先程、ガーシーが既に日本行きの飛行機に搭乗していて、成田に向かっている、というニュースがありました。

別に競馬の予想屋ではないですが、それ見たことか、と自慢したくなりました。ただ、どうやら自首ではなく強制送還だったようです。

下記の記事をお読みください。

⇒ 【大胆予想】ガーシーは帰って来る

「名誉棄損」「常習的脅迫」「威力業務妨害」「強要」などの容疑はあくまでトバ口に過ぎないのです。これから第二幕が始まるのだと思います。

彼ら、、は、相変わらず虚勢を張っていますが、過去のSNSなどを見ると、言っていることが的外れでトンチンカンなことばかりだというのがよくわかります。メディアもコタツ記事ばかりなので、あたかも彼ら、、が言っていることにも、”三分の理”があるかのように思ってしまいますが、それは単に詐欺師の口上(あるいは、そうなればいいなあという希望的観測を断定口調で言っている)にすぎないのです。

21世紀になり、資本主義が高度に発達するにつれ、社会や仕事のシステムは複雑になる一方ですが、肝心な人間はまったく逆に、どんどん退行して”単細胞”になっているような気がします。Googleが言った「集合知」や「総表現社会」とはこういうことだったのかと思いました。ガーシーの事件(と言うか、騒動)は、まさにそういった時代を象徴していると言えるでしょう。


関連記事:
『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』
日本の重大事? ガーシーの帰国問題
ガーシーは帰って来るのか?
続・ガーシー問題と議員の特権
ガーシー問題と議員の特権

※この記事は後日削除する予定です。
2023.06.04 Sun l 社会・メディア l top ▲
横濱物語



■仮面強盗事件


5月8日に銀座で起きた「仮面強盗事件」で、逮捕されたのが16~19歳の横浜の遊び仲間だったという報道について、吉田豪氏がネットの番組で、「犯人が横浜の不良仲間と聞いて納得できましたよ」と言っていましたが、横浜住みの私も同じように思いました。

他の強盗事件にも関与していたようですが、しかし、闇バイトで実行部隊を集めた「広域強盗事件」ではなく、それを真似た事件だったのです。

先輩や友人に誘われてやったという供述が、如何にも横浜らしいなと思いました。横浜に住んでいると、誰が横浜をオシャレな街だなんて言ったんだ、と思うことが多いのです。

ガーシーが裏カジノにはまって借金を作ったのも、横浜の福富町の裏カジノだと言われていますが、さもありなんと思いました。

私は、前に横浜市立大を出た馳星周に、横浜を舞台にしたピカレスク小説を書いて貰いたいと書いたことがありますが、横浜ほど馳星周の小説が似合う街はないのです。

■『横濱物語』


にわか市民の私にとって、横浜のバイブルと言えるのは、平岡正明の『横浜的』(青土社)と小田豊二氏の『横濱物語』(集英社)です。

『横濱物語』は、黄金町の遊郭で生まれ、終戦後の横浜の夜の街でその名を轟かせた松葉好市氏という生粋のハマっ子に聞き書きした本で、終戦直後から1960年代半ばまでの、文字通り横浜が栄華を極めた頃の風俗や不良たちのことが語られているのでした。その中に、次のような箇所がありました。

 大正初期だったと聞いていますが、横濱の港湾荷役事業のために神戸からやってきたのが、「各酒藤兄弟会(かくしゅとうけいていかい)」。鶴井寿太郎、酒井信太郎、藤原光次郎というそれぞれの親分の頭文字を取って付けられた組織名で、いわゆる全国の港湾関係を仕切るために産まれた組織なんですね。
(略)
 その「鶴酒藤」の看板を次の世代で背負ったのが、酒井信太郎、笹田照一、藤木幸太郎、鶴岡政次郎といった親分衆。みなさん、神戸の山口組二代目・山口登さんと五人の兄弟分の人たち。その人たちが新興勢力として関西から横濱にやってきた。
藤木さんと鶴岡さんは綱島一家の盃をもらって藤木一家、鶴岡一家を興し、酒井さんと笹田さんもこの横濱で一家を構えて、親分になったんです。
(略)
 藤木企業? ええ、その前身です。でも息子さんはカタギで、いまでは横濱を代表する立派な実業家です。(略)
  港湾の仕事は、とにかく人を集めなければ話になりませんからね。それも働くのは沖仲仕と呼ばれる荒っぽい人たちですから、そういう組織がないとしめしがつかない。


 GHQは最初、荷役の下請けを禁止していたんですよ。ところが、直接に沖仲仕を雇うと、ストとか起こりやすいじゃないですか。それで、笹田親分の笹田組や鶴岡さんのところの東海荷役、それから藤木さんの藤木企業という会社に下請けをまかせたんです。(略)


松葉氏は、「この港湾事業のおかげで戦後の横濱が発展した」と言っていました。「とにかく横濱に行けば仕事にありつける」ということで、横浜に人が集まったのでした。そして、アメリカが接収した土地の6割が横浜に集中していたと言われるくらい進駐軍の影響が大きかった横浜は、繁華街もアメリカ文化に彩られ「憧れの街」になったのでした。そんな中から愚連隊が生まれ、横浜は愚連隊の発祥の地だと言われたそうです。「仮面強盗事件」の少年たちは、元祖愚連隊の継承者と言っていいのかもしれません。

■映画「ハマのドン」とカジノの”再燃”


2021年の横浜市長選では、山下埠頭にIR、つまりカジノを誘致するかどうかが大きな争点になりました。そして、カジノ反対の急先鋒に立ったのが、”ハマのドン”と言われた藤木企業会長の藤木幸夫氏でした。藤木氏は、昵懇の仲であった菅義偉首相(当時)と袂を分かって、立憲民主党が擁立した反対派の山中竹春候補(現市長)を支援することを表明し話題になりました。

その藤木氏を描いた映画「ハマのドン」が今月から劇場公開されています。これは、テレビ朝日が製作した2022年2月放送のドキュメンタリー番組を劇場版に再編集したもので、監督はテレビ朝日の「報道ステーション」でプロデューサーを務めた松原文枝氏です。

ところが、今年の2月の市議会で、山下埠頭の再開発計画に関する「山下ふ頭再開発検討委員会」の設置が決まったことで、横浜でカジノが”再燃”するのではないかという声が出ているのでした。と言うのも、再開発の事業者提案の中に、山下埠頭をスポーツ・ベッティング(スポーツの試合を対象にした賭け)の「特区」にするという計画案が含まれていたからです。しかも、スポーツ・ベッティングの解禁には法改正が必要なので、「特区」という文字に政治家や経産省の深慮遠謀を指摘する声もあるのでした。検討委員会の設置には、自民党だけでなく立憲民主党も共産党も賛成して、反対したのは無所属の2人だけだったそうです。

そういったカジノ”再燃”の不穏な動きとの絡みもあり、映画「ハマのドン」に対しても、「虚構」だ、藤木氏をヨイショしているだけだ、という批判が噴出しているのでした。私は、まだ本編を観ていませんが、予告編の冒頭に、「主権は官邸にあらず 主権在民」というキャッチコピーが画面いっぱいに映し出されるのを観ると、たしかに違和感を持たざるを得ないのでした。

市長選前の2021年8月3日に、藤木氏は外国特派員協会で記者会見を行なったのですが、その中で注目を集めた発言がありました。

YouTube
横浜市カジノ誘致に反対 「ハマのドン」藤木氏が会見(2021年8月3日)

「カジノの問題なんか小さな問題なんです。ただ、マスコミの皆さんがやっぱりカジノを中心にリポートされてるから、これだけのことになってる。私、カジノはやっていいんですよ。横浜港以外ならどこでもやってくださいよ。だって国がやると言ってるんだから」


ここに来て、藤木氏はカジノには反対ではなかった、ただ利権から外されたので反対しただけだ、という見方が再び取り沙汰されているのでした。

■旧市庁舎の売却問題とMICE


先日の市議会では、気に入らない質問があるとあきらかに不機嫌な様子を見せて、ふんぞり返るように椅子に座っている市の幹部の態度が一部の市民から批判されていましたが、横浜市は名にし負う役人天国でもあります。カジノの”再燃”には、横浜市庁舎の”中の人”たちの意向もあるのではないかという穿った見方もあります。何故なら、みなとみらいと同じように、巨大な天下り先が確保できるからです。

横浜にはカジノだけでなく、ほかにも問題が山積していますが、反対派が「激安処分」と呼ぶ旧市庁舎の売却問題もそのひとつです。林文子市長の時代に、旧横浜市庁舎の建物5棟を7700万円で売却し、土地を77年の定期借地権付きで貸し付ける契約を三井不動産を代表とする8社の企業グループと結んだのですが、これに対して、「たたき売り」だとして契約の差し止めを求める住民訴訟が起こされているのでした。しかし、立憲民主党に擁立された山中竹春市長は、契約は妥当で市に瑕疵がないと判断し、林市政の方針を受け継いでいるのでした。

7700万円で売却した旧市庁舎は、1959年に建築家の村野藤吾の設計によって建てられた、戦後日本を代表する近代建築と言われるような歴史的価値がある建造物です。しかも、2009年に60億円をかけて耐震補強までしているのでした。建物は一応保存することが売却条件になっており、そのうち旧行政棟は、星野リゾートの系列会社が2026年からホテルとして運営することが決まっています。一方で、三井不動産などの企業グループは、同じ敷地内に、地上33階建て高さ170メートルの高層ビルを、2026年完成を目指に建設することをあきらかにしているのでした。

市庁舎がある関内地区には、「都市景観形成ガイドライン」によって、さまざまな規制がかけられており、建築物の高さも実質的に33メートルから40メートルに規制されていました。そのため、私もこのブログで書いたことがありますが、都内のように高い建物で頭上を覆われるような圧迫感がなく、ヨーロッパの街のようなゆったりした雰囲気があり、それが横浜の街の魅力でした。ところが、いつの間にかガイドラインが”緩和”され、高層ビルの建設が可能になっていたのでした。もっとも、新しい市庁舎が36階建てで、行政みずからが横浜の街の景観を壊しているのが現状なのです。

山下埠頭の再開発では、基本計画の中に、観光庁が推進する「MICE」がテーマとして掲げられています。「MICE」というのは、「企業等の会議(Meeting)、企業等の行う報奨・研修旅行(Incentive Travel)、国際機関・団体、学会等が行う国際会議(Convention)、展示会・見本市、イベント(Exhibition/Event)の頭文字」(観光庁のサイトより)から取った言葉で、政府が成長戦略の一環として打ち出した総合リゾート型観光の中核をなすものです。要するに、そこにあるのは、コンクリートの箱を造ってイベントをやって滞在型の観光客を呼び込むという、旧態依然とした発想です。当然、その中にスポーツ・ベッティングの「特区」も含まれるのでしょう。

横浜がインバウンドの取り込みに失敗しているのは事実ですが、それはイベントをやる施設がないからではないのです。街がミニ東京みたいになってしまって外国人観光客に魅力がないからです。食べ物であれ景観であれ何であれ、日本を訪れる外国人観光客たちが求めるのは”日本らしさ”です。つまり、彼らは、ありのままの日本の歴史や文化を求め、異文化を体験するために日本にやって来ているのです。それがわかってないのではないか。

言うまでもなく、横浜は独自の歴史と文化を持った街ですが、その”記憶の積層”を過去の遺物だと言わんばかりに捨て去ってしまう今のやり方は、みなとみらいと同じように、のちに大きな禍根を残すような気がします。

■村社会の魑魅魍魎たち


横浜市は、人口が376万人(2023年1月現在)の大都市ですが、一方で古いしがらみが残る地方都市の側面もある街です。老舗と呼ばれる商店や、港湾(倉庫)業や運送業や建設業など、進駐軍がもたらした戦後の繁栄の恩恵に浴した者たちが、まるで”村社会”のように横浜の政治・経済を牛耳っているのでした。

たとえば、菅義偉元首相が小此木八郎氏の父親の秘書だったかとか、藤木幸夫氏が小此木八郎氏の名付け親だったとか、人間関係も非常に濃密です。そのため、彼らが表面的に対立する構図となった先の横浜市長選も、利権をめぐる“村社会”の内輪もめにすぎないのではないかという見方が当初からありました。

たしかに、林市政のときと同じように、いつの間にかオール与党体制に戻って、市長が変わっても”村社会”の利権の構造は何も変わってないのでした。

下記のような共産党の県議の投稿に対して、カジノ反対派の市民たちが反発していますが、しかし、言っていることはわかる気がします。


共産党も「山下ふ頭再開発検討委員会」の設置に賛成したので、お前が言うなという気がしないでもありませんが、横浜の“村社会”とそこに跋扈する魑魅魍魎たちのことを考えれば、話がそんな単純なものではなかったことがわかるのです。裏には裏があるわけで、横浜市民だったらそのくらい考えなさいよ、と言いたいのだろうと思います。それこそ横浜市歌を空で歌えるような横浜市民たちもまた、利権のおこぼれを頂戴するために横浜の“村社会”を支えているのです。私には、屋根の上からばらまかれる餅に我先にむらがるような、そんなイメージしかありません。

横浜市は、まさに日本の地方の縮図なのです。ただ、日本で一番人口の多い都市(市)なので、そのヤバさが桁違いだということです。「ドン」と呼ばれる人物や官尊民卑を地で行くような小役人が我が物顔で跋扈する街のどこがオシャレなんだ、と言いたくなるのでした。


関連記事:
横浜市長選の争点
”ハマのドン”の会見
横浜市政は伏魔殿
関内あたり※2010年2月
横浜の魅力※2009年3月
2023.06.01 Thu l 横浜 l top ▲
FC2.jpg



■属地主義


先週の金曜日(5月26日)に、下記のようなニュースがありました。

ITmedia NEWS
ドワンゴ、特許裁判でFC2に勝訴 一審から逆転勝訴となった決定打は?

ニコニコ動画を運営するドワンゴが、FC2動画を運営するアメリカネバダ州にあるFC2,Inc.を特許侵害で訴えていた控訴審で、知的財産高等裁判所が、一審の東京地裁の判決を覆して、ドワンゴ側勝訴の判決を言い渡したというニュースです。

訴えられていたのは、コメントが画面に流れるあのシステムに対してです。あのシステ厶は、実はドワンゴの特許だったのです。にもかかわらず、FC2動画にも同じシステムが使われているのでした。と言えば、FC2の侵害であることは誰が見てもあきらかで、議論の余地もないでしょう。

ところが、一審の東京地裁では、「特許権の侵害に当たらない」とドワンゴの訴えが退けられたのでした。何故そんなことになるのかと言えば、FC2の運営会社がアメリカの会社で、サーバーもアメリカにあるため、法律が及ぶのは自国内に限るという“属地主義”の原則に触れるからです。それぞれの国にはそれぞれの国の法律があるので、日本の法律は日本の国内に限る、というのは当たり前と言えば当たり前の話です。

特許を侵害しているかどうかという事実の認定の前に、そもそも法律が適用できるのかという“属地主義”の原則が立ちはだかったのでした。

しかし、FC2動画は日本のユーザー向けのサービスで、流れているコメントも日本語です。また、広告の管理も大阪にある関連会社が行っており、実質的にサイトを運営しているのはその関連会社と言われているのです。

高裁では、そういったドワンゴ側の主張が一転して認められ、流れるコメントの差し止めと1100万円の賠償金が言い渡されたのでした。

今までは、サーバーが海外にあれば日本の法律が及ばないという考えが一般的だったので、業界にとっては予想外の判決で、大きな衝撃を持って受け止められているそうです。法曹界でも、“属地主義”という法律の大原則を覆す判決だとして、物議を醸しているのでした。品性下劣な左派リベラルが言うような、ガーシーやNHK党と関係のあるエロ動画サイトの違法行為が認定されて「ざまあ」みたいな話ではないのです。

これは裁判には直接関係のない話ですが、もっとも、ニコ動はもうオワコンという声も多く、ニコ動とFC2の裁判も、負け犬同士のケンカのように思えなくもありません。

マーケティングアナリストの原田曜平氏(芝浦工大教授)は、SNSなどのネットサービスについて、TikTokのシェアは全年代では22.5%だけど、Z世代に限れば50%を占め、ダントツに若い年代から支持されている、と言っていました。それに対して、Twitterは下降気味で、YouTubeもほとんど伸びてないのだそうです。そして、フェイスブックとニコ動は「論外」と言っていました。

■FC2の生命線


私は、FC2ブログを利用していますので当然FC2の会員ですが、ユーザーの立場から見ると、FC2が悩ましい会社であるのは事実です。2013年には、大阪の関連会社の社長(FC2の創業者の高橋理洋氏の実弟)らが、わいせつ電磁的記録媒体陳列の容疑で逮捕され、2015年には高橋理洋氏自身も同容疑で「国際海空港手配」されたのでした。また、2021年にはFC2動画でわいせつ動画を流したとして、ユーザー7名が逮捕されています。

FC2ブログは非常に使いやすいし、サイトの自由度も高いので重宝しているのですが、ただ、FC2の収益の大半はFC2動画、それもアダルト動画(エロ動画)と言われています。つまり、FC2ブログは、エロ動画のお陰で成り立っているようなものです。このようにFC2にとって、エロ動画は生命線でもあるのです。でも、それは同時にアキレス腱とも言えるのです。実際に、警察の要請によって、昨年の6月からFC2の動画サイトでクレジットカードが使えなくなったために、投稿される動画も売上げも激減しているという記事もありました。そうなれば、当然会社の経営にも支障をきたすようになるでしょう。エロ動画におんぶにだっこされているブログも、ある日突然終了になるんじゃないかと懸念する声もありますが、それも杞憂とは言えないかもしれません。

■高橋理洋氏


高橋理洋氏の強気な発言を見ると、FC2は警察と対立しているので、情報開示にもなかなか応じないのではないかと思っていましたが、実際は逆で、FC2は素直に開示に応じる会社なのだそうです。そんな話を聞くと、益々嫌気が差して来るのでした。あの強気な発言もただの虚勢だったのかと思いました。

高橋理洋氏は今は経営から手を引いていると言われていますが、ガーシーの事件以後、仲間が増えて嬉しいのか、まるで亡霊のようにやたらネットに顔を出すようになりました。彼が参院選に立候補するに際して開設したYouTubeでも、思わず目を覆いたくなるような、成金趣味むき出しのはしゃぎぶりでした。FC2会員としては、そんな創業者の高橋理洋氏の存在が目障りでなりません。FC2のいかがわしいイメージをよけい増幅させている感じさえあります。ガーシーと一緒に「ドバイ来ない?」なんて言っている動画を見せつけられると、何とかしてくれよと言いたくなるのでした。


関連記事:
FC2について
『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』
2023.05.31 Wed l ネット l top ▲
23589319.jpg
(イラストAC)


■格差という共通の問題


『ニューズウィーク』のウェブ版で、「デジタル権威主義とネット世論操作」というコラムを連載している作家の一田いちだ和樹氏が書いていた下記の記事は、非常に示唆に富んだものでした。

Newsweek(ニューズウィーク日本版)
陰謀論とロシアの世論操作を育てた欧米民主主義国の格差

一田氏は、国際的な陰謀論や世論操作などは、相手国に「分断と混乱」を招いている問題をターゲットする、と書いていました。

情報戦、フェイクニュース、偽情報、ナラティブ戦、認知戦、デジタル影響工作といったネットを介した世論操作は相手国の国内にある問題を狙うことが多い。その問題は相手国ですでに国内の問題として存在し、分断と混乱を生んでいる。そのためどこまでが他国からの世論操作によるものなのか、自国の国内問題なのかという判別は難しい。
(上記記事より。以下引用は同じ)


代表的なのは「格差」です。「格差」は、今や世界の「共通の問題」になっているのです。フェイクの標的になるのは、「格差」によって忘れられた存在になった社会的弱者たちです。彼らは、メディアや「政治の場で取り上げられることも少なく、不可視の状態になっている」と言います。そのため、社会的な共感を得ることも難しく、彼らを「共感弱者」と呼ぶのでした。

一田氏が書いているように、世界の人口の半数を占める貧困層が保有している資産は、僅か2%にすぎません。一方、世界の人口の10%の富裕層の人々が保有している資産は、全体の76%の資産を占めているのです。

インバウンドでは、中国や台湾やシンガポールは言わずもがなですが、タイやマレーシアやインドネシアやフィリピンやベトナムなどのアジアの国からやって来た観光客たちが、私たちが目を見張るような羽振りのよさを見せるのは、彼らがグローバル資本主義の勝ち組の富裕層だからです。私たちも口にできないような高価な和牛を次々と注文して、「安くて美味しい」と言い放つ彼らは、間違いなく私たちより豊かな生活をしているのです。でも、その背後には、海外旅行など想像すらできないような人々がその何倍も存在するのです。インバウンドばかりに目を奪われる私たちにとっても、彼らは「不可視な存在」になっているのです。

一田氏は、続けてこう書きます。

かつて欧米の民主主義国の左派政党は低学歴・低所得者層を支持母体としていたが、徐々に高学歴・高所得層へとシフトしていった。その結果、格差の下位にいる人々の声を政治の場に届けるのはポピュリストのみになった。(略)
民主党を支持の中心は、投票者の90%を占める低位の人々ではなく、上位10%の人々に変化している。同様の傾向は他の欧米の民主主義国でも見られる。
(略)
現在、格差の下位にいる人々がまとまって影響力を行使することは難しい。彼らは多様であり、まとまるためのイデオロギーもない。共通しているのは富裕層=エスタブリッシュメントへの反発である。また、共感弱者(男性、白人など)は共感強者(LGBT、移民など)に反感を持つ傾向がある。共感弱者とはさきほどの共感格差の下位にいる人々でメディアで取り上げられることが少なく、共感を得にくい。共感強者とはメディアに取り上げられ、結果として政治の場でも取り上げられやすい。


それを一田氏は、「ガソリンがまかれている状況=格差が放置されている状況」と言います。

もちろん、日本も例外ではありません。貧困対策より、子育て支援が優先されるのはその典型です。与党も野党も、中間層を厚くしなければならないとして、中間層向けの政策ばかりを掲げるのでした。

しかし、話はそれだけにとどまらないのです。

■スマートシティ


日本政府は、バイデンの要請に従って、今にも中国が台湾や沖縄に攻めて来るかのように言い募り、民主党のスポンサーである産軍複合体に奉仕するために軍拡に走っていますが(実態は型落ちの在庫品を割高な値段で買わされているだけですが)、その一方で、行政の効率化の名のもとに、中国式の“デジタル監視社会”をお手本にして、似たようなシステムを導入しようとしているのでした。

私たちの個人情報をマイナンバーカードに一元管理しようとする試みなどはその最たるものでしょう。また、公共空間における監視カメラと顔認証の普及も然りです。それらが紐付けされれば、中国のような便利で効率のいい、行政官が理想とする社会になるのです。にもかかわらず、パンデミックを経て、それがディストピアの社会であるというような声はほとんど聞かれなくなりました。『1984年』を書いたジョージ・オーウェルも、そのタイトルのとおり、完全に過去の人になってしまった感じです。

問題はガソリンがまかれている状況=格差が放置されている状況なのだから、格差を是正するか、徹底的に低所得層を抑圧して活動を制限するしかない。現時点でもっとも効果的なのは後者、つまり徹底した抑圧を実現するための統合社会管理システムになる。中国やインドが推し進めている監視、行動誘導、国民管理を一体化したシステムである。古い言葉で言えば高度監視社会であり最近の言葉で言えばスマートシティだ。中国はすでにこのシステムを他国に販売している。
(略)
格差を是正するよりは、格差を不可視のままにして、中露の世論操作への対策を口実に中国やインドのような統合社会管理システムを構築し、徹底した抑止を行う方がよい。
(略)
早期にシステムを作れば多くの国に販売・運用代行することも可能であり、産業振興にもつながる。アメリカ、特にSNSプラットフォーム企業は意図的にそうしている可能性が高い。


極端なことを言えば、僅か10万円の給付金のために私たちはみずからの自由を国家に差し出すことに何の抵抗もなくなったのです。そして、今度は「産めや増やせよ」の現代版である「異次元の少子化対策」の餌をぶら下げられ、一も二もなく”デジタル監視社会”への道に身を委ねているのでした。

もちろん、政治においても同様です。この「格差」の時代に、上か下かの視点をみずから放棄した左派リベラルの(階級的な)裏切りは万死に値しますが、それが今の翼賛的な野党なき、、、、政治を招来しているのは論を俟たないでしょう。国際的な陰謀論と連動したミニ政党が跋扈したり、まるで目の上のたん瘤だと言わんばかりに立憲民主党界隈かられいわ新選組に対する攻撃が激しさを増しているのも、その脈絡で考えれば腑に落ちるのでした。


関連記事:
日本の貧困と民衆蜂起の時代
左派のポピュリズム
2023.05.30 Tue l 社会・メディア l top ▲
publicdomainq-0029612xtzswr.jpg
(public domain)



■メディアの環境の変化


前の記事の続きになりますが、ジャニー喜多川氏や市川猿之助氏の問題を考えるとき、やはり念頭に浮かぶのはメディアの問題です。

何度もくどいほど言いますが、ジャニー喜多川氏の問題ではテレビや週刊誌や新聞など既存のメディアは臭いものに蓋をしてきたのです。そして、テレビや週刊誌は、市川猿之助氏の問題においても、今なお、ポイントを外れた(外した)ような報道を続けているのです。市川猿之助氏の代役を務めた市川團子氏を絶賛し、市川團子氏は澤瀉おもだか屋の救世主になった、などと頓珍漢なことばかり言っているのでした。

ジャニー喜多川氏の問題では、既存メディアもやっと重い口を開くようになったのですが、ジャーナリストの青木理氏は、下記の番組で、ジャニーズ事務所がメディアをコントロールする力を失くしたのは、BBCという外圧だけでなく、「メディア環境の変化」によるところが大きいと言っていました。

Arc Times
ジャニーズ事務所凋落の1つの理由はメディア環境の変化にある 

私も何度も書いてきましたが、芸能界では芸能人が独立するとテレビで干されるのが常でした。芸能プロダクションとテレビ局が、そうやって芸能界をアンタッチャブルなものにしてきたのです。しかし、ネットが普及すると、大手メディアが介在しないところで“世論”が形成されるようになり、芸能プロダクションやテレビ局のコントロールが利かなくなったのでした。

番組では、ジャニーズ事務所の関連でSMAPの例をあげていましたが、私は女優ののん(能年玲奈)がその典型だと思います。彼女は、独立したためにテレビで干された(今も干されている)のですが、しかし、テレビ以外のところで大成功を収めて、事務所に所属していた頃とは比べものにならないくらいの収入を得ていると言われます。それを可能にしたのも、メディアの環境が大きく変わり、テレビに頼らなくてもいいようなシステムができたからです。ちなみに、のんの場合、能年玲奈は本名なのですが、本名を前の事務所で芸名として使っていたとして、裁判所で使用禁止の訴えが認められて、芸能活動を行う上では本名が使えないというアホみたいな話になっているのでした。まったく日本はどこまでヤクザな国なんだと思います。

■文春砲


そして、そのネットの“世論”を形成するのに大きな役割を果たしているのが“文春砲”です。政治家が今や怖れるのも、新聞ではなく“文春砲”だ言われているのでした。

しかし、青木氏は、「文春が元気なのは週刊誌ジャーナリズムの最後の輝き」だと言うのでした。どういうことかと言えば、文春があんなにスクープを連発できるのは、他の週刊誌にいた「ハイエナのような」記者たちが、最後の砦のように文春に集まっているからにほかならないからです。毀誉褒貶はあったにせよ、昔はフライデーでも週刊現代でも週刊ポストでもみんな元気でした。ところが、どこも路線変更してスキャンダリズムの旗を降ろしたのでした。それで、書く場を失ったフリーの記者たちが文春にやって来て、今の”文春砲”の担い手になっているというわけです。

週刊誌が元気だった頃、週刊誌で働くフリーライターたちが作った(名前は正確に覚えていませんが)「働く記者の会」とかいう労働組合みたいなものがありました。私も同会が主催する講演会に行ったことがありますが、そこには、竹中労が言うような「『えんぴつ無頼』の一匹狼のルポライターや記者たちが沢山いました。

青木氏は、文春も紙媒体としては恐らく赤字のはずだ、と言っていました。しかも、出版社の中で、デジタル化に成功したコミックの出版権を持ってない出版社はこれからはもっと苦しくなることが予想され、文春の母体の文藝春秋社も例外ではないのです。

そもそも文春などの週刊誌やネットメディアは、ファクトチェックをするだけで、一次ファクトを提示するような力を持ってないというのは、そのとおりでしょう。

■朝日の弱い者いじめ


一次ファクト、つまり、一次情報を取りに行くような(調査報道を担う)記者たちが減り続けている現状にこそ、ジャーナリズムの危機があるのです。

青木氏によれば、現在、朝日新聞には1900人近くの記者がいて、朝日以外の新聞社には1000人程度の記者がいるそうです。テレビはNHKを除くと、記者は大体100人くらいだそうです。しかし、あと10年もすれば半減するだろうと言われているのです。

たとえば、朝日新聞は、最盛期は800万部くらいの部数を誇っていましたが、今では400万部を切っていると言われています。デジタル会員も20~30万人にとどまっているそうで、その惨状は想像以上なのです。名物記者が次々と辞めているのも、故なきことではないのです。

一方、朝日と提携しているニューヨーク・タイムズは、クオリティ・ペーパーとしての評価は高かったものの、もともとはニューヨークの地方紙で発行部数も数10万部にすぎませんでした。それが今では、英字紙というメリットも生かしてデジタル化に成功し、デジタル会員が600万人を超え、紙と合わせると1千万部近くに増えているそうです。ただ、アメリカでも地方紙は壊滅状態だそうで、それがトランプ現象をもたらしたような陰謀論がはびこる要因になっているとも言っていました。

最近、朝日新聞が、足立区議選で初当選した女性議員に関して、立候補する前の今年3月に、アニエスベーのコピー商品をフリマアプリで転売した商標法違反で、東京簡裁から罰金刑を受けていたことを報じ、同議員が初登庁の日に辞職するというニュースがありました。言っていることが矛盾しているではないかと思われるかもしれませんが、私は朝日が火を点けたあのバッシングを見て、嫌な感じを受けました。朝日はスクープしたつもりなのかもしれませんが、国会には下着泥棒をしながら政権与党の要職に就いている議員もいるくらいで、むしろ弱い者いじめをしているようにしか見えませんでした。

たしかに、女性議員がやったことは法に触れることではありますが、ビジネスとして常習的にやっていたわけではなく、転売で得た収益(差額)は2115円です。「ニセモノとは認識していなかった」というのもホントだったかもしれません。件の議員は、Twitterに「情けないです」と投稿して、辞職したことをあきらかにしたのですが、可哀想に思えたくらいです。

しかも、朝日新聞系列のAERA dot.では、「他にも余罪の可能性がある」という”憶測記事”を書いて、Yahoo!ニュースで拡散しているのでした。そのため、ヤフコメの恰好の餌食になったのですが、しかし、立件されたのは、あくまで2115円の収益を得た1件だけなのです。何だかそこには”悪意”さえあるような気がしてなりません。反論できないことをいいことにして、水に落ちた犬をさらに叩くような、こういったメディアはホントに怖いなと思います。

重箱の隅をつつくのではなく、重箱に盛られた特大のうなぎの正体を暴けよと言いたくなりますが、今の朝日にこんなことを言っても、所詮馬の耳に念仏なのでしょう。総理大臣の記者会見も、最初から質問者も質問する内容も決められた「台本の読み合わせ」にすぎないと望月衣塑子氏は言っていましたが、記者クラブの大手メディアの記者たちは読者や視聴者を愚弄しているとしか思えません。質問もしないでパソコンを打っているだけなら、AIで充分でしょう。

元朝日記者の鮫島浩氏は、朝日が5月1日から再び値上げしたことに関して、急激な部数減に襲われている新聞は益々政府広告への依存を深め、政府広報紙のようになっていると批判した上で、次のように書いていました。

かつての同僚に聞くと、もはや「読者拡大」で経営を再建することや「政権を揺るがす大スクープ」を狙って報道機関の使命を果たすことよりも、公的機関や富裕な高齢層など上級国民の一部読者を囲い込みつつ、とにかくリストラを進めて会社を少しでも長く延命させることを志向しているという。

さらなる発行部数の減少はすでに織り込み済みなのだ。会社上層部の世代が逃げ切るための「緩やかに衰退していくソフトランディング路線」である。典型的な縮小再生産といっていい。

Samejima Times
マスコミ裏話
朝日新聞がまた値上げ!異例のハイペースの500円アップで月額4900円に〜購読料を払う一般読者よりも新聞広告を出す政府に依存する経営がより鮮明に


青木氏も言っていましたが、メディアにはさまざまなタブーが存在します。言論の自由なんて、病院の待合室に掲げられている「患者様の権利」と同じで、絵に描いた餅に過ぎないのです。竹中労は、「言論の自由なんてない。あるのは自由な言論だけだ」と言ったのですが、けだし「自由な言論」とは、記者個人の気概や資質の問題にほかならないのです。偉い人や偉そうな人を「この野郎」と思う気持があるかどうかなのです。一次情報を取りに行く記者の数が減るという問題もさることながら、その前に記者の質を問う必要もあるでしょう。

愛国ビジネスという言葉がありますが、YouTubeの広告を見てもわかるとおり、今やネットを中心に“陰謀論ビジネス”が雨後の筍のように登場しており、右派メディアの愛国ビジネスが、身過ぎ世過ぎのために“陰謀論ビジネス”と合体しているような現実もあります。ファクトチェックどころか、ファクト自体が存在しない中でのファクトチェックまがいのことがはじまっているのです。


関連記事:
追悼・佐野眞一
最後のルポライター

トピック関連記事
BAD HOP ※ BAD HOP解散
『令和元年のテロリズム』 ※長野立てこもり事件
2023.05.26 Fri l 社会・メディア l top ▲
publicdomainq-0004880qkujnp.jpg
(public domain)



■幼稚と暴力


ジャニー喜多川氏や市川猿之助氏の性加害を考える上で、私は、北原みのり氏がアエラドットに書いていた下記の記事を興味を持って読みました。

AERAdot.
幼稚と暴力がガラパゴス化したジャパン 「日本の今」を記録したドイツ人女性ジャーナリストが混乱した

北原氏は、ドイツ人女性ジャーナリストたちが、日本に1ヶ月滞在して取材した際に同行したのだそうです。

ドイツ人ジャーナリストは、歌舞伎町の様子をカメラに収めながら、「男性が支配的な国で、なぜこんなに子供っぽいものが多いのか?」と疑問を抱くのでした。

 日本は美しく、日本人は優しく、日本は安全で、どの町にも24時間営業のコンビニがあり、電車が時刻通りにくる便利な国……という良いイメージがあるが、フェミニストの視点でのぞいてみると、まったく違う顔が見えてくる。なかでもドイツ人ジャーナリストを混乱させたのは、「日本のかわいさ」と「暴力性」だった。


 街中のポスターや、アダルトショップで販売されている幼稚なパッケージを前に何度もそう聞かれ、「幼稚」と「暴力」はこの国では1本の線でつながっているのだと気が付かされる。ここは成熟を求められない国。成人女性が高く幼い声で幼い仕草で幼い言葉で「自分を小さく見せる」ことに全力をかける社会。成人男性の性欲はありとあらゆる方法でエンタメ化され、「ほしいものは手に入れられる」と幼稚で尊大な自己肯定感を膨らませ続けられる社会。


ホストクラブは日本にしかない“風俗”だそうですが、ホストたちは、「『貧しい家庭で育ち、学歴もなく、社会的な信頼もないオレ』が、一気に『勝ち組』になれるシステム」だとして、ホストクラブを男の夢として語るのでした。

■こどおじ


週刊誌の記事がホントなら、市川猿之助氏は、両親が老々介護をしているのを尻目に、スタッフをひき連れてホテルで乱痴気パーティを開き、その席でまるで絶対君主のように有無を言わせずに性的行為を強要していたのです。

そして、彼は、そんな暴力的で子どもじみたふるまいをしながら、週刊誌に「あることないこと書かれた」のでもう「生きる意味がない」と言い、両親に「死んで生まれ変わろう」と提案するのでした。何だか甘やかされて育てられた一人息子のボンボンの、どうしようもない(目を覆いたくなるような)幼稚さが露呈されているような気がしてなりません。

そんな市川猿之助氏は、澤瀉おもだか屋の二枚看板の一つである「猿之助」の名跡を継ぎ、これからの歌舞伎界を担うホープとして将来を嘱望されていたのでした。もし今回の事件がなかったら、そのうち人間国宝の候補になったかもしれません。あと10年もすれば紫綬褒章くらいは授与されたでしょう。でも、一皮むけばこんな「こどおじ」みたいな人物だったのです。

■大人と成熟


ジャニー喜多川氏も然りで、まわりの人間たちは、ジャニー氏がやっていることが「ヤバい」というのはわかっていたはずです。しかし、ジャニー氏もまた絶対君主だったので、みんな「見て見ぬふり」をしてきたのでした。

ジャニー氏の被害に遭った少年たちも、芸能界にデビューしてアイドルとしてチヤホヤされるために、ジャニー氏の欲望を受け入れるしかなかったのでしょう。しかも、年端もいかない少年であるがゆえに、グルーミングによって手なずけられたのでした。「ジャニーさんは父親みたいな存在」、そう言うと、メディアはそんな話でないことはわかっていても、それを美談仕立てにして誤魔化して来たのでした。

そして、少年たちは長じると、ニュース番組のキャスターを務めるまでになったのでした。彼らを起用したテレビ局も、ジャニー氏がやって来た「ヤバい」ことを知らなったはずがないのです。ジャニー氏の寵愛を受けたその中のひとりは、番組の中で、真相を語ることなく、ジャニーズ事務所は名前を変えて再出発すればいいと、どこかのカルト宗教みたいなことを言ったのでした。

記事のタイトルの「幼稚と暴力がガラパゴス化したジャパン」とは言い得て妙で、これは芸能界だけの話ではないし、セクハラだけの話でもありません。サラリーマンたちだって、似たような経験をしているはずです。みんな同じように、家族のためとか、生活のためとか、将来の年金のためとかいった口実のもとに、「ヤバい」ことを「見て見ぬふり」して来たのです。私も上司からよく「大人になれ」と言われましたが、会社では「見て見ぬふり」をすることが「大人になる」ことだったのです。

北原氏は、日本を「成熟を求められない国」と書いていましたが、日本の社会では、「成熟する」というのは「大人になる」と同義語なのです。つまり、「大人」や「成熟」という言葉は、現実を肯定し(「見て見ぬふり」をして)自己を合理化する意味で使われているのでした。そういった日本語の多義性を利用した言葉の詐術も、日本的な保守思想の特徴と言えるものです。それは文学も然りで、江藤淳の「成熟」も「こどおじ」のそれでしかなかったのです。

保守派からLGBT法は日本の伝統にそぐわないという反対意見がありますが、その伝統こそがジャニー喜多川氏や市川猿之助氏のような存在を生んだのです。国家に庇護された伝統と人気が彼らの性加害の隠れ蓑になったのです。私たちは、LGBT法とは別に、伝統こそ疑わなければならないのです。

■話のすり替え


ところが、ここに来てワイドショーなどを中心に、市川猿之助氏の才能や人柄をヨイショする報道が目立って増えており、中には復帰することが前提になっているような報道さえ出始めています。さすがに、それは違うだろうと言わざるを得ません。何だか再び(性懲りもなく)「見て見ぬふり」が始まっているような気がしてなりません。

(本人の供述として報道されていることを前提に言えば)自殺未遂に関しても、不可解な点がいくつもあるのです。たとえば、自殺したと言っても、家族三人が枕を並べて一緒に心中したわけではなく、両親と猿之助氏との間でかなりのタイムラグが生じていると推測されるのです。タイムラグの間に、猿之助氏は、向精神薬を飲んで昏睡状態に陥った(と思われる)両親の顔にビニール袋を被せて、呼吸しているかどうかを確認したと供述しており、しかもそのあと、ご丁寧に向精神薬の薬包紙やビニール袋を処分しているのでした。さらに、座長を務める公演を体調が悪いので休むとわざわざ電話しているのでした。その上、自宅の鍵を開けたままにしているのです。

もう一つ忘れてはならないのは、市川猿之助氏が、歌舞伎の”家元制度”を背景にして、日常的にパワハラやセクハラ(性加害)を繰り返していたということです。その性加害はジャニー喜多川氏と同様に、同性に対するのだったのです。そのため、彼の性的指向についても言及せざるを得ないのです。

にもかかわらず、テレビのワイドショーは、性的指向にはひと言も触れずに、伝統ある歌舞伎役者としての側面ばかりを強調しているのでした。それは、どう見ても話のすり替えのように思えてなりません。自殺未遂に関しても、市川猿之助氏は澤瀉屋の後継者としての重圧を背負った犠牲者みたいな言い方がされていますが、目を向けるべきはそっちではないでしょう。

もしこれが国家に庇護された歌舞伎界のスターでなくて”一般人”だったら、それこそ疑問点をあることないことほじくり返して、自殺を偽装した殺人事件のように報じるはずなのです。
2023.05.25 Thu l 社会・メディア l top ▲
publicdomainq-0023458aczxrm.jpg
(public domain)



■先客万来の虚構


観光地でゲストハウスや飲食店などを経営している友人から電話があったので、いつものように「景気はどうか?」と訊いたら、ゴールデンウィークの前半はよかったけど、「後半はダメだった」と言っていました。

「テレビは元に戻ったみたいな言い方をしているけど、元には戻ってないよ」と嘆いていました。
「結局、パンデミックの反動で一時的に戻っただけということか?」
「そうだよ。外国人観光客も完全に戻って来てないので、いい状態が続かないんだよ」

客単価も低くて、言われるほど千客万来の状態ではないと言います。

たしかに、コロナ禍前の2019年度の外国人観光客の「旅行消費額」4兆8135万円のうち、36.8%の1兆7704万円を占めていた中国人観光客は完全に戻って来てないのです。

今のような中国敵視政策が続けば、以前のようにドル箱の中国人観光客が戻って来るのか疑問です。核の脅威を謳いながら核戦争を煽っているG7サミットと同じで、中国を鬼畜のように敵視しながら観光客が来るのを首を長くして待っている矛盾を、矛盾と思ってないのが不思議でなりません。

メディアのいい加減さは、インバウンドでも、G7サミットでも、ジャニー喜多川問題でも同じです。たとえば、欧米の観光客はケチでショボいというのが定説でしたが、いつの間にか中国人観光客に代わる(言い方は変ですが)大名旅行をしているみたいな話になっているのでした。

もっとも、「外国人観光客が戻って来て大賑わい」というのも、外国人が日本の食べ物や景色や日本人の優しさに「感動した」「涙した」という、YouTubeでおなじみの動画の二番煎じのようなものです。その手の動画をあげているのはほとんどが在日の外国人で(その多くがロシア人で、最近は韓国人も増えてきた)、日本人の中にある「ニッポン、凄い!」の”愛国心”をくすぐって再生回数を稼ぎ、配信料を得るためにやっているのですが、テレビも視聴率を稼ぐために同じようなことをやっているだけです。

■被爆者の「憤り」


今回のサミットに対しては被爆者の間から批判が出ており、平岡敬元広島市も、次のように憤っていました。

朝日新聞デジタル
元広島市長「岸田首相、ヒロシマを利用するな」 核抑止力維持に憤り

平岡元市長は、「岸田(文雄)首相が、ヒロシマの願いを踏みにじった」「岸田首相は罪深い」と言います。

(略)本来は核が人間に与えた悲惨さを考えるべきです。核を全否定し、平和構築に向けた議論をすべきでした。

 加えて、19日に合意された「広島ビジョン」では、核抑止力維持の重要性が強調されました。

 戦後一貫して核と戦争を否定してきた広島が、その舞台として利用された形です。


 核を否定し、平和を訴えてきたヒロシマを、これ以上利用するなと言いたいです。

 広島を舞台にしてウクライナ戦争を議論するならば、一日も早い停戦と戦後復興について話し合われるべきでした。

 中国とロシアを非難するだけでは、緊張が高まるだけです。いかに対話をするか、和解のシグナルを発信する必要があります。

 戦争の種をなくし、平和を構築する。それが、岸田首相をはじめとするG7首脳たちに求められていることです。


しかし、翼賛体制下にある今の日本では、こんな発言もお花畑の理想論と一蹴されるだけです。

今回のG7サミットは、ゼレンスキー大統領の参加というお膳立てもあり、さながら第三次世界大戦の決起集会のようでした。どうすれば核戦争を回避し和平に導くことができるか、という議論ははなからありませんでした。とは言え、G7の拡大会議に出席したインドやブラジルの態度に見られるように、それも一枚岩とは言い難いものでした。

翼賛体制に身を委ねているのは、メディアだけでなく左派リベラルも同じです。彼らもウクライナVSロシアという戦時の発想に依拠するだけで、“戦争サミット”を批判する視点を持ってないのです。野党風な態度を取りながら、今の”戦争体制”を補完しているだけなのでした。

それは、新左翼も同じで、一部を除いてはロシアの侵略戦争というベタな視点しか持ちえず、アメリカの戦争政策に追随しているあり様です。そのため、前回のドイツ・エルマウのサミットのときのような、「戦争反対」のデモもまったく見られなかったのです。彼ら自称「革命的左翼」も完全に終わっているのです。

唯一行われた中核派系のデモも、下記の動画のように、警察によって徹底的に封じ込められたのでした。デモの様子は、日本のメディアではほとんど報じられませんでしたが、イギリスBBCによって、警察がデモ隊を暴力的に制圧するシーンが世界に拡散されるというオチまで付いてしまったのでした。また、現場となった商店街の市民が撮影した動画もネットにあげられ、それぞれ万単位の再生数を記録することになりました。こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、ネットの時代のカンパニアとしては、大成功と言えるのかもしれません。

G7の首脳たちが円卓を囲んで微笑んでいるシーンや、ゼレンスキー大統領が各国首脳と握手しているシーンだけがG7ではないのです。こういったシーンも、G7広島サミットを記録する上で欠かせないものなのです。と言うか、唯一台本のないガチなシーンだったと言えるのかもしれません。


■資本主義の危機


ウクライナ戦争の天王山とも言われるバフ厶トを巡る攻防についても、一時はバフムトの陥落は近いと言われていました。しかし、最近は形勢が逆転して、ロシア軍が退却しているというような陥落を否定するニュースが出ていました。ところが、G7の最中に、ロシア国防省と軍事会社のワグネルがバフ厶トを掌握したと発表し、それに対して、ゼレンスキー大統領も、記者会見で、郊外で抵抗しているとか何とか言うだけで、完全に否定はしなかったのでした。どうやら当初の話のとおりバフ厶トの陥落は事実のようです。このように日本のメディアは、イギリス国防省やアメリカの国防総省のプロパガンダをそのまま垂れ流しているだけなのでした。そのため、ときどき「話が全然ちがうじゃないか」と思うようなことがあるのでした。

ウクライナ戦争や米中対立によって、西側の経済は大きな傷を負っています。そのことをいちばん痛感しているのは私たち自身です。資源高&エネルギー価格の高騰による物価高に見舞われ、生活苦も他人事ではなくなっています。その一方で、商社や金融機関や自動車メーカーなど大企業は相次いで好決算を発表しているのでした。つまり、大儲けしているのです。

財務省の法人企業統計によれば、大企業の内部留保は2021年度末で484.3兆円まで膨れ上がっているのですが、ウクライナ戦争を好機に、さらに積み増ししようとしているかのようです。この火事場泥棒のような現実こそ、資本主義の危機の表れとみなすことができるでしょう。

■中国抜きでは成り立たない現実


そもそも、国際的な分業体制が確立し、それを前提に成り立っている今のグローバル経済にとって、アメリカが言うような中国抜きのサプライチェーンなど絵に描いた餅にすぎないのです。

『週刊ダイヤモンド』の今週号(5月27日号)では、「半導体・電池『調達クライシス』」という記事の中で、中国ぬきでは成り立たないサプライチェーンの現実を次のように指摘していました。尚、記事の中のCATLというのは、世界最大の半導体メーカーである中国の寧徳時代新能源科技のことです。

 そもそも電池のサプライチェーンは、半導体とは全く異なる特殊性がある。半導体の場合は、設計、半導体材料、半導体製造装置、製造のあらゆる主要工程を米国、日本、台湾、オランダが握り、西側諸国でサプライチェーンを完結できる。だが電池の場合は、中国を介さずに調達できる国は一つとしてない。
 鉱物資源からレアメタルを取り出しす製錬工程が中国に完全に握られている他、日本に強みがある電池材料でも中国勢がコストや品質で猛追。さらに中核の電池製造では、日本と韓国を抑えて、中国電池メーカー2社が圧倒的だ。調査会社テクノ・システム・リサーチによると、22年(見込み値)で世界首位のCATLの出荷額は270GWh、シェアは46%に達する。
 すでにCATLは、中国EVメーカーだけにとどまらず、欧州各国、米テスラ、米ビックスリー、日系大手3社など世界中のEVに車載電池を供給している。「中国排除」のサプライチェーンなど成り立たないのは明白だ。
(『週刊ダイヤモンド』5月27日号)


