あんぽん 孫正義伝


著者の佐野眞一氏は、ご存知のとおり、『週刊朝日』に連載した「ハシシタ 奴の本性」で批判を浴び、責任をとってペンを置いたのですが、この『あんぽん 孫正義伝』を読み返すと、あらためてこの本がすぐれたルポルタージュであることを痛感させられるのでした。ベストセラーになったのもよくわかります。

著者は、父親の正憲氏に焦点を当てることで、孫正義氏を典型的な“在日の物語”を背負った人物として描いているのでした。日本国籍を取得するに際して、それまで名乗っていた通名の「安本」ではなく、本名の「孫」を名乗ることを決心し、日本名としての前例がないことを理由に「孫」を認めない法務当局と何度も折衝の上、「孫」という朝鮮名での日本国籍取得を実現した孫正義氏の“こだわり”が依拠するのも、一家の“在日の歴史”です。孫氏は、日本国籍を取得するに際して、あらためて自分のルーツが朝鮮半島にあることを宣言したのです。

私がこの本でいちばん印象に残ったのは、功成り名を遂げた孫正義氏が鳥栖の駅前にふらりとやってきて、かつて自分が住んでいた場所を感慨深げに眺めていたという、つぎのシーンです。(文中の引用は、すべて『あんぽん』より)

 孫正義の一家がかつて住んでいた場所には、現在、ファミリーレストランが建っている。その周辺で聞き込みを続けていると、数年前にこのあたりでばったり孫正義に会ったというタバコ屋の主人に遭遇した。
 そのタバコ屋の主人によれば、鳥栖駅前で孫に会ったのは、ダイエーホークスが親会社ダイエーの経営難から売却され、球団オーナーがソフトバンクホークスに変わった年だったという。ということは二〇〇五年のことである。

「店の前をどこか見た人が通り過ぎたんですよ。誰やったかなあ……としばらく考えて、ようやく孫正義さんだと気がついた。結婚式場のあたりをぼけーっと眺めていた孫さんに駆け寄って声をかけると、『ああ、おじさん』って、私のことを覚えてくれていたんです。『懐かしいなあ、僕の家、どこやったかね』と言うので、ファミリーレストランの付近を指差して、このあたりだと教えてあげました。
 しばらく感慨深げにそのレストランを眺めていましたね。地味なジャンパーにスラックスという、普通の恰好をしていましたね。近所のおじさんという感じでした。たったそれだけのことですが、孫さんがひとりでふらっと鳥栖に寄ってくれたのは嬉しかったですね」


そこは、最盛期に数十戸のバラック小屋が軒を連ね、三百人くらいの朝鮮人が身を寄せ合って暮らしていた「朝鮮部落」でした。朝鮮人たちは、軒先で豚を飼ったり、密造酒を作ったりして、それを生活の糧にしていたのです。

当時の暮らしについて、「朝鮮部落」に住んでいた元住民は、つぎのように話していました。

「狭い豚小屋にぎゅうぎゅう詰め込まれて、残飯ばかり食わされ、糞も小便も垂れ流しです。足が腐った豚もいた。しかも、その場所で豚を締めるんです。解体して肉やホルモンをとる。食べる部分以外は、朝鮮部落前にあるドブ川に流していたから、すごい臭いなんです」


孫正義氏の従兄弟の話では、孫少年は、そんな「朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ建て小屋の中で、膝まで水に浸かりながらも、必死で勉強していた」そうです。著者の佐野眞一氏は、その話を聞いて、「孫正義という男をつくってきた背骨のありかが、よくわかった」と書いていました。

九州では、養豚業のことを「豚飼い」と言うのですが、私も子どもの頃、「豚飼い」の人が、豚の餌にする残飯をもらいにリヤカーを引いて近辺の家々をまわっていたのを覚えています。リヤカーに積んだ石油缶のような“残飯入れ”から放たれる強烈な臭いに、私たち悪ガキは、鼻をつまんで急ぎ足でその横をとおりすぎたものです。

九州で会社勤めをしていた頃、取引先に在日朝鮮人の社長がいましたが、その社長もやはり、親が「豚飼い」をしていたと言ってました。在日朝鮮人が戦後、生活のために「豚飼い」をしていたというのは、九州ではよく見られた光景だったのでしょう。

また、本には孫氏が子どもの頃、豚の金玉を七輪で焼いて食べていたという話が出てきますが、私も子どもの頃、遊び場のすぐ脇にあった豚小屋で、「金抜き」と呼ばれていた仔豚の去勢を見たことがあります。「金抜きがはじまるぞ」とはやし立てながら豚小屋に向かうと、ギャーギャー泣き叫ぶ仔豚を大人たちが押さえ付けていました。そして、息を呑んで見つめる私たちの目の前で、「金抜き」(金玉の切断)がおこなわれるのでした。「金抜き」のあと、切り落とされた金玉はそのまま草むらに放置されていましたが、朝鮮人たちはあれを七輪で焼いて食べていたのです。

もっとも、孫少年にとって、鳥栖駅前の「朝鮮部落」の生活は、小学校に上がるまでで終わります。と言うのも、父親の正憲氏が、北九州の黒崎に事務所を構え、八幡製鉄所の工員相手に金融業(サラ金のはしりのようなもの)をはじめたからです。商才に長けた正憲氏は、さらに金融業で儲けたお金を元手にパチンコ業に転身し、九州一のパチンコチェーンを築くまでになったのでした。最盛期には、孫一族がもっていたパチンコ店は、福岡と佐賀に56軒もあったそうです。

そうやって成功した父親からの潤沢な資金(仕送り)によって、孫少年は九州屈指の進学校・久留米大付設高校へ進学、さらに同校を1年の半ばで中退するとアメリカ留学へ旅立つのでした。

それは、「ウンコ臭い水があふれる掘っ建て小屋の中で、膝まで水に浸かりながらも、必死で勉強していた」頃からわずか10年後の話です。そうやって短期間に生活がジャンプアップしたことが、孫氏の「前のめりに突っ走る危うさ」や私生活の「子どもじみた」成金趣味につながっているように思えてなりません。

それはまた、両班(ヤンバン)の末裔だと言いながら、下品で粗野な朝鮮語を使い、お互いを罵り合うような孫一族の仲の悪さなどにもつながっているように思います。とは言え、孫正義氏もまだ在日三世にすぎないのです。差別と貧困の記憶が、心のなかに刻まれている世代でもあるのです。多くの在日朝鮮人の成功者と同じように、「子どもじみた」成金趣味に走るのも無理からぬものがあると言えるのかもしれません。

成金趣味と言えば、ソフトバンクが福岡ダイエーホークスを買収し球団経営に乗り出したのも、経営するパチンコ屋の店名に「ライオンズ」と付けるほど熱烈な西鉄ライオンズファンだった父親への「恩返し」ではないかという親戚の話がありました。実際に、正憲氏本人も、自分がホークスの買収を息子に進言したと証言しているのでした。

金貸し時代から20年間、父親の正憲氏の下で働いた夫人の弟(つまり孫正義氏の叔父)は、正憲氏のことをつぎのように証言していました。

「口癖は『信用できるのは、金と自分だけ』という人間でしたからね。確かに事業欲だけはすごかった。事業を常に大きくしていくことに執着していました。立ち止まるということを知らない人でした」

「メチャクチャ人づかいが荒かった。正直、奴隷みたいなものでした」

「義理人情の人ではない。人間的にはついていけませんでした。あの人から、優しさみたいものを感じたことは一度もありません」

「やめたいと言ったときには『わかった』と言って、すぐ椅子を振り上げるんです(笑)。いつもそうでした。気が短くてキレやすい」


別の「元ヤクザ」の義弟は、著者のインタビューで、正憲氏について、こう言っています。

「(略)あいつはとんでもないヤツだ。まともじゃない。東京に出てきたら半殺しにすると、あいつには、はっきり伝えてある」


もっとも、正憲氏自身もつぎのように言っていたそうです。

「顔を合わすと、いつも殴り合いのケンカですから、もう本当に『血はうらめしか』ですよ。血がつながった実の姉弟同士ですからね。本当に『血はうらめしか』です」


ちなみに、孫正義氏の両親は、取材時は別居していて、正憲氏は、インタビューでも、夫人のことを「くそババア」と悪態を吐いていたそうです。

でも、これは、在日朝鮮人の間では別にめずらしい話ではありません。知り合いの在日の身内には、それこそ朝鮮総連で活動している者もいれば、ヤクザまがいの金貸しや不動産屋もいるし、もちろん、土建屋や焼き肉屋やパチンコ店や芸能プロダクションを経営している者もいました。三世四世になると、医者や弁護士など“士業”が多くなるのもこの本に書いてあるとおりです。IT時代の前には、テレクラやゲーム機で大儲けしたという者もいました。父親の友人(頼母子講の仲間)には、誰でも知っているアイドル歌手や人気女優の父親などもいました。

もちろん、差別や貧困から這い上がってきた者に上品さや紳士的な素養を求めるのは無理な相談でしょう。それこそ並大抵の根性やバイタリティがなければ這い上がることはできないのです。孫正義氏が中学生のとき、「『僕のお父さんの知り合いにコワい人がいる。そんな人が家に出入りするのがイヤなんです』と担任に打ち明けた」のもわからないでもありません。

孫正義氏の家族もまた、典型的な”在日の一族”と言えるでしょう。著者が書いているように、それが一部の人たちから、孫氏がうさん臭く見られる要因にもなっているように思います。そして、いちはやくトランプに取り入る狡猾さ、節操のなさも、そういった生い立ちからきているように思えてならないのです。

在日朝鮮人の知り合いから「ぶっ殺してやるぞ」などと言われた人間からみれば、朝鮮人とお互いに理解し共存していくなんてとても無理なことのように思えます。少なくとも、左派リベラルのステレオタイプな在日像では期待を裏切られるだけでしょう。もし理解や共存の道があるとすれば、それこそヘイトぎりぎりの本音をぶつけ合うことからはじめるしかないように思うのです。

孫正義氏は、まぎれもなく在日のヒーローであり、現代の若者たちにとってもIT時代のヒーローです。でも、著者の佐野眞一氏は、その裏に、あまりにも人間臭い、在日特有のハチャメチャと言ってもいいうような一族の存在とその歴史があることを、丹念な取材であきらかにしたのでした。それが、この本が傑出したルポルタージュであるゆえんです。


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在日の「心の中の襞」
2017.02.12 Sun l 本・文芸 l top ▲
トランプが発令したイスラム圏7カ国の国民の入国を一時的に停止する大統領令によって、アメリカ国内だけでなく世界が混乱しています。

ここまで大統領令の“威力”を見せつけられると、アメリカは法治国家ではなく人治国家じゃないのかと思ってしまいます。トランプはもともと政治家ではないので、突飛な発想を実行に移すことになんのためらいもないのでしょう。こんなことをやっていたら、目には目をで、YouTubeにアメリカ人の首切り映像がアップされる怖れさえあるでしょう。

”トランプ現象”というのは、日本で言えば、ネトウヨで有名なTクリニックの院長が大統領になったようなものかもしれません。核のボタンやCIAを動かす権限がT院長の手に渡ったのです。そう考えれば、背筋が寒くなるのは私だけではないでしょう。

果たして、4年の任期を全うできるのかという声もありますが(本人は2020年の次期大統領選の出馬も既に表明しているそうですが)、問題はトランプよりトランプの周辺にいてバカ殿を利用している政商たちでしょう。彼らにとって、戦争も格好のビジネスチャンスなのです。

このような内向きの政策が可能なのも、アメリカ人は世界を知らない無知な国民だからだという指摘があります。

Compathy Magazine
日本にも当てはまるかも!アメリカ人が海外に行かない3つの理由

上記の記事によれば、2014年のアメリカ人のパスポート保有率は36%で、それに対してイギリス人やオーストラリア人は70%なのだそうです。ちなみに、同年の外務省の旅券統計によれば、日本人のパスポート保有率は24%で、海外に出国する人の割合は14%だそうです。日本人は、アメリカ人より海外に行かないのです。

ただ、日本人の場合、欧米に対するコンプレックスがありますので、実際に行かなくても海外に対する関心だけは高いのです。しかし、アメリカ人には、極東に対するコンプレックスなんてありません。そのため、他国民に非人道的な措置をとれば、自分たちがそれだけリスクを負うことになるという発想もないのでしょう。まして世界には自分たちと違う文明や違う宗教の人々がいて、そういった人々とも共存していかなければならないという初歩的な発想さえないのでしょう。反トランプのデモをしているのは、海外に行くことの多いニューヨークやワシントンなど都会の高学歴のエリートたちなのかもしれません。

アメリカの学校では、「地球についてあまり教わらないことが多」く、「外国語をあまり勉強しない、交換留学プログラムに参加しない、世界の国々の事情について話さない」そうです。私たちが抱いているアメリカ人のイメージと実際のアメリカ人の間には隔たりがあるようです。それが、“トランプ現象”がいまひとつ理解できない理由のように思います。

いづれにしても、トランプの”錯乱”で、アメリカが超大国の座から転落するのにさらに拍車がかかるのは間違いないでしょう。トランプは、その引導を渡す役回りを演じていると言えるのかもしれません。

今回の入国制限について、アップルやマイクロソフトやグーグルやフェイスブックやツイッターなどのIT企業がつぎつぎと懸念を表明しています。そのため、いち早くトランプタワーを訪れ、トランプ一家に揉み手して、トランプから「マサ」などと呼ばれ親密さをアピールした孫正義氏の無定見な銭ゲバぶりが、よけい際立っています。『あんぽん 孫正義伝』で著者の佐野眞一氏が指摘していた孫正義氏の「前のめりに突っ走る危うさ」が、ここにきて露呈したような気がしないでもありません。

「朝鮮では食えず日本への渡航を繰り返した元鉱山労働者の祖父と、朝鮮で戦前に生まれて日本に渡り、戦後母国に戻って、再び日本に密航してきた父」「日本に密航後、鳥栖駅前の朝鮮部落に吹き寄せられるように住み着いた孫一家は、養豚と密造酒づくりで生計を立て、金貸しを経て、やがて九州一のパチンコチェーン経営者となった。そして、その一家から孫正義という異端の経営者が生まれた」(『あんぽん』より)のです。孫正義氏は、典型的な「在日」の歴史を背負った、言うなれば”移民の子”なのです。”移民の子”が移民排斥を主張するファシストをヨイショしているのです。人間のおぞましさを見た気がするというのは、決してオーバーな表現ではないでしょう。

孫氏ばかりではありません。入国制限について、「コメントする立場にない」と言った「宰相A」を筆頭に、株価が上がりさえすればそれでいいと言わんばかりに”トランプラリー”を煽ってきたテレビ東京(日経新聞)の証券アナリストなど、この国はトランプに対して最低限の見識さえもてない”下等物件”(©竹中労)ばかりです。彼らは、無知なアメリカ人に対して、(骨の髄まで対米従属が染みついた)情けない日本人と言うべきかもしれません。


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2017.01.31 Tue l 社会・時事 l top ▲
ヘイトクライムが当たり前のような時代。「トランプの時代」をひと言で言えば、そう言えるのかもしれません。小泉政権の頃、「扇動政治」ということばがさかんに使われましたが、ヘイトクライムで国民の負の感情を煽り国家主義的な運動に動員する手法は、ファシズムそのものでしょう。もちろん、それは、日本とて例外ではないのです。

そんななか、やっぱり「上か下か」ではなく「右か左か」が重要だという声があります。それを現実の政治に即してわかりやすく言えば、トランプやアベやハシシタ流のポピュリズムに、SEALDsや野党共闘の「左派リベラル」を対置するという考えでしょう。

しかし、私たちは、「左派リベラル」がまったく対抗勢力になり得てない現実をもう嫌になるほど見てきたのです。そもそも(何度も言いますが)、民進党なんて野党ではないのです。民進党を、野党と呼ばなければならない不幸をもっと深刻に受け止めるべきでしょう。民進党は自民党と中間層の奪い合いをしているだけです。

既存の「左派リベラル」が、大衆(特に下層の人々)から離反しているのはあきらかでしょう。彼らは、中間層の声を代弁しているにすぎないのです。(後述する記事にあるように)なにより大衆に語りかけることばをもってないのです。

ブレイディみかこ氏は、「ポピュリズムとポピュラリズム:トランプとスペインのポデモスは似ているのか」という記事で、「年収3万ドル以下の最低所得層では、(略)前回は初の黒人大統領をこぞって支持した人々の多くが、今回はレイシスト的発言をするトランプに入れたのだ」と書いていました。

Yahoo!ニュース
ポピュリズムとポピュラリズム:トランプとスペインのポデモスは似ているのか

そして、つぎのような『ガーディアン』紙のオーウェン・ジョーンズの文章を紹介していました。

ラディカルな左派のスタイルと文化は、大卒の若者(僕も含む)によって形成されることが多い。(中略)だが、その優先順位や、レトリックや、物の見方は、イングランドやフランスや米国の小さな町に住む年上のワーキングクラスの人々とは劇的に異なる。(中略)多様化したロンドンの街から、昔は工場が立ち並んでいた北部の街まで、左派がワーキングクラスのコミュニティーに根差さないことには、かつては左派の支持者だった人々に響く言葉を語らなければ、そして、労働者階級の人々の価値観や優先順位への侮蔑を取り除かなければ、左派に政治的な未来はない。


また、ブレイディみかこ氏もつぎのように書いていました。

エル・パイス紙(引用者注・スペインの新聞)は、ポデモスとトランプは3つのタイプの似たような支持者を獲得していると書いている。

1.グローバル危機の結果、負け犬にされたと感じている人々。

2.グローバリゼーションによって、自分たちの文化的、国家的アイデンティティが脅かされていると思う人々。

3.エスタブリッシュメントを罰したいと思っている人々。

「品がない」と言われるビジネスマンのトランプと、英国で言うならオックスフォードのような大学の教授だったイグレシアスが、同じ層を支持者に取り込むことに成功しているのは興味深い。


前も書きましたが、トランプに熱狂した下層の人々は、本来なら革命に熱狂する人々だったのかもしれないのです。まさにナチス(国家社会主義ドイツ労働者党!)のときと同じように、革命の「条件」がファシストに簒奪されているのです。

ネオコンの出自はトロッキズムだと言われるように、左翼のインターナショナリズムがグローバリゼーションと思想的に近しい関係にあるのは否定できないでしょう。左翼がグローバリゼーションを批判するのは、思想的に矛盾しているとさえ言えるのかもしれません。

「右派ポピュリズムを止められるのは左派ポピュリズムだけ」というのは、含蓄のあることばだと思います。生活保護の基準以下で生活している人が2千万人もいるこの日本でも、ポデモスやSNP(スコットランド独立党)のような、(”急進左派”と呼ばれる)下層の人々に立脚した政治が待たれますが、そのためにも、右か左かではなく、上か下かの視点が大事なのだと思います。


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日本で待ち望まれる急進左派の運動
2017.01.29 Sun l 社会・時事 l top ▲
松方弘樹の死に対しての梅宮辰夫のコメントに胸がしめつけられるような気持になりました。老いて先に逝く友人を見送る(見送らなければならない)悲しみがよく出ているように思いました。

Yahoo!ニュース(日刊スポーツ)
梅宮辰夫、盟友松方さんの死に「寂しいし、悲しい」

松方弘樹が脳リンパ腫で入院したのは、昨年の3月だそうですから、約10か月間の闘病生活を送ったことになります。その間、定期的に見舞いに行っていた梅宮辰夫が話す闘病の様子は、老いの哀しみやせつなさがしみじみと伝わってきます。それにしても、死に行く人たちというのは、どうしてみんな立派なんだろうと思います。「病と戦う」とか「死と戦う」という言い方がありますが、「戦う」姿は立派なのです。

ごく身内の人間だけで見送られる最期。これも“家族葬”や“直葬“が主流になりつつある現在ではよくある光景でしょう。そのなかに親しくしていた友人がいたら、どんなにうれしいでしょう。

人生の最期は、やはり悲しみで幕を閉じるのです。人間は、泣きながら生まれてきて、泣きながら死んでいくのです。悲しみを悲しみとしてとらえる、人生に対する謙虚な考えがなにより大事なのだと思います。

先日、同年代の知り合いと話をしていたら、親の話になりました。正月に父親が倒れて救急車で大学病院に運ばれたそうですが、近いうちにリハビリを受けるために転院しなければならないけど、リハビリの病院も、いわゆる“90日ルール”で短期しか入院できないので、そのあとどうするか、頭を悩ましていると言ってました。

お母さんが数年前に亡くなったことは知っていましたが、お母さんが亡くなったあと、お父さんは実家でひとり暮らしをしていたのだそうです。しかも、奥さんの実家も老々介護の両親が二人で暮らしており、そのため、夫婦の間で、お互いの親について干渉しないという取り決めになっているのだとか。

亡くなったお母さんは末期がんだったそうで、最後のほうは認知もはじまり、実家に行っても「何しに来たんだ」「帰れ」などと言われてつらかったと言ってました。当時は、そんな様子は微塵も見せずに、いつも冗談を言って明るく振舞っていましたので、その話を聞いてびっくりしました。

親の姿は、明日の自分の姿でもあります。病院に勤め多くの患者を見てきた知人は、親孝行な子ども(特にひとり娘)ほど過剰な負担を抱え苦労すると言ってました。そのために共倒れしたら元も子もないので、ある程度の“親不孝“は仕方ないのではないかと言うのです。私がその話をしたら、やはり子どもが娘ひとりしかいない彼は、「だから、老後は世界を放浪して旅先で死ぬのが理想だよ」と言ってました。趣味が音楽なので、路上演奏で旅費を稼ぎながら世界を放浪してそのまま死ぬのが理想なのだと。

私は、その話を聞いて、五木寛之が書いていた「林住期」という古代インドの考えを思い出しました。彼の理想には、単に荒唐無稽とは言えない、彼なりの人生に対する考えがあるように思いました。
2017.01.26 Thu l 訃報 l top ▲
実話BUNKAタブー2016年2月号


トランプがツイッターで、LLビーンの商品の購入を呼び掛けたことで、逆にLLビーンの不買を呼び掛けるツイートが広がり、反トランプの不買運動がにわかに注目を集めています。

トランプが購入を呼び掛けたのは、創業者の孫娘がトランプを支持する政治団体に献金したからだそうです。トランプの政治観は、損得勘定だけだという批判がありますが、献金してくれたから購入を呼び掛ける、こういったところにもトランプの政治家としての資質に疑いをもたざるをえません。

就任式で、メラニア夫人が着ていたブランドはラルフローレンだったそうですが、私は、去年今年とたてつづけにラフルのダウンを買ったばかりで、なんだかこのニュースを見てラルフを着るのが恥ずかしくなりました。

私は身体が大きいので、普段はアメリカの(安い)ブランドばかり買っているのですが、LLビーンもそのひとつです。折しも今日、LLビーンからカタログが届いたばかりで、今年の冬は、ラフルのダウンにLLビーンのセーターとコーデュロイのスラックス、それにニューバランスのスニーカーが定番でした。役員がトランプ支持を表明したニューバランスも不買運動の対象になっていますので、これでは不買運動が歩いているようなものです。

不買は過剰反応ではないかという声もありますが、それだけトランプに反発する声が大きいということでしょう。アメリカの反トランプデモを見ると、「FASCIST」という文字をよく目にしますが、日本ではなぜかそういった見方は少ないようです。

メディアの報道も危機感の欠けた的を外したものばかりです。80年前のナチス政権誕生の際も、おそらくこんな感じだったのではないかと想像されますが、しかし、今回は日本の“宗主国”の大統領なのです。その影響はヒットラーの比ではないでしょう。

「宰相A」同様、いち早くトランプタワーを訪問し、トランプをヨイショした孫正義氏は、さすがネットの守銭奴の面目躍如たるものがあると言えるでしょう。幼少期、在日朝鮮人として差別を経験した人間が、長じてヘイトクライムの権化のような人物にすり寄り揉み手しているのです。

『あんぽん 孫正義伝』(佐野眞一著・小学館)によれば、孫正義氏が生まれたのは、佐賀県の鳥栖駅に隣接する「豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いがする朝鮮部落」だったそうです。そして、多くの朝鮮人の子どもたちと同様、日本人から汚いとか近寄るななどと言われて石を投げられた経験があり、そのときの傷跡が今でも頭に残っているそうです。それが今では石を投げる人間の側に立っているのです。かつての自分と同じように差別に苦しんでいる子どもたちがいることなど、まるで頭にないかのようです。お金のためなら悪魔にでも魂を売るのでしょうか。私は、そこに人間のおぞましさのようなものさえ覚えてなりません。そして、編集権の独立と無縁なYahoo!ニュース(Yahoo!トピックス)が、トランプ批判にどこか遠慮がちなのもわかる気がするのです。

一方、日本では、南京大虐殺を否定する元谷代表の著書を客室に常備しているアパホテルや、東京MXテレビで沖縄ヘイトのニュース番組を制作しているDHCなど、トランプまがいの社長が率いる会社が批判を浴びています。

1年前の『実話BUNKAタブー2016年2月号』(コアマガジン)には、『日本会議の研究』の著者の菅野完氏が書いた(と本人が明らかにしている)「愛国ネットウヨ企業大図鑑」という記事がありました。記事では、不買運動をしたくなるような、トンデモ思想に染まった「ネトウヨ企業」がずらりと紹介されていました。

