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ロシアのウクライナ侵攻から1年が経ちますが、最近、ウクライナで政府の高官たちが相次いで辞任している、という報道がありました。

BBC NEWS JAPAN
ウクライナ政府高官が相次ぎ辞任 ゼレンスキー大統領、汚職対策に着手

記事によれば、下記の高官たちが辞任したそうです。

キリロ・ティモシェンコ大統領府副長官
ヴャチェスラフ・シャポヴァロフ国防副大臣
オレクシー・シモネンコ副検事総長
イワン・ルケリヤ地域開発・領土担当副大臣
ヴャチェスラフ・ネゴダ地域開発・領土担当副大臣
ヴィタリー・ムジチェンコ社会政策担当副大臣
ドニプロペトロウシク、ザポリッジャ、キーウ、スーミ、ヘルソンの5州の知事

記事にあるように、キリロ・ティモシェンコ大統領府副長官は大統領選のときにゼレンスキー陣営のキャンペーンに携わっていた、ゼレンスキー大統領の側近中の側近で、ロシア侵攻後はウクライナ政府のスポークスクマンを務めていました。

この他に、オレクシイ・レズニコフ国防相にも疑惑の目が向けられている、と記事は書いていました。

しかし、これは今にはじまったことではないのです。前も書きましたが、ロシア侵攻前から、ウクライナは名にし負う汚職国家として知られていました。

政府高官の汚職はその一端にすぎず、人身売買や違法薬物の製造なども以前より指摘されていたのです。昨年、国連薬物犯罪事務所(UNODC)が、「薬物に関する年次報告書」で、ロシア侵攻によって、ウクライナ国内の「違法薬物の製造が拡大する恐れがあると警告した」というニュースも、このブログで取り上げました。

関連記事:
ウクライナ侵攻で薬物製造拡大の恐れ

これなども、「かわいそうなウクライナ」のイメージが裏切られるようなニュースと言えるでしょう。

ロシアは、政治や経済をマフィアが支配する「マフィア国家」だとよく言われていましたが、ウクライナも五十歩百歩なのです。ロシアやウクライナで言われる新興財閥オルガルヒというのは、マフィアのフロント企業のことです。

汚職・腐敗防止活動を行っている国際NGO団体のトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)の「汚職認識指数」によれば、ウクライナは、180の国と地域の中で、2022年が116位、2021年が122位でした。

TIの「汚職認識指数」は、世界経済フォーラムの「年次報告書」でもその方法が採用されているくらい、信頼度が高いものです。

トランスペアレンシー・インターナショナル
汚職認識指数(2022年)

ちなみに、ロシアは、2022年が137位で、2021年が136位です。

今、世情を賑わせている広域強盗事件で、「ルフィ」と呼ばれる人物がフィリピンの入管施設の収容所からテレグラムを使って指示を出していたとして、あらためてフィリピンの収容所や刑務所の腐敗がクローズアップされていますが、そのフィリピンは、2022年がウクライナと同じ116位で、2021年はウクライナより上(良)の117位です。つまり、ウクライナはフィリピンと同じくらい腐敗した国なのです。

しかも、ウクライナの腐敗は、BBCの記事にあるような「役人が食料を高値で購入している」とか「ぜいたくな生活を送っている」とかいったレベルにとどまりません。

ウクライナに節操のない軍事支援を行うことのリスクは、かねてより指摘されていました。

ひとつは、武器の横流しです。時事通信も、次のような記事を書いていました。

JIJI.COM(時事通信)
国際支援の陰で汚職懸念 武器流用や着服の疑いも―有識者ら「監察機関設置を」・ウクライナ

支援が有効に機能してないのではないか、つまり、底に穴が空いたバケツに水を注いでいるようなものではないか、とずっと言われていました。

それからもうひとつ、ウクライナはアゾフ連隊のような民兵が跋扈するような、ネオナチが支配する国だったので、ヨーロッパ各地からネオナチの傭兵が多く参戦しており、彼らがウクライナでアメリカやヨーロッパの最新兵器の使用法を会得することも懸念されていました。私も下記の記事で書きましたが、そのことによって、ヨーロッパにネオナチの暴力が拡散する怖れが指摘されているのでした。

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ウクライナに集結するネオナチと政治の「残忍化」

いつその暴力が自分たちに向かって来るかもしれないヨーロッパの国が、軍事支援に逡巡するのはむべなるかなと思いますが、しかし、結局、バイデンの”強硬策”に押し切られているのが現状です。でも、バイデンの”強硬策”とは、とどのつまり、自分の手は汚さずに戦争をけしかけて、今までと同じように覇権を維持しようとする、唯一の超大国の座を転落したアメリカの新たな世界戦略にすぎません。それは、“台湾危機”も同じです。

日本のメディアは、ずっとうわ言のように中国経済は崩壊すると言い続けて来ました。にもかかわらず、気が付いたら中国はアメリカの向こうを張る経済大国になっていたのです。今もまた、ロシアは瀕死状態にあり、ロシアが白旗を上げる日は近い、と熱に浮かされるように言い続けています。ホントにそうなのか。

政府がアメリカに隷属しているので、メディアも同じように隷属しているだけではないのか。クイズではないのですから、ウクライナかロシアかという二者択一がナンセンスなのではないか。そう思えてなりません。

誰も停戦ということを言わないのです。ゼレンスキーは、奪われた領土を奪還するまで戦争はやめないと言っています。でも、その領土は、ソ連共産党が地図に線を引いて決め、その中に住民を強制移住させたにすぎないのです。ゼレンスキーは、ありもしないウクライナ民族主義をでっち上げているだけです。だから、ウクライナの国民の3分の1は、ウクライナ語は話せずロシア語しか話せなかったのです。でも、ありもしないウクライナ民族主義によって、ロシア語話者は弾圧されるようになったのでした。

さらには、オレンジ革命とマイダン革命のよってネオナチの台頭を招いた上に、ネオナチと結託して、ロシア語話者や左翼運動家やLGBTへの弾圧をエスカレートしていったのでした。それが「ユーロマイダン」だと主張し、西欧かロシアかの二者択一で誤魔化したのでした。

奪われた領土を奪還するまで戦争はやめないというゼレンスキーの主張は、玉砕するまで戦うということです。そして、ゼレンスキーの玉砕戦をアメリカやヨーロッパが支援しているのです。戦争をやめさせようとはしないのです。間に入って調停しようという国がないのです。これこそがホントの意味でウクライナ(国民)の悲劇と言うべきでしょう。
2023.02.01 Wed l ウクライナ侵攻 l top ▲
週刊東洋経済2023年1月28日号


NHKが4月1日から、テレビの設置後、翌々月の末日までの期限内に受信契約の申し込みをしなかった人間に対して、受信料の2倍の「割増金」を請求できる制度を導入するというニュースがありました。これは、昨年10月に施行された改正放送法に基づくものです。

「割増金」の導入は、現行の受信料制度に対する国民の目が年々厳しくなっている中で、まるで国民の神経を逆なでするような強気の姿勢と言わざるを得ません。

NHKの受信料に対して、特に若者の間で、「強制サブクス」であり、スクランブルをかけて受信料を払った人だけ(NHKを見たい人だけ)解除すればいい、という声が多くあります。

それでなくてもテレビ(地上波)離れが進んでおり、視聴者の志向も地上波からネット動画へと移行しているのです。若者の車離れが言われていますが、テレビ離れはもっと進んでいます。実際、テレビを持ってない若者も多いのです。その流れを受けて、ドン・キホーテは、テレビチューナーを外したネット動画専用のスマートテレビを発売して大ヒットしているのでした。

しかし、NHKの姿勢は、それに真っ向から対決するかのように、現行の受信料制度を何がなんでも守るんだと言わんばかりの「割増金」という強硬姿勢に打って出たのでした。

もちろん、それにお墨付きを与えたのは、NHKの意向を受けて放送法を改正した政治です。そこには、権力監視のジャーナリズムの「独立性」などどこ吹く風の、政治とNHKの持ちつ持たれつの関係が示されているのでした。

与党はもちろんですが、野党の中にも現行の受信料制度に疑義を唱える声は皆無です。前に書きましたが、その結果、NHKの問題をNHK党の専売特許のようにしてしまったのです。昔はNHKの放送に疑問を持つ左派系の不払い運動がありました。しかし、いつの間にか不払い運動がNHK党に簒奪され換骨奪胎されて、理念もくそもない不払いだけに特化した”払いたくない運動”に矮小化されてしまったのでした。上のようなスクランブルの導入を主張しているのも、NHK党だけです。

もっとも、「割増金」制度を導入する背景には、受信料徴収に関するNHKの大きな方針転換が関係しているのです。と言うのも、NHKは、契約や収納代行を外部に委託していた従来のやり方を今年の9月をもって廃止することを決定からです。これで怪しげな勧誘員が自宅を訪れ、ドアに足をはさんでしつこく契約を迫るというようなことはなくなるでしょう。

しかし一方で、テレビ離れによって、受信料収入が2018年の7122億円で頭打ちになり、2019年から減少しているという現実があります。契約件数も2019年に4212万件あったものが、2021年は4155件と減少し、2022年も上半期だけで20万件も減少しているそうです。そのため、2023年度の受信料収入の見込み額も、当初の6690億円から6240億円へと下方修正を余儀なくされているのでした。

一説によれば、NHKは、徴収業務に利用するために、住民基本台帳の転入と転出のデータの提供を求めたそうです。しかし、総務省が拒否したので、割増金や外部委託の廃止に舵を切ったという話があります。

だからと言って、もちろん、今の事態を座視しているわけではありません。NHKは地上波からネットに本格参入しようとしているのです。そして、受信料の支払い対象をテレビ離れした層にも広げようと画策しているのでした。

そういったえげつないNHKの「受信料ビジネス」について、『週刊東洋経済』(2023年1月28日号)が「NHKの正体」と題して特集を組んでいました。特集には、「暴走する『受信料ビジネス』」「『強制サブスク』と化す公共放送のまやかし」というサブタイトルが付けられていました。

もちろん、NHKは放送法によって、本来の業務はテレビ・ラジオと規定されており、本格的にネットに進出するには、放送法の改正が必要です。ただ、既にネット事業に対して、「21年にはそれまで受信料の2.1%としていた上限を事実上引き上げ、上限200億円とすることを総務省が認め」ているのでした。それにより「事業費は177億円(21年度)から、22年度は190億円に増加。23年度は197億円の計画で、この3年で33%増となる見込み」(同上)だそうです。

このように、NHKがネット事業に本格的に参入する地固めが、着々と進んでいるのです。『週刊東洋経済』の記事も次のように書いていました。

 総務省の公共放送ワーキンググループ(WG)委員である、青山学院大学の内山隆教授(経済学)は「受信料をわが国に放送業界とネット映像配信業者の投資と公益のために使えるようにするべきだ。NHKがこういった業界を引っ張っていけるように、受信料制度を変えていく発想が必要ではないか」と話す。
 受信料制度をめぐる現在の最大の論点がネット受信料だ。NHKのネット事業を「補完業務」から「本格業務」に格上げするための業務が総務省で進む。
(同特集「絶対に死守したい受信料収入」)



NHKネット受信料
(同特集「絶対に死守したい受信料収入」より)

上は、NHKが目論む「ネット受信料」の「徴収シナリオ」を図にしたものです。NHKが求めているのが、右端のスマホ所有者から一律に徴収するという案だそうです。

そのために(NHKの意図通りに放送法が改正されるために)、NHKが与野党を含む政治に対していっそう接近するのは目に見えており、言論機関としての「独立性」や「中立性」の問題が今以上に懸念されるのでした。もちろん、NHK党にNHKの「独立性」や「中立性」を問うような視点はありません。それは、八百屋で魚を求めるようなものです。

もうひとつ、NHKと政治の関係を考える上で無視できないのは、NHKの選挙報道です。「開票日、NHKが当選確実を出すまで候補者は万歳しないことが不文律になっている」ほど、政治家はNHKの情報を信頼しているのですが、当然、その情報は理事や政治部記者をとおして、事前に政治家に提供されており、選挙戦略を練る上で欠かせないものになっているのです。

そのために、末端の記者は、選挙期間中は文字通り寝る間を惜しんで取材に走りまわらなければなりません。2013年に31歳の女性記者が、2019年には40代の管理職の男性が過労死したのも、いづれも選挙取材のあとだったそうです。

では、NHKの財政がひっ迫しているかと言えば、まったく逆です。NHKの2022年9月末の連結剰余金残高は5132億円です。それに加えて、金融資産残高が剰余金残高の1.7倍近くに上る8674億円もあるのです。NHKの連結事業キャッシュフローは、東京五輪のような特別な事情を除いて、毎年ほぼ1000億円を超えるレベルを維持しているそうです。

特集では、「NHKの『溜めこみ』が加速している」として、次のように書いていました。

 そしてその半分強が設備投資などに回り、残りは余資となり国債など公共債の運用に回されてきた。その結果として積み上がったのが、7360億円もの有価証券である。これに現預金を加えた金融資産の残高が、冒頭で紹介した数字(引用者註:8674億円)になる。金融資産は、総資産の6割を占めており、このほかに保有不動産の含み益が136億円ある。まるで資産運用をなりわいとしているファンドのようなバランスシートだ。
(伊藤歩「金融資産が急膨張 まるで投資ファンド」)


このような「芸当」を可能にしているのが、番組制作費の削減と公益性を御旗にした非課税の”特権”です。子会社は株式会社なので法人税の納税義務がありますが、NHK本体は、上記のような投資で得た莫大な金融資産を保有していても、いっさい税金がかからないのです。放送法で免除されているからです。

しかも、総工費1700億円を使って、2035年に完成予定の渋谷の放送センターの建て替えが昨年からはじまっているのでした。その費用も既に積立て済みだそうです。

NHKの問題をNHK党の専売特許ではなく、国民の問題として考える必要があるのです。政治に期待できなければ、国民自身が監視の目を強める必要があるのです。NHKの思い上がった「受信料ビジネス」を支えているのは私たちの受信料なのです。NHKをどうするかという問題を、国民に広く提起することが求められているのです。でないと、政治と癒着して半ばブラックボックスと化したNHKの“暴走”を止めることはできないでしょう。このままでは、国民にさらなる負担を求めてくるのは間違いないのです。
2023.01.30 Mon l 社会・メディア l top ▲
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(鈴木邦男をぶっとばせ!より)


鈴木邦男氏が亡くなったというニュースがありました。79歳だったそうです。今日は、詩人の天沢退二郎氏の訃報も伝えられました。

私が、鈴木邦男氏の名前を初めて知ったのは、『現代の眼』の対談記事でした。鈴木氏自身も、みずからのブログ「鈴木邦男をぶっとばせ!」で、その記事について書いていました(2010年の記事です)。

鈴木邦男をぶっとばせ!
34年前の『現代の眼』が全ての発端だった!

私もよく覚えていますが、車の免許を取るために自動車教習所に泊まり込んでいたとき(昔はそういった合宿型の教習所があったのです)、寝泊まりする大部屋の片隅で横になって買って来たばかりの『現代の眼』を開いたら、「反共右翼からの脱却」という記事が目に飛び込んで来て、頭をどつかれたような気持になったのでした。鈴木氏のブログによれば、記事が載ったのは1976年の2月号だそうです。

当時は運動は既に衰退したものの、まだ残り火のように”新左翼文化”が幅をきかせていた時代で、ジャンルを問わず、新左翼的な言説で埋められた雑誌が多くありました。その中で、『現代の眼』や『流動』や『新評』や『キネマ旬報』や『噂の真相』の前身の『マスコミ評論』や今の『創』の前身の旧『創』などが、“総会屋雑誌”と呼ばれていました。いづれも発行人が、主に児玉誉士夫系の総会屋だったからです。

当時の言論界の雰囲気について、「アクセスジャーナル」で「田沢竜次の昭和カルチャー甦り」というコラムを連載している田沢竜次氏が、次のように書いていました(記事は2012年です)。

30年前は1982年、この年に何があったかというと、ライターや編集界隈にはピンとくるかも知れない、そうです、総会屋追放の商法改正のあった年。そこで消えていったのが、いわゆる総会屋系の雑誌や新聞、特に『現代の眼』とか『流動』『新評』『日本読書新聞』なんてあたりは、新左翼系の文化人、評論家、活動家、ルポライターが活躍する媒体として賑わっていたのだ。
 面白いのは、革命や反権力を論じる文章の横に、三菱重工や住友生命、三井物産などの広告が載っているんだもん。まあ、おかげでその手の書き手(かつては「売文業者」とか「えんぴつ無頼」なんて言い方もあった)が食えたわけだし、基本的には何を書いてもよかったんだから、アバウトな良い時代だったと言えるかも知れない。

アクセスジャーナル
『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第38回
「総会屋媒体が健在だった30年前」


実は私も、虎ノ門の雑居ビルの中にあった総会屋の事務所でアルバイトをしたことがあります。右翼の評論家の本などを上場企業や役所などに高価な金額で売りつける仕事です。自民党の政治家の名前を出して電話で注文を取ると、一張羅の背広を着たアルバイトの私たちが、風呂敷に包んだ本を持って届けるのでした。行き帰りはタクシーでした。それこそ名だたる一流企業の受付に行って名刺を渡すと、総務課の応接室に通されて、担当者から封筒に入った“本代”を渡されるのでした。

もっとも、私たちはあくまで配達要員で、電話で注文を取るのは、50代くらいの事務所の責任者と70歳を優に越している毎日新聞に勤めていたとかいう老人でした。配達要員のアルバイトは、私と東大を出て就職浪人しているというやや年上の男の二人でした。就職浪人の彼は、朝日新聞を受けて落ちたのだと言っていました。それで、元毎日新聞の老人と、どこどこの社の誰々の文章はいいとか何とか、そんなマニアックな話をよくしていました。

孫文の扁額がかけられた事務所で、そうやって四人で資金集めをしていたのです。資金が集まったら、雑誌を出すんだと言っていました。記事にする予定の対談のテープを聞かされましたが、そこで喋っているのは新左翼系の評論家でした。

売りつける本は右翼の評論集の他に何種類かあり、在庫がなくなると、どこからともなくおっさんが自転車で本を持って来るのでした。「毎度!」と大きな声で言って部屋に入って来る、やけに明るいおっさんでした。

「誰ですか?」と訊いたら、「ああ見えて出版社の社長だよ」と言っていました。会社は飯田橋にあり、「飯田橋から自転車でやって来るんだよ」と言っていましたが、のちにその会社はある雑誌がヒットして自社ビルを建てるほど大きくなっていたことを知るのでした。

上の鈴木氏のブログで書かれていたように、作家の車谷長吉も『現代の眼』の編集部にいて、彼の『贋世捨人』 (文春文庫)というわたくし小説に、当時の編集部の様子がシニカルに描かれています。車谷長吉は、同じ編集部に在籍していた高橋義夫氏が辞めた後釜で入り、席も高橋氏が使っていた席を与えられたのでした。そして、のちに二人とも直木賞を受賞するのです。『贋世捨人』 に詳しく描かれていますが、『現代の眼』の編集部や同誌を発行する現代評論社には、今の仕事を大学教員や文芸評論家などの職を得るまでの腰掛のように考える、新左翼崩れのインテリたちが「吹き溜まり」のように集まっていたのでした。

『贋世捨人』には、『現代の眼』の沖縄特集に関連して、『沖縄ノート』(岩波新書)を書いていた大江健三郎に、「随筆」を依頼するために電話したときの話が出てきます。

(略)いきなり大江氏に電話を掛けた。すると偶然、大江氏自身が電話口に出た。
用件を述べると、
「ぼ、ぼ、僕は新潮社と講談社と、ぶ、ぶ、文藝春秋と岩波書店、それから朝日新聞以外には、げ、げ、原稿を書きません。」
 と言うた。この五社はすべて一流の出版社・新聞社だった。何と言う抜け目のない、思い上がった男だろう、と思うた。現代評論社のような三流出版社は、相手にしないと言う。糞、おのれ、と思うた。


「反共右翼の脱却」を読んでから、私自身も竹中労の「左右を弁別せざる思想」という言葉を口真似するようになりました。鈴木氏が大杉栄や竹中労などアナーキストのことによく言及していたのも、「左右を弁別せざる思想」にシンパシーを抱いていたからでしょう。

『現代の眼』の記事によって、「新右翼」という言葉も生まれたのですが、当然、既成右翼からの反発はすさまじく、真偽は不明ですが、鈴木氏が住んでいたアパートが放火されたという話を聞いたことがあります。左翼も、かつては既成左翼と新左翼は激しく対立して、両者の間にゲバルトもあったのです。

しかし、今はすべてがごっちゃになっており、本来なら、全共闘運動華やかなりし頃に民青でいたのは”黒歴史”と言ってもいいような老人たちまでもが、臆面もなく「学生運動」の自慢話をするようになっているのでした。しかも、「それは新左翼の話だろう」と思わず突っ込みたくなるような「いいとこどり」さえしているのでした。

誤解を怖れずに言えば、対立するというのは決して“悪い”ことではないのです。現在は、対立より分断の時代ですが、それよりよほどマシな気がします。対立には間違いなく身体がありましたが、今の分断には身体性は希薄です。

鈴木邦男氏らの登場は、「新左翼」と「新右翼」がまわりまわって背中合わせになったような時代の走りでもあったと言えるのかもしれません。しかし、それは功罪相半ばするもので、言論においては、左や右だけでなく新も旧もごちゃになり、全てが不毛に帰した感は否めません。その一方で、お互いに丸山眞男が言う「タコツボ」の中に閉じこもり、分断だけが進むという、「左右を弁別せざる思想」とは似ても似つかない、ただ徒に同義反復をくり返すだけの身も蓋もない時代になってしまったのです。

言うなれば、異論や反論をけしかけても、アンチ呼ばわりされレッテルを貼られた挙句、低俗な謀略論を浴びせられて排除パージされる、ユーチューバーをめぐる信者とアンチのようなイメージです。そこには最低限な会話も成り立たない分断があるだけです。宮台真司などもネットから浴びせられる罵言に苛立っていましたが、苛立ってもどうなるものでもないのです。
2023.01.27 Fri l 訃報・死 l top ▲
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(ヌカザス尾根)


私が最近、ネットで「お気に入り」に入れてチェックしているのは、下記のサイトです。

奥多摩尾根歩き
https://www.okutama-one.com/

サイト主は、奥多摩の人が少ない山の、しかもバリエーションルートを使って尾根を歩くという、他人ひととは違う登山スタイルを持つハイカーです。記事によれば、奥多摩に通ううちに顔見知りになった、同じようなデンジャラスなハイカーが他にも何人かいるみたいです。

余談ですが、奥多摩の山域は狭く、電車だと大概奥多摩駅か武蔵五日市駅を利用するので、私も何度か遭遇するうちに顔見知りになった高齢のハイカーがいました。あるときは、行きの電車で会って、帰りの電車でも会ったことがありました。山に詳しいなと思っていたら、のちにその方が登山関係者の間では高名な登山家で、本も出していることを知りました。奥多摩に通っているとそんなこともあるのです。

東京都の最高峰は雲取山で、標高は2017メートルですので、奥多摩には森林限界を越える山はありません。しかし、たとえば、川苔山の標高は1363.3メートルですが、鳩ノ巣駅からのルートだと単純標高差が1000メートルを越えます。埼玉もそうですが、奥多摩も関東平野の端にあるので、登山口の標高はそんなに高く、そのため低山の割には標高差が大きい山が多いのです。当然、急登が多いので、樹林帯の中の急登を息を切らして登らなければならず、「修行」などと言う人もいます。挙句の果てにはツキノワグマの生息地なので、クマの痕跡は至るところにあり、クマの生態に対する基本的な知識は必須です。

そんな奥多摩では、一般のハイカーが登るのは一部の山に限られています。それ以外の山は、東京の後背地にありながらハイカーが少なく、1日歩いても誰にも会わないこともめずらしくありません。

記事の中には、私が知っている尾根も多く出てきますが、しかし、サイト主が登るのはその尾根ではなく、周辺の登山道がない尾根から登って、私たちが歩いている尾根に合流するのでした。登山道の外れにある支尾根や斜面から突然、人が現れるのを想像すると痛快でもあります。

実際に私も、そんなハイカーに遭遇したことがありました。突然、前方の斜面から現れて、「あれっ、こんなところに出て来たのか」とでも言いたげに首をひねっていました。「どうしたんですか?」と訊いたら、「いえ、いえ」と言って笑いながら去って行きました。

そういった登山スタイルにはあこがれますが、しかし、私には、体力的にも技術的にもとても叶わぬ夢です。ただ、人のいない山が好き(ひとり遊びが好き)だという点では共通するものがあり、親近感とともにあこがれの念を覚えてならないのでした。

奥多摩は、上にあげたような特徴から、登山関係者の間では遭難が多いことでも知られています。

ちなみに、2021年の主要各県別の遭難者件数は以下のとおりです。主に警察がまとめていますが、2022年の集計がまだ出揃ってないので、2021年の件数を比較しました。

東京都
遭難件数 157件
遭難者数 195人
死亡・行方不明者 10人

長野県
遭難件数 257件
遭難者数 276人
死亡・行方不明者 47人

山梨県
遭難件数 116件
遭難者数 134人
死亡・行方不明者 12人

富山県
遭難件数 104件
遭難者数 110人
死亡・行方不明者 7人

また、『山と渓谷』の記事によれば、奥多摩では、他県に比べて若いハイカーの遭難が多いのも特徴だそうです。東京都の年齢別の割合は、以下のようになっています。

2021年
10代 20.7%※
20代 13.0%
30代 11.7%
40代 10.4%
50代 9.1%
60代 16.9%
70代 15.6%
※10代が多いのは2021年に小学生の集団遭難があったためです。
(参照:『山と渓谷』2023年2月号・「奥多摩遭難マップ21」)


このように東京都(奥多摩)の遭難件数は、南アルプスや八ヶ岳や奥秩父の山域を擁する山梨県より全然多いのです。先に書いたように、奥多摩は一般のハイカーが登る山は数えるほどしかありません。そう考えると、遭難の多さは“異常”と言ってもいいくらいです。

ただ、『山と渓谷』の「遭難マップ」などを見ると、大山がいい例ですが、初心者向けと言われる山での遭難が多く、若いハイカーの遭難が多いというもうひとつの特徴と合わせると、登山歴の浅いハイカーが初心者向けの山で遭難するケースが多いことがわかります。初心者向けの山でも、疲れて足がガクガクしていると、道迷いや滑落が生じやすい箇所があったりするのです。「あんなのたいしたことないよ、初心者向けだよ」というネットの書き込みを信じて登ると、思いっきり裏切られた気持になる、それが奥多摩の山なのです。

奥多摩は低山の集まりなので、尾根歩きには持ってこいです。しかし、上記のサイトを見ればわかるとおり、難度は高く、文字通りデンジャラスな山歩きと言えます。

一方で、奥多摩は、山で暮らしを営んでいた人々の痕跡を至るところで見ることができる、生活に隣接した山という側面もあります。「奥多摩尾根歩き」でも、林業に従事する人たちが利用していた作業道や小屋跡などがよく出てきますが、「こんなところに」と思うような山の奥にわさび田やわさび小屋の跡があったりします。また、東京都の水源でもあるので、水源巡視路もいろんなところに通っています。そういった道を見ると、山で仕事をしていた人たちは、私たちの登山とほとんど変わらない山歩きを日常的に行っていたことがわかるのでした。

山田哲哉氏は、小学生の頃から50数年奥多摩に通っている山岳ガイドですが、おなじみの『奥多摩 山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)で、奥多摩について、次のように書いていました。

 奥多摩は、より高く、より激しい山へ登るための練習場所でなければ、訓練の山でもない。この一見、地味な山塊は、夢や希望を与えてくれる。人間が本来あるべき姿、自然と格闘するからこそ共生する、人が人らしく生きる術や、不思議な魅力がギッシリと詰まった場所なのだ。


同時に、「自分が暮らす東京の片隅に、こんなに美しくワクワクと人を魅了する場所があるとは、その場に立つまで信じられなかった」として、次のようにも書いていました。

 どれだけ多くの人が、この奥多摩で山登りのすばらしさ、楽しさを知ったことだろう。僕が子どもから少年へと成長したように、たとえば退職して時間のできた初老の男が、ちょっとした好奇心で登り始めた山のおかげで、今までの自分とは違う「登山者」というアイデンティティをもつ人へと生まれ変わることもある。山に登るために生活習慣を改め、時には筋トレをし、つまり「昨日までの自分とは違う何者か」になるため、意識的に生きるはつらつとした人生を獲得した人もいる。それらの人々にとっての「最初の山」は、きっと多くが奥多摩だったはずだ。


山田氏が書いているように、「奥多摩の山々には無数の楽しみ方があり、訪れた者に毎回、必ず新たな発見をもたらしてくれる」のです。そういった思い入れを誘うような魅力があります。

また、これは既出ですが、田部重治は、100年前に書かれた「高山趣味と低山趣味」 (ヤマケイ文庫『山と渓谷 田部重治選集』所収)の中で、奥多摩や奥秩父などの山に登るハイカーについて、次のように書いていました。

 私は特に、都会生活の忙しい間から、一日二日のひまをぬすんで、附近の五、六千尺(引用者注:1尺=約30cm)の山に登攀を試みる人々に敬意を表する。これらの人々の都会附近の山に対する研究は、微に入り細を究め、一つの岩にも樹にも、自然美の体現を認め、伝説をもききもらすことなく、そうすることにより彼等は大自然の動きを認め人間の足跡をとらえるように努力している。私はその意味に於て、彼らの真剣さを認め、ある点に於て彼らに追従せんことを浴している。


ネットの時代になり、コンプラなるものを水戸黄門の印籠みたいに振りかざす、反知性主義的な風潮が蔓延していますが、それは登山も例外ではありません。コロナ禍で登山の自粛を呼びかけた山岳会や一部の「登山者」が、世の風潮に迎合して”遭難者叩き”のお先棒を担いでいる腹立たしい現実さえあります(そのくせ金集めのために、登山道を荒らすトレランの大会を主催したりしているのです)。

そんな中で、田部重治が言う日本の伝統的登山に連なる「静観派」登山の系譜は、デンジャラスな尾根歩きというかたちで今も受け継がれていると言っていいのかもしれません。


関連記事:
田部重治「高山趣味と低山趣味」
2023.01.25 Wed l l top ▲
グレイスレス


最近は芥川賞にもまったく興味がなかったので知らなかったのですが、鈴木涼美が最新作の「グレイスレス」で芥川賞の候補になっていたみたいです。それで『文學界』の2022年11月号に載っていた同作を読みました。

私は、このブログでも書いていますが、鈴木涼美が最初に書いた『身体を売ったらサヨウナラ』を読んで、まずその疾走感のある文章に「一発パンチを食らったような感覚」になりました。再掲ですが、『身体を売ったらサヨウナラ』は、次のような文章ではじまっています。

 広いお家に広い庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的な余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ、そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
 シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート、プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(略)
 でも、全然満たされていない。ワタシはこんなところでは終われないの。1億円のダイヤとか持ってないし、マリリン・モンローとか綾瀬はるかより全然ブスだし、素因数分解とかぶっちゃけよくわかんないし、二重あごで足は太いしむだ毛も生えてくる。
 ワタシたちは、思想だけで熱くなれるほど古くも、合理性だけで安らげるほど新しくもない。狂っていることがファッションになるような世代にも、社会貢献がステータスになるような世代にも生まれおちなかった。それなりに冷めてそれなりにロマンチックで、意味も欲しいけど無意味も欲しかった。カンバセーション自体を目的化する親たちの話を聞き流し、何でも相対化したがる妹たちに頭を抱える。
 何がワタシたちを救ってくれるんだろう、と時々思う。


あれから8年。彼女が小説を書いているのは知っていましたが、私は、まだ読んでいませんでした。ちなみに、「グレイスレス」は二作目の創作です。

ブログでも書きましたが、鈴木いづみを彷彿とするような文章なので、さぞや小説もと思いましたが、しかし、小説の文体はやや異なり、鈴木いづみのようなアンニュイな感じはありませんでした。『身体を売ったらサヨウナラ』に比べると小説向きに(?)抑制されたものになっており、宮台真司の言葉を借りれば「叙事的」です。やはり、鈴木いづみの文体は、あの時代が生んだものだということをあらためて思わされたのでした。

AV業界でフリーの化粧師(メイクアップアーティスト)として働く主人公。彼女は、鎌倉の古い洋館に祖母と二人で暮らししています。

小説はAVの撮影現場で遭遇する女たちとの刹那的な関りと、鎌倉の家を通した家族との関わりの二つの物語が同時進行していきます。それは刹那と宿命の対照的な関りと言ってもいいものです。しかし、それらを見る主人公の目は、如何にも今どきな感じで、どこか突き放したような冷めた感じがあります。AV業界をAV女優ではなく、化粧師の目を通して描いているというのもそうでしょう。

AVの現場での仕事は、その役柄に応じて映像に見栄えるように化粧を施すだけではありません。AV女優の顔面や頭髪に放出された精液を落とす作業もあります。しかし、主人公には嫌悪感など微塵もありません。むしろ、その仕事に職人的な誇りさえ持っているかのようです。AV業界での化粧師という仕事に、みずからのレーゾンデートルを見出しているようにさえ見えるのでした。

鎌倉の洋館は、父方の祖父が住んでいた家で、両親が離婚する際に母親が父親から譲り受けたものです。ところが、現在、両親はイギリスで元の鞘に収まったような生活をしているのでした。そこには、上野千鶴子が言った「みじめな父親に仕えるいらだつ母親」も、「母親のようになるしかない」という「不機嫌な娘」も、もはや存在しないのでした。

母親も祖母も自由奔放に生きて来たような人物です。その影響を受けているはずの主人公は、しかし、彼女たちの生き方とは一線を引いているように見えます。鎌倉の洋館も、祖母は一階で暮らし、主人公は二階で暮らしているのですが、祖母は二階に上がって来ることはないのでした。

小説の最後に仕事を「やめる」ような場面があるのですが、しかし、主人公は、イギリスに住む母親との電話で、「いや、また気が向いたらいつでもやるよ」と答えるのでした。「やめる」に至った経緯も含めて、そこに、この小説のエッセンスが含まれているように思いました。

私は意地が悪い人間なので、もってまわったような稚拙な描写の部分にマーカーを引いて悪口を言ってやろうと思っていたのですが、最後まで読み終えたら、そんな意地の悪さも消えていました。久しぶりに小説を読みましたが、「やっぱり、小説っていいなあ」と思えたのでした。

小説の言葉は、私たちの心の襞に沁み込んで来るのです。私は、同時にノーム・チョムスキーの『壊れゆく世界のしるべ』(NHK出版新書)という本を読んでいたのですが、インタビューをまとめた本で、しかも翻訳されているということもあるのでしょうが、チョムスキーの言葉がひどく平板なものに思えたくらいです。

偉そうに言えば、『身体を売ったらサヨウナラ』の鈴木涼美は、読者の期待を裏切ることなく見事にホンモノの小説家になっていたのです。山に登るとき、きつくて「心が折れそうになる」と言いますが、私自身、最近は生きていくのに心が折れそうになっていました。ありきたりな言い方ですが、なんだか生きていく勇気を与えてくれるような小説だと思いました。いい小説を読むと、そんな救われたような気持になるのです。この小説にも、孤独と死という人生の永遠のテーマが、副旋律のように奏でられているのでした。


関連記事:
『身体を売ったらサヨウナラ』
ふたつの世界
2023.01.22 Sun l 本・文芸 l top ▲
週刊ダイヤモンド2023年1月21日号


時事通信が13日~16日に実施した1月の世論調査で、立憲民主党の支持率が前回(12月)の5.5%から2.5%に下落したと伝えられています。

時事通信ニュース
内閣支持最低26.5%=4カ月連続で「危険水域」―立民も下落・時事世論調査

ちなみに、各党の支持率は以下のとおりです。

自民党 24.6%(1.8増)
維新 3.6%(0.2減)
公明党 3.4%(0.3減)
立憲民主 2.5%(3.0減)
共産党 1.8%
国民民主 1.5%
れいわ 0.7%
参政党 0.7%
NHK党 0.4%
社民党 0.1%
支持政党なし 58.7%

このように立憲民主党の支持率だけが際立って落ちています。5.5%の支持率が半分以下の2.5%に落ちているのですから、すさまじい下落率と言えるでしょう。立憲民主党は、支持率においても、もはや野党第一党とは言えないほど凋落しているのでした。

維新との連携がこのような支持離れをもたらすのはわかっていたはずです。にもかかわらず、連合などの右バネがはたらいたのか、立憲民主党はみずからのバーゲンセールに舵を切ったのでした。泉健太代表が獅子身中の虫であるのは誰が見てもあきらかですが、しかし、党内にはそういった危機感さえ不在のようです。それも驚くばかりです。

で、立憲民主党が片思いする維新ですが、昨日、次のようなニュースがありました。

ytv news(読売テレビ)
維新・吉村代表 自民・茂木幹事長と会談

 泉大津市内の飲食店で約2時間にわたって行われた会談では、両党が推進する憲法改正をめぐり、反対する野党と議論をどのように進めるか意見を交わしたほか、維新が重視する国会改革についても協力していくことで一致したということです。


私は、「立憲民主党が野党第一党である不幸」ということを常々言ってきました。立憲民主党は野党ですらないと。維新との連携の先には、連合と手を携えて自民党にすり寄る立憲民主党の本音が隠されているように思えてなりません。

一方で、維新との連携を受けて、立憲民主党にはほとほと愛想が尽きた、というような声がSNSなどに飛び交っていますが、私はそういった声に対しても、匙を投げるときに匙を投げなくて、今更何を言っているんだ、という気持しかありません。

立憲民主党のテイタラクは、同時に、立憲民主党に随伴してきた左派リベラルのテイタラクでもあります。今更「立憲民主は終わった」はないでしょう。

フランスでは、年金開始年齢の引き上げをめぐって、労働総同盟(CGT)などの呼びかけで大規模なストが行われているそうです。今の日本では、想像だにできない話です。

朝日新聞デジタル
「64歳からの年金受給は遅すぎ」 フランスで改革反対の大規模スト

フランスの年金制度は、政府の改革案でも、最低支給額が約1200ユーロ(約17万円)で、支給開始年齢が64歳と、日本の年金と比較すると夢のような好条件です。それでもこれほどの激しい反発を招いているのです。

前から何度も言っているように、ヨーロッパやアメリカの左派には、60年代の新左翼運動のDNAが引き継がれています。しかし、日本では、「内ゲバ」や「連合赤軍事件」などもあって、新左翼は「過激派」(最近で言えば「限界系」)のひと言で総否定されています。そのため、ソンビのような”革新幻想”に未だに憑りつかれた、トンチンカンな左派リベラルを延命させることになっているのでしょう。

『週刊ダイヤモンド』の今週号(1/21号)は、「超階級社会 貧困ニッポンの断末魔」という、もはや恒例とも言える特集を組んでいましたが、その中に下のような図がありました(クリックで拡大可)。

超階級社会2
(『週刊ダイヤモンド』2023年1月21日号より)

特集では、「もはや、日本は経済大国ではなく、貧困大国に成り下がってしまった」と書いていました。

 中国、シンガポール、オマーン ─── 都心の超高級タワーマンションの上層階に居を構えるのは、実はこうした国の人々だ。もちろん、10億円を超える高級物件を所有する日本人もいるが、彼らはごくごく限られた「上級国民」。平均的な日本人にとって、雲上人といえる存在だ。
 もっとも平均的な日本人が「真ん中」というのは、幻想にすぎない。かっては存在した分厚い中間層は総崩れとなり、格差が急拡大。日本は”一億総下流社会“へと変貎を遂げた。そして新型コロナウイルスの感染拡大やインフレが引金となって、拡大した格差が完全に固定化する「超・階級社会」を迎えようとしている。

  超・階級社会を招くのは、「低成長」「低賃金」「弱過ぎる円」「貿易赤字の常態化」の四重苦だ。


2012年末からはじまった第2次安倍政権が提唱したアベノミクス。それに伴う日本銀行の「異次元の大規模金融緩和」、つまり、「弱い円」への誘導がこれに輪をかけたのでした。

「日本売り」「買い負け」が常態化したのです。今、都心のマンションが異常な高値になっていますが、それは不動産市場が活況を呈してきたというような単純な話ではなく、都心のマンションが海外の富裕層に買い漁られているからです。不動産会社も、日本人客より高くても売れる外国人客にシフトしているのです。そのため、一部の不動産価格がメチャクチャになっているのです。

もっとも、私も以前、都心の高級マンションの上層階や角部屋などの”いい部屋”は中国人などの外国人に買われているという、不動産関係の仕事をしている知人の話をしたことがありますが、それは最近の話ではなく、アベノミクスの円安誘導によってはじまった現象でした。ただ、最近の急激な円安によって価格が急上昇したので、特に目に付くようになっただけです。

 アベノミクスの厳しい現実を突き付けたのは、野村総合研究所が年に実施したアンケート調査に基づく推計だ。上級国民に当たる準富裕層以上は資産を増やした一方で、中級国民、下級国民であるアッパーマス層、マス層は資産を減らした。富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなったのだ。


しかし、アベノミクスの負の遺産というのは一面にすぎません。その背後には、資本主義の死に至る病=矛盾が広がっているのです。

折しも今日、東京電力が、来週にも家庭向けの電気料金を3割程度引き上げる旨、経済産業省に申請する方針だというニュースがありました。私たちにとっては、もはや恐怖でしかない今の資源高&物価高が、臨界点に達した資本主義の矛盾をこれでもかと言わんばかりに示しているのです。

これもくり返し言っていることですが、今求められているのは、右か左かではなく上か下かの政治です。階級的な視点を入れなければ、現実は見えて来ないのです。好むと好まざるとにかかわらず、階級闘争こそがもっともリアルな政治的テーマなのです。でも、その階級闘争を担う下に依拠する政党がない。だから、デモもストもないおめでたい国になってしまったのでした。


関連記事:
立憲民主党への弔辞
『新・日本の階級社会』
2023.01.20 Fri l 社会・メディア l top ▲
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(public domain)


昨日(18日)、YouTubeに関して、「ディリー新潮」に興味深い記事が出ていました。

Yahoo!ニュース
ディリー新潮
人気ユーチューバーの広告収入が激減 専門家は「今年は例外なく全員が“解雇”状態に」

ディリー新潮の記事は、巷の一部でささやかれていたYouTubeの“苦境”(というか、まだ”路線変更”のレベルですが)をあきらかにしたものと言えるでしょう。

YouTubeの“苦境”を端的に表しているのが、ユーチューバーたちです。再生回数が落ちたことによって、Googleからの広告料の配当が減少し、中には「ユーチューバー・オワコン説」さえ出ているあり様なのでした。