また、今朝のNHKニュースでは、福岡の市場で競り落とされたノドグロやマナガツオ、アラカブ、タチウオといった高級魚が、香港や韓国や台湾などへ輸出されている現状を特集で伝えていました。そのために中国人の仲買人を雇っている仲卸会社もあるそうです。

NHK NEWSWEB
ビジネス特集・「日本人は金払えない」アジアの胃袋に向かう高級魚

番組によれば、市場に出入りする仲卸会社の大半が輸出に関わっており、既に売り上げの4割近くを輸出が占めている仲卸会社もあるそうです。

「もう国内だけではだめだと思います。われわれとしては、高く買ってくれるところに売るのが一番いいんです。今は海外のほうが確実にもうかります」という仲卸会社の社長の言葉が、今の日本を象徴しているように思います。

似たような話は、横浜橋の商店街でもありました。どこかのニュースでも取り上げられていましたが、横浜橋の商店街では中国人が経営する八百屋や魚屋や総菜屋が増えており、しかも、日本人経営の店より価格が安いので買い物客で賑わっているそうです。と言うと、ネトウヨと同じように、怪しい野菜や魚を売っているんだろうと言われるのがオチですが、しかし、実際は市場から正規のルートで仕入れているちゃんとした商品だそうです。要するに、日本人経営の店と違って、豊富な資金で大量に仕入れるため、その分仕入れ価格が安くなり安売りが可能になるというわけです。

中国が豊かになり、一方で日本が「安い国」になったので、ひと昔前だったら考えられないような”逆転現象”が起きているのでした。先の友人の話では、観光地のホテルや飲食店も、中国資本や韓国資本に次々と買収されているそうです。あそこもあそこもと私も知っているホテル名をあげて、みんな買収されたんだと言っていました。

■梯子を外される日本


米中対立も、超大国の座から転落したアメリカの悪あがきと言えなくもありません。日本はそんなアメリカの使い走りのようなことをやっているのですが、それはホントに国益に敵っていることなのだろうかと思ってしまいます。

昨年10月に国際決済銀行(BIS)が発表した、世界の外国為替取引高における通貨別シェアによれば、トップは言うまでもなくアメリカドルの88%で、第2位がユーロの31%、第3位が日本円の17%、第4位がイギリスポンドの13%で、中国の人民元は4%から7%に上昇したものの第5位でした。アメリカドルの圧倒的な強さは変わらないものの、アメリカが人民元のシェアが伸びていることに神経を尖らせているのは間違いないでしょう。言うまでもなく、今の通貨体制がアメリカの生命線でもあるからです。

一方で、中国は、BISとは別に独自の人民元国際決済システム(CIPS)を導入して、「一帯一路」沿線の国やいわゆるグローバルサウスと呼ばれる国を中心に人民元(それもデジタル人民元)での決済をすすめており、金融面においてもアメリカの覇権(アメリカドルの実質的な基軸通貨体制)に対抗しようとしているのでした。それが今の米中対立の要諦です。

ただ、深刻度を増す金融危機に見られるようにアメリカ経済も疲弊していますので、アメリカの対中政策が一転して軟化する可能性もあり、バイデンも最近、それらしきことをほのめかしているという指摘もあります。米中接近のときもそうでしたが、日本がいつアメリカに梯子を外されるかわからないのです。
2023.05.23 Tue l 社会・メディア l top ▲
24447.jpg
著作者:starline/出典:Freepik)


■パンデミックがもたらした大きな変化


今回のパンデミックでいろんなものが変わったのはたしかでしょう。後世になれば、そのひとつひとつが「歴史の証言」として記録されるに違いありません。

キャッシュレス化がいっきに進んだとか、マイナンバーカードのような個人情報の管理がいっそう進んだとか、ウクライナ戦争とそれに伴う世界の分断と経済の危機が益々顕著になったとか、そういったことが記録されるのかもしれません。

と同時に、パンデミックは個人の生き方にもさまざまな変化をもたらしたのですが、そういった私的な事柄は記録されることはないのです。ただ、その時代を特徴付ける風潮や価値観として語られることはあるでしょう。

私の年上の知り合いで阪神大震災のとき、兵庫県西宮市に住んでいて被災した人がいました。家族で会社の社宅に住んでいたのですが、幸いにも社宅の倒壊は免れたものの、地震が収まったので外に出たら、外の風景が一変していて、思わずその場にへたり込みそうになったそうです。「考えてみろよ。目の前の風景が昨日までとはまったく違っているんだぞ。それを見て何もかも終わったと思ったよ」と言っていました。

彼が勤めていた会社は一部上場の大手企業で、既に年収も1千万円を超えていたそうですが、その翌年、会社を辞めて故郷に帰り、自分で小さな商売を始めたのでした。彼は、もし震災に遭わなかったら、会社を辞めてなかったかもしれないと言っていました。

「お前もそうかもしれないけど、俺たちは子どもの頃からお金より大事なものがあると教えられてきた。震災によってその言葉を思い出したんだ。仕事ばかりしていたので、もっと家族との時間も持ちたかったし、親も年を取ってきたので、親の傍にいることが親孝行になるんじゃないかと思ったんだ。そういうことがお金より大事なことだということに気付いたんだよ」

今回のパンデミックでも同じように思った人は多いのではないでしょうか。

私の知っている職場でも、パンデミックのあと、次々と人が辞めて人手不足で困っていると言っていました。その職場は公的な仕事を行なう非営利団体で、職員たちも公務員に準じた身分保障を与えられ、当然ながら定着率が非常にいい職場でした。ところが、パンデミックを経て辞めていく職員が続出しているのだそうです。私の知ってる元職員は、地方に移住して農業をやるつもりだと言っていました。故郷に帰った人間も何人もいます。

どうしてこれほど退職者が出ているのかと言えば、その団体がパンデミックに際して、COVID‑19に感染した生活困窮者をケアする仕事をしていたからです。中には充分なケアができずに亡くなった人も多く、職員たちが精神的なストレスを抱えることもあったようです。職員たちが目にしたのは、文字通り惨状と言ってもいいような光景だったのです。実際に精神的にきついと口にする元職員もいました。

戦争や自然災害においては、直接の被害者だけでなく、被害者をサポートした人たちもPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症するケースがあると言われますが、それと似たような話なのかもしれません。

■あるブログの閉鎖


私がここ数年愛読していたあるブログがありました。それは10年以上前から書き継がれていたブログで、山行(登山)を主なテーマにしていました。ブログ主は中年の女性で、初心者のときから徐々にステップアップして、北アルプスを縦走するまでになり、そして、再び奥多摩や奥武蔵(埼玉)の山に戻って、自分のペースで山歩きを楽しむ様子が綴られていました。

やがて、そんな日常に、地方に住む母親の遠距離介護がはじまるのでした。それでも、介護と仕事の合間に近辺の山に通っていました。実家に帰った際も、時間を見つけて故郷の山に登ったりしていたのでした。

ところが、そこにパンデミックがはじまったのです。実家で一人暮らしする母親を何としてでもコロナウイルスから守らなければならない、というような書き込みもありました。

遠距離介護は続いていましたが、おのずと山からは遠ざかっていきました。それまで月に2~3回は山に行っていましたが、半年に1回行くかどうかまでになり、そして、とうとう今年の春にブログも閉じてしまったのでした。山に行くのが生き甲斐みたいな生活でしたので、閉鎖すると聞いてショックでしたが、パンデミックによって山より大事なものがあることに気付いたのでしょう。

そんなに細かくチェックしているわけではありませんが、いわゆる登山系のユーチューバーの中でも、更新を停止する人がこのところ多くなっています。公式に停止を表明する人もいるし、停止したまま放置する人もいます。

更新を停止する理由を見ると、身内の不幸や転職や離婚などがあげられています。もちろん、配信料のシステムが変わり収入が減ったということもあるのかもしれませんが、ただ、もしパンデミックがなかったら、登山までやめるという決断はなかったのではないかと思ったりもするのです。人生の転機においても、パンデミックによって、それがより大きなものになったり切実なものになったということはあるのではないでしょうか。

■”お気楽な時代”の終わり


こんな言い方は誤解を招くかもしれませんが、何だか“お気楽な時代”は終わった、という気がしないでもありません。

パンデミックによって、ある日突然、感染したり命を落としたりすることが他人ひと事ではなくなり、自分の生活や生き方を見直すきっかけになったということはあるのではないか。入院もできずに自宅で一人苦しみながら死を迎える人の姿はたしかにショックでした。日本は先進国で豊かな国だとか言われていますが、これが先進国の国民の姿なのかと思いました。訪問して来た医者が、「どこか入院できるように手を尽くしたけど受け入れ先がないんですよ。ごめんなさい。申し訳ない」と患者に告げているのを見ながら、どこが先進国なんだと怒りを禁じ得ませんでした。

ちょうど2年前に、私は、このブログで次のように書きました。

昨日の昼間、窓際に立って、ぼんやりと表の通りを眺めていたときでした。舗道の上を夫婦とおぼしき高齢の男女が歩いていました。買物にでも行くのか、やや腰が曲がった二人は、おぼつかない足取りで一歩一歩をたしかめるようにゆっくりと歩いていました。特に、お婆さんの方がしんどいみたいで、数メートル歩いては立ち止まって息を整え、そして、また歩き出すということをくり返していました。

お婆さんが立ち止まるたびに、先を行くお爺さんも立ち止まってお婆さんの方を振り返り、お婆さんが再び歩き出すのを待っているのでした。

私は、そんな二人を見ていたら、なんだか胸にこみ上げてくるものがありました。二人はそうやって励まし合い、支え合いながら、コロナ禍の中を必死で生きているのでしょう。

関連記事:
『ペスト』とコロナ後の世界


まだこの先も感染拡大が起きる可能性はありますが、私は、個人的にこのパンデミックをよく生き延びることができたなと思っています。私自身が、受け入れ先もなく、一人で苦しみながら息を引き取ることだってあり得たかもしれないのです。感染もせずに何とか生き延びたのは、たまたま運がよかったにすぎないのです。

余談ですが、先日、横浜市に、姉妹都市であるウクライナのキーウから副市長らが訪れた際、横浜市長が「復興に役立てて貰いたい」として、コンテナを繋ぎ合わせて、その中にCTなどの医療機器や入院用のベットを設置することで、応急的な治療施設ができるシステムを紹介した、というニュースをテレビでやっていました。私はそれを観ながら、じゃあどうしてパンデミックのときにそれやらなかったんだ?と思いました。そんな応急的な施設があったなら、受け入れ先もなく適切な治療も受けずに亡くなった人たちの何人かは助かることができたでしょう。市民よりウクライナの方が大事なのか、と言ったら言いすぎになるでしょうが、何だか割り切れない気持になりました。

たしかに、パンデミックを経て、多くの人々はみずからの人権より給付金を貰うことを優先するような考えに囚われるようになったのは事実です。今の異次元の少子化対策もそうですが、わずかな給付金のために、国家にみずからの自由を差し出すことに何のためらいもなくなったように思います。ただ、その一方で、目先のお金よりもっと大事なものがある、といった考えに立ち戻った人々もいるのです。そういった価値の”分断”も、はじまったような気がしてなりません。
2023.05.22 Mon l 日常・その他 l top ▲
1522294.jpg
(イラストAC)



■女性セブンの記事


今日、市川猿之助氏の自殺未遂のニュースが飛び込んできて、メディアはG7そっちのけで大騒ぎしています。

自宅の地下から遺書らしきメモも出てきたそうで、両親を道連れに無理心中したのでないか、と報じている一部メディアもありました。また、殺人か自殺幇助か自殺教唆のどれかで逮捕される可能性は高い、と伝えているメディアもありました。

市川猿之助氏に関しては、折しも昨日、『週刊女性セブン』がスクープと称してウェブサイトにアップした下記の記事が、自殺未遂と関連があるのではないかとして注目されています。今日は記事が掲載された『週刊女性セブン』の発売日でもあったのです。

NEWSポストセブン
【スクープ】市川猿之助が共演者やスタッフに“過剰な性的スキンシップ”のセクハラ・パワハラ「拒否した途端に外された」

この記事が事実であれば、文字通りジャニー喜多川氏の“二番煎じ”と言われても仕方ないと思います。記事はソフトな(というか曖昧な)表現で書かれていますが、内容自体は、ジャニー喜多川氏同様、歌舞伎の世界における絶対的な力を背景にした性加害とも言えるものです。

■歌舞伎とメディア


昔から芸能界にはゲイやバイセクシャルが多かったのですが、中でも歌舞伎の世界はその最たるものと言っていいのかもしれません。歌舞伎の語源の「かぶく」という言葉は、かたむく=ドロップアウトするというような意味があると言われ、歌舞伎者、つまり芸能の民は、元来は市民社会の埒外にいる(公序良俗からはみ出した)存在だったのです。

歌舞伎のはじまりはお寺の勧進興行だったと言われますが、寺社権力が衰退するのに伴い、寺の境内を追われた歌舞伎者たちは、当時不浄な場所と言われ、差別され一般社会から追われた人々が住んでいた河原で興行をはじめたのでした。そのため、河原乞食と呼ばれ蔑まされるようになったのです。

今の歌舞伎の伝統と言われるものがどこまで真正な(ホントの)伝統なのかわかりませんが、歌舞伎の世界は、その伝統を謳い文句に男尊女卑と同性愛が今もなお同居している、ガラパゴスのような世界を形成してきたのです。そんな世界を、着物で着飾ってお上品ぶっているおばさんたちが有難がって支えているのです。昔の河原乞食が、今では天皇制との絡みで国の宝みたいに遇されているのです。その大いなる誤魔化しと勘違いが、あのような梨園のバカ息子たちを次々と輩出する背景になっているのは間違いないでしょう。お上品なおばさんたちは、自分たちが上流階級だと勘違いしているのか、歌舞伎の世界に今なお残る”妾の文化”も芸の肥やしとして許容しているのですから、ある種のおぞましささえ覚えてなりません。

この21世紀のMeToo運動やLGBTQの時代に、芸能の民を”特別な存在”と見做すのは多分に無理があるのです。宮台真司氏のように、それを「加入儀礼」として捉える論理がトンチンカンに見えるのもむべなるかなという気がします。

しかし、市川猿之助氏のニュースでも、大半のメディアは奥歯にものがはさまったような言い方に終始しているのでした。夕方のニュース番組を観ていたら、スポーツ新聞の芸能担当記者が出ていて、歌舞伎の伝統と市川猿之助氏の人となりを語っていましたが、隔靴掻痒の感を禁じ得ませんでした。キャスターもゲストの記者も、肝心要なことは避けてどうでもいいような話でお茶を濁しているだけなのでした。

歌舞伎はたかだか松竹という民間会社の興行にすぎないのです。にもかかわらず、伝統を隠れ蓑にジャニーズ事務所と同じようなタブーが作られ、メディアは徹底的に管理され拝跪させられてきたのでした。

別の報道によれば、遺書は「知人」に宛てたもので、「愛している」とか「あの世で一緒になろう」と書かれていたそうです。私は、「おやじ涅槃で待つ」という某男優の遺書を思い出しました。

■LGBTQをどう考えるか


ゲイ自殺未遂の割合

これは、宝塚大学看護学部の日高庸晴教授らが2008年に実施した、街頭調査の資料の中に掲載されていた図を転載したものです(下記参照)。

「わが国における都会の若者の自殺未遂経験割合とその関連要因に関する研究―大阪の繁華街での街頭調査の結果からー」
https://www.health-issue.jp/suicide/index.html

この図を見ると一目瞭然ですが、同性愛者の男性の場合、異性愛者と比べて自殺未遂の割合が6倍近く高いことがわかります。しかも、それは、同じ異性愛者でも男性に限って見られる傾向なのでした。

ゲイで自殺する人間が多いというのは、昔からよく知られた話でした。それは、やはり、男らしくあれとか男のくせに女々しいとかいった、日本の社会に厳として存在するマッチョリズムによって生きづらさを人一倍抱える(抱えざるを得ない)からではないかと思うのです。あるいは、ジャニー喜多川氏のような犯罪と紙一重の”少年愛”などでは、罪の意識に苛められるということもあるのかもしれません。ゲイに詳しい人間は、ゲイは嫉妬深くて感情に走る人間が多いので、自分で自分をこじらせてしまうのではないかと言っていました。

織田信長と森蘭丸の話がよく知られていますが、武家社会では、男色は「衆道しゅどう」と呼ばれて半ば公然と存在したそうです。そのため、昔は男色に対して「寛容」であったという声もあります。でも、それは「寛容」と言うのとは違うような気がします。寺院の僧侶や武士など男社会の中で、女性の代用として若い男性のアヌスが利用されたという側面もあったのではないかと思うのです。つまり、「寛容」というより、それだけ動物的で放縦な時代であったということです。また、江戸時代には、歌舞伎者の周辺に「陰間かげま」と呼ばれる、女装して売春する少年までいたそうです。今で言う「ウリセン」です。

しかし、脱亜入欧のスローガンを掲げた近代国家の建設がはじまり、西欧文明が入ってくると、同性愛は”異常なもの”としてタブー視されるようになったのでした。ミッシェル・フーコーが言うように、キリスト教の道徳と市民法によって「倒錯」という概念が導入され、権力による性の管理が始まったのですが、日本でも近代化の過程でそういったキリスト教的な規範が輸入され、同性愛も私たちの視界から消えていったのでした。LGBTに対する理解増進を求めるLGBT法は、そんな日陰の身である性的指向を再び日向になたに連れ出すことになるのです。

LGBTQをどう考えるのか、どう共存して多様性のある社会を築いていくのか。私たちはその課題を突き付けられていると言えるでしょう。前も書きましたが、ドラマの「きのう何食べた?」のような浮薄なイメージや、リベラルであるならLGBT法に賛成しなければならないといった思考停止した中でLGBT法が成立するなら、仏作って魂入れずになるだけでしょう。

2019年に大阪市で行われた無作為抽出調査によれば、異性愛者は83.2%で異性愛者以外が16.8%だったそうです。経済界には、海外でビジネスを行う上で、性的マイノリティに対する国際基準を遵守する必要があるとしてLGBT法の早期成立を求める声があります。また、国内においても、LGBTQを新しい市場と捉えソロバン勘定する向きもあるようです。あのレインボーパレードに象徴されるような今のLGBTQが、換骨奪胎されて、強欲な資本の論理に取り込まれてしまう”危うさ”を持っていることもたしかでしょう。
2023.05.18 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
蒼ざめた馬


■金平茂紀氏の指摘


先日、YouTubeで「エアレボリューション」という番組を観ていたら、ゲストで出ていたジャーリストの金平茂紀氏の面白い、と言ったら語弊がありますが、番組に対する鋭い指摘があり、あらためて現実を「こする言葉」とは何か、ということを考えさせられました。

エアレボリューション
金平茂紀氏生出演! 「緊急提言!大政翼賛をいかに抜けだすか」(2023年1月29日放送・前半無料パート)

「エアレボリューション」というのは、ジョー横溝氏がMCを、島田雅彦氏と白井聡氏がレギュラーコメンテーターを務める、今年の1月にはじまった有料の番組です。金平茂紀氏が出演したのは第3回目でした。

尚、概要欄に書かれた番組のコンセプトは、次のようになっていました。

① 直訳「革命放送」!
② 理想の社会を実現するための手段を語る「空想革命」!
③ 作家・アーティストも呼び「空想革命」を想像できる右脳を鍛える刺激的な放送!

ニコ生でも、ジョー横溝氏をMCとして、宮台真司氏とダースレイダー氏をレギュラーコメンテーターとする有料番組の「ニコ生深掘TV」というのがありますが、それとどう違うのかという突っ込みはともかく、冒頭でいきなり金平氏がジョー横溝氏の言葉使いに異を唱えたのでした。

FMラジオでDJを務めているだけあって弁舌巧みなジョー横溝氏が、出演者のことを「演者さん」と呼んでいたのですが、それに対して、TBSの報道局記者である金平氏が「演者」というのはテレビのバラエティ番組の言葉で、YouTubeでその言葉を使うのは違和感があると噛みついたのです。

さらに、YouTubeは新しいメディアのはずなのに、結局テレビの真似をしているにすぎない、従来のテレビ的な枠を壊すような姿勢が見えない、というようなことを言って、冒頭から空気を凍り付かせるようなカウンターをかましたのでした。

私は、それを観て思わず膝を叩きたくなりました。たしかに、YouTubeはテレビの真似ばかりです。私も前に書きましたが、ユーチューバーが「撮れ高」とか「視聴者さん」という言葉を使っているのを見ると、それだけでどっちらけになるのでした。

Googleの持ち株会社のアルファベットの業績を見ると、利益の落ち込みが大きく、そのために人員削減などリストラを余儀なくされているのですが、その要因はひとえに「ネット広告」とカテゴライズされる(アルファベットでは「セグメント」と呼ばれる)YouTubeの広告の不振によるものです。

たしかに、最近のYouTubeの広告は怪しげなものも多く、また広告が集まらないのか、Googleの自社広告も多くなっています。それは、視聴時間をTikTokやインスタやTwitterのショート動画に奪われているからです。もちろん、Googleも手をこまねいて見ているわけではなく、その対策として、ショート動画のテコ入れや従来の配信料のシステムの見直しなどを既にあきらかにしています。

関連記事:
ユーチューバー・オワコン説

「エアレボリューション」と同じような、リベラルな主張をコンセプトに掲げる番組は他にもありますが、どれも似たような感じで、ゲストで登場する人物も重なっている場合も多く、企画のマンネリは否定できないのです。

今やニコ生のコアな視聴者は40代~50代だそうで、それはネトウヨの年齢層と重なるのですが、おそらくYouTubeも似たようなものではないかと思います。一方、左派リベラルは、それよりひとつ上の年代がボリュームゾーンです。

地上波のテレビの視聴者もいまや中高年が主流で、中高年向けのコンテンツが必須と言われています。それでは大塚英志氏が言う「旧メディアのネット世論への迎合」も当然という気がします。

■島田雅彦氏の発言と炎上


「エアレボリューション」では、先日、番組の中で、島田雅彦氏が(安倍元首相の)「暗殺が成功して良かった」と発言して炎上し、その余波が今も続いています。発言を受けて、フジサンケイグループなどの右派メディアやネトウヨたちが、まるで号令されたかのようにいっせいに島田叩きを始めたのでした。そこに、バズらせることを狙ったネットメディアの煽りが加わったのは言うまでもありません。

それに対して、「エアレボリューション」は発言した部分を削除し、島田氏も次のように謝罪したのでした。


軽率な発言? このどこが「革命放送」なんだと思いました。そのヘタレようはまさにテレビ並みと言えるでしょう。

この謝罪によって、右派メディアやネトウヨは益々勢いを増したのでした。そして、島田氏はさらに次のような弁明をするはめになったのでした。


まさに屋上屋を架した気がします。

何度も言いますが、今の日本に欠けているのは「闘技」の政治です。タコツボの中から首だけ出してちょっと勇ましいことを言ったら石を投げられて、あわてて首を引っ込める。こんなことを百万篇くり返しても何にもならないでしょう。

一方で、島田氏が首をひっこめたのは、本人も言っているように、YouTubeのガイドラインや利用規約の違反行為とみなされてBANされるのを怖れたということもあるかもしれません。当然、煽られた人間たちが、Googleに対してガイドライン違反の申し立てを行っているでしょう。

何度もくり返しますが、とどのつまりは、ネットの「言論・表現の自由」なるものも、一私企業であるプラットフォーマーによって担保されているにすぎないということです。しかも、プラットフォーマーはすべてアメリカの企業です。これでは「革命放送」なんて、悪い冗談のようにしか思えません。

また、法政大学の教授でもある島田雅彦氏は、「大学の講義で殺人やテロリズムを容認するような発言をした事実は一切ない」と弁明していましたが、でも、文学では殺人やテロリズムを容認することはあるでしょう。むしろ、そういったところから文学は生まれるのです。

私は、ロープシンの『蒼ざめた馬』が好きで、最近も読み返したばかりですが、東京外国語大のロシア語学科を出た島田氏は、テロリストが書いたこの小説をどう思っているのか、問い質したい気がします。何だか語るに落ちたという感じがしないでもありません。

■大衆に迎合するマーケティング


映像というのは残酷なもので、文章で書いた言葉とは違って、修辞のマジックが通用しない分その薄っぺらさがモロに透けて見えるということがあります。残念ながら、島田雅彦氏や白井聡氏も例外ではありません。

政治でも文学でも同じですが、今の時代に、感情をゆさぶるような、心が打ち震えるような、そんな私たちの心をこするような言葉を探すのは至難の業です。これは決して郷愁などではなく、昔はもっとヒリヒリするような、心をえぐられるような緊張感のある言葉がありました。でも、今あるのは、どこを見ても仲間内の駄弁と自己保身のための言葉ばかりです。それは、右も左も関係なく、大衆に迎合するマーケティングが優先され、「闘技」の政治や「闘技」の表現活動がなくなったからでしょう。


関連記事:
2発の銃弾が暴き出したもの
『ネットメディア覇権戦争』
2023.05.17 Wed l ネット l top ▲
publicdomainq-0036906vzfmlu.jpg
(public domain)


5月14日の夜、ジャニーズ事務所の公式サイトで動画が公開され、その中で藤島ジュリー景子社長が今回の問題に対して謝罪したというニュースがありました。しかし、事実関係については、明言を避け曖昧な態度に終始したままでした。そもそも記者会見ではなく、一方的に動画を配信し、外からの質問も一問一答形式の文書で答えるそのやり方に、ジャニーズ事務所の裸の王様ぶりが露呈された感じで、思わず目を覆いたくなりました。

不倫だったら、まるで百年の仇のようにあることないこと書き連ねて、アホな大衆を煽り、リンチの先頭に立つ芸能マスコミですが、不倫の比ではないジャニー喜多川氏の性加害=性暴力に対しては、ジャニーズ事務所の足下にかしづき、見ざる聞かざる言わざるを貫いてきたのです。しかも、ここに至ってもなお、ジャニーズ事務所の出方を伺うだけで、独自の取材に基づいた記事はいっさいありません。これでは、ゴミ以下と言われても仕方ないでしょう。

藤島ジュリー景子社長の謝罪も、そんな芸能マスコミと同様に、見て見ぬふりをしてきたみずからを弁解したものにすぎません。

週刊文春が言うように、事務所のスタッフが車で餌食になる少年をジャニー喜多川氏のマンションに送り届けていたわけで、それで「知らなかった」「気が付かなかった」はないでしょう。芸能マスコミと歩調を合わせた悪あがきは続いているのです。

中には、日本テレビの「news zero」でキャスターを務める櫻井翔が何を語るか、なんておめでたいことを言っているメディアもありますが、何を語るかではなく、櫻井翔がキャスターを務めていること自体が異常なのです。でも、それが異常なことだと誰も指摘しないのです。

この問題に救いがないのは、2002年にジャニー喜多川氏の性加害が東京高裁で認定されたにもかかわらず、メディアがほとんど報道せず隠蔽したことによって、さらにジャニーズ事務所が芸能界で絶対的な力を持ち、メディアを完全に支配するに至ったという事実です。そのために、ジャニー喜多川氏の性加害=性暴力はまったく止むことはなかったのです。むしろ、エスカレートしたのかもしれません。

その意味では、メディアの罪も極めて大きいと言えるでしょう。メディアは、藤島ジュリー景子社長の謝罪動画を他人ひと事のように報じていますが、開いた口が塞がらないとはこのことです。

たしかに、性被害を告発した元メンバーの背後にガーシーやひろゆきやいかがわしいユーチューバーの存在が囁やかれるなど、今どきの若者らしい”危うさ”や”軽さ”が垣間見えますし、芸能界が単に悪の反対語が善とは言えない、もしかしたら悪の反対語も悪であるような、一筋縄でいかない世界であることも頭の片隅に入れておく必要がありますが、それでもなお、長いものにまかれろという日本的な精神風土の中でタブーにされてきた、この前代未聞のスキャンダルが白日の下に晒される意味は大きいと言えます。同時にこの問題が、「独立した芸能人はどうして干されるのか?」という、”ドン”などと呼ばれるヤクザまがいの人物が調整役として跋扈する(テレビ局や芸能マスコミも一役買う)、「怖い怖い芸能界」からテイクオフするチャンスでもあることは言うまでもありません。

僭越ですが、この問題については下記の記事をご覧ください。

関連記事:
『噂の真相』とジャニーズ事務所
ジャニー喜多川の報道に見る日本のメディアの体質
2023.05.15 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
publicdomainq-0027433zlxmul.jpg
(public domain)


■付け焼刃の対策


今日、加藤厚労相が、「マイナ保険証」において、マイナンバーカードに健康保険証を紐付ける際の入力ミスが、22年11月末までに全国で約7300件あったことをあきらかにしたそうです。そのため、受診した際、医療機関が別の人物の医療情報を閲覧したケースが3件発生していたということです。まったくお粗末なミスと言うしかありません。

マイナンバーカードでは、”売り”であるコンビニから住民票の写しや戸籍証明などの交付を受けるサービスにおいても、別人の証明書が発行される不具合が今年の3月以降、横浜市、川崎市、東京・足立区であわせて13件発生しています。そのため、河野デジタル大臣が、運営会社の富士通の子会社に対して、同サービスの一時停止を要請したそうです。

また、ペイペイ銀行のサイトには、次のような「お知らせ」が掲載されていました。

ペイペイ銀行
重要なお知らせ
当日指定の振り込みの一部変更について(5月12日更新)

当日指定の振り込みの一部変更について(5月11日更新)

フィッシング等被害防止の観点から、2023年5月10日(水曜日)18時より、一定の条件に当てはまる振り込みについては、当日指定ができなくなります。詳しくは以下の図をご確認ください。

ペイペイ銀行


つまり、これも既に被害が出ているので対策を講じたということなのでしょう。

全て付け焼刃で、ただ単に屋上屋を架すものでしかないのです。

そのために、ネットバンクでは、本人確認の方法が二重認証などと言ってどんどん面倒臭くなっているのでした。それだけイタチごっこで詐欺の被害も増えているからでしょう。一方で、窓口やATMの手数料をあり得ないほど大幅に引き上げて、(半ば強引に)ネットでの取引に移行するように勧めているのです。そして、挙句の果てには、「被害を蒙るのは自己責任ですよ」と言わんばかりに、顧客が自分で対策を講じるしかないような言い方をするのでした。

銀行やクレジットカードなどのサイトに入って、そこで送金などサービスを利用する際の本人確認の方法は、今やほとんどがスマホを使ったものです。ショートメッセージで送信された確認番号を入力したり、メールで送られてきたURLをクリックして確認するという方法が取られています。

また、最近のクレジットカードは、カードにカード番号が印字されてないナンバーレスのものも多くなっています。そのため、クレジットカード払いにするのに、カード番号や有効期限やセキュリティコードを入れなければならないときは、いちいち上記の方法でサイトにアクセスして確認しなければならず、非常に手間です。中には手間を省くために、紙にメモして保管しているユーザーも多いのではないかと思いますが、それでは本末転倒でしょう。

銀行口座の新規開設やクレジットカードの新規入会では、「即日開設」や「数分で発行」などと謳ってお手軽さをアピールしていますが、いざ使うとなると手間ばかりかかってひどく面倒なのでした。

スーパーでもセルフレジが普及しており、私も最初は時代の先端を歩いているような気になって利用していましたが、最近は、デジタル化に付いていけない老人向けに設置している有人レジの方を利用しています。有人レジの方が全然空いているし、買った商品のバーコードをひとつひとつスキャンしなければならない手間もはぶけるので楽チンです。それに、有人レジを利用する方が、レジ係のパートさんたちの雇用を守るためになるので、よっぽど利他的で「優しい」行為と言えるのです。

■SIMスワップ詐欺


ここ数日、メディアを賑わせている「SIMスワップ詐欺」も、銀行やクレジットカードのスマホを使った本人確認を逆手に取った、典型的なイタチごっこの手口と言えます。出て来るべくして出て来た犯罪と言えるかもしれません。

「SIMスワップ詐欺」は、今の本人確認の方法に対して根本から見直しを迫るような手口だと思いますが、しかし、銀行は、自分の住所氏名や電話番号やメールアドレスをむやにやたらと他人に教えないでください、と注意喚起するだけです。

「SIMスワップ詐欺」については、下記のように、Canonが2021年2月に、その手口と対策を警告しているのでした。

十分な情報を手に入れた詐欺師は、標的が契約している携帯電話会社に連絡し、標的になりすますことで顧客サポートの担当者を騙し、標的の電話番号を詐欺師が保有しているSIMカードへ移すよう仕向ける。その場合の口実の多くは、携帯電話が盗まれたか、失くしたため切り替えが必要になったというものだ。

一般的に、この種の攻撃の狙いは、被害者が保有するいくつかのオンラインアカウントへのアクセスを得ることだ。SIMスワップ詐欺を用いるサイバー犯罪者は、被害者が電話やテキストメッセージを二要素認証(2FA)に使用していることを前提としている。

Canon(2021.2.9)
サイバーセキュリティ情報局
SIMスワップ詐欺の手口とその対策


今になって被害が公けになったのは、SIMカードの再発行のために携帯電話の販売店に訪れた女が逮捕されたからですが、ただ、逮捕された女は「闇バイト」で応募した使い走りに過ぎないと言われています。

特殊詐欺や、資産家や宝飾店を狙った強盗もそうですが、この手の事件で逮捕されるのは「闇バイト」で応募したような末端の実行部隊ばかりで、犯罪の元締めが逮捕されたという話は聞いたことがありません。何度も言いますが、全てはイタチごっこで、捜査や対策も後手にまわっているのが現状なのです。

Canonが警告したのは2年前なのですから、既にかなり被害が広がっていると思った方がいいでしょう。

先月、「メルペイ」を不正使用した疑いで逮捕された中国人のパソコンなどから、メールアドレスが約1億件、クレジットカード情報が約1万7千件、IDとパスワードの組み合わせが約290万件など、大量の個人情報が見つかったというニュースがありました。そのニュースは、個人情報が私たちの想像を超える規模で漏洩している現実を示していると言えるでしょう。

メディアはフィッシングサイトで集めたようなことを言ってますが、フィッシングサイトで1億件のメールアドレスを集めるなんていくらなんでもあり得ないでしょう。

情報漏洩は、本人があずかり知らぬところで情報が漏洩するケースも多いのです。ネットを介して情報をやり取りする過程では、ハグなどによって漏洩することも充分考えられます。

ましてや、私たちの目に見えないところで、日々サイバー戦争は行われており、政府機関のサイトに侵入してサイトを改ざんしたり、情報を盗み出すような高度なハッキングの技術を見せつけられると、私たちの個人情報が如何に危うい状態にあるのか(丸裸のような状態でネットに晒されているのか)ということを痛感させられるのでした。

■仮想のフロンティア


チャットボットなんて前からあったのに、突然、チャットGTPのような対話型AIが世紀の大発見のようにセンセーショナルに報じられ、政府まで巻き込んで大騒ぎしています。しかし、水野和夫氏が言うように、デジタルという“電子空間”は、地上のフロンティアがなくなった資本主義が新たに作り出した、仮想のフロンティアにすぎないのです。

しかも、(「アメリカの議会予算局」がレポートしているそうですが)技術革新イノベーションとしても、今のIT革命が経済の成長を押し上げる力は、エジソン・フォードの時代に比べれば半分程度にすぎない、と水野氏は言っていました。つまり、IT革命も資本主義を一時的に延命するものでしかないということです。たしかに、自動車や電話や電球などの便利さに比べれば、デジタルの便利さなんてたかが知れているのです。

現にIT革命とか言われても、革命の祖国であるアメリカは超大国の座から転落して没落する一方だし、GAFAの植民地のようになっている日本もどんどん貧しくなるばかりです。まったくと言っていいほど、経済を持ち上げる力にはなってないのです。

ただ、FAXがメールに代わり、帰るコールがLINEに代わり、卓上計算機がエクセルの関数に代わり、現金が電子マネーに代わったに過ぎないのです。それを凄いことのように言っているだけです。

「今度は凄い」と永遠に来ない「今度」のためにアドバルーンを上げてあぶく銭を稼ぐ、いかがわしいセールスプロモーションの典型と言っていいかもしれません。で、今度の「今度」は、生成型AI、対話型AIというわけです。プロモーションに乗せられて浮足立っている人たちは、たとえばGoogle翻訳のショボさを思い起こして一度頭を冷やした方がいいでしょう。

シンギュラリティなどという言葉がまことしやかに流布されていますが、人間の自由な思考や自由な表現にAIが追いつくことは永遠にないでしょう。AIというのは演算と記憶の集積回路ICチップに過ぎないので、テストの解答や将棋の対戦では人間を凌駕することはあるかもしれませんが、ただそれだけのことです。

そう考えると、デジタルの時代という喧伝は多分に上げ底のような気がします。デジタルの時代とかIT革命というのは、羊頭狗肉のタイトル詐欺のように思えてくるのでした。
2023.05.12 Fri l ネット l top ▲
DSC05850_20230512120726a07.jpg


■年上の知人


昔、仕事で知り合いだった年上の人と久しぶりに会いました。その人は、自分の仕事をやめて、以後10年以上、とある公益法人で嘱託職員として働いていたそうです。

しかし、1年前の70歳になる直前に、足を痛めて退職。この1年間は年金と貯金を切り崩して暮らしていたのだとか。

嘱託職員と言っても、ほぼ正職員と同じような仕事をしていたので、それなりの収入もあり、それに加えて65歳から年金を貰っていたので、毎月貯金ができるほどの余裕はあったそうです。

ところが、数ヶ月休んで足もよくなったので、再び働こうと思ったら、年齢制限にひっかかりどこも雇ってくれず困っていると言っていました。もちろん、探しているのはアルバイトです。既に30社近く履歴書を送ったけど、いづれも面接さえ至らず断りの手紙が送られてくるだけで、さすがに滅入っていると言っていました。

働きたいのは、生活のためだけでないとも言っていました。この1年間、何もしないで過ごしていると、見るからに体力も衰えて急激に老けていく自分を感じ、危機感を抱くようになったそうです。

■高齢者講習


70歳を越えると、運転免許証の更新の際は高齢者講習が義務付けられるそうで、そのために6450円の受講料を払って自動車学校で講習を受けなければならないのだそうです。何だか「あなたたち高齢者は社会のお荷物なのですよ」と言われているような気がして、よけい自分が老けたような気持になると言っていました。

高齢者の交通事故が増えたので、(建前上は)その対策として講習が義務付けられたのでしょうが、6450円とは法外な気がします。講習を受けないと免許証の更新はできないのです。更新の手数料を含めると、70歳以上の高齢者たちは、免許証を更新するのに1万円近くの出費を余儀なくされるのです。

聞けば、通常、更新の際に行われる講習とそんなに変わらず、要するに免許証の返上を勧めるような内容だったと言っていました。また、自動車学校のコースを使った実車によるテストも行なわれたけど、認知度や運動神経などを調べるのなら、もっと簡便な方法があるのではないかと思ったそうです。

警備会社と同じように、自動車学校の校長の多くも元警察署長などの天下りです。言うなれば、警察にとっては子飼いの業界なのです。少子高齢化で自動車学校も生徒集めに苦労していますので、警察庁が自動車学校に新たな“収益源”を与えた、という側面もあるような気がしないでもありません。

もちろん、高齢者の交通事故対策が必要なのはわかりますが、このように新しい施策が行われると、まるで火事場泥棒のように役人たちは自分たちの権益の拡大をはかるのでした。文字通り、地頭は転んでもただでは起きないのです。

70歳からの高齢者講習の義務化は去年から始まったばかりだそうです。その審議の過程で、講習の問題点を野党が指摘したという話は聞いたことがありません。メディアも、高齢者の交通事故をそら見たことかと言わんばかりに大々的に報じるだけで、問題点を指摘する声はありませんでした。

講習の実効性どころか、爪に火を点すようにして、乏しい年金で暮らしている高齢者を食いものにするような制度と言ってもいいでしょう。

資本主義の本質はぼったくりにあり、今の異次元の物価高も資源価格の高騰を奇貨にした資本のぼったくり以外の何物でもありませんが、これは(決して冗談で言っているのではなく)高齢化社会を奇貨にしたぼったくりとも言えます。”シルバー民主主義”で高齢者は優遇されていると言われますが、このどこに”シルバー民主主義”があるんだ、と言いたくなります。今の日本では、高齢者をおおう貧困が明日の自分の姿だという最低限の認識さえないのです。

■労働力不足のからくり


年上の知人は、仕事を探すのも免許証を更新するのも、「お前は年寄りなんだ」と言われているような気がして、否が応でも社会から退場させられているような気がすると言っていました。

彼も1年前まではバリバリに働いていたのです。今の70歳は昔の70歳とは違うとか、これからは70歳になっても働かなければならないとか言われますが、現実は全然そうなってないのです。

私の父親は自営業だったので、70歳でも現役でバリバリ働いていました。もちろん、車も運転していました。そして、現役のまま病気で亡くなりました。祖父もそうでした。昔は自営業の割合が高かったので、高齢になっても普通に仕事をしていた人が多くいました。

でも、今はサラリーマンの定年退職を基準にするのが主流になっているので、65歳を過ぎると高齢者と言われて、労働の現場から排除され、さまざまな制約を受けるようになるのです。だからと言って、豊かな老後を過ごせるように年金制度が充実しているわけではありません。むしろ逆です。フランスでは年金制度の改正に反対して、火炎瓶を使ったような過激な街頭闘争まで繰り広げられていますが、それでも日本の年金と比べると夢のような充実ぶりで、フランスと比べると日本はまるで奴隸の国に思えるくらいです。

日本が戦後経済発展をしたのは、ある意味で当然だったと言ってもいいでしょう。資本にとって、これほどコストの安い国はないのです。まるで資本が国家の上位概念であるかのように、社会保障は二の次にできるだけコストを安くして、高い国際競争力を持つように政治もバックアップして来たのです。にもかかわらず、高度成長を経てバブルが到来したのもつかの間で、その後は低下の一途を辿り、今やタイやフィリピンの観光客からも「日本は安い」と言われ、喜ばれるような国になってしまったのでした。そして、年金制度などの社会保障は、二の次になったまま放置されたのでした。その結果、今の格差社会が生まれたのです。にもかかわらず、高齢化社会だから年金が目減りするのは当然だ、というような論理が当たり前のようにまかり通っているのです。

消費税は社会保障のため、そのための目的税だとされていますが、実際は所得税や法人税と同じ一般財源に入れられ、それらといっしょにされて歳出に使われているのです。それでは、消費税が法人税減税の補填に使われているという批判が出て来てもおかしくないでしょう。実際に、消費税導入前の1988年度の国民年金(基礎年金)の保険料は、月額7700円でした。それが、消費税が10%になった2020年度は16610円になっているのです。もちろん、その分支給額が上がっているわけではありません。何度も言いますが、むしろ逆です。これでは何のための消費税かと言いたくなるでしょう。

少子高齢化で労働力不足が深刻だとか言われていますが、それは若くて賃金が安い若年労働力が不足しているという話にすぎず、中高年の失業者が職探しに苦労している現実は何ら変わらないのです。しかも、若くて賃金が安い若年労働力を補うために、発展途上国からの労働者にさらに門戸を広げようとしているのでした。

でも、彼らはあくまで低賃金の出稼ぎ労働者にすぎません。低賃金の外国人労働者の存在が、3Kの現場などにおいて、日本人の労働者の賃金が低く抑えられる要因になっているという指摘は以前からありました。しかし、問題はそれだけでないのです。中高年の労働者が労働市場から排除されるという、もうひとつの負の側面も生まれているのでした。

左派リベラルなどは、「万国の労働者団結せよ」というようなインターナショナリズムや民族排外主義に反対する立場から、門戸開放にはもろ手を挙げて賛成していますが、でも、そこにあるのは、資本の論理と国家を食いものにする役人の論理だけです。資本や国家は、「万国の労働者団結せよ」というインターナショナリズムで門戸開放するわけではないのです。

年上の知人のように、年金に頼るのではなくバリバリ働いて充実した人生を送りたいと思っても、社会がそれを許さないのです。「あなたは年寄りだから社会のお荷物にならないようにしなさい」と言われて、「お荷物扱い」されるのです。

私は、年上の知人の話を聞きながら、何が異次元の少子化対策だ、何が外国人労働者の門戸開放だ、と思いました。誰もその陰にある部分を見ようとしないのです。


関連記事:
昭和のアパートの高齢者たちはどこに行った
資本主義の終焉
明日の自分の姿
2023.05.10 Wed l 社会・メディア l top ▲
谷戸
(歩いたルート) ※クリックして拡大画像してください


■谷戸


先週の土曜日(5月6日)に同じところを散歩したのですが、谷戸やとと呼ばれる地形のことが気になったので、昨日、同じ場所を再び歩きました。

谷戸というのは、主に静岡以東の呼び方だそうです。私もこちらに来て谷戸という呼び方を初めて知りました。

横浜は谷戸が多く、横浜市のサイトでも「谷戸のまち横浜」というページがあるくらいです。それによれば、次のように説明されています。

 「谷戸」とは、丘陵大地の雨水や湧水等の浸食による開析谷を指し、三方(両側、後背)に丘陵台地部、樹林地を抱え、湿地、湧水、水路、水田等の農耕地、ため池などを構成要素に形成される地形のことです。
 「谷戸」という語源を辿ると、次のように言われています。
「静岡以東、主に関東に分布する東言葉で、古い時代に、主として稲作をしていた処ところの小地名である。だから山中には無いし、広い平坦地にも殆どない。その平坦地から山合いにはいりこんだ土地の名である。」
(谷戸のまち横浜)


開析谷かいせきこくと言うのは、私たちが普段イメージするような急峻な谷ではなく、どちらかと言えば、台地、あるいは登山で言うコル(鞍部)を広くしたもの、というようなイメージの方が近いかもしれません。

サイトにも書いていますが、横浜には谷戸が付いた地名が多く、昨日歩いた環状2号線沿いにも、「表谷戸」と「仲谷戸」というバス停があります。

ちなみに、九州では谷戸のことをさこと呼ぶみたいです。そう言えば、私の田舎にも「芋の迫」や「下迫しもざこ」という地名がありました。

住所で言えば、港北区師岡と鶴見区獅子ヶ谷の境界にあたる一帯です。私が住んでいるところから南に歩いて綱島街道に出ると、正面の丘の上にマンションや住宅が立ち並んでいるのを見渡すことができます。また、綱島街道沿いにある区役所の前の大きな交差点では、磯子区から鶴見区までの25キロ近くを結ぶ環状2号線が、綱島街道と交差して丘の上に向けて坂を上っているのでした。

私は、丘の上の住宅群がずっと気になっていました。それで、先週は環状2号線を通ってトレッサの横から迂回して行ったのですが、昨日は綱島街道から脇道に入り、直接上ろうと思いました。

前にホームセンターがあった場所にマンションが建設中で、その囲いの横にある狭い路地を進み、いったん裏の車道に出て、さらに住宅の横にある路地を奥に進むと丘の下に突き当り、そこに鉄の手すりが設置された石段がありました。石段を見上げていると、上からちょうど中年の男性が下りてきたのでした。

「すいません。これを上って行くと上の道に出るのですか?」
「そうですよ。尾根に出ますよ」

「尾根」と言われて思わず苦笑しそうになりました。昔の地形ではそうかもしれませんが、しかし、今は住宅地として開発され、崖の上にはマンションのコンクリートの建物が聳えているのでした。

石段を上って行くと、マンションの直下に樹木に囲まれた祠がありました。見ると、「大豆戸不動尊」という小さな柱がありました。崖の下から新横浜にかけての一帯は大豆戸おおまめどという町名です。昔は、丘の上に登り、さらに尾根を通って山の反対側の鶴見に行ったり、あるいはこの地域の守護神である師岡熊野神社に参拝したのでしょう。奥多摩の登山道などと同じように、そのためにショートカットする道だったのでしょう。

丘の上に登り、マンションの横を通りぬけると、先週歩いた見覚えのある道に出ました。地図で言えば、西から東の方へ上った格好になります。

見ると、台地の両端にはこんもりと木が茂った小山があり、典型的な谷戸の風景が広がっています。恐らく私が上って来た側にも昔は小山があったのだろうと思いますが、今は切り崩されて住宅地になっているのでした。

