SEALDsに同伴し野党共闘を支持していた「リベラル」と言われる人たちの間で、民進党の蓮舫新代表が野ブタを復権させたことなどに失望して、「新しいリベラル政党」を作る動きがはじまっているそうです。

私は、それを聞いて、なにを今更と思いました。そんなことは最初からわかっていたことです。SEALDsを持ち上げ、既成政党幻想を煽ってきたみずからのお粗末さ、トンチンカンぶりをまず自覚することでしょう。と言うか、こういう無定見な人たちは、余計なことをせずにさっさと退場してもらうのが一番でしょう。

ブレイディみかこ氏は、貧困問題に取り組んでいる運動を取材した文章のなかで、つぎのように書いていました。

 右派にしろ、左派にしろ、近年台頭しているムーブメントは、ミクロで起きていることをマクロの政治に持ち込む方向性で支持を広げている。ポデモスが地方政党と連合して運動を戦ったのもその一つの表れだろう。地方で起きているミクロな現実が中央政府のマクロにちっとも反映されないので自ら中央に乗り込んでいこうとする地方政党のエネルギーを、ポデモスが吸収したのだ。

「ミクロ(地べた)をマクロ(政治)に持ち込め」(『This Is JAPAN』・太田出版)


貧困支援の社会運動家で、『下流老人』や『貧困世代』の著者でもある藤田孝典氏は、これを「ミクロとマクロの連続性」と言っているそうです。上から目線で(文字通りマクロな目線で)「新しいリベラル政党」を作るなんておこがましいのです。

たしかに憲法問題も大きなテーマでしょう。しかし、それと同じように、あるいはそれ以上に、貧困問題も喫緊の大事なテーマです。生活保護バッシングや”貧困女子高生”バッシングに反撃することのなかに、ミクロからマクロにつながる政治的な回路があることを知る必要があるでしょう。リテラも記事を配信している、どちらかと言えば、「リベラル」な立ち位置にあったと言っていいビジネスジャーナルが、”貧困女子高生”をバッシングするために、あのようなねつ造記事を書いたことの深刻さをもっと考える必要があるでしょう。

何度も言いますが、右か左かではないのです。上か下かなのです。「憲法を守れ」とか「民主主義を守れ」と声高に主張しているからと言って、それが全体主義の免罪符になるわけではないのです。

「新しいリベラル政党」なんて(おそらくできもしないでしょうが)、所詮は民進党の同工異曲にすぎません。


関連記事:
民進党は信用できない
日本で待ち望まれる急進左派の運動
2016.09.28 Wed l 社会・時事 l top ▲
私は、国会のなかの様子を知るには、今や上西小百合議員のツイッターをチェックするに限ると思っています。

林真理子の夫は、毎日Yahoo!ニュースを見ていたらネトウヨになったそうですが、上西議員のツイッターも、Yahoo!ニュースを見て粘着質のネトウヨになったようなフォロワーからの罵詈雑言であふれています。それは、まるで『狂人失格』のモデル女性のブログに巣食う、ネットストーカーたちを彷彿とさせるような光景なのでした。

しかし、上西議員は、そんなことにひるまず意気軒高です。昨日の衆院本会議の安倍首相の所信表明演説の際、自民党の議員たちがいっせに立ち上がって拍手をした、まるで北朝鮮か中国の国会のような光景に対しても、上西議員はつぎのように批判していました。



余談ですが、上西小百合風に言えば、Yahoo!ニュースというのは、コメント欄が示すとおり、「猿」に余計な知恵をつけるメディアと言えるのかもしれません。

さらに上西議員は、自民党の補完勢力である民進党をヤユすることも忘れていません。


民進党の蓮舫新代表が、みずからの派閥の親分である野ブタの復権をはかったことに対しても、シニカルに批判していました。




このような野党不在の翼賛国会の現状を上西議員は「絶望的な状況」と言うのです。SEALDsなどよりよほど今の政治の深刻さを自覚していると言えるでしょう。

右か左かなんて関係ないのです。むしろ、色眼鏡をかけてない分、今の政治の病理=「絶望的な状況」がよく見えるということもあるのではないか。腐臭を放つ政治状況に対して、はっきりと「臭い」と言えるのは、彼女が大阪維新を除名されて、孤立無援な、だからこそなにものにも縛られない自由な身になったからでしょう。これからも上西議員のツイッターは要チェックです。


関連記事:
上西議員の発言はまとも
2016.09.27 Tue l ネット・メディア l top ▲
私は、NHKで深夜に放送されていた「MUSIC BOX」という番組が好きでしたが、最近、たまたまYouTubeに、その映像がアップされていたのを見つけて感激しました。アップ自体は違法なのかもしれませんが、かつての番組ファンにとっては感涙ものでした。

YouTube
NHK MUSIC BOX 80年代邦楽 「恋におちて」 小林明子
NHK MUSIC BOX 1991年邦楽 「PIECE OF MY WISH」 今井美樹

ただ、放送した年がはっきりしないので、いつこの番組を見たのか、ずっと気になっています。と言うのも、この番組を見ていた当時の自分の心境が、特別なものであったような気がするからです。

映像の左上にある数字は、放送されていた時刻です。どうしてそんな時間まで起きてテレビを見ていたのか。誰かに、深夜に放送されているNHKの番組が好きだという話をしたような記憶もあります。なにがあって眠れぬ夜をすごしていたのか。それが気になって仕方ないのです。失恋か。仕事の悩みだったのか。

「MUSIC BOX」に映し出されている80年後半から90年代にかけては、私は、六本木にあるポストカードやポスターなどを輸入する会社に勤めていました。バブルが弾ける前でしたので、結構、分不相応なことも経験しました。「恋に落ちて」という曲にも思い出があります。それで、よけいセンチメンタルな気分になって見ていたのかもしれません。

考えてみれば、時間は容赦なく過ぎていくのです。文字通り容赦なく、それも駆け足ですぎていく。

先日の新聞に出ていましたが、「金妻」の舞台になったような、かつての「あこがれのニュータウン」も、今は住民が高齢化して街も寂れ、さまざまな問題が生じているそうです。「恋におちて」も今は昔なのです。「金妻」たちは、老後を前にした現在(いま)、どんなことを考えているのだろうかと思いました。やはり、あのキラキラ輝いていた時代をときどき思い出し、追憶に浸ることはあるのだろうかと思いました。


関連記事:
『33年後のなんとなく、クリスタル』
2016.09.24 Sat l ネット・メディア l top ▲
先日、「文春砲は腰抜け」という記事を書きましたが、訂正しなければならないのかもしれません。今週号(9月29日)では、豊洲移転問題に関連して、石原慎太郎のことを取り上げていました。ついにタブーが破られたかと思いましたが、でも、やはりどこか腰が引けている感はぬぐえません。芸能人のスキャンダルのときのような”冴え(意地の悪さ)”はありません。

週刊文春(9月29日)号
総力取材 豊洲の「戦犯」 石原とドン内田

都議会のドンは、元テキヤだそうです。しかも、豊洲の問題で権勢をふるった当時は、なんと落選中の身だったとか。にもかかわらず、「自民党東京都連幹事長に留任。都議会に部屋と車が用意され、都政に大きな影響力を持っていた」のです。そして、ドンがおこなったのが、豊洲移転に反対する民主党との「交渉」です。と言うのも、当時、民主党は都議会でも大躍進し、与野党の勢力図がほぼ拮抗していたからです。

折しも、『原発ホワイトアウト』のモデルでもあった泉田裕彦知事が突然出馬撤回した新潟県知事選挙について、つぎのようなニュースがありました。

Yahoo!ニュース(産経新聞)
新潟県知事選、野党3党に推され東大卒の医師が出馬表明 前長岡市長と一騎打ちへ

 共産、生活、社民の3党は今月17日、米山氏の擁立を民進党県連に要請したが、同県連は申し出を断り自主投票を決めていた。米山氏は民進党に離党届を既に提出しており、無所属で知事選に出馬する方向。


出馬表明した米山隆一氏は、民進党の新潟5区総支部長で、次期衆院選の公認候補にも内定していたそうです。

にもかかわらず、民進党は他の野党から要請されていた米山氏の擁立を断り、米山氏は離党して立候補することになったのです。どうしてなのか。それは、米山氏が東京電力柏崎刈羽原発の再稼働について、泉田知事同様、慎重な姿勢をとっているからです。

東京電力柏崎刈羽原発の再稼働に直接関係する新潟県知事に、慎重派の知事が誕生することは、電力総連に牛耳られた連合を支持母体とする民進党としても容認できないのでしょう。野ブタが復権したのも別に驚くことではありません。むしろ、民進党が野党を名乗ることの不幸(この国の政治の不幸)を考えるべきでしょう。

豊洲の移転問題においても、ドンの裏工作によって、民主党は妥協を重ね、豊洲移転の障壁ではなくなったのでした。民主党(民進党)も、伏魔殿の一員であることには変わりがないのです。

今週号では、石原と鹿島の関係にもちらっと触れていますが、もちろん、利権は豊洲移転だけではありません。むしろ本丸は、東京オリンピックのほうでしょう。

それにしても、この国の「愛国者」は、いつの時代も責任転嫁ばかりです。関東軍の上級士官たちも、部下や邦人を置き去りにして、満州から真っ先に逃げ出し、先を争って“昨日の敵“に取り入ったのでした。そして、公職に復帰すると、再び「愛国者」ズラして、戦後の日本はエゴイズムがはびこり、国を愛することが疎かになっている、などと国民に説教を垂れていたのです。

醜い弁解と責任転嫁に終始する石原こそ、この国の「愛国者」の典型と言えるでしょう。忘れてはならないのは、そんな石原を新橋や丸の内のサラリーマンたちは、かつて「理想の上司」として崇めていたことです。文春や新潮ばかりでなく、フジサンケイグループなども、まるで「救国のリーダー」のようにヨイショしていたのです。

豊洲移転問題でも、みんな口をそろえて「知らなかった」と言うばかりです。誰ひとり責任を取ろうとする人間はいません。それは、あの戦争のときから変わらないこの国の姿です。

テレビのワイドショーなども、徐々に腰砕けになっており、この問題の落としどころを探っているフシさえあります。来年になれば問題も沈静化して、計画どおり移転がはじまるだろうという見方も出ています。昨日のTBSの番組では、角谷浩一というコメンテーターが、誰の責任か追及するのは生産的ではない、みんな良かれと思ってやったことだ、というようなことを言ってましたが、そうやって沈静化がはかられるのでしょう。

築地市場の歴代の市場長の天下り先を見ると、「東京メトロ代表取締役副会長」を筆頭に、目も眩むほどの豪華さです。また、直接工事等に関わった部署の担当者たちの多くも、ゼネコンなどに天下りしているそうです。今回の問題の根っこにあるのは、このような役人天国の問題です。そして、その役人天国と持ちつ持たれつの関係を築くことで伏魔殿と化した議会の問題があるのです。当然ながら、そこに利権が生まれ、利権によって行政が動かされる現実があるのです。その中心に鎮座ましましていたのが、「愛国者」且つ「救国のリーダー」且つ「理想の上司」の「空疎な小皇帝」(斎藤貴男)石原慎太郎だったのです。
2016.09.23 Fri l ネット・メディア l top ▲
韓国ブームが再燃しているそうです。

韓国観光公社によれば、日本からの訪韓客は、2012年8月以降、減少の一途を辿っていたのですが、今年2月に3年6ヶ月ぶりに増加に転じたそうです。そして、今年の上半期(1月~6月)の訪韓数は、昨年に比べて10%増加したのだとか。今日のテレビでも、韓国ブーム再燃の話題が取り上げられていました。

ただ、ブームの中身は、前回とは異なっているようです。今回は、ファッションやメイクやスイーツなど、主に10代~20代の若い女性が中心だそうです。韓流ブームと言うより、韓国ブームと言ったほうがいいのかもしれません。

@niftyニュース
10代に韓流ブーム再び キーワードは「自撮り」(週刊朝日)

スマホアプリからブームが再燃したというのは、やはり、LINEなどの影響が大きいのかもしれません。少なくとも、モバイルビジネスでは、ハード面も含めて韓国が日本より先行しているのは間違いないでしょう。そのため、アプリなどのサービスにおいても、常にイニシアティブを握ることができるのでしょう。

ブームは、アプリだけにとどまりません。日本のギャルたちは、オルチャンファッションやオルチャンメイクと呼ばれる、韓国の若い女の子たちのファッションやメイクを模倣しているのです。また、原宿にも進出した韓国かき氷・「ソルビン」など、韓国スイーツも人気を博しているそうです。

今回のブームには、前回の韓流ブームに対して上野千鶴子が不快感を示したような、「植民地時代からの優劣関係の記憶」などどこにもありません。それが、ファッションやメイクやスイーツなど、ブームの主体がより生活に密着したものに移行した理由なのでしょう。つまり、若い女の子たちが抱く韓国のイメージは、「歴史」や「政治」と完全に切断されたところに成り立っているのです。それこそ、『さよなら、韓流』で北原みのりが書いた、「しなやかに強く根深く自由」な「女の欲望」のギャル版とも言えるでしょう。

韓国製品は日本製品より劣っている、韓国社会は日本社会より遅れているというような“嫌韓“のイメージは、林真理子の夫のように、Yahoo!ニュースを見てネトウヨになったような日本人の、そうあってほしいという願望でしかないのです。そうやっていつまでも「植民地時代からの優劣関係の記憶」にすがっていたいのでしょう。

国内の市場が小さく、日本のように「パラダイス鎖国」やガラパゴス商法が望めない韓国は、最初からグローバルな市場に活路を求めるしかありませんでした。その結果、技術面においても付加価値においても、韓国製品は世界に通用するレベルにまで達し、いつの間にか日本製品の強力なライバルになっていたのです。「世界ナゼそこに?日本人」のような番組には、統一教会で集団結婚した日本人花嫁が多数出ているそうですが、統一協会の信者まで動員して、世界で日本人はリスペクトされている、日本製品はあこがれの的だというような、テレビ東京的慰撫史観で自演乙している間に、アジアは韓流ブームにおおわれ、韓国製品に席巻されていたのです。

自分たちの生活を虚心坦懐に眺め、日本に韓国や中国ほどの勢いがあるかと考えれば、とてもあるようには思えません。私たちには、世界中にお金をばらまいて歩いているアベシンゾーが滑稽に見えるほど、「景気が悪く」「生活が苦しい」実感しかもてないのです。韓国経済は停滞している、中国経済は崩壊する、というようなおなじみの”希望的観測”とは裏腹に、アジアでは韓国や中国がスタンダードになるのかもしれないのです。

ブーム再燃は、若い女の子たちの柔軟な感性をとおして、そんな韓国の勢いが再び日本にも押し寄せているということなのでしょう。


関連記事:
『さよなら、韓流』
2016.09.21 Wed l 社会・時事 l top ▲
週刊文春2016年9月22日号


豊洲新市場への移転問題で、小池知事の株は文字どおりうなぎのぼりに上がっています。さすが世渡り上手な政治家です。メディアを利用した“劇場型政治”の用意周到さとその舵さばきは見事というしかありません。野党統一候補の鳥越俊太郎氏が知事になっていたら、こんなセンセーショナルな展開は望めなかったでしょう。

朝日新聞によれば、盛り土がおこなわれなかったことについて、都庁の元担当者は、「将来新たに地下水汚染が見つかった際、状況を調べたり取水などの汚染対策に使ったりする『モニタリング空間』」だったと言っているそうです。こういう往生際の悪さも役人の特徴でしょう。ああ言えばこう言う役人の詭弁の罠にはめられて、大山鳴動して鼠一匹出ずということにならないように願うばかりです。

国政より先に自公体制が築かれていた都議会は、石原慎太郎が言うよりはるかに前から「伏魔殿」と呼ばれていました。むしろ、石原は、都政を「伏魔殿」にしたひとりと言ってもよく、彼に「伏魔殿」なんて言う資格はないのです。そもそも豊洲移転を持ち出したのも石原なのです。謂わば石原は、豊洲移転問題の一丁目一番地なのです。

豊洲移転に対しては、当初は築地の仲卸業者の大半も反対していたそうです。しかし、その後、寄らば大樹の陰で、多くの業者が賛成に転じたのですが、食を扱うプロとしての矜持もポリシーもない彼らの責任も無視できないでしょう。豊洲移転に賛成した彼らは、間違ってもメディアが言うような「被害者」なんかではないのです。

石原は、盛り土がおこなわれてなかったことに対して「だまされた」と言い、みずからが盛り土の提言を否定するような言動をおこなっていたことに対しても、「覚えてない」(のちに撤回)とか「下から言われたのでそのとおりに言っただけ」とか責任逃れの発言に終始しています。

彼は自他ともに認める「愛国者」です。尖閣諸島の購入計画を打ち出して、棚上げにされていた領土問題を再燃させたのも彼です。中国が攻めてくるという妄想を日本中に広めた張本人と言ってもいいでしょう。

そんな「愛国者」が、みずからの責任に頬かむりしているのです。それは、国民を守るためではなく、国体を守るために本土決戦を回避して(それどころか、原爆投下を「天佑」と”歓迎”すらして)、敗戦の責任から逃れるために、我先に昨日の敵にすり寄っていった戦争指導者とよく似ています(アベシンゾーのお爺ちゃんもそのひとりです)。

一方、東条英機に「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような手紙を段ボール箱に何箱も書いて(鈴木邦男)、戦争を熱望した国民たちは、敗戦になった途端、自分たちは「被害者」だと言い始めたのです。それは、築地の仲卸業者たちとよく似ています。その背後にあるのは、戦前から一貫して変わらない日本社会の無責任体系です。

そんな豊洲問題を我らが週刊文春も取り上げていました。

週刊文春(9月22日号)
小池VS.豊洲利権

リードに曰く、「ついにパンドラの箱が開いた。築地市場の移転先となる豊洲新市場で、土壌汚染対策の盛り土が行われていなかったことが発覚した。総事業費は六千億円に膨らむ一方で、食の安全に対する懸念は残ったままだ。誰による、誰のための移転だったのか。徹底検証する」

しかし、記事は「徹底検証」なんてほど遠い、まったく腰が引けた竜頭蛇尾な代物でした。

文春の記事には、豊洲移転の張本人であり、今回の問題のキーパーソンである人物の名前がいっさい出てこないのです。

もともと豊洲市場の土壌汚染対策は〇八年七月、有識者による専門家会議が都に対して「敷地全体に盛り土を実施すべき」と提言していた。ところが、都は単独で工法を変更したのだ。


 専門家の指摘を反故にしてまで一体、いつ、誰が盛り土の中止を決めたのか。


でも、記事には石原の「い」の字も出てこないのでした。石原の“鶴の一声”などまるでなかったかのような感じです。

豊洲移転の利権にしても、ゼネコン各社の異常な落札率の高さを指摘していますが、でも、東京オリンピックの問題でも指摘されていた石原と鹿島の“親密な関係”については、ひと言もないのです。

私は、以前、1969年に当時隆盛を極めていた“左“の言論に対抗するために『諸君』が創刊された際、石原が文春内で果たした役割について、元社員から話を聞いたことがありますが、未だに文春では、石原センセイはタブーなのでしょう。

文春砲は腰抜けです。叩きやすいところを叩くだけの、タブーだらけのスキャンダリズムにすぎないのです。音だけ大きい屁のようなスキャンダリズムなのです。
2016.09.19 Mon l ネット・メディア l top ▲
私は、「とと姉ちゃん」は病院の待合室で一度見たことがあるだけですが、主題歌の「花束を君に」はとてもいい曲で、何度もくり返し聴いています。宇多田ヒカルが亡き母親にあてて歌った歌であるのは、歌詞からも容易に想像されます。

いい音楽というのは、聴く人間の感性を激しくゆさぶり、いろんな思いや考えを誘うものです。「花束を君に」を聴きながら、ふと自分の帰る場所はどこなんだろうと考えました。既に親も亡くなった現在、もう帰る場所はどこにもないように思います。母親の死を機に本籍も横浜に移しましたので、田舎は本籍地でさえないのです。書類に書くとき、間違えないように本籍地の番地を暗記していましたが、もうその必要もなくなったのです。

帰る場所はどこなのか。どこに帰ればいいのか。そう考えたとき、やはり、頭に浮かぶのは、藤枝静男の「一家団欒」でした。今や故郷に残る唯一のよすが(縁)になってしまった菩提寺の墓。そこに眠る祖父母や父母のもとに帰るしかないのではないか。そう思うのでした。両親が生きているときは散々不義理したくせに、勝手なものです。「一家団欒」の章と同じように、泣いて懺悔するしかないでしょう。

先日の記事で紹介した吉本隆明の「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬという生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである」ということばや、どんな人生を生きたかよりどんな人生でも最後まで生きぬいた、ただそれだけですごいことなんです、と言った五木寛之のことばが示しているのは、仏教の思想です。「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」(『歎異抄』)存在として私たちがいるのです。

今、私ができることは、できる限り田舎に帰って、父母らが眠る墓に手を合わせることでしょう。もう私はそんなことしかできないのです。


関連記事:
墓参りに帰省した
宇多田ヒカル
2016.09.16 Fri l 日常・その他 l top ▲
私は、ドキュメンタリー作家の原一男氏の作品は、若い頃からよく見ていました。いちばん最初に見たのは、「極私的エロス 恋歌1974」でした。当時、私は高田馬場の予備校に通い浪人生活を送っていたのですが、一方で、アテネフランセの映画講座にも通っていて、たしかそこで見たように記憶しています。

しかし、ドキュメンタリー作家・原一男氏の名を知らしめたのは、なんといっても「ゆきゆきて、進軍」(1987年)でしょう。それは、私にとっても衝撃的な作品でした。奥崎謙三のことは、『ヤマザキ、天皇を撃て!』を読んで以来、ずっと興味をもっていましたが、あらためて映像化されたものを見ると、その強烈な個性と奇矯なふるまいに、文字通りド肝をぬかれたのでした。ただ、その奇矯なふるまいによって、大岡昇平が『野火』で書いているような、ニューギニア戦線の極限状況下における部隊内の処刑とカニバリズムの真相があぶり出されていくのでした。同時に、奥崎謙三が、カメラの前では「演じる人」でもあったということがわかり、それも驚きでした。

そのあとに見たのは、ガンに斃れた作家・井上光晴氏の日常にカメラを据えた「全身小説家」(1994年)です。「全身小説家」も、衝撃的なドキュメンタリーで、「嘘付きみっちゃん」の面目躍如たるような経歴の嘘が、カメラの前でつぎつぎとあきらかにされるのでした。

ところが先日、その原一男氏のブログを見ていたら、つぎのような記事がアップされていて、文字通り目が点になりました。

原一男の日々是好日
週刊金曜日「鹿砦社広告問題」に触れて(2016年9月8日)

私は、正直、大丈夫か?と思いました。

『週刊金曜日』(8月19日号)で、「さようならSEALDs」という特集が組まれたのですが、そのメイン企画が原一男氏とSEALDsの奥田愛基の対談だったそうです。しかも、特集号には二人の写真が表紙を飾ったのだとか。

ところが、その裏表紙に、私もこのブログで紹介した『ヘイトと暴力の連鎖 反原連・SEALDs・しばき隊・カウンター』(鹿砦社)の広告が掲載されていたらしく、どうやらそれがお気に召さなかったようなのです。

原氏はこう書きます。

それにしても、何故、こういう問題が起きたのか? 悪意ある誰かの意図があったのかどうか?


そこで、「まずは事実経過をハッキリ確かめよう」と担当の編集部員に連絡したのだとか。

一体なにが問題だというのでしょうか。言論、表現、出版の自由を持ち出すまでもなく、誰が見ても問題なんてないでしょう。むしろ、問題にするほうが問題とさえ言えるのです。

 一見、週刊金曜日内部の問題かのように見える。が、そうだろうか?
ひとりの編集部員が誇りと意地をかけて汲み上げた記事を、同志であるべき同じ編集部の長である人が、本来、支持し守るべきところを、あろうことか泥をぶっかけたに等しい。メッセージに込めた祈りを汚したのだ。70年代、このような人たちを“内部の敵”と呼んでいた。今や、この“内部の敵”という魑魅魍魎が跋扈していることに気付くべきなのだ。その魑魅魍魎たちがニッポン国の至るところに巣くっていることに。


この被害妄想。「悪意のある意図」「内部の敵」などという常套句。私は身の毛がよだつものを覚えました。まるでスターリニズムの悪夢がよみがえるようでした。

SEALDsを担いだ「ジジババども」(辺見庸)にとって、今やSEALDsはスターリンのような“絶対的な存在”になっているのでしょうか。SEALDsに異を唱える者は、まるで民主主義の敵、人民の敵とでも言わんばかりです。奥崎謙三が告発した”虚妄の戦後”を、原氏は、神聖にして犯すべからず至上の価値として崇め奉っているかのようです。

私は、SEALDsなんてなにも生み出さなかった、むしろ無定見な既成政党幻想や選挙幻想を煽った分、”罪”のほうが大きいと思っていますが、さしずめこんな私は、アベシンゾーと同様、人民の敵なのかもしれません。

言うまでもなく、全体主義は“右“の専売特許ではありません。“左“も例外ではないのてす。「憲法を守れ」とか「民主主義を守れ」と声高に主張しているからと言って、それが全体主義の免罪符になるわけではないのです。

他人(ひと)の口を借りてものを言うつもりはありませんが、私は、再び三度、辺見庸の(幻の)”SEALDs批判”を思い出さないわけにはいかないのでした。

だまっていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし「帰れ!」コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?だまっていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。
よしんばかれらが××派だろうが○○派だろうが、過激派だろうが、警察に〈お願いです、かれらを逮捕してください!〉〈あの演説をやめさせてください!〉と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強してでなおしてこい。古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘をさすとしずくがかかってひとに迷惑かけるから雨合羽で、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。絶対安全圏で「花は咲く」でもうたっておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ。下痢がおかげさまでなおりました、とさ。コール「民主主義ってなんだあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。

かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで「勝った」だと!?おまえらのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれじしんもなんだかわからなくなって、けっきょく、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。Happy birthday to me! クソッタレ!