YouTubeが“苦境”に陥った要因は、相次ぐライバルの出現です。

記事では、ITジャーナリストの井上トシユキ氏の次のような指摘を伝えていました。

「『1日に何時間、ネットの動画を視聴しているのか』について、複数の調査結果が発表されています。それによると、世界平均は1日に1時間から3時間だそうです。2005年に誕生したYouTubeは、長年この時間を独占してきました。ところが近年、強力なライバルが登場し、視聴時間を巡って激しい争奪戦が繰り広げられるようになりました」


「『1日に最大3時間』という視聴時間を巡って、YouTube、TikTok、Netflix、Amazon Prime Video、Huluといった企業が激しく争っています。これまでYouTubeはブルーオーシャン(競争のない未開拓市場)のメリットを存分に享受してきました。ところが突然、レッドオーシャン(競争の激しい市場)に叩き込まれてしまったのです」


その結果、YouTubeは広告収益の鈍化に見舞われたのでした。動画の質の低下に合わせて、大手企業の広告の撤退が相次ぎ、「怪しげな美容商品や陰謀史観を主張する書籍、借金を合法的に踏み倒す方法──などなど、眉をひそめたくなるような広告が目立つ」ようになったのでした。それで、益々炎上系や陰謀史観やヘイトな動画ばかりが目立つようになるという悪循環に陥っているのです。

ただ、もともとYouTubeはそういった怪しげな動画投稿サイトでした。それをGoogleが買収して、現在のようなシステムに作り替えたにすぎないのです。違法動画や炎上系や陰謀史観やヘイト動画は、YouTubeのお家芸のようなものです。

YouTubeは、「“打倒TikTok”、“打倒Netflix、Amazon Prime”が急務」となっており、ユーチューバーに対して、「『ライバルの3社から視聴者を取り戻すような動画を作ってくれれば改めて厚遇するし、そうでなければ辞めてもらう』というメッセージを発した」(井上氏)のだと言います。

とりわけ、YouTubeが主敵としているのはTikTokです。そして、その切り札としているのがYouTubeショートだとか。しかし、TikTokやYouTubeショートも、既に炎上系やいじめの動画が目立つようになっています。

記事は、最後に次のような言葉で結んでいました。

「今年、YouTubeは荒療治を断行するようです。荒療治なので、ユーチューバーにきめ細やかなケアを行う余裕はありません。トップクラスのユーチューバーといえども、一度は“解雇”の状態にする。その上で『自分たちは新しいルールを提示する。それに則って動画を配信するかどうか決めろ』と要求してくると考えられます」(同・井上氏)

 もともと「ユーチューバーでは食えない」という傾向が指摘されてきたが、2023年は一層、厳しい年になりそうだ。


ユーチューバーにとっていちばんいい時代は2017年頃だったそうですが、たしかに登山系ユーチューバーが登場したのもその頃でした。まるで雨後の筍のように、いろんなジャンルでユーチューバーが出て来たのでした。

あれから僅か5年。ユーチューバーをとりまく環境は大きく変わろうとしているのです。それは、YouTubeがレッドオーシャンに「叩きこまれた」だけではありません。芸能人が次々と参入してきたことも、ユーチューバーにとって”大きな脅威”となっています。視聴時間をめぐって、さらにYouTubeの中での奪い合いも熾烈になってきたのです。

もとより、ネットというのはそういうものでしょう。TikTokの”我が世の春”も、いつまで続くかわかりません。

しかし、多くのユーチューバーは、放置されて水膨れした登録者数や、「信者」とヤユされる常連視聴者のお追従コメントに勘違いして、例えは古いですが、現実から目をそむけ「サンクコストの呪縛」に囚われたままのような気がします。それはTwitterのユーザーなども同じです。オレにはこれだけ登録者=シンパがいるなんて、トンマな幻想に浸っているのかもしれません。

これも何度も言っていますが、Twitterの「言論の自由」にしろ、YouTubeの「広告収入」にしろ、単に一私企業に担保されたものにすぎないのです。そんなものに「公共性」を求めるのはお門違いで、企業の都合でいくらでも変わるのは当然なのです。
2023.01.19 Thu l ネット l top ▲
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たまたまネットをチェックしていたら、最近、元TBSアナウンサーの国山ハセンの転職先として話題になったPIVOTのYouTubeチャンネルで、宮台真司氏とYAMAPの春山慶彦社長が3回に渡って対談しているのが目に止まりました。

YouTube
PIVOT公式チャンネル
【宮台真司がシンクロした起業家】登山アプリYAMAP創業者/日本の起業家では珍しい身体性の持ち主/イヌイットとクジラ漁の経験/ビジネスパーソンに必須な「自然観」とは
https://www.youtube.com/watch?v=89cIyZX2Ch8

【宮台真司「現代人は身体を使え」】自然は単なる“癒やし”ではない/流域で生命圏を作り出す/キャンプの本質を考える/思考を研ぎ澄ませたい時にこそ山に行く【YAMAP 春山慶彦CEO】
https://www.youtube.com/watch?v=u3ESOfgfh0k

【宮台真司「仲間を誘惑せよ」】NISAなどの投資教育はインチキ/生き方を変えた人が資本主義にコミットせよ、そして少しずつ仲間を誘え【YAMAP 春山慶彦CEO 最終回】
https://www.youtube.com/watch?v=aKbyG-oxk2Y&t=0s

PIVOTでは本田圭佑がメインのように扱われ、企業の経営や投資に関して、独りよがりな付け焼刃の知識を開陳していますが、PIVOTは本田圭佑を推しているのかと思いました。

他に落合陽一や成田悠輔が出ている動画を観ましたが、最後まで観る気になりませんでした。

余談ですが、私は、成田悠輔の『22世紀の民主主義』を読みはじめたものの、途中で投げ出してしまいました。

文章は非常に優しく書かれていましたが、論理の前提になっているデータが極めて恣意的なもので、牽強付会にもほどがあると思いました。現状認識も粗雑で、コロナ禍のパンデミックを唯一くぐり抜けたのが権威主義国家の中国だと断定していましたが、今の状況を見ればとんだ早とちりだということがわかります。

権威主義に比べると民主主義はシステムが非効率なので、権威主義国家より民主主義国家の方が経済成長が鈍化している(だからAIでブラッシュアップしなければならない)、という主張にしても、それはキャッチアップする国とされる国の違いにすぎないことくらい、少しでも考えればわかるはずです。どこが「天才」なんだと思いました。

PIVOTと宮台真司氏の関わりも不思議ですが、出演者の顔ぶれをみると、国山ハセンは遠からずみずからの「決断」を後悔することになるような気がします。

宮台真司氏と春山慶彦氏の対談の肝は、ひと言で言えば、”身体性の復権”ということです。それは登山をしている人間であれば腑に落ちる話です。

システムに依存するのでなく、感情や感性といった身体感覚を取り戻すことが大事だと言います。テクノロジーがめざしているのは「身体性の自動化」であって、であるがゆえに感情や感覚の能力を失う(奪われる)ことになるというのも、わかりすぎるくらいわかりやすい話でしょう。

春山氏は、東日本大震災の原発事故がきっかけで、YAMAPを発想したと言っていました。電気が止まると、トイレも使えないような脆弱な都市システムの中に生きていることに気付かされた、と言っていましたが、しかし、それは皮相的な見方だと思いました。

都市で暮らすには、まず電気代を払えるだけの収入が必要です。電気代を払うお金がなければ、システムを享受することもできないのです。資本主義というのは、そういう社会です。その根本のところを飛ばして脆弱なシステムと言われても鼻白むしかありません。

しかも、電気代を払うことができる豊かさや平等も、もはや前提にすらならないような時代に私たちは生きているのです。システムの脆弱さを言うなら、そういった貧国や格差の現実をどうするかというのも大きな課題のはずです。

春山氏は、今の高度なテクノロジーに囲まれた社会では、逆に技術を使わないという「英知」が必要だとも言っていました。そういった倫理観や哲学や自然観が求められているのだと。

私は、登山アプリは「スーパー地形」を使っています。YAMAPやヤマレコを使っていた時期もありましたが、「スーパー地形」に変えました。

どうしてかと言えば、YAMAPやヤマレコの地図上のポイントをクリックするとルートが自動的に設定できる便利な(!)システムが嫌だったからです。それと、あの自己顕示の塊のような山行記録が鼻もちならなかったということもあります。

「スーパー地形」の場合、ルートは設定されていませんので、紙地図と睨み合いながら自分で描いていかなければなりません。ルート上の情報やポイントなども自分で設定しなければなりません。言うなれば、自分で登山用の地図を作るような作業が必要です。それは非常に面倒くさい作業でもあります。しかし、登山において、そういった作業も大事なことなのです。何より紙地図の重要性も再認識させられますし、山行には紙地図とコンパスを携行するのが必須になります。想像する楽しみだけでなく、山に登るリスクや不安を知ることにもなるのです。

身も蓋もないないことを言えば、”集合知”なる他人のベタな体験(の集積)に導かれて山に登って、何が楽しいんだろうと思います。未知に対する不安があるから楽しみもあるし、危険リスクに対する怖れがあるから喜びもあるのです。

YAMAPやヤマレコにこそ、「身体性の自動化」につながるような反動的な技術テックが含まれていると言わざるを得ません。文字通り本来の登山とは真逆な「安全、安心、便利、快適」の幻想をふりまく、「歩かされる」だけのアプリのように思えてなりません。道迷いのリスクを減らすと言いますが、登山に道迷いのリスクがあるのは当たり前です。そのリスクを、アプリではなく自分の知識や経験や感覚で回避するのが登山でしょう。アプリで「歩かされる」だけでは、危険を回避するスキルはいつまで経っても身に付かないでしょう。

もとより、登山において地図読みのスキルは大事な要素なのです。アプリがなくて紙地図だけで山を歩けるかというのは基本中の基本です。万一、スマホが故障したり電池がなくなったりした場合、紙地図で山行を続けなければならないのです。そのために、本来ならYMAPやヤマレコは、「登山の安全のため、紙地図も持って行きましょう」と呼び掛けるべきだと思いますが、しかし、そうすると自己矛盾になるのです。

その結果、紙地図も持たずスマホだけで山に来て、常にスマホと見比べながら山を歩くような、危機意識の欠片もないハイカーを大量に生んでしまったのです。それこそシステムへの盲目的な依存と言うべきで、彼らがコースタイム至上主義に陥るのは理の当然でしょう。

山ですれ違う際、「にんにちわ」と挨拶するだけでなく、これから行くルートの状態や難易度を尋ねたりすることがあります。しかし、登山アプリによって、そういった情報交換のコミニュケーションも減ったように思います。私はよく話しかけますが、コロナ禍ということも相俟って、最近は迷惑そうな顔をされることが多くなりました(それでも話しかけるけど)。

前も書きましたが、車で峠まで行くのと、自分の足で息を切らせながら行くのとでは全然意味合いが違うように、他人の体験をアプリで押し付けられるのと、直接コミュニケーションを取りながら他者の体験から学ぶのとでは、身体性という意味合いにおいて、天と地ほども違うのです。二人も対談の中で言っているように、大事なのはコミュニケーションなのです。

ただ、山に行ってものを考えると、余分なものが削ぎ落されるので、シンプルにものを考えることができるという春山氏の話は同意できました。私も前に、パソコンの前に座ってものを考えるのと、散歩に行って歩きながらものを考えることは全然違うというようなことを書いた覚えがありますが、そこに身体性の本質が示されているように思います。

もちろん、私も「スーパー地形」を使っていますので、登山アプリを全否定するわけではありません。技術テックに関して、ものは使いようというのはよくわかります。アプリで大事なのは、これから歩くルートではなく、歩いて来た軌跡だと言った人がいましたが、それはすごくわかります。つまり、道迷いしたら正しいルートの地点まで戻るのが基本ですが、その際、アプリの軌跡が役に立つからです。

ただ、登山アプリによって身体感覚がなおざりにされ鈍磨させられたり、登山の体験が「安全、安心、便利、快適」(の幻想)に収斂されるような、システムに依存した通りいっぺんなものになるなら元も子もないでしょう。何より山に来る意味も、山を歩く楽しみもないように思うのです。それこそ、”身体性の復権”とは真逆なものと言うべきなのです。


関連記事:
「数馬の夜」
2023.01.18 Wed l l top ▲
広島拘置所より
(『紙の爆弾』2023年1月号・上田美由紀「広島拘置所より」)


YMOのドラム奏者の高橋幸宏氏が、今月の11日に誤えん性肺炎で亡くなっていたというニュースがありました。高橋氏は、2020年に脳腫瘍の手術した後、療養中だったそうで.す。享年71歳、早すぎる死と言わねばなりません。

若い頃、初めてYMOを聴いたとき、その”電子音楽”に度肝を抜かれました。人民服を着て「東風」や「中国女」を演奏しているのを見て、一瞬、毛沢東思想マオイズムか、はたまたポスト・モダンに媚びるオリエンタリズムかと思いました。「テクノポップ」なんて、むしろ悪い冗談みたいにしか思えませんでした。でも、今ではいろんな意味で「テクノポップ」が当たり前になっています。YMOは時代の一歩先を行っていたと言えるのかもしれません。ただ、長じて「テクノポップ」がYMOのオリジナルではないことを知るのでした。

高橋幸宏氏は、昨年の6月にTwitterで「みんな、本当にありがとう」とツイートしていたそうですが、癌で闘病している坂本龍一も、先月配信されたソロコンサートで、「これが最後になるかもしれない」とコメントしていたそうです。

前も書いたように、みんな死んでいくんだな、という気持をあらためて抱かざるを得ません。

また、いわゆる「鳥取連続不審死事件」の犯人とされ、2017年に死刑が確定した上田美由紀死刑囚が、14日、収容先の広島拘置所で「窒息死」したというニュースもあり、驚きました。

Yahoo!ニュースに下記のような記事が転載されていますが、Yahoo!ニュースはすぐに記事が削除されて読めなくなりますので、主要な部分を引用しておきます。

Yahoo!ニュース
TBSテレビ
鳥取連続不審死事件 広島拘置所に収容の上田美由紀死刑囚(49)が14日に死亡 窒息死 法務省が発表

法務省によりますと、上田死刑囚はきのう午後4時過ぎ、収容先の広島拘置所の居室で食べ物をのどに詰まらせむせた後、倒れたということです。

職員が口から食べ物を取り除くなどしたものの意識がなく、救急車で外部の病院に搬送されましたが、およそ2時間後、死亡が確認されました。死因は窒息でした。

遺書などは見つかっていないということで、法務省は、自殺ではなくのどに食べ物を詰まらせたことが原因とみています。


上田美由紀は、月刊誌『紙の爆弾』に2014年10月号から8年以上手記を連載していました。今月7日に発売された2月号の同誌には、法学者で関東学院大学名誉教授の足立昌勝氏の「中世の残滓 絞首刑は直ちに廃止すべきである」という記事が掲載されていましたが、上田死刑囚の手記は休載になっていました。

先月発売された2023年1月号の「第82回」の手記が最後になりましたが、その中では次のようなことが書かれていました。

 官の売店の物も、次々と値上げです。トイレなどにも使うティッシュも、108円だったのが116円になったのはとても大変なことです。官の支給のチリ紙と違い、量も多く、8円は大きな差です。官の支給ではとても足りず、この生活で、チリ紙はお金と同じくらい大切なものです。この数ヶ月、値上げの告知を月に何回も受け、そのたびにゾッとしています。


自殺ではなく食べたものを喉に詰まらせた窒息死だそうですが、上田死刑囚はまだ49歳です。そんなことがあるのかと思いました。

私は、2014年にこのブログで、青木理氏が事件について書いた『誘蛾灯』(講談社)の感想文を書いています。それは、二審で死刑の判決が言い渡された直後でした。

関連記事:
『誘蛾灯』

事件そのものは、青木氏も書いているように、女性が一人で実行するのは無理があるし、検察が描いた事件の構図も矛盾が多いのですが、しかし、上田死刑囚には弁護費用がなかったため、国選弁護人が担当していました。青木氏は、「大物刑事裁判の被告弁護にふさわしい技量を備えた弁護団」とは言い難く、「相当にレベルの低い」「お粗末な代物」だったと書いていました。上田死刑囚は、無罪を主張していたのですが、その後、最高裁でも上告が却下され死刑が確定したのでした。

上の関連記事とダブりますが、私は、記事の中で次のように書きました。

(略)上田被告は、死刑判決が下された法廷でも、閉廷の際、「ありがとう、ございました」と言って、裁判長と裁判員にぺこりと頭を下げたのだそうです。著者は、そんな被告の態度に「目と耳を疑った」と書いていました。上田被告は、そういった礼儀正しさも併せ持っているのだそうで、その姿を想像するになんだかせつなさのようなものさえ覚えてなりません。

これで二審も死刑判決が出たわけですが、青木理氏が言うように、「遅きに失した」感は否めません。事件の真相はどこにあるのか。無罪を主張する被告の声は、あまりにも突飛で拙いため、まともに耳を傾けようする者もいません。被告に「無知の涙」(永山則夫)を見る者は誰もいないのです。そして、刑事裁判のイロハも理解してない素人裁判員が下した極刑が控訴審でも踏襲されてしまったのでした。そう思うと、よけい読後のやりきれなさが募ってなりませんでした。


そして、予期せぬ死去のニュースに、再びやりきれない思いを抱いているのでした。
2023.01.15 Sun l 訃報・死 l top ▲
FIFAがワールドカップで優勝したアルゼンチンに対して、決勝戦において「規定違反」があったとして、処分の手続きを開始したというニュースがありました。

AFP
FIFA、アルゼンチンの処分手続き開始 W杯決勝で規定違反か

記事は次のように伝えています。

 FIFAは、アルゼンチンに「攻撃的な振る舞いやフェアプレーの原則への違反」や「選手と関係者の不適切行為」のほか、メディアとマーケティングに関する規定違反があった可能性を指摘している。


私は、それみたことかと言いたくなりました。手前味噌になりますが、私は、ワールドカップでアルゼンチンが嫌いだとして、このブログで下記のような記事を書きました。

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しかし、日本のメディアは、アルゼンチンの優勝を我が事のように喜び、「勝てば官軍」のような称賛の記事のオンパレードだったのです。サッカー専門のメディアも含めて、アルゼンチンの「汚いサッカー」を指摘する声は皆無でした。

それは、カタール大会のいかがわしさに対しても同じでした。一片の見識もないのです。疑問を呈する声はいっさいシャットアウトして、「勝てば官軍」の報道一色に塗られたのでした。

この思考停止した“日本的な光景”は、サッカーだけの話ではありません。ウクライナ侵攻についても、中国脅威論についても同じです。そこにあるのは、寄らば大樹の陰の浅ましい心根だけです。

「国境なき記者団」による2022年の「世界報道の自由度ランキング」で、日本は180ヶ国中、前年の67位からさらにランクを落として71位だったのですが、そのことについても、メディアも国民も危機感などはまったく見られません。ちなみに、アジアでは台湾が38位、韓国が43位です。

「世界報道の自由度ランキング」が71位という、既に独裁国家並みの報道の自由しかない日本のメディアのテイタラクは、たとえば、(わかりやすい例を上げれば)ガーシーの問題にもよく表れています。

警視庁が強制捜査に乗り出したことについても、メディアは盛んに著名人に対する名誉棄損や脅迫を上げていますが、警視庁のホントの狙いはもっと深いところにある、と「アクセスジャーナル」が書いていました。

アクセスジャーナル
<芸能ミニ情報>第108回「警視庁は、ガーシー議員とZをセットで狙っている?」

ガーシーがドバイに「逃亡」したのもそうですが、「身の安全のために」日本に帰国しないと主張していたのは、最初から不自然でした。現在は、著名人に対する名誉棄損などのために逮捕されたくないからという主張に変わっていますが、当初はそうではなかったのです。

”何か”に怯えていたのです。裏カジノに手を出して莫大な借金を抱えていたことは知られていましたので、反社の闇金融から追い込みをかけられているのではないかと思っていましたが、それだけだったのか。

「アクセスジャーナル」は、「特殊詐欺集団の大物元締」との関係を指摘しています。「興味深い情報」として、二人は「汚れ仕事を手を染めているだけでなく、連携していると聞いていた」と書いていました。警視庁は、YouTubeからの収入などを管理する「合名会社」やその関係者宅を家宅捜索し、一部では捜査の過程で新たな「投資トラブルがあったことも発覚した」と伝えられています。

「アクセスジャーナル」が言う「汚れ仕事」が、著名人に対する「常習的脅迫」だけ・・を指しているとはとても思えません。捜査は、YouTubeによる著名人への名誉棄損や脅迫から、別の方向に進んでいるような気がしてなりません。

国会議員に対する強制捜査に着手したというのは、国会議員には国会開会中は逮捕されないという「不逮捕特権」がありますので、当然国会との調整もついた上のことでしょう。

と思ったら、案の定、参議院の石井準一議院運営委員長が、ガーシーに対して、今月の23日に召集される通常国会も欠席が続けば「懲罰に相当する」との認識を示したという報道がありました。

ガーシーは3月の上旬に帰国すると答えていますが、石井議院運営委員長は今月の通常国会と言っているのです。警視庁が国会の処分を視野に強制捜査に着手したのは間違いない気がします。誰かも言っていましたが、たしかに「詰んできた」ように思います。

芸能人に女性をアテンドし、裏カジノに手を出して、既に和解したとは言え”BTS詐欺(まがい)”まではたらき、それで芸能界の周辺にたむろするいかがわしい人間達と関係がないというのは、どう考えても無理があるでしょう。

だからと言って、ガーシーの標的になった芸能人がまったくの被害者なのかと言えば、そうも言えないのが芸能界が芸能界たる所以です。吉本隆明ではないですが、芸能界は普通のお嬢ちゃんやお坊ちゃんでは務まらない”特殊な世界”なのです。言うなれば、美男美女の不良ワルが集まったところなのです。当然、脛に傷を持つ不良ワルも掃いて棄てるほどいるでしょう。

名誉棄損や脅迫といった”軽犯罪”で、どうして関係者宅まで家宅捜索されるのか。そもそも「合名会社」や関係者というのは何なのか。疑問は尽きませんが、メディアは右へ倣いしたようなおざなりな報道をくり返すだけです。

私は、ここに至って、再びみずからの動画でガーシーに弁明させた田村淳に対しても、何をそんなに怯えているのかと思いました。「ワイドナショー」でも田村淳はガーシーを擁護していたようですが、それは単なる逆張りとは思えません。
2023.01.15 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
昨日、午後から久しぶりにみなとみらい界隈を散歩しました。歩数を稼ぐために隣駅まで歩いて、東横線・みなとみらい線で馬車道まで行き、馬車道から汽車道、汽車道から赤レンガ倉庫、赤レンガ倉庫から象の鼻パーク、象の鼻パークから山下公園まで歩きました。帰りは山下公園から遊歩道で赤レンガ倉庫まで戻り、そのあと大観覧車の横を通ってみなとみらいのクイーンズスクエアまで歩いて、みなとみらい駅から電車に乗って帰りました。

帰ってスマホを見たら、1万5千歩を越えていました。大体今まで月平均で12万〜15万歩は歩いていたのですが、最近はその半分くらいしか歩いていません。それで、月10万歩を目標に歩こうと思ったのでした。今月はこれで6万歩近く歩いていますので、今のところ順調です。

もちろん、山に行けば1回で少なくて2万歩、多いときは3万歩を歩きますので、10万歩なんて軽くクリアするのですが、最近は膝のこともあって、山に行くのがおっくうになっているのでした。

昨日は正月明けで、しかも曇天で夜から雨の予報だったということもあってか、赤レンガ倉庫や山下公園も人はそれほど多くありませんでした。やはり若者が目立ちました。(昔風に言えば)アベックだけでなく、如何にも仲が良さそうな女性同士のカップルも目に付きました。韓国に行くと女の子同士が手をつないで歩いていますが、韓流文化の影響なのか、はたまた結婚だけでなく恋愛に対する幻想もなくなった今の時代を反映しているのか、さすがに手はつないでないものの、最近は若い女性同士のカップルがやたら多くなったような気がします。

結婚だけでなく、若者たちの生き方を窮屈なものにしていた恋愛至上主義が瓦解したのはとてもいいことだと思います。少子化対策なんてクソくらえなのです。あれはあくまで国家の論理にすぎません。あんなものに惑わされずに、若者たちは好きなように自由に生きていけばいいのです。恋人より友達というのも全然ありだと、おじさんは思うのでした。

汽車道の対岸の船員アパートがあったあたりは、タワマンやアパの高層ホテルや32階建ての横浜市庁舎が建っていました。そうやって港町の”記憶の積層”が消し去られて、横浜の魅力であったゆとりの空間があたりを睥睨するような愚劣な建物に奪われているのでした。私は、万国橋からの風景が好きだったのですが、それらの建物が視界を邪魔して、つまらない風景になっていました。

最近読んだ八木澤高明著『裏横浜』(ちくま新書)によれば、現在、「象の鼻パーク」と呼ばれ整備されている堤防のあたりは、ペリーが来航した際に、日米和親条約を結ぶためにぺーリー艦隊と江戸幕府との会談が行われた場所だそうです。今の風景の中で、その痕跡を探すのはとても無理な相談です。

赤レンガ倉庫も、明治末期から大正時代にかけて、当時の日本では重要な輸出品であった生糸を保管するために造られたものです。生糸は、『女工哀史』や『あゝ野麦峠』で有名な信州や、官営の富岡製糸場があった上州などの生産地からいったん八王子に集められ、八王子から輸出港である横浜に運ばれたそうです。その運搬用に敷設されたのが今のJR横浜線です。

山下公園に行くと、「インド水塔」の改修工事が行われていました。「インド水塔」は、関東大震災の際に避難してきた多数のインド人を横浜市民が「救済」したとして、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために昭和14年12月に在日インド人協会が建立したのだそうです。朝鮮人に対しては斧や鉈で襲い掛かった日本人が、インド人を助けたというのは驚きですが、そう言えば山下公園では毎年首都圏在住のインド人が集まる、インド人の祭りも開催されています。ただ、横浜の住民がインド人を「救済」したのは、当時、生糸の主要な輸出国がインドだったということも無関係ではないように思います。

私も昔、横浜のシルク業者からシルクのスカーフなどを仕入れて、都内の雑貨店に卸していたことがありました。その業者も若い頃は地元の貿易会社に勤めていたと言っていました。カナダやアメリカからステッカーを輸入していたのも横浜の会社でしたし、中国から横流しされた安売りのシールを輸入していたのも横浜の若い業者でした。いづれも既に廃業していますが、横浜にはそういった港町の系譜を汲む貿易商のような人たちも多くいたのです。

1884年(明治17年)に勃発した秩父事件も、国際的な生糸価格の暴落という背景があります。秩父地方もまた生糸の生産地だったのですが、秩父事件は、生糸価格の暴落により困窮した民衆が高利貸に借金の棒引きなどを要求して武装蜂起し、僅かな期間ながら秩父に”自治政府”を樹立したという、日本の近代史上特筆すべき出来事なのです。赤レンガ倉庫の背後には、そういった歴史も伏在しているのでした。

「メリケン波止場」と呼ばれた大さん橋も、現在はクルーズ船のターミナル港(寄港地)になっていますが、昔はブラジルなど南米への移民船の出港地で、『裏横浜』にも、「横浜から旅立った人々のうち一番多かったのは、旅客ではなく、移民である。その数は100万人ともいわれている」と書かれていました。その中には、横浜の鶴見からブラジルに旅立った当時中学生のアントニオ猪木の一家も含まれていたのでした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。


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汽車道沿いの運河の上を「ヨコハマエアーキャビン」という観光用のロープウェイ”が架けられていました。

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汽車道

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「エアキャビン」と反対側の風景

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万国橋から

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赤レンガ倉庫

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射的の出店

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恒例のイベント・スケートリンク

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多くの移民が向かった大さん橋への道

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山下公園

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写真を撮っている横は、一時よく通っていた「万葉倶楽部」
2023.01.14 Sat l 横浜 l top ▲
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(2022年12月・奥多摩)


あのジェフ・ベックが亡くなったというニュースがありました。若い頃仰ぎ見ていた上の世代の人たちが次々と旅立っています。

ジェフ・ベックについて、音楽評論家の萩原健太氏が、朝日新聞のインタビュー記事の中で次のように語っていました。

朝日新聞デジタル
「ギターは歌う」 本気でそう思わせたジェフ・ベック 萩原健太さん

 そんな彼が革新的だったのは、音楽的におかしな音を平気で弾いちゃうこと。「ブロウ・バイ・ブロウ」でも、ビートルズの曲をカバーしていますが、コード進行から外れてしまう音に平気で行くんですよね。多分、「これがいけない」とかじゃなくて、「こういう風に歌いたい」っていう気持ちがすごく強いんだと思う。

 予定調和も嫌う。たどり着くべき正解なんていうのは元々なくて、1回演奏したら、次の演奏では違うことをしたい、という気持ちがすごく強い人だったんじゃないかな。不協和音も、彼にとってはたぶん全然不協和音ではなくて、「ここでこっちに行きたいよね」っていう気持ちが、ギターに伝わってそのまま音になって出てくる、みたいな感じだった。


そうなんです。昔、「予定調和」を嫌う時代があったのです。「予定調和」という言葉は”軽蔑語”のように使われていました。

でも、最近毒ついているように、ネットの時代になり、「予定調和」こそ正道、あるべき姿みたいな風潮が強くなっています。「不協和音」を激しく排斥しようとする、文字通り同調圧力が強くなっている感じです。

SNSは一見言いたいことを言う百家争鳴みたいに見えるけど、それはただのノイズでしかないのです。ノイズは、むしろ同調圧力を高めるための燃料のような感じでさえあります。

自分と反対の意見にどうしてあんなに感情的に反発するのか。しかも、それは「自分」の意見ではないのです。「自分たち」の意見にすぎないのです。何が何でも「予定調和」で終わらなければならないとでも言いたげです。萩原健太氏が言うように、何だか最初から「正解」が用意されているかのようです。

言うなれば、ジェフ・ベックはへそ曲がり、天邪鬼だったと言えるのかもしれません。それが彼の個性であり、彼の音楽性だったのです。ジェフ・ベックも今だったら、「へたくそ」「邪道」なんて言われたでしょう。

話は飛びますが、ウクライナ侵攻についても、メディアに流通しているのは「予定調和」の言葉ばかりです。それがあたかも真実であるかのようにです。私も何度も書いているように、防衛省付属の防衛研究所の研究員がしたり顔でメディアで戦況を解説していますが、それはもはや大本営発表と同じようなものでしょう。でも、誰も疑問を持たずに、いつの間にかウクライナは味方VSロシアは敵という戦時の言葉に動員されているのでした。

誰が戦争を欲しているのか。誰が世界大に戦争を拡大させようとしているのか。誰が私たちを戦争に巻き込もうとしているのか。それを「予定調和」の言葉でなく、もう一度自分たちの言葉で考えるべきでしょう。

と、今更言っても空しい気もしますが、そんな中で、次のようなツイートは「予定調和」の言葉に抗するものとして貴重な気がしました。

アジア記者クラブ(APC) (@2018_apc) · Twitter




2023.01.13 Fri l ウクライナ侵攻 l top ▲
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(public domain)


知り合いから新年の挨拶の電話がかかってきたのですが、その中で昨年、可愛がっていた犬が亡くなり、未だショックが収まらず気持が沈んだままだ、と言っていました。喪中のハガキを出そうかと思ったそうです。「おい、おい」と思いました。

12歳だったそうですが、糖尿病で薬を飲んでいたのだとか。私の家でも犬を二代に渡って飼っていましたが、最初の犬の餌は、ご飯にイリコを入れて味噌汁をぶっかけたいわゆる(言い方が変ですが)“猫飯”でした。今は「餌」なんて言い方も反発を招くそうですが、そんな時代でしたので、犬が(血糖値を下げる?)糖尿病の薬を飲むという話に驚きました。聞けば、人間と同じ薬だそうです。同じ哺乳類とは言え、犬のような体重の軽い個体に、人間用の薬を処方してホントに大丈夫なのかと思いました。

愛犬はいつも玄関に座って帰りを待っていたそうで、「忠犬ハチ公みたいな感じだった」と言っていました。でも、そうすれば頭を撫でられて餌を貰えることを学習したからでしょう。犬がそうしたのではなく、飼い主がそうしむけただけです。

実家で飼っていた最初の犬は、近くの山で拾って来た野犬の子どもでした。小学生のとき作文にも書いて、結構評判になり賞を貰いました。さすがに最近は見なくなりましたが、しばらくは夢にも出て来ました。

次の犬は、他所から貰ってきた柴犬で、そのときは既にペットフードに代わっていました。世話していた母親は、半生の餌しか食べないと言っていました。

亡くなったのは、私が二度目の上京をしたあとで、早朝4時くらいに突然、母親から「今××(犬の名前)が死んだんだよ」と半泣きの声で電話がかかってきたのを覚えています。

最初の犬の死骸は、(はっきりした記憶はないのですが)おそらく裏の柿の木の下に埋めたのではないかと思います。次の犬はペット専用の火葬屋に頼んで火葬して、その骨をやはり柿の木の下に埋めたみたいです。でも、そこは既に人手に渡り今は駐車場になっています。

犬が家族の一員で、いつまでも思い出の中に残るというのはよくわかります。私は子どもの頃、犬に追いかけられ木に登って難を逃れたトラウマがあるので、他人の犬は噛みつかれるようで怖いのですが、しかし、自分の家の犬は可愛いと思ったし、よく可愛がっていました。

知り合いは、愛犬が亡くなって以来、YouTubeで犬の動画を観て心を癒しているそうです。

と、私は、YouTubeと聞いて、まるで心の糸が切れたように、突然、ウエストランドの井口みたいな口調で、まくし立てはじめたのでした。

「あんなのはヤラセみたいなもんだろ」と私。
「エエッ、そんなことはないよ」
「だってよ、猫を拾って来て『こんなに変わった』『今や家族の一員』『いつまでも一緒』なんてタイトルでYouTubeに上げると、すぐ百万回再生するんだぜ。コメント欄も『ありがとうございます』『ネコちゃんも好い人に巡り会えて幸せですね』なんてコメントで溢れる。こんな美味しいコンテンツはないだろ」
「そんな‥‥」
「登山系ユーチューバーなんか見て見ろよ。あんなにお金をかけて、スキルもないのに無理して山に登っても、よくて数万しか行かない。ほとんどは数千、数百のクラスだ。それが猫を拾ってくれば百万も夢じゃない」
「たしかに猫を保護したという動画がやたら多いけど‥‥」
「猫だけじゃない保護犬の動画も多い」

「今やYouTubeは趣味じゃない。Googleから広告料の配当を得るためにやっている。お金のためだよ」
「‥‥」
「素人は盗品やニセモノをメルカリで平気で売る。お金のためなら何でもするのが素人だ」
「炎上系は論外としても、たとえば、外国人が日本の食べ物や景色に感動した、『恋した』『涙した』という一連の動画がある。あれもテレビの『ニッポン行きたい人応援団』のような『ニッポン、凄い!』の延長上にあるもので、単細胞な日本人を相手にするのにこれほど手っ取り早く美味しいコンテンツはない。したたかな外国人にいいように利用されているだけだよ。犬・猫もそれと似たようなもんだろ」

そこまで話したら、「忙しいから」と電話を切られてしまいました。
2023.01.12 Thu l ネット l top ▲
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(public domain)


岸田首相が4日に伊勢神宮を参拝した際の記者会見で、今年の春闘においてインフレ率を超える賃上げの実現を訴えたことで、「インフレ率を超える賃上げ」という言葉がまるで流行語のようにメディアに飛び交うようになりました。

日本経済新聞
首相、インフレ率超える賃上げ要請 6月に労働移動指針

「この30年間、企業収益が伸びても期待されたほどに賃金は伸びず、想定されたトリクルダウンは起きなかった」と話した。最低賃金の引き上げに加え、公的機関でインフレ率を上回る賃上げをめざすと表明した。

「リスキリング(学び直し)の支援や職務給の確立、成長分野への雇用の移動を三位一体で進め構造的な賃上げを実現する」と強調した。労働移動を円滑にするための指針を6月までに策定するとも明らかにした。


ときの総理大臣が、この30年間、企業収益が伸びても賃金が上がらなかったと明言しているのです。しかも、賃金が上がらないのに、大企業は大儲けして、史上空前の規模にまで内部留保が膨らんでいると、総理大臣自身が暗に認めているのです。

このような岸田首相の発言は、とりもなおさず日本の労働運動のテイタラクを示していると言えるでしょう。たとえば、欧米や中南米などでは、賃上げを要求して労働者が大規模なストライキをしたり、政府の政策に抗議して暴動まがいの過激なデモをするのはめずらしいことではありません。そんなニュースを観ると、日本は中国や北朝鮮と同じグループに入った方がいいんじゃないかと思うくらいです。

昔、大手企業で労働組合の役員をしていた友人がいたのですが、彼は、連合の大会に行ったら、会場に次々と黒塗りのハイヤーがやって来るのでびっくりしたと言っていました。ハイヤーに乗ってやって来るのは、各産別のナショナルセンターの幹部たちです。友人が役員をしていた組合も、何年か役員を務めると、そのあとは会社で出世コースが用意されるという典型的な御用組合で、彼自身も私とは正反対のきわめて保守的な考えの持ち主でしたが、そんな彼でも「あいつらはどうしうようもないよ」「労働運動を食いものにするダラ幹の典型だよ」と言っていました。

友人は連合の会長室にも行ったことがあるそうですが、「うちの会社の社長室より広くて立派でぶったまげたよ」と言っていました。「あいつらは学歴もない叩き上げの人間なので、会社で出世できない代わりに、組合をもうひとつの会社のようにして出世の真似事をしているんだよ」と吐き捨てるように言っていましたが、当たらずといえども遠からじという気がしました。そんな「出世の真似事」をしているダラ幹たちが、日本をストもデモもない国にしたのです。

彼らは岸田首相から、「あなたたちがだらしがないから、私たちがあなたたちに代わって経済界に賃上げをお願いしているのですよ」と言われているようなものです。連合なんてもはや存在価値がないと言っても言いすぎではないでしょう。

にもかかわらず、連合のサザエさんこと芳野友子会長は、まるで我が意を得たとばかりに、年頭の記者会見で次のように語ったそうです。

NHK
連合 芳野会長「実質賃上げ 経済回すことが今まで以上に重要」

ことしの春闘について、連合の芳野会長は、年頭の記者会見で「物価が上がる中で、実質賃金を上げて経済に回していくことが今まで以上に重要となるターニングポイントだ」と指摘し、賃上げの実現に全力を挙げると強調しました。

ことしの春闘で、連合は「ベースアップ」相当分と定期昇給分とを合わせて5%程度という、平成7年以来の水準となる賃上げを求めています。

そのうえで「賃上げは労働組合だけでは実現できず、使用者側の理解や協力のほか、賃上げしやすい環境づくりという点では政府の理解や協力も必要だ」と述べ、政府と経済界、労働界の代表による「政労使会議」の開催を呼びかけていく考えを示しました。


「恥知らず」「厚顔無恥」という言葉は、この人のためにあるのではないかと思ってしまいます。

同時に、岸田首相は、少子化問題についても、「異次元の対策に挑戦すると打ち出」し、「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)を決定する6月頃までに、子ども予算の倍増に向けた大枠を提示すると述べた」(上記日経の記事より)そうです。

それを受けて、松野官房長官も児童手当の「恒久的な財源」を検討すると表明し、また、東京都の小池都知事も、2023年度から所得制限を設けず、「18歳以下の都民に1人あたり月5000円程度の給付を始める方針を明らかにした」のでした。

しかし、これらはホントに困窮している人たちに向けた施策ではありません。私は、鄧小平の「先富論」の真似ではないのかと思ったほどです。もとより、児童手当の拡充や支援金の給付が、防衛費の増額と併せて、いづれ増税の口実に使われるのは火を見るようにあきらかです。賃上げや少子化と無縁な人たちにとっては、ただ負担が増すばかりなのです。

賃上げに対して、企業のトップも意欲を示し、「賃上げ機運が高まってきた」という記事がありましたが、それは経済3団体の新年祝賀会で取材した際の話で、いづれも名だたる大企業のトップの発言にすぎません。

中小企業庁によると、2016年の中小企業・小規模事業者は357.8万で企業全体の99.7%を占めています。また、中小企業で働いている労働者は約3,200万人で、これは全労働者の約70%になります。

ちなみに、中小企業基本法による「中小企業」の定義は、以下のとおりです。

「製造業その他」は、資本金の額又は出資の総額が3億円以下の会社又は常時使用する従業員の数が300人以下の会社及び個人。
「卸売業」は、資本金の額又は出資の総額が1億円以下の会社又は常時使用する従業員の数が100人以下の会社及び個人。
「小売業」は、資本金の額又は出資の総額が5千万円以下の会社又は常時使用する従業員の数が50人以下の会社及び個人。
「サービス業」は、資本金の額又は出資の総額が5千万円以下の会社又は常時使用する従業員の数が100人以下の会社及び個人。

これらの「中小企業」では、賃上げなどとても望めない企業も多いのです。まして、非正規雇用や個人事業者や年金暮らしなどの人たちは、賃上げとは無縁です。

高齢者の生活保護受給者の多くは、単身所帯、つまり、一人暮らしです。年金も二人分だと何とかやり繰りすることができるけど、一人分だと生活に困窮するケースが多いのです。

しかも、「インフレ率を上回る賃上げ」という岸田首相の言葉にあるように、賃上げもインフレ、つまり、物価高が前提なのです。ありていに言えば、「商品の値段を上げてもいいので、その代わり賃上げもして下さいね」という話なのです。そして、そこには、国民に向けての「賃上げもするけど(児童手当も拡充するけど)税金も上げますよ」という話も含まれているのです。それを「経済の好循環」と呼んでいるのです。

岸田首相が麗々しくぶち上げた賃上げや「異次元の少子化対策」は、”下”の人々にさらに負担を強いる「弱者切り捨て」とも言えるものです。

しかも、メディアも野党も労働界も左派リベラルも、そういった上か下かの視点が皆無です。それは驚くべきことと言わねばなりません。

一昨年の衆院選で岐阜5区で立憲民主党から出馬し、小選挙区では全国最年少候補として戦った今井瑠々氏が、今春の統一地方選では、自民党の推薦で県議選に立候補することを視野に立憲民主党に離党届を提出した、というニュースがありました。

それに伴い彼女の支援団体も解散した、という記事がハフポストに出ていました。

HUFFPOST
「今井さんごめんね。苦しい中支えきれなくて」今井瑠々氏の自民接近で支援団体が解散

支援団体「今井るるサポーターズ」は、声明の中で、「今井さんごめんね。苦しい中支えきれなくて」と苦渋の思いを吐露していたそうです。私が記事を読んでまず思ったのは、そんなおセンチな「苦渋」などより、支援者たちがみんなミドルクラスの恵まれた(ように見える)女性たちだということです。つまり、立憲民主党と自民党は、同じ階層クラスの中で票の奪い合いをしているだけなのです。だったら、候補者が自民党に鞍替えしても何ら不思議はないでしょう。倫理的な問題に目を瞑れば政治的信条でのハードルはないに等しいのです。