アリさんマークの引越社、ゴーゴーカレー、アパグループ、イエローハット、カドカワ(ニコ動とKADOKAWAの持株会社)、DHC、フジ住宅、高須クリニック、播磨屋おかき。大企業では、出光興産、九州電力、ブリヂストンサイクル、JR東海などの名があがっていました。しかも、そのなかには、ブラック企業として知られている会社も多いのです。

今後、孫正義氏のように、トランプ詣でする経営者が続出するのは間違いないでしょう。これも「本音の時代」のひとつの姿と言えるのかもしれません。
2017.01.23 Mon l ネット・メディア l top ▲
昨日の夜、馬車道から東横線に乗ったら、すぐ脇の座席に作家の某氏が座っているのに気付きました。私も、氏の作品は何冊か読んだことがあり、ナショナリズムをテーマにした著書は、このブログでも紹介したことがあります。氏は、新書を読んでいたのですが、見ると本には付箋がびっしり貼られていました。氏は、気になる部分にマーカーペンでラインを引き、さらにラインを引いたページに付箋を貼っていました。

それは、私と同じ読書スタイルでした。しかも、その付箋も私が愛用しているのと同じフイルム素材のものでした。氏は、時折、眉間に皺を寄せた険しい表情で車内の乗客をみまわしていました。週末の乗客を軽蔑しているのかなと思いました。だったら、それも私と同じです。作家のように、わが道を行く独立不羈の精神をもっていれば、ときに世間に対して不遜になることもあるでしょう。

一方、私はと言えば、最近、めっきり本を読む量が少なくなっています。年を取り、老眼鏡が手放せなくなったのですが、老眼鏡をかけて本を読むことに、どうも違和感を覚えてならないのです。

昨日は、健康診断に行ったのですが、視力が0.6と0.7でした。先生から「眼鏡をかけていますか?」と言われたのですが、「老眼鏡をかけるだけです」と答えたら、「眼鏡をかけなくて困ることはないですか?」と訊かれました。たしかに夜間車を運転する際、以前に比べて見づらくなったことは事実です。運転免許証の更新でひっかかる可能性もありますので、いづれ眼鏡を作らなければならないのでしょう。そうなると、ますます本を読まなくなるのかもしれません。

考えてみれば、別に本を読まなくても困らないし、あたらしい知識なんて必要ないのです。人生にとって、そんなことは取るに足りないものです。「アベ万歳」「ハシシタ(?)万歳」「トランプ万歳」「Google万歳」と言っていれば、なんとか人生は進むのです。むしろ、沖縄の土建業者のように、おいしい人生を手にすることができるのかもしれません。

マル激トーク・オン・ディマンドで内山節氏が言ってましたが、「自由・平等・博愛」といった近代の理念は、欧米の先進国が世界の富を収奪し独り占めする、そんな構造を前提に成り立っていた幻想にすぎなかったのです。近代が行き詰った現在、近代の理念をかなぐり捨てた「本音の時代」になってきたというのは、そのとおりでしょう。内山氏が言うように、差別や搾取や戦争というのは、もともと近代の社会が内蔵していたもので、それが表に出てきたにすぎないのです。

むき出しの「本音の時代」というのは、アベやハシシタやトランプに象徴されるような、ヘイトクライムが跋扈するあらたなファシズムの時代にほかなりません。その「本音の時代」を生きぬくには、私たちもまたみずからの「本音」を対置することをためらってはならないのです。

かつて中上健次は、韓国の開発独裁を支持するような文章を書いて物議を醸したのですが、それは、韓国の民主派は高級ホテルで高級ワインを飲みながら軍事独裁政権を批判しているエリートばかりで、彼らは、独裁政権からもたらされるささやかなおこぼれを頂戴するために、両手を広げて歓声をあげている民衆の情念から遊離しているというような内容でした。

収奪の構造を前提にした近代の理念をア・プリオリなものとして捉え、一方でその前提である収奪の構造を批判するリベラル派の矛盾。それは、日本でもいくらでも見ることができます。

何度でも繰り返し言いますが、右か左かではないのです。上か下かなのです。
2017.01.22 Sun l 社会・時事 l top ▲
神奈川県小田原市の生活保護を担当する生活支援課の職員たちが、「保護なめんな」「生活保護不正受給撲滅チーム」などとプリントしたジャンパーを作製し、それを着用して受給世帯を訪問していたというニュースが問題になっています。

毎日新聞
小田原市職員 「保護なめんな」ジャンパーで受給世帯訪問

このジャンパーは2007年に作られたのですが、この10年間で60名の職員が自費で購入していたそうです。会見では、如何にも役人らしくジャンパーを制作したいきさつを説明して弁解していましたが、ジャンパーの文言の意味を知らなかったというのは、どう考えても嘘でしょう。文言の意味も知らずに、5千円近くも出してあんなチープなジャンパーを購入するでしょうか。傷害事件で下がったモチベーションを上げるためという側面があったにせよ、ああいったジャンパーを作ったこと自体、受給者を見下すネトウヨ的思考が職場を支配していた証拠と言われても仕方ないでしょう。

厚労省の調査でも、生活保護費の不正受給は、件数で全体の2%、金額では1%以下です。むしろ不正受給で問題すべきは、ヤクザにやさしく一般人にきびしい窓口の対応でしょう。小田原市役所の担当者たちが、「生活保護不正受給撲滅チーム」とプリントしたジャンパーを着て、ベンツに乗って生活保護を受けているような強面の受給者のもとを訪問したのならわかりますが、おそらくその手の受給者は見て見ぬふりだったのでしょう。生活保護の担当者がみずからの権限をかさに、受給者の女性に関係をせまったという話がときどき表に出てきますが、彼らがやっていることは、公務員の特権をかざした弱い者いじめにすぎないのです。問題の本質は、公務員の思い上がった意識なのです。

宮崎学は、以前、公務員を「小市民的特権階級」と呼んでいましたが、とりわけ地方では、彼らのめぐまれた生活ぶりは際立っており、住民の嫉妬と羨望の的になっていると言っても過言ではありません。それが、このような傲慢な公務員が生まれる背景になっているのではないか。

何度も言いますが、日本の生活保護の捕捉率は10パーセントにすぎず、これは他の先進諸国に比べて著しく低い数字です。そのため、生活保護基準以下であるにもかかわらず、生活保護を受給してない人が2千万人もいると言われているのです。要するに、セイフティネットが充分機能してないのです。ところが、日本では、捕捉率が低いことが、逆に受給者は特権だ甘えだ贅沢だというような、本末転倒した”生活保護叩き”に使われているのです。

今回の問題は、外部からの指摘で表面化したそうで、内部の職員たちが指摘したのではないのです。護憲や平和や共生や格差解消を訴えている、“左派リベラル”の自治労の組合員たちが指摘したのではないのです。むしろ逆に、着用していた職員のなかには、自治労の組合員もいたのかもしれません。

自治労(職組)が、当局や議会と一体となって地方自治を食い物にしているという批判がありますが、たしかに身近な自治体を見ても、そういった批判は当たらずとも遠からずといった気がします。今回の問題は、(皮肉ですが)まさにマルクスが言う「存在が意識を決定する」好例と言えるのかもしれません。

公務員はめぐまれているというような話をすると、左派の人間から軽蔑のまなざしで見られ、鄧小平の先富論のような屁理屈(昔の”国民春闘”と同じ屁理屈)で反論されるのが常ですが、しかし、そういった”左派的思考(屁理屈)“は、もうとっくに「終わっている」のです。「自治体労働者への攻撃を許すな!」というスローガンにどれほどの説得力があるというのでしょうか。公務員問題に右も左もないのです。
2017.01.18 Wed l 社会・時事 l top ▲
韓国では朴槿恵大統領の職務が停止させられ、“政治の空白”が生じていますが、その間隙を縫って、「従軍慰安婦」問題をめぐる日韓対立が先鋭化しています。

朴大統領の友人である崔順実の国政介入疑惑は、逮捕・訴追されたとは言え、まだ裁判中で刑が確定したわけではありません。それに、朴大統領の関与がどの程度であったのか、充分解明されているとは言えません。傍目から見れば、週刊誌のスキャンダルレベルの域を出てない気もします。にもかかわらず、国会では朴大統領に対する弾劾訴追案が圧倒的多数で可決され、朴槿惠大統領は、実質的に国家元首としての権限を失ったのでした。

このヒステリックな手のひら返しは、如何にも韓国らしいなと思います。今までの大統領経験者も、世論の手のひら返しによって、似たような末路を辿っていますが、それは、韓国の政党政治の未熟さだけでなく、韓国社会の特異性や韓国人の気質も、多分に関係しているように思えてなりません。

そもそも独裁者・朴正煕の娘を大統領に選んだのは、韓国の国民なのです。朴正煕は、日本の陸軍士官学校を卒業して、陸軍中尉(日本名・岡本中尉)まで務め、解放後、軍事クーデーターで権力を掌握すると、岸信介ら自民党の保守政治家と通じ、請求権の放棄の見返りで得た経済協力を元手に、日韓の利権を築いた典型的な「親日派」です。

折しも、アクセスジャーナルでは、年明けから「安倍晋三首相自宅放火事件の闇」なる連載がはじまっていますが、アベシンゾーの下関の実家が地元では「パチンコ御殿」とヤユされるように、アベ家が韓国系パチンコ業者と浅からぬ関係があるのはよく知られた話です。アベのダブルスタンダードは、(ややオーバーなもの言いをすれば)朴正煕のダブルスタンダードとパラレルな関係にあるのです。

独裁者の娘(しかも、「親日派」の娘)を選んだ責任はどこ吹く風、今度は一転して口をきわめて罵っている韓国世論。まるでアイドルグループのコンサートのように、お揃いのジャンパーを着て、お揃いのプラカードを掲げ、いっせいにシュプレヒコールを上げる弾劾集会を見るにつけ、(日本のリベラル派の間では、民主主義の発露だと称賛する声が多いようですが)私は気持の悪さしか覚えません。あれじゃなにも変わらないだろうなと思います。

問題となっている少女像にしても然りです。あの無垢な少女像は、「従軍慰安婦」のイメージをあまりにもデフォルメしすぎていると言ざるを得ません。無垢な少女のイメージによって隠蔽されているのは、朴裕河が『帝国の慰安婦』で書いているような、慰安婦たちを直接集め管理し搾取した朝鮮人業者たちの存在です。そうやって「不純物を取り出して純粋培養された、片方だけの『慰安婦物語』」(『帝国の慰安婦』)が作られているのです。

朴裕河が言うように、朝鮮人慰安婦が中国人やオランダ人などほかの慰安婦と異なるのは、その大半が「管理売春」であったという事実でしょう。だからと言って、それが「自発」か「強制」かなんて関係ありません。日本軍が「慰安所」の設置を指示し、それを積極的に利用したのはまぎれもない事実です。「従軍慰安婦」が日本帝国主義による戦争犯罪であるのは、もはや議論の余地もないほどあきらかで、それは世界の常識ですらあります。だから、少女像の問題が取り上げられるたびに、細かい議論は隅に置かれ、日本が犯した蛮行のみが世界の人々に知られることになるのです。その意味では、あの少女像は、プロパガンダの装置としては効果絶大と言えるでしょう。

日本の国粋主義者たちが否定すればするほど、日本の戦争犯罪が流布される矛盾(パラドックス)。「愛国」を叫べば叫ぶほど、日本の”恥の歴史”が世界に拡散される泥沼。それは、ひとえに日本人がみずからの戦争責任を明らかにしなかったからです。ドイツのように、みずからの手で戦争犯罪を裁くことがなく、戦勝国による極東軍事裁判以外はすべて頬被りして曖昧にしたからです。それどころか、岸信介のように、占領国に協力することで、戦争犯罪者が権力の座に復帰さえしているのです。そのため、今だに中国や韓国から戦争責任を問われ、謝罪を要求されることになるのです。そして、日本人は、いつまで謝罪しなければならないのだと苛立つのです。そんな苛立ちも、中国や韓国から見れば、お門違いにしか見えないでしょう。

「従軍慰安婦」の問題の本質は、慰安婦の悲劇をどう受け止めるかでしょう。戦時性暴力ではないという日本の「愛国」者の主張は、とうてい世界に受け入れられるものではないでしょう。慰安婦の存在は戦争、それも植民地支配がもたらした悲劇であり、個々の元慰安婦たちは、女性として筆舌に尽くしがたい悲劇を強いられたのです。私たちは、それから目をそらすことはできないのです。

韓国の次期政権を見据え(あるいはトランプ政権誕生を見据え)、政治的な鞘当てがおこなわれていると見る向きもありますが、私たちは、そんな政治的な思惑に惑わされることなく、慰安婦の根底にある問題を見過ごしてはならないのです。「愛国」か「反日」か、「嫌韓」か「親韓」かなんてどうだっていいのです。それこそ日本人の常識が問われているのだと思います。


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2017.01.09 Mon l 社会・時事 l top ▲
週刊SPA!


OECDの「ワーキングレポート22」でも、日本の貧困率は24か国中、メキシコ・アメリカ・トルコ・アイルランドと並んでワースト5に入っています。しかも、日本の場合、他の先進国に比べて生活保護の捕捉率が著しく低くく、それがさらに日本の貧困を深刻なものにしているのです。

安倍政権が登場してから、政治も経済もトップダウンのほうが効率がよく、中国や韓国との競争にも有利だという考えが優勢になっているように思いますが、そういった考えが、非効率でかったるい民主主義を呪詛し、単純明快で手っ取り早い全体主義(的なもの)を志向するようになるのは当然でしょう。これこそが、メディアが盛んに喧伝していた「決められる政治」の姿なのです。

しかも、アベノミクスを見てもわかるとおり、経済のトップダウンが求めているのは、グローバル資本主義なのです。

『週刊SPA!』新年特大号(1/3・10号)は、「日本型貧困の未来」という特集を組んでいましたが、貧困は決して他人事ではなく、これからますますリアルな問題として私たちの身近にもせまってくるでしょう。

特集には、つぎのようなリード文がありました。

安倍首相は、「相対的貧困率は大きく改善した」と語り、波紋が広がっている。空前の株高に見舞われた‘16年末の日本経済。しかし、最新データによれば、所得格差は過去最高水準に達し、子どもの貧困率は16.3%と高い数値を示す。日本では確実に増え続ける生活困窮者。彼らが跋扈する日本の未来はいったい何が待っているのか?


記事では、「稼げない職業ワースト10」として、①タクシー運転手、②ビル・マンション管理人、③介護士、④百貨店店員、⑤製造・組立工、⑥保育士、⑦塾講師、⑧理容・美容師、⑨パチンコ店店員、⑩医療事務を上げていましたが、しかし、記事が前提としているのは、年収300万円前後の正社員です。今や全労働者の4割は派遣やパート(アルバイト)の「非正社員」なのです。20代に至っては、半分以上が非正規雇用です。現実はもっと深刻だと言えるでしょう。

アベシンゾーもトランプやプーチンと同じように、トップダウンの独裁的な政治をめざしているのは間違いなく、そうやって政治的にも経済的にも中国に対抗していこうというわけなのでしょう。

そもそも中国や韓国がライバルになったのは、彼らがキャッチアップしてきただけでなく、日本が没落したという側面もあるはずです。しかも、それらのライバル国は、かつて「二等国」とか「劣等民族」と呼んで蔑んでいた旧植民地の国です。それがいつの間にかライバルになっていたのです。

安倍政治には、声高に「愛国」を叫び、なりふり構わずグローバル資本主義に拝跪することで、かつての”栄光”にすがろうとする、旧宗主国の歪んだ心理があるように思えてなりません。でも、安部政治が掲げる「愛国」は、沖縄への対応を見てもわかるとおり、ただの従属思想にすぎません。

特に非正規雇用の割合が高い10代~20代の男性に、安倍政権の支持率が高いそうですが、そこにはトランプに熱狂した(「白いゴミ」と呼ばれる)白人の下層労働者と共通するものがあるように思えてなりません。

住民の約半数にあたる3400人の日系の出稼ぎ外国人が居住する、愛知県の保見団地を取材した写真家の名越啓介氏は、「外国人労働者が形成する日本”スラム”化の近未来」という記事のなかで、つぎのように言ってました。

「(略)彼らには、決して恵まれない環境でもそれを笑いに変える力強さがある。自分の経験では貧困だからこそ、その裏返しからくる底抜けの明るさを持っていると思うんです。例えば、お金のない日本人は結婚や子どもを諦めがちですが、保見団地の人らは働き手が増えるからと、子どもを産む。とにかく元気ですよね」
 貧困をもろともしないバイタリティ。日本の貧困の未来にとって、彼らのマインドは一つの希望になるかもしれない。


藤田孝典氏も、ノンフィクションタイラー・中村淳彦氏との対談(「貧困の未来は絶望しかないのか!?」)で、社会保障改革が間に合わない今の30代以上はもう手遅れで、貧困と付き合っていくしかない「貧困が当たり前」の世代になると言ってました。

グローバル化した経済が格差(「貧困が当たり前」の社会)をもたらし、その格差が全体主義を招来するというのは、わかりやすいくらいわかりやすい話です。もとよりグローバル資本主義にとって、国民国家なんて足手まといでしかないのです。

私たち日本人もこれからは、”全体主義と貧困の時代”をしたたかに且つしぶとく生き抜くバイタリティが求められているのです。


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「隠れ貧困層の実態」
2017.01.03 Tue l 社会・時事 l top ▲
昨日は仕事納めで、今年も残すところあと三日となりました。既に学校も休みに入ったので、電車も空いています。車内では、帰省する人たちなのでしょう、旅行バッグを持った乗客も見かけるようになりました。

おととしの年の瀬、私は「母、危篤」の知らせを受け、帰省客に交じって羽田空港行きの電車に乗っていました。それ以来、年の瀬になると、あのときの哀しい感情が思い出されてならないのです。

地元の空港に着くと、あちこちで出迎えの家族と再会を喜ぶ光景が見られました。みんな、笑顔が弾けていました。そんななか、私は、ひとり、母が入院している病院に向かったのでした。

最近は、飛行機のチケットに、「介護帰省割引」というのがあります。親の介護で、定期的に帰省する人も多いのでしょう。

若い頃は、希望に胸をふくらませた「上京物語」しかありませんでした。しかし、年を取ると、介護や見舞いや弔事など、人生の哀しみやせつなさを伴った帰省が主になるのです。まして私の場合、もう帰るべき家もなく、笑顔で迎えてくれる親もいません。ふるさとにあるのは、苔むした墓だけです。

先日、ネットで、ハフポスト日本版の「2016年に亡くなった人々」の「画像集」を見ていました。今年もいろんな人が鬼籍に入ったんだなとしみじみ思いました。なんだか例年になく若い人が多いような気がしました。

The Huffington Post
プリンス、ボウイ、アリ、巨泉...2016年に亡くなった著名人(画像集)

また、年末になると、人身事故で電車が止まるニュースが多くなるのも毎年のことです。

みんな死んでいくんだなと思います。たしかにみんな死んでいくのです。そして、やがて自分の番になるのです。

司馬遼太郎ではないですが、いつまでも「坂の上の雲」を仰ぎながら坂をのぼって行くことはできないのです。思い出を胸に坂をくだって行く人生だってあるのです。

それは、国も同じです。いつまでも成長神話に憑りつかれ、背伸びして世界のリーダーたることに固執しても、それこそ米・中・露の大国の思惑に翻弄され、貧乏くじをひかされるのは目に見えています。先日の安倍・プーチン会談のトンマぶりがそれを象徴しています。

従属思想を「愛国」と言い換え、市場や国民の資産をグローバル資本に売り渡す一方で、中国への対抗意識から世界中にお金をばらまいて歩いて得意顔の「宰相A」を見ていると、ホントにこの国は大丈夫かと思ってしまいます。成長神話に憑りつかれている限り、格差や貧困の問題が二の次になるのは当然でしょう。

個人においても、国家においても、坂を下る思想が必要ではないのか。いつかは坂を下らなければならないのです。哀しみやせつなさを胸にどうやって坂を下るのか。上る希望もあれば下る希望もあるはずです。
2016.12.29 Thu l 日常・その他 l top ▲
キュレーションサイト、いわゆるまとめサイトの問題は、DeNAのWELQに端を発し、サイバーエージェントのSpotlightやby.S、DMMのはちま起稿などへと、さらに問題は拡大しています。また、個人向けのNAVERまとめにプラットフォームを提供しているLINEにも批判が集まっています。

まとめサイトの問題は、著作権侵害の無断転載だけではありません。ステマや煽りやデマの拡散など、なんでもありのモラルなき姿勢が問われているのです。言うまでもなく、それは、まとめサイトがニュースや情報をマネタイズするための手段と化しているからです。ありていに言えば、まとめサイトというのは、広告を売るための「メディア」にすぎないのです。

民放のテレビニュースにも、当然ながら広告主がいます。ただ、テレビニュースなどは、営業(広告)と報道(編集)は分離しているのが建前です。それが編集権と呼ばれるものです。編集権の独立は、ニュースメディアの前提であり生命線なのです。しかし、ネットでは違います。そもそも通常言われるような編集権など存在しないのです。

広告枠を少しでも高く売るためには、より多くのアクセスを集めなければなりません。そのため、Yahoo!ニュースやJ-CASTニュースなどのように、煽りやデマの拡散が日常的におこなわれるようになるのです。

とりわけ、芸能ニュースや中国・韓国関連の海外ニュースなどは、煽りやデマのオンパレードです。芸能ニュースや海外ニュースのアクセスランキングは、その手のまとめ記事ばかりと言っても過言ではありません。

テレビ番組での出演者の発言を体よくまとめて記事にするライターを「コピペライター」と呼ぶそうですが、そういった「コピペライター」は、DeNAなどがやっていたように、ランサーズやクラウドワークスのようなクラウドソーシング会社から調達されるそうです。

DeNAの場合、ライターが千人くらい登録されていて(報酬は一字1円から0.5円だと言われていますが)、多くはフリーターや学生や主婦のアルバイトだそうです。彼らにライターとしてのモラルを要求するのはどだい無理な話でしょう。

さらに深刻なのは、オリジナルの記事をコピペして別の記事を作成する文章ソフトが、既に存在していることです。テーマやプロットを設定すれば、自動的に小説を書いてくれる小説作成ソフトがありますが、おそらくそれと似たようなソフトなのでしょう。そうやって量産されたコピペ記事がネットメディアを埋め、情報の真贋が検証されないまま、SNSなどを通して拡散され、マネタイズされていくのです。

一方、まとめサイトが猖獗を極めている背景に、Googleの検索の問題があることを多くの人が指摘しています。要するに、Googleの検索がいかがわしい(邪悪だ)からです。まとめサイトは、Googleの検索のいかがわしさを利用していると言えなくもないのです。しかも、Googleのシェアは、PCでは90%以上です。Googleの検索さえ逆手に取れば、多くのアクセスを集めることができるのです。

ネット通販も、当初は個人サイトばかりでした。しかし、やがてメーカーや問屋などが、個人サイトをパクって参入してきたのでした。そして、今や個人サイトは圏外に追いやられ、検索の上位は企業サイトや楽天やアマゾンなどショッピングモールのページで独占されています。それは、「NPO、公共団体、教育機関、法人企業」など”オーソリティサイト”を優遇するというGoogleのアルゴリズムがあるからです。

まとめサイトも同じです。最初は少額なアフィリ目当ての個人サイトが主でした。しかし、やがて、企業が参入することで、広告も数億円規模にまで拡大し、今回のような問題が生まれたのです。

Googleの独占体制がつづく限り、こういった問題はこれからもどんどん出てくるでしょう。まとめサイトを批判している既存メディアにしても、建前はともかく、利益率90%以上と言われる、濡れ手で粟のおいしいビジネスに食指が動かないわけがないのです。実際に、参入を虎視眈々と狙っている既存メディアの話も出ています。そのうちキュレーションサイトの主体は、新興の(ぽっと出の)ネット企業から老舗の既存メディアにとって代わられるのかもしれません。今回の問題も、そういったネットのリアル社会化・秩序化・権威化の過程で出てきたと言えなくもないのです。まるでGoogleの邪悪な検索に群がる蛆蝿のようですが、これがネットの現実なのです。
2016.12.28 Wed l ネット・メディア l top ▲
島尾敏雄の妻・島尾ミホの生涯を書いた評伝『狂うひと  「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子著・新潮社)を読んでいたら、たまらず『死の棘』を読みたくなり、本棚を探したのですが、島尾敏雄のほかの作品はあったものの、なぜか『死の棘』だけが見つかりませんでした。それで、書店に行って新潮文庫の『死の棘』をあたらしく買いました。奥付を見ると、「平成二十八年十一月五日四十八刷」となっていました。『死の棘』は、今でも読み継がれる、文字通り戦後文学を代表する作品なのです。

まだ途中までしか読んでいませんが、『死の棘』も、若い頃に読んだときより今のほうがみずからの人生に引き寄せて読むことができ、全然違った印象があります。

愛人との情事を克明に記した日記を妻が読んだことから小説ははじまります。ある夏の日、外泊から帰宅した私は、仕事部屋の机の上にインクの瓶がひっくり返り、台所のガラス窓が割られ、食器が散乱しているのを目にします。それは、妻の発病(心因性発作)を告げるものでした。それ以来、二人の修羅の日々がはじまります。