(辺見庸「日録1」2015/09/27)

※Blog「みずき」より転載
http://mizukith.blog91.fc2.com/



関連記事:
『3.11後の叛乱』
左の全体主義
2016.09.15 Thu l 社会・時事 l top ▲
高畑裕太の不起訴&釈放には驚きました。

逮捕された容疑が「強姦致傷」なので、被害者の告訴がなくても捜査は進められ起訴も可能だったはずです。意外な結末と言えるでしょう。示談が成立したことによって、捜査に被害者の協力が得られず、公判の維持が難しいと判断したからではないかという専門家の解説がありましたが、さもありなんと思いました。被害者が、示談でもなんでもして早く事件を忘れたいと思っても、誰も責められないでしょう。

ネットで「高畑裕太」と検索すると、「高畑裕太 被害女性」「高畑裕太 被害女性画像」などと予測候補のキーワードが表示されますが、いちばんゲスなのは善良な仮面をかぶった世間なのです。テレビのワイドショーの視聴者であり、Yahoo!ニュースにアクセスするのを日課にしているネットの利用者であり、週刊文春や週刊新潮の読者です。そんなゲスな世間の目から、被害者のプライバシーを守ることをなにより優先しなければならないのです。逆に言えば、それだけ強姦が卑劣な犯罪だということなのです。肉体的な被害だけでなく、精神的な被害も深刻な問題なのです。まして、加害者が有名人であれば尚更でしょう。

弁護士が、お金にものを言わせて性犯罪被害者の苦悩に付け込み、泣き寝入りするように追い込む。テレビドラマでも見ているような、そんな想像をしました。「ママのおかげだよ」と言って母親の腕にすがり付きながら、陰で薄ら笑いを浮かべている、なんてことがないように願うばかりです。

高畑裕太を担当したのは、「無罪請負人」として有名な弘中惇一郎弁護士の事務所だそうです。弘中弁護士と言えば、ロス疑惑の三浦和義(無罪)、薬害エイズの安倍英(一部無罪)、厚労省村木事件の村木厚子(無罪)などを担当した”辣腕”弁護士です。かつては『噂の真相』の顧問弁護士もしていました。

また、不起訴&釈放に際して、弁護士がコメントを出したことにも驚きました。弁護士がコメントを出すこと自体、異例だそうです。高畑裕太の話しか聞いておらず、「事実関係を解明することはできておりません」と言いながら、まるで事件が”冤罪”であったかのように一方的な主張を述べているのでした。強姦事件では、コメントにもあるように、加害者側の弁護士が「合意だった」とか「被害者にも落ち度があった」と主張するのはよくあることで、被害者は公判でも二次被害を受けることが多いのだそうです。そのため、示談、告訴の取り下げ(不起訴)に至るケースも多く、性犯罪の起訴率は50パーセントにも満たないと言われています。

コメントに対しては、私は、下記の千田有紀氏と同じような感想をもちました。

Yahoo!ニュース
高畑裕太さん釈放後の弁護士コメントは、被害者女性を傷つけてはいないか?

コメントは、被害者がなにも言えないことをいいことに、言いたい放題のことを言っているような感じさえするのでした。コメントを受けて、さっそく「推定無罪」がどうとか、(日刊ゲンダイのように)被害者の女性の素性がどうとかいった話まで出ていますが、弁護士にすれば、「してやったり」という感じなのかもしれません。

通常、こんな一方的なコメントを出すことは考えれないので、コメントを出すことも示談で合意されていたのではないかと言われていますが、仮にそうだとしてもなんだか残酷な気がしてなりません。“不合理な裏事情“を感じてならないのです。
2016.09.11 Sun l 芸能 l top ▲
生活保護関連の仕事をしている人と話をしました。そのなかで、いわゆる「貧困ビジネス」の話になりました。業者は、ホームレスの人たちに声をかけて、自分が管理するアパートなどに住まわせます。そして、役所に連れて行き、申請の手続きをサポートして生活保護を受給させるのです。業者は弁当を支給して、保護費のなかから住居費だけでなく食費も徴収するのだそうです。そのため、入居者の手元に残るのは1~3万円くらいだとか。なかには、支給された保護費を一括管理して、毎日千円づつ渡したりするケースもあるそうです。

たしかに、受給者を食い物にしていると言えますが、ただ、すべてを否定できない側面もあるのだと言ってました。役所は申請主義なので、自分で申請しないと生活保護のようなセーフティネットも利用することができません。ホームレスの人たちのなかには、知的障害のある人も少なからずいるので、最初からセーフティネットの基本的な知識すらない人もいるそうです。また、コミュニケーション能力が劣っていたり、対人恐怖症だったりして、役所に行ったものの、窓口で冷たくあしらわれて、申請をあきらめた人も多いのだとか。家族や地域や職場などの「中間共同体」からはじき出され、ひとりで生きていかざるをえないにもかかわらず、自分ひとりで生きていく能力も術も持ってない人たちも多いのです。

「貧困ビジネス」の業者は、そんな人たちに「住まいも食事も用意するよ」と声をかけるのです。不思議なことに、ひとりで行くと「水際作戦」で追い払われるのに、業者と行けば申請がとおりやすいのだそうです。

そうやって住まいと食事は確保されるのです。たしかに搾取はされるかもしれませんが、少なくとも路上生活から脱出できることは事実でしょう。都内では、毎日のように路上生活者が行き倒れ、尊い命を失っていますが、そういった明日をも知れない絶望的な境遇から脱出できることは事実なのです。

私がよく行く街にも、その手の施設と思しき建物があります。見ると、施設を運営する会社は、別の場所で弁当の仕出しもやっています。おそらく入居者に弁当も支給しているのでしょう。

私は、これを”必要悪”と言うのだろうかと思いました。一方では、サイゾーが運営するビジネスジャーナルのように、”貧困女子高生”をバッシングするために、記事をねつ造するようなメディアもあります。そんな”ゲスの極み”に比べれば、(誤解を怖れずに言えば)ある意味では、「貧困ビジネス」のほうが制度の狭間に取り残された人たちの貧困の現実に「向き合っている」と言えなくもないのです。

受給者の生活については、バッシングの記事ばかりで、その現実がなかなか表に出てこないのですが、先日、「閑人者通信」のブログ主が、みずからの生活の現実をつぎのように書き綴っていました(長くなりますが、引用します)。いつも言うことですが、これは決して他人事ではないのです。明日は我が身かもしれないのです。

長寿という思わぬ穽陥に対する国家の保険である基礎年金は制度が破綻している。
一次産業や自営業、非正規で生きてきて金融資産がない場合、賃貸アパートに暮らしながら月に6万5千円で暮らすのはなかなかに工夫を必要とする。
多分、都会では困難だろう。
国民年金が20歳から60歳までの全国民に義務づけられている「税」である以上、保険金を全額納めたとしても老後それだけでは食えないというのは明らかな制度設計のミスである。
リタイアするまでに預貯金などの資産を蓄えておけという人もいる。
それができる人間もいればできない人もいる。
障碍者などを別にしても、例えば愚老は中卒で学歴もなければ世間に通用するスキル職能など何も持っていない無能の人である。
そんな人間が資産など蓄えられるわけもない。そんな甘い世の中ではない。
それなら死ぬまで働けという意見もあるだろう。
それには「嫌だよ」と笑って答えるしかない。
実はこの秋から食えなくなると思ってフェイスブックなどでさかんに食糧支援の広告を打っているのにはわけがある。
もう金輪際、勤労はやめたのである。
還暦を過ぎてから廃品回収、養老院の夜警、掃除夫、ゴミの分別などの仕事をやってきた。
去年はずっと便所掃除をしていた。
汲み取りの公衆便所のクソをブラシでこすっていると何故かかなしくなった。
まあそんなことがあって漸く前期高齢者になったのを機に勤労はやめることにした。
もう楽しいことしかしないと決めた。
だっていくら愚かでも奴隷の人生ではないのだから。
いつまでも苦役列車に乗っているつもりはない。
そうなればただ国の社会保障制度という再分配政策を利用すればいいだけの話である。
受給する年金とナショナルミニマムとの差額3~4万円を生活網で保障されるのである。
そのために勤労も納税もしてきた日本人のひとりなのである。
そういう当たり前の話が通じにくくなっている。
なぜか。生活が苦しい人々が、より下位にある貧困な人々に対するルサンチマン。歪である。
80年代以降のグローバリズムという経済がそういう国民を大量に生みだしたのである。
結句、世間は非寛容となった。ひとは弱い者には残酷になれる。

愚老は残りの寿命もあとわずかである。
持病の慢性腎炎も人工透析が目前に迫っている。
生活保護を利用すると医療は現物支給となる。これは助かる。
確か保護費の半分は医療費が占めている。
病院がタダだから羨ましい、などというバカがいる。
どこに病気になって喜ぶ人間がいるのか。本末転倒も甚だしい。
30年前には考えられなかったことだが、いまや貧困はほぼ固定化するのである。
階層移動は困難となった。老人の場合はまず脱出不可能である。
同時に家族がいれば貧困は連鎖し再生産される。
愚老は貧困層というレイヤーで長く暮らしてきたから血縁も悲惨である。
兄弟は病死したり餓死したり悲惨な死に方をした。
よくは知らないが子供の労働環境も恐らく悲惨であろう。
子供は3人いるが大学校へいった子はもちろんいない。貧乏だから当然である。
子供たちが幼児のころから家には帰らない火宅の人だったから扶養の実績もない。
そのうち母親と離婚したから親権を放棄し戸籍上も縁も切れた。
子を捨てたのである。
その子供たちのところへ市の福祉課から毎年扶養援助の通知がいく。
いまの政権で家族主義が復活していろいろとうるさくなった。
そんな縁のない生物学上の父親でも生活保護を利用すればそういうことになる。
それが発覚すれば子どもの婚姻の障壁ともなる。
相手の家族の反対にあって結婚できない。そういう価値観の持ち主ならば仕方がない。
どこまでも不憫である。
(このブログを匿名にしたのにはそういう訳がある)

この辺りがナマポ老人のリアルである。
少なくとも愚老にはどうだ羨ましいだろう、とは言えない。
言う人間がいればばいくらでも聞いてやる。

閑人舎通信
http://kanjinsha.com/diary/diary.cgi

2016.09.09 Fri l 社会・時事 l top ▲
カカクコムが運営する口コミサイト「食べログ」で、また”疑惑”がもちあがっているようです。

Yahoo!ニュース
ねとらぼ
食べログの評価が3.0に突然リセット 飲食店オーナーの書き込みが物議

「食べログ」は、過去にヤラセの口コミが問題になったことがありましたが、そのときは、「食べログ」はどちらかと言えば“被害者”の立場でした。しかし、今回は違っています。

SNSに投稿したレストランオーナーによれば、「食べログ」の営業担当者から、ネット予約機能を使わないと検索の優先順位を落とすと言われたものの、予約機能を拒否したところ、「食べログ」のスコア(評価点数)が3.0にリセットされた(下げられた)のだとか。しかも、リセットは、経営する4店舗全部でおこなわれたそうです。それに対して、カカクコムは、予約機能とスコアは「無関係」と言っているようです。しかし、投稿を読む限り、スコアになんらかの手が加えられたのは間違いないでしょう。経営者の怒りはわからないでもありません。

どうしてネット予約機能を使わないと検索順位を落とすと言われたのか。それは、ネットの予約機能が広告に連動しているからです。要するに、広告を出せば、検索順位を優先して上位に表示すると言いたかったのでしょう。もちろん、それをあからさまにやればユーザーの反発を招くので、スコアや予約機能などさまざまなサービスを使って広告であることを巧妙に隠しているだけなのです。

そもそも今回リセットされたスコアにしても、個々のユーザーがレビューの際に付けるスコアの平均ではないのだそうです。私は、表示方法も同じなので、でっきりユーザーのスコアの平均だと思っていました。ところが、ユーザーのスコアではなく、「食べログ」が独自の基準で算出した(いかように操作できる?)スコアなのだそうです。何のための口コミサイトかと思ってしまいますが、それが、今回の騒動のポイントでしょう。

もっともこれは、「食べログ」に限った話ではありません。Googleなども同じです。たとえば、Googleショッピングも広告なのです。アドセンスを利用しないとGoogleショッピングに表示されません。それどころか、Googleの検索順位の上位をアドセンスの広告ユーザーが占めているは、半ば常識です。SEOなんて、所詮は素人の浅知恵にすぎないのです。

忘れてはならないのは、カカクコムもGoogleも営利企業だということです。しかも、その収益の大半を広告で稼いでいる会社なのです。検索システムを自分で作っているというのは、検索のルールを自分で決められるということです。アルゴリズムなんていくらでも操作できるのです。

言うまでもないことですが、カカクコムやGoogleは「公正中立な神」なんかではないのです。ましてや、彼らに「公正中立な神」であることを求めるのは、八百屋で魚を買うようなものです。たしかに、Googleは、今やネットにおいて“全能の神”のような存在になっています。しかし、その“全能の神”は、収益の90%をアドセンスやアドワードの広告で稼いでいる営利企業でもあるのです。

「食べログ」やGoogleが「公正中立」を装っているのも、広告の効果を高めるためです。広告枠を高く売るためなのです。

今回の問題で、カカクコムに「公正中立」を求めるような方向に進むのなら、それこそネットに「公正中立の神」が存在するかのような幻想をふりまくだけの、トンチンカンな反応と言わねばならないでしょう。


関連記事:
『ウェブニュース 一億総バカ時代』
『ソーシャルもうええねん』
2016.09.09 Fri l ネット・メディア l top ▲
今日、リテラに下記のような記事が出ていました。

リテラ
上西小百合の太田光代批判は正しい! おかしいのは「『サンジャポ』に出るな」と上西を恫喝した光代のほうだ

私も、最初、下記のYahoo!ニュースの記事を見たとき、リテラと同じような感想を持ちました。

Yahoo!ニュース
ディリースポーツ
上西議員、太田光代氏に謎のかみつき 「文句あるならサンジャポ出るな」と一蹴される

上西小百合議員の言っていることは、至極真っ当です。「テレビの閉塞感の代表」が太田光代とテリー伊藤だというのは、まったくそのとおりでしょう。

太田光代が代表を務める芸能プロ「タイタン」が、大阪府知事になる前から橋下徹氏のマネジメントをしてきたのはよく知られていました。それは今も変わっていません。それどころか、橋下氏は「タイタン」の顧問弁護士でもあるのです。

上西議員は、「タイタン」が政界復帰を目論む橋下氏とタッグを組んで、彼の芸能活動に手を貸していることにチャチを入れたかったのでしょう。ニュースを扱うサンジャポの爆笑問題は、一見“客観”を装いながら、背後では橋下氏の野望に手を貸しているじゃないかと言いたかったのかもしれません。橋下氏にとって、芸能活動が“政治家・橋下徹“の隠れ蓑であることはあきらかなのです。

それに対して、太田光代は、「サンジャポに文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」と言い返したそうです。まるでサンジャポをみずからがプロデュースしているかのような発言です。

私も、その発言を読んで、太田光代は何様のつもりだと思いました。「タイタン」は爆笑問題の威光を笠に、出演者の人事権まで握っているのかと思いました。

「タイタン」は、爆笑問題が太田プロから独立したのに伴い、仲間内で作った事務所だそうです。爆笑問題のマネージャーも、彼らの出身大学である日芸(日本大学芸術学部)の同級生が務めているという話を聞いたことがあります。それが、いつの間にか芸能界のドンまがいの発言をするまでになったのです。それもひとえに、芸能界がアンタッチャブルな世界だからでしょう。

何度も言いますが、芸能界をアンタッチャブルな(ヤクザな)世界にしているテレビ局や芸能マスコミの責任は大きいのです。メーン司会者とは言え、一介の出演者の所属プロダクションの社長に、「文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」などと言わせるサンジャポスタッフのだらしなさを痛感せざるをえません。こういった思い上がりを許しているから、芸能界のドンのような輩が生まれるのです。

ネットでは上西議員に対して批判的な見方が多いようですが、それは常に水は低いほうに流れるネットの特質によるもので、上西議員の発言は、意外にまともなのが多いのです。「炎上」と言っても、上西議員が言うように、せいぜい10人程度が騒いでいるだけで、それをニュース(とも言えないようなニュース)をマネタイズするためにアクセスを稼ぐことに腐心するネットメディアが、大げさに取り上げて煽っているだけなのです。


関連記事:
人間のおぞましさ
2016.09.06 Tue l 芸能 l top ▲
今日の朝日新聞デジタルに、「台風一過、秋風にススキ揺れる 熊本・阿蘇」という記事が出ていました。記事に添付されていた写真は、阿蘇のミルクロードのすすきが風に揺れる初秋の風景でした。それを見ていたら、中学の頃のある情景がよみがえってきて、胸がふさがれるような気持になりました。

朝日新聞デジタル
台風一過、秋風にススキ揺れる 熊本・阿蘇

阿蘇の外輪山の大分県側の東の端に位置する私の田舎でも、この季節になると、草原に一面すすきの穂がゆれる風景が見られます。私の心のなかに残っている田舎の風景も、やはり秋から冬にかけてのものが多いのです。阿蘇もそうですが、私の田舎も、九州と言っても標高の高いところにあるので、秋の訪れが早いのでした。

中学二年のときでした。数か月前から私は、身体の不調に見舞われていました。学校では野球部に入っていたのですが、風邪をこじらせて思うように部活もできない状態になっていました。貧血を起こして目の前が真っ白になり、立っていられないことが何度もありました。また、やたら寝汗をかくのでした。

それで、学校を早退して、内科医の伯父が勤務する国立病院で診察を受けることになったのでした。ただ、国立病院がある街までは、バスと電車を乗り継いで3時間くらいかかるので、前日に伯父の家に泊まって翌日受診することになったのです。

伯父からは、ベットの予約をしておくので、入院の準備をして来るようにと言われました。入院したら学校はどうなるんだろうと思いました。私は、不安でいっぱいでした。

学校から私の家まで1キロくらいあり、普段は県道が通学路です。しかし、校門を出た私は、なぜかふと、県道の脇に広がる草原のなかを歩きたいと思ったのでした。

私は、通学路を外れ草原のなかに入りました。草原には牛が放牧されており、地面が踏み固められてできた細い道しかありません。私は、草原のなかの道をひたすら歩きました。前方には小学校のとき遠足で訪れた小高い山がそびえていました。周りは腰くらいの丈のすすきにおおわれ、時折、草原を吹き抜けていく風にすすきがさわさわとゆれると、いっそう孤独感がつのってきました。そして、なんだか自分が田舎に背を向け、みんなと違う方向に歩きはじめているような気持になっていました。

結局、私は、年明けまで三か月間入院し、さらにそのあと再発をくり返して、都合三度入院することになるのでした。また、高校も親戚の家に下宿して、知り合いが誰もいない街の学校に進むことになり、だんだん田舎の友達とも疎遠になっていったのでした。

年甲斐もないと言えば年甲斐もないのですが、今朝、ネットで新聞を見ていたら、あのときの切なくてどこかもの哀しい気持が、私のなかでよみがってきたのでした。


関連記事:
「銀河鉄道の夜」
2016.09.05 Mon l 故郷 l top ▲
イニシャルで書いてもバレバレですが、俳優のW・Tが、糖尿病の合併症で人工透析を受けているのはどうやらホントのようです。週刊誌によれば、マネージャーもそれを認めているそうです。

マネージャーは、「症状はそれほど重いものではありません」と答えていたそうですが、しかし、糖尿病で人工透析まで至ったというのは、どう考えても重くないとは言えないでしょう。

糖尿病の末路は悲惨なものです。さまざまな合併症を併発して、徐々に身体が蝕まれていく糖尿病の怖さは、その現実を知らない人にはなかなか理解できないでしょう。糖尿病予備軍やまだ初期の段階にある人たちのなかには、どうにかなるだろうとタカをくくっている人も多いのですが、でも、どうにもならないのです。よほど覚悟を決めて食生活を改善しなければ、悲惨な末路が待っているだけなのです。

旧知の病院で人工透析を担当する老ドクターは、私にこう言いました。

「これは医療ではないんだよ。医療とは言えないんだよ」
「どうしてですか?」
「だって君、医療というのは病気を治すことだろう。彼らは治らないんだよ。治すことができないんだよ。だから、医療とは言えないんだよ」

私は、ドクターの話にショックを受けたのですが、ただ、一概に暴論と片付けられない“真実”を含んでいることもたしかでしょう。

そのW・Tが、今日、テレビに出ていました。番組のタイトルが「W・Tと銀座大人カレー巡り」というものです。文字通り、食べ歩きの番組なのでした。看護師によれば、透析を受けている患者にカリウムは厳禁だそうです。カレーにも当然カリウムを多く含む食材が使われているはずです。まさに「命がけ」と言っていいでしょう。

芸能人でありつづけるためには、週三日透析を受けながらも、努めて明るくふるまい、危険な食べ物でもさも旨そうに食べなければならないのです(実際は、おしゃべりで胡麻化して、あまり口には入れていませんでしたが)。他人様に身をさらす仕事をしていると、当然、そうやって身体を張らなければならない場面も出てくるでしょう。家庭の事情もあるのかもしれませんが、奥さんのS・Iの稼ぎだけではダメなんだろうかと思いました。今後、心筋梗塞や脳梗塞のリスクだって高くなるはずです。いらぬおせっかいかもしれませんが、私は、W・Tに憐れみさえ覚えたのでした。
2016.09.04 Sun l 芸能 l top ▲
私は、夏目三久が好きで、彼女が出る番組はよく見ていました。有吉弘行との熱愛報道が出たとき、「どうして有吉なんだ?」とがっかりしました。どう見ても有吉とは似合わないように思いました。有吉のあのわざとらしい毒舌も嫌いでした。

でも、二人の熱愛が芸能界のドンによって「なきもの」にされようとしているのを見て、逆に、有吉でもなんでもいいから愛を貫いてもらいたいと思うようになりました。熱愛報道をめぐる一連の展開が、あまりにも理不尽に思えたからです。

ところが、夏目三久自身が、SMAP解散騒動のときと同様事務所寄りの報道をおこなっているスポニチの単独取材(と言っても電話インタビュー)に応じて、熱愛報道を「全て事実ではありません」と全面否定するに至っては、さすがにちょっと待てよという気持にならざるをえませんでした。今後、どう展開するのかわかりませんが、もしこのまま熱愛が「なきもの」にされて幕が下ろされるのなら、夏目三久ってとんでもない食わせ者と言われても仕方ないでしょう。

しかも、このスポニチの記事は、電話インタビューなのに、なぜか赤い服を着た夏目三久が涙をぬぐっているような写真まで添付されているのです。

それにしても、芸能界というのは怖い世界だなとあらためて思います。村西とおるが言うように、「カタギのお嬢様にはできないお仕事」だということを痛感させられます。案の定、芸能界のドンの逆鱗に触れた有吉が「芸能界追放の危機」なんて記事が出はじめていますが、芸能界のドンにとって、タレントというのは、犬や猫以下の”もの(商品)”だということなのでしょうか。

身近で二人を見てきた(はずの)マツコ・デラックスも、今回に限ってはひと言も発言してないのです。なんだか彼の(彼女の?)の毒舌のメッキも剥がれた気がします。また、日ごろ口さがない”芸能界のご意見番”たちも、みんな口を噤んでいるのです。所詮、怖い怖いヤクザな世界の住人(ドレイ)ということなのでしょう。

今はテレビを見るにしても、昔と違って、これはヤラセではないかとか、単なる話題作りではないかとか、視聴者がテレビのなかまでのぞき込み、シニカルに見るようになっています。今回も「あるものをなきものにする」カラクリが視聴者の前にさらけ出され、すべてが見え見えなのです。にもかかわらず、芸能界のドンにひれ伏し、旧態依然としたオキテに従って、かん口令を敷いた芸能マスコミやテレビ局の姿勢は、あまりにも時代錯誤と言えるでしょう。何度も言いますが、こういった姿勢が芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。
2016.09.03 Sat l 芸能 l top ▲
最近は寝付きが悪くて、夜中に起きていることが多いのですが、深夜、ふと思いついて、NHKアーカイブスで、2015年1月にEテレで放送された吉本隆明を特集した番組を見ました。

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」
「第5回 自らの言葉で立つ 思想家~吉本隆明~」

番組のなかで遠藤ミチロウも言ってましたが、ときに生きづらさのようなものを覚え、眠れぬ夜をすごしているときなど、吉本隆明の思想はどこか元気にしてくれるところがあります。それが吉本の思想が「肯定の思想」と言われるゆえんなのでしょう。

番組では、つぎのようなことばが紹介されていました。

市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬという生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。
『カール・マルクス』より


世界的な作家といわれ、社会的な地位や発言力をもつことよりも、自分が接する家族と文句なしに円満に気持よく生きられたら、そのほうがはるかにいいことなのではないか。そういうふうにぼくは思うのです。
『ひきこもれ』より


指導者の論理と支配者の論理というのは、自分の目先の生活のことばかり考えているやつは一番駄目なやつで、国家社会、公共のことを考えてるのがそれよりいいんだみたいな価値観の序列があるんですよね。ところが僕は違うんです。僕は反対なんです。自分の生活のことを第一義として、それにもう24時間とられて、他のことは全部関心がないんだって、そういう人が価値観の原型だって僕は考えている。


たしかに、私たちは、人間関係や仕事やお金や健康など、日々いろんな思いを抱えて生きているのです。会社の上司や同僚との関係に悩んだり、仕事に行き詰まりを感じたり、身体の不調に不安を覚えたり、通勤電車のなかでマナーの悪い隣の客に不快感を抱いたり、家族や恋人との関係に齟齬を覚えたりしながら生きているのです。もう少しお金があればもっと幸せになれるのにと思うこともあります。そんな日常の些事に纏わるいろんな思いのなかから、自分のことばが生まれるのです。

私のブログもそうですが、ネットに飛び交っているような、自民党がどうとか、民進党がどうとか、韓国がどうとか、中国がどうとかといったことは、それらに比べれば「取るに足らない小さなこと」です。

「個人のほうが国家や公よりも大きいんです」という吉本隆明のことばは、「政治の幅は常に生活の幅より狭い」という埴谷雄高のことばにも共通するものです。吉本隆明は、そんな日常のなかから生まれた「大衆の思想は世界性という基盤を持っているのだ」と言ってました。

文学や歌謡曲も、そこにあるのは個人のことばです。「大衆の思想」にとって、SEALDsなんかよりは宇多田ヒカルのほうが、何百倍も何千倍も価値があるのは間違いないでしょう。

