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■10年以上通うスーパー


私がもう10年以上通っているスーパーがあります。ほぼ2日に1度のペースで通っていますが、コロナがはじまる前まではずっと変わらない日常の風景が続いていました。

開店間際に行くことが多かったのですが、店に入ると、第二の人生でアルバイトをしているとおぼしき高齢の人たちが品出しをしていました。開店してもまだ追いつかないらしく、それぞれの持ち場で台車で運ばれた箱の中から商品を出してそれを棚に並べていました。

ところが、2020年の春先、新型コロナウイルスの感染が拡大を始めると、彼らはいっせいに姿を消したのでした。みんな、感染を怖れて辞めたのだと思います。

実際にスーパーのレジ係の人たちがコロナ禍で過酷な状況に置かれていたのは事実で、店のサイトでは日々感染者が発生したことが発表されていました。

朝の品出しがいなくなったことで、開店しても、東日本大震災のときの買いだめのあとみたいに、商品棚はガラガラの状態が続きました。

レジはビニールで覆われ、レジ係の女性たちはゴム手袋をして仕事をするようになりましたが、感染は続いていました。中には結構高齢の女性もいましたが、(失礼にも)事情があって辞めたくても辞められないのかなと思ったりしました。

ところが、しばらくして、セルフレジが導入されることになったのです。そのため、1週間休業して改装が行われました。

改装後、店に行くと、数人いた高齢のレジ係の女性がいなくなったのでした。長い間通っていると、誰が社員で誰がパートかというのが大体わかるようになりますが、残ったのは若い社員ばかりです。彼女たちは、セルフレジの端でパソコンを睨みながら、不正がないか?監視するのが仕事になりました。そして、余った社員が一部に残った有人レジを交代で担当するようになったのでした。

■コロナ禍と合理化


私自身も、いつの間にかキャッシュレス生活になりました。考えてみたら、先月、銀行で現金をおろしたのは一度で、それも5千円だけでした。数年前には考えられないことです。

食事をするために店に入ろうとしても、オダギリジョーと藤岡弘が出るテレビのCMではないですが、現金払いしかできない感じだと敬遠するようになりました。そもそも財布に現金が入ってないのです。

私が行く病院はキャッシュレス決済ができないので、病院の前にある銀行のATMでお金をおろして行かなければならないのですが、会計の際、請求どおりの小銭がなくてお釣りを貰うはめになると困ったなと思うのでした。小銭を使う機会がないからです。

たまった小銭を使おう(処分しよう)と思って、スーパーのセルフレジで小銭を投入して精算しはじめたものの、要領が悪くて時間がかかっていたら、店員がやって来て「大丈夫ですか?」と言われたことがありました。

このように、コロナ禍によって私たちの社会はかつてない規模で合理化が行われ、風景が一変したのでした。キャッシュレスの便利さも、資本の回転率を上げるための合理化のひとつなのです。契約を切られたり、パートだと時間を削られたり、仕事を辞めても次の職探しに苦労したりと、便利さと引き換えに、自分の人生が血も涙もない経済合理主義に晒されることになったのです。

人出不足と言われていますが、それは若くて賃金の安い労働力が不足しているという話にすぎません。中高年が仕事を探すのは、たとえアルバイトであっても至難の業です。仮に仕事にありついても、足元を見られて学生のアルバイト以下の安い時給しか貰えません。

ハローワークに行くと、シニア向けの求職セミナーみたいなものがあるそうで、そこでは、プライドを捨ててどんな仕事でもしなさい、仕事があるだけありがたく思いなさい、それが現実なんですよ、と得々と説教されるのだと知人が言っていました。

■資本主義の本性


格差も広がる一方です。コロナ禍とウクライナ戦争による物価高でさらに格差が広がった感じです。「過去最高の賃上げ」も、見方を変えれば格差拡大の要因になっています。

最近「全世代型社会保障改革」という言葉を耳にするようになりましたが、それが、岸田政権の目玉である異次元の少子化対策の財源をどうするかという、これからはじまる議論の叩き台です。しかし、最初から結論(方針)は決まっているのです。ターゲットになるのは高齢者の社会保障費です。既に高齢者の医療費の自己負担が増えており、方針が先取りされているのでした。高齢者においては、受益者負担の原則と称して、10万円にも満たない年金の中から月に1万数千円の介護保険料が天引きされるような現実があることを現役世代は知らすぎるのです。

パンデミックとウクライナ戦争をきっかけに、世界地図が大きく塗り替えられるのは間違いなく、当然私たちの生活も変わっていかざるを得ないでしょう。今のかつてないほどの異常な物価高はその前兆だと言えます。

多極化により、政治だけでなく経済の重心が新興国に移っていくことによって、今までドル本位性で守られてきた先進国は、アメリカの凋落とともに先進国の座から滑り落ちていくのです。貧しくなることはあっても、もう豊かになることはないでしょう。既に1千万人の人々が年収156万円の生活保護の基準以下で生活している現実がありますが、そういう人たちはもっと増えていくでしょう。若いときはそれなりに生活できても、年を取れば若いときには想像もできなかったような過酷な日々を送らなければならないのです。今はいつまでも今ではないのです。

新型コロナウイルスを奇貨に、資本主義がその非情で横暴な本性をむき出しにしていると言っても過言ではないのです。

■明日の自分の姿


若いときの貧乏はまだしも苦労で済まされることができますが、老後の貧困は悲惨以外のなにものでもありません。

私は、以前、山手線の某駅の近くにあるアパートで、訪問介護を受けて生活している一人暮らしの老人を訪ねたことがありました。韓国料理店などが並ぶ賑やかな表通りから、「立小便禁止」などと貼り紙がされた路地を入っていくと、その突き当りに、数軒のアパートが身を寄せ合うように建っている一角がありました。それらは、私たちが学生時代に住んでいたような木造の下駄履きアパートでした。

そのうちのひとつは、1階が普通の家で2階がアパートになっていました。おそらく1階は大家さんの家なのだろうと思います。しかし、1階は昼間なのに雨戸が閉まったままで、家のまわりも雑草が生い茂っており、どうやら誰も住んでいるないような感じでした。念の為、声をかけましたが、やはり返事はありませんでした。

それで建物の横にまわり、アパートの入口らしき戸を開けると、中に履物が乱雑に入れられた下駄箱がありました。それを見て、アパートにはまだ人が住んでいることが確認できたのでした。と言っても、建物の中は物音ひとつせず、気味が悪いほどひっそりとしていました。靴を脱いで階段を上がると、薄暗い廊下にドアが並んでいましたが、どこにも部屋番号が書いてないのです。それで適当にドアをノックしてみました。すると、その中のひとつから「はい」という返事があり、どてらを着た老人が出て来ました。訪問予定の人の名前を告げると、「ああ、〇〇さんは隣のアパートですよ」と言われました。

でも、隣のアパートも人気ひとけがなく、人が住んでいるようには思えない雰囲気でした。「あそこは人が住んでいるのですか?」と訊きました。すると、「ええ、住んでいますよ。二階に上がってすぐの部屋です」「最近見てないけど、一人では歩けないので部屋にいるはずですよ」と言われました。

お礼を言って、教えられた部屋に行くと、部屋の前に車椅子が置いていました。あの狭い階段をどうやって下ろすんだろうと思いました。ドアをノックすると中から返事があり、言われたとおりドアノブをまわすとドアが開きました。どうやら鍵をかけてないようです。中に入ると、裸電球の灯りの下、頬がこけ寝巻の間からあばら骨が覗いた老人がベットに横たわっていました。部屋は足の踏み場もないほど散らかっており、飯台の上には書類らしきものに混ざって薬や小銭が散乱していました。こんなところに通って来るヘルパーの人も大変だなと思いました。一方で、目の前の老人の姿に、すごく身につまされるような気持になりました。

後日、福祉の担当者にその話をすると、「可哀そうだけど、都内はどこもいっぱいで入る施設がないんですよ」と言っていました。特に単身者の場合、都内23区の福祉事務所が担当していても、群馬や栃木や茨城などの施設や病院に入ってそこで人生を終えるケースも多いそうです。担当者の話を聞きながら、他人事ひとごとではないな、もしかしたらそれは明日の自分の姿かもしれない、と思ったのでした。

それから半年も経たないうちに、訪ねた老人が亡くなったことを知りました。さらに数年後、再開発でアパートは壊され、跡地にマンションが建てられたそうです。そうやって老人が数十年暮らした記憶の積層は、跡形もなく消し去られたのでした。


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2023.03.31 Fri l 社会・メディア l top ▲
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■ショーケン


横浜に住んで15年以上になりますが、昨日、初めて鶴見の総持寺に行きました。

もう10年以上も前ですが、フジテレビで萩原健一に密着したドキュメンタリーが放送されたことがありました。

晩年は都内に引っ越したみたいですが、ショーケンは長い間、鶴見区の寺尾というところに住んでいて、早朝から散歩に出かけて、途中、総持寺にお参りするのが日課になっているとかで、本堂で懸命に手を合わせて念仏を唱えているシーンがありました。2019年に亡くなったときも、葬儀は鶴見で行われたそうです。

私がショーケンが出た映画で印象に残っているのは、神代辰巳の「青春の蹉跌」(1974年)と深作欣二監督の「いつかギラギラする日」(1992年)です。「青春の蹉跌」は、新宿の今はなき日勝地下だったかで観た記憶があります。あの頃は人生の難題が重なってホントに苦しんでいました。血を吐いたこともありました。

総持寺は歩くて行くにはちょっと遠すぎるので、バスで行きました。

鶴見行のバスに乗ったのも二度目ですが、昔の狭いクネクネ道がバイパスに変わっていました。前にバスに乗ったときもこのブログに書いていたので調べたら、2010年の8月でした。13年振りに鶴見行のバスに乗ったのです。

■曹洞宗の大本山


終点の「鶴見駅」の一つ手前の「総持寺前」で降りましたが、バス停の前には歯学部で有名な鶴見大学の建物がありました。

実は、鶴見大学も総持寺が運営しているのです。総持寺は、「総持学園」という学校法人を持っており、傘下には鶴見大学だけでなく、短期大学や中学や高校、幼稚園もあるそうです。

参道の両側に大学の校舎があるので、参道を山門に向かって歩いていると、前から鶴見大学の学生がひっきりなしにやって来るのでした。春休みでそれなのですから、学校がはじまれば参道は学生で埋まるのでしょう。

総持寺は、曹洞宗の大本山の寺です。曹洞宗では「総本山」とは言わないみたいです。また、曹洞宗には大本山が二つあり、もう一つは福井県にある永平寺だそうです。曹洞宗の開祖は道元ですが、道元が祀られているのが永平寺で、総持寺で祀られているのは、4代目の祖である鎌倉時代の禅師の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)だそうです。

山門(総門)の三松関(さんしょうかん)をくぐり、さらに両側に金剛力士像が睨みをきかす三門(さんもん)をくぐると、まず目に飛び込んで来たのが広大な境内に配置された伽藍堂とそのまわりを囲む桜の木でした。

いつくかの門をくぐって坂道を登ると、正面に仏殿(本殿)が見えてきました。ただ、本殿のまわりは工事中で、袈裟を来た僧侶たちが首からカメラを提げて工事の模様を撮影していました。

また、本殿の中に入ると、修行中なのか、5~6人の僧侶が一列に並んで、古参の僧侶から所作の指導を受けていました。

本殿に行く途中に「受付」という看板が立てられた香積台(こうしょだい)という建物があり、お土産などを売っているのですが、その中に事務所みたいなのがあって、丸坊主で袈裟を来た坊さんがパソコンを打ったり電話をしたりと、事務作業を行っていました。何だか奇妙な光景でした。

総持寺のあとは鶴見駅まで歩いて、横浜駅に行こうと京浜東北線に乗ったのですが、途中で気が変わって東神奈川駅で下車して横浜線に乗り換えて、菊名から東横線で帰りました。駅を出たら、ちょうど雨が降りはじめたので、自分の選択が間違ってなかったんだと思って、ちょっと誇らしいような気持になりました。人間というのはそんなものです。


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三松関

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香積台

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百間廊下

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仏殿(本殿)

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本堂

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白く映っているのは、舞い散る花びらです。
2023.03.30 Thu l 横浜 l top ▲
中国国旗


次のようなニュースが飛び込んで来ました。

Yahoo!ニュース
テレ朝NEWS
「彼と会う準備ができている」ゼレンスキー大統領 習近平氏のウクライナ訪問要請

ゼレンスキーの真意がどこにあるのか、今ひとつはかりかねますが、仮に中国主導で和平が実現すれば、世界がひっくり返るでしょう。もちろん、今まで軍事支援をしてきた欧米の反発は必至でしょうから、そう簡単な話でないことは言うまでもありません。

■軍事支援によるNATO軍の参戦


ドイツのキール世界経済研究所によれば、侵攻後、欧米各国が表明したウクライナへの支援額は、2月の段階で約622億ユーロ(約8兆9200億円)に上るそうです(産経新聞より)。ウクライナ戦争が「西側兵器の実験場」になっている(CNN)という声もあるようですが、軍事支援は当初の砲弾や携行型対空ミサイルから、最近は戦車や戦闘機を供与するまでエスレートしているのでした。戦車や戦闘機の供与は、実戦向けにウクライナ兵を訓練しなければならないため、実質的にNATO軍の参戦を意味すると言われています。ポーランドなどNATOの加盟国で訓練するそうですが、中には軍事顧問として前線で指導する兵士も出て来るでしょう。というか、既に多くのNATO軍兵士がドローンの操縦などで参戦しており、それは公然の秘密だと言われているのです。

イギリスが劣化ウラン弾の供与を発表したことに対抗して、ロシアがベラルーシに戦術核兵器を配備すると発表するなど、まるでロシアンルーレットのような戦争ゲームが行われています。

それはウクライナだけではありません。北朝鮮が米韓軍事演習に対抗して巡行ミサイルを日本海に発射すれば、さらに米韓が北朝鮮上陸を想定した演習を行なったり、台湾では野党・国民党の馬英九前総統が中国を訪問すれば、与党・民進党の蔡英文総統が中米歴訪に出発するなど、世界は対立と分断が進み、きな臭くなるばかりです。

■民衆蜂起の時代


誰でもいいから、、、、、、、この状況を止めなければならないのです。頭から水をかける第三者が必要なのです。仮に中国が和平の仲介に成功すれば、今の状況が一変するでしょう。「中国の思う壺」であろうが何だろうが、それは二義的な問題です。

日本のメディアや識者が戦時の言葉でウクライナ戦争を語るのを見るにつけ、彼らに戦争反対を求めるのはどだい無理な相談だということがよくわかります。中国の仲介に一縷の望みを託すというのはたしかに異常ですが、今の状況はそれくらい異常だということなのです。

一方で、笠井潔が21世紀は民衆蜂起の時代だと言ったように、世界各地で民衆の叛乱がはじまっています。フランスの年金改革に反対するゼネストでも、赤旗に交じってチェ・ゲバラの旗を掲げてデモしている映像がありましたが、背景に物価高を招いたウクライナ戦争の対応に対する反発があるのはあきらかです。欧州において、左派だけでなく極右が伸長しているのも同じです。右か左かなんて関係ないのです。

先週、ベルギーのブリュッセルで開かれたG7とNATOとEUの首脳会議に対しても、反NATOの大規模な抗議デモが起こったと報じられました。しかし、反戦を訴える人々の声は、ウクライナを支援する各国政府に封殺されているのが現状です。

そんな中で、ウクライナ和平において、中国がその存在感を示すことにできれば、間違いなく世界史の書き換えが行われるでしょう。

既に中南米は大半の国に反米の左派政権が誕生していますが、多極化に合わせて、世界の主軸が欧米からBRICsを中心とした新興国へと移っていくのは間違いありません。富を独占する欧米に対して、ドルとは別の経済圏を広げている新興国が、俺たちにも寄越せと言いはじめているのです。欧米式の資本主義や民主主義の矛盾が噴出して、地殻変動が起きているのです。もしかしたら、ウクライナ戦争がそのターニングポイントだったと、のちの歴史の教科書に記されるかもしれないのです。
2023.03.29 Wed l 社会・メディア l top ▲
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■相鉄・東急 新横浜線


最近はよく散歩をしています。先週の土曜日は新横浜まで歩いて、新横浜駅から隣の新綱島駅まで、開通したばかりの「相鉄・東急 新横浜線」に乗りました。

新綱島駅は、東横線の綱島駅とは綱島街道をはさんだ反対側に新しくできた駅です。尚、東横線と接続するのは、綱島の隣の日吉駅です。

新綱島駅の出口の横には、さっそくタワーマンションの建設がはじまっていました。こうやって開発から取り残された二束三文(?)の土地が、数十倍にもそれ以上にも化けるのです。そういった現代の錬金術を可能にするのが道路と鉄道です。

駅のすぐ近くに鶴見川が流れているので、土手の上の遊歩道を歩きました。対岸の大倉山(実際は大曽根)側には桜の木が植えられているので、その下では花見をする人たちが大勢いました。

中にはテントを張っている人たちもいました。最近は鶴見川の土手をよく歩いているのですが、平日でも大倉山や新横浜の土手下にテントを張っているのを見かけます。奥多摩ではコロナをきっかけに登山客がめっきり減ったそうですが、その代わりキャンプ場は盛況だそうです。今はタムパやコスパの時代にふさわしく、ハアハア息をきらして山に登るのではなく、山の下で遊ぶのがトレンドなのです。

土曜日の歩数は1万7千歩でした。さすがに1万歩を超えると膝に痛みが出て来ますが、ただ痛み止めの薬を飲んでサポーターをすればそれほどではありません。1万歩くらいだとほとんど痛みもありません。と言っても、こわばりのようなものはまだ残っています。

■環状2号線


今日は、環状2号線を歩いて鶴見にある県営三ツ池公園まで歩きました。

三ツ池公園は二度目で、前に行ったときもこのブログに書いた覚えがあるので調べたら、2008年の1月でした。昨日のことのように記憶は鮮明なのですが、15年前だったのです。

当時と同じコースを歩きましたが、まわりの風景もほとんど変わっていませんでした。三ツ池公園も、もちろん当時のままです。あらためて月日が経つのははやいなとしみじみ思いました。そう思う気持の中には、哀しみというかせつなさのようなものもありました。

■大分のから揚げ


途中に「大分からあげ」という登りを立てた弁当屋があったので、から揚げ弁当を買って、それを持って三ツ池公園に行きました。

三ツ池公園は広大な敷地の中に、名前のとおり三つの池があるのですが、他にレストハウスもあるし、テニスコートや野球のグランドやプールもあります。また、さまざまな名前が付けられた広場は7つもあります。

平日にもかかわらず花見客で賑わっており、駐車場の入口は車が列を作っていたほどです。レストハウスの近くには、数台のキッチンカーも出ていました。

池のまわりを歩いたあと高台に登り、一人で花見をしました。弁当の中に入っていたから揚げは、案の定、大分のものとは違っていましたが、でもそれはそれで美味しいから揚げでした。

私の田舎は平成の大合併で隣の市と合併したのですが、前に田舎に帰ったとき、用事があって隣町の市役所の本庁に行ったら、そこでたまたま幼馴染に会って一緒に昼食に行ったことがありました。幼馴染は、「××ちゃん(私の名前)はから揚げが好きだったよな。○○に行こうよ」と言われて、子どもの頃、私の田舎にも支店があったから揚げ専門店の本店に行ったのでした。

「大分からあげ」と言うと、東京では県北にある中津のから揚げが代名詞みたいに言われていますが、中津にから揚げがあるというのは東京に来て初めて知りました。地元では養鶏場直営で昔からある田舎の店の方が知られており、今は「大分からあげ」の店として大分駅にも出店するまでになっているのです。

久住くじゅうの山もそうですが、私たちの田舎は人が好いのか、それとも商売っ気がないのか、他の自治体に先に越されて(いいとこどりされて)後塵を拝するようなことが多いのです。久住連山だけでなく、祖母山も私たちの田舎(市)にありますが、祖母山なんてまったく関係ないよその山みたいなイメージさえあるのでした。

■上野千鶴子


高台の見晴らしのいい場所で弁当を食べていたら、無性に山に行きたくなりました。人のいない山に登って、山頂で一人の時間を過ごしたいなと思いました。山に行くと、やっぱり一人がいいなあと思うのでした。やはり、私は、(クマが怖いけど)誰もいない山を一人で歩くのが好きです。ただ、足が痛いと充分楽しむことができず、特に下山がつらくて時間もかかるので、それで億劫になって遠ざかっているのでした。

山と言えば、『山と渓谷』の最新号を見ていたら、上野千鶴子が今度連載をはじめるそうで、どうして上野千鶴子がヤマケイにと思ったら、彼女は京大のワンダーフォーゲル部の出身なのだそうです。当時、女子の部員は彼女だけだったとか。山岳部だと親が反対するので、親の目をごまかすためにワンダーフォーゲル部に入ったと書いていました。

私は、上野千鶴子の本はわりとよく読んでいますが、ただ首都高をBMWで走るのが趣味だと聞いて、”嫌味な人間”というイメージがありました。ところが、彼女がBMWで首都高を走っていたのは、ルーレット族のようなことをしていたからではなかったのです。八ヶ岳にある歴史家の色川大吉氏の元へ通うためだったのです。

色川大吉氏は、「五日市憲法草案」の発掘などで知られる民衆史の碩学で、私は若い頃、色川氏の講義を聴くために、氏が勤務していた東京経済大学にもぐりで通ったこともあるくらいです。色川氏が秩父事件の背景になった奥多摩や秩父の自由民権運動を研究するようになったのも、山が好きだったからではないのか。二人を結び付けたのも山だったのではないか、と勝手に想像したのでした。

日本を代表するフェミニストの”不倫の恋”、日本のゲスを代弁する週刊文春では「略奪愛」のように言われていますが、現金なもので、私はその記事を見て、逆に上野千鶴子に対する”嫌味な人間”のイメージがなくなったのでした。

帰ってスマホのアプリを見たら、往復で13キロ、1万9千467歩でした。だったら少し遠回りして2万歩にすればよかったなと思いました。


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2023.03.27 Mon l 横浜 l top ▲
2035年の世界地図


■「非平等主義的潜在意識」


前の記事の続きになりますが、「失われる民主主義 破壊する資本主義」という副題が付いた、朝日新書の『2035年の世界地図』(朝日新聞出版)の中で、フランスの歴史学者のエマニュエル・トッドは、今の社会で起きているのは、「一種の超個人主義の出現と社会の細分化」だと言っていました。

識字率の向上と「教育の階層化」による「非平等主義的潜在意識」によって、共同体の感覚が破壊され、社会の分断が進むと言うのです。

 かつてほとんどが読み書きできるが他のことは知らない。ごく少数のエリート層を除けば人々は平等でした。
 しかし今では、おそらく国にもよりますが、おそらく30%の人びとが何らかの高等教育を受けています。これに対して、20~30%の人々は基本的な読み書きができる程度、つまり、初等教育のレベルで止まっています。
 この教育の階層化は、不平等の感覚を伴います。社会構造の最上部と底辺では、人びとは同じではない、という感覚です。
(『2035年の世界地図』・エマニュエル・トッド「まもなく民主主義が寿命を迎える」)
※以下引用同じ


これが「非平等主義的潜在意識」だと言うのでした。

■日の丸半導体


米中対立によって、中国に依存したサプライチェーンから脱却するために、国際分業のシステムを見直す動きがありますが、ホントにそんなことができるのか疑問です。

日本でも「日の丸半導体」の復活をめざして、トヨタ・ソニー・NTTなど国内企業8社が出資した新会社が作られ、北海道千歳市での新工場建設が発表されましたが、軌道に乗せるためには課題も山積していると言われています。

2027年までに2ナノメートルの最先端の半導体の生産開始を目指しているそうですが、半導体生産から撤退して既に10年が経っているため、今の日本には技術者がほとんどいないと言うのです。

さらに、順調に稼働するためには、5兆円という途方もない資金が必要になり、政府からの700億円の補助金を合わせても、そんな資金がホントに用意できるのかという疑問もあるそうです。

また、工場を維持するためには、台湾などを向こうにまわして、世界的な半導体企業と受託生産の契約を取らなければならないのですが、今からそんなことが可能なのかという懸念もあるそうです。

■グローバル化がもたらした現実


エマニュエル・トッドは、「グローバル化がもらたした現実」について、次のように指摘していました。

(略)世界の労働者階級の多くは中国にいます。今、世界の労働者階級のおそらく25%は中国にいます。ブローバル化の中で国際分業が進み、世界の生産を担っているのは、中国の人々なのです。
 もう一つの大きな部分はインドなどです。欧米や日本といった先進国の経済は、工業(に伴う生産活動)から脱却し、サービスや研究などに従事しています。この構造から抜け出せないでしょう。先進国の国民は労働者として生産の現場に戻れるでしょうか。
(略)
 私たちは、「それはできますか?」と問われています。「サービス産業社会から工業社会に戻ることはできますか?」と。
 第三次産業にふさわしい教育を受けた労働者を製造現場の労働者階級に変えることはできますか? 我々には分かりません。いや残念ながら知っています。これが不可能であることを。


つまり、時間を元に戻すことはできないということです。私たち個人のレベルで言えば、現代は「超個人主義の出現」と「社会の細分化」の時代であり、それは歴史の流れだということです。

■国民国家の溶解


少子化も巷間言われているようなことが要因ではなく、言うなれば歴史の必然なのです。第三次産業社会や「超個人主義」や国民国家の溶解は、「グローバル化がもたらした現実」なのです。少子化もそのひとつです。パンデミックやウクライナ戦争によって、たしかに国家が大きくせり出すようになり、国際会議に出席する各国の首脳たちも、スーツの襟にみずからの国の国旗のバッチを付けるような光景が多くなりましたが、それはマルクスの言う「二度目の喜劇」にすぎないのです。

劣化ウラン弾や戦闘機まで提供するという欧米の軍事支援に対抗して、ロシアがベラルーシに戦術核を配備することに合意したというニュースがありましたが、バイデン政権はまるでロシアが核を使用するまで追い込んでいこうとしているかのようです。

何度も言いますが、どっちが正しいかとかどっちが勝つかという話ではないのです。核戦争を阻止するためにも、恩讐を越えて和平の道を探るべきなのです(探らなければならないのです)。岸田首相の「必勝しゃもじ」のお土産は、アホの極みとしか言いようがありません。いくらバイデンのイエスマンでも、ここまで来ると神経を疑いたくなります。

それは、“台湾危機”も同じです。今のようにサプライチェーンから中国を排除する動きが進めば、中国はホントに半導体の一大生産地である台湾に侵攻するでしょう。バイデン政権は、ここでも中国を追い込もうとしているように思えてなりません。誰が戦争を欲しているのかを考える必要があるのです。

中国に関して、エマニュエル・トッドは、次のように言っていました。

(略)中国の文化と革命の伝統として、平等主義の要素があります。もう一方で、高等教育を受けた人々が増えています。中産階級と呼ばれる層です。この階層の比率が共産主義崩壊直前のソ連と同じ水準に達しようとしているのです。


ゼロコロナ政策に抗議する学生たちの白紙運動を思い浮かべると、中国も国民国家の溶解とは無縁ではないことがわかります。中国もまた、2050年頃から少子高齢化に転じると予測されているのです。

工業社会に戻ることができないように、伝統的な家族像を基礎単位とした社会に戻すことなどできないのです。社会のあり様が変われば、人々の生き方や人生のあり様が変わるのは当然です。エマニュエル・トッドが言うように、グローバル化はもはや避けられないのです。そして、国民国家の溶解が進めば、資本主義や民主主義が変容を迫られるのも当然です。もとより、今の資本主義や民主主義も、パンデミックやウクライナ戦争によって、とっくに有効期限が切れていたことがあきらかになったのでした。

■これからの社会


一方で、どんな新しい時代が訪れるのかはまだ不透明です。『2035年の世界地図』もタイトルが示すとおり、この「全世界を襲った地殻変動」のあとにどんな未来があるのかを論じた本ですが、エマニュエル・トッド以外は、「新しい啓蒙」(マルクス・ガブリエル)とか「命の経済」(ジャック・アタリ)とか「資本主義を信じる」(ブランコ・ミラノビッチ)とか、まるでお題目を唱えるような観念的な(希望的観測の)言葉を並べるだけで愕然としました。国家主義や全体主義という「二度目の喜劇」の先を描く言葉を彼らは持ってないのです。

エマニュエル・トッドは、ヨーロッパで伸長している極右政党について、彼らは労働者階級や低学歴者を代表(代弁)しているのであり、「強い排外的傾向を持っているからと言って、民主主義の担い手として失格にできません」と言っていましたが、これからの社会を考える上ではそういった視点が大事ではないかと思いました。右か左かではなく上か下かなのです。
2023.03.26 Sun l 社会・メディア l top ▲
篠田麻里子Twitter
(本人のツイッターより)


■ゲスな感情


私は、タレントの篠田麻里子に関しては、AKB48の元メンバーだったくらいの知識しかありません。もちろん、ファンでも何でもありません。

しかし、昨日、篠田麻里子が離婚したとかで、Yahoo!のトップページがそのニュースで埋まっていたのでびっくりしました。

見出しは次のようなものでした。

週刊女性
【篠田麻里子が離婚】「目的は子どもではなくカネ」元夫が送りつけていた“8000万円脅迫メール”

FLASH
篠田麻里子、離婚発表に同情の声が少ない理由「いつ結婚するの?」「にんにくちゃん」上から目線の過去発言

ディリースポーツ
篠田麻里子が離婚 連名で「夫婦間の問題、無事に解決」夫「麻里子を信じる」

東スポWEB
篠田麻里子の離婚発表で「ベストマザー賞」トレンド入り 受賞者〝離婚率高い説〟は本当か

NEWポストセブン
《離婚発表》元夫はなぜ篠田麻里子の「言葉を信じる」ことになったのか 不倫疑惑に「悪いことはしていない」

文春オンライン
【離婚発表】元AKB篠田麻里子(36)の夫が篠田の“不倫相手”を訴えた!「不貞行為の物証も揃っている」《夫は直撃に「訴訟に関しては間違いない」と…》

読者の需要があるからでしょうが、タレントとは言え、他人ひと様の離婚にこんなに興味があるのかと思いました。しかも、記事は出所不明な情報を根拠にした、悪意に満ちたものばかりです。

出会って2週間で結婚したものの、すれ違いが生じた上に別居。離婚調停中に妻に不倫疑惑が持ち上がり、夫が妻の相手を被告として、「不貞行為」をあきらかにする民事訴訟を起こして「泥沼の不倫訴訟」に発展した、というのがおおまかな流れのようです。ところが、相手を訴えていた夫が「(妻を)信じる」と態度を一変して、急転直下、離婚が成立したのでした。でも、芸能マスコミやネットのデバガメたちにはそれが気に食わないようです。

もちろん、本人は否定していますが、彼らは、なにがなんでも不倫したことにしなければ気が済まない、でなければ話が成り立たないとでも言いたげです。

要するに、訴訟を起こした夫の人間性や思惑などは関係なく、ただ篠田麻里子を夫以外の男と寝た“ふしだらな女”にすることだけが目的のように見えて仕方ありません。夫が不倫だと言えば、それが一人歩きしてバッシングが始まったのです。

しかも、いくらバッシングされても表に出る篠田麻里子の写真や映像はいつもニコニコしているものばかりなので、さらに反発を招いてバッシングがエスカレートしていったような感じさえあるのでした。世間にツラを晒す仕事をしている芸能人が、カメラの前で愛想笑いを浮かべるのは当然ですが、それさえ「図太い神経の持ち主」みたいに言われバッシングの材料にされるのでした。また、中には、WBC優勝の翌日に離婚発表したことで、篠田麻里子は「つくづく空気が読めない」と批判している写真週刊誌までありました。

不倫=“ふしだらな女”というイメージの前では、かように何から何まで坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式に言いがかりの対象にされるのでした。芸能マスコミでは、不倫は向かうところ敵なしの絶対的な”悪”なのです。しかも、その多くは女性の問題とされ、叩かれるのはもっぱら女性です。

■我慢料


異次元の少子化対策などがその典型ですが、政府の発想は相も変わらず家や家族が中心です。保守的な政治家や多くの宗教団体が、旧統一教会と同じように伝統的な家族像にこだわり、LGBTを激しく拒否し嫌悪するのも、結婚して子どもを産む家族を社会の基礎単位と考える思想を墨守しているからでしょう。そして、それが戦前を美化するような「日本を愛する」思想へと架橋されているのでした。

でも、工業社会からポスト工業社会、サービス(第三次)産業中心の社会に移行する過程では、家族ではなく個人が基礎単位になるのは必然と言っていいのです。農耕社会では、家父長制の大家族主義でしたが、工業社会になり、農家の次男や三男が都会に働きに出るようになって核家族化が始まりました。さらに、ポスト工業社会になり働き方が多様化するのに伴い、家族より個人の価値観が優先される時代になったのです。吉本隆明も言っていたように、第三次産業に従事する労働者の割合が50%を超えた社会では、労働の概念や労働者の意識が大きく変わるのは当然なのです。「存在は意識を決定する」というのはマルクスの有名な言葉ですが、社会の構造や労働の形態は、個人の生き方や家族のあり方にも影響を与え、変化を強いるのです。

当然、結婚や恋愛のあり様も変わっていきます。個人より家の意志が優先されるお見合い結婚や出会い結婚から、職場や学校といった一定の属性下にある”場”が介在する恋愛を経て、現代では個々のマッチングアプリを使ったダイレクトな出会いが当たり前のようになりました。そんな個の時代に、家を守る女性は貞操でなければならないとでも言いたげな不倫=“ふしだらな女”というイメージは、きわめて差別的で抑圧的で反動的な「俗情との結託」(©大西巨人)と言わざるを得ません。(前も書きましたが)仕事を持った女性の過半が婚外性交渉=不倫の経験があるという統計もあるくらいで、既に不倫なんかどこ吹く風のような人たちも多いのです。というか、不倫という言葉は、現実には死語になっており、週刊誌やテレビのワイドショーの中だけで生きながらえていると言っても過言ではないのです。

会社に勤めていた若い頃、文句ばかり言う私は、上司から「いいか、サラリーマンにとって給料は我慢料なんだぞ。我慢することも仕事なんだ」と言われたことがありましたが、異次元の少子化対策で実施される様々な子育て支援なるものも、考えようによっては、アナクロな家族単位の社会を維持するための「我慢料」のようなものと言えるのかもしれません。そして、その延長上に、新しい時代の自由に対する怖れや反動として、篠田麻里子を叩く“ゲスな感情”があるように思えてなりません。そこにもまた、本来フィクションでしかないのに、差別と排除の力学によって仮構される”市民としての日常性”の本質が露呈していると言っていいでしょう。
2023.03.24 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
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(イラストAC)


■WBCがトップニュース


WBCの準決勝の日本対メキシコ戦が、日本時間の今日(21日)、アメリカ・フロリダ州のローンデポ・パークで行われ、ロッテの佐々木朗希投手が先発ピッチャーに予定されているそうです。

テレビの悪ノリはエスカレートする一方で、報道番組でも、国会審議やウクライナ情勢やアメリカの”金融危機”や中ロ会談を押さえて、WBC関連のどうでもいいようなニュースがトップになっているのでした。

ウクライナ和平の仲介を買って出た中国の習近平主席は、昨日、3日間の予定でロシアを訪問しプーチン大統領と会談しました。初日の非公式会談で習主席は、「ロシアとともに『本当の多国間主義を堅持し、世界の多極化と国際関係の民主化を推進」すると強調」(産経新聞より)したそうです。

「民主化」は悪い冗談ですが、これは、アメリカの没落に伴い世界が多極化する中で、中国がその間隙をぬって300年振りに覇権国家として世界史の中心に復帰するという、歴史の転換を象徴する発言と言っていいものです。

既に中国とロシアは、BRICSや上海機構などを使ってドルの基軸体制から脱却した、新たな(多極型の)通貨体制の構築を進めていますが、欧米の金融危機が顕在化したことで、それがいっそう加速されているのでした。世界の多極化は、私のような人間でさえ2008年のリーマンショックのときから言い続けていることです。アメリカが唯一の超大国の座から転落して、世界は間違いなく多極化する。アジアの盟主は中国になる。面従腹背であれ何であれ(好きか嫌いかなど関係なく)、”東アジア経済共同体”のような協調路線に転換しない限り、日本は生き残れないと。手前味噌ですが、それがいっそう鮮明になっているのでした。

歴史は大きく変わろうとしているのです。中国によるウクライナ和平の仲介もその脈絡で考えるべきなのです。しかし、日本のメディアでは、それよりも東松山のヌーバー・フィーバーの方が優先されるのでした。

■70歳以上に際立つ人気


そんな中で、やっぱりと思ったのが下記の記事でした。

Yahoo!ニュース(個人)
侍ジャパンに岩手県と高齢者が大フィーバー!~大谷翔平・佐々木朗希・村上宗隆らの活躍に熱視線!~

次世代メディア研究所代表でメディアアナリストの鈴木祐司氏は、日本戦の過去5試合の視聴率が軒並み40%を超えたというビデオリサーチの「世帯視聴率」とともに、次のような「興味深いデータ」も取り上げていました。

特定層別視聴率を測定するスイッチメディアや、都道府県だけでなく市町村別視聴率を割り出しているインテージによれば、70歳以上の高齢者が格別に盛り上がっており、地域では岩手県の視聴率が傑出している。


具体的に世代別の視聴率を見ると、まずZ世代(25歳以下)は、「10%に届かないほど低」く、「この世代では、野球に興味のある人がかなり少ないようだ」と書いていました。また、コア層(13~49歳)も、「個人全体と比べると5%以上低い」そうです。

つまり、WBC人気を支えているのは、50歳以上の中高年なのです。中でも、70歳以上が際立って多いのだと。

50~60代は個人全体より7~8%高い。そして70歳以上に至っては個人全体の倍近い。やはり野球は高齢者に支えられているスポーツだ。



WBC日本戦の特定層別視聴率
(上記記事より)


地域別でも、東京は低くて、大谷や佐々木朗希の地元を中心にして、地方の方が圧倒的に高いのだそうです。

関東地区も比較的低く、熊本県をはじめとする南九州が高い。そして北海道や岩手県を頂点に、東北が高くなった。


メディアが言うように、日本中が歓喜に沸いているわけではないのです。昼間のワイドショーでも、電波芸者コメンテーターたちが見ていて恥ずかしくなるような俄かファンぶりをさらけ出しはしゃぎまくっていますが、当然ながらそんな光景を醒めた目で見ている人たちも多いのです。

でも、今の翼賛的な報道の下では、そう言うと、侍ニッポンに水をかけるとんでもない暴言だとして、非国民扱いされかねない雰囲気です。90年前だったら、鉈や斧で襲われたかもしれません。

ヤフコメもWBCでフィーバー(笑)していますが、あの世界の一大事みたいなコメントを投稿しているのも、野球ファンのおっさんたちなのかもしれません。ヤフコメにヘイトな書き込みをしているのは、ネトウヨ化した中高年が多いと言われていますが、合点がいったように思いました。

Yahoo!のトップページに、「韓国が日本に負けて屈辱を味わっている、ざまあ」みたいな記事が多いのも、ヤフコメのコアな層である中高年をさらに煽るために、ネットの守銭奴が意図的に掲載しているのかもしれません。

■テレビ局の切羽詰まった事情


今や野球は、(過去の遺物とは言わないけど)中高年に愛される昔のスポーツなのです。若者のテレビ離れが言われて久しいですが、地上波の視聴者も今は中高年がメインで、中高年向けのコンテンツが必須と言われています。かつての「テレビっ子」がもう中高年のおっさんになったわけですが、それは、プロ野球が国民的人気を博した、”野球の黄金時代”とちょうど重なっているのでした。

そう考えると、WBCをここぞとばかりに(まるで戦争報道のように)煽りに煽りまくって熱狂を演出する、テレビ局の切羽詰まった事情もわからないでもないのです。ただ、「WBC1」(下記の関連記事参照)に足元を見られて放映権料が高騰しているため、40%以上の高視聴率を叩き出しても営業的には赤字なのだそうで、次回の中継はないのではないか(無理ではないか)と言われているのでした。

もっとも、国際大会と言っても、営利を目的とする会社が主催する(サッカーの)カップ戦を真似た興行にすぎないので、次回開催されるかどうか不透明だという声があるくらいです。そもそも各国のリーグ戦が始まる前に「世界一」を決めるというのはお笑いでしかなく、言うなれば、選手たちは、キャンプの合間に、MLBと選手会が共同で作った会社が主催する資金集めのイベントに駆り出されているようなものです。それで、「いざ決戦へ」「世界一奪還」「歴史を塗り替える」などと言われても、鼻白むしかないのです。

と言っても、今のご時世では、それってあなたの意見、感想ですよね、と言われるのがオチなのでしょう。


関連記事:
WBCのバカバカしさ
2023.03.21 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
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(イラストAC)


ガーシーは”三度目の炎上”の只中にある、と書いていた記事がありました。SNSの世界は、タイムラインのような時間軸の中にあるので、人々の関心も次々と移っていきます。そのため、炎上させてしばしの間、関心を繋ぎ止めておくしかないのです。

”三度目の炎上”とは、言うまでもなく除名から逮捕状発付に至る今の局面を指しているのでしょう。

そこでさっそく、ガーシー大好きな八っつぁん&熊さんのかけあいがはじまりました。

■チキンな性格


 何でもガーシーって国会での謝罪を行なうつもりで極秘に帰国しようとしたんだってな?
 謝罪予定日の前日の3月13日、韓国まで戻っていて、トランジットで深夜1時頃にLCCで羽田空港に到着する予定だったというあれだろ。でも、航空会社がメディアに情報を洩らしたので引き返したという‥‥。
 そう。やっぱり国会議員をやめたくなかったのかな。
 「だって詐欺師だよ‥‥」(笑) どこまでホントかわからないよ。
 たしかにその前はトルコからチャーター機で帰るとか言ってたな。そのときも「やめた」と言っていたけど、何のことはない韓国まで戻っていた。今思えば、あのトルコ訪問は何だったんだ?と言いたくなるよな。
 ただ、これだけは言えるのは、ガーシーはチキンな性格だよ。そう考えれば、このような顛末も氷解できる。ドバイに行ったときだって、BTS詐欺(正確には「詐欺疑惑」)が発覚したあと、スマホに警察署からの着歴が入っていることに気付いて、それで怖気づいてドバイ行きを決断したんだよ。警察に行って事情を話せば、仮に立件されても初犯なので執行猶予が付く可能性は高い。へたすれば、起訴猶予もあり得る。相談した弁護士からもそう言われたみたいだけど、「逮捕されたら借金の返済がでけへん」という理由で飛ぶことを決断した。
 何と律義なお方。
 それだけヤバいところから借金していたんだろうな。結局、現実に向き合う覚悟ができずにドバイに飛んでさらに墓穴を掘ってしまった。
 何だか世の人々にとっても人生訓になるような話だな(笑)。
 秋田新太郎氏からの誘いに乗って、妹などから40万円だかを借りてドバイに行く。でも、ドバイの国際空港に着いたときは、飛行機代を払ったので手元には数万円しか残ってない。それで、タクシーを使わずに砂漠の中の道を2時間歩いて秋田氏のマンションを訪ねるんだ。
 せつない話だな。
 とりあえず、秋田氏の婚約者(?)が経営するレストランでアルバイトをすることになった。秋田氏はドバイでも有数な高級マンションに住んでいたけど、ガーシーはレストランの社員寮の部屋を与えられた。それも、モロッコ人スタッフと同室の埃だらけの部屋だった。
 そのあと秋田氏から説得されて暴露チャンネルをはじめたのか。
 さすがのガーシーも、最初は乗り気ではなかったと書いているな。でも、秋田氏から「金を返すにはどうする?」と詰問され、意を決して「東谷義和のガーシーch【芸能界の裏側】」を開設することになったというわけだ。
 そうまでしてお金を返済しなければならないと考えるのは、相当きつい追い込みをかけられていたんだろうな。
 裏カジノで借金を作って進退窮まり、雪山で自殺しようと思って山に行ったら、雪がなくて死ねなかったというトンマな話がある。眉唾な話だけど、ガーシーの性格を物語る話だと言えないこともない。チキンな性格によってみずから墓穴を掘り、どんどん深みにはまっていくんだよ。