来る日も来る日も、妻は私を責め立てます。一方で、頭から水をかけるように言ったり、頭を殴打するように要求したりします。詰問は常軌を逸しエスカレートするばかりです。私も次第に追い詰められ、自殺を考えるようになります。

夫を寝とった愛人への暴力事件を起こした妻は、精神病院の閉鎖病棟に入院し睡眠治療を受けることになります。その際、医師の助言で、私も一緒に病院に入ることになるのでした。

     至上命令
敏雄は事の如何を
問わずミホの命令に
一生涯服従す
    如何なることがあっても順守
    する但し
    病氣のことに関しては医師に相談する
                    敏雄
 ミホ殿


これは、『狂うひと』で紹介されていた島尾敏雄自筆の誓約書の文面です。しかも、それには血判が押されているのでした。

愛人との情事を克明に記録し、しかも、それを見た妻が精神を壊し、責苦を受けることになる。それでも作家はタダでは転ばないのです。小説に書くことを忘れないのでした。文学のためなら女房も泣かす、いや、女房も狂わすのです。

週刊文春ではないですが、不倫を犯罪のようにあげつらう風潮の、まさに対極にあるのが『死の棘』です。だからこそ、『死の棘』は戦後文学を代表する作品になったのです。

もちろん、『死の棘』も“ゲスの文学”と言えないこともないのですが、しかし、ゲスに徹することで、人生の真実に迫り、人間存在の根源を照らすことばを獲得しているとも言えるのです。

昔、付き合っていた彼女は、男が約束を破ったので、ナイフを持って追いかけまわしたことがあると言ってました。さすがに私のときはそんなことはありませんでしたが、旅行の帰途、車のなかでお土産の陶器を投げつけられ、今、ここで車から降ろせを言われたことがありました。そして、薬を買うので薬局の前で停めろと言うのです。

また、早朝5時すぎにアパートのドアをドンドン叩かれ、大声で喚かれこともありました。深夜、死にたいと電話がかかってきたこともありました。しかも、私を殺して自分も死ぬと言うのです。

別れたあと、私はいつか刺されるのではないかと本気で思いました。でも、刺されても仕方ないなと思いました。土下座して謝りたいと手紙を書いたことがありましたが、返事は来ませんでした。

しかし、それでもそこには愛情がありました。哀切な思いも存在していました。それが男と女なのです。愛するということは修羅と背中合わせなのです。

誰だって大なり小なり似たような経験をしているはずです。『死の棘』を読めば、自分のなかにあることばにならないことばに思い至ることができるはずです。公序良俗を盾に、他人の色恋沙汰をあれこれ言い立てる(国防婦人会のような)人間こそ、本当はゲスの極みだということがわかるはずです。彼らは、人間や人生というものを考えたことすらないのでしょう。そんな身も蓋もないことしか言えない不幸というのを考えないわけにはいかないのです。
2016.12.13 Tue l 本・文芸 l top ▲
先日、ある女性が亡くなりました。私は、仕事で一度しか会ったことがなく、名前さえ忘れていたのですが、小林麻央と同じ乳がんだったそうです。まだ40代半ばの若さでした。

自治体のがん検診で異常が見つかったとき、既にがんはリンパ腺を通って骨に転移していたそうです。

詳しい事情はわかりませんが、彼女は身寄りもない孤独の身でした。若い頃結婚していたとかいう話もありますが、近い親戚もいないそうです。それでも、東京の片隅で、小さな会社の事務員をしながら懸命に生きてきたのです。

手の施しようもない末期のガン。自宅療養するにしても、ひとり暮らしのアパートでは充分なケアができません。仕事を辞めれば収入もなくなります。それで、受診した病院のはたらきかけで、医療扶助を受けて、入院して緩和治療を受けることになったそうです。そして、数か月後、誰に看取られることなく、息を引き取ったのでした。

残された荷物は、身の回りのものが入ったバッグと紙袋がひとつだけだったそうです。紙袋のなかにはパンプスが入っていました。入院の日、彼女はめいっぱいオシャレをして、二度と戻ることはないアパートをあとに病院に向かったのでしょう。また、バッグのなかには手帳型のケースに入れられたアイフォンも入っていたそうです。

初めてアイフォンを買ったとき、心を弾ませながら夜遅くまでアプリを入れたりしていたのかもしれません。会社の行き帰りも、アイフォンでどうでもいい芸能ニュースをチェックしていたのかもしれません。彼女は、そこらにいる人たちと同じように、普通に喜怒哀楽のなかを生きてきたのでしょう。孤独のなかにあっても、おしゃれをしてネットで情報を得て、ささやかな希望を糧に、懸命に生きてきたのでしょう。

私は、彼女の死を聞いたとき、無性にやりきれない気持になりました。小林麻央と比べて、(末期がんの苦しみは同じかもしれませんが)その境遇はなんと違うんだろうと思いました。

彼女だって、もっとおしゃれをして、もっと恋愛をして、もっと夢を見たかったに違いないのです。もっと笑って、もっと怒って、もっと泣きたかったに違いないのです。

がんを告知された日、ひとり暮らしのアパートの部屋に戻った彼女は、どうやって夜を過ごしたのだろうと思いました。泣きながら朝を迎えたのでしょうか。また、バッグを手にひとりで病院に向かっていたとき、どんな気持だったのだろうと思いました。車窓から見える東京の風景は、彼女の目にどのように映っていたのでしょうか。

夜明け前、彼女の亡骸は病院の裏口から看護師に見送られ、業者の手によって運ばれて行ったそうです。そして、数日後、立ち会う人もなくひっそりと荼毘に付されたのでした。遺骨は無縁仏として合祀されるそうです。

孤独に生き、孤独に死を迎える。これは他人事ではありません。「わてらひとり者(もん)は孤独死の予備軍でっせ」と明石家さんまが言ってましたが、それは私も同じです。明石家さんまが死んだら大きなニュースになるでしょうが、私たちの死は、誰の記憶に残ることもないのです。孤独に生き、孤独に死を迎えるというのは、その覚悟をもつということなのです。


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「福祉」の現場
2016.11.27 Sun l 訃報 l top ▲
雨宮まみが急逝したというニュースにはびっくりしました。大和書房のサイトによれば、15日の朝、心肺停止の状態で床に倒れているところを警察に発見されたそうです。17日に近親者のみでお別れ会がおこなわれると書いていましたので、もうお別れ会も終わり、遺骨は東京を離れ故郷の福岡に帰ったのでしょう。

今日の朝、久しぶりに通勤時間帯の東横線に乗って渋谷に行ったのですが、車内で通勤客にもまれながら、ふと、ワニブックスのサイトに掲載されていた雨宮まみと栗原康の対談を思い出しました。そして、スマホを取り出して、その対談を読み返したのでした。

WANI BOOKOUT
雨宮まみさん+栗原康さん対談「はたらかないで、素敵な暮らし!?」【前編】
「結婚を意識した途端、恋愛がうまくいかなくなるのはなぜ?」雨宮まみさん+栗原康さん対談【後編】

雨宮 ちゃんとした大人として生活していくということは人間性を失っていくということとほとんど同じなんじゃないのか、なんでみんな我慢して暮らしていかなければならないのか、というのが栗原さんの考えていることで。たとえば、いま私たちはフリーの立場だから満員電車って乗らなくていいじゃないですか。満員電車に乗らなくていいということを私はうれしく思っているんですけど、そのことをSNSで言えないんですよ。私は書けない。

それを書いたことによって、「へ~いいなーお気楽で。だったらお前ちゃんとした社会人として扱われなくてもしょうがないよ。辛い思いしていないんだから」と言われるのが怖くて仕方なくて。この前仕事でAV女優さんにインタビューしていて、「この仕事してて良かったことってあります?」と聞いたら、「満員電車乗らなくて良いことですかね~」って言われて。「だよね~!」ってなりました。

栗原 ですよね~!

雨宮 みんな乗らないほうがいいと思っているはずなんですけど、なかなかそういう方向にはいかないじゃないですか。ずっといかないということは、もうそういうことなんだろう。しょうがないことなんだろうなって思うし、なんとなく自分の中でそこに逆らう気力がはぎとられていってたんですけど、それを鼓舞するような力が栗原さんの文章にはあって。別にいいじゃん、乗らない方向に努力したほうがみんな幸せになるのに。って。やっぱり満員電車の中で人間的な優しさを保つのって無理じゃないですか。


この「満員電車に乗らなくていい」幸せは、もう20年以上フリーで生活している私にも、非常によくわかる話です。もちろん、その幸せは世俗的な”幸せ”とは別です。

一方で、人間はみんな、そうやって我慢してがんばっているんだ、それが生きるということなんだ、そうやってささやかでつつましやかな人生の幸せを掴むことができるんだ、そんな声が聞こえてきそうです。

サリーマンやOLがそんなに偉いのか、なんて口が裂けても言えないのです。サラリーマンやOLになって社会に適応することは、セコい人間になってセコく生きることではないか、なんて言えるわけがないのです。

まるで電車の座席に座ることが人生の目的のような人たち。電車が来てもいないのに、急かされるように、ホームに向かう下りのエスカレーターを駆け足で降りていくサラリーマンやOLたち。条件反射のようにそんな日常をくり返す人生。

「人間的な優しさを保つのって無理」なのは満員電車のなかだけではありません。この社会そのものがそうです。私たちは、そんな生き方の規範を常に強いられているのです。

その時間は、だいたい夜にやってくる。涙が止まらなくなったり、虚無感や疲労感に襲われているのに寝付けなかったりする。一人暮らしが長ければ、こういうときの対処も、それなりに慣れた。とりあえず朝が来れば楽になることはわかっているのだから、睡眠薬に頼るときもあるし、それでもだめなときは、多少気力があれば録画しておいた映画を観たり、本を読んだりする。こういうときのために「何度読んでも勇気づけられる本」が何冊か置いてある。
単純作業に没頭するのもいい。細かい拭き掃除をするとか、服を全部出してたたみなおしたり、アイロンがけしたり。手を動かしている間は、考えに集中できない。裁縫や小物の整理なんかもいいし、靴などの革製品の手入れもいい。
でも、ほとんどの場合、動く気力もなく、自分を励ますことも思いつかない。ただ、苦しい夜をじっと過ごすだけになることが多い。それでもそういうときに少しでも楽になるヒントとして、知っておいてほしいのだ。苦しい夜に、苦しさを味わえば味わうほど解決に近づけるということは、ない。その苦しさを味わっていいことなんかない。一歩間違えば死んでしまう。だから、どんなにくだらないと思っても、そんなことに効果はないと思ってもいいから、やってみてほしいと思うのだ。
何かをしている間だけ、私たちは死の方向に引っ張られるのを止めることができる。

モモイエ女子web
理想の部屋まで何マイル?
孤独に襲われるとき


でも、この文章が掲載されていたのは、三井不動産レジデンシャルが運営する、独身女性をターゲットにしたサイトです。サイトでは、マンション購入で手にすることができる「できる女」のイメージと「素敵な生活」の幻想がこれでもかと言わんばかりにふりまかれているのでした。資本の論理はどこまでも私たちを追いかけてくるのです。「満員電車に乗らなくていい」ことがどんなに幸せかなんて、とても言えるわけがないのです。雨宮まみは、女性性に対してだけでなく、この社会に生きることそのものをこじらせていたのではないか。

彼女は、Project DRESSというサイトで、「私を変えた5冊の本」を紹介していましたが、そのなかで、「死ぬことについて書かれた」本として、佐野洋子の『死ぬ気まんまん』(光文社)をあげていました。

Project DRESS
雨宮まみさんが選ぶ、私を変えた5冊の本

『死ぬ気まんまん』で描かれるのは、死ぬ前の風景です。ホスピスで、山の夕陽に照らされた森がまるでゴッホの描く絵のように葉っぱの一枚一枚までくっきりと見えたと佐野洋子は書いています。若い頃には自然なんか見なかった、と言う佐野洋子は、こんな自然のもとからさっさと出ていきます。


私は、『死ぬ気まんまん』は読んでなかったので、さっそくアマゾンで注文しました。

栗原康ではないですが、吐き気を催すのは、電車のなかのセコい光景だけではありません。そんなセコい光景を真摯な生き方だと言い換えるこの社会のイデオロギーが吐き気を催すのです。そうやって人間を馴致していく社会(フーコーの言う規律訓練型権力)が吐き気を催すのです。そして、私のなかには、雨宮まみの死に対しても、「死にたいやつは死なしておけ」とは言えない自分がいるのでした。


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雨宮まみ『東京を生きる』
『はたらかないで、たらふく食べたい』

2016.11.19 Sat l 訃報 l top ▲
まさかと思っていたことが現実になったのです。マイケル・ムーアは、7月に「ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう」という文章で、「この浅ましくて無知で危険な、パートタイムのお笑いタレント兼フルタイムのソシオパス(社会病質者)は、俺たちの次期大統領になるだろう」とトランプ当選の悪夢を予測していましたが、そのとおりになったのでした。

THE HUFFINGTON POST
ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう

トランプが出馬したとき、面白半分にとらえた人が大半だったように思います。それがあれよあれよという間に超大国の大統領になったのでした。冗談がホントになったのです。これが悪夢でなくてなんなのでしょうか。

ナチスが政権をとったときもこんな感じだったのではないかと言った人がいましたが、たしかにその過程はヒットラーと似てなくもありません。しかし、アメリカは唯一の超大国なのです。第一次世界大戦の賠償に苦しんでいた当時のドイツとは、覇権の規模やその影響力は比べようもないくらい違います。マイケル・ムーアが書いているように、「トランプの錯乱した指が、あの核ボタンに掛かったら、それでおしまい。完全に終わり」なのです。「トランプは意外にまとも」というのは、そうあってほしいという対米従属の国のいじましい希望的観測でしかありません。

サンフランシスコ在住の野沢直子が、今回の選挙に対して、「この国は終わり」「ブラジルに引っ越す」「アメリカ人はバカ」などと発言していたそうですが、それは決してオーバーな表現とは言えないでしょう。マイノリティの彼女にとって、移民排斥や女性差別発言をくり返すトランプが大統領になったことは、私たちが想像する以上の危機感があるはずです。

株価が上がればそれでいいと言わんばかりのテレビ東京などは、開票日翌日、株価がV字回復したことで「トランプショックは和らいだ」などと能天気なことを言ってましたが、それは今や株式市場が電子空間のマネーゲームと化しているからでしょう。株式市場にとって、大統領選もマネーゲームの単なる材料(イベント)にすぎないのです。

中間層から没落した白人労働者(階級)の不満が、排外主義とむすびつき、ファシストを政権の座に押し上げたというのは、わかりすぎるくらいわかりやすい話です。アメリカに進出した日本の自動車メーカーも、NAFTAによって、人件費の安いメキシコに工場を移転し、メキシコで生産された車がアメリカに「逆輸入」されているそうです。皮肉なことに、アメリカが主導するグローバリズムが、足元の労働者から手痛いしっぺ返しを受けたとも言えるのです。

トランプ当選には、イギリスのEU離脱と同じように、そんな「上か下か」の背景があることも忘れてはならないでしょう。「革命」の条件が、ナチス台頭のときと同じように、ファシストに簒奪されてしまったのです。社会主義者のバーニー・サンダースが予備選で健闘したのは、その「せめぎあい」を示していると言えるでしょう。

投票日にテレビに出まくっていたお笑い芸人のパックン(パトリック・ハーラン)によれば、トランプが使う英語は、中学生レベルのわかりやすい英語なのだそうです。一方、知的エリートのヒラリーの英語は、英国なまりの気取った英語なのだとか。そういったわかりやすいことばが、下層の人々の負の感情とマッチするのは当然でしょう。マイケル・ムーアは、その負の感情をつぎのように書いていました。

俺たちに指図してきた黒人の男に8年間耐えなきゃいけなかったのに、今度は大変なことは傍観する、そして威張り散らす女のもとで、8年間を過ごすことになるのか? その後の8年間は、ゲイがホワイトハウスに入るのか! それからトランスジェンダーか! 君たちは、そんなことを目の当たりにする。その時までには、動物にも人権を認められているだろう。そしていまいましいハムスターが、この国を統治していることだろう。これは止めないといけないな!


アメリカのメディアの70%はヒラリー支持で、99%はトランプを批判していたと言われています。レディー・ガガ、メリル・ストリープ、ジェーン・フォンダ、ケイティ・ペリー、マライア・キャリー、ビヨンセ、レオナルド・ディカプリオ、ボン ジョヴィ など、多くの有名人もヒラリー支持を表明していました。また、下記の朝日新聞の記事にあるように、IT企業、とりわけGoogleと民主党政権の関係は浅からぬものがあり、検索などでも、ヒラリー有利に操作されていたと言われています。

朝日新聞デジタル
グーグルとホワイトハウスの「密接な」関係

にもかかわらず、トランプが勝ったのです。これは驚くべきことです。世論調査でも、意図的にトランプ支持と答えなかった人が多かったのかもしれません。この“世紀の逆転劇“は、検索履歴やIPアドレスやGPSなどによってすべてが管理・操作され、最初から解答が用意されているかのように見えるデジタルな社会でも、アナログを武器にすれば、ビッグデータだって打ち負かすことができるということを証明したとも言えるのです。IT技術が駆使され高度に管理された(ように見える)社会は、案外データ信仰で築かれた砂上の楼閣にすぎないのかもしれません。

もちろん、トランプ現象は他人事ではありません。トランプ現象を「世界の大阪化」と言った人がいましたが、あながち冗談とは言えないでしょう。安倍晋三にしても、橋下徹にして、松井一郎にしても、その反知性主義は程度の差こそあれ共通しています。フランスでも来春の大統領選挙で、移民排斥を掲げる極右政党・「国民戦線」のマリーヌ・ルペンが有力視されています。ヒットラー生誕生の地・オーストリアでも、極右政党が伸長し政権を握る可能性が指摘されています。反知性主義が跋扈し、ヘイトクライムが世界を覆う時代は、たしかに”悪夢の時代”と言えるのかもしれません。しかし、それもまた、過渡的なものにすぎないのでしょう。

アメリカが唯一の超大国の座から転落し、世界が多極化していくのは間違いないのです。トランプ大統領誕生は、その流れを決定づけるものと言えるでしょう。今後、世界はアメリカ・ロシア・中国による「新ヤルタ体制」に移行するのではないかと言われていますが、それも過渡期の体制にすぎないのでしょう。イスラムの台頭は、もはや誰も押しとどめることができないのです。ヘイトクライムや極右の台頭は、民主主義で偽装された私たちの世界が既にそこまで(なりふり構わないところまで)追い詰められていることを露呈しているのです。先進国内部にまで浸透したテロに見られるように、やられたらやりかえす「世界内戦」の時代は既に到来しているのです。そうやって底なし沼の”テロとの戦い”に引きずり込まれているのです。

「世界内戦」の時代とは、(バージョンアップした)”戦争と「革命」の時代”の再来にほかなりません。そして、ノーム・チョムスキーが言うように、世界はいったんチャラにされ、資本主義も民主主義も、平和も自由も、人権も環境も、すべては過去の遺物になるのだと思います。


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「世界内戦」の時代
2016.11.11 Fri l 社会・時事 l top ▲
どうやら小池劇場は終幕に近づいているようです。結局、大山鳴動して鼠一匹の茶番に終わりそうです。

私は、又吉直樹が芥川賞を受賞した際、あとで振り返り、あの又吉の芥川賞ってなんだったんだという話になるだろうと書きましたが、小池劇場も同じでしょう。どうやら豊洲移転問題も、五輪会場問題も、竜頭蛇尾に終わりそうな気配です。

小池劇場は、小泉改革と同じ手法です。役人を悪者にして改革者としてのみずからのイメージを作り、それを武器に政治的野望を目論むのです。でも、役人を悪玉にしても、公務員問題、もっと端的に言えば、中央から地方までこの国を蝕んでいる役人天国の根本には、一指も触れることはないのです。かくして役人天国は微動だにしないのです。それが“劇場”と言われるゆえんです。

上西小百合議員は、先日、小池劇場について、つぎのようにツイートしていました。


上西議員は、小池都知事が誕生した当初から小池劇場の背後には橋下徹氏がいると言ってました。すると案の定、小池都知事が立ち上げた「都政改革本部」の特別顧問に、橋下氏のブレーンであり、大阪府や大阪市の特別顧問や大阪維新の会の政策特別顧問を務めた上山信一慶応大学教授が就任したり、受講料だけで1億3000万円を集めた小池政治塾の講師に、橋下徹氏(上山議員が言うには、橋下氏の講演料は200万円だとか)が呼ばれたりと、上西議員の発言を裏付けるように、ことがすすんでいるのです。

要するに、小池劇場は小泉劇場と橋下劇場のコピーにすぎないのです。それに踊らされる愚民、いや都民こそいい面の皮です。しかし、彼らは、踊らされたとか肩透かしを食らったとかいう認識さえないのでしょう。ないというより持てないのでしょう。
2016.11.09 Wed l 社会・時事 l top ▲
前回の記事のつづきになりますが、その後、ノンフィクションライターの田崎健太氏が、『週刊現代』に連載している「ザ芸能界」で、能年玲奈の問題を取り上げていました。

現代ビジネス
能年玲奈「干されて改名」の全真相 〜国民的アイドルはなぜ消えた?

記事によれば、当初『週刊文春』が伝えた能年の給与が「月5万円」というのは、事実だそうです。所属事務所・レプロの担当者もそれを認めているそうです。担当者に言わせれば、その代わり、高級マンションに住まわせ(と言っても、4~5名の共同生活)、その家賃など「生活全ての面倒を見て、レッスン代、交通費などの関連費用も全部こちらで持った上で、さらに小遣いが5万円ということ」だとか。

でも、駆け出しとは言え、彼女たちはタレントなのです。レッスンだけしているわけではなく、いくらかなりとも報酬(ギャラ)を得ているはずです。事務所はそれをピンハネしているのです。それで、「小遣い」はないだろうと思います。

赤字だろうが、先行投資だろうが、こういったシステム自体が前近代的で、レプロの主張は女郎屋、あるいはタコ部屋の論理と同じです。芸能界というのは、前近代的な、労働基準法も及ばないブラックな論理が、さも当たり前のように未だにまかり通っている世界なのです。

「あまちゃん」で売れたので、これから投資した分を回収しようとした矢先、独立したいと言い出したため、レプロが激怒したのは容易に想像がつきます。芸能マスコミに能年玲奈の「洗脳」記事がいっせいに流れたのは、その頃でした。

記事で注目されるのは、能年の顧問弁護士が初めて口を開いたことです。顧問弁護士の星野隆宏氏は、有名芸能人の顧問を務める弘中惇一郎弁護士などと違い、外資系法律事務所に所属する商事紛争が専門の裁判官出身の弁護士だそうです。今まで芸能界と付き合いのない弁護士だからこそ、その主張は芸能界の問題点を的確に衝いているように思いました。

星野はレプロに限らず、日本の芸能プロダクションの、所属タレントに対する姿勢を問題視する。

「確かに、レプロは彼女にコストを掛けたかもしれない。ただ、それはビジネスだから当然のことです。

事務所に集められた全員が成功するわけではない。本人の努力や運、さまざまな要素がかかわってくる。事務所はそうして成功したタレントをうまく活用すればいい。それがマネジメントです。

しかし現状は、あたかもタレントを事務所の所有物のように扱いコントロールしている。タレントに対し、とにかく逆らうな、言った通り仕事をしろ、という発想がある」

仕事をしたいと主張する能年に対して、レプロは「事務所との信頼関係がない限り、仕事は与えられない」と言うのだそうです。

「我々が(代理人として)入ってからは、常に彼女は仕事をやりたがっていました。『仕事をください』という要求を、6回も書面で出しています。するとレプロ側は『事務所との信頼関係がない限り、仕事は与えられない』という回答を送ってきた。

『では、その信頼関係はどうやったら作れるんですか』と返すと、『社長との個人的な信頼関係がなければ仕事はあげられない』。

そして、弁護士を介さずに社長と本人の一対一で話し合いをしたいと言う。ただ、代理人がついた事件で、当事者同士が直接交渉するということは、弁護士倫理上も許容できない。到底認められなかった」


芸能界は、まさにヤクザな世界なのです。テレビ局や芸能マスコミがそのヤクザな世界に加担しているのです。彼らは、女郎屋&タコ部屋の論理を追認しているのです。

ただ、そういったテレビ局や芸能マスコミの姿勢に、視聴者や読者から批判的な見方が出ていることもたしかです。”音楽出版利権”に見られるように、芸能界のボスと結託して甘い汁を吸っている彼らの”裏の顔”は、既に多くの視聴者や読者の知るところとなっているのです。
2016.11.08 Tue l 芸能 l top ▲
と言っても、現在、彼女は芸能界では「能年玲奈」という名前を使えないのだそうです。そのために、「のん」などという犬か猫のような芸名を名乗っているのです。

しかも、驚くべきことに、「能年玲奈」というのは本名だそうです。芸能活動するのに、本名の「能年玲奈」を名乗ることができないのです。そんなバカと思いますが、それが芸能界のオキテなのです。そのあたりの事情については、リテラが『週刊文春』の記事をもとに、つぎのように書いていました。

「週刊文春」の記事によると、契約が終了する間近の6月下旬、レプロから能年側に、昨年4月から今年の6月まで彼女が事務所側からの面談に応じなかったため仕事を提供できなかったとして、その15カ月分の契約延長を求める文書が送付されてくるとともに、もう一つ申入れがあったという。