国家や公を第一義とする、たとえば、国家があって私がある、私的利益ばかり追求して公共心が疎かにされている、というような「動員の思想」に抗するには、徹底した個人の論理(私の論理)しかないでしょう。「動員の思想」は、なにも「アベ政治」の専売特許ではないのです。「アベ政治」に反対する左派リベラル(風なもの)も同じです。

「個人のほうが国家や公よりも大きいんです」ということばのあとには、「何が強いって、最後はひとりが一番強いんですよ」ということばがつづいていましたが、もって銘すべしと思いました。


関連記事:
吉本隆明
2016.09.01 Thu l 社会・時事 l top ▲
27日には、「高畑会見 危機管理のプロ評価」などという記事をアップしていたYahoo!トピックスですが、昨日は一転「高畑淳子会見 性被害者の怒り」という記事をアップしていました。これでバランスをとったつもりなのかもしれません。

Yahoo!ニュース
高畑会見 危機管理のプロ評価
高畑淳子会見 性被害者の怒り

高畑淳子の会見の無神経さは、裕太容疑者がやったこととのおぞましさを踏襲するものと言わざるをえません。それが、二次被害=セカンドレイプと言われるものです。もちろん、その無神経さは、高畑淳子の「涙」に同情して、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として彼女の気持がよくわかる」などとインタビューに答えている“街の声”も同じです。

当日、高畑淳子は、ほとんど寝てなくて憔悴していたとメディアは伝えていましたが、しかし、そのわりに、受け答えには多分に計算されたものがありました。たとえば、記者の質問に答える前、必ず「申し訳ございません。よろしくお願いします」とかなんとか謝罪のことばを入れて、へりくだった姿勢を見せる場面などがそれです。

また、一時間ずっと立ちっぱなしで会見をおこなったことについて、「誠実さの表れ」みたいな報道がありましたが、ホントに「憔悴していた」のなら、どうして座って会見をしなかったのかと思いました。会見のあと、ふらふらとよろめいて退場する場面がありましたが、もしあれが演技でなければ、よけい座って会見すればよかったのにと思いました。

結局、「涙」によって、見ている者たちは思考停止に陥り、(メディアや”街の声”のように)情緒的に受け止めることで、事件の本質が隠蔽されるのです。そして、世間的には「情状酌量の余地」をもたらし、仕事復帰のハードルが取り除かれるのです。

しかし、その一方で、被害者は、高畑淳子がメディアに出るたびに二次被害を受け、苦しむことになるのです。メディアも“街の声”もそれがまるでわかってないのではないか。

まして、「親の責任論」の是非を問う下記のような記事は、レイプ事件の二次被害をまったく理解してないトンチンカンなものと言うべきでしょう。高畑淳子が批判されるのは(批判されなければならないのは)、「親の責任論」からではないのです。

The Huffington Post
高畑淳子さんが謝罪 でも「母親叩き」に道義はあるのか?
Yahoo!ニュース(日刊スポーツ)
高畑淳子の長男不祥事謝罪で議論…親の責任どこまで
2016.08.31 Wed l 芸能 l top ▲
高畑淳子に関して、来月から上演される芝居には予定どおり出演するけど、来年以降の活動は未定という報道がありました。これで逆に、高畑淳子に対する芸能人仲間からの同情論や、先日の会見へのメディアの好意的な見方の背景が、なんとなく見えてきたような気がします。

忘れてはならないのは、高畑裕太容疑者がやったことは非道な犯罪だということです。「強姦罪」は被害者の告訴が必要な親告罪ですが、「強姦致傷罪」は告訴が必要ない非親告罪だそうです。怪我は全治一週間の指の打撲だとか言われており、怪我自体はきわめて軽症のようです。それでも、群馬県警があえて非親告罪の「強姦致傷罪」で逮捕したのは、もちろん、加害者が有名人であったということもあるでしょうが、もうひとつは、犯罪自体が悪質だったからではないかと言われています。また、警察官が宿泊している部屋に踏み込んだら、裕太容疑者は犯行直後にもかかわらずぐっすり寝込んでいたそうで、その“ふてぶてしさ“から常習性さえ疑われているのです。

ところが、高畑淳子の会見に対しては、犯罪の悪質性などどこ吹く風で、危機管理上どうだったか、及第点をあげられるかどうかなどという話になっているのでした。そんな反応を見ると、やはり、あの会見は「商品」イメージの低下を食い止め、活動をつづけるために演出されたものだったのかと思ってしまいます。また、会見自体も、仕事関係に迷惑をかけて申し訳ないというような話が多く、二次被害に苦しむ被害者の存在は片隅に追いやられてしまったかのようです。そして、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として高畑淳子さんの気持はよくわかる」などという“街の声”が、被害者不在の会見のカラクリを覆い隠す役割を果たしているように思えてなりません。

極めつけは、会見の際、裕太容疑者の性癖について質問した、フジテレビの番組でフィールドキャスターを務めるフリーアナウンサーに対しての批判です。結局、フリーアナウンサーは謝罪するはめになったのですが、でも、あの質問は別に批判されるべきものとは思いません。性犯罪の背景(性依存症)を考えると、当然出てきておかしくない質問だと思います。

それより、高畑淳子が活動をつづけることに対して、被害者がトラウマで苦しむことになるのではないか、それをどう思っているのか、という質問がなかったことこそ批判されるべきだと思うのです。もしかしたら、フリーアナウンサーの質問は、演出された会見の空気を乱すKYなものだったので、批判されたのかもしれません。

しかも、批判の急先鋒に立っていたのが、一方で、被害者女性のプライバシーを晒すことに躍起になっているネット民であったということも忘れてはならないでしょう。ここにも、リアルとネットの共犯関係によって作り出される、「万人が万人を支配する」「デモクラチック・ファシズム」(竹中労)の構造が垣間見えるような気がしてならないのです。
2016.08.29 Mon l 芸能 l top ▲
高畑裕太容疑者の母親・高畑淳子の会見を見ましたが、私は、どうしても意地の悪い見方をせざるをえませんでした。

私は、高畑敦子の会見を見て、先日の高島礼子や古くは三田佳子の会見を思い出しました。人前で涙を流すことなど女優にとっては朝飯前です。ぶっつけ本番の”涙の謝罪会見”は、文字通り女優としての腕の見せどころでしょう。女優にとって、一世一代の“大舞台”と言っていいのかもしれません。

高畑淳子は、出演する舞台の降板を否定して、「皆さんに演技を見せるのが私の贖罪と思っています」と言ってました。私は、その手前勝手な理屈の意味が理解できませんでした。

被害者は今後半永久的に忌まわしい記憶を抱え、トラウマに苦しむのです。メディアをとおして高畑淳子の名前を目にするたびに、その忌まわしい記憶がよみがえり苦しむことになるでしょう。高畑淳子はそれがわかってないのではないか。

私は、「親も同罪」「子の罪は親の罪」と言いたいのではありません。でも、性犯罪の二次被害を考えるとき、高畑裕太だけでなく、親の高畑淳子もトラウマの対象になるのは明白です。それが有名人の性犯罪が(被害者にとって)より残酷である所以です。

また、高畑淳子は、つぎのようにも言ってました。

「(面会は)もう、ほとんど覚えていないが『一生かけて謝らなければいけないよ』と。こんなことは不謹慎で言ってはいけないが、本当に申し訳ないことをしたねって言った後に、でもどんなことがあってもお母さんだから、姉はどんなことがあっても裕太のお姉ちゃんだからと言っていたように記憶しています」

Yahoo!ニュース
高畑淳子が会見 涙で謝罪「大変なことをしてしまいました」
オリコン


私は、それを見て、高畑裕太は服役して出所したあと、また同じ犯罪を犯すのではないかと思いました。

性犯罪が個人のキャラクターの問題などではなく、一種の嗜癖(依存症)であるというのは、多くの専門家が指摘しています(下記参照)。つまり、心の病気なのです。だからこそ、出所後の治療とケアが大事なのです。親として子どもの心の闇と向き合い、そのなかに分け入り、人格形成に果たした役割をもう一度辿りなおすことが肝要なのです。でないと、何度も同じ犯罪を犯すことになるでしょう。

ダ・ヴィンチニュース
なぜ性犯罪を犯すのか? なぜ繰り返すのか? 「性依存症」について考える
dot.(ドット)
性犯罪の背景に“依存症” 「性的なしらふ」にするための試みも

高畑淳子に対して「女手ひとつで一生懸命育てていた。気の毒だ」というようなコメントが芸能人仲間から出ていますが、少なくとも今回の犯罪においては、そんな同情論はなんの意味もないのです。むしろ、これらの同情論の背景には、高島礼子のときと同じように、芝居の制作会社の意向(降板させられないビジネス上の事情)がはたらいているのではないかと、そんなうがった見方をしたくなるのでした。

一方、有吉弘行と夏目三久の交際&妊娠報道では、昨日まではスクープを放った日刊スポーツ以外、どこも芸能界のドンの意向(怒り)を反映した「否定」のオンパレードで、「法的処置も検討」というような記事さえありました。

テレビが一切無視して、スポーツ新聞がいっせいに「否定」の記事を載せる。この翼賛体制こそが黒を白と言いくるめる(あるものをなきものにする)芸能界のドンの”力”なのです。テレビもスポーツ新聞もそれにひれ伏しているのでした。

ただ、スクープから2日経ち、風向きが微妙に変わりつつあるのも事実です。双方の事務所の「否定」コメントが遅すぎるとか、不自然だとかいった話が出はじめているのでした。これから徐々に「有吉が干される危機」などという、SMAP解散騒動などでも見られた”脅しの記事”が増えてくるのかもしれません。

私は、これらのニュースを見て、あらためて芸能界というのは「特殊××」(吉本隆明)なんだなと思ったのでした。
2016.08.26 Fri l 芸能 l top ▲
SMAPの解散にまつわる報道は、今や完全に情報操作の段階に入っています。それこそなんでもありの状態です。それに一喜一憂するのは、みずから“衆愚”と言っているようなものでしょう。

SMAPが稼ぐ年商250億円の既得権益をできるだけ死守しようとするジャニーズ事務所と、その利権をジャニーズ事務所から奪おうとする大手プロダクションや黒い紳士たちの暗闘。そんな魑魅魍魎たちが陰に陽に跋扈して、腹にイチモツのリーク合戦をおこなっているのが、今、私たちの目の前で繰り広げられている光景です。

キムタクがどうだ、中居がどうだ、香取がどうだという話は、今年の1月の時点では多少意味があったと言えますが、解散が決定した現在、もはや情報操作の道具でしかなく、どっちに正義があるとか、どっちに真実があるとか、そんなものはほとんど意味がなくなったのです。

私は、以前『芸能人はなぜ干されるのか』の記事(下記の関連記事参照)のなかで、つぎのように書きました。記事に多くのアクセスが集まったのに伴い、思ってもみないような反響がありました。なかには本の内容を紹介した部分に対して脅しのようなメールも届きました。それで、記事をアップしたあとに、下記の部分を書き足したのでした。

大半の人たちは、芸能記事に書かれていることを真に受け、記事の芸能人に、失望したり憤ったり、あるいは逆に感動して涙したり応援する気持になったりするのでしょう。しかし、話はそんな単純なものではないのです。記事の裏には、芸能界を「支配」する者たちの思惑やカラクリだけでなく、さらにそれに対抗する(「告発」する)者たちの思惑やカラクリも複雑に絡んでいる場合があるのです。


もっともこれは、SMAPだけの話ではありません。肯定と否定が交錯している、有吉と夏目三久の交際&妊娠報道も同じでしょう。芸能界のドンの手にかかれば、黒を白と言いくるめることも可能なのです。

これらの報道であらためて思ったのは、ドレイ契約に縛られている彼ら芸能人は、どこまで行ってもただの「商品」でしかないということです。仮に移籍しても、それはドレイ契約の付け替えでしかないのです。

芸能界の魑魅魍魎たちにいいように転がされているSMAPの5人を見ていると、まるで羊飼いに引かれて行く屠られる羊のようで、憐れみと哀しささえ覚えてならないのです。しかも、それは仔羊ではなく、40すぎのおっさんなのです。キムタクの虚勢が滑稽に見えるのも、故なきことではないのです。


関連記事:
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.24 Wed l 芸能 l top ▲
文藝春秋2016年9月号


芥川賞を受賞した村田紗耶香の「コンビニ人間」(『文藝春秋』9月号)を読みました。

この小説を「現代のプロレタリア文学」と評した人がいましたが、つぎのような表現をそう解釈したのかもしれません。

(略)かごにセールのおにぎりをたくさん入れた客が近づいてくるところだった。
「いらっしゃいませ!」
 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。


 朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。


選考委員の村上龍は、選評で、みずからが司会を務める「カンブリア宮殿」で見聞きしたことを引き合いに出して、企業の教育やトレーニングに共通している「挨拶」の徹底は、「一種の『規律』であり、いろんな意味での、会社への同化・帰属意識の醸成である」と書いていましたが、しかし、これってただ当たり前のことを言っているにすぎないのです。それをさも自分が“発見“したかのように、フーコーまがいの表現でもったいぶって書いているだけです。

村上龍が働いたことがあるのは、デビューする前に、霞が関ビルでガードマンのアルバイトをしたことくらいで(その際、エレクトーンを弾いていた奥さんと知り合い結婚したと言われています)、彼は、私たちが想像する以上に“世間知らず“なのです。だから、「カンブリア宮殿」に出てくる海千山千の「社長」たちをあのように「すごい」「すごい」と言って感嘆するのでしょう。

「コンビニ人間」を「現代のプロレタリア文学」と評するのも、村上龍と同じような“世間知らず“の読み方だとしか思えません。

この小説に“社会性“があるとすれば、大学1年のときから18年間、就職もせずに同じコンビニでアルバイトをつづけている、36歳・未婚・恋愛経験なしの主人公に向けられる“世間の目”に、かろうじて見ることができるだけです。

 コンビニで働いていると、そこで働いているということを見下されることが、よくある。興味深いので私は見下している人の顔を見るのが、わりと好きだった。あ、人間だという感じがするのだ。


差別する人には私から見ると二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。


そして、そんな“世間の目”を代弁するような屁理屈をこねまわす同じ「万年フリーター」(私の造語です)の男と出会い、奇妙な同居生活をはじめることで、この小説は、作者の真骨頂とも言うべき「普通ではない」世界に入っていくのでした。

しかし、「普通ではない」世界から陰画のように描かれた「普通」の世界(世間)は、今どきのテレビドラマでもお目にかかれないような、単純化され戯画化されたそれでしかありません。

「コンビニ人間」は、緻密な心理描写を排した簡潔な文体で、しかもユーモアもあり、とても読みやすい小説です。おそらく芥川賞受賞の話題性で映像化されるでしょうが、映像化に適している作品とも言えます。ユーモアもお笑い芸人のギャグレベルのもので、その意味でも面白くて受け入れやすいと言えるでしょう。でも、それだけです。読んだあとになにか考えさせられるような小説の奥深さはありません。予定調和のウケを狙った小説と言えないこともないのです。

今や小説家は、“世間知らず“の代名詞になっているかのようです。選評を読んでも、トンチンカンなものが目立ちます。なかでも川上弘美のトンチンカンぶりは相変わらずですが、今回の選評では、崔実の「ジニのパズル」をどう評価するかに、彼らの小説家としての”現実感覚”が試されているように思いました。

選評では、高樹のぶ子と島田雅彦が「ジニのパズル」を推していることがわかります。

高樹のぶ子は、「ジニのパズル」について、つぎのように書いていました。

 一読したとき、頬を叩かれたような衝撃を受けた。(略)
 胸を打つ、という一点ですべての欠点に目をつむらせる作品こそ、真に優れた作品ではないのか。かつて輝かしい才能が、マイノリティパワーとして飛び出して来たことを思い出す。


一方、山田詠美は、「ジニのパズル」を散々にこき下ろしていました。

『ジニのパズル』。ここにも、のっけから<感受性>という言葉が出ているよ。今度は感受性ばやり? そして、文章が荒過ぎる。特に比喩。どうして、こんなにも大仰な擬人化? <雨の滴が窓ガラスに体当たりするようにぶつかって、無念だ、と嘆きながら流れ落ちていった>だって…! わははは、滑稽過ぎるよ。


島田雅彦は、「コンビニ人間」と「ジニのパズル」をそれぞれ「能天気なディストピア」「マイナー文学の傑作」と評して、つぎのように書いていました。

 タイトルとテーマ、コンセプト、そしてキャラだけでもたぶん小説は成立するだろう。叙述や会話のコトバから一切オーラを剥奪しても、心理の綾をなぞることを省いても、ギリギリセーフだ。セックス忌避、婚姻拒否というこの作者にはおなじみのテーマを『コンビニ人間』というコンセプトに落とし込み、奇天烈な男女のキャラを交差させれば、緩い文章も大目に見てもらえる。


 全世界的に外国人排斥と自民族中心主義が広がる中、移民二世、三世は移民先の文化に適応するか、ルーツの民族主義に回帰するか、あるいはハイブリッド文化を構築するか、パンク文化するか、やけっぱちのテロリズムに走るか、これは文化の未来を左右し、文化の不安をかき立てる。在日三世の韓国人が日本の学校から、なぜか朝鮮学校を経て、米オレゴン州へと向かった少女の反抗と葛藤の記録は肉弾的リアルティに満ちている。(略)試行錯誤のパズルを繰り返すジニの姿こそが世界基準の青春なのかもしれない。荒削りで稚拙な表現を指摘する委員が多かったが、それは受賞作にも当てはまるので、この作品の致命的欠点とはいえない。受賞は逃したが、『ジニのパズル』はマイナー文学の傑作であることは否定できない。


芥川賞の選考委員なんて町内会のお祭りの実行委員みたいなものなので、マスコミ受けする又吉の「火花」のつぎは、読者に迎合して「大目に見てもらえる」小説を選んだのかもしれません。


関連記事:
崔実「ジニのパズル」
2016.08.15 Mon l 本・文芸 l top ▲
「SMAP12月31日解散」のニュースを見て、私は「やっぱり」と思いましたが、同じようにそう思った人も多かったのではないでしょうか。

解散に関しては、メンバーの公開謝罪やジャニー喜多川氏の否定発言にも関わらず、キムタクとほかのメンバーとの軋轢が囁かれ、噂は消えることはありませんでした。

一方、ジャニーズ事務所の意を汲んだ芸能マスコミは、バカのひとつ覚えのように、SMAP存続の翼賛記事を垂れ流すだけでした。日本の芸能界がアンタッチャブルな世界になっている要因のひとつに、芸能マスコミの存在があるのは否定できないでしょう。それは、芸能マスコミが芸能界を牛耳る大手プロダクションやテレビ局に隷属しているからです。芸能マスコミの記事だけを読めば、SMAP解散は過去の話になっていたはずです。SMAPはジャニー喜多川氏の庇護の下に戻り、修復しているはずでした。

事務所の発表によれば、メンバーは、既に来年9月までの契約を更改しており、1年間はジャニーズ事務所に籍を置きソロで活動するそうです。おそらくそのあと、キムタクを除いたほかのメンバーは、移籍や引退を選択するのでしょう。

私は、個人的にこの1年の契約にどんな意味があるのか興味があります。お礼奉公なのか、あるいは解散スキャンダルからメンバーを守る親心なのか。芸能界のオキテから言えば、お礼奉公と考えるのが常識でしょう。そうなれば、徹底的に搾取されるのは目に見えています。そして、ボロボロにされて放り出されるのではないか。

いくらとっちゃん坊やとは言え、40すぎたおっさんたちがアイドルを演じるのは、生物学的に見ても無理があるでしょう。そう考えれば、解散は自然の理だったと言えなくもないのです。でも、栄枯盛衰は世の習いで、況や芸能界においてをやです。メンバーたちにとって、これからイバラの道が待っているのは間違いないでしょう。

と、解散のニュースに対しても、このようにありきたりなことしか言えないのです。それくらい解散は、世間的には既定路線で、むしろ今更の感さえあるのでした。


関連記事:
ジャニー喜多川氏の発言の真意
SMAP解散騒動の真相
「SMAP解散」と芸能界の魑魅魍魎
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.14 Sun l 芸能 l top ▲
昨日、三宅洋平が、米軍ヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)建設用資材の搬入を阻んでいる高江のN1ゲート裏のテントに、安倍昭恵総理夫人を連れてきたことで、論議を呼んでいます。

私は、このニュースを聞いて「やっぱりな」と思いました。杞憂が現実になった感じです。

先月、三宅洋平は、安倍昭恵夫人と面談したのですが、そのときのことをツイッターにつぎのように書いていました。面談は、参院選の投票日の翌日、昭恵夫人が「三宅洋平さん、公邸でお待ちしてます!」という呼びかけ文をフェイスブックに掲載したのに応えたものです。




また、面談に批判的なコメントに対しては、つぎのように反論していました。


そして、昨日の行動になったのでした。

Togetterまとめ
安倍昭恵を帯同して高江に行った三宅洋平と地元の人の会話

彼の行動に対するツイッターの反応のなかで、私は、つぎのような声に「いいね」(!?)をあげたくなりました。


三宅洋平は、選挙に出たことで自分が大物になった気分なのかもしれません。それで、大きなもの(=権力)に接近し、それから承認されることを求めているのかもしれません。それが、政治に対して、「賢人政治」のようなイメージを抱くようになっているのではないか。ヒットラーとは言わないまでも、水戸黄門や遠山の金さんを待望するような気分になっているのかもしれません。

ところが、ネットでは、建設に疑問をもっている(と自称する)人のなかで、三宅洋平の行動に好意的な見方をしている人が結構いるのでした。『サッカーと愛国』の清義明氏もそのひとりですが、彼らは、テントで座り込みをしている反対派が昭恵夫人に「なにしに来たんだ!」と罵声を浴びせて追い払ったと言って、これだから反対派はダメなんだ、昭恵夫人を巻き込んで運動を広げるチャンスをみすみす逃した反対派は愚かだ、と批判するのでした。なかには、こういった左翼の血償主義が運動をダメにしているなどと言う者さえいました。

でも、こういった反応こそ昭恵夫人が狙っていたものだったのかもしれないのです。もしかしたら、してやったりとほくそ笑んでいるのかもしれません。

昭恵夫人が「家庭内野党」を演じるようになったのは、第二次安倍政権のときからです。第一次安倍政権のときは、そんな話は微塵もありませんでした。要するに、第一次政権の失敗から学んで、安倍政権の強権的な手法への風当たりを和らげるために、内助の功で「猿芝居」を演じているのではないのか。夫の強権的な姿勢と、話せばわかってもらえるはずという妻の役割をそれぞれ演じ分けているだけではないのか。その「猿芝居」に一役買ったのが、前にも書いたように朝日新聞です。

昭恵夫人は、三宅洋平らが言うように、ヘリパッド建設に疑問をもっているわけではないのです。その証拠に、昭恵夫人は、先の参院選のときは、建設推進の島尻安伊子沖縄・北方担当大臣の応援演説をおこなっているのです(「追記」のYouTube参照)。演説では、沖縄の有権者に向かって、「主人は独裁者ではありません」と訴えているのです。そんな人物が、「現場で何が起きているか知りたかった」なんて言って、警視庁のSPを引き連れ(本人たちはSPの存在を否定していますが、現職の総理夫人にSPが付いてないわけがないのです)のこのこやって来れば、「バカにするな!」と怒るのは当然でしょう。むしろ、怒らないほうがおかしいのです。彼女の夫が「平気で『ええかげんなこと』を言う人」(故・船井幸雄氏)だということを忘れてはならないでしょう。

昭恵夫人が言う「わかってらえるはず」というのは、夫に対してではなく、あくまで反対派に対してなのです。それが、田布施システム同様、三宅洋平らがトンデモであるゆえんです。

三宅洋平の行動に肩をもつ人たちは、全国から機動隊員を動員して工事を再開した政府の姿勢や、週明けにも強制排除がおこなわれるかもしれないと言われている高江の現実など関係なく、ただ反対派を叩くことしか念頭にないかのようです。

IWJは、昭恵夫人が帰ったあとの三宅洋平とテントの住民とのやり取りをテキストに書き起こしていますが、そのなかで、反対派の男性の三宅洋平に対するつぎのような発言が印象的でした。

男性「話を聞いてわかったのは、あなたは何十年間も虐げられている沖縄の人の気持を、あまり理解していない」


IWJ(Independent Web Journal)
【速報!】「現場で何が起きているか知りたかった」安倍昭恵・総理夫人が沖縄・高江を訪問!~新ヘリパッド強行建設工事に反対する市民からは戸惑いの声――IWJが追ったその一部始終 2016.8.6

もちろん、三宅洋平だけでなく私たちも、「何十年間も虐げられている沖縄の人の気持」をわかっているとは言い難いのです。もしかしたら(言っていることが違うだけで)、沖縄の人たちを「売国奴」呼ばわりするネトウヨと同じ目線に立っているのかもしれないのです。

それは、三宅洋平の肩をもつ人たちも同じです。彼らは、昭恵夫人と「対話」をしなかったとして、反対派を叩くのですが、彼らが言う「対話」とはなんなのかと思います。彼らは、反対派の住民たちが「黄門様、お願いしますら」「基地の建設をとどまるよう将軍様にお伝えくださいまし」と昭恵夫人に手を合わせてお願いすることを願っていたのでしょうか。その傲慢な上から目線は、安倍政権の沖縄に対するそれと同じでしょう。

清氏に至っては、ツイッターでのやり取りのなかで、「沖縄から基地全面撤収って、沖縄の人達がホントに臨(ママ)んでる話なんですかね?」などと言い出す始末で、そういった薄っぺらな観念と傲慢な目線は、三宅洋平と同じように、いつでも”動員の思想”にからめとられる危険性を孕んでいると言えるでしょう。

いや、これは既に、強権政治を前にして、雪崩を打って敵前逃亡がはじまっている兆候なのかもしれません。その方便に、お決まりのブサヨ批判と話せばわかる式の戦後民主主義へのオプティミズムが使われているのではないか。

追記:
YouTube
安倍昭恵夫人が涙ながらに必死の「島尻あい子 応援演説」

関連記事:
積極的投票拒否の論理
昭恵夫人の「猿芝居」
2016.08.07 Sun l 社会・時事 l top ▲
サッカーと愛国


清義明氏の『サッカーと愛国』(イースト・プレス)の感想文を書こうかと思っていたら、リテラが同書を取り上げていました。

リテラ
リオ五輪、W杯最終予選直前に考える、サッカーは右翼的ナショナリズムやレイシズムと無縁ではいられないのか

最近リテラの記事を引用することが多いので、リテラを真似したように思われるのではないかと気にしています。自意識過剰と思われるかもしれませんが、ネットというのは、かように自意識過剰になり自己を肥大化しがちなのです。相模原殺傷事件の犯人も、ネットで夜郎自大な自分を極大化させ、ヘイトな妄想を暴走させたと言えるのではないでしょうか。