そこから斜度の一部が50度を超すような急坂を下りて、台地の西側にある横浜市指定有形文化財の「旧横溝家住宅」という古民家をめざすことにしました。

道沿いには鉄塔が建っていました。昭和の頃までは畑や田んぼが広がる田園地帯だったそうですが、今は台地の端は住宅地になっていて、中心部の畑や田んぼが広がっていた一帯は、建設会社の資材置き場や車庫、あるいはトタン板で囲われた産廃施設のようなものに変わっていました。

台地の先にあるトレッサ横浜は、トヨタ自動車のグループ会社が運営する商業施設で、フルオープンしたのは2008年(平成20年)ですが、それまでは新車を一時保管するプール(置き場)だったそうです。

■旧横溝家住宅と獅子ヶ谷市民の森


旧横溝家は、昔の名主の家で、江戸後期から明治中期に建てられた古民家です。1987年(昭和62年)に横浜市に寄贈され、1989年(平成元年)から公開されているそうです。

旧横溝家は、昔の典型的な農家の建物で、私も懐かしい気持で見学しました。土間のことを「にわ」と呼んだというのも、九州と同じでした。残された本棚の中の本を見ると、それまで住んでいた戸主は短歌を好んでいたことがわかります。また、旧横溝家の裏山には、小机城の支城の獅子ヶ谷城があったのではないかと言われているそうです。

台地の両端に残っている小山は、「獅子ヶ谷市民の森」として保存されていて、ハイキングコースになっており、旧横溝家を見たあとは鶴見区の方にある市民の森の一部を歩きました。

余談ですが、台地の上に家を買った人たちはどうして通勤しているんだろうと思いました。環状2号線沿いには、鶴見駅や綱島駅や菊名駅や新横浜駅に行くバスが通っていますが、それでも駅まではかなりの時間を要します。歩くとなると時間がかかる上に急な坂道を上ったり下りたりしなければならなりません。途中、下まで買い物に行って帰宅中とおぼしき人たちに遭遇しましたが、皆さん、それこそ登山のように前かがみになって息を整えながらゆっくりゆっくりと歩いているのでした。

ただ、横浜はこういった駅から離れた”不便なところ”は多く、むしろそれが当たり前みたいな感じさえあります。環状2号線沿いの住宅などは、法面に専用の階段が作られているような崖の上の家も多いのでした。

しかも意外だったのは、谷戸の台地の端に、少なくない数のアパートが建っていることでした。通勤通学するのにさぞや不便だろうと思いますが、住人たちは車を所有しているのかもしれません。でなけばとてもじゃないけど、生活できないように思いました。ただ、このブログにも書いたことがありますが、私自身は、運動会のときにひっそりと静まり返った校舎の裏に行ったり、家の裏山で一人で遊ぶのが好きだったし、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが牧場の裏の丘の上から、遠くに見える町の灯りを眺めながら物思いに耽る冒頭のシーンに自分を重ねるような子どもだったので、そういった表の喧騒と隔絶されたような場所はもともと嫌いではないのです。

獅子ヶ谷市民の森は、ハイキングと言うにはちょっと短い距離ですが、昔の自然が残されていて、山歩きのプチ体験ができるようになっていました。

帰りは、先週と逆コースの環状2号線を歩いて帰りました。

吉行淳之介に『街角の煙草屋までの旅』というエッセイ集がありましたが、これも僅か数時間の丘の上までの旅だったように思いました。

距離は8キロ弱、歩数は13000歩でした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC02932.jpg
マンション建設現場の囲いでおおわれた路地を進む

DSC02934.jpg
階段を上る

DSC02939.jpg
大豆戸不動尊

DSC02943.jpg
同上

DSC02946.jpg
台地の上からの眺望

DSC02954.jpg
急坂

DSC02971.jpg
鉄塔

DSC02966.jpg
鶴見大学師岡グランド

DSC03001.jpg
旧横溝屋敷

DSC03006.jpg
1847年(弘化4年)に建てられた長屋門

DSC03008.jpg
母屋

DSC02984_202305100910491f8.jpg
蔵の中に展示されている農具

DSC02988.jpg
同上

DSC03015.jpg
母屋の中の様子

DSC03017.jpg
土間(当時は「にわ」と言っていた)

DSC03027.jpg
台所(九州ではかまどのことを「おくど」と言っていた)

DSC03040.jpg
文書蔵(耐火性のある造りになっていて、大事な書き物などを保管していた)

DSC03047.jpg

DSC03052.jpg

DSC03055.jpg

DSC03066.jpg

DSC03083.jpg
内側から見る長屋門

DSC03085.jpg
右が農具が展示されている蔵

DSC03100.jpg

DSC03114_20230510091911ca0.jpg
西谷広場から登る

DSC03126.jpg
西谷広場

DSC03143.jpg

DSC03148.jpg
上からの眺望

DSC03152.jpg

DSC03160.jpg
ピンクテープもある

DSC03165.jpg

DSC03166.jpg
下谷広場に下りる

DSC03170.jpg

DSC03192.jpg

DSC03203.jpg
2023.05.10 Wed l 横浜 l top ▲
DSC01550.jpg


■鶴見川の土手


昨日も昼前から散歩に出かけました。いつもの代わり映えのしないコースで、鶴見川の土手を新横浜まで歩いて、そのあとは駅ビルに寄って本を購入して環状2号線を通って帰って来ました。

登山で使う地図アプリでトラック(歩いた軌跡)を記録しましたが、歩いた距離は7キロ弱でした。

ただ、昨日はゴールデンウィークの真っ只中だったので、いつもと様子が違っていました。

土手に上がる前に通る遊歩道には小さな公園がいくつかあって、休日は子どもたちで賑わっているのですが、ひとつの公園は、兄妹とおぼしき小学校低学年くらいの子どもが二人いるだけでした。さらに、もうひとつの公園は、乳飲み子を抱えたお母さんが、小さな子どもが一人で砂遊びしているのを見守っているだけでした。

鶴見川の土手もいつもの休日に比べると、ジョギングや散歩をしている人たちの姿も少なく閑散としていました。

横浜労災病院の先の新横浜の外れまで歩いて、ベンチに座ってコンビニで買ったおにぎりを食べていたら、一人の女性がやって来て隣のベンチに座ったのでした。そして、同じようにおにぎりを食べはじめたのでした。さらに、そのあとはショルダーバックから文庫本を出してそれを読み始めていました。

■新横浜の駅ビルと消えゆく書店の運命


新横浜の街に戻ると、駅に向かって人の波が続いていました。見ると女性が多いのですが、年齢層が若者から中高年まで幅広く、それもどちらかと言えば地味な服装の女性たちが多いのでした。横浜アリーナは反対側だし、コンサートの帰りには見えません。

私は宗教団体の集まりでも行われたのかと思いました。駅に向かう人たちを見ると、勧誘のためにグループで個別訪問している信者たちと似ている感じがしないでもありません。

気になったのでスマホで調べたら、近くにスケート場があり、そこでアイスショーが行われていたことがわかりました。昔は新横浜プリンスホテルスケートセンターと呼ばれていたのですが、今はコーセー化粧品が命名権を獲得して、「KOSÉ新横浜スケートセンター」と呼ばれているそうです。私もフィギュアスケートの大会などで、新横浜プリンスホテルスケートセンターという名前は知っていましたが、どこにあるのか場所は知りませんでした。アイスショーのファンはあんな感じなんだ、と思いました。

相鉄線と東横線の乗り入れにより、相鉄線の西谷駅から東横線の新綱島駅まで新たに新横浜線が敷設され、それに伴って新横浜駅にも新しい地下鉄の駅ができたばかりです。ところが、駅ビルのオープンとともに15年間テナントとして、駅ビルの3階と4階のフロアを占めていた高島屋のフードセンターが2月1日に閉店したのでした。高島屋のフードセンターは、デパ地下のコンテンツを地上階で展開したものです。そのため、新横浜周辺に住んでいる人たちには衝撃を持って受け止められているのでした。しかも、次のテナントは未定とかで、未だにベニヤ板で囲いがされたままです。

アフターコロナで観光地が賑わっているとか言われていますが、新横浜のような観光資源の乏しい、どちらかと言えばビジネス街のような街は関係ないのです。もっとも観光地にしても、インバウンドが頼りなので、ロンリープラネットで紹介されて外国人観光客が訪れないと、その恩恵に浴することはできないのでした。それが現実なのです。

階下の新幹線の改札口は多くの乗客で賑わっていましたが、やはり、途中の階のフードセンターが撤退した影響は大きいようで、最上階にある書店も前に比べて人は少なく淋しい光景が広がっていました。ただその中で、場違いに女性たちが群がっている一角がありました。見るとジャニーズ云々の文字が見えました。どうやらジャニーズ事務所のタレントたちの写真集やブロマイドなど関連グッズを売っているようでした。

それで再びスマホで調べたら、案の定、5月3日から6日まで横浜アリーナでKAT-TUNのコンサートが行われていたのでした。

前は駅前にあった書店が、横浜アリーナで開催されるコンサートに合わせて、アイドルのグッズを売っていましたが、その書店もとっくに閉店してしまいました。それで今度は駅ビルの書店が扱っているようです。ちなみに、駅前にあった書店は、神奈川に本社があるチェーン店で、私は昔、関東一円の店に文房具を卸していたことがあります。

このブログでも書いたことがありますが、横浜アリーナでアイドルのコンサートが行われたときなどは、駅前の書店はグッズを買い求めるファンたちでごった返すほどでした。しかし、それでも採算が合わずに閉店したのです。

これはみなとみらいなどのビルに入っている書店も同じですが、とてもじゃないけど採算が取れているようには思えません。外から見ても、年々来店者が減っているのがわかります。個人経営の小さな書店だけでなく、大型のチェーン店もやがて消えていく運命にあるのは間違いないように思います。

書店で未知なる本と出合えるのは読書家の喜び、というのはよくわかる話ですが、しかし、書店のシビアな経営にとって、そんな話は気休めでしかないのです。

■物価高騰と愚民社会


帰りに夕飯のおかずを買うためにスーパーにも寄りましたが、スーパーも人がまばらでした。まだ夕方の早い時間だったのですが、早くもトンカツが値引きされていましたので、それを買って帰りました。

私は家ではもっぱら伊藤園の濃いお茶を飲んでいるのですが、最近は2リットル入りのペットボトルが170円とか180円とか行くたびに値段が上がっています。如何にも「お得だ」と言わんばかりに「2本で350円」とか貼り紙が出ていることがありますが、冷静になって考えれば全然安くないのでした。

今の物価高騰こそ”異次元”と呼ぶべきだと思いますが、日本人の習性で、いつの間にか喉元過ぎれば熱さを忘れて、慣れっこになった感じすらあります。

大風呂敷を広げれば、今の状況は、危機に瀕するグローバル資本主義が制御不能になり、かつて経験したことがない世界的な物価高騰を招いていると解釈することができるでしょう。

今の物価高騰のきっかけが、ウクライナ戦争に伴う資源(エネルギー)価格の高騰にあり、その背景に世界の多極化という覇権の移譲が伏在していることを考えれば、アメリカが中国の台頭を牽制し、どう中国の脅威を喧伝しようとも、この流れを止めることはできないように思います。グローバルサウスと呼ばれる第三世界の国々が、アメリカの支配から脱して中国に乗り移ろうとしているのも当然なのです。

一方で、対米従属を国是とするこの国の政権の腰巾着ぶりを見ると、グローバル資本主義の危機に連動した私たちの生活が、これからもっと苦難を強いられるのは避けられない気がします。革命のDNAがない日本では、みずからの自由を国家に差し出して、さらに盲目的に国家に頼るのがオチですが、でもそれは、地獄への案内人に手を差し出すことでしかないのです。平均年収や最低賃金や相対的貧困率など、私たちの生活に関連する指標を見ても、既に日本はOECDの中で下位に位置するようになっています。それだけグローバル資本主義の危機によって、私たちの生活が圧迫されているのです。にもかかわらず、肝心な国民にはその危機感があまりに希薄です。

それどころか、中身は単なるバラマキ(あとで税金で回収)でしかない異次元の少子化対策なるものが打ち出されると、「ラッキー! これで住宅ローンの支払いが楽になる」と言わんばかりに、内閣の支持率が急上昇する始末です。そんな一片の留保もない動物的な反応を見ると、私は、福島第一原発の事故のあと、大塚英志と宮台真司が出した『愚民社会』(太田出版)という本のタイトルを思い出さざるを得ないのでした。

子どもをめぐる問題を貧困問題(上か下かの問題)として捉える視点がない与野党も含めた今の政治は、この格差社会において政治の責任を放棄し、完全に当事者能力を失っているとしか思えませんが、そういった声もまったく聞かれません。これでは、政治家たちは、大衆なんてチョロいと高笑いして、危機感もなく国会でうたた寝をするだけでしょう。

エマニュエル・トッドではないですが、現在は大衆社会の閾値を超えるような高学歴の社会になったのです。だからこそ、愚民批判は、ためらうことなく、もっと苛烈に行われるべきだと思います。中野重治の『村の家』のような、インテリゲンチャと大衆という区分けはとっくになくなったのです。もうインテリゲンチャも大衆もいないのです。

「それ、あなたの意見ですよね」という”ひろゆき語”だけでなく、「上から目線」という言い方や、YouTubeでアンチに対して「だったら見なければいい」というような身も蓋もない言い方がネットを中心に流通していますが、要するに、そうやって思考停止する自分に開き直ることが当たり前になっているのです。「上から目線」という言い方に対しては、逆に何様なんだ?と言いたくなりますが、昔だったら、そんな言い方は、とても恥ずかしくて口に出して言えませんでした。でも、今は恥ずかしいという感覚はなく、むしろ”論破”したつもりになっているのです。そういったネット特有の夜郎自大について、「孤立」しているからだという見方がありますが、私は、必ずしも「孤立」しているのではないように思います。ネットの時代になり、同類項の人間たちが可視化されたことで、恥ずかしい言語を共有する仲間トライブができたのです。そして、その中でみずからを合理化できるようになったのです。

ひろゆきにしても、どう見ても”痛いおっさん”にしか見えません。ひと昔前なら嘲笑の対象だったでしょう。でも、彼は「論破王」などと言われて持て囃され、社会問題についてコメントまでするようになったのです。文字通り愚民社会のスターになったのでした。

メディアは言わずもがなですが、左派リベラル界隈の言説にしても、まったく現実をこすらないような空疎な(屁のような)言葉ばかりです。どうしてこすらないのかと言えば、愚民批判のような”闘技”を避けているからです。シャンタル・ムフの言葉を借りれば、今こそ(カール・シュミットが言う)「友敵関係」を明確にした”闘技”の政治、つまり、感情をゆさぶるようなラジカルな政治が求められているのだと言いたいのです。

政治家たちは、勝手に高笑いしてうたた寝をしているのではないのです。愚民社会がそうさせているのです。


関連記事:
理念神話の解体
『愚民社会』
新横浜
2023.05.05 Fri l 横浜 l top ▲
ペスト


■新型コロナウイルス


先日、きっこがTwitterに次のように投稿していました。

国民の命など二の次の岸田政権は、すでに新型コロナを過去のものとして無対策を加速しているが、専門家によると現在の国内の感染者の9割は死亡率の高い変異株であり、連休後には世界各国から帰国する邦人が持ち込んだ新たな変異株により、この夏は10万人規模の死者が出る第9派の恐れもあるという。

きっこ
@kikko_no_blog


これを単に狼少年(狼女?)の戯言と一笑することができるでしょうか。

メディアにおいても、新型コロナウイルスは既に終わったかのような雰囲気で、どこもゴールデンウィークに日本中が浮かれているようなニュースばかりです。喉元過ぎれば熱さを忘れるのは日本人の習性ですが、政府の方針が変わると、みんな一斉に右へ倣えしてガラッと空気も変わるのでした。

これも既出ですが、カミュの『ペスト』の最後では、ペストを撃退したとして花火が上がり、街の至るところで歓喜の声が上がる中で、語り手のリウーは次のように呟くのでした。

(略)――ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておろらくいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。

宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫)


ペストは、抗生物質の開発で死に至る感染症ではなくなりましたし、先進国では検疫(防疫)の普及でほぼ”撲滅”されましたが、新型コロナウイルスは、この3年間で少なくとも10億人を超すであろう人々の体内に定着したのです。私たちの身体には380兆個のウイルスが生存していると言われていますが、新型コロナウイルスもその中に加わったのです。ウイルスは、宿主とともに生き続けますが、しかし、新型コロナウイルスは、宿主の遺伝情報を利用して変異株(子孫ウイルス)を作るやっかいな存在です。それどころか、似たようなウイルスは自然界に無数に存在しており、自然破壊によって人間と中間宿主である野生動物との距離が近くなったことで、今後も別のウイルスによる感染爆発が懸念されているのでした。

新型コロナウイルスは、5月8日より感染法上の位置付けが、これまでの「2類」相当から、季節性インフルエンザと同じ「5類感染症」の扱いになります。その移行に伴い、今までのように全ての医療機関が毎日感染者の数などを報告する「全数把握」は終わり、週に1回全国5000の指定医療機関のデータを集計した報告になり、死者数は月に1回発表されるだけになります。これでは、感染に対する関心も薄れ、その対策もなきに等しいものになるので、今後、新たな変異株の感染が発生すれば、今までとは比べものにならないくらい爆発的に拡大するのは目に見えているでしょう。

■外国人観光客を羨ましがる日本人


日本人は、ついこの前まで、外国人、特に欧米人はケチでお金を使わないと言っていたのに、今や様相が一変し、彼らを救いの神のように崇め、その散財ぶりを羨ましがるようになっているのでした。

観光地でゲストハウスを所有している友人は、ゲストハウスの運営は専門の会社に任せているそうですが、まだ入国制限が行われて全国旅行支援の日本人観光客が主であった頃は、「全国旅行支援の分宿泊料が高くなっているので、お客の負担はほとんど変わらない。全国旅行支援は観光業者の利益になっているんだよ」と(近畿日本ツーリストの不正請求に見られるような)観光業者のぬけめないやり方を指摘していました。そして、入国制限が緩和して外国人観光客がどっと押し寄せるようになったら、「オレはありがたいけどな」と前置きして、「びっくりするくらい宿泊料を高く設定していて、あれじゃ日本人は泊まれないだろう」と言っていました。実際に、最近は宿泊客のほぼ百パーセントが外国人観光客だそうです。そうやってここぞとばかりに荒稼ぎしているのです。

それでも外国人観光客から見れば、日本は安い国なのです。「オーストラリアの昼食1回分のお金で、日本では夕食を3回食べることができる。金持ちになった気分だよ」とインタービューで答えていた観光客がいました。

築地の場外市場に外国人観光客が押しかけて、押すな押すなの賑わいというニュースを見ていたら、友達と観光に訪れたという日本の女子大生が、「(外国人観光客は)みんな高いものを食べているので凄いですね」と言っていましたが、そこには今の日本の姿が映し出されているように思いました。

■ウクライナ戦争と核の時代


よく陰謀論の権化のように言われる田中宇氏は、「決着ついたウクライナ戦争。今後どうなる?」という有料記事のリードに、次のように書いていました。

もうウクライナが勝てないことは確定している。事態を軟着陸させて漁夫の利を得るために和平提案した習近平が勝ち組に入っているのも確定的だ。ウクライナが西部だけ残ってポーランドの傘下に入る可能性も高い。米国と西欧の崩壊が顕在化し、東欧は非米側に転じ、NATOが解体する。ウクライナの国家名はたぶん残る(その方が和平が成功した感じを醸成できる)。ゼレンスキーが生き残れるかどうかは怪しい。EUも解体感が強まるが、国権や通貨の統合を解消して元に戻すのは困難だ。EUは再編して存続する可能性がある。

田中宇の国際ニュース解説
https://tanakanews.com/


やや突飛な感じがしないでもありませんが、これを単なる陰謀論として一蹴することができるでしょうか。私たちは、普段、イギリス国防省やアメリカのペンタゴンから発せられる“大本営発表”しか接してないので、こういった記事を目にするとトンデモ話のように受け取ってしまいます。しかし、たとえば、アメリカが唯一の超大国の座から転落して世界が多極化するという話も、最初はトンデモ話のように言われて、ネットで嘲笑されていたことを忘れてはならないでしょう。それどころか、政治の専門家やメディアも歯牙にもかけなかったのです。

関連記事:
世界史的転換

それは今も同じです。日本のメディアでは、ウクライナ戦争はロシアの敗北で終わるような話になっていますが、中国が言うように「核戦争に勝者はいない」のです。ホントに敗北するような事態になれば、ロシアはためらうことなく核を使用するでしょう。米英の“大本営発表”をただオウム返しに垂れ流すだけの日本のメディアには、勝者なき核戦争に対する認識がまったく欠落しているのです。それは驚くべきことだし、怖ろしいことです。

ウクライナ戦争に対しては、「核戦争には勝者はいない」という視点で考えるべきだし、そのために和平の働きかけが何より優先されるべきです。そんな当たり前のことさえ行われてないのです。そこにこの戦争の真の危機があるのだと思います。

先日、中国で「反スパイ法」が改正され、スパイの定義が拡大されたとして、日本のメディアでは、中国に駐在する日本人がアステラス製薬の社員と同じように狙い撃ちされるのではないか、というような話が盛んに流されています。これだけアメリカ主導で、今にも(2年以内に?)中国が台湾に侵攻するというような宣伝が行われ、周辺国が軍備増強を進めれば、中国が警戒心を強め国内の締め付けを強化するのは、ある意味で当然と言っていいでしょう。アメリカは、ロシアと同じように、中国が追い詰められて軍事的な行動を起こすように挑発している感じさえあるのです。

しかし一方で、現在のところ、どんな思惑があれ、「核戦争に勝者はいない」としてウクライナ戦争の停戦に乗り出しているのは中国だけです。欧米や日本は、民主主義が優位ですぐれた理念だと自画自賛し、中国やロシアを「権威主義国家」と呼んで敵対視していますが、しかし、戦争を煽り、核戦争の危機を招来しているのは、優位ですぐれた理念を掲げているはずの「民主主義国家」の方です。

欧米の「民主主義国家」は、”終末戦争”と言ってもいいような過激な玉砕戦を主張するゼレンスキーを節操もなく支援するだけです。どこの「民主主義国家」も、ゼレンスキーを説得しようとしないのです。まるで一緒になって”終末戦争”に突き進んでいる感じです。

ウクライナ戦争は対岸の火事などではなく、世界中が戦争の当事者でもあるのです。築地でウニを食べて浮かれているような観光客も当事者です。それが核の時代の日常なのです。

■核戦争を煽る岸田首相


岸田首相は、5月1日からグローバルサウスと呼ばれるアフリカのエジプト、ガーナ、ケニア、モザンビークへの歴訪を行っていますが、グローバルサウスというのは、欧米主導の世界秩序に異を唱える第三世界の国々のことです。しかし、いつの間にか第三世界ではなく「第三極」という言い方に変わっているのでした。

国連のロシア制裁決議においても、グローバルサウスの国々の大半は、反対もしくは棄権をして、欧米主導の決議案に反旗を翻したのでした。

岸田首相は、ウクライナ戦争の和平の道を探るために、そのカギを握るグローバルサウスを訪れたのかと思ったら、そうではなく、中国やロシアの影響力が増している彼の国々に対して、ともに反中国・反ロシアの列に加わるようにオルグするためだったのです。中国からの援助を「援助の罠」と呼び、それに対抗して数百億円というとてつもない金額の援助をチラつかせながら、「こっちの水は甘いぞ」と誘っているのでした。

1千万人を優に越える人々が年収130万円以下で生活しているような国内の貧困(格差)問題はそっちのけに、アメリカの手下になって花咲か爺さんのように大盤振る舞いを行っているのでした。

これでは、「核戦争に勝利はない」という考えなどどこ吹く風で、むしろ核戦争を煽っていると言っても言いすぎではないでしょう。まったく狂っているとしか思えませんが、しかし、それを指摘するメディアは皆無です。

一方、平和・護憲を謳い文句にしてきたいわゆる左派リベラルも、ウクライナがどんな国なのかという検証もなしに、ただ徒に侵攻したロシアを糾弾するだけで、バイデン政権の戦争政策に同伴しているのでした。そんな彼らを見るにつけ、戦後憲法が掲げる平和主義やその理念が如何に脆く、いい加減なものだったのかということを、あらためて痛感させられるのでした。彼らが掲げる”護憲”なるものは、現実の戦争に直面すると、単なる建前と化すような空疎なものでしかなかったのです。左派リベラルの”護憲”や”平和”の論理は、完全に破綻したと言っていいでしょう。口では翼賛体制に反対するようなことを言いながら、みずから進んで翼賛体制に加わっているのですから、戦前の社会大衆党と同じです。”鬼畜中ロ”においては、与党も野党も、右も左もないのです。まさに歴史は喜劇として再び繰り返しているのでした。
2023.05.03 Wed l 社会・メディア l top ▲
P1040971.jpg
(大船山)


■中野重治の歩調


中野重治の「村の家」を久しぶりに読みました。中野重治は、1924年東京帝国大学独文科に入学後、新人会(戦前の学生運動団体)に入会し、天皇制国家の弾圧下にあった日本共産党が指導するプロレタリア芸術運動に加わります。

そして、1931年、29歳のときに日本共産党に入党しますが、1932年、治安維持法違反で逮捕されるのでした。しかし、1934年、転向を申し出て保釈され、福井県の日本海に近い寒村にある実家に帰郷するのでした。

「村の家」は、その実体験に基づいて書かれた短編小説です。発表されたのは、昭和10年(1935年)5月です。

「村の家」は、筆を折って(小説を書くことをやめて)村で農業をやれと説得する父親に対して、転向による深い心の傷を抱えながらも(だからこそ)文学への復帰を決意する、主人公の葛藤と覚悟が私小説的な手法を用いて描かれているのでした。

天皇制国家のむき出しの暴力と命を賭して対峙する当時の共産党員にとって、転向は屈服以外の何物でもありません。今の時代では考えられませんが、みずからの存在意味をみずからで否定するような“人生の自殺”に等しいものです。でも、文学というのはそういうところから生まれるものです。

「村の家」は、リゴリスティックで党派的な転向概念から零れ落ちる、個別具体的で人間的な感情を描いているという点で、従来のプロレタリア文学とは一線を画していると言えるでしょう。

私は、ちくま文学全集の中野重治の巻に収められていた作品を読んだのですが、加藤典洋氏は「解説」の中で、中野重治の小説を次のようなキャッチ―な言葉で評していました。

一度、極端にうつむいたことのある人が、気をとり直し、そろそろと日なたの中を歩む。それが中野の歩調だ。


■父親からの手紙


実家では69歳の父親の孫蔵と62歳の母親のクマが農業を営んでいます。父親の孫蔵は、村では、口喧嘩ひとつもしたこともない温厚な性格で、寺の行事でも必ず会計係を申し付けられるような正直者で通っています。そして、「ながくあちこち小役人生活をして、地位も金も出来ないかわりには二人の息子を大学に入れた」のでした。

しかし、長男は大学を出て1年で亡くなります。そのときも、孫蔵は愚痴ひとつこぼさなかったそうです。娘も三人いましたが、嫁いでいた次女は子どもを出産したあと肺病(肺結核)が悪化し、子どもとともに亡くなります。しかも、次女の看病をしていた長女にまで肺病が移ってしまったのでした。それに加えて、次男が治安維持法違反で二度目の逮捕をされたのです。出所して帰郷した際も、3つの新聞社から記者が実家に取材に訪れたほどで、世間から見れば売国奴の“過激派”なのでした。

孫蔵は、「七十年ちかい生涯を顧みて、前半生の希望が後半生にきて順々にこわされていったこと、その崩壊が老年期 ー 老衰期にはいってテンポを高めたことを感じ」ていたのでした。

「村の家」は、夕餉の卓の父親と母親を次のように描写していました。

 分銅のとまった柱時計の下で、孫蔵、タマ、勉次、親子三人が晩めしを食っている。虫の糞のこびりついた電燈がぶらさがって、卓袱台の上の椀、茶碗、皿、杯、徳利などを照らしている。孫蔵は右足を左股へのせたあぐらで桑の木の飯椀でがぶがぶ口を鳴らしている。ときどき指を入れて歯にはさまったものを取りだす。大きな黄いろい歯が三十二枚そろっている。(略)
 タマは前かがみでどことなくこそこそと食っている。髪の毛をぶざまなひっつめにして、絣の前かけをして、坐ったとも立膝ともつかぬ恰好をしている。鼻汁はなをすすったり、足を掻いたりする。肩を落としている。小さい三角の眼が臆病そうに隠れて、そっ歯で、口を閉じるとおちょぼ口になる。上くちびると鼻とのあいだに縦皺がよっている。からだ全体痩せていかにも貧相だ。


獄中にある勉次のもとへ孫蔵から手紙が来るのですが、その中には自分たちのことだけでなく、村の人たちの近況が綴られているのでした。たとえば、こんな文面です。

「一月九日の手紙を見ました。元気で厳寒を征服した事を悦びます。父母も無事に六十九歳と六十二歳の春を迎えました。雪は只今は平地三尺位の物でしょう。世間は少しも思うように行かぬものと見え、稲垣信之助さんが本月に入りてから、十歳を頭(かしら)に四人の子供を残して亡くなりました。高松定一さんは(高松の本家の養子)足掛三年中気で床にあります。小野山登さんは足掛三年越しに発狂しております。松本金吉さん方には昨年夏次郎という男子と十八になる妹が一ヶ月の間に肺病で亡じ、今は老夫婦だけになりました。隣家と北はよく働くから少々ずつ貯金が出来て行くようで喜んでいる。里窪の池内も一家こぞって努力するから大いに喜んでいる。
 堂本の子供達が少し頭が悪いので心配しております。俗に八丈というが六丈どころでないかと思う。なお寒さを大切に。」


私も、遠く離れて暮らすようになると、ときどき田舎の父親から手紙が来ましたが(大概はお金を無心して現金を送って来た際に同封されていた手紙でしたが)、父親の手紙もこんな感じで、読んでいて昔が思い出され胸が熱くなりました。

見覚えのある独特の文字で綴られた文章の間から、田舎での暮らしや親の心中が垣間見えて、ちょっと切ないようなしんみりとした気持になったことを覚えています。

■子どもに対する遠慮がちな理解


孫蔵は、家には5千円(今で言えば1千200万円くらい)の借金があり、土地を売っていくらか精算しようと思っても、田舎の土地は売れないのだと言います。また、逮捕された勉次の元へ面会に行ったときも、腕時計を質に入れ、さらに親戚からお金を借りて旅費を工面したと話すのでした。

二度目の逮捕だったので、「小塚原こづかっぱらの骨になって」(つまり、処刑されて)帰って来るものと覚悟していたのに、転向して保釈されたと連絡が来たので驚いて、取るものも取らず東京に向かったのだと言います。

このように、自分の息子がアカい思想に染まり天皇様に盾突いても、父親の孫蔵は意外なほど淡々としています。普通ならもっと感情的になって親子の縁を切るような話が出てもおかしくないのです。そこには、「ながい腰弁生活のうちに高くないながらおとなしい教養を取りいれて」「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」父親の姿があるのでした。

若い頃、仕事で農村のとある家に行った際、そこは夫婦二人で農業を営んでいる家でしたが、私にあれこれ質問したあと、自分の家の息子の話になったのです。息子は大学に行っているそうで、母親が「近所の同い年の息子さんはもう家の仕事(農業)をしながら農協に勤めて立派になっているけど、うちの息子はまだお金がかかって困っちょるんよ」と嘆いたのでした。

すると、父親が「バカたれ。それだけ本を読んで勉強することはお金に換えられんもんがあるんじゃ。それがわからんのか」と大声で叱責したのですが、それを見て私は、良い父親だなと思いました。

私は一応進学校と呼ばれる高校へ行ったのですが、現在のように必ずしもみんなが経済的に恵まれていたわけではないにもかかわらず、同級生の親たちも同じようなことを言っていました。また、長じて親の立場になった同級生たちも、やはり、同じようなことを言っています。それが子どもにとって、良いことかどうかとか、費用対効果がどうだったか(元を取ったか)とかに関係なく、みんな「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」のでした。

■吉本隆明の評価


中野重治に対しては、日本共産党との関係を取り上げて批判する向きもありますが、文学の評価はそんなものとはまったく関係ないのです。

中野重治の小説には、イデオロギーで類型化された人間観とは違った、人に対する温かい眼差しがあります。私は、中野重治の詩も好きなのですが、「雨の降る品川駅」や「歌」や「夜明け前のさよなら」のような抒情あふれる戦いの詩を生み出したのも、彼が持つ温かい眼差しゆえでしょう。そのナイーブな感性を考えるとき、田舎で実直につつましく懸命に生きながら、「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」父親の存在をぬきにすることはできないように思います。

吉本隆明は、戦前の転向を、「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換」(『転向論』)と規定し、その本質は「大衆からの孤立(感)」によるものだったと言っていましたが、そんな吉本はこの「村の家」を転向小説として高く評価しているのでした。吉本は、「『村の家』の勉次は、屈服することによって対決すべき真の敵を、たしかに、目の前に視ているのである」(『転向論』)と書いていました。

次のような孫蔵の話を胸に受け止めながら、勉次はそれでもなお、みずからの転向を引き受けた地点から、みずからの文学の再出発を決意するのでした。

「よう考えない。わが身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。‥‥里見なんかちゅう男は土方に行ってるっちゅうじゃないかして。あれは別じゃろが、いちばん堅いやり方じゃ。またまっとうな人の道なんじゃ。土方でも何でもやって、そのなかから書くもんが出てきたら、そのときにゃ書くもよかろう。それでやめたァおとっつぁんも言やせん。しかしわが身を生かそうと思うたら、とにかく五年八年とァ筆を断て。これやおとっつぁんの考えじゃ。おとっつぁんら学識ァないが、これやおとっつぁんだけじゃない。だれしも反対はあるまいと思う。七十年の経験から割り出いていうんじゃ。」


勉次は、自分の考えを論理的に説明できないもどかしさを覚えます。一方で、孫蔵の言葉を罠のように感じるのでした。しかし、そう思った自分を恥じるのでした。そして、「自分は破廉恥漢なのだろうかという、漠然とした、うつけた淋しさ」を感じながらも、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。」と答えるのでした。


関連記事:
知の巨人たち 吉本隆明

2023.04.30 Sun l 本・文芸 l top ▲
publicdomainq-0057537ohqzks.jpg
(public domain)


■東急東横線


私が横浜のこの街に住んでもう20年近くになりました。私が住んでいるのは、毎年、不動産サイトが発表する「首都圏で住みたい沿線ランキング」において、上位ランクの常連でもある東急東横線沿線の横浜側の街です。2022年は東横線は2位でした。ちなみに、1位は東京のJR山手線です。

ただ、JR山手線沿線と言われても、あまりにざっくりした感じで、住宅街としてのイメージが湧いてきません。住宅街としては、東横線沿線の方が具体的なイメージがあり、一般的に認知されていると言えるかもしれません。

輸入雑貨の会社に勤めていた頃、私は横浜を担当していましたので、週に1回は渋谷から東横線に乗って横浜に行っていました。当時は渋谷から横浜まで200円もしなくて、電車代が他の会社に比べて安かったのを覚えています。もちろん、東横線の終点は横浜駅ではなく桜木町駅でした。

東横線に乗ると、何だか電車の中がもの静かで、お上品なイメージがありました。そんな中で、当時の武蔵小杉は雑多で異質な街でした。駅から少し離れると工場がひしめていて、しかも京浜工場地帯の後背地を通る南武線も走っていたし、何だか東横線のイメージにそぐわないような感じさえ抱いたものです。

武蔵小杉の工場跡地にタワーマンションが建ったのは、私が横浜に引っ越したあとのことです。やがて駅周辺に迷路のような囲いが作られて建設が始まり、あれよあれよという間にオシャレな街に変貌していったのでした。

■昭和のアパート


今、私が住んでいる街も、昔は町工場が多くあったところです。ただ、武蔵小杉などよりずっと前に住宅地の開発がはじまり、平坦な土地が多いということもあって、”高級”のイメージが付与され、人気の住宅地になったのでした。昔は畑の中に大手家電メーカーの工場があり、周辺に下請けの工場が点在していたそうです。

前も書いたことがありますが、ANAの女子寮もありました。また、たまたま私の高校時代の同級生が、若い頃すぐ近くにある某メーカーの独身寮に住んでいたそうで、当時は社宅や寮なども多くあったのです。しかし、今はほとんど残っていません。最後に残っていた保険会社の社宅も、現在、跡地に大手デベロッパーのマンションが建設中です。

私が引っ越して来た当時、駅周辺の路地の奥には、”昭和のアパート”といった趣きの古い木造のアパートがいくつもありました。おそらく、それらのアパートは、当初は周辺の町工場で働く人たちを対象に建てられたのだと思います。

アパートの前を通ると、ときどき建物から出て来る住人に遭遇することがありましたが、ほとんどが高齢者でした。仕事をしているのか、オシャレな恰好をして鉄階段を下りて来る高齢の男性を見たこともありますし、また、アパートの前に植えられた桜の木にカメラのレンズを向けている高齢女性を見たこともあります。年齢の割に派手な恰好をしたお婆さんでした。あるいは、開けっぱなした窓から見える室内の壁一面に揮毫をふるった書道の紙を貼っている、ちょっととっぽい感じのお爺さんもいました。

でも、それらのアパートはこの15年くらいの間に多くが取り壊され、アパートと呼ぶのかマンションと呼ぶのかわからないような、今風の建物に変わってしまいました。もちろん、住人も様変わりして、若いカップルや夫婦になりました。

久し振りに前を通ると、新しい建物に変わっているのでびっくりするのですが、そのたびにあの高齢の住人たちのことを思い出すのでした。

そして、わずかに残っていた昭和のアパートが最後に姿を消したのは、この5~6年のことです。待機児童の問題が取り沙汰されるようになり、横浜市でも次々と保育園が作られたのですが、その用地になったのでした。

しかし、最近は保育園も過剰になったのか、どこも前を通ると、「入園者募集」と「保育士募集」の紙が貼られています。そう言えば、待機児童の問題がニュースになることもなくなりました。

それらの保育園に子どもを預けているのは、近辺のマンションに住んでいる若い夫婦たちです。人気の東横線沿線に住みたいと思って、背伸びして割高なマンションを買ったような人たちと言っていいかもしれません。

週末のスーパーに行くと、30代くらいの若い家族連れが目立ちますが、高齢者と入れ替わるように、そんな若い家族が越して来たのでした。

■冷たい街


よく「どこに住んでいるのですか?」と訊かれて、この街の名を告げると、決まって「いいところに住んでいますね」と言われるのですが、ただ、私がこの街に住んだのは特に理由があったわけではありません。それこそ「所さんのダーツの旅」みたいな感じで選んだだけです。しかし、実際に住んでみると、外から見るイメージと実際は全然違います。当たり前の話ですが、”高級住宅街”と言っても、住んでいる人間が高級なわけではないのです。ただ地価が高いというだけです。

住民には若い女性たちも多く、夕方、駅前のスーパーに行くと、勤め帰りの彼女たちが買い物に来ていますが、はっきり言って買っているのがショボくて、コンビニと間違えているんじゃないかと思うほどです。家賃が高いので、食費を倹約しなければならないのかもしれません。それは週末のスーパーに来ている若い夫婦も同じで、恰好はオシャレですが、カゴの中は質素倹約そのものです。横浜に来る前は埼玉に住んでいましたが、埼玉のスーパーの方が全然買いっぷりがいいように思いました。

一方で、入れ替わりが激しいのですが、カットサロン、私たちの年代で言えば美容院、田舎にいた子どもの頃の呼び方で言えば、パーマ屋がやたら多いのでした。

だからと言って、商店街に活気があるわけではなく、むしろ逆で閉塞感が漂っています。地元の人たちに聞いても、昔の町工場の時代の方が活気があったと言っていました。

何だか“虚飾の街”という感じがしないでもありません。東横線の電車がお上品に見えたのも、実際に住んでみるとただの錯覚だったということがわかりました。高級とかオシャレとか言われるのも、腹にいちもつの不動産会社が捏造した、ただのイメージにすぎないのだということがよくわかります。むしろ逆に、人々に余裕がないのか、どことなく街に冷たいところがあるのでした。何というか、山に登っているときにすれ違ったハイカーに「こんにちわ」と挨拶しても無視されるような、そんなバリアのようなものを感じるのでした。その点は、ヤンキー家族が多い埼玉の街の方が、お世辞にもお上品とは言えないし、何かトラブルがあったときは面倒ですが(子どもの前でも平気でヤクザ口調になるパパがいたりする)、その分開けっ広げに素顔を晒すような清々しさや人間臭さがあったように思います。

いつの間にか姿が見えなくなった昭和のアパートの住人たち。どこに行ったんだろうと思います。彼らは、高級やオシャレと引き換えに、私たちの目に見えないところに追いやられたのでした。

■老後の貧困


最近は高齢者に対して、無駄だとか邪魔だとか足手まといだとかいった言葉を投げつけられるような、”棄民の思想”さえ垣間見えるようになっています。少子化問題もそうですが、そこにあるのは、資本家と同じような経済合理主義の考えだけです。老人や子どもの問題を、貧困問題として捉えるような視点はどこにもありません。

昔、老後の貧困を扱ったNHKの番組の中で、「老いることは罪なのか」という言葉がありましたが、もうそんな問いかけさえなく、最初から「罪だ」と決めつけているような風潮があります。政治家だけでなく、メディアが老人問題を報じる際も、真っ先に出て来るのが高齢者の社会保障費や医療費が財政を圧迫しているという問題です。そこから話がはじまるのでした。「シルバー民主主義」という言葉も、直接的な言い方を避けた”老人叩き”のための隠喩として使われていることを忘れてはならないでしょう。

でも、2022年3月に厚労省が発表した最新のデータによれば、老齢年金の平均受給額(月額)は、国民年金が55,373円で、厚生年金が145,638円です。個々の高齢者は、こんな僅かな年金でそれこそ爪に火を点すような老後の暮らしを送っているのです。これでは家族がいない単身者が生活できないと嘆く気持がよくわかります。にもかかわらず、高齢者たちは無駄だとか邪魔だとか足手まといだとか言われて、老いることも自己責任のように言われるのでした。

どうしてこんな冷たい社会になったんだろうと思います。五木寛之は、どう生きたかではなく、どんな人生であっても、とにかく生きぬいて来ただけで凄いことだし立派なことなんだ、と言っていましたが、やはり、国家が没落して貧しくなると、高齢者を敬い、労わるような余裕もなくなるのだろうかと思ったりします。何だかそれは、この街の冷たさと似ているような気がします。将来の納税者を増やす異次元の少子化対策のために、老人は目に入らないところに消えてくれと言っているような感じすらあるのでした。
2023.04.27 Thu l 横浜 l top ▲
publicdomainq-0015161ftgzih.png

(public domain)


■維新の伸長


今回の統一地方選と衆参の補選では、とにかく投票率の低さが目立ちました。

NHKの報道によれば、(23日投票が行われた後半の)55の町村長選の平均投票率は60.8%、280市議選は44.26%、250の町村議選は55.49%で、過去最低だったそうです。

一方、東京都の区長選は45.78%、区議選は44.51%で、それぞれ前回より1.57ポイントと1.88ポイント増えていますが、依然50%を切っています。

また、衆参の補欠選挙は、補欠選挙という性格もあるのだと思いますが、いづれも通常の選挙より大幅に減っています。和歌山1区は44.11%(前回総選挙より11.05ポイントマイナス)、山口2区は42.41%(同9.2ポイントマイナス)、山口4区34.71%(同13.93ポイントマイナス)、参院大分区は42.88%(22年より10.50ポイントマイナス)でした。

ただ、この投票率の低さは、棄権率の高さと言い換えることもできるのです。私は、むしろ前向きに解釈してもいいのではないかと思います。つまり、棄権率の高さに示されているのは、既成政党に対する拒否反応ではないかと考えるのでした。

衆参の補欠選挙では、自民党は4勝1敗、立憲民主党は全敗、日本維新の会が和歌山1区で初めて議席を獲得して1勝でした。

日本維新の会は、今回の統一地方選挙で599人が当選し、非改選の現職175人を合わせると、首長や地方議員が774人になったそうです。維新は、「統一地方選挙で600議席」の目標を掲げていましたが、その目標を大幅にクリアしたのです。

維新が伸長したのは、自民党を食ったというより、立民の票を食った、立民の受け皿になったという意味合いの方が強い気がします。維新が言う「立憲民主党に代わる野党第一党」も、現実味を増してきたと言っていいでしょう。

日本維新の会は、東京都内の議員数も従来の22人から73人に急増したそうです。首都圏の神奈川や埼玉でも当選者を出しており、全国区の政党としての認知度も上がってきたと言えるでしょう。

朝日新聞は、その伸長ぶりを次のように書いていました。

 維新によると、都内では70人の候補を擁立し、67人が当選。さらに、上位当選の多さが目立った。朝日新聞の集計では、都内の当選者のうち49人が上位3分の1以内の得票順。議員選があった都内41市区のうち、新宿区や世田谷区、武蔵野市など11市区で1位当選し、江戸川区では維新の新顔が1位と2位を占めた。

 9日投開票の県と政令指定市の議員選でも、維新は神奈川県内で改選前の2議席が25議席に、埼玉県内でゼロから5議席に増加。今回も同県川口市や千葉県浦安市で1位当選したほか、同県市川市や神奈川県藤沢市など東京に近い市で2議席を獲得した。

朝日新聞デジタル
維新の地方議員、首都圏でも急増 トップ当選続出、他党に広がる動揺



■おためごかしな総括


この状況に対して、立憲民主党の執行部は、「あと一歩まで肉薄した」(泉代表)「接戦だった」(岡田幹事長)「非常にいい戦いをした」(岡田幹事長)などと、いつものおためごかしな総括でお茶を濁すだけです。共産党は言わずもがなですが、立民にしても、党内から執行部の責任を問う声すら聞こえて来ないのです。それは、まさにテイタラクと呼ぶにふさわしい光景と言えるでしょう。

立憲民主党がにっちもさっちもいかない状態になっているのは誰の目にもあきらかです。連合を無視しては生きていけない。しかし、連合に頼っている限り、有権者からの広い支持は望めないのです。

多くの有権者に、自民党に対して辟易した気持があるのは事実でしょう。そのひとつが、上にも書いたように、低い投票率に表れているように思います。選挙に行かなければ何も変わらないと言われても、投票するような政党がないのです。

そんな中で、野党に対する投票行動に変化が表れたのでした。つまり、野党支持者の中で、立民より維新に投票する有権者の方が多くなったのです。自民党の受け皿ではなく立民の受け皿というのはトンチンカンですが、そこまで有権者の中に立民に対する失望感が広がっているとも言えるのです。

立民内では、泉健太が辞任した場合は、野田佳彦の復権を期待する声もあるそうです。かように立民内の現状認識は、有権者が求めるものとは信じられないくらいズレまくっているのです。それでは落ちるところまで落ちるしかないでしょう。

昨年の参院選でも、日本維新の会は伸長し、都道府県別の得票でも、19都府県で立憲民主党を上回り、一昨年の衆院選の2倍以上に増えたというデータもあります。既に昨年の参院選から今日の傾向が出ていたのです。

また、比例代表では、維新は全国で785万票(得票率14.8%)獲得し、前回と比べて294万票増やしました(5ポイント上昇)。一方、立民は、677万票(得票率12.8%)で、前回より115万票(3ポイント)減らし、党が掲げていた目標の1300万票の半分にとどまっただけでなく、得票数でも維新の後塵を拝したのでした。考えれてみれば、この677万票の多くは連合の組合員の票と言っていいでしょう。立民は、一般有権者からはほとんど見放されているに等しいのです。本来なら解党的出直しをすべきなのに、執行部は責任問題に頬被りをしてそのまま居座ったのでした。

言うなれば、維新がここまで伸長したのは立民のおかげみたいなものです。多くの有権者がバカバカしいと棄権する一方で、律義に投票所に足を運んでいる有権者たちには、立民より維新の方が頼りがいがあるように見えたのでしょう。立民が頼りないので消去法で維新を選んだのでしょう。

■田村淳と国生さゆりの発言


山口4区に立民から立候補した有田芳生氏が、街頭演説で「下関は統一教会の聖地」と発言したことに対して、山口県出身でガーシーと親友だと言ってはばからないタレントの田村淳が、選挙期間中の19日に、次のようにツイートして物議をかもすという出来事がありました。

〈地元下関が統一教会の聖地だって!?聖地って神・仏・聖人や宗教の発祥などに関係が深く、神聖視されている土地って意味だよな?僕は支持政党無しだが、下関がカルト教団の聖地という印象操作をした事にムカついてるし、有田芳生氏やその発言を支持した議員を心から軽蔑します。下関はそんな街じゃない〉
(下記リテラの記事より)