 それは、契約が終了しても「能年玲奈」を芸名として使用する場合には、レプロの許可が必要というものであった。「能年玲奈」は本名であるため、前所属事務所に使用を制限される謂れはないが、「週刊文春」の取材を受けたレプロ側の担当者は「一般論として、その旨の契約がタレントとの間で締結されている場合には、当事者はその契約に拘束されるものと考えます」と答えたと記されている。

 その「契約」とは、いったい何なのか。レプロを含む、バーニング、ホリプロ、ナベプロなどの大手芸能プロは、彼らが加盟する日本音楽事業者協会(音事協)の統一の契約フォーマットを使っているのだが、そこにはこのような文言があると「週刊文春」の記事には記されている。ちなみに、ここでの「乙」は能年玲奈を、「甲」はレプロを指している。

〈乙がこの契約の存続期間中に使用した芸名であって、この契約の存続期間中に命名されたもの(その命名者の如何を問わない。)についての権利は、引き続き甲に帰属する。乙がその芸名をこの契約の終了後も引き続き使用する場合には、あらかじめ甲の書面による承諾を必要とする〉

 レプロ側は、契約書にあるこの一文を根拠に「能年玲奈」という名前の使用に関する権限をもっていると主張しているのだが、芸名ならまだしもこれが本名にも適用されるのかは疑問だ。実際、記事で取材に答えている弁護士も、公序良俗違反でこの契約条項は無効になるのではないかと考えを示している。

 だが、能年側は、レプロのこの要求を呑んだ。「能年玲奈」という名前を使い続けることで、もしも裁判などになれば、今度は一緒に仕事をする相手に迷惑がかかることを危惧したからだ。

リテラ
卑劣! 能年玲奈に「本名使うな」と前事務所から理不尽すぎる圧力が! 能年を完全追放のテレビにクドカンも苦言


音事協の統一の契約フォーマット。それこそが竹中労が言う「奴隷契約書」です。日本の芸能界と、日本の芸能界のノウハウが持ち込まれた韓国の芸能界を支配する「奴隷契約書」にほかなりません。本名すら名乗ることさえできないなんて、まるで中世の世界です。

先月、能年玲奈は、台風10号の豪雨で被害に遭った「あまちゃん」の舞台・岩手県久慈市を訪問し、地元で熱烈な歓迎を受けたのですが、しかし、テレビでこのニュースを伝えたのはNHKだけで、ほかの局はいっさい無視したのでした。新聞も朝日と一部のスポーツ紙が小さく伝えたのみでした。

何度もくり返し言いますが、テレビ局をはじめとする芸能マスコミが芸能界をヤクザな世界にしていると言っても過言ではないでしょう。芸能記者や芸能レポーターたちは、アメリカに尻尾を振るだけのどこかの国の「愛国」政治家と同じで、芸能界を支配するヤクザな人種に媚びを売るだけの”金魚の糞”にすぎないのです。

高江には足を運ばないテレビ局が、高樹沙耶のことになると大挙して石垣島に押しかけ、例によって坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式の罵言を浴びせていますが、高樹沙耶なんかより能年玲奈のほうがはるかに大きな問題でしょう。誰が見ても重大な人権侵害があることは明らかで、芸能人にとっても看過できない問題のはずです。しかし、「とくダネ!」も、「スッキリ!」も、「モーニングショー」も、「ビビッド」も、「サンデージャポン」も、能年玲奈の問題を取り上げることはありません。テリー伊藤も、マツコデラックスも、坂上忍も、松本人志も、爆笑問題も、デーブスペクターも、加藤浩次も、誰ひとり能年玲奈の名前を口にすることはないのです。私は、彼らがわけ知り顔にこましゃくれたことを言っているのを見るにつけ、ちゃんちゃらおかしくてなりません。

能年玲奈は、来月から公開される長編アニメ映画『この世界の片隅に』の主役の声優をつとめ、これが事実上の芸能界復帰作と言われていますが、NHKを除いて民法各局は同作品のプロモーションもいっさい拒否しているのだとか。能年玲奈がテレビの画面に映ることさえ許されないのです。一方で、TBSはレプロに所属する新垣結衣を新しいドラマの主役に起用しているのです。また、日テレの「ZIP!」の総合司会には、先月からレプロ社長のお気に入りと言われている川島海荷が抜擢されています。これでは、能年玲奈の問題を取り上げるなど夢のまた夢と言えるでしょう。

独立した芸能人が干されるのも、干そうと画策するプロダクションの意向を受けて、テレビ局などがそれに加担するからです。そうやって芸能界をヤクザな世界にしているのです。テレビ局も共犯者なのです。


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2016.11.04 Fri l 芸能 l top ▲
沖縄高江の米軍北部訓練場ヘリパッド建設工事の警備に派遣されていた大阪府警の機動隊員二人が、反対派住民に対して「土人」「シナ人」と発言した事件には、ただあきれるしかありませんでした。

しかも、この二人は、発言に対して反対派住民から抗議されると、隊列の後方に退いたのですが、後方に退いたあとも、二人で反対派住民を見やりながらニヤニヤ笑っているシーンがありました。私はそれを見て、なんだか異常な感じさえしました。隣の警官は、なだめるようにまあまあと肩を叩いていましたので、まわりも彼らの異常さに気付いていたのでしょう。

二十代の若者にとって、「土人」や「シナ人」などということばは普段は無縁なはずです。私たちの世代でもほとんど耳にすることはありません。子供の頃、戦争に行った祖父の世代の人間が口にしているのを聞いたのと、仕事で街宣右翼の活動家と話をしていたとき、彼らが口にしていたのを聞いたことがあるくらいです。そんな無縁である(はずの)ことばが、二十代の若者の口から咄嗟に出たのです。本人たちが言うように、「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」というのは、どう考えてもウソでしょう。彼らは日ごろから、街宣右翼やネトウヨと同じように「土人」や「シナ人」ということばを使っていたのではないか。と言うか、彼ら自身が、ネトウヨ的思考に染まっていたのではないでしょうか。

公安の刑事に、「転び公安」と呼ばれる自作自演のでっち上げがあるのはよく知られていますが、デモや集会を規制する機動隊の傍若無人ぶりは、意外と知られていません。若い頃、集会に参加したことがある知人によれば、集会場の入口は機動隊の盾で壁が作られ、その間をとおって会場に入らなければならないように規制されているのだそうです。その際、機動隊員から差別語オンパレードの罵声を浴びせられ、さらに盾で腹や腰を小突かれたり、「安全靴」のような重厚な編上靴で脛を蹴られるのだそうです。そして、それに抗議しようものなら即「公務執行妨害」で現行犯逮捕されるのだそうです。

「土人」発言に対して、松井一郎大阪府知事が差別発言の機動隊員をねぎらう発言をして物議をかもしていますが、松井知事の発言に対しては、今回も上西小百合議員の批判がいちばん痛いところを突いていたように思います。もっとも、「土人」発言を擁護しているのは、「頭の悪い」松井知事だけではありません。産経新聞や夕刊フジも、機動隊員の発言は「売り言葉に買い言葉」にすぎないというような記事を書いていました。

しかし、高江の問題は、私たちの日常にあるような喧嘩とは違うのです。警察官と反対派住民では、その立場が根本的に異なるのは言うまでもないことです。警察官は権力の行使の権限をもつ公務員なのです。そんな政治学のイロハさえ無視して、「売り言葉に買い言葉」だと強弁するフジサンケイグループは、もはやジャーナリズムとは呼べないでしょう。彼らが擁護しているのは、機動隊員だけではありません。そうやって宗主国のアメリカ様を擁護しているのです。そして、アメリカの軍事基地建設に反対する住民を「売国奴」呼ばわりしているのです。

それはまさに『宰相A』の世界です。「売国奴」はどっちなのか、この国に「愛国」者はいるのか、と思ってしまいます。フジサンケイグループの記事が示しているのは、骨の髄まで染み付いた対米従属「愛国」主義という戦後の“病理”です。

「土人」発言に関して、私もこのブログで書いたことがありますが、沖縄タイムスも、「1903年、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場で『7種の土人』として、朝鮮人や台湾先住民、沖縄県民らが見せ物として『展示』される『人類館事件』」があったことを書いていました。

沖縄タイムス+プラス
「土人」発言は何が問題なのか 大阪で沖縄女性らが見せ物にされた人類館事件

おそらく警察内部では、こういった話題が個人間で共有されていたのではないでしょうか。それがああいった発言につながったのではないか。

一方で、当然ながら沖縄にも“買弁の系譜”というのがあります。「土人」「シナ人」と言われながら、米軍基地と引き換えに日本政府からもたらされる甘い汁に群がる人々がいるのもたしかです。「アメリカ世」の時代に、米軍の占領政策に異を唱える議員の追放を画策した仲井眞弘多前知事の父親などもそのひとりでしょう。岸=安倍家と同じように、沖縄でも“買弁の系譜”はしっかりと受け継がれているのです。

竹中労は、『黒旗水滸伝』(皓星社・2000年刊行)の「プロロオグ」で、大労組主体の沖縄「革新」勢力もその“買弁の系譜”に入るのだとして、彼らが「本土復帰」に果たした役割をつぎのように批判していました。

 全琉プロレタリアートの八割、三十五万人は新レート三〇五円で読み替えられた、実質二割の”賃金カット”に甘んじねばならかったのだ。加之(しかのみながらず)、七万人の生活保証のために公共料金は値上げされ、諸物価は右にならえと、三六〇円、いや商品によってはそれを上回る換算値上げ、かくて経済恐慌は世替わりの南島をおおった。復帰運動の旗をふり、”親方日の丸”、祖国日本の幻想に庶民をまきこんで、とどのつまりはおのれらのみ、三六〇円読み替えの特権をほしいままにした奴輩、教職員会、官公労、全軍労の特権労働貴族、ダラ幹こそコンプラドールよ、五・一五”琉球処分”の元凶、といわなくてはならぬのだ。
 彼らは口をぬぐっていう、「我々は日本政府に裏切られた」「反戦平和の決意を新たにせよ」。人民の代表ズラしていう。「基地を撤去し、自衛隊の派兵を阻止しよう」「CTS反対」。
 笑ァさんけえ(笑わせるな!)、信じてえならんど、”革新”こそ眼のウツバリ、沖縄人民の内部の敵である(引用者:傍点あり)。そのことをハッキリと見すえ、擬制の左翼と絶縁するところから、”琉球人民共和国”独立、──無政府窮民革命テーマは浮上してくる。


時はめぐり、今や沖縄の「革新」勢力は、フジサンケイグループやネトウヨらによって「過激派」と呼ばれているのですから、なにをか況やでしょう。竹中労流バッタリと扇動は割り引くとしても、今回の「土人」発言を考えるとき、琉球独立は、もはや当然の方向のように思えます。スコットランドやカタルーニャを見てもわかるとおり、それは決して絵空事ではないし、過激な考えでもないのです。


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『琉球独立宣言』
2016.10.24 Mon l 社会・時事 l top ▲
「愛国」ばやりです。どこを向いても「愛国」の声ばかりです。それは、ネットだけではありません。テレビや新聞など、既存のメディアにおいても然りです。今や「愛国」だけが唯一絶対的な価値であるかのようです。言うまでもなく、安倍政権が誕生してから、日本は「愛国」一色に染まっているのです。

しかし、現在(いま)、この国をおおっている「愛国」は、実に安っぽいそれでしかありません。自分たちに不都合なことは詭弁を弄して隠蔽する、まるでボロ隠しのような「愛国」です。無責任で卑怯な、「愛国」者にあるまじき「愛国」でしかありません。「愛国心は悪党たちの最後の逃げ場である」(サミュエル・ジョンソン)ということばを、今更ながらに思い出さざるをえないのです。

さしずめ石原慎太郎や稲田朋美に代表される「愛国」が、その安っぽさ、いかがわしさをよく表していると言えるでしょう。それは、みずからの延命のために、国民を見捨て、恥も外聞もなく昨日の敵に取り入った、かつての「愛国」者と瓜二つです。

私は、「愛国」を考えるとき、いつも石原吉郎の「望郷と海」を思い出します。そして、私たちにとって、「愛国」とはなんなのかということを考えさせられるのでした。

1949年2月、石原吉郎は、ロシア共和国刑法58条6項の「反ソ行為・諜報」の罪で起訴、重労働25年の判決を受けて、刑務所に収容されます。そして、シベリアの密林地帯にある収容所に移送され、森林伐採に従事させられます。しかし、重労働で衰弱が激しくなったため、労働を免除。1953年3月、スターリンの恩赦で帰国が許可され、同年12月舞鶴港に帰還するのでした。

石原吉郎もまた、「愛国」者から見捨てられたひとりでした。

海から海へぬける風を
陸軟風とよぶとき
それは約束であって
もはや言葉ではない
だが 樹をながれ
砂をわたるもののけはいが
汀に到って
憎悪の記憶をこえるなら
もはや風とよんでも
それはいいだろう。
盗賊のみが処理する空間を
一団となってかけぬける
しろくかがやく
あしうらのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
しろくかがやく
怒りのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
(陸軟風)

 海を見たい、と私は切実に思った。私には渡るべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、海ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なにより海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へ変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。
 私が海を恋うたのは、それが初めてではない。だが、一九四九年夏カラガンダの刑務所で、号泣に近い思慕を海にかけたとき、海は私にとって、実在する最後の空間であり、その空間が石に変貌したとき、私は石に変貌せざるをえなかったのである。
 だがそれはなによりも海であり、海であることでひたすら招きよせる陥没であった。その向こうの最初の岬よりも、その陥没の底を私は想った。海が始まり、そして終わるところで陸が始まるだろう。始まった陸は、ついに終わりを見ないであろう。陸が一度かぎりの陸でなければならなかったように、海は私にとって、一回かぎりの海であった。渡りおえてのち、さらに渡るはずのないものである。ただ一人も。それが日本海と名づけられた海である。ヤポンスコエ・モーレ(日本の海)。ロシアの地図にさえ、そう記された海である。
 望郷のあてどをうしなったとき、陸は一挙に遠のき、海のみがその行手に残った。海であることにおいて、それはほとんどひとつの倫理となったのである。
(石原吉郎『望郷と海』)


この痛苦に満ちたことばのなかにこそ、「愛国」とはなんなのかの回答があるのではないでしょうか。私たちは、「愛国」を考えるとき、無責任で卑怯な「愛国」者たちによって見捨てられた人々の声に、まず耳を傾けるべきなのです。


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『永続敗戦論』
2016.10.11 Tue l 本・文芸 l top ▲
今月初め、小泉今日子が上野千鶴子との雑誌の対談で、“反アンチエイジング”宣言をおこなったという日刊ゲンダイの記事が、瞬く間にネットをかけめぐり、大きな話題になりました。

日刊ゲンダイDIGITAL
小泉今日子“反アンチエイジング”宣言に40代女性なぜ共感

もちろん、小泉今日子の発言だからこそ、アラフォーの女性たちの支持を集め、大きな話題になったのでしょう。とは言え、小泉今日子の発言は、おしゃれなんてどうだっていいとか、いつまでも若くありたいという気持は間違っているとかいう話ではないように思います。”反アンチエイジング”が妙な開き直りを招来するだけなら、それこそ元も子もないように思います。

米山公啓氏が言うように、今の“美魔女現象”があまりにもいびつなので、そういったアンチエイジングに疑問を呈しただけなのでしょう。

先日、私は横須賀線の車内でとってもきれいな中年女性に遭遇して、未だにその素敵な姿が瞼に焼き付いています。その女性は、わかりやすい例をあげれば、叶姉妹などとは対極にある中年女性の魅力に溢れた人でした。上品で大人っぽいボブヘアに、如何にもセンスのよさそうな清楚なファッションで、笑ったときの目尻の皺がとっても魅力的でした。

「筋力をつけて代謝をよくしたり、運動してはつらつさをキープしたりするのが健全なアンチエイジングですが、女性が語るアンチエイジングは、美容整形を施したり、高額なサプリを飲んだり、皮膚科のクリームを塗ったりして人工的な要素を含んでいます。運動して筋肉に張りを持たせてシワを少なく見せるのとは、ちょっと違う。小泉さんはそこにくさびを打ち、軌道修正したのです。(略)」


米山公啓氏の言うことは、私たち男性にもよくわかる話です。私の知り合いで、皮膚科でシミ取りをした女性がいましたが、シミがなくなって喜んでいる彼女を見たらよかったなと素直に思いました。そういったアンチエイジングは理解できないわけではありません。しかし、テレビや雑誌などに登場する美魔女は、なんだか痛々しく見えるだけで、ちっとも魅力的ではありません。むしろ、あざとい感じが透けて見えるのです。目尻の皺が魅力的に見えるようなそんな年の取り方ができれば最高ではないでしょうか。

私などは、街で若くてきれいな女性を見ると、「ああ、もう一度若くなりたいなあ」としみじみ思います。そして、ウインドーガラスに映った自分の姿に愕然とするのでした。

「いつまでも若くありたい」という気持も大事ですが、一方で、そうやって「もう若くないんだ」という気持をもつことも、人生にとって大切なことのように思います。

どう考えても、若いときのほうが希望があったし夢があったのです。その意味では、幸せだったのは間違いないでしょう。恋愛でも仕事でもなんでも溌剌としていたのはたしかです。40代もまだまだ若いと思いますが、たそがれていく人生に向き合う姿勢も必要なのだと思います。

何度も言いますが、悲しみは人生の親戚です。悲しみだけでなく、せつなさも、やりきれなさも、みんな人生の親戚です。もちろん、生きる哀しみも人生の親戚です。

アンチエイジングは、今や打ち出の小槌のようなおいしいビジネスになっており、美魔女たちは、その広告塔でもあるのです。それが美魔女たちが痛々しく見えるゆえんなのでしょう。
2016.10.10 Mon l 健康・ダイエット l top ▲
乳がんで闘病生活を送っている小林麻央が連日、病床から更新しているブログが話題になっています。おとといのブログでは、痛みなどを緩和するためにQOLの手術を受けたことや、がんの進行度が末期のステージ4であることを告白していました。

彼女が今置かれている状況を考えると、こうやってブログを更新していること自体、“驚き”としか言いようがありません。もし自分だったらと考えると、とても信じられないことです。

小林麻央は先月ブログを再開した際、「なりたい自分になる」と題して、がんと闘う決意を表明していました。自分の病状を公表するのは、その決意の表れなのでしょう。

吉本隆明は、言葉について、「自己表出」と「指示表出」という分け方をしています。「自己表出」というのは、自分に向けられる言葉で、「指示表出」というのは、他者とのコミュニケーションに使われる言葉です。吉本隆明は、これを一本の木に例えて、幹と根が自分に向けられる言葉(=沈黙)であり、枝や葉や実に当たるのがコミュニケーションに使われる言葉だと言ってました。そして、言葉の本質は、「沈黙」であると言うのです。

自分のことを考えてみても、自分に向ける言葉(沈黙)に“本音”があることは容易にわかります。他者に向けると、言葉に別の要素が入ってきて、“建前”とは言わないまでも、“本音”とは少し違ったものになるのです。

西欧の言語学でも、従来、話し言葉(パロール)のほうが書き言葉(エクリチュール)より発話者の観念を正確に表現するという考え方が主流でした(現代思想は、そういった伝統的な二項対立の考えに異議を唱えたのですが)。

書き言葉だと、さまざまな文章表現の制約もあり、うまく自分の考えが表現できないというのも日ごろ感じることです。なにより、そこには既に「自己表出」を「指示表出」に変換(翻訳)する作業がおこなわれているのです。ブログでも同じです。読者を想定している限り、内外のさまざまな制約から逃れることはできないのです。

末期のがんを前にして、自分の最期の姿を書き残したいという思いもあるのかもしれません。だとしたら尚更、自分の思いを正確に書き記すことができないもどかしさを感じることはないのだろうかと思います。

また、末期がんというきわめてプライベートでセンシティブな事柄について、SNSという公の場で、詳細な病状が公表されたり、家族間でやり取りがおこなわれたりすることに、私は、どうしても違和感を覚えてならないのです。世間には、小林麻央のブログに勇気をもらったとか元気をもらったとか励まされたとかいった声がありますが、他人の不幸で勇気をもらったり元気をもらったり励まされたりするのは、むしろ「蜜の味」と紙一重の心根と言えるでしょう。

例えは悪いですが、禁煙やダイエットなどと同じように、あえて口外することで、それをみずからの(闘病の)モチベーションにしたいと考えているのかもしれませんが、結果的にメディアに格好のネタを提供することになっているのは事実です。芸能ニュースの反応がまったく気にならないと言ったらウソになるでしょう。まして芸能人のブログは、アフィリエイトと無縁ではあり得ないのです。況やアメブロにおいてをやです。

不謹慎と言われるかもしれませんが、私は、小林麻央のブログに、芸能人の”悲しい性(さが)”とともに”したたかさ”のようなものさえ感じてならないのです。
2016.10.04 Tue l 本・文芸 l top ▲
今日、Amazonの定額読み放題サービス「Kindle Unlimited」に関して、下記のようなニュースがありました。

Yahoo!ニュース
講談社、Amazonへ強く抗議 「Kindle Unlimited」から説明なく全作品消され「憤っております」

私は「Kindle Unlimited」を利用してないので、今ひとつわからないのですが、おそらく講談社が配信していたのはコミックなのでしょう。それで、定額の読み放題にしたら、アクセスが殺到して、講談社に支払うロイヤリティがかさ張り採算がとれなくなったので、ランキング上位の作品を削除したのではないでしょうか。さらに、講談社の抗議で、ほかの作品もすべて削除されたのでしょう。

これこそ、AmazonやGoogleなどにありがちなアロガントな姿勢と言えます。AmazonやGoogleがこういった姿勢を取る(取ることができる)のも、EUなどと違って、日本の公正取引委員会がまったく動かず、AmazonやGoogleの寡占を野放しにしているからです。

Googleの検索などはその最たるものです。Yahoo!JapanがGoogleの検索エンジンを採用したのは、今から6年前の2010年7月からですが、それによって、PC検索におけるGoogleのシェアは90%以上になったのでした。これは、誰が見ても健全な状況とは言えないでしょう。しかも、Googleは広告会社なのです。圧倒的なシェアを背景に、検索と広告を連動させることで莫大な利益を得ているのです。

私のサイトは、今年の1月にメインのキーワードで圏外に飛ばされました。それまで10数年トップページにいたのですが、突然、圏外に飛ばされたのでした。理由はまったくわかりません。サイトになにか手を加えたわけではありません。

「SEOに詳しいと称する人間」に言わせれば、アルゴリズムが変わったからだと言うのですが、そうであれば順位が下落するだけでしょう。6位が15位とか30位とか100位とかになったというのなら理解できます。それがどうして、検索にひっかからないような圏外に飛ばされるのか。

Googleには、「Search Console」というサイトオーナーに向けたサイトがあり、そこに登録すれば、ペナルティなどを与えられた場合、修正箇所が指摘され、それを修正して再審査をリクエストするというシステムがあります。一見、Googleお得意の民主的なシステムのように思いますが、しかし、それはあくまで表向きのポーズにすぎません。実は、「Search Console」で指摘されないペナルティというのがあるのです。私のサイトの場合も、「Search Console」ではなにも指摘されていません。

「SEOに詳しいと称する人間」に言わせれば、「Search Console」に指摘されないペナルティは、Googleに「悪質」と判断されたペナルティだそうです。そんなバカなと思います。10数年、むしろ優遇されていたサイトが、なにも手を加えてないにもかかわらず、ある日突然、圏外に飛ばされたのです。どこが「悪質」なのでしょうか。

そう言うと、「SEOに詳しいと称する人間」はハグかもしれないと言うのです。でも、1年近くハグのままだというのも、とても常識では考えられません。

もっとも、突然、圏外に飛ばされたのは自サイトだけではありません。同じ業種で競合していたサイトも、過去に圏外に飛ばされた例がいくつもあります。それどころか、10年くらい前からネット通販をやっていた同業サイトのなかで、圏外に飛ばされずに残っていたのは、自サイトくらいでした。

私は、「SEOに詳しいと称する人間」たちが言う、“SEOの法則”も、(それが正しいと仮定すれば)逆にGoogleの”難癖”のようにしか思えないのです。

たとえば、「重複コンテンツ」がその典型です。通販サイトでは、「拡大画像」や「ランキング」や「おすすめ」や「カテゴリー別」など、どうしてもGoogleの言う「重複コンテンツ」が発生します。それがペナルティの対象と言われたのでは、ネット通販が成り立たないほどです。まして、通常、オーナーたちは、通販サイトを運営する上で、「重複コンテンツ」なんてほとんど意識してないでしょう。「重複コンテンツ」に「悪意」なんてあろうはずもないのです。

私は、先日、自サイトにあたらしいページを作成しました。そして、レスポンシブ・ウェブデザインになるようにviewportを設定した上で、Googleの「モバイルフレンドーテスト」でチェックしてみました。ところが、「モバイルフレンドリーではありません」という“不合格”の評価が下されたのです。「テキストが小さすぎて読めません」とか「リンク同士が近すぎます」とかいった改善箇所が指摘されていました。

しかし、自分のスマホで表示してみると、スマホの画面にすっぽりおさまっており、別に支障があるわけではないのです。文字やリンクが、小さすぎるとか近すぎると言われても、スマホの画面ではそれは当たり前です。スマホの小さな画面では、いづれにしても拡大しなければならないのです。モバイルフレンドリーが言う適正サイズなんて、なんの意味があるんだろうと思いました。