リテラは、芸能人の誰々が安倍政権を批判したとか改憲に懸念を表明したとか、そんな記事がやたら多いのが特徴ですが、私は、そんな姿勢には以前より違和感を抱いていました。なかには書かれた芸能人もさぞや迷惑だろうと思うような牽強付会な記事もあり、なんだか負け犬根性の染みついたリベラル左派の”友達多い自慢”のようで、見ていて痛々しささえ覚えるのです。

でも、リテラの「人気記事ランキング」を見ると、常にその手の記事が上位を占めています。芸能人や有名人が自分と同じような考えをもっていることを慰めにしている人たちも多いみたいです。そんな人たちは、無定見にSEALDsを支持し、官邸デモの盛り上がりに、「政治が変わる」「夜明けは近い」と思っているのかもしれません。それが”お花畑”と言われるゆえんでしょう。

明日、リオ・オリンピックでサッカーの初戦・ナイジェリア戦がありますが、今日も知り合いのサッカーファンたちの間では、その話題で持ちきりでした。

清義明氏は、『サッカーと愛国』で、「サッカーは右派的なスポーツではない」と題して、つぎのように書いていました。

(略)もともとナショナルチームというのはサッカーの大会のカテゴライズのひとつにすぎない。多くのサッカーファンは各国の代表チームではなく、それよりもクラブチームを重視している。例えば、Jリーグの熱狂的なサポーターで、毎週末に日本中のどこだろうとアウェーの自分のチームの試合を追いかけていくような部類の人でも、日本代表の試合となると、スケジュールすら知らないという人もたくさんいる。代表チームは、自分のチームの選手が選ばれている時だけしか興味を示さないという人も多いのだ。むしろ、クラブチームに入れあげれば入れあげるほど、そうなる傾向が強い。


日本戦のあと、渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをして騒いでいるサッカーファンなんて、急ごしらえの俄かサッカーファンにすぎないという指摘は頷けるものがあります。そして、そんな俄かサッカーファンたちがメディアに煽られて安っぽいナショナリズムを叫び、都知事選で桜井某に11万票を投じたのでしょう。

自民党政権が60年安保の盛り上がりに怖れをなして、ヤクザを台頭する左翼の対抗勢力とすべく、”右翼”として組織し利用したのは有名な話ですが、それと同じように、ヨーロッパの民族紛争では、サッカーのサポーターたちが民族排外主義者に利用され、“民族浄化”の先兵として殺戮行為に加担していた例があるそうです。

著者が言うように、「サッカーの起源はマチズモ(引用者:男性優位主義)に満たされ、排外主義的な思想を招きやすいのは否定できない事実」ですが、しかし一方で、ヨーロッパで育まれたサッカー文化には、リベラルで啓蒙主義的な面があるのも事実なのです。

ISのテロで露わにされたヨーロッパ社会の二重底。自由と博愛の崇高な精神を謳う西欧民主主義の裏に張り付いた人種差別の根深さ。そのため、ヨーロッパのサッカーは、常に高いハードルを科してレイシズムと戦わなくてはならないのです。

2008年、欧州連合は、「人種・皮膚の色・宗教・血統・出身国・エスニックな出自による差別を罰するように求め、これに懲役刑を定めるように要請する」「枠組みの決定」を採択したのですが、UEFA(欧州サッカー連盟)も、それに同調する方針を打ち出し、それがサッカーにおける「世界基準」になっているのです。

でも、日本の現状が、ヨーロッパのそれに比べて遅れているのは否めないのです。以前、このブログでも取り上げましたが、浦和レッズのサポーターが「JAPANESE ONRY」の横断幕を掲げ、無観客試合の制裁を受けた事件の背景には、「韓国選手を獲らない」というクラブの方針と李忠成の加入があるのではないかという指摘などもその一例でしょう。

また、Jリーグの国籍規定が「鎖国的」だという指摘もあります。プロ野球の場合、日本の学校に3以上在籍した選手は外国籍扱いしない(外国人枠の対象外)という規定があるのですが、Jリーグはあくまで国籍がすべてです。ところが、在日の有望選手が多いため、3名の外国人枠とは別にわざわざ1名の「在日枠」を設けているのだそうです。一方、FIFAは、二重国籍など国籍の概念が多様化している現状を考慮して、ナショナルチームの選手の資格を判断するのに国籍よりもパスポートを優先しているのだとか。だから、チョン・ホセ(鄭大世)は、韓国籍であるにもかかわらず北朝鮮の代表に選ばれたのです。チョン・ホセの家は、父親とホセが韓国籍で、母親が朝鮮籍だそうです。

サッカーと在日は切っても切れない関係にあります。かつて幻の最強チームと言われた在日朝鮮蹴球団。また、東京の朝鮮高校も高校では最強のレベルでした。帝京高校が強くなったのも、近所に朝鮮高校があったからだと言われていました。日本の強豪校は、朝鮮高校と定期戦をおこないレベルアップをはかっていたのです。

李忠成の家族も、祖父が朝鮮籍で父親が韓国籍、そして忠成が日本籍だそうです。李忠成の父・李國秀は、かつて横浜トライスター(横浜フリューゲルスの前身)の選手で、その後、多くのJリーガーを輩出した桐蔭高校の監督を10年務めた、指導者として知られた人物です。

その李國秀のインタビューは、「サッカーと愛国」を考える上でも興味深いものがありました。

李忠成が韓国U-19代表の合宿に召集された際、在日であるがゆえに「差別」を受け、そのために韓国の代表に選ばれなかったという話がありましたが、李國秀はつぎのように否定していました。

「それよりも、パク・ジュヨンとポシションがかぶっていたね。うまく溶け込めなかった。ちょうどU-19のチームのスタイルを固めようとしているときにあいつが入っていった。そうしたらサッカーが合わない。中国との練習試合の時に、あいつがヒールパスを出したんだけど、誰も反応できなかった。メイド・イン・ジャパンのサッカーなんだよ。スタイルが違う。フィジカル重視のスタイルに合わない。スペースにボールを蹴り込んで走っていくスタイルに、あいつがヒールパスを出したり、パスをスルーしても違うんだね」
「差別」は代表に選ばれなかった理由ではないというわけだ。
「いくら韓国の血であっても、小中高と日本のサッカーをやってきたら、サッカーのアイデンティティは日本なんだ」


さらに、つぎのような李國秀の話には、私たち日本人が知り得ない在日の歴史の重みがあるのでした。李忠成の曽祖父が、一旗揚げようと朝鮮半島から博多にやってきて、沖仲仕の仕事をはじめたのが100年前だそうです。そこから李一家の在日の歴史がはじまったのです。

李忠成の祖父は、戦争中は特攻隊員だったそうです。ところが、戦争が終わった途端に「日本人」から「外国人」になったのです。

「(略)親父(引用者:李忠成の祖父)は終戦後、今でも日本国籍になってないし韓国籍でもない。それは親父の妹が北朝鮮に帰還事業で帰っているからなんだ。兄が日本国籍を取得したことがバレたら、妹が強制収容所にでも送られてしまうかもしれないって理由で。
 一方で俺は忠成と一緒に韓国籍になった。親父はまだ朝鮮籍。だからウチは、長男の三代が、日本籍、韓国籍、朝鮮籍として一緒の家に住んでいるわけです。全員パスポートが違うんですよ(笑)。
 これが幸せなのか不幸なのか、よくわからないな。親父は日の丸を命を張って守ろうとして軍隊まで行ったのに、俺は『パッチギ!』の世界ですよ。そして忠成は新しい人生で日の丸を背負っている。これが100年の歴史なんですよ。なんで在日が日本にいるんだって人もいるだろうけど、社会とイデオロギーに翻弄されている歴史をわかってほしいよね。そうやって翻弄されながら生きてきていることは、人間の弱さなのかもしれないし、強さかもしれない。それはよくわからない」


サッカーには、レイシズムの誘惑という負の部分と、まったく正反対にリベラルな文化という顔もあります。私たちは、ある日突然、日本人から外国人になった経験もなければ、二重国籍の現実も知りません。もちろん、「永住許可」という制度に縛られることもないのです。だから、国籍規定の疑問点を指摘されたJリーグの理事のように、「自由にやりたきゃ日本国籍をお取りなさい」というようなタカピーな発言になるのでしょう。浦和の横断幕も横浜マリノスの「バナナ事件」も、根底にあるのは、このような「民族主義サッカー」の考えです。それが渋谷駅前の俄かサッカーファンにも投影されているのではないか。
2016.08.04 Thu l 本・文芸 l top ▲
昨日の夜遅く、喉が渇いたので冷たいものでも飲もうとキッチンに行ったら、キッチン全体が熱気におおわれ、サウナ風呂のようになっていました。

なんとキッチンに置いていた卓上電気グリルのコンセントをさしたままになっていたのでした。そのためにグリルが過熱して、異常な熱を発していたのです。

夕食に電気グリルで塩サバを焼いたのですが、そのままコンセントをぬくのを忘れていたのです。電気グリルにはガラス製の蓋が付いていますが、蓋の取っ手も素手では持てないくらい熱くなっていました。

前も書きましたが、味噌汁を温めようと電子レンジの戸を開けたら、前に温めたまま取り出すのを忘れていた味噌汁が出てきたなんてことはよくあります。それどころか、一度などは温め終えた味噌汁を取り出そうとしたら、中から味噌汁が二つ出てきて、狐に摘ままれたような気持になりました。前に取り忘れた味噌汁が入っているのに気付かないまま、またあらたな味噌汁を入れていたのです。年をとると、このように毎日がハリーポッターの世界です。

先日のことです。部屋にいると、ピンポーンとチャイムが鳴りました。モニターで見ると、白いワイシャツ姿の男性が立っていました。私は、どうせ怪しいセールスだろうと思ってそのまま無視しました。チャイムは何度か鳴ったのち、鳴りやみました。

ところが、それからしばらくして、再びチャイムが鳴ったのです。モニターで見ると、前と同じ男性が立っていました。私は、「うるさいな」と思いました。文句を言ってやろうかと思いましたが、我慢しました。そんなとき、出ていくと、大概怒鳴り合いになるからです。年も年なので、無用なトラブルを避けるのが賢明でしょう。

チャイムが止んだあと、ふとベランダの窓越しに外を見ました。すると、道路をはさんだ反対側の駐車場に数人の男性が立ってこちらを見ているのに気付きました。上着を着ているのはひとりだけで、あとは白いワイシャツ姿でした。私は、一瞬「警察?」と思いました。刑事たちが犯人宅を遠くから監視するテレビドラマのシーンによく似ていたからです。上着を着ているのは宅麻伸演じる「係長」なのか。

と思ったら、またピンポーンとチャイムが鳴ったのでした。でも、私は、やはり無視しました。チャイムが鳴り終えたあと、気持が悪くなったので玄関のドアの確認に行きました。するとびっくり。ドアにカギがかかってなかったのです。カギもドアチェーンも外れたままになっていたのです。

私は、またしても狐に摘ままれたような気持になりました。毎日がハリーポッターであることを考えれば、ドアのカギをかけ忘れたということは充分考えられます。彼らはそのために何度もチャイムを鳴らしたのか。

あの駐車場に立っていた男性たちは誰だったのか。ドアが開いていることを誰かが通報して警察が来たのか。でも、制服の警官ではなく、私服の刑事というのもちょっと解せません。それも、ドアが開いているだけで、まるで殺人事件のように何人も来るでしょうか。

やはり、新聞の勧誘員かなにかセールスの人間だったのか。彼らは、“絨毯爆撃”のように、その地域をグループでいっせいに飛び込みセールスするのはよくあることです。

「あの部屋、ドアにカギがかかってないぞ」
「部屋に誰かいるのか?」
「わからん」

そう話していたのかもしれません。「もう一回確認して来い」と言われて、チャイムを鳴らしたのかもしれません。あのまま部屋に入って来られたら、もう怒鳴り合いどころではなかったでしょう。

毎日がハリーポッターも一歩間違えば、笑い話では済まされないことになるのです。

2016.08.03 Wed l 日常・その他 l top ▲
3・11後の叛乱


しばき隊初期のメンバーで、先頃『サッカーと愛国』(イースト・プレス)を上梓したばかりの清義明氏は、『3.11後の叛乱』(集英社新書)について、ツイッターで、この本は野間易通氏の「プロパガンダの書」で、それを笠井潔氏がロマンチックに「ポジショニングしようとしている」と書いていましたが、言い得て妙だと思いました。

清義明 (@masterlow) | Twitter
https://twitter.com/masterlow?lang=ja

清義明2016年7月ツイッター1

清義明2016年7月ツイッター2

おそらくこの本を読んだ多くの人たちも、清氏と同じように、チグハクと思ったのではないでしょうか。なかでも笠井潔氏の言説をトンチンカンに思った人も多いはずです。

笠井潔氏は、60年代後半は構造改革派の共産主義労働者党のイデオローグでした。そして、70年代に入ると「マルクス葬送派」として左翼論壇で存在感を放っていました。共労党やその学生組織に属していたメンバーのなかには、のちにメディアで名を馳せた人が多いのですが、笠井潔氏もそのひとりでした。

笠井氏は、反原発や反安保法制で国会前を埋め尽くした群衆こそ、ネグリ/ハートが『叛逆』で規定した新たな大衆叛乱の姿だと言います。それは、<1968>後の「新しい社会運動」たる反グローバリズム運動をも乗り超えた、<2011>後の大衆叛乱なのだと。その主体となるのは、「何者でもない私」である「ピープル」です。

 分子的な無数の主体(シトワイヤン)がブラウン運動を続けながら、創発的に自己組織化し、やがてピープルを実現する。無数の微粒子としての主体は「何者でもない私」である。ピープルという創発的なシステムに、決定論的で機械論的なシステムであるネーションが対立する。ネーションを構成するのは、その国籍を有し国家に権利を保障される者、ようするに「何者かである私」だ。ピープルが流体(原文はルビ:リキッド)的な分子運動の産物だとしたら、ネーションはステートという鋳型のなかで凝固した均質な固形物(同じくルビ:ソリッド)にすぎない。


これは、SEALDsのデモで発せられた「国民なめんな」のコールが、「近代の国民概念を先鋭化しているとか、国民主体から排除されているマイノリティに差別的だという批判」に対しての反論であり、SEALDsを擁護する論拠です。私は、最初、皮肉ではないのかと思ったほどでした。

笠井氏は、しばき隊の後継組織であるあざらしについても、つぎのように書いていました。

 興味深いのはあざらしが、声なき声の会に始まる「市民」性と全共闘的な「大衆」性の双方を、意識的・無意識的に継承しているらしい点だ。同じ陣営に属すると見なされていた進歩派教授を全共闘が徹底批判したように、「しばき隊」はヘサヨや大学の文化左翼などに容赦ない攻撃を浴びせかける。


辺見庸氏の言う元全共闘の「ジジババども」が反原連やしばき隊やSEALDsにシンパシーを覚えるのは、こういった理由なのかと思いました。

一方、野間易通氏は、「官邸前デモでは規範や規律が重視されていて、はみだし者が自由に参加する余地があまりない」という素人の乱(福島の原発事故直後に高円寺の反原発1万人デモを主催した人たち)の批判に対して、つぎのように反論しているのでした。

(略)私は、「大衆というのは、はみだし者の集合ではない。そのはみだし者が忌避するような、規律を好む穏健で目立たない普通の人たちの集まりである」と反論した。デモや抗議行動が奇異な恰好で反社会的行動を好んでとるようなはみだし者の集まりになるとそれは同好の士の集いにすぎなくなり、ひいてはデモそれ自体が目的化してしまう。官邸前に集まっている人々のあいだに「反社会的で暴力的なアンチヒーローを望む声」などなく、ただ政策を変更してほしいと訴えているだけなのだと。


だから、デモの参加者に対して「おまわりさんの言うことを聞け」とか「選挙に行こう」などと呼び掛けていたのでしょう。となると、デモに参加している「規律を好む穏便で目立たない普通の人々」は、「何者でもない私」というよりむしろ「何者かである私」ではないのかと思ってしまいます。さしずめSEALDsはその典型ではないのか。彼らが体現しているのは、どう見ても共産党や民進党に一票を投じればなにかが変わるというような、それこそ<1968>の運動で否定された古い政治の姿です。

しかし、笠井氏の論理はエスカレートするばかりです。しばき隊の運動に、初期社会主義運動の理論家で、「武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取と人民武装による独裁の必要を主張した」(ウキペディアより)ルイ・オーギュスト・ブランキの「結社」の思想を重ね合わせるのでした。

特定の行動という一点に目標を絞り込んで、他の一切を排除するところにブランキ型の<結社>の特異性がある。これは近代的な政治運動や社会運動の団体としては異例、むしろ異形である。レイシストしばき隊の特異な組織思想は、ブランキの<結社>と時代を超えて響きあうところがあるように感じられる。


笠井氏は違った見解をもっているようですが、ブランキの思想は、18世紀末のフランス革命におけるジャコバン派の独裁政治を起源とし、パリコミューンで実践されたことにより、レーニンの「プロレタリア独裁」にも影響を与えたと言われています。笠井氏は、しばき隊を日本左翼の悪しき伝統であるボリシェヴィズム(ロシアマルクス主義)の対極に据えているのですが、そういった論理自体が既に矛盾していると言えなくもないのです。

 大衆蜂起が自己組織化され、市民社会の諸分節に評議会という自己権力機関が形成される。大小無数の評議会が必要に応じて連合し、下から積みあげられて政治領域まで到達する。最終的には、政府が評議会の全国連合に置き換えられる。


ここまでくると、たしかにロマンチシズムと言うしかないでしょう。なんだか片恋者の妄想のようです。

清氏が言う「書かれていないこと」がなにを意味するのかわかりませんが、鹿砦社の『ヘイトと暴力の連鎖』でとりあげられていたしばき隊のスキャンダルもそのひとつかもしれません。「リンチ事件」でも、被害者に対して、ツイッターで執拗に誹謗中傷がおこなわれ、被害者の氏名や住所、学校名までネットで晒されるという二次被害が生じているそうです。野間氏自身も、個人情報を晒すなどの行為により、ツイッター社からアカウント停止の処分を受けたのだとか。

私は、ネットで個人情報を晒すという行為に対して、新左翼の内ゲバの際、対立する党派のメンバーが勤めている職場に、「おたくの××は、過激派の○○派ですよ」などと電話をして、対立党派の活動家=「反革命分子」を職場から追放するように仕向けていたという話を思い出しました。襲撃して殺害するよりはマシと言えますが、そういった”内ゲバの論理”としばき隊がネットでやっていることは似ているような気がしてならないのです。

そして、私は、やはり(今や幻となった)辺見庸氏のSEALDs批判を思い出さないわけにはいかないのでした。

だまっていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし「帰れ!」コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?だまっていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。
よしんばかれらが××派だろうが○○派だろうが、過激派だろうが、警察に〈お願いです、かれらを逮捕してください!〉〈あの演説をやめさせてください!〉と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強してでなおしてこい。古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘をさすとしずくがかかってひとに迷惑かけるから雨合羽で、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。絶対安全圏で「花は咲く」でもうたっておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ。下痢がおかげさまでなおりました、とさ。コール「民主主義ってなんだあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。

かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで「勝った」だと!?おまえらのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれじしんもなんだかわからなくなって、けっきょく、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。Happy birthday to me! クソッタレ!

(辺見庸「日録1」2015/09/27)

※Blog「みずき」より転載
http://mizukith.blog91.fc2.com/


「左翼の終焉」はそのとおりだとしても、それがどうして反原連・しばき隊・SEALDsになるのか、私にはさっぱりわかりません。「教義も修道院も持たない新たなレフトの誕生」(野間氏)なんて片腹痛いと言わねばなりません。私たちは、前門の虎だけでなく、後門にも狼がいることを忘れてはならないのです。
2016.07.31 Sun l 本・文芸 l top ▲
Windows10ロゴ


私は現在、デスクトップとノートの二台のPCを使っています。主に仕事によって二台を使い分けているのですが、OSはデスクトップがWin7でノートがWin8でした。

Windows10の無償アップグレードがはじまったとき、どうしようか迷ったのですが、とりあえずノートのほうをアップグレードしました。アップグレード自体も問題なくすんなりとおこなわれました。

一方、デスクトップはメインのネットの仕事に使っていますので、さまざまなソフトを使っています。また周辺機器も日常的に使用しているものばかりで、Win10との互換性に不安があったので、アップグレードは保留していました。

しかし、貧乏性の習いで「無償」の誘惑をどうしても拭うことができません。ノートで確認してみると、ソフトも周辺機器も、特別問題はなさそうでした。

それで、意を決して(!)アップグレードを試みたのですが、何度やっても失敗するのでした。ネットで調べてみると、どうもWindows Updateの「更新プログラムの確認」ができないことが原因のようでした。更新プログラム自体はインストールされているようですが、なぜか「最終確認」が2015年の3月で止まったままなのです。

もちろん、現実的にはWin7でもなんら支障はないのです。そのため、いったんはアップグレードをあきらめてこのままWin7で行こうかと思いました。ところが、貧乏人の哀しい性で、やはり「無償」の文字が目の前にチラついてならないのでした。更新期限が近づくと、よけい「アップグレードしなければ損」みたいな気持になってくるのでした。しかも、そんな浅ましい気持はどんどんエスカレートして、「こうなったら意地でもアップグレードしてやる」というようなレベルまで行ってしまったのでした。それが更新期限(7月29日)の二日前です。

最新の「更新プログラムの確認」ができるようにするにはどうすればいいのか。素人考えで思いついたのは、「システムの復元」です。しかし、「復元ポイント」を見ると、今年の3月の日付しかありません。それ以前がないのです。引っかかるものがありましたが、とりあえず、3月のポイントで復元してみることにしました。

ところが、それが”悪夢”のはじまりでした。ハードディスクがビジー状態になり、にっちもさっちもいかなくなったのでした。いつまでたっても復元が完了しないのです。

仕方なく強制終了しましたが、その途端、パソコンの動作が異常に重くなったのでした。ネットにつないでも、昔のアナログ回線の頃のような緩慢な動きをするだけです。パソコンが不調になると頭が真っ白になることがありますが(それだけ実務的にもパソコンに依存しているからでしょう)、もうこうなったらリセットしてOSを再インストールするしかないなと思いました。まるで元プロ野球選手(清原のことです)や有名女優の夫の元タレント(高知東生のことです)ように、全身から汗が噴き出し異常な興奮状態に陥っていた私には、それしか思いつかなかったのでした。

とりあえずセーフティモードで立ち上げて、仕事用のデータを外付けのハードディスクにバックアップしました。仕事用のデータは週に一回はバックアップしていますので、2~3日分をバックアップするだけです。顧客データ等は、契約しているサーバーに保存されていますので、バックアップの必要はありません。

バックアップを終えてから、Win7を再インストールしてパソコンをリセットしました。そして、Win10のアップグレードを試みると、今度はすんなりと進み、アップグレードは完了したのでした。

ところが、アップグレードしたあとにとんでもない“忘れ物”をしていることに気付いたのでした。「マイピクチャ」のフォルダに入っている画像をバックアップしてなかったのです。そこには、今までデジカメで撮った写真が入っていたのです。

今のパソコンに買い替えたのは4年前ですが、そのときはWindowsの転送ツールを使ってデータを移動したので、外のメディアに保存していませんでした。あわてて,、押し入れの段ボール箱のなかから古いCD-Rを探し出して再生してみたら、さらにその前の2002年ににパソコンを買い替えたときに保存したデータしか残っていませんでした。つまり、2002年以後のこの14年間に撮った写真が消えてしまったのです。未編集のまま撮ったものを次から次に入れていましたので、数千枚は優にあったと思います。

14年間パソコンのなかのデータをいっさい保存してなかったという、このIT社会に生きる人間にあるまじき怠惰な態度は、迂闊どころではなく、文字通り自業自得と言うしかありません。

なんのことはない、14年間に撮った写真で残っているのは、わずかにこのブログにアップしたものだけになったのです。ブログをつづけるのは、結構しんどいものがあり、自己顕示の塊のような記事を読み返しては、自己嫌悪に陥ってやめようと思ったことも一度や二度ではありません。でも、ブログに残った写真を見ると、やめないでよかったのかなと思ったりもするのでした。今はそう思って自分を慰めるしかないのでした。

追記:
その後、データ復元ソフトを使って、6~7割くらいの画像が復元できました。
2016.07.31 Sun l ネット・メディア l top ▲
地震で打撃を受けた九州の観光地を支援する「九州ふっこう割」の多くは、既に完売になっていますが、一部のフリープランではまだ募集しているものがあります。

大分行きのフリープランも、往復の航空運賃・ホテル・レンタカーのセットで、通常のほぼ半額の金額でした。第一期は9月までなので、「ふっこう割」を利用して帰ろうかと思いましたが、しかし、考えてみれば、帰っても行くところがないのです。墓参りするだけでは時間を持て余すし、だからと言って、行くあてもなく田舎をウロウロしてもわびしくなるばかりです。田舎嫌いで、田舎の人間とのつきあいを避けていましたので、友人や知人も少ないのです。

田舎はたまに帰ると歓迎されますが、しょっちゅう帰ると迷惑がられます。「また帰ってきたのか」と言われるのがオチです。それに、友人たちもそれぞれ年齢相応の人生の苦悩を背負っていますので、風来坊のような人間の里帰りにそうそうつきあっているヒマはないのです。

でも、なかには二十年間年賀状をもらいながら、その間一度も会ってない”元同僚”もいます。二月に帰ったときも車で彼の家の近くを通ったのですが、家には寄らないままでした。この二十年間で電話で話したのが二度か三度あるだけです。

私が会社を辞めて東京に行くと決めたとき、突然、彼から家に電話がかかってきたのでした。彼はその前に会社を辞めて、実家のある町の農協だかに転職していました。会社ではそんなに親しくしていたわけではないのですが、なぜか電話がかかってきて、「辞めたと聞いてびっくりしましたよ。東京に行くなんてすごい決意ですね」と言ってました。それ以来ずっと年賀状の交換をしているのでした。