■「ガーシー一味」


 あの「ガーシー一味」は何なんだ?
 言い方は悪いけど、たかり、、、みたいなもんだろ。ガーシーチャンネルがバズったので、甘い蜜を吸うために集まっただけじゃないのか。
 たしかに、あれだけの人脈があったのに、どうして孤立無援の状態に置かれ、妹からお金を借りてドバイに飛ぶことになったのか?と誰でも思うよな。
 テレビドラマのように一網打尽とはいかないだろうけど、国家は恣意的なものなので、逃亡を支援したとしてシッペ返しを食らう可能性はあるだろうな。逃亡が長引けば長引くほど、彼らに対する圧力は強まるだろうから、そのうち「お願いだから早く帰って来てくれ」と懇願するようになるんじゃないか。
 彼らを見ていると、表の仕事は別にして、暗号資産などの裏のビジネスで繋がっているような気がしてならないな。
 「集英社オンライン」も少し触れていたけど、福一の原発事故のあと、”脱原発政策”で再生可能エネルギーが脚光を浴び、腹に一物の連中が太陽光ビジネスに群がった。そして、そのあと、ブロックチェーンを使った暗号資産のブームが起きると、それにも手を伸ばした。今、反社や半グレがらみで摘発されている事件も、そのパターンが多い。ガーシーに直接関係ないけど、三浦瑠璃の旦那の事件も同じだ。

■身から出た錆


 ガーシーは自分で言うようにこのまま一生日本に帰らないつもりなのかな。
 「だって詐欺師だよ‥‥」(笑)
 そんなことないか?
 51歳で薬が手放せない糖尿病持ちだよ。あのドス黒い顔色を見ると、既に腎臓病の合併症を併発しているような気がしないでもない。だとすれば、そのうち人工透析も必要になる。それでなくてもチキンな性格なんだから身が持たないよ。
 逃亡生活はきついだろうし‥‥。
 ガーシーの攻撃は相手の家族までターゲットにした容赦ないもので、ガーシー自身も、アキレス腱を攻めるのが俺のやり方だと嘯いていたけど、今度はその言葉がそっくりそのまま自分に返って来ることになる。「ガーシー本」を読むと、高校教師だった父親はギャンブルに狂って借金を作り自殺したそうだ。それもあって77歳の母親や48歳の妹は、今のガーシーを心配しているという。まして、逮捕状が出て国際指名手配されたらよけい気に病むだろう。でも、世間は情け容赦ないので、今度はガーシーのアキレス腱である母親や妹がターゲットになる。正月には母親をドバイに呼んで一緒に新年を祝ったみたいだけど、家族の泣きごとにいつまで耐えられるかな。
 あとは帰国した場合の命の保証か?(笑)
 芸能界がヒットマンを放っているというのは法螺で、ホントは何度も言うように借金がらみのトラブルを怖れているんだと思う。もうひとつは、ガーシーを帰したくない、帰ったら困る人間たちの存在もあるんじゃないか。それは日本にもいるしドバイにもいるはず。
 ドバイに行っていろんなしがらみが出来たからな。
 でも、それでも帰ると思うよ。チキンな詐欺師の結論はそれ一択だよ。ホリエモンと立花(前党首)は、ガーシーはカルロス・ゴーンのように逃げ切れると言っていたけど、カルロス・ゴーンとは事情がまったく異なる。彼らは、逃げ切ってほしいという”希望的観測”で言っているにすぎない。「ガーシー本」の著者の伊藤喜之氏は、UAEにはタイのタクシン元首相など各国から政治亡命者が集まっているので、ガーシーもUAE政府から政治亡命として保護される可能性があると言っていたけど、ガーシーが政治亡命と見做されるとはとても思えない。ゴールデンビザを持っているから大丈夫だという話も同じだけど、UAEは梁山泊じゃないよ。国家や政治が、時と場合によって冷酷で非情なものに豹変する、ということがまるでわかってないお花畑の論理にすぎない。
 そのうち、出頭するので迎えに来てください、と警察に連絡が入るんじゃないか。
 もちろん、軟禁や〇〇もないとは言えないけど、SNSで啖呵を切ったように、ホントに自分の意志で逃亡者の道を選んだのなら、少しはガーシーを見直すよ。
 もともとは横浜の裏カジノにはまって借金を作り、首が回らなくなったという、身から出た錆の話にすぎないのに、どうしてこんなおおごとになってしまったんだと言いたくなるよな。
 ドバイの連中は、ガーシーは不当に「弾圧されている」と言っているけど、元はと言えば、ガーシーが自分が起こしたチンケな詐欺まがいの事件に必要以上に怯えてドバイに飛んで、みずから傷口を広げただけ。演出されていたとは言え、自分の借金を返すために、旧知の芸能人やタレコミがあった一般人をネットで晒して、あのようなヤクザ口調で追い込んでいながら、それで「弾圧されている」はないだろう。ネットとは別に、裏でも脅迫していたという話もあるみたいだし。
 当然そうだろうな。表の暴力はデモンストレーションで、裏でその暴力をチラつかせてビジネスを行う。それが「やから」のやり方だよ。
 ガーシーを「反権力」みたいに言っていた「元赤軍派」は、アメリカにいた頃、ブラック ・パンサー党の準党員だったそうで、現在アメリカで大きな潮流になっているブラック・ライブズ・マター(BLM)運動について、国内でも乞われて発言していたみたいだ。ガーシーにアメリカの黒人を重ねて、「嘘の正義より真実の悪」とか「悪党にしか裁けない悪」といったマンガから借用したフレーズを真に受けたのかもしれないけど、語るに落ちたとはこのことだよ。
2023.03.19 Sun l 社会・メディア l top ▲
悪党潜入300日ドバイ・ガーシー一味


■朝日新聞の事なかれ主義


一足先に電子書籍で、伊藤喜之氏の『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』(講談社+α新書)を読みました。

伊藤氏は、朝日新聞ドバイ支局長としてドバイに赴任していたのですが、伊藤氏がガーシー(東谷義和)に初めて接触したのは、2022年4月だそうです。その後、取材をすすめ、ガーシーのインタビュー記事をものにしたのですが、本社のデスクから「東谷氏の一方的な言い分ばかりで載せられない」と「掲載不可」を告げられ、同年8月末で朝日を退社して独立。以後、ドバイに住み続けて取材を続け、本書の出版に至ったというわけです。

本書には、その没になった記事が「幻のインタビュー『自分は悪党』」と題して掲載されていますが、それを読むと、「東谷氏の一方的な言い分ばかりで載せられない」と言った、本社のデスクの判断は間違ってないように思いました。

本書も同様で、「悪党」「潜入」「一味」という言葉とは裏腹に、ややきつい言い方をすれば「ガーシー宣伝本」と言われても仕方ないような内容でした。「潜入」ではなく「密着」ではないのかと思いました。ガーシー自身や、ガーシーの「黒幕」と言われる秋田新太郎氏が、それぞれTwitterで本書を「宣伝」していた理由が納得できました(ほかにも本書に登場する人物たちが、まるで申し合わせたようにTwitterで「宣伝」していました)。

私は下記の記事で、「元大阪府警の動画制作者」「朝日新聞の事なかれ主義」「王族をつなぐ元赤軍派」という目次が気になると書きましたが、「朝日新聞の事なかれ主義」というのは、単に掲載不可で辞表を出した著者の個人的な“恨みつらみ”にすぎなかったのです。別に朝日の肩を持つわけではありませんが、「事なかれ主義」と言うのは無理があるように思いました。

関連記事:
ガーシーは帰って来るのか?

■元大阪府警の動画制作者


著者は、ガーシーには「過去に不始末などを犯し、日本社会に何らかのルサンチマン(遺恨)や情念を抱える『手負いの者たち』が東谷のそばに結集し、暴露ネタの提供から制作まで陰に陽にさまざまなかたちで手を貸している」(「あとがき」)として、彼らを「ガーシー一味」と呼んでいましたが、「元大阪府警の動画制作者」もそのひとりです。

名前は池田俊輔氏。本書ではこう紹介されています。

東京都内の映像制作会社の社長で、40歳。20代のころは大阪府警の警察官として外国人犯罪を取り締まる国際捜査課に所属していた、という異色の経歴を持つ。警察官人生の先行きに憂いを感じたこともあり、早々に見切りをつけて退職。独立して番組制作を手掛ける会社を立ち上げたが、4年前からYouTubeの動画制作をメインに据え、これまでに約70チャンネルを手がけていた。
(本書より。以下引用は同じ)


ガーシーの「東谷義和のガーシーch【芸能界の裏側】」は、ガーシーの発想で始まったのではないのです。本書によれば、ガーシー自身はYouTubeで暴露することに、むしろ逡巡していたそうです。それを説得したのが秋田新太郎氏だったとか。そして、おそらく秋田氏が依頼したのではないかと思いますが、「ガーシーch」を企画立案したのが池田氏です。

本書を読むと、「ガーシーch」が綿密な計算のもとに作られていたことがわかります。暴露動画の効果をより高めるために、「ネガティブ訴求」という「切り口」を参考にしたと言います。

(引用者註:ネガティブ訴求の)過去例としては、「○○を買ってはいけない」「○○を知らないとヤバい」「販売中止」「絶対に○○するな」「放送中止」などがあった。ネガティブに煽っていく切り口の動画がヒットしたことを示している。
 ここから発想を展開し、たとえば、「芸能界で○○するな」「芸能界の裏側」「テレビの放送事故」など、東谷が動画をつくれそうな切り口を検討してもらったという。


取り上げる芸能人も、「ネット上でどれだけ検索されているか」「検索ボリューム」で調べた上で、リストの中から「誰を優先的に暴露していくか順番を検討」したのだそうです。

 その資料をみると、検索ボリュームが比較的高い芸能人の中には野田洋次郎(RADWIMPS)、TAKA(ONE OK ROCK)、佐藤健、新田真剣佑、TKO木下隆行など、比較的初期に東谷が暴露対象とすることになった芸能人の名が見える。
 池田はいう。「すでに東さん自身が配信でも振り返っていますが、芸能人暴露にはYouTubeで広告収益を得て、何よりもまず東さんの借金を返すという目的がありました。そのためにも再生数が伸びそうな芸能人は誰かということもかなり意識して撮影スケジュールを決めていきました」


また、8分以上だと2本の広告が付くことを考慮して、動画の尺を9分20秒にしたり、動画の拡散のために、「東谷のBTS詐欺疑惑を最初に晒した」Z李に協力を仰いだりしたのだとか。

動画の撮影を始めたのは、2022年2月6日でした。大阪府警の捜査の手から逃れるために、ガーシーが、秋田新太郎氏の誘いに応じてドバイ国際空港に降り立ったのが2021年12月18日でしたから、それから僅か2ヶ月足らずのことです。

場所は、秋田氏の婚約者が経営しているレストランの社員寮の部屋でした。モロッコ人スタッフと相部屋で、床は埃が溜まり靴下が汚れて閉口するような部屋だったそうです。モロッコ人スタッフが仕事で部屋を空けている時間帯に撮影し、しかも、ドバイということを悟られないように、カーテンを閉め、ガーシーの服装も日本の季節に合わせたものにするなど、細心の注意を払って行われたそうです。

■王族をつなぐ元赤軍派


「王族をつなぐ元赤軍派」というのは、大谷行雄という人物です。重信房子氏の弁護人を務めた大谷恭子弁護士の弟で、現在は、UAE北部のラスアルハイマという街に住み、経営コンサルタントをしているそうです。

大谷氏については、重信房子氏が出所した際に、著者がインタビュー記事を書いており、私も「そう言えば」といった程度ですが、読んだ記憶がありました。

朝日新聞デジタル
赤軍派高校生だった私の「罪」 獄中の重信房子元幹部から届いた感想

大谷氏は、秋田新太郎氏と関係があり、ガーシーが参院議員になったあとに、秋田氏の依頼で懇意にしている王族に何度か引き合わせたことがあるそうです。それで、ガーシーが子どものように「王族になる」と言い始めたのでした。

大谷氏は、著者の取材で、ガーシーのことを次のように言っていました。

「秋田氏にガーシー議員を紹介されて、ご協力できることはしたいとラスアルハイマの王族の皆様に引き合わせました。私はガーシー氏の暴露行為についてすべてを肯定しているわけじゃありませんが、彼の既存体制と権力に対する破壊的精神を買っています」


著者は、「まさに元赤軍派らしい発言」と書いていましたが、私にはトンチンカンな駄弁としか思えませんでした。そもそも「元赤軍派」と言っても、高校時代に、赤軍派結成に至る前のブント(共産主義者同盟)の分派活動をしていたにすぎないのです。

■ワンピースの世界観


ガーシーの周りには、秋田新太郎氏のほかに、FC2の高橋理洋氏、元ネオヒルズ族で、2022年3月に無許可で暗号資産の交換業を行っていたとして関東財務局から名指しで警告を受けた久積篤史氏、ハワイ在住のコーディネーターの山口晃平氏、小倉優子の元夫でカリスマ美容師の菊地勲氏、大阪でタレントのキャスティングや動画配信の会社を経営する緒方俊亮氏、年商30億円以上を誇ると言われる33歳の実業家の辻敬太氏などが集まっているのでした。

著者は、「皆がそれぞれに後ろ暗い過去を持つが、東谷はそこにむしろ任俠組織の絆のようなものを感じ取っている」と書いていましたが、そこで登場するのがあの「ルフィ」の『ワンピース』です。ガーシーはマンガ好きで、「雑誌では週刊少年ジャンプとヤングジャンプは電子版でかかさずに定期購読している。なかでも何度もインスタライブなどの配信で言及しているのが尾田栄一郎の人気漫画『ワンピース』だ」とか。

 血縁関係がない者同士が盃を交わすことで疑似的な血縁関係を結び、兄弟になったり、親子になったり。仁義や交わした約束などが重んじられるシーンも数多い。これは日本の伝統的な任俠組織のシステムと同一であり、ワンピースはそんな世界観で成り立っている。


著者は、「ガーシー一味」をそんな世界になぞらえているのでした。

本書にも名前が出ていますが、ほかに有名どころでは、エイベックスCEOの松浦勝人氏や自伝本『死なばもろとも』(幻冬舎)の編集者の箕輪厚介氏、コラボの見返りにガーシーに4000万円を貸した医師の麻生泰氏などが、ドバイを訪ねてガーシーを持ち上げています。また、ガーシーが芸能界で人脈を築くきっかけを作ったと言われるタレントの田村淳に至っては、ガーシーは未だ友達だと言って憚らないのでした。

しかし、実際は、それぞれが何程かの打算や思惑や義理で近づいているはずで、著者が書いているのは後付けの理屈のようにしか思えませんでした。だったら(そんな”錚々たる”メンバー”がホントに義侠心で馳せ参じているのなら)、暴露系ユーチューバーなどという面倒くさいことをやらずに、みんなでお金を出し合って助ければよかったのです。そうすれば、ガーシーの借金など簡単に清算できたはずです。BTS詐欺の”弁済金”も、麻生氏に借りるまでもなかったのです。そう皮肉を言いたくなりました。

■トリックスター


著者は、こう書いていました。

(略)トリックスターを体現する「ガーシー」という存在は東谷がただ一人で生み出したものでもないのだろう。東谷自身が、ワンピースの「麦わらの一味」や水滸伝の108人の盗賊団とどこかで自分を重ねていることを踏まえても、東谷本人とその周囲の仲間たちが共同作業で創り出しているのが「ガーシー」だととらえることができる。


「トリックスター」という言葉は、西田亮介氏も朝日のインタビュー記事で使っていました。

朝日新聞デジタル
除名のガーシー議員 既成政党への不満が生んだ「トリックスター」

実は、かく言う私も、上の関連記事で「トリックスター」という言葉を使っています。しかし、私は、「トリックスター」という言葉を聞くと、前に紹介した集英社オンラインの記事のタイトルにあった「だって詐欺師だよ…」という知人の言葉を思い出さざるを得ないのでした。

集英社オンライン
〈帰国・陳謝〉を表明したガーシー議員、それでも側近・友人・知人が揃って「帰国しないだろう」と答える理由とは…「逮捕が待っている」「議員より配信のほうが儲かる」「だって詐欺師だよ…」

「トリックスター」に「詐欺師」とルビを振れば、ガーシー現象がすっきりと見えるような気がします。身も蓋もない言い方になりますが、結局、その一語に尽きるように思いました。


追記:
この記事は朝アップしたのですが、午後、警視庁は著名人らに対して脅迫を行った容疑で、ガーシーに逮捕状を請求したというニュースがありました。まるで除名処分を待っていたかのような警視庁の対応には驚きました。

結局、ガーシーは、ドバイに行って墓穴を掘っただけと言っていいでしょう。しかも、どう考えても、これが”とば口”にすぎないのはあきらかなのです。

また、ドバイで動画制作に関わったとみられる男性(記事参照)に対しても、逮捕状を請求したそうです。上記で書いたように、動画の中で、暴露相手を追い込むようなガーシーの激しい口調も、「ネガティブ訴求」として意図的に採用されたのです。

容疑の「常習的脅迫」に関しては、本書の中に次のような記述がありました。ガーシーに「密着」した本が、逆に容疑を裏付けるという皮肉な結果になっているのでした。

 そうした(引用者註:任侠組織と同じような)価値観は暴露にも反映され、その一つが暴露では本人だけでなく、その周囲の人物も晒すという東谷独特のやり口がある。(略)そんな情け容赦ない喧嘩術はある種、ヤクザ的である。東谷は「その人のアキレス腱を攻める。周囲の人を暴露したら一番嫌がるのはわかっている。それが俺のやり方やから」と悪びれずに繰り返し述べている。

2023.03.16 Thu l 本・文芸 l top ▲
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(Wikipediaより)


■SVBの破綻


3月10日、総資産が2090億ドル(約28兆円)で、全米16位の資産規模をほこるアメリカシリコンバレーバンク(SVB)が経営破綻したというニュースがありました。SVBの破綻は、FRB(米連邦準備理事会)の量的緩和(QE)から量的引締め(QT)への、金融政策の転換による急速な利上げで資金調達が悪化したためと言われています。

さらに2日後、総資産が1103億ドル(約15兆円)で、全米29位のシグネチャーバンクでも取り付け騒ぎが起こり、破綻に追い込まれたのでした。シグネチャーバンクの破綻は、もともと暗号資産(仮想通貨)関連の顧客が多く、経営基盤が脆弱な中で、SVBの破綻で信用不安が高まったためと言われています。

SVBの破綻について、金融当局や市場関係者は、「特殊事例」で、信用不安につながる可能性は低いと言っていたのですが、その舌の根が乾かぬうちに”連鎖倒産”が起きたのです。もっとも、考えてみれば、金融当局や市場関係者が信用不安が起きるなどと言うわけがないのです。彼らは、リーマンショックのときも同じことを言っていたのです。

3月12日のシグネチャーバンクが破綻した当日、アメリカ財務省とFRBと米連邦預金保険公社(FDIC)は、通常の預金保険では1口座当たり最大25万ドルまでしか保護されないのですが、今回は25万ドルを超えても全額保護するとの声明を発表したのでした。それが信用不安を防ぐための特例処置であり、表向きの”楽観論”とは裏腹に、深刻な事態を懸念しているのはあきらかです。

■経済制裁の返り血


このようにアメリカ経済は、未曾有のインフレに見舞われて疲弊し、金融システムにも軋みが生じはじめているのでした。もちろん、それはアメリカだけではありません。いわゆる西側諸国はどこも同じで、資源高やエネルギー価格の高騰によって、国民生活はニッチもサッチもいかなくなっているのです。そのため、労働者は賃上げを要求して立ち上り、中には治安当局と衝突するような”暴動”まで起きているのでした。

この遠因にあるのは、言うまでもなくウクライナ戦争に伴うロシアへの経済制裁です。言うなれば、西側の国民たちはその返り血を浴びているのです。

■中国の存在感


そんな中で、SVBが破綻した3月10日、2016年から断交していたイランとサウジアラビアが、中国の仲介によって、外交関係の正常化で合意したというニュースがありました。西側諸国がロシア制裁で自縄自縛に陥る中で、中国の存在感がいっそう高まっているのでした。その発表に対して、「ホワイトハウスのジョン・カービー米国家安全保障会議(NSC)の戦略広報調整官は、アメリカ政府は『地域の緊張関係を緩和させようとするあらゆる取り組み』を支持すると述べた」(BBCより)そうです。また、国連のアントニオ・グテーレス事務総長も、「中国による仲介努力に感謝し、『湾岸地域に持続する平和と安全を確保』するための努力を支援する用意があると、報道官を通じて述べた」(同)そうです。国連のロシア非難決議では、世界の全人口の半分にも満たない国しか賛成しなかったのですが、中国は中東においても、(アメリカに代わる)その影響力を見せつけたと言っていいでしょう。

BBC NEWS JAPAN
イランとサウジアラビア、7年ぶりに外交関係正常化で合意 中国が仲介

さらには、今日(3月14日)、びっくりするニュースが飛び込んで来たのでした。それは、次のようなものです。

Newsweek ニューズウィーク日本版
中国・習近平、ウクライナ・ゼレンスキーと会談へ

米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)は13日、中国の習近平国家主席が、ロシアのウクライナ侵攻後初めてウクライナのゼレンスキー大統領と会談する予定だと伝えた。

WSJが関係者の話として伝えたところによると、ゼレンスキー大統領との会談は、習主席が来週、ロシアを訪問してプーチン大統領と会談した後に行われる公算という。


報道によれば、もともと「中国はロシアとウクライナの和平交渉に積極的に関与する姿勢を示していて、ゼレンスキー大統領も習主席との対話を望んできた」そうです(ロイターより)。しかし、日本のメディアは、中国は台湾や日本を攻めて来ると言うばかりで、そんなことはひと言も報じていません。そのため、こういったニュースが流れると、文字通り青天の霹靂のような気持になるのでした。

一方、アメリカ国務省のプライス報道官は、今回の報道を受けて、「ウクライナ侵攻を終わらせるために中国が影響力を行使することを望む」と述べたそうです(同)。

■アメリカの落日と中国の台頭


こういった発言を見てもわかるとおり、ウクライナ戦争に限らず世界秩序の維持において、アメリカが完全に当事者能力を失っていることがわかります。ウクライナ戦争においても、バイデン政権がやって来たことは、ただ火に油を注ぎ戦火を拡大することだけでした。

バイデン政権が当事者能力を失っていることについては、国内でも懸念の声が上がっています。今やウクライナへの軍事支援に賛成している国民は半分もいないのです。

アメリカのプロパガンダを真に受けて、「ウクライナが可哀そう、ロシアは鬼畜」という印象操作の虜になり、「勝つか負けるか」「ウクライナかロシアか」の戦時の言葉でしかものごとを考えることができない日本国民には信じられないかもしれませんが、アメリカ国内では下記のようなテレビ番組さえ存在しているのでした。


私は、昨年の侵攻直前、このブログで、ウクライナ侵攻を目論むロシアの強気の背景には、アメリカが唯一の超大国の座から転落して、世界が多極化する歴史的転換があると書きました。それを象徴するのがあの惨めなアフガン撤退ですが、今回のウクライナ戦争でアメリカの威信は完全に地に堕ちたと言っても過言ではないでしょう。

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世界の覇権は100年ごとに移譲するという説がありますが、あえて挑発的な言い方をすれば、300年ぶりに中国が世界史の中心に返り咲くのはもはやあきらかで、それがわかってないのは、カルト(ネトウヨ)的思考にどっぷりと浸かり歴史的な方向感覚を失っている日本国民だけです。

日本人は見たくないものからは目を背ける怯懦な傾向がありますが、しかし、好むと好まざるとにかかわらず、世界の歴史は大きく変わろうとしているのです。今のような対米従属一辺倒のカルト(ネトウヨ)的思考に呪縛された状態では、日本が”東夷の国”として歴史に翻弄されるのは目に見えているような気がします。


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■血尿


去年の年末、ほとんど痛みもなく石が出て、「これ以上ない大団円で幕を閉じた」と書いたのですが、実は後日、病院に行ったら再び血尿が出ていることが判明し、まだ尿路に石が残っているのかもしれないと言われたのでした。ただ、エコーなどの検査をせずに様子見ということになりました。

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案の定、その後、赤いおしっこが二度出ました。また、おしっこした際の尿道の痛みも前回より増してありました。

ドクターによれば、尿管結石というのは、石の大小や形などに関わらず「痛いときは痛い」そうですが、ただ、尿道がこんなに痛いのは前回と今回だけです。それまでは、左の脇腹や腰のあたりがひどく痛む尿管結石の代表的な症状でした。しかし、前回と今回は脇腹や腰の痛みはほとんどなく、尿道の痛みが主なのです。

赤い、見るからに血尿とわかるようなおしっこは二度だけでしたが、色の濃いおしっこは頻繁に出ていました。何だか石が流れたり詰まったりをくり返しているのがわかるような気がしました。

自宅でおしっこをするときは茶こしを通して石を確認しましたが、途中、一度だけ微細な粉のようなものが出たことがありました。しかし、症状は改善されません。まだ“本命の石”が残っているのは間違いありません。

■かかりつけ医の善し悪し


もちろん、ずっと憂鬱な気分の中にありました。薬も残り少なくなったので、病院に行かなければならないのですが、症状が残っているときに病院に行くと検査やなんやらでえらく手間と時間がかかり、それも面倒でした。

考えてみれば、急性前立腺炎をきっかけに泌尿器科に通い出して、もう17~18年経ちます。毎月、ずっと同じ病院に通っているのです。

余談ですが、コロナが始まった頃、インフルエンザに感染するとコロナも重症化すると言われ、インフルエンザの予防注射を行なう病院に人々が殺到したことがありました。私が通っている病院もインフルエンザのワクチン接種を行っていたので、予約をお願いしたらワクチン不足のため予約を中止していると言われたのです。しかも、次回の入荷がいつになるかわからないので予約の受付も未定で、随時問い合わせて貰うしかないと言うのです。かかりつけの患者を優先するということはないのかと訊いたら、「それはない」と言われました。

それで、診察の際、ドクターに抗議したら、「対応は受付に任せていますので」と木を鼻で括ったような答えしか返ってきませんでした。結局、その年はインフルエンザワクチンの接種をあきらめたのですが、その際、病院を変えようかと思いました。それで、コロナの感染を怖れたということもあって、3ヶ月受診しなかったのです。

しかし、病院を新しく変えると、また最初から検査をやり直さなければならないのでそれも手間で、結局、また元に戻ってしまったのでした。

私が通っている病院は、泌尿器科と内科を標榜していますのでかかりつけ医としては便利で、たとえばよその病院で健康診断を受けてもその結果を持って行くと、カルテに記録して経過を診てくれます。

ただ一方で、それも善し悪しのところがあり、たとえば一時悪玉コレステロールの値が高いということがあったのですが、それ以来、「体重が増えないように気を付けてください」「運動してください」「揚げ物はなるべく控えて魚や野菜中心の食事を心がけてください」と毎回同じことを言われるようになったのでした。心の中では、「またか」と思いつつも適当に返事をしていましたが、知り合いの医療関係者にその話をしたら、「それは栄養指導でお金を取られているよ」「病院に無料サービスなんてないよ」と言われたのです。

領収書を見ると、たしかに「医学管理料」として225点が計上されていました。1点10円なので2250円、そのうちの3割の675円を窓口負担していることがわかりました。まさか「先生、栄養指導はもう結構です」とは言えないので、病院に通い続ける限り半永久的に請求されるのでしょう。むしろ、こっちが牛丼一杯分のサービス料を払っているようなものです。

■薬局の不可解な明細


薬局はもっと不可解です。薬を処方されても、薬代とは別に、「薬剤技術料」140点と「薬学管理料」165点が計上されています。つまり、処方箋を持って行っただけで、3050円が請求されるのです(患者の窓口負担は915円)。

「薬剤技術料」は薬剤師が薬を処方する手間賃で、「薬学管理料」は薬を渡される際、毎回同じことを説明されるあの説明料なのでしょう。「薬剤技術料」や「薬学管理料」は薬の種類や処方日数によって違うみたいですが、私の場合、「薬剤料」、つまり薬代は280点(2800円)です。ということは、薬代(「薬剤料」)2800円に対して薬をピッキングして梱包する手数料(「薬剤技術料」)が1400円で、それをお客(患者)に渡す際、注意事項を説明する説明代(「薬学管理料」)が1650円もかかるのです。つまり、薬代より手数料の方が高いのです。

一方、病院の方は、私が通っている病院だと、検査料を除けば、通常請求されるのは、「再診料」74点、「医学管理料」225点、「投薬」134点ですから、合計4330円です。たしかに、病院は、検査をしたり、どうでもいい栄養指導で「医学管理料」などを計上しないと、薬局より実入りが少なくなるのです。しかも、薬局は手数料の他に薬代も3割から4割近く利益を得ているはずです。そう考えれば、薬局に比べると、病院の方が割りに合わない気がしてなりません。

だから、病院は、検査や入院や手術に走るのでしょう。病院では患者一人当たりの単価のことを「日当円」と言って、それが収益の指針になっているのだそうです。「日当円」が下がった患者は、退院か転院させる。つまり、追い出すのです。それを「退院支援」と言うのだとか。

■医療費増大の要因


医療費増大の要因を老人医療費だけに帰する言説が一人歩きをして、それが単細胞な落合陽一や古市憲寿の「高齢者の終末期医療を打ち切れ」という話や、成田悠輔の”集団自殺のすすめ”の暴論につながっているのですが、その前にこういった細々とした不明瞭な手数料を見直せば、かなりの医療費の圧縮になるのではないか、と思ったりもするのでした。

特に、薬局の手数料に関しては、不可解なものが多く、病院を凌ぐほどの濡れ手で粟の利益を得ているような気がしてなりません。魚屋でも八百屋でも、商品代金とは別に販売手数料を取ったりはしません。調理の仕方を説明したからと言って、説明料を請求したりはしません。社会主義国家の薬局ではないのですから、薬の利益もちゃんと得ているはずです。その上で、販売手数料に等しいものを別に請求しているのです。

で、話を元に戻せば、昨日、またボロりと石が出たのでした。石自体は5ミリくらいの小さなものでしたが、角が尖ったいびつな形をしていましたので、それが血尿や尿道の痛みの要因になったのかもしれないと思いました。石が出たら、尿道の痛みもなくなりましたし、おしっこもきれいになりました。

ただ、前回のこともありますので、これでホントに終わりなのか、いまいち不安もあります。また病院に行って、面倒な検査を受けて確認するしかなさそうです。


関連記事:
※尿管結石体験記
※時系列に沿って表示しています。
不吉な連想(2006年)
緊急外来(2008年)
緊急外来・2(2008年)
散歩(2008年)
診察(2008年)
冬の散歩道(2008年)
9年ぶりの再発(2017年)
再び病院に行った(2017年)
ESWLで破砕することになった(2017年)
ESWL体験記(2017年)
ESWLの結果(2017年)
5回目の尿管結石(2019年)
6回目の尿管結石(2022年)
2023.03.14 Tue l 健康・ダイエット l top ▲
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■きっこのツイッター


きっこのツイッターに下記のようなツイートがありました。

@kikko_no_blog

嫌味に思われるかもしれませんが、あえて自慢すれば、私は、中学3年のとき、夏の甲子園大会で全国優勝したこともある野球の強豪校からスカウトに来たくらいの、地元ではそれなりに知られた野球少年でした。授業中に野球部の顧問の先生から校庭に呼び出されて、県内では誰もが知る有名人であった強豪校の監督の目の前でマウンドに立ち、投球を披露した(させられた)ことがありました。

野球をするならどこの高校でも入学できるぞ、と今の時代なら信じられないようなことを顧問の先生から言われたのですが、私はそんなのはバカバカしいと思いました。

高校に入って、夏の予選大会で自分たちの学校の応援に行ったら、球場で別の強豪校の野球部に入っている中学時代の同級生に会ったり、また、スカウトに来た監督が私を見つけると傍にやって来て、「お前、野球やってないのか? どうしてやらないんだ? ○○監督(私の高校の野球部の監督)はお前のことを知らないのか?」と言われたことがありました。私が野球をやっていたことを知らないクラスメートたちは、目の前のやり取りを見て驚いていましたが、しかし、その頃の私は既に野球に対する興味が薄れていました。と言うか、むしろ「野球バカ」みたいに見下すような気持すらありました。

ただ、高校を卒業して東京の予備校に通っていたときも、知り合いの伝手で後楽園球場でアルバイトをしていました。その際、試合前の練習をするプロの選手たちをまじかで見てまず驚いたのは、投げたり打ったりするときのフォームの美しさでした。何のスポーツでもそうですが、基本ができているとフォームがきれいなんだなとしみじみ思ったものです。

■野球はマイナーなスポーツ


しかし、現在、監督が市会議員まで務めた件の強豪校は、野球部のスカウトをやめてただの県立高校になっています。同じように夏の間私の田舎に合宿に来ていた私立高校の強豪校も(そこの監督からもスカウトされた)、今はクラブ活動より特進クラスの大学進学に力を入れて、昔の「不良の集まり」からイメージを一新しています。PL学園もそうですが、「甲子園出場」で生徒を集めるというような発想は、この少子化の時代ではもはや時代錯誤な考えになっているのです。

私の友人は、子どもには野球をさせたいと、用具を揃えるためにスポーツ用品店に行ったら、野球のコーナーは片隅に追いやられ、品数も少なくて「びっくりした」と言っていました。友人の子どもも、少年野球のチームに入った(入れられた)もののすぐにやめて、サッカーのチームに入り直したそうです。

アメリカのメジャーリーグの選手があれだけ“多国籍”になり、開幕戦が日本で行われたりするのも、ひとえに国内の人気が下降して海外に活路を見出そうとしているからでしょう。もっとも、“多国籍”と言っても、その範囲は、かつてアメリカ帝国主義の影響下にあった中南米やアジアの国に限られています。世界大で見ると、サッカーと違って野球はマイナーなスポーツなのです。

WBCの出場国にしても、もともと野球が普及していたのは、本家のアメリカを除くと、日本と中南米のキューバやドミニカやプエルトルコやメキシコくらいで、韓国や台湾も野球が本格的に普及したのは第二次世界大戦後です。その韓国や台湾も、野球の人気が思ったように上がらず、プロ球団の経営にも苦労しているようです。まして、チェコやオーストラリアなどは超マイナーな野球後進国で、そもそも「世界大会」に出場すること自体無理があるのです。と言うか、そういった国を集めて「世界大会」と銘打つのは、多分におこがましく、ウソっぽいと言わざるを得ません。

■TBSとテレビ朝日の悪ノリ


Yahoo!ジャパンがWBCの特設サイトを作っているのを見ると、栗城史多のエベレスト挑戦で、同じように特設サイトを作ったことを連想せざるを得ません。あのとき、Yahoo!ジャパンは、栗城と共同で、ベースキャンプでカラオケとソーメン流しをして、それをギネスに申請するという、恥ずべき企画を立てた前科があるのでした。

選手たちの本業が消防士や地理の教師や金融アナリストや不動産会社社員で、日本に修学旅行気分でやって来たという、どう見てもアマチュアにすぎないチェコと戦って、「勝った」と言って大騒ぎし「日本快進撃」などと言われても鼻白むしかありません。野球をする人間が希少動物のようなマイナーな国を相手に勝って、何が嬉しいんだろうと思います。環境も歴史も違う弱小チームを打ち負かせて、「お前よくやったな」と偉そうに言ってみんなで優越感に浸っているだけです。もともとレベルが違うアマチュアとプロを戦わせるのは、アンフェアな弱い者いじめにすぎません。それで「予選リーグ突破」「準決勝進出」だなんて、片腹痛いと言わねばなりません。

特に、放映権を握るTBSとテレビ朝日の悪ノリには目に余るものがあります。まるでウクライナ戦争における戦争報道と見まごうばかりです。そこに伏在するプロパガンダの構造は、戦争でも野球でも違いはないのです。

ピッチャーが交代すると、カメラマンがどこからともなく現れて、マウンドの近くで投球練習をするピッチャーを撮影したり、ホームランを打ったら、三塁ベースをまわる選手の横をテレビカメラを手にしたカメラマンが並走したりと、試合中にメディアの人間がグランドに闖入するなど本来ならあり得ないことでしょう。

準決勝の相手はイタリアだそうですが、また実況中継のアナウンサーは絶叫し、日本中が「日本凄い!」と歓喜に沸くのでしょうか。悪ノリにもほどあるとしか思えません。裸の王様ではないですが、「こんなのバカバカしい」と誰も言わない不思議を考えないわけにはいきません。

■いびつな「世界大会」のしくみ


また、興行面においても、元毎日新聞記者の坂東太郎氏は、「このWBCという大会は収益配分などが極めていびつで『アメリカのアメリカによるアメリカのための大会』とも揶揄されている」と書いていました。

Yahoo!ニュース・個人
坂東太郎
WBCのいびつな収益構造で太り続けるMLBと選手会。しかも有力選手は出し渋る矛盾した体質

それによれば、大会収益とスポンサー料の66%は、MLB(アメリカ大リーグ機構)と同選手会(両者が共同で設立した「WBC1」という会社)に入り、日本に入るのは13%にすぎないのだそうです。そのため、日本の選手会は、せめて「スポンサー権と代表に関連したグッズなどを商品化するライセンス権を代表チームに帰属させるべきと訴えた」のですが交渉が難航。その結果、前回から6年のブランクが生じたと言われているのです。

 結局、この問題は大会期間外にも日本代表(侍ジャパン)を常設して年単位で募ったスポンサー収入の一部や対外試合などの収入を得られるという条件をWBCIに納得してもらい妥協が図られました。


しかし、収益の66%がアメリカに入るという構造はそのまま残されたそうです。

さらに、坂東氏は、大会の組み合わせについても、次のように書いていました。

 とはいえ「アメリカのアメリカによる」という構図は大きく変わっていません。収益配分66%が動いていないのに加えて、

・第1ラウンドC・D組と準々決勝、および準決勝と決勝すべての会場はアメリカ

・3月開催もMLBの日程を優先しての決定

などなど。

 他にも第1ラウンドは予選を勝ち抜いた(日本は免除)4チームを除けばほぼ地域別なのに政治的にアメリカ(C組)と対立しているキューバはなぜか台北開催のA組。日本と同じくアメリカと覇を競う地力のあるドミニカ、プエルトリコ、ベネズエラはD組と万に一つもアメリカが第1ラウンド敗退とならないよう「工夫」されているのです。


最近はG7やG20など国際会議を見ても、スーツの襟に自国の国旗のバッチを付けている首脳がやたら目に付くようになりました。アメリカなどは、共和党も民主党も関係なく(トランプもバイデンも同じように)、アメリカ国旗のバッチを付けています。それはパンデミック後の世界をよく表しているように思います。ユヴァル・ノア・ハラリなどが予言したように、国家が前面にせり出し、人々がナショナリズムに動員されるような時代に再び戻っているのでした。

この捏造された野球の「世界大会」で繰り広げられる(扇動される)「ニッポン凄い!」というナショナリティーに対する熱狂は、パンデミック及びウクライナ戦争後の世界を象徴する愚劣で滑稽な光景と言っていいでしょう。

きっこは、こんな「世界大会」を「クリーン」で「感動する」と言うのです。この程度のミエミエの”動員の思想”にすら簡単に取り込まれてしまう、その見識のなさには呆れるばかりです。ホントに野球が好きな人間ならこんな「世界大会」はしらけるはずです。
2023.03.12 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
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■三島憲一氏の批判


成田悠輔の“高齢者集団自決のすすめ”は、日本より海外のメディに大きく取り上げられ批判に晒されているようですが、彼の暴論について、朝日新聞デジタルの「WEBRONZA」で、ニーチェ研究で知られる三島憲一・大阪大学名誉教授が次のように書いていました。

尚、「WEBRONZA」は7月いっぱいで終了し、既に課金サービスも終わっているため、三島氏の論稿も無料の導入部しか読めません。以下もその部分からの引用です。

論座
成田悠輔氏の「高齢者集団自決」論は、“新貴族”による経済絶対主義

三島氏は、「民主主義社会では、規範や信頼などを無視した少数の優秀な人々が、大衆の人気を博しながら大金を儲け、権力にありついて、好き勝手なことをするようになるだろう」というニーチェが予言した「冷笑主義(シニシズム)」の観点から、成田の暴論を論じていました。

ニーチェの「冷笑主義」は、社会理論の言葉で言えば「再封建化 refeudalization」で、それは「新自由主義が生み出した現象」だと言います。

 下々への統制手段はかつては政治権力と宗教だったが、今では、新たなアルゴリズム=カルトが、いわゆるパンピーに君臨する。庶民はかつて貴族の園遊会と恋の戯れを垣根越しに眺めていたが、今では高級店に出入りするセレブの恋愛沙汰をメディアで覗かせていただく(専門用語でいう「顕示的公共圏」)。庶民はかつてラテン語が読めなかったが、今ではネット用語がわからない。新貴族は法に触れてもいわば上級国民として、法の適用も斟酌してもらえることが多い。あるいは辣腕の弁護士を駆使して軽傷で切り抜けて、高笑い。
 彼らの駆使する独特の論理は、「言い負かす」と「なるほどとわかってもらう」という古代ギリシア以来の区別を解消している。原発の必要性を論じて懐疑的な人々を言い負かしても、本当の理解は得られないことが重要なのだが。彼らは、テレビ画面でその場の思いつきで相手を言い負かせばいいのだ。