むしろ、Googleの検索結果を見ると、Googleが言うモバイルフレンドリーなんてただの気休めでしかないことを痛感させられます。その証拠に、上位はGoogleに広告を出しているサイトで占められています。しかも、同じサイトの違うページが複数表示されている例も多くあります。それこそ「重複コンテンツ」と言うべきでしょう。

それどころか、モバイルフレンドリーに対応してないサイトが上位に表示されているケースさえあります。しかも、そのサイトは、モバイルフレンドリー未対応にもかかわず、PC表示よりモバイル表示のほうが順位が上なのです。

素人のオーナーにとって、Googleが要求するモバイルフレンドリーに対応するには、技術的にもハードルは高く、専門の業者に頼まなければ、普通は無理でしょう。そうやって高いハードルの対応を要求しながら、実際の検索はまったく別の基準でおこなわれているのです。これでは、口コミサイトを謳いながら、評価のスコアはユーザーのスコアと違うものを使っていた食べログと同じです。アルゴリズムなんていくらでも操作ができるのです。

モバイルフレンドリーは、言うまでもなくGoogle独自の基準で、きわめて恣意的なものです。今やネットにおける検索は、公共なものと言っていいでしょう。公共のものである検索が、一(いち)広告会社の利益のために使われており、そのために検索のルールが都合のいいように捻じ曲げられているのです。理不尽なペナルティで多くのサイトが検索エンジンから消えている一方で、同一サイトのページが重複して上位に表示されている矛盾が、なによりその”不都合な真実”を示していると言えるでしょう。

キーワードのマッチングにしても、以前に比べてトンチンカンな事例が多くなっています。たとえば、「パン」というキーワードでも(便宜上、「パン」の例を出しているだけで、実際の「パン」の検索とは関係ありません)、店名にたまたま「パン」という文字が入っているだけで、食べ物のパンとはまったく関係のないサイトが上位に表示されていたりするのです。

別にBingの肩をもつわけではありませんが、Bingにそういった例はあまりありません。また、同一サイトのページが重複して表示される例も、Googleに比べてきわめて少ないように思います。それになにより、Googleで圏外に飛ばされたサイトも、Bingではちゃんと表示されています。

昔は、むしろ逆でした。MicrosoftのMSNに比べて、Googleのほうが優秀であるのは誰の目にもあきらかでした。それで、Googleはユーザーの圧倒的な支持により急成長したのです。当時、Googleが今のように邪悪になるなんて誰が想像したでしょうか。

今のGoogleの寡占状態は、どう考えても健全とは言えません。日本のネットの健全化のためにも、寡占状態は解消すべきでしょう。聞けば、Yahoo!JapanとGoogleの契約は二年ごとの更新のようです。素人の浅知恵でGoogle対策のSEOにうつつをぬかすより、検索エンジンの寡占状態を解消する方向に声をあげたほうがよほど生産的だと思うのです。
2016.10.03 Mon l ネット・メディア l top ▲
朝、駅前のスーパーに行ったときのことです。開店直後のスーパーはお年寄りのお客が多いのですが、今朝はいつになく店内が混雑していました。レジも既に行列ができていました。

レジに並んでいるお客を見ると、なぜかいつもと違ってぎっしり商品が入っているカゴを手にしている人が多いのです。

店内の棚を見ていた私は、ほどなくその理由に合点がいきました。今日は「安売りの日」だったのです。卵の10個入りのパックが98円で売っていました。私がよく買うコーラゼロも1.5リットルのペットボトルが118円でした。気が付いたら私のカゴもいつの間にかいっぱいになっていました。

開店直後のスーパーに来ている人は、年金暮らしのお年寄りも多いのでしょう。そのため、「安売りの日」に押しかけて買いだめしているのだと思います。

やがて買い物を終えた私は、重いカゴを床に置いて行列の最後尾に並びました。前に並んでいる人たちを見ると、ほとんどが年金世代とおぼしきお年寄りばかりでした。

レジで品物のバーコードを読み取っている店員も、初老の女性でした。と、そのとき、急に彼女の手が止まりました。トラブルが発生したみたいです。彼女は慌てて、隣のレジの女性になにか聞こうとするのですが、隣のレジも長蛇の列で混雑しているため、相手にしてくれません。すると、女性は、店内に向かって「すいませ~ん!」と大声で叫びました。でも、誰も反応がありません。レジはずっと止まったままです。なかには、私たちの列を離れて隣の列に並び直す人もいました。

私はイライラしはじめ、心のなかで舌打ちをしました。そして、「どうなってるんだ?」とひとり言ちたのでした。すると、そのとき、「機械が変わったんで大変なんですよ」という声が後ろから聞こえてきたのです。振り返ると、とうに70をすぎているような高齢の男性がニコニコした顔で立っていました。横にはカゴを乗せたカートが置かれていました。

レジのほうを見ると、たしかにバーコードを読む機械の先に銀行のATMを小さくしたような機械が設置されていました。知らないうちに、最初の機械で金額を読み、次の機械でお金を入れて清算するように変更になったみたいです。レジの女性たちは、直接お金のやり取りをすることがなくなったのですが、ただ、システムの変更で読み取る機械も変わり、それで戸惑っているのでしょう。

私のなかでは、いつの間にかイライラする気持が消えていました。後ろの男性のひと言で我に返ったという感じでした。レジが止まった事情がわかると、感情的な気持も消えたのです。

どうやらレジの女性は、割引券の処理の仕方がわからなかったみたいで、やがて若い店員がやってきて、その方法を教えると行列は再び流れ始めました。初老の店員は、あとにつづくお客ひとりひとりに対して、「お待たせして申し訳ございませんでした」と謝罪していました。

やがて私の番になりました。女性の額には汗がびっしょり噴き出していました。私は、「いつから変わったんですか?」と尋ねました。女性は、下を向いて手を動かしながら、「おとといからなんですよ」と言ってました。「慣れるまで大変ですね」と言ったら、「いえ、ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません」とさも恐縮した様子で答えていました。

私自身、さっきまでイライラしていたのがウソのようでした。あのとき、後ろの男性のひと言がなかったら、私はずっとイライラしたままで、もしかしたらそのイライラをレジの女性にぶつけていたかもしれません。

たしかに、年を取ってくるとキレる人が多く、「キレる老人」に遭遇するのもめずらしくありません。私自身、若い頃に比べてイライラすることが多くなったのを自分でも感じます。

香山リカに言わせれば、「キレる老人」というのは、年を取って世の中の流れに付いていけない自分に苛立ち、その苛立ちを他人にぶつけているところがあるのだそうです。そこには、デジタル化して急激に変わる社会や現役を引退して経済的な余裕がなくなったことなど、さまざまな背景があるのでしょう。もっとも、それは、老人に限った話ではないのです。

今の“貧困叩き”にも、似たような背景があるように思えてなりません。長谷川豊の暴論も、彼が金銭トラブルでフジテレビを辞め(辞めざるをえず)、フリーになったことと関係しているのではないかと思ったりするのです。彼にも、単なる炎上商法だけでない、どこか荒んだものがあるのではないか。

朝、駅に行くと、必死の形相で改札口をぬけ、エスカレーターを駆け上っている人を見かけます。寝過ごしたのかなと思うのですが、よく見ると、いつも同じ人物なのです。しかも、別に電車が来ているわけでもないのに、まるで強迫観念に駆られ、なにかに急き立てられるように駆け上っているのです。

資本主義が高度化して経済が金融化し、第三次、四次、五次産業の比率が高くなれば高くなるほど、“資本の回転率”は高くなります。その分、商品のサイクルも短くなり、人々の欲望のサイクルも短くなります。そして、そのサイクルは生活の隅々にまで貫かれるのです。システムが要求するスピードに常に急き立てられ、それに付いて行けるかどうかでその人間の能力が問われるのです。

そんな日常化した強迫観念と、“貧困叩き”や長谷川豊のような荒んだ心とは、背中合わせのような気がしてなりません。些細なことでわけもなくイライラするのも同じでしょう。

貧困や病気は、明日の自分の姿かもしれないのです。でも、彼らは、もはやそういった想像力さえ持てないのです。社会保障費が財政を圧迫しているからと言って、その原因を経済政策や社会構造に求めるのではなく、手っ取り早く個人に求め、自己責任論で他者を攻撃するだけなのです。そこにあるのは、想像力と理知の欠如です。

私たちには、後ろの男性のように、「機械が変わったんで大変なんですよ」と冷静に言ってくれる人がもっと必要なのかもしれません。
2016.10.01 Sat l 日常・その他 l top ▲
朝日新聞デジタルに、牧内昇平記者の「隠れ貧困層の実態」という記事がアップされていました。

朝日新聞デジタル
「隠れ貧困層」推計2千万人 生活保護が届かぬ生活
生活保護受けず、車上生活2年 「隠れ貧困層」の実態

折しも、政府は、年金の納付期間を25年から10年に短縮する関連法案を今国会に提出することを決定したというニュースがありました。

Yahoo!ニュース
年金受給資格期間、10年に短縮=関連法案閣議決定

以前、このブログでも触れていますが、10年への短縮は、消費税の10%引き上げと引き換えに実施される「社会保障の充実」策のひとつでした。しかし、引き上げが延期されたため、この「無年金対策」の実施が危ぶまれていたのです。しかし、「安倍晋三首相が7月の会見で『無年金問題は喫緊の課題』と表明し、実現が決まった」そうです。これにより「新たに約64万人が年金を受け取れるようになる」そうです。

もっとも、10年納付してもらえる年金は、国民年金(基礎年金)の場合、月に1万6252円(25年納付しても4万630円)だそうです。それでも、「無年金」対策を「喫緊の課題」として、前倒しして実施した政府の姿勢は認めるべきでしょう。

上記の牧内記者の記事によれば、社会保障に詳しい都留文科大学の後藤道夫名誉教授の推計では、「世帯収入は生活保護の基準以下なのに実際には保護を受けていない人は、少なくとも2千万人を上回る」のだそうです。本年の7月時点で、生活保護を受給している人は216万人なので、いわゆる捕捉率は10%にすぎないということになります。これは、ほかの先進諸国に比べて著しく低い数字です。既出ですが、ドイツは64.6%、イギリスは47~90%、フランスは91.6%です。つまり、それだけ日本は社会保障後進国だということです。テレビ東京的慰撫史観で「惚れ惚れ日本」を自演乙している場合ではないのです。

このように、最低限の「文化的生活」を営むことさえままならない人が2千万人もいるというのは、あきらかに政治(経済政策)の問題であり、それに伴う社会構造の問題です。ところが、この国は、なぜかその問題が個人に向かい、「自己責任」の名のもと、生活保護などセーフティネットに頼る人たちをバッシングする風潮が常態化しています。また、Yahoo!ニュースなどネットメディアがそのお先棒を担ぎ、不正受給などを針小棒大に扱ってバッシングを煽っている問題もあります。バッシングが貧困の実態(構造)から目をそらす役割をはたしているのはあきらかでしょう。

牧内記者が書いているように、扶助のなかで、家賃(住宅扶助)や医療費(医療扶助)を柔軟に運用すれば、それだけでも世間で言う”生活保護”の手前で、貧困を食い止める手立てになるように思います。運用が硬直化し、「丸裸になるまでは自助努力に任せるのが、日本のセーフティーネットの現状」で、そのため「最後のセーフティーネットの網にかからず、福祉の手が届かない人々がたくさん存在している」(後藤教授)のが実情なのです。家賃や医療費だけでも援助してもらえば、どんなに助かるでしょう。

何度も言いますが、貧困は決して他人事ではないのです。それは、高齢者や失業者に限った話ではないのです。普通のサラリーマンやOLでも、いつ陥るかもしれない問題なのです。それが、生活保護基準以下の人が2千万人もいるという、この国の「底がぬけた」格差社会の現実なのです。


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ワーキングプア
2016.09.30 Fri l 社会・時事 l top ▲
昨日、大リーグのファンだという人と話をしていたときです。彼は、イチローが所属するマーリンズのホセ・フェルナンデス投手が事故死したニュースを見たら、ショックで朝までまんじりともできなかったと言うのです。

私は、大リーグなんてまったくと言っていいほど興味がありません。もちろん、イチローやダルビッシュのことは知っていますが、ときに彼らが所属するチーム名も忘れて、野球好きな人と話をしている最中にこっそりスマホで確認することもあるくらいです。

私は、彼の話を聞いて(スマホでそのニュースを確認しながら)、すごいなと思いました。たかが、と言ったら叱られるかもしれませんが、野球選手が急死したくらいで、朝まで眠れなかったなんて、自分にはとても考えられないことだからです。

ファンかどうかという以前に、私には他人の死に対してのナイーブな感覚が失われているのではないかと思うことがあります。そもそも他人対する感覚が鈍磨しているような気さえするのです。

最近は特に、舗道を歩いていても、電車に乗っていても、いつも不機嫌になっている自分を感じます。たしかに他人の迷惑を考えない”自己中”の人間が多いのも事実ですが、そういった人たちに対して、寛容な気持が持てなくなっているのです。さすがに表に出すことはありませんが、心のなかではいつも舌打ちをしています。

電車のなかのベビーカーに対しても同じです。あれはベビーカーがどうとかいうより、ベビーカーを押している親たちが問題だと思うのです。週末の自由が丘の駅のホームで傍若無人に行き交うベビーカーに遭遇すると、とても寛容な気持にはなれないのです。「乳幼児をお連れの方」という表示をいいことに、ベビーカーで通路をふさいで、家族でシルバーシートを占領している光景を見ると、やはり心のなかで舌打ちをしている自分がいます。

ホセ・フェルナンデスの死にショックを受けてまんじりともできなかったという人は、離婚して子どもとも別れ、既に親も亡くなり、身寄りもない天涯孤独な人です。しかも、爆弾のような病気も抱えており、いつ死んでもいいというのが口癖です。それでも、他人の死にショックを受けるようなナイーブな感覚を失ってないのです。それに比べると、自分はなんと独りよがりで冷たい人間なんだろうと思ってしまいます。
2016.09.28 Wed l 日常・その他 l top ▲
SEALDsに同伴し野党共闘を支持していた「リベラル」と言われる人たちの間で、民進党の蓮舫新代表が野ブタを復権させたことなどに失望して、「新しいリベラル政党」を作る動きがはじまっているそうです。

私は、それを聞いて、なにを今更と思いました。そんなことは最初からわかっていたことです。SEALDsを持ち上げ、既成政党幻想を煽ってきたみずからのお粗末さ、トンチンカンぶりをまず自覚することでしょう。と言うか、こういう無定見な人たちは、余計なことをせずにさっさと退場してもらうのが一番でしょう。

ブレイディみかこ氏は、貧困問題に取り組んでいる運動を取材した文章のなかで、つぎのように書いていました。

 右派にしろ、左派にしろ、近年台頭しているムーブメントは、ミクロで起きていることをマクロの政治に持ち込む方向性で支持を広げている。ポデモスが地方政党と連合して運動を戦ったのもその一つの表れだろう。地方で起きているミクロな現実が中央政府のマクロにちっとも反映されないので自ら中央に乗り込んでいこうとする地方政党のエネルギーを、ポデモスが吸収したのだ。

「ミクロ(地べた)をマクロ(政治)に持ち込め」(『This Is JAPAN』・太田出版)


貧困支援の社会運動家で、『下流老人』や『貧困世代』の著者でもある藤田孝典氏は、これを「ミクロとマクロの連続性」と言っているそうです。上から目線で(文字通りマクロな目線で)「新しいリベラル政党」を作るなんておこがましいのです。

たしかに憲法問題も大きなテーマでしょう。しかし、それと同じように、あるいはそれ以上に、貧困問題も喫緊の大事なテーマです。生活保護バッシングや”貧困女子高生”バッシングに反撃することのなかに、ミクロからマクロにつながる政治的な回路があることを知る必要があるでしょう。リテラも記事を配信している、どちらかと言えば、「リベラル」な立ち位置にあったと言っていいビジネスジャーナルが、”貧困女子高生”をバッシングするために、あのようなねつ造記事を書いたことの深刻さをもっと考える必要があるでしょう。

何度も言いますが、右か左かではないのです。上か下かなのです。「憲法を守れ」とか「民主主義を守れ」と声高に主張しているからと言って、それが全体主義の免罪符になるわけではないのです。

「新しいリベラル政党」なんて(おそらくできもしないでしょうが)、所詮は民進党の同工異曲にすぎません。


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日本で待ち望まれる急進左派の運動
2016.09.28 Wed l 社会・時事 l top ▲
私は、国会のなかの様子を知るには、今や上西小百合議員のツイッターをチェックするに限ると思っています。

上西議員のツイッターは、粘着質のネトウヨからの罵詈雑言であふれています。それは、まるで『狂人失格』のモデル女性のブログに巣食う、ネットストーカーたちを彷彿とさせるような光景なのでした。

しかし、上西議員は、そんなことにひるまず意気軒高です。昨日の衆院本会議の安倍首相の所信表明演説の際、自民党の議員たちがいっせに立ち上がって拍手をした、まるで北朝鮮か中国の国会のような光景に対しても、上西議員はつぎのように批判していました。



余談ですが、上西小百合風に言えば、Yahoo!ニュースというのは、コメント欄が示すとおり、「猿」に余計な知恵をつけるメディアと言えるのかもしれません。

さらに上西議員は、自民党の補完勢力である民進党をヤユすることも忘れていません。


民進党の蓮舫新代表が、みずからの派閥の親分である野ブタの復権をはかったことに対しても、シニカルに批判していました。




このような野党不在の翼賛国会の現状を上西議員は「絶望的な状況」と言うのです。SEALDsなどよりよほど今の政治の深刻さを自覚していると言えるでしょう。

右か左かなんて関係ないのです。むしろ、色眼鏡をかけてない分、今の政治の病理=「絶望的な状況」がよく見えるということもあるのではないか。腐臭を放つ政治状況に対して、はっきりと「臭い」と言えるのは、彼女が大阪維新を除名されて、孤立無援な、だからこそなにものにも縛られない自由な身になったからでしょう。これからも上西議員のツイッターは要チェックです。


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上西議員の発言はまとも
2016.09.27 Tue l ネット・メディア l top ▲
私は、NHKで深夜に放送されていた「MUSIC BOX」という番組が好きでしたが、最近、たまたまYouTubeに、その映像がアップされていたのを見つけて感激しました。アップ自体は違法なのかもしれませんが、かつての番組ファンにとっては感涙ものでした。

YouTube
NHK MUSIC BOX 80年代邦楽 「恋におちて」 小林明子
NHK MUSIC BOX 1991年邦楽 「PIECE OF MY WISH」 今井美樹

ただ、放送した年がはっきりしないので、いつこの番組を見たのか、ずっと気になっています。と言うのも、この番組を見ていた当時の自分の心境が、特別なものであったような気がするからです。

映像の左上にある数字は、放送されていた時刻です。どうしてそんな時間まで起きてテレビを見ていたのか。誰かに、深夜に放送されているNHKの番組が好きだという話をしたような記憶もあります。なにがあって眠れぬ夜をすごしていたのか。それが気になって仕方ないのです。失恋か。仕事の悩みだったのか。

「MUSIC BOX」に映し出されている80年後半から90年代にかけては、私は、六本木にあるポストカードやポスターなどを輸入する会社に勤めていました。バブルが弾ける前でしたので、結構、分不相応なことも経験しました。「恋に落ちて」という曲にも思い出があります。それで、よけいセンチメンタルな気分になって見ていたのかもしれません。

考えてみれば、時間は容赦なく過ぎていくのです。文字通り容赦なく、それも駆け足ですぎていく。

先日の新聞に出ていましたが、「金妻」の舞台になったような、かつての「あこがれのニュータウン」も、今は住民が高齢化して街も寂れ、さまざまな問題が生じているそうです。「恋におちて」も今は昔なのです。「金妻」たちは、老後を前にした現在(いま)、どんなことを考えているのだろうかと思いました。やはり、あのキラキラ輝いていた時代をときどき思い出し、追憶に浸ることはあるのだろうかと思いました。


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2016.09.24 Sat l ネット・メディア l top ▲
先日、「文春砲は腰抜け」という記事を書きましたが、訂正しなければならないのかもしれません。今週号(9月29日)では、豊洲移転問題に関連して、石原慎太郎のことを取り上げていました。ついにタブーが破られたかと思いましたが、でも、やはりどこか腰が引けている感はぬぐえません。芸能人のスキャンダルのときのような”冴え(意地の悪さ)”はありません。

週刊文春(9月29日)号
総力取材 豊洲の「戦犯」 石原とドン内田

都議会のドンは、元テキヤだそうです。しかも、豊洲の問題で権勢をふるった当時は、なんと落選中の身だったとか。にもかかわらず、「自民党東京都連幹事長に留任。都議会に部屋と車が用意され、都政に大きな影響力を持っていた」のです。そして、ドンがおこなったのが、豊洲移転に反対する民主党との「交渉」です。と言うのも、当時、民主党は都議会でも大躍進し、与野党の勢力図がほぼ拮抗していたからです。

折しも、『原発ホワイトアウト』のモデルでもあった泉田裕彦知事が突然出馬撤回した新潟県知事選挙について、つぎのようなニュースがありました。

Yahoo!ニュース(産経新聞)
新潟県知事選、野党3党に推され東大卒の医師が出馬表明 前長岡市長と一騎打ちへ

 共産、生活、社民の3党は今月17日、米山氏の擁立を民進党県連に要請したが、同県連は申し出を断り自主投票を決めていた。米山氏は民進党に離党届を既に提出しており、無所属で知事選に出馬する方向。


出馬表明した米山隆一氏は、民進党の新潟5区総支部長で、次期衆院選の公認候補にも内定していたそうです。

にもかかわらず、民進党は他の野党から要請されていた米山氏の擁立を断り、米山氏は離党して立候補することになったのです。どうしてなのか。それは、米山氏が東京電力柏崎刈羽原発の再稼働について、泉田知事同様、慎重な姿勢をとっているからです。

東京電力柏崎刈羽原発の再稼働に直接関係する新潟県知事に、慎重派の知事が誕生することは、電力総連に牛耳られた連合を支持母体とする民進党としても容認できないのでしょう。野ブタが復権したのも別に驚くことではありません。むしろ、民進党が野党を名乗ることの不幸(この国の政治の不幸)を考えるべきでしょう。

豊洲の移転問題においても、ドンの裏工作によって、民主党は妥協を重ね、豊洲移転の障壁ではなくなったのでした。民主党(民進党)も、伏魔殿の一員であることには変わりがないのです。

今週号では、石原と鹿島の関係にもちらっと触れていますが、もちろん、利権は豊洲移転だけではありません。むしろ本丸は、東京オリンピックのほうでしょう。

それにしても、この国の「愛国者」は、いつの時代も責任転嫁ばかりです。関東軍の上級士官たちも、部下や邦人を置き去りにして、満州から真っ先に逃げ出し、先を争って“昨日の敵“に取り入ったのでした。そして、公職に復帰すると、再び「愛国者」ズラして、戦後の日本はエゴイズムがはびこり、国を愛することが疎かになっている、などと国民に説教を垂れていたのです。

醜い弁解と責任転嫁に終始する石原こそ、この国の「愛国者」の典型と言えるでしょう。忘れてはならないのは、そんな石原を新橋や丸の内のサラリーマンたちは、かつて「理想の上司」として崇めていたことです。文春や新潮ばかりでなく、フジサンケイグループなども、まるで「救国のリーダー」のようにヨイショしていたのです。

豊洲移転問題でも、みんな口をそろえて「知らなかった」と言うばかりです。誰ひとり責任を取ろうとする人間はいません。それは、あの戦争のときから変わらないこの国の姿です。

テレビのワイドショーなども、徐々に腰砕けになっており、この問題の落としどころを探っているフシさえあります。来年になれば問題も沈静化して、計画どおり移転がはじまるだろうという見方も出ています。昨日のTBSの番組では、角谷浩一というコメンテーターが、誰の責任か追及するのは生産的ではない、みんな良かれと思ってやったことだ、というようなことを言ってましたが、そうやって沈静化がはかられるのでしょう。

築地市場の歴代の市場長の天下り先を見ると、「東京メトロ代表取締役副会長」を筆頭に、目も眩むほどの豪華さです。また、直接工事等に関わった部署の担当者たちの多くも、ゼネコンなどに天下りしているそうです。今回の問題の根っこにあるのは、このような役人天国の問題です。そして、その役人天国と持ちつ持たれつの関係を築くことで伏魔殿と化した議会の問題があるのです。当然ながら、そこに利権が生まれ、利権によって行政が動かされる現実があるのです。その中心に鎮座ましましていたのが、「愛国者」且つ「救国のリーダー」且つ「理想の上司」の「空疎な小皇帝」(斎藤貴男)石原慎太郎だったのです。
2016.09.23 Fri l ネット・メディア l top ▲
韓国ブームが再燃しているそうです。

韓国観光公社によれば、日本からの訪韓客は、2012年8月以降、減少の一途を辿っていたのですが、今年2月に3年6ヶ月ぶりに増加に転じたそうです。そして、今年の上半期(1月~6月)の訪韓数は、昨年に比べて10%増加したのだとか。今日のテレビでも、韓国ブーム再燃の話題が取り上げられていました。