そう言えば、大学受験に失敗したとき、同じクラスの人間から実家に戻っていた私のもとに電話がかかってきてびっくりしたこともありました。彼も特に親しくしていたわけではありませんでした。私は中学を卒業すると実家を離れて街の高校に通っていましたので、高校の同級生たちは私の実家や田舎を知らないのですが、ただなぜか実家の家業を知っていたらしく、番号案内で調べてかけてきたということでした。

彼は志望の大学に合格したそうですが、私に対して「残念だったな。来年がんばれよ」とさかんに励ましてくれるのでした。そのためだけにわざわざ電話をかけてきたのです。ただ純粋に“善意“で電話してきたようですが、私にはそういう“善意“はありませんので、まるで他人事のようにすごいなと思いました。それで未だに忘れられないエピソードとして自分のなかに残っているのでした。

風の便りによれば、現在、彼は地元の大手企業の代表を務めているそうです。企業のトップになるというのは、その過程において、決してきれいごとではいかないこともあったでしょう。姦計をめぐらすこともあったかもしれません。あの若い頃の“善意“とサラリーマンとしてトップに上り詰める”したたかさ”の間にどう折り合いをつけてきたのか。彼の話を聞いたとき、そんなことを考えました。

やはり、”黄昏”が近づいてきたからなのか、最近はこのように、なにかにつけ過去の出来事やエピソードを思い出すことが多くなっているのでした。

関連記事:
墓参りに帰省した
2016.07.26 Tue l 故郷 l top ▲
やっぱり、週刊文春が鳥越俊太郎候補に対するスキャンダルを掲載しました。文春につづいて新潮や東スポなども、負けじと鳥越候補に対して後追い記事を書いています。そして、待ってましたとばかりに、ネガキャンに走る産経新聞の記事がYahoo!トピックスに踊っています。見事な連携プレイと言えるでしょう。おそらくこの記事が、鳥越候補にとって”致命傷”となるのは間違いないでしょう。

業界関係者によれば、メディアの情勢調査では「まだ投票先を決めてない人が4割おり、情勢は変わる可能性がある」というような文言が最後に必ず入っていますが、しかし、その「4割」の人は、実際は投票に行かない人なのだそうです。つまり、余程のハプニングでもない限り、「情勢が変る可能性」はないのです。

私は、”舛添叩き”のときに、東京都知事は選挙などしても意味がない、週刊文春に選んでもらえばいいと書きましたが、まったくそのとおりになりました。

鳥越候補の「淫行疑惑」は14年前の話だそうですが、週刊文春や週刊新潮は、石原慎太郎氏が立候補したときに、石原氏の「愛人」や「隠し子」を記事にすることはありませんでした。それを記事にすることは絶対的なタブーだったのです。

記事自体は、下記の斎藤貴男氏のコメントにあるように、周辺の伝聞話を集めただけのマユツバなもので、鳥越候補のイメージダウンを狙った文春お得意の”ためにする”記事と言えますが、でも、日ごろリベラルな発言をしている作家やライターなどが文春を表立って批判することはないのです。高橋源一郎だって、大江健三郎だって、文春や新潮を批判することはないのです。みんな、見て見ぬふりです。それもいつもの光景です。

昔の学生たちは、文春や新潮は内調(内閣情報調査室)の広報誌だと言ってました。文春や新潮の記事が公安情報に基づいたものが多いというのも、半ば常識でした。ところが、今やそんな文春や新潮の記事は、昔とは比べ物にならないくらい大きな影響力をもつようになっているのです。

今回の選挙でも、内調の意向を組んで文春が鳥越候補のスキャンダルを書く準備をしているという記事が、選挙前から一部のメディアに出ていました。予想できないことではなかったのです。

文藝春秋の松井清人社長とジャーナリスト時代からの知り合いで、日ごろから親しい関係であることを公言している民進党の有田芳生参院議員は、今回の記事に対して、「スキャンダル報道があると、決まって『官邸筋のリーク』などと言われます。こんどの報道の背景で多方面に密かに語っていたのは官邸筋ではなく、鳥越さんを良からぬとする者たちだった」とツイッターに書いていましたが、なんだか話のすり替えのようにしか聞こえません。これでは獅子身中の虫と言われても仕方ないでしょう。

それに比べれば、「赤旗」に掲載されていた元文春記者の斎藤貴男氏のコメントのほうが“真っ当“と言えます。

 鳥越俊太郎氏の「疑惑」を取り上げた「週刊文春」の記事は、「被害者A子」さん自身の証言はなく、仮名の夫と匿名の「有名私立大学関係者」のコメントばかりで構成されています。肝心の事実関係もすべて「という」で結ばれています。こういうふうに言っている人がいるというだけです。このタイミングで報じるにはあまりにも政治的すぎる、と断じざるを得ません。選挙のときに、「という」としか書けないようなスキャンダル記事を出すべきではない。
 実際に記事を読めばいいかげんな内容だとわかりますが、ほとんどの人は読まない。それを踏まえ、一番多くの人に見られる電車や新聞広告の柱にすえるという、計算しつくした非常に卑劣なやり方です。
 週刊誌はゲリラですから、新聞やテレビとは違います。面白ければ何でもあり、選挙への影響をあまり配慮する必要はないという論理はわかりますし、私も否定はしません。 
 しかし、だったらどうして、東京都の金を自分の財布のように使っていた石原慎太郎知事の時は沈黙を決め込んでいたのか。
 そのくせ、今回は、鬼の首でも取ったみたいに鳥越さんのイメージダウンをはかる卑劣さは、かって『文春』に身を置いた者としても許せません。
 保守的な編集姿勢も結構ですが、保守と権力のイヌとは違うはずです。

※下記より転載
「文春」報道の不可解 選挙妨害の意図的記事 非常に卑劣なやり方 斎藤貴男さんコメント「赤旗」7/22


でも、何度も言いますが、共産党だって昨日までは文春の記事に踊っていたのです。都合のいいときだけ踊って、都合が悪くなると「卑劣」と言うのは、(如何にも共産党らしい)ご都合主義と言えるでしょう。

文春砲に沈黙するリベラル左派の”文化人”。都合のいいときは踊って、都合の悪いときは批判する野党。まさに「勝てない左派」の典型と言えるでしょう。きつい言い方になりますが、無定見に文春の掌の上で踊る(踊っていた)アホがシッペ返しを食らい、足をすくわれるのは当然なのです。


関連記事:
全体主義には右も左もない
”舛添叩き”の奇異な光景
”舛添叩き”への違和感
上原多香子の名誉毀損
2016.07.23 Sat l ネット・メディア l top ▲
一昨日、私は、紙の爆弾2016年7月号増刊『ヘイトと暴力の連鎖』(鹿砦社)と笠井潔・野間易道『3.11後の叛乱』(集英社新書)の二冊の本を買いました。二冊の本の副題には、それぞれ「反原連・SEALDs・しばき隊・カウンター」「反原連・しばき隊・SEALDs」と同じ文言が並んでいます。

言うまでもなく、これらの本は、反原発の官邸前デモを主導した反原連(首都圏反原発連合)と反安保法制デモで脚光を浴びたSEALDs、それにヘイト・スピーチへの抗議活動で名を馳せた「しばき隊」を論じたものです。しかし、その姿勢は正反対です。

鹿砦社は福島第一原発の事故以後、『NONUKES』という「脱原発情報マガジン」を発行している関係もあって、反原連に対して2015年だけで300万円のカンパをしていたそうです。しかし、反原連がおこなった中核派・革マル派・顕正会排除宣言に対する松岡利康社長の苦言が反原連の逆鱗に触れ、絶縁状を突き付けられて訣別したのだとか。

松岡利康社長と作家の笠井潔氏は、全共闘運動の闘士として知る人ぞ知る有名な人物ですが、いみじくも「反原連・しばき隊・SEALDs」に対しては、まったく正反対の立場に立っているのでした。

まだ途中までしか読んでいませんので、この二冊の本を読んだ感想は後日あらためて書きたいと思いますが、それとは別に、私は、『ヘイトと暴力の連鎖』のなかで、つぎのような文章が目にとまったのでした。

それは、「しばき隊」内部の「リンチ事件」に関連するものです。記事によれば、「リンチ事件」の被害者に対して、相談者として接触してきた在日の「歌手」がいたのですが、彼は被害者に会ったあと、「リンチ事件」の現場にいて(本人は途中から帰ったと主張)、被害者に事件の「謝罪文」も送っている在日の女性ライターと「会談」した途端、事件は被害者の「嘘と誇張」によるものだと百八十度違うことを言い出したのだそうです。記事では、「一夜にして寝返った」と書いていました。ちなみに、「リンチ事件」では、刑事告発された実行犯三名に罰金刑が言い渡され(上記の女性ライターは無罪)、現在は民事訴訟が進行中です。

(略)録音データはじめリンチ事件の実態が一目瞭然の数々の証拠資料、特に事件直後の凄惨な顔写真を趙(引用者:「歌手」の姓)は見ているのに、たった一時間の会談で、人間こうも変わるのか!? 何かあったとしか思えない。弱みを握られ、これを突きつけられたのか? あるいは、甘い蜜を与えられたのか? 私の信頼する在日の人は「私は最初からこうなると判っていましたよ」と私に言った。この言葉の意味するところがまだ理解できないが、彼には在日同士の心の中の襞のようなものが実感できるのだろうか。
(「急展開した『しばき隊リンチ事件』の真相究明」松岡利康)


在日の人間と身近に関わってきた人間のひとりとして(今も身近に在日の人間がいますが)、「私は最初からこうなると判っていましたよ」ということばの意味がなんとなくわかる気がするのです。一見、在日同士は信用できる、日本人は信用できないみたいな話に聞こえますが、それだけではないように思います。

私は、身近な在日の人間に対して、「(朝鮮人は)勝ったか負けたか、得か損かでしか判断しない」と言って、いつも反発を受けていました。もちろん、そういった損得勘定は誰にもあります。でも、在日とつきあっていると、ときに呆気にとられるほど(人間同士の信義を越えるほど)露骨な場合があるのもたしかなのです。

私も、在日の人間とトラブルを経験したばかりで、それまで親しくしていた人間がまるでヤクザのように豹変する姿を見たとき、ふと上のことばを思い出したのでした。「一夜にして寝返る」どころではなく、一瞬で手の平を返して、ヤクザ口調で「ぶっ殺してやる!」なんて怒鳴りはじめる姿を前にすると(もっとも、それは、どこかの放送局がソウルや東京を「火の海にしてやる!」と叫ぶのと同じオーバーアクションなのですが)、「朝鮮人はうっとしくて嫌だな」と思います。

もちろん、日本人が相手だと「日本人はうっとうしくて嫌だな」とは思わないのです。その個人を嫌悪するだけです。そこに嫌悪と差別の分かれ道があるのかもしれません。私が「朝鮮人はうっとしくて嫌だな」と思うのは、考えようによっては既に差別していることになるのかもしれないのです。

でも、在日の”多様性”みたいなものももっと考える必要があるように思います。在日の問題を考えるとき、もちろん戦争責任や植民地支配の歴史的な背景をぬきにすることはできませんし、ヘイト・スピーチをあげるまでもなく、日本の社会に差別が存在するのは否定しようのない事実です。しかし、一方で、そういった視点からだけでは捉えられない在日の姿というのも当然ながらあるのです。

『韓国人を愛せますか?』((講談社+α新書)や『韓国人は好きですか?』((講談社+α新書)の著者・法政大学教授のパク チョンヒョン(朴倧玄)氏は、韓国人の世間や他人に対する考え方について、著書でつぎのように書いているそうです。

※下記のブログからの孫引きです。

☆ひなくま☆
韓国人の身内意識

外でケンカしてきた子供に対して、日本人の親は「相手を殴るより殴られてくるほうがいい」なんて言う人も多いようだが、韓国人の親は「どうせケンカするなら、殴られるより殴るほうがいい」と思う人が多い。人を殴るという行為を、日本人は「相手に迷惑をかける行為だ」と解釈するかもしれないが、韓国人は「勝負に勝った、男らしい」と解釈するからだ。


韓国人の親が子供に望むのは、他人に迷惑をかけないことではなく、他人に対して肩身が狭くならないこと、他人に対して臆さないこと、自信のある態度を取れること、遠慮ばかりしないことだ。それは、負けず嫌いの韓国人の性格を表すものかもしれない。


在日の男性がどうしてあんなに虚勢を張り、強面に振る舞うのかと言えば、日本人には負けたくない、バカにされたくないと意識過剰になっているからだと思っていましたが、実はそれだけではなくて、世間や他人に対する朝鮮人特有の考え方が根底にあるからなのでしょう。

上の文章で言う、在日同士の「心の中の襞」というのは、そういうことではないかと思います。


関連記事:
「在日」嫌い
2016.07.18 Mon l 日常・その他 l top ▲
東京都知事選が告示されましたが、その候補者選定の過程で示されたのは、うんざりするような古い政治の姿です。それは、与党だけではなく、野党も同じです。

「野党統一候補」の第一声に対して、動員された聴衆たちが、反安保法制デモのときの「アベ政治を許さない」と同じように、「みんなに都政を取り戻す」と書かれたお揃いの青いボードをいっせいに掲げている光景を見るにつけ、私は違和感を禁じ得ませんでした。

だからと言って、元官僚の「天下り候補」は論外だし、世渡り上手な「孤立無援パフォーマンス候補」も、過去にカルト宗教との関係が取りざたされ、今またヘイト団体との関係がささやかれるなど、その胡散臭さや海千山千ぶりは人後に落ちないのです。

元官僚に対して(しかも、知事経験者の”渡り”であるにも関わらず)、特別区長会や市長会など”地域のボス”が出馬を要請する官尊民卑の政治。そして、その官尊民卑の政治に、「卑しい」都民の多くが唯々諾々と従う東京都の民度。まったくいつの時代の光景かと言いたくなりますが、しかし、市民団体や労組が「野党統一候補」の擁立を要請する野党も似たかよったかで、与党を批判する資格はないのです。むしろ、分裂選挙にならなかった野党のほうが「全体主義的」とさえ言えるでしょう。古い政治に大差はないのです。

それどころか、自公に牛耳られ今や伏魔殿と化している議会への”対決姿勢”でも、「孤立無援パフォーマンス候補」にイニシアティブを握られる有り様で、いくら野党の基礎票があると言っても、このままでは浮動票を奪われ苦戦を強いられるのは間違いないでしょう。そもそも選挙の勝ち負けだけでなく、この候補でホントに大丈夫なのか?と思っている野党関係者も多いはずです。でも、「野党共闘」=「野党統一候補」の“体制翼賛“の空気に抗えず、そんな心の声をじっと押し殺しているのでしょう。

斎藤美奈子氏は、つぎのように「野党共闘」を批判していましたが、正鵠を射ていると思いました。

web掲示板談話
斎藤美奈子・森達也 第五十二回
都知事選について

 前回都知事選のときも、野党側が分裂選挙になって、あのときは私も「Uは下りたらいいのに」と思ったよ。でも、それはひどい発想だったんだって、今回わかった。前回も左派リベラル系の文化人が「下りろ」という記者会見まで開いたじゃない? あれは民主主義にもとるひどい行為だったんだって、改めて思った。
 個人の権利をつぶしておいて、都知事選に勝ったところで、何もいいことはない。もうこの人たちに、自民党を攻める資格はない。「民主主義をふみにじるのか」「言論を弾圧するのか」って、もう言えないもんね。自分たちが個人の被選挙権をつぶし、彼に投票する機会を奪い、この経緯に疑問を呈する声にも「黙れ」って、民主主義をふみにじってるのはどっちなの? 自民党の改憲草案だって批判できないじゃん。憲法13条の「個人として尊重される」の文言にもとることをやったんだからさ、自分たちで。
 こういう原理原則に反したツケは、必ず自分たちに跳ね返ってきて、敵に足元をすくわれ、ますます保守がはびこる土壌をつくることになると思う。

 というわけで、私はもう日本の左派リベラルには何の期待もしないし、野党連合も応援しない。日本の民主主義は今日、死んだ、と思った。たいへん残念です。

2016.07.16 Sat l 社会・時事 l top ▲
伊勢佐木町の劣化は目を覆うものがあります。外国人の比率の高さは、歌舞伎町や池袋西口や錦糸町も足元にも及ばないくらいで、一時目立っていた南米系の外国人は少なくなり、今は中国人に席巻されています。そうなると、どうしても中国人の横暴さやマナーの悪さが目に付いてならないのです。

昨日、伊勢佐木町のドンキホーテに行ったときのことです。最近流行りのシルバーワックスを買おうと思って行ったのですが、ヘアケアのコーナーには、試供品のような小分けにされてパックに入ったものが1種類あるだけでした。私は、とりあえずそのパックを持ってレジに行きました。

そして、レジの女の子に、「このワックスで容器に入ったものはありますか?」と尋ねました。すると、女の子は早口でムニャムニャ言いながら、パックを手に取るとさっさとバーコードを読み取る機械にかざしはじめたのでした。

私は、あわてて「エエッ、なに?」と訊き返しました。しかし、ただムニャムニャと言うだけです。私は、再度「エエッ、なに?」と訊き返しました。すると、女の子はやっと手を休め、 半ば不貞腐れたような感じで、「あるだけです」とたどたどしい日本語で答えたのでした。

レジの女の子は、中国人のアルバイトのようです。たしかに、伊勢佐木町のドンキも中国人客が目に付きます。それで、中国語で対応できる同国人を雇っているのかもしれません。

それにしても、その態度はないだろうと思いました。在庫があるかどうか確認しようともせず、つっけんどんに通り一遍のセリフを口にするだけなのです。もしかしたら、在庫の有無を訊かれたら、そう答えればいいと教えられているのかもしれませんが、あまりにもおざりな対応と言わねばなりません。私は、「ちゃんと日本語を喋る人間を雇えよ」などと心のなかで悪態を吐きながら店を出ました。

そのあと、イセザキモールを歩いていたら、空腹を覚えてきました。ふと前を見ると、「〇〇や」という“かつ“で有名なチェーン店の看板が目に入りました。私は、「〇〇や」には今まで入った記憶がほとんどないのですが、看板を見たら急にかつ丼を食べたくなりました。

店に入ると、カウンターの奥に二人の女性のスタッフがいました。ひとりがホールを担当し、もうひとりが調理を担当しているようでした。二人はおしゃべりの最中で、「いらっしゃいませ!」と言って水を置くと、そのままカウンターの奥に入っておしゃべりのつづきをはじめるのでした。またしても中国語です。それも、店内に響き渡るような大きな声でまくし立てるようにしゃべっているのでした。

私は、かつ丼を注文しました。やがて前に置かれたかつ丼を見た私は、一瞬我が目を疑いました。かつの衣が黒く焦げているのです。あきらかに揚げすぎです。そのため、かつも惨めなくらい縮んで小さくなっていました。ご飯も器の半分以下しかなく、見るからにみすぼらしいかつ丼なのです。チューン店の公式サイトには、「サクサク、やわらか、ボリューム満点」と謳っていましたが、まるでそのキャッチフレーズを嘲笑うかのようなシロモノでした。隣の席の男性もかつ丼を頼んでいましたが、サイトの写真とは似ても似つかないみすぼらしいかつ丼に固まっていました。

私は、苦い味のカツ丼を半分残して席を立ちました。レジで伝票を出すと、店員は伝票には目をくれず「500円」と言うのです。しかし、私が頼んだのはかつの量が多いほうだったので、700円のはずです。私が「エッ」と言うと、店員はあわてて伝票に目をやり、「700円」とぶっきらぼうに言い直したのでした。

中国人を雇うなとは言いませんが、雇うなら接客の心得くらい教えろよと言いたくなりました。本人たちにその自覚があるかどうかわかりませんが、まったくお客をなめているのです。ただ人件費が安ければそれでいいと思っているのなら、それこそブラック企業と言うべきでしょう。

外に出ると、中国人のグループが店の看板をバックに記念写真を撮っていました。「〇〇や」も中国人ご用達なのかと思いました。なんだか中国人に翻弄されているような気持になりました。

もちろん、伊勢佐木町の中国人は観光客ばかりではありません。その背後には、メガロポリスを支える3Kの巨大な労働市場があるのです。「研修生」の名のもと、安い給料でこき使われているのでしょう。そんな外国人労働者たちが、まるで吹き寄せられるように伊勢佐木町に集まっているのでしょう。

伊勢佐木町は、デビュー前のゆずが路上ライブをしていた街として有名ですが、今は通りもすっかり荒んだ空気が漂っています。外国人だけでなく、日がな一日中、路上のベンチを占領している、見るからにやさぐれてうらぶれたような老人たち。それは、北関東の街の駅前の光景とよく似ています。

横浜には、「恋する横浜」というその標語を目にするだけで恥ずかしくなるような市公認のキャンペーンがありますが、わざわざ伊勢佐木町でデートするカップルなんていないでしょう。私は最近、横浜を舞台にした小説をよく読んでいるのですが、前も書いたように、馳星周(横浜市立大卒)が伊勢佐木町を舞台にしたピカレスク小説(悪漢小説)を書いたら面白いものができるような気がします。

「いせブラ」も今は昔、高知東生のように、はだけた胸から金のネックレスをちらつかせながら、チンピラが肩で風を切って歩くのなら似合うかもしれませんが、もはやカップルや家族連れがそぞろ歩きをするような街ではなくなっているのです。

関連記事:
伊勢佐木町から横浜橋
2016.07.11 Mon l 横浜 l top ▲
参院選について、大手新聞の情勢調査では、終盤になってもやはり、改憲勢力が3分の2を取る可能性が高いという結果が出ています。何度も言いますが、民進党(旧民主党)が存在する限り、この流れが変わることはないでしょう。そもそも民進党は、東京都連の顔ぶれなどを見てもわかるとおり、必ずしも護憲政党とは言えないのです。もちろん、電力総連の組織内議員を多く抱える民進党は、脱原発ですらありません。

そんな民進党と一緒に「野党統一候補」を立て、改憲を阻止しようなんて大甘の認識だとしか思えません。東京都知事選でも、「野党統一」の接着剤にすべくお人好しの石田純一を担ぎ出した「市民連合」は、そうやっていたずらに「野党共闘」という”選挙幻想”を煽り、結果的に敗北主義的な運動を演出しているだけです。”人民戦線ごっこ”をして「アベ政治を許さない」つもりになっている彼らこそ、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」「勝てない左派」(ブレイディみかこ)の典型と言えるでしょう。

それは、三宅洋平も然りです。彼は、「上か下かではなく、上も下もない社会」と言ってましたが、私には言っている意味がわかりませんでした。和をもって尊しの日本的美学なのかと思いました。市場原理主義やグローバリズムが格差の拡大をもたらし、国民の六人に一人が貧困にあえいでいるという現実を考えるとき、「上も下もない」という発言は、文字通りポエムだとしか言いようがありません。

三宅洋平は、演説のなかでさかんにポデモスということばを使っていました。今の長髪も、パブロ・イグレシアスを意識しているのかと思いました。しかし、その背景や拠って立つ基盤には雲泥の差があります。前も書きましたが、ポデモスは、文字通り「上か下か」の格差や貧困を告発する運動に端を発し、やがて既成政党批判やウォール街のオキュパイ運動の先駆けとなる学生たちの「15M」運動(占拠闘争)へと発展したのでした。笠井潔は、世界内戦の時代は同時に大衆叛乱の時代でもあると言ってましたが、シリザにしてもポデモスにしても、(日本では彼らを「中道左派」と分類する見方が多いのですが)単なる議会主義政党ではなく、大衆的な実力行使(直接行動)から生まれた政党なのです。選挙での躍進はその延長上にあるのです。それが、彼らが“急進左派“とか“新左派“とか言われるゆえんなのです。

私は、今回の選挙も、「無関心層」と同じように、「入れるところがない」「どこに入れても同じだ」という考えしかもてません。そういう考えは改憲勢力の思うつぼだという”脅し”がありますが、それこそ思考停止と言うべきでしょう。かつて詩人の秋山清は、『朝日ジャーナル』に、「積極的投票拒否の論理」という文章を書いていましたが(私は、高校時代、学校の図書室でそれを読んでショックを受けたのですが)、秋山が言うように、「積極的投票拒否の論理」という考えがあってもいいのではないかと思います。今の政治が愚劣だと思うなら(そして、既成の政治を乗り越えるには)、投票に行かないということに積極的な意味を見出すべきではないかと思うのです。


関連記事:
”放射脳”まがい
選挙は茶番
2016.07.09 Sat l 社会・時事 l top ▲
参議院東京地方区に立候補している三宅洋平の選挙フェスに、創価学会の信者たちが登壇し、学会・公明党批判をおこなったことが話題になっています。

YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4hXdI4wXiyg

登壇したのは、「創価大学・創価女子短期大学関係者有志の会」のメンバーたちです。代表者である学会4世の創価大生は、「本来なら公明党支持者であるはずなんですけれども、ちょっと無理です。こんなこと言うと、マズいんですけど、怖いんですけど、指をくわえて権力を暴走させるわけにはいかないのですよ」と言ってました。

「安保を批判すると地獄に落ちるぞと幹部から言われました。創価大学・創価学会は学問の自由とか言論の自由とは程遠い、思想統制の世界に変わってきています」

「今も熱心に支援活動に動いておられる全国827万世帯の学会員さんに伝えたい。自分の信仰を、自分の人生を、自分の幸せを、組織の意思に任せるだけにするのは終わりにしましょう」

「僕らは、かつて貧乏人と病人の集まりだとバカにされいじめられてきた。でも、今はバカにする側にまわっているのではないでしょうか」

そんな訴えを聞いて、学会員ならずとも胸を熱くした人は多いのではないでしょうか。

こういった純真な若者の声に耳を貸すこともなく、ときの権力と手を組み、愚劣な”現世利益”を求める創価学会=公明党の幹部たちを見るにつけ、獅子身中の虫は誰なのかと言いたくなりました。

既出ですが、竹中労は、「月刊ペン事件」などで創価学会が世の中から激しくバッシングされていた際も、一貫して学会を擁護していました。それどころか、「彼らを愚民と見なし、”淫嗣邪教”のレッテルをはる輩、ことごとく外道である」とさえ言っていたのです。その理由をつぎのように書いていました。