■システム理論と炎上商法


私は、子どもの頃からお勉強だけをしていて、まったく世間を知らない頭でっかちの屁理屈小僧の妄言のようにしか思っていませんでしたが、ただ、屁理屈小僧の妄言も、たしかに時代の風潮と無関係とは言えないでしょう。もちろん、自分たちも時が経てば集団自決をすすめられる高齢者になることは避けられないわけで、それを考えれば、これほどアホらしい(子どもじみた)妄言はないのです。

こういった(文字通りの)上から目線=エリート主義は、今流行はやりのシステム理論の必然のように思いますし、東浩紀などの発言にも、もともと同じような視線は存在していました。彼が三浦瑠麗と「友人」であるというのは、不思議なことでもなんでもないのです。

 既成の構造をぶち壊す議論といっても、そうした多くの「論客」たちも実は、ブランドという名の既成の権威を広告塔に使っているようだ。超一流大学卒業の「国際政治学者」、あるいはこれまでの西洋崇拝に便乗して名乗る東海岸の有名私立大学「助教授」、だいぶ前からあちこちの大学で売り出している「総合政策」「デジタル・プランニング」「ソリューション」「フェロー」などなど、よくわからないものも含めてネットの画面に割り込んでくる広告みたいなキャッチー・タイトルだ。その多くは彼らがおちょくる既成のランキングのなかで培われてきたものを、彼ら独特のやり方で、例えば大学名の入ったTシャツで目立たせる。
(同上)


もうひとつ、炎上商法という側面から見ることもできるように思います。たまたまガーシー界隈の怪しげな人物のツイッターを見ていたら、ツイッターは流れが速すぎて付いていけないと嘆いていて、思わず笑ってしまいましたが、タイムラインで話題が次々変わっていくのも、今のSNSの時代の特徴です。だからこそ、過激なことを言って人々の目を食い止める必要があるのではないか。

成田悠輔にしても、所詮はSNSの時代の申し子にすぎず、アクセス数や「いいね」の数で自分が評価されているような感覚(錯覚)から自由ではないのです。エリートと言っても、所詮はその程度なのです。

■お里の知れたエリート主義


一部の報道によれば、三浦瑠麗にはコロナ給付金の詐欺疑惑まで出ているようですが、六本木ヒルズに住むなど嫌味なほどセレブ感満載で、東大を出た「国際政治学者」とお高くとまっていても、やっていることは夜の街で遊び歩いているアンチャンたちと変わらないのです。もっとも、日本のセレブは漢字で書くと「成金セレブ」になるのです。コメンテーターも「電波芸者コメンテーター」にすぎないのです。そもそも成田悠輔の“高齢者集団自決のすすめ”にしても、5ちゃんねるあたりで言われていることの焼き直しにすぎません。

東浩紀にも、都知事選のときに猪瀬直樹を支持して、選挙カーの上で田舎の町会議員と見まごうような応援演説をしたという”黒歴史”がありますが、彼らのエリート主義はお里が知れているのです。況やひろゆきの冷笑主義においてをやで、ひろゆきなどはどう見ても2ちゃんねるそのものでしょう。

でも、問題は彼らを持ち上げたメディアです。コメンテーターとして起用したテレビや彼らにコラムを担当させた週刊誌は、それこそ大塚英志が言った「旧メディアのネット世論への迎合」と言うべきで、そうやってみずから墓穴を掘っているのです。自分たちがコケにされているという自覚さえないのかと思ってしまいます。貧すれば鈍するとはこのことでしょう。
2023.03.11 Sat l 社会・メディア l top ▲
デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場


■栗城劇場


遅ればせながらと言うべきか、河野啓著『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(集英社文庫)を読みました。

栗城史多(くりきのぶかず)は、2018年5月21日、8度目のエベレスト登頂に失敗して下山途中に遭難死した「登山家」です。享年35歳でした。しかし、死後も彼を「登山家」と呼ぶことをためらう山岳関係者も多く、彼のエベレスト挑戦は、登攀技術においても、経験値においても、そして基礎的な体力においても「無謀」と言われていました。

最後になった8度目の挑戦も、AbemaTVで生中継されていたのですが、彼のスタイルは、 YouTubeやTwitterを駆使し、また、日本テレビやNHKやYahoo!Japanや AbemaTV などとタイアップした、「栗城劇場」とヤユされるような見世物としての登山でした。それを彼は、「夢の共有」「冒険の共有」と呼んでいました。

■登山ユーチューバーの先駆け


自撮りしながら登る彼の山行は、言うなれば、現在跋扈している登山ユーチューバーの先駆けと言っていいでしょう。

本の中に次のような箇所があります。

 栗城さんは山に登る自分の姿を、自ら撮影していた。
 山頂まで映した広いフレームの中に、リュックを背負った栗城さんの後ろ姿が入ってくる。ほどよきところで立ち止まった彼は、引き返してカメラと三脚を回収する。
 クレバス(氷河の割れ目)に架かったハシゴを渡るときは、カメラをダウンの中に包み込んでレンズを下に向けている。ハシゴの下は深さ数十メートルの雪の谷。そこに「怖ええ!」と叫ぶ栗城さんの声が被さっていく。


ときに登頂に失敗して下山する際の泣き顔まで自分で撮っていたのです。

彼は、「ボクにとって、カメラは登山用具の一つですから」と言っていたそうです。これも今の登山ユーチューバーを彷彿とさせるものがあるように思います。

■単独無酸素


栗城史多は、みずからの目標を『単独無酸素での七大陸最高峰登頂』と掲げていましたし、メディアにおいてもそれを売りにしていました。しかし、七大陸最高峰、つまりセブンサミットの中で、通常酸素ボンベを使用するのはエベレストだけで、あとは誰でも無酸素なのです。そういったハッタリもまた、今の登山ユーチューバーと似ている気がしますが、彼の場合、それが資金集めのセールスポイントになっていたのでした。

「単独」と言っても、ベースキャンプには日本から同行したスタッフや現地で徴用した10数人のシェルパやキッチンスタッフがいました。実際に登山においても、エベレストの案内人であるシェルパたちが陰に陽に彼をサポートしていたのです。それどころか、実際は酸素ボンベを使っていたというシェルパの証言もありました。

2009年9月、栗城は、初めてチョモランマ(エベレストの中国名)の北稜北壁メスナールート(標高8848メートル)に挑戦したのですが、7950メートル地点で体力の限界に達して下山を余儀なくされました。以後、8回挑戦するもののことごとく失敗するのでした。その初めての挑戦の際、当時、北海道のテレビ局のディレクターとして栗城を密着取材していた著者は、次にように書いていました。

 この十一年前の一九九八年秋、登山家、戸高雅史さんは、同じグレート・クーロワールを、標高八五〇〇メートル地点まで登っている。シェルパもキッチンスタッフも雇わない、妻と二人だけの遠征だった。戸高さんはこの絶壁をどういうふうに登ったのだろうかと夢想してみたりもした。
《せっかくプロの撮影スタッフが大がかりな機材を携えてここまで登ったのに……なんてもったいないんだ……》とも感じた。
 それにしても、頂上までの標高差は一〇〇〇メートルもあった。この差を栗城さんは克服できるのだろうか……?
 私には難しいと思えた。


戸高雅史さんは大分県出身の登山家ですが、これを読むと、栗城が言う「単独」が単なるメディア向けのセールトークにすぎなかったことがよくわかるのでした。

エベレストのような“先鋭的な登山”は別にしても、登山というのは、もともと戸高雅史さん夫妻のような孤独な営為ではないか。私などはそう考えるのです。だからこそ、戸高雅史さんのような登山は、凄いなと思うし尊敬するのです。

■登山の評価基準


登山には「でなければならない」という定義などはありません。それぞれが自分のスタイルで登るのが登山です。それが登山の良さでもあるのです。それが、登山がスポーツではあるけれど、他のスポーツとは違う文化的な要素が多分に含まれたスポーツならざるスポーツだと言われるゆえんです。

著者もこう書いていました。

 登山は本来、人に見せることを前提としていない。素人が書くのはおこがましいが、山という非日常の世界で繰り広げられる内面的で文学的な営みのようにも感じられる。


一方で、登山も他のスポーツと同じように、「定義」や「基準」が必要ではないかとも書いていまいた。

 しかし明快な定義と厳格なルールは必要だと、私は考える。登山はどのスポーツよりも死に至る確率が高い。そのルールが曖昧というのは、競技者(登山者)の命を守るという観点からも疑問がある。また登山界の外にいる人たちに情報を発信する際に、定義という「基準」がなければ、誰のどんな山行が評価に値するのか皆目わからない。
 栗城さんがメディアやスポンサー、講演会の聴衆に「単独無酸素」という言葉を流布できたのは、このような登山界の曖昧さにも一因があったように思う。 登山専門誌『山と溪谷』が、栗城さんについて『「単独・無酸素」を強調するが、実際の登山はその言葉に値しないのではないかと思う』とはっきりと批判的に書くのは、二〇一二年になってからだ。


私は、著者の主張には首を捻らざるを得ません。たとえ“先鋭的登山”であっても、登山に評価基準を持ち込むのは本来の登山の精神からは外れているように思います。はっきり言ってそんなのはどうでもいいのです。

■メディアと提携


栗城史多は、北海道の地元の高校を卒業したあと上京し、当時の「NSC(吉本総合芸能学院)東京校」に入学します。「お笑い芸人になりたかった」からです。しかし、半年で中退して北海道に戻ると、1年遅れて大学に入り、そこで(実際は他の大学の山岳部に入部して)登山に出会うのでした。

そして、NSCに入学したときから10年後の2011年、彼は、「よしもとクリエイティブ・エージェンシー(現・吉本興業株式会社)」と業務提携を結ぶことになります。著者は、「ある意味、十代のころの夢を叶えたのだ」と書いていました。

メディアと提携した「栗城劇場」の登山が始まったのは、2007年5月 のヒマラヤ山脈の チョ・オユー(8201メートル)からでした。

日本テレビの動画配信サイト「第2日本テレビ(後の日テレオンデマンド。二〇一九年サービス終了)」と提携して、連日、栗城自身が撮影した動画が同サイトに投稿されたのでした。それを企画したのは、「進め!電波少年」を手掛けた同局の土屋敏男プロデューサーでした。栗城史多には「ニートのアルピニスト」というキャッチコピーが付けられたそうです。

その壮行会の席で目にした次のような場面を、著者は紹介していました。

 二〇〇七年四月、栗城さんがチョ・オユーに出発する前日のことだ。東京都内の居酒屋でささやかな壮行会が持たれ、BCのカメラマンとして同行する森下さんも参加していた。
 土屋敏男さんともう一人、番組関係者と思われる四十歳前後の男性がそこにいた。栗城さんとはすでに何度か会っているようで親しげな様子だったという。その男性の口からこんな言葉が飛び出した。
「今回は動画の配信だけど、いつか生中継でもやってみたら? 登りながら中継したヤツなんて今までいないよね」


また、2009年からはYahoo!Japanともタッグを組み、同年7月のエベレスト初挑戦の際は、特設サイトが作られて、登山の模様が連日動画で配信され、山頂アタックの際は生中継もされて、パソコンの前の視聴者はハラハラドキドキしながら見入ったのでした。

その際、高度順応するための3週間の間に、栗城自身がカラオケとソーメン流しをして、それをギネスに申請するという企画も行われたそうです。しかし、その「世界最高地点での二つの挑戦」は、「危険を伴う行為なので認定できない」とギネスからは却下されたのだとか。

■「いい奴」と一途な性格


栗城史多は、お笑い芸人を夢見ていたほどなので人懐っこい性格だったようで、彼を知る人たちは、無茶をするけど「いい奴」だったと一様に証言しています。彼自身も、「ボク、わらしべ登山家、なんですよ」と言っていたそうで、そんな性格が人が人を呼んでスポンサーの輪が広がっていったのでした。人の懐に入る才能や営業力は卓越したものがあり、むしろ事業家の方が向いているのではないかという声も多かったそうです。

当時、私は、栗城史多にはまったく関心がなく、Yahoo!の中継も観ていませんが、ただ、彼が亡くなったというニュースだけは覚えています。北海道の時計店を経営しているという父親が、テレビのインタビューに答えて「今までよくがんばった」と言っているのが印象的でした。見ると、父親は身体に障害があるようで、それでよけいその言葉に胸にせまってくるものがありました。

でも、その一方で、父親には、「仰天するエピソードがある」のでした。「温泉を掘り当ててやる」という信念のもとに、店は従業員に任せて自宅の傍を流れる川の岸を16年間一人で掘りつづけて、1994年、ついに源泉を発見したのです。そして、2008年には温泉施設に併設したホテルが建築され、そのオーナーになったそうです。

栗城史多は「尊敬するのは父親です」といつも講演で言っていたそうですが、彼自身もその一途な性格を受け継いでいるのではないかと書いていました。

■「冒険の共有」


しかし、エベレスト挑戦も回を増すと、ネットでは登山家ではなく「下山家」だなどとヤユされるようになり、スポンサーからの資金も思うように集まらなくなって、彼も焦り始めていくのでした。

2012年の挑戦の際には、両手に重度の凍傷を負い、翌年、両手の指9本を第二関節から切断することになったのですが、しかし、その凍傷が横一列に揃えられた不自然なものであったことから、自作自演ではないかという疑惑まで招いてしまうのでした。

2016年には、下記のようにクラウドファンディングで資金を募り、2000万円を集めています。

CAMPFIRE
エベレスト生中継!「冒険の共有」から見えない山を登る全ての人達の支えに。

その中で、栗城は、「冒険の共有」として、次のように呼びかけています。

人は誰もが見えない山を登っています。山とは、自分の中にある夢や目標です。山に大きいも小さいもないように、夢にも大きいも小さいもなく、自分のアイデンティティーそのものです。

その自分の山に向かうことを誰かに伝えると、否定されたり馬鹿にされることもあるかもしれません。しかし、今まで挑戦を通して僕が見てきた世界は、成功も失敗も超えた「信じ合う・応援しあう」世界でした。

今までの海外遠征で僕が一番苦しかったのは、実は2004年に最初に登った北米最高峰マッキンリー(6194m)でした。

「この山を登りたい」と人に伝えると、「お前には無理だよ」と多くの人に否定されました。

そんな時、マッキンリーへ出発する直前に空港で父から電話があり、一言「信じているよ」という言葉をもらいました。その言葉が今も自分の支えになっています。

本当の挑戦は失敗と挫折の連続です。

このエベレスト生中継による『冒険の共有』の真の目的は、失敗も挫折も共有することで、失敗への恐れや否定という社会的マインドを無くして、何かに挑戦する人、挑戦しようとしている人への精神的な支えになることです。そんな想いから、今年も「冒険の共有」を行います。

皆さんと一緒にエベレストを登って行きます。応援よろしくお願いします。

栗城史多


しかし、その挑戦も失敗します。そして、2018年の死に至る8度目の挑戦へと進んでいくのでした。

■死に至る最後の挑戦


それは、追いつめられた末に、みずから死を選んだのだのではないかと言う人もいるくらい、切羽詰まった挑戦でした。 栗城が選択したのは、エベレストの中でも「「『超』の字がつく難関ルート」であるネパール側の南西壁のルートでした。しかも、AbemaTVとの契約があったためか、風邪気味で体調がすぐれない中での山行でした。案の定、標高7400メートル付近に設置したC3のテントで登頂を断念して、その旨BC(ベースキャンプ)に連絡を入れます。それで、ただちにC2に待機していたシェルパが救助に向かったのですが、しかし、栗城はシェルパの到着を待たずに下山をはじめるのでした。そして、途中、ヘッドランプの電池が切れるというアクシデントも重なり、滑落して遺体で発見されるのでした。

栗城の死について、ある支援者は、「淡々とした口調」で、こう言ったそうです。

「死ぬつもりで行ったんじゃないかなあ、彼。失敗して下りてきても、現実問題として行くところはなかった。もぬけの殻になるより、英雄として山に死んだ方がいい、って思ったとしても不思議はないよね。『謎』って終わり方だってあるしね。頂上からの中継はできなかったけど、エベレストに行くまでの過程で十分夢は実現した、と考えたのかもしれないし」


そして、こう「付け加えた」のだそうです。

「戦争で死ぬよりずっといいじゃないの」


著者の河野啓氏は、エベレストを舞台にした「栗城劇場」について、次のように書いていました。

 たとえば陸上競技の短距離走で「世界最速」と言えば、誰もが、ジャマイカのウサイン・ボルト選手を思い浮かべるはずだ。しかし「最初に百メートルで九秒台を記録した選手は?」と聞かれて名前が出てくる人は、よほどのマニアだろう。どのスポーツでも記録は上書きされ、「新記録」を樹立した選手に喝采が贈られる。
 だが、登山は違う。
 山の頂に「初めて」立った人物が、永遠に色褪せない最高の栄誉を手にするのだ。その後は「厳冬期に初めて」とか「難しい〇△ルートで」といった条件付きの栄光になる。
《そんなのイヤだ! 面白くない! 誰もやってないことがあるはずだ!》
 その答えとして、栗城さんは山を劇場にすることを思いついた。極地を映した目新しい映像と「七大陸最高峰の単独無酸素登頂」という言葉のマジックで、スポンサーを獲得していく。
 登山用具の進歩が一流の技術を持たない小さな登山家をエベレストの舞台に立たせ、テクノロジーの革新が遠く離れた観客と彼とをつなげた。


■見世物の登山


前の記事でも書きましたが、まるで栗城史多の死をきっかけとするかのように、2018年頃からネット上に登山ユーチューバーが登場するのでした。それはさながら、栗城史多のミニチュアのコピーのようです。

ニワカと言ったら叱られるかもしれませんが、彼らは、登攀技術や経験値や体力などそっちのけで、自撮りの登山をどんどんエスカレートしていくのでした。そこにあるのもまた、孤独な営為とは真逆な見世物の登山です。

そして、コロナ禍の苦境もあったとは言え、栗城を批判していた登山家たちまでもが人気ユーチューバーに群がり、まるでおすそ分けにあずかろうとするかのようにヨイショしているのでした。しかも、それは登山家だけではありません。登山雑誌も山小屋も山岳団体も同じです。無定見に栗城を持ち上げた日テレやNHKやYahoo!JapanやAbemaTVなどと同じように、“ミニ栗城”のようなユーチューバーを持ち上げているのでした。

その意味では、(もちろん皮肉ですが)栗城史多の登場は、今日の登山界におけるひとつのエポックメイキングだったと言っていいのかもしれません。

もっとも、その登山ユーチュバーも、僅か数年で大きな曲がり角を迎えているのでした。既にユーチューバーをやめる人間さえ出ていますが、それは栗城史多に限らず、ネットに依存した見世物の登山の宿命と言ってもいいでしょう。詳しくは、下記の関連記事をご参照ください。


関連記事:
ユーチューバー・オワコン説
2023.03.09 Thu l 本・文芸 l top ▲
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(イラストAC)


ガーシーのことが気になって仕方ない友人との会話。

■警察とのかけ引き


友人 日本に帰ると言ったり、帰るかわからないと言ったり、煮え切らないおっさんだな。50歳なんだろう。子どもと一緒じゃないか。
 警察との心理戦、かけ引きなんだろう。
友人 かけ引き?
 最新のアクセスジャーナルの動画では、FC2(このブログの管理会社)の高橋理洋元社長から依頼されたドワンゴに対する中傷で、警察が動いていると言っていたな。
友人 それで帰りづらくなっていると?
 それだけでなく、ガーシーが楽天の三木谷社長のスキャンダルを取り上げたのも、NHK党の立花党首がやらせたんだという話もしていた。ガーシーの「死なばもろとも」の暴露動画も、周辺にいいように利用され、話がどんどん広がっている感じだな。
友人 ガーシーの関係先を家宅捜索したのは「常習的脅迫」という容疑だったけど、「常習的脅迫」というのは暴力団を取り締まるための”罪名”らしいな。
 「暴力行為等処罰に関する法律」という、一般の刑法とは別の“特別刑法”の中に規定された容疑だよ。もともとは学生運動などを取り締まるために作られた法律だけど、今は主に暴力団に適用外されている。単なる脅迫ではない。そこがポイントだな。

■反社のネットワーク


友人 国会での陳謝の日(8日)が近づいてきたら、急にトルコに行くとか、やってることがわざとらしいな。
彼ら・・なりに考えた作戦なんだろう。普通に考えれば、帰国しない口実のためにトルコに行ったように思うけど、それも警察や世論に対する揺さぶりなんだと思う。
友人 なんでそこまでするのか? 往生際が悪いとしか思えん。
 伊藤喜之氏の『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』でもそれらしきことが書かれているみたいだけど、ドバイには日本社会に恨みを持つワルたちが集まっており、その中にガーシーが加わった。お互いの利害が一致して協力関係を築いたと言われている。
友人 なに、それ?
 結構、根は深いんだよ。反社のネットワークみたいなものにかくまわれているとも言える。その意味では「反権力」というのは、必ずしも間違ってない。もっともそれは、脱法的な組織=反社を「反権力」だと見做せばという話だけど。
友人 それだったら「反権力」ではなく、誰かさんが言う「脱権力」じゃないか?(笑)
 ガーシーが再三口にする「身の危険」というのは、表に出ていること以外に何かあるんじゃないかと思わせる。もちろん、個人的な借金問題もあるかもしれない。闇カジノにはまって作った借金なんだから、おのずとその素性はあきらかだろう。でも、それだけではない気がする。
友人 Yahoo!ニュースにあがっているような記事を見ると、単純で簡単な名誉棄損の問題のように見えるけどな。

■大手メディアの腰が引けた姿勢


 ガーシー問題でも、大手メディアのテイタラク、腰が引けた姿勢が目立つ。背景がまったく語られてない。ガーシーではなく、ガーシー、ガーシー一味・・と呼ぶべきなんだよ。だって、警察が家宅捜索した中に、ネットの収益を管理する合同会社・・・・というのがあったけど、あれなんか大きなヒントなのに、大手メディアは知ってか知らずかスルーしている。だから、ネットでいろんな憶測を呼ぶことになり、ガーシー問題が暇つぶしのオモチャになっている(オレたちもそうだけど)。
友人 メディアは警察の発表待ちなんだろうな。
 警察が発表したら、いっせいに報道しはじめるんだろう。いつものことだな。芸能界との関係も、暴露がどうだという問題だけじゃないよ。アクセスジャーナルの山岡氏は、ガーシーのことを「やから」と言っていたけど、そういった「やから」との関係が問題なんだよ。でも、テレビを牛耳る大手プロに忖度して、大手メディアはどこも見ざる言わざる聞かざるを決め込んでいる。
友人 ガーシー問題の本質は「やから」の問題ということか。
 フィリピンの「ルフィ」一味も、彼らが特殊詐欺で稼いだ金額は60億円以上と言われており、警察庁長官もそう発言している。しかし、「ルフィ―」一味に渡ったのは数億円にすぎない。あとはどこに消えたのか?という話だが、今の様子では、残りのお金が誰に渡ったのか、解明されるとはとても思えない。末端の小物ばかり捕まえて点数を稼ぐ”点数稼ぎ”や役所特有の”縦割り意識”など、いろいろ言われているけど、警察も所詮は(小)役人。児童虐待が起きるたびにやり玉にあがる児童相談所と同じで、事なかれ主義の体質を持つ公務員の組織にすぎない。ガーシーの問題も、国会議員のバッチと引き換えに、ウヤムヤに終わる可能性は高いだろうな。世論も、国会議員を辞めろという話に収斂されているし、辞めれば国民の溜飲も下がって幕引きだろう。

■「共感主義」の「暴走」


友人 でも、ガーシーと他の国会議員がどれほど違うのか?という気持もあるな。
 たしかに、ガーシーに投じる一票と、選挙カーの上で陰謀論やヘイトスピーチをふりまく候補者や、壇上で大仰に土下座して投票をお願いする候補者に投じる一票がどう違うのか。ガーシーの後釜は、ホリエモンの秘書兼運転手でNHK党副党首の肩書を持つ人物と決まっているらしいけど、ガーシーと、ひろゆきやホリエモンや成田悠輔や三浦瑠麗や橋下徹や落合陽一や古市憲寿がどう違うのか、というのはあるな。村上裕一氏が『ネトウヨ化する社会』で書いていた「共感主義」の「暴走」という観点から見れば、同工異曲としか思えない。ガーシーが消えても、また次のガーシー=ネット時代のトリックスターが出て来るだろうな。栗城史多が死んだあと、ミニチュアのコピーのような登山ユーチューバーが次々と湧いて出たのと同じだよ。しかも、栗城を批判した登山家たちが、節操もなく人気登山ユーチューバーに群がりヨイショしている。ユーチューバーの信者たちも、栗城を叩きながらミニチュアのコピーは絶賛する。ガーシーを叩いても、ひろゆきやホリエモンや成田悠輔には心酔するんだよ。
友人 ‥‥‥。


関連記事:
ガーシーは帰って来るのか?
続・ガーシー問題と議員の特権
ガーシー問題と議員の特権
2023.03.06 Mon l 社会・メディア l top ▲
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(public domain)


■バフムトの陥落


今日の夕方のテレビ東京のニュースは、いわゆる「ドンバスの戦い」の中で、最重要の攻防戦と言われるウクライナ東部の都市・バフムト(バフムート)において、バフムトを防衛するウクライナ軍をロシア軍が完全に包囲しており、バフムトの陥落が近づいていることを伝えていました。

YouTube
テレ東BIZ
ロシア軍近くバフムト包囲(2023年3月4日)

■誰が戦争を欲しているのか


こういったニュースを観ると、私たちは唐突感を抱かざるを得ません。というのも、私たちは、日頃、多大な犠牲を強いられているロシア軍には厭戦気分が蔓延し、敗北も近いと伝えられているからです。

たとえば、下記の記事などはその典型でしょう。

東洋経済ONLINE
プーチン激怒?ロシア軍と傭兵会社「内輪揉め」(2月25日)

日本のメディアが伝えていることはホントなのかという疑問を持たざるを得ないのです。そもそも核保有国のロシアに敗北なんてあるのかと思います。ロシアは国家存亡の危機にあると日本のメディアは書きますが、国家存亡の危機に陥ればロシアはためらうことなく核を使用するでしょう。そうなれば、国家存亡の危機どころか世界存亡の危機に陥るのです。核の時代というのは、そういうことなのです。勝者も敗者もないのです。

勝ったか負けたか、どっちが正しいかなんて、まったく意味がないのです。政治家は言わずもがなですが、メディアや専門家や左派リベラルの運動家や、そして国民も、そんな意味のない戦時の言葉でこの戦争を語っているだけです。

勝者も敗者もない戦争の先にあるのは破滅だけです。だからこそ、何が何でもやめさせなければならないのです。80歳のバイデンが主導する今のような武器援助を続けていけば、核を使用するまでロシアを追い込んでいくことにもなりかねないでしょう。

侵攻してほどなく、フランスのマクロン大統領の仲介で和平交渉が行われ、和平の気運も高まっていました。ところが、”ブチャの虐殺”が発覚したことで、ウクライナが態度を硬化させ、とん挫したと言われています。”ブチャの虐殺”に関してはいろんな説がありますが、何だかそこには和平したくない(させたくない)力がはたらいていたような気がしてなりません。誰が戦争を欲しているのかを考えることも必要でしょう。

中国が仲介に乗り出したことに対しても、日本のメディアでは、中国は「誠実な仲介者ではない」「習近平の平和イメージをふりまくためだ」「NATOの分断が狙いだ」などと、ゲスの勘繰りみたいな見方が大半ですが、しかし、中国以外はどこも和平に乗り出そうとしないのです。それどころか、欧米は武器の供与を際限もなくエスカレートするばかりなのです。

『Newsweek』(日本版)によれば、次期大統領選の共和党候補指名獲得レースに名乗りを上げたニッキー・ヘイリー元国連大使は、「大統領選に出馬する75歳以上の候補者に精神状態の確認検査を義務付けるべきだ」と言ったそうですが、笑えない冗談のように思いました。私たちだって、70歳になれば車の免許を更新する際に、認知機能のテストを受けなければならないのです。況や大統領においてをやでしょう。

■プロパガンダ


今日のテレ東のニュースは、次のように伝えていました。

(略)ウクライナ側は、バフムトに戦略的価値はほとんどないとしていますが、この都市をめぐる双方の莫大な損失が戦争の行方を左右する可能性があるという指摘も出ています。


でも、おととい(3月2日)のCNNのニュースは、こう伝えていました。

Yahoo!ニュース
CNN
ウクライナ軍、バフムートで「猛烈に抗戦」 ワグネルのトップが認める

(略)ウクライナのゼレンスキー大統領は、現時点でバフムート防衛が最大の課題になっていると強調。ロシア軍は同市周辺でじりじりと前進しているものの、ウクライナ軍は未だ退却しておらず、膠着(こうちゃく)状態に持ち込んでいると指摘した。


ゼレンスキーは、「バフムート防衛が最大の課題になっていると強調」していたのです。それが、戦況が不利になると、「バフムトに戦略的価値はほとんどない」と言い出しているのです。

戦争にプロパガンダが付きものであるのは、言うまでもありません。しかし、日本のメディアは、ウクライナのプロパガンダをプロパガンダとして伝えていません。あたかもニュース価値の高い真実のように伝えているのでした。そのため、私たちは、バフムト陥落のようなウクライナ不利のニュースに接すると唐突感を抱くことになるのでした。

ウクライナ戦争でもこのあり様なのですから、身近な”台湾危機”では、どれだけ日米政府のプロパガンダに踊らされているかわかったものではないでしょう。
2023.03.04 Sat l ウクライナ侵攻 l top ▲
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(2023年2月)


■ガーシーは帰って来ない


「どうでもいいことだけど、ガーシーってホントに帰って来るのかな?」と友人が言うので、私は、「帰って来ないよ」と答えました。友人は、「いくらガーシーでもそこまで国会をコケにしないだろう」と言うので、ではということで、食事代を賭けることになりました。

朝日新聞デジタルは、今朝(3月1日)の「ガーシー氏『陳謝』、8日に開催で調整」という記事の中で、次のように書いていました。

朝日新聞デジタル
ガーシー氏「陳謝」、8日に開催で調整

ガーシー氏は参院側に本会議場で陳謝する意向を文書で回答しているが、文書には帰国日などは明記されていない。このため与野党内には、ガーシー氏が実際に登院するのか、処分内容を受け入れるのかなどについては懐疑的な見方が根強い。


朝日新聞と言えば、元ドバイ支局長で昨年退社して現在もドバイに在住し、ガーシーに1年近く密着取材したと言われる伊藤喜之氏が、今月(3月17日)、講談社から『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』(講談社+α新書)という本を出版するそうです。ガーシー本人も、本の中に「黒幕A」として登場する秋田新太郎氏も、それぞれTwitterで本の宣伝をしていましたが、「目次」を見ると「元大阪府警の動画制作者」「朝日新聞の事なかれ主義」「王族をつなぐ元赤軍派」など、気になる見出しがいくつかありました。納税者であることを忘れてエンターテインメントとして見れば、これほど面白い悪漢ピカレスク小説はないのです。

■「だって詐欺師だよ…」


きわめつけは、昨日(2月28日)の集英社オンラインの記事でしょう。

集英社オンライン
〈帰国・陳謝〉を表明したガーシー議員、それでも側近・友人・知人が揃って「帰国しないだろう」と答える理由とは…「逮捕が待っている」「議員より配信のほうが儲かる」「だって詐欺師だよ…」

タイトルに全て集約されていますが、記事は次のように書いています。

ガーシー氏が帰国するXデーに注目が集まっている。だが、ガーシー氏と親しい複数の“仲間たち”は「それでも彼は帰国しないと思う」と口を揃えている。


また、次のような知人の言葉も紹介していました。

「(略)そもそも冷静に考えてください、彼は詐欺師として告発されて有名になった男ですよ。僕も昔、彼に金を貸したけど全然返金してくれなかった。今回、書面で『帰ります』と言ったからって、信用できますか?」


「議員のセンセイからしたら屈辱的にみえるかもしれませんが、彼からしたらなんてことないでしょう。これまでも借金の返金を延ばすためなら土下座だってしてきたし、ヤバイ人に脅されたりして死線をくぐり抜けてきた。そんな彼が一番恐れているのは逮捕、拘束されること。(略)」


国会で謝罪してもすぐにドバイに戻るという見方もありますが、それでは帰国したことになるので私の負けです。

でも、この記事も突っ込み不足で、「配信のほうが儲かる」という話も、どうしても配信を続けなければならない”裏事情”をそう言っているような気がしてなりません。それは、フィリピンの収容所に入ってもなお、闇バイトで集めた人間たちにスマホで指示して強盗までさせていた「ルフィ」たちと同じように思えてならないのです。

アクセスジャーナルは、ガーシーと「ポンジ・スキーム(投資詐欺の一種)である可能性が決めて高い」会社との関係を「追加情報」として伝えていました。

アクセスジャーナル
<芸能ミニ情報>第112回「ガーシー議員とエクシア合同会社」

案の定、昨日、日本テレビの取材に応じたガーシーは、帰国の意思はあるが「まだ悩んでいる」などと、発言を二転三転させているのでした。

YouTube
日テレNEWS
【ガーシー議員】“陳謝”の帰国は? 帰国の意思はあるが…

「懲役刑とかになったときに、僕からしたら意味不明になってくるんですよ。それを受けるためにわざわざ日本に帰るという選択肢を持っている人は、たぶんいないと思うんですよ」
(略)
「事情聴取されるのは全然いいんですよ。ただ、その先にパスポートを止められたり、『国会終わった後に逮捕しますよ』とかいうことをされてしまうと、俺は何のために日本に帰ったんやってなってくるんで」


ひろゆきも脱帽するような「意味不明」な屁理屈で、アッパレとしか言いようがありません。前は「身の危険があるから」帰らないと言っていましたが、途中から「逮捕されるから」に変わったのです。ただ、ガーシーが怖れているのは、やはり、「逮捕」より「身の危険」のような気がします。

■前代未聞の光景


現職の国会議員が「身の危険があるから」「逮捕されるから」帰国しないと言っているのです。それも、軍事クーデターが起きて、政敵から迫害される怖れがあるとかいう話ではないのです。

村のオキテを破ったので村八分にされるみたいな感じもなきしにしもあらずですが、だからと言って村八分にされる人間に理があるわけではないのです。参議院の採決にれいわ新選組が棄権したのも、大政党が国会を牛耳る”村八分の論理”を受け入れることができなかったからでしょうが、しかし、それは片面しか見てない”敵の敵は味方論”にすぎないように思います。

いづれにしても、「だって詐欺師だよ…」と言われるような国会議員の動向を日本中が固唾を飲んで見守っているのです。まさに”ニッポン低国”(©竹中労)と呼ぶにふさわしい前代未聞の光景と言えるでしょう。


追記:
私が見過ごしていたのか、その後アクセスジャーナルのサイトを見たら、YouTubeチャンネルでガーシー周辺の人脈について結構詳しく語っていたことがわかりました。「帰らないというより帰れないというのが真相だろう」という山岡氏の言葉が、この問題の本質を衝いているように思いました。

YouTube
アクセスジャーナルch
「不当拘束される」を理由に国会登院せず懲罰処分ガーシー議員。不当拘束は表向きでもっと危険な事が……帰国して陳謝できるのか?ついにガーシー踏み込み其の1
2023.03.01 Wed l 社会・メディア l top ▲
世界2023年3月号


ひろゆきというイデオローグ(1)からつづく

■「ひろゆき論」


社会学者の伊藤昌亮氏(成蹊大学教授)は、『世界』(岩波書店)の今月号(2023年3月号)に掲載された「ひろゆき論」で、ひろゆき(西村博之)の著書『ひろゆき流 ずるい問題解決技術』(プレゼント社)から、次のような文章を取り上げていました。

 昨今の若者は「いい大学を出たり、いい企業に入ったりして、働くのが当たり前」だという「成功パターン」から外れると、「もう社会の落伍者になってしまうから死ぬしかない」などと思い込みがちだが、しかしこうした「ダメな人」は「太古からずっといた」のだから、気に病む必要はない。むしろ「ダメをダメとして直視した」うえで、「チャンスをつかむ人」になるべきだと言う(略)。


そして、ひろゆきは、「ダメな人」でも「プログラマー」や「クリエイター」になれば、(会社員にならなくても)一人で稼ぐことができると言うのです。しかし、それは今から17年前の2006年に、梅田望夫氏が『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』で言っていたこととまったく同じです。何だか一周遅れのトップランナーのように思えなくもありません。

昨年の10月に急逝した津原泰水も、『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫)で、ITスキルを武器にしたヒッキー=ひきこもりたちの”反乱”を描いていますが、現実はそんな甘いものではありません(『ヒッキーヒッキーシェイク』のオチもそう仄めかされています)。

ネットの時代と言っても、私たちはあくまで課金されるユーザーにすぎないのです。言われるほど簡単に”あっち側”で稼ぐことができるわけではありません。ネットにおいては、金を掘る人間より金を掘る道具を売る人間の方が儲かるという箴言は否定すべくもない真理で、ひろゆきや梅田望夫氏のようなもの言いは、とっくにメッキが剥げていると言っていいでしょう。

フリーと言っても、昔の土木作業員の”一人親方”と同じで、大半は非正規雇用の臨時社員や契約社員で糊口を凌ぐしかないのです。ユーチューバーで一獲千金というのも、単なる幻想でしかありません。

もとより、ひろゆきの「チャンスを掴む」という言い方に、前述した「ずるい」「抜け道」「ラクしてうまくいく」というキーワードを当てはめれば、当然のように「楽してお金を稼ぐ」という考えに行き着かざるを得ません。極論かも知れませんが、それは、闇バイトで応募する昨今の振り込め詐欺や強盗事件の“軽さ”にも通じる考えです。そういった考えは、ひろゆきだけでなく、ホリエモン(堀江貴文)などにも共通しており、彼らの言説は、新手の“貧困ビジネス”の側面もあるような気がしてなりません。

■「戦後日本型循環モデル」


とは言え、「ダメな」彼らに、日本社会が陥った今の深刻な状況が映し出されていることもまた、事実です。

私は、『サイゾー』(2023年2・3月合併号)の「マル激トーク・オン・デマンド」にゲストで出ていた教育社会学者の本田由紀氏(東京大学大学院教授)の、次のような発言を思い出さざるを得ませんでした。

ちなみに、『サイゾー』の記事は、ネットニュース『ビデオニュース・ドットコム』の中の「マル激トーク・オン・デマンド」を加筆・再構成し改題して掲載したものです。

ビデオニュース・ドットコム
マル激トーク・オン・デマンド(第1136回)
まずは今の日本がどんな国になっているかを知るところから始めよう

本田氏は、1960年代から70年、80年代の高度経済成長期と安定成長期には、「教育」「仕事」「家族」の3つの領域の間に、「戦後日本型循環モデル」が成り立っていたと言います。

本田 (略)「教育」終えたら、高度経済成長期には新卒一括採用という世界に例がないような仕組みで順々に仕事に就くことができていました。「仕事」に就けば長期安定雇用と年功賃金が得られて、「日本型雇用慣行」などと言われていましたが、70、80、90年代はそれなりに経済が成長していたので解雇する必要もなく、企業は順々に賃金を上げることができていた。それに基づいて結婚して子どもを作ることができました。父親は上がっていく賃金を家族の主な支え手である女性たちに持って帰る。「家族」を支える女性たちはそれを消費行動に使い、家庭生活を豊かに便利にするとともに、次世代である子どもに教育の費用と意欲を強力に後ろから注ぎ込む存在でした。こういった関係性がぐるぐると成り立っていたということです。
(『サイゾー』2023年2・3月合併号・「国際比較から見る日本の“やばい”現状とその解」)


それは家族が崩壊する過程でもあったのですが、バブル崩壊でその「戦後日本型循環モデル」さえも成り立たなくなったのだと言います。

本田 (略)「仕事」は父が頑張る。「教育」は子が頑張る。「家庭」は母が頑張るといったように、それぞれの住んでいる世界が違うのです。たまに家に帰っても親密な関係性や会話が成り立ちづらいという状態が、機能としての家族の裏側にありました。
 一見すごく効率的で良いモデルのように見えるかもしれませんが、こういう一方向の循環が自己運動を始めてしまった。例えば「教育」においてはいかにも良い高校や大学、企業に入るかが自己目的化してしまい、学ぶ意味は置き去りに。「仕事」の世界でも、夫は自分が働き続けなければ妻も子どもも飢えるいう状態に置かれ、働く意味などを問うている暇はなくなりました。「家族」は先ほど見たように、父・母・子どもがそれぞれバラバラで、循環構造のひとつの歯車として埋め込まれてしまいました。
 つまり学ぶ意味も、働く意味も、人を愛する意味もすべてが失われたまま循環構造が回っていたのが、60,70,80年代の日本社会の形だったということです。変だなと思いながら、皆これ以上の生き方をイメージできず、この中でどう成功するかに駆り立てられていたというのが、バブル崩壊前の日本の形でした。しかしバブル崩壊によってこの問題含みのモデルさえ成り立たなくなり、今日に至っています。
(同上)


この本田氏の発言は、上記の「『いい大学を出たり、いい企業に入ったりして、働くのが当たり前』だという『成功パターン』から外れると、『もう社会の落伍者になってしまうから死ぬしかない』などと思い込みがちだ」というひろゆきの話とつながっているような気がしてなりません。

「学ぶ意味」も「働く意味」も「人を愛する意味」も持たないまま、「成功パターン」からも外れた人間たちが、「金が全て」という”唯物功利の惨毒”(©竹中労)の身も蓋もない価値観にすがったとしても不思議ではないでしょう。それも、楽して生きたい、楽してお金を稼ぎたいという安直に逃げたものにすぎません。

だからと言って、振り込め詐欺や強盗に走る人間はごく一部で、多くの人間は、親に寄生したり、ブラック企業の非正規の仕事に甘んじながら、負の感情をネットで吐き散らして憂さを晴らすだけです。彼らのITスキルはその程度のものなのです。誰でも、「プログラマー」や「クリエイター」になれるわけではないのです。

■非情な社会


『世界』の同じ号では、岸田政権が打ち出した「異次元の少子化対策」に関連して、「保育の貧困」という特集が組まれていましたが、保育だけでなく、、、、、もっと深刻な貧困の問題があるはずですが、左派リベラルや野党の優先順位でも上にあがって来ることはありません。何故なら、全ては「中間層を底上げする」選挙向けのアピールにすぎないからです。

総務省統計局の「2022年労働力調査」によれば、2021年の非正規雇用者数は2千101万人です。その中で、自分の都合や家計の補助や学費等のためにパートやアルバイトをしている人を除いた、「非正規雇用の仕事しかなかった」という人は210万人です。

また、内閣府の「生活状況に関する調査」によれば、2018年(平成30年)現在、満40歳~満64歳までの人口の1.45%を占める61.3万人がひきこもり状態にあるそうです。しかも、半数以上が7年以上ひきこもっているのだとか。一方、2015年(平成27年)の調査で、満15歳~満39歳の人口の1.57%に当たる54.1万人がひきこもり状態にあるという統計もあります。

厚労省が発表した「生活保護の現状」によれば、2021年(令和3年)8月現在、生活保護受給者は203万800人(164万648世帯)で、全人口に占める割合(保護率)は1.63%です。世帯別では、高齢者世帯が90万8千960世帯、傷病・障害者世帯が40万3千966世帯、母子世帯が7万1千322世帯、その他が24万8千313世帯です。

生活保護の受給資格(おおまかに言えば世帯年収が156万円以下)がありながら、実際に制度を利用している人の割合を示す捕捉率は、日本は先進国の中では著しく低く2割程度だと言われています。と言うことは、(逆算すると)およそ1千万人の人が年収156万円(月収13万円)以下で生活していることになります。

国の経済が衰退するというのは、言うなれば空気が薄くなるということで、空気が薄くなれば、体力のない人たちから倒れていくのは当然です。衰退する経済を反転させる施策も必要ですが、同時に、体力がなく息も絶え絶えの人たちに手を差し伸べるのも政治の大事な役割でしょう。しかし、もはやこの国にはそんな政治は存在しないかのようです。

ひろゆきが成田悠輔と同じような”イタい人間”であるのはたしかですが、イデオローグとしてのひろゆきもまた、政治が十全に機能しない非情な社会が生んだ“鬼っ子”のように思えてなりません。
2023.02.27 Mon l 社会・メディア l top ▲
ひろゆき論


■「ニューヨークタイムズ」の疑問


林香里氏(東京大学大学院教授)は、朝日の論壇時評で、アメリカで陰謀論の巣窟になっている掲示板の4chanを運営するひろゆき(西村博之)が、日本ではコメンテーターとしてメディアに重用され、「セレブ的扱い」を受けていることに「ニューヨークタイムズ」紙が疑問を呈していると書いていました。成田悠輔もそうですが、彼らに対する批判を過剰なコンプラによる逆風みたいな捉え方しかできない日本のメディアの感覚は異常と言ってもいいのです。

朝日新聞デジタル
(論壇時評)ネットと言論 現実世界へと滲みだす混沌 東京大学大学院教授・林香里

林氏が書いているように、ひろゆきは「カリスマ的有名人として男子高校生の間では『総理大臣になってほしい有名人』第1位」ですが、今やその人気は高校生にとどまらないのです。『女性自身』が、セルフアンケートツール・QiQUMOとTwitterで実施した「好きな“ネットご意見番”についてのアンケート」でも、ひろゆきは堂々の一位に選ばれているのです。それもこれもメディアが作った虚像です。

女性自身
好きな「ネットご意見番」ランキング 3位古市憲寿、2位中田敦彦を抑えた1位は?