何度もくり返し言いますが、今こそ求められているのは上か下かの政治です。右か左かではなく上か下かなのです。突飛な言い方に聞こえるかもしれませんが、”階級闘争”こそが現代におけるすぐれた政治的テーマなのです。

トランプを熱狂的に支持しているのは、ラストベルトに象徴されるような、「ホワイト・トラッシュ(白いクズ)」と呼ばれる没落した白人の労働者階級ですが、「分断」と言われているものの根底にあるのも、持つ者と持たざる者との「階級」の問題です。

”階級闘争”をアメリカやフランスやイタリアのように、ファシストに簒奪されないためにも、下層の人々に依拠した(どこかの能天気な政治学者が言う)「限界系」の闘う政治が待ち望まれるのです。
2023.01.10 Tue l 社会・メディア l top ▲
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同じことのくり返しになりますが、私は、昨年の10月に書いたフリーライターの佐野眞一氏の死去に関する記事の中で、故竹中労が昔、テレビ番組の中で紹介していた17世紀のイギリスの詩人・ジョン・ミルトンの次のような言葉を引用しました。

「言論は言論とのみ戦うべきであり、必ずやセルフライティングプロセス(自動調律性)がはたらいて、正しい言論だけが生き残り、間違った言論は死滅するであろう。私たちものを書く人間が依って立つべきところは他にない」
(『アレオパジティカ』より)


また、同じ番組で竹中労が紹介していた、フランスの劇作家のジャン・ジロドゥの言葉も引用しました。

「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡うのだ」
(『オンディーヌ』より)


これも記事の中で書いたのですが、昨年の10月1日からプロバイダ責任制限法が改正、施行されて、SNS等の発信者情報の開示が非訟手続になり、手続きが簡略化されました。

発信者情報開示の簡略化は、フジテレビの「テラスハウス」に出演したことで、ネットで誹謗中傷を受け、それが原因で自殺した女子プロレスラーの家族などが求めたネット規制の声を受けて変更されたものです。

ネット規制に関しては、自殺した家族だけではなく、ヘイトな書き込みなどで被害を受けていた在日コリアンや性的少数者なども、同様に規制を求める声がありました。

しかし、それ以後、ネットでは意見が異なる相手に対して、二言目には「発信者情報の開示」をチラつかせて、発言を封殺するようなふるまいが横行するようになっています。

さらには、それまでヘイトな言論を振り撒いていた者たちが、ネット規制を逆手にとって、自分たちを批判する発言を嫌がらせのように名誉棄損で訴えるという行為も多くなりました。

ジャン・ジロドゥが言うような「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡う」風潮が蔓延するようになったのでした。

言論には言論で対抗するのではなく、安易に国家に判断を委ねるようになったのです。つまり、国家を盾に相手を委縮させる手段として、ネット規制が使われるようになったのです。そうやって国家が私たちの発言にまでどんどん踏み込んで来る、その(さらに強力な)道筋を造ったと言っていいでしょう。今のような風潮は、とりわけSNSなどで自分の考えや意見を発信している個人には大きな圧力に感じるでしょう。

「自由にも責任がある」という言い方がありますが、ただ、それもきわめて曖昧な概念です。自由と責任の間に明確な線引きがあるわけではないし、そもそも線引きができるわけではないのです。もっとも、「自由にも責任がある」という言い方は、自由を規制する口実に使われる場合がほとんどです。

私は、言論には言論で対抗するということの中には、ときに街角(ストリート)で怒鳴り合ったり、殴り合ったりすることもありだと思っています。言論には、それくらい”幅広い”考えが必要なのです。

民主主義はアルゴリズムで最適化されて、自動的に導きだされるという、成田悠輔の「無意識データ民主主義」に対しては、「世界内戦の時代は民衆蜂起の時代である」という笠井潔の言葉を対置するだけで充分でしょう。それが世界の現実であり、抑圧された人々の声なのです。

成田悠輔がたまごっちと同じような一時の”流行はやり”にすぎないことはあきらかですが、成田悠輔や、YouTubeの視聴者と同じように彼にお追従コメントを送る読者たちは、ただ世界の現実から目をそむけ耳を塞いでいるだけです。その一語で済むような取るに足りない言葉遊びの”流行”にすぎません。

今の資源高に伴う世界的なインフレに対して、世界各地で民衆蜂起と言ってもいいような抗議の声が上がっていますが、本来、民主主義というのはそういった地べたの運動の先にあるものでしょう。私は、むしろ、生身の”暴力”や”身体(性)”に対する考えを復権すべきだとさえ思っているくらいです。

「今どきSNSを『利用してやる』くらいの考えを持たなければ、社会運動も時代から取り残されるだけだ」などと言っていた左派リベラルは、被害者家族の要求に便乗してネット規制を求めたのですが、結局、みずから墓穴を掘ることになったのです。そうやって自分たちで自由を毀損しみずからの首を絞めることになったのです。

地べたの運動に依拠しない、口先三寸主義の左派リベラルが辿る当然の帰結と言えますが、彼らもまた、自由の敵であると言われても仕方ないでしょう。何度も言いますが、前門の虎だけでなく後門にも狼がいることを忘れてはならないのです。


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追悼・佐野眞一
2023.01.08 Sun l ネット l top ▲
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近所の食べ物屋が「美味しい」というネットの投稿を見たので行ってみました。それも一人だけではなく、何人からも「高評価」の投稿があったからです。その店は開店してまだ半年くらいで、私も開店したことは知っていました。

その結果は‥‥。あれほどネットを批判しながら、ネットの投稿を信じた自分を恥じました。不味くはないけど、言われるほど「美味しい」とは思いませんでした。どこが「高評価」になるのかわかりませんでした。立地条件がいいわけではないので、あの程度では生き残るのは難しい気がしました。

私はこの街に住んで10年以上になりますが、駅前の商店街で生き残るのが至難の業であることはよくわかります。地元の店以外で、10年前から続いている店があるのか考えても、思い付かないほどです。それくらい出入りが激しいのです。

お気に入りのから揚げ店があったのですが、それも1年くらいで撤退しました。コンビニにしても出店と撤退をくり返しています。それでも東急東横線の駅前商店街であれば、あらたに出店する店がひきもきらないのです。

考えてみれば、「美味しい」と投稿した人間たちも、別に食に通じているわけではなく、軽い気持で投稿しているだけなのでしょう。

昔から投稿マニアというのはいましたが、ネットの時代になりその敷居が格段に低くなったのです。ネットの「バカと暇人」たちにとって、ネットに投稿することが恰好の時間つぶしになっているような気もします。もしかしたら、承認欲求で投稿しているのかもしれません。

以前、知り合いが都内のいわゆる「高級住宅街」と呼ばれる街でレストランをやっていたことがありました。雑誌にも取り上げられたことがあり、知り合いに訊くと、ヤラセではなくちゃんとした取材だったそうです。もちろん、グルメサイトから広告を出せば「おすすめ」で上位に表示できますよという営業があったり、怪しげな会社からグルメサイトへの「高評価」の投稿を請け負いますよとかいった勧誘もあったそうですが、バカバカしいのでいづれも断ったと言っていました。

そんな某日、席に付くや否や、いきなりテーブルの上でパソコンを開いて、何やらガヤガヤと“批評”し合うような30代から40代の「異様なグループ」が来店したのだそうです。あまりに行儀が悪いので、「他のお客さんに迷惑なりますので、そういったことはやめていただきますか?」と注意したのだとか。

すると、後日、ネットに「低評価」の投稿が次々に上げられたのでした。知り合いはネットに疎かったので、たまたまそれを見つけた私が「どうなっているんだ?」と連絡したら、「ああ、あいつらだな」と言っていました。

私たちは、いつの間にか、そんなネットの「バカと暇人」に振りまわされるようになっているのではないか。テレビのニュースでも、「ネットではこんな意見があります」というように、ネットの投稿を紹介したりしていますが、その投稿はホントに取り上げるべき意見なのかと思ったりします。

現在いまは、報道でもバラエティでも、ネタをネットで検索して探すのが当たり前になっているのかもしれませんが、そういったお手軽さが無責任を蔓延することになっているような気がします。

昔、五木寛之だったかが、編集のチェックが入ってないネットの記事は信じないことにしている、と書いているのを読んだことがあります。プロによる「真贋」=ファクトチェックというのは非常に大事で、私たちはネットが日常的なものになるにつれ、「真贋を問わない」ことにあまりに慣れ過ぎているように思います。

リテラシーという言葉だけは盛んに使われるようになりましたが、だからと言って、「真贋を見極める」リテラシーを身に付けることはないのです。あくまで私たちにあるのは「真贋を問わない」安易な姿勢だけです。

前の記事で書いたようなYouTubeのコメント欄のバカバカしさも、それがバカバカしいものだと思わなくなり、それどころかいつの間にかバカバカしいコメントを「評価」として受け入れている(そうさせられている)私たちがいます。

Googleは、「総表現社会」とか「集合知」とかいった甘言で、「真贋を問わない」社会をマネタイズして、私たちの上に君臨するようになったのでした。マネタイズするためには、「真贋」なんてどうだっていいのです。むしろ、「真贋を問わない」方が御しやすいと言えるかもしれません。

一見”百家争鳴”や”談論風発”に見えるものも、決して自由を意味しているわけではないのです。「集合知」と言っても、実際は「水は常に低い方に流れる」謂いにすぎないのです。

「総表現社会」や「集合知」という幻想によって、私たちは「真贋を問わない」ことに慣れ、同時に「総表現社会」や「集合知」のために個人データを差し出すことに、ためらいがなくなったのでした。それは、マイナンバーカードが、「健康保険証や運転免許証と一緒になるので便利ですよ」「銀行口座と紐付ければ給付金の振込みなどもスムーズに行われますよ」という、(便利なだけじゃない)”お得な利便性”の幻想を与えられて強制されるのと同じです。

Googleの先兵になって、「Googleは凄い」と宣伝してきたネット通たちの責任は極めて大きいと言わねばなりません。

今更ファクトチェックと言っても、無間ループのような作業が必要です。しかも、「真贋を問わない」情報の洪水の中で、ファクトチェックもその中に埋没させられ、冗談ではなく、ファクトチェックのファクトチェックさえ必要な感じです。

正義も、評価も、真理も、Googleという私企業の手のひらの上で操られ、いいように利用されているだけなのです。深刻に受け止めてもどうなるものではないかもしれませんが、せめてそんな世も末のような現実の中に生きているのだということくらいは、認識してもいいのではないでしょうか。

先日、朝日新聞に次のような記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
AIに政治を任せる? 「データ教」の不気味さ、人生の最適解とは

 家の中や街で発せられた言葉、表情、心拍数などあらゆる情報をインターネットや監視カメラで吸い上げる。無数の民意データを集め、民衆が何を重視しているかを探る。そのうえで、GDPや失業率、健康寿命といった目標を考慮に入れながら、アルゴリズム(計算手順)が最適な政策を選択する。

 経済学者、成田悠輔さんは2022年に出した著書「22世紀の民主主義」(SB新書)でそんな「無意識データ民主主義」を主張した。


手っ取り早く言えば、これはGoogleが言う「集合知」を「無意識データ民主主義」と言い換えているだけではないのか。

こういった太平楽なネット信奉者が、卒業論文で、旧労農派のマルクス経済学者の名を冠した「大内兵衛賞」を受賞し、「天才」だとか言われてマスコミの寵児になる時代の怖さは、「真贋を問わない」時代とパラレルな関係にあるように思えてなりません。

「真贋」があらかじめ国家によって決められる中国のような社会と、「真贋を問わない」Googleに支配された社会は、権威主義vs民主主義と言われるほどの違いはなく、単にデジタル全体主義ファシズムの方法論の違いにすぎないように思います。
2023.01.07 Sat l ネット l top ▲
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ジャガー横田が家族で配信していたYouTubeチャンネルを突然終了した、という記事がありました。

ディリースポーツ
ジャガー横田、家族で配信のYouTubeチャンネルを突然終了「今回の一件を通して」

私は、ジャガー横田のチャンネルを観たことはありませんので、その間の事情には疎いのですが、どうやら一人息子の嘘に対して批判するコメントが殺到したのが原因のようです。

通常、YouTubeのコメント欄は、芸能人のブログやTwitterやインスタなどと同じように、ファンからのお追従コメントで溢れるものです。それは、ユーチューバーなども同様です。私などは気色が悪いというか、バカバカしいという気持しか抱きませんが、しかし、世の中はそういった空気の中でしか生きることができない人間も多いのです。そこにあるのは、言うまでもなく同調圧力です。同調圧力に身を委ねることによってしか確認できないスカスカの自分。

ところが、ジャガー横田一家のように、何か意に沿わないことがあると、途端にお追従コメントが坊主憎けりゃ袈裟まで憎い中傷コメントに一変するのでした。それもまた、ただ風向きが変わっただけの同調圧力にすぎません。

でも、私は、ジャガー横田にとって、今回の手のひら返しは返ってよかったのではないかと思います。YouTubeで何ほどかの収益を得ていたのかもしれませんが、SNSのバカバカしい世界から手を切るきっかけを得たことは、YouTubeの収益を失っても余りある大きな収穫だったと思います。

最近、とみにユーチューバーの寿命が短くなったように思います。それは、Googleをとりまく環境の変化によってYouTubeが大きな曲がり角を迎えているとか、参入の増加で競争(再生回数の奪い合い)が激しくなったとかいった理由だけではないような気がします。突然「お知らせがあります」と切り出すような、いわゆる「お知らせ」動画というのがありますが、ユーチューバーがコンテンツと関係なく、芸能人まがいのプライバシーを切り売るするような現象さえ見られるようになっているのです。

つまり、コメント欄のお追従コメントによって、ユーチューバー自身が勘違いし、独りよがりになっているということも、寿命を縮める要因になっているのではないか。そのため、生身のユーチューバーの薄っぺらさが透けて見え、結果としてユーチューバーにありがちなあざとさが目に付くようになるのです。素人の浅知恵と言ったら身も蓋もないのですが、それは、個人の能力の限界と言っていいのかもしれません。

一部の若者たちの間には、「社畜になりたくなければユーチューバーになれ」というような考えがあるみたいですが、そもそも社畜(会社員)とユーチューバーを対比すること自体がトンチンカンの極みと言えるでしょう。身も蓋もないことを言えば、それはネットに張りついたニートのような人生を送っている人間たちの現実逃避の謂いでしかないのです。

私たちの世代で言えば、”夢の印税生活”へのあこがれと同じようなものかもしれません。ただ、私たちの頃はそれはあくまで”夢”でしかありませんでした。しかし、今はすぐ手が届くような幻想が付与されているのです。それがネットの時代の特徴でしょう。社畜にならないためにユーチューバーになる、というのは一見自由な生き方のように思いますが、実際はまったく逆で、Googleの奴隷になるだけです。

YouTubeで視聴者が投げ銭しても、その30パーセントがGoogleにかすめ取られるという、えげつないシステムの中で”善意”が利用されているネットの現実。それは、寄付の20%近くが手数料として運営会社にかすめ取られるクラウドファンディングも同じです。

ユーチューバーや寄付を集める人たちは、元手がかからないので、手数料に関しては能天気なところがありますが、しかし、身銭を切って投げ銭したり寄付したりする人間からすれば、割り切れない気持になるのは当然でしょう。

あんなものは浮利=悪銭だ、という声がどうして出てこないのか、不思議でなりません。便利であれば、どんなあくどい商売も許されるのか。

このように私たちの”善意”や”正義”も、所詮は営利を求める一私企業の手のひらの上で踊らされ、利用され、搾取されているにすぎないのです。にもかかわらず、TwitterやYouTubeに公共性を求めたり、あるいはTwitterやYouTubeで公共性を訴えたりするのは、おめでたすぎるくらいおめでたい言説だとしか言えません。

今どきSNSを「利用してやる」くらいの考えを持たなければ、社会運動も時代から取り残されるだけだ、というような声もよく耳にしますが、Twitter騒動でのあの慌てぶりを見ると、とても「利用してやる」というような姿勢には見えません。

私たちに求められているのは、ネットをどれだけ客観的に(冷めた目で)見ることができるかというリテラシーなのです。ネットが自分を敵視して襲い掛かって来るのは、お追従コメントなどより自分を見直すいいチャンスだと考えるくらいの余裕が必要なのです。

それは、水は常に低い方に流れるネットとどう付き合っていくかという、基本的な姿勢や考え方の問題だと思います。

「タコツボ(化)」という言葉を最初に使ったのは丸山眞男で、1957年のことでした。丸山眞男は、「とかくメダカは群れたがる」日本の社会を特徴付ける精神的なふるまいをそう名付けたのでした。現代では、とりわけネットのトライブに対して、その言葉が使われています。とどのつまり、「信者」であろうが「アンチ」であろうが、たかがネットの「タコツボ」の中の話にすぎないということです。

丸山眞男は、『日本の思想』(岩波新書)の中で、自分たちの世界でしか通用しない「隠語」や「インズの了解事項」によって、本来議論すべきことが「いまさらの議論の余地がないと思われ」、それが集団意識の中に厚い層となって沈殿することで、最終的に外の世界への偏見を生むことになる、と書いていました。「タコツボ(化)」と同調圧力が背中合わせであることは今更言うまでもありませんが、その「タコツボ(化)」がネットの時代にもっとも低俗なかたちで表れているのが、YouTubeなどのお追従コメントや正反対の坊主憎けりゃ袈裟まで憎い中傷コメントだと言えるでしょう。

前の記事でも言ったように、それは、ネットの時代になり、思考停止した「頭の悪い人たち」が都合のいいユーザーとして、ネットを支配するGoogleなどに持ち上げられたからです。でも、彼らは、ユーチューバーも含めて、所詮は消費される(使い捨てられる)べき存在でしかないのです。
2023.01.04 Wed l ネット l top ▲
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私は、今年も「紅白歌合戦」は観ませんでした。

前の記事で書いたように、子どもの頃は、大晦日と言えば「年取り」のあと、家族そろって「紅白歌合戦」を観るのが慣例でした。

昔は、テレビというか、受像機自体がお茶の間では欠かすことのできない大きな存在で、テレビを観ないときは芝居の緞帳のような布製の覆いをかぶせていました。それくらい大事なものだったのです。

また、カラー放送が始まる前は、上から赤・青・緑(?)の三色が付いたプラスティック製のテレビ用の眼鏡のようなものを取り付けて、カラー放送を観たつもりになっていました。テレビ用の眼鏡には拡大鏡のようなものもあり、それを取り付けて、14インチのテレビで20インチのテレビを観ているような気分になったりもしていました。

ところが、あの拡大鏡のようなものは何と呼んでいたんだろうと思って、ネットで検索したら、今も「テレビ拡大鏡」という名前で売られていることがわかり、びっくりしました。何とあれはロングセラーの商品になっていたのです。

でも、現在、家族そろってコタツに入り、テーブルの上に置かれたみかんを食べながら(みかんも箱ごと買っていた)、「紅白歌合戦」を“観戦”するというのは想像しづらくなっています。

受像機自体は、昔の拡大鏡で観ていた頃に比べると、信じられないくらい巨大化していますが、しかし、もう昔のような存在感はありません。木製の家具調テレビというのもなくなったし、ましてや芝居の緞帳のような布で覆うこともなくなりました。そもそも家族がそろってみかんを食べるお茶の間というイメージも希薄になっています。いや、一家団欒さえ今や風前の灯なのです。

聞くところによれば、地上波は中高年がターゲットだそうです。若者は、PCやスマホでAmebaやYouTubeを観るのが主流になっており、ひとり暮らしだと、テレビ(受像機)を持ってない若者も多いのだとか。ケーブルテレビを契約している家庭では、地上波の番組よりカテゴリーに特化したケーブルテレビのチャンネルを観ることが多いそうです。

私自身も、いつの間にか「紅白歌合戦」を観ることはなくなり、「紅白歌合戦」を観なくても正月はやって来るようになりました。

平岡正明が採点しながら「紅白歌合戦」を観ていると言われていたのも、今は昔なのです。当時、平岡正明は、朝日新聞に“歌謡曲評”を書いていました。今で言う「昭和歌謡」ですが、あの頃は「歌は世に連れ、世は歌に連れ」などと言われ、歌謡曲が時代を映す鏡だなどと言われていました。

五木寛之が藤圭子をモデルに書いたと言われる『怨歌の誕生』をはじめ、彼の一連の歌謡曲とその背後でうごめく世界をテーマにした小説なども、私は高校時代からむさぼるように読んでいました。平岡正明も五木寛之もそうですが、ジャズの視点で歌謡曲を語るというのも斬新で、インテリの間では歌謡曲を語ることがある種のスノビズムのように流行っていました。 

しかし、今は私自身が歳を取ったということもあるのでしょうが、時間の観念もまったく違ってしまい、まるでタイムラインを見ているように移り変わりが激しく、それにAIみたいなデータでつくられたような歌も多いので、私のような人間は心に留める余裕すら持てません。ヒャダインの分析や批評は秀逸で面白いと思いますが、昔のように世代や属性を越えた「国民的ヒット」が生まれるような社会構造もとっくに消え失せ、もう「誰もが知っている歌」の時代ではなくなったのでした。

では、歌謡曲に代わるのが、現在、テレビを席捲しているお笑いなのかと思ったりもしますが、それもずいぶん危いのです。地上波のメインターゲットが中高年だとすれば、お笑いがそんなに中高年に受け入れられているとは思えません。

大晦日は、日本テレビでやっていた「笑って年越し!世代対決 昭和芸人vs平成・令和芸人」という番組を観ましたが、新世代の芸人だけでなく、「世代対決」と銘打って「昭和芸人」も持って来たところに、中高年をターゲットにする地上波のテレビの苦心が伺える気がしました。しかし、ぶっつけ本番のライブが裏目に出た感じで、余計笑えない芸ばかりが続くので、私はいつの間にか眠ってしまい、目が覚めたら番組は終わっていました。

現在、テレビを席捲しているお笑いは、吉本興業などによって捏造されたテレビ用のコンテンツにすぎません。大衆の欲望や嗜好で自然発生的に生まれたものブームではないのです。だから、大衆や時代との乖離が益々謙虚になってきているように思います。人為的につくられたお笑いブームもぼつぼつ終わりが見えてきた気がしないでもありません。

お笑いにとって、今のような「もの言えば唇寒し」の時代は、あまりに制約が多くやりにくいというか、お笑いが成り立ちにくいのはたしかでしょう。昔のように、歌謡曲で革命を語るような(とんでもない)時代だったら、もっと自由にお笑いが生まれたはずです。

M-1グランプリでウエストランドが優勝して、私も彼らの漫才は最近では唯一笑えましたが、しかし、ウエストランドのような漫才さえも、悪口かどうかと賛否が分かれているというのですから、驚くばかりです。悪口だったらNGだと言うのでしょうか。

今やお笑いをほとんどやめてしまった、タモリ・明石家さんま・ビートたけしの御三家をはじめ、ダウンタウンや爆笑問題やナインティナインが、お笑い芸人のロールモデルであることは、お笑い芸人にとってこれ以上不幸なことはないでしょう。彼等こそ、お笑いをテレビ向けに換骨奪胎してつまらなくした元凶とも言うべき存在だからです。今の彼らはトンチンカンの極みと言うしかないような、貧弱なお笑いの感覚しか持っていません。歌を忘れたカナリアが歌を語るみじめさしかないのです。

ウエストランドのお手本があの爆笑問題であれば、彼らの先は見えていると言えるでしょう。今のお笑いのシステムの中でいいように消費され、たけしや爆笑問題のようなつまらない毒舌になっていくのは火を見るよりあきらかです。

「ごーまんかましてよかですか?」みたいな話になりますが、昔は発言の機会も与えられることがなかった「頭の悪い人たち」が、ネットの時代になり、SNSなどで発言の機会を得て、社会をこのように自分たちで自分たちの首を絞めるような不自由なものにしてしまったのです。

それがGoogleの言う“総表現社会”の成れの果てです。もっとも、「Don't be evil」と宣ったGoogle自身も、今や「Is Google the new devil?」とヤユされるように、偽善者の裏に俗悪な本性が隠されていたことが知られたのでした。”総表現社会”なるものは、「水は低い方に流れる」身も蓋もない社会でしかなかったのです。そのことははっきり言うべきでしょう。

テレビがお茶の間の王様ではなくなったのに、そうであればあるほどテレビは、過去の栄光を取り戻そうとするかのように、「頭の悪い人たち」に迎合して、「水が低い方に流れる」時代の訓導であろうとしているのです。それに随伴するお笑いのコングロマリットが捏造した今のお笑いが、文字通り噴飯ものでしかないのは当然と言えば当然でしょう。

ウエストランドがネタにしていたYouTubeも、広告費の伸び悩みや参入者 の増加による再生回数の奪い合いなどによって、ユーチューバーが謳歌していた”我が世の春”も大きな曲がり角を迎えようとしていますが、皮肉なことにそれは、お笑いにとっても他人事ではないのです。

Twitterの問題に関して、一私企業の営利に担保された「言論の自由」なんて本来あり得ないと言いましたが、それはYouTubeもお笑いも同じなのです。
2023.01.02 Mon l 社会・メディア l top ▲
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横浜橋商店街


大晦日、ふと思い付いて、午後からカメラを持って横浜の街を歩きました。

新横浜駅から市営地下鉄に乗り、桜木町で下車して、桜木町から馬車道を経て伊勢佐木町、伊勢佐木町から横浜橋商店街まで歩き、帰りは同じコースを馬車道まで戻り、馬車道からみなとみらい線(東横線)で帰りました。

帰ってスマホを見たら1万5千歩を越えていました。膝は運動不足ということもあるのでしょうが、ちょうど距離の長い山を歩いたあとのような感じで、多少の痛みもありました。

新横浜駅に向かっていたら、住宅街に貸しスタジオみたいなものがあり、その入り口の看板に、某大物ミュージシャン夫妻のセッションの告知が書かれていました。私は、ギョッとして立ち止まって、その看板に目が釘付けになりました。

看板にはただ、「○○・△△セッション」の文字とその下に日にちと料金が書かれているだけでした。料金は、ドリンク付きで2000円です。テレビなどでもほとんど行われないあの大物ミュージシャン夫妻のセッションが2000円。私は、もしかしたら、近所に住んでいて、半ばプライベートでセッションするのかもしれないと思いました。

スマホで検索してみると、やはり、「○○・△△セッション」のワードでヒットしました。それによれば、「1人1曲リクエスト」となっていました。エッ、リクエストにまで応じてくれるのか。凄いセッションだなと思いました。

でも、何かひっかかるものがあるのです。それで、もう一度、スマホに表示されたサイトの説明文を上から下まで丁寧に読み直してみました。非常にわかりにくいのですが、どうやら本人たちが出演するわけではなく、会の主催者のミュージシャンがリクエストに応じて演奏するライブのようです。なのに、どうしてこんなわかりにくい説明文を書いているのか。看板だけ見ると完全に誤解します。ただ、こんなところでホンモノがセッションするわけないだろう、常識的に考えればわかるだろう、と言われればたしかにそのとおりなのです。

子どもの頃、近所の神社の境内にサーカスがやって来たことがあるのですが、そのときのことを思い出しました。その中の催しに、「一つ目小僧」というのがありました。サーカス用の大きなテントの横に建てられた小さなテントの中で、「一つ目小僧」が展示されているというのです。もちろん、サーカスとは別料金です。

私はそれに興味を引かれ、「一つ目小僧を観たい」と親に泣きつきました。親は「ニセモノだ」とか「騙しだ」とか言って取り合ってくれません。それでも一人息子で甘やかされて育てられた私は、ダダをこねて執拗に訴えたのでした。親も(いつものことですが)最後には根負けしてお金を出してくれました。

それで、お金を握りしめいそいそと出かけた私が、テントの中で目にしたのは、理科室にあるようなビーカーに入れられアルコール漬けされた頭の大きな爬虫類らしきものの死骸でした。子ども心にあっけに取られた私は、別の意味で見てはいけないものを見たような気持になったのでした。サーカス団はとんでもない悪党の集まりで、子どもをさらってサーカスに入れるという(今ではあきらかにヘイトな)話も、もしかしたらホントではないかと思ったほどでした。

もっとも、その頃、町内に唯一あった映画館で、葉百合子(ホンモノは葉百合子)という有名浪曲師のコピーの公演が行われたことがありました。うちの親たちは笑っていましたが、それでも町の年寄りは座布団を脇に抱えて出かけていたのです。祖父母も行ったみたいで、親は陰で悪態を吐いていました。

新横浜駅では、もちろん、スーツケースを転がした家族連れの姿が目立ちましたが、しかし、やはりコロナ前に比べると、人の数はあきらかに少ない気がしました。

途中、横浜アリーナの前を通ったのですが、大晦日は桑田佳祐のカウントダウンライブが行なれるはずなのに、開演までまだ時間があるからなのか、周辺もそれほど人が集まっていませんでした。いつもだと、駅からの舗道ももっと人通りが多いのですが、舗道も閑散としていました。アリーナの横にある公園も、開演待ちの観客たちで溢れているのですが、それもありません。帰ってネットで調べたら、横浜駅からアリーナまで無料のシャトルバスが運行されたのだそうです。これもコロナ前にはなかったことで、やはり電車や駅や舗道の”密”を避けるためなのかもしれません。

私もこのブログで書いたことがありますが、前は駅前のマクドナルドなども、コンサートの観客でごった返していましたが、シャトルバスで会場に直行するならそういったこともなくなります。

桜木町の駅前も、閑散と言ったらオーバーですが、やはり人は少なく、いつもと違いました。伊勢佐木モールも、先日、「REVOLUTION+1」を観に行った際、久しぶりに歩いたばかりですが、相変わらず人通りは少なく、うら寂しさのようなものさえ覚えました。

これは何度も書いていますが、私の田舎では、大晦日は「年取り」と言って、家族みんな揃って一日早くおせち料理を食べるしきたりがあります。大晦日が一番の御馳走で、食膳にはおせち料理のほかに刺身なども並びました。祖父母は歩いて5~6分くらいのところに住んでいたのですが、大晦日は祖父母も我が家にやって来てみんなで「年取り」の膳を囲むのでした。だから、大晦日の「年取り」に家族が揃うということは大変重要で、帰省する場合も「年取り」までには必ず(ほとんどが前日までに)帰るのが鉄則でした。その意味では、コロナ禍によって、こちらの大晦日の風景も、九州の田舎に似てきたような気がしないでもありません。

伊勢佐木モールで目に付いたのは高齢者と外国人です。何だか黄昏の日本を象徴するような光景に見えなくもありません。それが”横浜のアメ横”とも言われる横浜橋の商店街に行くと、さらに外国人の割合は多くなり、買物に来ているのは日本人より外国人の方が全然多いようで、耳に入ってくるのは、中国語や韓国語やその他聞きなれない外国語ばかりでした。

そのため、年末と言っても、おせち料理の食材よりエスニックな食材を売っている店が多く、いちばん人盛りができていたのは鶏のから揚げやメンチカツなどを売っていた揚げ物の店でした。私も買って帰りたいと思ったのですが、人をかき分けて店員とやり取りするのが面倒なので、買うのをあきらめました。

横浜橋はキムチを売っている韓国系の店も多いのですが、私は最近、スーパーで居合わせたきれいな奥さんから、旦那さんが虜になっているという美味しいキムチを教えて貰い、私も何故かそれに虜になっていますのでキムチはパスしました。

九州はどうだったか記憶にないのですが、こちらのスーパーでは年末になると商品棚も正月用の食品が並びます。しかも、魚も肉もえらく高くなるのです。別に長生きしたいとは思わないものの、一応年越しの蕎麦を買おうと近所のスーパーに行ったら、いつも買っている蕎麦がないのです。その代わりに縁起物だとかいう無駄な包装を施した年越し用の蕎麦が棚を占領していました。もちろん、いつも買う蕎麦の何倍も高価です。しかも、いつも買う蕎麦と同じシリーズのうどんは売っていました。値段が高く利幅が大きい蕎麦を売るために、蕎麦だけ奥に仕舞ったのでしょう。それで、意地でも蕎麦は買わないぞと思って、うどんを買って帰りました。

年末のスーパーの商品棚を見ていると、新宿や渋谷などの繁華街の喫茶店などで行われていた「正月料金」を思い出します。喫茶店自体が”絶滅危惧種”になっており、そのあとチェーン店のカフェが市場を席捲しましたので、今はもうそういった商習慣もなくなったのかもしれませんが、当時は喫茶店が高いため、「正月料金」の設定がないマクドナルドなどに客が殺到して大混雑していました。

若い頃、正月にガールフレンドと新宿の喫茶店に入ったら、メニューにコーヒーが1200円と表示されているのが目に入り、私は一瞬「ぼったくりの店だ」と思って、いったん下ろした腰を再び上げそうになりました。

しかし、東京生まれのガールフレンドは、あわてふためく私を横目で見ながら、「正月はどこもそうよ」とこともなげに言ったのでした。そして、「大丈夫、あたしが払うから」と。それ以来、彼女の口から「カッペ」という言葉がよく出て来るようになった気がします。「カッペ」というのも、東京に来て初めて知った言葉でした。

最寄り駅に着いて、普段あまり行くことがない駅前のガード下にある小さなスーパーに入ったら、他のスーパーでは取っ払われていた総菜も普段どおり売られていました。私は心の中で「これだよ、これ」と呟きながら、メンチカツやアジフライや鶏のから揚げなどを買って帰りました。

写真は、見て貰えばわかるとおり、「大晦日の横浜」と言ってもそれらしい写真は撮れていません。世の中に対して、引け目を感じ遠慮している今の自分の気持が反映されたような、腰が引けた写真ばかりです。写真屋だった父親がよく言っていた、「前に出て写真を撮れ」「遠慮していたらいい写真は撮れないぞ」という言葉が今更のように思い出されてなりません。


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新横浜・マリノス通り

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新横浜駅

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桜木町駅

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桜木町駅前

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市役所が建てられたのに伴い弁天橋の上に歩道橋ができていた。その上から撮影。

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馬車道・神奈川県立西洋美術館(旧横浜正金銀行)

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馬車道の通り

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馬車道・太陽の母子像(アイスクリーム発祥の地)

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伊勢佐木モール入口

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伊勢佐木モール
2022.12.31 Sat l 横浜 l top ▲
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先日、もう10年以上月に1回通っているかかりつけの病院に行って尿の検査をしたら、血尿が出ていると言われ、レントゲンやエコーの検査受けました。しかし、特に腫れらしきものは見当たらず、腎臓に小さな石があるのでそれが原因だろう、と言われました。

もっとも、血尿が出ているのは自分でもわかっていました。血尿と言っても、石が動いたくらいだと赤いおしっこが出るわけではなく、普段より色が濃くなる程度です。腎臓に石があるのは前に指摘されていましたので、検査を受けるまでもなく、石が動きはじめたなと思っていました。

その後、一昨日おとといくらいからおしっこをするとペニスに痛みを感じるようになりました。おしっこもいまいち勢いがなく、何かが詰まっている感じでした。

昨日きのうも映画を観に行った際、映画館でおしっこをしたのですが、やはり、痛みがあり、色も濃くなっていました。

そして、帰宅したら尿意を催したので、トイレに常備している茶こしを添えておしっこをしました。すると、石がポロリと出たのでした。直径5ミリもないような小さな石でした。そのあとはおしっこをしてもウソのように痛みもなくなりました。

尿の色が濃くなってから10日ちょっと経っています。石が腎臓から尿管に落ち、尿道を通って排出されるのに、それくらい時間がかかったということです。

ドクターの話によれば、石は大きさだけでなく形状などによっても出にくい場合があるそうなので、無事に出てひと安心、というか、まるで生れ出たかのようで、感動を覚えるくらい見事に排出されたのです。

尿管結石に伴う痛みも、ペニスの痛み以外はほとんどありませんでした。一昨日の夜に脇腹が少し痛かったので、あれがそうだったのかとあとで思ったくらいです。

かくして6回目の尿管結石は、これ以上ない大団円で幕を閉じたのでした。


関連記事:
※尿管結石体験記
※時系列に沿って表示しています。
不吉な連想(2006年)
緊急外来(2008年)
緊急外来・2(2008年)
散歩(2008年)
診察(2008年)
冬の散歩道(2008年)
9年ぶりの再発(2017年)
再び病院に行った(2017年)
ESWLで破砕することになった(2017年)
ESWL体験記(2017年)
ESWLの結果(2017年)
5回目の尿管結石(2019年)


2022.12.28 Wed l 健康・ダイエット l top ▲
Revolution+1


足立正生監督の「REVOLUTION+1」の完成版が、先週の土曜日(24日)から公開されましたので、今日、横浜のジャック&ベティに観に行きました。

「REVOLUTION+1」が年内に公開されているのは、横浜のジャック&ベティと大阪の第七藝術劇場と名古屋のシネマスコーレの三館のみです。

私が観たのは公開3日目の昼間の回でしたが、客は半分くらいの入りでした。初日は超満員で、二日目も監督の舞台挨拶があったので入りはよかったみたいですが、三日目は平日ということもあってか、関東で唯一の上映館にしては少し淋しい気がしました。観客は、やはり全共闘世代の高齢者が目立ちました。

国葬の日に合わせてラッシュ(未編集のダイジェスト版)の公開がありましたが、そのときから観もしないで「テロ賛美」「暴力革命のプロパガンダだ」などと言って、ネトウヨや文化ファシストがお便所コオロギのように騒ぎ立てていました。しかし、彼らには「安心しろ。お前たちの心配は杞憂だ」と言ってやりたくなりました。

「REVOLUTION+1」はどうしても「略称・連続射殺魔」(1969年)と比較したくなるのですが、「略称・連続射殺魔」に比べると、饒舌な分凡庸な映画になってしまった感は否めません。ラッシュの限定公開を国葬の日にぶつけたので、もっと尖った映画ではないかと期待していたのですが、期待外れでした。

足立監督は、記者会見で、山上徹也容疑者(映画では川上哲也)を美化するつもりはないと言っていましたが、むしろそれが凡庸な作品になった要因のようにも思います。「やったことは認めないけど気持はわかる」というのは「俗情との結託」(大西巨人)です。むしろ、あえて「美化」することから自由な表現が始まるのではないか。尖ったものでなければ現実をこすることはできないでしょう。

安倍晋三元首相や文鮮明夫妻を痛烈に批判する言葉はありますが、しかし、「ジョーカー」のように、彼らに対する憎悪が観る者に迫ってくる感じはありませんでした。

監督自身も舞台挨拶で、この映画を「ホームドラマ」と言っていたそうですが、主人公と家族の関係もステレロタイプな描き方に終始していました。私は、「家庭の幸福は諸悪の根源である」という太宰治の言葉が好きなのですが、映画のように、家族はホントに”帰るべきところ”なのか、”郷愁”の対象なのかと思いました。だったら、世の中にはどうしてこんなに家族殺しがあるのかと言いたくなります。

主人公の妹が、自分の旧統一教会に対する復讐は(兄と違って)「政治家を変えること」だと言っていましたが、その台詞には思わず笑いを洩らしそうになりました。さらに、妹は次のように言います。

「『民主主義の敵だ』って言うバカもいる。でも、民主主義を壊したのは安倍さんの方だよ。誰が考えても民主主義の敵を攻撃したのは兄さんだよ。だから、私は兄さんを尊敬するよ」

そして、妹は、「青い山脈」みたいに、うららかな日差しに包まれた坂道を自転車で駆け登って行くのでした。私はそのシーンに仰天しました。

安倍元首相を銃撃するシーンの前には、足立映画ではおなじみの水(雨)がチラッと出て来ますが、監督の意図どおりに効果を得ているようには思えませんでした。

主人公の父親が京大でテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の”犯人”と麻雀仲間だったという設定や、アパートの隣室に「革命二世」の女が住んでいて、主人公が銃を造っていると打ち明けると、「あんた、革命的警戒心が足りないよ」と諭されるシーンや、主人公が「おれは何の星かわからないけど星になりたい」と呟くシーンが、この映画の”通奏低音”になっている気がしないでもありませんが、しかし、観客に届いているとは言い難いのです。

そもそも映画に登場する「革命二世」や「宗教二世」も、まるで取って付けたような感じで、その存在感は人形のように希薄です。「革命二世」や「宗教二世」の女性に誘われて気弱く断る主人公に、監督の言う山上徹也容疑者「童貞説」が示されており、山上容疑者の人となりを描いたつもりかもしれませんが、そこにはピンク映画時代の古い手法と感覚が顔を覗かせているようで興ざめでした。

山上徹也容疑者の行為がどうしてテロじゃないと言えるのか。それは、単にマスコミや警察がそう言っているだけでしょう。映画はもっと自由な想像力をはたらかせることができる表現行為のはずです。たとえば、(架空の)教団に視点を据えてカルトの残忍さと滑稽さを描くことで、「川上哲也」の一家を浮かび上がらせる手法だって可能だったはずです。その方が足立映画の武器であるシュルレアリスムを駆使できたのではないかと思います。

どうして警察やメディアの視点に沿った「俗情」と「結託」したような映画になってしまったのか。700万円強という低予算で、しかも、実在の事件から日を置かず制作され撮影期間も短かったという事情があったにせよ、とても残念な気がしました。私は、「問題作」にもなってないと思いました。むしろ、戦後民主主義におもねる不自由な映画のように思いました。

映画の出来はともかく、この映画が上映されることに意味があるという意見もありますが、それは政治的に擁護するための詭弁で、ある意味作品に対する冒涜とも言えます。私はその手の言説には与したくないと思いました。

ただ、低予算、短い撮影期間の突貫工事の割には、チープな感じはなく、足立正生監督の「映画を撮るぞ」のひと言で、今の日本の映画界の屋台骨を支える(と言っても決してオーバーではない)錚々たるメンバーがはせ参じた「足立組」の実力を見た気がしました。その点は凄いなと思いました。
2022.12.28 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
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先日のゼレンスキー大統領のアメリカ訪問は、何だったんだと思えてなりません。ゼレンスキー大統領がワールドカップの決勝戦の前に演説することをFIFAに申し出て拒否されたというニュースがありましたが、アメリカ議会でのまさに元俳優を地で行くような時代がかった演説と映画のシーンのような演出。

しかし、アメリカ訪問の目玉であったパトリオットの供与も、報道によれば1基のみで、しかも旧型だという話があります。1基を実践配備するには90人の人員が必要だけど、運用するのは3人で済むそうです。あのアメリカ訪問の成果がこれなのか、と思ってしまいました。