 民衆に愛され、民衆に恩義を受け、おのれ自身も一個の窮民であった者が、民衆の側に立つのは当然ではないか! (略) それは、ヴ・ナロードなどという知識人のセンチメンタリズムや、原罪意識とは無縁の所為である。おちこぼれの窮民・悩める者を百万の単位で済度して、生きる力と希望とを人々にあたえる信仰に対して、小生は一切の偏見と予断を抱かない。いやむしろ、謙虚にこれを評価する。
(ちくま文庫『無頼の点鬼簿』・駅前やくざはもういない)


それは、創価学会が文字通り「貧乏人と病人の集まり」で、社会から「バカにされていた」からでしょう。そういった下層の悩める人たちに「生きる力と希望」をあたえる信仰の受け皿として、創価学会があったからです。でも、創価学会は変質したのです。創価大生が言うように、なにを勘違いしたか、権力と癒着して「バカにする側にまわっている」のです。

私も仕事関係の知り合いに学会員がいて、彼から泣きつかれ一時聖教新聞を購読していたことがありました(もっとも、購読料は彼が払っていましたが)。その際、創価学会と公明党の関係について話をしたのですが、いくら信仰と公明党を支持することは別だろうと言っても、彼には通じませんでした。「公明党はブレーキ役を果たしている」という話をただくり返すだけでした。私が言いたいのはそういうことではなく、信仰のあり方について、その根本にある問題を問うているつもりだったのですが、彼には理解できないようでした。

自公連立を支持することが”功徳”になると言うのなら、もはや思想・信条の自由は存在しなくなります。思想・信条の自由を否定するも同然です。極端なことを言えば、イスラム国と同じです。

故山崎正友氏の例をあげるまでもなく、かつて(?)創価学会は、敵対する勢力に対して、盗聴や尾行や誹謗中傷など「謀略」めいたことをおこなっていたという話がありますが、創価学会に反旗を翻した彼らが「怖いんです」「助けてください」(登壇した女性の声)と言っていたのは、そういった巷間言われているような体質と関係があるのだろうかと思いました。彼らの行為が、私たち外部の人間からは想像できないほど勇気のいるもので、学会員として大きなリスクを負っているのは間違いないでしょう。

政権与党という”現世利益”を”絶対視”する創価学会には、もう下層の悩める人たちに「生きる力と希望」をあたえる純粋な信仰の世界は存在してないかのようです。なんだかますますカルト化しているように思えてなりません。日本会議もそうですが、宗教的カルトが権力の中枢を蝕んでいるこの現実は、とても怖いことで、看過できない問題を含んでいると言えます。彼らの勇気ある造反が蟻の一穴になることを願わずにはおれません。


関連記事:
生長の家の声明
集団的自衛権と公明党
2016.07.06 Wed l 社会・時事 l top ▲
今日、契約しているサーバー会社から、「サーバーに届いたEメールに、ウィルスを発見しました」というメールがたてつづけに届きました。「ウィルスを送信したアドレス」のドメインには、いづれも「uk」のカントリーコードが付いていました。これは、イギリスのEU離脱の呪いなのかと思いました。

イギリスのEU離脱については、文字通りブレイディみかこ氏の独壇場です。ブレイディみかこ氏のブログは、メディアの特派員や経済の専門家の解説などより、EU離脱に傾いたイギリスの現状を伝えているように思います。それは、地べたの人々の視点からとらえたイギリスの等身大の姿と言っていいでしょう。

イギリス政府は、2年間の猶予期間の間に離脱の手続きをのらりくらりと進め、結局、決定をウヤムヤにするのではないかという見方がありますが、あり得ない話ではないように思います。離脱を煽った右派のUKIP(イギリス独立党)も、早くもトーンダウンしはじめているようです。

ブレイディみかこ氏は、今回の国民投票で示された結果には、下層の労働者階級による既成政治に対するリベンジの色合いがあると言ってましたが、それは、離脱の背後にあるイギリス社会の矛盾を指摘しているように思いました。

UKIPは、同じ移民でも、EU圏外からの移民とEU圏内からの移民をご都合主義的に分けて主張しているのだそうです。そのため、かつてEU圏外からやってきた”旧移民”やその子どもたちは、EU圏内からの”新移民”によって、仕事だけでなく、自分たちの社会保障の既得権益が奪われるとして、移民排斥のUKIPを支持しているのです。そこには、EUが主導する市場原理主義や緊縮政策やグローバリズムが下層の地べたの人々の生活を直撃し、彼らが悲鳴を上げている現実があるからです。

一方、労働党の左派指導部は、「大企業や富裕層だけが富と力を独占するようになるグローバリゼーションやネオリベや緊縮は本当に悪いと思うけど、それを推進しているEUには残りましょう」(ブレイディみかこ氏)というようなトンチンカンなことしか言えず、「説得力のある残留の呼びかけができなかった」のです。ヨーロッパには「シャンパン社会主義」ということばがあるそうですが、ポデモスのイグレシアスが言うように、「左翼は庶民に語りかけていない。ワーキングクラスの人々を異星人のように扱っている」のです。

それは、日本も同じです。左派リベラルは、今やめぐまれた人々(ミドルクラス)の利益を代弁するクラスタになっているのです。左派リベラルが掲げる政策を見ても、「めぐまれた」サラリーマンや公務員の利益を代弁するものばかりです。たしかに、保活も大変でしょう。しかし、保活以前の人たちがいることも忘れてはならないのです。同じ「切実な声」でも、今の政治がくみ上げているのは、ミドルクラスの「まだめぐまれている」人々の声なのです。それでは、与党も野党も政策が似通ってしまうのは当然でしょう。それは、ある意味で、議会制民主主義というシステムの限界のようにも見えます。

 「“フェア”な移民制限や“レイシストでない”移民制限などない。我々は移民制限に反対する。我々は、我々の出自や、我々またはその親が何処の国で生まれたかということや、肌の色、何語を喋るかということで人間の存在を非合法にする全ての法律に反対する」
 ケン・ローチの政党レフト・ユニティのポリシーにはシンプルにそう書かれている。移民を一切制限するな。とは、このご時世にアナキーどころかキチガイ沙汰だ。
 が、このポリシーの後半部分には、移民として18年生きて来たわたしには打たれるものがある。
 政治というものは、本来、この「打たれるもの」がコアにあるべきではないのか。
 それは古い言葉で言えば「思想」でもいいし、「社会は、そして人間はこうあったほうがクールだ」という個人的な美意識でもいい。
 「弱者が可哀そう」とかいうヒューマニズムばかり強調しているから左翼はダメになったという定説がある。が、わたしは全くそうは思わない。寧ろ真逆で、誰もポリシーの根本にある揺るがぬもの、妥協など入る余地のない美意識を語らなくなったから政治は人を動かすことができなくなったのだ。
 UKのみならず欧州全体が右傾化しているのは、人々がそうした妥協しない何かを右翼の中に見たような気になっているからかもしれない。
 社会の右傾化は、思想なき政治への民衆のライオットである。

アナキズム・イン・ザ・UK
第19回:ウヨクとモリッシーとサヨク


2016.06.29 Wed l 社会・時事 l top ▲
ジャック&ベティで「FAKE」を観ました。

映画『FAKE』公式サイト
http://www.fakemovie.jp/

レイトショーで観たのですが、館内は立ち見こそ出ていなかったものの、空いている席を探すのも苦労するほど大入りでした。

騒動後の佐村河内守氏のプライベートな日常を追うなかで、作者の森達也監督が描こうとしたのは、ニセモノかホンモノかという善悪二元論の先にある佐村河内夫妻の愛と絆です。と言うと、陳腐な話のように聞こえるかもしれませんが、森達也監督は本気でそういうドキュメンタリーを撮ろうとしていたように思えてなりません。

でも、現実は残酷です。(実際は週刊文春より『新潮45』のほうが先にが書いていたようですが)週刊文春は、差別と排除の力学で仮構された市民社会に、ほれっと佐村河内守という餌を投げ入れたのです。朝鮮人が井戸に毒を入れたという噂の代わりに、佐村河内守はニセモノだ、FAKEだという噂を発信したのです。それは、ロス疑惑からずっとつづいている週刊文春の手法です。でも、何度も言いますが、文春や新潮は、石原慎太郎はニセモノだ、FAKEだという記事を絶対に書くことはないのです。安倍晋三はバカだ、ニセモノだ、FAKEだという記事を書くこともない。

映画のなかで、佐村河内氏の”ウソ”を告発し、一躍時の人となった新垣隆氏について、「ホントにいい人なのか」という問いかけがなされていましたが、もちろん「いい人」なわけがないのです。新垣隆氏も、記事を書いた神山典士氏も、インタビューの申し出に応えず逃げまわっているという事実が、この騒動の本質をよく表していると言えるでしょう。

映画では、新垣氏がファッション雑誌のグラビアに出ている画面や自著のサイン会で客として訪れた森達也監督とツーショット写真におさまる場面などで失笑が流れていましたが、でも、その失笑がみずからにもはね返っているのだという自覚が、当の観客たちにはないかのようです。

ネットや社会をおおうリゴリズム(厳格主義)。それは、かつて平野謙が『「リンチ共産党事件」の思い出』で指摘していたように、本来共産党のような唯我独尊的なイデオロギーが得意とするものでした。建前としてのリゴリズムが蔓延するというのは、それだけこの社会が全体主義化している証拠なのかもしれません。私は、まるで川崎のヤンキー少年たちのように、集団リンチをエンターテインメントとして享楽する、この社会の病理を考えないわけにはいきませんでした。

映画のパンフレットでは、「衝撃のラスト12分間」というキャッチフレーズがありましたが、そういった発想自体が既に週刊文春と同じ視点に立つものと言えるでしょう。

私は、「FAKE」は「A」などに比べて、どこかもの足りなさを感じてなりませんでした。森達也監督の著書・『ドキュメンタリーは嘘をつく』になぞらえて言えば、「FAKE」では「嘘」が透けて見えるのです。同業者たちが絶賛する”猫”や”ケーキ”への視点の移動も、私にはお定まりの(わざとらしい)手法のようにしか思えませんでした。

竹中労は、35年前(!)の文春の”ロス疑惑”の記事について、当時、「プライバシーを暴き立てて、人間一匹めちゃくちゃ」にする「私刑の季節がやってきた」と批判していました(80年代ジャーナリズム叢書4・『人間を読む』)。既にそのときから「私刑(リンチ)」ということばを使っていたのです。その本質は、万人が万人を支配する」「デモクラティック・ファシズム」だと。そして、芸能レポーターこそが「テレビの本質」であり、「マスコミとは世論に名をかりた全体主義」だと言ってました。

佐村河内守氏の”疑惑”もまた、”ロス疑惑”からつづく文春お得意の「私刑キャンペーン」にほかなりませんが、「FAKE」はそんな「デモクラティック・ファシズム」の構造を照射するような視点があまり見られないのです。それがもの足りない所以です。
2016.06.27 Mon l 芸能 l top ▲
ヨーロッパ・コーリング

ヨーロッパ・コーリング帯

私は、よくこのブログで、「右か左ではなく上か下の時代だ」というブレイディみかこ氏のことばを引用していますが、その箴言が帯に麗々しく掲げられた本が出版されました。

ブレイディみかこ氏の新著『ヨーロッパ・コーリング』(岩波書店)です。と言っても、書き下ろしではなく、Yahoo!ニュース(個人)に書いた記事をまとめたものです。

表紙の写真は、イスラエルのパレスチナ自治区のベツレヘムで撮った、バンクシーの有名な「The Flower Thrower」です。装丁もとてもセンスがよくて、見た目もカッコいい本になっています。

折しもイギリスでは、EU離脱をめぐって国民投票がはじまりました。日本時間で今日にも投票結果が判明すると言われていますが、EU離脱をめぐっても、右か左ではなく上か下かの時代が色濃く表れているように思います。EU離脱は、ブレイディみかこ氏が書いているように、単に移民問題だけでなく、反緊縮・反グロバーリズムの側面があることも見過ごしてはならないでしょう。

一方、この国は参院選の真っ最中ですが、メディアの情勢調査では、与党が改選過半数を越える勢いで、改憲派が改憲の発議に必要な3分の2の議席を確保する可能性が高いと伝えられています。

与野党党首の演説を聴いても、私には与党と野党の違いがわかりません。特に、経済政策についてはどこも同じなのです。安倍総理は、成長の果実を社会保障の充実や介護や子育てに分配するためにも、アベノミクスのさらなる進化が必要だと演説していましたが、野党の党首たちも物言いは異なっても、成長と分配という基本的な考えはほとんど同じです。

左派の劣化は、たとえば公務員の給与問題などにも端的に表れているように思います。公務員の給与は下がっている、公務員は大変だと言われますが、それは今や公務員の半分を非正規雇用が占めている現実がそういったイメージを作り出しているにすぎないのです。

私の田舎は、交付金の5割近くが人件費に消えていくと言われるほど県内でも上位の”高給自治体”ですが、高齢者が多く住民の所得が低い田舎では、市役所の職員はまさに”特権階級”です。横浜も、かつてスパイラル指数で日本一になったほどの”高給自治体”です。ただ、横浜の場合、大都会なので、田舎のように“特権階級“ぶりが目に付きにくい面があり、それが彼らに幸いしているだけです。もっとも、自治労や左派に言わせれば、それは偉大なる階級闘争の成果であって、高給を批判(嫉妬)する者は労働者の敵、保守反動ということになるのでしょう。

自民党と同じ”成長神話”にとり憑かれた左派。公務員問題をおおさか維新のようなファシストの専売特許にさせてしまった左派のテイタラク。民進党は左派ではありませんが(リベラルですらありませんが)、公務員と原発の二つのタブーを抱えたあんな政党が支持を受けるわけがないのです。何度も言いますが、民進党(旧民主党)は、もはや自民党を勝たせるためだけに存在していると言っても過言ではないのです。今度の選挙でも、民進党が野党第一党であることの不幸を痛感させられることになるのは間違いないでしょう。

一方、プロレタリア革命を掲げ”革命左派”を自認する新左翼のセクトも、自治体労働者に対する”賃下げ攻撃”を階級的反撃で打ち砕けと訴えていますが、それは、公務員のシンパからのカンパに頼っている財政的な事情もあるのではないかと穿った見方をしたくなります。レーニンは『国家と革命』のなかで、公務員の給与は全労働者の賃金の平均を越えてはならないと戒めていますが、それは社会主義国家がその性格上官僚主義=「役人天国」に陥る傾向があるのをレーニン自身がよくわかっていたからでしょう。

自治労の組合員たちをプロレタリアと言ったら、もはやギャグでしかないでしょう。右か左かなんてほとんど意味をもたないのです。

先進国で最悪の格差社会を招来したこの国にこそ上か下かの新しい風が待ち望まれますが、そのためにはまず、徹底的に敗北し、徹底的に絶望することでしょう。そうやって「勝てない左派」と決別することでしょう。

 難民問題で右傾化していると言われる欧州では、実のところ左派が猛烈な勢いで台頭している。それは「与党も野党も大差なし」と醒めていた人々に、いまとは違う道は存在することを示す政治家たちが登場したからだ。彼らは、勝てる左派だ。勝てない理由を真摯に受け止め、あらためて、敗けるというお馴染みの場所でまどろむことを拒否した左派だ。この欧州に吹く風が、地球の反対側にも届くことを祈りながら本書をぶち投げたい。
(帯より)



関連記事:
日本で待ち望まれる急進左派の運動
地べたの既視感
ギリシャ問題と「勝てる左派」
2016.06.24 Fri l 本・文芸 l top ▲
舛添要一東京都知事は、辞任したというより引きずりおろされたと言ったほうが正確でしょう。しかも、辞任後も、まるで水に落ちた犬を叩くみたいに、メディアは自宅まで押しかけてバッシングをつづけているのです。

この常軌を逸した”舛添叩き”について、小林よしのり氏は、ブログでつぎのように書いていました。

舛添が一言も語らず去っていく気持ちはよくわかる。
何を言っても揚げ足取られるだけで、火に油を注ぐ結果にしかならないからだ。
それでも「黙って去っていくとは何事か」とコメンテーターは言っている。「男の器が小さい」などと罵っている。

残酷非道の民主主義は一体何を望んでいるのか?
おそらく舛添が素っ裸で泣きながら街の中を這いずり回る姿が見たいのだろう。
それでも嘲笑って文句を言うのが愚民どもの残酷性だ。

集団リンチをまだ続けたかった愚民主主義


”舛添叩き”について、ネットでまともな批判をおこなっていたのは、私が知る限り、小林よしのり氏と『保守の本分』の著者で近著『日本会議の研究』(扶桑社新書)が話題になっている菅野完氏だけでした。

小林よしのりBLOG
舛添都知事をギロチンにかけよと熱狂する民衆
集団リンチをまだ続けたかった愚民主主義

HARBOR BUSINESS Online
「舛添叩き」が衆愚の極みである理由

小林氏は、「フランス革命当時の民衆の娯楽はギロチンによる処刑だった。日本人の中にも、上に立つ者をスキあらば引きずり下ろして、リンチにかけたい、処刑台に上げて、首が斬られる姿を見たいという心理が大いにあるのだ」と書いていましたが、”舛添叩き”が国民の負の感情のはけ口になっているのはたしかでしょう。

アベノミクスがどうだとか、株価がどうだとか、求人倍率がどうだとか言われていますが、国民の生活実感は「景気が悪い」ままで、格差は広がるばかりなのです。そんな時代閉塞の現状(石川啄木)には、常に舛添のようなスケープゴート(負の感情のはけ口)が求められるのです。

明日は参院選の公示日ですが、今朝も地下鉄の駅前の舗道では、共産党の宣伝部隊が駅に向かうサラリーマンたちに「戦争法廃止の政府を」などというビラを配っていました。それを見て、「なんだ、文春の記事に踊ったくせに」と心のなかで悪態を吐いている自分がいました。

文春の記事に踊った無定見な政党や、刑法改正に賛成した政党や議員などは間違っても支持したくないと思いました。全体主義には、与党も野党も、右も左も、改憲も護憲もないのです。


関連記事:
”舛添叩き”の奇異な光景
『保守の本分』
2016.06.21 Tue l 社会・時事 l top ▲
今夜の「ミュージックステーション」で、桑田佳祐がテレビ初披露と称して、新曲の「大河の一滴」を歌っていました。

「大河の一滴」というタイトルは、言うまでもなく五木寛之の本からのパクリですが、桑田の場合、タイトルのパクリはよくあることです。

「大河の一滴」は、UCCの缶コーヒーのCM曲で、映像で公開されていたのは、CMに使われている二番のサビの部分だけでした。そのため、歌詞を検索しても、二番のサビの部分しか見当たりませんでした。

ところが、「大河の一滴」はInterFMとタイアップしているらしく、InterFMで一日に何度も流れていたのです。私は、普段、家で仕事をしているときや電車に乗っているときは、RadikoでInterFMを聴いていますので(おかげでシャウラのファンになりましたが)、毎日「大河の一滴」のフルバージョンを聴くことができました。しかも、電車に乗って渋谷駅にさしかかると、不思議なことに「大河の一滴」が流れてくることが多いのでした。

砂に煙る 渋谷の駅の
アイツ(女)と出逢ったバスのロータリー
俺の車線に割り込むバスの
窓際から小バカにした微笑み投げた


これは、冒頭の歌い出しの部分です。「大河の一滴」は、若い頃の渋谷の街と愛欲の日々を追憶する歌です。最初にこの歌を聴いたとき、『33年後のなんとなく、クリスタル』かと思ったくらいです。渋谷駅でこの歌が流れてくると、かつて渋谷に日参していた人間として、(表現がいかにもおっさん風ですが)えも言われぬ感慨を覚えるのでした。

身を削りながら生きることも
忘れ去られながら老いていくのも
やさしい素振りや 愛らしい癖も
世間にとっちゃ 何の意味もない


桑田佳祐が還暦を迎えたからこそ、疾走感のある曲にこんな詩を乗せることができるのでしょう。

今月の29日に発売されるニューシングル「ヨシ子さん」(初回限定盤)に、「大河の一滴」がカップリングされるみたいなので、私もさっそく予約を入れました。

偶然と言えば、栗原康氏の伊藤野枝の評伝『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)を読んでいたら、「あとがき」につぎのような記述がありました。

 この本をかいているあいだに、かの女ができた。三年ぶりだ。まだつきあいたてということもあって、ひたすら愛欲にふけっている。
(略)
 しかしおもえば、この数年、わたしはモテたい、恋愛がしたい、セックスがしたいと公言していて、いいなとおもう女性がいたら、がんばってお酒にさそってみたり、デートをかさねてみたりしたのだが、結果はさんざんたるものであった。「オマエ、マジで死ねだ」とさけばれたり、新宿のらんぶるという喫茶店で、土下座させられたりと、完膚なきまでにうちのめされた。


実は、「らんぶる」も、かつて私の新宿の”止まり木”でした。新宿に行くと、いつも「らんぶる」で本を読んだり昼寝をしたりしていました。

私も、女の子と「らんぶる」に行ったことはありますが、土下座なんてとんでもない、「なんか古めかしくて変な店ね」と言われながら、愛を告白した思い出があります。

渋谷の街は、東急文化会館も東急ブラザも既になく、駅ビルの建て替えもはじまり、これから高層ビルが林立する「未来都市」(ホントかよ)に変貌しようとしています。渋谷で働いていた旧知の女の子たちも、「どんどん変わっていくので付いていけない」「もうあたしたちが知っている渋谷ではなくなっている」と言ってましたが、「大河の一滴」が歌うように「時の流れは冷酷」なのです。そうやって街も人も世代交代していくのです。それが東京で生きるということなのです。

もう道玄坂の路地裏で、偽造テレフォンカードを売ってるイラン人や両腕からタトゥーを覗かしているヤンキーのニイチャンやケバい化粧のショップ店員の女の子とすれ違うこともないのです。彼らと目で挨拶を交わすこともないのです。もちろん、「らんぶる」で女の子を口説くことも、「ラケル」で向かい合って食べるオムライスにトキメキを覚えることもない。どうやって老いていけばいいのかわからないけど、でも、容赦なく老いはやってくるのです。黄昏に生きるなんて嫌だな、想像したくもないと思っているうちに、すぐ近くまで黄昏がやってきているのです。

そう考えると、この「大河の一滴」というタイトルも、単なるパクリではなく、なにか深い意味があるような気がしてくるのでした。


関連記事:
東急東横線渋谷駅・最後の日
『セゾン文化は何を夢みた』
渋谷のクリスマス
渋谷と西武
東電OL殺人事件
2016.06.18 Sat l 芸能 l top ▲
”舛添叩き”は、いよいよこの国あげての”いじめ”のような様相を呈しています。少しでも異議を唱えようものなら、逆に袋叩きに遭いそうな感じです。でも、このような”絶対的な正しさ”は、常に眉に唾して見る必要があるでしょう。況や政治においてをやです。

舛添知事は、先日、みずからの給与を半分に減額する条例案を提出すると言ってましたが、昨日の総務委員会の集中審議では、とうとう全額返上すると言い出す始末です。なんだか憐れみさえ覚えました。

以前、都営バスが労組の集会や旅行に私的利用されていた問題がありましたが、舛添知事は、そんな長年の自公体制で伏魔殿と化している都庁の税金を食い物にする構造に悪ノリしただけなのでしょう。石原は叩かれず、どうして自分だけが叩かれるのかと思っているのかもしれません。都庁の役人たちの天下りや渡りや裏金の問題がいっさい問われず、舛添のセコい(あまりにもセコい!)政治資金の用途や公用車の使い方だけがやり玉にあがるこの奇異な光景。“小悪“は徹底的に叩かれ、文壇タブーで守られた“大悪“は、金のない人間はセコいですななどと言って高笑いしているのです。

しかし、冷静になって考えてみれば、”舛添叩き”の陰で、電通が主導した東京五輪の裏金招致疑惑や「パナバ文書」であきらかにされた大企業のタックスヘイブン(租税回避)の問題が、片隅に追いやられてしまったのです。なんだかメディアは、これらの問題を回避するために、ことさら舛添を叩いているような感じさえするのでした。そこにこの集団ヒステリーの本質が表れているのではないか。


舛添を応援したのは私だ


上の三バカ大将のグリコの一等賞のような写真は、ネットで拾ったパロディ画像です。このように、舛添は自公の推薦で都知事になったのです。安倍総理と山口代表は、「都知事は舛添さんしかいません!」と絶叫したのです。しかし、”舛添叩き”ではなぜか、舛添を担いだ自公への批判は回避されているのでした。舛添は都知事の資質に欠けるとかなんとか批判するけれど、それを担いだ自公に批判が向かうことはないのです。これも奇異な光景と言えるでしょう。

昨日の集中審議で、公明党の女性都議は、舛添知事は東日本大震災の現地に一度も行ってない、こんな知事に復興五輪を語る資格はない、辞任すべきだ、などと難癖としか言いようのない論法で(しかも、芝居がかった言い方で)辞任をせまっていましたが、厚顔無恥とはこのことでしょう。舛添を推薦したのはどこの政党なんだと言いたくなりました。公明党に比べれば、舛添追及に及び腰の自民党のほうがまだしも”正直”に思えるくらいです。なんのためらいもなく(命令一下)、平気で手のひら返しをするこの党の全体主義的な体質とその怖さを再認識させられた気がしました。

舛添に211万票を入れた東京都の有権者も然りです。今になって「ダマされた」「不誠実だ」などと言ってますが、彼らは戦争でも原発事故でも汚職でもなんでも、そうやっていつも「ダマされた」と被害者ズラするのです。それが彼らが”衆愚”であるゆえんでしょう。

自民党から共産党まで、産経から朝日まで、ファシストからコミュニストまで、ネトウヨからSEALDsまで、隣のポチから向かいのミーちゃんまで、改憲だろうが護憲だろうが関係なく、みんな口をそろえて舛添に悪罵を浴びせるこの光景は、”小保方バッシング”とよく似ています。小保方さんも舛添も、別に法律に違反しているわけではないのです。勝手に疑惑だと騒いでいるだけなのです。これでは、どんな問題でも低劣なスキャンダルと化し、社会的に抹殺することが可能でしょう。

多くの国民は、舛添はいつ警察に逮捕されるのだろうと思っているのかもしれません。そういう人たちはビョーキなのです。ビョーキにさせられたのです。日本の社会は同調圧力の強い社会だなどと、日頃は高尚なご託宣を垂れるメディアも、いざとなれば「撃ちてし止まん」「一億総火の玉」の隊列に加わるのです。そして、最後に残るのは、全体主義のことばだけです。