■独特の優越感


林氏も記事で触れていましたが、社会学者の伊藤昌亮氏(成蹊大学教授)は、『世界』(岩波書店)の今月号(2023年3月号)に掲載された「ひろゆき論」で、今の相対主義が跋扈する世相の中で、ひろゆきとその信者たちが依拠する“価値”の在処を次のように指摘しているのでした。

(略)ひろゆきの振る舞い方は、弱者の見方をして権威に反発することで喝采を得ようとするという点で、多分にポピュリズム的な性格を持つものだ。しかもリベラル派のメディアや知識人など、とりわけ知的権威と見なされている立場に強く反発するという点で、ポピュリズムに特有の、反知性主義的な傾向を持つものであると言えるだろう。
(略)
 しかしその信者には、彼はむしろ知的な人物として捉えられているのではないだろうか。というのも彼の知性主義は、知性に対して反知性をぶつけようとするものではなく、従来の知性に対して新種の知性、すなわちプログラミング思考をぶつけようとするものだからだ。
 そこでは歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知に対して、いわば安手の情報知がぶつけられる。ネットでのコミュニケーションを介した情報収集能力、情報処理能力、情報操作能力ばかりが重視され、情報の扱いに長(た)けた者であることが強調される。
 そうして彼は自らを、いわば「情報強者」として誇示する一方で、旧来の権威を「情報弱者」、いわゆる「情弱じょうじゃく」に類する存在のように位置付ける。その結果、斜め下から権威に切り込むような挑戦者としての姿勢とともに、斜め上からそれを見下すような、独特の優越感に満ちた態度が示され、それが彼の信者をさらに熱狂させることになる。


リベラル派が言う「弱者」は、「高齢者、障害者、失業者、女性、LGBTQ、外国人、戦争被害者」などで、ひろゆきが言う「弱者」である「コミュ障」「ひきこもり」「うつ病の人」などは含まれていないのです。彼らはリベラル派からは救済されない。リベラル派は「特定の『弱者の論理』を押し付けてくるという意味で、むしろ『強者の論理』なのではないかと、彼らの目には映っているのではないだろうか」と、伊藤氏は書いていました。

■「ライフハックの流儀」


ひろゆきの方法論にあるのは、「プログラミング思考」に基づいた「ライフハックの流儀」だと言います。

 彼はその提言の中で、「ずるい」「抜け道」「ラクしてうまくいく」などという言い方をしばしば用いる(略)。そうした言い方は、その不真面目な印象ゆえに物議をかもすことが多いが、しかしこの点もやはり単なる逆張りではなく、まして彼の倫理観の欠如を示すものでもなく、むしろ「裏ワザ」「ショートカット」などの言い方に通じるものであり、ライフハックの流儀に沿ったものだと見ることができるだろう。


しかも、そういった「ライフハックの流儀」を個人の生き方や考え方だけでなく、社会批判にも適用するのがひろゆきの特徴であり、それが彼が熱狂的な信者を抱えるゆえんであると言うのです。

それは、ちょっとしたコツやテクニックさえあれば、人生のどこかに存在するショートカットキーを見つけることができるとか、高度にデジタル化した社会なのに、いつまでもアナログな発想からぬけきれない日本社会は「オワコン」だとかいった主張です。もちろん、その主張には、だからオレたち(ひろゆきが言う「弱者」)は浮かばれないんだ、という含意があるのは言うまでもありません。

私はつい数年前まで2ちゃんねるが5ちゃんねるに変わったことすら知らなかったような「情弱」な人間ですが、遅ればせながら5ちゃんねるに興味を持ち、5ちゃんねるのスレに常駐するネット民たちをウオッチしたことがありました。

ユーチューバーについてのスレでしたが、当然ながらお約束のように、そこでは信者とアンチのバトルが飽くことなく繰り広げられていました。

「羨ましんだろう」「悔しいんだろう」「嫌なら観るな」というのが彼らの常套句ですが、信者・アンチを問わず彼らの論拠になっているのがひろゆきが提唱する「ライフハックの流儀」です。まるで「お前の母さんでべそ」と同じように、どっちが「情弱」なのか、罵り合っているだけです。そこにあるのは、ネットの夜郎自大な身も蓋もない言葉が行き着いた、どんづまりの世界のようにしか思えませんでした。承認欲求とは自己合理化の謂いにほかならず、彼らが二言目に口にする自己責任論も、ブーメランのようにみずからに返ってくる自己矛盾でしかないのです。(つづく)

ひろゆきというイデオローグ(2)へつづく
2023.02.26 Sun l 社会・メディア l top ▲
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(public domain)


■議会政治の末路


Yahoo!ニュースにも転載されていますが、元『プレジデント』編集長の小倉健一氏が、「みんかぶマガジン」に下記のような記事を書いていました。

MINKABU(みんかぶマガジン)
ガーシー帰国でNHK党の最終局面「日ハム新庄監督、衆院比例1位で国政へ」”実権は比例2位の稀哲に

前の記事からの続きになりますが、ここには既成政党がお手盛りで行った政治改革=政界再編の末路が示されているような気がしてなりません。それは、日本の議会政治の末路であると言っても決してオーバーではないでしょう。

日本共産党の除名問題は、同党の無定見な野党共闘路線が招いた当然の帰結で、『シン・日本共産党宣言』の著者である「反党分子」(共産党の弁)は、言うなれば、野党共闘路線が生んだ“鬼っ子”のようなものと言えるでしょう。彼や彼に同伴する左派リベラルの“マスコミ文化人”たちは、そうやって野党共闘の肝である日米安保賛成・自衛隊合憲を日本共産党に迫っているのです。言うなれば、日本共産党は立憲民主党のようになれと言っているのです。除名問題は、そういった新たな戦前の時代を志向する翼賛体制による揺さぶりにほかならないのです。

もとより、NHK党も同じように、政治改革=政界再編の名のもとに、既成の議会政党が国会を私物化し自分たちで政権をたらしまわしするために行った、今の選挙制度と政党助成制度が生んだ“鬼っ子”と言えるでしょう。

有権者そっちのけで導入された、参議院のグダグダの選挙制度を理解している有権者は、どのくらいいるでしょうか。多くの有権者は、選挙制度を充分理解しないまま、唯々諾々と制度に従って投票所に向かっているだけなのかもしれません。

記事は、NHK党の立花党首の次のような発言を取り上げていました。

「ガーシー議員が、戸籍謄本だけNHK党にくれたら、立候補の手続きはこちらでぜんぶできてしまいます。もっと言うと、戸籍謄本の委任状さえ送ってもらったら、戸籍謄本すらこちらで手に入れることが可能です。ガーシー議員が当選したことによって、すごく、YouTuberたちが理解しやすくなったと思います」


そして、次回の衆院選挙についても、俄かに信じ難いのですが、立花党首は次のような“戦略”を披歴していると言うのです。

「衆院選挙は、参院選挙と違って、全国を11ブロックに分けた比例選挙が行われます。つまり、それぞれのブロックにリーダーが必要になってくるのです。例えばですが。東京ブロックはホリエモン(堀江貴文氏)に任せます。南関東ブロックは、ヒカルチームに任せます…(中略)。実は、北海道ブロックは新庄剛志さんに任せたいと考えていて、本人と話をしているところです。どっかで回答くれるという話で「立花さん、いいよね」(ママ)というようなことも言ってもらっています。新庄さんについては、北海道日本ハムファイターズの監督をしながら、立候補し、議員もできるのですよ。新庄さんの監督業が忙しいとなれば、比例リストの2番目に森本稀哲(ひちょり)さんを入れておけば、新庄さんが1カ月で議員を辞めても、稀哲さんが当選して議員活動ができますよね」。


記事は、「ガーシー議員の登院拒否問題は、これまで議論されることすらなかった日本の民主主義の在り方が問われている。パンドラの箱が開いてしまったのかもしれない」という言葉で結ばれていますが、お手盛りの政治改革=選挙制度がこのような“鬼っ子”を生み、いいように利用されている(付け込まれている)現実は、ある意味で日本の議会政治の欺瞞性をどんな反議会主義の革命党派よりもラジカルに暴き出していると言えなくもないのです。

一方、互いの利害が対立する既成政党は、三すくみの中で自分たちの既得権益を守ることしか念頭になく、彼らにできることは、せいぜいがガーシー問題に見られるように弥縫的な“鬼っ子”退治をするくらいです。グダグダの選挙制度や文字通り税金を食いものにする政党助成制度を、根本から問い直すなど望むべくもありません。
2023.02.25 Sat l 社会・メディア l top ▲
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(イラストAC)


■議員の特権


NHK党のガーシー議員に対して、参議院本会議は、22日、「議場での陳謝」の懲罰処分を賛成多数で可決しました。

処分の決定を受けて、参議院の議院運営委員会の理事会が開かれ、ガーシー議員が陳謝する機会は、来週にも開かれる次の本会議とすることで与野党が合意したそうです。

また、議院運営委員会の理事会の合意を受け、参議院の尾辻議長が本会議への出席を命じる通知を出すとともに、石井議院運営委員長がNHK党に対しガーシー議員に応じる意思があるか確認を求める文書を手渡し、来週27日の午前11時までに回答するよう伝えたということです(NHKの報道より)。

仮に来週に開かれる本会議に欠席して「陳謝」しなかった場合、もっとも重い「除名処分」に進むのは既定路線だと言われています。

ガーシー議員は、昨年の7月に当選したあとも、ずっとドバイにいて一度も国会に登院していませんが、歳費(給料)や期末手当等、既に1780万円が支給されているそうです。日本では、一人の国会議員に対して、年間およそ1億円の税金が使われていると言われているのです。

ガーシー議員の噴飯ものの言い分や一部でささやかれている彼の背後にいる人物などの問題はさて措くとしても、彼のような議員が生まれたのは、国会議員には選良=上級国民にふさわしいさまざまな特権があるからでしょう。

特権は議員本人だけではありません。各政党には政党助成金制度もあります。政党助成金(政党交付金)の総額は、政党助成法という法律で、国勢調査で確定した人口一人あたりに250円を乗じた(掛けた)金額になると定められており、令和2年の国勢調査で算出すると約315億円になるそうです。ガーシー議員を担いだNHK党のような政党が生まれたのも、このような美味しい特権があるからでしょう。

しかも、特権ゆえなのか、ガーシー議員やNHK党に対するメディアの報道も腰が引けたものばかりで、そのヤバさにはほとんど触れられていません。

アジア記者クラブのTwitterを見ていたら、次のようなツイートがありました。

アジア記者クラブ(APC)
@2018_apc




■官尊民卑


これは日本の官僚(公務員)問題にも通じるものですが、法律を作るのが彼らなのですから、その特権を剥奪するのは泥棒に縄をゆわせるようなものです。

しかし、日本社会に抜きがたくあるこの官尊民卑の考えに支配されている限り、今のような国家(税金)を食いものにする構造は永遠に続くでしょう。そして、国民はいつまでも苛斂誅求に苦しむことになるのです。

脱税や公金チューチューや生活保護などに対して、役所やメディアのリークに踊られて当事者をバッシングする光景もおなじみですが、そうやってアホな国民の損得勘定(感情)を煽るのが彼らの常套手段です。そして、政治家や役人は、アホな国民を嘲笑いながら、自分たちが税金をチューチューしているのです。

ガーシーに投票した人間だけが問題ではないのです。ガーシーを批判している人間たちも同じ穴のムジナなのです。

そういった国家を食いものにする構造と目先の損得勘定で踊らされる愚民たちに引導を渡さない限り、NHK党のような政党やガーシーのような議員はこれからも出て来るでしょう。
2023.02.23 Thu l 社会・メディア l top ▲
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■東野篤子教授の言説


今月の24日がウクライナ侵攻1年にあたるため、メディアでもウクライナ関連の報道が多くなっています。バイデンがキーウを電撃訪問したのも、まさか1周年を記念したわけではないでしょうが、”支援疲れ”が言われる中、あらためて支援への強い意志を内外にアピールする狙いがあったのでしょう。バイデンのウクライナに対する入れ込みようは尋常ではないのです。

朝日新聞も「ウクライナ侵攻1年特集」と題してさまざまな記事を上げていますが、19日にアップされた下記の東野篤子・筑波大教授のインタビュー記事には、強い違和感を抱かざるを得ませんでした。と言うか、おぞましささえ覚えました。

朝日新聞デジタル
「徹底抗戦」が必要なわけ 21世紀の侵攻、許してはいけない一線

東野教授は、この戦争の落としどころを問うのは「ウクライナに酷だ」として、次のように述べていました。

「戦えば戦うほど犠牲が出てかわいそうだ」という指摘も間違いではありませんが、それは目先の犠牲を甘受してでもウクライナの独立と領土、主権を守りたいというウクライナの世論を見誤っていると思います。


 ウクライナ人の多くが言うような、「ロシア軍を完全に追い出して」戦争が終わることは、はっきりいって非現実的だと思っています。どこかで諦めないといけない。一方で、これだけの犠牲を払わされたうえ、とても不本意な終わり方をしてしまったときに、今と比べものにならないくらいの復讐心が生まれてしまうでしょう。

 それが避けられないからこそ、ウクライナが完全に納得するまで戦う以外の道はないことを、侵攻開始から1年が経ったいま、改めて感じています。


また、ウクライナの「降伏」が「21世紀に起きた軍事侵攻の帰結であってはいけない」、そうなれば「武力による現状変更のハードルは世界各所で下がることでしょう」と言います。「軍事侵攻で得をする国が出てくれば、中小諸国が『緩衝地域』扱いされ、大国の横暴に従属せざるを得ないような国際秩序を黙認」することになると言うのです。

つまり、ウクライナ国民が撃ちてし止まんと叫んでいるので、悪しき国際秩序を阻止するために犠牲になっても構わない。気が済むまで戦えばいい、と言っているようなものです。

大国の横暴をあげるなら、まずアメリカにそれを言うべきでしょう。アメリカが「世界の警察官」として、今までどれだけの国に侵攻し大量虐殺を行ってきたか。今回もアメリカは、ウクライナをけしかけて戦争をエスカレートさせているのです。それが、アメリカの対ロシア戦略なのです。

ウクライナ国民が徹底抗戦を支持しているというのも、昔の日本のことを考えればわかることです。憲法が停止され、国家総動員体制にある今のウクライナで戦争反対を主張すれば、拘束されるか、へたすればスパイとみなされて銃殺されるでしょう。戦時下の特殊事情をまったく考慮せず、あたかも国民が徹底抗戦を望んでいるかのように言挙げするのは、悪質なデマゴーグとしか言いようがありません。

埴谷雄高は、「国家の幅は生活の幅より狭い」と言ったのですが、私たちにとっていちばん大事なのは自分の生活です。国家から見れば、人民は自分勝手なものなのです。でも、それは当たり前なのです。

「愛国」主義は、自分の生活より国家を優先することを強いる思想です。それは独裁国家と地続きのものです。東野教授が言うような国家のために犠牲になることを是とする考えは、文字通り戦前回帰の独裁思想にも連なるものと言えるでしょう。

■ウクライナ民族主義の蛮行


一方、今回の戦争には、地政学上の問題だけでなく、ウクライナという国のあり様も関係しており、そういった側面からも見る必要があります。ウクライナはネオナチが跋扈する(というか、支配した)国で、ウクライナ民族主義=西欧化を旗印に、アゾフ連隊のようなネオナチの民兵を使って、国内の人口の3分の1を占めるロシア語話者を弾圧、民族浄化を行ってきたのです。同時に、アゾフ連隊は左翼運動家やLGBTや少数民族のロマなどにも攻撃を加えたのです。ウクライナには、ヨーロッパ随一と言われるほど統一教会が進出していますが、国際勝共連合がアゾフ連隊を支援していたという話もあります。そういったウクライナ民族主義の蛮行は欧米でも非難の声が多かったのですが、戦争がはじまると「可哀そうなウクライナ」の大合唱の中にかき消されてしまったのでした。

大事なのは、どうすれば戦争をやめさせることができるか、どうすれば和平のテーブルに付かせることができるかを考えることでしょう。でも、東野教授は最初から思考停止しているのです。それは知識の放棄と言わねばなりません。思考停止したあとに残るのは、「勝ったか負けたか」「敵か味方か」の戦時の言葉だけです。

■民衆連帯の視点


私たちにとっても、この戦争は他人事ではありません。ウクライナ侵攻により、エネルギー価格、特に天然ガスの価格が上昇し、それが電気料金の値上げになり、さらには小売価格に跳ね返り、今のような物価高を招いているのです。小麦などの食料価格の上昇も同じです。資源大国のロシアに経済制裁を科した影響が、私たちの生活を直撃しているのです。だからこそ、自分たちの生活のためにも戦争反対の声をあげるべきなのです。

何度も言うように、私たちに求められているのは、ウクライナ・ロシアを問わず「戦争は嫌だ」「平和な日常がほしい」という民衆の素朴実感的な声に連帯することです。国家の論理ではなく、市井の生活者の論理に寄り添って戦争を考えることなのです。その輪を広げていくことなのです。

しかし、侵攻から1年を迎えて開催が予定されている日本の反戦集会の多くでスローガンに掲げられているのは、国家の論理・戦時の言葉ばかりです。平和を希求する民衆連帯の視点がまったく欠落しているのです。ミュンヘン安保会議に合わせてヨーロッパ各地で開かれた反戦集会では、明確に「ウクライナへの武器供与反対」を訴えています。しかし、日本の反戦集会ではそういった声はごく少数です。

バイデンがキーウを電撃訪問して、更なる支援を表明したことで戦争の悲劇はいっそう増すでしょう。ミュンヘン安保会議に出席したウクライナのクレバ外相が、戦闘機だけでなく、非人道兵器として国際条約で禁止されているクラスター弾やバタフライ地雷の供与をNATOに要求したという報道がありましたが、ゼレンスキーが志向しているのは手段を選ばない徹底抗戦=玉砕戦です。東野教授の主張も、そんなゼレンスキーの徹底抗戦路線をなぞっているだけです。

ロシアからドイツに天然ガスを送っていた海底パイプラインのノルドストリームが、昨年9月爆発された事件について、ピューリッツァー賞受賞記者でもあるアメリカの調査報道記者のシーモア・ハーシュ氏は、バイデン大統領の命令を受けたCIAの工作でアメリカ海軍が破壊したことを暴露したのですが、誰が戦争を欲しているのか、誰が戦争をエスカレートさせているのかを端的に示す記事と言えるでしょう。

アジアにおいても、ノルドストリーム爆破と同じような謀略によって、戦争の火ぶたが切って落とされる危険性がないとは言えないでしょう。

北朝鮮のICBMにしても、メディアは北朝鮮が軍事挑発を行っていると盛んに書いていますが、どう見ても軍事挑発を行っているのは米韓の方です。米韓が軍事演習を行って挑発し、それに北朝鮮が対抗してICBMを撃っているというのが公平な見方でしょう。

ICBMが日本のEEZ(排他的経済水域)の内や外に落下したとして大々的に報道され、まるでEEZが”領海”であるかのような言い方をしていますが、EEZは国際条約で認められた「管轄権」が及ぶ海域ではあるものの、ただ線引きにおいて周辺国の主張が重なる部分が多く、確定しているわけではありません。日本のEEZは中国や韓国や台湾のEEZと重複しており、内や外という言い方もあくまで国内向けで、対外的にはあまり説得力はないのです。

このようなプロパガンダが盛んになるというのは、アジアにおいても戦争を欲している国(アメリカ)の影が色濃くなっているからでしょう。対米従属「愛国」主義の国は、(与党も野党も右も左も)それに引き摺られて”新たな戦前の時代”を招来しようとしているのです。
2023.02.21 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲
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■所得制限撤廃で8兆円が必要


岸田首相が突如として打ち出した「異次元の少子化対策」が、具体的に進められようとしています。ここでも立憲民主党をはじめとする野党は、推進側にまわり岸田首相にハッパをかけているのでした。

現在の子ども手当(児童手当)は、3歳未満の子ども1人につき月額1万5千円、3歳~小学生までは1万円(第3子以降は1万5千円)、中学生は1万円が支給されています。一方、所得制限があり、子ども2人と年収103万円以下の配偶者の場合、年収ベースで960万円が所得制限の限度額で、それ以上は児童1人当たり月額一律5000円が特例給付されています。ただ、昨年(2022年)の10月に所得制限が強化され、夫婦どちらかが年収1200万円以上の場合は、特例給付の対象外になったのでした。

ところが、僅か数ヶ月で、「異次元の少子化対策」として、大幅に緩和し増額する方針があきらかにされたのでした。

報道によれば、現在、政府・自民党は、第2子以降の支給額の増額、支給対象年齢を高校生までに引き上げ、所得制限の撤廃等を検討しているそうです。

具体的には、第2子を3万円、第3子を6万円とする案が検討されており、最大で3兆円が必要になるそうです。また、支給対象を高校生まで引き上げたり、所得制限を撤廃したりすれば、子ども手当(児童手当)に必要な予算は、2022年度の約2.0兆円から5.8兆円へと一気に3倍近くにまで膨れ上がるそうです。

それ以外に、自治体でも医療費を無償にしたり、独自で子ども手当を支給したりしていますので、子どものいる家庭では、結構な金額の手当て(公金)が入る仕組みになっているのです。

もちろん、そのツケはどこかにまわってくるのです。「異次元の少子化対策」の財源として、既に与党内から消費税の引き上げの声が出ています。社会全体で子どもを支えるという美名のもと、消費増税が視野に入っているのは間違いないでしょう。

少子化が深刻な問題であるのは論を俟ちませんが、しかし、お金を配れば子どもを産むようになるのかという話でしょう。そもそも結婚をしない生涯未婚率も年々増加しているのです。

内閣府が発表した最新の「少子化社会対策白書」によれば、1970年には男性1.7%、女性3.3%だった生涯未婚率が、2020年には男性28.3%、女性17.8%まで増加しているのです。結婚しないお一人様の人生は、もはやめずらしくないのです。特に男性の場合、4人に1人が生涯独身です。しかも、近い将来、男性の3人に1人、女性の4人に1人が結婚しない時代が訪れるだろうと言われています。

軍備増強と軌を一にして「異次元の少子化対策」が打ち出されたことで、お国のため産めよ増やせよの時代の再来かと思ったりしますが、いづれにしても価値観が多様化した現代において、お金を配れば出産が増えると考えるのは、如何にも官僚的な時代錯誤の発想と言わねばなりません。

顰蹙を買うのを承知で言えば、”副収入”と言ってもいいような、結構な金額の手当て(公金)を手にしても、結局、子どものために使われるのではなく、ママ友とのランチ代や家族旅行の費用や、はては住宅ローンの補填などに消えるのではないかという意地の悪い見方もありますが、中でも万死に値するような愚策と言うべきなのは、立憲民主党などが要求している所得制限の撤廃です。

そこには、上か下かの視点がまったくないのです。この格差社会の悲惨な状況に対する眼差しが決定的に欠けているのです。もっと厳しい所得制限を設けて、その分を低所得の子ども家庭に手厚く支給するという発想すらないのです。

■深刻化する高齢者の貧困


「異次元の少子化対策」も大事かもしれませんが、高齢者や母子家庭や非正規雇用の間に広がる貧困は、今日の生活をどうするかという差し迫った問題です。でも、真摯にその現実に目を向ける政党はありません。野党も票にならないからなのか、貧困問題よりプチブル向けの大判振舞いの施策にしか関心がありません。だから、成田悠輔のような”下等物件”(©竹中労)の口から「高齢者は集団自決すればいい」というような、身の毛もよだつような発言が出るのでしょう。

成田悠輔の発言は、古市憲寿と落合陽一が以前『文學界』の対談で得々と述べた、「高齢者の終末医療をうち切れ」という発言と同じ背景にあるものです。人の命を経済効率で考えるようなナチスばりの“優生思想”は、ひろゆきや堀江貴文なども共有しており、ネット空間の若者たちから一定の支持を集めている現実があります。そういった思考は、現在、世情を賑わせている高齢者をターゲットにした特殊詐欺や強盗事件にも通じるものと言えるでしょう。

しかし、テレビ離れする若者を引き留めようと、無定見に彼らをコメンテーターに起用したメディアは、ニューヨークタイムズなど海外のメディアが成田悠輔の発言を批判しても、「世界中から怒られた」などとすっとぼけたような受け止め方しかできず、成田自身も何事もなかったかのようにテレビに出続けているのでした。その鈍磨な感覚にも驚くばかりです。

■ネットの卓見


今日、ネットを見ていたら、思わず膝を打つような、次のようなツイートが目に止まりました。と同時に、こういう無名の方の書き込みを見るにつけ、あたらめて知性とは何か、ということを考えないわけにはいきませんでした。

Kfirfas
@kfirfas





追記:
2月20日、立憲民主党と日本維新の会が、現行の児童手当に関して、所得制限を廃止する改正案を衆議院に共同で提出したというニュースがありました。所得制限を廃止するということは、上記で書いたように、モデル家庭で年収960万から一律5000円の特例給付になるケースや、年収1200万円から特例給付も対象外になるケースを廃止するということです。つまり、そんな高所得家庭を対象にした”救済”法案なのです。にもかかわらず、法案提出のパフォーマンを行っていた立憲の女性議員は、「これは社会全体で子育て家庭を応援するという大きなメッセージになります」と自画自賛していました。私は、それを見て立憲民主党は完全に終わったなと思いました。社会全体で応援しなければならないのは、先進国で最悪と言われる格差社会の中で、最低限の文化的な生活を営むこともできないような貧困にあえぐ人々でしょう。そんな1千万人も喃々なんなんとする人々は、今の物価高で文字通り爪に火を灯すような生活を強いられているのです。明日をも知れぬ命と言っても決してオーバーではないのです。政治がまず目を向けなければならないのはそっちでしょう。
2023.02.19 Sun l 社会・メディア l top ▲
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■“未確認飛行物体”


タモリではないですが、既に”新たな戦前の時代”が始まっているような気がしてなりません。

たとえば、“未確認飛行物体”などと、まるでUFO襲来のようにメディアが大々的に報じている中国の気球も然りで、どうして急にアメリカが気球の問題を取り上げるようになったのか、唐突な感は否めません。今まで気球は飛んでなかったのか。何故、F22のような最新鋭の戦闘機が出撃して空対空ミサイルで撃墜するという手荒い方法を取ったのか。首をかしげざるを得ないことばかりです。

しかも、アメリカが騒ぎはじめたら、さっそく日本も属国根性丸出しで同調して、過去に気球が飛んできたことをあきらかにした上で、今度飛んで来たら自衛隊機で撃墜できるようにルール(?)を変更するなどと言い出しているのでした。過去に飛んできたときは、政府はほとんど無反応だったのです。当時の河野太郎防衛相も記者会見で、「安全保障に問題はありません」とにべもなく答えているのです。それが今になって「防衛の穴だ」などと言って騒いでいるのでした。

アメリカは、空から情報を収集する偵察用の気球だと言っていますが、撃墜した話ばかりで、アメリカの軍事施設を偵察していたという具体的な証拠は何ら示されていません。それどころか、オースティン国防長官は、今月の10日に撃墜した3つの気球は中国のものではなかったと語り、何やら話が怪しくなっているのでした。

昨日のワイドショーで、女性のコメンテーターが、「人工衛星を使って情報収集するのが当たり前のこの時代に、どうしてこんな手間のかかる古い方法で情報収集しようと考えたのですかね。中国の意図がわかりません」と言っていましたが、それは冷静になれば誰もが抱き得る素朴な疑問でしょう。今どきこんなミエミエの偵察活動なんてホントにあるのかという話でしょう。

一部でナチスの宣伝相・ヨーゼフ・ゲッベルスにひっかけて、「ゲッベルス」と呼ばれているおなじみの防衛研究所の研究員は、西側諸国との軍事対立を想定して、「アメリカの弱点を探るために」試験的に飛ばしている可能性がある、としたり顔で解説していました。

中国政府は、民間の気象観測用の気球だと言っていますが、中国政府の話も眉唾で、ホントは空から自国の国民を監視するために飛ばした気球ではないかという話があります。それがたまたま季節風に乗って流れたのではないかと言うのです。

とどのつまり、時間が経てば何事もなかったかのように沈静化し、メディアも国民もみんな忘れてしまう、その程度のプロパガンダにすぎないように思います。

■中露が主導する経済圏


考えてみれば、今のように米中対立が先鋭化したのはここ数年です。とりわけ2021年8月のアフガンからの撤退をきっかけに、いっそう激しくなった気がします。

アフガンでは20年間で戦費1100兆円を費やし、米兵7000人が犠牲になったのですが、それでも勝利することはできず、みじめな撤退を余儀なくされたのでした。アメリカは、戦後、「世界の警察官」を自認し、世界各地で戦争を仕掛けて自国の若者を戦場に送りましたが、一度も勝利したことがないのです。文字通り連戦連敗して、とうとう唯一の超大国の座から転落せざるを得なくなったのでした。

それをきっかけに、新興国を中心にドル離れが進んでいます。アメリカのドル経済圏に対抗する中国とロシアが連携した新たな経済圏が、BRICSを中心に広がりはじめているのです。

それを裏付けたのが今回のウクライナ侵攻に対する経済制裁です。前も引用しましたが、ジャーナリストの田中良紹氏は、次のように書いています。

(略)ロシアに対する経済制裁に参加した国は、国連加盟国一九三ヵ国の四分の一に満たない四七ヵ国と台湾だけだ。アフリカや中東は一ヵ国もない。米国が主導した国連の人権理事会からロシアを追放する採決結果を見ても、賛成した国は九三ヶ国と半数に満たなかった。
米国に従う国はG7を中心とする先進諸国で、BRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)を中心とする新興諸国はバイデンの方針に賛同していない。このようにウクライナ戦争は世界が先進国と新興国の二つに分断されている現実を浮木彫りにした。ロシアを弱体化させようとしたことが米国の影響力の衰えを印象づけることにもなったのである。
(『紙の爆弾』2022年7月号・「ウクライナ戦争勃発の真相」)


突如浮上した米中対立には、こういった背景があるのではないか。今回の気球も、その脈絡から考えるべきかもしれません。

私たちは、いわゆる”西側”の報道ばかり目にしているので、ロシアや中国がアメリカの強硬策に守勢一方で妥協を強いられているようなイメージを抱きがちですが(そういったイメージを植え付けられていますが)、ロシアや中国は、以前と比べると一歩もひかずに堂々と対峙しているように見えます。それどころか、むしろ逆に、アメリカに力がなくなったことを見透かして、新興国を中心に自分たちが主導する経済圏を広げているのでした。

■中国脅威論


一方、日本は、米中対立によって、敵基地先制攻撃という防衛政策の大転換を強いられ、巡航ミサイルの「トマホーク」の購入を決定した(させられた)のでした。

当初は2026年度から購入する予定でしたが、昨日(14日)、浜田靖一防衛相が、2023年度に前倒しして一括購入することをあきらかにしてびっくりしました。報道によれば、最大で500発を2113億円で購入するそうです。前倒しするというのは、その分別に買い物をするということでしょう。アメリカからそうけしかけられたのでしょう。

しかも、日本が購入する「トマホーク」は旧式の在庫品で、実戦ではあまり役に立たないという話があります。「世界の警察官」ではなくなったアメリカの防衛産業は、兵器を自国で消費することができなくなったので、その分他国(同盟国)に売らなければなりません。とりわけ防衛産業(産軍複合体)と結びつきが強い民主党政権は、営業に精を出さなければならないのです。そのため、ロシアのウクライナ侵攻だけでなく、東アジアでも「今にも戦争」のキャンペーンをはじめた。それが、今の”台湾有事”なのです。

日本にとって中国は最大の貿易相手国です。しかも、勢いがあるのはアメリカより中国です。アメリカの尻馬に乗って最大の貿易相手国を失うようなことがあれば、日本経済に対する影響は計り知れないものになるでしょう。そうでなくても先進国で最悪と言われるほどの格差社会を招来するなど、経済的な凋落が著しい中で、ニッチもサッチも行かない状態までエスカレートすると、先進国から転落するのは火を見るよりあきらかです。日頃の生活実感から、それがいちばんわかっているのは私たちのはずなのです。この物価高と重税を考えると、軍事より民生と考えるのが普通でしょう。

でも、今は、そんなことを言うと「中国共産党の手先」「売国奴」のレッテルを貼られかねません。いつの間にか、与党も野党も右も左も、中国脅威論一色に塗られ、異論や反論は許さないような空気に覆われているのでした。「人工衛星でスパイ活動する時代に気球で偵察するの?」という素朴な疑問も、一瞬に打ち消されるような時代になっているのでした。右も左もみんなご主人様=アメリカの足下にかしづき、我先に靴を舐めているのです。

■”新たな戦前の時代“の影


共産党の除名騒ぎも、共産党はご都合主義的な二枚舌をやめて、自衛隊合憲や日米安保容認に歩調を合わせろという、翼賛的な野党共闘派からのメッセージと読めなくもないのです。そこにもまた、”新たな戦前の時代”の影がチラついているような気がしてなりません。

これも既出ですが、先日亡くなった鈴木邦男氏は、かつて月刊誌『創』に連載していたコラム「言論の覚悟」の中で、次のように書いていました。

(略)それにしても中国、韓国、北朝鮮などへのロ汚い罵倒は異常だ。尖閣諸島をめぐっては、「近づく船は撃沈しろ」と叫ぶ文化人もいる。「戦争も辞さずの覚悟でやれ!」と言う人もいる。テレビの政治討論会では、そんな強硬な事を言う人が勝つ。「今、中国と戦っても自衛隊は勝てる」などとロ走る人もいた。
(略)70年前の日米開戦の前も、そう思い、無責任な本がやたらと出版された。いや、あの時は、「戦争をやれ!」と政府や軍部に実際に圧力をかけたのだ。
 東条英機のお孫さんの由布子さんに何度か会ったことがある。戦争前、一般国民からもの凄い数の手紙が来たという。段ボール何箱にもなった。その内容は、ほとんどが攻撃・脅迫だったという。「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というものばかりだったという。
 国民が煽ったのだ。新聞・出版社も煽った。
(『創』2014年9・10月合併号・「真の愛国心とは何か」)


また、(引用が長くなりますが)続けてこうも書いていました。

(略)強硬で、排外主義的なことを言うと、それで「愛国者」だと思われる。それが、なさけない。嫌中本、嫌韓本を読んで「胸がスッとする」という人がいる。それが愛国心だと誤解する人がいる。それは間違っている。それは排外主義であって愛国心ではない。(略)
 今から考えて、「あゝあの人は愛国者だった」と言われる人達は、決して自分で「愛国者だ」などと豪語しなかった。三島由紀夫などは自決の2年前に、「愛国心という言葉は嫌いだ」と言っていた。官製の臭いがするし、自分一人だけが飛び上がって、上から日本を見てるような思い上がりがあるという。当時は、その文章を読んで分からなかった。「困るよな三島さんも。左翼に迎合するようなことを書いちゃ」と思っていた、僕らが愚かだった。今なら分かる。全くその通りだと思う。もしかしたら、46年後の今の僕らに向かって言ったのかもしれない。
 また、三島は別の所で、「愛国心は見返りを求めるから不純だ」と書いていた。この国が好きだというのなら、一方的に思うだけでいい。「恋」でいいのだと。「愛」となると、自分は愛するのだから自分も愛してくれ、自分は「愛国者」として認められたい、という打算が働き、見返りを求めるという。これも46年後の日本の現状を見通して言ってる言葉じゃないか。そう思う。
(同上)


”極右の女神”ではないですが、「愛国ビジネス」さえあるのです。もちろん、それは”右”だけの話ではありません。”左”やリベラルも似たか寄ったかです。

立憲民主党などは、上記の河野太郎防衛相(当時)の安全保障上問題ないという発言を国会で取り上げて、認識が甘かったのではないかと批判しているのでした。政府与党は危機感が足りないとハッパをかけているのです。それは、「早く戦争をやれ!」と手紙を送りつけてきた戦前の国民と同じです。

再び煽る人間と煽られる人間の競演がはじまっているのです。国体を守るために本土決戦を回避して、”昨日の敵”に先を競ってすり寄って行ったそのツケが、このような愚かな光景を亡霊のように甦らせていると言えるでしょう。


関連記事:
『永続敗戦論』
2023.02.15 Wed l 社会・メディア l top ▲
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■物価高と重税


私は自炊しているのでスーパーによく買い物に行くのですが、最近の物価高には恐怖を覚えるほどです。値上げと言っても、そのパーセンテージが従来より桁違いと言ってもいいくらい大きいのです。しかも、これからも値上げが続くと言われているのです。

値上げは食品だけにとどまらず、あらゆる分野に及んでいます。たしかに、「資源価格の上昇」「エネルギー価格の高騰」という大義名分があれば、どんな商品でもどんなサービスでも値上げは可能でしょう。何だか値上げしなければ損だと言わんばかりに、我先に値上げしている感すらあるのでした。

それどころか、値上げは民間だけの話ではないのです。 厚生労働省は、介護保険料や、75歳以上が入る後期高齢者医療制度の保険料も、引き上げる方向で調整に入ったというニュースがありました。また、自治体レベルでの住民税や国民健康保険料や介護保険料(自治体によって負担額が違う)も、引き上げが当たり前のようになっています。

昨年12月の東京新聞の記事では、「昨今の物価高の影響で22年度の家計の支出は前年度に比べ9万6000円増えており、23年度はさらに4万円増える」と書いていました。

東京新聞
物価高で家計負担は年間9万6000円増、来年度さらに4万円増の予想 それでも防衛費のために増税の不安

でも、生活実感としては、とてもそんなものではないでしょう。

財務省は、令和4年(2022年)度の「所得に対する各種税金と年金や健康保険料などの社会保障負担の合計額の割合」である国民負担率が、46.5%となる見通しだと発表しています。ちなみに、昭和50年(1975年)の国民負担領は25.7%で、平成2年(1990年)は38.4%でした。さらに、近いうちに50%を超えるのは必至と言われているのです。

日本は重税国家なのです。昔、北欧は社会保障が行き届いているけど税金が高いと言われていました。しかし、今の日本は、税金は高くなったけど、社会保障は低い水準のままです。

これも何度も書いていることですが、生活保護の捕捉率は、ヨーロッパ各国がおおむね60~90%であるの対して、日本は20%足らずしかありません。そのため、日本においては、生活保護の基準以下で生活している人が1千万人近くもいるのです。彼らにとって、この空前の物価高は、成田悠輔ではないですが、「死ね」と言われているようなものでしょう。

価格は需要と供給によって決まるという市場経済の原則さえ、もはや成り立たなくなっている感じで、何だか官民あげた“カルテル国家”のような様相さえ呈しているのでした。

もちろん、資源国家であるロシアによるウクライナ侵攻と、それに伴う経済制裁が、このような事態を招いたのは否定できないでしょう。

そこに映し出されているのは、臨界点に達しつつある資本主義の末期の姿です。植民地主義による新たな資源や市場の開拓は望むべくもなく、資本主義国家はロシアや中国の資源大国による”兵糧攻め”に、半ばパニックに陥っていると言っても過言ではありません。でも、それは、身の程知らずにみずから招いたものです。メディアは、ロシアは追い込まれていると言いますが、追い込まれているのはむしろ私たち(資本主義国家)の生活です。

だったら、和平に動けばいいように思いますが、そんな指導力も判断力も失っているのです。それどころか、ウクライナの玉砕戦にアメリカが同調しており、私たちの生活は、ウクライナとアメリカの戦争遂行の犠牲になっている、と言っていいかもしれません。

■ロシアの敗北はあり得ない


そんな中、アメリカのシンク・タンクのランド・コーポレーションが、「ロシア・ウクライナ戦争に対して、"Avoiding a Long War"と題する」提言を発表したという記事がありました。

21世紀の日本と国際社会 浅井基文Webサイト
ロシア・ウクライナ戦争:「長期戦回避」提言(ランド・コーポレーション)