もちろん、配備や運用には兵士の訓練が必要で、それには数ヶ月かかるそうですが、「訓練を受ける人数や場所はまだ未定」だそうです。

今回の中間選挙で下院の多数派を奪還した共和党は、ウクライナへの軍事支援に対して反対の議員が多く、国民の間でも反対が50%近くあるという世論調査の結果もあります。

折しも今日、ウクライナが再びロシア本土を攻撃したというニュースがありました。ゼレンスキー大統領は、奪われた領土を奪還しない限り、戦争は終わらないと明言しています。

今回の大山鳴動して鼠一匹のような「電撃訪問」には、アメリカがウクライナ支援に対して、徐々に腰を引きつつある今の状況が映し出されているような気がしないでもありません。

反米のBRICS側からの視点ですが、アメリカとウクライナの関係について、下記のような指摘があります。私たちは日頃、欧米、特にアメリカをネタ元にした報道ばかり目にしていますが、こういった別の側面もあるということを知る必要があるでしょう。

BRICS(BRICS情報ポータル)
米国企業は、ウクライナの耕地の約 30% を所有しています

記事の中で、執筆者のドラゴ・ボスニック氏は、次のように書いていました。

米国の3つの大規模な多国籍企業 (「カーギル」、「デュポン」、「モンサント」) は合わせて、1,700 万ヘクタールを超えるウクライナの耕作地を所有しています。

比較すると、イタリア全体には 1,670 万ヘクタールの農地があります。要するに、3 つのアメリカ企業は、イタリア全土よりも多くの使用可能な農地をウクライナに所有しています。ウクライナの総面積は約60万平方キロメートルです。その土地面積のうち、170,000 平方キロメートルが外国企業、特に大多数が米国に本拠を置いている、または米国が資金を提供している欧米企業によって取得されています。(略)オーストラリアン・ナショナル・レビューによる報告(ママ)米国の 3 つの企業が、6,200 万ヘクタールの農地のうち 17 を 1 年足らずで取得したと述べています。これにより、彼らはウクライナの総耕地の 28% を支配することができました。


また、ドラゴ・ボスニック氏は、ロシア派のヤヌコーヴィチ政権を倒した2014年の「ユーロマイダン革命」のことを「ネオナチによるクーデター」と表現していました。

ウクライナでは、2004年の「オレンジ革命」と、その10年後の「ユーロマイダン革命」という、欧州派による二つの政治運動があり、現在は「ユーロマイダン革命」後の政治体制下にあります。ただ、それらが選挙で選ばれた政権を倒したという意味においては、「クーデター」という言い方は必ずしも間違ってないと思います。しかも、欧州派が掲げたのは、ありもしない「民族」を捏造したウクライナ民族主義でした。それが「ネオナチ」と言われる所以です。

奪われた領土を奪還するまで戦争はやめないというゼレンスキー大統領の主張は、「オレンジ革命」や「ユーロマイダン革命」で掲げられたウクライナ民族主義に依拠した発言であるのは間違いないでしょう。しかし、ウクライナは、ロシア語しか話さないロシア語話者が3割存在し、公用語も実質的にウクライナ語とロシア語が併用されていた多民族国家でした。ゼレンスキー自身も、母語はロシア語でした。しかし、「ユーロマイダン革命」以降、ウクライナ民族主義の高まりから、公的な場や学校やメディアにおいてロシア語の使用が禁止されたのでした。多民族国家のウクライナに偏狭な民族主義を持ち込めば、排外主義が生まれ分断を招くのは火を見るよりあきらかです。

そんなウクライナ民族主義の先兵として、少数民族のロマやロシア語話者や性的マイノリティや左派活動家などを攻撃し、誘拐・殺害していたのがアゾフ連隊(大隊)です。アゾフ連隊のような準軍事組織(民兵)の存在に、ウクライナという国の性格が如実に示されているような気がしてなりません。

最近やっとメディアに取り上げられるようになりましたが、一方でウクライナには、ヨーロッパでは一番と言われるくらい旧統一教会が進出しており、国際勝共連合がアゾフ連隊を支援していたという話もあります(国際勝共連合は否定)。それに、ウクライナは、侵攻前までは人身売買や違法薬物が蔓延する、ヨーロッパでもっとも腐敗した“ヤバい国”である、と言われていました。ウクライナにおいて、オリガルヒ(新興財閥)というのは、違法ビジネスで巨万の富を築いた、日本で言えば”経済ヤクザ”のフロント企業のような存在です。腐敗した社会であるがゆえに、ヤクザが「新興財閥」と呼ばれるほど経済的な権益を手にすることができたのです。

私は、サッカーのサポーターから派生したアゾフ連隊のような準軍事組織について、ハンナ・アレントが『全体主義の起源』で書いていた次の一文を想起せざるを得ませんでした。アゾフ連隊が、ハンナ・アレントが言う「フロント組織」の役割を担っていたように思えてなりません。

 フロント組織は運動メンバーを防護壁で取り巻いて外部の正常の世界から遮断する、と同時にそれは正常な世界に戻るための架け橋になる。これがなければ権力掌握前のメンバーは彼らの信仰と正常な人々のそれとの差異、彼ら自身の虚偽の仮構と正常な世界のリアルティとの間の相違をあまりに鋭く感じざるを得ない。


また、牧野雅彦氏は、『精読  アレント「全体主義の起源」』(講談社選書メチエ)の中で、ハンナ・アレントが指摘した「フロント組織の創設」について、次のように注釈していました。

 非全体主義的な外部の世界と、内部の仮構世界との間の媒介、内外に対する「ファサード」、一種の緩衝装置としてフロント組織は機能する。(略)この独特の階層性が、(略)全体主義のイデオロギーの機能、イデオロギーと外的世界のリアルティとの関係・非関係を保証するのである。


日本のメディアもそうですが、ジャーナリストの田中龍作氏なども、ウクライナは言論の自由が保証された民主国家だと盛んに強調しています。しかし、それに対して、アジア記者クラブなど一部のジャーナリストが、でまかせだ、ウクライナの実態を伝えていない、と反論しています。そもそも、アゾフ連隊のような準軍事組織が存在したような国が民主国家と言えるのか、という話でしょう。

ゼレンスキー大統領の停戦拒否、徹底抗戦の主張に対して、さすがにアメリカも腰が引けつつあるのではないか。そんな気がしてなりません。

とまれ、どっちが善でどっちが悪かというような“敵・味方論”は、木を見て森を見ない平和ボケの最たるものと言えるでしょう。

何度も言いますが、私たちは、テレビで解説している事情通や専門家のように、国家の論理に与するのではなく、反戦平和を求める地べたの人々の視点からこの戦争を考えるべきで、それにはロシアもウクライナもないのです。


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ウクライナのアゾフ大隊
2022.12.27 Tue l 社会・メディア l top ▲
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新型コロナウイルスの感染拡大が続いていますが、重症化リスクは少ないとして、ワクチン接種の呼びかけ以外はほとんど野放しの状態です。しかし、発熱外来には患者が詰めかけて診療制限する病院も出ていますし、病床使用率も軒並み上がっています。

NHKがまとめた12月21日現在の都道府県別の病床使用率を見ると、60%を超えている自治体は以下のとおりです。なお、全国平均も既に55%に達しています。

神奈川県 81%
滋賀県 77%
埼玉県 75%
群馬県 75%
茨城県 70%
愛知県 67%
栃木県 66%
岡山県 65%
福岡県 64%
青森県 61%
福島県 60%
愛媛県 60%
長崎県 60%

ワクチン接種状況も、デジタル庁が発表した接種率を見ても、3回目以降の接種率が大きく落ちているのがわかります。12月21日現在の数字は以下のとおりです。

※全人口に対する割合
1回目 77.81%
2回目 77.30%
3回目 67.54%
4回目 42.73%
5回目 16.44%

一方、ゼロコロナ政策を転換した中国では、転換した途端に感染が急拡大しており、朝日新聞は、「中国政府が21日に開いた内部会議の議事録が出回り、12月1~20日の国内の新型コロナ感染者数が2億4,800万人に達するとの推計が示された」と伝えていました。

朝日新聞デジタル
コロナ感染、20日間で2.5億人? 中国政府、内部会議で推計

また、別の記事では、「コロナによるとみられる死者が増え続けて」おり、「北京では火葬場の予約が埋まり、お別れが滞る事態も始まった」と伝えていました。「敷地内の火葬場に向かう道にも、ひつぎをのせた車の行列が出来ていた」そうです。

朝日新聞デジタル
中国で統計に表れぬ死、次々と 渋滞の火葬場、遺影の行列は1時間超

何だか習近平の「ざまあみろ」という声が聞こえてきそうです。「愚かな人民の要求を受け入れるとこのざまだ」「思い知るがいい」とでも思っているのかもしれません。

中国がどうしてこんなに感染が急拡大しているのかと言えば、隔離優先でワクチン接種が疎かにされたからだという見方があります。

日本でも日本版Qアノンや参政党のような反ワクチン派がいつの間にか市民権を得たかのように、「オミクロンは風邪と同じ(風邪よりリスクは低い)」「ワクチンなんか不要(無駄)」の風潮が広がっていますが、個人として重症化リスクを回避するためにはやはりワクチンは無駄ではなく、中国が置かれている状況から学ぶべきものはあるでしょう。

一方、入国制限の(事実上の)撤廃によって、外国人観光客も徐々に増えており、また、全国旅行支援などによって、国内旅行も大幅に回復、観光地は千客万来とまではいかないまでも、久々に賑わいが戻っているそうです。観光庁が発表した宿泊旅行統計調査でも、10月の宿泊者数は前年同月比38%増でした。

ところが、観光地ではせっかくの書き入れどきなのに、人出不足が深刻だそうで、ついこの前まで閑古鳥が鳴いていると嘆いていたことを考えれば、180度様変わりしているのでした。

産経ニュース
人手不足でホテルや旅館が悲鳴 「稼ぎ時なのに」予約や夕食中止に 外国人活用の動きも

記事ではこう書いていました。

本来なら稼ぎ時だが、人手不足のため宴会や夕食の受付をストップして朝食のみにしたり、客室の稼働を減らしたりしているといい、「清掃やベッドメイキングも、午後3時に終わらせるように、みんなで大慌てでやっている」と語る。


(略)需要急増に人材確保が追いつかず、帝国データバンクが全国2万6752社(有効回答企業数は 1 万1632社)を対象に行った調査「人手不足に対する企業の動向調査」(10月18~31日)によると、旅館・ホテル業では、65・4%が正社員が不足していると回答し、75・0%が非正社員が不足していると答えた。時間外労働が増加した企業は66・7%に及ぶという。


また、先日のテレビのニュースでも、人出不足のため、部屋食をやめてバイキングにしたり、浴衣やアメニティなどもお客が各自で持って部屋に入るなど、セルフサービスに切り替えて対応している温泉ホテルの「苦肉の策」が放送されていました。

でも、ひと言言いたいのは、今の人出不足は、従業員が自主的に離職からではなく、雇用助成金を手にしながら、最終的にはリストラして辞めさせたからでしょう。仕方ない事情があったとは言え、何をいまさらと言えないこともないのです。

しかも、話はそれだけにとどまらないのでないか。私は、以前、山で会った会社経営者だという人が言っていた、「コロナによって今まで10人でやっていた仕事が実は5人でもできるんだということに気づかされたんですよ」という言葉が思い出されてなりません。

アメリカのように、レイオフ(離職)された労働者に手厚い支援策があれば、職場に戻ってくる人間が少ないというのはわかりますが、日本の場合そうではないので、「職場に戻って来ない」のではなく、「戻れない」のではないか。あるいは他の業種に移ってしまったのではないか。

上記の観光ホテルにしても、「困っている」というのは建前で、これを機会に人件費を削って省力化したサービスに転換する、というのが本音かもしれません。日本人が集まらないので外国人を「活用」するというのも、賃金の安い方にシフトするのをそう言っているだけようにしか聞こえません。

もちろん、完全にコロナが終息したわけではなく、またいつ前に戻るかもわからないので積極的に雇用できないという事情もあるでしょう。

今の物価高にしも同じです。円安だからという理由でいっせいに値上げしたにもかかわらず、今のように再び円高に戻っても、価格を戻すわけではないのです。それどころか、今度はエネルギー価格の高騰を理由に、第二弾第三弾の値上げもはじまっています。まるで円安やエネルギー価格の高騰を奇貨に、横並びでいっせいに値上げするという、「赤信号みんなで渡れば怖くない」”暗黙の談合”の旨味を知ったかのようです。この際だからと値上げラッシュを演じているような気がしないでもありません。でも、資本主義の法則に従えば、それは最終的には自分たちの首を絞めることになるのです。

今まで日本の企業は、原価が上がっていたにもかかわらず、消費者の買い控えと低価格志向によって価格に転嫁できなかったと言われていました。そのため、賃上げもできず、いわゆるデフレスパイラルの負の連鎖に陥ったと言われていたのです。しかし、一方で、企業の内部留保は拡大の一途を辿っていました。

岸田首相が経団連に賃上げを要請しても、経団連に加盟しているのは僅か275社で、誰でも知っているような大企業ばかりです。日本では、大企業に勤める労働者は約30%で、残りの70%は賃上げなど望めない中小企業の労働者です。しかも、賃労働者は4,794万人しかいません。年金生活者や自営業者など、最初から賃上げとは関係ない人たちも多いのです。そんな中で、今のように生活必需品に至るまで横並びの値上げが進めば、貧困や格差がいっそう広がって深刻化するのは目に見えています。

折しも、昨日、11月の消費者物価指数が3.7%上昇し、これは40年11カ月ぶりの水準だった、というニュースがありました。前も書きましたが、これでは貧乏人は死ねと言われているようなものです。ところが、帝国データバンクの調査によれば、来年の1月から4月までに値上げが決まっている食品は、既に7,152品目にのぼるそうです。年が明ければ、さらなる値上げラッシュが待ち受けているのです。

このように、資本が臆面もなく、半ば暴力的に、欲望(本音)をむき出しにするようになっているところに、私は、資本主義の危機が表われているような気がしてなりません。

仮に負のスパイラルに陥っているのであれば、まず今の貧困や格差社会の問題を改善することが先決でしょう。たとえば、低所得者に毎月現金を支給するとか、全体的に底上げして購買力を上げない限り、エコノミストたちが言うように、企業も価格転嫁できないし、価格転嫁できなければ賃上げもできないでしょう。そういう循環が生まれないのは誰でもわかる話です。

収入が増えないのに物価だけが上がれば、多くの国民が追い詰められ、社会に亀裂が生じるのは火を見るよりあきらかです。この異次元の物価高=資本主義の危機に対して、世界各地では大衆蜂起とも言えるような抗議デモが起きていますが、ワールドカップの会場でゴミ拾いしてお行儀のよさをアピールするような日本ではその兆候すらありません。それどころか、逆に軍拡のために増税や社会保障費の削減が取り沙汰されているあり様です。このままでは座して死を待つしかないでしょう。

くり返しになりますが、今まで価格転嫁できなかったからと、万単位の品目がいっせいに値上げされ、そのくせ、大企業は史上最高の516兆円(2021年)の内部留保を溜め込んでいるのです。その一方で、相対的貧困率は15.4%にも達し、約1,800万人の国民が、単身者世帯で約124万円、2人世帯で約175万円、3人世帯で約215万円、4人世帯で約248万円の貧困線以下で生活しているのです。

最後に再び『対論 1968』から引用します。と言って、私は、『対論 1968』を無定見に首肯しているわけではありません。むしろ、後ろの世代としては違和感を覚える部分も多いのです。ただ、いくつになっても愚直なまでに青臭い彼らの”状況論”には、耳を傾けるべきものがあると思っています。本土決戦を回避してのうのうと生き延びた親たちへのアンチ・テーゼとして新左翼の暴力があった、という解釈などは彼らにしかできないものでしょう。それは感動ですらあります。

笠井 (略)アメリカでは、階級脱落デクラセ化した産業労働者のアイデンティティ回復運動が、現時点ではトランプ支持派として顕在化している。そうした力は右にも左にも行きうるし、”68年”には日本でも全共闘として左翼的な方向に進んだ。しかし今の日本には、仮にそういった動きが現れたところで、左翼側にそれを組織できるヘゲモニー力は存在しないから、アメリカと同じで排外主義的な方向に流れる可能性の方が高い。


笠井 ”主権国家の解体”は、我々がそれを望もうと望むまいと、従来のそれがどんどん穴だらけになって弱体化していくし、あとは単にどういう崩れ方をするかというだけの問題になってきている。ナショナリズムが声高に主張されたり、国家による管理の強化がおこなわれたりするのは、そういう解体過程における過渡的な逆行現象の一つにすぎないと思う。



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『3.11後の叛乱』
2022.12.24 Sat l 社会・メディア l top ▲
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(2022年11月)


毎年同じことを書いていますが、年の瀬が押し迫るとどうしてこんなにしんみりした気持になるんだろうと思います。

飛び込みで電車が停まったというニュースも多くなるし、メディアも今年亡くなった人の特集を行なったりするので、否が応でも死について考えざるを得ません。

このブログでも、「訃報・死」というカテゴリーで亡くなった人について記事を書いていますが、今年取り上げたのは(敬称略)、津原康水(作家)、佐野眞一(ノンフィクションライター)、森崎和江(作家・評論家)、山下惣一(農民作家)、鈴木志郎康(詩人)、ジャンリュック・ゴダール(映画監督)、上島竜平(お笑い芸人)、S(高校時代の同級生)、西村賢太(作家)でした。

他にも、記事では触れなかったけど、『噂の真相』に「無資本主義商品論」というコラムを長いこと連載していた小田嶋隆(コラムニスト)も65歳の若さで亡くなりました。

『突破者』の宮崎学(ノンフィクションライター)も76歳で亡くなりました。驚いたのは、Wikipediaに「老衰のため、群馬県の高齢者施設で死去」と書いていたことです。76歳で「老衰」なんてあるのかと思いました。

石原慎太郎やアントニオ猪木やオリビア・ニュートン・ジョンや仲本工事などおなじみの名前も鬼籍に入りました。

昨日は、タレントの高見知佳が急死したというニュースもありました。4年前に離婚したのをきっかけに、高齢の母親の介護をするために、一人息子を連れてそれまで住んでいた沖縄から愛媛に帰郷。今年7月の参院選には立憲民主党から立候補(落選)したばかりです。

ニュースによれば、参院選後、身体のだるさを訴えていたそうです。そして、11月に病院で診察を受けると子宮癌であることが判明、癌は既に他の箇所に転移しており、僅か1ヶ月で亡くなったのでした。最後は周りの人たちに「ありがとう」という言葉を残して旅立って行ったそうです。人の死はあっけないものだ、とあらためて思い知らされます。

石牟礼道子と詩人の伊藤比呂美の対談集『死を想う』(2007年刊・平凡社新書)の中で、石牟礼道子(2018年没)は、1歳年下の弟が29歳のときに「汽車に轢かれて死んだ」ときの心境を語っていました。彼女は、「これで弟も楽になったな」「不幸な一生だったな」と思ったそうです。弟は既に結婚して3歳くらいの娘もいたそうですが、死は「人間の運命」だと思ったのだと。

たしかに、人生を考えるとき、冷たいようですが、諦念も大事な気がします。よくメンタルを病んだ人間に対して、「がんばれ」と言うと益々追い込まれていくので、「がんばれ」という言葉は禁句だと言われますが、「がんばれ」というのは、ワールドカップの代表や災害の被害者などに向けて「感動した」「元気を貰った」「勇気を貰った」などと言う言葉と同じで、ただ思考停止した、それでいて傲慢な常套句にすぎないのです。むしろ、諦念のあり様を考えた方が、人生にとってはよほど意義があるでしょう。

『死を想う』では、伊藤比呂美も次のような話をしていました。

伊藤 私の父や母が今死にかけてますでしょう。「死にかけている」と言っても、まだまだ「あと十年生きる」と言ってますけれど、年取っていますよね。感じるのは、父も母も、どこにも行く場所がなくて老いていってるなということ。拠り所がないと言いますか。父はいろんな経験のある、とっても面白い人だったんです。私は娘として、本当に父が好きだった。でも、ここに来て、何もかも投げ出しちゃったというか、何もすることがなくて。一日家の中で、何をしているんでしょう。時代小説を読んでいるくらいなんですよ。で、「つまらない、つまらない」といつも言うんです。寄りかかるものが何もない。母は母で病院でそんな感じでしょう。本も読めない、テレビも見たくない、なんにもしないで、ただ中空にぽかんと漂っている、ぽかんと。
(略)
 老いてみたらなんにもない。あの、あまりの何もなさに、見てて恐ろしくなるくらい。


伊藤比呂美は、「ここにもし信仰みたいなものがあれば、ずいぶん楽なんだろうなと思う」と言っていましたが、「生老病死の苦」に翻弄され、アイデンティティを失くした人間の最期の拠り所が、「信仰」だというのはよくわかります。

平成元年に父親が亡くなったとき、母親は地元の県立病院に寝泊まりして、入院している父親を介護していました。当時はそういったことが可能でした。また、我が家では父親の病気以外にも難題が持ち上がっており、母親はそれを一人で背負って苦悩していました。

正月に帰省した私は、実家に帰っても誰もいないので、県立病院にずっと詰めて、夜は近くのビジネスホテルに泊まっていました。

正月が明けて、東京に戻るとき、病院の廊下の椅子に母親と二人で座って話をしていたら、母親が突然泣き出して今の苦悩を切々と訴えはじめたのでした。

上野千鶴子が言う「母に期待されながら期待に添うことのできないふがいない息子」の典型のような私は、半ば戸惑いながら、母親の話を聞いていました。

そして、母親の話が途切れたとき、私は、「何か宗教でも信仰した方がいいんじゃね。そうしたらいくらか楽になるかもな」と言ったのでした。すると、母親は「エッ」というように急に真顔になり、涙で濡れた両目を見開いて私の方をまじまじと見たのでした。まさか私の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかったのでしょう。でも、目の前で泣き崩れている母親に声をかけるとしたら、もうそんな言葉しかないのです。

それも30年近く前の話です。母親も既にこの世にいません。いよいよ今度は私が「生老病死の苦」を背負う番なのです。
2022.12.23 Fri l 訃報・死 l top ▲
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(20代の頃)

この季節になると、いろんなところから定番のクリスマスソングが流れてきます。

仕事で渋谷に日参していた頃は、駅前のスクランブル交差点を囲うように設置されている電光掲示板から流れていたのは、山下達郎の「クリスマス・イブ」、稲垣潤一の「クリスマスキャロルの頃には」、ジョン・レノン&ヨーコ・オノ「ハッピー・クリスマス」などでした。それからクリスマスソングではないですが、TRFの「寒い夜だから」もよく流れていました。

その後、渋谷に行くこともなくなり、クリスマスとも無縁になってしまい、街中でクリスマスソングを聴くこともなくなりました。むしろ、ここ数年のクリスマスは、山に行って山の中を一人で歩いていたくらいです。

クリスマスと無縁になると、街を歩いていてもそういった年末の華やかなイベントから疎外されている自分を感じていましたが、最近は疎外感さえ感じることがなくなりました。

そんな中、スマホでラジコを聞いていたら、BOAの「メリクリ」が流れて来て、何だかわけもなく私の心の中に染み入ってきたのでした。もちろん、「メリクリ」が発売されたのは2004年の12月ですので、私が渋谷に日参していた頃よりずっとあとです。だから、渋谷の駅前の電光掲示板から流れていたのを聴いたわけではありません。

でも、何故か、BOAの歌声が、当時の私の心情をよみがえらせてくれるようなところがありました。

BOAメリクリ

「メリクリ」とはそぐわない話かも知れませんが、人生は断念の果てにあるのだ、ということをしみじみ感じてなりません。私たちはそんな切ない思い出を抱えて最後の日々を生きていくしかないのです。老いるというのは残酷なものです。

今日の朝日新聞に評論家の川本三郎氏が「思い出して生きること」という記事を寄稿していました。

朝日新聞デジタル
(寄稿)思い出して生きること 評論家・川本三郎

川本三郎氏と言えば、『朝日ジャーナル』の記者時代、取材で知り合った京浜安保共闘の活動家が起こした朝霞自衛官殺害事件を思い出します。川本氏は、事件に連座して、証拠隠滅罪で逮捕・起訴されて朝日新聞を懲戒免職になりました。その体験は、のちに『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という本で書かれていますが、朝日を辞めたあとは小説や映画や旅や散歩などとテーマにした文章を書いて、フリーで仕事をしていました。私は、『マイ・バック・ページ』以後は、永井荷風について書かれた文章などをときどき雑誌で読む程度でした。

その川本氏も既に78歳だそうです。朝日を退社したあと、当時美大生だった奥さんと結婚したのですが、その7歳年下の奥さんも2008年に癌で亡くなり、現在は荷風と同じように一人暮らしをしているそうです。「悲しみや寂しさは消えることはないが、もう慣れた」と書いていました。

そして、柳宗悦の「悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる」(「妹の死」)という言葉を引いて、次のように書いていました。

 悲しみや寂しさを無理に振り払うことはないのだと思う。

 家内の死のあと、保険会社の女性に言われたことがある。

 一般的に夫に死なれた妻は長生きするが、妻に先立たれた夫は長く持たない、と。だから、長生き出来ないと覚悟した。

 それでもこの14年間なんとか一人で生きている。悲しみや寂しさと共にあったからではないかと思っている。


記事では、家事が苦手なので外食ばかりしていたら、ある日、酒の席で倒れて病院に運ばれ、医者から「栄養失調です」と告げられてショックを受けたとか、おしゃれすることもなくなり洋服はもっぱらユニクロと無印良品で済ませているとか、猫が好きだったけどもう猫を飼うこともできなくなった、というようなことが書かれていました。

そして、記事は次のような文章で終わっていました。

 「私は生きることより思い出すことのほうが好きだ。結局は同じことなのだけれど」

 フェリーニ監督の遺作「ボイス・オブ・ムーン」(90年)の中の印象に残る言葉だが、年を取ることの良さのひとつは、「思い出」が増えることだろうか。

 ベルイマン監督「野いちご」(57年)の主人公は、いまの私と同じ78歳の老人だったが、最後、一日の旅のあと眠りにつくとき、若い頃のことを思い出しながら心を穏やかにした。

 78歳になるいま、私も入眠儀式として、亡き家内とともに猫たちと一緒に暮らしたあの穏やかな日々を思い出している。思い出は老いの身の宝物である。


川本氏がどうして、京浜安保共闘の革命戦争にシンパシーを抱いたのか、私の記憶も定かではありませんが、『マイ・バック・ページ』でもそのことは明確に書いてなかったように思います(もう一度確認しようと本棚を探したのですが、『マイ・バック・ページ』は見つかりませんでした)。言うまでもなく、京浜安保共闘は、のちに赤軍派と連合赤軍を結成して、群馬の山岳ベースでの同志殺し(連合赤軍事件)へと暴走し、日本の新左翼運動に大きな(と言うか致命的な)汚点を残したのでした。

当時、革命戦争を声高に叫んでいた新左翼の思想について、既出の『対論 1968』(集英社新書)の中で、笠井潔氏は、「“革命戦争”とは、本土決戦を日和って生き延びることで繁栄を謳歌おうかするにいたった戦後社会を破壊することだった」「本土決戦を日和って延命した親たちに、革命戦争を対置したわけです」と言っていました。

川本三郎氏の場合、取材の過程で事件に巻き込まれて、心ならずも手を貸してしまったというのが真相なのかもしれません。ただ、その一方で、「本土決戦を日和って延命した親たち」に対置した革命戦争の思想に対して、どこか”引け目”を感じていたのではないか、と思ったりもするのです。だったら、世代的にはまったくあとの世代である私にもわかるのでした。

『対論 1968』でけちょんけちょんに批判されていた白井聡氏は、『永続敗戦論』の中で、(既出ですが)本土決戦を回避した無条件降伏について、次のような歴史学者の河原宏氏の言葉を紹介していました。

日本人が国民的に体験しこそなったのは、各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。
(『日本人の「戦争」──古典と死生の間で』講談社学術文庫)
※『永続敗戦論』より孫引き


「近衛上奏文」に示されたような「革命より敗戦がまし」という無条件降伏の欺瞞。その上に築かれた虚妄の戦後民主主義。

新左翼の若者たちは、そういった戦後の「平和と民主主義」に革命戦争=暴力を対置することで、無条件降伏の欺瞞性を私たちに突き付けたのです。当時、新左翼党派の幹部であった笠井氏は、「暴力は戦術有効性ではなく、ある意味で思想や倫理の問題として受け止められた」と言っていましたが、新左翼の暴力があれほど私たちに衝撃を与えたのも、そういった暴力に内在したエートスによって、“引け目”や”負い目”を抱いたからではないか(“引け目”や”負い目”を強いられたからではないか)と思います。

でも、年を取ると、革命に対するシンパシーも切ない恋愛も一緒くたになって、「悲しみや寂しさ」をもたらすものになっていくのです。

1971年の大衆蜂起(渋谷暴動)の現場になった渋谷の駅前では、20年後、私たちは電光掲示板から流れるクリスマスソングをBGMにして、恋人と手を取り合ってデートに向かっていたのでした。あるいは、輸入雑貨の会社に勤めていた私は、人混みをかき分けて最後の追い込みに入ったクリスマスカードの納品に先を急いでいたのでした。先行世代が提示した革命戦争の「思想や倫理」は、欠片も残っていませんでした。私は、自分の仕事と恋愛のことで頭がいっぱいでした。

最近、ふと、倒れるまでどこまでも歩いて、「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」と日記に書いた森鴎外のように、山の中で人知れずめいっぱい泣きたい、と思うことがあります。年甲斐もなく、しかも、突然に、BOAの「メリクリ」にしんみりとしたのも、そんな心情と関係があるのかもしれません。最後に残るのは、やはり、「悲しみや寂しさ」の思い出だけなのです。
2022.12.22 Thu l 日常・その他 l top ▲
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今回のワールドカップは、暇だったということもあったし、ABEMAが全試合を(しかも無料で)放送したということもあって、ほぼ全試合観ることができました。

結局、アルゼンチンが36年振りにワールドカップを手にすることになったのですが、実は私は延長戦の後半早々に、ゴール前のこぼれ球をメッシが入れた時点で、テレビを消してふて寝したのでした。「ニワカ」ですので、それもありなのです。

ところが、朝起きてテレビのスイッチを入れると、そのあとエンバペがPKを入れて同点に追いついて、最終的にはPK戦になってアルゼンチンが勝ったことを知ったのでした。

どうしてふて寝したのかと言えば、フランスを応援していたということもありますが、メッシが好きではないからです。小柳ルミ子が歓喜のあまり号泣したという記事が出ていましたが、私はその反対です。

メッシの背後にはアルゼンチンの汚いサッカーがあります。自分たちのラフプレーは棚にあげて、すぐ倒れて仰々しくのたうちまわり、そして、審判に文句ばかり言う。アルゼンチンのおなじみのシーンには、毎度のことながらうんざりさせられます。

オランダ戦ほどではなかったものの、アルゼンチンとフランス戦を見ても、マナーの違いは歴然としていました。手段を選ばず「勝てば官軍」という考えは、別の意味で、日本と似たものがあります。メッシは、そんなアルゼンチンのサッカーのヒーローにすぎないのです。

翌日の日本のテレビには、「神の子・メッシ」などという恥ずかしいような賛辞が飛び交い、ここはアルゼンチンかと思うくらい小柳ルミ子ばりの「勝てば官軍」の歓喜に沸いていましたが、何をか言わんやと思いました。

たしかに、メッシのキックの精度は目を見張るものがあったし、こぼれ球などに対する反応は抜きん出ていたと思います。しかし、動きは相変わらず交通整理の警察官みたいだったし、ボールが渡っても奪われるシーンも多くありました。メッシがいることで、アルゼンチンは10人半のサッカーを強いられた感じがありました。

MVPは、むしろメッシ以外のアルゼンチンの選手たちに与えるべきでしょう。彼らは、メッシを盛り上げるために、半人足りないサッカーに徹して勝ち進んで行ったのです。それはそれで凄いことです。

FIFAの不透明な金銭のやり取りや出稼ぎ労働者が置かれた劣悪な労働環境やLGBTに対する差別などに、目を向けて抗議の声をあげたのはヨーロッパの選手たちでした。そんなものは関係ない、「勝てば官軍」なんだと言って目をつぶったのは、日本をはじめ他の国の選手たちでした。

カタール大会の負の部分などどこ吹く風とばかりに、カタールのタミル首長とFIFAのジャンニ・インファンティーノ会長からトロフィを渡されて満面の笑みを浮かべるメッシの姿は、全てをなかったことにするよこしまな儀式のようにしか見えませんでした。

また、アルゼンチンの優勝を自国のそれのように報道する日本のメディアは、ハイパーインフレに見舞われているアルゼンチンが、サッカーどころではない状況にあることに対しては目を背けたままです。アルゼンチンからカタールまで遠路はるばるやって来て応援しているサポーターは、インフレなどものともしない超セレブか全財産を注ぎ込んでやって来たサッカー狂かどっちかでしょう。いくらサッカーが貧者のスポーツだからと言って、その日の生活もままならず、それこそ泥棒か強盗でもしなければ腹を満たすこともできないような下層な人々はサッカーどころじゃないのです。

チェ・ゲバラとフィデル・カストロの入れ墨を入れたマラドーナは、そんな下層の虐げられた人々に常に寄り添う姿勢がありました。だから、アルゼンチンのみならずラテンアメリカの民衆の英雄ヒーローたり得たのです。しかし、メッシはアルゼンチンのサッカーのヒーローではあるけれど、マラドーナのようなサッカーを越えるカリスマ性はありません。それが決定的に違うところです。

もしマラドーナが生きていたら、今回のカタール大会に対しても、サン・ピエトロ大聖堂を訪問したときと同じように、痛烈な皮肉を浴びせたに違いありません。

一方、日本では、本田圭佑のような道化師ピエロを持て囃すことで、全てなかったことにされ、サッカー協会の思惑通り森保続投が既定路線になっているようです。小柳ルミ子が出場するのかどうか知りませんが、森保監督は大晦日の紅白歌合戦にも審査員として出演するそうなので、これで監督交代はまずないでしょう。検証など形ばかりで、いつものように「感動をありがとう!」の常套句にすべて収斂されて幕が引かれようとしているのです。

日本のサッカーはついに世界に追いついた、などと言うのは片腹痛いのです。どうして日本のサッカーには批評がないのか、批評が生まれないのか、と思います。それは、選手の選定や起用にまでスポンサーが口出しするほど、スポンサーの力が強いということもあるでしょう。でも、それはとりもなおさず、日本サッカー協会の体質に問題があるからです。批評させない、批評を許さない、目に見えない圧力があるのではないか。

高校時代にちょっとサッカーを囓っただけで”サッカーフリーク”を自称するお笑い芸人たち(ホントは吉本興業がそういったキャラクターで売り込んでいるだけでしょう)にサッカーを語らせる、バラエティ番組とみまごうばかりのサッカー専門番組。また、一緒に番組に出ているJリーグのOBたちも、所詮は協会の意向を代弁する協会の子飼いにすぎません。相撲などと同じように、如何にも日本的な”サッカー村”が既に形成されているのです。こんなカラ騒ぎでは、「ワールドカップが終わったらサッカー熱が冷める」のは当然でしょう。
2022.12.20 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
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同じような話のくり返しですが、政府が「反撃能力」(敵基地攻撃能力)の保有を明記し、2024年度から5年間で防衛費を16兆円(1.5倍)増額して43兆円にする方針などを示した新しい安全保障関連3文書を閣議決定しました。それによって、日本の防衛政策は「歴史的な大転換」が行われたと言われています。

それを受けて週末(17・18日)、各メディアによって世論調査が行われ、その結果が報じられています。

毎日新聞の世論調査では、防衛費増額について、賛成が48%、反対が41%、わからないが10%だったそうです。

また、財源の増税については、賛成が23%、反対が69%。国債の発行については、賛成が33%、反対が52%でした。「社会保障費などほかの政策経費を削る」ことについては、賛成が20%で、反対が73%でした。

Yahoo!ニュース
毎日新聞
岸田内閣支持率25% 政権発足以降で最低 毎日新聞世論調査

一方、朝日新聞の世論調査でも、防衛費増額について、賛成が46%、反対が48%と「賛否が分かれた」そうです。「敵基地攻撃能力」の保有については、賛成56%、反対38%でした。

財源の1兆円増税については、賛成29%、反対66%で、国債の発行についても、賛成27%、反対67%でした。

朝日新聞デジタル
内閣支持率が過去最低31%、防衛費拡大は賛否割れる 朝日世論調査

これを見て、為政者たちは「じゃあどうすればいんだ?」と思ったことでしょう。防衛費増額については賛否が分かれたものの、「敵基地攻撃能力」の保有は賛成が多く、費用については増税も国債もどれも反対が大幅に上回っているのです。

ということは、防衛費増額(防衛力の拡大)に賛成しながら、増税も国債の発行も反対という回答も多くあるわけで、そういった矛盾した回答には口をあんぐりせざるを得ません。

日本は軍拡競争というルビコンの橋を渡る「防衛政策の歴史的大転換」に踏み切ったのです。安保3文書で示された2027年までの「中期防衛力整備計画」は、ホンの始まりにすぎません。常識的に考えても、装備を増やせばその維持管理費も増えるので、さらに新しい武器を揃えるとなると、その分予算を積み増ししなければなりません。1%の増税で済むはずがないのです。もちろん、毎年3兆円、私たちに向けられた予算が削られて防衛費に転用することも決まったのですが、それも増えることになるでしょう。これは、あくまで軍拡の入口にすぎないのです。

この世論調査の回答からも、自分たちは関係ない、汚れ仕事は自衛隊に任せておけばいいという、国民の本音が垣間見えるような気がします。為政者ならずとも「勝手なもんだ」と言いたくなります。そんな勝手が通用するはずがないのです。

先の戦争では、国民は、東條英機の自宅に「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような手紙を段ボール箱に何箱も書いて送り、戦争を熱望したのです。そのため、東條英機らは清水の舞台から飛び降りるつもりで開戦を決断したのです。ところが、敗戦になった途端、国民は、自分たちは「軍部に騙された」「被害者だ」と言い始めて、一夜にして民主主義者や社会主義者に変身したのです。

私は、その話を想起せざるを得ません。

だったら、徴兵制と大増税で、傍観者ではなく当事者であることを嫌というほど思い知ればいいのだと思います。「敵基地攻撃能力」(先制攻撃)の保有によって、中国や北朝鮮からの挑発も今後さらに激しくなってくるでしょう。一触即発までエスカレートするかもしれません。そうなれば、当然徴兵制復活の声も出て来るに違いありません。「中国が」「ロシアが」「韓国が」と言っている若者たちも、徴兵されて「愛国」がなんたるかを身を持って体験すればいいのだと思います。

一方で、徴兵制について、次のような捉え方もあります。たまたま出たばかりの笠井潔と絓(すが)秀実の対談集(聞き手・外山恒一)『対論 1968』(集英社新書)を読んでいたら、連合赤軍の同志殺しについて、笠井潔が次のように語っているのが目に止まりました。

笠井 (略)赤軍派の前乃園紀男(花園紀男)の言葉があるよね。「狭いけど千尋の谷があって、普通の脚力があれば、思い切って跳べば跳べる程度の距離なんだから、跳べばよかったのに、いざ千尋の谷を目の前にすると体がすくんで、とりあえず跳ぶ訓練をしようと言い出し、総括の連続で自滅していった」、つまり「そもそも”訓練”なんか必要なかった。単に”跳んで”いれば連合赤軍みたいなことは起きなかった」といった趣旨の。まったくの正論ですが、その上で”投石”と”銃撃戦”の間に”千尋の谷”が存在した理由を考えなければいけない。ベトナム戦争の戦時中だったアメリカはもちろん、イタリアやドイツにも当時は徴兵制があったし、学生の多くは徴兵制は免除されたにしても、同年代に軍隊経験のある友達はいくらでもいた。
 徴兵制の有無は大きいですよ。


若者が軍隊経験を持つ=暴力を身に付けることによって、その暴力が政治の手段に転化し得る可能性があるということです。徴兵制は、”政治暴力”とそれをコントロールするすべを学ぶ絶好の機会チャンスにもなるのです。もちろん、「千尋の谷」を跳ぶ必要もなくなります。

徴兵制というのは、日常や政治に暴力を呼び込むということであり、国家権力にとっても両刃の剣でもあるのです。最近では、安倍晋三元首相銃撃事件が好例です。山上容疑者が自衛隊で暴力の訓練を受けてなければ、少なくとも銃殺するという発想を持つことはなかったでしょう。

とまれ、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と思っているなら、みんなで戦争への道に突き進めばいいのです。加速主義というのは、平たく言えば、そういう話でしょう。このどうしようもない国民の意識は、加速主義による「創造的破壊」によってしか直しようがないのではないかと思います。

現在、世界を覆っている未曽有の資源インフレに示されているように、資本主義が臨界点に達しようとしているのはたしかで、政治と経済が共振して資本主義の危機がより深化しているのは否定しようがない気がします。

アメリカが唯一の超大国の座から転落して世界は間違いなく多極化する、と前からしつこいほど言ってきましたが、アメリカの凋落と国内の分断、ロシアや中国の台頭など、ますますそれがはっきりしてきたのです。ロシアがあれほどの蛮行を行っても、西側のメディアが報じるほどロシアは世界で孤立しているわけではないのです。

ウクライナが可哀そうと言っても、従来のようにアメリカが直接軍事介入を行うことはできないのです。ウクライナがNATO加盟国ではないからとか、核戦争を回避するためだとか言われていますが、しかし、ベトナム戦争のときでもソ連は核を持っていました。でも、アメリカは直接軍事介入したのです(できたのです)。

戦後、アメリカは戦争して一度も勝ったことがないと言われていますが、たしかに考えてみればそうです。それでいい加減トラウマができて、国内世論も軍事介入することに反対の声が大きくなったということもあるかもしれません。しかし、それ以上に、アメリカがもはや他国に軍事介入するほどの力がなくなったということの方が大きいのではないか。言うなれば、毛沢東が言った「アメリカ帝国主義は張り子の虎である」ことが現実になった、と言っていいかもしれません。今回の日本の「防衛政策の歴史的大転換」もその脈絡で見るべきでしょう。
2022.12.19 Mon l 社会・メディア l top ▲
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(2018年大船山)

先日、ユーチューブを観ていたら、ある女性ユーチューバーが祖母山や傾山に登っている動画がアップされていました。

彼女は、大分県と宮崎県にまたがる祖母山・傾山・大崩山が、ユネスコエコパーク(生物圏保存地域)に指定されているので、そのPR活動のために動画を依頼されて訪れたようです。