しかし、下記のリテラの記事によれば、旧統一教会の中では「下関が『統一教会の聖地』とされているのは事実」で、「実際、統一教会の幹部は2021年3月に下関で開催された『日臨節80周年記念大会』において、『山口の下関は聖地と同等の場所です』と発言している」のだそうです。

リテラ
「下関は統一教会の聖地」は統一教会幹部の発言なのに…事実を捻じ曲げて有田芳生を叩いたロンブー田村淳の卑劣


ところが、田村淳は、その指摘に対して、旧統一教会の幹部の発言は承知の上だとして、事実関係が問題ではなく、有田氏の発言が、下関が「統一教会の聖地」であることを下関市民があたかも受け入れているかのような印象を与えたことに怒りを覚えた、と言うのでした。何だか自分の勘違いを指摘されて、逆に開き直ったような感じがしないでもありません。

さらに、話はそれだけにとどまりませんでした。何故か国生さゆりが田村淳の発言に反応し、「淳くんの怒りは理解できる。根拠なくヨシフさん『聖地』とか言っちゃった訳だし、軽蔑するよ。考えなしにそういうこと口にする人、どこにでもいるよね」「かけがえの無いものを独りよがりでけなす人。ノリで言っちゃうダメ人。選挙中なんのに軽率過ぎる。そんな事も考えられないほど、お花畑なのかな」(東京スポーツの記事より)とツイートしたのでした。これも投票日前日の22日のツイートなので、選挙妨害ではないかという声すらあるのでした。

国生さおりのツイートに対して、有田氏は、投票日翌日の24日に、次のようにツイートして名誉棄損の訴訟をほのめかしたのでした。

統一教会裁判の弁護士から、僕が相談していないのに、名誉毀損にあたり、認定されるはずだから、訴訟を検討したらとメールが来ました。熟考します。


有田氏は、選挙では当選した吉田候補の半分しか得票できず惨敗したのですが、それでも「保守王国、自民党王国と戦後ずっと言われてきた山口4区において、それが溶けはじめてきていると本当に確信を持っている」(産経の記事より)とコメントしていました。これなども、おためごかしの総括と同じで、左派リベラルの常套句のようなものです。そうやって「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」だけなのです。そんなことを百万遍くり返しても何も変わらないのです。

だったら、負け惜しみを言うだけではなく一矢報いるために、国生さゆりを告訴したらどうか、と私は言いたくなりました。「熟考します」というのは「しない」という意味だと思いますが、たとえ相手がタレントでも(ただ自民党から立候補するという噂もある)、蛮勇を振るって、、、、、、、喧嘩するくらいの気概を見せてくれと言いたいのです。それが今の立民にいちばん足りない点なのです。

■立憲民主党の末期症状


ノンフィクション作家の松本創氏は、朝日新聞のインタビューで、維新が支持されるのは「細マッチョ」だからだと言っていましたが、言い得て妙だと思いました。「マッチョ」というのは、「マッチョイズム」という言葉などもあって、ジェンダーレスの時代においては肩身が狭い言葉ですが、好戦性=戦うということです。立民に限らず、今の左派にはこの戦う姿勢が見られないのです。もちろん、維新の「細マッチョ」はポーズにすぎないのですが、それが”改革者”のイメージになっているのはたしかでしょう。今の左派リベラルに求められているのは「マッチョ」な戦う姿勢です。今では参政党や旧NHK党だって、「横暴な国家権力と戦う」と言っています。支持を広げるために、「マッチョ」を売りにしているのです。

千葉5区の補選の敗北の要因について、立民の幹部はこう分析したそうです。

Yahoo!ニュース
集英社オンライン
補選惨敗でどーする立憲民主党〉“最後の切り札”投入はあるのか? 内部では早期解散なら「維新に飲み込まれるぞ」の声も

「立憲は政権と対峙しているイメージが強いが、若い人たちは全共闘世代などとは違い、『反権力』と言われてもピンとこなくなっている。それよりも『私たちに何をしてくれるのか』ということへの関心が強く、今の立憲のスタンスは古いと見られているのだろう」


まったく呆れた分析です。こうやって、どんどん右旋回して、自民党の保護色みたいになっておこぼれを頂戴するつもりなのかと思います。「提案型野党」などと言って自民党にすり寄り、野党らしさをなくしたことが失望されているのですが、それがまるでわかってないのです。驚くべき鈍感さと言わねばなりません。

私は、旧民主党時代から、旧民主党(立憲民主党)は自民党を勝たせるためだけに存在している、と言って来ましたが、いよいよ断末魔を迎えたと言ってもいいでしょう。

次のようなシャンタル・ムフの言葉は、立憲民主党は論外としても、立憲民主党のような政党に同伴する左派リベラルをどう考えるかという上で参考になるように思います。

 ソヴィエト・モデルの崩壊以来、左派の多くのセクターは、彼らが捨て去った革命的な政治観のほかには、自由主義的政治観の代替案を提示できてない。政治の「友/敵」モデルは多元主義的民主主義と両立しないという彼らの認識や、自由民主主義は破壊されるべき敵ではないという認識は、称賛されてしかるべきである。しかし、そのような認識は彼らをして、あらゆる敵対関係を否定し、政治を中立的領域でのエリート間の競争に矮小化するリベラルな考えを受け入れさせてしまった。ヘゲモニー戦略を構想できないことこそ、社会-民主主義政党の最大の欠点であると私は確信している。このために、彼らは対抗的で闘技的(アゴニスティック)な政治の可能性を認めることができないのである。対抗的で闘技的な政治こそ、自由-民主主義的な枠組みにおいて、新しいヘゲモニー秩序の確立へと向かうものなのだ。
(『左派ポピュリズムのために』)


また、シャンタル・ムフはこうも言っています。

(略)政治が本性上、党派性を帯びたものであり、「私たち」と「彼ら」の間には、フロンティアの構築が必要であると認めなければならない。民主主義の闘技的性格を回復することのみが、感情を動員し、民主主義の理想を深化させる集合的意志の創出を可能にするだろう。
(同上)


シャンタル・ムフが言うように、「民主主義の根源化」のためには、議会だけでなく議会外のモーメントも大事な要素です。そのためには、急進主義ラジカリズムを否定するのではなく、むしろその復権が俟たれるのです。

■杉並区議選


今回の選挙の中で、唯一、個人的に注目したのは、杉並区議選でした。48名の定員に70名が立候補するという激戦になったのですが、結果は岸本区政の与党であるリベラル派が伸長しました。48議席のうち25議席を女性議員が占めました。得票数上位10名のうち、7名が女性候補で、れいわ新選組の女性候補は大量得票して3位で当選しています。ほかに緑の党の女性候補も19位で当選しましたし、中核派の現職も再選されました。

しかも、48議席うち15議席が新人で、現職の12名が落選し、新旧の入れ替えが行われたのです。落選した12名のうち7名が自民党現職(全員が男性)でした。もちろん、買い被りは慎むべきですが、新たな潮流と言ってもいいような状況が見られるのでした。

ただ、懸念材料がないわけではありません。岸本区政は、元はと言えば野党共闘の成果でもあります。そのため、せっかく市民が作った潮流が、ゾンビのような政党からひっかきまわされて潰される心配がないとは言えないのでした。
2023.04.26 Wed l 社会・メディア l top ▲
publicdomainq-0071070yfwkrb_20230423215558292.png

(public domain)


■ローンオフェンダー


15日に和歌山市の漁港で、衆議院の補欠選挙の応援演説に訪れた岸田首相に爆発物が投げ込まれた事件について、警察は「ローンオフェンダー(単独の攻撃者)」と呼んでいます。少し前までは、この手の事件は「ローンウルフ」と呼ばれていました。警察はどうしてこのように言い方にこだわるんだろうと思いました。

今回の事件について、東京新聞は、次のようなテロ対策の専門家のコメントを紹介していました。

東京新聞 TOKYO Web
単独の攻撃者「ローンオフェンダー」 事前の探知は難しく 岸田首相襲撃事件 再発防止へできることは?

「自分で計画し、準備をして犯行を実行するのがローンオフェンダー。探知することは難しく、実行されてから気付くケースが多い」と指摘する。「インターネット上で犯行につながるような書き込みなどを丹念にリサーチするしかないが、過去の事件でもすべての犯人が事前に書き込みをしているわけではない」


■テロの下地


実行犯の24歳の青年は、被選挙権を25歳以上とするのは憲法違反だとして国を提訴していたという話がありますが、それを総理大臣を狙ったテロの動機とするには、やはり無理があるような気がします。「ローンオフェンダー」というのは、政治が見えない政治テロのことをそう呼ぶのかもしれないと思ったりしました。

都心部の大規模な駅前再開発や、地方まで広がりつつあるタワーマンションの建設などを見ると信じられないかもしれませんが、今の日本は国家として没落し、貨幣の価値も下がり、貧しくなる一方です。それにつれ、絶望的と言っていいような貧富の差が生まれています。

格差社会とテロのつながりは、別に意外なことではありません。自分の人生に絶望して「拡大自殺」に走るケースもありますが、さらに世の中に対する恨みの感情が増幅されれば、政治指導者を標的にするようになるのも理解できない話ではありません。

こういった事件が続けば、上の専門家の発言のように、ネットなどの監視も強まり、益々息苦しさを覚えるようになるでしょう。そうなれば、不満やストレスは溜って、逆にテロの下地は広がっていくのです。

■デモもストもない国


昨日、神宮外苑の再開発に伴う樹木の伐採に反対していた坂本龍一の意志を継いだ反対集会が、アジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)の後藤正文らミュージシャンも参加して行われたというニュースがありました。それに対して、ネットでは、「痛い」「ミュージシャンが政治的な主張するのは幻滅する」というような書き込みが多くありました。

前の記事で、言葉の本質は沈黙だ、という吉本隆明のような言い草をしゃらくさい、アホらしいというような文化(風潮)の中にチャットGTPのような言葉を受け入れる素地があると書きましたが、何だかそれと共通するものを感じました。水は常に低い方に流れるネットの身も蓋もないもの言いは、SNSによって、私たちの日常に浸透し根を下ろしたとも言えるのです。

フランスやイギリスなどを見てもわかるとおり、日本のようなデモもストもない国はめずらしいのです。デジタル監視国家の中国だって、民衆はときに市庁舎などに押しかけて抗議の声を上げたりしています。でも、日本では「痛い」などと言ってシニカルに見るだけです。日本の社会が声が上げづらい不自由な社会であるのはたしかですが、そうやってみずから閉塞感を招いている側面もあるような気がします。

■暴力の”真実”と山上徹也


そんな中でテロに走る人間たちは、空疎な言葉より1個の銃弾や爆弾の方が大きな力を持っている暴力の”真実”を知ったのです。その”真実”を覆い隠すために、「話せばわかる」民主主義があったのですが、それが擬制でしかないことも知ってしまったのです。ましてこれだけ戦争のきな臭さが身近になれば、暴力に対する心理的ハードルも低くなっていくでしょう。

ゴールデンウィークをまじかに控えた「景気のいい」ニュースのその裏で、社会の底辺に追いやられた者たちの絶望感が、暴発寸前の状態でマグマのように溜まっているのが目に見えるようです。

衆参の補選における各党の主張を見ても、政党がターゲットにしているのはもっぱら中間層です。どの政党も、中間層を厚くすると言い、中間層向けの耳障りのいい政策を掲げるばかりです。本来、政治が一番目を向けなければならない下層の人々は、片隅に追いやられ忘れられた存在になってしまった感じです。でも、今の議会や政党の仕組みではそうならざるを得ないとも言えるのです。

それにしても、山上徹也と今度の犯人はよく似てるなと思いました。私は、地べたに組み伏せられた際の表情など、山上徹也と二重写しに見えて仕方ありませんでした。今回の事件が安倍元首相殺害事件の模倣犯であるのは間違いないでしょう。ただ、あの冷静さ、逮捕されても黙秘を貫く意志の強さは、(顰蹙を買うかもしれませんが)まるでテロリストの鏡のように思いました。彼は、組織で訓練を受けたわけでも、何程かの政治思想を持っていたわけでもないのです。にもかかわらず、プロのテロリストのような心得を身に付けているのです。それは驚愕すべきことと言わねばなりません。

何度も言うように、右か左かではないのです。大事なのは上か下かです。でも、今の政治はその視点を持つことができません。

山上徹也についても、旧統一教会の側面だけが強調されていますが、彼がツイッターにネトウヨと見まごうような書き込みをしていたことを忘れてはならないでしょう。トランプを熱狂的に支持するラストベルト(錆びついた工業地帯)の白人労働者などもそうですが、右か左かなどに関係なく、虐げられた人々、既存の政治から置き去りにされた人々の、下からの叛乱がはじまっていると見ることができるように思います。ヨーロッパでの極右の台頭の背景にあるのも同じでしょう。

日本では政治的に組織されてないので(彼らを組織する急進党派が存在しないので)彼らの存在がなかなか見えにくい面はあります。だからこそ、「単独の攻撃者」による政治ならざる政治のテロが今後も続くのは間違いないように思います。言うまでもなく、その端緒を開いたのが山上徹也の事件と言えるのてす。


関連記事:
「ジョーカー」と山上容疑者
『令和元年のテロリズム』
たったひとりの”階級闘争”
2023.04.23 Sun l 社会・メディア l top ▲
publicdomainq-0062792syjaiv.jpg
熊野古道(public domain)


■日本のアニメが大ヒット


昨日の各テレビは、中国で公開がはじまった日本のアニメ「スラムダンク」に観客が殺到して徹夜組まで出ている、というニュースを伝えていました。既に前売り券の販売だけでも22億円を超えており、大ヒットは間違いないそうです。

テレビ朝日の「報道ステーション」では、上海支局長が現地から中継し、「中国全体の1日の映画興行収入20億円のうち、約86%にあたる18億円をスラムダンクが占めている」「アニメは日中の架け橋”と一言で括れないほど偉大な力を持っていて、その中でもスラムダンクは別格」だと伝えていました。

中国では、既に新海誠監督の「すずめの戸締まり」が大ヒットしており、日本のアニメ映画としては歴代1位を記録したそうです。4月17日の時点で、中国での興行収入は7億5200万人民元、日本円にして146億円余りを記録。一方、日本では4月16日の時点で144億7900万円で、中国での興行収入が日本のそれを上回ったそうです。

また、「報道ステーション」は、経団連が「日本のゲームやアニメ、漫画などの海外市場規模を、2033年に現在の3~4倍の15兆~20兆円に拡大させる目標を掲げていることも伝えていました。

私は、このニュースを見て、「あれっ、中国と戦争するんじゃなかったの?」と思いました。話が全然違うのです。戦争する国に対して、揉み手してソロバン勘定しているのです。

日頃、“鬼畜中ロ”みたいに戦争を煽っていながら、何と節操のない話だろうと思いました。

■日本は「売る国」


日本はもう「買う国」ではありません。「売る国」なのです。それも安く売る、年中バーゲンセールをやっているような国です。

テレビは、銀座のユニクロに外国人観光客が殺到しているというニュースもやっていました。開店前から外国人観光客が並んでいるのだそうです。

ユニクロは今や世界中に出店しています。観光で来てわざわざ買うほどめずらしいものではないはずです。どうしてかと言えば、自分たちの国で買うより日本のユニクロが安いからです。日本で買った方がお得なのです。

そこで出て来るのは、このブログでも紹介したことがありますが、「ビックマック指数」です。

「ビックマック指数」は、それぞれの国で販売されているビッグマック1個当たりの価格を比較し、それによって購買力平価、つまり、「お金の価値」を比較した指数です。

2022年のビックマック指数の20位までは以下のとおりです。
※引用元:https://ecodb.net/ranking/bigmac_index.html
※2022年7月時点・1ドル=137.87円で計算。
※順位のみ。価格等は省略。

 1位 スイス
 2位 ノルウェー
 3位 ウルグアイ
 4位 スウェーデン
 5位 カナダ
 6位 アメリカ
 7位 レバノン
 8位 イスラエル
 9位 アラブ首長国連邦
10位 ユーロ圏
11位 オーストラリア
12位 アルゼンチン
13位 サウジアラビア
14位 イギリス
15位 ニュージランド
16位 ブラジル
17位 バーレーン
18位 シンガポール
19位 クウェート
20位 チェコ


日本は20位どころか、何と54ヶ国中41位でした。サッカーで対戦したような国をあげれば、コスタリカ、ニカラグア、クロアチア、チリ、ポーランド、ペル―、カタール、メキシコなども日本よりビッグマックが高いのです。中国、韓国、スリランカ、タイ、ベトナム、パキスタン、ヨルダンも日本より上です。外国人観光客が銀座のユニクロに行列を作るのは当然なのです。

■日本人の節操のなさ


今にはじまったことではありませんが、やたら「ニッポン、凄い!」と自演乙するのも、節操のなさと自信のなさの裏返しと言えるのかもしれません。

横浜DeNAは、3月、3年前のレッズ時代にサイ・ヤング賞を獲得した前ドジャースのトレバー・バウアーと推定年俸300万ドル(約4億円)で契約を結んだことを発表し、大きな話題になりました。

サイ・ヤング賞を獲得した大リーグの現役投手が、日本のプロ野球のマウンドに立つのは61年ぶり2度目ですが、そこにはバウアーが抱える個人的な事情があったのでした。

バウアーは、2021年に知人女性に対するドメスティックバイオレンスで、メジャーリーグ機構から324試合の出場停止処分を受け(その後、処分は194試合に短縮)、今年1月にドジャースとの契約が解除されたのでした。しかし、DVにきびしいメジャーでは、新たにバウアーと契約を結ぶ球団は現れなかったのでした。そのため行き場を失ったバウアーは、日本にやって来たというわけです。

そして、「日本でプレーすることが夢だった」と見え透いたリップサービスを行なったり、グローブも持参しなかったため、日本で宮崎産の黒毛和牛を使った専用グローブを発注したりして、単細胞な日本の野球ファンの心を掴んだのでした。4月16日、横須賀スタジアムで行われたイースタン・リーグ西武戦に先発した際には、2軍戦では異例の2680人の観客が詰めかけたそうです。

YouTubeでは、「ニッポン、凄い!」の自演乙を利用した(つけ込んだ)、外国人による日本賛美の動画がキラーコンテンツになっています。日本の食べ物の美味しさに涙したとか、景色のすばらしさに恋したとか、日本人の優しさに感動したという、何でも涙したり恋したりするあの動画です。そして、もう自分の国に帰りたくないという決め言葉で、日本人の琴線にとどめを刺して再生回数の爆上げを狙うのです。バウアーのおべんちゃらも同じようなものでしょう。でも、彼にとって日本は、あくまで一時凌ぎの腰掛にすぎないのです。

一方、日本での熱狂に対して、海外メディアは多分に冷めた目で見ているという記事もありました。

Yahoo!ニュース
中日スポーツ
NPBデビューのバウアー、快投も海外メディアは冷淡 「日本のファンはDV疑惑もお構いなしのようだ」【DeNA】

(略)過去に家庭内暴力(DV)疑惑が伝えられたこともあり、海外メディアの報道は冷ややかな論調が目立った。英紙デーリーメール(電子版)は「スキャンダルまみれのバウアーが日本球界デビュー」と見出しを打ち、AP通信は「メジャー球団からそっぽを向かれたバウアーは、日本で生きる道を探そうとしている。日本のファンは、セレブのようなステータスに引かれ、DV疑惑もお構いなしのようだ」と報じた。


ここでも日本人の節操のなさがヤユされているのでした。

一夜明けると軍国主義者が民主主義者や社会主義者に変身し、本土決戦が回避される安堵感から、当時の海軍大臣が、広島・長崎の原爆投下を「天佑てんゆう」(※天の恵みという意味)と言い、軍人たちは我先に昨日の敵にすり寄って行ったのです。それが日本という国です。節操のなさは何も今にはじまったわけではありません。三島由紀夫や坂口安吾が喝破したように、日本人の心性とも言うべきものなのです。


関連記事:
日本は「買われる国」
「安くておいしい国」日本
『永続敗戦論』
2023.04.21 Fri l 社会・メディア l top ▲
チャットGTP


■新しいものを無定見に賛美する声


横須賀市が、全国の自治体で初めて、生成AIのチャットGPT を試験的に導入したというニュースがありました。

共同通信 KYODO
横須賀市、チャットGPT試験導入 全国自治体で初

これについて、既にみずからもメールの作成などにチャットGPT を使っているという「モーニングショー」の某女性コメンテーターが、仕事の効率化のためにはとてもいいことです、というようなコメントを述べていました。

ただ、上記の記事にもあるように、チャットGPT は「データ流出の懸念も指摘」されており、メールと言えども相手の個人情報等が含まれている場合もあるでしょうから、彼女とメールでやり取りする人間はその覚悟が必要でしょう。

『週刊東洋経済』(4月22日号)の「特集 Chat GTP仕事術革命」の中でも、次のように書かれていました。

Chat GTPの無料版では、入力したデータがサービス改善に使われる。(略)3月20日には他人のチャット履歴が閲覧可能になるハグも発生した。

(略)イタリアのデータ保護当局は、3月末、Chat GTPの使用を一時禁止する措置を発表した。その理由の一つとして、AIを訓練するために個人データを収集・処理することに法的な根拠がないことを挙げている。


チャットGTPというのは、要するに、私たちがネット上で使った文章や会話や評価(正しいかどうか)の自然言語を収集し、そのデータを学習や調整の機能を持つアルゴリズムでチューニングしたものを、文章生成モデルに落とし込んで文章や会話を作成することです。AIも基本的な仕組みは大体このようなものです。

当然、AIという言葉が使われるようになった頃から開発がはじまっていたのですが、それがここに来て突然、チャットGTPが登場して、第4次産業革命が訪れるなどとセンセーショナルに扱われているのでした。

ネットのサービスに対しては、何でも新しいものを無定見に賛美し、乗り遅れると時代に付いていけなくなるというような、それこそAIが答えているようなお決まりの言説があります。特に寄らば大樹の陰のような日本ではその傾向が強く、ヨーロッパのようにいったん留保して考えるではなく、官民あげて無定見に前のめりになっている感じは否めません。しかも、そのサービスの大半はアメリカのIT企業が作ったものです。

4月10日には、チャットGTPを開発したオープンAI社のサム・アルトマンCEOが首相官邸を訪れ、岸田首相と面談し、その中で東京に開発拠点を置くことをあきからにしたそうです。日本はEUなどに比べてGoogleに対する規制も緩く、ネットで個人情報が抜き取られる問題に対しても極めて鈍感です。にもかかわらず、女性コメンテーターのように無定見なネット信仰者が多いので、彼らには美味しい市場に映るのでしょう。

そんなにチャットGTPが素晴らしいのなら、市役所の業務だけでなく、この女性コメンテーターもAIのアバターに変えればいいのではないかと思いました。彼女たちコメンテーターは、ニュースに対して、世の中の流れを読みながら当たり障りのない回答するのが役割です。それこそチャットGPT のもっとも得意とする仕事と言ってもいいくらいです。

ましてやただ原稿を読んで進行するだけのMCやアナウンサーなどは、チャットGPTの仕事を人間が代わりにやっているようなものでしょう。

新聞記事も然りです。テレビの場合、映像を入れなければならないので撮影が必要ですが、紙媒体だと大概の記事はAIに取り替え可能だと言います。日本は、外国のような調査報道が少なく、記者クラブで発表されたものを記事に書く「発表ジャーナリズム」が主なので、AIに代わっても何ら差しさわりがないのです。

横須賀市役所のニュースに関連して、別の自治体の首長は社会保障などの「前払い」にチャットGPT を使えばいいのではないか、と言っていました。この「前払い」というのは、給付金を先に払うというような気前のいい話ではなくて、「門前払い」や「足切り」の意味で使った(誤用した)ようです。チャットGTPで「前払い」したあとに職員が対応すれば効率がいいと言っていましたので、要するに、生活保護の申請などにおける「水際作戦」のことを指しているのでしょう。申請の窓口に臨時採用した元警察官を配置したりして、申請者とのトラブルに備えている自治体もあるようですが、この首長の発言は、かつては「不快手当」を払っていたような窓口業務をAIに肩代わりさせて、機械的に手っ取り早く門前払いを行なえばいいという、役所の本音を吐露したものと言えるのかもしれません。

しかし、一度冷静になって考えた方がいいでしょう。たとえば、Googleの翻訳ソフトのあのお粗末さを見ると、チャットGTPだけがそんなに優れたものなのかという疑問を持たざるを得ないのです。

このブログでも書きましたが、アマゾンに問合せするのに、いつの間にかAIとやり取りをしなければならないシステムになっていて、そのトンチンカンぶりにイライラしたのはつい昨日のことです。それがある突然、「凄い」「凄い」「時代が変わる」と大騒ぎしはじめたのでした。でも、Googleの翻訳も、この数ヶ月の間で「凄い」と感嘆するように跳躍の進歩を遂げたという話は聞きません。ITの世界においては、そういった大騒ぎはよくあることなのです。

■表情のない言葉


最近はマッチングアプリを使って男女が出会い、結婚に至るケースも多くなっているという話がありますが、マッチングアプリもチャットGPTと似たシステムを応用したものでしょう。文字通り、双方が出した条件で合致した男女がピックアップされるのですが、そこには一番大事なのは人柄だというような考えはないのです。と言うか、アプリでも人柄は示されるのでしょうが、それは蓄積されたデータを数値化して導き出された(人工的な)人柄らしきものにすぎないのです。

人と人とのコミュニケーションにおいては、チャットGPTのような言葉だけでなく、たとえば身体言語のようなものも重要な役割を果たしていることは言うまでもありません。そもそも言葉は、あらかじめ与えられた意味や文法に基づいて処理(翻訳)された上で、表出されたものにすぎないのです。自分の意志や考えを伝えるのにもどかしい思いをするのはそのためです。

ましてやチャットGPTは、数学の理論に基づいたアルゴリズムによって、単語の用途と頻度をいったん数値化し、それをGoogleのオートコンプリート機能(予測変換)と同じような理論を使って文章を生成するもので、言葉の持つ曖昧さやゆらぎを最初から排除された人工的な(二次使用の)言葉でしかないのです。いくら5兆語におよぶ単語が日々学習しているからと言っても、言葉そのものは普段私たちが使っている言葉の足元にも及ばない貧しいものでしかありません。チャットGTPの言葉には表情と想像力が決定的に欠けているのです。それでは生身の人間同士のようなコミュニケーションが成り立つはずもないのです。人工的に作られた似たものはできるかもしれませんが、あくまでそれはコピーです。問題は、コピーをホンモノと勘違いすることです。

それは、文体についても言えます。文体は言うなれば文章における表情のようなものです。でも、新聞記者は、不偏不党の建前のもと、極力文体にこだわらない、身体性を捨象した文章を書くように訓練されるのです。そんな文章がAIに代替されるのは当然でしょう。

これは既出ですが、2008年の『文芸春秋』7月号に、当時の『蟹工船』ブームについて、吉本隆明が、次のような文章を書いています。

ネットや携帯を使っていくらコミュニケーションをとったって、本物の言葉をつかまえたという実感が持てないんじゃないか。若い詩人や作家の作品を読んでも、それを感じます。その苦しさが、彼らを『蟹工船』に向かわせたのかもしれません。
 僕は言葉の本質について、こう考えます。言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ、と。
 沈黙とは、内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分の言葉を発し、問いかけることが、まず根底にあるんです。
 友人同士でひっきりなしにメールで、いつまでも他愛ないおしゃべりを続けていても、言葉の根も幹も育ちません。それは貧しい木の先についた、貧しい葉っぱのようなものなのです。
(「蟹工船」と新貧困社会)


吉本隆明は、言葉の本質は沈黙だというのです。人間は言葉でものを考えるので、それは当たり前と言えば当たり前の話です。しかし、チャットGTPの言葉はそんな言葉とはまったく別世界のものです。そもそもチャットGTPは、言葉の本質は沈黙だというような、そんな言い草はしゃらくさい、アホらしいというような思想の中から生まれたものと言っていいでしょう。しかも、それはアメリカで生まれたサービスです。日本語の持っている曖昧さは、日本語の豊穣さを表すものでもあるのですが、そんな文化とはまったく無縁なところから生まれたサービスにすぎないのです。

■効率は必ずしも効率ではない


前に言論の自由もTwitterという一私企業に担保されているにすぎないと書きましたが、それどころか、私たちの生活や人生に直結する事柄も、アメリカのIT企業に担保されているにすぎないのです。そういったディストピアの社会がまじかに迫っているのです。でも、「モーニングショー」のコメンテーターのように、多くの人たちは、新しいものを無定見に賛美し、チャットGPTが招来する第四次産業革命に乗り遅れる、時代に付いていけなくなるというような言説で思考停止しているだけです。

かつて、Googleは凄い、集合知で新しい民主主義が生まれる、セカンドライフは仮想資産で大化けする、ツイッターは新たな論壇になり新しいスタイルの社会運動を生み出す、などと言っていたような人間たちが、またぞろ、そんな古い考えに囚われていると時代に付いて行けないと脅迫するのです。

数年後にAIが人間の知能を凌駕するシンギュラリティ(Singularity)が訪れると予言するような若手の学者が、終末期医療の廃止や高齢者の集団自決を主張するのは偶然ではありません。彼らは、人々の悲しい表情や切ない表情を読み取ることを最初から排除している人間たちです。AIに思考を委ね、AIが言うことを代弁している、、、、、、にすぎないのです。

70歳になる知人は、年金だけでは生活できないので、仕事を探しているけど、履歴書を送っても面接すらさせてもらないと嘆いていました。既に20数社履歴書を送ったけど、断りの返事が来るだけだそうです。もちろん、正社員の仕事ではなくパートの仕事です。知人によれば、一般企業より社会福祉法人や公的機関の方が人を人と見ないところがありたちが悪いと言っていました。

そこにあるのも、上の知事が言う「前払い」が行われているからでしょう。私から見ると、知人は、健康だし頭脳明晰だし仕事もできるし性格もいいし、私のような偏向した思想も持っていません(笑)。パソコンのスキルも高いし、チャットGTPも肯定的です。でもそんなことより年齢条件が優先されるのです。

世の中は深刻な人手不足だと言われていますが、知人の話を聞いていると、どこが人手不足なんだと思ってしまいます。「モーニングショー」のコメンテーターや横須賀市長や自治体の首長が言う効率は、必ずしも効率ではないのです。

■人工知能におぞましいという感覚はない


少子化対策にしても、お金を配れば子どもを産むようになるというものではないでしょう。何度も言いますが、少子化には、資本主義の発展段階における家族の在り方や家族に対する考え方の変容が背景にあるのです。

また、人間というのはややこしいもので、生殖にはセックスの快楽も付随します。人と人が惹かれ合うのも、言葉では言い表せないフィーリングや身体的な快楽だってあるでしょう。

人間はシステムの効率だけでは捉えられない存在なのです。いつも言うように、1キロの坂道でも、車に乗って登るのと自分の足で息を切らして登るのとでは、その意味合いがまったく違ってきます。私たちの身体は、自分で思う以上に自分を作り出し自分を規定しているのです。私が私であるのはコギトだけではないのです。

もとより、AIは、(当たり前ですが)その身体を捉えることはできません。社会や資本や国家などの制度にとってどれだけ役に立つか、その条件に照らして私たちを数値化して”評価”するだけです。

政府が少子化で困ると言うのも、要するに、将来、税金を納める人間が減るから困るという話にすぎません。だったら、終末期医療の廃止や高齢者の集団自決と同じ発想で、国家が精液を集めて人工授精をすればいいのです。そして、家畜のように国家で養育するか、アプリで希望する夫婦に、マイクロチップで納税者番号を埋め込んだ子どもを配ればいいのです。人工知能が導き出すのはそういう考え方です。人工知能には、おぞましいという感情はないのです。


関連記事:
ツイッター賛美論
Google
2023.04.20 Thu l ネット l top ▲
DSC02696.jpg


■3年ぶりの浅間峠


前に山に行く準備をして寝ろうした矢先、友人から電話があり、深夜まで話し込んだので山行きを中止したという話を書きましたが、今、調べたら、2週間前の今月5日のことでした。

以来、準備をして布団に入るものの、結局眠れずに朝起きることができないということをずっとくり返していました。

山に行くためには、4時すぎに起床して5時すぎの電車に乗らなければなりません。薬箱を見たら「睡眠改善剤」というのがあったので、それを飲んで床に入っても、頭がボーッとして今にも眠れそうになるのですが、しかし、眠れないのです。睡魔に襲われるけど眠れないという感じで、文字通りベットの上でもがき苦しむばかりでした。

昔の嫌なことや悲しいことが頭に浮かんで来て、森鴎外ではないですが、「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」(夜中に突然起きて座り、ただ黙って泣きじゃくる)ようなことをくり返していたのでした。

不思議なもので、翌日が雨だったり土日だったりすると(土日は山に行かないので)、目覚ましをかけていなくても4時頃に電気のスイッチが入るみたいにパチッと目が覚めるのでした。

目が覚めないというのは、それだけ山に行くモチベーションが下がっているということでもあります。しばらく行かないと心理的なハードルも高くなるのです。

で、昨日のことですが、いつものように山に行く準備をして寝たら(と言っても、この2週間準備をした状態をそのままにしているだけですが)、どうしたのか午前3時に目が覚めたのです。

それでラッキーと思って、ザックを背負って駅に向かい、午前5時すぎの電車に乗りました。ブログには書いていませんが、前回の山行が昨年の11月25日でしたから、約5ヵ月ぶりです。

いつものように武蔵小杉駅で南武線に乗り換えて、さらに立川駅で武蔵五日市直通の電車に乗り換え、武蔵五日市駅に着いたのが午前7時すぎでした。そして、駅前から7時20分発の数馬行きのバスに乗りました。通勤客以外に武蔵五日市駅から乗ったハイカーは、4名でした。また、途中の払沢の滝入口のバス停から2名のハイカーが乗ってきました。払沢の滝の駐車場に車を置いて、先の方から浅間嶺に登って払沢の滝に下りるハイカーです。

檜原街道には多くのバス停から笹尾根や浅間嶺の登山口があり、私も大概のバス停を利用したことがありますが、途中、登山口のないバス停でハイカーが降りると「おおっ」と思うのでした。バスの中のハイカーたちも、(勝手な想像ですが)「どこに行くんだ?」と心の中がざわついているような気がするのでした。みんな、バスが走りはじめると、山中の停留所に降りたハイカーに視線を送っているのがわかります。そういったデンジャラスなハイカーは、奥多摩では尊敬と羨望の眼差しで見られる空気があるのです。

昨日行ったのは、2020年の1月と同じコースです。上川乗(かみかわのり)から浅間峠に向けて登り、浅間峠から笹尾根を三頭山の方に歩いて、日原(ひばら)峠から檜原街道に下る計画です。

前回は日原峠の先の小棡(こゆずり)峠から下りたのですが、膝が痛くて下山に時間がかかるのでその手前から下りることにしました。

上川乗のバス停に着いたのは8時すぎでした。そこから南秋川に架かった橋を渡って甲武信トンネルの方に進み、トンネルの手前から登ります。今回のコースはちょうど甲武信トンネルの上を横断するような恰好になります。

この川乗かわのりというのは、奥多摩の特産品であった川で採れる”のり”(食べるのり)のことです。海で採れる”のり”は「海苔」と書きますが、川で採れる”のり”は、奥多摩では「川苔」または「川乗」と書きます(一般的には「川海苔」と書くようです)。そのため、川苔山は川乗山とも書き、山名としてはどちらも正しいのでした。九州には川のりはないのか、私は川で採れる”のり”があるというのは、奥多摩の山に登るようになって初めて知りました。

既出の『奥多摩風土記』では、「川のり」について、次のように書かれています。

川のりは海藻の海苔(のり)に似ていますが、冷涼な渓流のひうち岩系の岩石に主として生育する緑藻です。海のりより鮮やかな緑色をした香気高い嗜好品で、初夏から秋にかけて採取します。生育条件が限られていて現在のところ養殖の方法がなく、狭い範囲の自然採取だけですから、一般的な土産品とするほどの数量は得られません。


上川乗のひとつ手前には下川乗というバス停もありますが、昔は街道に沿って流れる南秋川で川苔が採れたのでしょう。

登るときは膝の痛みはさほどなく、ただ息があがるだけです。まともな山行から遠ざかっているので体力の衰えは半端ではなく、完全に最初に戻った感じです。山に行くモチベーションが下がっているのもそれが原因かもしれません。

それ以上に精神的にしんどいのが下りです。膝の痛みが出るので辛くてならず、通常より倍以上の時間がかかるのです。そのため、前より早い時間に下山しなければならないし、距離が長いと身体的にも時間的にもやっかいなことになりかねないので、短い距離の道を歩くしかないのでした。

上川乗から浅間峠に登るのは、下りだけ使ったことも入れると、これで三度目です。笹尾根は山梨と東京(主に檜原村)の県境にある尾根で、私たちが歩いている登山道は、地域の人たちが山仕事に使った道であるとともに、甲州と武州の村人たちの交易路でもあったのです。そのため、檜原街道のバス停からそれぞれの峠に向けて道が刻まれているのでした。また峠の上からは山梨(上野原市)側にも同じような道があります。また、笹尾根の上にはそれらを結ぶ縦走路が走っています。文字通り自然にできたトレイルなのです。

前も書きましたが、1909年、田部重治と木暮理太郎が笹尾根を歩いたのですが、山田哲哉氏は、笹尾根を「日本初の縦走路」と書いていました。その際、二人は浅間峠のあたりで野営したそうです。そして、私のブログでもおなじみの三頭山の手前の西原(さいばら)峠まで歩いているのでした。

今までも何度も書いていますが、笹尾根は特に眺望がいいわけではないし、途中、アップダウンも多くて結構疲れるのですが、私は笹尾根が持つ山の雰囲気が好きです。普段でも人は多くないのですが、特に人が途絶える冬の笹尾根が好きです。冬枯れの山の森閑とした風景は、田舎の山を思い出すのでした。

笹尾根は山の形状から最初の登りがきつくて峠に近づくと登りが緩やかになります。もちろん、下山時はその逆になります。

九十九折の道がやっと終えた地点で、ふと足元を見ると、地面に「トヤド浅間」と書かれた小さな手作りの標識があるのに気付きました。「トヤド浅間」へは登山道は通ってないのですが、奥多摩の熟達者の間では知る人ぞ知るピークで、私もずっと気になっていました。

しばらく立ち止まって、かすかな踏み跡が続く「トヤド浅間」への登りを見ていたら、浅間峠の方から一人のハイカーが下りて来ました。もう山で人に話しかけるのはやめようと思っていたのですが、いつものくせでまた話しかけてしまいました。

「この『トヤド浅間』へ行ったことはあります?」
「いやあ、ないですね」
「そうですか、気になってはいるんですけどね。でも道がわかりにくと聞いているのでどんなものかなと思いましてね」

その50代くらいのハイカーは上野原市に住んでいて反対側から登ってきたそうです。しかも一旦 上川乗まで下りてまた登り返して来ると言っていました。トレーニングをしているようです。それから膝を痛めた話などをしました。「じゃあ、またどこかで」と言って別れるのもいつもの決まり文句なのでした。

浅間峠には1時間50分くらいかかりました。前回が1時間35分くらいです。途中、休憩しましたので、それを入れるとほぼ同じかなと思いますが、ただ足を止める回数などは前回と比べようもありません。

浅間峠でしばらく休憩してから日原峠に進みました。こんなにアップダウンがあったかなと思うほど、結構な傾斜の上り下りが続きました。アップダウンが続くのが笹尾根の縦走路の特徴です。

日原峠までは1時間近くかかりましたが、途中ですれ違ったのは一人だけでした。

■ハセツネカップ


笹尾根の縦走路は、ハセツネカップという歴史のあるトレランの大会が開かれることで知られています。去年の10月にも開催されたのですが、しかし、登山道を2千名のランナーが走ることで表土の剥離や崩落の問題が指摘されています。しかも、笹尾根は国立公園内にありますので、普段山を管理する人たちからも問題が指摘され、環境庁も指導に乗り出すという話がありました。

私もこのブログで次のように書きました。

(略)東京都山岳連盟が実質的に主催し笹尾根をメインコースとするハセツネカップ(日本山岳耐久レース)が、今年も10月9日・10日に開かれましたが、ハセツネカップに関して、国立公園における自然保護の観点から、今年を限りに大会のあり方を見直す方向だ、というようなニュースがありました。

私から言えば、ハセツネカップこそ自然破壊の最たるものです。大会の趣旨には、長谷川恒男の偉業を讃えると謳っていますが、トレランの大会が長谷川恒男と何の関係があるのか、さっぱりわかりません。趣旨を読んでもこじつけとしか思えません。

笹尾根のコース上には、至るところにハセツネカップの案内板が設置されていますが、それはむしろ長谷川恒男の偉業に泥を塗るものと言えるでしょう。それこそ「山が好きだ」というのとは真逆にある、YouTubeの軽薄な登山と同じです。

丹沢の山などが地質の問題も相俟ってよく議論になっていますが、登山者が多く訪れる人気の山には、登山者の踏圧によって透水性が低下し表土が流出することで、表面浸食がさらに進むという、看過できない問題があります。ましてや、2000名のランナーがタイムを競って駆けて行くのは、登山者の踏圧どころではないでしょう。ランナーたちが脇目も振らずに駆けて行くそのトレイルは、昔、武州と甲州の人々が行き来するために利用してきた、記憶の積層とも言える古道なのです。

東京都山岳連盟は、「この、かけがえのない奥多摩の自然を護り育むことは、私どもに課せられた責務である」(大会サイトより)という建前を掲げながら、その問題に見て見ぬふりをして大会を運営してきたのです。都岳連の輝かしい歴史を担ってきたと自負する古参の会員たちも、何ら問題を提起することなく、参加料一人22000円(一般)を徴収する連盟の一大イベントに手弁当で協力してきたのです。

ちなみに、コースの下の同じ国立公園内に建設予定の産廃処理施設も、都岳連と似たような主張を掲げています。これほどの貧すれば鈍する光景はないでしょう。

関連記事:
登山をめぐる貧すれば鈍する光景


実際に歩いてみると、剥離して土がむき出しになっている部分がかなりありました。笹尾根の土壌は黒い粘土質のものなので、剥離してむき出しになると踏圧で深く削られたり雨が降ると崩落したりすることになるのです。

■日原峠


日原峠からの道はあまり歩かれてないみたいですが、最初はゆるやかで快適でした。膝にも優しく、それほど痛みも出ませんでした。40分くらい下ると林道に出ました。林道は地図にありません。戸惑いつつ方向を確認していると、林道の横から下に延びている踏み跡がありました。標識も何もないのですが、どうやらそれが登山道のようです。

そして、そこから笹尾根の特徴の九十九折が現われるのでした。道幅も狭いし、倒木もそのまま放置されたままだし、しかも、長雨の影響なのでしょう、途中、道が崩れたところが何箇所かありました。膝への負担も増し痛みも出て来て、益々時間がかかっしまいてました。

森の中で倒木に腰かけて休憩し、その際、買ったまま食べてなかった卵サンドイッチを食べたのですが、それが悪かったのか、以後、吐き気も催してきて、まるで閻魔様から仕打ちを受けているような気持になりました。

ほうほうの態で下山口に辿り着きました。日原峠からちょうど2時間かかりました。古い橋を渡って石段を登ると、檜原街道に出ました。人家もないところで、ガードレールの間から人が現れたので、車で通りかかった人たちは、怪訝な目で私を見ていました。バスが通りかかったたら、中のハイカーたちから「おおっ」と思われたかもしれません。

5分くらい歩くと、下和田というバス停がありました。初めて利用するバス停でした。バス停に着いたのが14時ちょっとすぎで、次の武蔵五日市駅行きのバスまで1時間近く待ちました。

■産廃処理施設と「顔の見えすぎる民主主義」


檜原村は、ちょうど村長選挙と村議会選挙の真っ最中で、バスを待っていると、ひっきりなしに候補者の名前を点呼する選挙カーが通り過ぎて行きます。道が狭いからでしょう、ほとんどが軽の車でした。窓から手を出している候補者は、私の姿を見つけると一瞬手を上げそうになるのですが、恰好で村の人間ではないことがわかると上げかけた手をもとに戻すのでした。それが滑稽でした。

檜原村には産廃施設の建設が計画されていたのですが、統一地方選の直前、業者が計画を取り下げるというニュースがありました。

東京新聞 TOKYO Web
檜原村の産廃焼却場計画が白紙に 事業者が取り下げ願、東京都が受理

私もこのブログで計画のことを書いていますが、「白紙」になったのは慶賀すべきことです。しかし、その裏にはまだ予断を許さない政治的思惑が伏在しているという見方もあります。人口2千人の村の地縁・血縁を逆手に取った「顔の見えすぎる民主主義」のためにも、村長選と村議会選の結果が注目されるのでした。

関連記事:
檜原村の産廃施設計画

バスには5~6人のハイカーが乗っていました。ところが、朝、私が降りた上川乗にさしかかると、バス停に20名近くの団体客が待っているのが目に入りました。私は思わず「最低」と口に出して席を移動しました。大半はおばさんハイカーでした。あとから来たおばさんを「こっち、こっち」と手招きして、バス待ちの列に平気で割り込ませる、武蔵五日市駅前でおなじみのおばさんたちでした。

一方で、これも前に書いた記憶がありますが、西東京バスの運転手の応対は非常に丁寧且つ親切で、日頃横浜市営バスに乗っている横浜市民は感動すら覚えるほどです。

朝のバスには、途中のバス停から払沢の滝入口のバス停の近くにある小中学校まで通学する子どもたちが乗るのですが、その際もバス停や周辺の道路には揃いのジャンパーを着て小旗を持った地域の人たちが子どもたちの安全を見守っていますし、村の駐在所の巡査も必ず近くの横断歩道で交通整理をしています。また、朝のバスには村の診療所がある「やすらぎの里」を迂回する便もあるのですが、そのバスに乗って来る高齢者に対しても、バスの運転手は乗り合わせた人間の心まで温かくなるような親切な応対をするのでした。

私も田舎の出なので、田舎で生活することのうっとうしさもわかっているつもりですが、そこには400年間どことも合併しなかった小さな村で試みられようとしている、「顔が見えすぎる民主主義」の発想の原点があるような気がしました。

武蔵五日市駅からは、来たときと同じように、立川で南武線に乗り換えて武蔵小杉、武蔵小杉から東横線で帰りました。ちょうど夕方のラッシュに遭遇しましたが、私はほとんど寝ていました。最寄り駅に着いたのは18時すぎでした。

帰ってスマホの歩数を見たら、15.3キロ23000歩になっていました。スマホも登山アプリも距離は正確ではありませんが、山自体を歩いたのは、8~9キロで17000歩くらいだと思います。歩く速さ(時速)は、普段は4.4~4.5k/1hですが(膝を痛める前は4.7k/1hだった)、今日は3.4h/1hになっていました(これも参考程度の数値です)。山で会ったのは二人だけでした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC02640.jpg
上川乗バス停

DSC02645.jpg

DSC02647.jpg

DSC02648_2023041907583425c.jpg
北秋川橋

DSC02658.jpg
登山口

DSC02665.jpg

DSC02675.jpg
登山道が崩落したみたいで、以前にはなかった橋

DSC02676.jpg
この祠のところで最初の休憩

DSC02682.jpg

DSC02688.jpg
トヤド浅間の案内板

DSC02695.jpg
浅間峠

DSC02693_202304190808419d9.jpg

DSC02700.jpg

DSC02706.jpg
昔の生活道路だったので至るところに祠や石仏

DSC02716.jpg

DSC02722.jpg

DSC02737.jpg

DSC02734.jpg

DSC02750.jpg

DSC02769.jpg

DSC02780.jpg
日原峠の石像

DSC02783.jpg
ハセツネカップの道標

DSC02792.jpg
案内板も古いまま

DSC02816.jpg
崩落した跡

DSC02831_20230419082910125.jpg

DSC02848_20230419082912539.jpg

DSC02856.jpg

DSC02878_20230419083633e27.jpg

DSC02890.jpg
階段から林道に下りてきた

DSC02894.jpg
林道から左に入る

DSC02908.jpg

DSC02911.jpg
北秋川に架かる橋

DSC02921.jpg

DSC02924.jpg
下和田バス停
2023.04.19 Wed l l top ▲
IMG_0003_202304170403401c9.jpg


ネットの時代になり、ニュースにおいても、人々の関心はまるでタイムラインを見るように次々と移っていくのでした。

旧統一教会の問題も既に過去の問題になったかのようで、旧統一教会と自民党との関係も、何ら解明されないまま忘れ去られようとしています。

それは、ジャニー喜多川氏の問題も然りです。たしかにジャニー氏亡きあと退所者が出ていますが、しかし、まわりが思うほど(期待するほど)ジャニーズ事務所の屋台骨がぐらつくことはないのではないかと思います。