こうなったら次の都知事は選挙なんかせずに、文春に選んでもらえばいいのです。選挙しても意味がないのですから。


関連記事:
”舛添叩き”への違和感
小保方バッシングとはなんだったのか
2016.06.14 Tue l ネット・メディア l top ▲
母方の祖母は、生長の家の熱心な信者でした。私は、高校のとき、母の実家に下宿していたのですが、祖母はよくおめかしして、生長の家の集まりに出かけていました。

祖母の良人、つまり、母方の祖父は戦前の職業軍人でした。祖父は、私が小学校1~2年頃亡くなったのですが、典型的な明治の人で、怖いイメージしかありませんでした。

母によれば、官舎に住んでいた幼い頃、毎朝、お付きの兵隊が迎えに来て、軍服姿の祖父は馬に乗って出勤していたそうです。母の実家の鴨居には、菊の紋章が入った昭和天皇の写真と乃木希典の写真と東郷平八郎の「呉越同舟」という扁額がかけられていました。

そういった良人の面影を胸に、祖母は、当時、紀元節の復活や明治憲法の復元を唱え、『神国の構想』(創始者谷口雅春の著書)を掲げていた生長の家の活動に熱心に取り組んでいたのだと思います。祖母のなかには、戦前への郷愁があったのかもしれません。

生長の家の学生信者たちが、全共闘運動に対抗して作られた民族派学生運動の中核を担っていたのはよく知られた話です。また、現在、安倍政権と一体になって改憲や戦前的価値の復興をすすめている日本会議も、そういった学生運動出身の元信者たちが中心になって設立されたと言われています。

noiehoieこと菅野完氏の『日本会議の研究』(扶桑社新書)のなかに、つぎのような記述がありました。

 安倍政権を支える「日本会議」の事務総長・椛島有三も、安倍の筆頭ブレーンと目される伊藤哲夫も、内閣総理大臣補佐官である衛藤晟一(引用者註:大分県選出)も、、政府が南京事件の記憶遺産登録阻止すべく頼った高橋史朗も、全員が「生長の家」から出た人々だ。だが、椛島有三や伊藤哲夫を輩出した宗教法人「生長の家」本体は、1983年に政治運動から撤退している。
 しかし、その路線変更を良しとしない古参信者たちが今、教団に反旗を翻し「生長の家原理主義」運動を展開中であり、その運動に、稲田朋美や百地章など、安倍政権と深いつながりを持つ政治家。学者が参画している。(略)
 さらに注目すべきは、(略)桜井誠が創設した在特会やチャンネル桜そして、ヘイトデモの嚆矢とも言える西村修平など、いわゆる「行動する保守」界隈の人物たちと、密接な関係を築いている事実だろう。稲田朋美が在特会と密接な関係にあることは、『サンデー毎日』を始めとする各報道で明らかにされた通りだ。


同書によれば、稲田朋美自民党政調会長は、靖国関連の集会で、生長の家の経典『生命の實相』の戦前に出版されたバージョンを掲げ、「(この戦前版の『生命の實相』を)祖母から受け継いだ」「ボロボロになるまで読んだ」と語っているそうです。稲田朋美の実家も、私の母の実家と同じような環境にあったのでしょう。

その生長の家が、「今夏の参議院選挙に対する生長の家の方針」として「与党とその候補者を支持しない」という声明を発表して話題になっています。

宗教法人 生長の家
今夏の参議院選挙に対する生長の家の方針 「与党とその候補者を支持しない」

リテラ
日本会議産みの親「生長の家」が安倍政権と日本会議の右翼路線を徹底批判!「日本会議の元信者たちは原理主義」

朝日新聞デジタル
「生長の家」、参院選で与党を支持せず 安倍政権を批判

かつての国家主義的な政治運動からの撤退を知っている信者たちには、別に驚くものではないのかもしれませんが、事情に疎い外部の人間のなかには、意外に思った人も多いのではないでしょうか。それは、昔、祖母をとおして私が抱いていた生長の家のイメージとは真逆の声明なのです。

声明では、「私たちは今回、わが国の総理大臣が、本教団の元信者の誤った政治理念と時代認識に強く影響されていることを知り、彼らを説得できなかった責任を感じるとともに、日本を再び間違った道へ進ませないために、安倍政権の政治姿勢に対して明確に『反対』の意思を表明します」と、日本会議の設立に元信者が中心的な役割を果たしたことの責任と反省を表明し、戦前回帰を目論む安倍政権に否を突き付けているのでした。

その理由は、安倍政権は民主政治の根幹をなす立憲主義を軽視し、福島第一原発事故の惨禍を省みずに原発再稼働を強行し、海外に向かっては緊張を高め、原発の技術輸出に注力するなど、私たちの信仰や信念と相容れない政策や政治運営を行ってきたからです。


(略)安倍政権は、旧態依然たる経済発展至上主義を掲げるだけでなく、一内閣による憲法解釈の変更で「集団的自衛権」を行使できるとする”解釈改憲〟を強行し、国会での優勢を利用して11本の安全保障関連法案を一気に可決しました。これは、同政権の古い歴史認識に鑑みて、中国や韓国などの周辺諸国との軋轢を増し、平和共存の道から遠ざかる可能性を生んでいます。また、同政権は、民主政治が機能不全に陥った時代の日本社会を美化するような主張を行い、真実の報道によって政治をチェックすべき報道機関に対しては、政権に有利な方向に圧力を加える一方で、教科書の選定に深く介入するなど、国民の世論形成や青少年の思想形成にじわじわと影響力を及ぼしつつあります。


日本会議の主張する政治路線は、生長の家の現在の信念と方法とはまったく異質のものであり、はっきり言えば時代錯誤的です。彼らの主張は、「宗教運動は時代の制約下にある」という事実を頑強に認めず、古い政治論を金科玉条とした狭隘なイデオロギーに陥っています。宗教的な観点から言えば“原理主義”と呼ぶべきものです。私たちは、この“原理主義”が世界の宗教の中でテロや戦争を引き起こしてきたという事実を重く捉え、彼らの主張が現政権に強い影響を与えているとの同書の訴えを知り、遺憾の想いと強い危惧を感じるものです。


私は、この声明を読んで、やはり創価学会を思い出さないわけにはいきませんでした。「核兵器の廃絶を訴え、地球民族主義を提唱した戸田第二代会長の平和理念を原点とし」(創価学会公式サイトより)、どこよりも平和・人権・環境の問題に取り組んできたと自負する創価学会ですが、だったら創価学会こそ生長の家のような声明を出すべきではないのか。

「神国」「神の子」などということばを使って戦前的価値の復興を唱える宗教的カルト(生長の家原理主義)に影響されている安倍政権、そんな安倍政権と二人三脚の連立を組む創価学会=公明党。これでは同じ穴のムジナと言われても仕方ないでしょう。まして創価学会は、戦前、天皇制ファシズムに弾圧され、初代会長の牧口常三郎は獄死さえしているのです。
2016.06.11 Sat l 社会・時事 l top ▲
散歩の途中、いつものように山下公園のベンチにすわって本を読んでいるときでした。なんだか臭いのです。ケモノ臭がするのです。それで目を上げて周囲に見ると、いつの間にか隣のベンチに犬を連れた女性がすわっていました。スマホを操作している女性の足元には、黒の柴犬が前足を揃えて行儀よくすわっていました。

山下公園は犬を散歩する人が多いので、植え込みの周辺はいつもケモノ臭が漂っていますが、ベンチがあるあたりは海に面しているのでそうでもありません。私は、思わず顎に下げていたマスクをひっぱり上げて鼻を覆いました。

実家ではジョンという雑種とウタという柴犬を二代つづけて飼っていました。小学校の低学年から30すぎまで、ずっと犬とともに暮らしていたのです(と言っても、実家にいたのは中学まででしたので、そのあとはときどき帰るだけでしたが)。

犬のかわいいところもよくわかります。今でも散歩している犬を見ると、かわいいなと思います。もちろん、犬が放つケモノ臭も昔は身近にあったのです。それは当然のこととして日常のなかにありました。だから、このケモノ臭に対する拒否反応に自分でも驚きました。

そう言えば、2月に帰省した折、サルで有名な高崎山に行ったのですが、そのときも餌場全体に漂うケモノ臭と糞の臭いに閉口したものです。高崎山に行ったのは小学校のとき以来だったのですが、もう二度と行きたくないと思ったくらいです。

私も経験がありますが、人間というのは現金なもので、煙草をやめた途端、他人の煙草の臭いが気になり、へたすれば顔をしかめるようになるのです。あれと同じなのでしょう。

若い頃と比べて、自分が変わったことと言えば、時間を厳守するようになったことと予備がないと不安症候群になったこととこの臭いに敏感になったことです。若い頃は自他ともに認める遅刻魔だった人間が、今では時間厳守の権化のようになっているのです。年を取ると不思議なことが起きるものです。

隣の柴犬は、柴犬にしてはめずらしく人懐っこい性格のようで、ときどき尻尾を振りながら媚びるような目で私のほうを見ていました。しかし、今や立派な偏屈オヤジになった私は、そんな視線を無視して、心のなかで「臭い、臭い」と呟きながらベンチを立ったのでした。
2016.06.08 Wed l 日常・その他 l top ▲
北海道の男児行方不明事件に関連して、尾木ママのブログが炎上しているそうです。尾木ママは、しつけのために置き去りにしたことについて、ブログで「虐待」だと批判し、さらに「置き去りそのものが真実なのか疑いたくなる」とか「警察に逮捕されることでしょう」などと両親の犯罪さえ匂わせていたのでした。そのため、今、批判にさらされているのです。

こういうお粗末な人物が、教育の専門家としてメディアでもてはやされ、法政大学で教鞭を執っているのですから開いた口がふさがらないとはこのことでしょう。テレビでわけ知り顔にコメントしているのは、この手の”下等物件”ばかりなのでしょう。そして、彼らはテレビで顔を売って、週末に講演で荒稼ぎするのです。

もっとも、尾木ママのような”陰謀史観”は、ネットではめずらしいことではありません。たとえば、この事件に対するJ-CASTニュース(Jカス)の記事は、犯罪まがいのひどいものでした。情弱な尾木ママも、Jカスの記事を見て、「ネットで真実を見つけた」つもりになったのかもしれません。

Jカスは、男児が発見される前の6月2日には、つぎのような意味深な記事を発信していました。

Yahoo!ニュース
北海道の男児「置き去り」深まるナゾ 服装、理由などの説明「変化」が気になる人も

 北海道七飯(ななえ)町の林道で小学2年の男児(7)を置き去りにした、と両親が明かしてから6日目に入った。自衛隊も出動したが、2016年6月2日夕現在も見つかっておらず、ナゾが深まっている。

 「置き去り」を巡っては、父親の説明が次々に変わり、初動捜査などに影響したと報じられた。
(略)
 当初は、5月28日夕に山菜採りの途中ではぐれたとの話だったが、車の中に山菜がないなど不自然な状況があった。父親は翌朝になって、男児が車や人に石を投げつけたため、「しつけ」として林道に置き去りにしたと話を変えた。その場所に5分ほどして戻ったが、男児の姿はすでになかったともいう。

 その後、男児の服装についても当初説明のジーパンではなく、紺色系のジャージズボンを履いていたなどとした。例えば、29日早朝のテレ朝系「ANNニュース」では、警察によると、男児は「Tシャツにジーパン姿で、サンダルを履いている」と報じていた。サンダルは後に「赤い運動靴」に変わっている。

 さらに、函館新聞の6月1日付記事によると、置き去りにした後、車に追いついた男児を再び乗せ、今度は遠めの場所に置き去りにしたと父親は話しているという。

 東京スポーツもこの日発売号で、警察関係者の話として、置き去りにしたという現場で警察犬が出動したが、臭いにまったく反応せずに現場から動かなかったと報じた。

 こうした不可解な状況に、ネット上では、様々な憶測が書き込まれている。

  「なにかをまだ隠してる」「ホントに置き去りにしたのか?」「そもそもそこに来ていない可能性...」

 2ちゃんねるでは、スレッドが2日夕現在で80以上にも達しており、中には、根拠のない憶測も出ているほどだ。


2ちゃんねると東スポの記事を根拠に、七飯町役場に電話取材して記事をでっち上げる。Jカスのいつものやり方です。こうして”陰謀史観”がネットに拡散されるのです。

これは、「在日特権」でも「中国が攻めてくる」でも、あるいは「小保方バッシング」でも「干される芸能人」でも、みんな同じです。ときに東スポが週刊文春に変わるだけです。

Jカスは、そうやってアクセスを稼ぎ、ニュースをマネタイズしているのです。また、Yahoo!ニュースのアクセスランギングで、このJカスの記事が1位になっていたように、Yahoo!ニュースなどに転載されることで、さらに何倍にもなってアクセスが返ってくるのです。

ウキペディアによれば、J-CASTニュースは、『AERA』や『週刊朝日』などに在籍していた朝日新聞のOBたちが作った会社だそうです。そう言えば、朝日新聞デジタルの「イチ押し週刊誌」というコラムをJカスのシニアエディターなる人物が担当していますが(Jカスの編集者が週刊誌の記事を”批評”するなんて悪い冗談みたいな企画ですが)、それも朝日新聞との人的なつながりで仕事が発注されているのかもしれません。

さらにJカスは、男児が発見されたあとも、つぎのような記事をアップしていました。

Yahoo!ニュース
「無事発見の美談でおしまい」に違和感の声 北海道置き去り、「状況が不自然」と首ひねる人も

 一方で、「(話が出来過ぎていて)不自然」などと、「無事救出の美談」に違和感を持つ人もいるようだ。「水だけ」で丸5日以上も暮らしながら、男の子が自分で歩けるほど元気だったことや、発見された自衛隊施設の管理をめぐる証言の「食い違い」など、依然、謎も残されている。


これでは確信犯と言われても仕方ないでしょう。JカスやYahoo!ニュースがこうやって「ネットの真実」を捏造し、ネトウヨのような「ほとんどビョーキ」の人間たちを生み出しているのです。尾木ママもママと(まんまと)それに引っ掛かったのでしょう。


関連記事:
”不謹慎狩り”と私刑の構造
『ウェブニュース 一億総バカ時代』
2016.06.06 Mon l ネット・メディア l top ▲
田中康夫氏が、7月の参院選の東京地方区におおさか維新から出馬することが決定したようです。

これには仰天しました。田中氏は、かつて橋下徹氏を「ナニワのウラジミール・プーチン」、その「舎弟」松井一郎氏を「ドミトリー・メドベージェフ」とヤユし、つぎのように当時の橋本府政を批判していたのです。

「財政効果は年155億円に上ると訴え(讀賣新聞)」、「都構想実現後の成長戦略として橋下氏が挙げたのは高速道路や鉄道の整備、大型カジノの誘致(朝日新聞)」。

「新たな庁舎建設やシステム改修費で600億円程度かかる(日本経済新聞)」新手(あらて)のハコモノ行政と知ったナニワっ子は、若しや本末転倒な“不仕合わせ”構想ではと訝(いぶか)り、僅差(きんさ)ながらも否決。それが僕の見立てです。

豈図(あにはか)らんや、2008年2月に橋下徹氏が知事に就任して以降の7年間で大阪府は、財政力指数も経常収支比率も悪化し続け、実質公債費比率が18%を超えた2011年度以降、地方債発行に総務大臣の許可を必要とする“禁治産者”状態に転落しています。

田中康夫 Official Web Site
田中康夫の新ニッポン論 ㉕「イデオロギー」


それがどうしておおさか維新なのか。田中氏は、「統治機構改革と既得権益打破を目指す方向は同じ」と語ったそうですが、なんだかあと付けのとってつけた理由のように思えてなりません。

田中氏が狙っているのは、東京都知事の椅子だという話もあります。橋下氏も都知事の椅子を狙っている(テレビ出演はそのための事前運動)という話もありますので、二人の間で舛添バッシングの先を見据えたなんらかの”手打ち”がおこなわれたのかもしれません。

私は、現実の政治に関わる知識人や文化人に対してはいつも懐疑的なのですが、田中氏の批評眼は信頼していました。ホンモノだと思っていました。変節や裏切りやウソとは無縁な人だと思っていたのです。それだけにどうして?という気持が強いのです。

田中氏の真意をはかりかねた人たちからいろんな見方が出ていますが、今回ばかりは変節と言われても仕方ないように思います。お得意のもってまわったような言い方も、単なる屁理屈とごまかしのようにしか聞こえません。これからはあのレトリックを駆使して、おおさか維新こそしがらみのないホントの改革勢力で、どこよりも平和を希求する政党だ、とどこかの宗教政党のような詭弁を弄することでしょう。

従来の支持者や読者から失望されるのは承知の上で、みずからのレトリックと野望は、石原・猪瀬・舛添・田母神60万票の東京の有権者のほうが生かせると思ったのかもしれません。ポピュリストにとって、東京の有権者は「おいしい衆愚」なのでしょう。

上記のブログで、田中氏は、橋下氏をつぎのように皮肉っていましたが、「鈍感」で「情弱」とはまさに今の夫子自身でしょう。これが「33年後のなんとなく、クリスタル」の姿なのか。私には、田中氏がトンチンカンに見えて仕方ないのです。

偏差値的な「形式知」=弁護士に象徴される資格試験の“士族”として世の中に登場したが故に、良くも悪くも「教養」とは無縁の“地頭”を用いて生きる「暗黙知」の国民よりも鈍感力が増してしまった、「情弱=情報弱者」振りです。



関連記事:
悲観論者の床屋政談
『33年後のなんとなく、クリスタル』
2016.06.03 Fri l 社会・時事 l top ▲
週刊金曜日5月27日号


『週刊金曜日』の5/27号に、今国会で刑事訴訟法及び「盗聴法」の改正案に民進党と生活の党が賛成したことについて、つぎのような記事が出ていました。

 これまで主要野党はこぞって反対し、委員会最終日にも(略)法案の不備や危険性を訴えたにもかかわらず、民進党と生活の党は賛成し、あっさりと可決された。
 当日の質疑を含め、採決にいたるまでの言動は、結果として茶番劇だったと言われてもしかたないだろう。それは、同じ委員会で審議されてきたヘイト・スピーチ規制法案を通す見返りに、本法案に賛成するという取引があったからではないか。法案の危険性に警鐘を鳴らし続けてきた関東学院大学の足立昌勝名誉教授(刑法)はいう。
「基本的人権に強く関連する法案がこんな少ない時間(参院で二十数時間)で採決されたことに強く抗議したい。それに合意した民進党の有田(芳生)理事が、ヘイト・スピーチ規制法案さえ通過すれば良しとしていたとすれば、基本的に誤りである。私たちは、そんな国会議員はもういらない。今度の改選でぜひ落選してもらいたい」

(『週刊金曜日5/27』・「民進・生活が与党案に賛成」林克明・シャーナリスト)


この記事に対して、民進党の有田芳生議員とその周辺が猛反発、『週刊金曜日』に裏切られた、購読を停止するなどとTwitterで息巻いていました。有田議員らは、足立教授よりむしろ記事を載せた『週刊金曜日』に反発しているようでした。それに対して、『週刊金曜日』は、編集者が議員会館を訪れ、有田議員に反論を掲載することを申し出たそうです。

しかし、有田議員が今回の改正に賛成したのも、会期末間際になって、民進党や生活の党がそれまでの態度を一変して賛成にまわったのも、まぎれもない事実なのです。その唐突な展開に、ヘイト・スピーチ規制法の成立とバーターだったのではないかと穿った(?)見方をされたのはわからないでもないのです。

問われるべきは、国民の基本的な人権を侵害する警察権限の拡大に賛成したという事実でしょう。それは、バーター云々よりももっと重大な問題を含んでいると言えます。刑法の専門家である足立教授が怒り心頭なのもその点なのでしょう。

民進党は信用できない。何度も言いますが、今や自民党を勝たせるためだけに存在していると言っていい民進党ですが、今回の豹変劇を見て、私は、あらためてそう思いました。

今夜、安倍首相が来年4月に予定されていた消費税の引き上げを2年半延期することを表明しましたが、これによって「社会保障の充実」、なかでも高齢者の無年金や低年金への対策も、先送りされることが決定的になりました。無年金や低年金は高齢者の貧困問題に直結しており、それこそ待ったなしなのです。安倍首相が、選挙のために再延期を決めたのは、政治家として無責任の極みと言うしかありません。また、今は上がらなければそれで良しとする国民も無責任そのものです。

もっとも、この社会保障と税の一体改革を最初に打ち出したのは、民主党の野田政権なのです。それで、公約に反した消費税の引き上げに突き進み自滅したのでした。民主党政権が、「社会保障の充実」を増税の方便にして、「社会保障の充実」を今のように宙ぶらりんな状態にしたのです。安倍がこれほど無責任になれるのも、三党合意したとは言え、そもそも自分たちが発案したものではないからでしょう。

民進党は、消費税引き上げの再延長はアベノミクスの失敗で、それをみずから認めたようなものだと批判しています。でも、一方で、民進党も引き上げの延長を主張しているのです。民進党の批判は、誰が見ても天に唾するものでしょう。

有権者にとって、民進党というのは、もはや「あんな政党に投票したらバカを見る」という”反面教師”でしかないのです。それほどまでに民主党政権の失敗は致命的で、トラウマになっているのです。民進党が存在する限り、今のような与党への消極的な支持となし崩しの一強体制はこれからもつづくでしょう。こんな信用できない政党はもういらないのです。

追記:
上の記事を書いた林克明氏らによれば、『週刊金曜日』の編集部は、有田議員に対して次号でお詫びを出すことになったそうです。これもおかしな話です。誌上で議論をおこなうのではなく、文句を言われたからお詫びを出すというのは、言論機関として問題ありと言えるでしょう。雑誌の発行人として執筆者を守る姿勢さえないのです。これでは国会議員の圧力に屈したと言われても仕方ないでしょう。


関連記事:
山本太郎は間違ってない
2016.06.01 Wed l 社会・時事 l top ▲
先日、「STAP細胞論文を巡り、神戸市にある理化学研究所の研究室からES細胞(胚性幹細胞)が盗まれたとして理研OBが告発していた問題」で、神戸地検が不起訴を決定したというニュースがありました。

毎日新聞
理研ES細胞窃盗 神戸地検が不起訴「事件自体疑わしい」

言うまでもなく、これは、実際は小保方晴子さんを告発したものです。しかし、神戸地検は、「窃盗事件の発生自体が疑わしい」として不起訴処分にしたのです。

小保方さんの『あの日』(講談社)では、この「ES細胞混入ストーリー」は、研究のリーダーであった山梨大学の若山照彦教授や若山研に関係する理研関係者らによって巧妙に仕組まれたストーリー(要するに、責任逃れのストーリー)だと書かれていますが、今回の不起訴処分によってそれが証明されたとも言えます。しかし、記事にもあるように、このストーリーは既にひとり歩きしており、理研の調査委員会でも「混入説」が結論付けられているのです。でも、理研が調査をやり直すという話は聞きません。

あらためてあの小保方バッシングとはなんだったのかと思わずにはおれません。小保方さんならずとも、そら恐ろしいまでの報道犯罪と人権蹂躙だったのではないか。

本来科学論争であるべき問題が、理研の事なかれ主義や研究者間の足の引っ張り合いやマスコミの売らんかな主義とそのための「ネット世論への迎合」によって、研究者の人格攻撃へと暴走してしまったのです。その結果、「常に水は低いほうに流れる」ネットの格好の餌食になり、小保方さんがとんでもないウソ付きのとんでもない女性のように仕立てられたのです。

おそらくこのニュースを見ても、小保方さんをとんでもない女と信じ込んでいるネットのゲスたちは、ニュース自体を信じないのかもしれません。小保方バッシングは、それほどまでに「ほとんどビョーキ」と化しているのです。

もちろん、小保方さん自身が世間知らずの学者バカで、どこか的外れなところがあることは事実です。彼女が瀬戸内寂聴と対談している『婦人公論』(6/14号・中央公論社)も読みましたが、どうしてこんな対談に出たのか首をひねらざるをえませんでした。世間知らずなところをいいように利用されている気がしてならないのです。対談の内容も実に薄っぺらで、とりたてて書くほどのものはありません。瀬戸内寂聴にしても、バッシングのときは沈黙し見て見ぬふりをしていたくせに、今になって応援するはないだろうと思いました。グラビアもどきの写真といい、この対談に出た小保方さんの真意が私には理解できませんでした。こんな彼女の世間知らずなところがゲスたちの標的になったのは間違いないでしょう。

『あの日』については、複雑に入り組んだ人間関係や研究内容とその手順、あるいは各論文の撤回に至る経緯などが事細かに綴られていますが、素人にはわかりにくい部分も多く読むのに苦労しました。瀬戸内寂聴は、登場人物をひとりひとりノートに書き出して読んだそうですが、その気持がよくわかります。

そのため、若山教授の暗躍や毎日新聞の須田桃子記者やNHKの「Nスぺ」スタッフの傍若無人な取材や週刊文春のスキャンダルのでっち上げなど、わかりやすい部分だけがクローズアップされる結果になっているのです。もちろん、それらが小保方バッシングを構成する上で重要な役割を果たしたのは事実ですが、しかし、本来科学論争であるべき問題がどうして逸脱し暴走したのかというこの問題の本質を考えるとき、隔靴掻痒の感は否めませんでした。

外国では日本の報道は「クレージーだ」と言われていたそうですが、こんなバッシングが許されるなら、科学に限らずどんな問題でも、すべてが低劣なスキャンダルと化してしまうでしょう。それは、誤解を恐れずに言えば、今の舛添バッシングにも言えるのです。税金を食い物にしていると言うなら、舛添の背後にある東京都の役人たちの問題も取り上げるべきでしょう。それは、シャネル大好き市長の横浜も同じです。

小保方バッシングとはなんだったのか。あの狂気のようなバッシングをくり広げたマスゴミやジャーナリスト、それに与した科学者たち。朝日新聞のWEBRONZAには、最近も「なぜ小保方氏への同情論が消えないのか」というような記事が出ていましたが、これなどはバッシングに悪ノリした下劣な記事の好例と言えるでしょう。彼らに反知性主義を批判する資格はないのです。

マスゴミとネットが密通して作り上げる私刑の構造。それが現代の全体主義の姿です。「反戦平和」を謳い左派リベラルの立場に立つある有名ブログは、週刊文春の「乱倫研究室」のような記事を真に受けて、小保方さんと自殺した笹井芳樹教授の”道ならぬ関係”が騒動の根幹にあるような書き方をして小保方バッシングに与していましたが、それなども現代の全体主義を象徴していると言えるでしょう。