ちなみに、ユネスコエコパークとは、次のようなものです。

ユネスコエコパーク(生物圏保存地域)は、生物多様性の保護を目的に、ユネスコ人間と生物圏(MAB)計画(1971年に開始した、自然及び天然資源の持続可能な利用と保護に関する科学的研究を行う政府間共同事業)の一環として1976年に開始されました。
ユネスコエコパークは、豊かな生態系を有し、地域の自然資源を活用した持続可能な経済活動を進めるモデル地域です。(認定地域数:134か国738地域。うち国内は10地域。)※2022年6月現在
世界自然遺産が、顕著な普遍的価値を有する自然を厳格に保護することを主目的とするのに対し、ユネスコエコパークは自然保護と地域の人々の生活(人間の干渉を含む生態系の保全と経済社会活動)とが両立した持続的な発展を目指しています。

文部科学省
生物圏保存地域(ユネスコエコパーク)


国内で指定されているのは、以下の10ヶ所です。

白山
大台ヶ原・大峯山・大杉谷
志賀高原
屋久島・口永良部島
綾(宮崎県綾町)
只見
南アルプス
祖母・傾・大崩
みなかみ(群馬県みなかみ町)
甲武信

私は、祖母・傾山が大崩山とともに、ユネスコエコパークに指定されていることはまったく知りませんでした。

前に何度も書きましたが、私はくじゅう(久住)連山の麓にある温泉町で生まれました。祖母・傾山の登山口は、山をはさんだ南側の町にあります。山をはさんで北側にあるのが湯布院です。

北側の湯布院には久留米と大分を結ぶ久大線が走っており、南側には熊本と大分を結ぶ豊肥線が走っています。しかし、真ん中にある私の町には鉄道が走っていません。そのため、私の田舎は由布院とは対極にあるようなひなびた温泉地でした。

最寄り駅は、西側の山をひとつ越えた隣町にあるのですが、隣町とは平成の大合併によって同じ市になったのでした。ただ、大昔は同じ郡だったので、言うなれば離婚した夫婦が復縁したようなものです。その最寄り駅から祖母・傾山の登山口に行く登山バスが運行されているのですが、それを知ったのも最近でした。ユネスコエコパークに指定されたのは2017年だそうなので、指定を受けて運行されるようになったのかもしれません。

ただ、私たちの田舎の山はあくまで久住連山(大船山)で、私たちの田舎から祖母・傾山に登る人はほとんどいませんでした。そもそも昔は登山口に行く交通手段もなかったのです。

これも何度も書いていますが、私は若い頃勤めていた会社の関係で、山を越えた南側の町(現在は合併して市)の営業所に5年間勤務していたことがあるのですが、祖母・傾山に登るならそっちの方が全然近いのです。大分県側の登山口も南側の町にあります。山開きのときもその町の人たちは祖母山に登っていました。ただ、祖母山の山頂が私たちの市に帰属しているので、そういった関係から私たちの市の最寄り駅からバスが運行されることになったのだと思います。

つまり、私たちの市には、九州の屋根を呼ばれる久住連山と祖母山があるのです。傾山は私が営業所に勤務していた南側の市に帰属しています。祖母山と傾山の大分県側の登山口も、その市にあります。

祖母山には、営業所に勤務していたとき、よく行っていた喫茶店で知り合った地元の登山グループと一緒に登ったことがあります。私たちは、「祖母・傾山」というように一括りした言い方をしていましたが、ただ、大半の人たちは祖母山に登っていました。動画を観ると、たしかに傾山は距離も長いし登山道も難度が高いみたいなので、大分県側では敬遠されていたのかもしれません。宮崎側へ行けば山行時間の短いお手軽なコースがあるそうです。

昔、傾山で野営していた女性ハイカーが、九州では絶滅したはずの”熊”を見たと言って話題になったことがありましたが、そのときも大分側で遭遇したと言われていました。”熊”はともかく、あんなに距離が長いと野営したくなる気持もわかるような気がします。

祖母山や傾山の登山口がある町も、私は仕事で担当していた地区だったのでよく知っています。ただ、動画に出ていた神原登山口が立派に整備されていたのにはびっくりしました。昔はあんなトイレも駐車場もありませんでした。山を越えた宮崎県側には、地元の教師たちによってヒ素による公害が告発された土呂久鉱山があり、私も車で峠越えを試みたことがありましたが、道が荒れていて途中で断念したことを覚えています。

傾山に登っている途中に出てきた指導標(道案内)に「上畑」という地名がありましたが、そういった地名を見ただけでなつかしい気持になるのでした。

また、ユーチューバーが休憩中に食べていた地元のお菓子も、先日、田舎の友人が上京した際にお土産に貰ったばかりだったので、わけもなく嬉しくなりました。小さい頃からよく食べていたお菓子で、父親の葬儀で帰省した際、香典返しにそのお菓子を東京の会社に送ったこともありました。

これも何度も書いていますが、私は実家にいたのは中学までで、高校は親元を離れて街の学校に行きました。それで、休みで帰省して再び列車で下宿先に向かう際、そのお菓子を買うために店に行ったら、店のおばさんから「どこの高校?」と訊かれたのです。それで、「○○の××高校です」と答えたら、「エー、そんな遠くの学校に行っているんだ?」とびっくりされたことがありました。何故かそのときのことを今でも覚えていて、先日、友人にその話をしたら、「ああ、△△のおばちゃんか。もうとっくに死んだよ」と言っていました。

ユーチューバーは、登山の前日と翌日に最寄り駅がある町に宿泊したようで、町の観光名所やうら寂れた通りの様子が動画で紹介されていました。旅の宿でもそうで、まったくの山間僻地より中途半端な田舎町の方が妙に旅愁をそそられるところがあります。山間の小さな城下町だったので、地元の人間にはよけい栄枯盛衰のわびしさが偲ばれるのでした。

合併した現在でも人口2万人足らずですが、城下町だったので文化資本は豊かで、昔は著名な日本画家や軍人や学者や作家などを輩出し、私が若い頃勤めていた会社もそうでしたが、町の出身者で東京の上場企業の社長になった人も何人かいます。しかし、今はその面影をさがすことはできません。

年を取ると、あれほど嫌っていた故郷なのに、やたら昔のことが思い出され、望郷の念を抱くようになるものです。しかし、坂口安吾が、「ふるさとに寄する賛歌」で「夢の総量は空気であった」と書いていたように、いつの間にか自分がふるさとから疎外され「エトランゼ」になっていたことを思い知らされるのでした。それはむごいほど哀しくせつない気持です。

脚色されたテレビの番組と違って個人の動画なので、動画から伝わる素朴でゆったりした空気感のようなものが、私の心情によけい染み入るところがありました。ユーチューブでそんな気持になったのも初めてでした。


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防衛費の増額分の財源をめぐって、自民党の税制調査会が紛糾しているというニュースがありました。

2023年4月から2027年3月までの次の「中期防衛力整備計画」では、防衛費が今(2019年4月~2023年3月)の27兆円から43兆円へと大幅に増額される予定で、そのためには毎年あらたに4兆円の財源が必要になると言われています。そのうち3兆円は他の予算を削ったり余剰金を使ったりして賄う予定だけど、1兆円の財源が不足すると言うのです。税制調査会では、その財源をどうするか、増税するかどうかという議論が行われたのでした。

岸田首相が表明したのが、復興特別取得税を充てるという案です。復興特別所得税は、2011年の東日本大震災の復興費用の財源を確保するために創設した特別税で、2013年から2037年までの25年間、個人が払う所得税額の2.1%分を加算するようになっています。岸田首相は、2024年以降に2.1%のうち1%を防衛費に充てて、さらに期間も2037年から20年(14年という説もある)延長するという案をあきらかにしたのでした。

しかし、昨日(14日)開かれた自民党の税制調査会では、この岸田首相の案に対して異論が噴出、結論を今日以降に持ち越したのでした。岸田首相の増税案に対して、強硬に反対しているのは安倍元首相に近いと言われる清話会の議員たちです。彼らが主張しているのは、萩生田政調会長に代表されるように、増税ではなく国債を発行するという案です。

ここでも、旧宏池会+財務省VS清話会という、緊縮財政派と積極財政派の自民党内の対立が表面化しているのでした。そして、その先に、消費税増税を視野に入れた旧宏池会+財務省+立憲民主党など野党の増税翼賛体制が構想されている、というのが鮫島浩氏の見立てですが、たしかに税制調査会でも、岸田首相の復興所得税を充てる案は「財務省の陰謀だ」という声が出たそうです。

一方、税制調査会の幹部たちは、法人税・所得税・たばこ税3税を増税して充てるという、復興所得税を転用した案で大筋合意し、それを叩き台として午後の会合に提案したのですが、やはり異論が噴出して合意に至らなかったということでした。

もっとも、1兆円が不足するというのも、机上の計算にすぎません。政府は3兆円強は歳出改革等で賄うと言ってますが、ホントに歳出改革が予定どおりいくのか保障はありません。

いづれにしても、防衛費の大幅増額は既定路線になっており、現在、議論されているのは財源の問題なのです。防衛費の大幅増額がホントに必要なのか、という手前の議論ではないのです。

政府は、”反撃能力”の保有に伴い、敵基地攻撃の発動要件についても検討に入ったそうです。でも、敵基地攻撃に転換すれば、逆に先制攻撃を含めた反撃の標的になるでしょう。

忘れてはならないのは、防衛費増額がアメリカの要請に基づくものだということです。バイデン大統領が軍需産業とつながりが深いのは有名な話ですが、しかし、アフガンからの惨めな撤退に象徴されるように、アメリカはもはや「世界の警察官」ではなくなったのです。そこでバイデンが新たに編み出したのが”ウクライナ方式”です。今の中国による台湾侵攻の危機は、そのアジア版とも言えるものです。

防衛費(軍事予算)がGDPの2%を超えると、日本はアメリカ・中国につづく軍事大国になるそうですが、バイデン政権は、そうやって日本に世界でトップクラスの軍備増強を求め、大量の武器を売りつけようとしているのです。それが向こう5年間で16兆円増額するという、途方もない整備計画につながっているのでした。

”反撃能力”というのは言葉の綾で、本来は先制攻撃能力と言うべきです。日本が先制攻撃能力を保有すれば、専守防衛という憲法の理念に反するだけでなく、周辺国との間に軍事的緊張を高めることになります。にもかかわらず、「防衛政策の大転換」に踏み切ったのは、アメリカのトマホークを買うためだという話もあり、さもありなんと思いました。まさに対米従属が日本の国是だと言われる所以です。

軍備増強に関連して、次のような記事もありました。

47NEWS
共同通信
防衛省、世論工作の研究に着手 AI活用、SNSで誘導

 防衛省が人工知能(AI)技術を使い、交流サイト(SNS)で国内世論を誘導する工作の研究に着手したことが9日、複数の政府関係者への取材で分かった。インターネットで影響力がある「インフルエンサー」が、無意識のうちに同省に有利な情報を発信するように仕向け、防衛政策への支持を広げたり、有事で特定国への敵対心を醸成、国民の反戦・厭戦の機運を払拭したりするネット空間でのトレンドづくりを目標としている。


下のようなイメージした図もありました。

防衛省世論誘導

前に、防衛省の機関である防衛研究所の研究員が、連日テレビに出演して、ロシアのウクライナ侵攻の解説を行っているのは、戦時の言葉を流布するプロパガンダの怖れがあるのではないか、と書いたことがありましたが、彼ら戦争屋は、まるで火事場泥棒のように、ヤフコメやツイッターやユーチューブを舞台に、AIを利用した挙国一致の世論作りを画策しているのです。文字通り、デジタル・ファシズムを地で行く企みと言っていいでしょう。「中国が」「ロシアが」と言いながら、中国やロシアがやっていることと同じものを志向しているのです。敵・味方を峻別しながら、中身は双面のヤヌスのように同じで、だからいっそう敵・味方を暴力に峻別したがるという、戦争屋=全体主義者にありがちな二枚舌が露呈されているように思えてなりません。

もっともその前に、メディアの「中国が攻めて来る」という報道が功を奏したのか、読売新聞が今月4日に実施した世論調査では、防衛費増額に対して、賛成が51%で反対の42%を上回ったという結果が出ていました。さすが「報道の自由度ランキング」71位(2022年度)の国の面目躍如たるものがあると思いました。

読売新聞オンライン
防衛費増額「賛成」51%、原発延長「賛成」51%…読売世論調査

また、立憲民主党も、軍備増強の流れに掉さすように、近々「反撃能力の一部」を容認する方針だ、という記事もありました。

47NEWS
共同通信
反撃能力保有、立民が一部容認へ 談話案判明、着手段階の一撃否定

 政府が安全保障関連3文書を16日にも閣議決定する際、立憲民主党が発表する談話の原案が判明した。敵の射程圏外から攻撃可能な「スタンド・オフ・ミサイル」について「防衛上容認せざるを得ない」と明記し、反撃能力の保有を一部認めた。


まさに野党ならざる野党の正体見たり枯れ尾花といった感じです。

でも、防衛費(国防費)の増大が国家にとって大きな負担になり、経済が疲弊して国民生活が犠牲を強いられるようになるのは、世の東西を問わず歴史が立証していることです。

厚生労働省が発表した2018年の貧困線(国民の等価可処分所得の中央値の半分の額)は、単身者世帯で約124万円、2人世帯で約175万円、3人世帯で約215万円、4人世帯で約248万円となっています。貧困線以下で生活している人の割合、つまり、相対的貧困率は15.4%です。日本の人口の15.4%は約1800万人です。

一般会計予算の中でいちばん多いのは、社会保障関係費で、40兆円近くあり全体の35%近くを占めていますので、防衛費を捻出するために、社会保障関係費が削減の対象になる可能性は大きいでしょう。前に書いた生活保護の捕捉率を見てもわかるとおり、日本は社会保障後進国なのですが、防衛力強化と引き換えに益々社会保障が後退する恐れがあるのです。

ましてや、日本は韓国にもぬかれ、経済的にアジアでも存在感が薄らいでいく一方の下り坂にある国なのです。戦争になれば、さらに最大の貿易相手国を失うことになるのです。そんな国に戦争する余力があるとはとても思えません。

「中国と戦争するぞ、負けないぞ」と威勢のいいことを言っても、所詮はやせ我慢にすぎないのです。中国が日本に対して、「あまり調子に乗らない方が身のためだぞ」というような、やけに上から目線でものを言うのも、とっくにそれを見透かされているからでしょう。

軍備増強によって、国力が削がれ益々没落していくのが目に見えているのに、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいな同調圧力による「集団極化現象」によって、とうとう軍拡というルビコンの橋を渡るまでエスカレートしていったのでした。いわゆる軽武装経済重点主義で、戦後の経済成長を手に入れたことなどすっかり忘れて、再び戦争の亡霊に取り憑かれているのです。その先に待っているのは、軍拡競争という無間地獄です。

装備は分割で購入するそうなので、装備を増やせばローン代も含めて維持管理費も増えるので、新たな装備を買おうとすれば、さらに予算を積み増ししなければなりません。そうやって経済的な負担が際限もなく膨らんでいくのです。

まだ発売になっていませんが(近日発売)、安倍元首相を「お父さま」と慕うネトウヨが安倍元首相を殺害するという、「安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」として話題になった奇書『中野正彦の昭和九十二年』(イースト・プレス)の帯に、「本当の本音を言うと、みんな戦争がやりたいのだ」という惹句がありましたが、防衛費増額に対する国民の反応を見るとそうかもしれないと思うことがあります。

国民の大方の反応は、防衛力強化は必要だけど、増税は嫌だという勝手なものです。もちろん、自分たちが銃を持って戦う気なんてさらさらありません。汚れ仕事は自衛隊にやらせればいいと思っているのです。

しかし、いくら軍事費を増やしても自衛隊だけでは戦争は完遂できないので、いづれ幅広い予備役の制度(つまり徴兵制)が必要になるでしょう。だから、防衛省も世論工作の必要を感じているのだと思います。

仮に百歩譲って軍備増強が抑止力になるという説に立っても、装備だけでは片手落ちでマンパワーが重要であるのは言うまでもありません。現在の日本の兵士数は26万人弱で、世界で24番目の規模です。装備とともに訓練された兵士も増やさなければ、画竜点睛を欠くことになるでしょう。このまま行けば当然、徴兵制の議論も俎上にのぼってくるはずです。

白井聡氏の『永続敗戦論』の中に、家畜人ヤプーの喩えが出ていましたが、たしかに、日本の指導者たちは、アメリカの足下に跪き、恍惚の表情を浮かべながら上目遣いでご主人様を仰ぎ見る家畜人ヤプーのようです。一方、国民は、所詮は他人事とタカを括り、対米従属愛国主義の被虐プレイを観客席から高みの見学をしてやんやの喝采を送るだけです。今回の軍備増強=「防衛政策の大転換」に対しては、そんな世も末のような自滅する日本のイメージしか持てないのです。


追記:(12月16日)
上記の『中野正彦の昭和九十二年』は、発売日前日に「ヘイト本だ」という社内外の懸念の声を受けて急遽発売中止が決定。版元が既に搬入していた本を書店から回収するという事態に陥り、購入が難しくなりました。でも、「ヘイト本」であるかどうかを判断するのは読者でしょう。
2022.12.15 Thu l 社会・メディア l top ▲
国会議事堂
(public domain)


世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の被害者救済を目的とした「救済法」(法人等による寄付の不当な勧誘の防止等に関する法律)と改正消費者契約法が昨日(10日)、参院本会議で与党などの賛成多数で可決、成立しました。採決では、自民・公明の与党と、立憲民主・日本維新の会・国民民主が賛成し、共産とれいわ新選組は反対したそうです。

でも、前も書いたように、この法律が今国会で成立するのは、与野党の間では合意済みと言われていました。会期末ギリギリに成立したのも筋書きどおりなのかもしれません。

この法律に対しては、宗教二世や被害対策の弁護団などからは、「ザル法」「ほとんど役に立たない」という声がありました。また、野党も当初は同じようなことを言っていました。

実際に今回のような法律では、法の不遡及の原則により、「救済」の対象はあくまでこれから発生する「被害」に対してであって、過去の「被害」は対象外なのです。また、「被害」の認定にしても、法案では「配慮義務」という曖昧な文言が使われているだけです。「禁止」という明確な言葉はないのです。それでは「被害」の認定が難しい「ザル法」で、実効性に乏しいと言われても仕方ないでしょう。

ところが、国会の会期末が近づくと、立憲民主党など野党は、「充分ではないがないよりまし」「一定の抑止効果はある」などと言い出して、このチャンスを逃すと被害者救済は遠のくと言わんばかりの口調に変わったのでした。すると、救済を訴えてきた宗教二世からも、「ザル法」などという言葉は影をひそめ、法案の成立は「奇跡に近い」、尽力してくれた与野党に「感謝する」というような発言が飛び出したのです。私は、その発言にびっくりしました。と同時に、そう言わざるを得ない宗教二世たちの心情を考えると、何だかせつない気持にならざるを得ませんでした。

9日には、宗教二世と全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士が、参院の消費者問題特別委員会に参考人招致され、意見陳述したのですが、そのときは、国会の会期は延長せず、翌日10日の参院本会議で採決し成立させることが既に決定していたのです。何のことはない、参考人招致は、形式的な儀式にすぎなかったのです。

国会での審議は僅か5日でした。立憲民主党は、みずからの主張と政府与党が提出した法案とは「大きな隔たりがある」と言いながら、会期延長を求めるわけではなく、会期末の成立に合意したのです。

「救済法」には2年後を目処に見直すという付帯事項が入っており、岸田首相も、賛成した野党も、盛んにそれを強調しています。何だか法律が「役に立たない」ことを暗に認めているんじゃないかと思ってしまいます。宗教二世は、「被害者を忘れずに議論を続けてほしい」と言っていましたが、そういった言葉も空しく響くばかりです。

宗教二世たちは、結局、与野党合作の猿芝居に振りまわされただけのような気がしてなりません。彼らの切実な訴えより”国対政治”が優先される、政治の冷酷さをあらためて考えざるを得ないのでした。

ジャーナリストの片岡亮氏は、『紙の爆弾』(1月号)の「旧統一教会と自民党 現在も続く癒着」という記事で、「救済法」の国会論議に関連して、自民党議員の若手秘書の次のような発言を紹介していました。

 自民党の若手秘書は「議員はみんな、公明党がいるから宗教法人法には手をつけられないと口を揃えている」と話す。
「それこそ自公政権自体が政教分離違反ですよね。本来、公明党は統一教会との違いをハッキリ示すべきなのに、ただ規制強化に反対しているのですから、これでは同じ穴のムジナ」
 旧統一教会の問題とは、言ってしまえば、社会的に問題のある団体があった場合、政治がどう対処するのか、ということだ。その方法には大別して「攻めと守りがある」と、同秘書は続ける。
「攻めとは悪質な宗教団体の取り締まりです。統一教会であれば解散で、宗教団体という認定を外すこと。法人格や税優遇を取り消せます。公的な認定がなくなれば、自然と信者の脱会も促せるでしょう。実際、それを提案して、脱会信者の専門サポート体制も作ろうとした人は自民党にもいましたが、大きな反発を受けています。一方、守りは被害者の保護。契約法改正や献金規制で、被害を食い止めること。ただ、あくまで被害があった場合の救済措置なので、被害自体をなくす作業ではありません。いま自民党は教団を繋がっている議員ばかりなので、攻めには反対が多く、守りだけで世間の批判を収めようという流れになっています」
(『紙の爆弾』1月号・片岡亮「旧統一教会と自民党 現在も続く癒着」)


記事のタイトルにあるように、自民党の政治家たちと旧統一教会との関係は今も続いている、と指摘する声も多くあります。政権の中枢に浸透するくらいのズブズブの関係だったのですから、そう簡単に手が切れるわけがないのです。今回の法案の与党側の調整役だったのは、旧統一教会の信者から「家族も同然」と言われ、信者の集まりで「一緒に日本を神様の国にしましょう」と挨拶したあの萩生田光一自民党政調会長でした。文字通り泥棒に縄をわせるようなもので、悪い冗談みたいな話です。

また、片岡氏は、同じ記事で、「ステルス信者」の問題も取り上げていました。「ステルス信者」というのは、言うなれば隠れキリスタンのようなもので、「信者であることを隠して信仰し、特定の政治家を応援」している信者たちのことです。と言うのも、旧統一教会には正式な入信制度がないそうで、そのため、他の教団と違って「組織が非常に曖昧」で、信者数も「不明瞭」なのだとか。報道されているように、関連団体が無数に存在するのもそれ故です。「ステルス信者」は、「彼らが隠密に政治や行政に取り入るための方法」なのですが、今回の騒動で、ステルス、つまり、信者であることを隠す行為がいっそう「加速」されるようになった、と片岡氏は書いていました。カルトは何でもありなので、今までも脱会運動を行っていたのが実は教団寄りの人物だったということもありましたが、今後偽装脱会も多くなるかもしれません。

今の流れから行けば、宗教法人法に基づいて解散命令の請求が行われるのは間違いないでしょう。それと今回の「救済法」の二点セットで、旧統一教会の問題の幕引きがはかられる可能性が大です。実際に、メディアの報道も目立って減っており、彼らの関心もこのニ点に絞られています。

ただ、教団の抵抗で最高裁まで審理が持ち込まれるのは間違いないので、最終的な決定が出るまでかなり時間がかかるでしょう。それまで、「他人ひとの噂も四十九日」のこの国の世論が関心を持ち続けることができるかですが、今のメディアの様子から見てもほとんど期待はできないでしょう。下手すれば、姿かたちを変えて、再び(三度)ゾンビのように復活する可能性だってあるかもしれません。

旧統一教会の問題は、「信教の自由」や「政教分離」のあり方などを根本から問い直すいい機会だったのですが、結局、それらの問題も脇に追いやられたまま、まるで臭いものに蓋をするようにピリオドが打たれようとしているのです。

泥棒に縄をわせるやり方もそうですが、”鶴タブー”をそのままにして旧統一教会の問題を論じること自体、ものごとの本質から目を背けたその場凌ぎの誤魔化しでしかないのです。


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2022.12.11 Sun l 旧統一教会 l top ▲
サッカーボール


スペインが、決勝トーナメントの初戦で、PK戦の末モロッコに敗れましたが、モロッコ戦のスペインは日本戦のときと同じでした。スペインは決勝トーナメントを見据えて日本戦で手をぬいた、というような話がありましたが、それは誇大妄想だったのです。そもそもスペインには、そんな“強者の余裕”などはな 、、からなかったのです。あれがスペインの今の力だったのです。

日本のメディアでは、「日本サッカーの歴史が変わった」などと「勝てば官軍」のバカ騒ぎが続いていますが、そんな中で、まるで自画自賛の浮かれた空気に冷水を浴びせるように、セルジオ越後氏が下記のような感想を述べていました。

日刊スポーツ
【セルジオ越後】早い段階からブラボーブラボー…弱いチームが快進撃続けた時の典型的なパターン

もうブラボーって言えなくなったな。早い段階から日本はブラボー、ブラボーと騒ぎすぎた。喜ぶのはいいことだが、日本国内も現地カタールでも、すべてを得たような騒ぎだった。弱いチームが快進撃を続けた時の典型的なパターン。結局、世界の中で日本の立ち位置はまだ低いということだね。決勝トーナメントに入ってからが本当の勝負なのに、その前に満足したのかな。クリスマスの前に騒ぎすぎて、いざクリスマスの時は酔っぱらいすぎて疲れてしまったって感じだな。


攻め手がなく、みんな守り疲れて、スイッチを入れるタイミングでは足が動かなかった。ロングボールを前線に蹴り込んで、何とかしてくれ、と言われても何とかならない。


カウンターに頼るのが弱いチームの常套戦術であるのは、「ニワカ」の私でも知っています。私もたまたま観ていて、思わず膝を叩いたのですが、内田篤人も、クロアチア戦のあとの「報道ステーション」で、選手の声として、次のように伝えていました。

「このスタイルがこの先の日本の方向性を決めるスタイルなのかな。僕たちがやりたいサッカーって何なのかな。これは強いチームに対してしっかり守ってカウンター。それは日本のやりたいことなのかなっていう声も選手の中では聞こえてきました」(ディリースポーツの記事より)


ホントに日本のサッカーは進歩したのか。11月9日の国内組の出発の際は、数十人が見送っただけだったのに、今日は約650人のファンと約190人の報道陣が、成田空港の到着ロビーに出迎えたそうです。こんな安直な手のひら返しの現実を前にして、「日本サッカーの歴史が変わった」と言われても鼻白むしかありません。

終わりよければ全てよしで、森保監督の続投も取り沙汰されていますが、何だかサッカーまでが野球や相撲と同じパラダイス鎖国のスポーツになりつつあるような気がしてなりません。日本では、テストマッチや選手の起用などにスポンサーが関与することが前から指摘され、問題視されていました。日本のサッカーが世界のレベルに近づくためには、まず日本サッカー協会が前時代的な”ボス支配”から脱皮することが必要なのです。そういった改革を求める声も、いつの間にかどこかに飛んで行った感じです。

「勇気をもらった」「元気をもらった」「感動をありがとう」などという、お馴染みの情緒的な言葉によって思考停止に陥り全てをチャラにする没論理的な精算主義は、日本人お得意の精神的な習性とも言えるものですが、あにはからんや、森保監督の「和」を尊ぶ対話路線が「歴史を変えた」みたいな話が出て、この4年間の検証はそれで済まされるような空気さえあります。そうやって全員野球ならぬ”全員サッカー”の日本的美徳が言挙げされ、結局また元の木阿弥になってしまうのかもしれません。

ワールドカップなんて、国内リーグの「おまけ」「お祭り」みたいなものと言う人もいるくらいで、たしかに海外の強豪国のサッカーは個々の選手のパフォーマンスの競演みたいな感じがあります。一方、日本は「和」を重んじる”全員サッカー”で、選手の個性があまり表に出て来ません。「オレが」「オレが」というのは嫌われ、「出る杭は打たれる」のが日本の精神的風土ですが、しかし、(遊びでも実際にサッカーをするとわかりますが)サッカーというのは「オレが」「オレが」のスポーツなのです。そういった精神性もサッカー選手にとって大事な要素であるのはたしかでしょう。たまたまかもしれませんが、今大会で唯一個性が出ていたのは三苫薫くらいです。だから、彼は高い評価を得たのでしょう。

いつまで「日本人の魂」や「日本人の誇り」でサッカーを語るつもりなのか、と言いたくなります。スポーツライターの杉山茂樹氏いわく、「海外にも、適任者はたくさんいるが、こう言っては何だが、そのキャリアを捨て日本代表監督になろうとする人物はけっして多くない」(Web Sportiva)そうなので、外国人監督を招聘するのも大変なのかもしれませんが、子飼いの日本人監督だったら誰がなっても同じだと思います。彼らのサッカーは、丸山眞男が言う「番頭政治」みたいなものです。日本の選手たちがせっかくこれだけ海外のクラブでプレーして、世界レベルのサッカーで揉まれて、それなりのパーフォーマンスを身に付けているにもかかわらず、内田篤人が言うように、自己を犠牲にした守りに徹した上に、ロングボールでカウンターではあまりに芸がなさすぎる、と「ニワカ」は思うのでした。
2022.12.07 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
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自民党へすり寄る立民と国民民主。立憲民主党は、国民民主党や連合に先を越されて焦っているのかもしれません。

野田佳彦のようなゾンビが未だに徘徊している立憲民主党は、国民民主党とどう違うのか、それを説明できる人なんていないでしょう。

浅田彰は、田中康夫との対談で、野田佳彦の安倍追悼演説は「噴飯ものだった」と、次のようにこき下ろしていました。

現代ビジネス
「憂国呆談」第5回 Part1
安倍追悼演説で野田がダメダメだった理由を、改めて明かそう《田中康夫・浅田彰》

浅田 (略)「再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった」とか言って自分で感動してたけど、安倍との最後の党首討論では一方的に押しまくられて衆議院解散・総選挙に追い込まれ、結果、安倍自民党に政権を譲り渡しただけ。あの醜態のどこが「言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合う真剣勝負」なの?


一方、田中康夫は、「追悼演説はとても素晴らしかった」と礼賛した『週刊朝日』の室井佑月のコラムを、次のようにやり玉に上げていました。

田中 (略)「『勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん』という言葉に、微(かす)かに勝てる兆しが見えた気がした。野党というか、野田さんはまだ諦めていない。野党を応援しているあたしも、『よっしゃまだまだこれから』という気分になった。一部、野党の偉い人が、野田さんの演説に対し『とても男性のホモソーシャル的な演説だと思った』といっていたが、足を引っ張るのはやめていただきたい」との文章には絶句したよ。


翼賛体制へと突き進む野党ならざる野党の醜悪は、政党の問題だけではないのです。彼らに随伴する「野党共闘」の市民団体も同じです。

田中のやり玉は続きます。

田中 (略)それにしても、「れいわとかあんなもん野党じゃない」と大宮駅前の街頭演説で絶叫する動画が話題となった枝野幸男は、「総選挙で時限的とは言え『消費税減税』を言ったのは政治的に間違いだった。2度と『減税』は言わない」と自分のYouTubeで平然と“広言”した(略)。
それを山口二郎チルドレンのような存在の千葉商科大学の田中信一郎が、「野党全体に立ち位置と戦略の再考を突き付けた。その意味を各党が受け止められるかどうかで、今後の日本が変わる」と牽強付会(けんきょうふかい)な見出しを付けて朝日新聞の「論座」で、「自民党とは異なる経済認識に基づく、経済政策の選択肢を明確に打ち出す」 「枝野発言は『個人重視・支え合い』の国家方針に拠る」と語るに至っては、イヤハヤだ。


私も、「論座」の田中信一郎氏の投稿を読みましたが、「語るに落ちた」という感想しか持てませんでした。

家庭用電気料金は、NHKの調べでは昨年の秋以降、既に20%上がっているそうですが、さらに電力各社は、来年の1月以降30%以上の値上げを申請しています。政府が支給する「支援金」で、1月から料金が下がると言われていますが、その一方でさらなる値上げも予定されているのです。

さらに、防衛費の増額も私たちの生活に大きくのしかかろうとしています。また、次の2023年4月~2027年3月の「中期防衛力整備計画」では、2019年4月~2023年3月までの27兆円から大幅に増額され、最大43兆円になると言われています。財源については「当面先送り」となっていますが、「国民が広く負担する」消費税増税で賄われるのは既定路線です。所得税や法人税は、あくまでめくらましにすぎません。本音は消費税増税なのです。そのために(翼賛的な増税体制を作るために)、自民党は立民や国民民主を取り込もうとしているのでしょう。

生活必需品を含む物価の高騰もとどまるところを知りません。これでは、弱者はもう「死ね」と言われているようなものです。日本の生活保護の捕捉率(受給資格がある人の中で実際に受給している人の割合)は20%程度で、受給者は人口の1.6%にすぎません。残りの1千万人近い人たちは、生活保護の基準以下の生活で何とか生を繋いでいるのです。

しかも、メディアや世論は、生活保護を「我慢」しているのが偉くて、生活保護を受給するのは「甘え」のように言い、心理的に申請のハードルを高くしているのでした。僅か0.7%程度の不正受給を大々的に報道して、生活保護を受けるのが”罪”であるかのようなイメージさえふりまいているのでした。それが孤独死や自殺などの遠因になっていると言われているのです。メディアや世論の生活保護叩きは、もはや犯罪ださえ言えます。

ちなみに、日弁連の「今、ニッポンの生活保護制度はどうなっているの?」というパンフレットには、次のような各国の比較表が載っていました。ちょっと古い資料ですが、これを見ると、日本が福祉後進国であることがよくわかります(クリックで拡大)。

生活保護捕捉率

この物価高の中で、貧困に喘ぐ人々は今後益々苦境に陥るでしょう。それは“格差”なんていう生易しいものではないのです。文字通り生きるか死ぬかなのです。

日本は30年間給料が上がらず、そのためデフレスパイラルに陥り、”空白の30年”を招いたと言われていましたが、さすがに最近は大企業を中心に賃上げの動きが出ています。でも、それは一部の人の話なのです。賃上げに無縁な人たちにとって、物価高は真綿で首を絞められているようなものです。

国税庁の令和3年(2021年)の「民間給与実態統計調査」によれば、給与所得者の平均は433万円です。その中で、正規(正社員)は508万円、非正規は197万円ですが、正規(正社員)が占める割合は令和2年で僅か37.1%にすぎません。

何度もしつこく言いますが、右か左かではないのです。上か下かなのです。それが今の政治のリアルなのです。“下”を代弁する政党、党派の登場が今こそ待ち望まれているときはないのです。

「世界内戦」の時代は民衆蜂起の時代でもある、と笠井潔は言ったのですが、文字通り「世界内戦」の間隙をぬって、イランや中国では民衆が果敢に立ち上がっているのでした。また、ミャンマーでは、軍事政権に対して、若者たちが銃を持って抵抗しています。他には、モロッコやモンゴルでも、物価高に対して大規模な抗議デモが発生しています。

イランや中国の民衆が「Non」を突き付けているのは、「ヒジャブ」や「ゼロコロナ政策」ですが、しかし、それはきっかけアイコンにすぎません。一見、巨像に蟻が挑むような無謀な戦いのように見えますし、欧米のメディアもそういった見方が一般的でした。日本の”中国通”の識者たちも、習近平政権は、デモが起きたからと言って、共産党のメンツに賭けても政策を変えることあり得ない、としたり顔で言っていました。ところが、イランのイスラム政権も中国の習近平政権も、予想に反して「道徳警察」の廃止やゼロコロナ政策の緩和など、一部の”妥協”を余儀なくされているのでした。まるで肩透かしを食らったような感じですが、それは、独裁者たちがデモの背後にある民衆のネットワークを怖れているからでしょう。中国で立ち上がったのは、習近平が言うように学生たちが中心ですが、しかし、学生の背後にネットを通して一般の民衆が存在することを習近平もわかっているからでしょう。

民衆の離反が瞬く間に広がって行くネットの時代では、私たちが思っている以上に、独裁政権はもろいのかもしれません。暴力装置による恐怖政治も、前の時代ほど効果がないのではないか。ネットを媒介にした民衆の連帯の前では、文字通り張り子の虎にすぎないのではないか。

今のようなグローバルな時代では、海外に出ることが当たり前のようになっています。日本だけでなくアメリカやヨーロッパに留学した学生たちは、ネットを通して中国本土の学生たちとリアルタイムに連帯することも可能になったのです。香港の民主化運動で話題になった、中心のない分散型の抵抗運動「Be Water」もネットの時代だからこそ生まれたスタイルですが、今回の中国の民衆蜂起でも、国の内外を問わずそれが生かされているのでした。

それは、イランも同じです。先日、在日イラン人たちが「イスラム体制打倒」を掲げてデモをしたというニュースがありましたが、イラン人たちが国の根幹であるイスラム教シーア派による神権政治を「否定」するなど、本来あり得ないことです。でも、海外に出たイラン人たちは、さまざまな価値観に触れることで、絶対的価値による”思考停止”を拒否したのです。そうやって拷問や死刑になるのも厭わずに、「自由」を求めて本国で蜂起した同胞に連帯しているのです。それもネットの時代だからです。

厚生労働省の「2019年国民生活基礎調査」によれば、2018年の貧困線は127万円で、日本の相対的貧困率は15.4%と報告されています。1千万人という数字は、決してオーバーではないのです。

イランや中国の人々は、「自由」という言うなれば形而上の問題で蜂起したのですが、日本にあるのは身も蓋もない胃袋の問題です。「起て、飢えたる者よ」というのは、決して過去の話ではないのです。


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2022.12.05 Mon l 社会・メディア l top ▲
日本がスペインを破って決勝トーナメントに進出を決めたことで、日本中が地鳴りが起こるような大騒ぎになっています。メディアの「勝てば官軍」はエスカレートするばかりです。

まるで真珠湾攻撃のあとの大日本帝国のように、国中が戦勝ムードに浮かれているのを見ると、天邪鬼の私は、気色の悪さを覚えてなりません。

私はただの「ニワカ」ですが、もちろん、みながみなサッカーに関心があるわけではないでしょう。サッカーで騒いでいるのは一部と言っていいかもしれません。でも、メディアの手にかかれば、まるで国中が歓喜に沸いているような話になるのです。

また、Jリーグのクラブチームの熱烈なサポーターの中には、代表戦にはまったく興味がないという人間もいるのです。それは、日本だけではなくヨーロッパなども同じで、サポーターの間ではそういったことは半ば常識でさえあるそうです。私の知り合いで、スペインリーグの熱烈なファンがいて、年に何度か現地に応援に行っていましたが、彼も代表戦にはまったく興味がないと言っていました。

だから、彼らは、代表戦のときだけサッカーファンになって騒ぐ人間のことを「ニワカ」と呼んでバカにするのですが、たしかに日頃からスタジアムに足を運んで、地元のチームを応援している人間からすれば、代表戦のときだけユニフォームを着てお祭り騒ぎをしている「ニワカ」たちをバカにしたくなる気持はわからないでもありません。

ところが、そんな代表戦を醒めた目で見ていたサッカー通のサポーターでも、スペインに勝った途端、「こんな日が来るとは思わなかった」「隔世の感がある」なんてツイートするあり様なのでした。これではどっちが「ニワカ」かわからなくなってしまいます。

今回のワールドカップで印象的なのは、ヨーロッパや南米のチームが相対的に力が落ちてきた(ように見える)ということです。

日本戦でも、前半のスペインは、まるで日本をおちょくっているかのような、緊張感のないパス回しに終始していました。巧みなパス回しは「ティキ・タカ」と言われスペインサッカーの特徴だそうですが、その先にあるはずの波状攻撃がほとんどありませんでした。パス回しを披露する曲芸大会ではないのですから、今になればあれは何だったんだと思ってしまいます。後半に立て続けに日本に点を入れられてからのあたふたぶりやおざなりなパスミスも、今までのスペインには見られなかったことです。

スペインは、日本が0対1で負けたコスタリカには7対0で圧勝しているのです。サッカーはそんなものと言えばそうかもしれませんが、日本戦ではコスタリカ戦で見せたような迫力に欠けていたのはたしかでしょう。

メディアが言うように、日本の力がホントにスペインやドイツを打ち負かすほど上がってきたのか。でも、ワールドカップの前までは、日本のサッカーはまったく進化してない、そのためワールドカップも関心が薄い、と散々言われていたのです。それが、今度は手の平を返したようなことを言っているのです。

それに、今のバカ騒ぎを見ていると、コロナ禍もあって、どこのクラブも経営が悪化していることが嘘のようです。今年の3月にはお茶ノ水の本郷通りから入ったところにある日本サッカー協会の自社ビル(JFAビル)が、JFAの財政悪化で三井不動産に売却されることが発表され衝撃を与えました。私は、JFAが渋谷の道玄坂の野村ビルにあった頃から知っていますが(その横にいつも路上駐車していたので)、今調べたらお茶の水に自社ビルを建てて移転したのは1993年だそうです。あれから僅か30年で再び賃貸生活に戻るのです。「ニワカ」たちは、日本のサッカーが置かれている厳しい現実に目を向けることも忘れてはならないでしょう。

交通整理の警察官みたいなメッシに頼るだけのアルゼンチンがサウジに負けたのは、小柳ルミ子と違って私は別に驚きませんでしたが、ポルトガルも韓国に負けたし、ブラジルもカメルーンに、ベルギーもモロッコに、フランスもチュニジアに負けました。ドイツに至っては前回大会に続いてグループリーグ敗退なのです。

決勝トーナメントに進出した16ヶ国のうち、ヨーロッパは半分の8ヶ国を占めて一応面目を保ちましたが、南米はブラジルとアルゼンチンの2ヶ国だけでした。たしかに、サッカーも、ヨーロッパや南米が特出した時代は終わり、世界が拮抗しつつあるのかもしれません。

森保監督は、決勝トーナメント第一戦のクロアチア戦への意気込みを問われて、「日本人の魂を持って、日本人の誇りを持って、日本のために戦うということは絶対的に胸に刻んでいかないといけない」と、まるで戦争中の校長先生の訓辞のようなことを言っていましたが、それを聞いて、私は、この監督の底の浅さを見た気がしました。登山もそうですが、スポーツは戦争とは違うのです。森保監督は、スポーツを戦争と重ねるような貧しい言葉しか持ってないのでないか。

日本の代表メンバー27人のうち国内組は7人にすぎず、あとは海外のクラブに所属しています。多くの選手は、普段は海外でプレーしており、代表戦のときだけジャパンブルーのユニフォームを着て、肩を組んで君が代を歌っているにすぎないのです。

サッカーは偶然の要素が大きいスポーツですが、そうそう偶然が続くとは思えないので、日本のサッカーのレベルが上がったのかもしれませんが、そうだとしても、「日本人の魂」や「日本人の誇り」は関係ないでしょう。日本代表のレベルが上がったのなら、多くの選手が海外のクラブに所属して、世界レベルのサッカーを経験したからです。強調すべき(問われるべき)は、「日本人の魂」や「日本人の誇り」ではなく、海外で培われた(はずの)ひとりひとりの選手のパフォーマンスでしょう。

