ではないのでしょう。

南さんの発言に対して、番組を担当しているDJのゴンザレス鈴木氏が、「本や音楽やファッションとかいったものがホントは時代を作っているんですけどね。それは変わってないと思いますよ」と言ってました。しかし、南さんは、「それはそうなんだけど、ただ、最近のファッションもどこがいいのかよくわからないよ」と言ってました。

私は、南さんの発言を聴いて、本や音楽やファッションといったような「文化」が時代を作っているという認識自体がもう通用しなくなっているのではないか、と思いました。たとえば、若い世代を代表する批評家(といっても団塊ジュニアですが)・東浩紀氏は、大塚英志氏との対談の中で、そんな状況を「データベース消費」という言葉で表現していました。

前近代では家族との関係が基本だった。つまり小さな物語しかなかった。ところが近代では、地域共同体や家族といった「小さな物語」の世界が崩れて、国家レベルの「大きな物語」が登場する。しかし、ポストモダンではその「大きな物語」も崩壊して、文化的なデータベースにリンクして自分の人格を形成するという方向になってきた。
(大塚英志+東浩紀 『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)


つまり、「どう生きるべきか」とか「この社会はどうあるべきか」とかいったような「物語」は必要とせず、人はただ文化資本が提供するデータベースにリンクして自己イメージを形成し、「興味のあるもの」に生理的に反応するだけの、そんな無機質な社会になったのだと言うのです。東氏は、それを別の言い方で「動物化」とも言ってます。明治時代、学生の間では「煩悶」という言葉が流行ったそうですが、もはや「自分とはなにか」と煩悶するなんてことはなくなったのでしょうか。

この高度情報社会では既にさまざまな個人情報がひとり歩きしていますが、実際に私達も、そのひとり歩きした個人情報のイメージに規定されている”自分”を実感させられることはよくあります。そして、そこで必要とされるのは、単なる定型=ステレオタイプな物語であって、南さんのように、自分らしいこだわりも愛着も必要ないのです。つまり、そこにあるのは、個人の自由な感覚ではなく、あらかじめ与えられた”定型”なのです。

話を大きくすれば、ひとは無意味なものでも感動できてしまうのだ、文化とは結局のところ脳の生理的反応のことなのだ、というパンドラの箱が開かれたんだと思います。たとえばいままで宗教的な悟りだと考えていたものが、ドラッグによっても実現可能だと分かってしまう。日本のオタク系文化もアメリカのハリウッド映画も、規模や見え方こそ違うけれどその基本的な変化は共有していて、オタクであれば萌え要素の組み合わせと物語の定型によって、ハリウッドであれば視聴覚的な刺激と物語の定型によって、かつて「感動」と呼ばれていたもののかなりの部分まで置き換えることができる、そういう信念のもとに動いている文化です(略)

南さんの発言もそういった時代の空気を感知した中から出てきたものではないでしょうか。加藤和彦さんも亡くなる前に、「もう世の中は音楽を必要としてないのかもしれない」と言っていたそうですが、それも同じような気持だったのかもしれません。そして、そういった「データベース消費」の時代の空気とネオリベラリズム(市場原理主義)を支える心性は見事に波長が合っているような気がしてなりません。それが今の時代というか、今の若者達のリアルな風景なのです。
2009.11.08 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
もう酒井法子のことを書くのはやめようと思ったのですが、公判での「介護の勉強をしたい」発言についてひと言。これで打ちどめにします。

彼女の発言に対して、介護の現場で「戸惑い」や「反発」の声があるのは当然でしょう。そもそも介護の仕事をするのに、どうしてわざわざ4年制の専門学校の通信教育を受けなければならないのかという疑問もあります。通常は30時間の実習を含めた130時間の研修を受けて、ヘルパー2級の資格を取得し、あとは現場で実務経験を積んで、介護福祉士の国家試験に挑戦したりケアマネージャーをめざしたりするのです。少なくとも酒井法子と同じくらいの年齢で、介護の仕事に就く場合、そういったコースをたどるのが一般的です。もっとも、酒井法子の場合は、「仕事がしたい」ではなく「勉強がしたい」というところがミソなのかもしれませんが。

私はほとんど朝しかテレビを観ないのですが、先日のフジテレビの「どーも☆キニナル!」で、酒井法子の「介護の勉強をしたい」発言について、コメンテーターのお笑い芸人(名前は不明)が、「実際に介護をやっている人達からはホントに介護の仕事をわかっているのかというような疑問の声もありますね」と批判めいたコメントをしていました。すると、フジご用達の芸能レポーター・前田忠明が、「いや、それは本気ですよ」とやや感情的とも言えるような言い方で、件のお笑い芸人の発言を封印する場面がありました。