総務省事務次官を務め、退官後電通の副社長に天下りした櫻井翔の父親の力添えもあったのか、今では国のイベントにタレントを派遣するなど、政府や電通や博報堂の後ろ盾を得るまでになっているのです。櫻井翔に至っては、日本テレビのニュース番組のキャスターまで務めているのですから、悪い冗談どころか夏の夜の怪談みたいな話です。

■『噂の真相』の記事


メディアの中でジャニーズ事務所の問題を取り上げたのは、『週刊文春』と『噂の真相』と言われていました。それで、手元にある『噂の真相』でどんなジャニーズ関連の記事があったか調べたら、次のようなタイトルの記事が出てきました。

ジャニーズ事務所の全日空ホテル乱交パーティが発覚!
(2000年1月号)

『週刊文春』で危機のジャニーズ事務所の新女帝の後継問題
(2000年3月号)

スクープ! 遂にジャニー喜多川がホモセクハラで極秘証人出廷
(2002年2月号)

元マネージャーが語ったジャニーズ事務所の内部告発!
(2003年3月号)

ジャニーズ事務所と女性週刊誌の力関係の舞台裏
(2003年6月号)

セクハラと脱税で揺れる「ジャニーズ帝国」の舞台裏
(2003年9月号)

ほかには、今の時代では考えらえないことですが、「芸能界ホモ相姦図最新情報」とか「有名人ゲイ情報」とかいうのもありました。ただ、読むとかなり眉唾な話が多く、いい加減な記事だったことがわかります。おすぎとピーコが裏でこんな話をよくしていたそうですが、記事の対談や座談会に出ているのは、『噂の真相』の編集部から近い新宿2丁目のゲイバーのママなどでした。どんな連中なんだと思いました。

2004年1月1日発行の『別冊・噂の真相 日本のタブー』の中に、ジャニーズ事務所の圧力を具体的に書いた、次のような記事がありました。

「2000年に、『週刊女性』が少年隊の錦織一清の借金トラブルを報じたんです。すでに他社も報じていた話だし、確実なウラも取れていた。ところが、これに激怒したジャニーズ事務所が同じ主婦と生活社のアイドル雑誌『JUNON』に、『以後、取材に協力しない』と圧力をかけてきたんです。すぐに謝罪したんですが、結局ジャニーズとは決裂してしまい、それ以降、『JUNON』も『週刊女性』も急激に部数を低下させるハメになってしまった」(主婦と生活関係者)
 しかもこの時、ジャニーズ事務所は主婦と生活社に委託してきたジャニーズタレントのカレンダーの発売権まで引き上げている。
 実はジャニーズ事務所は、芸能系の雑誌を持たない出版社にも、こうしたカレンダーやタレント本を発売させることで、巧妙にルートを作り上げているのだ。あの新潮社ですら、あるタレント本のために、『フォーカス』の記事に影響があったほどなのだ。
 もちろん、最近になって、ようやくこの構造に風穴を開ける動きも出てきている。
 ジャニーズの影響を受けない数少ない大手出版社のひとつ、文藝春秋の『週刊文春』が、ジャニーズ事務所のトップ・ジャニー喜多川のホモセクシャル行為を告発した一件だ。
 これまで、北公次の告発本や本誌の報道をことごとく黙殺してきたジャニーズ事務所も、さすがに文春の影響力を無視できなかったのか、記事を名誉棄損で提訴したのだが、判決はジャニー喜多川のホモセクハラ行為が「事実だった」とするものであった。
 だが、それでも尚、芸能マスコミの多くはジャニーズタブーの呪縛から逃れられないでいるのだから情けない。
 事実、テレビはこの判決には一切触れず、かろうじて報じたスポーツ紙の記事も、ジャニーズ事務所のネームバリューを考えれば驚くほど小さなスペースでしかなかった。
 ジャニーズタレントたちは、今日も何ごとも無かったかのようにテレビや雑誌に登場し、相変わらず事務所に莫大な稼ぎをもたらしているのである。
(同上・「ジャニーズやバーニングが圧殺する有名芸能人のスキャンダル・タブー」)


そして今に至るという感じですが、しかし、記事を読むと、今より当時の方がまだタブーが緩かったことがわかります。誰がそうしたのか、ジャニーズ事務所は今の方がはるかに強硬だし傲慢になっているのです。

■宮台真司氏の言説


宮台真司氏は、下記の動画で、ジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)について、少年たちの主観は(第三者である私たちとは)違うところにあるのではないか、と言っていました。

Arc Times
<ジャニー喜多川氏の性暴力問題>  加入儀礼がまだ残る日本 告発せずに我慢しがちな芸能界や職人の世界

宮台氏は、ジャニー喜多川氏の行為は、ジャニーズに入るための「加入儀礼」だった、と言います。だから、少年たちの中で被害を訴える者は圧倒的に少数で、彼らには傍で見るほど被害者意識はなかったのではないか、と言うのです。もちろん、日本には伝統的にお稚児さん=ゲイ文化があり、ホモセクシャルな”秘儀”も特段めずらしいことではないのかもしれません。

「加入儀礼」は、その集団チームの一員になり、一人前の大人になるために、理不尽なことも不条理なことも我慢して受け入れなければならないということです。そして、「加入儀礼」は、みんなそうやった大人になってきたのだからお前も我慢しろ、という日本的共通感覚コモンセンスに支えられていると言います。それを丸山眞男は「抑圧の移譲」と言ったのだと。だから、ジャニーズの問題も言われるほど大きな問題になってない。日本の社会ではよくあることで、世間はそれほど関心はない。宮台氏は、そう言うのでした。

たしかに、少年たちは、アイドルになってキャーキャー言われたい、お金を手に入れていい生活をしたい、そう思って、みずからジャニーズの門を叩いたのです。何も道を歩いているときに、突然、変な爺さんに襲われたわけではないのです。だから、セクハラされるのは最初から承知の上だったんじゃないか、自業自得じゃないか、という見方があるのも事実でしょう。あるいは、宮台氏が言うように、社会に出ればもっと嫌なことや辛いことがあるのだから、それくらいのことで被害者ズラするのは我慢が足りない、というような批判もあるかもしれません。それに、退所して事務所の縛りから解き放されたタレントたちを見ると、アイドルと言うにはちょっとやさぐれたような若者が多いのも事実です(だから、被害を訴えるのはカマトトではないかという声があります)。

でも、だからと言って、ジャニー喜多川氏の性加害が免罪されることにはならないのです。性加害(性被害)には、必ずそこに支配⇔服従という権力関係が生まれるので(それを前提とするので)、問題の本質は宮台氏が言うような部分に留まらず、もっと先にあると考えるべきでしょう。むしろ、少年たちに被害者意識がないことが問題なのです。それは少年だけではありません。少女に対する性加害も同じです。

子どもの頃に性被害を受けたことによるトラウマの問題は深刻で、被害者意識がないということも、むしろその深刻さを表しているように思います。ジャニー喜多川氏の問題が大きく取り上げられたことで、彼らの中にフラッシュバックが起きることは充分考えられるように思います。退所や休業も、その脈絡で考える必要があるでしょう。

■自死した某男優と義父


1980年代、31歳の某男優が新宿のホテルから飛び降り自殺するという事件がありました。その際、義父でもあった所属事務所の社長に宛てて、「おやじ涅槃で待つ」という遺書を残していたとして話題になりました。

実はその男優は私と同じ地元の出身でした。私自身は面識はありませんが、当時はまだ私も地元の会社に勤めていましたので、彼と中学の同級生だった職場の同僚やその友人たちから彼に関する話を聞いたことがあります。彼は中学3年のときに突然「姿が消えた」そうですが、それまではバスケットボール部に所属し人一倍目立つ存在だったそうです。他校でも「O中学のジョージという生徒がすごくカッコいい」と評判になるほどの長身で美形の持ち主だったとか。でも、中学の同級生たちも、彼の素性はまったく知らなくて、「謎の人間だった」と言っていました。

そして、高校に進んだあと、学校の帰りに書店で『平凡』か『明星』だかを観てたら、そこにあのジョージが出ていたのでびっくりしたそうです。その際、彼のプロフィールを見たら、自分たちが通っている高校を中退したことになっていたので、狐に摘ままれたような気持になったと言っていました。

どういった経緯で芸能界に入ったのかわかりませんが、私は、テレビで養子縁組した義父の社長を見たとき、「ああ、そうだったのか」と思いました。そこには、ジャニー喜多川氏と同じような(宮台真司氏が言う)「加入儀礼」があったような気がしたのでした。彼の同級生たちもそう思ったそうです。実際に、ホモセクシャルの世界において養子縁組はよくある話なのです。

今にして思えば、彼の場合も、BBCの記者が言う「グルーミング」や「トラウマボンド」で説明が付くように思えてなりません。自殺に至ったのも、「トラウマボンド」によるものではないかと思うのです。トラウマを抱えながら、それがいつの間にか反転して「おやじ涅槃で待つ」というような一体化した関係を憧憬するようになる。それを心理学では「内在化」と言うのだそうですが、トラウマが人間心理の奥深くに入り込み、ある種の自己防衛のために、被害者が加害者に対して倒錯した愛情のようなものを抱くようになると言われます。

(ジャニー喜多川氏が逝去した際の)「ジャニーさんの子供になれて誇りに思う」「ジャニーさんとの絆は永遠に切れない」「ジャニーさんはこれらもいつも寄り添ってくれている」「僕の人生は、あなたから与えられた愛情のなかにある」などという、ジャニー喜多川氏が文字通り寝食を共にし、手塩にかけて育てたメンバーたちの言葉。メディアは、それを美談として報じてきたのでした。

ジャニーズのメンバーも、ひと昔前までは櫻井翔のようなおぼっちゃまは例外で、どちらかと言えば独り親の家庭やアンダークラスの家庭の出身者が多かったような気がします。そんな芸能人としての古典的なパターンもまた、「グルーミング」を受け入れる素地になっていたように思えてなりません。

ジャニー喜多川氏は、言うなれば、少年たちのハングリー精神や上昇志向を利用して、彼らの身体を欲望のはけ口にしたのでした。はっきり言えば、そうやって少年愛のハーレムを作ったのです。それを可能にしたのは、犯罪とのグレゾーンに築かれた支配⇔服従の権力関係です。私たちは、ジャニー喜多川氏の問題について、まずそこに焦点を当てて考えるべきではないかと思います。
2023.04.17 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
1250408.jpg
(イラストAC)


■ジャニー喜多川の性加害疑惑


イギリスの公共放送BBCは、先月、ドキュメンタリー番組で、ジャニー喜多川氏の少年たちに対する性加害(疑惑)と日本社会の「沈黙」(見て見ぬふり)を取り上げて、物議を醸したのでした。タイトルは、「J-POPの捕食者  秘められたスキャンダル」(Predator : The Secret Scandal of J-Pop)というものでした。

元フォーリブスの北公次が、『光GENJIへ』という本でジャニー喜多川氏の性癖を暴露したのが34年前の1988年(昭和63年)ですが、ジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)は、1960年代から始まっていたと言われています。その間、被害に遭った少年は数百人に上るという説もあるのです。

少年たちも、それを我慢しないとデビューできないことを知っていました。2002年5月には、東京高裁で、ジャニー喜多川氏の「淫行行為」は「事実」だと認定されているくらいです。でも、日本のメディアはいっさい報じて来なかったのです。

その中で、例外的に取り上げていたのが『週刊文春』と『噂の真相』でした。中でも『週刊文春』は、1999年10月から14週にわたって、ジャニー喜多川氏の「セクハラ」問題のキャンペーンを行ったのでした。上記の東京高裁の認定は、その報道に対して、ジャニー喜多川氏とジャニーズ事務所が、1億円の賠償金を求める名誉毀損訴訟を起こしたときのものです。ジャニーズ側は高裁の判決が不服として最高裁に上告したのですが、最高裁で上告が棄却され、高裁の判決が確定したのでした。訴訟自体は120万円の賠償金で結審したのですが、実質的には文春の勝訴と言われました。

当時のジャニー喜多川氏の自宅は六本木のアークヒルズにあり、少年たちから「合宿所」と呼ばれていたそうです。しかし、少年たちは陰では「合宿所」を「悪魔の館」と呼んでいたのだとか。

『週刊文春』は、12人の少年に取材し、そのうち10人がジャニー喜多川氏から性被害を受けたと答えたそうです。また、法廷で2人の少年が性被害(セクハラ行為)を証言したのですが、東京高裁の判決文では、「上記の少年らは、一審原告のセクハラ行為について具体的に供述し、その内容はおおむね一致し、これらの少年らが揃って虚偽の供述をする動機も認められない」「これらの証言ないし供述記載は信用できるものというべきである」と証言の信憑性を認めているのです。

しかし、日本のメディアは、芸能マスコミだけでなく、大手の週刊誌も新聞もテレビも、こぞって黙殺したのです。そのため、その後もジャニー喜多川氏の性加害は続き、それどころかジャニーズ事務所は日本を代表する芸能プロとして、その存在感を絶対的なものにしていったのでした。

ちなみに、私は30年以上前、当時勤めていた会社が六本木にあった関係で、たまたまガールフレンドが住んでいた六本木のマンションに入り浸っていた時期があるのですが、彼女のマンションと脇道をはさんで向かいにあるマンションにジャニーズの「合宿所」がありました。私自身は、シブがき隊の誰か(それも定かでない)をチラッと見た程度ですが、ガールフレンドの話ではその「合宿所」にはシブがき隊や少年隊のメンバーも住んでいたことがあり、彼等とは顔見知りだったそうで、誰々はいい子だけど誰々は悪ガキだとか、そんな話をしていました。

その当時も、春休みや夏休みになると、ファンの女の子たちが地方からやって来て、ガールフレンドのマンションの脇に一日中立ってメンバーを「出待ち」するので、住人から迷惑がられていました。

既にその頃からジャニー喜多川氏にまつわる噂は、公然の秘密として人口に膾炙されていました。芸能界の周辺にいたガールフレンドも、「芸能界は男も女も同じだよ」「パパがいる男の子は多いよ」とさも当然のことのように言っていました。

たしかに、戦国時代から江戸時代には、殿様の横で刀持ちを務める「小姓こしょう」と呼ばれる少年がいましたし、太古の昔から芸能の民は、両性具有の人間が多いと言われていましたが、時代を経て「個人」が確立されるにつれ、そんなロマンティックな言葉で誤魔化すことはできなくなったのです。というか、そういった男色の歴史とジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)はまったく別の問題と考えるべきでしょう。

相撲部屋と同じように、中学を出るか出ないかの年端もいかない少年たちを「合宿所」で集団生活させて、親代わりのように寝食をともにしながらエンターテイナーになるべく訓練する。そんなジャニーズ事務所特有のシステムの裏に潜んでいたのは、少年たちに対するジャニー喜多川氏の”歪んだ欲望”だったのです。そこにあるのは、支配⇔服従の関係以外のなにものでもありません。

ただ、忘れてはならないのは、ジャニー喜多川氏の行為を「気持悪い」「おぞましい」と感じるのは単なるホモフォビア(同性愛嫌悪)にすぎず、それは単に反動的で文化的な所産でしかないということです。ジャニー喜多川氏の行為が批判されるべきなのは、それが「気持が悪い」「おぞましい」からではなく、「デビューしたければ言うとおりにしろ」という支配⇔服従の権力関係に依拠した「性的搾取」だからです。もっとわかりやすく言えば、みずからの性的欲望をそういった関係を盾に有無を言わせず行使しているからなのです。

私はその手の話は詳しくないので、必ずしも正確な説明ができるとは言えませんし、言葉の使い方も適切ではないかもしれませんが、同性愛と言ってもいろんなパターンがあるようです。同性愛者同士の関係だけでなく、女性になれない女性の感覚で、無垢な少年の身体に性的な欲望を抱く同性愛者もいるそうです。

私は、ホモセクシャルな人たちがこの問題をどう考えるか知りたいのですが、残念ながら彼らの声がメディアに取り上げられることはありませんし、SNSでも見つけることはできませんでした。LGBTへの理解を求めるなら、彼らももっと積極的に発言すべきでしょう。

ゲイ雑誌の『薔薇族』は、一環してジャニー喜多川氏のような”少年愛”を称揚してきたと言われていますが、対象になるのが年端もいかない少年であるこということを考えれば、そこには最初から支配⇔服従の関係が生まれるのは当然です。それどころか、「調教する」というような倒錯した支配欲だってあったかもしれません。同性愛者たちは、そういったことをどう考えるのか。当たり前のこととして肯定していたのか。仮にドラマの「きのう何食べた?」のようなイメージの中に逃げるだけなら、それは極めて不誠実で卑怯な態度だと言わざるを得ません。

■グルーミングとトラウマボンド


番組を制作したBBCのスタッフは、朝日新聞のGLOBE+のインタビューで、ジャニー喜多川氏の行為は「グルーミング(grooming)」や「トラウマボンド(trauma bond)」といった心理学の概念で説明できる、少年たちに対する「性的搾取」だと言っていました。

GLOBE+
ジャニー喜多川氏の性加害疑惑追ったBBC番組制作陣が指摘した「グルーミング」の手口

尚、groomingとtrauma bondについては、ウィキペディアで次のように説明されています。

性犯罪におけるグルーミングとは、性交等または猥褻な行為などをする目的で、未成年者を手なずける行為である。「チャイルド・グルーミング」とも呼ばれる。(略)
未成年者への「性的なグルーミング」は、何らかの事情で孤立した対象を標的にして、標的からの信頼を積み上げて関係性を支配してから、性的な行為に及ぶものである。(略)
グルーミングはマインドコントロールの一種で、ごく普通のコミュニケーションの中で行われることを強調する。対象を近親者から切り離そうとするのも特徴で、そういう言動があったら警戒を促す。
だが、標的とされた子どもは加害者への恋愛感情や信頼心が醸成されていき、「信頼できる大人がそんなことをしてくるわけがない」と思い込まれているため、「性暴力被害を受けた」とは気づきにくい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/グルーミング(性被害)


トラウマの絆は、パトリックカーンズによって開発された用語で、報酬と罰による断続的な強化によって持続される繰り返しの周期的な虐待パターンから生じる、個人 (および場合によってはグループ) との感情的な絆を表します。(略)
トラウマの絆は通常、被害者と加害者が一方向の関係にあり、被害者は加害者と感情的な絆を形成します。(略)
トラウマの絆は、恐怖、支配、予測不可能性に基づいています。虐待者と被害者の間のトラウマの絆が強まり、深まるにつれて、周期的なパターンで現れる警戒感、しびれ、悲しみの相反する感情につながります. 多くの場合、トラウマの絆の犠牲者には主体性と自律性がなく、個人の自己意識もありません. 彼らの自己イメージは、虐待者の自己イメージの派生物であり、内面化されたものです。(略)
トラウマの絆は、関係が続いている間だけでなく、それ以降も被害者に深刻な悪影響を及ぼします。トラウマの絆の長期的な影響には、虐待的な関係にとどまること、低い自尊心、否定的な自己像、うつ病や双極性障害の可能性の増加などのメンタルヘルスへの悪影響、世代間の虐待サイクルの永続化などがあります。(略)
加害者と心的外傷を負った被害者は、多くの場合、これらの関係を離れることはできません。なんとか離れることのできた人でさえ、学習したトラウマの絆が蔓延しているため、多くの人が虐待的な関係に戻ります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Traumatic_bonding


ジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)は、多感な時期にある少年たちにとって、深刻な心的外傷トラウマをもたらす行為だったと言えますが、にもかかわらず、日本のメディアには、天皇制に勝るとも劣らない第一級のタブーだったのです。情けない話ですが、外国メディアでなければ扱えなかったのです。それも、死後でなければ不可能だったのです。

BBCの放送を受けて、4月12日に元ジャニーズJr.のメンバーで現在もアーティスト活動を行っている男性が、外国特派員協会で会見し、みずから体験した性被害を告白したことで、既存メディアでは全国紙とNHKがようやく報道を解禁しました。しかし、それは、批判を回避するため、アリバイ作りのために会見に触れたようにしか思えない、通りいっぺんの内容でした。一方で、今でもジャニーズ事務所の統制下にあるテレビや雑誌などは「見て見ぬふり」をしたままです。特に女性週刊誌とワイドショーは、まるでジャニーズ事務所との心中も厭わないかのように忠誠を誓っているのでした。

昔は、所属タレントのスキャンダルをめぐって、ジャニーズ事務所と女性週刊誌との間でバトルが繰り広げられたこともありましたし、ジャニーズ事務所が、3億7000万円の所得隠しや経理ミスで、東京国税局から重加算税も含めて2億円あまりを追徴課税されたり、グッズ販売の所得隠しにより、法人税法違反容疑で東京地検特捜部に告発されたこともあったのです。いづれも『週刊文春』との裁判があった2002年頃の話です。しかし、その後、総務省事務次官や電通副社長などを務めた嵐の櫻井翔の父親の権勢もあってか、ジャニーズ事務所は絶対的なタブーになり、吉本ともども国のご用達プロダクションのような立場になったのでした。ジャニー喜多川氏は、2019年7月に89歳で亡くなったのですが、死してもなお、メディアが見ざる言わざる聞かざるの姿勢を貫いているのは、そういった背景も無関係ではないように思います。

私は、芸能マスコミとテレビ局が芸能界をアンタッチャブルなものにした、と前々から言ってきましたが、それは今なお続いているのです。弱小プロダクションのタレントが「不倫」したら、世界の一大事のように大騒ぎするくせに、本来なら日本の芸能界をゆるがせてもおかしくないジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)に対しては、裁判で認定され、もはや誰もが知っているほど人口に膾炙されているにもかかわらず、「見て見ぬふり」をしているのでした。そして、ジャーニーズ事務所のタレントたちは、何事もなかったかのように、歌番組だけでなくバラエティ番組や情報番組やCMなどテレビをはじめとするメディアを席捲しています。それどころか、報道番組のキャスターを務めたり、政府のイベントでは客寄せパンダの役割を担うまでになっているのでした。

このように長いものに巻かれ、強いものにごびへつらう日本のメディアの事大主義的な体質は、WBCやジャニーズ事務所の報道においても共通して見られる、もはや宿痾と言ってもいいようなものです。「言論の自由」も、彼らには猫に小判でしかないのです。


関連記事:
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2023.04.13 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
publicdomainq-0040763hmqbrg.png

(public domain)


ガーシーのXデーが近づく中、またガーシーが話題を提供してくれました。今回の八っつぁん&熊さんのかけあいのテーマは、ネット時代の詐欺師です。武田鉄矢が言う「ただの悪口」のオンパレードです。

■YouTubeは詐欺師だらけ


 ガーシーがパスポートを紛失したんだって(笑)。
 パスポートの返納命令が4月13日、つまり明日なんだけど、返納しようと思って1週間探したけど見つからなかった、引っ越しで紛失したみたいだ、と弁明する動画をインスタライブで配信したそうだ。
 パスポートの返納命令に従わない場合、旅券法違反で起訴されるので、それを逃れるためなのか。
 詐欺師のやることだから、何か裏がありそうな気がしないでもないけどな。UAEのゴールデンビザを持っているという話があるので、それが剥奪されない限り日本の警察は手が出せない。実際に令和3年度末の時点で国外に逃亡した被疑者は699人もいて、その中で日本に移送されたのは僅か28人だそうだ。
 ガーシーやガーシーの周辺に限らず、ネット時代は詐欺師が大手を振ってのし歩く時代であるとも言えるな。
 昔の詐欺師は、人目に隠れてというか、こっそりと人を騙して金銭などを巻き上げていた。しかし、現代の詐欺師は、ネットを使って不特定多数を相手に堂々と金銭を巻き上げようとする。というか、巻き上げるという表現すら的確とは言えないような感じだ。その典型がYouTube。
 配信料が詐欺師の食い扶持になっている。
 今や、YouTubeは詐欺師だらけと言っても過言ではない。
 たしかに、弁が立つ、口がうまい人間にとって、これほどうってつけのメディアはない。みんな生き生きしているな。
 ネットの時代で、どこまでが詐欺でどこまでが詐欺でないか、そのグレーゾーンが益々曖昧になってきた。
 いかがわしさもキャラになるしな。
 昔、「馬の小便水薬、鼻くそ丸めて萬金丹」という歌があったけど、あれは詐欺じゃないだろ? でも、今はホントに馬の小便を水薬と言ったり、鼻くそを丸めて萬金丹と言ったりしている。ネットだとそれが可能なんだよ。
 YouTubeの動画を見せつけられると、疑うことより信じることが先に立つ。そして、ネットで真実を発見した気持になり、それをみんなに知らせなきゃと思う。大宅壮一は「一臆総白痴化」と言ったけど、その”テレビ信仰”の究極の姿がYouTubeとも言えるな。
 テレビとYouTubeを”対立概念”のように言う人間がいるけど、全然そうじゃない。ネットで話題になるのはテレビのネタばかりだ。大塚英志は「迎合」と言ったけど、持ちつ持たれつの関係だと言った方が正しいかもしれない。
 YouTubeのいわゆる信者たちを見ても、芸能人のブログにお追従のコメントを投稿するファンと寸分も変わらないな。
 違うのは、ここで言う可視化だけ。疑うことを知らない人間、疑うだけの能力も見識もないような人間が、詐欺師を市民社会に引き入れて、詐欺師に市民権を与えた。つまり、詐欺師だけでなく、詐欺師を支える(ホントはカモにされているだけだけど)「バカと暇人」も可視化された。これがGoogleがWeb2.0で言っていた集合知、総表現社会がもたらした世も末のような光景だよ。
 さらに詐欺師の口上を切り取って伝える既存メディアのコタツ記事が、「嘘を百万遍言えば真実になる」役割を果たした。
 ネットの時代には、詐欺師を培養し可視化する(お墨付けを与える)土壌があるんだよ。

■Googleの罪と警察の事なかれ主義


 Google自身も2018年に、「Don't be evil」を行動規範から削除したしな。
 ネットの黎明期に、「ネットは悪意の塊である」と言った人がいるけど、文字通り、ネットの時代になり、evil=邪悪なものが大手を振ってまかり通るようになった。それはGoogleがネットを支配する過程と重なっている。Googleの罪は大きいよ。
 ネットによって詐欺師が可視化、半合法化されたという話で言えば、昨日、カンボジアでも19名の「かけ子」が捕まったけど、闇バイトで「かけ子」を集め、テレグラムで指示する「特殊詐欺」や「強盗」の現代風なやり口も、ネット時代が生んだものだな。
 その巧妙且つ大胆な分業システムや、闇バイトで応募する人間たちの軽さや犯罪に至るハードルの低さをもたらしたのは、間違いなくネットだよ。しかも、それを構築したのがITに通暁したインテリやくざというのも現代的だな。
 単にやくざのシノギに過ぎないのに、そう思わせないところはたしかに凄いな。
 しかも、警察組織にはびこる公務員特有の事なかれ主義を逆手に取っていることも忘れてはならない。
 よく言われていることだけど、いわゆる下っ端ばかり捕まえて点数だけ稼ぐという警察の事なかれ主義だな。
 だから、組織の頂点には決して行き着かない。フィリピンのルフィ一味も今回のカンボジアグループもそうだけど、メディアは「資金の流れと組織の実態の解明を進める」とバカの一つ覚えのように言うけど、解明されたためしはない。と言うか、誰も解明されるとは思ってない。その方が警察にとっても都合がいい。所詮は公務員なので、数年したら他の部署に移るわけだから、その間下っ端を捕まえて点数を稼いでおけばいい。
 前に破防法絡みで、公安調査庁にとっては、オウムの残党が存在する方が都合がいいという話があったけど、あれと同じだな。
 闇組織の方が警察より一枚も二枚も上手だよ。
 闇バイトで集めた下っ端は、いくらでも取り換え可能な使い捨て。金を掘る人間より金を掘る道具を売る人間の方が儲かる、というネットの特徴がここでもよく表れているな。

■特殊詐欺はオワコン


 でも、もう特殊詐欺はオワコンだよ。システムがバレたし、高齢者は先が短い。金を持っているのは食い逃げ世代の高齢者だけ。新しく参入してくる次の世代の高齢者は金を持ってない。彼らの一番の問題は貧困だよ。
 所詮は期間限定の犯罪だった。リゾートホテルを拠点にした理由もわかるな。
 実際にしのぎは次に移っている。海外を拠点にした特殊詐欺だけが大々的に報道されているけど、クレジットカードの不正利用やネットバンキングの不正送金の被害額は、特殊詐欺の比ではない。しかし、まったくと言っていいほど解明されてない。犯人は「中国人」ということになっているけど、半ば野放しのような状態だ。ときどき見よう見まねではじめたような、へまな留学生グループが捕まるだけ。
 そのために、使うのにどんどんややこしくなり面倒くさくなって、ユーザーである俺たちの手間ばかりが増えるんだよ。
 犯罪はデジタル技術を使ってスマートだけど、対策はきわめてアナログという笑えない現実がある。
 とは言え、あとに戻れないので、付け焼刃で屋上屋を架すしかないんだろうな。キャッシュレスの時代だとか言いながら、それをターゲットにした犯罪は巧妙化し増える一方。にもかかわらず、ユーザーは「被害を防ぐのはあなたたち自身ですよ」と言わんばかりにアナログな自己防衛策を押し付けられるだけ。
 そういった無力感だけが募るような現実が、さらに犯罪に至るハードルの低さをもたらしているとも言えるな。ガーシーやガーシー界隈に限った話ではなく、詐欺師がヒーローになるような時代だぜ。このような手段を問わない「世の中は金次第」というマネー信仰(言うなれば貨幣の物神性のオバケ現象)は、最近よく目にする(社会や国家が)「溶ける」という表現がぴったりだよ。
 たしかに、これほど詐欺師がヒーローになり、衆人環視のもとで国家をコケにする行為を行うというのは前代未聞だな。トンマな「元赤軍派」がシンパシーを抱くほど、ネットがただのチキンでショボい詐欺師をここまで大きく見せるようになった。まったく、ネットは罪作りなもんだよ(笑)。
2023.04.12 Wed l 社会・メディア l top ▲
DSC_0062~2


昨夜も山に行こうと準備万端整え、目覚ましをセットして寝ようと思ったその矢先、スマホの着信が鳴りました。

九州の高校時代の同級生からでした。そして、“男の長電話”で延々2時間近く昔話をするはめになり、電話を切って時計を見たら午前2時近くになっていました。

山に行くには遅くとも午前4時過ぎに起きる必要があります。これから寝たのでは起きられないでしょうし、もともと寝つけが悪い人間なので、寝るチャンスを逃すとすぐには眠れないのです。それに、眠らなければと思うとよけい眠れなくなるという面倒臭い癖も人一倍あります。

で、結局、また山行きはあきらめて、今、このブログを書いている次第です。

■寺山修司


昨日も散歩に行って1万歩以上歩きました。最近は散歩に行くのが唯一の楽しみのようになりました。

いつものように鶴見川の土手を歩きました。日曜日で天気もよかったので、土手の上は散歩やジョギングする人たちの姿が多くありました。

新横浜の日産スタジアムの近くまで歩いて、そこから引き返しました。山に行く予定だったので軽めにして、歩いた距離は7キロくらいでした。

途中、川の近くまで下りて、コンクリートの護岸の上でコンビニで買って来たおにぎりを食べて、しばらくまったりとしました。近くではテントを張って昼寝している人もいました。

また、叢の上に座って川を眺めている女性もいました。「山に行く人」というのは、その服装や雰囲気で何となくわかるのですが、私もその女性を見たとき、「山に行く人」ではないかと思いました。帰るとき、足元を見たら、案の定、トレッキングシューズを履いていました。足慣らしを兼ねて散歩していたのでしょう。

川にはいろんな水鳥が生息していることを知りました。水面をスイスイ泳いでいる鳥もいれば、一か所に留まってときどき水の中に半身を潜らせている鳥もいるし、川岸で羽根を休めている鳥もいました。そんな光景を眺めていたら、「ああ、春だったんだな」とどこかで聞いたことがあるような台詞が浮かびました。

年を取ると、春という季節が遠く感じるようになります。春のイメージで抱くような出会いや別れとは無縁になるからでしょう。あのわくわく心踊らせながら、それでいてどことなくせつなくもの哀しい春が持つイメージから、いつの間にか疎外されている自分を感じるようになりました。

昔、大田区の大森の町工場で、旋盤工として働きながらルポルタージュを書いていた小関智弘氏の本が好きでよく読んでいたのですが、その中で『春は鉄までが匂った』(ちくま文庫)というタイトルの本がありました。なんてロマンティックな響きなんだろう、タイトル自体がまるでひとつの歌のようだと思いました。でも、そういった感覚も遠いものになってしまいました。

自分の青春を考えるとき、寺山修司の歌を抜きにすることはできません。あの頃は何かにつけ寺山修司の歌集を開いていました。その歌集がどこかに行って見つけることができなかったのですが、当時好きだったのは次のような歌です。


吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず

マッチ擦るつかのまの海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや

きみのいる刑務所の塀に自転車を横向きにしてすこし憩えり

アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり 母は故郷の田を打ちていむ


私も二十歳はたちのとき、寺山修司と同じように長い入院生活を送ったのですが、(これも既出ですが)そのときに寺山修司を真似て次のような歌を詠みました。


裏山で縊死せし女のベットには白きマリア像転がりてをり

帰るべき家持たぬ孤老の足音今宵も聞こへり 盂蘭盆さみし

小さき花愛でてかなしき名も知らねば 君の肩に降る六月の雨

熱ありて咳やまぬなり大暑の日 友の手紙封切らぬまま


でも、もうこういった拙い感受性とも無縁になりました。いくら川面を眺めても言葉は浮かんできません。それどころか、最近は日常で使う言葉さえ忘れるくらいです。

■『人生の視える場所』


また、若い頃、岡井隆の『人生の視える場所』(思潮社)という歌集も好きでした。『人生の視える場所』は、先日、たまたま本棚の上から落ちてきたので、今、手元にあるのですが、その中で私が〇印をつけているのは、次のような歌です。尚、奥付を見ると、「1982年8月1日初版」となっていました。


を下げてパンをげてしわれさきへやとがるこころをもてあましをり

つきあたりてけがれては抜けてゆく迷宮のごと一日はりぬ

独り寝るさむき五月の夜の闇に枝寄せてゐる風音きこゆ


先程、色あせた『人生の視える場所』をめくっていたら、次のような歌が目に止まりました。


晩年をつねくらめたるわれを思ふしかもしづかに生きのびて来ぬ


もちろん、若い頃の「人生の視える場所」と今の「人生の視える場所」はまったく違うものです。

昨夜の電話の相手の同級生も東京の大学に通っていたのですが、休みで帰省した折に、私が入院していた病院に見舞いに来たときの話になりました。

ベットの横で話をしていたら、掃除のおばさんがたまたま病室にやって来たのですが、同級生はおばさんの顔を見るなり、立ち上がって「あっ、こんにちわ」と挨拶したのでした。おばさんも「○○君!」とびっくりした様子でした。そのおばさんは、小学校のときの担任の先生の奥さんだったそうです。先生が若くして亡くなり寡婦となったので、生活のために掃除婦をしているんだろうと言っていました。「ちょっとショックだけどな」と言っていましたが、同級生はそのときの話を未だにするのでした。


関連記事:
ロマンティックという感覚
2023.04.10 Mon l 日常・その他 l top ▲
Brazil.jpg
(パブリックドメイン)


何だか同じことばかり書いているような気がしないでもありませんが、しかし、蜘蛛の糸を掴むように、拙い小さな”希望”であっても、ひとつひとつ丁寧に拾っていくしかないのです。日本中が”戦時の言葉”に覆われ、金網デスマッチを観戦しているような今の状況は、どう見ても異常と言うしかありません。

■ルラ大統領の和平案


昨日(8日)、ブラジルのルラ大統領が提案した和平案について、ウクライナが一蹴したというニュースがありました。

AFPBB NEWS
ウクライナ、ブラジル大統領の和平案一蹴 クリミア放棄せず

ブラジルは、2月の国連総会におけるロシア軍の即時撤退を要求する決議案では、BRICSの中では唯一賛成票を投じた国です。

ルラ大統領は左派の労働党出身ですが、ウクライナ戦争で中立を保っている国々が共同で、ウクライナ・ロシア双方に停戦を働きかけるべきだとして、そのための枠組み作りを模索しているのでした。今回の和平案はそのためのたたき台と言えるかもしれません。

記事にもあるように、ルラ大統領は、ウクライナに対して、「すべてを手に入れることはできない」「クリミア半島の領有権を放棄して和平交渉を開始すべき」」という現実的な着地点を提案したのです。

しかし、ウクライナ政府の反応は、次のようににべもないものだったようです。

 ウクライナ外務省のオレグ・ニコレンコ(Oleg Nikolenko)報道官は、「ウクライナの領土を1センチでも譲ることを正当化する政治的・道徳的理由はない」「和平調停の試みはいかなるものであれ、主権尊重に基づき、ウクライナの領土保全を完全に回復するものでなければならない」とフェイスブック(Facebook)に投稿した。
(上記記事より)


ただ、これはウクライナ政府の公式な見解とは言い難いので、水面下で何らかの動きがあるかもしれません。そう願うばかりです。

■地に堕ちた欧米の民主主義


ルナ大統領は、来週、中国を訪問する予定で、そこでも和平案の枠組み作りを協議すると言われています。

また、フランスのマクロン大統領も訪中し、やはり中国に積極的に和平に乗り出すよう要請したという報道がありました。フランスは、侵攻当初、和平にひと役買ったのですが、ブチャの虐殺が起きたことで、ウクライナが態度を硬化して決裂したと言われています。そのため、ブチャの虐殺は和平を潰すためにでっちあげられたものではないかという陰謀論まで出ているのでした。

尚、中国の習近平国家主席と会談したマクロン大統領と欧州委員会のライエン委員長は、中国をサプライチェーンから排除するデカップリング(分離)に反対することで意見が一致したとの報道もありました。アメリカが主導する対中強硬策に冷水を浴びせた格好で、今の世界経済で中国を無視することはできないという本音が吐露されたと言えるでしょう。

このように好き嫌いは別にして、300年ぶりに覇権を手にする中国の存在感は増すばかりです。ウクライナ戦争でも、中国やブラジルなどBRICSの国が和平を主導する可能性さえあるのです。それは、今までの国際紛争ではまったく見られなかった光景です。

一方、欧米は武器供与をエスカレートして、戦争の拡大に手を貸すだけです。今や、欧米の民主主義の理念は完全に地に堕ちたと言ってよく、権威主義と民主主義の戦いだというバイデンの口吻など、片腹痛いと言わねばなりません。

ウクライナ戦争をめぐるこのような光景もまた、世界が多極化して政治や経済の軸が欧米からBRICSをはじめとする新興国に移っていくという、新しい世界の構図を示唆していると言えるでしょう。

もとより、(何度も言いますが)核の時代の戦争では勝者も敗者もないのです。核保有国が敗者になるということは、核戦争で世界が破滅することを意味するのです。それはオーバーな話でも何でもないのです。

ゼレンスキーが唱える、領土を1センチでも譲ることができないという徹底抗戦路線は、ウクライナにとっての玉砕戦であるだけでなく、世界の最終戦争をも招来しかねない危険なものです。ゼレンスキーの要求どおり武器を供与し続ければ、プーチンは間違いなく核を使うでしょう。それでも「ロシアが悪い」で済ませるつもりなのかと言いたいのです。核戦争には、敵も味方も、善も悪も関係ないのです。

もちろん、裏では私たちがうかがい知れない丁々発止のやり取りが行われているはずなので、どこに本音があるのかわかりませんが、とにかくこれ以上犠牲を増やさないためにも、誰でもいいから和平を仲介することが切望されるのでした。

そう考えると、今の欧米はまったく当てになりません。欧米は戦争の当事者であっても、和平を仲介する当事者ではありません。左派リベラル界隈には、平和憲法を持つ日本が仲介の役割を担うべきだと宣うおめでたい人間がいますが、それも悪い冗談です。

仮に中国やBRICS主導で和平が実現すれば、何度も言いますが、世界がひっくり返ることになるでしょうし、世界地図は一瞬にして塗り替えられることになるでしょう。しかも、今の状況では、もうそれしか残された道はない感じなのです。
2023.04.09 Sun l ウクライナ侵攻 l top ▲
P1080458.jpg


■師岡熊野神社


このところ、山に行こうと準備をして床に就くのですが、朝、起きることができず、ずっととん挫しています。

山に行くには、早朝、5時すぎの電車に乗らなければならないのですが、どうしても寝過ごしてしまうのでした。目覚ましでいったん目が覚めるものの、再び寝てしまい、あとで自己嫌悪に陥るという年甲斐もないことをくり返しているのでした。それだけ山に行くモチベーションが下がっているとも言えます。

昨日の朝も起きることができずに中止にしました。それで、午後から散歩に出かけたのですが、半分やけになっていたということもあって、15キロ21500歩を歩きました。

まず最初に、この界隈の鎮守神である熊野神社に行ってお参りをしました。熊野神社は、鎮守の森にふさわしい小さな丘の上にあります。社殿に参拝したあと、神社の裏手にまわってみると、裏山に登る「散策道」と書かれた階段がありました。神社には何度が来ていますが、そんな道があるなんて初めて知りました。

それで木の階段を登ってみました。すると、「権現山広場」という標識が立てられた山頂に出ました。広場には東屋やベンチが設置され、木立の間から綱島方面の街並みを見渡すことができました。その中に、新綱島駅の横に建設中のタワーマンションがひときわ高くそびえていました。

写真を撮ったあと、神社に戻るため階段を下りていたら、下から話声が聞こえてきました。すると、制服姿の女子校生と上下ジャージ姿の少年が登ってきたのでした。少年はまるで登山ユーチューバーのように(笑)、女子高生の後ろでスマホをかざして登っていました。

■昔の思い出


熊野神社をあとにして、表の幹線道路まで戻り、幹線道路沿いに綱島の方向に歩きました。しばらく歩くと、幹線道路は鶴見川にかかる橋(大綱橋)を渡ります。前々日も鶴見川の土手を歩いたばかりなのですが、今度は対岸を新横浜方面に向かって歩きました。

新横浜に着いたら、既に17時をまわり、街は駅に向かう勤め人たちで溢れていました。散歩を終了して帰ろうかと思ったのですが、何故かふと思い付いて、新横浜駅から市営地下鉄で横浜駅に行くことにしました。

横浜駅も帰宅を急ぐ勤め人たちで、スムーズに歩くのも苦労するくらい混雑していました。まるで競争しているみたいに、みんな、歩くのが速いのです。横浜駅の中は相変わらず迷路のようになっており、久しぶりに来ると、方向感覚が順応せず戸惑ってしまいます。

しかも、駅から表(西口)に出ると、巨大な開渠のようなところに線路が束になって走っているため、手前の道から向かいの道に行くのさえひどく遠回りしなけばならないのでした。

開渠の上の橋を渡って、再び駅の方向に歩いて、目に付いた新しい建物に入ったら、そこは地下の出口が駅の中央通路につながっている、横浜駅ではおなじみのルミネのビルでした。しかし、夕方のラッシュ時というのに、ルミネの中は閑散としていました。反対側の東口に、建て替えのため2011年から休業していた同じJRグループのCIALシャルが2020年にオープンしたばかりなので、そっちに客を取られているのかなと思いました。

サラリーマンの頃、CIALやビブレの中のテナントや東口の松坂屋や西口のそごうを担当していたので、横浜駅にも定期的に訪れていました。のちに長い間付き合うことになった彼女と初めて会ったのも、そごうで行われたブライダルショーでした。そんなことが次々と思い出されるのでした。

■『デパートを発明した夫婦』


ルミネを出てから、西口の地下のダイヤモンド商店街(旧名)を通って、その突き当りにあるそごうに行きました。そごうを訪れたのも数年ぶりです。そごうもまた、夕方の書き入れ時にしては客が少なくてびっくりしました。コロナ前、1階の入口付近はもっと買い物客で混雑していました。入口では、年末の商店街のような抽選会をしていたのにも驚きました。デパートでそんなことをするのかと思いました。

昔、そごうの外商が全国チェーンの店にフランスの版画家のポスターを売ったとかで、テナントで入っていた画材店から依頼を受け、ポスターを納入して徹夜で額装したことを思い出しました。たしか、7階の今の紀伊国屋書店のあたりに店があったように思います。

紀伊国屋書店がまだ健在だったのでホッとしましたが、紀伊国屋もその手前にあるロフトも、前に比べたら客はまばらで先行きが心配される感じでした。

1987年、旧セゾングループが渋谷にロフトを作ったときもオープンに立ち会いましたので、ロフトにも思い入れがあるのですが、その頃と比べるとまったく様変わりしており、今のロフトは似て非なるものと言ってもいいくらいです。東急ハンズも既に売却されてただのハンズになりました。ソニープラザはもっと前に売却されて、やはりただのプラザになっています。

折しも、鹿島茂氏の『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書)を読み返しているのですが、あらためて、もうデパートの時代は終わったんだな、としみじみした気持になりました。そごうだけでなく、一世を風靡し業界では「イケセイ」と呼ばれていた池袋西武も、殺風景な新宿西口をミロードやモザイク通りとともにオシャレな街に生まれ変わらせた小田急ハルクも、もう見る影もありません。東京や横浜以外で昔担当していたデパートは、その大半が既に姿を消しています。世界で初めてデパートのボン・マルシェがパリに誕生して170年、あのバブル前のイケイケドンドンの頃からまだ30年しか経ってないのです。こんなことになるなんて誰が想像したでしょうか。グローバル資本主義とインターネットの時代の荒波に呑み込まれて、瞬く間に海の藻屑と化した感じです。というか、それらに引導を渡されたと言った方がいいかもしれません。

『デパートを発明した夫婦』は、1991年のデパートが時代を謳歌する(謳歌しているように見えた)イケイケドンドンのときに書かれたのですが、著者の鹿島茂氏は、その中で、「近代資本主義は、デパートから生まれた」と書いていました。まさにデパートは使用価値から交換価値への転換と軌を一にした近代という時代を映す「文化装置」でもあったのです。そんなデパートの時代が終焉を迎えたのは、大衆消費社会と私たちの消費生活の構造的な変化が起因しているのは間違いないでしょう。それは、資本主義の発達とともに変遷した時代精神の(ある意味)当然の帰結でもあったと言っていいのかもしれません。

1887年、パリのバック街とデーヴル街とヴェルポー街とバビロン街の四方に囲まれた広大な土地に建設されたボン・マルシェの新しい店舗は、「商業という従来の概念をはるかに超越した新しいスペクタル空間だった」と鹿島氏は書いていました。

(略)万国博覧会のパヴィリオンと同じように、鉄骨とガラスでできたこの〈ボン・マルシェ〉のクリスタル・ホールは、パノラマやジオラマのような光学的イリュージョンを多用したスペクタルと同様の効果を客に及ぼすものと期待されたのである。仰ぎ見るほどに高い広々としたガラスの天窓からさんさんとふり注ぐ眩いばかりの陽光は、店内いっぱいに展示された目もあやな色彩の布地や衣服を、使用価値によって判定される商品から、アウラに包まれた天上的な何物かへと変身させてしまう。
( 『デパートを発明した夫婦』)


オシャレをする高揚感がなくなったように、このようなデパートという空間に存在したハレの感覚とそれに伴う高揚感もなくなったのです。

私は、コロナ以後、長い間苦しめられていた花粉症の症状がピタリと止み、例年になく花粉の量が多いと言われている今年もほとんど症状が出ていません。それで、先日、病院に行った折、ドクターとその話になりました。「年を取ったので、免疫機能が低下したからでしょうか?」と訊いたら、ドクターは、「花粉症というのは、バケツの中の水がいっぱいになってそれ以上入らなくなったことで、抗体が高止まりした状態になり過剰に反応するからですが、ずっと満杯状態が続くと抗体に免疫ができるということはあるでしょうね」と言っていました。

私たちは、資本からさまざまなイメージを与えられ欲望をかきたてられています。流行モードなどがその典型ですが、そうやってまるで何かにとり憑かれたように、、、、、、、、、、次から次へと新しい商品を手に取るようになるのです。資本主義は、私たちの飽くなき欲望をかきたてることで過剰生産恐慌の宿痾から逃れることができました。しかし、私たちの欲望のバケツも、いっぱいになり、消費することに高揚感がなくなってしまった。つまり、近代資本主義で神聖化されていた交換価値に免疫ができて、その魔法が効かなくなった。そう解釈することもできるのではないでしょうか。