それにしても、メディアの「勝てば官軍」には、恥ずかしささえ覚えるほどです。ヨーロッパでは、カタール大会に批判的な声が多く、それに抗議するためにパブリックビューイングをとりやめたり、スポーツバーなども応援イベントを中止したりして、今までの大会のような熱気は見られないと言われています。中にはいっさい報道しないという新聞もあるくらいです。ところが、日本のメディアの手にかかれば、それは負けて意気消沈してお通夜のように静まりかえっている、という話になるのです。戦争中の大本営発表か、と言いたくなりました。

ワールドカップの関連施設の建設に従事した同じアジアからの出稼ぎ労働者6500人が、過酷な労働で亡くなった問題などどこ吹く風のようなはしゃぎようです。ブラジルの応援団の男性が、虹が描かれたブラジルの州旗を持ってスタジアムの近くを歩いていたら、カタールの警察に取り囲まれて旗を取り上げられたという出来事もあったそうですが、そんな国でワールドカップが開催されているのです。カタールは、同性愛者は逮捕され、拷問を受けたり死刑にされたりする国なのです。

日本はそういった問題にあまりにも鈍感なのですが、もっとも、日本でも外国人技能実習制度が人権侵害の疑いがあるとして、国連の人種差別撤廃委員会から是正の勧告がなされていますし、レインボーカラーに対しても、LGBTに反対する杉田水脈のような日本会議や旧統一教会系の右派議員から反日の象徴みたいに呪詛されており、カタールと似た部分がないとは言えないのです。

JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は、大会前に、カタールの人権侵害に抗議の声が上がっていることについて、「今この段階でサッカー以外のことでいろいろ話題にするのは好ましくないと思う」「あくまでサッカーに集中すること、差別や人権の問題は当然のごとく協会としていい方向に持っていきたいと思っているが、協会としては今はサッカーに集中するときだと思っている。ほかのチームもそうであってほしい」とコメントしたそうですが、それこそスポーツウォッシング(スポーツでごまかす行為)の見本のようなコメントと言っていいでしょう。ヨーロッパのサッカー協会に比べて、田嶋幸三会長の認識はきわめてお粗末で下等と言わねばなりません。それがまた、日本のメディアの臆面のない「勝てば官軍」を生んでいるのだと思います。

もっとも、前も書きましたが、「勝てば官軍」=ぬけがけ・・・・の思想においては韓国も同じです。ここでも、日本と韓国は同じ穴のムジナと言っていいほどよく似ているのでした。
2022.12.03 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
東京都八王子市の東京都立大南大沢キャンパスの構内で、宮台真司氏が何者かに襲われ、重傷を負うという事件がありました。

報道によれば、事件が起きたのは29日の午後4時15分過ぎで、宮台氏は4限目の講義を終えたあと、次のリモート講義のために、自宅に帰宅しようと駐車場方向に歩いていたときに背後から襲われたそうです。

現在、宮台氏の講義が大学で行われるのは火曜日のみで、犯人は、そういった宮台氏のスケジュールを把握していた可能性があるという、警察の見方を伝えている報道もありました。ただ、大学の構内と言っても、都立大の南大沢キャンパスは、地元民が普段から近道として自由に行き来していたようなところで、実際に犯人も、宮台氏を襲ったあと、植え込みを越えて駅と反対側の住宅街の方へ小走りで逃走したことが近辺のカメラの映像で確認されているそうです。

「宮台真司」という固有名詞を狙ったというより、「人を刺してみたかった」とか「殺してみたかった」というような、カミュの『異邦人』のような動機による事件と考えられなくもないのです。

もし、言論封殺を狙った思想的な背景によるものであれば、「赤報隊事件」や筑波大学の「悪魔の詩訳者殺人事件」のように、”難事件”などと言われ迷宮入りになる可能性はあるでしょう。通り魔や個人的な恨みによる犯罪であれば、早晩、犯人は捕まるような気がします。警察とはそんなものです。

事件後、ヤフコメなどには、遠回しに「宮台はやられて当然」みたいな書き込みが結構見られました。ミャンマー国軍に拘束され、先頃解放された映像作家の久保田徹氏についても、「自己責任」「自業自得」という書き込みがありましたが、もしかしたら、投稿した人間のかなりの部分は重なっているのかもしれません。

ヤフーは、先日、ヤフコメに投稿する際に携帯番号の登録を必須にしたことで、不適切な投稿が目に見えて減ったと自画自賛していましたが、ヤフコメが相変わらず下衆なネット民の痰壺、負の感情のはけ口であることにはいささかも変わりがないのです。水は常に低い方に流れるコメント欄を設置している限り、どんな対策を取っても同じです。不適切投稿の対策というのは、ヤフーの「やってますよ」というアリバイ作りにすぎないのです。

そんな中、公正取引員会が、ネットに記事を配信している新聞やテレビや雑誌などのメディアと、ヤフーやGoogleやLINEなどのポータルサイトやアプリの運営事業者との間で、適切な取り引きが行われているか、実態調査に乗り出すことになった、というニュースがありました。まず国内の新聞社やテレビ局、出版社など300社にアンケート調査を行い、今月7日までの回答を求めているそうです。

杉田水脈議員と同じような「ヘイトスピーチのデパート」(日刊ゲンダイ)と化しているヤフコメの背景に、ニュースをバズらせてページビューを稼ぎ、広告収入を稼ぐというヤフーの方針があるのはあきらかです。不適切な投稿を根絶するにはコメント欄を閉鎖するしかないのですが、ヤフーがコメント欄を閉鎖することは天地がひっくり返っても絶対にあり得ないでしょう。孫正義氏の”拝金思想”がそれを許すはずがないのです。

芦田愛菜が、ネットのCMで、ワイモバだと「5Gは無料です」とか「SIMはそのままで乗り換えできます」(eSIMの場合)とか「余ったデータを翌月に繰り越すことができます」などとアピールしていますが、そんなのは当たり前です。どこの会社でもやっていることです。むしろ、翌月繰り越しなどはワイモバが一番遅かったくらいです。それをあたかもワイモバイルのウリのようにCMで強調するところに、ヤフーという会社の体質がよく表れているように思います。

プラットフォーマーがユーザーに無断でネットの閲覧履歴などを収集し、それを個人の属性と紐づけて利用していることが問題視され、現在は一応、(有無を言わせないかたちで)ユーザーの承諾を得るようになっていますが、その閲覧履歴を自分で削除しようとしても、ヤフーの場合はほとんど不可能です。

Google(chrome)だと一括して削除することが可能ですが、ヤフーの場合は、1回にチェックを入れて削除できるのは30件だけです。

削除できるのは過去1年分のデータですが、たとえば、私の場合、「サイト閲覧履歴」は30万件ありました。全部削除しようと思うと、1件つづチェックを入れて削除する作業を1万回くり返さなければならないのです。「広告クリック履歴」は、6万件でした。こんなユーザーをバカにしたシステムはないでしょう。ヤフーに比べれば、Googleの方がまだしも良心的に思えるほどです。

ヤフコメはTwitterなどのSNSと比べて敷居が低く、その分低劣な投稿が集まりやすいのは事実でしょう。相互批判がないので、かつての2ちゃんねると比べても夜郎自大になりやすく、文字通り克己のない「バカと暇人」の巣窟になっているような気がします。

そもそもコメント欄に巣食う人間たちはただの・・・ユーザーなのか、という問題もあります。カルト宗教の信者たちが巣食っているのではないか、という指摘さえあるくらいです。

ヤフーの担当者が見ているのは、アクセス数だけです。彼らにとっては、アクセス数の多い記事ほどニュースの価値があるのです。彼らは、「もっとアクセスが多くなる記事を並べろ」「もっとバズらせろ」とハッパをかけられて、ニュースサイトを運営しているのです。そうやってニュースをマネタイズすることが仕事なのです。

記事を書いている記者たちは、自分たちが苦労して取材して書いた記事が、こんな扱いを受けていることに何も思わないのだろうかと思います。Yahoo!ニュースでは、記事の配信料もPV(閲覧数)などに基づいて計算されているそうです。記事をバズらせてPVを上げるためには、コメント欄はなくてはならないものです。「便所の落書き」という言葉がありましたが、記者たちが書いた記事は、まるで便所の尻ふきみたいに使われているのです。

一方で、前も書いたように、少しでもPVを稼ぐために、週刊誌やスポーツ新聞は、「便所の落書き」をまとめた”コタツ記事”を量産しています。炎上目的で書いているような”コタツ記事”も多いのです。

最近はさすがに、全国紙の記事にはコメントが投稿できないようになっていますが、ミソもクソも一緒にされることで、ネットの「バカと暇人」にオモチャにされ、いいように愚弄されていることには変わりがありません。ヤフーに記事を提供することで、記事の価値を貶め、その結果、読者離れを招いて、みずから首を絞めていることにどうして気が付かないのかと思います。

ウトロの放火事件のように、ヤフコメの中から英雄気取りの”突破者”が湧いて出ることだって当然あるでしょう。宮台真司氏は、「感情の劣化」ということを盛んに言っていましたが、GoogleがWeb2.0で提唱した「総表現社会」の行き着く先にあったのは、このようなネットで勘違いしたり、勘違いさせられた人間たちの、散々たる「感情の劣化」の光景なのです。しかも、それは、ネット特有の夜郎自大と結びついた、下衆の極みみたいなものになっているのです。


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(2022年11月)

先日、九州から喪中の挨拶のはがきが届きました。それは、私が九州にいた頃に毎日のように通っていた焼き鳥屋の主人からでした。店は夫婦二人でやっていたのですが、そのはがきで、私たちが「ママ」と呼んでいた奥さんが今年亡くなっていたことを知ったのでした。

九州の会社に勤めていた際、営業所に転勤になり、営業所のある町で一人暮らしをしていたのですが、焼き鳥屋はその町にありました。

赴任したのは、新設の営業所だったので、オープンして間もなく営業所のメンバーと親睦会を開いたときに、地元で採用された事務の女の子の提案で初めて行ったのを覚えています。地元の若者たちに人気の店で、いつも夫婦でてんてこまいしていました。

以来、何故か、私は酒も飲めないのに、その焼き鳥屋に通いはじめたのでした。やがて、よほどのことがない限り、ほぼ毎日通うようになりました。そのため、店に行かないと「どうしたの?」と心配して電話がかかってくるほどでした。

コロナ禍前に帰省したときも店に行きましたが、そのときは夫婦とも元気でしたので、はがきが届いてびっくりしました。「ママ」の享年は74歳だったそうです。もうそんな年になっていたとは思ってもみませんでした。

また、はがきには、自分も来年80歳になるので、これを機会に店を畳むことにした、と書いていました。また、年始の挨拶も今年限りで遠慮したいとも書いていました。

何事にも時計の針が止まったままのような感覚の中にいる私は、ショックでした。そんなわけがないのですが、いつまでも何も変わらないように思っていたからです。

同じ町内に、当時の会社の先輩だった人が住んでいるので、電話してみました。その人は、親類の会社を手伝うために、私と入れ替わるように会社を辞めたので、会社にいた頃はほとんど交流はありませんでした。ところが、親戚の会社が営業所と同じ町内にあり、その人ものちに町に転居してきたことで、急速に親しくなったのでした。今でも帰省するたびに会っていますが、癌に侵されて何度も手術をしており、会うたびに「もうこれが最後かもしれないな」と言われるのです。それで、電話するのを一瞬ためらいましたが、しかし、喪中の挨拶が来てないので大丈夫だろうと思って、勇気を奮って電話したのでした。

電話の様子ではまだ元気な様子で安心しました。今年は前立腺癌の手術をしたそうです。その前に胃癌と膀胱癌の手術もしています。それでも、体調がいいと海に魚釣りに出かけている、と言っていました。

話を聞くと、焼き鳥屋の「ママ」は病死ではなく、店の階段を踏み外して転落し、それが原因で亡くなったのだそうです。そんなことがあるのかと思いました。

先輩だった人の親類の会社も、私が上京したあとに倒産して、その際、社長だった義兄がみずから命を絶ったという話も、以前会ったときに聞きました。

その人から見れば甥っ子になる社長の息子二人とは、年齢が近いということもあって一時よく遊んでいたので、彼らのことを訊いたら、何と二人とも癌で亡くなったということでした。それこそいいとこのボンボンで、何不自由のない生活をしていましたが、晩年は倒産と病気で苦労したそうです。

電話で話しているうちに、”黄昏”という言葉が頭に浮かんできました。そうやって、昔親しかった人が次々と亡くなると、何だかひとり取り残されていくような気持になるのでした。年を取るというのはこんな気持になることなのか、と思いました。

翌日、久し振りに奥多摩の山に行ったら、膝が痛くなったということもあるのですが、ふと喪中のはがきや電話したことなどが思い出されて歩く気がしなくなり、途中で下りてきました。こんなことも初めてでした。


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また、床屋政談ですが、22県市の首長と地方議会の議員らが対象となる台湾の統一地方選の投開票が26日に行われ、与党の民主進歩党(民進党)が大敗し、蔡英文総統が選挙結果を受けて辞職を表明する、というニュースがありました。

今回の統一地方選は、2024年1月に行われる総統選の前哨戦として注目されていたのですが、台北市長選では蒋介石のひ孫で野党の国民党の蒋万安氏が当選するなど、民進党は21の県・市長選でポストを減らしたのでした。

この選挙結果について、日本のメディアでは「親中派の野党・国民党が勝利」という見出しが躍っていますが、ホントにそうなのか。

8月のナンシー・ペロシアメリカ下院議長の電撃的な台湾訪問をきっかけに、一気に米中対立なるものが浮上し、日本でも防衛力の強化が叫ばれるようになりました。

既に、政府・与党は、2023年度から向こう5年間の中期防衛力整備計画(中期防)の総額を、40兆円超とする方向で調整に入ったそうです。これは、現行(2019~23年度)の27兆4700億円から1.5倍近くに跳ね上がる金額です。

台湾の民進党も、大陸の脅威を前面に出して対中政策を争点にしようとしたのですが、それが逆に裏目に出て、今回は蔡政権誕生を後押しした若い層の反応も鈍かったと言われています。

今回の選挙結果は、必ずしも「親中派の勝利」ではなく、アメリカが煽る米中対立に対する国民の懸念が反映されたと見ることができるように思います。米中対立に対して、台湾国民は冷静な判断を下したのではないか。

8月のナンシー・ペロシ下院議長の電撃的な台湾訪問は、きわめて不純な意図をもって行われたのは間違いありません。わざわざ米軍機を使って訪台し、中国を挑発したのです。それでは、中国も外交上「やるならやるぞ」という姿勢を見せるしかないでしょう。

ジョー・バイデンは、ウクライナ支援でも取り沙汰されていましたが、巨大軍需産業とのつながりが深い大統領として有名です。ウクライナ侵攻では、各国の軍需産業が莫大な利益を得ており、株価も爆上げしています。

唯一の超大国の座から転落したアメリカは、もはや世界の紛争地に自国軍を派遣する“世界の警察官”を担う力はありません。相次ぐ大幅利上げに見られるように、経済的にも未曽有のインフレに見舞われ苦境に陥っています。

トランプが共和党の大統領候補になることは「もうない」と言われていますが、しかし、トランプが主張した「アメリカ・ファースト(アメリカ第一主義)」は、民主・共和党を問わず、アメリカの本音でもあるのです。

そこで新たな戦略として打ち出されたのが、“ウクライナ方式”です。しかし、今回の選挙結果に見られるように、台湾の国民は、ウクライナの二の舞になることを拒否したのです。

アメリカと一緒になって徒に大陸を刺激する蔡政権にNOを突き付けることによって、戦争ではなく平和を求めたのだと思います。「親中」とか「媚中」とかではなく、ただ平和を希求しただけで、それが大陸に対して融和策を取る野党に票が集まる結果になったのです。

台湾と日本は立場が異なるので一概に比較はできませんが、日本の議会では、アメリカの戦略に正面から異を唱える政党が、共産党やれいわ新選組のような弱小政党を除いてありません。その選択肢の欠如が、アメリカの尻馬に乗った「防衛力の抜本的な強化」という同調圧力をさらに増幅させることになっているのはたしかでしょう。

‥‥‥

それは、今のワールドカップでも言えることです。国別の対抗戦であるワールドカップが、ナショナリズムとむすびつくのは仕方ないとは言え、しかし、同時に、ボール1個があれば誰でもできるサッカーは、競技人口がもっとも多いスポーツで、それゆえに「世界」と出会うことのできる唯一のスポーツでもある、と言われているのです。

主にヨーロッパ各国の選手やサッカー協会(連盟)がカタール開催を決定したFIFAに反発して、カタールの人権問題やFIFAの姿勢を批判しているのも、サッカーが単に偏狭なナショナリズムの発露の場だけではなく、「世界」と出会うことができるインターナショナルなスポーツだからなのです。

一方、FIFAのインファンティーノ会長が、ヨーロッパでカタールの人権問題に批判が集まっていることに対して、「私は欧州の人間だが、欧州の人間は道徳的な教えを説く以前に、世界中で3000年にわたりやってきたことについて今後3000年謝り続けるべき」「一方的に道徳的な教えを説こうとするのは単なる偽善だ」、と中東の金満国家のガスマネーに群がったFIFAの所業を棚に上げて、フランツ・ファノンばりの反論を行っていたのには唖然とするしかありませんでした。

また、FIFAは、ヨーロッパ7か国のキャプテンが、LGBTへの連帯を示す虹色のハートが描かれた腕章を巻いてプレーすることに対しても、イエローカードを出すと恫喝して中止させたのでした。

そんなFIFAの妨害にもめげずに、オーストラリアの選手たちはカタールの人権侵害を批判するメッセージを動画で発信していました。ドイツやイングランドの選手たちも試合前のセレモニーで抗議のポーズを取っていました。また、イランの選手たちは、自国政府の女性抑圧に抗議して、国家斉唱の際に無言を貫いたのでした。それに比べると、カタール大会の問題などどこ吹く風の日本代表の選手たちは、まるで甲子園に出場した高校生のように見えました。彼らの多くはヨーロッパのクラブに所属していますが、BTSと同じような「勝てば官軍」みたいな野蛮な(動物的な)考えしかないかのようでした。それは、サッカー協会もサポーターも同じです。もちろん、韓国も似たようなものです。文字通り、スポーツウォッシングと言うべきで、はなからサッカーを通して「世界」と出会う気もさらさらないし、そういうデリカシーとも無縁です。

そして、メディアは、災害復興プロジェクトから招待された応援団が、日の丸を背にスタンドでゴミ拾いをするパフォーマンスを取り上げて、「世界から称賛」などと、まるで”お約束事”のように「ニッポン凄い!」をアピールするのでした。と思ったら、案の定、疑惑の渦中にある秋葉賢也復興相が、みずからのTwitterで件の災害復興プロジェクトに触れていました。それによれば、「日本の力を信じる」なるスローガンを掲げ、災害に遭った高校生をカタール大会に招待した災害復興プロジェクトは、国家が多額の公金を出して後押ししたものだったのです。

莫大な放映権料を回収するために動員されたサッカー芸人たちが、朝から晩までテレビで痴呆的な”応援芸”を演じているのも、うんざりさせられるばかりでした。どのチャンネルに切り替えても同じような企画の番組ばかりで、口にしている台詞も同じです。

日本VSドイツに関して言えば、ドイツが今ひとつチグハグな感じがあったものの、サッカーにあのような番狂わせはつきものなのです。その一語に尽きるように思いました。「人権問題などに関わっているからだ」「ざあまみろ」という日本人サポーターの声が聞こえてきそうですが、たまたま運が日本の味方をしただけです。

ドイツ戦のヒーローとして、浅野拓磨や堂安律やGKの権田修一が上がっていますが、ヒーローと言うなら後半途中から出場してドリブルで流れを変えた三笘薫でしょう。その意味ではまともに解説していたのは、私の知る限り闘莉王だけだったと思いました。

ちなみに、今日対戦するコスタリカは、非武装中立を掲げる国で常備軍を廃止しています。アメリカの没落で南米のほとんどの国が左派政権になったということもあり、現在も非武装中立を堅持しているのでした。また、LGBTや移民政策なども、カタールや日本よりはるかに進んでいます。

世界経済フォーラムが発表したジェンダーギャップ指数(男女平等格差指数)の2022年版でも、コスタリカは12位ですが日本は116位です。コスタリカは軍事費が少ないということもあって経済的にも豊かな国なのです。少なくとも、ウクライナのアゾフ連隊のようなサポーターとは無縁な国のはずです。

サッカーはルールも簡単で、わかりやすく面白いスポーツなので、熱狂するのもわかりますが、しかし、サッカーの背後にある「世界」に目を向ける冷静さも忘れてはならないのです。「勝てば官軍」ではないのです。

追記:
コスタリカは後半の唯一のシュートが決勝点になった(それも吉田のクリアミスのボールを)という、如何にもサッカーらしいゲームでした。コスタリカVSスペインのときのスペインのように、日本は圧倒的にボールを支配しゲームをコントロールしていたにもかかわらず、スペインのような決定打が欠けていたのです。ニワカから見ても、海外でプレイしている選手が多いわりには、まだ個の力が足りないように思いました。いくら合掌してお題目を唱えても、浅野に2匹目のドジョウを求めるのは酷というものです。サッカーは偶然の要素が大きいスポーツですが、何だか運をドイツ戦で使い切っていたことにあとで気づかされたような試合でした。


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2022.11.27 Sun l 社会・メディア l top ▲
いつもの床屋政談ですが、更迭した寺田総務相のあとに就任した松本剛明新総務相に関しても、就任早々、共産党の赤旗が、政治資金パーティーで収容人数が400人の会場にもかかわらず、1000人分のパーティー券を販売した”疑惑”を報じたのでした。パーティーに出席しない人の購入分は、政治資金規正法では寄付に当たるのですが、松本総務相の資金管理団体は「寄付」と報告してないそうで、政治資金規正法違反の疑いがあるというものです。

普段なら赤旗を無視する大手メディアも、さっそく食いついて大きく報道しています。そのため、岸田首相も「本人から適切に説明すべきだ」と発言をせざるを得なくなったのでした。あきらかに岸田首相に、メディアの前で“弁明”させるように仕向けた“力”がはたらいているように思えてなりません。まるで次は松本新総務相だと言わんばかりです。

さらに追い打ちをかけるように、国会の予算委員会の大臣席で、何故か水を飲むためにマスクを外した写真ばかりが掲載されている秋葉賢也復興相についても、公設秘書2人に対して、選挙期間中、給料とは別に運動員としての報酬を支払っていたことを「フライデー」が報じ、公職選挙法違反の疑いが指摘されているのでした。秋葉復興相については、他に、次男を候補者のタスキをかけて街頭に立たせていたという、とんでもない”影武者”疑惑も持ち上がっています。まさに際限のないドミノ倒しの様相を呈していると言えるでしょう。

そして、きわめつけ、と言うかまるでトドメを刺すように、岸田首相についても、文春オンラインが、昨年の衆院選における選挙運動費用収支報告書で「宛名も但し書きも空白の白紙の領収書94枚を添付」していたことが判明し、これは「目的を記載した領収書を提出することを定めた公職選挙法に違反する疑いがある」と報じたのでした。私たちが若い頃は、文春は内調(内閣情報調査室)の広報誌とヤユされていました。それが今や「文春砲」などと言われて、やんやの喝采を浴びているのです。

言うまでもなく、その背後に、自民党内の権力闘争が伏在しているのは間違いないでしょう。衆参で絶対的な勢力を持ち、しかも、向こう3年間選挙がない「黄金の3年」だからこそ、選挙を気にせず思う存分権力闘争に注力できるという裏事情も忘れてはならないのです。

SAMEJIMA TIMESの鮫島浩氏によれば、岸田首相の足をひっぱっているのは、自民党の茂木敏充幹事長、萩生田光一政調会長、麻生太郎副総裁、それに、松野博一官房長官だそうです。それがホントなら、岸田首相はもはや四面楚歌と言っていいでしょう。岸田政権のダッチロールが取り沙汰されるのは当然です。

SAMEJIMA TIMES
倒閣カウンドダウン「岸田降ろし」が始まった!

岸田首相は来年5月のG7広島サミットまで何とか総理大臣の椅子にしがみつくのではないか、と鮫島氏は言ってましたが、広島サミットを花道にするなどという、そんな予定調和の権力闘争なんてあるんだろうか、と思いました。その前に、一部で観測されているように、岸田首相が伝家の宝刀を抜いて、起死回生の解散総選挙に打って出る可能性だってあるかもしれません。そうなったら、選挙後には、鮫島氏が言う”増税大連立”構想が(もし事実なら)俄然現実味を帯びてくるでしょう。

「またぞろ国民そっちのけの権力闘争」というお定まりの声が聞こえてきそうですが、しかし、そこには、衆愚政治に踊らされ、何ががあっても自民党に白紙委任する日本の有権者の愚鈍な姿も二重映しになっているのです。愚鈍な有権者のお陰で、政治家たちは心置きなく高崎山のボス争いのような権力闘争に心を砕くことができるのです。

昔、「田舎の年寄り」が自民党を支えているという話がありました。「田舎の年寄り」というのは、日本の後進性を体現する、言うなれば”寓意像アレゴリー”としてそう言われたのでした。しかし、世代が変わって、都会生まれの若者が年寄りになっても、何も変わらなかったのです。相も変わらず国家はお上なのです。

みんながスマホを持つようなネットの時代になっても、昔、政治は二流でも経済は一流と言われたのが、経済までが二流になっても、国民の政治に対する意識は何も変わらず次の世代に引き継がれたのです。これは驚くべきことと言わねばなりません。

「批判するだけでは何も変わらない」と言う人がいますが、批判しないから、批判が足りないから何も変わらないのではないか。無党派層や投票に行かない無関心層を何とかすれば、政治が変わるようなことを言う人がいますが、そんな簡単な話なんだろうか、と思います。そういった政治にアパシーを抱いている人々が投票所に足を運ぶようになったら、逆に、むき出しの全体主義に覆われる怖れだってあるのではないか。彼らは必ずしもリベラルが願うような“賢明な人たち”だとは限らないのです。

昔、「デモクラティック・ファシズム」という言葉がありました。私は、二大政党制を理想視して、労働戦線の右翼的再編=連合の誕生と軌を一にして誕生した旧民主党の存在を考えるとき、(本来の意味とは多少異なりますが)その言葉を思い出さざるを得ないのです。左右の「限界系」を排した中道の道が左派リベラルが歩む道だというような「野党系」の講壇議会主義がありますが、今の立憲民主党を見るにつけ、”中道”を掲げて翼賛体制に突き進む、シャンタル・ムフの指摘を文字通り地で行っているように思えてなりません。私は、「立憲民主党が野党第一党である不幸」ということを口が酸っぱくなるくらい言ってきましたが、それは換言すれば、野党ならざる政党が野党である不幸なのです。

それにしても、立憲民主党に随伴する左派リベラルのお粗末さよ、と言いたくなります。彼らは、立憲民主党が目指しているのが自分たちが求めている政治とは真逆のものだということがどうしてわからないのか、と思います。連合に対しても然りです。

福島第一原子力発電所の事故をきっかけにあれほど盛り上がった反原発運動も、野田佳彦首相(当時)との面会で、風船の空気がぬけるようにいっきにしぼんでしまったのですが、その失敗を安保法制反対の国会前行動でも繰り返したのでした。誰がその足をひっぱってきたのか。

れいわ新選組の長谷川羽衣子氏が鮫島氏との対談で、アメリカのオキュパイ運動を例に出して、社会を変えるには、議会政党も社会運動の中から生まれ、社会運動と共振したものでなければダメなんだ、というようなことを言っていましたが、まったくそのとおりです。私も何度もくり返してきましたが、ギリシャのシリザでもスペインのポデモスでもイギリスのスコットランド国民党でもフランスの不服従のフランスでもイタリアの五つ星運動でもみんなそうです。選挙の結果には紆余曲折があり、必ずしもかつての勢いがあるとは言えませんが、しかし、少なくとも野党というからには、社会運動を背景にし社会運動と共振した政党でなければ野党の役割を果たせないのは自明です。

言うまでもないことですが、松下政経塾や官僚出身の議員や、秘書としてそういった議員から薫陶を受けた議員たちには、東浩紀などと同じように、上から政治のシステムを変えればいいというような、政治を技術論で捉える工学主義やエリート主義があります。その意味では、官僚機構に支えられた政権与党と同じなのです。だから、必然的に財政再建派にならざるを得ず、”増税政党”としての性格を帯びざるを得ないのです。おそらく彼らの頭の中は増税一択なのでしょう。福祉のため、財政再建のためという口実の下、今度は軍備増強のための増税に与するのは目に見えています。

昔、「田舎の年寄り」が支えると言われた政治が、世代を変わっても何も変わらず私たちの上に君臨しているのも、社会運動から生まれた真に変革を志向する政党がないからです。それは、右か左かではありません。上か下かなのです。そして、求められるべきは下を代弁する政党なのです。


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2022.11.24 Thu l 社会・メディア l top ▲
アマゾン


案の定と言うべきか、Twitter、メタに続いてアマゾンもリストラに着手するというニュースがありました。ほかの記事と合わせると、どうやらキンドルやエコーなどのデバイス部門やリテール部門、それに人事部門が削減の対象になるようです。

Yahoo!ニュース(11月18日)
AFP BB NEWS
米アマゾン、人員削減に着手

もっとも、記事にあるように、アマゾンの従業員は正社員だけで162万人もいるのですから、1万人といっても0.6%にすぎません。Twitterやメタに比べると、同じリストラでも全体に占める割合は微々たるものです。一方で、今年に入って時間給のアルバイトやパート6万人を、既にリストラしているという話もあります。

アメリカのアマゾンの業績については、下記の記事が詳しく伝えていました。

日経クロステック(10月31日)
米Amazonの2022年7~9月期決算は5割減益、AWSにも景気の逆風

記事によれば、直近の2022年7~9月期の売上高は「前年同月比15%増の1271億100万ドル(約18兆5900億円)でしたが、営業利益は48%減の25億2500万ドルで増収減益」だったそうです。

主力の通販事業は7%増加して534億8900万ドルです。増加した要因は、「2021年は6月に開催した有料会員向けのセールであるプライムデーを2022年は7月に実施した」からだそうです。と、例年どおり6月にプライムデーを実施していたら、もっと厳しい数字になったことをみずから認めているのでした。

もう1つの主力事業の(と言うか、いちばんドル箱の)ホスティングサービスのAWS (アマゾンウェブサービス)にも逆風が吹いており、「売上高は前年同期比27%増の205億3800万ドルと伸びたものの、(略)金融、住宅ローン、暗号通貨などの業界で需要が減少している」そうです。

しかも、エネルギーコストの上昇も重荷となっていて、「電気や天然ガスの価格が高騰し、『この数年で2倍になった。これはAWSにとって初めての経験だ』」という、オルサブスキーCFOの言葉も紹介されていました。

これは、7~9月期の話ですから、今はもっとコストの上昇に喘いでいるはずです。それが今回のリストラのひきがねになったのは間違いないでしょう。

デジタルと言っても、電気がないと“宝のもち腐れ”です。アマゾンのCEOが言うように、デジタルの時代も電気や天然ガスに依存せざるを得ず、近代文明を支えてきた“エネルギー革命”から自由ではないのです。デジタルの時代というと、まったく新しい文明が訪れたかのような幻想がありますが、所詮は今ある近代文明の枠内の話にすぎないのです。だからこのように、リストラ(人員整理)などという、古典的な(あまりに古典的な!)資本の矛盾からも逃れることができないのです。

私がネットをはじめた頃は、「無料経済」という言葉が流行っていました。それは結構衝撃的な言葉でした。しかし、厳密に言えば無料ではなかったのです。だから、「無料経済」という言葉も死語になったのかもしれません。

言うまでもなく、私たちが無料でサービスを利用できるのは広告があるからです。最初は、簡単なシステムでしたが、グーグルが登場してから、グーグルが私たちの個人情報を収集してそれを広告主に提供したり、より効果のある広告を出すために利用するようになったのです。つまり、ネットが「タダより怖いものはない」世界になったのでした。

アレクサに日常生活を覗き見られることで、個人の趣味や嗜好だけでなく、その家族の生活や人生にまつわる仔細な情報が抜き取られる怖さが一部で指摘されていましたが、多くの人たちはそこまで考えることはなく、ただ「便利だからいいじゃん」という受け止め方しかありませんでした。それは、マイナンバーカードなども同じです。考え方が新しいか古いかという、ほとんど意味もない言葉でみずからを合理化しているだけなのです。

とは言え、我が世の春を謳歌しているように見えるデジタルの時代であっても、過剰生産恐慌のような資本主義の宿痾と無関係でいられるわけではないのです。今、私たちが見ているのは、エネルギー価格の高騰によってサーバーの維持管理費の負担が大きくなったり、景気の減速で収益源である広告費が頭打ちになったりして、デジタル革命を牽引してきたプラットフォーマーが打撃を受けているという、資本主義社会ではおなじみの(あまりにもおなじみの!)光景にすぎません。

一方、共同通信は、アマゾンのリストラのニュースが流れた中で、それとは真逆の記事を掲載していました。

Yahoo!ニュース(11月18日)
KYODO
アマゾン、日本に長期投資 チャン社長「成長余地たくさん」

しかし、チャン社長の発言は、どう見ても、外交辞令、リップサービスだとしか思えません。その証拠に、記事は次のように書いていました。

 チャン氏は「成長余地はたくさんある」と強調した。一方で、世界的な景気減速懸念が強まる中、日本への短期的な投資や雇用の方針は「全世界の変動で、日本にどのような影響があるのかによって変わる」と述べるにとどめた。


では、アマゾンジャパンの売上げはどうなっているのか。

2021年の日本事業の売上高は230億7100万ドルで前年比12.8%増です(2020年の日本事業売上高は204億6100万ドルで前年比27.9%増)。1ドル110円で換算すると、2兆5378億1000万円です。

しかし、世界の売上高に占める日本事業の割合は4.9%にすぎません。2010年は14.7%でした。それ以後下がり続けてとうとう5%を切ってしまったのでした(2020年は5.3%)。また、欧米の伸び率はほぼ20%を超えていますが(アメリカだけが19.2%増)、主要国では日本の伸び率(12.8%増)だけが際立って低いのでした。だから、「成長の余地がある」という話なのか、と皮肉を言いたくなりました。

①日本事業シェア推移(%)
(売上げ金額は省略)
2010年 14.7
2011年 13.7
2012年 12.8
2013年 10.3
2014年  8.9
2015年  7.7
2016年  7.9
2017年  7.7
2018年  5.9
2019年  5.7
2020年  5.3
2021年  4.9

②主要国別シェア(%)
2021年の売上高(金額省略)
アメリカ 66.8
ドイツ 7.9
イギリス 6.8
日本 4.9
その他13.5

③主要国伸び率(%)
2021年売上高(金額省略)
アメリカ 19.2
ドイツ 26.3
イギリス 20.5
日本 12.8
その他 38.0


アマゾン全体の項目(業界用語で言うセグメント)別の売上高を見ると、以下のとおりです。

2021年度売上
4698億2200万ドル(前年比21.7%増)
51兆2015億800万円(1ドル=109円)
純利益
333億6400万ドル(56.4%増)
3兆6366億7600円(同)

①直販(オンラインストア)
2220億7500万ドル(12.5%増)
②実店舗(ホールフーズ)
170億7500万ドル(5.2%増)
③マーケットプレイス(手数料)
1033億6600億ドル(28.5%増)
④サブスクリプション(年会費等)
317億6800万ドル(26.0%増)
⑤AWS
662億200万ドル(37.1%増)
⑥広告
311億6000億ドル(前年項目なし)


伸び率がもっとも低いのが「実店舗」の5.2%増で、その次に低いのが「直販」の12.5%増です。ちなみに、「直販」の売上金額は、全体の47.3%を占めています。

こうして見ると、物販の効率がいかに悪いかがわかります。利益率が公表されていませんが、マーケットプレイスの手数料やプライム会員の年会費のようなサブスクに比べると、「直販」の利益率が桁違いに低いのは想像に難くありません。もちろん、「直販」が柱になることで、プライム会員やマーケットプライスなど利益率の高いビジネスが可能になっているのはたしかですが、そのためにあれだけの物流倉庫を抱え、そこで働く人員を揃え、莫大な物流経費を負担しているのです。

アマゾンの看板であるEC事業は赤字で、アマゾン自体はドル箱であるAWSで「持っている」という話は昔からありますが、こうして見ると、あながち的外れではないように思います。

ネット通販をやっていた経験から言っても、ネット通販は言われるほどおいしい商売ではありません。もちろん、実店舗を構えるよりコストは安いですが、敷居が低い分、競争も激しいので売上げを維持するのは大変です。アマゾンのような既存の商品をメーカーや問屋から仕入れて小売する古典的なビジネスでは、利益率はたかが知れているのです。

ネットは金を掘る人間より金を掘る道具を売る人間の方が儲かるというネットの”鉄則”に従えば、マーケットプレイスの方がはるかにおいしいはずです。

楽天と比べてアマゾンはワンストップでいろんなものが買えるので、ユーザーには至極便利ですが、それもアマゾンだからできるとも言えるのです。だから、アマゾンに対抗するようなECサイトが出て来ないのです。ヨドバシカメラがドン・キ・ホーテのように戦いを挑んでいますが、売上高はまだアマゾンの10分の1にすぎません。

ネットが本格的に私たちの生活の中に入って来るようになっておよそ20年ですが、資本主義に陰りが見えるようになった現在、ネットビジネスも大きな曲がり角を迎えているのは間違いないでしょう。
2022.11.22 Tue l ネット l top ▲
朝日新聞


別に最近YouTubeの鮫島浩氏のチャンネルを観ているからではないのですが、朝日新聞のテイタラクをしみじみ感じることが多くなりました。

YouTube
SAMEJIMA TIMES

今更の感がありますが、やはり、貧すれば鈍すという言葉を思い出さざるを得ないのです。

昨日(11月20日)の朝日には、旧統一教会の問題に関連して、被害者救済を柱とした新法の概要が明らかになり、それに対して、野党や被害者救済に取り組んでいた弁護士や元信者らが「実効性が低い」と反発している、という記事が出ていました。

しかし、鮫島氏のYouTubeによれば、新法は今国会で成立することが水面下で野党(立憲と維新)と合意ができているというのです。寺田総務相の辞任は想定外だったけど、それも野党に手柄を与えるプレゼントになるのだと。

たしかに、ひと月で3人の大臣が辞任したのは“異常”ですが、そうまでして野党(立民)に花を持たせるのは、その背後に大きな合意があるからだと言うのです。それは、鮫島氏の言葉を借りれば「増税大連立」です。

鮫島氏は、財務省の仲介で自民党の宏池会と立憲民主党が“野ブタ”こと野田佳彦元首相を首班に、消費税増税を視野に「大連立」を組む話が進んでいると言うのですが、ホントでしょうか。

立憲民主党が民主党政権時代の三党合意に縛られているのはたしかでしょう。野田政権で副総理を務めた岡田克也氏と財務相を務めた安住淳氏が執行部に復帰したり、前代表の枝野幸男氏が、2021年10月の衆院選の(野党連立の)公約で掲げた「時限的な5%への消費税減税」を「間違いだった」「二度と減税は言わない」と発言するなど、立憲民主党が財政再建を一義とする“増税政党”としての本音を露わにしつつあるのは事実です。さらに、政府の税務調査会が、増税のアドバルーンを上げたりと、既に消費税増税の地ならしがはじまっているような気がしてなりません。

野田首班による「大連立」というのは俄かに信じられませんが、その背後に、自民党内の宏池会と清話会の対立も絡んでいるというのはわかるような気がします。閣僚の辞任ドミノの“異常事態”は、「支持率の低下」「野党の追及」だけでなく、むしろ、自民党内の権力闘争という視点から見た方がリアルな気がします。

でも、メディアには、そういった報道は一切ありません。財務省の思惑や党内の権力闘争など、はなから存在しないかのようで、“与野党対立”という定番の記事で埋められているだけです。それは朝日も例外なくではなく、この前まで同じ会社の記者だった鮫島氏とは際立った対象を見せているのでした。

それは、しつこいようですが、ワールドカップカタール大会の報道も同じです。カタールの人権問題に対してヨーロッパの選手団の間でさまざまな抗議の動きがありますが、そういった報道は申し訳程度にあるだけで、紙面の多くは「ニッポンがんばれ!」の翼賛記事で覆われているのでした。

大会関連の工事に従事した出稼ぎ労働者6500人が亡くなっていたとスクープしたのはイギリスのガーディアン紙で、それにカタール開催に批判的だったヨーロッパのサッカー界は即反応し、各メディアも追加取材に走ったのですが、それに比べると、日本のクオリティペーパーを自負する朝日の反応の鈍さは一目瞭然です。開会式の翼賛記事も「痛い」感じすらありました。

今の朝日新聞は、外にあっては権力のパシリを務め、内にあっては出世のために同僚の梯子を外すことしか考えてないような、下衆なサラリーマン根性が蔓延するようになっていると言われます。そんな公務員のような事なかれ主義を処世訓とする、風見鶏のような人間たちが経営陣を占めるようになった朝日新聞は、”朝日らしさ”をなくし、ジャーナリズムとして末路を歩みはじめているような気がしてなりません。それでは、ニューヨークタイムズのような紙からデジタルへの転換もうまくいかないでしょう。

ビデオニュースドットコムの神保哲生氏は、鮫島浩氏をゲストに迎えた下記の番組の「概要」で、朝日新聞について、次のように書いていました。

ビデオニュースドットコム
マル激トーク・オン・ディマンド (第1117回)
なぜ朝日新聞はこうまで叩かれるのか
ゲスト:鮫島浩氏


 鮫島氏の話を聞く限り、今や朝日新聞という組織はとてもではないが、リベラル言論の雄を引き受けられるだけの矜持は持ち合わせていないように見える。しかし、問題は朝日がいい加減なことをやれば、これまでリベラル派からやり込められ、リベラルに対して怨念を抱く保守派は嵩に懸かって攻勢に出る。そして、朝日がむしろ社内的な理由から記事の訂正や撤回に追い込まれることにより、リベラルな主張や考え方自体が間違っていたかのようにされてしまう。日本では今もって朝日新聞は、少なくとも一部の人たちにとってはリベラル言論の象徴的な存在なのだ。それは逆の見方をすれば、朝日はもはや組織内ではリベラルメディアの体をなしていないにもかかわらず、表面的にはリベラルの旗を上げ続けることによって、日本のリベラリズムの弱体化を招いているということにもなる。
(略)
 今となっては、朝日はリベラルだから叩かれるのではなく、実際にはリベラルとは真逆なことを数多くやっていながら、表面的にリベラルを気取るから叩かれるというのが、事の真相と言えるかもしれない。だとすれば、今朝日がすべきことは、言行を一致させるか、リベラルの旗を降ろすかの二択しかない。