ただ、ブームの中身は、前回とは異なっているようです。今回は、ファッションやメイクやスイーツなど、主に10代~20代の若い女性が中心だそうです。韓流ブームと言うより、韓国ブームと言ったほうがいいのかもしれません。

@niftyニュース
10代に韓流ブーム再び キーワードは「自撮り」(週刊朝日)

スマホアプリからブームが再燃したというのは、やはり、LINEなどの影響が大きいのかもしれません。少なくとも、モバイルビジネスでは、ハード面も含めて韓国が日本より先行しているのは間違いないでしょう。そのため、アプリなどのサービスにおいても、常にイニシアティブを握ることができるのでしょう。

ブームは、アプリだけにとどまりません。日本のギャルたちは、オルチャンファッションやオルチャンメイクと呼ばれる、韓国の若い女の子たちのファッションやメイクを模倣しているのです。また、原宿にも進出した韓国かき氷・「ソルビン」など、韓国スイーツも人気を博しているそうです。

今回のブームには、前回の韓流ブームに対して上野千鶴子が不快感を示したような、「植民地時代からの優劣関係の記憶」などどこにもありません。それが、ファッションやメイクやスイーツなど、ブームの主体がより生活に密着したものに移行した理由なのでしょう。つまり、若い女の子たちが抱く韓国のイメージは、「歴史」や「政治」と完全に切断されたところに成り立っているのです。それこそ、『さよなら、韓流』で北原みのりが書いた、「しなやかに強く根深く自由」な「女の欲望」のギャル版とも言えるでしょう。

韓国製品は日本製品より劣っている、韓国社会は日本社会より遅れているというような“嫌韓“のイメージは、ネットニュースに影響されてネトウヨになった日本人の、そうあってほしいという願望でしかないのです。そうやっていつまでも「植民地時代からの優劣関係の記憶」にすがっていたいのでしょう。

国内の市場が小さく、日本のように「パラダイス鎖国」やガラパゴス商法が望めない韓国は、最初からグローバルな市場に活路を求めるしかありませんでした。その結果、技術面においても付加価値においても、韓国製品は世界に通用するレベルにまで達し、いつの間にか日本製品の強力なライバルになっていたのです。「世界ナゼそこに?日本人」のような番組には、統一教会で集団結婚した日本人花嫁が多数出ているそうですが、統一協会の信者まで動員して、世界で日本人はリスペクトされている、日本製品はあこがれの的だというような、テレビ東京的慰撫史観で自演乙している間に、アジアは韓流ブームにおおわれ、韓国製品に席巻されていたのです。

自分たちの生活を虚心坦懐に眺め、日本に韓国や中国ほどの勢いがあるかと考えれば、とてもあるようには思えません。私たちには、世界中にお金をばらまいて歩いているアベシンゾーが滑稽に見えるほど、「景気が悪く」「生活が苦しい」実感しかもてないのです。韓国経済は停滞している、中国経済は崩壊する、というようなおなじみの”希望的観測”とは裏腹に、アジアでは韓国や中国がスタンダードになるのかもしれないのです。

ブーム再燃は、若い女の子たちの柔軟な感性をとおして、そんな韓国の勢いが再び日本にも押し寄せているということなのでしょう。


関連記事:
『さよなら、韓流』
2016.09.21 Wed l 社会・時事 l top ▲
週刊文春2016年9月22日号


豊洲新市場への移転問題で、小池知事の株は文字どおりうなぎのぼりに上がっています。さすが世渡り上手な政治家です。メディアを利用した“劇場型政治”の用意周到さとその舵さばきは見事というしかありません。野党統一候補の鳥越俊太郎氏が知事になっていたら、こんなセンセーショナルな展開は望めなかったでしょう。

朝日新聞によれば、盛り土がおこなわれなかったことについて、都庁の元担当者は、「将来新たに地下水汚染が見つかった際、状況を調べたり取水などの汚染対策に使ったりする『モニタリング空間』」だったと言っているそうです。こういう往生際の悪さも役人の特徴でしょう。ああ言えばこう言う役人の詭弁の罠にはめられて、大山鳴動して鼠一匹出ずということにならないように願うばかりです。

国政より先に自公体制が築かれていた都議会は、石原慎太郎が言うよりはるかに前から「伏魔殿」と呼ばれていました。むしろ、石原は、都政を「伏魔殿」にしたひとりと言ってもよく、彼に「伏魔殿」なんて言う資格はないのです。そもそも豊洲移転を持ち出したのも石原なのです。謂わば石原は、豊洲移転問題の一丁目一番地なのです。

豊洲移転に対しては、当初は築地の仲卸業者の大半も反対していたそうです。しかし、その後、寄らば大樹の陰で、多くの業者が賛成に転じたのですが、食を扱うプロとしての矜持もポリシーもない彼らの責任も無視できないでしょう。豊洲移転に賛成した彼らは、間違ってもメディアが言うような「被害者」なんかではないのです。

石原は、盛り土がおこなわれてなかったことに対して「だまされた」と言い、みずからが盛り土の提言を否定するような言動をおこなっていたことに対しても、「覚えてない」(のちに撤回)とか「下から言われたのでそのとおりに言っただけ」とか責任逃れの発言に終始しています。

彼は自他ともに認める「愛国者」です。尖閣諸島の購入計画を打ち出して、棚上げにされていた領土問題を再燃させたのも彼です。中国が攻めてくるという妄想を日本中に広めた張本人と言ってもいいでしょう。

そんな「愛国者」が、みずからの責任に頬かむりしているのです。それは、国民を守るためではなく、国体を守るために本土決戦を回避して(それどころか、原爆投下を「天佑」と”歓迎”すらして)、敗戦の責任から逃れるために、我先に昨日の敵にすり寄っていった戦争指導者とよく似ています(アベシンゾーのお爺ちゃんもそのひとりです)。

一方、東条英機に「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような手紙を段ボール箱に何箱も書いて(鈴木邦男)、戦争を熱望した国民たちは、敗戦になった途端、自分たちは「被害者」だと言い始めたのです。それは、築地の仲卸業者たちとよく似ています。その背後にあるのは、戦前から一貫して変わらない日本社会の無責任体系です。

そんな豊洲問題を我らが週刊文春も取り上げていました。

週刊文春(9月22日号)
小池VS.豊洲利権

リードに曰く、「ついにパンドラの箱が開いた。築地市場の移転先となる豊洲新市場で、土壌汚染対策の盛り土が行われていなかったことが発覚した。総事業費は六千億円に膨らむ一方で、食の安全に対する懸念は残ったままだ。誰による、誰のための移転だったのか。徹底検証する」

しかし、記事は「徹底検証」なんてほど遠い、まったく腰が引けた竜頭蛇尾な代物でした。

文春の記事には、豊洲移転の張本人であり、今回の問題のキーパーソンである人物の名前がいっさい出てこないのです。

もともと豊洲市場の土壌汚染対策は〇八年七月、有識者による専門家会議が都に対して「敷地全体に盛り土を実施すべき」と提言していた。ところが、都は単独で工法を変更したのだ。


 専門家の指摘を反故にしてまで一体、いつ、誰が盛り土の中止を決めたのか。


でも、記事には石原の「い」の字も出てこないのでした。石原の“鶴の一声”などまるでなかったかのような感じです。

豊洲移転の利権にしても、ゼネコン各社の異常な落札率の高さを指摘していますが、でも、東京オリンピックの問題でも指摘されていた石原と鹿島の“親密な関係”については、ひと言もないのです。

私は、以前、1969年に当時隆盛を極めていた“左“の言論に対抗するために『諸君』が創刊された際、石原が文春内で果たした役割について、元社員から話を聞いたことがありますが、未だに文春では、石原センセイはタブーなのでしょう。

文春砲は腰抜けです。叩きやすいところを叩くだけの、タブーだらけのスキャンダリズムにすぎないのです。音だけ大きい屁のようなスキャンダリズムなのです。
2016.09.19 Mon l ネット・メディア l top ▲
私は、「とと姉ちゃん」は病院の待合室で一度見たことがあるだけですが、主題歌の「花束を君に」はとてもいい曲で、何度もくり返し聴いています。宇多田ヒカルが亡き母親にあてて歌った歌であるのは、歌詞からも容易に想像されます。

いい音楽というのは、聴く人間の感性を激しくゆさぶり、いろんな思いや考えを誘うものです。「花束を君に」を聴きながら、ふと自分の帰る場所はどこなんだろうと考えました。既に親も亡くなった現在、もう帰る場所はどこにもないように思います。母親の死を機に本籍も横浜に移しましたので、田舎は本籍地でさえないのです。書類に書くとき、間違えないように本籍地の番地を暗記していましたが、もうその必要もなくなったのです。

帰る場所はどこなのか。どこに帰ればいいのか。そう考えたとき、やはり、頭に浮かぶのは、藤枝静男の「一家団欒」でした。今や故郷に残る唯一のよすが(縁)になってしまった菩提寺の墓。そこに眠る祖父母や父母のもとに帰るしかないのではないか。そう思うのでした。両親が生きているときは散々不義理したくせに、勝手なものです。「一家団欒」の章と同じように、泣いて懺悔するしかないでしょう。

先日の記事で紹介した吉本隆明の「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬという生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである」ということばや、どんな人生を生きたかよりどんな人生でも最後まで生きぬいた、ただそれだけですごいことなんです、と言った五木寛之のことばが示しているのは、仏教の思想です。「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」(『歎異抄』)存在として私たちがいるのです。

今、私ができることは、できる限り田舎に帰って、父母らが眠る墓に手を合わせることでしょう。もう私はそんなことしかできないのです。


関連記事:
墓参りに帰省した
宇多田ヒカル
2016.09.16 Fri l 日常・その他 l top ▲
私は、ドキュメンタリー作家の原一男氏の作品は、若い頃からよく見ていました。いちばん最初に見たのは、「極私的エロス 恋歌1974」でした。当時、私は高田馬場の予備校に通い浪人生活を送っていたのですが、一方で、アテネフランセの映画講座にも通っていて、たしかそこで見たように記憶しています。

しかし、ドキュメンタリー作家・原一男氏の名を知らしめたのは、なんといっても「ゆきゆきて、進軍」(1987年)でしょう。それは、私にとっても衝撃的な作品でした。奥崎謙三のことは、『ヤマザキ、天皇を撃て!』を読んで以来、ずっと興味をもっていましたが、あらためて映像化されたものを見ると、その強烈な個性と奇矯なふるまいに、文字通りド肝をぬかれたのでした。ただ、その奇矯なふるまいによって、大岡昇平が『野火』で書いているような、ニューギニア戦線の極限状況下における部隊内の処刑とカニバリズムの真相があぶり出されていくのでした。同時に、奥崎謙三が、カメラの前では「演じる人」でもあったということがわかり、それも驚きでした。

そのあとに見たのは、ガンに斃れた作家・井上光晴氏の日常にカメラを据えた「全身小説家」(1994年)です。「全身小説家」も、衝撃的なドキュメンタリーで、「嘘付きみっちゃん」の面目躍如たるような経歴の嘘が、カメラの前でつぎつぎとあきらかにされるのでした。

ところが先日、その原一男氏のブログを見ていたら、つぎのような記事がアップされていて、文字通り目が点になりました。

原一男の日々是好日
週刊金曜日「鹿砦社広告問題」に触れて(2016年9月8日)

私は、正直、大丈夫か?と思いました。

『週刊金曜日』(8月19日号)で、「さようならSEALDs」という特集が組まれたのですが、そのメイン企画が原一男氏とSEALDsの奥田愛基の対談だったそうです。しかも、特集号には二人の写真が表紙を飾ったのだとか。

ところが、その裏表紙に、私もこのブログで紹介した『ヘイトと暴力の連鎖 反原連・SEALDs・しばき隊・カウンター』(鹿砦社)の広告が掲載されていたらしく、どうやらそれがお気に召さなかったようなのです。

原氏はこう書きます。

それにしても、何故、こういう問題が起きたのか? 悪意ある誰かの意図があったのかどうか?


そこで、「まずは事実経過をハッキリ確かめよう」と担当の編集部員に連絡したのだとか。

一体なにが問題だというのでしょうか。言論、表現、出版の自由を持ち出すまでもなく、誰が見ても問題なんてないでしょう。むしろ、問題にするほうが問題とさえ言えるのです。

 一見、週刊金曜日内部の問題かのように見える。が、そうだろうか?
ひとりの編集部員が誇りと意地をかけて汲み上げた記事を、同志であるべき同じ編集部の長である人が、本来、支持し守るべきところを、あろうことか泥をぶっかけたに等しい。メッセージに込めた祈りを汚したのだ。70年代、このような人たちを“内部の敵”と呼んでいた。今や、この“内部の敵”という魑魅魍魎が跋扈していることに気付くべきなのだ。その魑魅魍魎たちがニッポン国の至るところに巣くっていることに。


この被害妄想。「悪意のある意図」「内部の敵」などという常套句。私は身の毛がよだつものを覚えました。まるでスターリニズムの悪夢がよみがえるようでした。

SEALDsを担いだ「ジジババども」(辺見庸)にとって、今やSEALDsはスターリンのような“絶対的な存在”になっているのでしょうか。SEALDsに異を唱える者は、まるで民主主義の敵、人民の敵とでも言わんばかりです。奥崎謙三が告発した”虚妄の戦後”を、原氏は、神聖にして犯すべからず至上の価値として崇め奉っているかのようです。

私は、SEALDsなんてなにも生み出さなかった、むしろ無定見な既成政党幻想や選挙幻想を煽った分、”罪”のほうが大きいと思っていますが、さしずめこんな私は、アベシンゾーと同様、人民の敵なのかもしれません。

言うまでもなく、全体主義は“右“の専売特許ではありません。“左“も例外ではないのてす。「憲法を守れ」とか「民主主義を守れ」と声高に主張しているからと言って、それが全体主義の免罪符になるわけではないのです。

他人(ひと)の口を借りてものを言うつもりはありませんが、私は、再び三度、辺見庸の(幻の)”SEALDs批判”を思い出さないわけにはいかないのでした。

だまっていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし「帰れ!」コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?だまっていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。
よしんばかれらが××派だろうが○○派だろうが、過激派だろうが、警察に〈お願いです、かれらを逮捕してください!〉〈あの演説をやめさせてください!〉と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強してでなおしてこい。古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘をさすとしずくがかかってひとに迷惑かけるから雨合羽で、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。絶対安全圏で「花は咲く」でもうたっておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ。下痢がおかげさまでなおりました、とさ。コール「民主主義ってなんだあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。

かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで「勝った」だと!?おまえらのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれじしんもなんだかわからなくなって、けっきょく、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。Happy birthday to me! クソッタレ!

(辺見庸「日録1」2015/09/27)

※Blog「みずき」より転載
http://mizukith.blog91.fc2.com/



関連記事:
『3.11後の叛乱』
左の全体主義
2016.09.15 Thu l 社会・時事 l top ▲
高畑裕太の不起訴&釈放には驚きました。

逮捕された容疑が「強姦致傷」なので、被害者の告訴がなくても捜査は進められ起訴も可能だったはずです。意外な結末と言えるでしょう。示談が成立したことによって、捜査に被害者の協力が得られず、公判の維持が難しいと判断したからではないかという専門家の解説がありましたが、さもありなんと思いました。被害者が、示談でもなんでもして早く事件を忘れたいと思っても、誰も責められないでしょう。

ネットで「高畑裕太」と検索すると、「高畑裕太 被害女性」「高畑裕太 被害女性画像」などと予測候補のキーワードが表示されますが、いちばんゲスなのは善良な仮面をかぶった世間なのです。テレビのワイドショーの視聴者であり、Yahoo!ニュースにアクセスするのを日課にしているネットの利用者であり、週刊文春や週刊新潮の読者です。そんなゲスな世間の目から、被害者のプライバシーを守ることをなにより優先しなければならないのです。逆に言えば、それだけ強姦が卑劣な犯罪だということなのです。肉体的な被害だけでなく、精神的な被害も深刻な問題なのです。まして、加害者が有名人であれば尚更でしょう。

弁護士が、お金にものを言わせて性犯罪被害者の苦悩に付け込み、泣き寝入りするように追い込む。テレビドラマでも見ているような、そんな想像をしました。「ママのおかげだよ」と言って母親の腕にすがり付きながら、陰で薄ら笑いを浮かべている、なんてことがないように願うばかりです。

高畑裕太を担当したのは、「無罪請負人」として有名な弘中惇一郎弁護士の事務所だそうです。弘中弁護士と言えば、ロス疑惑の三浦和義(無罪)、薬害エイズの安倍英(一部無罪)、厚労省村木事件の村木厚子(無罪)などを担当した”辣腕”弁護士です。かつては『噂の真相』の顧問弁護士もしていました。

また、不起訴&釈放に際して、弁護士がコメントを出したことにも驚きました。弁護士がコメントを出すこと自体、異例だそうです。高畑裕太の話しか聞いておらず、「事実関係を解明することはできておりません」と言いながら、まるで事件が”冤罪”であったかのように一方的な主張を述べているのでした。強姦事件では、コメントにもあるように、加害者側の弁護士が「合意だった」とか「被害者にも落ち度があった」と主張するのはよくあることで、被害者は公判でも二次被害を受けることが多いのだそうです。そのため、示談、告訴の取り下げ(不起訴)に至るケースも多く、性犯罪の起訴率は50パーセントにも満たないと言われています。

コメントに対しては、私は、下記の千田有紀氏と同じような感想をもちました。

Yahoo!ニュース
高畑裕太さん釈放後の弁護士コメントは、被害者女性を傷つけてはいないか?

コメントは、被害者がなにも言えないことをいいことに、言いたい放題のことを言っているような感じさえするのでした。コメントを受けて、さっそく「推定無罪」がどうとか、(日刊ゲンダイのように)被害者の女性の素性がどうとかいった話まで出ていますが、弁護士にすれば、「してやったり」という感じなのかもしれません。

通常、こんな一方的なコメントを出すことは考えれないので、コメントを出すことも示談で合意されていたのではないかと言われていますが、仮にそうだとしてもなんだか残酷な気がしてなりません。“不合理な裏事情“を感じてならないのです。
2016.09.11 Sun l 芸能 l top ▲
生活保護関連の仕事をしている人と話をしました。そのなかで、いわゆる「貧困ビジネス」の話になりました。業者は、ホームレスの人たちに声をかけて、自分が管理するアパートなどに住まわせます。そして、役所に連れて行き、申請の手続きをサポートして生活保護を受給させるのです。業者は弁当を支給して、保護費のなかから住居費だけでなく食費も徴収するのだそうです。そのため、入居者の手元に残るのは1~3万円くらいだとか。なかには、支給された保護費を一括管理して、毎日千円づつ渡したりするケースもあるそうです。

たしかに、受給者を食い物にしていると言えますが、ただ、すべてを否定できない側面もあるのだと言ってました。役所は申請主義なので、自分で申請しないと生活保護のようなセーフティネットも利用することができません。ホームレスの人たちのなかには、知的障害のある人も少なからずいるので、最初からセーフティネットの基本的な知識すらない人もいるそうです。また、コミュニケーション能力が劣っていたり、対人恐怖症だったりして、役所に行ったものの、窓口で冷たくあしらわれて、申請をあきらめた人も多いのだとか。家族や地域や職場などの「中間共同体」からはじき出され、ひとりで生きていかざるをえないにもかかわらず、自分ひとりで生きていく能力も術も持ってない人たちも多いのです。

「貧困ビジネス」の業者は、そんな人たちに「住まいも食事も用意するよ」と声をかけるのです。不思議なことに、ひとりで行くと「水際作戦」で追い払われるのに、業者と行けば申請がとおりやすいのだそうです。

そうやって住まいと食事は確保されるのです。たしかに搾取はされるかもしれませんが、少なくとも路上生活から脱出できることは事実でしょう。都内では、毎日のように路上生活者が行き倒れ、尊い命を失っていますが、そういった明日をも知れない絶望的な境遇から脱出できることは事実なのです。

私がよく行く街にも、その手の施設と思しき建物があります。見ると、施設を運営する会社は、別の場所で弁当の仕出しもやっています。おそらく入居者に弁当も支給しているのでしょう。

私は、これを”必要悪”と言うのだろうかと思いました。一方では、サイゾーが運営するビジネスジャーナルのように、”貧困女子高生”をバッシングするために、記事をねつ造するようなメディアもあります。そんな”ゲスの極み”に比べれば、(誤解を怖れずに言えば)ある意味では、「貧困ビジネス」のほうが制度の狭間に取り残された人たちの貧困の現実に「向き合っている」と言えなくもないのです。

受給者の生活については、バッシングの記事ばかりで、その現実がなかなか表に出てこないのですが、先日、「閑人者通信」のブログ主が、みずからの生活の現実をつぎのように書き綴っていました(長くなりますが、引用します)。いつも言うことですが、これは決して他人事ではないのです。明日は我が身かもしれないのです。

長寿という思わぬ穽陥に対する国家の保険である基礎年金は制度が破綻している。
一次産業や自営業、非正規で生きてきて金融資産がない場合、賃貸アパートに暮らしながら月に6万5千円で暮らすのはなかなかに工夫を必要とする。
多分、都会では困難だろう。
国民年金が20歳から60歳までの全国民に義務づけられている「税」である以上、保険金を全額納めたとしても老後それだけでは食えないというのは明らかな制度設計のミスである。
リタイアするまでに預貯金などの資産を蓄えておけという人もいる。
それができる人間もいればできない人もいる。
障碍者などを別にしても、例えば愚老は中卒で学歴もなければ世間に通用するスキル職能など何も持っていない無能の人である。
そんな人間が資産など蓄えられるわけもない。そんな甘い世の中ではない。
それなら死ぬまで働けという意見もあるだろう。
それには「嫌だよ」と笑って答えるしかない。
実はこの秋から食えなくなると思ってフェイスブックなどでさかんに食糧支援の広告を打っているのにはわけがある。
もう金輪際、勤労はやめたのである。
還暦を過ぎてから廃品回収、養老院の夜警、掃除夫、ゴミの分別などの仕事をやってきた。
去年はずっと便所掃除をしていた。
汲み取りの公衆便所のクソをブラシでこすっていると何故かかなしくなった。
まあそんなことがあって漸く前期高齢者になったのを機に勤労はやめることにした。
もう楽しいことしかしないと決めた。
だっていくら愚かでも奴隷の人生ではないのだから。
いつまでも苦役列車に乗っているつもりはない。
そうなればただ国の社会保障制度という再分配政策を利用すればいいだけの話である。
受給する年金とナショナルミニマムとの差額3~4万円を生活網で保障されるのである。
そのために勤労も納税もしてきた日本人のひとりなのである。
そういう当たり前の話が通じにくくなっている。
なぜか。生活が苦しい人々が、より下位にある貧困な人々に対するルサンチマン。歪である。
80年代以降のグローバリズムという経済がそういう国民を大量に生みだしたのである。
結句、世間は非寛容となった。ひとは弱い者には残酷になれる。

愚老は残りの寿命もあとわずかである。
持病の慢性腎炎も人工透析が目前に迫っている。
生活保護を利用すると医療は現物支給となる。これは助かる。
確か保護費の半分は医療費が占めている。
病院がタダだから羨ましい、などというバカがいる。
どこに病気になって喜ぶ人間がいるのか。本末転倒も甚だしい。
30年前には考えられなかったことだが、いまや貧困はほぼ固定化するのである。
階層移動は困難となった。老人の場合はまず脱出不可能である。
同時に家族がいれば貧困は連鎖し再生産される。
愚老は貧困層というレイヤーで長く暮らしてきたから血縁も悲惨である。
兄弟は病死したり餓死したり悲惨な死に方をした。
よくは知らないが子供の労働環境も恐らく悲惨であろう。
子供は3人いるが大学校へいった子はもちろんいない。貧乏だから当然である。
子供たちが幼児のころから家には帰らない火宅の人だったから扶養の実績もない。
そのうち母親と離婚したから親権を放棄し戸籍上も縁も切れた。
子を捨てたのである。
その子供たちのところへ市の福祉課から毎年扶養援助の通知がいく。
いまの政権で家族主義が復活していろいろとうるさくなった。
そんな縁のない生物学上の父親でも生活保護を利用すればそういうことになる。
それが発覚すれば子どもの婚姻の障壁ともなる。
相手の家族の反対にあって結婚できない。そういう価値観の持ち主ならば仕方がない。
どこまでも不憫である。
(このブログを匿名にしたのにはそういう訳がある)

この辺りがナマポ老人のリアルである。
少なくとも愚老にはどうだ羨ましいだろう、とは言えない。
言う人間がいればばいくらでも聞いてやる。

閑人舎通信
http://kanjinsha.com/diary/diary.cgi

2016.09.09 Fri l 社会・時事 l top ▲
カカクコムが運営する口コミサイト「食べログ」で、また”疑惑”がもちあがっているようです。

Yahoo!ニュース
ねとらぼ
食べログの評価が3.0に突然リセット 飲食店オーナーの書き込みが物議

「食べログ」は、過去にヤラセの口コミが問題になったことがありましたが、そのときは、「食べログ」はどちらかと言えば“被害者”の立場でした。しかし、今回は違っています。

SNSに投稿したレストランオーナーによれば、「食べログ」の営業担当者から、ネット予約機能を使わないと検索の優先順位を落とすと言われたものの、予約機能を拒否したところ、「食べログ」のスコア(評価点数)が3.0にリセットされた(下げられた)のだとか。しかも、リセットは、経営する4店舗全部でおこなわれたそうです。それに対して、カカクコムは、予約機能とスコアは「無関係」と言っているようです。しかし、投稿を読む限り、スコアになんらかの手が加えられたのは間違いないでしょう。経営者の怒りはわからないでもありません。