そう考えれば、水野和夫氏ではないですが、デパートに引導を渡したグローバル資本主義も、所詮は死に至る資本主義の最後のあがきのようにしか見えないのです。

紀伊国屋で本を買ったあと、横浜駅から久しぶりに通勤客にもまれて電車で帰りました。


関連記事:
『誰がアパレルを殺すのか』
『セゾン文化は何を夢みた』


P1080454.jpg

P1080407.jpg

P1080410.jpg

P1080412.jpg

P1080415.jpg

P1080421.jpg

P1080429.jpg

P1080431.jpg

P1080442.jpg

P1080449.jpg
2023.04.06 Thu l 横浜 l top ▲
publicdomainq-0018871omvvvi.jpg
(public domain)


■声明に批判的な質問


昨日(5日)、学者やジャーナリストが記者会見して、「ロシアによるウクライナ侵攻に対して日本が停戦交渉の仲裁国となるよう求める声明を発表」したそうです。声明の中で、日本政府に対して、5月に広島で開かれる主要7カ国首脳会議(G7サミット)に際して停戦交渉を呼びかけるよう訴え」のだとか(下記記事より)。

朝日新聞デジタル
ウクライナ侵攻、政府に仲裁求め学者ら声明 報道陣から批判的質問も

 声明は学者ら約30人が連名で発表。現状では「核兵器使用や原発をめぐる戦闘の恐れ」があると指摘し、「戦争が欧州の外に拡大することは断固防がねばならない」と訴えた。ロシアとウクライナは即時停戦の協議を再開すべきだと訴え、日本政府が中国、インドとともに交渉の仲裁国となるよう求めている。
(上記事より)


ところが、会見の場で、「ウクライナで現地取材した記者らから、『ロシア寄りの提案ではないか』などと批判的な質問」が出たそうです。

それに対して、和田春樹・東京大名誉教授は、「『ロシアと米国が核兵器を持って対峙(たいじ)する世界で、ロシアをたたきつぶして降伏させることはあり得ない。核戦争になるような事態は止めなきゃいけない』と説明」したそうです。

件のジャーナリストが言っていることは、何度も言うように、敵か味方か、ロシアかウクライナか、勝ちか負けか、という二者択一を迫る”戦時の言葉”にすぎません。そんな思考停止した言葉で記事を書いているのかと思うと、おぞましささえ覚えてなりません。戦時中も「言論報国」のもと、メディアは戦争を礼賛して、“動員の思想”に奉仕しその先兵の役割を担ったのでした。そういった思考停止は、戦争中のように“戦争の狂気”を呼び起こすだけです。

声明を発表した30名の学者やジャーナリストたちは、同時にネット署名や新聞広告を出すためのクラウドファンディングもはじめたようで、相も変わらぬお友達サークルでの自己満なやり方にうんざりさせられますが、それはそれこれはこれです。

前の記事のくり返しになりますが、核保有国に敗北などあり得ないのです。それが核の時代の実相です。

■金網デスマッチ


一方で、ウクライナ戦争や台湾危機などきな臭い世相を反映して、自衛隊に入隊する人間が減っており、自衛隊は人材確保に苦慮しているという記事もありました。

自分たちが戦争の当事者になるのは嫌だけど、他国の戦争だったら、まるで金網デスマッチを応援する観客のように、「やれ、やれ、最後までやれ」と囃し立てて死闘(玉砕戦)を煽るのです。防衛増税は、言うなれば、そんな国民に向けた金網デスマッチの観戦料のようなものと言っていいのかもしれません。

如何にも日本的な光景とも言えますが、戦前と同じようにこういった空気に流されると、やがてそのツケが自分たちにまわってくるということがまるでわかってないのです。(前も書きましたが)戦争前、東条英機の自宅に「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような手紙を段ボール箱に何箱も書いて寄越した国民たちは、やがて戦死者の半数以上が餓死と言われるような無謀な戦争の先頭に立たされ、生活も人生も戦争に翻弄されて塗炭の苦しみを味わうはめになったのでした。そして、敗戦になった途端、今度は自分たちは被害者だ、軍部に騙された、と言い始めたのです。

宮台真司は、「日本人は一夜にして天皇主義者から民主主義者に豹変する存在」「空っぽの日本」という三島由紀夫の言葉を引用して、そこにクズな(空虚な)日本人の精神性を指摘したのですが、あの頃から見事なほど何も変わってないのです。


関連記事:
『永続敗戦論』
2023.04.06 Thu l ウクライナ侵攻 l top ▲
publicdomainq-0032167eqbsag.jpg
※赤の広場と聖ワシリイ大聖堂(public domain)


■マリン首相の苦戦


NATOの加盟が正式に決定したばかりのフィンランドで、2日、フィンランド議会の任期満了に伴う総選挙が行われました。まだ、選挙結果が出ていませんが、マリン首相が率いる中道左派の社会民主党は、最新の世論調査でも18.7%の支持率しかなく、「苦戦」を強いられているとメディアは報じています。

朝日新聞デジタル
マリン首相が「厳しい選挙」に直面 右派はティックトックで追い上げ

ロシアと国境を接するフィンランドは、従来ロシアを刺激しないために中立政策を取っていたのですが、ウクライナ侵攻を受けて危機感を抱き、NATO加盟に舵を切ったのでした。

今回の総選挙ではNATO加盟を主導した与党に有利にはたらくのではないかと言われていましたが、あにはからんやそうではなかったのです。ロシアへの経済制裁に伴うエネルギー価格の高騰で国民生活が苦境に陥り、それが戦争をエスカレートさせる一方のNATOに対する反発になっているのでした。

一方で、EU懐疑派の右派政党・フィンランド人党が19.5%と、与党の社会民主党を凌ぐ支持を集め、躍進が予想されています。フィンランドでも他国と同様、右派の存在感が増しているのです。

■メディアと世論の違い


日本のメディアの報道だけを見ていると意外だと思うかもしれませんが、ヨーロッパでは反NATOの声が拡大しているのでした。それは「戦争をやめろ」という声です。

ちなみに、米中対立に関する台湾の世論に関しても、日本のメディアが伝えるものとはかなり違っているようです。田中康夫氏は、ツイッターで、与党系のシンクタンクが行った世論調査の結果を次のように伝えていました。そこで示されているのも、「中国(大陸)を挑発するな」という声でしょう。

EUの人々は、戦争をやめなければ、自分たちの生活がにっちもさっちもいかなくなるという危機感を抱き始めているのです。その危機感が、極右への支持に向けられているのです。


■プーチンの発言


ウクライナ戦争を通して、世界が多極化に向かって加速しはじめていることが、もはや誰の目にもあきらかになっています。それはもう押しとどめることができない歴史の流れです。

人口比で言えば、国連のロシア非難決議に反対している人の方が多いのです(正確に言えば、非難決議に反対、もしくは棄権した国の方が賛成した国より人口が多い)。欧米支持派は、世界では少数なのです。

既に中国とロシアが中心となって、BRICsを拡大し上海協力機構(SCO)と結合させた、人民元やルーブルを軸にする新たな決裁システムの構築も始まっています。

エマニュアル・トッドも、今年の1月に執筆された「第三次世界大戦が始まった」の中で、次のように書いていました。

 もしロシア経済が、いつまでも経済制裁に持ちこたえ、遂にはヨーロッパ経済を疲弊させるに至り、中国の支援でロシア経済が生き延びるならば、通貨上及び金融上のアメリカによる世界制覇は崩壊に至ります。それとともに、アメリカは膨大な貿易赤字を無料でファイナンスしてきた重要な手段を失うことになります。
(文春新書『トッド人類史入門』所収・「第三次世界大戦が始まった」)


また、『トッド人類史入門』の中で、佐藤優氏は、2022年の10月24~27日に、ウクライナ侵攻後初めて開かれたヴァルダイ会議における講演の中で、プーチン大統領が次のように述べたことをあきらかにしていました。

〈今起きていることは、例えばウクライナを含めて、ロシアの特別軍事作戦が始まってからの変化ではありません。これらの変化はすべて、何年も長い間、続いています。(略)これは世界秩序全体の地殻変動なのです〉
〈ソ連の崩壊は、地政学的な力のバランスを破壊しました。欧米は勝者の気分になり、自分たちの意志、文化、利益のみが存在する一極的な世界秩序を宣言しました。
 今、世界情勢における西洋の独壇場は終わりを告げ、一極集中の世界は過去のものになりつつあります。私たちは、第二次世界大戦後、おそらく最も危険で予測不可能な、しかし重要な一〇年を前にして、歴史の分岐点に立っているのです〉(プーチン発言はいづれも佐藤優訳)


ロシアは、当初、民族浄化を行っているネオナチのゼレンスキー政権から、ウクライナ国内のロシア語話者を守るためという大義名分を掲げて侵攻したのですが、しかし、時間を経るに連れ、欧米との代理戦争の性格を帯びて来たウクライナ戦争について、世界の多極化という観点から歴史的な位置づけを行って、その意義を強調しはじめたのでした。それは、言うまでもなく、ドル本位制に支えられたアメリカと西欧の没落を意味するのですが、中国やBRICsなど新興国の支持を受けたロシアの自信の表れとも言えるでしょう。

余談ですが、エマニュアル・トッドが言っているように、ウクライナでは、ロシアの侵攻前から多くの中産階級が国外へ脱出していたのです。ウクライナはヨーロッパでもっとも腐敗した国と言われていました。しかもウクライナ民族主義を掲げるネオナチが跋扈し(アゾフ連隊のような民兵が当たり前のように存在し)、ロシア語話者や左翼運動家やLGBTなどを誘拐したり殺害したりする事件が頻発していました。そんな母国の現状に失望して、多くのウクライナ国民が国外へ脱出していたのです。また、NATOの東方拡大を背景に、ウクライナの農地の30%を欧米の穀物メジャーが所有しているという現実も、ウクライナ戦争の背景を考える上で重要なポイントでしょう。

西側のメディアが言うように、ロシアは決して孤立しているわけではないし、また、経済的に疲弊しているわけでも、軍事的に劣勢に立たされているわけでもありません。というか、そもそも核保有国が劣勢に立つなど、戦況以前に論理的にあり得ないことです。エマニュアル・トッドが言うように、スペインと同じくらいのGDPしかないロシアが、欧米を相手にどうしてこんなに持ちこたえているのか。そこに新たな世界秩序の謎を解くヒントがあるように思います。

しかし、対米従属を国是とする日本では、相も変わらず勝ったか負けたか、ウクライナかロシアかの戦時の言葉が飛び交うだけで、世界が多極化に向かっている現実をまったく理解しようとしないのです。私は、そんなイギリス国防省とアメリカのペンタゴンと防衛省の防衛研究所のプロパガンダに踊らされ、彼らの下僕のようになっている日本に歯がゆさを覚えてなりません。


関連記事:
世界史的転換

2023.04.03 Mon l ウクライナ侵攻 l top ▲
Ryuichi_Sakamoto_side.jpg
(Wikipediaより)


昨日、坂本龍一が3月28日に亡くなっていたというニュースがありました。

3月29日には、彼が明治神宮外苑の再開発の見直しを求める手紙を小池都知事などに送った、という記事があったばかりでした。

東京新聞 TOKYO Web
「ビジョン持ち、政治家選ぶ」 小池知事に手紙の坂本龍一さん

また、共同通信の書面インタビューで、坂本龍一は、「治療で東京での滞在時間が増え自然が広がる懐かしい神宮外苑を訪れては深呼吸し、スマホのカメラを向けることも多々あった」と述懐していたそうです。

しかし、その記事が配信されたのは、死の翌日だったのです。

坂本龍一は、文芸誌『文藝』(河出書房)の名物編集者として知られた坂本一亀の一人息子として生まれ、都立新宿高校で全共闘運動の洗礼を受けたあと、東京芸大に進み、在学中にYMOに参加したのでした。

彼の音楽が世界的に知られるようになったのは、俳優としても出演した1983年の大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」で音楽を担当したことがきっかけです。

そのあとだったか何かの雑誌で、中上健次と対談をしていて、その中で日本赤軍がアラブに行ったとき、ああ先を越されたな、俺も行きたかったなと思った、というような発言をしていたのが記憶に残っています。

神宮外苑の再開発もそうですが、原発事故をきっかけに反原発運動などにもコミットしてきたのも、そういったナイーブな感性をずっと持ち続けていたからではないかと思います。

他人から見ればどうでもいいことのように思うかもしれませんが、たとえ立身栄達しても、絶対に譲れない一線というのがあったはずです。もちろん、一方でどこか生きづらさのようなものを抱えていたということもあるでしょう。

末期の癌を抱え、死の間際にあっても尚、神宮外苑の樹木の伐採問題に心を寄せる気持も、そんな絶対に譲れない一線があったからでしょう。

前に高校時代の同級生から、同級生の女の子が癌で亡くなったという手紙が来たことがありました。その中で、亡くなるひと月前だったかに、上野の美術館で開催されている美術展を観たいというので、病院から外出許可を貰った彼女を同級生たちがサポートして一緒に行ったのが思い出です、と書いていました。

死はたしかに孤独と虚無だけど、だからこそと言うべきか、そういった気持があるのとないのとでは大きく違うように思うのです。

野生動物は死を察知すると、群れから離れてひとりで死を迎えると言われます。昔、外で放し飼いしていた頃の犬もそうでした。私も誰にも知られずにひとりで死を迎えるのが理想です。そのためには、自分の言葉で語ることができる人生観や死生観を持つことが大事だと思うのです。柳田国男は、それを「物語」と言ったのでした。
2023.04.03 Mon l 訃報・死 l top ▲
publicdomainq-0051435ykpojx.png

(public domain)


■10年以上通うスーパー


私がもう10年以上通っているスーパーがあります。ほぼ2日に1度のペースで通っていますが、コロナがはじまる前まではずっと変わらない日常の風景が続いていました。

開店間際に行くことが多かったのですが、店に入ると、第二の人生でアルバイトをしているとおぼしき高齢の人たちが品出しをしていました。開店してもまだ追いつかないらしく、それぞれの持ち場で台車で運ばれた箱の中から商品を出してそれを棚に並べていました。

ところが、2020年の春先、新型コロナウイルスの感染が拡大を始めると、彼らはいっせいに姿を消したのでした。みんな、感染を怖れて辞めたのだと思います。

実際にスーパーのレジ係の人たちがコロナ禍で過酷な状況に置かれていたのは事実で、店のサイトでは日々感染者が発生したことが発表されていました。

朝の品出しがいなくなったことで、開店しても、東日本大震災のときの買いだめのあとみたいに、商品棚はガラガラの状態が続きました。

レジはビニールで覆われ、レジ係の女性たちはゴム手袋をして仕事をするようになりましたが、感染は続いていました。中には結構高齢の女性もいましたが、(失礼にも)事情があって辞めたくても辞められないのかなと思ったりしました。

ところが、しばらくして、セルフレジが導入されることになったのです。そのため、1週間休業して改装が行われました。

改装後、店に行くと、数人いた高齢のレジ係の女性がいなくなったのでした。長い間通っていると、誰が社員で誰がパートかというのが大体わかるようになりますが、残ったのは若い社員ばかりです。彼女たちは、セルフレジの端でパソコンを睨みながら、不正がないか?監視するのが仕事になりました。そして、余った社員が一部に残った有人レジを交代で担当するようになったのでした。

■コロナ禍と合理化


私自身も、いつの間にかキャッシュレス生活になりました。考えてみたら、先月、銀行で現金をおろしたのは一度で、それも5千円だけでした。数年前には考えられないことです。

食事をするために店に入ろうとしても、オダギリジョーと藤岡弘が出るテレビのCMではないですが、現金払いしかできない感じだと敬遠するようになりました。そもそも財布に現金が入ってないのです。

私が行く病院はキャッシュレス決済ができないので、病院の前にある銀行のATMでお金をおろして行かなければならないのですが、会計の際、請求どおりの小銭がなくてお釣りを貰うはめになると困ったなと思うのでした。小銭を使う機会がないからです。

たまった小銭を使おう(処分しよう)と思って、スーパーのセルフレジで小銭を投入して精算しはじめたものの、要領が悪くて時間がかかっていたら、店員がやって来て「大丈夫ですか?」と言われたことがありました。

このように、コロナ禍によって私たちの社会はかつてない規模で合理化が行われ、風景が一変したのでした。キャッシュレスの便利さも、見方を変えれば、資本の回転率を上げるための合理化だと言えるでしょう。労働力しか売るものがない私たちは、リストラされたり、パートだと勤務時間を削られたり、仕事を辞めても次の職探しに苦労したりと、便利さと引き換えに、血も涙もない経済合理主義に晒されることになったのです。

人出不足と言われていますが、それは若くて賃金の安い労働力が不足しているという話にすぎません。中高年が仕事を探すのは、たとえアルバイトであっても至難の業です。仮に仕事にありついても、足元を見られて学生のアルバイト以下の安い時給しか貰えません。人手不足だと言われながら、中高年を取り巻く環境はむしろ厳しくなっているのです。

ハローワークに行くと、シニア向けの求職セミナーみたいなものがあるそうで、そこでは、プライドを捨ててどんな仕事でもしなさい、仕事があるだけありがたく思いなさい、それが現実なんですよ、と得々と説教されるのだと知人が言っていました。

パテミックによって、資本主義がまるで最後の悪あがきのように、その非情で狂暴な本性をむき出しにするようになったと言っても過言ではないのです。

■ターゲットにされる高齢者の社会保障費


格差も広がる一方です。コロナ禍とウクライナ戦争による物価高でさらに格差が広がった感じです。「過去最高の賃上げ」を享受できるのは一部の労働者に限られており、むしろ、さらなる格差を招いているとも言えるのです。

最近よく耳にするようになった「全世代型社会保障改革」というのは、岸田政権の目玉である異次元の少子化対策の財源をどうするかという、これからはじまる議論の叩き台になるワードですが、とは言え、既に基本的な方針は決まっていると言われています。財源が不透明というのは、メディアのいつものカマトトにすぎません。

ターゲットになるのは高齢者の社会保障費です。たしかに、子育て世代の経済的な負担を減らすのが異次元の少子化対策なのですから、現役世代が負担増になれば、話が矛盾するでしょう。しかし、高齢者の社会保障に関しては、たとえば、月に10万円にも満たない年金の中から1万数千円の介護保険料が天引きされているような受益者負担のむごい現実があることなど、あまり知られていません。

財源に対する政治家の発言の中には、子どもは納税者として将来があるけど、高齢者は先が短いので子どもの犠牲になれとでも言いたげな本音が垣間見えることがありますが、それは古市憲寿や落合陽一や成田悠輔と同じ発想と言わざるを得ません。そこに表れているのも、非情な経済合理主義がむき出しになった現実です。

少子化の問題には、社会や労働の時代的な変化を背景にした個人の生き方が関わっており、歴史的文化的な要素も大きいので、あんなことやっても子どもが増えるわけじゃない。それどころか、財政援助が住宅ローンに消えていくという笑えない現実になりかねないよ、と口さがない知人が言っていましたが、当たらずと雖も遠からずという気がします。

パンデミックとウクライナ戦争をきっかけに、世界地図が大きく塗り替えられるのは間違いなく、当然私たちの生活や人生も変わっていかざるを得ないでしょう。今の異常な物価高はその前兆だと言えます。

多極化により、政治だけでなく経済の重心が新興国に移っていくことによって、今までドル本位制で守られてきた先進国は、アメリカの凋落とともに先進国の座から滑り落ちていくことになるのは間違いありません。歴史はそうやって更新されるのです。貧しくなることはあっても、もう豊かになることはないでしょう。既に1千万人の人々が年収156万円の生活保護の基準以下で生活している現実がありますが、貧困に喘ぐ人々はもっと増えていくでしょう。若いときはそれなりに生活できても、年を取れば若いときには想像もできなかったような過酷な日々を送らなければならないのです。今はいつまでも今ではないのです。

■明日の自分の姿


若いときの貧乏はまだしも苦労で済まされることができますが、老後の貧困は悲惨以外のなにものでもありません。

私は、以前、山手線の某駅の近くにあるアパートで、訪問介護を受けて生活している一人暮らしの老人を訪ねたことがありました。韓国料理店などが並ぶ賑やかな表通りから、「立小便禁止」などと貼り紙がされた路地を入っていくと、その突き当りに、数軒のアパートが身を寄せ合うように建っている一角がありました。それらは、私たちが学生時代に住んでいたような昔の木造アパートでした。

いちばん手前は、1階が普通の住居で2階がアパートになっていました。1階は大家さんの家なのでしょう。しかし、昼間なのに雨戸が閉まったままで、家のまわりも雑草が生い茂っており、人が住んでいるような様子はありませんでした。念の為、声をかけましたが、やはり返事はありませんでした。

それで建物の横にまわり、アパートの入口らしき戸を開けると、すぐ階段があり、階段の下に履物が乱雑に入れられた下駄箱がありました。それを見て、アパートにはまだ人が住んでいることが確認できたのでした。と言っても、建物の中は物音ひとつせず、気味が悪いほどひっそりしていました。靴を脱いで階段を上がると、薄暗い廊下にドアが並んでいましたが、どこにも部屋番号が書いてないのです。それで適当にドアをノックしてみました。すると、その中のひとつから「はい」という返事があり、どてらを着た高齢の男性が出て来ました。訪問予定の人の名前を告げると、「ああ、〇〇さんは隣のアパートですよ」と言われました。

でも、隣のアパートも人気ひとけがなく、人が住んでいるようには思えない雰囲気でした。窓の外に洗濯物を干している部屋もありません。「隣は人が住んでいるのですか?」と訊きました。すると、「ええ、住んでいますよ。二階に上がってすぐの部屋です」「最近見てないけど、一人では歩けないので部屋にいるはずですよ」と言われました。

お礼を言って、教えられた部屋に行くと、部屋の前に車椅子が置いてありました。あの狭い階段をどうやって下ろすんだろうと思いました。ドアをノックすると中から返事があり、言われたとおりドアノブをまわすとドアが開きました。どうやら鍵もかけてないようです。中に入ると、裸電球の灯りの下、頬がこけ寝巻の間からあばら骨が覗いた老人がベットに横たわっていました。部屋は足の踏み場もないほど散らかっており、飯台の上には書類らしきものに混ざって薬や小銭が散乱していました。こんなところに通って来るヘルパーの人も大変だなと思いました。一方で、目の前の老人の姿に、すごく身につまされるような気持になりました。

後日、福祉の担当者にその話をすると、「可哀そうだけど、都内はどこもいっぱいで入る施設がないんですよ」と言っていました。特に単身者の場合、担当が都内23区の福祉事務所であっても、群馬や栃木や茨城などの施設や病院に入ってそこで人生を終えるケースも多いのだそうです。担当者の話を聞きながら、もしかしたらそれは明日の自分の姿かもしれない、他人事ひとごとではないな、と思ったのでした。

それから半年も経たないうちに、訪ねた老人が亡くなったことを知りました。さらに数年後、再開発でアパートは壊され、跡地にマンションが建てられたそうです。そうやって老人が数十年暮らした記憶の積層は、跡形もなく消し去られたのでした。


関連記事:
殺伐とした世の中
2023.03.31 Fri l 社会・メディア l top ▲
DSC02518.jpg


■ショーケン


横浜に住んで15年以上になりますが、昨日、初めて鶴見の総持寺に行きました。

もう10年以上も前ですが、フジテレビで萩原健一に密着したドキュメンタリーが放送されたことがありました。

晩年は都内に引っ越したみたいですが、ショーケンは長い間、鶴見区の寺尾というところに住んでいて、早朝から散歩に出かけて、途中、総持寺にお参りするのが日課になっているとかで、本堂で懸命に手を合わせて念仏を唱えているシーンがありました。2019年に亡くなったときも、葬儀は鶴見で行われたそうです。

私がショーケンが出た映画で印象に残っているのは、神代辰巳の「青春の蹉跌」(1974年)と深作欣二監督の「いつかギラギラする日」(1992年)です。「青春の蹉跌」は、新宿の今はなき日勝地下だったかで観た記憶があります。あの頃は人生の難題が重なってホントに苦しんでいました。血を吐いたこともありました。

総持寺は歩いて行くにはちょっと遠すぎるので、バスで行きました。

鶴見行のバスに乗ったのも二度目ですが、昔の狭いクネクネ道がバイパスに変わっていました。前にバスに乗ったときもこのブログに書いていたので調べたら、2010年の8月でした。13年振りに鶴見行のバスに乗ったのです。

■曹洞宗の大本山


終点の「鶴見駅」の一つ手前の「総持寺前」で降りましたが、バス停の前には歯学部で有名な鶴見大学の建物がありました。

実は、鶴見大学も総持寺が運営しているのです。総持寺は、「総持学園」という学校法人を持っており、傘下には鶴見大学だけでなく、短期大学や中学や高校、幼稚園もあるそうです。

参道の両側に大学の校舎があるので、参道を山門に向かって歩いていると、前から鶴見大学の学生がひっきりなしにやって来るのでした。春休みでそれなのですから、学校がはじまれば参道は学生で埋まるのでしょう。

総持寺は、曹洞宗の大本山の寺です。曹洞宗では「総本山」とは言わないみたいです。また、曹洞宗には大本山が二つあり、もう一つは福井県にある永平寺だそうです。曹洞宗の開祖は道元ですが、道元が祀られているのが永平寺で、総持寺で祀られているのは、4代目の祖である鎌倉時代の禅師の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)だそうです。

山門(総門)の三松関(さんしょうかん)をくぐり、さらに両側に金剛力士像が睨みをきかす三門(さんもん)をくぐると、まず目に飛び込んで来たのが広大な境内に配置された伽藍堂とそのまわりを囲む桜の木でした。

いつくかの門をくぐって坂道を登ると、正面に仏殿(本殿)が見えてきました。ただ、本殿のまわりは工事中で、袈裟を来た僧侶たちが首からカメラを提げて工事の模様を撮影していました。

また、本殿の中に入ると、修行中なのか、5~6人の僧侶が一列に並んで、古参の僧侶から所作の指導を受けていました。

本殿に行く途中に「受付」という看板が立てられた香積台(こうしょだい)という建物があり、お土産などを売っているのですが、その中に事務所みたいなのがあって、丸坊主で袈裟を来た坊さんがパソコンを打ったり電話をしたりと、事務作業を行っていました。何だか奇妙な光景でした。

総持寺のあとは鶴見駅まで歩いて、横浜駅に行こうと京浜東北線に乗ったのですが、途中で気が変わって東神奈川駅で下車して横浜線に乗り換えて、菊名から東横線で帰りました。駅を出たら、ちょうど雨が降りはじめたので、自分の選択が間違ってなかったんだと思って、ちょっと誇らしいような気持になりました。人間というのはそんなものです。


関連記事:
ショーケンはカッコええ
『日本映画[監督・俳優]論』
ショーケンの死


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC02635_2023033001114623a.jpg

DSC02506.jpg

DSC02514.jpg
三松関

DSC02523.jpg

DSC02533_202303300113232d7.jpg
香積台

DSC02540.jpg
百間廊下

DSC02562.jpg
仏殿(本殿)

DSC02554.jpg
本堂

DSC02566.jpg

DSC02612_2023033012070617c.jpg

DSC02597.jpg
白く映っているのは、舞い散る花びらです。
2023.03.30 Thu l 横浜 l top ▲
中国国旗


次のようなニュースが飛び込んで来ました。

Yahoo!ニュース
テレ朝NEWS
「彼と会う準備ができている」ゼレンスキー大統領 習近平氏のウクライナ訪問要請

ゼレンスキーの真意がどこにあるのか、今ひとつはかりかねますが、仮に中国主導で和平が実現すれば、世界がひっくり返るでしょう。もちろん、今まで軍事支援をしてきた欧米の反発は必至でしょうから、そう簡単な話でないことは言うまでもありません。

■軍事支援によるNATO軍の参戦


ドイツのキール世界経済研究所によれば、侵攻後、欧米各国が表明したウクライナへの支援額は、2月の段階で約622億ユーロ(約8兆9200億円)に上るそうです(産経新聞より)。ウクライナ戦争が「西側兵器の実験場」になっている(CNN)という声もあるようですが、軍事支援は当初の砲弾や携行型対空ミサイルから、最近は戦車や戦闘機を供与するまでエスレートしているのでした。戦車や戦闘機の供与は、実戦向けにウクライナ兵を訓練しなければならないため、実質的にNATO軍の参戦を意味すると言われています。ポーランドなどNATOの加盟国で訓練するそうですが、中には軍事顧問として前線で指導する兵士も出て来るでしょう。というか、既に多くのNATO軍兵士がドローンの操縦などで参戦しており、それは公然の秘密だと言われているのです。

イギリスが劣化ウラン弾の供与を発表したことに対抗して、ロシアがベラルーシに戦術核兵器を配備すると発表するなど、まるでロシアンルーレットのような戦争ゲームが行われています。

それはウクライナだけではありません。北朝鮮が米韓軍事演習に対抗して巡行ミサイルを日本海に発射すれば、さらに米韓が北朝鮮上陸を想定した演習を行なったり、台湾では野党・国民党の馬英九前総統が中国を訪問すれば、与党・民進党の蔡英文総統が中米歴訪に出発するなど、世界は対立と分断が進み、きな臭くなるばかりです。

■民衆蜂起の時代


誰でもいいから、、、、、、、この状況を止めなければならないのです。頭から水をかける第三者が必要なのです。仮に中国が和平の仲介に成功すれば、今の状況が一変するでしょう。「中国の思う壺」であろうが何だろうが、それは二義的な問題です。

日本のメディアや識者が戦時の言葉でウクライナ戦争を語るのを見るにつけ、彼らに戦争反対を求めるのはどだい無理な相談だということがよくわかります。中国の仲介に一縷の望みを託すというのはたしかに異常ですが、今の状況はそれくらい異常だということなのです。

一方で、笠井潔が21世紀は民衆蜂起の時代だと言ったように、世界各地で民衆の叛乱がはじまっています。フランスの年金改革に反対するゼネストでも、赤旗に交じってチェ・ゲバラの旗を掲げてデモしている映像がありましたが、背景に物価高を招いたウクライナ戦争の対応に対する反発があるのはあきらかです。欧州において、左派だけでなく極右が伸長しているのも同じです。右か左かなんて関係ないのです。

先週、ベルギーのブリュッセルで開かれたG7とNATOとEUの首脳会議に対しても、反NATOの大規模な抗議デモが起こったと報じられました。しかし、反戦を訴える人々の声は、ウクライナを支援する各国政府に封殺されているのが現状です。

そんな中で、ウクライナ和平において、中国がその存在感を示すことにできれば、間違いなく世界史の書き換えが行われるでしょう。

既に中南米は大半の国に反米の左派政権が誕生していますが、多極化に合わせて、世界の主軸が欧米からBRICsを中心とした新興国へと移っていくのは間違いありません。富を独占する欧米に対して、ドルとは別の経済圏を広げている新興国が、俺たちにも寄越せと言いはじめているのです。欧米式の資本主義や民主主義の矛盾が噴出して、地殻変動が起きているのです。もしかしたら、ウクライナ戦争がそのターニングポイントだったと、のちの歴史の教科書に記されるかもしれないのです。
2023.03.29 Wed l 社会・メディア l top ▲
DSC02391.jpg


■相鉄・東急 新横浜線


最近はよく散歩をしています。先週の土曜日は新横浜まで歩いて、新横浜駅から隣の新綱島駅まで、開通したばかりの「相鉄・東急 新横浜線」に乗りました。

新綱島駅は、東横線の綱島駅とは綱島街道をはさんだ反対側に新しくできた駅です。尚、東横線と接続するのは、綱島の隣の日吉駅です。

新綱島駅の出口の横には、さっそくタワーマンションの建設がはじまっていました。こうやって開発から取り残された二束三文(?)の土地が、数十倍にもそれ以上にも化けるのです。そういった現代の錬金術を可能にするのが道路と鉄道です。

駅のすぐ近くに鶴見川が流れているので、土手の上の遊歩道を歩きました。対岸の大倉山(実際は大曽根)側には桜の木が植えられているので、その下では花見をする人たちが大勢いました。

中にはテントを張っている人たちもいました。最近は鶴見川の土手をよく歩いているのですが、平日でも大倉山や新横浜の土手下にテントを張っているのを見かけます。奥多摩ではコロナをきっかけに登山客がめっきり減ったそうですが、その代わりキャンプ場は盛況だそうです。今はタムパやコスパの時代にふさわしく、ハアハア息をきらして山に登るのではなく、山の下で遊ぶのがトレンドなのです。

土曜日の歩数は1万7千歩でした。さすがに1万歩を超えると膝に痛みが出て来ますが、ただ痛み止めの薬を飲んでサポーターをすればそれほどではありません。1万歩くらいだとほとんど痛みもありません。と言っても、こわばりのようなものはまだ残っています。

■環状2号線


今日は、環状2号線を歩いて鶴見にある県営三ツ池公園まで歩きました。

三ツ池公園は二度目で、前に行ったときもこのブログに書いた覚えがあるので調べたら、2008年の1月でした。昨日のことのように記憶は鮮明なのですが、15年前だったのです。

当時と同じコースを歩きましたが、まわりの風景もほとんど変わっていませんでした。三ツ池公園も、もちろん当時のままです。あらためて月日が経つのははやいなとしみじみ思いました。そう思う気持の中には、哀しみというかせつなさのようなものもありました。

■大分のから揚げ


途中に「大分からあげ」という登りを立てた弁当屋があったので、から揚げ弁当を買って、それを持って三ツ池公園に行きました。

三ツ池公園は広大な敷地の中に、名前のとおり三つの池があるのですが、他にレストハウスもあるし、テニスコートや野球のグランドやプールもあります。また、さまざまな名前が付けられた広場は7つもあります。

平日にもかかわらず花見客で賑わっており、駐車場の入口は車が列を作っていたほどです。レストハウスの近くには、数台のキッチンカーも出ていました。

池のまわりを歩いたあと高台に登り、一人で花見をしました。弁当の中に入っていたから揚げは、案の定、大分のものとは違っていましたが、でもそれはそれで美味しいから揚げでした。

私の田舎は平成の大合併で隣の市と合併したのですが、前に田舎に帰ったとき、用事があって隣町の市役所の本庁に行ったら、そこでたまたま幼馴染に会って一緒に昼食に行ったことがありました。幼馴染は、「××ちゃん(私の名前)はから揚げが好きだったよな。○○に行こうよ」と言われて、子どもの頃、私の田舎にも支店があったから揚げ専門店の本店に行ったのでした。

「大分からあげ」と言うと、東京では県北にある中津のから揚げが代名詞みたいに言われていますが、中津にから揚げがあるというのは東京に来て初めて知りました。地元では養鶏場直営で昔からある田舎の店の方が知られており、今は「大分からあげ」の店として大分駅にも出店するまでになっているのです。

久住くじゅうの山もそうですが、私たちの田舎は人が好いのか、それとも商売っ気がないのか、他の自治体に先に越されて(いいとこどりされて)後塵を拝するようなことが多いのです。久住連山だけでなく、祖母山も私たちの田舎(市)にありますが、祖母山なんてまったく関係ないよその山みたいなイメージさえあるのでした。

■上野千鶴子


高台の見晴らしのいい場所で弁当を食べていたら、無性に山に行きたくなりました。人のいない山に登って、山頂で一人の時間を過ごしたいなと思いました。山に行くと、やっぱり一人がいいなあと思うのでした。クマが怖いけど、私は、誰もいない山を一人で歩くのが好きです。ただ、足が痛いと充分楽しむことができず、特に下山がつらくて時間もかかるので、それで億劫になって遠ざかっているのでした。

山と言えば、『山と渓谷』の最新号を見ていたら、上野千鶴子が「山ガール今昔」という文章を書いていたのですが、彼女は京大のワンダーフォーゲル部の出身なのだそうです。当時、女子の部員は彼女だけだったとか。山岳部だと親が反対するので、親の目をごまかすためにワンダーフォーゲル部に入ったと書いていました。

私は、上野千鶴子の本はわりとよく読んでいますが、ただ首都高をBMWで走るのが趣味だと聞いて、”嫌味な人間”というイメージがありました。ところが、彼女がBMWで首都高を走っていたのは、ルーレット族のようなことをしていたからではなかったのです。八ヶ岳にある歴史家の色川大吉氏の元へ通うためだったのです。

色川大吉氏は、「五日市憲法草案」の発掘などで知られる民衆史の碩学で、私は若い頃、色川氏の講義を聴くために、氏が勤務していた東京経済大学にもぐりで通ったこともあるくらいです。色川氏が秩父事件の背景になった奥多摩や秩父の自由民権運動を研究するようになったのも、山が好きだったからではないのか。二人を結び付けたのも山だったのではないか、と勝手に想像したのでした。

日本を代表するフェミニストの”不倫の恋”、ゲスの極みのような週刊文春では「略奪愛」のように言われていますが、現金なもので、私はその記事を見て、逆に上野千鶴子に対する”嫌味な人間”のイメージがなくなったのでした。

尚、今夏、山と渓谷社から『八ヶ岳山麓より』というエッセイ集を刊行するそうで、何のことはない、上記の文章はそのプロモーションだったのです。

帰ってスマホのアプリを見たら、往復で13キロ、1万9千467歩でした。だったら少し遠回りして2万歩にすればよかったなと思いました。


関連記事:
環状2号線


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC02400.jpg

DSC02433_20230328000416c6a.jpg

DSC02439.jpg

DSC02452_202303280004200ce.jpg

DSC02458.jpg

DSC02464.jpg

DSC02493.jpg

DSC02487_2023032800061307e.jpg

DSC02496_202303280006154e6.jpg
2023.03.27 Mon l 横浜 l top ▲
2035年の世界地図


■「非平等主義的潜在意識」


前の記事の続きになりますが、「失われる民主主義 破壊する資本主義」という副題が付いた、朝日新書の『2035年の世界地図』(朝日新聞出版)の中で、フランスの歴史学者のエマニュエル・トッドは、今の社会で起きているのは、「一種の超個人主義の出現と社会の細分化」だと言っていました。

識字率の向上と「教育の階層化」による「非平等主義的潜在意識」によって、共同体の感覚が破壊され、社会の分断が進むと言うのです。

 かつてほとんどが読み書きできるが他のことは知らない。ごく少数のエリート層を除けば人々は平等でした。
 しかし今では、おそらく国にもよりますが、おそらく30%の人びとが何らかの高等教育を受けています。これに対して、20~30%の人々は基本的な読み書きができる程度、つまり、初等教育のレベルで止まっています。
 この教育の階層化は、不平等の感覚を伴います。社会構造の最上部と底辺では、人びとは同じではない、という感覚です。
(『2035年の世界地図』・エマニュエル・トッド「まもなく民主主義が寿命を迎える」)
※以下引用同じ


これが「非平等主義的潜在意識」だと言うのでした。

■日の丸半導体


米中対立によって、中国に依存したサプライチェーンから脱却するために、国際分業のシステムを見直す動きがありますが、ホントにそんなことができるのか疑問です。

日本でも「日の丸半導体」の復活をめざして、トヨタ・ソニー・NTTなど国内企業8社が出資した新会社が作られ、北海道千歳市での新工場建設が発表されましたが、軌道に乗せるためには課題も山積していると言われています。

2027年までに2ナノメートルの最先端の半導体の生産開始を目指しているそうですが、半導体生産から撤退して既に10年が経っているため、今の日本には技術者がほとんどいないと言うのです。

さらに、順調に稼働するためには、5兆円という途方もない資金が必要になり、政府からの700億円の補助金を合わせても、そんな資金がホントに用意できるのかという疑問もあるそうです。

また、工場を維持するためには、台湾などを向こうにまわして、世界的な半導体企業と受託生産の契約を取らなければならないのですが、今からそんなことが可能なのかという懸念もあるそうです。

■グローバル化がもたらした現実


エマニュエル・トッドは、「グローバル化がもらたした現実」について、次のように指摘していました。

(略)世界の労働者階級の多くは中国にいます。今、世界の労働者階級のおそらく25%は中国にいます。ブローバル化の中で国際分業が進み、世界の生産を担っているのは、中国の人々なのです。
 もう一つの大きな部分はインドなどです。欧米や日本といった先進国の経済は、工業(に伴う生産活動)から脱却し、サービスや研究などに従事しています。この構造から抜け出せないでしょう。先進国の国民は労働者として生産の現場に戻れるでしょうか。
(略)
 私たちは、「それはできますか?」と問われています。「サービス産業社会から工業社会に戻ることはできますか?」と。
 第三次産業にふさわしい教育を受けた労働者を製造現場の労働者階級に変えることはできますか? 我々には分かりません。いや残念ながら知っています。これが不可能であることを。


つまり、時間を元に戻すことはできないということです。私たち個人のレベルで言えば、現代は「超個人主義の出現」と「社会の細分化」の時代であり、それは歴史の流れだということです。もっとも、核家族こそが原初的な家族構造であり、そうであるがゆえにアングロサクソンのようにもっとも先進的な社会を作ったというパラドックスを主張するエマニュエル・トッドに言わせれば、”先祖返り”ということになるのでしょう。

■国民国家の溶解


少子化も巷間言われているようなことが要因ではなく、歴史の産物と言っていいものです。第三次産業社会や「超個人主義」や国民国家の溶解は、「グローバル化がもたらした現実」で、少子化もそのひとつです。パンデミックやウクライナ戦争によって、たしかに国家が大きくせり出すようになり、国際会議に出席する各国の首脳たちも、スーツの襟にみずからの国の国旗のバッチを付けるような光景が多くなりましたが、それはマルクスの言う「二度目の喜劇」にすぎないのです。

劣化ウラン弾や戦闘機まで提供するという欧米の軍事支援に対抗して、ロシアがベラルーシに戦術核を配備することに合意したというニュースがありましたが、バイデン政権はまるでロシアが核を使用するまで追い込んでいこうとしているかのようです。

何度も言いますが、どっちが正しいかとかどっちが勝つかという話ではないのです。核戦争を阻止するためにも、恩讐を越えて和平の道を探るべきなのです(探らなければならないのです)。岸田首相の「必勝しゃもじ」のお土産は、アホの極みとしか言いようがありません。いくらバイデンのイエスマンでも、ここまで来ると神経を疑いたくなります。

それは、“台湾危機”も同じです。今のようにサプライチェーンから中国を排除する動きが進めば、中国はホントに半導体の一大生産地である台湾に侵攻するでしょう。バイデン政権は、ここでも中国を追い込もうとしているように思えてなりません。誰が戦争を欲しているのかを考える必要があるのです。

中国に関して、エマニュエル・トッドは、次のように言っていました。

(略)中国の文化と革命の伝統として、平等主義の要素があります。もう一方で、高等教育を受けた人々が増えています。中産階級と呼ばれる層です。この階層の比率が共産主義崩壊直前のソ連と同じ水準に達しようとしているのです。


ゼロコロナ政策に抗議する学生たちの白紙運動を思い浮かべると、中国も国民国家の溶解とは無縁ではないことがわかります。中国もまた、2050年頃から少子高齢化に転じると予測されているのです。

工業社会に戻ることができないように、伝統的な家族像を基礎単位とした社会に戻すことなどできないのです。社会のあり様が変われば、人々の生き方や人生のあり様が変わるのは当然です。そして、国民国家の溶解が進めば、資本主義や民主主義が変容を迫られるのも当然です。もとより、今の資本主義や民主主義も、パンデミックやウクライナ戦争によって、とっくに有効期限が切れていたことがあきらかになったのでした。

■これからの社会


一方で、どんな新しい時代が訪れるのかはまだ不透明です。『2035年の世界地図』もタイトルが示すとおり、この「全世界を襲った地殻変動」のあとにどんな未来があるのかを論じた本ですが、(逆読みが可能な)エマニュエル・トッド以外は、「新しい啓蒙」(マルクス・ガブリエル)とか「命の経済」(ジャック・アタリ)とか「資本主義を信じる」(ブランコ・ミラノビッチ)とか、まるでお題目を唱えるような観念的な(希望的観測の)言葉を並べるだけで愕然としました。国家主義や全体主義という「二度目の喜劇」の先を描く言葉を彼らは持ってないのです。

エマニュエル・トッドは、ヨーロッパで伸長している極右政党について、彼らは労働者階級や低学歴者を代表(代弁)しているのであり、「強い排外的傾向を持っているからと言って、民主主義の担い手として失格にできません」と言っていましたが、これからの社会を考える上ではそういった視点が大事ではないかと思いました。右か左かではなく上か下かなのです。
2023.03.26 Sun l 社会・メディア l top ▲
篠田麻里子Twitter
(本人のツイッターより)


■ゲスな感情


私は、タレントの篠田麻里子に関しては、AKB48の元メンバーだったくらいの知識しかありません。もちろん、ファンでも何でもありません。

しかし、昨日、篠田麻里子が離婚したとかで、Yahoo!のトップページがそのニュースで埋まっていたのでびっくりしました。

見出しは次のようなものでした。

週刊女性
【篠田麻里子が離婚】「目的は子どもではなくカネ」元夫が送りつけていた“8000万円脅迫メール”

FLASH
篠田麻里子、離婚発表に同情の声が少ない理由「いつ結婚するの?」「にんにくちゃん」上から目線の過去発言

ディリースポーツ
篠田麻里子が離婚 連名で「夫婦間の問題、無事に解決」夫「麻里子を信じる」

東スポWEB
篠田麻里子の離婚発表で「ベストマザー賞」トレンド入り 受賞者〝離婚率高い説〟は本当か

NEWポストセブン
《離婚発表》元夫はなぜ篠田麻里子の「言葉を信じる」ことになったのか 不倫疑惑に「悪いことはしていない」

文春オンライン
【離婚発表】元AKB篠田麻里子(36)の夫が篠田の“不倫相手”を訴えた!「不貞行為の物証も揃っている」《夫は直撃に「訴訟に関しては間違いない」と…》

読者の需要があるからでしょうが、タレントとは言え、他人ひと様の離婚にこんなに興味があるのかと思いました。しかも、記事は出所不明な情報を根拠にした、悪意に満ちたものばかりです。

出会って2週間で結婚したものの、すれ違いが生じた上に別居。離婚調停中に妻に不倫疑惑が持ち上がり、夫が妻の相手を被告として、「不貞行為」をあきらかにする民事訴訟を起こして「泥沼の不倫訴訟」に発展した、というのがおおまかな流れのようです。ところが、相手を訴えていた夫が「(妻を)信じる」と態度を一変して、急転直下、離婚が成立したのでした。でも、芸能マスコミやネットのデバガメたちにはそれが気に食わないようです。

もちろん、本人は否定していますが、彼らは、なにがなんでも不倫したことにしなければ気が済まない、でなければ話が成り立たないとでも言いたげです。

要するに、訴訟を起こした夫の人間性や思惑などは関係なく、ただ篠田麻里子を夫以外の男と寝た“ふしだらな女”にすることだけが目的のように見えて仕方ありません。夫が不倫だと言えば、それが一人歩きしてバッシングが始まったのです。

しかも、いくらバッシングされても表に出る篠田麻里子の写真や映像はいつもニコニコしているものばかりなので、さらに反発を招いてバッシングがエスカレートしていったような感じさえあるのでした。世間にツラを晒す仕事をしている芸能人が、カメラの前で愛想笑いを浮かべるのは当然ですが、それさえ「図太い神経の持ち主」みたいに言われバッシングの材料にされるのでした。また、中には、WBC優勝の翌日に離婚発表したことで、篠田麻里子は「つくづく空気が読めない」と批判している写真週刊誌までありました。

不倫=“ふしだらな女”というイメージの前では、かように何から何まで坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式に言いがかりの対象にされるのでした。芸能マスコミでは、不倫は向かうところ敵なしの絶対的な”悪”なのです。しかも、その多くは女性の問題とされ、叩かれるのはもっぱら女性です。

■我慢料


異次元の少子化対策などがその典型ですが、政府の発想は相も変わらず家や家族が中心です。保守的な政治家や多くの宗教団体が、旧統一教会と同じように伝統的な家族像にこだわり、LGBTを激しく拒否し嫌悪するのも、結婚して子どもを産む家族を社会の基礎単位と考える思想を墨守しているからでしょう。そして、それが戦前を美化するような「日本を愛する」思想へと架橋されているのでした。

でも、工業社会からポスト工業社会、サービス(第三次)産業中心の社会に移行する過程では、家族ではなく個人が基礎単位になるのは必然と言っていいのです。農耕社会では、家父長制の大家族主義でしたが、工業社会になり、農家の次男や三男が都会に働きに出るようになって核家族化が始まりました。さらに、ポスト工業社会になり働き方が多様化するのに伴い、家族より個人の価値観が優先される時代になったのです。吉本隆明も言っていたように、第三次産業に従事する労働者の割合が50%を超えた社会では、労働の概念や労働者の意識が大きく変わるのは当然なのです。「存在は意識を決定する」というのはマルクスの有名な言葉ですが、社会の構造や労働の形態は、個人の生き方や家族のあり方にも影響を与え、変容を強いるのです。