たしかにその通りなのです。正直言って、20代の頃からの読者である私の中にも、朝日に対して「リベラル言論の象徴的な存在」のような幻想が未だ残っています。しかし、ほとほと嫌気がさしているのも事実です。

朝日の発行部数は、最盛期の半分まで落ちているそうですが、朝日を「リベラル言論の象徴的な存在」のように思っているコアな読者が離れたら、それこそ瓦解はいっきに進むでしょう。あとは不動産管理会社として細々と生きていくしかないのです。

(別にこれは朝日に限りませんが)朝日新聞は、政局でもワールドカップでも、そしてウクライナ侵攻でも、米中対立でも、伝えるべきことは何も伝えてないのではないか。ジャーナリズムの本分を忘れているのではないか。最近は特にその傾向がひどくなっているように思えてなりません。文字通り、堕ちるところまで堕ちたという気がしてならないのです。
2022.11.21 Mon l 社会・メディア l top ▲
明日(11月20日)開催されるFIFAワールドカップカタール大会の開会式のイベントに出演するために、BTSのジョングクが韓国を旅立った、というニュースがありました。彼は、大会の公式サウンドトラックも担当しているそうです。

カタール大会については、前の記事でも書きましたが、関連施設の建設に従事した出稼ぎ労働者が過酷な労働で6500人も亡くなったという話や、カタール政府のLGBTの迫害や女性に対する抑圧などに抗議して、ロッド・スチュワートやデュア・リパが出演を辞退しています。また、選手の間でもさまざまな抗議の動きがあります。そんな中、ジョングクはイベントで(まるでぬけがけのように)パフォーマンスを披露するのです。

折しも、今日の朝日新聞に、「BTSから考える『男らしさ』の新時代」という、元TBSアナウンサーの小島慶子のインタビュー記事が掲載されていました。聞き手は伊藤恵里奈という女性記者です。

朝日新聞デジタル(11月19日)
ジェンダーを考える 第6回
BTSから考える「男らしさ」の新時代 過ちを認め、学び、変化する

その中に次のような箇所がありました。

 ――BTSのデビューは13年。15年から16年ごろ、歌詞が「女性差別だ」と批判を受けました。例えば女性の外見を批評して「女は最高のギフト」としたほか、「食事を目で食べるっていうのか? 女みたいに」と女性を見下す表現がありました。

 当時、韓国ではフェミニズム運動の高まりを受けて、BTSだけでなく色々なK-POPアイドルの歌詞や言動が批判されました。

 BTSは時間はかかったものの、「女性蔑視の表現だった」と認めて、公式に謝罪しました。

 ――かつては、彼らも誤っていた、ということですね。

 そうです。その後は、ジェンダー問題の専門家の意見を交えながら、無意識のうちに内面化されてきた女性差別的な視点が出ないように、本気で学んだのです。


しかし、カタールはイスラム国家であるため、女性の権利は著しく制限され抑圧されています。もちろん、前の記事で書いたように、LGBTへの弾圧も日常的に行われています。カタールの法律では、同性愛の最高刑は死刑と規定されており、実際に死刑になった例もあると言われています。

BTSのどこが「女性蔑視」の誤りを認め、フェミニズムを「本気で学んだ」と言えるのでしょうか。歌詞についての”学び直し”も、所詮はビジネス上の損得勘定によるものにすぎなかったのではないか。まして、韓国は、日本以上に家父長制的な男尊女卑の考えが残る社会です。BTSもそんな風土で育った若者たちです。だから、何の疑いもなくあんな歌詞を書いたのでしょう。

その上、カタールは、出稼ぎ労働者に対する「カファラシステム」という事実上のドレイ制度さえ存在する国です。出稼ぎ労働者の多くはBTSと同じアジアから来た人たちです。BTSは、国連などでは立派な発言をしていますが、目の前の人権侵害に対しては一片のナイーブな感性さえ持ち合わせてないのか、と言いたくなります。

私は、『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)の中で、著者の朴裕河パクユハが、ベトナム戦争に参戦した韓国軍の兵士たちが「過去に日本やアメリカがしてきたことをベトナムでした」と書いていたのを思い出しました。念の為に言えば、それは、現地の女性に対する性暴力のことです。

経済的に発展して先進国の仲間入りをした今の韓国人たちは、発展途上のアジアの国の人々に対して、かつて日本人が自分たちを視ていたのと同じような目で視ているのではないか。そう思えてなりません。

朝日の記事で、小島慶子が開陳した“BTS論”は、どう見ても“買い被り”です。BTSは、ロッド・スチュワートやデュア・リパのような自分の言葉を持ってないのです。ただ持っているふりをしているだけです。「Love Myself」キャンペーンや国連でのスピーチも、世界進出のためのポーズだとしか思えません。それが、世界の市場を相手にする(せざるを得ない)K-POPと、「パラダイス鎖国」で完結するJ-POPの大きな違いなのです。

たしかに、世界的なイベントに呼ばれるだけでも凄いとは思いますが、それで無定見にホイホイ出かけていく姿を見て、(言い方は悪いですが)化けの皮がはがれたという気がしないでもありません。もしかしたら、(契約上)仕方なくジョングクひとりだけ行った、などと言ってまたぞろ詭弁を弄して言い訳するのかもしれませんが、私たちはもういい加減眉に唾して聞いた方がいいでしょう。
2022.11.19 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
ワールドカップボール


2022FIFAワールドカップ・カタール大会が11月20日に開幕します。大会が迫るにつれ、メディアは、グループリーグでスペイン・ドイツ・コスタリカと同じ「死の組」に入った日本は、果たして決勝トーナメントに勝ち進むことができるか(進めるわけがない)、勝機はどこにあるか(あるわけない)、という話題で連日(空しい)盛り上がりを見せています。というか、サッカー人気に陰りが出てきた中で、そうやって180億円とも200億円ともはたまた350億円とも言われる、放映権料(非公表)に見合うだけのテレビの視聴率を上げようと躍起になっているのでしょう。

しかし、今回のカタール大会においては、開催に疑問を持つ意見が多く、大会に際して、欧州のサッカー協会や選手たちから抗議の声があがっており、具体的に抗議の意思を示す流れも広がっているのでした。

と言うのも、カタール政府は、ワールドカップ開催に対して、約3000億ドル(43兆円)の巨費を投じて、スタジアムや宿泊施設、それに道路や鉄道などのインフラの工事が行ったのですが、イギリスのガーディアン紙によれば、開催が決定してからこの10年間で、工事に従事したインドやパキスタンやバングラデシュやフィリピンやネパールなどからやって来た出稼ぎ労働者6500人以上が、劣悪な労働環境の中で命を落とした、と言われているからです。

アムネスティの報告でも、中東特有の酷暑と長時間労働によって、多くの出稼ぎ労働者が犠牲になっていることを伝えています。

アムネスティ
カタール:酷暑と酷使で亡くなる移住労働者 悲嘆に暮れる母国の遺族

IOL(国際労働機関)も調査に乗り出して、2021年11月に報告書をまとめています。それによれば、カタール政府が運営する病院と救急サービスからワールドカップ関連の事案を収集した結果、2021年だけで50人の労働者が死亡し、500人以上が重傷を負い、さらに3万7600人が軽・中等の怪我を負っていると報告されています。

ロッド・スチュワートも、100万ドル(1億3000万円)でオファーされた開会式のイベントの出演を、カタールの人権問題を理由に断ったと言われています。また、デュア・リパも、「全人類に対する人権が認められるまで決してこの国を訪問しない」と公言し、出演を辞退したことをあきらかにしてます。挙句の果てには、カタール開催の際のFIFA会長であったゼップ・ブラッター前会長も、今になってカタールを開催地に選んだのは「間違い」だったと発言しているのでした。

カタールは、天然ガス資源に恵まれ、そのガスマネーにより中東でも屈指の金満国家です。気温が40度以上にも上がるような酷暑に見舞われるカタールは、とてもサッカーの大会に向いているとは思えませんが、FIFAが開催を決定したのは、ひとえに潤沢なガスマネーに期待したからでしょう。

カタールは人口290万人のうち、自国民は1割程度しかいなくて、あとは外国人で成り立っている国です。公務員も半分は外国人だそうです。でも、経済的には豊かな、それこそ成金のような国なので、外国から出稼ぎ労働者を積極的に受け入れています。というか、特権階級の10%の自国民の日々の生活のためには、現場仕事をする出稼ぎや移民の外国人労働者が必要不可欠なのです。

カタールに限らず中東には、出稼ぎ労働者を対象にした「カファラシステム」という制度があるそうです。「カファラシステム」というのは、雇用主が出稼ぎ労働者の「保証人」になる制度だと言われていますが、しかし、私たちが普段抱いている「保証人」のイメージとは違います。言うなれば、昔の「女郎屋」の主人と「女郎」のような関係で、雇用主が出稼ぎ労働者に対して在留資格の判断も含めて絶対的な権限を持ち、雇用主の許可がなければ、職場を変わることも帰国することもできないのです。そのため、雇用主による虐待や強制労働、人身売買の温床になっているという指摘があります。言うなれば、現代のドレイ制度です。その点では、日本の外国人技能実修生の制度とよく似ています。

また、カタールは厳格なイスラム国家ということもあって、同性愛などは法律で禁止されており、性的マイノリティの人間が内務省の予防保安局という組織に摘発され、拷問を受けるようなことが日常的に行われているそうです。カタールは、民主主義と相いれない警察国家でもあるのです。

先日も、大会アンバサダーを務める元カタール代表MFカリッド・サルマーンが、ドイツのテレビ局のインタビューで、性的マイノリティについて「彼らはここで我々のルールを受け入れなくてはいけない。同性愛はハラームだ。ハラーム(禁止)の意味を知っているだろう?」と発言し、さらに、同性愛が禁止の理由を問われると「私は敬虔なムスリムではないが、なぜこれがハラームなのかって?なぜなら、精神へのダメージになるからだ」と主張したというニュースがありました。

カタールW杯アンバサダーがLGBTへ衝撃発言…ドイツ代表も絶句「言葉を失ってしまう」

カタールで開催される今大会について、ヨーロッパ10カ国のサッカー協会が、共同でFIFAに対して、「カタールにおける移民労働者の人権問題改善のために行動を起こすよう求める書簡を出した」そうです。

ロイター
サッカー=欧州10協会、カタール人権問題でFIFAに要望

また、ヨーロッパ8か国のキャプテンが、LGBTへの連帯を示す虹色のハートが描かれた腕章を巻いてプレーすることを決定した、というニュースもありました。

欧州勢の主将がカタールW杯で差別反対を示す「OneLove」のキャプテンマーク着用へ

さらに抗議の声は広がっており、フランスではパリやマルセイユなど8都市が、パブリックビューイングを行わないと決定したり、大会に抗議して記事をいっさい掲載しないという新聞まで出ています。

デンマークの選手たちは、ユニフォームを黒にしてカタール政府に抗議する意志を表明しています。

オーストラリアの代表チームは、カタールの人権問題を非難するメッセージ動画を公開しています。その中で、彼らは「苦しんでいる移民労働者(の数)は単なる数字ではない」「性的少数者の権利を擁護する。カタールでは自らが選んだ人を愛することができない」と抗議の声を上げているのでした。

カタールにくすぶる人権問題 広がる抗議―W杯サッカー

オランダ代表の選手たちは、カタールで出稼ぎ労働者から直接話を聞いたそうで、「彼らは非常に過酷な条件下でスタジアム、インフラストラクチャ、ホテルなどの宿泊施設の建設に従事してきた。僕らはそこでのすべての活動を通じて、その問題を認識してきた。これらの条件を改善する必要があることは誰の目にも明らかだ」という声明を発表しているのでした。

オランダ代表がカタールの出稼ぎ労働者を支援! W杯の着用ユニフォームをオークションに

それに比べて、日本のサッカー協会や選手やサッカーファンの反応の鈍さには愕然とするしかありません。私は、ヨーロッパの8か国のキャプテンが、LGBTへの連帯を示す虹色のハートが描かれた腕章を巻いてプレーするというニュースを見て、「カッコいいいなあ」と思いましたが、日本の大半のサッカーファンはそういった感覚とは無縁のようです。ただ、勝つかどうかだけです。そのための痴呆的な熱狂を欲しているだけです。カタールの「カファラシステム」と日本の外国人技能実修生の制度がよく似ているので、むしろ“あっち側”ではないのかとさえ思ってしまうほどです。

スポーツライターの西村晃氏は、下記の記事の中で、日本の姿勢を「スポーツウォッシング」(スポーツでごまかす行為)ではないか、と書いていました。

集英社新書プラス
スポーツウォッシング 第6回
カタール・サッカーW杯に日本のメディアと選手は抗議の声をあげるのか?

西村氏は、カタール大会の問題について、日本サッカー協会に直接問い質すべく、取材依頼も兼ねたメールを送ったそうです。そして、その回答がメールで送られて来たそうですが、日本サッカー協会の回答について、西村氏は下記のように書いていました。(協会の回答文は、上記の西村氏の記事でお読みください)

  一読、なんとも無味乾燥で当たり障りのない文言が連なった文章、という印象は拭いがたい。カタールで建設作業等に従事した移民労働者の死亡補償と救済の要求、同国での人権抑圧状況への抗議など、W杯参加国競技団体や選手たちが積極的な行動を起こしている一方で、日本や日本人選手は何らかの意志表示を行うつもりはあるのか、あるとすればどのような行動を取るのか、という質問に対する具体的な回答はなにも記されていない。
(上記記事より)


国際的な人権規約に基づいて各国の人権状況を審査している国連の人権に関する委員会が、先日、日本の入管施設で5年間に3人の収容者が死亡したことに懸念を示し(2007年以降で言えば、18人が死亡し、うち自殺が6人)、日本政府に対して施設内の対応の改善をはかるよう勧告した、というニュースがありました。しかし、そういったニュースに対しても、外国人技能実修生の制度と同様、日本の世論はきわめて冷たく、不法滞在の外国人なのだからそれなりの扱いを受けるのは当然だ、という声が多いのが実情です。国連の勧告も、人権派に付け入るスキを与えるもの、という声すらあるくらいです。

日本の「スポーツウォッシング」(スポーツでごまかす行為)が、単なる”スポーツバカ”の話ではなく、巷の下衆な排外主義を隠蔽する役割を果たしていることも忘れてはならないのです。


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2022.11.17 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
電通の正体


日曜日(11月13日)、テレビを点けたら、テレビ朝日で世界ラリー選手権(WRC)の第13戦、ラリージャパンの模様がハイライトで放送されていました。しかも、驚くべきことに、放送されたのは日曜日の21時から22時55分までのゴールデンタイムなのです。

ラリーの会場となったのは、愛知県の岡崎市・豊田市・新庄市・設楽町と、岐阜県の恵那市・中津川市にまたかる山間部で、言うまでもなくWRCに参戦し、しかも、豊田章男社長みずからがこのレースに人一倍入れ込んでいるトヨタ自動車の地元です。

レースは、11月10日(木)から13日(日)の日程で行われましたので、地元民にとってはレース中は生活道路が利用できず迷惑千万な話だったと思いますが、なにせ相手は地元では行政も配下に従える“領主”のような存在のトヨタ自動車なのです。黙って従うしかないのでしょう。

私は、テレビ朝日の放送に対して、玉川徹氏ではないですが、「当然これ、電通が入ってますからね」と言いたくなりました。いくら12年ぶりの日本開催とは言え、ラリーごときマイナーなモータースポーツをどうして地上波で放送するのか。しかも、日曜日のゴールデンタイムにです。常識的に考えても、電通とテレビ朝日の関係を勘繰らざるを得ません。

案の定、放送は前半はスタジオからお笑い芸人のEXITとヒロミの掛け合いによるラリーに関する初歩知識の紹介で時間を潰し、後半は、YouTubeで新車紹介を行っている自称「自動車評論家」とラリー経験者だとかいう俳優の哀川翔の二人が解説を務めていましたが、ライブではないハイライト(総集編)なので臨場感に欠け、スポーツニュースを延々見せられているような間延びした感は免れませんでした。どう考えても、ゴールデンタイムに放送するには無理があったように思いました。

海外では、広告代理店は「ハウスエージェンシー」と言って一業種一社が当たり前なのだそうです。しかし、日本では電通が同じ業種の会社でも複数担当しています。そのため、日本は、欧米のような「比較広告」がありません。タレントなどを使ったイメージ広告が主流です。

国鉄の分割民営化のとき、国鉄(当時)が電通に頼んでCI広告を大々的に打ったのですが、ウソかホントか、分割民営化に反対していた国労も電通に反対の意見広告を依頼していたという、笑えない話さえあるくらいです。

日本の広告宣伝費は、電通の資料によれば、2021年は6兆7998億円(前年比110.4%)でした。

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2021年 日本の広告費

広告宣伝費は、①新聞、雑誌、ラジオ、テレビメディアの「マスコミ四媒体広告費」、②「インターネット広告費」、③イベントや展示や交通、折込などの「プロモーションメディア広告費」の3つに分類されるそうです。それぞれの広告費は、以下のとおりです。

①マスコミ四媒体広告費 2兆4,538億円(前年比108.9%)
②インターネット広告費 2兆7,052億円(前年比121.4%)
③プロモーションメディア広告費 1兆6,408億円(前年比97.9%)

もちろん、コロナ禍で広告費は大きく落ち込んでいますが、ただ、東京五輪関係の需要があったので、2019年(6兆9381億円)より1400億円弱の落ち込みでとどまっています。電通が、パンデミック下であろうが、是が非でも東京五輪を開催したかったのは想像に難くありません。

電通の2021年12月期の売上高は約5.2兆円、連結収益は前期比15.6%増の1兆855億9200万円です。ただ、これは海外事業も含めた数字です。

国内における売上高のシェアですが、各社によって会計が日本基準と国際基準を採用してバラつきがあるため比較が難しいそうですが、日本の会計基準に合わせると、電通のシェアは60%にのぼるという説もあります。

『新装版・電通の正体』(週刊金曜日取材班)には、2000年頃の話で、「テレビ広告費の三八パーセント(七五〇〇億円)、新聞広告費の二〇パーセント(一九八〇億円)を取り扱っている」と書いていましたので、その頃よりさらにシェアを伸ばしているのかもしれません。

テレビ広告の単価の基準となる視聴率の調査を一手に引き受けるビデオ・リサーチも、電通が設立し、一時は電通本社の中にオフィスがあったくらいですから、野球の試合で選手と審判を同じチームがやっているようなものです。

『電通の正体』によれば、電通のコミッション(手数料)は15~20%だそうです。一業種一社が原則の海外の広告会社のコミッションは5%前後ですから、ここにも一社が同じ業種の複数のクライアントを担当する日本の“商習慣”の弊害が出ているように思います。そして、それが電通の寡占につながったのは間違いないでしょう。

そんな中、一時、大手企業が広告のコストを下げるために、「ハウスエージェンシー」をつくる流れがありました。トヨタ自動車がデルフェス、ソニーがフロンテッジ、三菱電機がアイプラネットと自社の広告会社を設立したのでした。

と言うことは、トヨタにはデルフェスがあるのに、今回の第13戦・ジャパンラリーの放送が行われたのはどうしてなのかと思ったら、何のことはない、デルフェスは2021年1月1日付で社名を「トヨタ・コニック・プロ」に変更し、トヨタ自動車と電通が出資する持株会社「トヨタ・コニック・ホールディングス」の傘下に入っているのでした。ゲスの勘繰りを承知で言えば、今のようなトヨタと電通の関係は、2005年の愛知万博からはじまったのかもしれません。

で、どうしてテレビ朝日の放送に、電通を連想したかと言えば、『電通の正体』に書かれていた、電通と「ニュースステーション」の関係を思い出したからです。

電通は「ニュースステーション」の広告を一手に引き受けていたそうです。つまり、「ニュースステーション」の広告枠を買い取っていたのです。

(略)番組枠まで買い切ってしまえば、売れる番組にするために番組の内容まで左右する力を持つのは当然だ。
「電通も異例ともいえるテコ入れを行っている。電通ラ・テ局(ラジオ・テレビ局)のテレビ業務推進部は企画開発段階から特別スタッフを投入。視聴者のニーズや動向の分析からCMのはさみ方による視聴率シュミレーションまで実施、その結果に沿って基本構想がまとめられていった」(ジャーナリスト・坂本衛『久米宏』論)
  電通が、スポンサーを手当てし、視聴者の分析を行ない、基本構想までつくっていたというのだ。
(『電通の正体』


ちなみに、当時、「ニュースステーション」の担当者だった電通社員は、のちにテレビ朝日の副社長に就任したそうです。

業界には「電通金太郎アメ説」というのがあるのだとか。それは、葬式から五輪まで、日本のイベントの裏側に必ず電通の影があることをヤユした言い方です。もうひとつ、「石を投げれば有名人の子息に当たる」という、コネ入社をヤユした言葉もあるそうです。

テレビ朝日と言えば、長寿番組の「朝まで生テレビ!」や(既に終了した)「サンデープロジェクト」の司会を務める田原総一郎が有名ですが、2004年、彼の妻の葬儀が築地本願寺で営まれた際、葬儀委員長を務めたのが電通の成田豊前社長(当時、のちに電通グループ会長、最高顧問に就任)だったそうです。

「葬式から五輪まで」と、イベントと名のつくものなら、片っ端から手がける電通が、有名人の結婚式や葬式を仕切ることは珍しくない。(略)
現在の電通本社は汐留にあるが、かつては築地にあったことから、「築地本願寺で大物の葬式が多いのは、電通本社が近いから」と冗談で言う関係者もいるほどだ。
(同上)


安倍晋三元首相の国葬には電通は直接関与してなかったみたいですが、関与したかどうかというより、玉川徹氏が電通の名前を出したこと自体が、既に地雷を踏む行為だったと言えるのです。ただ、玉川氏も、テレビ業界では(特にテレビ朝日では)電通がタブーであるのはよくわかっていたはずですので、あえて意図的に(反骨精神で)地雷を踏んだのではないか、という憶測も捨て去ることはできません。

テレビ業界における電通の力を物語る例として、(ちょっと古いですが)TBSの「水戸黄門」があります。私も記憶がありますが、「水戸黄門」の脚本のクレジットは「葉村彰子」という名前になっていました。しかし、「葉村彰子」などという脚本家はいなくて、脚本を書いていたのは、電通が株を持つ(株)C・A・Lという制作会社だったそうです。C・A・Lが「一話完結」「最後に印籠を出す」というマンネリパターンをつくり、長寿番組に育てたのです。また、NHKの番組を制作するNHKエンタープライズという会社がありますが、NHKエンタープライズもNHKと電通が共同で出資した会社だそうです。

もちろん、電通は、元役員(専務のち顧問)の高橋治之容疑者が主導した”汚職”でクローズアップされたオリンピックにも大きく関わっています。あの”汚職”と言われているものも、組織委員会の理事だった高橋治之容疑者が、オリパラ特別処置法(東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法)の規定で、「みなし公務員」だったので(たまたま)受託収賄罪が適用されただけです。高橋自身も言っているように、ああいった”コミッション(手数料)ビジネス”は普段電通がやっていることなのです。

オリンピックがアマチュア規定を外し商業主義の門戸を開いたことで、オリンピックと深く関わるようになった電通は、五輪選手は五輪スポンサー企業のCMしか出ることはできないという縛りを設け、五輪選手の肖像権の管理をJOCで行うようにして、五輪開催とは別に、五輪選手を金づるにするシステムをつくったのでした。

  電通はオリンピックマークを企業が商業的に使い、その収益をオリンピック員会に集めるシステムも考え出した。だがオリンピックマークでは国際オリンピック委員会(IOC)の規定に抵触してしまう。そこで電通はおなじみとなった「がんばれ! ニッポン!」ブランドを作り出した。
(同上)


電通は、政治にも大きく関わるようになっています。小泉政権の「自民党をぶっ壊す」「聖域なき構造改革」のようなキャッチフレーズを生み出したのも電通だと言われています。そういったワン・フレーズ・ポリティックスで小泉人気を演出したのでした。現在、日本の政治をおおっている世も末のような衆愚政治が小泉政権からはじまったことを考えれば、日本の政治のタガを外したのは電通だとも言えるのです。

玉川徹氏が地雷を踏んだ電通タブーについて、『電通の正体』は「あとがき」で次のように書いていました。

  日本にはマスコミタブー、つまりテレビ・新聞・雑誌などの報道機関が、取材の結果知りえた事実を報道することを忌避する、そもそも取材することを忌避するという自己矛盾を起こす取材対象がいくつかある。天皇制、被差別部落、芸能界、組織暴力団、創価学会、作家、警察などが思いつくだろう。これらに並んで記者や編集者の口にのぼるのが、日本最大の広告会社・電通という東証一部上場企業だ。電通と並びメガ・エージェンシーと呼ばれる業界第二位の博報堂については、タブーという認識は業界にほとんどないから、広告会社がタブーなのではなく電通がタブーということになる。
(同上)


昔、『噂の真相』も、「タブーなきスキャンダリズム」と謳っていました。どうしてタブーがないのかと言えば、『週刊金曜日』もそうですが、広告収入に依存してないからです。広告収入に依存しなければタブーがなくなるのです。その代わり、『週刊金曜日』が自嘲するように、薄っぺらなわりに定価が高い雑誌になってしまうのです。

玉川徹氏を執拗に叩いていた、週刊誌やスポーツ新聞があざとく見えたのも電通タブーゆえです。彼らは「電通サマのお名前を出すなど言語道断」とでも言いたげでした。その報道は、大衆リンチを煽り玉川氏の存在を抹殺しよう(テレビから追放しよう)としているかのように見えました。どこも経営的に青息吐息なので、そうやって下僕のように(!)「電通サマ」に忠誠を誓ったのでしょう。彼らにとって、「言論の自由」は所詮、「猫に小判」「豚に真珠」でしかないのです。

そもそも電通に関する本も極端に少ないし、ましてや電通を特集する雑誌など皆無です。週刊文春や週刊新潮も、電通を扱うことはありません。あり得ないのです。上を見てもわかるように、電通のシェアを調べようと思ってもほとんど情報がなく、あのように曖昧な書き方をするしかないのです。

電通は、戦前に設立された「日本電報通信社」という広告と情報を兼ねた通信社が母体です。その中で、広告部門が独立して電通になり、情報部門が今の時事通信社になったのでした。ネットの出現で、日本の広告業界は大きく揺さぶられていますが、電通が圧倒的なシェアで君臨する日本の広告業界は、このように今なおブラックボックスと化しているのでした。


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(2020年11月)


最近、マイクロプラスチックによる海洋汚染の問題をよく目にするようになりました。付け焼刃の知識ですが、マイクロプラスチックは、一次マイクロプラスチックと二次マイクロプラスチックの2種類に分けられるそうです。

一次プラスチックというのは、プラスチック製品に使用される「レジンペレット」と呼ばれるプラスチック粒や、製品の原材料として製造された小さなビーズ状のプラスチックのことで、たとえば、古い角質を削って肌をスベスベにする洗顔料や歯磨き粉などの原料であるスクラブ剤などに使われています。それらは、生活排水と一緒に下水道を通って海へ流れ出るのです。

マイクロプラスチックは、5ミリメートル以下のプラスチックのことを指すそうですが、微小なプラスチックは下水処理施設の装置も通りぬけてしまうので、いったん海に流れ出たマイクロプラスチックを回収するのは難しいのだとか。

二次マイクロプラスチックというのは、投棄されたビニール袋(レジ袋)やペットボトルなどのようなプラスチック製品が、紫外線によって劣化したり波に洗われて破砕され小さくなったものです。

自然界のプラスチックが分解されるには、100~200年、あるいはそれ以上もかかると言われており、その間に海洋生物の体内に取り込まれて、さらに食物連鎖で海藻や魚や貝などを介して人体に入ることになります。プラスチックに使われている有害性の添加物は、マイクロ化しても残留するそうで、人体に対する影響も懸念されているのでした。

また、マイクロプラスチックが、サンゴに取り込まれることによって、サンゴと共生する植物プランクトン(褐虫藻)が減少し、海の生態系のバランスが崩れる影響も指摘されています。

人体に対する影響では、消化器官の中に取り込まれるマイクロプラスチックは、一日程度体内に留まるだけで、便と一緒に排出されるのでそれほどの問題にはならないそうですが、他の器官に吸収されると影響は避けられないそうです。特に肺に入ると呼吸器系の疾患を生じると言われています。また、血液にも混入して体内の隅々にまで運ばれるそうで、それで人体に影響がないと言えばウソになるでしょう。

そのために、日本でもレジ袋の有料化がはじまりましたが、使い捨てプラスチック製品を減らすことは自然環境を守るための世界的な課題になっているのでした。

そこで、目に止まったのは下記の記事です。

GIZMODO(ギズモード)
ポリエステルの服は、着ているだけで大量のマイクロプラスチックを放出している…

記事によれば、「アクリル、ナイロン、ポリエステルなどの合成繊維でできた衣服を洗濯すると、何十万ものマイクロプラスチック繊維が引きはがされ」生活排水とともに海に排出されるそうです。しかし、問題は洗濯だけではないのです。

また、研究チームは4つの衣服の複製を着たボランティアたちに、日常生活と同じような動きをしてもらった結果、わずか20分で1gあたり最大400個のマイクロファイバーが空気中に放出されることがわかりました。つまり、ポリエステル製の服を着て通常の生活を3時間20分続ければ、4,000個のマイクロファイバーが放出され、洗濯時に水を流すのと同じくらいの汚染が生じるというわけです。もっと大きなスケールで考えると、平均的な人は洗濯によって毎年約3億個のポリエステル繊維を放出し、ポリエステル製の衣服を着るとその3倍の繊維を放出してしまうらしい(略)。
(上記記事より)


登山用のウエアは、速乾性と透湿性にすぐれているという理由で、ポリエステルやポリウレタンが多く用いられています。

ただ、パタゴニアに代表されるように、「SDGs」「自然に優しい」を謳い文句に、同じポリエステルでも「リサイクル・ポリエステル」を使っているケースが多く、最近は他のメーカーもそれに追随しています。

しかし、リサイクルであろうが何であろうが、そもそもポリエステルを3時間20分着ているだけで4000個のマイクロファイバー(プラスチック繊維)を自然界に放出している(飛散させている)のです。

記事にあるように、「洗濯してもダメ、着てもダメ。いったいどうすれば…」と思ってしまいますが、少なくともアウトドア=自然が好き=自然を大切する気持がある、というのは幻想でしかないのです。欺瞞だと言ってもいいくらいです。

都岳連のハセツネカップの自然破壊はきわめて悪質ですが、でも、私たちも山の中にマイクロプラスチックをばらまきながら山に登っているという点では同罪かもしれません。

マイクロプラスチックを体内に取り込んでいるのは、海洋生物だけでなく、山に生息する野生動物も同じなのです。

高機能を謳い文句に数万円の大金をはたいて買ったウエアで、ハイカーたちがマイクロプラスチックを山中にばらまいているという現実。それで「山っていいなあ」とひとりよがりな自己満足に浸っているのです。

また、車のタイヤが地面と摩擦する際に飛び散るゴム片にも、多くのマイクロプラスチックが含まれているそうです。今のタイヤは、昔のような天然ゴムではなく合成ゴムです。合成ゴムというのは、石油を原料とするポリマー(高分子化合物)で、海に流入するマイクロプラスチックのうち、タイヤのゴム片によるものが28%を占めているという説さえあるそうです。最近はマイカー登山が当たり前になっていますが、林道を通って登山口まで車で行くのも、山中にマイクロプラスチックをばらまいていることになるのです。もちろん、沢もマイクロプラスチックで汚染されます。

こう言うと、「じゃあ、どうすればいいんだ?」と言うに決まっていますが、そう開き直る前に、自称「自然を愛する」ハイカーたちは、自分たちが自然に対して傲慢で欺瞞な存在であることをまず自覚すべきなのです。「そんなこと言ってたらきりがないじゃないか」と言われるかもしれませんが、たしかにきりがないのです。それくらい深刻なのです。

言うまでもなく、再び感染拡大がはじまっている新型コロナウイルスも、鳥インフルエンザも、自然界からのシッペ返しに他なりません。デジタル社会だ、5Gだ、AIだ、シンギュラリティだ、などと言っても、新型コロナウイルスによるパンデミックが示しているように、人間は自然に勝てないのです。人間が自然に対して傲慢である限り、これからもシッペ返しは続くでしょう。

登山もまた、「自然保護」とは対極にある行為なのです。だったら、せめてマイカーで行くのをやめたり、保護活動のために入山料を払ったりして、少しでも「自然保護」に協力すべきでしょう。

著名な登山家の一部も、身過ぎ世過ぎのためか、登山用品のメーカーと契約して、マイクロプラスチックの問題などどこ吹く風で、ポリエステルで作られた高級登山ウェアの宣伝に一役買っています。それは、今やカタログ雑誌と化した登山雑誌も同じです。そして、彼らは、エベレストやヒマラヤをプラスチックのゴミ捨て場にしているのです(下記記事参照)。

AFPBB News
エベレスト山頂もマイクロプラスチック汚染、登山具に由来か 研究

ポリエステルのような化繊より、メリノウールなどの天然繊維の方が「環境に優しい」と言われています。人寄せパンダの有名登山家や、節操のない俄かハイカーに過ぎないユーチューバーの商品レビューや、広告代理店と組んだ登山雑誌の特集などに惑わされるのではなく、できる限り天然素材のウエアに変えるのも選択肢のひとつでしょう。

誤解を怖れずに言えば、たとえば山菜取りで山に入って道に迷った高齢者でも、致命的な怪我を負わずに食糧や水さえ持っていれば、数日でも生き延びることができるのです。山菜取りが目的の高齢者は、必ずしも速乾性と透湿性にすぐれた高価な登山用のウエアを着ているわけではありません。アンダーウエアだって普通の綿の下着でしょう。厳冬期だったら別でしょうが、厳冬期以外の私たちが普段登る山のレベルでは、人寄せパンダの登山家や登山雑誌がすすめるような高価な登山ウエアは、言われるほど必要ではないのです。それより予備の食料と水(それとライトと雨合羽と山用のマッチ)を持って行く方がよほど大事です。

それにしても、「自然を大事にしましょう!」という掛け声だけは盛んですが、どうして日本の山はマイカー規制と入山料の徴収が進まないのか、不思議でなりません。
2022.11.13 Sun l l top ▲
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イーロン・マスクに440億ドル(約6兆5千億円)で買収されたTwitter社では、世界の従業員7500人の半分にあたる3700人に解雇が通告されたとして、大きなニュースになっています。

イーロン・マスクによれば、Twitter社は一日あたり約400万ドル(約5億9千万円)の赤字だそうです。

もちろん、アメリカのレイオフと日本のリストラを同列に論じることはできませんが、いづれにしても大ナタを振るったことはたしかでしょう。

Twitterが世界で7500人しか従業員がいなかったということも驚きでした。あれだけ世界中でサービスを展開していながら、僅かこれだけの従業員しかいなかったのです。しかも、イーロン・マスクによれば、半分は余剰人員だったということになります。

イーロン・マスクが言うように、一日に約400万ドルの赤字を垂れ流していたことが事実であれば、Twitter社の株主たちがイーロン・マスクに訴訟してまで買収を求めた理由が、今になればわかるのでした。しかも、売上げの大半は広告費で、広告頼りの危うい状態から抜け出せなかったのです。

ここに来て、ネット広告の市場が縮小しており、プラットホーマーはどこも四苦八苦しています。FacebookやInstagramを傘下におさめるメタも、今週中にも数千人規模に上る大規模解雇を始める予定だというニュースがありました。(追記:11月9日、メタは、全従業員の約13%にあたる1万1千人超を削減すると発表しました)

ネットの覇者であるGoogleも例外ではありません。Googleも広告に依存した体質から未だに脱皮できてないのです。Googleの持ち株会社のAlphabetは、10月25日に2022年第3四半期(2022年7月~9月)の決算を発表したのですが、それによれば、売上高が前年同期比6%増の690億9200万ドルだったにもかかわらず、純利益は27%減の139億1000万ドルと大幅な減益でした。中でもYouTubeの広告収入が2%減で、YouTube広告の売上高を開示するようになった2019年第4四半期以来初めての減収になったそうです。

子どもたちの「なりたい職業」の第1位はユーチューバーだそうですが、今後、ユーチューバーに対する広告費の分配も見直されるかもしれません。そのたびに「あこがれの職業」であるユーチューバーたちに「激震が走る」ことでしょう。

そもそも今回のTwitterの騒動を見てもわかるとおり、ユーチューバーという職業がいつまで存在できるかもわからないのです。デジタルの世界の10年は、もしかしたら従来の世界の50年にも、それ以上にも匹敵するかもしれません。時間の概念が異なると言ってもオーバーではないくらい、有為転変のスピードが速いのです。

IT化が進めば進むほど、雇用が削減されるのは理の当然です。IT化によって、どんな職種がなくなるか、どんな人たちが仕事を失うか、というような雑誌の特集をよく目にしますが、多くの人たちはそんな過酷な現実を強いられ、「労働力の流動化」なるバーゲンセールの商品台に乗せられて叩き売られるのです。岸田政権は、”成長分野”に「労働移動」するために「学び直し(リスキリング)」が必要だなどと、電通から吹き込まれたような借り物の用語を使って「新しい資本主義」の生き方を国民に説いていますが、日本のどこに”成長分野”があるというのでしょうか。岸田首相自身が所信表明演説で吐露したように、「新しい資本主義」と言ってもインバウンドの”爆買い”が頼りなのです。

さらに、Twitter社のレイオフから見えるものはそれだけではありません。社員が数千人の企業によって、「言論の自由」が担保されていたという、悪夢のような現実を私たちは改めて見せつけられたのです。

メディアが盛んに報じていますが、Twitterの「言論の自由」は、新しい経営者の手の平の上で弄ばれているのです。「言論の自由」はそんなものじゃない、「言論の自由」は守られるべきだ、とのたまう人たちもいますが、それはトンチンカンなお門違いな主張にしか見えません。

Twitterのサービスが開始された当初、Twitterで新しい社会運動がはじまるなどと言っていた左派リベラルも多くいました。一企業のCEOの匙加減でどうにでもなる「言論の自由」で社会運動もないでしょう。ITの時代に対して、労働者が為す術もないのと同じように、左派リベラルも為す術がないのです。

そもそも、140文字で何が表現できるというのでしょうか。「おまえの母さん、デベソ」と言い合っているようなものでしょう。デジタルネイティブの若者たちは、長い文章だとそれだけで拒否反応を示して、彼らの間では長い文章を書くこと自体が”害”みたいな風潮があるみたいですが、それで何を伝えられるというのでしょうか。丸山眞男が言う「タコツボ」とはちょっと意味合いが違いますが、彼らはタコツボの中で、最初からコミュニケーションを拒否しているようにしか思えません。

誰かの台詞ではないですが、革命はとどのつまり胃袋の問題なのです。大事なのは、右か左かではなく上か下かなのです。しつこいほどくり返しますが、現在いま、求められているのは”下”の政治です。”下”に依拠する政治なのです。「ツイッターデモ」も、元首相と同じように「やってる感」を出しているにすぎません。

日本は、先進国のふりどころか、そのうち「日本、凄い!」と自演乙することさえできなくなるでしょう。あれだけバカにしていた中国も、気が付いたら、”アジアの盟主”として、文字通り巨像のように私たちの前にそびえ立つまでになっていたのです。前も書きましたが、若者たちも中国発のファストファッション(SHEIN)に、「安い」「カッコいい」と言って群がるようになっています。そのうち”韓流”だけでなく、”華流”もブームになるでしょう。

とりとめのない話になりましたが、下記は2010年、Twitterが日本でサービスを開始してまだ間がないときに書いた記事です。ついでにご笑読いただければ幸いです。


関連記事:
ツイッター賛美論(2010.05.25)
2022.11.07 Mon l ネット l top ▲
Yahoo!ニュースにも転載されていましたが、「bizSPA!フレッシュ」に、下記のような記事が掲載されていました。

bizSPA!フレッシュ
週刊SPA!編集部
生魚の異臭が…東京屈指の“高級住宅街”で地上げトラブル「バブル期並みの悪質さ」

タイトルにもあるように、何だかバブルの頃を彷彿をするような話ですが、たしかに都心は至るところに地上げの跡があり、バブル時代に戻ったかのような光景も多く見られます。

大阪は東京ほどではないみたいですが、東京の都心では中古マンションも高止まりした状態が続いています。東京五輪が終わったら不動産バブルが弾けると言われていましたが、そうはなりませんでした。少なくとも価格面では「堅調」、それも「高止まり」の傾向さえあるのです。

もっとも、これは東京の都心や大阪の郊外の一部に限った話で、地方では価格は下降傾向にあると言われています。そのため、地方と東京・大阪の都市部の不動産価格がいっそう乖離しているのでした。

どうして都心の不動産価格がバルブ期並みに高騰しているのか。ひとつは、言うまでも金融緩和、それも「異次元」の金融緩和の影響です。「異次元」の金融緩和によって、東京都心部の駅前はどこも大規模な再開発が行われています。それは、バブル期もなかったような大掛かりなもので、渋谷の駅前が100年に一度の再開発と言われていますが、決してオーバーとは言えないほどです。しかも、100年に一度のような大規模開発は渋谷だけではないのです。

私は、横浜市の東急東横線沿線の街に10数年住んでいますが、引っ越してきた当初、駅の周辺の路地の奥には、昔ながらの古いアパートが点在していました。また、駅から少し離れると畑も残っていましたし、幹線道路沿いには、地元の小さな会社や商店などがありました。川魚問屋なんていうのもありました。さらに、このあたりは交通の便もいいので、大手企業の社宅や独身寮なども多くありました。

しかし、5~6年前くらいからことごとく壊されて、その跡地の多くにはマンションが建っています。しばらくぶりに前を通ると、風景が一変しているので驚くことがよくあります。

要するに、「異次元」の金融緩和で不動産業界にお札がばら撒かれているからでしょう。ただ、この30年給料が上がってないことを見てもわかるとおり、どんどん刷られたお札が一般庶民にまわって来ることはないのです。せいぜいが住宅ローンの金利が安くなり審査に通りやすくなるくらいです。

また、前に書いたように、日本には2000兆円という途方もない個人金融資産があります。その恩恵に浴する人たちとまったく縁もない人たちの間での格差も広がるばかりです。「マタイの法則」ではないですが、「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」のです。そういった格差社会の現実が、不動産価格の「高止まり」にも反映されているのです。

もうひとつ忘れてならないのは、円安です。これはずっと以前より言われていたことですが、日本の不動産が中国本土の富裕層やアジア各地の華僑たちによって投資目的で買い漁られている現実があります。まして、今のように急激な円安になったことにより、彼らの需要がいっそう増して、上記のようなバブル期と見まごうような地上げを招いているのでした。