上記サイトによれば、2023年1月の「提言」は以下のとおりです。

提言①:ロシアは核兵器使用に踏み切る可能性がある。したがって、核兵器使用を未然に防止することがアメリカの至上優先課題(a paramount priority)である。

提言②:局地戦に押さえ込むことが至上課題だが、ロシアがNATO同盟国に攻撃を仕掛ける可能性が出ている。(したがって、局地戦で終わらせることが至上課題となっている。)

提言③:国際秩序の観点から見た場合、ウクライナの領土的支配を2022年12月時点以上に広げることの利益、言い換えれば、ロシアの2022年12月時点での支配ライン維持(を黙認すること)の不利益は自明とは言えない。

提言④:戦争継続によってウクライナはより多くの領土を回復できるかもしれないが、戦争継続がアメリカの利益に及ぼす影響を考慮しなければならない。

提言⑤:ロシア、ウクライナのいずれによる完全勝利もあり得ず、また、平和条約締結による政治的解決はアメリカの利益に合致するが近未来的には非現実的であり、現状維持の休戦協定を当面の着地点とする。

要するに、(当たり前の話ですが)核保有国・ロシアの敗北はあり得ないということです。そういった現状認識のもとに、「長期戦の回避」=「現状維持の休戦」が現実的だと提言しているのでした。もとより、国民生活が疲弊する一方のアメリカやEUは、もうこれ以上ゼレンスキーやバイデンの戦争に付き合う猶予はないはずです。

世界は既に、”第三次世界大戦”の瀬戸際に立っていると言ってもいいかもしれません。ロシアやアメリカの保守派は、ゼレンスキーは”第三次世界大戦”を引き起こそうとしている、と言っていましたが、あながち的外れとは言えないように思います。実際に、失われた領土を取り返すまで「平和はない」、そのために(ロシア本土を攻撃できる)戦闘機を寄越せ、とゼレンスキーの要求はエスカレートする一方なのです。

今の空前の物価高に対して、ヨーロッパをはじめ世界各地で大規模なデモが起きていますが、その元凶がウクライナ戦争にあるという視点を共有できれば、(日本を除いて)世界的な反戦運動に広がる可能性はあるでしょう。アメリカ国民の中でも、バイデンのウクライナ支援に賛成する国民は半分もいないのです。アメリカは一枚岩ではなく、修復できないほど分断しているのです。その分断が、アメリカの凋落をいっそう加速させるのは間違いないでしょう。「戦争反対」が自分たちの生活を守ることになる、という考えが求められているのです。

それは、ウクライナ戦争に限らず、バイデンの新たな(やぶれかぶれの)世界戦略で、大きな負担を強いられつつある対中国の防衛力増強も同じです。アメリカの言うままになると、再び「欲しがりません、勝つまでは」の時代が訪れるでしょう。防衛増税とはそういうことです。立憲や維新は、防衛増税に反対と言っていますが、防衛力の増強そのものに反対しているわけではありません。清和会などと同じように、税金で賄うことに反対しているだけです。もっとも、清話会が主張するように国債を使えば、戦前のように歯止めが利かなくなるでしょう。

■共産党の除名騒ぎ


それにつけても、日本では今の物価高を糾弾する運動がまったくないのはどうしてなのか。左派リベラルも、物価高を賃上げによって克服するという、岸田首相の「新しい資本主義」に同調しているだけです。じゃあ、賃上げに無縁な人々はどうすればいいんだという話でしょう。本来政治が目を向けるべき経済的弱者に対する視点が、まったく欠落しているのです。連合のサザエさんこと芳野友子会長が、自民党の招待に応じて、今月26日の自民党大会に出席する方向だというニュースなどは、もっとも愚劣なかたちでそれを象徴していると言えるでしょう。

しかも、左派リベラルは、立憲民主党や連合がそうやって臆面もなく与党にすり寄っているのを尻目に、「党首公選制」をめぐる日本共産党の除名問題がまるで世界の一大事であるかのように、大騒ぎしているのでした。それも除名された元党員が「編集主幹」を務める出版社から、共産党への提言みたいな本を書いた”マスコミ文化人”たちが中心になって、鉦や太鼓を打ち鳴らしているのでした。本の宣伝のために騒いでいるのではないかとヤユする向きもありますが、そう思われても仕方ない気がします。

一方、除名された元党員も、自分たちの出版社とは別に、先月、文藝春秋社から党を批判する本を出版しているのです。共産党の肩を持つわけではありませんが、何だか最初から周到に準備されていたような気がしないでもありません。本人は否定しているようですが、そのうち『文藝春秋』あたりで共産党批判をくり広げるのが目に見えるようです。除名された元党員は、条件付きながら自衛隊合憲論者のようなので、今の時代はことのほか重宝されセンセーショナルに扱われるでしょう。

今回の除名騒ぎの背景にあるのは、野党共闘です。言うなれば、共産党の野党共闘路線がこのような鬼っ子を生んだとも言えるのです。

とは言え、(曲がりなりにもと言いたいけど)破防法の調査対象団体に指定されている共産党に、「党首公選制」の導入を主張すること自体、今まで一度も共産党に票を投じたこともない私のような”共産党嫌い”の人間から見ても、メチャクチャと言わざるを得ません。共産党の指導部が、「外からの破壊攻撃」と受け止めるのは当然でしょう。共産党の指導部や党員たちは、今回の除名騒ぎに対して、立憲と維新の連携や自民党へのすり寄りに見られるような、議会政治の翼賛体制化と無関係ではないと見ているようですが、一概に「的外れ」「独善的」「開き直り」とは言えないように思います。

「結社の自由」を持ち出して反論していた志位委員長について、「お前が言うか」という気持もありますが、ただ、言っていることは間違ってないのです。「結社の自由」や「思想信条の自由」というのは、結社を作るのも、その結社に加入するのも脱退するのも自由で、その自由が保障されているということであって、それと結社内の論理とは別のものです。結社に内部統制がはたらくのは当然で、「言論の自由」という外の概念が必ずしも十全に保障されないのは、最初から承知のはずです。ましてや、政治的な結社は、綱領に記された特定の政治思想の下に集まった、言うなれば思想的に武装した組織なのです。思想的紐帯に強弱はあるものの、政治結社というのは本来そういうものでしょう。にもかかわらず、政治結社に外の論理である「言論の自由」を持ち込み、それを執拗に求めるのは、別の意図があるのではないかと勘繰られても仕方ないでしょう。

某”マスコミ文化人”は、共産党より自民党の方がむしろ「言論の自由」があると言っていましたが、そんなのは当たり前です。国家権力と表裏の関係にある政権与党と、曲がりなりにも”反国家的団体”と見做されて監視されている政党を同列に論じること自体、メチャクチャと言うか、稚児じみた妄言と言わざるを得ません。

私が日本共産党を描いた小説として真っ先に思い浮かべるのは、井上光晴の『書かれざる一章』です。『書かれざる一章』は、戦前に書かれた小林多喜二の『党生活者』に対する反措定のような小説ですが、第一次戦後派の文学者や知識人たちは、リゴリスティックな”無謬神話”で仮構された日本共産党の唯一絶対的な前衛主義と向き合い、その欺瞞に満ちた党派性を告発したのでした。

今回の除名騒ぎは、そんな問題意識と無縁に生きた”マスコミ文化人”たちが、古い政治に依拠したミエミエの猿芝居を演じているだけです。それに、大衆運動に「限界系」なる排除の論理を持ち込むような人間に、共産党の民主集中制を批判する資格があるのかと言いたいのです。私には、目くそ鼻くそにしか見えません。

(くどいほど何度もくり返しますが)大事なのは右か左かではなく上か下かです。それが益々リアルなものになっているのです。でないと、見えるものも見えなくなるでしょう。
2023.02.08 Wed l 社会・メディア l top ▲
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(イラストAC)


■渡辺優樹容疑者の共犯者として逮捕


今回の連続強盗事件は、EXITの兼近の番組降板が取り沙汰されるような思わぬ方向に波及しています。と言うのも、兼近に関しては、2012年に札幌市内で起きた1千万円窃盗事件で逮捕されたことが既に公けになっていましたが、今回の事件で、何と「ルフィ」こと渡辺優樹容疑者の共犯者として逮捕されていたことがあきらかになったからです。

兼近は、その前年の2011年にも、女子高生の売春を斡旋したとして売春防止法違反で逮捕されており、札幌時代は結構なワルだったことが想像できるのですが、それどころか、渡辺優樹容疑者の手下だったという話さえ出ているのでした。

余談ですが、渡辺優樹容疑者は、首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗死刑囚と同じ別海町の出身です。地元の高校を卒業して道内の大学に進学したのですが、大学時代にススキノでアルバイトを始めてから学校にも来なくなり、人が変わったという同級生の話がありました。

俄に信じ難いのですが、アクセスジャーナルは、下記の動画で、兼近は「広域暴力団○○連合系の企業舎弟」だったと言っていました。さらに驚くべきことに、ガーシーのトバイ人脈にも関係しているという話さえあると言うのです。

アクセスジャーナルch
指示役ルフィとされる男との関係が明らかになったEXIT兼近。共犯事件に加え企業舎弟の過去も。連続極悪事件とドバイ住人との関係性追及。

兼近への批判について、“コンプラの暴走”というような声もありますが、ホントにそうなのか。

私たちがうかがい知れない“深い事情”が伏在しているのではないかと思ったりもします。前も書きましたが、ガーシーに関する強制捜査も、著名人に対する名誉棄損は入口にすぎず、本丸は他の犯罪の疑惑が持たれている「ドバイ人脈」だという指摘がありますが、それが兼近にも飛び火するのではないかと言うのです。

■兼近の父親のトラブル


『FLASH』は、2年半前に、札幌でリフォーム会社をやっている兼近の実父が、裁判沙汰になっている顧客とのトラブルを取り上げていますが、その中で、「俺にはヤクザの不動産屋が付いている」と某広域暴力団の名前を出して凄んだという、相手側の証言を伝えていました。

本人は否定していますが、父親が口にしたと言われる某広域暴力団というのが、渡辺容疑者らの特殊詐欺事件に関連して、2020年の2月に合同捜査本部が家宅捜査した札幌の山口組系の団体と同じなのです。しかも、兼近が一緒に逮捕された窃盗事件は、渡辺容疑者が飲食店をはじめる資金を集めるためと言われていますが、逮捕当時の渡辺容疑者の肩書は「不動産業」でした。時期的にはズレがありますが、これは偶然なのだろうかと思いました。

smart FLASH
EXIT「兼近大樹」の父親がリフォーム工事をめぐり裁判沙汰

■お涙頂戴の弁明


ススキノで仕事をしていた知人の話では、ススキノは狭い世界なので、ワルたちがつるんで犯罪に走るのは普通に考えられることでめずらしいことではないと言っていました。兼近も(本人の話では)子どもの頃極貧の家庭で育ち、ススキノに流れて来た若者の一人ですが、ススキノではそういった若者たちのすぐ近くに「金のためなら何でもする」ワルたちの”友達の輪”があり、犯罪と隣り合わせのような日常があったのでしょう。

売春斡旋による逮捕歴が発覚した際には、吉本興業の剛腕で「若気の至り」みたいな話として切り抜けたのですが、今度はそうはいかないかもしれません。

ただ、芸能マスコミには、兼近のお涙頂戴の弁明を称揚し、過去は過去なので前向きに生きてほしいと、芸能界もファンもみんな応援しているかのような報道が目立ちます。兼近を批判するのは、無慈悲な人間みたいな感じさえあるのでした。

しかし、公序良俗のリゴリズムに与するわけではありませんが、実際に”半グレ”で歌のうまい若者が歌手になったり、顔がきれいな女の子がタレントやモデルになったりする例はありますし、YouTubeがいわゆる”反社”の新たなシノギになっている現実もあるのです。それは、芸能人が独立すると干されるような芸能界のアンタッチャブルな顔と表裏の関係にあるものです。言うまでもなく、独立した芸能人を干すのにテレビも加担しており、テレビも共犯関係にあると言えるのです。

兼近が売春防止法違反で逮捕された件について、私はつまびらかには知りませんが、要するにヤクザまがいの女衒ぜげんのようなことをしていたのでしょう。お金を巻き上げるために、親しい女子高生を得意の話術で説き伏せて(半ば脅して)売春するように仕向けたのかもしれません。そこから垣間見えるのは、おぞましいとしか言いようのない、ワル特有の他人(女性)に対する非情さです。にもかかわらず、「かねちー、カッコいい」なんて言っている女性ファンは、ホストに入れ込み金づるにされるのと同じような心理なのかもしれません。

■本人は過去を忘れても過去は本人を覚えている


「本人は過去を忘れても過去は本人を覚えている」と言ったのは柳美里ですが、ホントに「過去は過去」で済ませるような話なのかと思います。しかも、過去と言っても僅か11年前のことです。渡辺容疑者と一緒に逮捕された翌年(2013年)、兼近は吉本総合芸能学院(NSC)東京校に入学。そして、前のコンビを解消したあと、2017年にEXITを組んだのでした。それは、売春防止法違反の逮捕から7年後、渡辺容疑者と一緒に逮捕されてから6年後です。ちょろい人生だと思ったとしてもおかしくないでしょう。

しかも、2012年の事件をきっかけに、経営していた飲食店が潰れ、(おそらく闇金に)莫大な借金を抱え追い込まれた渡辺容疑者らはフィリピンに渡り、今に至る特殊詐欺事件に手を染めたと言われているのです。兼近が渡辺容疑者らと組んで行った窃盗事件は、単なる「過去」とは言えないのです。兼近は、ただ騙されただけと言っているようですが、窃盗事件では、兼近はマンションを管理している不動産会社の社員だという偽の社員証を出して、鍵屋に部屋を開錠させる役割を担っているのでした。偽の社員証も然りですが、自分がやっていることが犯罪だとわかっていたのです。それで「騙された」もないでしょう。

フィリピンの収容所で、渡辺容疑者の手下と言われる今村磨人容疑者が、上半身裸のまま寝そべって、スマホで「一日1万円です」とか何とか電話している盗み撮りの動画が放送されていましたが、それは自分たちのためにやっていると言うより、誰かに「やらさせている」としか思えませんでした。背後にいる闇の勢力が収容所の中の彼らをそこまで必死にさせている、と考えた方がいいでしょう。

どこかで誰かが舌を出してほくそ笑んでいるとしたら、兼近の弁明も一瞬にして瓦解してしまうでしょう。もちろん、お笑い芸人と言えども、プロダクションにとっては商品なので、兼近の発言にも吉本興業の思惑がはたらいているのは言うまでもありません。

■「自伝的小説」と吉本興業


吉本は、一昨年、過去の悪行を逆手に取り、兼近に「自伝的小説」の『むき出し』を書かせて(!?)、芥川賞や直木賞の胴元の文藝春秋社から出版したのですが、それにより、兼近は、何とフジテレビの「めざまし8」や「ワイドナショー」でコメンテーターに起用され、他人の事件に対してこましゃくれたことをコメントするまでになったのでした。これも吉本の力のなせる業と言うべきかもしれません。

2019年に兼近の売春防止法違反の逮捕歴を報じたのは、実は『週刊文春』でした。その際、吉本は、「人権侵害」だとして、「法的措置」も「検討している」と強く反発したのです。ところが、2021年に兼近はその文藝春秋社から小説を出版したのでした。両者の間で何らかの”手打ち”が行われたと考えるのが普通でしょう。今回の新たなスキャンダルとも言うべき騒動について、文春が完全にスルーしているのは驚きですし、いつもの文春からすればきわめて不自然ですが、そこには抗えない”大人の事情”があるからでしょう。吉本の方が一枚上手だったと言うべきかもしれません。

総合エンターテインメント企業として政権に食い込み、今や政府の仕事を委託されるまでになった吉本興業ですが、森功著『大阪府警暴力団担当刑事』(講談社)によれば、昭和39年(1964年)の山口組に対する第一次頂上作戦を行った兵庫県警の捜査資料のなかに、舎弟7人衆のひとりとして、吉本興業元会長(社長)の林正之助の名前が載っていたそうです。

お笑い芸人たちが、兼近に対して「前向きに生きてほしい」と激励するのも、吉本がテレビのお笑い番組の枠をほぼ独占し、絶対的な権力を持っているからで、彼らはただ吉本に動員されているにすぎないのです。そんな吉本を忖度するだけの文春や芸能マスコミのヘタレぶりにも呆れるばかりです。

上記の「自伝的小説」の中で、未成年の女の子を中絶させたとか、中学時代(だったか)にいじめたクラスメートがのちに自殺したとかいった話が出てくるのですが、兼近はSNSでそれはフィクションだと答えています。逮捕歴に関する弁解じみた話は真実で、新たなスキャンダルになるような都合の悪い話は「フィクション」だと言うのです。涙で弁解する一方で、都合の悪いことは「フィクション」「誤解」「ネタ」のひと言で済ませ開き直っているような感じさえあるのでした。

過去に犯罪歴があってもやり直すチャンスはあるべきだという声もありますが、芸能界は私たちが住んでいる世界とは違う”特殊な世界”だということを考える必要があるでしょう。竹中労は、フライデー事件の際、「この世の中には面(つら)はさらしたい、有名にはなりたい、ゼニは稼ぎたい、でも自分の生活は隠しておきたいなんてそんなムシのいい話はないでしょう」とたけしを批判したのですが、もとより、インスタなどを見てもわかるとおり、芸能人はみずからのプライバシーを切り売りすることも厭わない、イメージを商売にする”特殊な”人間たちです。であれば、プライバシーにリクスが伴うのは当然で、過去の犯罪歴がイメージを損ない致命傷になる場合だってあるでしょう。「つら」をさらす仕事をしている限り、それは仕方のないことだとも言えるのです。本人は、過去と真摯に向き合うというようなことを言っているみたいですが、それは今のタワマンに住んでいるような生活を守るために向き合うと言っているだけで、最初から話があべこべなのです。

仮に百歩譲って兼近の弁明を受けれ入れたとしても、では、女子高生を売春させたり、特殊詐欺や強盗事件の主犯格の人間と一緒に窃盗をはたらいた人間の芸に笑うことができるのか、という話でしょう。とどのつまり、それに尽きるのです。


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『芸能人はなぜ干されるのか?』
2023.02.01 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
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(public domain)


■高官たちの相次ぐ辞任


ロシアのウクライナ侵攻から1年が経ちますが、最近、ウクライナで政府の高官たちが相次いで辞任している、という報道がありました。

BBC NEWS JAPAN
ウクライナ政府高官が相次ぎ辞任 ゼレンスキー大統領、汚職対策に着手

記事によれば、下記の高官たちが辞任したそうです。

キリロ・ティモシェンコ大統領府副長官
ヴャチェスラフ・シャポヴァロフ国防副大臣
オレクシー・シモネンコ副検事総長
イワン・ルケリヤ地域開発・領土担当副大臣
ヴャチェスラフ・ネゴダ地域開発・領土担当副大臣
ヴィタリー・ムジチェンコ社会政策担当副大臣
ドニプロペトロウシク、ザポリッジャ、キーウ、スーミ、ヘルソンの5州の知事

記事にあるように、キリロ・ティモシェンコ大統領府副長官は大統領選のときにゼレンスキー陣営のキャンペーンに携わっていた、ゼレンスキー大統領の側近中の側近で、ロシア侵攻後はウクライナ政府のスポークスマンを務めていました。

この他に、オレクシイ・レズニコフ国防相にも疑惑の目が向けられている、と記事は書いていました。

■汚職認識指数


しかし、これは今にはじまったことではないのです。前も書きましたが、ロシア侵攻前から、ウクライナは名にし負う汚職国家として知られていました。

政府高官の汚職はその一端にすぎず、人身売買や違法薬物の製造なども以前より指摘されていたのです。昨年、国連薬物犯罪事務所(UNODC)が、「薬物に関する年次報告書」で、ロシア侵攻によって、ウクライナ国内の「違法薬物の製造が拡大する恐れがあると警告した」というニュースも、このブログで取り上げました。

関連記事:
ウクライナ侵攻で薬物製造拡大の恐れ

これなども、「かわいそうなウクライナ」のイメージが裏切られるようなニュースと言えるでしょう。

ロシアは、政治や経済をマフィアが支配する「マフィア国家」だとよく言われていましたが、ウクライナも五十歩百歩なのです。ロシアやウクライナで言われる新興財閥オルガルヒというのは、マフィアのフロント企業のことです。

汚職・腐敗防止活動を行っている国際NGO団体のトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)の「汚職認識指数」によれば、ウクライナは、180の国と地域の中で、2022年が116位、2021年が122位でした。

TIの「汚職認識指数」は、世界経済フォーラムの「年次報告書」でもその方法が採用されているくらい、信頼度が高いものです。

トランスペアレンシー・インターナショナル
汚職認識指数(2022年)

ちなみに、ロシアは、2022年が137位で、2021年が136位です。

今、世情を賑わせている広域強盗事件で、「ルフィ」と呼ばれる人物がフィリピンの入管施設の収容所からテレグラムを使って指示を出していたとして、あらためてフィリピンの収容所や刑務所の腐敗がクローズアップされていますが、そのフィリピンは、2022年がウクライナと同じ116位で、2021年はウクライナより上(良)の117位です。つまり、ウクライナはフィリピンと同じくらい腐敗した国なのです。

■武器の横流し疑惑


しかも、ウクライナの腐敗は、BBCの記事にあるような「役人が食料を高値で購入している」とか「ぜいたくな生活を送っている」とかいったレベルにとどまりません。

ウクライナに節操のない軍事支援を行うことのリスクは、かねてより指摘されていました。

ひとつは、武器の横流しです。時事通信も、次のような記事を書いていました。

JIJI.COM(時事通信)
国際支援の陰で汚職懸念 武器流用や着服の疑いも―有識者ら「監察機関設置を」・ウクライナ

支援が有効に機能してないのではないか、つまり、底に穴が空いたバケツに水を注いでいるようなものではないか、とずっと言われていました。

■ネオナチ


それからもうひとつ、ウクライナはアゾフ連隊のような民兵が跋扈するような、ネオナチが支配する国だったので、ヨーロッパ各地からネオナチの傭兵が多く参戦しており、彼らがウクライナでアメリカやヨーロッパの最新兵器の使用法を会得することも懸念されていました。私も下記の記事で書きましたが、そのことによって、ヨーロッパにネオナチの暴力が拡散する怖れが指摘されているのでした。

関連記事:
ウクライナに集結するネオナチと政治の「残忍化」

いつその暴力が自分たちに向かって来るかもしれないヨーロッパの国が、軍事支援に逡巡するのはむべなるかなと思いますが、しかし、結局、バイデンの”強硬策”に押し切られているのが現状です。でも、バイデンの”強硬策”とは、とどのつまり、自分の手は汚さずに戦争をけしかけて、今までと同じように覇権を維持しようとする、唯一の超大国の座を転落したアメリカの新たな世界戦略にすぎません。それは、“台湾危機”も同じです。

日本のメディアは、ずっとうわ言のように中国経済は崩壊すると言い続けて来ました。にもかかわらず、気が付いたら中国はアメリカの向こうを張る経済大国になっていたのです。今もまた、ロシアは瀕死状態にあり、ロシアが白旗を上げる日は近い、と熱に浮かされるように言い続けています。ホントにそうなのか。

政府がアメリカに隷属しているので、メディアも同じように隷属しているだけではないのか。クイズではないのですから、ウクライナかロシアかという二者択一がナンセンスなのではないか。そう思えてなりません。

ここからはくり返しになりますが、それにしても誰も停戦を言わない不思議を考えないわけにはいきません。ゼレンスキーは、奪われた領土を奪還するまで戦争はやめないと言っています。しかし、ウクライナの国民の3分の1は、ウクライナ語は話せずロシア語しか話せないのです。でも、2004年に行われた大統領選で親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ前首相が当選したことに端をした親欧州派によるオレンジ革命やそれに続く2014年のマイダン革命で台頭したウクライナ民族主義によって、ロシア語話者は弾圧されるようになったのでした。その先頭に立ったのがネオナチの民兵・アゾフ連隊(大隊)です。

さらには、アゾフ連隊のようなネオナチの台頭を招いた上に、親欧州派はネオナチと結託して、ロシア語話者や左翼運動家やLGBTへの弾圧をエスカレートしていったのでした。オレンジ革命やマイダン革命は、それがウクライナ人の「尊厳」だとして、西欧かロシアかの二者択一を掲げることで、ユーロマイダンの裏に隠された「民族浄化」を誤魔化したのでした。

奪われた領土を奪還するまで戦争はやめないというゼレンスキーの主張は、玉砕するまで戦うということです。そして、ゼレンスキーの玉砕戦をアメリカやヨーロッパが支援しているのです。戦争をやめさせようとはしないのです。間に入って調停しようという国がないのです。これこそがホントの意味でウクライナ(国民)の悲劇と言うべきでしょう。
2023.02.01 Wed l ウクライナ侵攻 l top ▲
週刊東洋経済2023年1月28日号


■「割増金」の導入


NHKが4月1日から、テレビの設置後、翌々月の末日までの期限内に受信契約の申し込みをしなかった人間に対して、受信料の2倍の「割増金」を請求できる制度を導入するというニュースがありました。これは、昨年10月に施行された改正放送法に基づくものです。

「割増金」の導入は、現行の受信料制度に対する国民の目が年々厳しくなっている中で、まるで国民の神経を逆なでするような強気の姿勢と言わざるを得ません。

NHKの受信料に対して、特に若者の間で、「強制サブクス」であり、スクランブルをかけて受信料を払った人だけ(NHKを見たい人だけ)解除すればいい、という声が多くあります。

それでなくてもテレビ(地上波)離れが進んでおり、視聴者の志向も地上波からネット動画へと移行しているのです。若者の車離れが言われていますが、テレビ離れはもっと進んでいます。実際、テレビを持ってない若者も多いのです。その流れを受けて、ドン・キホーテは、テレビチューナーを外したネット動画専用のスマートテレビを発売して大ヒットしているのでした。

しかし、NHKの姿勢は、それに真っ向から対決するかのように、現行の受信料制度を何がなんでも守るんだと言わんばかりの「割増金」という強硬姿勢に打って出たのでした。

もちろん、それにお墨付きを与えたのは、NHKの意向を受けて放送法を改正した政治です。そこには、権力監視のジャーナリズムの「独立性」などどこ吹く風の、政治とNHKの持ちつ持たれつの関係が示されているのでした。

与党はもちろんですが、野党の中にも現行の受信料制度に疑義を唱える声は皆無です。前に書きましたが、その結果、NHKの問題をNHK党の専売特許のようにしてしまったのです。昔はNHKの放送に疑問を持つ左派系の不払い運動がありました。しかし、いつの間にか不払い運動がNHK党に簒奪され換骨奪胎されて、理念もくそもない不払いだけに特化した”払いたくない運動”に矮小化されてしまったのでした。上のようなスクランブルの導入を主張しているのも、NHK党だけです。

もっとも、「割増金」制度を導入する背景には、受信料徴収に関するNHKの大きな方針転換が関係しているのです。と言うのも、NHKは、契約や収納代行を外部に委託していた従来のやり方を今年の9月をもって廃止することを決定からです。これで怪しげな勧誘員が自宅を訪れ、ドアに足をはさんでしつこく契約を迫るというようなことはなくなるでしょう。

しかし一方で、テレビ離れによって、受信料収入が2018年の7122億円で頭打ちになり、2019年から減少しているという現実があります。契約件数も2019年に4212万件あったものが、2021年は4155件と減少し、2022年も上半期だけで20万件も減少しているそうです。そのため、2023年度の受信料収入の見込み額も、当初の6690億円から6240億円へと下方修正を余儀なくされているのでした。

一説によれば、NHKは、徴収業務に利用するために、住民基本台帳の転入と転出のデータの提供を求めたそうです。しかし、総務省が拒否したので、割増金や外部委託の廃止に舵を切ったという話があります。

だからと言って、もちろん、今の事態を座視しているわけではありません。NHKは地上波からネットに本格参入しようとしているのです。そして、受信料の支払い対象をテレビ離れした層にも広げようと画策しているのでした。

■NHKの「受信料ビジネス」


そういったえげつないNHKの「受信料ビジネス」について、『週刊東洋経済』(2023年1月28日号)が「NHKの正体」と題して特集を組んでいました。特集には、「暴走する『受信料ビジネス』」「『強制サブスク』と化す公共放送のまやかし」というサブタイトルが付けられていました。

もちろん、NHKは放送法によって、本来の業務はテレビ・ラジオと規定されており、本格的にネットに進出するには、放送法の改正が必要です。ただ、既にネット事業に対して、「21年にはそれまで受信料の2.1%としていた上限を事実上引き上げ、上限200億円とすることを総務省が認め」ているのでした。それにより「事業費は177億円(21年度)から、22年度は190億円に増加。23年度は197億円の計画で、この3年で33%増となる見込み」(同上)だそうです。

このように、NHKがネット事業に本格的に参入する地固めが、着々と進んでいるのです。『週刊東洋経済』の記事も次のように書いていました。

 総務省の公共放送ワーキンググループ(WG)委員である、青山学院大学の内山隆教授(経済学)は「受信料をわが国に放送業界とネット映像配信業者の投資と公益のために使えるようにするべきだ。NHKがこういった業界を引っ張っていけるように、受信料制度を変えていく発想が必要ではないか」と話す。
 受信料制度をめぐる現在の最大の論点がネット受信料だ。NHKのネット事業を「補完業務」から「本格業務」に格上げするための業務が総務省で進む。
(同特集「絶対に死守したい受信料収入」)



NHKネット受信料
(同特集「絶対に死守したい受信料収入」より)

上は、NHKが目論む「ネット受信料」の「徴収シナリオ」を図にしたものです。NHKが求めているのが、右端のスマホ所有者から一律に徴収するという案だそうです。

そのために(NHKの意図通りに放送法が改正されるために)、NHKが与野党を含む政治に対していっそう接近するのは目に見えており、言論機関としての「独立性」や「中立性」の問題が今以上に懸念されるのでした。もちろん、NHK党にNHKの「独立性」や「中立性」を問うような視点はありません。それは、八百屋で魚を求めるようなものです。

■NHKの選挙報道


もうひとつ、NHKと政治の関係を考える上で無視できないのは、NHKの選挙報道です。「開票日、NHKが当選確実を出すまで候補者は万歳しないことが不文律になっている」ほど、政治家はNHKの情報を信頼しているのですが、当然、その情報は理事や政治部記者をとおして、事前に政治家に提供されており、選挙戦略を練る上で欠かせないものになっているのです。

そのために、末端の記者は、選挙期間中は文字通り寝る間を惜しんで取材に走りまわらなければなりません。2013年に31歳の女性記者が、2019年には40代の管理職の男性が過労死したのも、いづれも選挙取材のあとだったそうです。

■非課税の特権と膨張する金融資産


では、NHKの財政がひっ迫しているかと言えば、まったく逆です。NHKの2022年9月末の連結剰余金残高は5132億円です。それに加えて、金融資産残高が剰余金残高の1.7倍近くに上る8674億円もあるのです。NHKの連結事業キャッシュフローは、東京五輪のような特別な事情を除いて、毎年ほぼ1000億円を超えるレベルを維持しているそうです。

特集では、「NHKの『溜めこみ』が加速している」として、次のように書いていました。

 そしてその半分強が設備投資などに回り、残りは余資となり国債など公共債の運用に回されてきた。その結果として積み上がったのが、7360億円もの有価証券である。これに現預金を加えた金融資産の残高が、冒頭で紹介した数字(引用者註:8674億円)になる。金融資産は、総資産の6割を占めており、このほかに保有不動産の含み益が136億円ある。まるで資産運用をなりわいとしているファンドのようなバランスシートだ。
(伊藤歩「金融資産が急膨張 まるで投資ファンド」)


このような「芸当」を可能にしているのが、番組制作費の削減と公益性を御旗にした非課税の”特権”です。子会社は株式会社なので法人税の納税義務がありますが、NHK本体は、上記のような投資で得た莫大な金融資産を保有していても、いっさい税金がかからないのです。放送法で免除されているからです。

しかも、総工費1700億円を使って、2035年に完成予定の渋谷の放送センターの建て替えが昨年からはじまっているのでした。その費用も既に積立て済みだそうです。

■NHKの”暴走”


NHKの問題をNHK党の専売特許ではなく、国民の問題として考える必要があるのです。政治に期待できなければ、国民自身がもっと声を上げる必要があるのです。NHKの思い上がった「受信料ビジネス」を支えているのは私たちの受信料なのです。NHKをどうするかという問題を、国民的議論になるように広く提起することが求められているのです。でないと、政治と癒着して半ばブラックボックスと化したNHKの“暴走”を止めることはできないでしょう。このままでは、国民にさらなる負担を求めてくるのは間違いないのです。

しかも、それは受信料の問題だけでなく、私たちの個人情報が勝手放題に使われるという問題にも関わって来るのです。杉並区の住基ネットから漏洩した個人情報が、振り込め詐欺や広域連続強盗事件に使われたのではないかと言われていますが、そこには国民の個人情報を役所が一元的に管理する怖さを示しているのです。NHKは、住民基本台帳の転入と転出のデータの提供を求めたくらいですから、ネット受信料が始まれば、当然そこにも触手を伸ばして来るでしょう。
2023.01.30 Mon l 社会・メディア l top ▲
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(鈴木邦男をぶっとばせ!より)


■『現代の眼』と新左翼文化


鈴木邦男氏が亡くなったというニュースがありました。79歳だったそうです。今日は、詩人の天沢退二郎氏の訃報も伝えられました。

私が、鈴木邦男氏の名前を初めて知ったのは、『現代の眼』の対談記事でした。鈴木氏自身も、みずからのブログ「鈴木邦男をぶっとばせ!」で、その記事について書いていました(2010年の記事です)。

鈴木邦男をぶっとばせ!
34年前の『現代の眼』が全ての発端だった!

私もよく覚えていますが、車の免許を取るために自動車教習所に泊まり込んでいたとき(昔はそういった合宿型の教習所があったのです)、寝泊まりする大部屋の片隅で横になって買って来たばかりの『現代の眼』を開いたら、「反共右翼からの脱却」という記事が目に飛び込んで来て、頭をどつかれたような気持になったのでした。鈴木氏のブログによれば、記事が載ったのは1976年の2月号だそうです。

当時は運動は既に衰退したものの、まだ残り火のように”新左翼文化”が幅をきかせていた時代で、ジャンルを問わず、新左翼的な言説で埋められた雑誌が多くありました。その中で、『現代の眼』や『流動』や『新評』や『キネマ旬報』や『噂の真相』の前身の『マスコミ評論』や今の『創』の前身の旧『創』などが、“総会屋雑誌”と呼ばれていました。いづれも発行人が、主に児玉誉士夫系の総会屋だったからです。

当時の言論界の雰囲気について、「アクセスジャーナル」で「田沢竜次の昭和カルチャー甦り」というコラムを連載している田沢竜次氏が、次のように書いていました(記事は2012年です)。

30年前は1982年、この年に何があったかというと、ライターや編集界隈にはピンとくるかも知れない、そうです、総会屋追放の商法改正のあった年。そこで消えていったのが、いわゆる総会屋系の雑誌や新聞、特に『現代の眼』とか『流動』『新評』『日本読書新聞』なんてあたりは、新左翼系の文化人、評論家、活動家、ルポライターが活躍する媒体として賑わっていたのだ。
 面白いのは、革命や反権力を論じる文章の横に、三菱重工や住友生命、三井物産などの広告が載っているんだもん。まあ、おかげでその手の書き手(かつては「売文業者」とか「えんぴつ無頼」なんて言い方もあった)が食えたわけだし、基本的には何を書いてもよかったんだから、アバウトな良い時代だったと言えるかも知れない。

アクセスジャーナル
『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第38回
「総会屋媒体が健在だった30年前」


実は私も、虎ノ門の雑居ビルの中にあった総会屋の事務所でアルバイトをしたことがあります。右翼の評論家の本などを上場企業や役所などに高価な金額で売りつける仕事でした。自民党の政治家の名前を出して電話で注文を取ると、一張羅の背広を着たアルバイトの私たちが、風呂敷に包んだ本を持って届けるのでした。行き帰りはタクシーでした。それこそ名だたる一流企業の受付に行って名刺を渡すと、総務課の応接室に通されて、担当者から封筒に入った“本代”を渡されるのでした。

もっとも、私たちはあくまで配達要員で、電話で注文を取るのは、50代くらいの事務所の責任者と70歳を優に越している毎日新聞に勤めていたとかいう老人でした。配達要員のアルバイトは、私と東大を出て就職浪人しているというやや年上の男の二人でした。就職浪人の彼は、朝日新聞を受けて落ちたのだと言っていました。それで、元毎日新聞の老人と、どこどこの社の誰々の文章はいいとか何とか、そんなマニアックな話をよくしていました。

孫文の扁額がかけられた事務所で、そうやって四人で資金集めをしていたのです。資金が集まったら、雑誌を出すんだと言っていました。記事にする予定の対談のテープを聞かされましたが、そこで喋っているのは新左翼系の評論家でした。

売りつける本は右翼の評論集の他に何種類かあり、在庫がなくなると、どこからともなくおっさんが自転車で本を持って来るのでした。「毎度!」と大きな声で言って部屋に入って来る、やけに明るいおっさんでした。

「誰ですか?」と訊いたら、「ああ見えて出版社の社長だよ」と言っていました。会社は飯田橋にあり、「飯田橋から自転車でやって来るんだよ」と言っていましたが、のちにその会社はある雑誌がヒットして自社ビルを建てるほど大きくなっていたことを知るのでした。

■車谷長吉


上の鈴木氏のブログで書かれていたように、作家の車谷長吉も『現代の眼』の編集部にいて、彼の『贋世捨人』 (文春文庫)というわたくし小説に、当時の編集部の様子がシニカルに描かれています。車谷長吉は、同じ編集部に在籍していた高橋義夫氏が辞めた後釜で入り、席も高橋氏が使っていた席を与えられたのでした。そして、のちに二人とも直木賞を受賞するのです。『贋世捨人』 に詳しく描かれていますが、『現代の眼』の編集部や同誌を発行する現代評論社には、今の仕事を大学教員や文芸評論家などの職を得るまでの腰掛のように考える、新左翼崩れのインテリたちが「吹き溜まり」のように集まっていたのでした。

『贋世捨人』には、『現代の眼』の沖縄特集に関連して、『沖縄ノート』(岩波新書)を書いていた大江健三郎に、「随筆」を依頼するために電話したときの話が出てきます。

(略)いきなり大江氏に電話を掛けた。すると偶然、大江氏自身が電話口に出た。
用件を述べると、
「ぼ、ぼ、僕は新潮社と講談社と、ぶ、ぶ、文藝春秋と岩波書店、それから朝日新聞以外には、げ、げ、原稿を書きません。」
 と言うた。この五社はすべて一流の出版社・新聞社だった。何と言う抜け目のない、思い上がった男だろう、と思うた。現代評論社のような三流出版社は、相手にしないと言う。糞、おのれ、と思うた。



■左右を弁別せざる思想


「反共右翼の脱却」を読んでから、私自身も竹中労の「左右を弁別せざる思想」という言葉を口真似するようになりました。鈴木氏が大杉栄や竹中労などアナーキストのことによく言及していたのも、「左右を弁別せざる思想」にシンパシーを抱いていたからでしょう。

『現代の眼』の記事によって、「新右翼」という言葉も生まれたのですが、当然、既成右翼からの反発はすさまじく、真偽は不明ですが、鈴木氏が住んでいたアパートが放火されたという話を聞いたことがあります。左翼も、かつては既成左翼と新左翼は激しく対立して、両者の間にゲバルトもあったのです。

しかし、今はすべてがごっちゃになっており、本来なら、全共闘運動華やかなりし頃に民青でいたのは”黒歴史”と言ってもいいような老人たちまでもが、臆面もなく「学生運動」の自慢話をするようになっているのでした。しかも、「それは新左翼の話だろう」と思わず突っ込みたくなるような「いいとこどり」さえしているのでした。

誤解を怖れずに言えば、対立するというのは決して“悪い”ことではないのです。現在は、対立より分断の時代ですが、それよりよほどマシな気がします。対立には間違いなく身体がありましたが、今の分断には身体性は希薄です。

鈴木邦男氏らの登場は、「新左翼」と「新右翼」がまわりまわって背中合わせになったような時代の走りでもあったと言えるのかもしれません。しかし、それは功罪相半ばするもので、言論においては、左や右だけでなく新も旧もごちゃになり、全てが不毛に帰した感は否めません。その一方で、お互いに丸山眞男が言う「タコツボ」の中に閉じこもり、分断だけが進むという、「左右を弁別せざる思想」とは似ても似つかない、ただ徒に同義反復をくり返すだけの身も蓋もない時代になってしまったのです。

言うなれば、異論や反論をけしかけても、アンチ呼ばわりされレッテルを貼られた挙句、低俗な謀略論を浴びせられて排除パージされる、ユーチューバーをめぐる信者とアンチのようなイメージです。そこには最低限な会話も成り立たない分断があるだけです。宮台真司などもネットから浴びせられる罵言に苛立っていましたが、苛立ってもどうなるものでもないのです。
2023.01.27 Fri l 訃報・死 l top ▲
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(ヌカザス尾根)


■デンジャラスなハイカー


私が最近、ネットで「お気に入り」に入れてチェックしているのは、下記のサイトです。

奥多摩尾根歩き
https://www.okutama-one.com/

サイト主は、奥多摩の人が少ない山の、しかもバリエーションルートを使って尾根を歩くという、他人ひととは違う登山スタイルを持つハイカーです。記事によれば、奥多摩に通ううちに顔見知りになった、同じようなデンジャラスなハイカーが他にも何人かいるみたいです。

余談ですが、奥多摩の山域は狭く、電車だと大概奥多摩駅か武蔵五日市駅を利用するので、私も何度か遭遇するうちに顔見知りになった高齢のハイカーがいました。あるときは、行きの電車で会って、帰りの電車でも会ったことがありました。山に詳しいなと思っていたら、のちにその方が登山関係者の間では高名な登山家で、本も出していることを知りました。奥多摩に通っているとそんなこともあるのです。

東京都の最高峰は雲取山で、標高は2017メートルですので、奥多摩には森林限界を越える山はありません。しかし、たとえば、川苔山の標高は1363.3メートルですが、鳩ノ巣駅からのルートだと単純標高差が1000メートルを越えます。埼玉もそうですが、奥多摩も関東平野の端にあるので、登山口の標高はそんなに高くないのです。そのため低山の割には標高差が大きい山が多いのです。当然、急登が多いので、樹林帯の中の急登を息を切らして登らなければならず、「修行」などと言う人もいます。挙句の果てにはツキノワグマの生息地なので、クマの痕跡は至るところにあり、クマの生態に対する基本的な知識は必須です。

そんな奥多摩では、一般のハイカーが登るのは一部の山に限られています。それ以外の山は、東京の後背地にありながらハイカーが少なく、1日歩いても誰にも会わないこともめずらしくありません。