当然、結婚や恋愛のあり様も変わっていきます。個人より家の意志が優先されるお見合い結婚や出会い結婚から、職場や学校といった一定の属性下にある”場”が介在する恋愛を経て、現代では個々のマッチングアプリを使ったダイレクトな出会いが当たり前のようになりました。そんな個の時代に、家を守る女性は貞操でなければならないとでも言いたげな不倫=“ふしだらな女”というイメージは、きわめて差別的で抑圧的で反動的な「俗情との結託」(©大西巨人)と言わざるを得ません。(前も書きましたが)仕事を持った女性の過半が婚外性交渉=不倫の経験があるという統計もあるくらいで、既に不倫なんかどこ吹く風のような人たちも多いのです。というか、不倫という言葉は、現実には死語になっており、週刊誌やテレビのワイドショーの中だけで生きながらえていると言っても過言ではないのです。

会社に勤めていた若い頃、文句ばかり言う私は、上司から「いいか、サラリーマンにとって給料は我慢料なんだぞ。我慢することも仕事なんだ」と言われたことがありましたが、異次元の少子化対策で実施される様々な子育て支援なるものも、考えようによっては、アナクロな家族単位の社会を維持するための「我慢料」のようなものと言えるのかもしれません。そして、その延長上に、新しい時代の自由に対する怖れや反動として、篠田麻里子を叩く“ゲスな感情”があるように思えてなりません。そこにもまた、本来フィクションでしかないのに、差別と排除の力学によって仮構される”市民としての日常性”の本質が露呈していると言っていいでしょう。
2023.03.24 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
23641014.jpg

(イラストAC)


■WBCがトップニュース


WBCの準決勝の日本対メキシコ戦が、日本時間の今日(21日)、アメリカ・フロリダ州のローンデポ・パークで行われ、ロッテの佐々木朗希投手が先発ピッチャーに予定されているそうです。

テレビの悪ノリはエスカレートする一方で、報道番組でも、国会審議やウクライナ情勢やアメリカの”金融危機”や中ロ会談を押さえて、WBC関連のどうでもいいようなニュースがトップになっているのでした。

ウクライナ和平の仲介を買って出た中国の習近平主席は、昨日、3日間の予定でロシアを訪問しプーチン大統領と会談しました。初日の非公式会談で習主席は、「ロシアとともに『本当の多国間主義を堅持し、世界の多極化と国際関係の民主化を推進」すると強調」(産経新聞より)したそうです。

「民主化」は悪い冗談ですが、これは、アメリカの没落に伴い世界が多極化する中で、中国がその間隙をぬって300年振りに覇権国家として世界史の中心に復帰するという、歴史の転換を象徴する発言と言っていいものです。

既に中国とロシアは、BRICSや上海機構などを使ってドルの基軸体制から脱却した、新たな(多極型の)通貨体制の構築を進めていますが、欧米の金融危機が顕在化したことで、それがいっそう加速されているのでした。世界の多極化は、私のような人間でさえ2008年のリーマンショックのときから言い続けていることです。アメリカが唯一の超大国の座から転落して、世界は間違いなく多極化する。アジアの盟主は中国になる。面従腹背であれ何であれ(好きか嫌いかなど関係なく)、”東アジア経済共同体”のような協調路線に転換しない限り、日本は生き残れないと。手前味噌ですが、それがいっそう鮮明になっているのでした。

歴史は大きく変わろうとしているのです。中国によるウクライナ和平の仲介もその脈絡で考えるべきなのです。しかし、日本のメディアでは、それよりも東松山のヌーバー・フィーバーの方が優先されるのでした。

■70歳以上に際立つ人気


そんな中で、やっぱりと思ったのが下記の記事でした。

Yahoo!ニュース(個人)
侍ジャパンに岩手県と高齢者が大フィーバー!~大谷翔平・佐々木朗希・村上宗隆らの活躍に熱視線!~

次世代メディア研究所代表でメディアアナリストの鈴木祐司氏は、日本戦の過去5試合の視聴率が軒並み40%を超えたというビデオリサーチの「世帯視聴率」とともに、次のような「興味深いデータ」も取り上げていました。

特定層別視聴率を測定するスイッチメディアや、都道府県だけでなく市町村別視聴率を割り出しているインテージによれば、70歳以上の高齢者が格別に盛り上がっており、地域では岩手県の視聴率が傑出している。


具体的に世代別の視聴率を見ると、まずZ世代(25歳以下)は、「10%に届かないほど低」く、「この世代では、野球に興味のある人がかなり少ないようだ」と書いていました。また、コア層(13~49歳)も、「個人全体と比べると5%以上低い」そうです。

つまり、WBC人気を支えているのは、50歳以上の中高年なのです。中でも、70歳以上が際立って多いのだと。

50~60代は個人全体より7~8%高い。そして70歳以上に至っては個人全体の倍近い。やはり野球は高齢者に支えられているスポーツだ。



WBC日本戦の特定層別視聴率
(上記記事より)


地域別でも、東京は低くて、大谷や佐々木朗希の地元を中心にして、地方の方が圧倒的に高いのだそうです。

関東地区も比較的低く、熊本県をはじめとする南九州が高い。そして北海道や岩手県を頂点に、東北が高くなった。


メディアが言うように、日本中が歓喜に沸いているわけではないのです。昼間のワイドショーでも、電波芸者コメンテーターたちが見ていて恥ずかしくなるような俄かファンぶりをさらけ出しはしゃぎまくっていますが、当然ながらそんな光景を醒めた目で見ている人たちも多いのです。

でも、今の翼賛的な報道の下では、そう言うと、侍ニッポンに水をかけるとんでもない暴言だとして、非国民扱いされかねない雰囲気です。90年前だったら、鉈や斧で襲われたかもしれません。

ヤフコメもWBCでフィーバー(笑)していますが、あの世界の一大事みたいなコメントを投稿しているのも、野球ファンのおっさんたちなのかもしれません。ヤフコメにヘイトな書き込みをしているのは、ネトウヨ化した中高年が多いと言われていますが、合点がいったように思いました。

Yahoo!のトップページに、「韓国が日本に負けて屈辱を味わっている、ざまあ」みたいな記事が多いのも、ヤフコメのコアな層である中高年をさらに煽るために、ネットの守銭奴が意図的に掲載しているのかもしれません。

■テレビ局の切羽詰まった事情


今や野球は、(過去の遺物とは言わないけど)中高年に愛される昔のスポーツなのです。若者のテレビ離れが言われて久しいですが、地上波の視聴者も今は中高年がメインで、中高年向けのコンテンツが必須と言われています。かつての「テレビっ子」がもう中高年のおっさんになったわけですが、それは、プロ野球が国民的人気を博した、”野球の黄金時代”とちょうど重なっているのでした。

そう考えると、WBCをここぞとばかりに(まるで戦争報道のように)煽りに煽りまくって熱狂を演出する、テレビ局の切羽詰まった事情もわからないでもないのです。ただ、「WBC1」(下記の関連記事参照)に足元を見られて放映権料が高騰しているため、40%以上の高視聴率を叩き出しても営業的には赤字なのだそうで、次回の中継はないのではないか(無理ではないか)と言われているのでした。

もっとも、国際大会と言っても、営利を目的とする会社が主催する(サッカーの)カップ戦を真似た興行にすぎないので、次回開催されるかどうか不透明だという声があるくらいです。そもそも各国のリーグ戦が始まる前に「世界一」を決めるというのはお笑いでしかなく、言うなれば、選手たちは、キャンプの合間に、MLBと選手会が共同で作った会社が主催する資金集めのイベントに駆り出されているようなものです。それで、「いざ決戦へ」「世界一奪還」「歴史を塗り替える」などと言われても、鼻白むしかないのです。

と言っても、今のご時世では、それってあなたの意見、感想ですよね、と言われるのがオチなのでしょう。


関連記事:
WBCのバカバカしさ
2023.03.21 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
23592493.jpg
(イラストAC)


ガーシーは「三度目の炎上」の只中にある、と書いていた記事がありました。SNSの世界は、タイムラインのような時間軸の中にあるので、人々の関心も次々と移っていきます。そのため、炎上させてしばしの間、関心を繋ぎ止めておくしかないのです。

「三度目の炎上」とは、言うまでもなく国会議員除名から逮捕状の執行に至る今の局面を指しているのでしょう。

そこでさっそく、ガーシー大好きな八っつぁん&熊さんのかけあいがはじまりました。

■チキンな性格


 何でもガーシーって国会での謝罪を行なうつもりで極秘に帰国しようとしたんだってな?
 謝罪予定日の前日の3月13日、韓国まで戻っていて、トランジットで深夜1時頃にLCCで羽田空港に到着する予定だったというあれだろ。でも、航空会社がメディアに情報を洩らしたので引き返したという‥‥。
 そう。やっぱり国会議員をやめたくなかったのかな。
 「だって詐欺師だよ‥‥」(笑) どこまでホントかわからないよ。
 たしかにその前はトルコからチャーター機で帰るとか言ってたな。そのときも「やめた」と言っていた。そして、今度は韓国‥‥。
 ただ、これだけは言えるのは、ガーシーはチキンな性格だよ。そう考えれば、このような顛末も氷解できる。ドバイに行ったときだって、BTS詐欺(正確には「詐欺疑惑」)が発覚したあと、スマホに警察署からの着歴が入っていることに気付いて、それで怖気づいてドバイ行きを決断したんだよ。警察に行って事情を話せば、仮に立件されても初犯なので執行猶予が付く可能性は高い。へたすれば、起訴猶予もあり得る。相談した弁護士からもそう言われたみたいだけど、「逮捕されたら借金の返済がでけへん」という理由で飛ぶことを決断した。
 何と律義な。
 それだけヤバいところから借金していたんだろうな。結局、現実に向き合う覚悟ができずにドバイに飛んでさらに墓穴を掘ってしまった。
 何だか世の人々にとっても人生訓になるような話だな(笑)。
 秋田新太郎氏からの誘いに乗って、妹などから40万円だかを借りてドバイに行く。でも、ドバイの国際空港に着いたときは、飛行機代を払ったので手元には数万円しか残ってない。それで、タクシーを使わずに砂漠の中の道を2時間歩いて秋田氏のマンションを訪ねるんだ。
 せつない話だな。
 とりあえず、秋田氏の婚約者(?)が経営するレストランでアルバイトをすることになった。秋田氏はドバイでも有数な高級マンションに住んでいたけど、ガーシーはレストランの社員寮の部屋を与えられた。それも、モロッコ人スタッフと同室の埃だらけの部屋だった。
 そのあと秋田氏から説得されて暴露チャンネルをはじめたのか。
 さすがのガーシーも、最初は乗り気ではなかったと書いているな。でも、秋田氏から「金を返すにはどうする?」と詰問され、意を決して「東谷義和のガーシーch【芸能界の裏側】」を開設することになったというわけだ。
 そうまでしてお金を返済しなければならないと考えるのは、相当きつい追い込みをかけられていたんだろうな。
 裏カジノで借金を作って進退窮まり、雪山で自殺しようと思って山に行ったら、雪がなくて死ねなかったというトンマな話がある。眉唾な話だけど、ガーシーの性格を物語る話だと言えないこともない。チキンな性格によってみずから墓穴を掘り、どんどん深みにはまっていくんだよ。

■「ガーシー一味」


 あの「ガーシー一味」は何なんだ?
 言い方は悪いけど、たかり、、、みたいなもんだろ。ガーシーチャンネルがバズったので、甘い蜜を吸うために集まっただけじゃないのか。
 たしかに、あれだけの人脈があったのに、どうして孤立無援の状態に置かれ、妹からお金を借りてドバイに飛ぶことになったのか?と誰でも思うよな。
 テレビドラマのように一網打尽とはいかないだろうけど、国家は恣意的なものなので、逃亡を支援したとしてシッペ返しを食らう可能性はあるだろうな。逃亡が長引けば長引くほど、彼らに対する圧力は強まるだろうから、そのうち「お願いだから早く日本に帰ってくれ」と懇願するようになるんじゃないか。
 彼らを見ていると、表の仕事は別にして、暗号資産などの裏のビジネスで繋がっているような気がしてならないな。
 「集英社オンライン」も少し触れていたけど、福一の原発事故のあと、”脱原発政策”で再生可能エネルギーが脚光を浴び、腹に一物の連中が太陽光ビジネスに群がった。そして、そのあと、ブロックチェーンを使った暗号資産のブームが起きると、それにも手を伸ばした。今、反社や半グレがらみで摘発されている事件も、そのパターンが多い。ガーシーに直接関係ないけど、三浦瑠璃の旦那の事件も同じだ。

■身から出た錆


 ガーシーは自分で言うようにこのまま一生日本に帰らないつもりなのかな。
 「だって詐欺師だよ‥‥」(笑)
 そんなことないか?
 51歳で薬が手放せない糖尿病持ちだよ。あのドス黒い顔色を見ると、既に腎臓病の合併症を併発しているような気がしないでもない。だとすれば、そのうち人工透析も必要になる。それでなくてもチキンな性格なんだから身が持たないよ。
 逃亡生活はきついだろうし‥‥。
 ガーシーの攻撃は相手の家族までターゲットにした容赦ないもので、ガーシー自身も、アキレス腱を攻めるのが俺のやり方だと嘯いていたけど、今度はその言葉がそっくりそのまま自分に返って来ることになる。「ガーシー本」を読むと、高校教師だった父親はギャンブルに狂って借金を作り自殺したそうだ。それもあって77歳の母親や48歳の妹は、今のガーシーを心配しているという。まして、逮捕状が出て国際指名手配されたらよけい気に病むだろう。でも、世間は情け容赦ないので、今度はガーシーのアキレス腱である母親や妹がターゲットになる。正月には母親をドバイに呼んで一緒に新年を祝ったみたいだけど、家族の泣きごとにいつまで耐えられるかな。
 あとは帰国した場合の命の保証か?(笑)
 芸能界がヒットマンを放っているというのは法螺で、ホントは何度も言うように借金がらみのトラブルを怖れているんだと思う。もうひとつは、ガーシーを帰したくない、帰ったら困る人間たちの存在もあるんじゃないか。それは日本にもいるしドバイにもいるはず。
 ドバイに行っていろんなしがらみが出来たからな。
 でも、それでも帰ると思うよ。チキンな詐欺師の結論はそれ一択だよ。ホリエモンと立花(前党首)は、ガーシーはカルロス・ゴーンのように逃げ切れると言っていたけど、カルロス・ゴーンとは事情がまったく異なる。彼らは、逃げ切ってほしいという”希望的観測”で言っているにすぎない。「ガーシー本」の著者の伊藤喜之氏は、UAEにはタイのタクシン元首相など各国から政治亡命者が集まっているので、ガーシーもUAE政府から政治亡命として保護される可能性があると言っていたけど、ガーシーが政治亡命と見做されるとはとても思えない。ゴールデンビザを持っているから大丈夫だという話も同じだけど、UAEは梁山泊じゃないよ。国家や政治が、時と場合によって冷酷で非情なものに豹変する、ということがまるでわかってないお花畑の論理にすぎない。
 そのうち、出頭するので迎えに来てください、と警察に連絡が入るんじゃないか。
 もちろん、軟禁や〇〇もないとは言えないけど、SNSで啖呵を切ったように、ホントに自分の意志で逃亡者の道を選んだのなら、少しはガーシーを見直すよ。
 もともとは横浜の裏カジノにはまって借金を作り、首が回らなくなったという、身から出た錆の話にすぎないのに、どうしてこんなおおごとになってしまったんだと言いたくなるよな。
 ドバイの連中は、ガーシーは不当に「弾圧されている」と言っているけど、元はと言えば、ガーシーが自分が起こしたチンケな詐欺まがいの事件に必要以上に怯えてドバイに飛んで、みずから傷口を広げただけ。演出されていたとは言え、自分の借金を返すために、旧知の芸能人やタレコミがあった一般人をネットで晒して、あのようなヤクザ口調で追い込んでいながら、それで「弾圧されている」はないだろう。ネットとは別に、裏でも脅迫していたという話もあるみたいだし。
 当然そうだろうな。表の暴力はデモンストレーションで、裏でその暴力をチラつかせてビジネスを行う。それが「やから」のやり方だよ。
 ガーシーを「反権力」みたいに言っていた「元赤軍派」は、アメリカにいた頃、ブラック ・パンサー党の準党員だったそうで、現在アメリカで大きな潮流になっているブラック・ライブズ・マター(BLM)運動について、国内の集会でも乞われて発言していたみたいだ。ガーシーにアメリカの黒人を重ねて、「嘘の正義より真実の悪」とか「悪党にしか裁けない悪」といったマンガから借用したフレーズを真に受けたのかもしれないけど、語るに落ちたとはこのことだよ。
2023.03.19 Sun l 社会・メディア l top ▲
悪党潜入300日ドバイ・ガーシー一味


■朝日新聞の事なかれ主義


一足先に電子書籍で、伊藤喜之氏の『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』(講談社+α新書)を読みました。

伊藤氏は、朝日新聞ドバイ支局長としてドバイに赴任していたのですが、伊藤氏がガーシー(東谷義和)に初めて接触したのは、2022年4月だそうです。その後、取材をすすめ、ガーシーのインタビュー記事をものにしたのですが、本社のデスクから「東谷氏の一方的な言い分ばかりで載せられない」と「掲載不可」を告げられ、同年8月末で朝日を退社して独立。以後、ドバイに住み続けて取材を続け、本書の出版に至ったというわけです。

本書には、その没になった記事が「幻のインタビュー『自分は悪党』」と題して掲載されていますが、それを読むと、「東谷氏の一方的な言い分ばかりで載せられない」と言った、本社のデスクの判断は間違ってないように思いました。

本書も同様で、「悪党」「潜入」「一味」という言葉とは裏腹に、ややきつい言い方をすれば「ガーシー宣伝本」と言われても仕方ないような内容でした。「潜入」ではなく「密着」ではないのかと思いました。ガーシー自身や、ガーシーの「黒幕」と言われる秋田新太郎氏が、それぞれTwitterで本書を「宣伝」していた理由が納得できました(ほかにも本書に登場する人物たちが、まるで申し合わせたようにTwitterで「宣伝」していました)。

私は下記の記事で、「元大阪府警の動画制作者」「朝日新聞の事なかれ主義」「王族をつなぐ元赤軍派」という目次が気になると書きましたが、「朝日新聞の事なかれ主義」というのは、単に掲載不可で辞表を出した著者の個人的な“恨みつらみ”にすぎなかったのです。別に朝日の肩を持つわけではありませんが、「事なかれ主義」と言うのは無理があるように思いました。

関連記事:
ガーシーは帰って来るのか?

■元大阪府警の動画制作者


著者は、ガーシーには「過去に不始末などを犯し、日本社会に何らかのルサンチマン(遺恨)や情念を抱える『手負いの者たち』が東谷のそばに結集し、暴露ネタの提供から制作まで陰に陽にさまざまなかたちで手を貸している」(「あとがき」)として、彼らを「ガーシー一味」と呼んでいましたが、「元大阪府警の動画制作者」もそのひとりです。

名前は池田俊輔氏。本書ではこう紹介されています。

東京都内の映像制作会社の社長で、40歳。20代のころは大阪府警の警察官として外国人犯罪を取り締まる国際捜査課に所属していた、という異色の経歴を持つ。警察官人生の先行きに憂いを感じたこともあり、早々に見切りをつけて退職。独立して番組制作を手掛ける会社を立ち上げたが、4年前からYouTubeの動画制作をメインに据え、これまでに約70チャンネルを手がけていた。
(本書より。以下引用は同じ)


ガーシーの「東谷義和のガーシーch【芸能界の裏側】」は、ガーシーの発想で始まったのではないのです。本書によれば、ガーシー自身はYouTubeで暴露することに、むしろ逡巡していたそうです。それを説得したのが秋田新太郎氏だったとか。そして、おそらく秋田氏が依頼したのではないかと思いますが、「ガーシーch」を企画立案したのが池田氏です。

本書を読むと、「ガーシーch」が綿密な計算のもとに作られていたことがわかります。暴露動画の効果をより高めるために、「ネガティブ訴求」という「切り口」を参考にしたと言います。

(引用者註:ネガティブ訴求の)過去例としては、「○○を買ってはいけない」「○○を知らないとヤバい」「販売中止」「絶対に○○するな」「放送中止」などがあった。ネガティブに煽っていく切り口の動画がヒットしたことを示している。
 ここから発想を展開し、たとえば、「芸能界で○○するな」「芸能界の裏側」「テレビの放送事故」など、東谷が動画をつくれそうな切り口を検討してもらったという。


取り上げる芸能人も、「ネット上でどれだけ検索されているか」「検索ボリューム」で調べた上で、リストの中から「誰を優先的に暴露していくか順番を検討」したのだそうです。

 その資料をみると、検索ボリュームが比較的高い芸能人の中には野田洋次郎(RADWIMPS)、TAKA(ONE OK ROCK)、佐藤健、新田真剣佑、TKO木下隆行など、比較的初期に東谷が暴露対象とすることになった芸能人の名が見える。
 池田はいう。「すでに東さん自身が配信でも振り返っていますが、芸能人暴露にはYouTubeで広告収益を得て、何よりもまず東さんの借金を返すという目的がありました。そのためにも再生数が伸びそうな芸能人は誰かということもかなり意識して撮影スケジュールを決めていきました」


また、8分以上だと2本の広告が付くことを考慮して、動画の尺を9分20秒にしたり、動画の拡散のために、「東谷のBTS詐欺疑惑を最初に晒した」Z李に協力を仰いだりしたのだとか。

動画の撮影を始めたのは、2022年2月6日でした。大阪府警の捜査の手から逃れるために、ガーシーが、秋田新太郎氏の誘いに応じてドバイ国際空港に降り立ったのが2021年12月18日でしたから、それから僅か2ヶ月足らずのことです。

場所は、秋田氏の婚約者が経営しているレストランの社員寮の部屋でした。モロッコ人スタッフと相部屋で、床は埃が溜まり靴下が汚れて閉口するような部屋だったそうです。モロッコ人スタッフが仕事で部屋を空けている時間帯に撮影し、しかも、ドバイということを悟られないように、カーテンを閉め、ガーシーの服装も日本の季節に合わせたものにするなど、細心の注意を払って行われたそうです。

■王族をつなぐ元赤軍派


「王族をつなぐ元赤軍派」というのは、大谷行雄という人物です。重信房子氏の弁護人を務めた大谷恭子弁護士の弟で、現在は、UAE北部のラスアルハイマという街に住み、経営コンサルタントをしているそうです。

大谷氏については、重信房子氏が出所した際に、伊藤喜之氏が朝日にインタビュー記事を書いており、私も「そう言えば」といった程度ですが、読んだ記憶がありました。

朝日新聞デジタル
赤軍派高校生だった私の「罪」 獄中の重信房子元幹部から届いた感想

大谷氏は、秋田新太郎氏と関係があり、ガーシーが参院議員になったあとに、秋田氏の依頼で懇意にしている王族に何度か引き合わせたことがあるそうです。それで、ガーシーが子どものように「王族になる」と言い始めたのでした。

大谷氏は、著者の取材で、ガーシーのことを次のように言っていました。

「秋田氏にガーシー議員を紹介されて、ご協力できることはしたいとラスアルハイマの王族の皆様に引き合わせました。私はガーシー氏の暴露行為についてすべてを肯定しているわけじゃありませんが、彼の既存体制と権力に対する破壊的精神を買っています」


著者は、「まさに元赤軍派らしい発言」と書いていましたが、私にはトンチンカンな駄弁としか思えませんでした。そもそも「元赤軍派」と言っても、高校時代に、赤軍派結成に至る前のブント(共産主義者同盟)の分派活動をしていたにすぎないのです。

■ワンピースの世界観


ガーシーの周りには、秋田新太郎氏のほかに、FC2の高橋理洋氏、元ネオヒルズ族で、2022年3月に無許可で暗号資産の交換業を行っていたとして関東財務局から名指しで警告を受けた久積篤史氏、ハワイ在住のコーディネーターの山口晃平氏、小倉優子の元夫でカリスマ美容師の菊地勲氏、大阪でタレントのキャスティングや動画配信の会社を経営する緒方俊亮氏、年商30億円以上を誇ると言われる33歳の実業家の辻敬太氏などが集まっているのでした。

著者は、「皆がそれぞれに後ろ暗い過去を持つが、東谷はそこにむしろ任俠組織の絆のようなものを感じ取っている」と書いていましたが、そこで登場するのがあの「ルフィ」の『ワンピース』です。ガーシーはマンガ好きで、「雑誌では週刊少年ジャンプとヤングジャンプは電子版でかかさずに定期購読している。なかでも何度もインスタライブなどの配信で言及しているのが尾田栄一郎の人気漫画『ワンピース』だ」とか。

 血縁関係がない者同士が盃を交わすことで疑似的な血縁関係を結び、兄弟になったり、親子になったり。仁義や交わした約束などが重んじられるシーンも数多い。これは日本の伝統的な任俠組織のシステムと同一であり、ワンピースはそんな世界観で成り立っている。


著者は、「ガーシー一味」をそんな世界になぞらえているのでした。

本書にも名前が出ていますが、ほかに有名どころでは、エイベックスCEOの松浦勝人氏や自伝本『死なばもろとも』(幻冬舎)の編集者の箕輪厚介氏、コラボの見返りにガーシーに4000万円を貸した医師の麻生泰氏などが、ドバイを訪ねてガーシーを持ち上げています。また、ガーシーが芸能界で人脈を築くきっかけを作ったと言われるタレントの田村淳に至っては、ガーシーは未だ友達だと言って憚らないのでした。

しかし、実際は、それぞれが何程かの打算や思惑や義理で近づいているはずで、著者が書いているのは後付けの理屈のようにしか思えませんでした。だったら(そんな”錚々たる”メンバー”がホントに義侠心で馳せ参じているのなら)、暴露系ユーチューバーなどという面倒くさいことをやらずに、みんなでお金を出し合って助ければよかったのです。そうすれば、ガーシーの借金など簡単に清算できたはずです。BTS詐欺の”弁済金”も、麻生氏に借りるまでもなかったのです。そう皮肉を言いたくなりました。

■トリックスター


著者は、こう書いていました。

(略)トリックスターを体現する「ガーシー」という存在は東谷がただ一人で生み出したものでもないのだろう。東谷自身が、ワンピースの「麦わらの一味」や水滸伝の108人の盗賊団とどこかで自分を重ねていることを踏まえても、東谷本人とその周囲の仲間たちが共同作業で創り出しているのが「ガーシー」だととらえることができる。


「トリックスター」という言葉は、西田亮介氏も朝日のインタビュー記事で使っていました。

朝日新聞デジタル
除名のガーシー議員 既成政党への不満が生んだ「トリックスター」

実は、かく言う私も、上の関連記事で「トリックスター」という言葉を使っています。しかし、私は、「トリックスター」という言葉を聞くと、前に紹介した集英社オンラインの記事のタイトルにあった「だって詐欺師だよ…」というガーシーの知人の言葉を思い出さざるを得ないのでした。

集英社オンライン
〈帰国・陳謝〉を表明したガーシー議員、それでも側近・友人・知人が揃って「帰国しないだろう」と答える理由とは…「逮捕が待っている」「議員より配信のほうが儲かる」「だって詐欺師だよ…」

「トリックスター」に「詐欺師」とルビを振れば、ガーシー現象がすっきりと見えるような気がします。身も蓋もない言い方になりますが、結局、その一語に尽きるように思いました。


追記:
この記事は朝アップしたのですが、午後、警視庁は著名人らに対して脅迫を行った容疑で、ガーシーに逮捕状を請求したというニュースがありました。まるで除名処分を待っていたかのような警視庁の対応には驚きました。

結局、ガーシーは、ドバイに行って墓穴を掘っただけと言っていいでしょう。しかも、どう考えても、これが”とば口”にすぎないのはあきらかなのです。

また、ドバイで動画制作に関わったとみられる男性(記事参照)に対しても、逮捕状を請求したそうです。上記で書いたように、動画の中で、暴露相手を追い込むようなガーシーの激しい口調も、「ネガティブ訴求」として意図的に採用されたのです。

容疑の「常習的脅迫」に関しては、本書の中に次のような記述がありました。ガーシーに「密着」した本が、逆に容疑を裏付けるという皮肉な結果になっているのでした。

 そうした(引用者註:任侠組織と同じような)価値観は暴露にも反映され、その一つが暴露では本人だけでなく、その周囲の人物も晒すという東谷独特のやり口がある。(略)そんな情け容赦ない喧嘩術はある種、ヤクザ的である。東谷は「その人のアキレス腱を攻める。周囲の人を暴露したら一番嫌がるのはわかっている。それが俺のやり方やから」と悪びれずに繰り返し述べている。

2023.03.16 Thu l 本・文芸 l top ▲
习近平_Xi_Jinping_20221023_02
(Wikipediaより)


■SVBの破綻


3月10日、総資産が2090億ドル(約28兆円)で、全米16位の資産規模をほこるアメリカシリコンバレーバンク(SVB)が経営破綻したというニュースがありました。SVBの破綻は、FRB(米連邦準備理事会)の量的緩和(QE)から量的引締め(QT)への、金融政策の転換による急速な利上げで資金調達が悪化したためと言われています。

さらに2日後、総資産が1103億ドル(約15兆円)で、全米29位のシグネチャーバンクでも取り付け騒ぎが起こり、破綻に追い込まれたのでした。シグネチャーバンクの破綻は、もともと暗号資産(仮想通貨)関連の顧客が多く、経営基盤が脆弱な中で、SVBの破綻で信用不安が高まったためと言われています。

SVBの破綻について、金融当局や市場関係者は、「特殊事例」で、信用不安につながる可能性は低いと言っていたのですが、その舌の根が乾かぬうちに”連鎖倒産”が起きたのです。もっとも、考えてみれば、金融当局や市場関係者が信用不安が起きるなどと言うわけがないのです。彼らは、リーマンショックのときも同じことを言っていたのです。

3月12日のシグネチャーバンクが破綻した当日、アメリカ財務省とFRBと米連邦預金保険公社(FDIC)は、通常の預金保険では1口座当たり最大25万ドルまでしか保護されないのですが、今回は25万ドルを超えても全額保護するとの声明を発表したのでした。それが信用不安を防ぐための特例処置であり、表向きの”楽観論”とは裏腹に、深刻な事態を懸念しているのはあきらかです。

■経済制裁の返り血


このようにアメリカ経済は、未曾有のインフレに見舞われて疲弊し、金融システムにも軋みが生じはじめているのでした。もちろん、それはアメリカだけではありません。いわゆる西側諸国はどこも同じで、資源高やエネルギー価格の高騰によって、国民生活はニッチもサッチもいかなくなっているのです。そのため、労働者は賃上げを要求して立ち上り、中には治安当局と衝突するような”暴動”まで起きているのでした。

この遠因にあるのは、言うまでもなくウクライナ戦争に伴うロシアへの経済制裁です。言うなれば、西側の国民たちはその返り血を浴びているのです。

■中国の存在感


そんな中で、SVBが破綻した3月10日、2016年から断交していたイランとサウジアラビアが、中国の仲介によって、外交関係の正常化で合意したというニュースがありました。西側諸国がロシア制裁で自縄自縛に陥る中で、中国の存在感がいっそう高まっているのでした。その発表に対して、「ホワイトハウスのジョン・カービー米国家安全保障会議(NSC)の戦略広報調整官は、アメリカ政府は『地域の緊張関係を緩和させようとするあらゆる取り組み』を支持すると述べた」(BBCより)そうです。また、国連のアントニオ・グテーレス事務総長も、「中国による仲介努力に感謝し、『湾岸地域に持続する平和と安全を確保』するための努力を支援する用意があると、報道官を通じて述べた」(同)そうです。国連のロシア非難決議では、世界の全人口の半分にも満たない国しか賛成しなかったのですが、中国は中東においても、(アメリカに代わる)その影響力を見せつけたと言っていいでしょう。

BBC NEWS JAPAN
イランとサウジアラビア、7年ぶりに外交関係正常化で合意 中国が仲介

さらには、今日(3月14日)、びっくりするニュースが飛び込んで来たのでした。それは、次のようなものです。

Newsweek ニューズウィーク日本版
中国・習近平、ウクライナ・ゼレンスキーと会談へ

米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)は13日、中国の習近平国家主席が、ロシアのウクライナ侵攻後初めてウクライナのゼレンスキー大統領と会談する予定だと伝えた。

WSJが関係者の話として伝えたところによると、ゼレンスキー大統領との会談は、習主席が来週、ロシアを訪問してプーチン大統領と会談した後に行われる公算という。


報道によれば、もともと「中国はロシアとウクライナの和平交渉に積極的に関与する姿勢を示していて、ゼレンスキー大統領も習主席との対話を望んできた」そうです(ロイターより)。しかし、日本のメディアは、中国は台湾や日本を攻めて来ると言うばかりで、そんなことはひと言も報じていません。そのため、こういったニュースが流れると、文字通り青天の霹靂のような気持になるのでした。

一方、アメリカ国務省のプライス報道官は、今回の報道を受けて、「ウクライナ侵攻を終わらせるために中国が影響力を行使することを望む」と述べたそうです(同)。

■アメリカの落日と中国の台頭


こういった発言を見てもわかるとおり、ウクライナ戦争に限らず世界秩序の維持において、アメリカが完全に当事者能力を失っていることがわかります。ウクライナ戦争においても、バイデン政権がやって来たことは、ただ火に油を注ぎ戦火を拡大することだけでした。

バイデン政権が当事者能力を失っていることについては、国内でも懸念の声が上がっています。今やウクライナへの軍事支援に賛成している国民は半分もいないのです。

アメリカのプロパガンダを真に受けて、「ウクライナが可哀そう、ロシアは鬼畜」という印象操作の虜になり、「勝つか負けるか」「ウクライナかロシアか」の戦時の言葉でしかものごとを考えることができない日本国民には信じられないかもしれませんが、アメリカ国内では下記のようなテレビ番組さえ存在しているのでした。


私は、昨年の侵攻直前、このブログで、ウクライナ侵攻を目論むロシアの強気の背景には、アメリカが唯一の超大国の座から転落して、世界が多極化する歴史的転換があると書きました。それを象徴するのがあの惨めなアフガン撤退ですが、今回のウクライナ戦争でアメリカの威信は完全に地に堕ちたと言っても過言ではないでしょう。

関連記事:
ウクライナ危機と世界の多極化

世界の覇権は100年ごとに移譲するという説がありますが、あえて挑発的な言い方をすれば、300年ぶりに中国が世界史の中心に返り咲くのはもはやあきらかで、それがわかってないのは、カルト(ネトウヨ)的思考にどっぷりと浸かり歴史的な方向感覚を失っている日本国民だけです。

日本人は見たくないものからは目を背ける怯懦な傾向がありますが、しかし、好むと好まざるとにかかわらず、世界の歴史は大きく変わろうとしているのです。今のような対米従属一辺倒のカルト(ネトウヨ)的思考に呪縛された状態では、日本が”東夷の国”として歴史に翻弄されるのは目に見えているような気がします。


関連記事:
「競争的共存」と全体主義の時代
2023.03.14 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲
publicdomainq-0032555wmhwnj.png
(public domain)


■血尿


去年の年末、ほとんど痛みもなく石が出て、「これ以上ない大団円で幕を閉じた」と書いたのですが、実は後日、病院に行ったら再び血尿が出ていることが判明し、まだ尿路に石が残っているのかもしれないと言われたのでした。ただ、エコーなどの検査をせずに様子見ということになりました。

関連記事:
6回目の尿管結石

案の定、その後、赤いおしっこが二度出ました。また、おしっこした際の尿道の痛みも前回より増してありました。

ドクターによれば、尿管結石というのは、石の大小や形などに関わらず「痛いときは痛い」そうですが、ただ、尿道がこんなに痛いのは前回と今回だけです。それまでは、左の脇腹や腰のあたりがひどく痛む尿管結石の代表的な症状でした。しかし、前回と今回は脇腹や腰の痛みはほとんどなく、尿道の痛みが主なのです。

赤い、見るからに血尿とわかるようなおしっこは二度だけでしたが、色の濃いおしっこは頻繁に出ていました。何だか石が流れたり詰まったりをくり返しているのがわかるような気がしました。

自宅でおしっこをするときは茶こしを通して石を確認しましたが、途中、一度だけ微細な粉のようなものが出たことがありました。しかし、症状は改善されません。まだ“本命の石”が残っているのは間違いありません。

■かかりつけ医の善し悪し


もちろん、ずっと憂鬱な気分の中にありました。薬も残り少なくなったので、病院に行かなければならないのですが、症状が残っているときに病院に行くと検査やなんやらでえらく手間と時間がかかり、それも面倒でした。

考えてみれば、急性前立腺炎をきっかけに泌尿器科に通い出して、もう17~18年経ちます。毎月、ずっと同じ病院に通っているのです。

余談ですが、コロナが始まった頃、インフルエンザに感染するとコロナも重症化すると言われ、インフルエンザの予防注射を行なう病院に人々が殺到したことがありました。私が通っている病院もインフルエンザのワクチン接種を行っていたので、予約をお願いしたらワクチン不足のため予約を中止していると言われたのです。しかも、次回の入荷がいつになるかわからないので予約の受付も未定で、随時問い合わせて貰うしかないと言うのです。かかりつけの患者を優先するということはないのかと訊いたら、「それはない」と言われました。

それで、診察の際、ドクターに抗議したら、「対応は受付に任せていますので」と木を鼻で括ったような答えしか返ってきませんでした。結局、その年はインフルエンザワクチンの接種をあきらめたのですが、その際、病院を変えようかと思いました。それで、コロナの感染を怖れたということもあって、3ヶ月受診しなかったのです。

しかし、病院を新しく変えると、また最初から検査をやり直さなければならないのでそれも手間で、結局、また元に戻ってしまったのでした。

私が通っている病院は、泌尿器科と内科を標榜していますのでかかりつけ医としては便利で、たとえばよその病院で健康診断を受けてもその結果を持って行くと、カルテに記録して経過を診てくれます。

ただ一方で、それも善し悪しのところがあり、たとえば一時悪玉コレステロールの値が高いということがあったのですが、それ以来、「体重が増えないように気を付けてください」「運動してください」「揚げ物はなるべく控えて魚や野菜中心の食事を心がけてください」と毎回同じことを言われるようになったのでした。心の中では、「またか」と思いつつも適当に返事をしていましたが、知り合いの医療関係者にその話をしたら、「それは栄養指導でお金を取られているよ」「病院に無料サービスなんてないよ」と言われたのです。

領収書を見ると、たしかに「医学管理料」として225点が計上されていました。1点10円なので2250円、そのうちの3割の675円を窓口負担していることがわかりました。まさか「先生、栄養指導はもう結構です」とは言えないので、病院に通い続ける限り半永久的に請求されるのでしょう。むしろ、こっちが牛丼一杯分のサービス料を払っているようなものです。

■薬局の不可解な明細


薬局はもっと不可解です。薬を処方されても、薬代とは別に、「薬剤技術料」140点と「薬学管理料」165点が計上されています。つまり、処方箋を持って行っただけで、3050円が請求されるのです(患者の窓口負担は915円)。

「薬剤技術料」は薬剤師が薬を処方する手間賃で、「薬学管理料」は薬を渡される際、毎回同じことを説明されるあの説明料なのでしょう。「薬剤技術料」や「薬学管理料」は薬の種類や処方日数によって違うみたいですが、私の場合、「薬剤料」、つまり薬代は280点(2800円)です。ということは、薬代(「薬剤料」)2800円に対して薬をピッキングして梱包する手数料(「薬剤技術料」)が1400円で、それをお客(患者)に渡す際、注意事項を説明する説明代(「薬学管理料」)が1650円もかかるのです。つまり、薬代より手数料の方が高いのです。

一方、病院の方は、私が通っている病院だと、検査料を除けば、通常請求されるのは、「再診料」74点、「医学管理料」225点、「投薬」134点ですから、合計4330円です。たしかに、病院は、検査をしたり、どうでもいい栄養指導で「医学管理料」などを計上しないと、薬局より実入りが少なくなるのです。しかも、薬局は手数料の他に薬代も3割から4割近く利益を得ているはずです。そう考えれば、薬局に比べると、病院の方が割りに合わない気がしてなりません。

だから、病院は、検査や入院や手術に走るのでしょう。病院では患者一人当たりの単価のことを「日当円」と言って、それが収益の指針になっているのだそうです。「日当円」が下がった患者は、退院か転院させる。つまり、追い出すのです。それを「退院支援」と言うのだとか。

■医療費増大の要因


医療費増大の要因を老人医療費だけに帰する言説が一人歩きをして、それが単細胞な落合陽一や古市憲寿の「高齢者の終末期医療を打ち切れ」という話や、成田悠輔の”集団自殺のすすめ”の暴論につながっているのですが、その前にこういった細々とした不明瞭な手数料を見直せば、かなりの医療費の圧縮になるのではないか、と思ったりもするのでした。

特に、薬局の手数料に関しては、不可解なものが多く、病院を凌ぐほどの濡れ手で粟の利益を得ているような気がしてなりません。魚屋でも八百屋でも、商品代金とは別に販売手数料を取ったりはしません。調理の仕方を説明したからと言って、説明料を請求したりはしません。社会主義国家の薬局ではないのですから、薬の利益もちゃんと得ているはずです。その上で、販売手数料に等しいものを別に請求しているのです。

で、話を元に戻せば、昨日、またボロりと石が出たのでした。石自体は5ミリくらいの小さなものでしたが、角が尖ったいびつな形をしていましたので、それが血尿や尿道の痛みの要因になったのかもしれないと思いました。石が出たら、尿道の痛みもなくなりましたし、おしっこもきれいになりました。

ただ、前回のこともありますので、これでホントに終わりなのか、いまいち不安もあります。また病院に行って、面倒な検査を受けて確認するしかなさそうです。


関連記事:
※尿管結石体験記
※時系列に沿って表示しています。
不吉な連想(2006年)
緊急外来(2008年)
緊急外来・2(2008年)
散歩(2008年)
診察(2008年)
冬の散歩道(2008年)
9年ぶりの再発(2017年)
再び病院に行った(2017年)
ESWLで破砕することになった(2017年)
ESWL体験記(2017年)
ESWLの結果(2017年)
5回目の尿管結石(2019年)
6回目の尿管結石(2022年)
2023.03.14 Tue l 健康・ダイエット l top ▲
publicdomainq-0036922noedmy.jpg
(public domain)


■きっこのツイッター


きっこのツイッターに下記のようなツイートがありました。

@kikko_no_blog

嫌味に思われるかもしれませんが、あえて自慢すれば、私は、中学3年のとき、夏の甲子園大会で全国優勝したこともある野球の強豪校からスカウトに来たくらいの、地元ではそれなりに知られた野球少年でした。授業中に野球部の顧問の先生から校庭に呼び出されて、県内では誰もが知る有名人であった強豪校の監督の目の前でマウンドに立ち、投球を披露した(させられた)ことがありました。

野球をするならどこの高校でも入学できるぞ、と今の時代なら信じられないようなことを顧問の先生から言われたのですが、私はそんなのはバカバカしいと思いました。

高校に入って、夏の予選大会で自分たちの学校の応援に行ったら、球場で別の強豪校の野球部に入っている中学時代の同級生に会ったり、また、スカウトに来た監督が私を見つけると傍にやって来て、「お前、野球やってないのか? どうしてやらないんだ? ○○監督(私の高校の野球部の監督)はお前のことを知らないのか?」と言われたことがありました。私が野球をやっていたことを知らないクラスメートたちは、目の前のやり取りを見て驚いていましたが、しかし、その頃の私は既に野球に対する興味が薄れていました。と言うか、むしろ「野球バカ」みたいに見下すような気持すらありました。

ただ、高校を卒業して東京の予備校に通っていたときも、知り合いの伝手で後楽園球場でアルバイトをしていました。その際、試合前の練習をするプロの選手たちをまじかで見てまず驚いたのは、投げたり打ったりするときのフォームの美しさでした。何のスポーツでもそうですが、基本ができているとフォームがきれいなんだなとしみじみ思ったものです。

■野球はマイナーなスポーツ


しかし、現在、監督が市議会議員まで務めた件の強豪校は、野球部のスカウトをやめてただの県立高校になっています。同じように夏の間私の田舎に合宿に来ていた私立高校の強豪校も(そこの監督からもスカウトされた)、今はクラブ活動より特進クラスの大学進学に力を入れて、昔の「不良の集まり」からイメージを一新しています。PL学園もそうですが、「甲子園出場」で生徒を集めるというような発想は、この少子化の時代ではもはや時代錯誤な考えになっているのです。

私の友人は、子どもには野球をさせたいと、用具を揃えるためにスポーツ用品店に行ったら、野球のコーナーは片隅に追いやられ、品数も少なくて「びっくりした」と言っていました。友人の子どもも、少年野球のチームに入った(入れられた)もののすぐにやめて、サッカーのチームに入り直したそうです。

アメリカのメジャーリーグの選手があれだけ“多国籍”になり、開幕戦が日本で行われたりするのも、ひとえに国内の人気が下降して海外に活路を見出そうとしているからでしょう。もっとも、“多国籍”と言っても、その範囲は、かつてアメリカ帝国主義の影響下にあった中南米やアジアの国に限られています。世界大で見ると、サッカーと違って野球はマイナーなスポーツなのです。

WBCの出場国にしても、もともと野球が普及していたのは、本家のアメリカを除くと、日本と中南米のキューバやドミニカやプエルトルコやメキシコくらいで、韓国や台湾も野球が本格的に普及したのは第二次世界大戦後です。その韓国や台湾も、野球の人気が思ったように上がらず、プロ球団の経営にも苦労しているようです。まして、チェコやオーストラリアなどは超マイナーな野球後進国で、そもそも「世界大会」に出場すること自体無理があるのです。と言うか、そういった国を集めて「世界大会」と銘打つのは、多分におこがましく、ウソっぽいと言わざるを得ません。

■TBSとテレビ朝日の悪ノリ


Yahoo!ジャパンがWBCの特設サイトを作っているのを見ると、栗城史多のエベレスト挑戦で、同じように特設サイトを作ったことを連想せざるを得ません。あのとき、Yahoo!ジャパンは、栗城と共同で、ベースキャンプでカラオケとソーメン流しをして、それをギネスに申請するという、恥ずべき企画を立てた前科があるのでした。

選手たちの本業が消防士や地理の教師や金融アナリストや不動産会社社員で、日本に修学旅行気分でやって来たという、どう見てもアマチュアにすぎないチェコと戦って、「勝った」と言って大騒ぎし「日本快進撃」などと言われても鼻白むしかありません。野球をする人間が希少動物のようなマイナーな国を相手に勝って、何が嬉しいんだろうと思います。環境も歴史も違う弱小チームを打ち負かせて、「お前よくやったな」と偉そうに言ってみんなで優越感に浸っているだけです。もともとレベルが違うアマチュアとプロを戦わせるのは、アンフェアな弱い者いじめにすぎません。それで「予選リーグ突破」「準決勝進出」だなんて、片腹痛いと言わねばなりません。

特に、放映権を握るTBSとテレビ朝日の悪ノリには目に余るものがあります。まるでウクライナ戦争における戦争報道と見まごうばかりです。そこに伏在するプロパガンダの構造は、戦争でも野球でも違いはないのです。

ピッチャーが交代すると、カメラマンがどこからともなく現れて、マウンドの近くで投球練習をするピッチャーを撮影したり、ホームランを打ったら、三塁ベースをまわる選手の横をテレビカメラを手にしたカメラマンが並走したりと、試合中にメディアの人間がグランドに闖入するなど本来ならあり得ないことでしょう。

準決勝の相手はイタリアだそうですが、また実況中継のアナウンサーは絶叫し、日本中が「日本凄い!」と歓喜に沸くのでしょうか。悪ノリにもほどあるとしか思えません。裸の王様ではないですが、「こんなのバカバカしい」と誰も言わない不思議を考えないわけにはいきません。

■いびつな「世界大会」のしくみ


また、興行面においても、元毎日新聞記者の坂東太郎氏は、「このWBCという大会は収益配分などが極めていびつで『アメリカのアメリカによるアメリカのための大会』とも揶揄されている」と書いていました。

Yahoo!ニュース・個人
坂東太郎
WBCのいびつな収益構造で太り続けるMLBと選手会。しかも有力選手は出し渋る矛盾した体質

それによれば、大会収益とスポンサー料の66%は、MLB(アメリカ大リーグ機構)と同選手会が共同で設立した「WBC1」という会社に入り、日本に入るのは13%にすぎないのだそうです。そのため、日本の選手会は、せめて「スポンサー権と代表に関連したグッズなどを商品化するライセンス権を代表チームに帰属させるべきと訴えた」のですが交渉が難航。その結果、前回から6年のブランクが生じたと言われているのです。