どうしてネット予約機能を使わないと検索順位を落とすと言われたのか。それは、ネットの予約機能が広告に連動しているからです。要するに、広告を出せば、検索順位を優先して上位に表示すると言いたかったのでしょう。もちろん、それをあからさまにやればユーザーの反発を招くので、スコアや予約機能などさまざまなサービスを使って広告であることを巧妙に隠しているだけなのです。

そもそも今回リセットされたスコアにしても、個々のユーザーがレビューの際に付けるスコアの平均ではないのだそうです。私は、表示方法も同じなので、でっきりユーザーのスコアの平均だと思っていました。ところが、ユーザーのスコアではなく、「食べログ」が独自の基準で算出した(いかように操作できる?)スコアなのだそうです。何のための口コミサイトかと思ってしまいますが、それが、今回の騒動のポイントでしょう。

もっともこれは、「食べログ」に限った話ではありません。Googleなども同じです。たとえば、Googleショッピングも広告なのです。アドセンスを利用しないとGoogleショッピングに表示されません。それどころか、Googleの検索順位の上位をアドセンスの広告ユーザーが占めているは、半ば常識です。SEOなんて、所詮は素人の浅知恵にすぎないのです。

忘れてはならないのは、カカクコムもGoogleも営利企業だということです。しかも、その収益の大半を広告で稼いでいる会社なのです。検索システムを自分で作っているというのは、検索のルールを自分で決められるということです。アルゴリズムなんていくらでも操作できるのです。

言うまでもないことですが、カカクコムやGoogleは「公正中立な神」なんかではないのです。ましてや、彼らに「公正中立な神」であることを求めるのは、八百屋で魚を買うようなものです。たしかに、Googleは、今やネットにおいて“全能の神”のような存在になっています。しかし、その“全能の神”は、収益の90%をアドセンスやアドワードの広告で稼いでいる営利企業でもあるのです。

「食べログ」やGoogleが「公正中立」を装っているのも、広告の効果を高めるためです。広告枠を高く売るためなのです。

今回の問題で、カカクコムに「公正中立」を求めるような方向に進むのなら、それこそネットに「公正中立の神」が存在するかのような幻想をふりまくだけの、トンチンカンな反応と言わねばならないでしょう。


関連記事:
『ウェブニュース 一億総バカ時代』
『ソーシャルもうええねん』
2016.09.09 Fri l ネット・メディア l top ▲
今日、リテラに下記のような記事が出ていました。

リテラ
上西小百合の太田光代批判は正しい! おかしいのは「『サンジャポ』に出るな」と上西を恫喝した光代のほうだ

私も、最初、下記のYahoo!ニュースの記事を見たとき、リテラと同じような感想を持ちました。

Yahoo!ニュース
ディリースポーツ
上西議員、太田光代氏に謎のかみつき 「文句あるならサンジャポ出るな」と一蹴される

上西小百合議員の言っていることは、至極真っ当です。「テレビの閉塞感の代表」が太田光代とテリー伊藤だというのは、まったくそのとおりでしょう。

太田光代が代表を務める芸能プロ「タイタン」が、大阪府知事になる前から橋下徹氏のマネジメントをしてきたのはよく知られていました。それは今も変わっていません。それどころか、橋下氏は「タイタン」の顧問弁護士でもあるのです。

上西議員は、「タイタン」が政界復帰を目論む橋下氏とタッグを組んで、彼の芸能活動に手を貸していることにチャチを入れたかったのでしょう。ニュースを扱うサンジャポの爆笑問題は、一見“客観”を装いながら、背後では橋下氏の野望に手を貸しているじゃないかと言いたかったのかもしれません。橋下氏にとって、芸能活動が“政治家・橋下徹“の隠れ蓑であることはあきらかなのです。

それに対して、太田光代は、「サンジャポに文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」と言い返したそうです。まるでサンジャポをみずからがプロデュースしているかのような発言です。

私も、その発言を読んで、太田光代は何様のつもりだと思いました。「タイタン」は爆笑問題の威光を笠に、出演者の人事権まで握っているのかと思いました。

「タイタン」は、爆笑問題が太田プロから独立したのに伴い、仲間内で作った事務所だそうです。爆笑問題のマネージャーも、彼らの出身大学である日芸(日本大学芸術学部)の同級生が務めているという話を聞いたことがあります。それが、いつの間にか芸能界のドンまがいの発言をするまでになったのです。それもひとえに、芸能界がアンタッチャブルな世界だからでしょう。

何度も言いますが、芸能界をアンタッチャブルな(ヤクザな)世界にしているテレビ局や芸能マスコミの責任は大きいのです。メーン司会者とは言え、一介の出演者の所属プロダクションの社長に、「文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」などと言わせるサンジャポスタッフのだらしなさを痛感せざるをえません。こういった思い上がりを許しているから、芸能界のドンのような輩が生まれるのです。

ネットでは上西議員に対して批判的な見方が多いようですが、それは常に水は低いほうに流れるネットの特質によるもので、上西議員の発言は、意外にまともなのが多いのです。「炎上」と言っても、上西議員が言うように、せいぜい10人程度が騒いでいるだけで、それをニュース(とも言えないようなニュース)をマネタイズするためにアクセスを稼ぐことに腐心するネットメディアが、大げさに取り上げて煽っているだけなのです。


関連記事:
人間のおぞましさ
2016.09.06 Tue l 芸能 l top ▲
今日の朝日新聞デジタルに、「台風一過、秋風にススキ揺れる 熊本・阿蘇」という記事が出ていました。記事に添付されていた写真は、阿蘇のミルクロードのすすきが風に揺れる初秋の風景でした。それを見ていたら、中学の頃のある情景がよみがえってきて、胸がふさがれるような気持になりました。

朝日新聞デジタル
台風一過、秋風にススキ揺れる 熊本・阿蘇

阿蘇の外輪山の大分県側の東の端に位置する私の田舎でも、この季節になると、草原に一面すすきの穂がゆれる風景が見られます。私の心のなかに残っている田舎の風景も、やはり秋から冬にかけてのものが多いのです。阿蘇もそうですが、私の田舎も、九州と言っても標高の高いところにあるので、秋の訪れが早いのでした。

中学二年のときでした。数か月前から私は、身体の不調に見舞われていました。学校では野球部に入っていたのですが、風邪をこじらせて思うように部活もできない状態になっていました。貧血を起こして目の前が真っ白になり、立っていられないことが何度もありました。また、やたら寝汗をかくのでした。

それで、学校を早退して、内科医の伯父が勤務する国立病院で診察を受けることになったのでした。ただ、国立病院がある街までは、バスと電車を乗り継いで3時間くらいかかるので、前日に伯父の家に泊まって翌日受診することになったのです。

伯父からは、ベットの予約をしておくので、入院の準備をして来るようにと言われました。入院したら学校はどうなるんだろうと思いました。私は、不安でいっぱいでした。

学校から私の家まで1キロくらいあり、普段は県道が通学路です。しかし、校門を出た私は、なぜかふと、県道の脇に広がる草原のなかを歩きたいと思ったのでした。

私は、通学路を外れ草原のなかに入りました。草原には牛が放牧されており、地面が踏み固められてできた細い道しかありません。私は、草原のなかの道をひたすら歩きました。前方には小学校のとき遠足で訪れた小高い山がそびえていました。周りは腰くらいの丈のすすきにおおわれ、時折、草原を吹き抜けていく風にすすきがさわさわとゆれると、いっそう孤独感がつのってきました。そして、なんだか自分が田舎に背を向け、みんなと違う方向に歩きはじめているような気持になっていました。

結局、私は、年明けまで三か月間入院し、さらにそのあと再発をくり返して、都合三度入院することになるのでした。また、高校も親戚の家に下宿して、知り合いが誰もいない街の学校に進むことになり、だんだん田舎の友達とも疎遠になっていったのでした。

年甲斐もないと言えば年甲斐もないのですが、今朝、ネットで新聞を見ていたら、あのときの切なくてどこかもの哀しい気持が、私のなかでよみがってきたのでした。


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2016.09.05 Mon l 故郷 l top ▲
イニシャルで書いてもバレバレですが、俳優のW・Tが、糖尿病の合併症で人工透析を受けているのはどうやらホントのようです。週刊誌によれば、マネージャーもそれを認めているそうです。

マネージャーは、「症状はそれほど重いものではありません」と答えていたそうですが、しかし、糖尿病で人工透析まで至ったというのは、どう考えても重くないとは言えないでしょう。

糖尿病の末路は悲惨なものです。さまざまな合併症を併発して、徐々に身体が蝕まれていく糖尿病の怖さは、その現実を知らない人にはなかなか理解できないでしょう。糖尿病予備軍やまだ初期の段階にある人たちのなかには、どうにかなるだろうとタカをくくっている人も多いのですが、でも、どうにもならないのです。よほど覚悟を決めて食生活を改善しなければ、悲惨な末路が待っているだけなのです。

旧知の病院で人工透析を担当する老ドクターは、私にこう言いました。

「これは医療ではないんだよ。医療とは言えないんだよ」
「どうしてですか?」
「だって君、医療というのは病気を治すことだろう。彼らは治らないんだよ。治すことができないんだよ。だから、医療とは言えないんだよ」

私は、ドクターの話にショックを受けたのですが、ただ、一概に暴論と片付けられない“真実”を含んでいることもたしかでしょう。

そのW・Tが、今日、テレビに出ていました。番組のタイトルが「W・Tと銀座大人カレー巡り」というものです。文字通り、食べ歩きの番組なのでした。看護師によれば、透析を受けている患者にカリウムは厳禁だそうです。カレーにも当然カリウムを多く含む食材が使われているはずです。まさに「命がけ」と言っていいでしょう。

芸能人でありつづけるためには、週三日透析を受けながらも、努めて明るくふるまい、危険な食べ物でもさも旨そうに食べなければならないのです(実際は、おしゃべりで胡麻化して、あまり口には入れていませんでしたが)。他人様に身をさらす仕事をしていると、当然、そうやって身体を張らなければならない場面も出てくるでしょう。家庭の事情もあるのかもしれませんが、奥さんのS・Iの稼ぎだけではダメなんだろうかと思いました。今後、心筋梗塞や脳梗塞のリスクだって高くなるはずです。いらぬおせっかいかもしれませんが、私は、W・Tに憐れみさえ覚えたのでした。
2016.09.04 Sun l 芸能 l top ▲
私は、夏目三久が好きで、彼女が出る番組はよく見ていました。有吉弘行との熱愛報道が出たとき、「どうして有吉なんだ?」とがっかりしました。どう見ても有吉とは似合わないように思いました。有吉のあのわざとらしい毒舌も嫌いでした。

でも、二人の熱愛が芸能界のドンによって「なきもの」にされようとしているのを見て、逆に、有吉でもなんでもいいから愛を貫いてもらいたいと思うようになりました。熱愛報道をめぐる一連の展開が、あまりにも理不尽に思えたからです。

ところが、夏目三久自身が、SMAP解散騒動のときと同様事務所寄りの報道をおこなっているスポニチの単独取材(と言っても電話インタビュー)に応じて、熱愛報道を「全て事実ではありません」と全面否定するに至っては、さすがにちょっと待てよという気持にならざるをえませんでした。今後、どう展開するのかわかりませんが、もしこのまま熱愛が「なきもの」にされて幕が下ろされるのなら、夏目三久ってとんでもない食わせ者と言われても仕方ないでしょう。

しかも、このスポニチの記事は、電話インタビューなのに、なぜか赤い服を着た夏目三久が涙をぬぐっているような写真まで添付されているのです。

それにしても、芸能界というのは怖い世界だなとあらためて思います。村西とおるが言うように、「カタギのお嬢様にはできないお仕事」だということを痛感させられます。案の定、芸能界のドンの逆鱗に触れた有吉が「芸能界追放の危機」なんて記事が出はじめていますが、芸能界のドンにとって、タレントというのは、犬や猫以下の”もの(商品)”だということなのでしょうか。

身近で二人を見てきた(はずの)マツコ・デラックスも、今回に限ってはひと言も発言してないのです。なんだか彼の(彼女の?)の毒舌のメッキも剥がれた気がします。また、日ごろ口さがない”芸能界のご意見番”たちも、みんな口を噤んでいるのです。所詮、怖い怖いヤクザな世界の住人(ドレイ)ということなのでしょう。

今はテレビを見るにしても、昔と違って、これはヤラセではないかとか、単なる話題作りではないかとか、視聴者がテレビのなかまでのぞき込み、シニカルに見るようになっています。今回も「あるものをなきものにする」カラクリが視聴者の前にさらけ出され、すべてが見え見えなのです。にもかかわらず、芸能界のドンにひれ伏し、旧態依然としたオキテに従って、かん口令を敷いた芸能マスコミやテレビ局の姿勢は、あまりにも時代錯誤と言えるでしょう。何度も言いますが、こういった姿勢が芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。
2016.09.03 Sat l 芸能 l top ▲
最近は寝付きが悪くて、夜中に起きていることが多いのですが、深夜、ふと思いついて、NHKアーカイブスで、2015年1月にEテレで放送された吉本隆明を特集した番組を見ました。

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」
「第5回 自らの言葉で立つ 思想家~吉本隆明~」

番組のなかで遠藤ミチロウも言ってましたが、ときに生きづらさのようなものを覚え、眠れぬ夜をすごしているときなど、吉本隆明の思想はどこか元気にしてくれるところがあります。それが吉本の思想が「肯定の思想」と言われるゆえんなのでしょう。

番組では、つぎのようなことばが紹介されていました。

市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬという生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。
『カール・マルクス』より


世界的な作家といわれ、社会的な地位や発言力をもつことよりも、自分が接する家族と文句なしに円満に気持よく生きられたら、そのほうがはるかにいいことなのではないか。そういうふうにぼくは思うのです。
『ひきこもれ』より


指導者の論理と支配者の論理というのは、自分の目先の生活のことばかり考えているやつは一番駄目なやつで、国家社会、公共のことを考えてるのがそれよりいいんだみたいな価値観の序列があるんですよね。ところが僕は違うんです。僕は反対なんです。自分の生活のことを第一義として、それにもう24時間とられて、他のことは全部関心がないんだって、そういう人が価値観の原型だって僕は考えている。


たしかに、私たちは、人間関係や仕事やお金や健康など、日々いろんな思いを抱えて生きているのです。会社の上司や同僚との関係に悩んだり、仕事に行き詰まりを感じたり、身体の不調に不安を覚えたり、通勤電車のなかでマナーの悪い隣の客に不快感を抱いたり、家族や恋人との関係に齟齬を覚えたりしながら生きているのです。もう少しお金があればもっと幸せになれるのにと思うこともあります。そんな日常の些事に纏わるいろんな思いのなかから、自分のことばが生まれるのです。

私のブログもそうですが、ネットに飛び交っているような、自民党がどうとか、民進党がどうとか、韓国がどうとか、中国がどうとかといったことは、それらに比べれば「取るに足らない小さなこと」です。

「個人のほうが国家や公よりも大きいんです」という吉本隆明のことばは、「政治の幅は常に生活の幅より狭い」という埴谷雄高のことばにも共通するものです。吉本隆明は、そんな日常のなかから生まれた「大衆の思想は世界性という基盤を持っているのだ」と言ってました。

文学や歌謡曲も、そこにあるのは個人のことばです。「大衆の思想」にとって、SEALDsなんかよりは宇多田ヒカルのほうが、何百倍も何千倍も価値があるのは間違いないでしょう。

国家や公を第一義とする、たとえば、国家があって私がある、私的利益ばかり追求して公共心が疎かにされている、というような「動員の思想」に抗するには、徹底した個人の論理(私の論理)しかないでしょう。「動員の思想」は、なにも「アベ政治」の専売特許ではないのです。「アベ政治」に反対する左派リベラル(風なもの)も同じです。

「個人のほうが国家や公よりも大きいんです」ということばのあとには、「何が強いって、最後はひとりが一番強いんですよ」ということばがつづいていましたが、もって銘すべしと思いました。


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吉本隆明
2016.09.01 Thu l 社会・時事 l top ▲
27日には、「高畑会見 危機管理のプロ評価」などという記事をアップしていたYahoo!トピックスですが、昨日は一転「高畑淳子会見 性被害者の怒り」という記事をアップしていました。これでバランスをとったつもりなのかもしれません。

Yahoo!ニュース
高畑会見 危機管理のプロ評価
高畑淳子会見 性被害者の怒り

高畑淳子の会見の無神経さは、裕太容疑者がやったこととのおぞましさを踏襲するものと言わざるをえません。それが、二次被害=セカンドレイプと言われるものです。もちろん、その無神経さは、高畑淳子の「涙」に同情して、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として彼女の気持がよくわかる」などとインタビューに答えている“街の声”も同じです。

当日、高畑淳子は、ほとんど寝てなくて憔悴していたとメディアは伝えていましたが、しかし、そのわりに、受け答えには多分に計算されたものがありました。たとえば、記者の質問に答える前、必ず「申し訳ございません。よろしくお願いします」とかなんとか謝罪のことばを入れて、へりくだった姿勢を見せる場面などがそれです。

また、一時間ずっと立ちっぱなしで会見をおこなったことについて、「誠実さの表れ」みたいな報道がありましたが、ホントに「憔悴していた」のなら、どうして座って会見をしなかったのかと思いました。会見のあと、ふらふらとよろめいて退場する場面がありましたが、もしあれが演技でなければ、よけい座って会見すればよかったのにと思いました。

結局、「涙」によって、見ている者たちは思考停止に陥り、(メディアや”街の声”のように)情緒的に受け止めることで、事件の本質が隠蔽されるのです。そして、世間的には「情状酌量の余地」をもたらし、仕事復帰のハードルが取り除かれるのです。

しかし、その一方で、被害者は、高畑淳子がメディアに出るたびに二次被害を受け、苦しむことになるのです。メディアも“街の声”もそれがまるでわかってないのではないか。

まして、「親の責任論」の是非を問う下記のような記事は、レイプ事件の二次被害をまったく理解してないトンチンカンなものと言うべきでしょう。高畑淳子が批判されるのは(批判されなければならないのは)、「親の責任論」からではないのです。

The Huffington Post
高畑淳子さんが謝罪 でも「母親叩き」に道義はあるのか?
Yahoo!ニュース(日刊スポーツ)
高畑淳子の長男不祥事謝罪で議論…親の責任どこまで
2016.08.31 Wed l 芸能 l top ▲
高畑淳子に関して、来月から上演される芝居には予定どおり出演するけど、来年以降の活動は未定という報道がありました。これで逆に、高畑淳子に対する芸能人仲間からの同情論や、先日の会見へのメディアの好意的な見方の背景が、なんとなく見えてきたような気がします。

忘れてはならないのは、高畑裕太容疑者がやったことは非道な犯罪だということです。「強姦罪」は被害者の告訴が必要な親告罪ですが、「強姦致傷罪」は告訴が必要ない非親告罪だそうです。怪我は全治一週間の指の打撲だとか言われており、怪我自体はきわめて軽症のようです。それでも、群馬県警があえて非親告罪の「強姦致傷罪」で逮捕したのは、もちろん、加害者が有名人であったということもあるでしょうが、もうひとつは、犯罪自体が悪質だったからではないかと言われています。また、警察官が宿泊している部屋に踏み込んだら、裕太容疑者は犯行直後にもかかわらずぐっすり寝込んでいたそうで、その“ふてぶてしさ“から常習性さえ疑われているのです。

ところが、高畑淳子の会見に対しては、犯罪の悪質性などどこ吹く風で、危機管理上どうだったか、及第点をあげられるかどうかなどという話になっているのでした。そんな反応を見ると、やはり、あの会見は「商品」イメージの低下を食い止め、活動をつづけるために演出されたものだったのかと思ってしまいます。また、会見自体も、仕事関係に迷惑をかけて申し訳ないというような話が多く、二次被害に苦しむ被害者の存在は片隅に追いやられてしまったかのようです。そして、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として高畑淳子さんの気持はよくわかる」などという“街の声”が、被害者不在の会見のカラクリを覆い隠す役割を果たしているように思えてなりません。

極めつけは、会見の際、裕太容疑者の性癖について質問した、フジテレビの番組でフィールドキャスターを務めるフリーアナウンサーに対しての批判です。結局、フリーアナウンサーは謝罪するはめになったのですが、でも、あの質問は別に批判されるべきものとは思いません。性犯罪の背景(性依存症)を考えると、当然出てきておかしくない質問だと思います。

それより、高畑淳子が活動をつづけることに対して、被害者がトラウマで苦しむことになるのではないか、それをどう思っているのか、という質問がなかったことこそ批判されるべきだと思うのです。もしかしたら、フリーアナウンサーの質問は、演出された会見の空気を乱すKYなものだったので、批判されたのかもしれません。

しかも、批判の急先鋒に立っていたのが、一方で、被害者女性のプライバシーを晒すことに躍起になっているネット民であったということも忘れてはならないでしょう。ここにも、リアルとネットの共犯関係によって作り出される、「万人が万人を支配する」「デモクラチック・ファシズム」(竹中労)の構造が垣間見えるような気がしてならないのです。
2016.08.29 Mon l 芸能 l top ▲
高畑裕太容疑者の母親・高畑淳子の会見を見ましたが、私は、どうしても意地の悪い見方をせざるをえませんでした。

私は、高畑敦子の会見を見て、先日の高島礼子や古くは三田佳子の会見を思い出しました。人前で涙を流すことなど女優にとっては朝飯前です。ぶっつけ本番の”涙の謝罪会見”は、文字通り女優としての腕の見せどころでしょう。女優にとって、一世一代の“大舞台”と言っていいのかもしれません。

高畑淳子は、出演する舞台の降板を否定して、「皆さんに演技を見せるのが私の贖罪と思っています」と言ってました。私は、その手前勝手な理屈の意味が理解できませんでした。

被害者は今後半永久的に忌まわしい記憶を抱え、トラウマに苦しむのです。メディアをとおして高畑淳子の名前を目にするたびに、その忌まわしい記憶がよみがえり苦しむことになるでしょう。高畑淳子はそれがわかってないのではないか。

私は、「親も同罪」「子の罪は親の罪」と言いたいのではありません。でも、性犯罪の二次被害を考えるとき、高畑裕太だけでなく、親の高畑淳子もトラウマの対象になるのは明白です。それが有名人の性犯罪が(被害者にとって)より残酷である所以です。

また、高畑淳子は、つぎのようにも言ってました。

「(面会は)もう、ほとんど覚えていないが『一生かけて謝らなければいけないよ』と。こんなことは不謹慎で言ってはいけないが、本当に申し訳ないことをしたねって言った後に、でもどんなことがあってもお母さんだから、姉はどんなことがあっても裕太のお姉ちゃんだからと言っていたように記憶しています」

Yahoo!ニュース
高畑淳子が会見 涙で謝罪「大変なことをしてしまいました」
オリコン


私は、それを見て、高畑裕太は服役して出所したあと、また同じ犯罪を犯すのではないかと思いました。

性犯罪が個人のキャラクターの問題などではなく、一種の嗜癖(依存症)であるというのは、多くの専門家が指摘しています(下記参照)。つまり、心の病気なのです。だからこそ、出所後の治療とケアが大事なのです。親として子どもの心の闇と向き合い、そのなかに分け入り、人格形成に果たした役割をもう一度辿りなおすことが肝要なのです。でないと、何度も同じ犯罪を犯すことになるでしょう。

ダ・ヴィンチニュース
なぜ性犯罪を犯すのか? なぜ繰り返すのか? 「性依存症」について考える
dot.(ドット)
性犯罪の背景に“依存症” 「性的なしらふ」にするための試みも

高畑淳子に対して「女手ひとつで一生懸命育てていた。気の毒だ」というようなコメントが芸能人仲間から出ていますが、少なくとも今回の犯罪においては、そんな同情論はなんの意味もないのです。むしろ、これらの同情論の背景には、高島礼子のときと同じように、芝居の制作会社の意向(降板させられないビジネス上の事情)がはたらいているのではないかと、そんなうがった見方をしたくなるのでした。

一方、有吉弘行と夏目三久の交際&妊娠報道では、昨日まではスクープを放った日刊スポーツ以外、どこも芸能界のドンの意向(怒り)を反映した「否定」のオンパレードで、「法的処置も検討」というような記事さえありました。

テレビが一切無視して、スポーツ新聞がいっせいに「否定」の記事を載せる。この翼賛体制こそが黒を白と言いくるめる(あるものをなきものにする)芸能界のドンの”力”なのです。テレビもスポーツ新聞もそれにひれ伏しているのでした。

ただ、スクープから2日経ち、風向きが微妙に変わりつつあるのも事実です。双方の事務所の「否定」コメントが遅すぎるとか、不自然だとかいった話が出はじめているのでした。これから徐々に「有吉が干される危機」などという、SMAP解散騒動などでも見られた”脅しの記事”が増えてくるのかもしれません。

私は、これらのニュースを見て、あらためて芸能界というのは「特殊××」(吉本隆明)なんだなと思ったのでした。
2016.08.26 Fri l 芸能 l top ▲
SMAPの解散にまつわる報道は、今や完全に情報操作の段階に入っています。それこそなんでもありの状態です。それに一喜一憂するのは、みずから“衆愚”と言っているようなものでしょう。