関連記事:
STAP騒動は「ほとんどビョーキ」
2016.05.31 Tue l ネット・メディア l top ▲
沖縄県うるま市で二十歳の女性会社員が殺害され遺体で見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕された容疑者は、元アメリカ海兵隊員で、退役後、基地内でコンピューター関連の仕事をしていた軍属だそうです。

事件の2、3時間前からわいせつ目的で相手を物色し、面識のない被害者の女性を見つけて後方から棒で頭を殴ったという。女性の骨には刃物の傷が残っており、県警は、シンザト容疑者が女性に騒がれないよう背後から襲撃し、性的暴行を加えた上で強い殺意を持って刺殺した計画的な事件の可能性があるとみて殺人容疑なども念頭に追及する。

毎日新聞
「暴行発覚恐れ殺害」…米軍属が供述


事件を受けて日本政府はアメリカ政府に「強く抗議」し、「再発の防止」と「綱紀粛正の徹底」を求めたそうです。また、アメリカ政府も「最大限の遺憾の意」を表明したということです。しかし、これらは、事件が起きるたびにくり返されてきた”儀式”にすぎません。

「強く抗議した」と言っても、どう見てもそれはアメリカに「お願いしている」だけです。日本は「強く抗議する」ほどの独立国としての気概などありません。と言うか、あろうはずもないのです。だから、北朝鮮にもバカにされるのです。

でも、この国の「愛国」者たちから、そんな日本政府の”弱腰”を指弾する声はまったく聞こえてきません。それどころか、彼らは、沖縄の米軍基地は中国からの侵略を防ぐ抑止力で、米軍基地撤去を唱える沖縄のブサヨは中国共産党の手先であると言うのです。挙げ句の果てには、夜間に出歩く女性のほうに非があったかのように言う者さえいる始末です。

総理大臣からニートまで、彼らが口にする「愛国」は、「愛国」と「売国」が転倒した(逆立ちした)戦後の”背理”のなかにあるカッコ付きの「愛国」にすぎないのです。

『永続敗戦論』のなかで、著者の白井聡は、「永続敗戦」(対米従属)を所与のものとする世界観の歪みは、「今やほとんど狂気の域に接近している」と書いていました。本来外交目標を達成するための手段でしかない「日米基軸」が自己目的化しているところに、「戦後日本の病理が凝縮されている」と言うのです。

第二次安倍内閣で内閣官房参与に任命された元外務事務次官の竹内正太郎は、「米日の関係を『騎士と馬』に擬えている」のだそうです。

ここまで来ると、彼らの姿はSF小説『家畜人ヤプー』のなかの「ヤプー=日本人」そのものである。この作中世界において、完全に家畜化され白人信仰を植えつけられた日本人は、生ける便器へと肉体改造され、白人の排泄物を嬉々として飲み込み、排泄便器を口で清めるのである。
『永続敗戦論』


「アメリカを背中に乗せて走る馬になりたい」と考える日本の外交エリートたち。そんなゆるぎない「日米基軸」が日本外交の目標だと答える彼ら。それは、戦後日本を覆う”倒錯”です。「愛国」とは、その”倒錯”をマゾヒスティックに信奉することなのです。それが対米従属を国是とするこの国の哀しい姿なのです。『家畜人ヤプー』を絶賛した三島由紀夫は、「愛国心は嫌いだ」と言ったのですが、その気持がわかろうというものです。

一方、報道によれば、容疑者の黒人青年の実家はニューヨークのハーレムにあり、ご多分にもれず若い頃は素行が悪かったそうです。そこに見えるのは、堤未果が『貧困大国アメリカ』(岩波新書)でレポートしていた「経済的徴兵」です。貧困層の若者が経済的な理由から軍隊にリクルートされ、ヤクザの鉄砲玉やイスラムの自爆テロ要員と同じように、”殺人機械”に仕立てられ戦場に送られるのです。

昔、実家の近所に農業高校の分校があり、父親が仕事の関係でよく行っていたのですが、父親が話していたのは、成績や素行が悪くてなかなか就職が決まらない卒業生は、”最後の手段”として自衛隊に入れられるのだそうです。「教え子を戦場に送るな」なとどスローガンを掲げている高教組の組合員の先生たちが、「あいつは自衛隊しかないな」なんて言いながら入隊者を振り分けていたそうです。安保法制の際も指摘されていましたが、「経済的徴兵」はよその国の話ではないのです。

誤解を恐れずに言えば、素行の悪いハーレムの若者が海兵隊に入り、「国を守る」とか「自由を守る」とかいった美名のもとに、徹底した洗脳教育を受けて”殺人機械”に仕立てられるのです。除隊しても、”殺人機械”としての思考様式や行動様式は、そう易々とぬけるものではないでしょう。言うまでもなく、軍隊に入るということは、人を殺す訓練を受けるということです。欲望と殺人が短絡した行為のなかに、軍隊で受けた訓練が介在してないとは言い切れないでしょう。


関連記事:
『琉球独立宣言』
『永続敗戦論』
2016.05.24 Tue l 社会・時事 l top ▲
群像6月号


第59回群像新人文学賞を受賞した崔実(チェシル)の「ジニのパズル」(『群像』6月号)を読みました。

主人公のジニは、アメリカのオレゴン州の高校に留学している在日の少女です。下宿先の主は、ステファニーという絵本作家です。ジ二は、ハワイの高校を退学してオレゴンにやってきたのですが、オレゴンの高校も退学処分になろうとしています。

 全校生徒、全員のロッカーが並ぶ長細い廊下に腰を落ち着けた。廊下の端から端までは、ゆっくり歩いたって二分は掛からない。
 ガムテープでぐるぐる巻きにしただけの悲惨な修理が施されたヘッドフォンを耳にかけて、レディオヘッドのセカンドアルバム『ザ・ヘンズ』を流した。そうして視線の先を行きかう靴を眺めるのが、私の日課だった。


ジニは、そんな孤独ななかにいます。10代の在日の少女が抱く孤独と焦燥。それを主人公は、「空が今にも落ちて来そう」という言い方をするのでした。

「人生の歯車が狂い始めたのは、五年前のことだ」とジニは言います。それは、中学進学を機に、日本の学校から北区十条の朝鮮学校に入ったことです。そこからジニの告白がはじまります。

ジニの母親のアッパ(父親)は、家族を日本に残して北朝鮮に帰国しています。そのアッパから娘(ジニの母親)に届いた手紙がジニの告白の途中に挿入されています。最初は「北朝鮮は、とても住み心地が良い国だぞ」「こっちに来て正解だったと思う。どんどん発展していくぞ」と書いていましたが、そのうち「アッパのことは、忘れるんだ。いいな。どうか、次の手紙は待たないでくれ」と書いてくるようになります。そして、やがて、アッパは病院にも行けないような極貧のなかで亡くなるのでした。

朝鮮語を話せないジニにとって、日本語が禁止の朝鮮学校はまったくの異世界で、常に違和感がありました。なにより気になったのは、教室の正面に恭しく掲げられている金日成と金正日の肖像画でした。いつも誇らしげに微笑んでいる二人。それはジニにとって「気持の悪いもの」でしかありませんでした。

肖像画が掲げられているのは、「終戦後、日本に残った在日朝鮮人が自らの文化を守り、教育を受ける為の支援として、北朝鮮がお金を出してくれたことへの感謝の気持ちなのだという」のです。しかし、北朝鮮に渡ったあと収容所に入れられた家族を取り戻すために、大金を使って交渉し、奇跡的に日本に「帰国」させることができた話を親戚のおばさんがしているのを聞いたジニは、つぎのように思うのでした。

 一体、誰を返してもらえたのだろうと、その晩考えた。一体どれほどのお金を払ったのだろうか。北朝鮮では奇跡が起これば、人の命をお金と交換できる。なんて素晴らしい国なのだろうか。そのような素晴らしい国に作りあげ、いつまでも支配している金一家の肖像画を私は学校に行くだけで毎日拝むことが出来る──。
 間違いだ!
 私は、間違いを発見した。どうして、こんなにも簡単な間違いを見つけられなかったのか。教室にある肖像画は間違いである。学校中に飾られている肖像画は間違いである。


テポドンが発射された日、朝鮮学校の生徒たちは、チマチョゴリを鞄のなかに入れて、体操着で通学するよう連絡が来ます。チマチョゴリ姿だと心ない日本人から嫌がらせを受けるからです。学校にも水道に毒を入れたとか、女生徒を拉致し裸にして吊るなどという脅迫が殺到します。しかし、友人のニナが忘れたせいで、ジ二にはその連絡がきませんでした。そのためにチマチョゴリで家を出たジニは、電車のなかで乗客たちの冷たい視線にさらされるのでした。うっかりして急行電車に乗ったジニは、池袋で下車し、十条に引き返そうとします。しかし、その前にふと懐かしくなってパルコの地下のゲームセンターに入るのでした。

そこで、警察を名乗るスーツ姿の三人の男に囲まれたジニは、ゲームセンターの外に連れ出され、「朝鮮人ってのは、汚い生きものだよな」などということばを浴びせられた上、性的な嫌がらせを受けるのでした。その日以来、学校を休んだジニは、やがて「革命」を起こすことを決意するのでした。

ジニは、「革命」を決行するために三週間ぶりに登校します。真っ先に教室に入ったジニの目には、つぎのような光景が映っていました。

誰もいない教室は、とても神聖な場所に見えた。ベランダの窓から差し込む太陽の日差しは半分カーテンに遮られ、柔らかい光の影が教室を優しく照らしていた。教室がより一層、愛おしく見えるように演出されているみたいだ。その光の中に舞うチリのような白い埃までも、まるで小さな妖精みたいだ。ただ、黒板の上に居座る、いつもの金一家がそれを汚していた。北朝鮮は支配できても、国境を越えた日本の朝鮮学校までいつまでも同じだと思うな。こんな学校の体制のせいで、くだらない大人の誇りのせいで、大切な友達まで傷付くようなことになったら、学校もろともぶっ壊して、お前等にだって地獄を見せてやる。


そして、ジニは、天国のハラボジ(おじいさん)に訴えるのです。

朝鮮学校に通っているのに、どうして今現在の北朝鮮から目を逸らすのだろうか。学校と政治は関係ないと言われた。だったら、どうして政治的なものが校内にあるの。感謝の気持ちを表しているものだなんて、そんな理由があるか。感謝している人だけ、心で勝手に感謝して、子供たちのために、取り外せば良いじゃない。大人って、ずるいよ。
 子供相手に脅迫してくる日本人も、子供が犠牲になっても変わらぬ学校の連中も、いとも簡単に人の命を奪う金の糞独裁者も、みんなみんな、糞食らえだ。ハラボジ、私は、絶対に目を逸らさない。逸らすもんか。会ったことがなくても血の繋がった家族が北朝鮮にいるんだ。だから、ハラボジ、私は、絶対に目を逸らしたくない。全員を敵に回しても、目を逸らしたくないよ。


私は、この小説を読んで、その熱量に胸苦しささえ覚えました。そして、若い頃親しくしていたガールフレンドを思い出さないわけにはいきませんでした。彼女もまた十条の朝鮮学校を出ていたのです。この小説の主人公と同じように、中学から朝鮮学校に入ったと言ってました。

どうして朝鮮学校に入ったのか訊いたら、親が朝銀から融資を受けるためだったと言うのです。融資をあっせんする代わりに、子どもたちを朝鮮学校に入れることを総連から「指導」されたらしいのです。

彼女は、本を読むのが好きで、特に林真理子のファンでした。モデルをしていたのですが、ショーのあと、楽屋に林真理子が来て直接話をしたこともあるそうで、感激したと言ってました。ただ、一度か二度手紙をもらったことがありますが、日本語で文章を書く訓練を受けてないので、それはまるで子どもが書いたようなたどたどしい文章でした。私は、手紙を読んで、これから日本の社会で生きていくのは大変だろうなと思いました。

まだ拉致問題がマスコミに取り上げられる前でしたが、既に一部の人の間ではその噂がささやかれていました。彼女は、李英和の『北朝鮮 秘密集会の夜』を読んでショックを受けたと言ってました。それで、私は、崔銀姫と申相玉の『闇からの谺』を読むことを勧め、その感想を聞いた覚えがあります。

親たちは、帰国した人間たちのなかには厄介払いされた人間も多いと言っていたそうです。帰還事業には、建て前はともかく、鼻つまみ者を祖国建設の美名のもとに厄介払いで帰国させる、そんな一面もあったのでしょう。

彼女も、学校の集会で、このたび何々トンム(君)が祖国に帰国することになりました、皆さんでお祝いの拍手を送りましょうなどと校長から紹介されるのを見ながら、「バカじゃないの。あんな貧しい国に帰ってどうするの」と思っていたそうです。実際に朝鮮学校の生徒ほどブランド好きはいないと言っていました。大人はベンツやロレックス、子どもはヴィトンやプラザが大好きなのです。

また、朝鮮大学から北朝鮮の大学に留学して帰国した知り合いが、突然行方不明になり、家族から居場所を知らないかと電話がかかってきたこともあったそうです。そういった不可解なことも身近で起きていたのです。

金日成が死んだとき、「悲しくないの?」と聞いたら、「なんで私が悲しまなければならないの?」と言ってました。テポドンなんてまだない頃でしたので、金日成が死んでまた北朝鮮のことが話題になるのが嫌だなと言っていました。

その彼女もやがて小説の主人公と同じように、アメリカに旅立って行ったのでした。アメリカに行くのに、朝鮮籍より韓国籍のほうが便利なので、韓国籍に変えると言ってましたので、おそらく韓国籍に変えたのでしょう。

朝鮮学校の日常が小説になったということは特筆すべきことです。また、拉致やテポドン以後の北朝鮮に対する若い在日の葛藤が小説になったということも特筆すべきことと言えるでしょう。在日という理不尽な存在。理不尽なものにしているのは、旧宗主国の私たちの社会です。ヘイト・スピーチはその一端にすぎません。それより、大多数の日本人のなかにある”サイレントヘイト・スピーチ”のほうがはるかに問題でしょう。在日の問題は、私たち日本人の写し鏡でもあるのです。

選評では、「素晴らしい才能がドラゴンのように出現した!」(辻原登)、「何としても世に送り出さなければならない作品だ」(野崎歓)と絶賛されていましたが、少なくとも又吉直樹なんかよりホンモノであるのは間違いないでしょう。この作品によって、文学が国家や民族や政治的イデオロギーなどからまったき自由であり、自由でなければならないのだということを再認識させられたのはたしかです。

ジニは、ステファニーから「逃げたら駄目よ。逃げたら、そこで終わりなの」と言われます。「だけど、私には過去がくっ付いてくる。それこそ、逃げ場のない過去だよ」とジ二は言います。だから、受け入れるしかないんだとステファニーは言います。それがどんな空であれ、落ちてくる空を受け入れるのだと。すると、ジニは、ステファニーの腕のなかで「赤子のように声をあげて泣いた」のでした。

 もしかしたら、私は待っていたのかもしれない。いつか、誰かが私を許してくれる日を。落ちてくる空を。それが、どんな空であれ、許し、受け入れることを。誰かに、良いんだ、と。それで良いんだ、と。認めてもらえる日をずっと待っていたのかもしれない。


作者は、「受賞のことば」のなかで、「作家として生き抜いてやりたい」と書いていました。上の文章はその覚悟のようにもとれます。文学という苦難の道をどう生き抜くのか、作者の今後の作品を待ちたいと思いました。


関連記事:
『ハンサラン 愛する人びと』
「かぞくのくに」
2016.05.21 Sat l 本・文芸 l top ▲
ヘイト・スピーチ対策法案が12日の参議院法務委員会で可決し、翌日の13日の本会議でも可決、衆議院に送られました。これにより今国会で成立するのは確実になったとメディアは伝えています。

ただ、法務委員会では全会一致で可決されましたが、本会議では反対が7名、退席(棄権)が1名出たそうです。

反対したなかには、ヘイト・スピーチの規制そのものに反対している日本のこころなど右派政党の議員とともに、社民党の福島みずほ副党首や又市征治幹事長、それに生活の党と山本太郎となかまたちの山本太郎議員が含まれていたため、法案を推進した人たちの間で物議をかもしています(吉田忠智社民党党首は退席して棄権)。

山本太郎議員は、参議院本会議での採決のあと、オフィシャルブログで反対した理由をつぎのように書いていました。

山本太郎の小中高生に読んでもらいたいコト
ヘイト法に反対した理由

この法案の条文に必ず書かれている、「本邦外出身者」って何だろう?

「本邦の域外にある国又は地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの」って事らしい。

この「本邦の域外にある国又は地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの」には、大きく分けて2つの問題が含まれる。

1.差別を撤廃する法律のはずが、差別から守られる者を限定した事。

これは差別の解消を目指す理念法ですから、など言い訳にならない。人種差別撤廃条約の締約国である日本が、条約を国内法化するならば、条約の精神を汲んだあらゆる形態の人種差別を禁止する内容を目指さなければならないが、その対象を限定し、狭めた。

2.適法に居住しない者は守られない。

適法じゃないなら、違法に滞在してるんだから、差別されて当然、とあなたは考えるだろうか? 適法に居住していない者の中には、難民申請中の方なども含まれるだろう。

2つの問題点に対して、「附帯決議に書かれているから心配するな。」と言う人もいるだろう。残念ながら附帯決議に法的拘束力はない。

問題がある条文は附帯でカバーしたから大丈夫、って話にはならない。問題がある条文自体が法律の本文に入っているということ、つまり、その表現が使われている時点で、理解していないか、意図を含んでいる事になるのではないか?

(以下略)

(引用者註:改行を原文から修正しました)


たしかに、山本太郎が書いているように、「排他的な運動がここまで拡がったのは、警察に大きな責任がある」と言えるでしょう。

「国家公安委員会が通知を出し徹底もできたはずだ」「ヘイト集団の軽犯罪行為に対しては既存の法律でも対応はできた」「しかし警察はほとんど対応しなかった」のです。

どうしてこの法案が、すべての外国人やマイノリティを対象とせず、わざわざ「適法居住要件」なるものを設けているのか。そこには、個人の人権より国家の安寧と秩序を一義に考える意思が表現されているように思えてなりません。

また、山本太郎のブログで注目されるのは、ヘイト・スピーチ法案が盗聴法と刑事訴訟法の改正案がバーターで審議され、同改正案も成立の可能性が高くなったという事実です。

改正案の危険性については、下記のビデオで宮台真司と神保哲生氏がわかりやすく伝えています。

BLOGOS
焼け太りの捜査権限の拡大を許すな

今回の改正案では、「可視化と引き換えに、盗聴法の対象事件を大幅に拡大し、事実上、ほとんどの事件で盗聴を可能にする盗聴法の改正と、共犯者が捜査に協力することで刑が軽減される司法取引の導入が謳われている」のですが、実際に可視化されるのは、「裁判員裁判の対象事件と特捜案件に限られるため」、全事件の3%にすぎないのです。

一方で、今まで薬物犯罪や銃器犯罪など主に暴力団関連の4分野に限定されていた盗聴の対象を一般の刑事事件まで拡大し、立会人も必要ではなくなるのです。しかも、盗聴するのは、電話だけでなく、メールやLINEなども対象になると答弁されています。要するに、刑事事件の口実さえあれば、警察はいつでもどこでも私たちの電話やメールやLINEを盗み聞きしたり盗み見たりできるようになったのです。

さらに、司法取引の導入で、共犯者が”密告”すれば刑の軽減をはかることが可能になり、しかも、法廷では”密告者”の氏名等をあきらかにしなくてもよくなったのでした。そのため、今まで以上に誘導尋問が増え、自分が助かるためにウソの証言をしたり、”密告者”に偽装した第三者が立件に有利な証言をしたりして、逆に冤罪が増えるのではないかと懸念する声もあります。

今回の改正は、自白の強要や証拠の捏造など検察の不祥事をきっかけにもちあがったのですが、上記の記事が指摘するように、逆に捜査権限の拡大になっており、官僚が得意な名を捨てて実を取る”焼け太り法案”の典型とも言えるのです。

でも、ヘイト・スピーチ対策法案を推進した人たちは、こういった改正案が併行して審議されていたことにはまったく触れていません。山本太郎が書いているように、ヘイト・スピーチ法案の成立を焦るあまり、刑事訴訟法の改正案には目をつぶったのではないか。それを含んだ上での”妥協の産物”だったのではないか、という疑問を抱かざるを得ないのです。少なくとも参議院法務委員会では、ヘイト・スピーチ法と刑事訴訟法改正案が抱き合わせで審議されたのは事実なのです。

一方、ヘイト・スピーチに反対していたカウンター周辺の人たちの間では、当然ながら山本太郎に対する批判が沸き起こっています。

有田芳生議員は、ツイッターで「現場の異常さ、当事者の切実な人生がわからなければ『脳内操作』で軽々と評論ができるのでしょう」と批判していました。   

また、つぎのような辛辣な声も現場からありました。

Twittert田中一彦2016年5月14日
https://twitter.com/tanakazuhiko/status/

しかし、それでも私は、山本太郎の指摘は間違ってないと思うのです。何度も言いますが、今回の法案を「一歩前進」と評価する人たちのなかに、国家や法律というものに対する能天気な認識や期待感をどうしても感じてならないのです。その結果、名を捨てて実を取る”官僚の罠”にはまっているのではないか。

先頃群像新人賞を受賞した崔実(チェシル)の「ジニのパズル」(『群像』6月号)にも、朝鮮学校に通う主人公が、警察を名乗る男たちに差別的なことばを浴びせられ、性的な屈辱を受ける場面が出てきますが、しかし、主人公は、その屈辱を誰にも言わずに自分のなかに秘匿するのでした。そんな主人公の少女の胸のうちにある諦観や怒りややり切れなさや悲しみに、在日が置かれた理不尽な現実が描かれているのだと思います。在日の存在を治安問題の観点でしかとらえない旧宗主国の本音。それこそがヘイト・スピーチの本質であって、あの関東大震災の朝鮮人虐殺にも通底しているものなのです。山本太郎が言う警察が動かなかった意味と背景をもっと考えるべきでしょう。

まして、山本太郎を呼びつけてしばこうとか、山本のブログは中核派が書いたのではないかなどというTwitterの書き込みは、なにをかいわんやです。彼らは、自分たちの意に沿わない人間に対して、ヘイト・スピーチをおこなっている連中とまったく同じ口調で同じセリフを吐き、同じレッテル貼りをおこなっているのです。これでは、「どっちもどっち」と言われても仕方ないでしょう。

私は、今回の法案成立が、反原発の国会前デモが野田首相(当時)との面会によって急速に収束したのと同じ轍を踏んているように思えてなりません。


関連記事:
辺見庸のSEALDs批判
左の全体主義
2016.05.17 Tue l 社会・時事 l top ▲
私は、マスコミが血眼になって舛添東京都知事を叩いている図には、当初からずっと違和感を抱いていました。文字通り坊主憎けりゃ袈裟まで憎いような感じで、”舛添叩き”はエスカレートするばかりですが、「どうして舛添だけが」という気持はどうしてもぬぐえませんでした。

舛添知事に比べ、週に3日しか登庁せず、同じように”大名旅行”が指摘されていた石原慎太郎元知事は、一部の新聞を除いて、マスコミから叩かれることはほとんどありませんでした。石原元知事の場合、都のプロジェクトに息子を登用するなど、その公私混同ぶりは舛添知事の比ではありませんでした。でも、石原元知事は不問に付され、舛添知事だけが叩かれているのです。なにか変です。

そう思っていたら、リテラにつぎのような記事がアップされていました。

リテラ
舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由

たしかに、今回の”舛添叩き”は、週刊文春の記事によってふってわいたようにはじまったのです。このブログでも何度も指摘していますが、週刊文春にしても週刊新潮にしても、石原を批判することは絶対にないのです。それは、文壇タブーがあるからです。石原の公私混同は、作家と政治家の混同でもあるのですが、その文壇タブーをいいことにやりたい放題のことをやってきたのが石原なのです。そんな文壇タブーを真に受けて、世のサラリーマンたちは石原を「理想の上司」にあげていたのです。それは、石原だけでなく、田母神に60万票を投じた東京の有権者と同じおバカな構造と言えるでしょう。

また、文春の”舛添叩き”に我が意を得たとばかりにはしゃいでいる野党の政治家などは、マスコミの空気に乗って舛添を「批判」しているビートたけしや橋下徹と同じただ機を見るに敏なだけの”下等物件”(©竹中労)と言えるでしょう。Twitterに「文春快進撃」と書いていた中東専門のジャーナリストなんて、どこまでバカなんだと言いたくなりました。

舛添が叩かれた背景に、韓国学園への都有地の貸出しやヘイト・スピーチに対する発言などによって、ネットで舛添が”親韓派”と見られていたことが関係しているように思えてなりません。それに、安倍と距離を置き、オリンピック問題でぎくしゃくしている都知事の首のすげ替えを狙う与党の思惑などが絡んで、文春に標的にされたのではないのか。そこにも、「旧メディアのネット世論への迎合」(大塚英志)や「ネットとマスメディアの共振が『私刑化』する社会を拡大させている」(藤代裕之)構造が伏在しているように思えてなりません。

能天気な文春賛美は、「ヘイト・スピーチ対策法」と似ています。法律によって、やつら(国)に”権限”を与え、ヘイト・スピーチをおこなっている下衆な人間たちを締め上げてもらうという甘い夢を抱いているのかもしれませんが、でも、やつらに”権限”を与えれば、その”権限”がいつ自分たちに向かってくるかもしれないのです。「ヘイト・スピーチ対策法」が”理念法”で、罰則規定がないからというのは、理由にはならないでしょう。”理念法”であっても、”裁量”と”権限”は付与されるのです。そこには、国家や法律というものに対する能天気な認識や期待感が垣間見えて仕方ないのです。

「タブーなきスキャンダリズム」を標榜していたのは『噂の真相』でしたが、文春の場合はタブー満載のきわめて眉唾なスキャンダリズムです。自分たちが文春の掌の上で弄ばれているだけだという自覚もなしにはしゃいでいるとしたら、政治家やジャーナリスト失格と言うしかないでしょう。


関連記事:
甘利スキャンダルと野党のていたらく
文壇タブー
2016.05.13 Fri l ネット・メディア l top ▲