私はその場にデヴィ夫人がいたら面白いのにと思いましたが、案の定、今日の「どーも☆キニナル!」で、デヴィ夫人は酒井の発言について、「なんだか作為的な気がしてなりませんわ」と言ってました。もっとも、その発言も西山喜久恵アナの「作為的な」横やりですぐにかき消されてしまいましたが。

そう言えば、酒井法子がまだ勾留されていたとき、サン・ミュージックの相澤秀禎元会長のもとに、酒井本人から反省している旨の手紙が届いたとして、さもうれしそうに相澤元会長がインタビューにこたえているシーンがやはりフジテレビで放送されていましたが、そのとき、顔は出ていなかったものの、インタビューしている声はあきらかに前田忠明でした。このように酒井の事件に関して、前田忠明はサン・ミュージックと一体となって、酒井反省のイメージ作りにひと役かっている気がしてなりません(狙いは酒井法子の独占インタビューか?)。

そもそも酒井を解雇した元所属プロダクションの元社長らが未だに彼女の周辺をうろついていること自体、おかしな光景ですね。それは、14才のときから自宅に住まわせて面倒をみてきた親心だと言うのですが、私に言わせればよく言うよという感じです。要するに、商品として金の成る木にするために「自宅に住まわせて面倒をみてきた」だけで、家庭的にめぐまれない子供を里親としてめんどうをみてきたわけではないのです

今回の「介護の勉強したい」発言も相澤元社長らのアドバイスによるものだそうですが、下衆の勘繰りで言わせてもらえば、公判対策であるとともに、どうも「復帰」への地ならしの意図もあるように思えてなりません。要するに、マネーロンダリングのようなものでしょう。そして、そういった芸能界のうさん臭さを補完しているのが前田忠明ら芸能レポーター達なのです。

意地の悪い見方かもしれませんが、私は、クスリをぬくために逃亡したり、クスリの入手先の情報が入った(?)携帯電話を壊して捨てたりという、酒井法子のシロウトとは思えないしたたかさが、この「介護の勉強したい」発言にもうかがえるような気がしてならないのです。

>>魔性
2009.10.28 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
石田純一   

芸能ネタを。

朝、テレビをつけたら、デヴィ夫人がえらい剣幕で「こんなのおかしいわよ!」と叫んでいる場面が目に飛び込んできました。なんだろう?と思ったら、石田純一とプロゴルファーの東尾理子が、ギリシャのエーゲ海で”公開プロポーズ”したことに対して怒っていたのでした。

デヴィ夫人曰く、”公開プロポーズ”なんて要するにプライバシーを切り売りしているだけだ。プロポーズはもともと二人だけのもので、公開するようなものじゃない。石田純一のコメントはすべてがわざとらしくて計算されたものでしかないと。

ごもっともですね。私も”公開プロポーズ”を見るにつけ、村西とおる監督ではないですが、芸能人というのはやはり「カタギ」ではないなとあらためて思いました。

石田純一にすれば、今更トレンディドラマでもないでしょうから、そうやってみずからのプライバシーを切り売りすることで、バラエティやイベントの引き立て役として芸能界で生きていくしかないのかもしれません。生産手段をもたないプロレタリアはみずからの労働力しか売るものがないと言ったのはマルクスですが、芸が枯渇した芸能人はもはやプライバシーを売るしかないのでしょうか。芸能人というのは並みの神経ではできない職業であることはたしかですね。

フェラーリに乗りつづけるために石田純一も必死なのでしょうが、ただ、テレビの前に鎮座するのが市民社会の公序良俗を旨とする「お茶の間の論理」であることを考えれば、そうそう計算どおりにいくとは限りません。一歩間違えば、プライバシーを切り売りする「いやらしさ」が鼻につく場合だってあるのです。

ほかならぬ私自身も、今まではこの22歳の年の差カップルにみずからを重ねあわせてひそかに期待するものがありましたが、今度は一転して”理子パパ”の気持になっている自分がいます(笑)。なんだか世間知らずの東尾理子は名うての結婚詐欺師に籠絡され、一途な気持をいいように利用されている気がしないでもないのです。

ホントにこのまま順調にいくんだろうか、もしかしたらそのうち目がさめてひと波乱あるのではないかと期待半分で思ったりしますが、しかし、そうなればそうなったでしばらくはマスコミの関心を引くことができるわけで、石田純一はどっちに転んでもタダでは起きないようになっているのですね。

いづれにしても、バラエティ番組ではややずれた(KYな)存在として重宝されているデヴィ夫人ですが、今回の”公開プロポーズ”に関しては至極マトモだったように思います。
2009.09.30 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