SMAPが稼ぐ年商250億円の既得権益をできるだけ死守しようとするジャニーズ事務所と、その利権をジャニーズ事務所から奪おうとする大手プロダクションや黒い紳士たちの暗闘。そんな魑魅魍魎たちが陰に陽に跋扈して、腹にイチモツのリーク合戦をおこなっているのが、今、私たちの目の前で繰り広げられている光景です。

キムタクがどうだ、中居がどうだ、香取がどうだという話は、今年の1月の時点では多少意味があったと言えますが、解散が決定した現在、もはや情報操作の道具でしかなく、どっちに正義があるとか、どっちに真実があるとか、そんなものはほとんど意味がなくなったのです。

私は、以前『芸能人はなぜ干されるのか』の記事(下記の関連記事参照)のなかで、つぎのように書きました。記事に多くのアクセスが集まったのに伴い、思ってもみないような反響がありました。なかには本の内容を紹介した部分に対して脅しのようなメールも届きました。それで、記事をアップしたあとに、下記の部分を書き足したのでした。

大半の人たちは、芸能記事に書かれていることを真に受け、記事の芸能人に、失望したり憤ったり、あるいは逆に感動して涙したり応援する気持になったりするのでしょう。しかし、話はそんな単純なものではないのです。記事の裏には、芸能界を「支配」する者たちの思惑やカラクリだけでなく、さらにそれに対抗する(「告発」する)者たちの思惑やカラクリも複雑に絡んでいる場合があるのです。


もっともこれは、SMAPだけの話ではありません。肯定と否定が交錯している、有吉と夏目三久の交際&妊娠報道も同じでしょう。芸能界のドンの手にかかれば、黒を白と言いくるめることも可能なのです。

これらの報道であらためて思ったのは、ドレイ契約に縛られている彼ら芸能人は、どこまで行ってもただの「商品」でしかないということです。仮に移籍しても、それはドレイ契約の付け替えでしかないのです。

芸能界の魑魅魍魎たちにいいように転がされているSMAPの5人を見ていると、まるで羊飼いに引かれて行く屠られる羊のようで、憐れみと哀しささえ覚えてならないのです。しかも、それは仔羊ではなく、40すぎのおっさんなのです。キムタクの虚勢が滑稽に見えるのも、故なきことではないのです。


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『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.24 Wed l 芸能 l top ▲
文藝春秋2016年9月号


芥川賞を受賞した村田紗耶香の「コンビニ人間」(『文藝春秋』9月号)を読みました。

この小説を「現代のプロレタリア文学」と評した人がいましたが、つぎのような表現をそう解釈したのかもしれません。

(略)かごにセールのおにぎりをたくさん入れた客が近づいてくるところだった。
「いらっしゃいませ!」
 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。


 朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。


選考委員の村上龍は、選評で、みずからが司会を務める「カンブリア宮殿」で見聞きしたことを引き合いに出して、企業の教育やトレーニングに共通している「挨拶」の徹底は、「一種の『規律』であり、いろんな意味での、会社への同化・帰属意識の醸成である」と書いていましたが、しかし、これってただ当たり前のことを言っているにすぎないのです。それをさも自分が“発見“したかのように、フーコーまがいの表現でもったいぶって書いているだけです。

村上龍が働いたことがあるのは、デビューする前に、霞が関ビルでガードマンのアルバイトをしたことくらいで(その際、エレクトーンを弾いていた奥さんと知り合い結婚したと言われています)、彼は、私たちが想像する以上に“世間知らず“なのです。だから、「カンブリア宮殿」に出てくる海千山千の「社長」たちをあのように「すごい」「すごい」と言って感嘆するのでしょう。

「コンビニ人間」を「現代のプロレタリア文学」と評するのも、村上龍と同じような“世間知らず“の読み方だとしか思えません。

この小説に“社会性“があるとすれば、大学1年のときから18年間、就職もせずに同じコンビニでアルバイトをつづけている、36歳・未婚・恋愛経験なしの主人公に向けられる“世間の目”に、かろうじて見ることができるだけです。

 コンビニで働いていると、そこで働いているということを見下されることが、よくある。興味深いので私は見下している人の顔を見るのが、わりと好きだった。あ、人間だという感じがするのだ。


差別する人には私から見ると二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。


そして、そんな“世間の目”を代弁するような屁理屈をこねまわす同じ「万年フリーター」(私の造語です)の男と出会い、奇妙な同居生活をはじめることで、この小説は、作者の真骨頂とも言うべき「普通ではない」世界に入っていくのでした。

しかし、「普通ではない」世界から陰画のように描かれた「普通」の世界(世間)は、今どきのテレビドラマでもお目にかかれないような、単純化され戯画化されたそれでしかありません。

「コンビニ人間」は、緻密な心理描写を排した簡潔な文体で、しかもユーモアもあり、とても読みやすい小説です。おそらく芥川賞受賞の話題性で映像化されるでしょうが、映像化に適している作品とも言えます。ユーモアもお笑い芸人のギャグレベルのもので、その意味でも面白くて受け入れやすいと言えるでしょう。でも、それだけです。読んだあとになにか考えさせられるような小説の奥深さはありません。予定調和のウケを狙った小説と言えないこともないのです。

今や小説家は、“世間知らず“の代名詞になっているかのようです。選評を読んでも、トンチンカンなものが目立ちます。なかでも川上弘美のトンチンカンぶりは相変わらずですが、今回の選評では、崔実の「ジニのパズル」をどう評価するかに、彼らの小説家としての”現実感覚”が試されているように思いました。

選評では、高樹のぶ子と島田雅彦が「ジニのパズル」を推していることがわかります。

高樹のぶ子は、「ジニのパズル」について、つぎのように書いていました。

 一読したとき、頬を叩かれたような衝撃を受けた。(略)
 胸を打つ、という一点ですべての欠点に目をつむらせる作品こそ、真に優れた作品ではないのか。かつて輝かしい才能が、マイノリティパワーとして飛び出して来たことを思い出す。


一方、山田詠美は、「ジニのパズル」を散々にこき下ろしていました。

『ジニのパズル』。ここにも、のっけから<感受性>という言葉が出ているよ。今度は感受性ばやり? そして、文章が荒過ぎる。特に比喩。どうして、こんなにも大仰な擬人化? <雨の滴が窓ガラスに体当たりするようにぶつかって、無念だ、と嘆きながら流れ落ちていった>だって…! わははは、滑稽過ぎるよ。


島田雅彦は、「コンビニ人間」と「ジニのパズル」をそれぞれ「能天気なディストピア」「マイナー文学の傑作」と評して、つぎのように書いていました。

 タイトルとテーマ、コンセプト、そしてキャラだけでもたぶん小説は成立するだろう。叙述や会話のコトバから一切オーラを剥奪しても、心理の綾をなぞることを省いても、ギリギリセーフだ。セックス忌避、婚姻拒否というこの作者にはおなじみのテーマを『コンビニ人間』というコンセプトに落とし込み、奇天烈な男女のキャラを交差させれば、緩い文章も大目に見てもらえる。


 全世界的に外国人排斥と自民族中心主義が広がる中、移民二世、三世は移民先の文化に適応するか、ルーツの民族主義に回帰するか、あるいはハイブリッド文化を構築するか、パンク文化するか、やけっぱちのテロリズムに走るか、これは文化の未来を左右し、文化の不安をかき立てる。在日三世の韓国人が日本の学校から、なぜか朝鮮学校を経て、米オレゴン州へと向かった少女の反抗と葛藤の記録は肉弾的リアルティに満ちている。(略)試行錯誤のパズルを繰り返すジニの姿こそが世界基準の青春なのかもしれない。荒削りで稚拙な表現を指摘する委員が多かったが、それは受賞作にも当てはまるので、この作品の致命的欠点とはいえない。受賞は逃したが、『ジニのパズル』はマイナー文学の傑作であることは否定できない。


芥川賞の選考委員なんて町内会のお祭りの実行委員みたいなものなので、マスコミ受けする又吉の「火花」のつぎは、読者に迎合して「大目に見てもらえる」小説を選んだのかもしれません。


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崔実「ジニのパズル」
2016.08.15 Mon l 本・文芸 l top ▲
「SMAP12月31日解散」のニュースを見て、私は「やっぱり」と思いましたが、同じようにそう思った人も多かったのではないでしょうか。

解散に関しては、メンバーの公開謝罪やジャニー喜多川氏の否定発言にも関わらず、キムタクとほかのメンバーとの軋轢が囁かれ、噂は消えることはありませんでした。

一方、ジャニーズ事務所の意を汲んだ芸能マスコミは、バカのひとつ覚えのように、SMAP存続の翼賛記事を垂れ流すだけでした。日本の芸能界がアンタッチャブルな世界になっている要因のひとつに、芸能マスコミの存在があるのは否定できないでしょう。それは、芸能マスコミが芸能界を牛耳る大手プロダクションやテレビ局に隷属しているからです。芸能マスコミの記事だけを読めば、SMAP解散は過去の話になっていたはずです。SMAPはジャニー喜多川氏の庇護の下に戻り、修復しているはずでした。

事務所の発表によれば、メンバーは、既に来年9月までの契約を更改しており、1年間はジャニーズ事務所に籍を置きソロで活動するそうです。おそらくそのあと、キムタクを除いたほかのメンバーは、移籍や引退を選択するのでしょう。

私は、個人的にこの1年の契約にどんな意味があるのか興味があります。お礼奉公なのか、あるいは解散スキャンダルからメンバーを守る親心なのか。芸能界のオキテから言えば、お礼奉公と考えるのが常識でしょう。そうなれば、徹底的に搾取されるのは目に見えています。そして、ボロボロにされて放り出されるのではないか。

いくらとっちゃん坊やとは言え、40すぎたおっさんたちがアイドルを演じるのは、生物学的に見ても無理があるでしょう。そう考えれば、解散は自然の理だったと言えなくもないのです。でも、栄枯盛衰は世の習いで、況や芸能界においてをやです。メンバーたちにとって、これからイバラの道が待っているのは間違いないでしょう。

と、解散のニュースに対しても、このようにありきたりなことしか言えないのです。それくらい解散は、世間的には既定路線で、むしろ今更の感さえあるのでした。


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『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.14 Sun l 芸能 l top ▲
昨日、三宅洋平が、米軍ヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)建設用資材の搬入を阻んでいる高江のN1ゲート裏のテントに、安倍昭恵総理夫人を連れてきたことで、論議を呼んでいます。

私は、このニュースを聞いて「やっぱりな」と思いました。杞憂が現実になった感じです。

先月、三宅洋平は、安倍昭恵夫人と面談したのですが、そのときのことをツイッターにつぎのように書いていました。面談は、参院選の投票日の翌日、昭恵夫人が「三宅洋平さん、公邸でお待ちしてます!」という呼びかけ文をフェイスブックに掲載したのに応えたものです。




また、面談に批判的なコメントに対しては、つぎのように反論していました。


そして、昨日の行動になったのでした。

Togetterまとめ
安倍昭恵を帯同して高江に行った三宅洋平と地元の人の会話

彼の行動に対するツイッターの反応のなかで、私は、つぎのような声に「いいね」(!?)をあげたくなりました。


三宅洋平は、選挙に出たことで自分が大物になった気分なのかもしれません。それで、大きなもの(=権力)に接近し、それから承認されることを求めているのかもしれません。それが、政治に対して、「賢人政治」のようなイメージを抱くようになっているのではないか。ヒットラーとは言わないまでも、水戸黄門や遠山の金さんを待望するような気分になっているのかもしれません。

ところが、ネットでは、建設に疑問をもっている(と自称する)人のなかで、三宅洋平の行動に好意的な見方をしている人が結構いるのでした。『サッカーと愛国』の清義明氏もそのひとりですが、彼らは、テントで座り込みをしている反対派が昭恵夫人に「なにしに来たんだ!」と罵声を浴びせて追い払ったと言って、これだから反対派はダメなんだ、昭恵夫人を巻き込んで運動を広げるチャンスをみすみす逃した反対派は愚かだ、と批判するのでした。なかには、こういった左翼の血償主義が運動をダメにしているなどと言う者さえいました。

でも、こういった反応こそ昭恵夫人が狙っていたものだったのかもしれないのです。もしかしたら、してやったりとほくそ笑んでいるのかもしれません。

昭恵夫人が「家庭内野党」を演じるようになったのは、第二次安倍政権のときからです。第一次安倍政権のときは、そんな話は微塵もありませんでした。要するに、第一次政権の失敗から学んで、安倍政権の強権的な手法への風当たりを和らげるために、内助の功で「猿芝居」を演じているのではないのか。夫の強権的な姿勢と、話せばわかってもらえるはずという妻の役割をそれぞれ演じ分けているだけではないのか。その「猿芝居」に一役買ったのが、前にも書いたように朝日新聞です。

昭恵夫人は、三宅洋平らが言うように、ヘリパッド建設に疑問をもっているわけではないのです。その証拠に、昭恵夫人は、先の参院選のときは、建設推進の島尻安伊子沖縄・北方担当大臣の応援演説をおこなっているのです(「追記」のYouTube参照)。演説では、沖縄の有権者に向かって、「主人は独裁者ではありません」と訴えているのです。そんな人物が、「現場で何が起きているか知りたかった」なんて言って、警視庁のSPを引き連れ(本人たちはSPの存在を否定していますが、現職の総理夫人にSPが付いてないわけがないのです)のこのこやって来れば、「バカにするな!」と怒るのは当然でしょう。むしろ、怒らないほうがおかしいのです。彼女の夫が「平気で『ええかげんなこと』を言う人」(故・船井幸雄氏)だということを忘れてはならないでしょう。

昭恵夫人が言う「わかってらえるはず」というのは、夫に対してではなく、あくまで反対派に対してなのです。それが、田布施システム同様、三宅洋平らがトンデモであるゆえんです。

三宅洋平の行動に肩をもつ人たちは、全国から機動隊員を動員して工事を再開した政府の姿勢や、週明けにも強制排除がおこなわれるかもしれないと言われている高江の現実など関係なく、ただ反対派を叩くことしか念頭にないかのようです。

IWJは、昭恵夫人が帰ったあとの三宅洋平とテントの住民とのやり取りをテキストに書き起こしていますが、そのなかで、反対派の男性の三宅洋平に対するつぎのような発言が印象的でした。

男性「話を聞いてわかったのは、あなたは何十年間も虐げられている沖縄の人の気持を、あまり理解していない」


IWJ(Independent Web Journal)
【速報!】「現場で何が起きているか知りたかった」安倍昭恵・総理夫人が沖縄・高江を訪問!~新ヘリパッド強行建設工事に反対する市民からは戸惑いの声――IWJが追ったその一部始終 2016.8.6

もちろん、三宅洋平だけでなく私たちも、「何十年間も虐げられている沖縄の人の気持」をわかっているとは言い難いのです。もしかしたら(言っていることが違うだけで)、沖縄の人たちを「売国奴」呼ばわりするネトウヨと同じ目線に立っているのかもしれないのです。

それは、三宅洋平の肩をもつ人たちも同じです。彼らは、昭恵夫人と「対話」をしなかったとして、反対派を叩くのですが、彼らが言う「対話」とはなんなのかと思います。彼らは、反対派の住民たちが「黄門様、お願いしますら」「基地の建設をとどまるよう将軍様にお伝えくださいまし」と昭恵夫人に手を合わせてお願いすることを願っていたのでしょうか。その傲慢な上から目線は、安倍政権の沖縄に対するそれと同じでしょう。

清氏に至っては、ツイッターでのやり取りのなかで、「沖縄から基地全面撤収って、沖縄の人達がホントに臨(ママ)んでる話なんですかね?」などと言い出す始末で、そういった薄っぺらな観念と傲慢な目線は、三宅洋平と同じように、いつでも”動員の思想”にからめとられる危険性を孕んでいると言えるでしょう。

いや、これは既に、強権政治を前にして、雪崩を打って敵前逃亡がはじまっている兆候なのかもしれません。その方便に、お決まりのブサヨ批判と話せばわかる式の戦後民主主義へのオプティミズムが使われているのではないか。

追記:
YouTube
安倍昭恵夫人が涙ながらに必死の「島尻あい子 応援演説」

関連記事:
積極的投票拒否の論理
昭恵夫人の「猿芝居」
2016.08.07 Sun l 社会・時事 l top ▲
サッカーと愛国


清義明氏の『サッカーと愛国』(イースト・プレス)の感想文を書こうかと思っていたら、リテラが同書を取り上げていました。

リテラ
リオ五輪、W杯最終予選直前に考える、サッカーは右翼的ナショナリズムやレイシズムと無縁ではいられないのか

最近リテラの記事を引用することが多いので、リテラを真似したように思われるのではないかと気にしています。自意識過剰と思われるかもしれませんが、ネットというのは、かように自意識過剰になり自己を肥大化しがちなのです。相模原殺傷事件の犯人も、ネットで夜郎自大な自分を極大化させ、ヘイトな妄想を暴走させたと言えるのではないでしょうか。

リテラは、芸能人の誰々が安倍政権を批判したとか改憲に懸念を表明したとか、そんな記事がやたら多いのが特徴ですが、私は、そんな姿勢には以前より違和感を抱いていました。なかには書かれた芸能人もさぞや迷惑だろうと思うような牽強付会な記事もあり、なんだか負け犬根性の染みついたリベラル左派の”友達多い自慢”のようで、見ていて痛々しささえ覚えるのです。

でも、リテラの「人気記事ランキング」を見ると、常にその手の記事が上位を占めています。芸能人や有名人が自分と同じような考えをもっていることを慰めにしている人たちも多いみたいです。そんな人たちは、無定見にSEALDsを支持し、官邸デモの盛り上がりに、「政治が変わる」「夜明けは近い」と思っているのかもしれません。それが”お花畑”と言われるゆえんでしょう。

明日、リオ・オリンピックでサッカーの初戦・ナイジェリア戦がありますが、今日も知り合いのサッカーファンたちの間では、その話題で持ちきりでした。

清義明氏は、『サッカーと愛国』で、「サッカーは右派的なスポーツではない」と題して、つぎのように書いていました。

(略)もともとナショナルチームというのはサッカーの大会のカテゴライズのひとつにすぎない。多くのサッカーファンは各国の代表チームではなく、それよりもクラブチームを重視している。例えば、Jリーグの熱狂的なサポーターで、毎週末に日本中のどこだろうとアウェーの自分のチームの試合を追いかけていくような部類の人でも、日本代表の試合となると、スケジュールすら知らないという人もたくさんいる。代表チームは、自分のチームの選手が選ばれている時だけしか興味を示さないという人も多いのだ。むしろ、クラブチームに入れあげれば入れあげるほど、そうなる傾向が強い。


日本戦のあと、渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをして騒いでいるサッカーファンなんて、急ごしらえの俄かサッカーファンにすぎないという指摘は頷けるものがあります。そして、そんな俄かサッカーファンたちがメディアに煽られて安っぽいナショナリズムを叫び、都知事選で桜井某に11万票を投じたのでしょう。

自民党政権が60年安保の盛り上がりに怖れをなして、ヤクザを台頭する左翼の対抗勢力とすべく、”右翼”として組織し利用したのは有名な話ですが、それと同じように、ヨーロッパの民族紛争では、サッカーのサポーターたちが民族排外主義者に利用され、“民族浄化”の先兵として殺戮行為に加担していた例があるそうです。

著者が言うように、「サッカーの起源はマチズモ(引用者:男性優位主義)に満たされ、排外主義的な思想を招きやすいのは否定できない事実」ですが、しかし一方で、ヨーロッパで育まれたサッカー文化には、リベラルで啓蒙主義的な面があるのも事実なのです。

ISのテロで露わにされたヨーロッパ社会の二重底。自由と博愛の崇高な精神を謳う西欧民主主義の裏に張り付いた人種差別の根深さ。そのため、ヨーロッパのサッカーは、常に高いハードルを科してレイシズムと戦わなくてはならないのです。

2008年、欧州連合は、「人種・皮膚の色・宗教・血統・出身国・エスニックな出自による差別を罰するように求め、これに懲役刑を定めるように要請する」「枠組みの決定」を採択したのですが、UEFA(欧州サッカー連盟)も、それに同調する方針を打ち出し、それがサッカーにおける「世界基準」になっているのです。

でも、日本の現状が、ヨーロッパのそれに比べて遅れているのは否めないのです。以前、このブログでも取り上げましたが、浦和レッズのサポーターが「JAPANESE ONRY」の横断幕を掲げ、無観客試合の制裁を受けた事件の背景には、「韓国選手を獲らない」というクラブの方針と李忠成の加入があるのではないかという指摘などもその一例でしょう。

また、Jリーグの国籍規定が「鎖国的」だという指摘もあります。プロ野球の場合、日本の学校に3以上在籍した選手は外国籍扱いしない(外国人枠の対象外)という規定があるのですが、Jリーグはあくまで国籍がすべてです。ところが、在日の有望選手が多いため、3名の外国人枠とは別にわざわざ1名の「在日枠」を設けているのだそうです。一方、FIFAは、二重国籍など国籍の概念が多様化している現状を考慮して、ナショナルチームの選手の資格を判断するのに国籍よりもパスポートを優先しているのだとか。だから、チョン・ホセ(鄭大世)は、韓国籍であるにもかかわらず北朝鮮の代表に選ばれたのです。チョン・ホセの家は、父親とホセが韓国籍で、母親が朝鮮籍だそうです。

サッカーと在日は切っても切れない関係にあります。かつて幻の最強チームと言われた在日朝鮮蹴球団。また、東京の朝鮮高校も高校では最強のレベルでした。帝京高校が強くなったのも、近所に朝鮮高校があったからだと言われていました。日本の強豪校は、朝鮮高校と定期戦をおこないレベルアップをはかっていたのです。

李忠成の家族も、祖父が朝鮮籍で父親が韓国籍、そして忠成が日本籍だそうです。李忠成の父・李國秀は、かつて横浜トライスター(横浜フリューゲルスの前身)の選手で、その後、多くのJリーガーを輩出した桐蔭高校の監督を10年務めた、指導者として知られた人物です。

その李國秀のインタビューは、「サッカーと愛国」を考える上でも興味深いものがありました。

李忠成が韓国U-19代表の合宿に召集された際、在日であるがゆえに「差別」を受け、そのために韓国の代表に選ばれなかったという話がありましたが、李國秀はつぎのように否定していました。

「それよりも、パク・ジュヨンとポシションがかぶっていたね。うまく溶け込めなかった。ちょうどU-19のチームのスタイルを固めようとしているときにあいつが入っていった。そうしたらサッカーが合わない。中国との練習試合の時に、あいつがヒールパスを出したんだけど、誰も反応できなかった。メイド・イン・ジャパンのサッカーなんだよ。スタイルが違う。フィジカル重視のスタイルに合わない。スペースにボールを蹴り込んで走っていくスタイルに、あいつがヒールパスを出したり、パスをスルーしても違うんだね」
「差別」は代表に選ばれなかった理由ではないというわけだ。
「いくら韓国の血であっても、小中高と日本のサッカーをやってきたら、サッカーのアイデンティティは日本なんだ」


さらに、つぎのような李國秀の話には、私たち日本人が知り得ない在日の歴史の重みがあるのでした。李忠成の曽祖父が、一旗揚げようと朝鮮半島から博多にやってきて、沖仲仕の仕事をはじめたのが100年前だそうです。そこから李一家の在日の歴史がはじまったのです。

李忠成の祖父は、戦争中は特攻隊員だったそうです。ところが、戦争が終わった途端に「日本人」から「外国人」になったのです。

「(略)親父(引用者:李忠成の祖父)は終戦後、今でも日本国籍になってないし韓国籍でもない。それは親父の妹が北朝鮮に帰還事業で帰っているからなんだ。兄が日本国籍を取得したことがバレたら、妹が強制収容所にでも送られてしまうかもしれないって理由で。
 一方で俺は忠成と一緒に韓国籍になった。親父はまだ朝鮮籍。だからウチは、長男の三代が、日本籍、韓国籍、朝鮮籍として一緒の家に住んでいるわけです。全員パスポートが違うんですよ(笑)。
 これが幸せなのか不幸なのか、よくわからないな。親父は日の丸を命を張って守ろうとして軍隊まで行ったのに、俺は『パッチギ!』の世界ですよ。そして忠成は新しい人生で日の丸を背負っている。これが100年の歴史なんですよ。なんで在日が日本にいるんだって人もいるだろうけど、社会とイデオロギーに翻弄されている歴史をわかってほしいよね。そうやって翻弄されながら生きてきていることは、人間の弱さなのかもしれないし、強さかもしれない。それはよくわからない」


サッカーには、レイシズムの誘惑という負の部分と、まったく正反対にリベラルな文化という顔もあります。私たちは、ある日突然、日本人から外国人になった経験もなければ、二重国籍の現実も知りません。もちろん、「永住許可」という制度に縛られることもないのです。だから、国籍規定の疑問点を指摘されたJリーグの理事のように、「自由にやりたきゃ日本国籍をお取りなさい」というようなタカピーな発言になるのでしょう。浦和の横断幕も横浜マリノスの「バナナ事件」も、根底にあるのは、このような「民族主義サッカー」の考えです。それが渋谷駅前の俄かサッカーファンにも投影されているのではないか。
2016.08.04 Thu l 本・文芸 l top ▲