記事の中には、私が知っている尾根も多く出てきますが、しかし、サイト主が登るのはその尾根ではなく、周辺の登山道がない尾根から登って、私たちが歩いている尾根に合流するのでした。登山道の外れにある支尾根や斜面から突然、人が現れるのを想像すると痛快でもあります。

実際に私も、そんなハイカーに遭遇したことがありました。突然、前方の斜面から現れて、「あれっ、こんなところに出て来たのか」とでも言いたげに首をひねっていました。「どうしたんですか?」と訊いたら、「いえ、いえ」と言って笑いながら去って行きました。

そういった登山スタイルにはあこがれますが、しかし、私には、体力的にも技術的にもとても叶わぬ夢です。ただ、人のいない山が好き(ひとり遊びが好き)だという点では共通するものがあり、親近感とともにあこがれの念を覚えてならないのでした。

■奥多摩の遭難


奥多摩は、上にあげたような特徴から、登山関係者の間では遭難が多いことでも知られています。

ちなみに、2021年の主要各県別の遭難者件数は以下のとおりです。主に警察がまとめていますが、2022年の集計がまだ出揃ってないので、2021年の件数を比較しました。

東京都
遭難件数 157件
遭難者数 195人
死亡・行方不明者 10人

長野県
遭難件数 257件
遭難者数 276人
死亡・行方不明者 47人

山梨県
遭難件数 116件
遭難者数 134人
死亡・行方不明者 12人

富山県
遭難件数 104件
遭難者数 110人
死亡・行方不明者 7人

また、『山と渓谷』の記事によれば、奥多摩では、他県に比べて若いハイカーの遭難が多いのも特徴だそうです。東京都の年齢別の割合は、以下のようになっています。

2021年
10代 20.7%※
20代 13.0%
30代 11.7%
40代 10.4%
50代 9.1%
60代 16.9%
70代 15.6%
※10代が多いのは2021年に小学生の集団遭難があったためです。
(参照:『山と渓谷』2023年2月号・「奥多摩遭難マップ21」)


このように東京都(奥多摩)の遭難件数は、南アルプスや八ヶ岳や奥秩父の山域を擁する山梨県より全然多いのです。先に書いたように、奥多摩は一般のハイカーが登る山は数えるほどしかありません。そう考えると、遭難の多さは“異常”と言ってもいいくらいです。

ただ、『山と渓谷』の「遭難マップ」などを見ると、大山(おおやま)がいい例ですが、初心者向けと言われる山での遭難が多く、若いハイカーの遭難が多いというもうひとつの特徴と合わせると、登山歴の浅いハイカーが初心者向けの山で遭難するケースが多いことがわかります。初心者向けの山でも、疲れて足がガクガクしていると、道迷いや滑落が生じやすい箇所があったりするのです。「あんなのたいしたことないよ、初心者向けだよ」というネットの書き込みを信じて登ると、思いっきり裏切られた気持になる、それが奥多摩の山なのです。

奥多摩は低山の集まりなので、尾根歩きには持ってこいです。しかし、上記のサイトを見ればわかるとおり、難度は高く、文字通りデンジャラスな山歩きと言えます。

■生活に密着した山


一方で、奥多摩は、山で暮らしを営んでいた人々の痕跡を至るところで見ることができる、生活に密着した山という側面もあります。「奥多摩尾根歩き」でも、林業に従事する人たちが利用していた作業道や小屋跡などがよく出てきますが、「こんなところに」と思うような山の奥にわさび田やわさび小屋の跡があったりします。また、東京都の水源でもあるので、水源巡視路もいろんなところに通っています。そういった道を見ると、山で仕事をしていた人たちは、私たちの登山とほとんど変わらない山歩きを日常的に行っていたことがわかるのでした。

山田哲哉氏は、小学生の頃から50数年奥多摩に通っている山岳ガイドですが、おなじみの『奥多摩 山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)で、奥多摩について、次のように書いていました。

 奥多摩は、より高く、より激しい山へ登るための練習場所でなければ、訓練の山でもない。この一見、地味な山塊は、夢や希望を与えてくれる。人間が本来あるべき姿、自然と格闘するからこそ共生する、人が人らしく生きる術や、不思議な魅力がギッシリと詰まった場所なのだ。


同時に、「自分が暮らす東京の片隅に、こんなに美しくワクワクと人を魅了する場所があるとは、その場に立つまで信じられなかった」として、次のようにも書いていました。

 どれだけ多くの人が、この奥多摩で山登りのすばらしさ、楽しさを知ったことだろう。僕が子どもから少年へと成長したように、たとえば退職して時間のできた初老の男が、ちょっとした好奇心で登り始めた山のおかげで、今までの自分とは違う「登山者」というアイデンティティをもつ人へと生まれ変わることもある。山に登るために生活習慣を改め、時には筋トレをし、つまり「昨日までの自分とは違う何者か」になるため、意識的に生きるはつらつとした人生を獲得した人もいる。それらの人々にとっての「最初の山」は、きっと多くが奥多摩だったはずだ。


山田氏が書いているように、「奥多摩の山々には無数の楽しみ方があり、訪れた者に毎回、必ず新たな発見をもたらしてくれる」のです。そういった思い入れを誘うような魅力があります。

■田部重治


また、これは既出ですが、田部重治は、100年前に書かれた「高山趣味と低山趣味」 (ヤマケイ文庫『山と渓谷 田部重治選集』所収)の中で、奥多摩や奥秩父などの山に登るハイカーについて、次のように書いていました。

 私は特に、都会生活の忙しい間から、一日二日のひまをぬすんで、附近の五、六千尺(引用者注:1尺=約30cm)の山に登攀を試みる人々に敬意を表する。これらの人々の都会附近の山に対する研究は、微に入り細を究め、一つの岩にも樹にも、自然美の体現を認め、伝説をもききもらすことなく、そうすることにより彼等は大自然の動きを認め人間の足跡をとらえるように努力している。私はその意味に於て、彼らの真剣さを認め、ある点に於て彼らに追従せんことを浴している。


ネットの時代になり、コンプラなるものを水戸黄門の印籠みたいに振りかざす、反知性主義的な風潮が蔓延していますが、それは登山も例外ではありません。コロナ禍で登山の自粛を呼びかけた山岳会や一部の「登山者」が、世の風潮に迎合して”遭難者叩き”のお先棒を担いでいる腹立たしい現実さえあります(そのくせ金集めのために、登山道を荒らすトレランの大会を主催したりしているのです)。

そんな中で、田部重治が言う日本の伝統的登山に連なる「静観派」登山の系譜は、デンジャラスな尾根歩きというかたちで今も受け継がれていると言っていいのかもしれません。


関連記事:
田部重治「高山趣味と低山趣味」
2023.01.25 Wed l l top ▲
グレイスレス


最近は芥川賞にもまったく興味がなかったので知らなかったのですが、鈴木涼美が最新作の「グレイスレス」で芥川賞の候補になっていたみたいです。それで『文學界』の2022年11月号に載っていた同作を読みました。

私は、このブログでも書いていますが、鈴木涼美が最初に書いた『身体を売ったらサヨウナラ』を読んで、まずその疾走感のある文章に「一発パンチを食らったような感覚」になりました。再掲ですが、『身体を売ったらサヨウナラ』は、次のような文章ではじまっています。

 広いお家に広い庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的な余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ、そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
 シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート、プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(略)
 でも、全然満たされていない。ワタシはこんなところでは終われないの。1億円のダイヤとか持ってないし、マリリン・モンローとか綾瀬はるかより全然ブスだし、素因数分解とかぶっちゃけよくわかんないし、二重あごで足は太いしむだ毛も生えてくる。
 ワタシたちは、思想だけで熱くなれるほど古くも、合理性だけで安らげるほど新しくもない。狂っていることがファッションになるような世代にも、社会貢献がステータスになるような世代にも生まれおちなかった。それなりに冷めてそれなりにロマンチックで、意味も欲しいけど無意味も欲しかった。カンバセーション自体を目的化する親たちの話を聞き流し、何でも相対化したがる妹たちに頭を抱える。
 何がワタシたちを救ってくれるんだろう、と時々思う。


あれから8年。彼女が小説を書いているのは知っていましたが、私は、まだ読んでいませんでした。ちなみに、「グレイスレス」は二作目の創作です。

ブログでも書きましたが、鈴木いづみを彷彿とするような文章なので、さぞや小説もと思いましたが、しかし、小説の文体はやや異なり、鈴木いづみのようなアンニュイな感じはありませんでした。『身体を売ったらサヨウナラ』に比べると小説向きに(?)抑制されたものになっており、宮台真司の言葉を借りれば「叙事的」です。やはり、鈴木いづみの文体は、あの時代が生んだものだということをあらためて思わされたのでした。

AV業界でフリーの化粧師(メイクアップアーティスト)として働く主人公。彼女は、鎌倉の古い洋館に祖母と二人で暮らししています。

小説はAVの撮影現場で遭遇する女たちとの刹那的な関りと、鎌倉の家を通した家族との関わりの二つの物語が同時進行していきます。それは刹那と宿命の対照的な関りと言ってもいいものです。しかし、それらを見る主人公の目は、如何にも今どきな感じで、どこか突き放したような冷めた感じがあります。AV業界をAV女優ではなく、化粧師の目を通して描いているというのもそうでしょう。

AVの現場での仕事は、その役柄に応じて映像に見栄えるように化粧を施すだけではありません。AV女優の顔面や頭髪に放出された精液を落とす作業もあります。しかし、主人公には嫌悪感など微塵もありません。むしろ、その仕事に職人的な誇りさえ持っているかのようです。AV業界での化粧師という仕事に、みずからのレーゾンデートルを見出しているようにさえ見えるのでした。

鎌倉の洋館は、父方の祖父が住んでいた家で、両親が離婚する際に母親が父親から譲り受けたものです。ところが、現在、両親はイギリスで元の鞘に収まったような生活をしているのでした。そこには、上野千鶴子が言った「みじめな父親に仕えるいらだつ母親」も、「母親のようになるしかない」という「不機嫌な娘」も、もはや存在しないのでした。

母親も祖母も自由奔放に生きて来たような人物です。その影響を受けているはずの主人公は、しかし、彼女たちの生き方とは一線を引いているように見えます。鎌倉の洋館も、祖母は一階で暮らし、主人公は二階で暮らしているのですが、祖母は二階に上がって来ることはないのでした。

小説の最後に仕事を「やめる」ような場面があるのですが、しかし、主人公は、イギリスに住む母親との電話で、「いや、また気が向いたらいつでもやるよ」と答えるのでした。「やめる」に至った経緯も含めて、そこに、この小説のエッセンスが含まれているように思いました。

私は意地が悪い人間なので、もってまわったような稚拙な描写の部分にマーカーを引いて悪口を言ってやろうと思っていたのですが、最後まで読み終えたら、そんな意地の悪さも消えていました。久しぶりに小説を読みましたが、「やっぱり、小説っていいなあ」と思えたのでした。

小説の言葉は、私たちの心の襞に沁み込んで来るのです。私は、同時にノーム・チョムスキーの『壊れゆく世界のしるべ』(NHK出版新書)という本を読んでいたのですが、インタビューをまとめた本で、しかも翻訳されているということもあるのでしょうが、チョムスキーの言葉がひどく平板なものに思えたくらいです。

偉そうに言えば、『身体を売ったらサヨウナラ』の鈴木涼美は、読者の期待を裏切ることなく見事にホンモノの小説家になっていたのです。山に登るとき、きつくて「心が折れそうになる」と言いますが、私自身、最近は生きていくのに心が折れそうになっていました。ありきたりな言い方ですが、なんだか生きていく勇気を与えてくれるような小説だと思いました。いい小説を読むと、そんな救われたような気持になるのです。この小説にも、孤独と死という人生の永遠のテーマが、副旋律のように奏でられているのでした。


関連記事:
『身体を売ったらサヨウナラ』
ふたつの世界
2023.01.22 Sun l 本・文芸 l top ▲
週刊ダイヤモンド2023年1月21日号


時事通信が13日~16日に実施した1月の世論調査で、立憲民主党の支持率が前回(12月)の5.5%から2.5%に下落したと伝えられています。

時事通信ニュース
内閣支持最低26.5%=4カ月連続で「危険水域」―立民も下落・時事世論調査

ちなみに、各党の支持率は以下のとおりです。

自民党 24.6%(1.8増)
維新 3.6%(0.2減)
公明党 3.4%(0.3減)
立憲民主 2.5%(3.0減)
共産党 1.8%
国民民主 1.5%
れいわ 0.7%
参政党 0.7%
NHK党 0.4%
社民党 0.1%
支持政党なし 58.7%

このように立憲民主党の支持率だけが際立って落ちています。5.5%の支持率が半分以下の2.5%に落ちているのですから、すさまじい下落率と言えるでしょう。立憲民主党は、支持率においても、もはや野党第一党とは言えないほど凋落しているのでした。

■立憲民主党が片思いする維新


維新との連携がこのような支持離れをもたらすのはわかっていたはずです。にもかかわらず、連合などの右バネがはたらいたのか、立憲民主党はみずからのバーゲンセールに舵を切ったのでした。泉健太代表が獅子身中の虫であるのは誰が見てもあきらかですが、しかし、党内にはそういった危機感さえ不在のようです。それも驚くばかりです。

で、立憲民主党が片思いする維新ですが、昨日、次のようなニュースがありました。

ytv news(読売テレビ)
維新・吉村代表 自民・茂木幹事長と会談

 泉大津市内の飲食店で約2時間にわたって行われた会談では、両党が推進する憲法改正をめぐり、反対する野党と議論をどのように進めるか意見を交わしたほか、維新が重視する国会改革についても協力していくことで一致したということです。


私は、「立憲民主党が野党第一党である不幸」ということを常々言ってきました。立憲民主党は野党ですらないと。維新との連携の先には、連合と手を携えて自民党にすり寄る立憲民主党の本音が隠されているように思えてなりません。

■左派リベラルのテイタラク


一方で、維新との連携を受けて、立憲民主党にはほとほと愛想が尽きた、というような声がSNSなどに飛び交っていますが、私はそういった声に対しても、匙を投げるときに匙を投げなくて、今更何を言っているんだ、という気持しかありません。

立憲民主党のテイタラクは、同時に、立憲民主党に随伴してきた左派リベラルのテイタラクでもあります。今更「立憲民主は終わった」はないでしょう。

フランスでは、年金開始年齢の引き上げをめぐって、労働総同盟(CGT)などの呼びかけで大規模なストが行われているそうです。今の日本では、想像だにできない話です。

朝日新聞デジタル
「64歳からの年金受給は遅すぎ」 フランスで改革反対の大規模スト

フランスの年金制度は、政府の改革案でも、最低支給額が約1200ユーロ(約17万円)で、支給開始年齢が64歳と、日本の年金と比較すると夢のような好条件です。それでもこれほどの激しい反発を招いているのです。

前から何度も言っているように、ヨーロッパやアメリカの左派には、60年代の新左翼運動のDNAが引き継がれています。しかし、日本では、「内ゲバ」や「連合赤軍事件」などもあって、新左翼は「過激派」(最近で言えば「限界系」)のひと言で総否定されています。そのため、ソンビのような”革新幻想”に未だに憑りつかれた、トンチンカンな左派リベラルを延命させることになっているのでしょう。

■日本は貧国大国


『週刊ダイヤモンド』の今週号(1/21号)は、「超階級社会 貧困ニッポンの断末魔」という、もはや恒例とも言える特集を組んでいましたが、その中に下のような図がありました(クリックで拡大可)。

超階級社会2
(『週刊ダイヤモンド』2023年1月21日号より)

特集では、「もはや、日本は経済大国ではなく、貧困大国に成り下がってしまった」と書いていました。

 中国、シンガポール、オマーン ─── 都心の超高級タワーマンションの上層階に居を構えるのは、実はこうした国の人々だ。もちろん、10億円を超える高級物件を所有する日本人もいるが、彼らはごくごく限られた「上級国民」。平均的な日本人にとって、雲上人といえる存在だ。
 もっとも平均的な日本人が「真ん中」というのは、幻想にすぎない。かっては存在した分厚い中間層は総崩れとなり、格差が急拡大。日本は”一億総下流社会“へと変貎を遂げた。そして新型コロナウイルスの感染拡大やインフレが引金となって、拡大した格差が完全に固定化する「超・階級社会」を迎えようとしている。

  超・階級社会を招くのは、「低成長」「低賃金」「弱過ぎる円」「貿易赤字の常態化」の四重苦だ。


2012年末からはじまった第2次安倍政権が提唱したアベノミクス。それに伴う日本銀行の「異次元の大規模金融緩和」、つまり、「弱い円」への誘導がこれに輪をかけたのでした。

「日本売り」「買い負け」が常態化したのです。今、都心のマンションが異常な高値になっていますが、それは不動産市場が活況を呈してきたというような単純な話ではなく、都心のマンションが海外の富裕層に買い漁られているからです。不動産会社も、日本人客より高くても売れる外国人客にシフトしているのです。そのため、一部の不動産価格がメチャクチャになっているのです。

もっとも、私も以前、都心の高級マンションの上層階や角部屋などの”いい部屋”は中国人などの外国人に買われているという、不動産関係の仕事をしている知人の話をしたことがありますが、それは最近の話ではなく、アベノミクスの円安誘導によってはじまった現象でした。ただ、最近の急激な円安によって価格が急上昇したので、特に目に付くようになっただけです。

 アベノミクスの厳しい現実を突き付けたのは、野村総合研究所が年に実施したアンケート調査に基づく推計だ。上級国民に当たる準富裕層以上は資産を増やした一方で、中級国民、下級国民であるアッパーマス層、マス層は資産を減らした。富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなったのだ。


しかし、アベノミクスの負の遺産というのは一面にすぎません。その背後には、資本主義の死に至る病=矛盾が広がっているのです。

折しも今日、東京電力が、来週にも家庭向けの電気料金を3割程度引き上げる旨、経済産業省に申請する方針だというニュースがありました。私たちにとっては、もはや恐怖でしかない今の資源高&物価高が、臨界点に達した資本主義の矛盾をこれでもかと言わんばかりに示しているのです。

これもくり返し言っていることですが、今求められているのは、右か左かではなく上か下かの政治です。階級的な視点を入れなければ、現実は見えて来ないのです。好むと好まざるとにかかわらず、階級闘争こそがもっともリアルな政治的テーマなのです。でも、その階級闘争を担う下に依拠する政党がない。だから、デモもストもないおめでたい国になってしまったのでした。


関連記事:
立憲民主党への弔辞
『新・日本の階級社会』
2023.01.20 Fri l 社会・メディア l top ▲
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(public domain)


昨日(18日)、YouTubeに関して、「ディリー新潮」に興味深い記事が出ていました。

Yahoo!ニュース
ディリー新潮
人気ユーチューバーの広告収入が激減 専門家は「今年は例外なく全員が“解雇”状態に」

ディリー新潮の記事は、巷の一部でささやかれていたYouTubeの“苦境”(というか、まだ”路線変更”のレベルですが)をあきらかにしたものと言えるでしょう。

■レッドオーシャン


YouTubeの“苦境”を端的に表しているのが、ユーチューバーたちです。再生回数が落ちたことによって、Googleからの広告料の配当が減少し、中には「ユーチューバー・オワコン説」さえ出ているのでした。

YouTubeが“苦境”に陥った要因は、相次ぐライバルの出現です。

記事では、ITジャーナリストの井上トシユキ氏の次のような指摘を伝えていました。

「『1日に何時間、ネットの動画を視聴しているのか』について、複数の調査結果が発表されています。それによると、世界平均は1日に1時間から3時間だそうです。2005年に誕生したYouTubeは、長年この時間を独占してきました。ところが近年、強力なライバルが登場し、視聴時間を巡って激しい争奪戦が繰り広げられるようになりました」


「『1日に最大3時間』という視聴時間を巡って、YouTube、TikTok、Netflix、Amazon Prime Video、Huluといった企業が激しく争っています。これまでYouTubeはブルーオーシャン(競争のない未開拓市場)のメリットを存分に享受してきました。ところが突然、レッドオーシャン(競争の激しい市場)に叩き込まれてしまったのです」


その結果、YouTubeは広告収益の鈍化に見舞われたのでした。動画の質の低下に合わせて、大手企業の広告の撤退が相次ぎ、「怪しげな美容商品や陰謀史観を主張する書籍、借金を合法的に踏み倒す方法──などなど、眉をひそめたくなるような広告が目立つ」ようになったのでした。それで、益々炎上系や陰謀史観やヘイトな動画ばかりが目立つようになるという悪循環に陥っているのです。

ただ、もともとYouTubeはそういった怪しげな動画投稿サイトでした。それをGoogleが買収して、現在のようなシステムに作り替えたにすぎないのです。違法動画や炎上系や陰謀史観やヘイト動画は、YouTubeのお家芸のようなものです。

YouTubeは、「“打倒TikTok”、“打倒Netflix、Amazon Prime”が急務」となっており、ユーチューバーに対して、「『ライバルの3社から視聴者を取り戻すような動画を作ってくれれば改めて厚遇するし、そうでなければ辞めてもらう』というメッセージを発した」(井上氏)のだと言います。

とりわけ、YouTubeが主敵としているのはTikTokです。そして、その切り札としているのがYouTubeショートだとか。しかし、TikTokやYouTubeショートも、既に炎上系やいじめの動画が目立つようになっています。

■ユーチューバーをとりまく環境の変化


記事は、最後に次のような言葉で結んでいました。

「今年、YouTubeは荒療治を断行するようです。荒療治なので、ユーチューバーにきめ細やかなケアを行う余裕はありません。トップクラスのユーチューバーといえども、一度は“解雇”の状態にする。その上で『自分たちは新しいルールを提示する。それに則って動画を配信するかどうか決めろ』と要求してくると考えられます」(同・井上氏)

 もともと「ユーチューバーでは食えない」という傾向が指摘されてきたが、2023年は一層、厳しい年になりそうだ。


ユーチューバーにとっていちばんいい時代は2017年頃だったそうですが、たしかに登山ユーチューバーが登場したのも、2017年から2018年頃でした。まるで雨後の筍のように、いろんなジャンルでユーチューバーが出て来たのでした。

あれから僅か5年。ユーチューバーをとりまく環境は大きく変わろうとしているのです。それは、YouTubeがレッドオーシャンに「叩きこまれた」だけではありません。芸能人が次々と参入してきたことも、ユーチューバーにとって”大きな脅威”となっています。視聴時間をめぐって、さらにYouTubeの中での奪い合いも熾烈になってきたのです。

もとより、ネットというのはそういうものでしょう。TikTokの”我が世の春”も、いつまで続くかわかりません。

しかし、多くのユーチューバーは、放置されて水膨れした登録者数や、「信者」とヤユされる常連視聴者のお追従コメントに勘違いして、例えは古いですが、現実から目をそむけ「サンクコストの呪縛」に囚われたままのような気がします。それはTwitterのユーザーなども同じです。オレにはこれだけ登録者=シンパがいるなんて、トンマな幻想に浸っているのかもしれません。

これも何度も言っていますが、Twitterの「言論の自由」にしろ、YouTubeの「広告収入」にしろ、単に一私企業に担保されたものにすぎないのです。そんなものに「公共性」を求めるのはお門違いで、企業の都合でいくらでも変わるのは当然なのです。
2023.01.19 Thu l ネット l top ▲
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■PIVOT


たまたまネットをチェックしていたら、最近、元TBSアナウンサーの国山ハセンの転職先として話題になったPIVOTのYouTubeチャンネルで、宮台真司氏とYAMAPの春山慶彦社長が3回に渡って対談しているのが目に止まりました。

YouTube
PIVOT公式チャンネル
【宮台真司がシンクロした起業家】登山アプリYAMAP創業者/日本の起業家では珍しい身体性の持ち主/イヌイットとクジラ漁の経験/ビジネスパーソンに必須な「自然観」とは
https://www.youtube.com/watch?v=89cIyZX2Ch8

【宮台真司「現代人は身体を使え」】自然は単なる“癒やし”ではない/流域で生命圏を作り出す/キャンプの本質を考える/思考を研ぎ澄ませたい時にこそ山に行く【YAMAP 春山慶彦CEO】
https://www.youtube.com/watch?v=u3ESOfgfh0k

【宮台真司「仲間を誘惑せよ」】NISAなどの投資教育はインチキ/生き方を変えた人が資本主義にコミットせよ、そして少しずつ仲間を誘え【YAMAP 春山慶彦CEO 最終回】
https://www.youtube.com/watch?v=aKbyG-oxk2Y&t=0s

PIVOTでは本田圭佑がメインのように扱われ、企業の経営や投資に関して、独りよがりな付け焼刃の知識を開陳していますが、PIVOTは本田圭佑を推しているのかと思いました。

他に落合陽一や成田悠輔が出ている動画を観ましたが、最後まで観る気になりませんでした。

余談ですが、私は、成田悠輔の『22世紀の民主主義』を読みはじめたものの、途中で投げ出してしまいました。

文章は非常に優しく書かれていましたが、論理の前提になっているデータが極めて恣意的なもので、牽強付会にもほどがあると思いました。現状認識も粗雑で、コロナ禍のパンデミックを唯一くぐり抜けたのが権威主義国家の中国だと断定していましたが、今の状況を見ればとんだ早とちりだということがわかります。

権威主義に比べると民主主義はシステムが非効率なので、権威主義国家より民主主義国家の方が経済成長が鈍化している(だからAIでブラッシュアップしなければならない)、という主張にしても、それはキャッチアップする国とされる国の違いにすぎないことくらい、少しでも考えればわかるはずです。どこが「天才」なんだと思いました。

PIVOTと宮台真司氏の関わりも不思議ですが、出演者の顔ぶれをみると、国山ハセンは遠からずみずからの「決断」を後悔することになるような気がします。

YAMAPは昨秋(11月)、今まで3480円だった年会費を5700円に改定して、会員たちに衝撃を与えたばかりです。その値上がり率は何と60%超なのです。理由として、経営環境の悪化をあげており、従来から囁かれていた経営不振説が再び浮上しているのでした。そのためかどうか、最近、春山社長のネットメディアへの露出が増えています。堀江貴文のチャンネルにも出演して、山で遭難しそうになったときYAMAPのお陰で助かったなどというホリエモンのサービストークを交えて、今回と似たような対談を行っていました。

PIVOTと宮台真司氏の関わりが不思議だと言いましたが、この対談もYAMAPのステマのようなものかもしれないと思いました。

■身体性の復権


宮台真司氏と春山慶彦氏の対談の肝は、ひと言で言えば、”身体性の復権”ということです。それは登山をしている人間であれば腑に落ちる話です。

システムに依存するのでなく、感情や感性といった身体感覚を取り戻すことが大事だと言います。テクノロジーがめざしているのは「身体性の自動化」であって、であるがゆえに感情や感覚の能力を失う(奪われる)ことになるというのも、わかりすぎるくらいわかりやすい話でしょう。

春山氏は、東日本大震災の原発事故がきっかけで、YAMAPを発想したと言っていました。電気が止まると、トイレも使えないような脆弱な都市システムの中に生きていることに気付かされた、と言っていましたが、しかし、それは皮相的な見方だと言わざるを得ません。

都市で暮らすには、まず電気代を払えるだけの収入が必要です。電気代を払うお金がなければ、システムを享受することもできないのです。資本主義というのは、そういう社会です。その根本のところを飛ばして脆弱なシステムと言われても鼻白むしかありません。

しかも、電気代を払うことができる豊かさや平等も、もはや前提にすらならないような時代に私たちは生きているのです。システムの脆弱さを言うなら、そういった貧国や格差の現実をどうするかというのも大きな課題のはずです。

春山氏は、今の高度なテクノロジーに囲まれた社会では、逆に技術を使わないという「英知」が必要だとも言っていました。そういった倫理観や哲学や自然観が求められているのだと。

■スーパー地形


私は、登山アプリは「スーパー地形」を使っています。YAMAPやヤマレコを使っていた時期もありましたが、「スーパー地形」に変えました。

どうしてかと言えば、YAMAPやヤマレコの地図上のポイントをクリックするとルートが自動的に設定できる便利な(!)システムが嫌だったからです。それと、あの自己顕示の塊のような山行記録が鼻もちならなかったということもあります。

「スーパー地形」の場合、ルートは設定されていませんので、紙地図と睨み合いながら自分で描いていかなければなりません。ルート上の情報やポイントなども自分で設定しなければなりません。言うなれば、自分で登山用の地図を作るような作業が必要です。それは非常に面倒くさい作業でもあります。しかし、登山において、そういった作業も大事なことなのです。何より紙地図の重要性も再認識させられますし、山行には紙地図とコンパスを携行するのが必須になります。想像する楽しみだけでなく、山に登るリスクや不安を知ることにもなるのです。

身も蓋もないないことを言えば、”集合知”なる他人のベタな体験(の集積)に導かれて山に登って、何が楽しいんだろうと思います。未知に対する不安があるから楽しみもあるし、危険リスクに対する怖れがあるから喜びもあるのです。

■身体性の自動化


YAMAPやヤマレコにこそ、「身体性の自動化」につながるような反動的な技術テックだと言わざるを得ません。文字通り本来の登山とは真逆な「安全、安心、便利、快適」の幻想をふりまく、「歩かされる」だけのアプリのように思えてなりません。道迷いのリスクを減らすと言いますが、登山に道迷いのリスクがあるのは当たり前です。そのリスクを、アプリではなく自分の知識や経験や感覚で回避するのが登山でしょう。アプリで「歩かされる」だけでは、危険を回避するスキルはいつまで経っても身に付かないでしょう。

もとより、登山において地図読みのスキルは大事な要素なのです。アプリがなくて紙地図だけで山を歩けるかというのは基本中の基本です。万一、スマホが故障したり電池がなくなったりした場合、紙地図で山行を続けなければならないのです。そのために、本来ならYMAPやヤマレコは、「登山の安全のため、紙地図も持って行きましょう」と呼び掛けるべきだと思いますが、しかし、そうすると自己矛盾になるのです。

その結果、紙地図も持たずスマホだけで山に来て、常にスマホと見比べながら山を歩くような、危機意識の欠片もないハイカーを大量に生んでしまったのです。それこそシステムへの盲目的な依存と言うべきで、彼らがコースタイム至上主義に陥るのは理の当然でしょう。

山ですれ違う際、「にんにちわ」と挨拶するだけでなく、これから行くルートの状態や難易度を尋ねたりすることがあります。しかし、登山アプリによって、そういった情報交換のコミニュケーションも減ったように思います。私はよく話しかけますが、コロナ禍ということも相俟って、最近は迷惑そうな顔をされることが多くなりました(それでも話しかけるけど)。

前も書きましたが、車で峠まで行くのと、自分の足で息を切らせながら行くのとでは全然意味合いが違うように、他人の体験をスマホのアプリでなぞるのと、直接コミュニケーションを取りながら他者の体験から学ぶのとでは、身体性という意味合いにおいて、天と地ほども違うのです。二人も対談の中で言っているように、大事なのはコミュニケーションなのです。

ただ、山に行ってものを考えると余分なものが削ぎ落されるので、シンプルにものを考えることができるという春山氏の話は同意できました。私も前に、パソコンの前に座ってものを考えるのと、散歩に行って歩きながらものを考えることは全然違うというようなことを書いた覚えがありますが、そこに身体性の本質が示されているように思います。

もちろん、私も「スーパー地形」を使っていますので、登山アプリを全否定するわけではありません。技術テックに関して、ものは使いようというのはよくわかります。アプリで大事なのは、これから歩くルートではなく、歩いて来た軌跡だと言った人がいましたが、それはすごくわかります。つまり、道迷いしたら正しいルートの地点まで戻るのが基本ですが、その際、アプリの軌跡が役に立つからです。

ただ、登山アプリによって身体感覚がなおざりにされ鈍磨させられたり、登山の体験が「安全、安心、便利、快適」(の幻想)に収斂されるような、システムに依存した通りいっぺんなものになるなら元も子もないでしょう。何より山に来る意味も、山を歩く楽しみもないように思うのです。それこそ、”身体性の復権”とは真逆なものと言うべきなのです。


関連記事:
「数馬の夜」
2023.01.18 Wed l l top ▲
広島拘置所より
(『紙の爆弾』2023年1月号・上田美由紀「広島拘置所より」)


■YMO


YMOのドラム奏者の高橋幸宏氏が、今月の11日に誤えん性肺炎で亡くなっていたというニュースがありました。高橋氏は、2020年に脳腫瘍の手術した後、療養中だったそうで.す。享年71歳、早すぎる死と言わねばなりません。

若い頃、初めてYMOを聴いたとき、その”電子音楽”に度肝を抜かれました。人民服を着て「東風」や「中国女」を演奏しているのを見て、一瞬、毛沢東思想マオイズムか、はたまたポスト・モダンに媚びるオリエンタリズムかと思いました。「テクノポップ」なんて、むしろ悪い冗談みたいにしか思えませんでした。でも、今ではいろんな意味で「テクノポップ」が当たり前になっています。YMOは時代の一歩先を行っていたと言えるのかもしれません。ただ、長じて「テクノポップ」がYMOのオリジナルではないことを知るのでした。

高橋幸宏氏は、昨年の6月にTwitterで「みんな、本当にありがとう」とツイートしていたそうですが、癌で闘病している坂本龍一も、先月配信されたソロコンサートで、「これが最後になるかもしれない」とコメントしていたそうです。

前も書いたように、みんな死んでいくんだな、という気持をあらためて抱かざるを得ません。

■手記


また、いわゆる「鳥取連続不審死事件」の犯人とされ、2017年に死刑が確定した上田美由紀死刑囚が、14日、収容先の広島拘置所で「窒息死」したというニュースもあり、驚きました。

Yahoo!ニュースに下記のような記事が転載されていますが、Yahoo!ニュースはすぐに記事が削除されて読めなくなりますので、主要な部分を引用しておきます。

Yahoo!ニュース
TBSテレビ
鳥取連続不審死事件 広島拘置所に収容の上田美由紀死刑囚(49)が14日に死亡 窒息死 法務省が発表

法務省によりますと、上田死刑囚はきのう午後4時過ぎ、収容先の広島拘置所の居室で食べ物をのどに詰まらせむせた後、倒れたということです。

職員が口から食べ物を取り除くなどしたものの意識がなく、救急車で外部の病院に搬送されましたが、およそ2時間後、死亡が確認されました。死因は窒息でした。

遺書などは見つかっていないということで、法務省は、自殺ではなくのどに食べ物を詰まらせたことが原因とみています。


上田美由紀は、月刊誌『紙の爆弾』に2014年10月号から8年以上手記を連載していました。今月7日に発売された2月号の同誌には、法学者で関東学院大学名誉教授の足立昌勝氏の「中世の残滓 絞首刑は直ちに廃止すべきである」という記事が掲載されていましたが、上田死刑囚の手記は休載になっていました。

先月発売された2023年1月号の「第82回」の手記が最後になりましたが、その中では次のようなことが書かれていました。

 官の売店の物も、次々と値上げです。トイレなどにも使うティッシュも、108円だったのが116円になったのはとても大変なことです。官の支給のチリ紙と違い、量も多く、8円は大きな差です。官の支給ではとても足りず、この生活で、チリ紙はお金と同じくらい大切なものです。この数ヶ月、値上げの告知を月に何回も受け、そのたびにゾッとしています。


自殺ではなく食べたものを喉に詰まらせた窒息死だそうですが、上田死刑囚はまだ49歳です。そんなことがあるのかと思いました。

■『誘蛾灯』


私は、2014年にこのブログで、青木理氏が事件について書いた『誘蛾灯』(講談社)の感想文を書いています。それは、二審で死刑の判決が言い渡された直後でした。

関連記事:
『誘蛾灯』

事件そのものは、青木氏も書いているように、女性が一人で実行するのは無理があるし、検察が描いた事件の構図も矛盾が多いのですが、しかし、上田死刑囚には弁護費用がなかったため、国選弁護人が担当していました。青木氏は、「大物刑事裁判の被告弁護にふさわしい技量を備えた弁護団」とは言い難く、「相当にレベルの低い」「お粗末な代物」だったと書いていました。上田死刑囚は、無罪を主張していたのですが、その後、最高裁でも上告が却下され死刑が確定したのでした。

上の関連記事とダブりますが、私は、記事の中で次のように書きました。

(略)上田被告は、死刑判決が下された法廷でも、閉廷の際、「ありがとう、ございました」と言って、裁判長と裁判員にぺこりと頭を下げたのだそうです。著者は、そんな被告の態度に「目と耳を疑った」と書いていました。上田被告は、そういった礼儀正しさも併せ持っているのだそうで、その姿を想像するになんだかせつなさのようなものさえ覚えてなりません。

これで二審も死刑判決が出たわけですが、青木理氏が言うように、「遅きに失した」感は否めません。事件の真相はどこにあるのか。無罪を主張する被告の声は、あまりにも突飛で拙いため、まともに耳を傾けようする者もいません。被告に「無知の涙」(永山則夫)を見る者は誰もいないのです。そして、刑事裁判のイロハも理解してない素人裁判員が下した極刑が控訴審でも踏襲されてしまったのでした。そう思うと、よけい読後のやりきれなさが募ってなりませんでした。


そして、予期せぬ死去のニュースに、再びやりきれない思いを抱いているのでした。
2023.01.15 Sun l 訃報・死 l top ▲

■アルゼンチンの「規約違反」


FIFAがワールドカップで優勝したアルゼンチンに対して、決勝戦において「規定違反」があったとして、処分の手続きを開始したというニュースがありました。

AFP
FIFA、アルゼンチンの処分手続き開始 W杯決勝で規定違反か

記事は次のように伝えています。

 FIFAは、アルゼンチンに「攻撃的な振る舞いやフェアプレーの原則への違反」や「選手と関係者の不適切行為」のほか、メディアとマーケティングに関する規定違反があった可能性を指摘している。


私は、それみたことかと言いたくなりました。手前味噌になりますが、私は、ワールドカップでアルゼンチンが嫌いだとして、このブログで下記のような記事を書きました。

関連記事:
「ニワカ」のワールドカップ総括

■勝てば官軍


しかし、日本のメディアは、アルゼンチンの優勝を我が事のように喜び、「勝てば官軍」のような称賛の記事のオンパレードだったのです。サッカー専門のメディアも含めて、アルゼンチンの「汚いサッカー」を指摘する声は皆無でした。

それは、カタール大会のいかがわしさに対しても同じでした。一片の見識もないのです。疑問を呈する声はいっさいシャットアウトして、「勝てば官軍」の報道一色に塗られたのでした。

この思考停止した“日本的な光景”は、サッカーだけの話ではありません。ウクライナ侵攻についても、中国脅威論についても同じです。そこにあるのは、寄らば大樹の陰の浅ましい心根だけです。

「国境なき記者団」による2022年の「世界報道の自由度ランキング」で、日本は180ヶ国中、前年の67位からさらにランクを落として71位だったのですが、そのことについても、メディアも国民も危機感などはまったく見られません。ちなみに、アジアでは台湾が38位、韓国が43位です。

■ガーシーの問題


「世界報道の自由度ランキング」が71位という、既に独裁国家並みの報道の自由しかない日本のメディアのテイタラクは、たとえば、(わかりやすい例を上げれば)ガーシーの問題にもよく表れています。

警視庁が強制捜査に乗り出したことについても、メディアは盛んに著名人に対する名誉棄損や脅迫を上げていますが、警視庁のホントの狙いはもっと深いところにある、と「アクセスジャーナル」が書いていました。

アクセスジャーナル
<芸能ミニ情報>第108回「警視庁は、ガーシー議員とZをセットで狙っている?」

ガーシーがドバイに「逃亡」したのもそうですが、「身の安全のために」日本に帰国しないと主張していたのは、最初から不自然でした。現在は、著名人に対する名誉棄損などのために逮捕されたくないからという主張に変わっていますが、当初はそうではなかったのです。

”何か”に怯えていたのです。裏カジノに手を出して莫大な借金を抱えていたことは知られていましたので、反社の闇金融から追い込みをかけられているのではないかと思っていましたが、それだけだったのか。

「アクセスジャーナル」は、「特殊詐欺集団の大物元締」との関係を指摘しています。「興味深い情報」として、二人は「汚れ仕事を手を染めているだけでなく、連携していると聞いていた」と書いていました。警視庁は、YouTubeからの収入などを管理する「合名会社」やその関係者宅を家宅捜索し、一部では捜査の過程で新たな「投資トラブルがあったことも発覚した」と伝えられています。

「アクセスジャーナル」が言う「汚れ仕事」が、著名人に対する「常習的脅迫」だけ・・を指しているとはとても思えません。捜査は、YouTubeによる著名人への名誉棄損や脅迫から、別の方向に進んでいるような気がしてなりません。

国会議員に対する強制捜査に着手したというのは、国会議員には国会開会中は逮捕されないという「不逮捕特権」がありますので、当然国会との調整もついた上のことでしょう。

と思ったら、案の定、参議院の石井準一議院運営委員長が、ガーシーに対して、今月の23日に召集される通常国会も欠席が続けば「懲罰に相当する」との認識を示したという報道がありました。

ガーシーは3月の上旬に帰国すると答えていますが、石井議院運営委員長は今月の通常国会と言っているのです。警視庁が国会の処分を視野に強制捜査に着手したのは間違いない気がします。誰かも言っていましたが、たしかに「詰んできた」ように思います。

芸能人に女性をアテンドし、裏カジノに手を出して、既に和解したとは言え”BTS詐欺(まがい)”まではたらき、それで芸能界の周辺にたむろするいかがわしい人間達と関係がないというのは、どう考えても無理があるでしょう。

だからと言って、ガーシーの標的になった芸能人がまったくの被害者なのかと言えば、そうも言えないのが芸能界が芸能界たる所以です。吉本隆明ではないですが、芸能界は普通のお嬢ちゃんやお坊ちゃんでは務まらない”特殊な世界”なのです。言うなれば、美男美女の不良ワルが集まったところなのです。当然、脛に傷を持つ不良ワルも掃いて棄てるほどいるでしょう。

名誉棄損や脅迫といった”軽犯罪”で、どうして関係者宅まで家宅捜索されるのか。そもそも「合名会社」や関係者というのは何なのか。疑問は尽きませんが、メディアは右へ倣いしたようなおざなりな報道をくり返すだけです。

私は、ここに至って、再びみずからの動画でガーシーに弁明させた田村淳に対しても、何をそんなに怯えているのかと思いました。「ワイドナショー」でも田村淳はガーシーを擁護していたようですが、それは単なる逆張りとは思えません。
2023.01.15 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲

■1万5千歩


昨日、午後から久しぶりにみなとみらい界隈を散歩しました。歩数を稼ぐために隣駅まで歩いて、東横線・みなとみらい線で馬車道まで行き、馬車道から汽車道、汽車道から赤レンガ倉庫、赤レンガ倉庫から象の鼻パーク、象の鼻パークから山下公園まで歩きました。帰りは山下公園から遊歩道で赤レンガ倉庫まで戻り、そのあと大観覧車の横を通ってみなとみらいのクイーンズスクエアまで歩いて、みなとみらい駅から電車に乗って帰りました。

帰ってスマホを見たら、1万5千歩を越えていました。大体今まで月平均で12万〜15万歩は歩いていたのですが、最近はその半分くらいしか歩いていません。それで、月10万歩を目標に歩こうと思ったのでした。今月はこれで6万歩近く歩いていますので、今のところ順調です。

もちろん、山に行けば1回で少なくて2万歩、多いときは3万歩を歩きますので、10万歩なんて軽くクリアするのですが、最近は膝のこともあって、山に行くのがおっくうになっているのでした。

■『裏横浜』


昨日は正月明けで、しかも曇天で夜から雨の予報だったということもあってか、赤レンガ倉庫や山下公園も人はそれほど多くありませんでした。やはり若者が目立ちました。(昔風に言えば)アベックだけでなく、如何にも仲が良さそうな女性同士のカップルも目に付きました。韓国に行くと女の子同士が手をつないで歩いていますが、韓流文化の影響なのか、はたまた結婚だけでなく恋愛に対する幻想もなくなった今の時代を反映しているのか、さすがに手はつないでないものの、最近は若い女性同士のカップルがやたら多くなったような気がします。

結婚だけでなく、若者たちの生き方を窮屈なものにしていた恋愛至上主義が瓦解したのはとてもいいことだと思います。少子化対策なんてクソくらえなのです。あれはあくまで国家の論理にすぎません。あんなものに惑わされずに、若者たちは好きなように自由に生きていけばいいのです。恋人より友達というのも全然ありだと、おじさんは思うのでした。

汽車道の対岸の船員アパートがあったあたりは、タワマンやアパの高層ホテルや32階建ての横浜市庁舎が建っていました。そうやって港町の”記憶の積層”が消し去られて、横浜の魅力であったゆとりの空間があたりを睥睨するような愚劣な建物に奪われているのでした。私は、万国橋からの風景が好きだったのですが、それらの建物が視界を邪魔して、つまらない風景になっていました。

最近読んだ八木澤高明著『裏横浜』(ちくま新書)によれば、現在、「象の鼻パーク」と呼ばれ整備されている堤防のあたりは、ペリーが来航した際に、日米和親条約を結ぶためにぺーリー艦隊と江戸幕府との会談が行われた場所だそうです。今の風景の中で、その痕跡を探すのはとても無理な相談です。

赤レンガ倉庫も、明治末期から大正時代にかけて、当時の日本では重要な輸出品であった生糸を保管するために造られたものです。生糸は、『女工哀史』や『あゝ野麦峠』で有名な信州や、官営の富岡製糸場があった上州などの生産地からいったん八王子に集められ、八王子から輸出港である横浜に運ばれたそうです。その運搬用に敷設されたのが今のJR横浜線です。

山下公園に行くと、「インド水塔」の改修工事が行われていました。「インド水塔」は、関東大震災の際に避難してきた多数のインド人を横浜市民が「救済」したとして、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために昭和14年12月に在日インド人協会が建立したのだそうです。朝鮮人に対しては斧や鉈で襲い掛かった日本人が、インド人を助けたというのは驚きですが、そう言えば山下公園では毎年首都圏在住のインド人が集まる、インド人の祭りも開催されています。ただ、横浜の住民がインド人を「救済」したのは、当時、生糸の主要な輸出国がインドだったということも無関係ではないように思います。

私も昔、横浜のシルク業者からシルクのスカーフなどを仕入れて、都内の雑貨店に卸していたことがありました。その業者も若い頃は地元の貿易会社に勤めていたと言っていました。カナダやアメリカからステッカーを輸入していたのも横浜の会社でしたし、中国から横流しされた安売りのシールを輸入していたのも横浜の若い業者でした。いづれも既に廃業していますが、横浜にはそういった港町の系譜を汲む貿易商のような人たちも多くいたのです。

1884年(明治17年)に勃発した秩父事件も、国際的な生糸価格の暴落という背景があります。秩父地方もまた生糸の生産地だったのですが、秩父事件は、生糸価格の暴落により困窮した民衆が高利貸に借金の棒引きなどを要求して武装蜂起し、僅かな期間ながら秩父に”自治政府”を樹立したという、日本の近代史上特筆すべき出来事なのです。赤レンガ倉庫の背後には、そういった歴史も伏在しているのでした。

「メリケン波止場」と呼ばれた大さん橋も、現在はクルーズ船のターミナル港(寄港地)になっていますが、昔はブラジルなど南米への移民船の出港地で、『裏横浜』にも、「横浜から旅立った人々のうち一番多かったのは、旅客ではなく、移民である。その数は100万人ともいわれている」と書かれていました。その中には、横浜の鶴見からブラジルに旅立った当時中学生のアントニオ猪木の一家も含まれていたのでした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。


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汽車道沿いの運河の上を「ヨコハマエアーキャビン」という観光用のロープウェイ”が架けられていました。

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汽車道

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「エアキャビン」と反対側の風景

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万国橋から

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赤レンガ倉庫

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射的の出店

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恒例のイベント・スケートリンク

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多くの移民が向かった大さん橋への道

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山下公園

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写真を撮っている横は、一時よく通っていた「万葉倶楽部」
2023.01.14 Sat l 横浜 l top ▲
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(2022年12月・奥多摩)


■予定調和


あのジェフ・ベックが亡くなったというニュースがありました。若い頃仰ぎ見ていた上の世代の人たちが次々と旅立っています。

ジェフ・ベックについて、音楽評論家の萩原健太氏が、朝日新聞のインタビュー記事の中で次のように語っていました。

朝日新聞デジタル
「ギターは歌う」 本気でそう思わせたジェフ・ベック 萩原健太さん

 そんな彼が革新的だったのは、音楽的におかしな音を平気で弾いちゃうこと。「ブロウ・バイ・ブロウ」でも、ビートルズの曲をカバーしていますが、コード進行から外れてしまう音に平気で行くんですよね。多分、「これがいけない」とかじゃなくて、「こういう風に歌いたい」っていう気持ちがすごく強いんだと思う。

 予定調和も嫌う。たどり着くべき正解なんていうのは元々なくて、1回演奏したら、次の演奏では違うことをしたい、という気持ちがすごく強い人だったんじゃないかな。不協和音も、彼にとってはたぶん全然不協和音ではなくて、「ここでこっちに行きたいよね」っていう気持ちが、ギターに伝わってそのまま音になって出てくる、みたいな感じだった。


そうなんです。昔、「予定調和」を嫌う時代があったのです。「予定調和」という言葉は”軽蔑語”のように使われていました。

でも、最近毒ついているように、ネットの時代になり、「予定調和」こそ正道、あるべき姿みたいな風潮が強くなっています。「不協和音」を激しく排斥しようとする、文字通り同調圧力が強くなっている感じです。

SNSは一見言いたいことを言う百家争鳴みたいに見えるけど、それはただのノイズでしかないのです。ノイズは、むしろ同調圧力を高めるための燃料のような感じでさえあります。

自分と反対の意見にどうしてあんなに感情的に反発するのか。しかも、それは「自分」の意見ではないのです。「自分たち」の意見にすぎないのです。何が何でも「予定調和」で終わらなければならないとでも言いたげです。萩原健太氏が言うように、何だか最初から「正解」が用意されているかのようです。

言うなれば、ジェフ・ベックはへそ曲がり、天邪鬼だったと言えるのかもしれません。それが彼の個性であり、彼の音楽性だったのです。ジェフ・ベックも今だったら、「へたくそ」「邪道」なんて言われたでしょう。

話は飛びますが、ウクライナ侵攻についても、メディアに流通しているのは「予定調和」の言葉ばかりです。それがあたかも真実であるかのようにです。私も何度も書いているように、防衛省付属の防衛研究所の研究員がしたり顔でメディアで戦況を解説していますが、それはもはや大本営発表と同じようなものでしょう。でも、誰も疑問を持たずに、いつの間にかウクライナは味方VSロシアは敵という戦時の言葉に動員されているのでした。

誰が戦争を欲しているのか。誰が世界大に戦争を拡大させようとしているのか。誰が私たちを戦争に巻き込もうとしているのか。それを「予定調和」の言葉でなく、もう一度自分たちの言葉で考えるべきでしょう。

と、今更言っても空しい気もしますが、そんな中で、次のようなツイートは「予定調和」の言葉に抗するものとして貴重な気がしました。

アジア記者クラブ(APC) (@2018_apc) · Twitter




2023.01.13 Fri l ウクライナ侵攻 l top ▲
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(public domain)



■愛犬の死


知り合いから新年の挨拶の電話がかかってきたのですが、その中で昨年、可愛がっていた犬が亡くなり、未だショックが収まらず気持が沈んだままだ、と言っていました。喪中のハガキを出そうかと思ったそうです。「おい、おい」と思いました。

12歳だったそうですが、糖尿病で薬を飲んでいたのだとか。私の家でも犬を二代に渡って飼っていましたが、最初の犬の餌は、ご飯にイリコを入れて味噌汁をぶっかけたいわゆる(言い方が変ですが)“猫飯”でした。今は「餌」なんて言い方も反発を招くそうですが、そんな時代でしたので、犬が(血糖値を下げる?)糖尿病の薬を飲むという話に驚きました。聞けば、人間と同じ薬だそうです。同じ哺乳類とは言え、犬のような体重の軽い個体に、人間用の薬を処方してホントに大丈夫なのかと思いました。

愛犬はいつも玄関に座って帰りを待っていたそうで、「忠犬ハチ公みたいな感じだった」と言っていました。でも、そうすれば頭を撫でられて餌を貰えることを学習したからでしょう。犬がそうしたのではなく、飼い主がそうしむけただけです。

実家で飼っていた最初の犬は、近くの山で拾って来た野犬の子どもでした。小学生のとき作文にも書いて、結構評判になり賞を貰いました。さすがに最近は見なくなりましたが、しばらくは夢にも出て来ました。

次の犬は、他所から貰ってきた柴犬で、そのときは既にペットフードに代わっていました。世話していた母親は、半生の餌しか食べないと言っていました。

亡くなったのは、私が二度目の上京をしたあとで、早朝4時くらいに突然、母親から「今××(犬の名前)が死んだんだよ」と半泣きの声で電話がかかってきたのを覚えています。

最初の犬の死骸は、(はっきりした記憶はないのですが)おそらく裏の柿の木の下に埋めたのではないかと思います。次の犬はペット専用の火葬屋に頼んで火葬して、その骨をやはり柿の木の下に埋めたみたいです。でも、そこは既に人手に渡り今は駐車場になっています。

犬が家族の一員で、いつまでも思い出の中に残るというのはよくわかります。私は子どもの頃、犬に追いかけられ木に登って難を逃れたトラウマがあるので、他人の犬は噛みつかれるようで怖いのですが、しかし、自分の家の犬は可愛いと思ったし、よく可愛がっていました。

■ウエストランドの井口


知り合いは、愛犬が亡くなって以来、YouTubeで犬の動画を観て心を癒しているそうです。

と、私は、YouTubeと聞いて、まるで心の糸が切れたように、突然、ウエストランドの井口みたいな口調で、まくし立てはじめたのでした。

「あんなのはヤラセみたいなもんだろ」と私。
「エエッ、そんなことはないよ」
「だってよ、猫を拾って来て『こんなに変わった』『今や家族の一員』『いつまでも一緒』なんてタイトルでYouTubeに上げると、すぐ百万回再生するんだぜ。コメント欄も『ありがとうございます』『ネコちゃんも好い人に巡り会えて幸せですね』なんてコメントで溢れる。こんな美味しいコンテンツはないだろ」
「そんな‥‥」
「登山系ユーチューバーなんか見て見ろよ。あんなにお金をかけて、スキルもないのに無理して山に登っても、よくて数万しか行かない。ほとんどは数千、数百のクラスだ。それが猫を拾ってくれば百万も夢じゃない」
「たしかに猫を保護したという動画がやたら多いけど‥‥」
「猫だけじゃない保護犬の動画も多い」

「今やYouTubeは趣味じゃない。Googleから広告料の配当を得るためにやっている。お金のためだよ」
「‥‥」
「素人は盗品やニセモノをメルカリで平気で売る。お金のためなら何でもするのが素人だ」
「炎上系は論外としても、たとえば、外国人が日本の食べ物や景色に感動した、『恋した』『涙した』という一連の動画がある。あれもテレビの『ニッポン行きたい人応援団』のような『ニッポン、凄い!』の延長上にあるもので、単細胞な日本人を相手にするのにこれほど手っ取り早く美味しいコンテンツはない。したたかな外国人にいいように利用されているだけだよ。犬・猫もそれと似たようなもんだろ」

そこまで話したら、「忙しいから」と電話を切られてしまいました。
2023.01.12 Thu l ネット l top ▲
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(public domain)


■インフレ率を超える賃上げ


岸田首相が4日に伊勢神宮を参拝した際の記者会見で、今年の春闘においてインフレ率を超える賃上げの実現を訴えたことで、「インフレ率を超える賃上げ」という言葉がまるで流行語のようにメディアに飛び交うようになりました。

日本経済新聞
首相、インフレ率超える賃上げ要請 6月に労働移動指針

「この30年間、企業収益が伸びても期待されたほどに賃金は伸びず、想定されたトリクルダウンは起きなかった」と話した。最低賃金の引き上げに加え、公的機関でインフレ率を上回る賃上げをめざすと表明した。

「リスキリング(学び直し)の支援や職務給の確立、成長分野への雇用の移動を三位一体で進め構造的な賃上げを実現する」と強調した。労働移動を円滑にするための指針を6月までに策定するとも明らかにした。


ときの総理大臣が、この30年間、企業収益が伸びても賃金が上がらなかったと明言しているのです。しかも、賃金が上がらないのに、大企業は大儲けして、史上空前の規模にまで内部留保が膨らんでいると、総理大臣自身が暗に認めているのです。

このような岸田首相の発言は、とりもなおさず日本の労働運動のテイタラクを示していると言えるでしょう。たとえば、欧米や中南米などでは、賃上げを要求して労働者が大規模なストライキをしたり、政府の政策に抗議して暴動まがいの過激なデモをするのはめずらしいことではありません。そんなニュースを観ると、日本は中国や北朝鮮と同じグループに入った方がいいんじゃないかと思うくらいです。

昔、大手企業で労働組合の役員をしていた友人がいたのですが、彼は、連合の大会に行ったら、会場に次々と黒塗りのハイヤーがやって来るのでびっくりしたと言っていました。ハイヤーに乗ってやって来るのは、各産別のナショナルセンターの幹部たちです。友人が役員をしていた組合も、何年か役員を務めると、そのあとは会社で出世コースが用意されるという典型的な御用組合で、彼自身も私とは正反対のきわめて保守的な考えの持ち主でしたが、そんな彼でも「あいつらはどうしうようもないよ」「労働運動を食いものにするダラ幹の典型だよ」と言っていました。

友人は連合の会長室にも行ったことがあるそうですが、「うちの会社の社長室より広くて立派でぶったまげたよ」と言っていました。「あいつらは学歴もない叩き上げの人間なので、会社で出世できない代わりに、組合をもうひとつの会社のようにして出世の真似事をしているんだよ」と吐き捨てるように言っていましたが、当たらずといえども遠からじという気がしました。そんな「出世の真似事」をしているダラ幹たちが、日本をストもデモもない国にしたのです。

彼らは岸田首相から、「あなたたちがだらしがないから、私たちがあなたたちに代わって経済界に賃上げをお願いしているのですよ」と言われているようなものです。連合なんてもはや存在価値がないと言っても言いすぎではないでしょう。

にもかかわらず、連合のサザエさんこと芳野友子会長は、まるで我が意を得たとばかりに、年頭の記者会見で次のように語ったそうです。

NHK
連合 芳野会長「実質賃上げ 経済回すことが今まで以上に重要」

ことしの春闘について、連合の芳野会長は、年頭の記者会見で「物価が上がる中で、実質賃金を上げて経済に回していくことが今まで以上に重要となるターニングポイントだ」と指摘し、賃上げの実現に全力を挙げると強調しました。

ことしの春闘で、連合は「ベースアップ」相当分と定期昇給分とを合わせて5%程度という、平成7年以来の水準となる賃上げを求めています。

そのうえで「賃上げは労働組合だけでは実現できず、使用者側の理解や協力のほか、賃上げしやすい環境づくりという点では政府の理解や協力も必要だ」と述べ、政府と経済界、労働界の代表による「政労使会議」の開催を呼びかけていく考えを示しました。


「恥知らず」「厚顔無恥」という言葉は、この人のためにあるのではないかと思ってしまいます。

■中小企業と賃上げ


同時に、岸田首相は、少子化問題についても、「異次元の対策に挑戦すると打ち出」し、「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)を決定する6月頃までに、子ども予算の倍増に向けた大枠を提示すると述べた」(上記日経の記事より)そうです。

それを受けて、松野官房長官も児童手当の「恒久的な財源」を検討すると表明し、また、東京都の小池都知事も、2023年度から所得制限を設けず、「18歳以下の都民に1人あたり月5000円程度の給付を始める方針を明らかにした」のでした。

しかし、これらはホントに困窮している人たちに向けた施策ではありません。私は、鄧小平の「先富論」の真似ではないのかと思ったほどです。もとより、児童手当の拡充や支援金の給付が、防衛費の増額と併せて、いづれ増税の口実に使われるのは火を見るようにあきらかです。賃上げや少子化と無縁な人たちにとっては、ただ負担が増すばかりなのです。

賃上げに対して、企業のトップも意欲を示し、「賃上げ機運が高まってきた」という記事がありましたが、それは経済3団体の新年祝賀会で取材した際の話で、いづれも名だたる大企業のトップの発言にすぎません。

中小企業庁によると、2016年の中小企業・小規模事業者は357.8万で企業全体の99.7%を占めています。また、中小企業で働いている労働者は約3,200万人で、これは全労働者の約70%になります。

ちなみに、中小企業基本法による「中小企業」の定義は、以下のとおりです。

「製造業その他」は、資本金の額又は出資の総額が3億円以下の会社又は常時使用する従業員の数が300人以下の会社及び個人。
「卸売業」は、資本金の額又は出資の総額が1億円以下の会社又は常時使用する従業員の数が100人以下の会社及び個人。
「小売業」は、資本金の額又は出資の総額が5千万円以下の会社又は常時使用する従業員の数が50人以下の会社及び個人。
「サービス業」は、資本金の額又は出資の総額が5千万円以下の会社又は常時使用する従業員の数が100人以下の会社及び個人。

これらの「中小企業」では、賃上げなどとても望めない企業も多いのです。まして、非正規雇用や個人事業者や年金暮らしなどの人たちは、賃上げとは無縁です。

高齢者の生活保護受給者の多くは、単身所帯、つまり、一人暮らしです。年金も二人分だと何とかやり繰りすることができるけど、一人分だと生活に困窮するケースが多いのです。

しかも、「インフレ率を超える賃上げ」という岸田首相の言葉にあるように、賃上げもインフレ、つまり、物価高が前提なのです。ありていに言えば、「商品の値段を上げてもいいので、その代わり賃上げもして下さいね」という話なのです。そして、そこには、国民に向けての「賃上げもするけど(児童手当も拡充するけど)税金も上げますよ」という話も含まれているのです。それを「経済の好循環」と呼んでいるのです。

岸田首相が麗々しくぶち上げた賃上げや「異次元の少子化対策」は、”下”の人々にさらに負担を強いる「弱者切り捨て」とも言えるものです。

しかも、メディアも野党も労働界も左派リベラルも、そういった上か下かの視点が皆無です。それは驚くべきことと言わねばなりません。

■上か下かの政治


一昨年の衆院選で岐阜5区で立憲民主党から出馬し、小選挙区では全国最年少候補として戦った今井瑠々氏が、今春の統一地方選では、自民党の推薦で県議選に立候補することを視野に立憲民主党に離党届を提出した、というニュースがありました。

それに伴い彼女の支援団体も解散した、という記事がハフポストに出ていました。

HUFFPOST
「今井さんごめんね。苦しい中支えきれなくて」今井瑠々氏の自民接近で支援団体が解散

支援団体「今井るるサポーターズ」は、声明の中で、「今井さんごめんね。苦しい中支えきれなくて」と苦渋の思いを吐露していたそうです。私が記事を読んでまず思ったのは、そんなおセンチな「苦渋」などより、支援者たちがみんなミドルクラスの恵まれた(ように見える)女性たちだということです。つまり、立憲民主党と自民党は、同じ階層クラスの中で票の奪い合いをしているだけなのです。だったら、候補者が自民党に鞍替えしても何ら不思議はないでしょう。倫理的な問題に目を瞑れば政治的信条でのハードルはないに等しいのです。

何度もくり返し言いますが、今こそ求められているのは上か下かの政治です。右か左かではなく上か下かなのです。突飛な言い方に聞こえるかもしれませんが、”階級闘争”こそが現代におけるすぐれた政治的テーマなのです。

トランプを熱狂的に支持しているのは、ラストベルトに象徴されるような、「ホワイト・トラッシュ(白いクズ)」と呼ばれる没落した白人の労働者階級ですが、「分断」と言われているものの根底にあるのも、持つ者と持たざる者との「階級」の問題です。

”階級闘争”をアメリカやフランスやイタリアのように、ファシストに簒奪されないためにも、下層の人々に依拠した(どこかの能天気な政治学者が言う)「限界系」の闘う政治が待ち望まれるのです。
2023.01.10 Tue l 社会・メディア l top ▲
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■発信者情報開示の簡略化


同じことのくり返しになりますが、私は、昨年の10月に書いたフリーライターの佐野眞一氏の死去に関する記事の中で、故竹中労が昔、テレビ番組の中で紹介していた17世紀のイギリスの詩人・ジョン・ミルトンの次のような言葉を引用しました。

「言論は言論とのみ戦うべきであり、必ずやセルフライティングプロセス(自動調律性)がはたらいて、正しい言論だけが生き残り、間違った言論は死滅するであろう。私たちものを書く人間が依って立つべきところは他にない」
(『アレオパジティカ』より)


また、同じ番組で竹中労が紹介していた、フランスの劇作家のジャン・ジロドゥの言葉も引用しました。

「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡うのだ」
(『オンディーヌ』より)


これも記事の中で書いたのですが、昨年の10月1日からプロバイダ責任制限法が改正、施行されて、SNS等の発信者情報の開示が非訟手続になり、手続きが簡略化されました。

発信者情報開示の簡略化は、フジテレビの「テラスハウス」に出演したことで、ネットで誹謗中傷を受け、それが原因で自殺した女子プロレスラーの家族などが求めたネット規制の声を受けて変更されたものです。

ネット規制に関しては、自殺した家族だけではなく、ヘイトな書き込みなどで被害を受けていた在日コリアンや性的少数者なども、同様に規制を求める声がありました。

しかし、それ以後、ネットでは意見が異なる相手に対して、二言目には「発信者情報の開示」をチラつかせて、発言を封殺するようなふるまいが横行するようになっています。

さらには、それまでヘイトな言論を振り撒いていた者たちが、ネット規制を逆手にとって、自分たちを批判する発言を嫌がらせのように名誉棄損で訴えるという行為も多くなりました。

■言論には言論で対抗する


ジャン・ジロドゥが言うような「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡う」風潮が蔓延するようになったのでした。

言論には言論で対抗するのではなく、安易に国家に判断を委ねるようになったのです。つまり、国家を盾に相手を委縮させる手段として、ネット規制が使われるようになったのです。そうやって国家が私たちの発言にまでどんどん踏み込んで来る、その(さらに強力な)道筋を造ったと言っていいでしょう。今のような風潮は、とりわけSNSなどで自分の考えや意見を発信している個人には大きな圧力に感じるでしょう。

「自由にも責任がある」という言い方がありますが、ただ、それもきわめて曖昧な概念です。自由と責任の間に明確な線引きがあるわけではないし、そもそも線引きができるわけではないのです。もっとも、「自由にも責任がある」という言い方は、自由を規制する口実に使われる場合がほとんどです。

私は、言論には言論で対抗するということの中には、ときに街角(ストリート)で怒鳴り合ったり、殴り合ったりすることもありだと思っています。言論には、それくらい”幅広い”考えが必要なのです。

民主主義はアルゴリズムで最適化されて、自動的に導きだされるという、成田悠輔の「無意識データ民主主義」に対しては、「世界内戦の時代は民衆蜂起の時代である」という笠井潔の言葉を対置するだけで充分でしょう。それが世界の現実であり、抑圧された人々の声なのです。

成田悠輔がたまごっちと同じような一時の”流行はやり”にすぎないことはあきらかですが、成田悠輔や、YouTubeの視聴者と同じように彼にお追従コメントを送る読者たちは、ただ世界の現実から目をそむけ耳を塞いでいるだけです。その一語で済むような取るに足りない言葉遊びの”流行”にすぎません。

今の資源高に伴う世界的なインフレに対して、世界各地で民衆蜂起と言ってもいいような抗議の声が上がっていますが、本来、民主主義というのはそういった地べたの運動の先にあるものでしょう。私は、むしろ、生身の”暴力”や”身体(性)”に対する考えを復権すべきだとさえ思っているくらいです。

「今どきSNSを『利用してやる』くらいの考えを持たなければ、社会運動も時代から取り残されるだけだ」などと言っていた左派リベラルは、被害者家族の要求に便乗してネット規制を求めたのですが、結局、みずから墓穴を掘ることになったのです。そうやって自分たちで自由を毀損しみずからの首を絞めることになったのです。

地べたの運動に依拠しない、口先三寸主義の左派リベラルが辿る当然の帰結と言えますが、彼らもまた、自由の敵であると言われても仕方ないでしょう。何度も言いますが、前門の虎だけでなく後門にも狼がいることを忘れてはならないのです。


関連記事:
追悼・佐野眞一
2023.01.08 Sun l ネット l top ▲
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■「美味しい」という投稿


近所の食べ物屋が「美味しい」というネットの投稿を見たので行ってみました。それも一人だけではなく、何人からも「高評価」の投稿があったからです。その店は開店してまだ半年くらいで、私も開店したことは知っていました。

その結果は‥‥。あれほどネットを批判しながら、ネットの投稿を信じた自分を恥じました。不味くはないけど、言われるほど「美味しい」とは思いませんでした。どこが「高評価」になるのかわかりませんでした。立地条件がいいわけではないので、あの程度では生き残るのは難しい気がしました。

私はこの街に住んで10年以上になりますが、駅前の商店街で生き残るのが至難の業であることはよくわかります。地元の店以外で、10年前から続いている店があるのか考えても、思い付かないほどです。それくらい出入りが激しいのです。

お気に入りのから揚げ店があったのですが、それも1年くらいで撤退しました。コンビニにしても出店と撤退をくり返しています。それでも東急東横線の駅前商店街であれば、あらたに出店する店がひきもきらないのです。

考えてみれば、「美味しい」と投稿した人間たちも、別に食に通じているわけではなく、軽い気持で投稿しているだけなのでしょう。

昔から投稿マニアというのはいましたが、ネットの時代になりその敷居が格段に低くなったのです。ネットの「バカと暇人」たちにとって、ネットに投稿することが恰好の時間つぶしになっているような気もします。もしかしたら、承認欲求で投稿しているのかもしれません。

■Google


以前、知り合いが都内のいわゆる「高級住宅街」と呼ばれる街でレストランをやっていたことがありました。雑誌にも取り上げられたことがあり、知り合いに訊くと、ヤラセではなくちゃんとした取材だったそうです。もちろん、グルメサイトから広告を出せば「おすすめ」で上位に表示できますよという営業があったり、怪しげな会社からグルメサイトへの「高評価」の投稿を請け負いますよとかいった勧誘もあったそうですが、バカバカしいのでいづれも断ったと言っていました。

そんな某日、席に付くや否や、いきなりテーブルの上でパソコンを開いて、何やらガヤガヤと“批評”し合うような30代から40代の「異様なグループ」が来店したのだそうです。あまりに行儀が悪いので、「他のお客さんに迷惑なりますので、そういったことはやめていただきますか?」と注意したのだとか。

すると、後日、ネットに「低評価」の投稿が次々に上げられたのでした。知り合いはネットに疎かったので、たまたまそれを見つけた私が「どうなっているんだ?」と連絡したら、「ああ、あいつらだな」と言っていました。

私たちは、いつの間にか、そんなネットの「バカと暇人」に振りまわされるようになっているのではないか。テレビのニュースでも、「ネットではこんな意見があります」というように、ネットの投稿を紹介したりしていますが、その投稿はホントに取り上げるべき意見なのかと思ったりします。

現在いまは、報道でもバラエティでも、ネタをネットで検索して探すのが当たり前になっているのかもしれませんが、そういったお手軽さが無責任を蔓延することになっているような気がします。

昔、五木寛之だったかが、編集のチェックが入ってないネットの記事は信じないことにしている、と書いているのを読んだことがあります。プロによる「真贋」=ファクトチェックというのは非常に大事で、私たちはネットが日常的なものになるにつれ、「真贋を問わない」ことにあまりに慣れ過ぎているように思います。

リテラシーという言葉だけは盛んに使われるようになりましたが、だからと言って、「真贋を見極める」リテラシーを身に付けることはないのです。あくまで私たちにあるのは「真贋を問わない」安易な姿勢だけです。

前の記事で書いたようなYouTubeのコメント欄のバカバカしさも、それがバカバカしいものだと思わなくなり、それどころかいつの間にかバカバカしいコメントを「評価」として受け入れている(そうさせられている)私たちがいます。

Googleは、「総表現社会」とか「集合知」とかいった甘言で、「真贋を問わない」社会をマネタイズして、私たちの上に君臨するようになったのでした。マネタイズするためには、「真贋」なんてどうだっていいのです。むしろ、「真贋を問わない」方が御しやすいと言えるかもしれません。

一見”百家争鳴”や”談論風発”に見えるものも、決して自由を意味しているわけではないのです。「集合知」と言っても、実際は「水は常に低い方に流れる」謂いにすぎないのです。

「総表現社会」や「集合知」という幻想によって、私たちは「真贋を問わない」ことに慣れ、同時に「総表現社会」や「集合知」のために個人データを差し出すことに、ためらいがなくなったのでした。それは、マイナンバーカードが、「健康保険証や運転免許証と一緒になるので便利ですよ」「銀行口座と紐付ければ給付金の振込みなどもスムーズに行われますよ」という、(便利なだけじゃない)”お得な利便性”の幻想を与えられて強制されるのと同じです。

Googleの先兵になって、「Googleは凄い」と宣伝してきたネット通たちの責任は極めて大きいと言わねばなりません。

今更ファクトチェックと言っても、無間ループのような作業が必要です。しかも、「真贋を問わない」情報の洪水の中で、ファクトチェックもその中に埋没させられ、冗談ではなく、ファクトチェックのファクトチェックさえ必要な感じです。

正義も、評価も、真理も、Googleという私企業の手のひらの上で操られ、いいように利用されているだけなのです。深刻に受け止めてもどうなるものではないかもしれませんが、せめてそんな世も末のような現実の中に生きているのだということくらいは、認識してもいいのではないでしょうか。

先日、朝日新聞に次のような記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
AIに政治を任せる? 「データ教」の不気味さ、人生の最適解とは

 家の中や街で発せられた言葉、表情、心拍数などあらゆる情報をインターネットや監視カメラで吸い上げる。無数の民意データを集め、民衆が何を重視しているかを探る。そのうえで、GDPや失業率、健康寿命といった目標を考慮に入れながら、アルゴリズム(計算手順)が最適な政策を選択する。

 経済学者、成田悠輔さんは2022年に出した著書「22世紀の民主主義」(SB新書)でそんな「無意識データ民主主義」を主張した。


手っ取り早く言えば、これはGoogleが言う「集合知」を「無意識データ民主主義」と言い換えているだけではないのか。

こういった太平楽なネット信奉者が、卒業論文で、旧労農派のマルクス経済学者の名を冠した「大内兵衛賞」を受賞し、「天才」だとか言われてマスコミの寵児になる時代の怖さは、「真贋を問わない」時代とパラレルな関係にあるように思えてなりません。

「真贋」があらかじめ国家によって決められる中国のような社会と、「真贋を問わない」Googleに支配された社会は、権威主義vs民主主義と言われるほどの違いはなく、単にデジタル全体主義ファシズムの方法論の違いにすぎないように思います。
2023.01.07 Sat l ネット l top ▲
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ジャガー横田が家族で配信していたYouTubeチャンネルを突然終了した、という記事がありました。

ディリースポーツ
ジャガー横田、家族で配信のYouTubeチャンネルを突然終了「今回の一件を通して」

■お追従コメント


私は、ジャガー横田のチャンネルを観たことはありませんので、その間の事情には疎いのですが、どうやら一人息子の嘘に対して批判するコメントが殺到したのが原因のようです。

通常、YouTubeのコメント欄は、芸能人のブログやTwitterやインスタなどと同じように、ファンからのお追従コメントで溢れるものです。それは、ユーチューバーなども同様です。私などは気色が悪いというか、バカバカしいという気持しか抱きませんが、しかし、世の中はそういった空気の中でしか生きることができない人間も多いのです。そこにあるのは、言うまでもなく同調圧力です。同調圧力に身を委ねることによってしか確認できないスカスカの自分。

ところが、ジャガー横田一家のように、何か意に沿わないことがあると、途端にお追従コメントが坊主憎けりゃ袈裟まで憎い中傷コメントに一変するのでした。それもまた、ただ風向きが変わっただけの同調圧力にすぎません。

でも、私は、ジャガー横田にとって、今回の手のひら返しは返ってよかったのではないかと思います。YouTubeで何ほどかの収益を得ていたのかもしれませんが、SNSのバカバカしい世界から手を切るきっかけを得たことは、YouTubeの収益を失っても余りある大きな収穫だったと思います。

■ユーチューバーの寿命


最近、とみにユーチューバーの寿命が短くなったように思います。それは、Googleをとりまく環境の変化によってYouTubeが大きな曲がり角を迎えているとか、参入の増加で競争(再生回数の奪い合い)が激しくなったとかいった理由だけではないような気がします。突然「お知らせがあります」と切り出すような、いわゆる「お知らせ」動画というのがありますが、ユーチューバーがコンテンツと関係なく、芸能人まがいのプライバシーを切り売るするような現象さえ見られるようになっているのです。

つまり、コメント欄のお追従コメントによって、ユーチューバー自身が勘違いし、独りよがりになっているということも、寿命を縮める要因になっているのではないか。そのため、生身のユーチューバーの薄っぺらさが透けて見え、結果としてユーチューバーにありがちなあざとさが目に付くようになるのです。素人の浅知恵と言ったら身も蓋もないのですが、それは、個人の能力の限界と言っていいのかもしれません。

一部の若者たちの間には、「社畜になりたくなければユーチューバーになれ」というような考えがあるみたいですが、そもそも社畜(会社員)とユーチューバーを対比すること自体がトンチンカンの極みと言えるでしょう。身も蓋もないことを言えば、それはネットに張りついたニートのような人生を送っている人間たちの現実逃避の謂いでしかないのです。

私たちの世代で言えば、”夢の印税生活”へのあこがれと同じようなものかもしれません。ただ、私たちの頃はそれはあくまで”夢”でしかありませんでした。しかし、今はすぐ手が届くような幻想が付与されているのです。それがネットの時代の特徴でしょう。社畜にならないためにユーチューバーになる、というのは一見自由な生き方のように思いますが、実際はまったく逆で、Googleの奴隷になるだけです。

YouTubeで視聴者が投げ銭しても、その30パーセントがGoogleにかすめ取られるという、えげつないシステムの中で”善意”が利用されているネットの現実。それは、寄付の20%近くが手数料として運営会社にかすめ取られるクラウドファンディングも同じです。

ユーチューバーや寄付を集める人たちは、元手がかからないので、手数料に関しては能天気なところがありますが、しかし、身銭を切って投げ銭したり寄付したりする人間からすれば、割り切れない気持になるのは当然でしょう。

あんなものは浮利=悪銭だ、という声がどうして出てこないのか、不思議でなりません。便利であれば、どんなあくどい商売も許されるのか。

このように私たちの”善意”や”正義”も、所詮は営利を求める一私企業の手のひらの上で踊らされ、利用され、搾取されているにすぎないのです。にもかかわらず、TwitterやYouTubeに公共性を求めたり、あるいはTwitterやYouTubeで公共性を訴えたりするのは、おめでたすぎるくらいおめでたい言説だとしか言えません。

今どきSNSを「利用してやる」くらいの考えを持たなければ、社会運動も時代から取り残されるだけだ、というような声もよく耳にしますが、Twitter騒動でのあの慌てぶりを見ると、とても「利用してやる」というような姿勢には見えません。

私たちに求められているのは、ネットをどれだけ客観的に(冷めた目で)見ることができるかというリテラシーなのです。ネットが自分を敵視して襲い掛かって来るのは、お追従コメントなどより自分を見直すいいチャンスだと考えるくらいの余裕が必要なのです。

それは、水は常に低い方に流れるネットとどう付き合っていくかという、基本的な姿勢や考え方の問題だと思います。

■丸山眞男


「タコツボ(化)」という言葉を最初に使ったのは丸山眞男で、1957年のことでした。丸山眞男は、「とかくメダカは群れたがる」日本の社会を特徴付ける精神的なふるまいをそう名付けたのでした。現代では、とりわけネットのトライブに対して、その言葉が使われています。とどのつまり、「信者」であろうが「アンチ」であろうが、たかがネットの「タコツボ」の中の話にすぎないということです。

丸山眞男は、『日本の思想』(岩波新書)の中で、自分たちの世界でしか通用しない「隠語」や「インズの了解事項」によって、本来議論すべきことが「いまさらの議論の余地がないと思われ」、それが集団意識の中に厚い層となって沈殿することで、最終的に外の世界への偏見を生むことになる、と書いていました。「タコツボ(化)」と同調圧力が背中合わせであることは今更言うまでもありませんが、その「タコツボ(化)」がネットの時代にもっとも低俗なかたちで表れているのが、YouTubeなどのお追従コメントや正反対の坊主憎けりゃ袈裟まで憎い中傷コメントだと言えるでしょう。

前の記事でも言ったように、それは、ネットの時代になり、思考停止した「頭の悪い人たち」が都合のいいユーザーとして、ネットを支配するGoogleなどに持ち上げられたからです。でも、彼らは、ユーチューバーも含めて、所詮は消費される(使い捨てられる)べき存在でしかないのです。
2023.01.04 Wed l ネット l top ▲
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■紅白歌合戦


私は、今年も「紅白歌合戦」は観ませんでした。

前の記事で書いたように、子どもの頃は、大晦日と言えば「年取り」のあと、家族そろって「紅白歌合戦」を観るのが慣例でした。

昔は、テレビというか、受像機自体がお茶の間では欠かすことのできない大きな存在で、テレビを観ないときは芝居の緞帳のような布製の覆いをかぶせていました。それくらい大事なものだったのです。

また、カラー放送が始まる前は、上から赤・青・緑(?)の三色が付いたプラスティック製のテレビ用の眼鏡のようなものを取り付けて、カラー放送を観たつもりになっていました。テレビ用の眼鏡には拡大鏡のようなものもあり、それを取り付けて、14インチのテレビで20インチのテレビを観ているような気分になったりもしていました。

ところが、あの拡大鏡のようなものは何と呼んでいたんだろうと思って、ネットで検索したら、今も「テレビ拡大鏡」という名前で売られていることがわかり、びっくりしました。何とあれはロングセラーの商品になっていたのです。

でも、現在、家族そろってコタツに入り、テーブルの上に置かれたみかんを食べながら(みかんも箱ごと買っていた)、「紅白歌合戦」を“観戦”するというのは想像しづらくなっています。

受像機自体は、昔の拡大鏡で観ていた頃に比べると、信じられないくらい巨大化していますが、しかし、もう昔のような存在感はありません。木製の家具調テレビというのもなくなったし、ましてや芝居の緞帳のような布で覆うこともなくなりました。そもそも家族がそろってみかんを食べるお茶の間というイメージも希薄になっています。いや、一家団欒さえ今や風前の灯なのです。

聞くところによれば、地上波は中高年がターゲットだそうです。若者は、PCやスマホでAmebaやYouTubeを観るのが主流になっており、ひとり暮らしだと、テレビ(受像機)を持ってない若者も多いのだとか。ケーブルテレビを契約している家庭では、地上波の番組よりカテゴリーに特化したケーブルテレビのチャンネルを観ることが多いそうです。

私自身も、いつの間にか「紅白歌合戦」を観ることはなくなり、「紅白歌合戦」を観なくても正月はやって来るようになりました。

平岡正明が採点しながら「紅白歌合戦」を観ていると言われていたのも、今は昔なのです。当時、平岡正明は、朝日新聞に“歌謡曲評”を書いていました。今で言う「昭和歌謡」ですが、あの頃は「歌は世に連れ、世は歌に連れ」などと言われ、歌謡曲が時代を映す鏡だなどと言われていました。

五木寛之が藤圭子をモデルに書いたと言われる『怨歌の誕生』をはじめ、彼の一連の歌謡曲とその背後でうごめく世界をテーマにした小説なども、私は高校時代からむさぼるように読んでいました。平岡正明も五木寛之もそうですが、ジャズの視点で歌謡曲を語るというのも斬新で、インテリの間では歌謡曲を語ることがある種のスノビズムのように流行っていました。 

しかし、今は私自身が歳を取ったということもあるのでしょうが、時間の観念もまったく違ってしまい、まるでタイムラインを見ているように移り変わりが激しく、それにAIみたいなデータでつくられたような歌も多いので、私のような人間は心に留める余裕すら持てません。ヒャダインの分析や批評は秀逸で面白いと思いますが、昔のように世代や属性を越えた「国民的ヒット」が生まれるような社会構造もとっくに消え失せ、もう「誰もが知っている歌」の時代ではなくなったのでした。

■お笑い


では、歌謡曲に代わるのが、現在、テレビを席捲しているお笑いなのかと思ったりもしますが、それもずいぶん危いのです。地上波のメインターゲットが中高年だとすれば、お笑いがそんなに中高年に受け入れられているとは思えません。

大晦日は、日本テレビでやっていた「笑って年越し!世代対決 昭和芸人vs平成・令和芸人」という番組を観ましたが、新世代の芸人だけでなく、「世代対決」と銘打って「昭和芸人」も持って来たところに、中高年をターゲットにする地上波のテレビの苦心が伺える気がしました。しかし、ぶっつけ本番のライブが裏目に出た感じで、余計笑えない芸ばかりが続くので、私はいつの間にか眠ってしまい、目が覚めたら番組は終わっていました。