 結局、この問題は大会期間外にも日本代表(侍ジャパン)を常設して年単位で募ったスポンサー収入の一部や対外試合などの収入を得られるという条件をWBCIに納得してもらい妥協が図られました。


しかし、収益の66%がアメリカに入るという構造はそのまま残されたそうです。

さらに、坂東氏は、大会の組み合わせについても、次のように書いていました。

 とはいえ「アメリカのアメリカによる」という構図は大きく変わっていません。収益配分66%が動いていないのに加えて、

・第1ラウンドC・D組と準々決勝、および準決勝と決勝すべての会場はアメリカ

・3月開催もMLBの日程を優先しての決定

などなど。

 他にも第1ラウンドは予選を勝ち抜いた(日本は免除)4チームを除けばほぼ地域別なのに政治的にアメリカ(C組)と対立しているキューバはなぜか台北開催のA組。日本と同じくアメリカと覇を競う地力のあるドミニカ、プエルトリコ、ベネズエラはD組と万に一つもアメリカが第1ラウンド敗退とならないよう「工夫」されているのです。


最近はG7やG20など国際会議を見ても、スーツの襟に自国の国旗のバッチを付けている首脳がやたら目に付くようになりました。アメリカなどは、共和党も民主党も関係なく(トランプもバイデンも同じように)、アメリカ国旗のバッチを付けています。それはパンデミック後の世界をよく表しているように思います。ユヴァル・ノア・ハラリなどが予言したように、国家が前面にせり出し、人々がナショナリズムに動員されるような時代に再び戻っているのでした。

この捏造された野球の「世界大会」で繰り広げられる(扇動される)「ニッポン凄い!」というナショナリティーに対する熱狂は、パンデミック及びウクライナ戦争後の世界を象徴する愚劣で滑稽な光景と言っていいでしょう。

きっこは、こんな「世界大会」を「クリーン」で「感動する」と言うのです。この程度のミエミエの”動員の思想”にすら簡単に取り込まれてしまう、その見識のなさには呆れるばかりです。ホントに野球が好きな人間ならこんな「世界大会」はしらけるはずです。
2023.03.12 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
publicdomainq-0000311dxdzwv.jpg
(public domain)


■三島憲一氏の批判


成田悠輔の“高齢者集団自決のすすめ”は、日本より海外のメディに大きく取り上げられ批判に晒されているようですが、彼の暴論について、朝日新聞デジタルの「WEBRONZA」で、ニーチェ研究で知られる三島憲一・大阪大学名誉教授が次のように書いていました。

尚、「WEBRONZA」は7月いっぱいで終了し、既に課金サービスも終わっているため、三島氏の論稿も無料の導入部しか読めません。以下もその部分からの引用です。

論座
成田悠輔氏の「高齢者集団自決」論は、“新貴族”による経済絶対主義

三島氏は、「民主主義社会では、規範や信頼などを無視した少数の優秀な人々が、大衆の人気を博しながら大金を儲け、権力にありついて、好き勝手なことをするようになるだろう」というニーチェが予言した「冷笑主義(シニシズム)」の観点から、成田の暴論を論じていました。

ニーチェの「冷笑主義」は、社会理論の言葉で言えば「再封建化 refeudalization」で、それは「新自由主義が生み出した現象」だと言います。

 下々への統制手段はかつては政治権力と宗教だったが、今では、新たなアルゴリズム=カルトが、いわゆるパンピーに君臨する。庶民はかつて貴族の園遊会と恋の戯れを垣根越しに眺めていたが、今では高級店に出入りするセレブの恋愛沙汰をメディアで覗かせていただく(専門用語でいう「顕示的公共圏」)。庶民はかつてラテン語が読めなかったが、今ではネット用語がわからない。新貴族は法に触れてもいわば上級国民として、法の適用も斟酌してもらえることが多い。あるいは辣腕の弁護士を駆使して軽傷で切り抜けて、高笑い。
 彼らの駆使する独特の論理は、「言い負かす」と「なるほどとわかってもらう」という古代ギリシア以来の区別を解消している。原発の必要性を論じて懐疑的な人々を言い負かしても、本当の理解は得られないことが重要なのだが。彼らは、テレビ画面でその場の思いつきで相手を言い負かせばいいのだ。


■システム理論と炎上商法


私は、子どもの頃からお勉強だけをしていて、まったく世間を知らない頭でっかちの屁理屈小僧の妄言のようにしか思っていませんでしたが、ただ、屁理屈小僧の妄言も、たしかに時代の風潮と無関係とは言えないでしょう。もちろん、自分たちも時が経てば集団自決をすすめられる高齢者になることは避けられないわけで、それを考えれば、これほどアホらしい(子どもじみた)妄言はないのです。

こういった(文字通りの)上から目線=エリート主義は、今流行はやりのシステム理論の必然のように思いますし、東浩紀などの発言にも、もともと同じような視線は存在していました。彼が三浦瑠麗と「友人」であるというのは、不思議なことでもなんでもないのです。

 既成の構造をぶち壊す議論といっても、そうした多くの「論客」たちも実は、ブランドという名の既成の権威を広告塔に使っているようだ。超一流大学卒業の「国際政治学者」、あるいはこれまでの西洋崇拝に便乗して名乗る東海岸の有名私立大学「助教授」、だいぶ前からあちこちの大学で売り出している「総合政策」「デジタル・プランニング」「ソリューション」「フェロー」などなど、よくわからないものも含めてネットの画面に割り込んでくる広告みたいなキャッチー・タイトルだ。その多くは彼らがおちょくる既成のランキングのなかで培われてきたものを、彼ら独特のやり方で、例えば大学名の入ったTシャツで目立たせる。
(同上)


もうひとつ、炎上商法という側面から見ることもできるように思います。たまたまガーシー界隈の怪しげな人物のツイッターを見ていたら、ツイッターは流れが速すぎて付いていけないと嘆いていて、思わず笑ってしまいましたが、タイムラインで話題が次々変わっていくのも、今のSNSの時代の特徴です。だからこそ、過激なことを言って人々の目を食い止める必要があるのではないか。

成田悠輔にしても、所詮はSNSの時代の申し子にすぎず、アクセス数や「いいね」の数で自分が評価されているような感覚(錯覚)から自由ではないのです。エリートと言っても、所詮はその程度なのです。

■お里の知れたエリート主義


一部の報道によれば、三浦瑠麗にはコロナ給付金の詐欺疑惑まで出ているようですが、六本木ヒルズに住むなど嫌味なほどセレブ感満載で、東大を出た「国際政治学者」とお高くとまっていても、やっていることは夜の街で遊び歩いているアンチャンたちと変わらないのです。もっとも、日本のセレブは漢字で書くと「成金セレブ」になるのです。コメンテーターも「電波芸者コメンテーター」にすぎないのです。そもそも成田悠輔の“高齢者集団自決のすすめ”にしても、5ちゃんねるあたりで言われていることの焼き直しにすぎません。

東浩紀にも、都知事選のときに猪瀬直樹を支持して、選挙カーの上で田舎の町会議員と見まごうような応援演説をしたという”黒歴史”がありますが、彼らのエリート主義はお里が知れているのです。況やひろゆきの冷笑主義においてをやで、ひろゆきなどはどう見ても2ちゃんねるそのものでしょう。

でも、問題は彼らを持ち上げたメディアです。コメンテーターとして起用したテレビや彼らにコラムを担当させた週刊誌は、それこそ大塚英志が言った「旧メディアのネット世論への迎合」と言うべきで、そうやってみずから墓穴を掘っているのです。自分たちがコケにされているという自覚さえないのかと思ってしまいます。貧すれば鈍するとはこのことでしょう。
2023.03.11 Sat l 社会・メディア l top ▲
デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場


■栗城劇場


遅ればせながらと言うべきか、河野啓著『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(集英社文庫)を読みました。

栗城史多(くりきのぶかず)は、2018年5月21日、8度目のエベレスト登頂に失敗して下山途中に遭難死した「登山家」です。享年35歳でした。しかし、死後も彼を「登山家」と呼ぶことをためらう山岳関係者も多く、彼のエベレスト挑戦は、登攀技術においても、経験値においても、そして基礎的な体力においても「無謀」と言われていました。

最後になった8度目の挑戦も、AbemaTVで生中継されていたのですが、彼のスタイルは、 YouTubeやTwitterを駆使し、また、日本テレビやNHKやYahoo!Japanや AbemaTV などとタイアップした、「栗城劇場」とヤユされるような見世物としての登山でした。それを彼は、「夢の共有」「冒険の共有」と呼んでいました。

■登山ユーチューバーの先駆け


自撮りしながら登る彼の山行は、言うなれば、現在跋扈している登山ユーチューバーの先駆けと言っていいでしょう。

本の中に次のような箇所があります。

 栗城さんは山に登る自分の姿を、自ら撮影していた。
 山頂まで映した広いフレームの中に、リュックを背負った栗城さんの後ろ姿が入ってくる。ほどよきところで立ち止まった彼は、引き返してカメラと三脚を回収する。
 クレバス(氷河の割れ目)に架かったハシゴを渡るときは、カメラをダウンの中に包み込んでレンズを下に向けている。ハシゴの下は深さ数十メートルの雪の谷。そこに「怖ええ!」と叫ぶ栗城さんの声が被さっていく。


ときに登頂に失敗して下山する際の泣き顔まで自分で撮っていたのです。

彼は、「ボクにとって、カメラは登山用具の一つですから」と言っていたそうです。これも今の登山ユーチューバーを彷彿とさせるものがあるように思います。

■単独無酸素


栗城史多は、みずからの目標を『単独無酸素での七大陸最高峰登頂』と掲げていましたし、メディアにおいてもそれを売りにしていました。しかし、七大陸最高峰、つまりセブンサミットの中で、通常酸素ボンベを使用するのはエベレストだけで、あとは誰でも無酸素なのです。そういったハッタリもまた、今の登山ユーチューバーと似ている気がしますが、彼の場合、それが資金集めのセールスポイントになっていたのでした。

「単独」と言っても、ベースキャンプには日本から同行したスタッフや現地で徴用した10数人のシェルパやキッチンスタッフがいました。実際に登山においても、エベレストの案内人であるシェルパたちが陰に陽に彼をサポートしていたのです。それどころか、実際は酸素ボンベを使っていたというシェルパの証言もありました。

2009年9月、栗城は、初めてチョモランマ(エベレストの中国名)の北稜北壁メスナールート(標高8848メートル)に挑戦したのですが、7950メートル地点で体力の限界に達して下山を余儀なくされました。以後、8回挑戦するもののことごとく失敗するのでした。その初めての挑戦の際、当時、北海道のテレビ局のディレクターとして栗城を密着取材していた著者は、次にように書いていました。

 この十一年前の一九九八年秋、登山家、戸高雅史さんは、同じグレート・クーロワールを、標高八五〇〇メートル地点まで登っている。シェルパもキッチンスタッフも雇わない、妻と二人だけの遠征だった。戸高さんはこの絶壁をどういうふうに登ったのだろうかと夢想してみたりもした。
《せっかくプロの撮影スタッフが大がかりな機材を携えてここまで登ったのに……なんてもったいないんだ……》とも感じた。
 それにしても、頂上までの標高差は一〇〇〇メートルもあった。この差を栗城さんは克服できるのだろうか……?
 私には難しいと思えた。


戸高雅史さんは大分県出身の登山家ですが、これを読むと、栗城が言う「単独」が単なるメディア向けのセールトークにすぎなかったことがよくわかるのでした。

エベレストのような“先鋭的な登山”は別にしても、登山というのは、もともと戸高雅史さん夫妻のような孤独な営為ではないか。私などはそう考えるのです。だからこそ、戸高雅史さんのような登山は、凄いなと思うし尊敬するのです。

■登山の評価基準


登山には「でなければならない」という定義などはありません。それぞれが自分のスタイルで登るのが登山です。それが登山の良さでもあるのです。それが、登山がスポーツではあるけれど、他のスポーツとは違う文化的な要素が多分に含まれたスポーツならざるスポーツだと言われるゆえんです。

著者もこう書いていました。

 登山は本来、人に見せることを前提としていない。素人が書くのはおこがましいが、山という非日常の世界で繰り広げられる内面的で文学的な営みのようにも感じられる。


一方で、登山も他のスポーツと同じように、「定義」や「基準」が必要ではないかとも書いていまいた。

 しかし明快な定義と厳格なルールは必要だと、私は考える。登山はどのスポーツよりも死に至る確率が高い。そのルールが曖昧というのは、競技者(登山者)の命を守るという観点からも疑問がある。また登山界の外にいる人たちに情報を発信する際に、定義という「基準」がなければ、誰のどんな山行が評価に値するのか皆目わからない。
 栗城さんがメディアやスポンサー、講演会の聴衆に「単独無酸素」という言葉を流布できたのは、このような登山界の曖昧さにも一因があったように思う。 登山専門誌『山と溪谷』が、栗城さんについて『「単独・無酸素」を強調するが、実際の登山はその言葉に値しないのではないかと思う』とはっきりと批判的に書くのは、二〇一二年になってからだ。


私は、著者の主張には首を捻らざるを得ません。たとえ“先鋭的登山”であっても、登山に評価基準を持ち込むのは本来の登山の精神からは外れているように思います。はっきり言ってそんなのはどうでもいいのです。

■メディアと提携


栗城史多は、北海道の地元の高校を卒業したあと上京し、当時の「NSC(吉本総合芸能学院)東京校」に入学します。「お笑い芸人になりたかった」からです。しかし、半年で中退して北海道に戻ると、1年遅れて大学に入り、そこで(実際は他の大学の山岳部に入部して)登山に出会うのでした。

そして、NSCに入学したときから10年後の2011年、彼は、「よしもとクリエイティブ・エージェンシー(現・吉本興業株式会社)」と業務提携を結ぶことになります。著者は、「ある意味、十代のころの夢を叶えたのだ」と書いていました。

メディアと提携した「栗城劇場」の登山が始まったのは、2007年5月 のヒマラヤ山脈の チョ・オユー(8201メートル)からでした。

日本テレビの動画配信サイト「第2日本テレビ(後の日テレオンデマンド。二〇一九年サービス終了)」と提携して、連日、栗城自身が撮影した動画が同サイトに投稿されたのでした。それを企画したのは、「進め!電波少年」を手掛けた同局の土屋敏男プロデューサーでした。栗城史多には「ニートのアルピニスト」というキャッチコピーが付けられたそうです。

その壮行会の席で目にした次のような場面を、著者は紹介していました。

 二〇〇七年四月、栗城さんがチョ・オユーに出発する前日のことだ。東京都内の居酒屋でささやかな壮行会が持たれ、BCのカメラマンとして同行する森下さんも参加していた。
 土屋敏男さんともう一人、番組関係者と思われる四十歳前後の男性がそこにいた。栗城さんとはすでに何度か会っているようで親しげな様子だったという。その男性の口からこんな言葉が飛び出した。
「今回は動画の配信だけど、いつか生中継でもやってみたら? 登りながら中継したヤツなんて今までいないよね」


また、2009年からはYahoo!Japanともタッグを組み、同年7月のエベレスト初挑戦の際は、特設サイトが作られて、登山の模様が連日動画で配信され、山頂アタックの際は生中継もされて、パソコンの前の視聴者はハラハラドキドキしながら見入ったのでした。

その際、高度順応するための3週間の間に、栗城自身がカラオケとソーメン流しをして、それをギネスに申請するという企画も行われたそうです。しかし、その「世界最高地点での二つの挑戦」は、「危険を伴う行為なので認定できない」とギネスからは却下されたのだとか。

■「いい奴」と一途な性格


栗城史多は、お笑い芸人を夢見ていたほどなので人懐っこい性格だったようで、彼を知る人たちは、無茶をするけど「いい奴」だったと一様に証言しています。彼自身も、「ボク、わらしべ登山家、なんですよ」と言っていたそうで、そんな性格が人が人を呼んでスポンサーの輪が広がっていったのでした。人の懐に入る才能や営業力は卓越したものがあり、むしろ事業家の方が向いているのではないかという声も多かったそうです。

当時、私は、栗城史多にはまったく関心がなく、Yahoo!の中継も観ていませんが、ただ、彼が亡くなったというニュースだけは覚えています。北海道の時計店を経営しているという父親が、テレビのインタビューに答えて「今までよくがんばった」と言っているのが印象的でした。見ると、父親は身体に障害があるようで、それでよけいその言葉に胸にせまってくるものがありました。

でも、その一方で、父親には、「仰天するエピソードがある」のでした。「温泉を掘り当ててやる」という信念のもとに、店は従業員に任せて自宅の傍を流れる川の岸を16年間一人で掘りつづけて、1994年、ついに源泉を発見したのです。そして、2008年には温泉施設に併設したホテルが建築され、そのオーナーになったそうです。

栗城史多は「尊敬するのは父親です」といつも講演で言っていたそうですが、彼自身もその一途な性格を受け継いでいるのではないかと書いていました。

■「冒険の共有」


しかし、エベレスト挑戦も回を増すと、ネットでは登山家ではなく「下山家」だなどとヤユされるようになり、スポンサーからの資金も思うように集まらなくなって、彼も焦り始めていくのでした。

2012年の挑戦の際には、両手に重度の凍傷を負い、翌年、両手の指9本を第二関節から切断することになったのですが、しかし、その凍傷が横一列に揃えられた不自然なものであったことから、自作自演ではないかという疑惑まで招いてしまうのでした。

2016年には、下記のようにクラウドファンディングで資金を募り、2000万円を集めています。

CAMPFIRE
エベレスト生中継!「冒険の共有」から見えない山を登る全ての人達の支えに。

その中で、栗城は、「冒険の共有」として、次のように呼びかけています。

人は誰もが見えない山を登っています。山とは、自分の中にある夢や目標です。山に大きいも小さいもないように、夢にも大きいも小さいもなく、自分のアイデンティティーそのものです。

その自分の山に向かうことを誰かに伝えると、否定されたり馬鹿にされることもあるかもしれません。しかし、今まで挑戦を通して僕が見てきた世界は、成功も失敗も超えた「信じ合う・応援しあう」世界でした。

今までの海外遠征で僕が一番苦しかったのは、実は2004年に最初に登った北米最高峰マッキンリー(6194m)でした。

「この山を登りたい」と人に伝えると、「お前には無理だよ」と多くの人に否定されました。

そんな時、マッキンリーへ出発する直前に空港で父から電話があり、一言「信じているよ」という言葉をもらいました。その言葉が今も自分の支えになっています。

本当の挑戦は失敗と挫折の連続です。

このエベレスト生中継による『冒険の共有』の真の目的は、失敗も挫折も共有することで、失敗への恐れや否定という社会的マインドを無くして、何かに挑戦する人、挑戦しようとしている人への精神的な支えになることです。そんな想いから、今年も「冒険の共有」を行います。

皆さんと一緒にエベレストを登って行きます。応援よろしくお願いします。

栗城史多


しかし、その挑戦も失敗します。そして、2018年の死に至る8度目の挑戦へと進んでいくのでした。

■死に至る最後の挑戦


それは、追いつめられた末に、みずから死を選んだのだのではないかと言う人もいるくらい、切羽詰まった挑戦でした。 栗城が選択したのは、エベレストの中でも「「『超』の字がつく難関ルート」であるネパール側の南西壁のルートでした。しかも、AbemaTVとの契約があったためか、風邪気味で体調がすぐれない中での山行でした。案の定、標高7400メートル付近に設置したC3のテントで登頂を断念して、その旨BC(ベースキャンプ)に連絡を入れます。それで、ただちにC2に待機していたシェルパが救助に向かったのですが、しかし、栗城はシェルパの到着を待たずに下山をはじめるのでした。そして、途中、ヘッドランプの電池が切れるというアクシデントも重なり、滑落して遺体で発見されるのでした。

栗城の死について、ある支援者は、「淡々とした口調」で、こう言ったそうです。

「死ぬつもりで行ったんじゃないかなあ、彼。失敗して下りてきても、現実問題として行くところはなかった。もぬけの殻になるより、英雄として山に死んだ方がいい、って思ったとしても不思議はないよね。『謎』って終わり方だってあるしね。頂上からの中継はできなかったけど、エベレストに行くまでの過程で十分夢は実現した、と考えたのかもしれないし」


そして、こう「付け加えた」のだそうです。

「戦争で死ぬよりずっといいじゃないの」


著者の河野啓氏は、エベレストを舞台にした「栗城劇場」について、次のように書いていました。

 たとえば陸上競技の短距離走で「世界最速」と言えば、誰もが、ジャマイカのウサイン・ボルト選手を思い浮かべるはずだ。しかし「最初に百メートルで九秒台を記録した選手は?」と聞かれて名前が出てくる人は、よほどのマニアだろう。どのスポーツでも記録は上書きされ、「新記録」を樹立した選手に喝采が贈られる。
 だが、登山は違う。
 山の頂に「初めて」立った人物が、永遠に色褪せない最高の栄誉を手にするのだ。その後は「厳冬期に初めて」とか「難しい〇△ルートで」といった条件付きの栄光になる。
《そんなのイヤだ! 面白くない! 誰もやってないことがあるはずだ!》
 その答えとして、栗城さんは山を劇場にすることを思いついた。極地を映した目新しい映像と「七大陸最高峰の単独無酸素登頂」という言葉のマジックで、スポンサーを獲得していく。
 登山用具の進歩が一流の技術を持たない小さな登山家をエベレストの舞台に立たせ、テクノロジーの革新が遠く離れた観客と彼とをつなげた。


■見世物の登山


前の記事でも書きましたが、まるで栗城史多の死をきっかけとするかのように、2018年頃からネット上に登山ユーチューバーが登場するのでした。それはさながら、栗城史多のミニチュアのコピーのようです。

ニワカと言ったら叱られるかもしれませんが、彼らは、登攀技術や経験値や体力などそっちのけで、自撮りの登山をどんどんエスカレートしていくのでした。そこにあるのもまた、孤独な営為とは真逆な見世物の登山です。

そして、コロナ禍の苦境もあったとは言え、栗城を批判していた登山家たちまでもが人気ユーチューバーに群がり、まるでおすそ分けにあずかろうとするかのようにヨイショしているのでした。しかも、それは登山家だけではありません。登山雑誌も山小屋も山岳団体も同じです。無定見に栗城を持ち上げた日テレやNHKやYahoo!JapanやAbemaTVなどと同じように、“ミニ栗城”のようなユーチューバーを持ち上げているのでした。

その意味では、(もちろん皮肉ですが)栗城史多の登場は、今日の登山界におけるひとつのエポックメイキングだったと言っていいのかもしれません。

もっとも、その登山ユーチュバーも、僅か数年で大きな曲がり角を迎えているのでした。既にユーチューバーをやめる人間さえ出ていますが、それは栗城史多に限らず、ネットに依存した見世物の登山の宿命と言ってもいいでしょう。詳しくは、下記の関連記事をご参照ください。


関連記事:
ユーチューバー・オワコン説
2023.03.09 Thu l 本・文芸 l top ▲
APC0306.jpg
(イラストAC)


ガーシーのことが気になって仕方ない友人との会話。

■警察とのかけ引き


友人 日本に帰ると言ったり、帰るかわからないと言ったり、煮え切らないおっさんだな。50歳なんだろう。子どもと一緒じゃないか。
 警察との心理戦、かけ引きなんだろう。
友人 かけ引き?
 最新のアクセスジャーナルの動画では、FC2(このブログの管理会社)の高橋理洋元社長から依頼されたドワンゴに対する中傷で、警察が動いていると言っていたな。
友人 それで帰りづらくなっていると?
 それだけでなく、ガーシーが楽天の三木谷社長のスキャンダルを取り上げたのも、NHK党の立花党首がやらせたんだという話もしていた。ガーシーの「死なばもろとも」の暴露動画も、周辺にいいように利用され、話がどんどん広がっている感じだな。
友人 ガーシーの関係先を家宅捜索したのは「常習的脅迫」という容疑だったけど、「常習的脅迫」というのは暴力団を取り締まるための”罪名”らしいな。
 「暴力行為等処罰に関する法律」という、一般の刑法とは別の“特別刑法”の中に規定された容疑だよ。もともとは学生運動などを取り締まるために作られた法律だけど、今は主に暴力団に適用外されている。単なる脅迫ではない。そこがポイントだな。

■反社のネットワーク


友人 国会での陳謝の日(8日)が近づいてきたら、急にトルコに行くとか、やってることがわざとらしいな。
彼ら・・なりに考えた作戦なんだろう。普通に考えれば、帰国しない口実のためにトルコに行ったように思うけど、それも警察や世論に対する揺さぶりなんだと思う。
友人 なんでそこまでするのか? 往生際が悪いとしか思えん。
 伊藤喜之氏の『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』でもそれらしきことが書かれているみたいだけど、ドバイには日本社会に恨みを持つワルたちが集まっており、その中にガーシーが加わった。お互いの利害が一致して協力関係を築いたと言われている。
友人 なに、それ?
 結構、根は深いんだよ。反社のネットワークみたいなものにかくまわれているとも言える。その意味では「反権力」というのは、必ずしも間違ってない。もっともそれは、脱法的な組織=反社を「反権力」だと見做せばという話だけど。
友人 それだったら「反権力」ではなく、誰かさんが言う「脱権力」じゃないか?(笑)
 ガーシーが再三口にする「身の危険」というのは、表に出ていること以外に何かあるんじゃないかと思わせる。もちろん、個人的な借金問題もあるかもしれない。闇カジノにはまって作った借金なんだから、おのずとその素性はあきらかだろう。でも、それだけではない気がする。
友人 Yahoo!ニュースにあがっているような記事を見ると、単純で簡単な名誉棄損の問題のように見えるけどな。

■大手メディアの腰が引けた姿勢


 ガーシー問題でも、大手メディアのテイタラク、腰が引けた姿勢が目立つ。背景がまったく語られてない。ガーシーではなく、ガーシー、ガーシー一味・・と呼ぶべきなんだよ。だって、警察が家宅捜索した中に、ネットの収益を管理する合同会社・・・・というのがあったけど、あれなんか大きなヒントなのに、大手メディアは知ってか知らずかスルーしている。だから、ネットでいろんな憶測を呼ぶことになり、ガーシー問題が暇つぶしのオモチャになっている(オレたちもそうだけど)。
友人 メディアは警察の発表待ちなんだろうな。
 警察が発表したら、いっせいに報道しはじめるんだろう。いつものことだな。芸能界との関係も、暴露がどうだという問題だけじゃないよ。アクセスジャーナルの山岡氏は、ガーシーのことを「やから」と言っていたけど、そういった「やから」との関係が問題なんだよ。でも、テレビを牛耳る大手プロに忖度して、大手メディアはどこも見ざる言わざる聞かざるを決め込んでいる。
友人 ガーシー問題の本質は「やから」の問題ということか。
 フィリピンの「ルフィ」一味も、彼らが特殊詐欺で稼いだ金額は60億円以上と言われており、警察庁長官もそう発言している。しかし、「ルフィ―」一味に渡ったのは数億円にすぎない。あとはどこに消えたのか?という話だが、今の様子では、残りのお金が誰に渡ったのか、解明されるとはとても思えない。末端の小物ばかり捕まえて点数を稼ぐ”点数稼ぎ”や役所特有の”縦割り意識”など、いろいろ言われているけど、警察も所詮は(小)役人。児童虐待が起きるたびにやり玉にあがる児童相談所と同じで、事なかれ主義の体質を持つ公務員の組織にすぎない。ガーシーの問題も、国会議員のバッチと引き換えに、ウヤムヤに終わる可能性は高いだろうな。世論も、国会議員を辞めろという話に収斂されているし、辞めれば国民の溜飲も下がって幕引きだろう。

■「共感主義」の「暴走」


友人 でも、ガーシーと他の国会議員がどれほど違うのか?という気持もあるな。
 たしかに、ガーシーに投じる一票と、選挙カーの上で陰謀論やヘイトスピーチをふりまく候補者や、壇上で大仰に土下座して投票をお願いする候補者に投じる一票がどう違うのか。ガーシーの後釜は、ホリエモンの秘書兼運転手でNHK党副党首の肩書を持つ人物と決まっているらしいけど、ガーシーと、ひろゆきやホリエモンや成田悠輔や三浦瑠麗や橋下徹や落合陽一や古市憲寿がどう違うのか、というのはあるな。村上裕一氏が『ネトウヨ化する社会』で書いていた「共感主義」の「暴走」という観点から見れば、同工異曲としか思えない。ガーシーが消えても、また次のガーシー=ネット時代のトリックスターが出て来るだろうな。栗城史多が死んだあと、ミニチュアのコピーのような登山ユーチューバーが次々と湧いて出たのと同じだよ。しかも、栗城を批判した登山家たちが、節操もなく人気登山ユーチューバーに群がりヨイショしている。ユーチューバーの信者たちも、栗城を叩きながらミニチュアのコピーは絶賛する。ガーシーを叩いても、ひろゆきやホリエモンや成田悠輔には心酔するんだよ。
友人 ‥‥‥。


関連記事:
ガーシーは帰って来るのか?
続・ガーシー問題と議員の特権
ガーシー問題と議員の特権
2023.03.06 Mon l 社会・メディア l top ▲
publicdomainq-0054711nobvjq.jpg
(public domain)


■バフムトの陥落


今日の夕方のテレビ東京のニュースは、いわゆる「ドンバスの戦い」の中で、最重要の攻防戦と言われるウクライナ東部の都市・バフムト(バフムート)において、バフムトを防衛するウクライナ軍をロシア軍が完全に包囲しており、バフムトの陥落が近づいていることを伝えていました。

YouTube
テレ東BIZ
ロシア軍近くバフムト包囲(2023年3月4日)

■誰が戦争を欲しているのか


こういったニュースを観ると、私たちは唐突感を抱かざるを得ません。というのも、私たちは、日頃、多大な犠牲を強いられているロシア軍には厭戦気分が蔓延し、敗北も近いと伝えられているからです。

たとえば、下記の記事などはその典型でしょう。

東洋経済ONLINE
プーチン激怒?ロシア軍と傭兵会社「内輪揉め」(2月25日)

日本のメディアが伝えていることはホントなのかという疑問を持たざるを得ないのです。そもそも核保有国のロシアに敗北なんてあるのかと思います。ロシアは国家存亡の危機にあると日本のメディアは書きますが、国家存亡の危機に陥ればロシアはためらうことなく核を使用するでしょう。そうなれば、国家存亡の危機どころか世界存亡の危機に陥るのです。核の時代というのは、そういうことなのです。勝者も敗者もないのです。

勝ったか負けたか、どっちが正しいかなんて、まったく意味がないのです。政治家は言わずもがなですが、メディアや専門家や左派リベラルの運動家や、そして国民も、そんな意味のない戦時の言葉でこの戦争を語っているだけです。

勝者も敗者もない戦争の先にあるのは破滅だけです。だからこそ、何が何でもやめさせなければならないのです。80歳のバイデンが主導する今のような武器援助を続けていけば、核を使用するまでロシアを追い込んでいくことにもなりかねないでしょう。

侵攻してほどなく、フランスのマクロン大統領の仲介で和平交渉が行われ、和平の気運も高まっていました。ところが、”ブチャの虐殺”が発覚したことで、ウクライナが態度を硬化させ、とん挫したと言われています。”ブチャの虐殺”に関してはいろんな説がありますが、何だかそこには和平したくない(させたくない)力がはたらいていたような気がしてなりません。誰が戦争を欲しているのかを考えることも必要でしょう。

中国が仲介に乗り出したことに対しても、日本のメディアでは、中国は「誠実な仲介者ではない」「習近平の平和イメージをふりまくためだ」「NATOの分断が狙いだ」などと、ゲスの勘繰りみたいな見方が大半ですが、しかし、中国以外はどこも和平に乗り出そうとしないのです。それどころか、欧米は武器の供与を際限もなくエスカレートするばかりなのです。

『Newsweek』(日本版)によれば、次期大統領選の共和党候補指名獲得レースに名乗りを上げたニッキー・ヘイリー元国連大使は、「大統領選に出馬する75歳以上の候補者に精神状態の確認検査を義務付けるべきだ」と言ったそうですが、笑えない冗談のように思いました。私たちだって、70歳になれば車の免許を更新する際に、認知機能のテストを受けなければならないのです。況や大統領においてをやでしょう。

■プロパガンダ


今日のテレ東のニュースは、次のように伝えていました。

(略)ウクライナ側は、バフムトに戦略的価値はほとんどないとしていますが、この都市をめぐる双方の莫大な損失が戦争の行方を左右する可能性があるという指摘も出ています。


でも、おととい(3月2日)のCNNのニュースは、こう伝えていました。

Yahoo!ニュース
CNN
ウクライナ軍、バフムートで「猛烈に抗戦」 ワグネルのトップが認める

(略)ウクライナのゼレンスキー大統領は、現時点でバフムート防衛が最大の課題になっていると強調。ロシア軍は同市周辺でじりじりと前進しているものの、ウクライナ軍は未だ退却しておらず、膠着(こうちゃく)状態に持ち込んでいると指摘した。


ゼレンスキーは、「バフムート防衛が最大の課題になっていると強調」していたのです。それが、戦況が不利になると、「バフムトに戦略的価値はほとんどない」と言い出しているのです。

戦争にプロパガンダが付きものであるのは、言うまでもありません。しかし、日本のメディアは、ウクライナのプロパガンダをプロパガンダとして伝えていません。あたかもニュース価値の高い真実のように伝えているのでした。そのため、私たちは、バフムト陥落のようなウクライナ不利のニュースに接すると唐突感を抱くことになるのでした。

ウクライナ戦争でもこのあり様なのですから、身近な”台湾危機”では、どれだけ日米政府のプロパガンダに踊らされているかわかったものではないでしょう。
2023.03.04 Sat l ウクライナ侵攻 l top ▲
DSC02257.jpg
(2023年2月)


■ガーシーは帰って来ない


「どうでもいいことだけど、ガーシーってホントに帰って来るのかな?」と友人が言うので、私は、「帰って来ないよ」と答えました。友人は、「いくらガーシーでもそこまで国会をコケにしないだろう」と言うので、ではということで、食事代を賭けることになりました。

朝日新聞デジタルは、今朝(3月1日)の「ガーシー氏『陳謝』、8日に開催で調整」という記事の中で、次のように書いていました。

朝日新聞デジタル
ガーシー氏「陳謝」、8日に開催で調整

ガーシー氏は参院側に本会議場で陳謝する意向を文書で回答しているが、文書には帰国日などは明記されていない。このため与野党内には、ガーシー氏が実際に登院するのか、処分内容を受け入れるのかなどについては懐疑的な見方が根強い。


朝日新聞と言えば、元ドバイ支局長で昨年退社して現在もドバイに在住し、ガーシーに1年近く密着取材したと言われる伊藤喜之氏が、今月(3月17日)、講談社から『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』(講談社+α新書)という本を出版するそうです。ガーシー本人も、本の中に「黒幕A」として登場する秋田新太郎氏も、それぞれTwitterで本の宣伝をしていましたが、「目次」を見ると「元大阪府警の動画制作者」「朝日新聞の事なかれ主義」「王族をつなぐ元赤軍派」など、気になる見出しがいくつかありました。納税者であることを忘れてエンターテインメントとして見れば、これほど面白い悪漢ピカレスク小説はないのです。

■「だって詐欺師だよ…」


きわめつけは、昨日(2月28日)の集英社オンラインの記事でしょう。

集英社オンライン
〈帰国・陳謝〉を表明したガーシー議員、それでも側近・友人・知人が揃って「帰国しないだろう」と答える理由とは…「逮捕が待っている」「議員より配信のほうが儲かる」「だって詐欺師だよ…」

タイトルに全て集約されていますが、記事は次のように書いています。

ガーシー氏が帰国するXデーに注目が集まっている。だが、ガーシー氏と親しい複数の“仲間たち”は「それでも彼は帰国しないと思う」と口を揃えている。


また、次のような知人の言葉も紹介していました。

「(略)そもそも冷静に考えてください、彼は詐欺師として告発されて有名になった男ですよ。僕も昔、彼に金を貸したけど全然返金してくれなかった。今回、書面で『帰ります』と言ったからって、信用できますか?」


「議員のセンセイからしたら屈辱的にみえるかもしれませんが、彼からしたらなんてことないでしょう。これまでも借金の返金を延ばすためなら土下座だってしてきたし、ヤバイ人に脅されたりして死線をくぐり抜けてきた。そんな彼が一番恐れているのは逮捕、拘束されること。(略)」


国会で謝罪してもすぐにドバイに戻るという見方もありますが、それでは帰国したことになるので私の負けです。

でも、この記事も突っ込み不足で、「配信のほうが儲かる」という話も、どうしても配信を続けなければならない”裏事情”をそう言っているような気がしてなりません。それは、フィリピンの収容所に入ってもなお、闇バイトで集めた人間たちにスマホで指示して強盗までさせていた「ルフィ」たちと同じように思えてならないのです。

アクセスジャーナルは、ガーシーと「ポンジ・スキーム(投資詐欺の一種)である可能性が決めて高い」会社との関係を「追加情報」として伝えていました。

アクセスジャーナル
<芸能ミニ情報>第112回「ガーシー議員とエクシア合同会社」

案の定、昨日、日本テレビの取材に応じたガーシーは、帰国の意思はあるが「まだ悩んでいる」などと、発言を二転三転させているのでした。

YouTube
日テレNEWS
【ガーシー議員】“陳謝”の帰国は? 帰国の意思はあるが…

「懲役刑とかになったときに、僕からしたら意味不明になってくるんですよ。それを受けるためにわざわざ日本に帰るという選択肢を持っている人は、たぶんいないと思うんですよ」
(略)
「事情聴取されるのは全然いいんですよ。ただ、その先にパスポートを止められたり、『国会終わった後に逮捕しますよ』とかいうことをされてしまうと、俺は何のために日本に帰ったんやってなってくるんで」


ひろゆきも脱帽するような「意味不明」な屁理屈で、アッパレとしか言いようがありません。前は「身の危険があるから」帰らないと言っていましたが、途中から「逮捕されるから」に変わったのです。ただ、ガーシーが怖れているのは、やはり、「逮捕」より「身の危険」のような気がします。

■前代未聞の光景


現職の国会議員が「身の危険があるから」「逮捕されるから」帰国しないと言っているのです。それも、軍事クーデターが起きて、政敵から迫害される怖れがあるとかいう話ではないのです。

村のオキテを破ったので村八分にされるみたいな感じもなきしにしもあらずですが、だからと言って村八分にされる人間に理があるわけではないのです。参議院の採決にれいわ新選組が棄権したのも、大政党が国会を牛耳る”村八分の論理”を受け入れることができなかったからでしょうが、しかし、それは片面しか見てない”敵の敵は味方論”にすぎないように思います。

いづれにしても、「だって詐欺師だよ…」と言われるような国会議員の動向を日本中が固唾を飲んで見守っているのです。まさに”ニッポン低国”(©竹中労)と呼ぶにふさわしい前代未聞の光景と言えるでしょう。


追記:
私が見過ごしていたのか、その後アクセスジャーナルのサイトを見たら、YouTubeチャンネルでガーシー周辺の人脈について結構詳しく語っていたことがわかりました。「帰らないというより帰れないというのが真相だろう」という山岡氏の言葉が、この問題の本質を衝いているように思いました。

YouTube
アクセスジャーナルch
「不当拘束される」を理由に国会登院せず懲罰処分ガーシー議員。不当拘束は表向きでもっと危険な事が……帰国して陳謝できるのか?ついにガーシー踏み込み其の1
2023.03.01 Wed l 社会・メディア l top ▲
世界2023年3月号


ひろゆきというイデオローグ(1)からつづく

■「ひろゆき論」


社会学者の伊藤昌亮氏(成蹊大学教授)は、『世界』(岩波書店)の今月号(2023年3月号)に掲載された「ひろゆき論」で、ひろゆき(西村博之)の著書『ひろゆき流 ずるい問題解決技術』(プレゼント社)から、次のような文章を取り上げていました。

 昨今の若者は「いい大学を出たり、いい企業に入ったりして、働くのが当たり前」だという「成功パターン」から外れると、「もう社会の落伍者になってしまうから死ぬしかない」などと思い込みがちだが、しかしこうした「ダメな人」は「太古からずっといた」のだから、気に病む必要はない。むしろ「ダメをダメとして直視した」うえで、「チャンスをつかむ人」になるべきだと言う(略)。


そして、ひろゆきは、「ダメな人」でも「プログラマー」や「クリエイター」になれば、(会社員にならなくても)一人で稼ぐことができると言うのです。しかし、それは今から17年前の2006年に、梅田望夫氏が『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』で言っていたこととまったく同じです。何だか一周遅れのトップランナーのように思えなくもありません。

昨年の10月に急逝した津原泰水も、『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫)で、ITスキルを武器にしたヒッキー=ひきこもりたちの”反乱”を描いていますが、現実はそんな甘いものではありません(『ヒッキーヒッキーシェイク』のオチもそう仄めかされています)。

ネットの時代と言っても、私たちはあくまで課金されるユーザーにすぎないのです。言われるほど簡単に”あっち側”で稼ぐことができるわけではありません。ネットにおいては、金を掘る人間より金を掘る道具を売る人間の方が儲かるという箴言は否定すべくもない真理で、ひろゆきや梅田望夫氏のようなもの言いは、とっくにメッキが剥げていると言っていいでしょう。

フリーと言っても、昔の土木作業員の”一人親方”と同じで、大半は非正規雇用の臨時社員や契約社員で糊口を凌ぐしかないのです。ユーチューバーで一獲千金というのも、単なる幻想でしかありません。

もとより、ひろゆきの「チャンスを掴む」という言い方に、前述した「ずるい」「抜け道」「ラクしてうまくいく」というキーワードを当てはめれば、当然のように「楽してお金を稼ぐ」という考えに行き着かざるを得ません。極論かも知れませんが、それは、闇バイトで応募する昨今の振り込め詐欺や強盗事件の“軽さ”にも通じる考えです。そういった考えは、ひろゆきだけでなく、ホリエモン(堀江貴文)などにも共通しており、彼らの言説は、新手の“貧困ビジネス”の側面もあるような気がしてなりません。

■「戦後日本型循環モデル」


とは言え、「ダメな」彼らに、日本社会が陥った今の深刻な状況が映し出されていることもまた、事実です。

私は、『サイゾー』(2023年2・3月合併号)の「マル激トーク・オン・デマンド」にゲストで出ていた教育社会学者の本田由紀氏(東京大学大学院教授)の、次のような発言を思い出さざるを得ませんでした。

ちなみに、『サイゾー』の記事は、ネットニュース『ビデオニュース・ドットコム』の中の「マル激トーク・オン・デマンド」を加筆・再構成し改題して掲載したものです。

ビデオニュース・ドットコム
マル激トーク・オン・デマンド(第1136回)
まずは今の日本がどんな国になっているかを知るところから始めよう

本田氏は、1960年代から70年、80年代の高度経済成長期と安定成長期には、「教育」「仕事」「家族」の3つの領域の間に、「戦後日本型循環モデル」が成り立っていたと言います。

本田 (略)「教育」終えたら、高度経済成長期には新卒一括採用という世界に例がないような仕組みで順々に仕事に就くことができていました。「仕事」に就けば長期安定雇用と年功賃金が得られて、「日本型雇用慣行」などと言われていましたが、70、80、90年代はそれなりに経済が成長していたので解雇する必要もなく、企業は順々に賃金を上げることができていた。それに基づいて結婚して子どもを作ることができました。父親は上がっていく賃金を家族の主な支え手である女性たちに持って帰る。「家族」を支える女性たちはそれを消費行動に使い、家庭生活を豊かに便利にするとともに、次世代である子どもに教育の費用と意欲を強力に後ろから注ぎ込む存在でした。こういった関係性がぐるぐると成り立っていたということです。
(『サイゾー』2023年2・3月合併号・「国際比較から見る日本の“やばい”現状とその解」)


それは家族が崩壊する過程でもあったのですが、バブル崩壊でその「戦後日本型循環モデル」さえも成り立たなくなったのだと言います。

本田 (略)「仕事」は父が頑張る。「教育」は子が頑張る。「家庭」は母が頑張るといったように、それぞれの住んでいる世界が違うのです。たまに家に帰っても親密な関係性や会話が成り立ちづらいという状態が、機能としての家族の裏側にありました。
 一見すごく効率的で良いモデルのように見えるかもしれませんが、こういう一方向の循環が自己運動を始めてしまった。例えば「教育」においてはいかにも良い高校や大学、企業に入るかが自己目的化してしまい、学ぶ意味は置き去りに。「仕事」の世界でも、夫は自分が働き続けなければ妻も子どもも飢えるいう状態に置かれ、働く意味などを問うている暇はなくなりました。「家族」は先ほど見たように、父・母・子どもがそれぞれバラバラで、循環構造のひとつの歯車として埋め込まれてしまいました。
 つまり学ぶ意味も、働く意味も、人を愛する意味もすべてが失われたまま循環構造が回っていたのが、60,70,80年代の日本社会の形だったということです。変だなと思いながら、皆これ以上の生き方をイメージできず、この中でどう成功するかに駆り立てられていたというのが、バブル崩壊前の日本の形でした。しかしバブル崩壊によってこの問題含みのモデルさえ成り立たなくなり、今日に至っています。
(同上)


この本田氏の発言は、上記の「『いい大学を出たり、いい企業に入ったりして、働くのが当たり前』だという『成功パターン』から外れると、『もう社会の落伍者になってしまうから死ぬしかない』などと思い込みがちだ」というひろゆきの話とつながっているような気がしてなりません。

「学ぶ意味」も「働く意味」も「人を愛する意味」も持たないまま、「成功パターン」からも外れた人間たちが、「金が全て」という”唯物功利の惨毒”(©竹中労)の身も蓋もない価値観にすがったとしても不思議ではないでしょう。それも、楽して生きたい、楽してお金を稼ぎたいという安直に逃げたものにすぎません。

だからと言って、振り込め詐欺や強盗に走る人間はごく一部で、多くの人間は、親に寄生したり、ブラック企業の非正規の仕事に甘んじながら、負の感情をネットで吐き散らして憂さを晴らすだけです。彼らのITスキルはその程度のものなのです。誰でも、「プログラマー」や「クリエイター」になれるわけではないのです。

■非情な社会


『世界』の同じ号では、岸田政権が打ち出した「異次元の少子化対策」に関連して、「保育の貧困」という特集が組まれていましたが、保育だけでなく、、、、、もっと深刻な貧困の問題があるはずですが、左派リベラルや野党の優先順位でも上にあがって来ることはありません。何故なら、全ては「中間層を底上げする」選挙向けのアピールにすぎないからです。

総務省統計局の「2022年労働力調査」によれば、2021年の非正規雇用者数は2千101万人です。その中で、自分の都合や家計の補助や学費等のためにパートやアルバイトをしている人を除いた、「非正規雇用の仕事しかなかった」という人は210万人です。

また、内閣府の「生活状況に関する調査」によれば、2018年(平成30年)現在、満40歳~満64歳までの人口の1.45%を占める61.3万人がひきこもり状態にあるそうです。しかも、半数以上が7年以上ひきこもっているのだとか。一方、2015年(平成27年)の調査で、満15歳~満39歳の人口の1.57%に当たる54.1万人がひきこもり状態にあるという統計もあります。

厚労省が発表した「生活保護の現状」によれば、2021年(令和3年)8月現在、生活保護受給者は203万800人(164万648世帯)で、全人口に占める割合(保護率)は1.63%です。世帯別では、高齢者世帯が90万8千960世帯、傷病・障害者世帯が40万3千966世帯、母子世帯が7万1千322世帯、その他が24万8千313世帯です。

生活保護の受給資格(おおまかに言えば世帯年収が156万円以下)がありながら、実際に制度を利用している人の割合を示す捕捉率は、日本は先進国の中では著しく低く2割程度だと言われています。と言うことは、(逆算すると)およそ1千万人の人が年収156万円(月収13万円)以下で生活していることになります。

国の経済が衰退するというのは、言うなれば空気が薄くなるということで、空気が薄くなれば、体力のない人たちから倒れていくのは当然です。衰退する経済を反転させる施策も必要ですが、同時に、体力がなく息も絶え絶えの人たちに手を差し伸べるのも政治の大事な役割でしょう。しかし、もはやこの国にはそんな政治は存在しないかのようです。

ひろゆきが成田悠輔と同じような”イタい人間”であるのはたしかですが、イデオローグとしてのひろゆきもまた、政治が十全に機能しない非情な社会が生んだ“鬼っ子”のように思えてなりません。
2023.02.27 Mon l 社会・メディア l top ▲