現在、テレビを席捲しているお笑いは、吉本興業などによって捏造されたテレビ用のコンテンツにすぎません。大衆の欲望や嗜好で自然発生的に生まれたものブームではないのです。だから、大衆や時代との乖離が益々謙虚になってきているように思います。人為的につくられたお笑いブームもぼつぼつ終わりが見えてきた気がしないでもありません。

お笑いにとって、今のような「もの言えば唇寒し」の時代は、あまりに制約が多くやりにくいというか、お笑いが成り立ちにくいのはたしかでしょう。昔のように、歌謡曲で革命を語るような(とんでもない)時代だったら、もっと自由にお笑いが生まれたはずです。

M-1グランプリでウエストランドが優勝して、私も彼らの漫才は最近では唯一笑えましたが、しかし、ウエストランドのような漫才さえも、悪口かどうかと賛否が分かれているというのですから、驚くばかりです。悪口だったらNGだと言うのでしょうか。

今やお笑いをほとんどやめてしまった、タモリ・明石家さんま・ビートたけしの御三家をはじめ、ダウンタウンや爆笑問題やナインティナインが、お笑い芸人のロールモデルであることは、お笑い芸人にとってこれ以上不幸なことはないでしょう。彼等こそ、お笑いをテレビ向けに換骨奪胎してつまらなくした元凶とも言うべき存在だからです。今の彼らはトンチンカンの極みと言うしかないような、貧弱なお笑いの感覚しか持っていません。歌を忘れたカナリアが歌を語るみじめさしかないのです。

ウエストランドのお手本があの爆笑問題であれば、彼らの先は見えていると言えるでしょう。今のお笑いのシステムの中でいいように消費され、たけしや爆笑問題のようなつまらない毒舌になっていくのは火を見るよりあきらかです。

「ごーまんかましてよかですか?」みたいな話になりますが、昔は発言の機会も与えられることがなかった「頭の悪い人たち」が、ネットの時代になり、SNSなどで発言の機会を得て、社会をこのように自分たちで自分たちの首を絞めるような不自由なものにしてしまったのです。

それがGoogleの言う“総表現社会”の成れの果てです。もっとも、「Don't be evil」と宣ったGoogle自身も、今や「Is Google the new devil?」とヤユされるように、偽善者の裏に俗悪な本性が隠されていたことが知られたのでした。”総表現社会”なるものは、「水は低い方に流れる」身も蓋もない社会でしかなかったのです。そのことははっきり言うべきでしょう。

テレビがお茶の間の王様ではなくなったのに、そうであればあるほどテレビは、過去の栄光を取り戻そうとするかのように、「頭の悪い人たち」に迎合して、「水が低い方に流れる」時代の訓導であろうとしているのです。それに随伴するお笑いのコングロマリットが捏造した今のお笑いが、文字通り噴飯ものでしかないのは当然と言えば当然でしょう。

ウエストランドがネタにしていたYouTubeも、広告費の伸び悩みや参入者 の増加による再生回数の奪い合いなどによって、ユーチューバーが謳歌していた”我が世の春”も大きな曲がり角を迎えようとしていますが、皮肉なことにそれは、お笑いにとっても他人事ではないのです。

Twitterの問題に関して、一私企業の営利に担保された「言論の自由」なんて本来あり得ないと言いましたが、それはYouTubeもお笑いも同じなのです。
2023.01.02 Mon l 社会・メディア l top ▲
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横浜橋商店街


大晦日、ふと思い付いて、午後からカメラを持って横浜の街を歩きました。

新横浜駅から市営地下鉄に乗り、桜木町で下車して、桜木町から馬車道を経て伊勢佐木町、伊勢佐木町から横浜橋商店街まで歩き、帰りは同じコースを馬車道まで戻り、馬車道からみなとみらい線(東横線)で帰りました。

帰ってスマホを見たら1万5千歩を越えていました。膝は運動不足ということもあるのでしょうが、ちょうど距離の長い山を歩いたあとのような感じで、多少の痛みもありました。

新横浜駅に向かっていたら、住宅街に貸しスタジオみたいなものがあり、その入り口の看板に、某大物ミュージシャン夫妻のセッションの告知が書かれていました。私は、ギョッとして立ち止まって、その看板に目が釘付けになりました。

看板にはただ、「○○・△△セッション」の文字とその下に日にちと料金が書かれているだけでした。料金は、ドリンク付きで2000円です。テレビなどでもほとんど行われないあの大物ミュージシャン夫妻のセッションが2000円。私は、もしかしたら、近所に住んでいて、半ばプライベートでセッションするのかもしれないと思いました。

スマホで検索してみると、やはり、「○○・△△セッション」のワードでヒットしました。それによれば、「1人1曲リクエスト」となっていました。エッ、リクエストにまで応じてくれるのか。凄いセッションだなと思いました。

でも、何かひっかかるものがあるのです。それで、もう一度、スマホに表示されたサイトの説明文を上から下まで丁寧に読み直してみました。非常にわかりにくいのですが、どうやら本人たちが出演するわけではなく、会の主催者のミュージシャンがリクエストに応じて演奏するライブのようです。なのに、どうしてこんなわかりにくい説明文を書いているのか。看板だけ見ると完全に誤解します。ただ、こんなところでホンモノがセッションするわけないだろう、常識的に考えればわかるだろう、と言われればたしかにそのとおりなのです。

子どもの頃、近所の神社の境内にサーカスがやって来たことがあるのですが、そのときのことを思い出しました。その中の催しに、「一つ目小僧」というのがありました。サーカス用の大きなテントの横に建てられた小さなテントの中で、「一つ目小僧」が展示されているというのです。もちろん、サーカスとは別料金です。

私はそれに興味を引かれ、「一つ目小僧を観たい」と親に泣きつきました。親は「ニセモノだ」とか「騙しだ」とか言って取り合ってくれません。それでも一人息子で甘やかされて育てられた私は、ダダをこねて執拗に訴えたのでした。親も(いつものことですが)最後には根負けしてお金を出してくれました。

それで、お金を握りしめいそいそと出かけた私が、テントの中で目にしたのは、理科室にあるようなビーカーに入れられアルコール漬けされた頭の大きな爬虫類らしきものの死骸でした。子ども心にあっけに取られた私は、別の意味で見てはいけないものを見たような気持になったのでした。サーカス団はとんでもない悪党の集まりで、子どもをさらってサーカスに入れるという(今ではあきらかにヘイトな)話も、もしかしたらホントではないかと思ったほどでした。

もっとも、その頃、町内に唯一あった映画館で、葉百合子(ホンモノは葉百合子)という有名浪曲師のコピーの公演が行われたことがありました。うちの親たちは笑っていましたが、それでも町の年寄りは座布団を脇に抱えて出かけていたのです。祖父母も行ったみたいで、親は陰で悪態を吐いていました。

新横浜駅では、もちろん、スーツケースを転がした家族連れの姿が目立ちましたが、しかし、やはりコロナ前に比べると、人の数はあきらかに少ない気がしました。

途中、横浜アリーナの前を通ったのですが、大晦日は桑田佳祐のカウントダウンライブが行なれるはずなのに、開演までまだ時間があるからなのか、周辺もそれほど人が集まっていませんでした。いつもだと、駅からの舗道ももっと人通りが多いのですが、舗道も閑散としていました。アリーナの横にある公園も、開演待ちの観客たちで溢れているのですが、それもありません。帰ってネットで調べたら、横浜駅からアリーナまで無料のシャトルバスが運行されたのだそうです。これもコロナ前にはなかったことで、やはり電車や駅や舗道の”密”を避けるためなのかもしれません。

私もこのブログで書いたことがありますが、前は駅前のマクドナルドなども、コンサートの観客でごった返していましたが、シャトルバスで会場に直行するならそういったこともなくなります。

桜木町の駅前も、閑散と言ったらオーバーですが、やはり人は少なく、いつもと違いました。伊勢佐木モールも、先日、「REVOLUTION+1」を観に行った際、久しぶりに歩いたばかりですが、相変わらず人通りは少なく、うら寂しさのようなものさえ覚えました。

これは何度も書いていますが、私の田舎では、大晦日は「年取り」と言って、家族みんな揃って一日早くおせち料理を食べるしきたりがあります。大晦日が一番の御馳走で、食膳にはおせち料理のほかに刺身なども並びました。祖父母は歩いて5~6分くらいのところに住んでいたのですが、大晦日は祖父母も我が家にやって来てみんなで「年取り」の膳を囲むのでした。だから、大晦日の「年取り」に家族が揃うということは大変重要で、帰省する場合も「年取り」までには必ず(ほとんどが前日までに)帰るのが鉄則でした。その意味では、コロナ禍によって、こちらの大晦日の風景も、九州の田舎に似てきたような気がしないでもありません。

伊勢佐木モールで目に付いたのは高齢者と外国人です。何だか黄昏の日本を象徴するような光景に見えなくもありません。それが”横浜のアメ横”とも言われる横浜橋の商店街に行くと、さらに外国人の割合は多くなり、買物に来ているのは日本人より外国人の方が全然多いようで、耳に入ってくるのは、中国語や韓国語やその他聞きなれない外国語ばかりでした。

そのため、年末と言っても、おせち料理の食材よりエスニックな食材を売っている店が多く、いちばん人盛りができていたのは鶏のから揚げやメンチカツなどを売っていた揚げ物の店でした。私も買って帰りたいと思ったのですが、人をかき分けて店員とやり取りするのが面倒なので、買うのをあきらめました。

横浜橋はキムチを売っている韓国系の店も多いのですが、私は最近、スーパーで居合わせたきれいな奥さんから、旦那さんが虜になっているという美味しいキムチを教えて貰い、私も何故かそれに虜になっていますのでキムチはパスしました。

九州はどうだったか記憶にないのですが、こちらのスーパーでは年末になると商品棚も正月用の食品が並びます。しかも、魚も肉もえらく高くなるのです。別に長生きしたいとは思わないものの、一応年越しの蕎麦を買おうと近所のスーパーに行ったら、いつも買っている蕎麦がないのです。その代わりに縁起物だとかいう無駄な包装を施した年越し用の蕎麦が棚を占領していました。もちろん、いつも買う蕎麦の何倍も高価です。しかも、いつも買う蕎麦と同じシリーズのうどんは売っていました。値段が高く利幅が大きい蕎麦を売るために、蕎麦だけ奥に仕舞ったのでしょう。それで、意地でも蕎麦は買わないぞと思って、うどんを買って帰りました。

年末のスーパーの商品棚を見ていると、新宿や渋谷などの繁華街の喫茶店などで行われていた「正月料金」を思い出します。喫茶店自体が”絶滅危惧種”になっており、そのあとチェーン店のカフェが市場を席捲しましたので、今はもうそういった商習慣もなくなったのかもしれませんが、当時は喫茶店が高いため、「正月料金」の設定がないマクドナルドなどに客が殺到して大混雑していました。

若い頃、正月にガールフレンドと新宿の喫茶店に入ったら、メニューにコーヒーが1200円と表示されているのが目に入り、私は一瞬「ぼったくりの店だ」と思って、いったん下ろした腰を再び上げそうになりました。

しかし、東京生まれのガールフレンドは、あわてふためく私を横目で見ながら、「正月はどこもそうよ」とこともなげに言ったのでした。そして、「大丈夫、あたしが払うから」と。それ以来、彼女の口から「カッペ」という言葉がよく出て来るようになった気がします。「カッペ」というのも、東京に来て初めて知った言葉でした。

最寄り駅に着いて、普段あまり行くことがない駅前のガード下にある小さなスーパーに入ったら、他のスーパーでは取っ払われていた総菜も普段どおり売られていました。私は心の中で「これだよ、これ」と呟きながら、メンチカツやアジフライや鶏のから揚げなどを買って帰りました。

写真は、見て貰えばわかるとおり、「大晦日の横浜」と言ってもそれらしい写真は撮れていません。世の中に対して、引け目を感じ遠慮している今の自分の気持が反映されたような、腰が引けた写真ばかりです。写真屋だった父親がよく言っていた、「前に出て写真を撮れ」「遠慮していたらいい写真は撮れないぞ」という言葉が今更のように思い出されてなりません。


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新横浜・マリノス通り

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新横浜駅

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桜木町駅

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桜木町駅前

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市役所が建てられたのに伴い弁天橋の上に歩道橋ができていた。その上から撮影。

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馬車道・神奈川県立西洋美術館(旧横浜正金銀行)

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馬車道の通り

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馬車道・太陽の母子像(アイスクリーム発祥の地)

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伊勢佐木モール入口

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伊勢佐木モール
2022.12.31 Sat l 横浜 l top ▲
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(public domain)


先日、もう10年以上月に1回通っているかかりつけの病院に行って尿の検査をしたら、血尿が出ていると言われ、レントゲンやエコーの検査受けました。しかし、特に腫れらしきものは見当たらず、腎臓に小さな石があるのでそれが原因だろう、と言われました。

もっとも、血尿が出ているのは自分でもわかっていました。血尿と言っても、石が動いたくらいだと赤いおしっこが出るわけではなく、普段より色が濃くなる程度です。腎臓に石があるのは前に指摘されていましたので、検査を受けるまでもなく、石が動きはじめたなと思っていました。

その後、一昨日おとといくらいからおしっこをするとペニスに痛みを感じるようになりました。おしっこもいまいち勢いがなく、何かが詰まっている感じでした。

昨日きのうも映画を観に行った際、映画館でおしっこをしたのですが、やはり、痛みがあり、色も濃くなっていました。

そして、帰宅したら尿意を催したので、トイレに常備している茶こしを添えておしっこをしました。すると、石がポロリと出たのでした。直径5ミリもないような小さな石でした。そのあとはおしっこをしてもウソのように痛みもなくなりました。

尿の色が濃くなってから10日ちょっと経っています。石が腎臓から尿管に落ち、尿道を通って排出されるのに、それくらい時間がかかったということです。

ドクターの話によれば、石は大きさだけでなく形状などによっても出にくい場合があるそうなので、無事に出てひと安心、というか、まるで生れ出たかのようで、感動を覚えるくらい見事に排出されたのです。

尿管結石に伴う痛みも、ペニスの痛み以外はほとんどありませんでした。一昨日の夜に脇腹が少し痛かったので、あれがそうだったのかとあとで思ったくらいです。

かくして6回目の尿管結石は、これ以上ない大団円で幕を閉じたのでした。


関連記事:
※尿管結石体験記
※時系列に沿って表示しています。
不吉な連想(2006年)
緊急外来(2008年)
緊急外来・2(2008年)
散歩(2008年)
診察(2008年)
冬の散歩道(2008年)
9年ぶりの再発(2017年)
再び病院に行った(2017年)
ESWLで破砕することになった(2017年)
ESWL体験記(2017年)
ESWLの結果(2017年)
5回目の尿管結石(2019年)


2022.12.28 Wed l 健康・ダイエット l top ▲
Revolution+1


足立正生監督の「REVOLUTION+1」の完成版が、先週の土曜日(24日)から公開されましたので、今日、横浜のジャック&ベティに観に行きました。

「REVOLUTION+1」が年内に公開されているのは、横浜のジャック&ベティと大阪の第七藝術劇場と名古屋のシネマスコーレの三館のみです。

私が観たのは公開3日目の昼間の回でしたが、客は半分くらいの入りでした。初日は超満員で、二日目も監督の舞台挨拶があったので入りはよかったみたいですが、三日目は平日ということもあってか、関東で唯一の上映館にしては少し淋しい気がしました。観客は、やはり全共闘世代の高齢者が目立ちました。

国葬の日に合わせてラッシュ(未編集のダイジェスト版)の公開がありましたが、そのときから観もしないで「テロ賛美」「暴力革命のプロパガンダだ」などと言って、ネトウヨや文化ファシストがお便所コオロギのように騒ぎ立てていました。しかし、彼らには「安心しろ。お前たちの心配は杞憂だ」と言ってやりたくなりました。

「REVOLUTION+1」はどうしても「略称・連続射殺魔」(1969年)と比較したくなるのですが、「略称・連続射殺魔」に比べると、饒舌な分凡庸な映画になってしまった感は否めません。ラッシュの限定公開を国葬の日にぶつけたので、もっと尖った映画ではないかと期待していたのですが、期待外れでした。

足立監督は、記者会見で、山上徹也容疑者(映画では川上哲也)を美化するつもりはないと言っていましたが、むしろそれが凡庸な作品になった要因のようにも思います。「やったことは認めないけど気持はわかる」というのは「俗情との結託」(大西巨人)です。むしろ、あえて「美化」することから自由な表現が始まるのではないか。尖ったものでなければ現実をこすることはできないでしょう。

安倍晋三元首相や文鮮明夫妻を痛烈に批判する言葉はありますが、しかし、「ジョーカー」のように、彼らに対する憎悪が観る者に迫ってくる感じはありませんでした。

監督自身も舞台挨拶で、この映画を「ホームドラマ」と言っていたそうですが、主人公と家族の関係もステレロタイプな描き方に終始していました。私は、「家庭の幸福は諸悪の根源である」という太宰治の言葉が好きなのですが、映画のように、家族はホントに”帰るべきところ”なのか、”郷愁”の対象なのかと思いました。だったら、世の中にはどうしてこんなに家族殺しがあるのかと言いたくなります。

主人公の妹が、自分の旧統一教会に対する復讐は(兄と違って)「政治家を変えること」だと言っていましたが、その台詞には思わず笑いを洩らしそうになりました。さらに、妹は次のように言います。

「『民主主義の敵だ』って言うバカもいる。でも、民主主義を壊したのは安倍さんの方だよ。誰が考えても民主主義の敵を攻撃したのは兄さんだよ。だから、私は兄さんを尊敬するよ」

そして、妹は、「青い山脈」みたいに、うららかな日差しに包まれた坂道を自転車で駆け登って行くのでした。私はそのシーンに仰天しました。

安倍元首相を銃撃するシーンの前には、足立映画ではおなじみの水(雨)がチラッと出て来ますが、監督の意図どおりに効果を得ているようには思えませんでした。

主人公の父親が京大でテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の”犯人”と麻雀仲間だったという設定や、アパートの隣室に「革命二世」の女が住んでいて、主人公が銃を造っていると打ち明けると、「あんた、革命的警戒心が足りないよ」と諭されるシーンや、主人公が「おれは何の星かわからないけど星になりたい」と呟くシーンが、この映画の”通奏低音”になっている気がしないでもありませんが、しかし、観客に届いているとは言い難いのです。

そもそも映画に登場する「革命二世」や「宗教二世」も、まるで取って付けたような感じで、その存在感は人形のように希薄です。「革命二世」や「宗教二世」の女性に誘われて気弱く断る主人公に、監督の言う山上徹也容疑者「童貞説」が示されており、山上容疑者の人となりを描いたつもりかもしれませんが、そこにはピンク映画時代の古い手法と感覚が顔を覗かせているようで興ざめでした。

山上徹也容疑者の行為がどうしてテロじゃないと言えるのか。それは、単にマスコミや警察がそう言っているだけでしょう。映画はもっと自由な想像力をはたらかせることができる表現行為のはずです。たとえば、(架空の)教団に視点を据えてカルトの残忍さと滑稽さを描くことで、「川上哲也」の一家を浮かび上がらせる手法だって可能だったはずです。その方が足立映画の武器であるシュルレアリスムを駆使できたのではないかと思います。

どうして警察やメディアの視点に沿った「俗情」と「結託」したような映画になってしまったのか。700万円強という低予算で、しかも、実在の事件から日を置かず制作され撮影期間も短かったという事情があったにせよ、とても残念な気がしました。私は、「問題作」にもなってないと思いました。むしろ、戦後民主主義におもねる不自由な映画のように思いました。

映画の出来はともかく、この映画が上映されることに意味があるという意見もありますが、それは政治的に擁護するための詭弁で、ある意味作品に対する冒涜とも言えます。私はその手の言説には与したくないと思いました。

ただ、低予算、短い撮影期間の突貫工事の割には、チープな感じはなく、足立正生監督の「映画を撮るぞ」のひと言で、今の日本の映画界の屋台骨を支える(と言っても決してオーバーではない)錚々たるメンバーがはせ参じた「足立組」の実力を見た気がしました。その点は凄いなと思いました。
2022.12.28 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
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先日のゼレンスキー大統領のアメリカ訪問は、何だったんだと思えてなりません。ゼレンスキー大統領がワールドカップの決勝戦の前に演説することをFIFAに申し出て拒否されたというニュースがありましたが、アメリカ議会でのまさに元俳優を地で行くような時代がかった演説と映画のシーンのような演出。

しかし、アメリカ訪問の目玉であったパトリオットの供与も、報道によれば1基のみで、しかも旧型だという話があります。1基を実践配備するには90人の人員が必要だけど、運用するのは3人で済むそうです。あのアメリカ訪問の成果がこれなのか、と思ってしまいました。

もちろん、配備や運用には兵士の訓練が必要で、それには数ヶ月かかるそうですが、「訓練を受ける人数や場所はまだ未定」だそうです。

今回の中間選挙で下院の多数派を奪還した共和党は、ウクライナへの軍事支援に対して反対の議員が多く、国民の間でも反対が50%近くあるという世論調査の結果もあります。

折しも今日、ウクライナが再びロシア本土を攻撃したというニュースがありました。ゼレンスキー大統領は、奪われた領土を奪還しない限り、戦争は終わらないと明言しています。

今回の大山鳴動して鼠一匹のような「電撃訪問」には、アメリカがウクライナ支援に対して、徐々に腰を引きつつある今の状況が映し出されているような気がしないでもありません。

反米のBRICS側からの視点ですが、アメリカとウクライナの関係について、下記のような指摘があります。私たちは日頃、欧米、特にアメリカをネタ元にした報道ばかり目にしていますが、こういった別の側面もあるということを知る必要があるでしょう。

BRICS(BRICS情報ポータル)
米国企業は、ウクライナの耕地の約 30% を所有しています

記事の中で、執筆者のドラゴ・ボスニック氏は、次のように書いていました。

米国の3つの大規模な多国籍企業 (「カーギル」、「デュポン」、「モンサント」) は合わせて、1,700 万ヘクタールを超えるウクライナの耕作地を所有しています。

比較すると、イタリア全体には 1,670 万ヘクタールの農地があります。要するに、3 つのアメリカ企業は、イタリア全土よりも多くの使用可能な農地をウクライナに所有しています。ウクライナの総面積は約60万平方キロメートルです。その土地面積のうち、170,000 平方キロメートルが外国企業、特に大多数が米国に本拠を置いている、または米国が資金を提供している欧米企業によって取得されています。(略)オーストラリアン・ナショナル・レビューによる報告(ママ)米国の 3 つの企業が、6,200 万ヘクタールの農地のうち 17 を 1 年足らずで取得したと述べています。これにより、彼らはウクライナの総耕地の 28% を支配することができました。


また、ドラゴ・ボスニック氏は、ロシア派のヤヌコーヴィチ政権を倒した2014年の「ユーロマイダン革命」のことを「ネオナチによるクーデター」と表現していました。

ウクライナでは、2004年の「オレンジ革命」と、その10年後の「ユーロマイダン革命」という、欧州派による二つの政治運動があり、現在は「ユーロマイダン革命」後の政治体制下にあります。ただ、それらが選挙で選ばれた政権を倒したという意味においては、「クーデター」という言い方は必ずしも間違ってないと思います。しかも、欧州派が掲げたのは、ありもしない「民族」を捏造したウクライナ民族主義でした。それが「ネオナチ」と言われる所以です。

奪われた領土を奪還するまで戦争はやめないというゼレンスキー大統領の主張は、「オレンジ革命」や「ユーロマイダン革命」で掲げられたウクライナ民族主義に依拠した発言であるのは間違いないでしょう。しかし、ウクライナは、ロシア語しか話さないロシア語話者が3割存在し、公用語も実質的にウクライナ語とロシア語が併用されていた多民族国家でした。ゼレンスキー自身も、母語はロシア語でした。しかし、「ユーロマイダン革命」以降、ウクライナ民族主義の高まりから、公的な場や学校やメディアにおいてロシア語の使用が禁止されたのでした。多民族国家のウクライナに偏狭な民族主義を持ち込めば、排外主義が生まれ分断を招くのは火を見るよりあきらかです。

そんなウクライナ民族主義の先兵として、少数民族のロマやロシア語話者や性的マイノリティや左派活動家などを攻撃し、誘拐・殺害していたのがアゾフ連隊(大隊)です。アゾフ連隊のような準軍事組織(民兵)の存在に、ウクライナという国の性格が如実に示されているような気がしてなりません。

最近やっとメディアに取り上げられるようになりましたが、一方でウクライナには、ヨーロッパでは一番と言われるくらい旧統一教会が進出しており、国際勝共連合がアゾフ連隊を支援していたという話もあります(国際勝共連合は否定)。それに、ウクライナは、侵攻前までは人身売買や違法薬物が蔓延する、ヨーロッパでもっとも腐敗した“ヤバい国”である、と言われていました。ウクライナにおいて、オリガルヒ(新興財閥)というのは、違法ビジネスで巨万の富を築いた、日本で言えば”経済ヤクザ”のフロント企業のような存在です。腐敗した社会であるがゆえに、ヤクザが「新興財閥」と呼ばれるほど経済的な権益を手にすることができたのです。

私は、サッカーのサポーターから派生したアゾフ連隊のような準軍事組織について、ハンナ・アレントが『全体主義の起源』で書いていた次の一文を想起せざるを得ませんでした。アゾフ連隊が、ハンナ・アレントが言う「フロント組織」の役割を担っていたように思えてなりません。

 フロント組織は運動メンバーを防護壁で取り巻いて外部の正常の世界から遮断する、と同時にそれは正常な世界に戻るための架け橋になる。これがなければ権力掌握前のメンバーは彼らの信仰と正常な人々のそれとの差異、彼ら自身の虚偽の仮構と正常な世界のリアルティとの間の相違をあまりに鋭く感じざるを得ない。


また、牧野雅彦氏は、『精読  アレント「全体主義の起源」』(講談社選書メチエ)の中で、ハンナ・アレントが指摘した「フロント組織の創設」について、次のように注釈していました。

 非全体主義的な外部の世界と、内部の仮構世界との間の媒介、内外に対する「ファサード」、一種の緩衝装置としてフロント組織は機能する。(略)この独特の階層性が、(略)全体主義のイデオロギーの機能、イデオロギーと外的世界のリアルティとの関係・非関係を保証するのである。


日本のメディアもそうですが、ジャーナリストの田中龍作氏なども、ウクライナは言論の自由が保証された民主国家だと盛んに強調しています。しかし、それに対して、アジア記者クラブなど一部のジャーナリストが、でまかせだ、ウクライナの実態を伝えていない、と反論しています。そもそも、アゾフ連隊のような準軍事組織が存在したような国が民主国家と言えるのか、という話でしょう。

ゼレンスキー大統領の停戦拒否、徹底抗戦の主張に対して、さすがにアメリカも腰が引けつつあるのではないか。そんな気がしてなりません。

とまれ、どっちが善でどっちが悪かというような“敵・味方論”は、木を見て森を見ない平和ボケの最たるものと言えるでしょう。

何度も言いますが、私たちは、テレビで解説している事情通や専門家のように、国家の論理に与するのではなく、反戦平和を求める地べたの人々の視点からこの戦争を考えるべきで、それにはロシアもウクライナもないのです。


関連記事:
ウクライナのアゾフ大隊
2022.12.27 Tue l 社会・メディア l top ▲
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新型コロナウイルスの感染拡大が続いていますが、重症化リスクは少ないとして、ワクチン接種の呼びかけ以外はほとんど野放しの状態です。しかし、発熱外来には患者が詰めかけて診療制限する病院も出ていますし、病床使用率も軒並み上がっています。

NHKがまとめた12月21日現在の都道府県別の病床使用率を見ると、60%を超えている自治体は以下のとおりです。なお、全国平均も既に55%に達しています。

神奈川県 81%
滋賀県 77%
埼玉県 75%
群馬県 75%
茨城県 70%
愛知県 67%
栃木県 66%
岡山県 65%
福岡県 64%
青森県 61%
福島県 60%
愛媛県 60%
長崎県 60%

ワクチン接種状況も、デジタル庁が発表した接種率を見ても、3回目以降の接種率が大きく落ちているのがわかります。12月21日現在の数字は以下のとおりです。

※全人口に対する割合
1回目 77.81%
2回目 77.30%
3回目 67.54%
4回目 42.73%
5回目 16.44%

一方、ゼロコロナ政策を転換した中国では、転換した途端に感染が急拡大しており、朝日新聞は、「中国政府が21日に開いた内部会議の議事録が出回り、12月1~20日の国内の新型コロナ感染者数が2億4,800万人に達するとの推計が示された」と伝えていました。

朝日新聞デジタル
コロナ感染、20日間で2.5億人? 中国政府、内部会議で推計

また、別の記事では、「コロナによるとみられる死者が増え続けて」おり、「北京では火葬場の予約が埋まり、お別れが滞る事態も始まった」と伝えていました。「敷地内の火葬場に向かう道にも、ひつぎをのせた車の行列が出来ていた」そうです。

朝日新聞デジタル
中国で統計に表れぬ死、次々と 渋滞の火葬場、遺影の行列は1時間超

何だか習近平の「ざまあみろ」という声が聞こえてきそうです。「愚かな人民の要求を受け入れるとこのざまだ」「思い知るがいい」とでも思っているのかもしれません。

中国がどうしてこんなに感染が急拡大しているのかと言えば、隔離優先でワクチン接種が疎かにされたからだという見方があります。

日本でも日本版Qアノンや参政党のような反ワクチン派がいつの間にか市民権を得たかのように、「オミクロンは風邪と同じ(風邪よりリスクは低い)」「ワクチンなんか不要(無駄)」の風潮が広がっていますが、個人として重症化リスクを回避するためにはやはりワクチンは無駄ではなく、中国が置かれている状況から学ぶべきものはあるでしょう。

一方、入国制限の(事実上の)撤廃によって、外国人観光客も徐々に増えており、また、全国旅行支援などによって、国内旅行も大幅に回復、観光地は千客万来とまではいかないまでも、久々に賑わいが戻っているそうです。観光庁が発表した宿泊旅行統計調査でも、10月の宿泊者数は前年同月比38%増でした。

ところが、観光地ではせっかくの書き入れどきなのに、人出不足が深刻だそうで、ついこの前まで閑古鳥が鳴いていると嘆いていたことを考えれば、180度様変わりしているのでした。

産経ニュース
人手不足でホテルや旅館が悲鳴 「稼ぎ時なのに」予約や夕食中止に 外国人活用の動きも

記事ではこう書いていました。

本来なら稼ぎ時だが、人手不足のため宴会や夕食の受付をストップして朝食のみにしたり、客室の稼働を減らしたりしているといい、「清掃やベッドメイキングも、午後3時に終わらせるように、みんなで大慌てでやっている」と語る。


(略)需要急増に人材確保が追いつかず、帝国データバンクが全国2万6752社(有効回答企業数は 1 万1632社)を対象に行った調査「人手不足に対する企業の動向調査」(10月18~31日)によると、旅館・ホテル業では、65・4%が正社員が不足していると回答し、75・0%が非正社員が不足していると答えた。時間外労働が増加した企業は66・7%に及ぶという。


また、先日のテレビのニュースでも、人出不足のため、部屋食をやめてバイキングにしたり、浴衣やアメニティなどもお客が各自で持って部屋に入るなど、セルフサービスに切り替えて対応している温泉ホテルの「苦肉の策」が放送されていました。

でも、ひと言言いたいのは、今の人出不足は、従業員が自主的に離職からではなく、雇用助成金を手にしながら、最終的にはリストラして辞めさせたからでしょう。仕方ない事情があったとは言え、何をいまさらと言えないこともないのです。

しかも、話はそれだけにとどまらないのでないか。私は、以前、山で会った会社経営者だという人が言っていた、「コロナによって今まで10人でやっていた仕事が実は5人でもできるんだということに気づかされたんですよ」という言葉が思い出されてなりません。

アメリカのように、レイオフ(離職)された労働者に手厚い支援策があれば、職場に戻ってくる人間が少ないというのはわかりますが、日本の場合そうではないので、「職場に戻って来ない」のではなく、「戻れない」のではないか。あるいは他の業種に移ってしまったのではないか。

上記の観光ホテルにしても、「困っている」というのは建前で、これを機会に人件費を削って省力化したサービスに転換する、というのが本音かもしれません。日本人が集まらないので外国人を「活用」するというのも、賃金の安い方にシフトするのをそう言っているだけようにしか聞こえません。

もちろん、完全にコロナが終息したわけではなく、またいつ前に戻るかもわからないので積極的に雇用できないという事情もあるでしょう。

今の物価高にしも同じです。円安だからという理由でいっせいに値上げしたにもかかわらず、今のように再び円高に戻っても、価格を戻すわけではないのです。それどころか、今度はエネルギー価格の高騰を理由に、第二弾第三弾の値上げもはじまっています。まるで円安やエネルギー価格の高騰を奇貨に、横並びでいっせいに値上げするという、「赤信号みんなで渡れば怖くない」”暗黙の談合”の旨味を知ったかのようです。この際だからと値上げラッシュを演じているような気がしないでもありません。でも、資本主義の法則に従えば、それは最終的には自分たちの首を絞めることになるのです。

今まで日本の企業は、原価が上がっていたにもかかわらず、消費者の買い控えと低価格志向によって価格に転嫁できなかったと言われていました。そのため、賃上げもできず、いわゆるデフレスパイラルの負の連鎖に陥ったと言われていたのです。しかし、一方で、企業の内部留保は拡大の一途を辿っていました。

岸田首相が経団連に賃上げを要請しても、経団連に加盟しているのは僅か275社で、誰でも知っているような大企業ばかりです。日本では、大企業に勤める労働者は約30%で、残りの70%は賃上げなど望めない中小企業の労働者です。しかも、賃労働者は4,794万人しかいません。年金生活者や自営業者など、最初から賃上げとは関係ない人たちも多いのです。そんな中で、今のように生活必需品に至るまで横並びの値上げが進めば、貧困や格差がいっそう広がって深刻化するのは目に見えています。

折しも、昨日、11月の消費者物価指数が3.7%上昇し、これは40年11カ月ぶりの水準だった、というニュースがありました。前も書きましたが、これでは貧乏人は死ねと言われているようなものです。ところが、帝国データバンクの調査によれば、来年の1月から4月までに値上げが決まっている食品は、既に7,152品目にのぼるそうです。年が明ければ、さらなる値上げラッシュが待ち受けているのです。

このように、資本が臆面もなく、半ば暴力的に、欲望(本音)をむき出しにするようになっているところに、私は、資本主義の危機が表われているような気がしてなりません。

仮に負のスパイラルに陥っているのであれば、まず今の貧困や格差社会の問題を改善することが先決でしょう。たとえば、低所得者に毎月現金を支給するとか、全体的に底上げして購買力を上げない限り、エコノミストたちが言うように、企業も価格転嫁できないし、価格転嫁できなければ賃上げもできないでしょう。そういう循環が生まれないのは誰でもわかる話です。

収入が増えないのに物価だけが上がれば、多くの国民が追い詰められ、社会に亀裂が生じるのは火を見るよりあきらかです。この異次元の物価高=資本主義の危機に対して、世界各地では大衆蜂起とも言えるような抗議デモが起きていますが、ワールドカップの会場でゴミ拾いしてお行儀のよさをアピールするような日本ではその兆候すらありません。それどころか、逆に軍拡のために増税や社会保障費の削減が取り沙汰されているあり様です。このままでは座して死を待つしかないでしょう。

くり返しになりますが、今まで価格転嫁できなかったからと、万単位の品目がいっせいに値上げされ、そのくせ、大企業は史上最高の516兆円(2021年)の内部留保を溜め込んでいるのです。その一方で、相対的貧困率は15.4%にも達し、約1,800万人の国民が、単身者世帯で約124万円、2人世帯で約175万円、3人世帯で約215万円、4人世帯で約248万円の貧困線以下で生活しているのです。

最後に再び『対論 1968』から引用します。と言って、私は、『対論 1968』を無定見に首肯しているわけではありません。むしろ、後ろの世代としては違和感を覚える部分も多いのです。ただ、いくつになっても愚直なまでに青臭い彼らの”状況論”には、耳を傾けるべきものがあると思っています。本土決戦を回避してのうのうと生き延びた親たちへのアンチ・テーゼとして新左翼の暴力があった、という解釈などは彼らにしかできないものでしょう。それは感動ですらあります。

笠井 (略)アメリカでは、階級脱落デクラセ化した産業労働者のアイデンティティ回復運動が、現時点ではトランプ支持派として顕在化している。そうした力は右にも左にも行きうるし、”68年”には日本でも全共闘として左翼的な方向に進んだ。しかし今の日本には、仮にそういった動きが現れたところで、左翼側にそれを組織できるヘゲモニー力は存在しないから、アメリカと同じで排外主義的な方向に流れる可能性の方が高い。


笠井 ”主権国家の解体”は、我々がそれを望もうと望むまいと、従来のそれがどんどん穴だらけになって弱体化していくし、あとは単にどういう崩れ方をするかというだけの問題になってきている。ナショナリズムが声高に主張されたり、国家による管理の強化がおこなわれたりするのは、そういう解体過程における過渡的な逆行現象の一つにすぎないと思う。



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『3.11後の叛乱』
2022.12.24 Sat l 社会・メディア l top ▲
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(2022年11月)


毎年同じことを書いていますが、年の瀬が押し迫るとどうしてこんなにしんみりした気持になるんだろうと思います。

飛び込みで電車が停まったというニュースも多くなるし、メディアも今年亡くなった人の特集を行なったりするので、否が応でも死について考えざるを得ません。

このブログでも、「訃報・死」というカテゴリーで亡くなった人について記事を書いていますが、今年取り上げたのは(敬称略)、津原康水(作家)、佐野眞一(ノンフィクションライター)、森崎和江(作家・評論家)、山下惣一(農民作家)、鈴木志郎康(詩人)、ジャンリュック・ゴダール(映画監督)、上島竜平(お笑い芸人)、S(高校時代の同級生)、西村賢太(作家)でした。

他にも、記事では触れなかったけど、『噂の真相』に「無資本主義商品論」というコラムを長いこと連載していた小田嶋隆(コラムニスト)も65歳の若さで亡くなりました。

『突破者』の宮崎学(ノンフィクションライター)も76歳で亡くなりました。驚いたのは、Wikipediaに「老衰のため、群馬県の高齢者施設で死去」と書いていたことです。76歳で「老衰」なんてあるのかと思いました。

石原慎太郎やアントニオ猪木やオリビア・ニュートン・ジョンや仲本工事などおなじみの名前も鬼籍に入りました。

昨日は、タレントの高見知佳が急死したというニュースもありました。4年前に離婚したのをきっかけに、高齢の母親の介護をするために、一人息子を連れてそれまで住んでいた沖縄から愛媛に帰郷。今年7月の参院選には立憲民主党から立候補(落選)したばかりです。

ニュースによれば、参院選後、身体のだるさを訴えていたそうです。そして、11月に病院で診察を受けると子宮癌であることが判明、癌は既に他の箇所に転移しており、僅か1ヶ月で亡くなったのでした。最後は周りの人たちに「ありがとう」という言葉を残して旅立って行ったそうです。人の死はあっけないものだ、とあらためて思い知らされます。

石牟礼道子と詩人の伊藤比呂美の対談集『死を想う』(2007年刊・平凡社新書)の中で、石牟礼道子(2018年没)は、1歳年下の弟が29歳のときに「汽車に轢かれて死んだ」ときの心境を語っていました。彼女は、「これで弟も楽になったな」「不幸な一生だったな」と思ったそうです。弟は既に結婚して3歳くらいの娘もいたそうですが、死は「人間の運命」だと思ったのだと。

たしかに、人生を考えるとき、冷たいようですが、諦念も大事な気がします。よくメンタルを病んだ人間に対して、「がんばれ」と言うと益々追い込まれていくので、「がんばれ」という言葉は禁句だと言われますが、「がんばれ」というのは、ワールドカップの代表や災害の被害者などに向けて「感動した」「元気を貰った」「勇気を貰った」などと言う言葉と同じで、ただ思考停止した、それでいて傲慢な常套句にすぎないのです。むしろ、諦念のあり様を考えた方が、人生にとってはよほど意義があるでしょう。

『死を想う』では、伊藤比呂美も次のような話をしていました。

伊藤 私の父や母が今死にかけてますでしょう。「死にかけている」と言っても、まだまだ「あと十年生きる」と言ってますけれど、年取っていますよね。感じるのは、父も母も、どこにも行く場所がなくて老いていってるなということ。拠り所がないと言いますか。父はいろんな経験のある、とっても面白い人だったんです。私は娘として、本当に父が好きだった。でも、ここに来て、何もかも投げ出しちゃったというか、何もすることがなくて。一日家の中で、何をしているんでしょう。時代小説を読んでいるくらいなんですよ。で、「つまらない、つまらない」といつも言うんです。寄りかかるものが何もない。母は母で病院でそんな感じでしょう。本も読めない、テレビも見たくない、なんにもしないで、ただ中空にぽかんと漂っている、ぽかんと。
(略)
 老いてみたらなんにもない。あの、あまりの何もなさに、見てて恐ろしくなるくらい。


伊藤比呂美は、「ここにもし信仰みたいなものがあれば、ずいぶん楽なんだろうなと思う」と言っていましたが、「生老病死の苦」に翻弄され、アイデンティティを失くした人間の最期の拠り所が、「信仰」だというのはよくわかります。

平成元年に父親が亡くなったとき、母親は地元の県立病院に寝泊まりして、入院している父親を介護していました。当時はそういったことが可能でした。また、我が家では父親の病気以外にも難題が持ち上がっており、母親はそれを一人で背負って苦悩していました。

正月に帰省した私は、実家に帰っても誰もいないので、県立病院にずっと詰めて、夜は近くのビジネスホテルに泊まっていました。

正月が明けて、東京に戻るとき、病院の廊下の椅子に母親と二人で座って話をしていたら、母親が突然泣き出して今の苦悩を切々と訴えはじめたのでした。

上野千鶴子が言う「母に期待されながら期待に添うことのできないふがいない息子」の典型のような私は、半ば戸惑いながら、母親の話を聞いていました。

そして、母親の話が途切れたとき、私は、「何か宗教でも信仰した方がいいんじゃね。そうしたらいくらか楽になるかもな」と言ったのでした。すると、母親は「エッ」というように急に真顔になり、涙で濡れた両目を見開いて私の方をまじまじと見たのでした。まさか私の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかったのでしょう。でも、目の前で泣き崩れている母親に声をかけるとしたら、もうそんな言葉しかないのです。

それも30年近く前の話です。母親も既にこの世にいません。いよいよ今度は私が「生老病死の苦」を背負う番なのです。
2022.12.23 Fri l 訃報・死 l top ▲