マンションに縁もゆかりもないネトウヨが、中国は遅れた国、三流国みたいに言っている間に、金満生活を謳歌する中国人の求めに応じて日本の不動産屋がなりふり構わず地上げに狂奔するようになっているのです。しかも、その資金をアベノミクスの名のもと、日本の金融当局が提供しているのです。

記事では、地上げの直接の要因として次のような指摘がありました。

「本来なら立ち退き料として住宅なら賃料の6~18か月分、事務所や店舗なら60~240か月分ほどの補塡を行い、退去期限は立ち退きに合意してから3か月~1年が一般的です。所有権が移ってまだ2か月余りでこの事態とは、悪質さを際立たせます」

「本物件を購入したのは、賃借人を退去させてマンションなどの用地としてデベロッパーに売却して利益を得るのが目的と思われます。土地建物の取得の際に3億円を金利4.5%で借り入れたとすると、彼らの支払う利息は月に100万円強。できるだけ早く立ち退きを完了させないと利益が毎日減少していくので、荒っぽくもなる。」

「賃借人は借地借家法で守られており、賃貸人がいくらお金を積んでも法的には立ち退かせることはできません。だから、悪質な行為に及ぶ例があるのです。賃借人を守るための借地借家法が、かえって地上げ屋を生むとはなんとも皮肉ですね」

(週刊SPA!編集部・生魚の異臭が…東京屈指の“高級住宅街”で地上げトラブル「バブル期並みの悪質さ」)


しかし、その背後に、“安い国ニッポン”の構図があることも忘れてはならないのです。

「異次元」の金融緩和で我が世の春を謳歌しているのは、不動産業界だけではありません。法人税が軽減されたことも相俟って、企業の内部留保は516兆4750億円(2021年)にものぼっているそうです。

法人税減税は、2011年38.54%だったのが、2013年に37%、そして、2018年には29.74%に引き下げられています。しかも、法人税をまともに納税しているのは、全企業の3割ほどにすぎないのだとか。納税するほど利益が出てないということもありますが、もうひとつは、大企業に対して、「資本金1億円以上の外形標準課税」や「受取配当金益金不算入制度」などのような減税や免税処置があるからです。「資本金1億円以上の外形標準課税」では、資本金1億円以上の大企業より、外形標準課税の対象外の資本金1億円以下の企業の方が、平均税率が高くなるという逆進性も生じており、大企業優遇は税制面から見てもあきらかなのです。

その一方で、消費税は、1988年12月に消費税法が成立して、1989年4月に3%でスタート、1997年4月5%、2014年4月8%、2018年10月10%と引き上げられています。

実際に1989年に消費税が導入されてから34年間で、国と地方を合わせた消費税の総額が476兆円であるのに対して、法人税の減税分が324兆円、所得税と住民税の減税が289兆円だったそうです。これが、消費税の増税分が法人税や所得税・住民税の減税の穴埋めに使われたのではないか、と言う根拠になっているのでした。

2012年、野田内閣が、民主党政権成立時の公約を反古にして、自民党と公明党の間で、「税と社会保障の一体改革」の三党合意を交わして、消費税増税に舵を切り、民主党政権は自滅したのですが、そのときに、野田内閣が提出して成立した法案は、消費税率を2014年に8%、15年に10%に引き上げるというものでした。

ちなみに、三党合意の社会保障の部分では、以下の3点が確認されていました。

①今後の公的年金制度、今後の高齢者医療制度にかかる改革については、あらかじめその内容等について三党間で合意に向けて協議する。
②低所得高齢者・障害者等への福祉的な給付に係る法案は、消費税率引上げまでに成立させる。
③交付国債関連の規定は削除する。交付国債に代わる基礎年金国庫負担の財源については、別途、政府が所要の法的措置を講ずる。

しかし、三党合意とは裏腹に、社会保障の改革はおろか、社会保障費の増大に対して、税収による補填は僅かな伸びしかなく、その多くは保険料の引き上げで賄っているのが現実です。

日本共産党の関連団体と言われる民商(民主商工会)のサイトによれば、消費税導入以前の1988年と消費税が10%になった2020年を比較すると、国民健康保険料(1人平均)は5万6372円から9万233円に引き上げられ、医療費は1割負担が3割負担に、国民年金の保険料(月額)は7700円が1万6610円と2倍以上も上がっているそうです。また、年金の支給開始年齢の繰り下げもはじまっています。所得に対するいわゆる「租税公課」の割合は、4割を優に超えており、重税国家と言っても過言ではないのです。

ちなみに、横浜市は、住民税と国民健康保険料がバカ高いので有名ですが(それと職員の給与が高いのでも有名)、私のような独り者のその日暮らしでも、介護保険料と合わせた国民健康保険料は(年間10回分割で)毎月3万円近く引き落とされています。引っ越してきた当初から比べたら、2倍どころか3倍くらい上がっています。だからと言って、もちろん収入が3倍上がっているわけではないのです。毎年春先に国民健康保険料と住民税の確定金額のお知らせが届くと、目の前が真っ白になって血の気が引くくらいです。

これでは、「税と社会保障の一体改革」という三党合意は何だったのかと言わざるを得ません。自公もひどいけど、旧民主党はそれに輪をかけて無責任でひどいのです。

さらに、ここにきて政府の税制調査会のメンバーから、消費税増税の声も漏れ伝わるようになっています。立憲民主党も、新しい執行部に野田政権で副総理を務めた岡田克也氏や財務相を務めた安住淳氏が入ったことで、(自民党に歩調を合わせて)増税路線の布陣を敷いたんじゃないかという指摘があります。また、前代表の枝野幸男氏が、2021年10月末の衆院選の公約で、新型コロナウイルス禍への対応として「時限的な5%への消費税減税」を掲げていたことを「間違いだった」「二度と減税は言わない」と発言したことが物議を醸しているのでした。

まったく懲りないというか、こういう野党が存在する限り、自公政権は左団扇でしょう。そして、日本はとどまるところを知らず安い国として凋落し食い散らかされるのです。ましてや、国防費の増大や敵基地先制攻撃など、片腹痛いと言わねばなりません。そういう妄想と現実をはき違えたオタクのような発想も、国の経済を疲弊させ、さらに凋落を加速させるだけでしょう。

追記:(11/09)
元朝日の記者の鮫島浩氏は、8日、自身のYouTubeチャンネルで、「野田佳彦首班で大連立!宏池会と立憲民主党を財務省がつなぐ『消費税増税内閣』急浮上!!」という動画を上げていました(下記参照)。上で見たように、野田佳彦は旧民主党政権の獅子身中の虫だったのですが、松下政経塾出身の彼がとんでもないヌエ、食わせものであることは今さら論を俟ちません。3年間選挙がないことをチャンスとばかりに、与野党一致で増税に突き進むシナリオが水面下で進んでいると言うのです。もし事実なら、まさに立憲民主党の正体見たり枯れ尾花みたいな話でしょう。今まで「立憲民主党が野党第一党である不幸」をくり返し言って来ましたが、もういい加減、引導を渡すしかないのです。

SAMEJIMA TIMES
youtu.be/Hkg9jvjfftY
2022.11.06 Sun l 社会・メディア l top ▲
ピストルと荊冠


2013年12月19日、「餃子の王将」を運営する「王将フードサービス」の社長・大東(おおひがし)隆行氏が、銃撃されて殺害された事件に関して、10月28日、福岡刑務所に服役中の田中幸雄容疑者が、殺人の容疑で京都府警に逮捕されました。これにより、「餃子の王将」社長射殺事件」は、事件から9年目にしてようやく「実行犯の逮捕」という新たな局面を迎えたのでした。

田中幸雄容疑者は、北九州の小倉に本部を置く工藤会の二次団体石田組の幹部です。どう見てもヒットマンとしか思えず、「王将フードサービス」と北九州のヤクザ組織との間をつないだのは誰なのか、関心が集まっているのでした。

工藤会は、2012年の改正暴対法によって、「特定危険指定暴力団」に指定された全国で唯一の暴力団で、それこそ泣く子も黙るような武闘派の組織として知られています。

私も子どもの頃、「小倉は怖い」という話を母親から聞いたことがあります。母方の祖母は福岡の若松か戸畑だったかの出身で、母親も祖父の仕事の関係で北九州で生まれたのですが、親戚を訪ねて行ったのか、私が中学生の頃、母親が叔母とともに北九州に出かけたことがありました。

そして、帰って来て、父親と話をしているのを私は横で聞いていたのですが、小倉駅で電車を待っていたとき、駅にヤクザみたいな男たちがたむろしていて怖かった、小倉があんな怖いところとは知らなかった、と言っていました。

もちろん、工藤会なんて名前は知る由もありませんが、私は何故かそのときの話を今も忘れずに覚えているのでした。後年、赴任先の街でたまたま入ったスナックに小倉出身の女性がいて、その話をしたら、彼女も小倉はヤクザが跋扈する怖い街だ、と言っていました。

実際に工藤会は、暴力団排除の運動をしていた市民を襲撃するなど、一般市民や企業を標的にした数々の暴力事件を起こしています。工藤会に“及び腰”と言われた福岡県警も、改正暴対法や警察庁の後押しなどもあって、2014年に16年前の元漁協組合長殺害容疑でトップの野村悟総裁とナンバー2の田上不美夫会長の逮捕に踏み切り、組織の壊滅に向けた“頂上作戦”を開始したのでした。

ちなみに、大東社長が射殺された翌月(2014年1月)には、16年前に殺害された元漁協組合長の実弟で、兄のあとに漁協組合長を務めていた人物が、同じように早朝、ゴミ出しするために家を出たときに何者かにようって射殺されています。その捜査の過程で、16年前の兄の事件で、野村悟総裁と田上不美夫会長の関与(指示)が判明したので逮捕したと言われています。でも、何だかあわてて逮捕したような感じもしないでもありません。

尚、殺害された漁協組合長の兄弟に関しても、その後も孫の歯科医や息子の会社の女性従業員が襲われ刺傷するなど、執拗な攻撃が加えられているのでした。福岡県警はどこで何をしていたのかというような話なのです。

工藤会が行った事件については、ウィキペディアに詳しく書かれていますが、90年代後半以降の主な事件を列記するだけでも下記のようになります。

工藤会が博徒として結成されたのは戦前ですが、工藤会が暴力団として狂暴化したのは1960年代に山口組との抗争を経てからだと言われています。しかも、抗争相手の山口組系の組織とは、のちに稲川会の会長の仲介で合併しているのでした。工藤会は、カタギであろうが誰であろうが見境がなく、野村総裁の局部を大きくする手術をした病院の看護婦や、暴力団担当の元刑事まで襲われているのでした。それで怯んだのか、福岡県警が工藤会に“及び腰”だったのは誰が見てもあきらかでした。

1988年
・みかじめ料の要求を断った健康センターに殺鼠剤を撒布。150人が中毒症状。
1988年
・在福岡中華人民共和国総領事館を散弾銃で攻撃。
1988年
・福岡県警元暴力団担当警部宅を放火。
1994年
・パチンコ店や区役所出張所など17件前後銃撃。
1998年
・港湾利権への介入を断られた報復で北九州元漁協組合長を射殺。
2000年以後
・暴力団事務所撤去の運動に取り組んでいた商店を車で襲撃。
・暴力追放を公約に掲げて当選した中間市長の後援市議を襲撃。
・警察官舎敷地内の乗用車に爆弾を仕掛ける。
・九州電力の松尾新吾会長宅に爆発物を投擲。
・西部ガスの田中優次社長宅への手榴弾投擲、及び同社関連会社と同社役員の親族宅を銃撃。
・暴力団追放運動の先頭に立つクラブに手榴弾を投擲。
・安倍晋三の下関市の自宅と後援会事務所に火炎瓶を投擲。
・大林組従業員ら3名を路上で銃撃。
・トヨタ自動車九州の小倉工場に爆発物を投擲。
・工藤会追放運動を推進していた自治会長宅を銃撃。
・工藤会追放運動を推進していた建設会社役員を射殺。
・中間市の黒瀬建設社長を銃撃。
・清水建設従業員を銃撃。
・元工藤会担当県警警部を銃撃。
他にみかじめ料を断ったパチンコ店や飲食店などを襲撃多数。
(Wikipedia参照)

この中で、今回逮捕された田中幸雄容疑者が関係したのは、2008年1月に、大林組従業員ら3名が乗っている車を銃撃した事件です。しかし、動機は不明で、判決文でもそう書かれています。田中容疑者が口が堅いと言われるのも、そのあたりから来ているのでしょう。田中容疑者は、同事件の実行犯として逮捕され、懲役10年の判決を受けて福岡刑務所に服役していました。ただ、同事件でも、逮捕されたのは事件発生から10年後でした。

田中容疑者は、福岡の大牟田出身で、地元の高校から田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の主人公が通った、原宿の表参道の先にあるキリスト教系のオシャレな大学に進学。大学を中退したあといくつかの会社に勤め、30代半ばまではカタギのサラリーマンだったそうです。そして、仕事上のトラブルに巻き込まれたときに、工藤会に助けて貰ったことでヤクザの道に入ったと言われています。

また、北九州元漁協組合長を射殺した事件等で、殺人や組織犯罪処罰法違反などの罪に問われたトップの野村悟総裁とナンバー2の田上不美夫会長に対して、福岡地裁は2021年8月に、それぞれ死刑と無期懲役を言い渡しています。その際、退廷する野村総裁は、裁判長に向かって「あんた後悔するよ」と捨て台詞を吐いたそうです。

田中幸雄容疑者に関しては、当初から捜査線上にのぼっていたと言われていますが、逮捕に至るまで9年の歳月を要したのはどうしてなのか。事件の背後に、私たちがうかがい知れない”闇”が存在していたような気がしてなりません。

キャスターの辛坊治郎氏は、事件が起きてすぐに京都府警から事情聴取されていたそうで(実際は情報提供を求められただけのようですが)、ラジオ番組で事件の不可解さについて、次のように語っていました。

Yahoo!ニュース
ニッポン放送
「王将」社長射殺事件 辛坊治郎が事情聴取を受けていた「容疑者とは言われませんでしたが……」

それにしても、謎だらけの事件です。今回逮捕された暴力団幹部が事件に関わっていたという見方はかなり初期の段階からありました。殺害現場近くでたばこの吸い殻が発見され、 DNA型鑑定が出ていたんですよ。なぜ、そんなはっきりとした証拠があるにもかかわらず、そのルートを洗っていかなかったのだろうと不思議です。
(略)
いずれにしても、容疑者がもっと早く逮捕されていてもおかしくない事件です。ここまで時間がかかったことに、何かものすごく深い闇のようなものを感じています。
(上記記事より)


事件の背景については、東証一部上場(移行)を前にして会社が設置した第三者委員会が、2016年3月に公表した調査報告書に注目が集まっています。調査報告書は、下記の毎日新聞の記事に書いているとおり、当初は東証一部上場(13年7月)後の13年11月に公表されるはずでした。しかし、何故か公表されず、役員たちにも報告書の内容が共有されなかったそうです。そして、その1ヶ月後の12月に大東社長が殺害されたのでした。調査報告書が公表されたのは、さらにそこから3年4か月後でした。このように調査報告書のの公表ひとつをめぐっても、実に不可解なのです。

調査報告書によれば、創業家と福岡の企業グループとの間で、取締役会にも通さない不適切な取引きが行われ、それは1995年から2005年までの10年間に総額260億円にものぼり、そのうち170億円が回収不能になっているというのです。その多くは不動産取引で、企業グループから市場価格とかけ離れた不当に高い金額で購入し、大きな売却損を出して処分するということをくり返していたのです。調査報告書は、「福岡の企業グループは反社ではない」と書いていましたが、やり口は反社のそれと同じです。

そのため、「王将フードサービス」は業績不振に陥り、三代目の社長だった創業者の加藤朝雄氏の長男と、財務担当の専務だった次男が事実上のクーデーターで退陣し、創業者の義弟の大東氏が社長に就任したのでした。

「王将フードサービス」は東証一部上場をめざしていましたが、取締役会にもはからない不適切な取引きによって、「企業経営の健全性」や「企業のコーポレート・ガバナンスおよび内部管理体制の有効性」といった上場要件(審査基準)を満たせず、早急な企業体質の改善が求められていました。そのため、大東社長がみずから表に立って、福岡の企業グループとの関係を精算しようとした矢先に殺害されたのでした。

そのあたりの経緯について、毎日新聞が具体的に書いていました。

毎日新聞
王将社長射殺 不適切取引相手の企業グループ  関係者を参考人聴取

  00年4月に社長に就任した大東さんは当初、企業グループとの債権回収の交渉を、創業者の親族に任せていた。しかし経営危機に直面し、03年7月ごろからは自身が直接交渉。14件については清算を終えたが、企業グループとの関係を解消しきれなかったという。

  これらの内容は、同社が東証移行を前に設置した再発防止委員会が13年11月にまとめた報告書に記されたが、公表はされなかった。大東さんが殺害されたのは、その1カ月後だった。
(上記記事より)


記事によれば、京都府警の捜査本部は、田中容疑者の逮捕に伴って、不適切な取引きをしていた「企業グループを経営していた70代の男性から、参考人として任意で事情を聴いたことが判明した」そうです。

しかし、ここに至っても、メディアは「福岡の企業グループ」という言い方をするだけで、社名等いっさいあきらかにせず、奥歯にものがはさまったような言い方に終始しているのでした。それは、安倍元首相銃撃事件のあと、旧統一教会のことを「ある宗教団体」とか「特定の宗教団体」と言っていたのと似ています。

一方で、リテラが、2015年に具体的に企業名や経営者の名前を出して記事にしており、翌年にも第三者委員会の調査報告書の発表を受けて、その記事を再掲しています。

リテラ
「餃子の王将」が調査報告書でひた隠しにする260億円不正取引の相手は“部落解放同盟のドン”の弟だった!

「部落解放同盟のドン」というのは、1982年から1996年5月に肝不全で亡くなるまで部落解放同盟の4代目の中央執行委員長を務めた上杉佐一郎氏で、その「弟」というのは、上杉佐一郎氏の異母弟の上杉昌也氏です。

同和対策事業特別措置法が10年の時限立法として制定されたのが1969年で、その後何度が延長され(法律の名称も変わって)、終了したのが2002年です。33年間で約15兆円の国家予算が費やされたと言われています。

部落解放同盟が、最も活発に活動していたのもその期間です。

上杉昌也氏自身は部落解放運動には直接関係してなかったようですが、彼の事業に「部落解放同盟のドン」と言われた上杉佐一郎氏の威光がはたらいていたのは想像に難くありません。同対法の終了と関係あるのか、事業の多くは2006年から2011年にかけて破綻しています。

警察の捜査が遅々として進まなかったのも、大手メディアが未だに奥歯にものがはさまったような言い方に終始しているのも、「同和タブー」があるからではないか。そう思えてなりません。

創業者の加藤朝雄氏が、1967年12月に「餃子の王将」を創業したのは京都四条大宮ですが、福岡(飯塚市)出身だった加藤氏は、同郷の上杉兄弟と1977年頃知り合ったと言われています。そして、全国展開する上での資金300億円は上杉佐一郎氏が調達した、と言われているのです。

私は、田中幸雄容疑者の逮捕を受けて、部落解放同盟を舞台にした「飛鳥会事件」を扱った、角岡伸彦氏の『ピストルと荊冠』(講談社)を本棚の奥から引っ張り出して読み返したのですが、何だか両者は共通したものがあるような気がしてなりませんでした。と同時に、未だに「同和タブー」が生きていることに、あらためて驚きを禁じ得なかったのでした。

『ピストルと荊冠』は、「<被差別>と<暴力>で大阪を背負った男」とサブタイトルが付けられているように、山口組の直参組織である金田組の組員でありながら、40年にわたり部落解放同盟の支部長を務め、同和対策事業特別措置法による事業で利権をむさぼってきた小西邦彦(故人)の半生を取り上げた本です。

彼は、同和対策事業で同和地区に建てられた解放会館を根城に、運動団体(部落解放同盟)と財団法人(飛鳥会)と社会福祉法人(ともしび福祉会)のトップを務め、同会館に派遣された市役所職員や三和銀行の職員をあごのように使って、文字通り巨万の富を築いて金満生活を送っていたのでした。また、その一部は所属する金田組に上納されていました。

親しい親分がピストルを隠すために三和銀行の貸金庫が利用できるように便宜をはかったり、山口組の内部抗争の煽りを受けて、解放会館の近くに建てた自社ビルに銃弾が撃ち込まれる、ということもありました。また、山口組4代目組長の竹中正久が跡目争いで射殺された現場になった愛人のマンションは、小西の名義でした。

また、みずからが運営する財団法人の職員として知り合いの組から派遣された元組員を採用したり、知り合いの山口組系の元組長ら3人が社団法人大阪市人権協会の下部組織である飛鳥人権協会の職員であるように装い、3人とその家族分の健康保険証7枚を取得する便宜をはかっていました。3人は、何と1977年から1992年まで健康保険証の更新を続けていたそうです。どうしてそんなことができたのかと言えば、小西が飛鳥人権協会の顧問だったからです。現職のヤクザが人権協会の顧問を務めていたという冗談みたいな話が、当時の大阪では公然とまかり通っていたのです。小西邦彦はのちに詐欺の疑いでも逮捕されています。

同和対策事業関連の予算は、3分の2は国が補助して残りの3分の1は自治体が負担するようになっていましたが、大阪市は同和対策事業特別措置法が続いた33年間で、同和関連事業に6千億円を注いでいます。そのうち「3割強」が建設関連予算だったと言われ、その大半は、部落解放同盟大阪府連が設立した大阪府同和建設協会に加盟する業者が請け負っていました。

小西は、飛鳥地区における業者の選定や工事費の上前をはねることで「少なく見積もっても数億円」を懐に入れた、と『ピストルと荊冠』は書いていました。また、西中島の新御堂筋の高架下を、中高齢者雇用対策ならびに老人福祉対策の一環として駐車場として利用したいという小西の申し出に対して、大阪府は同和対策事業の枠外で市開発公社に占有許可を出し、小西がトップを務める飛鳥会に管理委託させたのでした。それにより、西中島駐車場も小西の懐を潤すことになります。

  駐車場の売上げは一日平均六十万円あった。一年間で二億二千万円である。そのうち地代や人件費を差し引いた七千五百万円が小西の懐に入った。
(『ピストルと荊冠』)


同書によれば、18年間で「少なくとも六億円を着服している」そうです。

もちろん、同和対策を利用した土地転がしで億単位の利益も得ていました。本ではそのカラクリについて、不動産業者が次にように証言しています。

「小西が支部長になってから、ここに道ができる、ここには住宅が建つという具合に(地区内の事業計画が)わかるようになった。最初に小西は地区内の土地を千七百万円で買(こ)うた。それを転売したら三千万円くらいで売れた。そこからあいつは金の味を覚えたわけや。
(同上)


解放会館ができた当初、同館には7名の大阪市の職員が常駐していたそうです。小西は、その人事権を握っているだけでなく、本庁の人事や採用にも影響力を持っていたと言われています。実際に、小西の実兄や甥、姪の夫など身内が大阪市に採用されているのでした。

もちろん、それらの収入は申告していません。「同和」というだけで何のお咎めもなかったのです。それどころか、彼の「人脈は、部落解放運動、行政、政界、警察、国税、銀行、建設業界など各界に広がり、絶大な影響力を持つに至った」(同上)のでした。

彼の金満ぶりについて、『ピストルと荊冠』は次のように書いていました。

  支部長に就任して間もないころは、廃車寸前の高級国産車のトヨタ・クラウンを知り合いから二十万円で購入し、乗り回していた。
(略)
  金回りがよくなると、クラウンをアメリカの大型高級車・リンカーンコンチネンタルに乗り換え、専属の運転手を据えた。
  住居は、一九五〇年代はバラックに、一九六〇年代後半には同対事業によって完成したばかりの3DKの団地型の市営住宅(五十平方メートル)に住んだ。一九七〇年代には奈良市内に自宅を建築したが、その後、妹に譲っている。
  一九八〇年代初めに飛鳥会事務所で働いていた事務員との間に二人の娘をもうけると、同じく奈良市内に三億円をかけ、五百五十平方メートルの敷地に地上三階地下一階の豪邸を建てた。電気代だけで月に一ヶ月二十万円もかかったという。

(略)大人になった長男が「車が欲しい」と言うと、「ん、車? ほな買おうか」と千二百万円のベンツを買い与えた。長男は(引用者:障害があって)運転ができないため、運転手兼介助者は、小西の伝手で大阪市に採用された男が務めた。


私も若い頃、浄土真宗の集まりで、部落解放同盟の末端の活動家たちと話をしたことがありますが、彼らは旧統一教会の信者と同じで、純粋に真面目に解放運動に身をささげていました。そのとき会った小学校の若い女性教師は、狭山事件の裁判の抗議のために、同和地区の子どもたちが「狭山差別裁判糾弾」のゼッケンをつけて登校する、いわゆる”ゼッケン登校”について、「子どもたちの気持がわかりますか?」と涙ながらに語っていました。しかし、「裏切られた革命」ではないですが、上の方はこのようにデタラメを究め腐敗していたのです。もちろん、「飛鳥会事件」はその一例にすぎません。

同対法が終了したのが2002年で、小西邦彦が業務上横領と詐欺の疑いで大阪府警に逮捕されたのが2006年です。小西だけでなく、多くの同和団体に捜査が入り、摘発されています。それは、裏を返せば、それまで同和団体が同対法の下でお目こぼしを受けていた、野放しだったとも言えるのです。

しかし、小西邦彦が一方的に同和対策を食いものにしたとは言えないのです。著者の角岡伸彦氏も、同書で次のように書いていました。

  小西は、運動団体と財団法人、社会福祉法人のトップを長年務めてきた。小西の一声で公共事業が進展し、様々なトラブルが解決した。人脈は、部落解放運動、行政、政界、警察、国税、銀行、建設業界など各界に広がり、絶大な影響力を持つに至った。
(同上)


言うなれば、持ちつ持たれつだったのです。

話を戻せば、「餃子の王将」も”鬼の研修”などに象徴されるように、従業員にとって「ブラック」な会社だったという声もあります。私もYouTubeにアップされていた、大東氏が社長で現社長の渡邊直人氏が常務だった頃の店長研修の動画を観ましたが、たしかにそう言われても仕方ないように思いました。実際に、2013年には、「餃子の王将」はブラック企業大賞にノミネートされているのでした。

そんな会社の創業家と、「差別解消」や「人権尊重」を謳い、一時は三里塚闘争にも動員をかけるほど新左翼にも接近したりと、きわめてラジカルな運動を展開していた部落解放同盟の幹部が親密な関係を持ち、莫大な金銭を伴う不適切な取り引きを行っていたのです。その構図は「飛鳥会事件」とよく似ています。

社長射殺事件では、それまで何度が商売に失敗している創業者が、どうして部落解放運動のドンと言われた上杉佐一郎の一族と関係を持つに至ったのか。そして、どうして上杉佐一郎氏の力で、300億円の資金を調達して、商売を成功に導くことができたのか。それが事件のポイントのように思います。

「王将」は、上記の第三者委員会が公表した調査報告書で示されているように、上杉兄弟との関係を絶つことができなかったのは事実なのです。さらに、そこに九州一の武闘派のヤクザ組織工藤会が絡んできたのです。創業家と上杉兄弟と工藤会がどういう関係にあったのか、まだ多くの”謎”が残っているのでした。もっとも、”謎”にしたのは工藤会に腰が引けていた警察だという声もあります。初動捜査の遅れなどと言われていますが、たしかに、どの事件も”謎”だらけで、容疑者の逮捕までえらく時間がかかっているのでした。

田中容疑者の逮捕を受けて、産経新聞は、匿名ながら次のような記事を載せていました。警察から得た情報なのか、上杉兄弟と「餃子の王将」との関係について、結構踏み込んだ内容が書かれていました。

産経ニュース
㊦背景に200億の「代償」?  事件つなぐキーマンX

  平成5年6月に死去した王将の創業者、加藤朝雄氏の社葬に、友人代表として参列するXの姿があった。福岡県を中心にゴルフ場経営や不動産業を手掛けていたXは、王将の取引先で作る親睦団体「王将友の会」の設立にも尽力。王将が全国に店舗を拡大していく際、トラブルの解決に暗躍していた。

  Xの兄はある同和団体の「ドン」と呼ばれ、X自身も「政財界や芸能界に顔が広かった」(知人)という。28年3月、王将フードサービスが公表した不適切取引に関する第三者委員会の報告書などによると、同じ福岡県出身の朝雄氏と昭和52年ごろに知り合い、交流を始めた。

  王将は全国チェーンへと急成長を遂げたが、各方面に影響力を持つXの水面下での動きが支えになったことは否定できない。各地の出店を支援し、平成元年に大阪・ミナミの店舗で起きた失火では、建物の所有者が死亡した問題の解決も仲介したとされる。
(上記記事)


また、上記のリテラの記事でも取り上げられている一橋文哉氏の『餃子の王将  社長射殺事件  最終増補版』(角川文庫)では、同氏について、「U氏」というイニシャルでその人物像を次のように書いていました。長くなりますが、その箇所を紹介します。尚、本が書かれたのが2014年で、加筆修正されて文庫に収められたのが2016年ですので、一橋氏は、実行犯について、中国人ヒットマンの存在をほのめかしていました。(文中事実誤認の部分もありますが、そのまま掲載します)

  U氏は「王将」創業者・加藤朝雄氏と同じ福岡県出身で、京都市内で不動産関係会社・K社を経営している。
  K社はバブル経済全盛期に、旧住宅金融専門会社(住専)の大手「総合住金」から百三十二億円の融資を受け、完全に焦げつかせたことで知られる会社だ。「総合住金」多額融資先の第四位にランクされ、一時は「問題企業」として金融業界からマークされていた。さらに、京都・闇社会の「フィクサー」とも「スポンサー」とも言われた山段芳春さんだんよしはる会長(九九年三月に死亡)率いるノンバンク「キュート・ファイナンス」からも二百数十億円を借り入れ、これも焦げつかせたという不動産業界では、“いわく付きの人物”である。
  何しろ、その人脈ときたら、戦後最大の経済犯罪である住銀・イトマン事件の主犯として知られる許永中きょえいちゅう・元被告(韓国移送後に仮釈放)はじめ、山口組や会津小鉄あいずこてつ(ママ)など暴力団幹部や、その系列の企業舎弟、政治団体代表ら多彩で、そうした闇社会との交流を活かして、さまざまなアンダーグランドの仕事を請け負い、やり遂げてきた人間なのだ。
  U氏はもともとは、京都市に拠点を置く同和系団体の中心人物(故人)の実弟(ママ)という立場だった。そして、山口組三代目田岡一雄たおかかずお組長が亡くなった後、その遺志を継いで美空みそらひばりをはじめ大物歌手や芸能人の「タニマチ」として応援してきたことでも知られている。
(一橋文哉『餃子の王将  社長射殺事件  最終増補版』・角川文庫)


事件の解明はやっと入口に立ったばかりです。ただ、事件の解明とは別に、ここでも、「飛鳥会事件」であきらかになったような、部落解放運動の腐敗や堕落が垣間見えるのでした。

部落解放同盟と対立する日本共産党は、同和対策事業特別措置法を「毒まんじゅう」と言っていました。当時は「何と反動的な見方なんだ」と思っていましたが、今にして思えば、当たらずといえども遠からじという気がしないでもありません。


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2022.11.01 Tue l 社会・メディア l top ▲
昨夜、アメリカのペロシ下院議長宅が襲撃され、夫のポール氏が怪我をして病院に搬送された、というニュースがありました。

毎日新聞
ペロシ米下院議長の自宅襲撃され、夫搬送 襲撃者の身柄拘束

ペロシ氏は、筋金入りの対中強硬派で、先日の台湾訪問で米中対立を煽った(その役割を担った)人物です。その際、日本にも立ち寄っているのですが、まるでマッカーサーのように、羽田ではなく横田基地に米軍機で降りているのでした。ちなみに、トランプが訪日した際も横田基地でした。「保守」を名乗るような右翼と一線を画す民族派は、そのやり方を「国辱だ」として抗議していました。

私は、このニュースを見て、『週刊東洋経済』10月29日号の「『内戦前夜』の米国社会   極限に達する相互不信」という記事を思い出しました。まだ犯人の素性や背景等があきらかになっていませんが、「内戦前夜」と言われるほど分断が進むアメリカを象徴している事件のように思えてならないのでした。

『週刊東洋経済』の同号の特集には、「米中大動乱  暴発寸前!」という仰々しいタイトルが付けられていましたが、唯一の超大国の座から転落したアメリカはまさに内憂外患の状態にあるのです。次回の大統領選では、へたすればホントに「内戦」が起きるのではないか、と思ったりするほどです。

そんな中で、米中の「ハイテク覇権」をめぐるアメリカの中国対抗政策はエスカレートするばかりです。言うなればこれは、アメリカが唯一の超大国の座から転落する副産物(悪あがき)にようなものです。と同時に、「内戦前夜」とも言われるアメリカの国内事情も無関係とは言えないでしょう。

しかし一方で、過剰な中国対抗政策のために、アメリカ自身が自縄自縛に陥り、みずから経済危機を招来するという、負の側面さえ出ているのでした。今の日米の金利差による急激な円安を見ても、もはや経済的には日米の利害は一致しなくなっています。それはヨーロッパとの関係でも同じです。同盟の矛盾が露わになってきたのです。今後”ドル離れ”がいっそう加速され、アメリカの凋落がよりはっきりしてくるでしょう。

アメリカは520億ドル(約7兆円)の補助金と輸出規制を強化するCHIPS法というアメとムチのやり方で、自国や同盟国のハイテク企業に中国との関係を絶つ、いわゆるデカップリングを求める方針を打ち出したのですが、当然ながら中国との取引きに枷をはめられた企業は、業績の後退を招いているのでした。片や中国は、既にアメリカに対抗する、「グローバルサウス」と呼ばれる巨大な経済圏を築きつつあります。

また、EV(電気自動車)に搭載する電池製造のサプライチェーンから中国を排除するインフレ抑制法(IRA)も今年の5月に成立しましたが、しかし、車用のリチウムイオン電池のシェアでは、中国メーカーが48%を占めており、その現実を無視するのはビジネスとしてリスクがありすぎる、という声も出ているそうです(ちなみに、第2位は韓国で30%、第3位は日本で12%です)。

さらには、電池の原料であるリチウムとコバルトの精錬技術と供給量では、世界の供給量の7割近くを中国が握っているそうです。そのため、中国を排除すると電池が供給不足になり、車の価格が上昇する懸念も指摘されているのでした。

半導体にしろ電池にしろ、デカップリングで自給率を上げると言っても、時間と手間がかかるため、言うほど簡単なことではなく混乱は避けられないのです。それこそ返り血を浴びるのを覚悟の上で体力勝負しているような感じになっているのでした。

米中対立は民主主義と権威主義の対立だと言われていますが、私には、全体主義と全体主義の対立のようにしか見えません。「ハイテク覇権」をめぐる熾烈な争いというのは、まさに世界を割譲する帝国主義戦争の現代版と言ってもいいのです。

渋谷が100年に一度の再開発の渦中にあると言われますが、世界も100年に一度の覇権の移譲が行われているのです。でも、当然ながら資本に国境はなく、覇権が中国に移ることは資本の「コンセンサス」と言われています。今どき、こんなことを言うと嗤われるだけでしょうが、「万国の労働者団結せよ!」というのは、決して空疎なスローガンではない(なかった)のです。

もちろん、東アジアで中国と対峙しなければならない日本にとっても、米中対立は大きな試練となるでしょう。今はアメリカの後ろでキャンキャン吠えておけばいいのですが、いつまでも対米従属一辺倒でやっていけるわけではないのです。

アメリカが世界の覇権国家として台頭したのは第二次大戦後で、たかだかこの75年のことにすぎません。中国が覇権国家としてアジアを支配していたのは、千年単位の途方もない期間でした。だから、英語で「chinese characters」と書く漢字をはじめ、仏教も国家の制度も、皇室の伝統行事と言われる稲刈りや養蚕も、日本文化の多くのものは朝鮮半島を通して大陸から伝来したものなのです。

関東近辺の山に登ると、やたら日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征に関連した神社や岩やビュースポットが出て来ますが、日本武尊とは半島からやってきて先住民を”征伐”して日本列島を支配した渡来人のことで、それらは彼らを英雄視した物語(英雄譚)に由来したものです。ちなみに、九州では、同じ日本武尊でも、九州の先住民である熊襲を征伐した話が多く出てきます。

国家は引っ越すことができないので、好き嫌いは別にしてこれからも東アジアで生きていくしかないのです。中華思想から見れば、日本は”東夷”の国です。それが日本の”宿命”とも言うべきものです。同時にそれは、河野太郎が主導するような、デジタル技術を駆使して人民を管理・監視し、行政的にも経済的にも徹底した省力化・効率化をめざす、中国式の全体主義国家に近づいて行くということでもあります。これは突飛な話でも何でもなく、地政学的に「競争的共存」をめざすなら、そうならざるを得ないでしょう。「競争的共存」というのは、米中関係でよく使われた言葉ですが、今や米中関係は「共存」とは言えない関係に変質してしまいました。

中国のチベット自治区でゼロコロナ政策に抗議して暴動が起きたというニュースもありましたが、私たちにとってそういった民衆蜂起が唯一の希望であるような全体主義の時代が訪れようとしているのです。覇権が300年振りに欧米からアジア(中国)に移ることによって、世界史は大きく塗り替えられようとしているのですが、それは、「反日カルト」の走狗のようなショボい「愛国」など、一夜で吹っ飛んでしまうほどの衝撃をもたらすに違いありません。

中国式の全体主義国家を志向しながら(僅かなお金に釣られて無定見にそれを受け入れながら)、日本は中国とは違う、中国に対抗していくんだ、みたいな言説はお笑いでしかないのです。


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新しい覇権と日本の落日
2022.10.29 Sat l 社会・メディア l top ▲
どうやら新型コロナウイルスの新規感染者数は下げ止まりの傾向にあるみたいです。ネットで「新型コロナウイルス  下げ止まり」と検索すると、下記のような見出しがずらりとヒットしました。

東京新聞 TOKYO Web
「第8波の可能性、非常に高い」…都内感染者数が下げ止まり 旅行支援開始や換気不足も不安材料

千葉日報
千葉県内コロナ8波の兆しか  感染者数下げ止まり  専門家「いまは分岐点」と警鐘

FNNプライムオンライン
県「感染者数の下げ止まり続く」新型コロナ345人感染   大分

Web東奥
コロナ感染者数「県内でも下げ止まり傾向」 - 東奥日報社

山陽新聞デジタル
岡山県内コロナ感染 8週ぶり増加  直近1週間  下げ止まり反転局面か

10月21日付けの記事ですが、東京新聞は次のように伝えています。

  都内の1週間平均の新規感染者数は、第7波のピークだった8月3日に約3万3400人まで増加。その後、減少が続いたが、今月に入って下げ止まりの傾向が強まり、今月11日を境に増加に転じている。19日時点で約3400人。厚労省の集計によると、19日までの1週間に報告された全国の新規感染者数は前週比で1.35倍となった。
(上記記事より)


しかし、世の中は、入国制限の緩和、全国旅行支援、GOTOイートの再開など、「ウィズコロナ」を謳い文句に、まるで新型コロナウイルスは過ぎ去った(恐るるに足りず)かのような空気に覆われています。

新たな変異株による第8波の兆しは世界的な傾向なので、入国制限の緩和によってさらに感染に拍車がかかる怖れもあるでしょう。

入国制限の緩和や旅行支援は、全国旅行業協会(ANTA)の会長である二階俊博氏の意向が反映されているのではないかという声がありますが、あながち的外れとは言えないように思います。

専門家も遠慮がちながら、第8波の備えを訴えはじめていますが、テレビなどは、外国人観光客の爆買いや全国旅行支援やGOTOイートの話題ばかりで、第8波の兆しについてはきわめて小さい扱いしかしていません。

さらには、政府の税制調査会で、消費増税の声が出始めているというニュースもありました。上記の旅行支援やGOTOイートもそうですが、新型コロナウイルスに関する財政支出(各種支援策)に対して、悪化した財政を手当てするために増税論が出て来るのは当然と言えば当然です。「お金を貰ってラッキー」というわけにはいかないのです。旅行や外食に浮かれていても、そのツケは必ずまわって来るのです。

まさに今の全国旅行支援やGOTOイートは、踊るアホなのです。でも、同じアホなら踊らにゃ損みたいになっているのです。

今の円安や物価高、そして住民税や健康保険料など「租税公課」の負担増の中で、再び感染拡大となれば、その影響は第1波や第2波の比ではないでしょう。重症化のリスクは低いのかもしれませんが、感染に加えて経済的な負担がまるで二重苦のように私たちの生活にのしかかってくるのです。打撃を受ける観光業者や飲食店も、もう前のように支援策が取られることはないでしょう。そのため、「風邪と同じ」と言われたり、感染症法を今の「2類相当」から5類へ引き下げたりして、社会経済活動に支障がないように「過少に扱う」のだろうと思います。手っ取り早く言えば、感染しても出勤するようなことが半ば公然と行われるということです。というか、そういうことが暗に推奨されるのです。

一方、パテミックを通して、現金給付を受けたり、キャッシュレス決済が進んだということもあって、国民の間に、みずからの個人情報を国家に差し出すことにためらいがなくなったのはたしかです。ありていに言えば、(お金に釣られて)思考停止=衆愚化がいっそう加速されたのです。そして、河野太郎氏がデジタル大臣になった途端、その変化をチャンスとばかりに、マイナンバーカードと健康保険証の紐付けの義務化が打ち出されたのでした。

消費税が導入されたとき、いったん導入されると税率がどんどん上がっていくという反対意見がありましたが、多くの国民は真に受けませんでした。でも、案の定、税率はどんどん上がり続けています。財務省にとって、これほど便利な税はないのです。

マイナンバーカードも然りで、当初は義務ではないと言っていましたが、いつの間にか義務化されたのです。既に健康保険証だけでなく、運転免許証や給付金の手続きや振込みに便利だからという理由で銀行口座との紐付けも決まっています。このまま行けば、電子決済の機能も付与されるかもしれません。利便性、行政の効率化の名のもとに、そうやって日本の“中国化”が進むのです。

ユヴァル・ノア・ハラリは、携帯電話の通信記録や位置情報、クレジットカードの利用情報などという「行動の監視」だけでなく、パンデミックによって、身体の内側まで監視できるような、「独裁者が夢見ていた」システムができあがった、と言っていましたが、日本でもそれが現実のものになってきたと言えるでしょう。マイナンバーカードに健康保険証が紐付けられることによって、私たちの健康に関する情報が国家に一元的に管理されるようになるのです。でも、健康はあくまで手はじめにすぎません。生活に関するあらゆる情報が、日々の行動とともに監視・管理されるようになるのです。それが日本の”中国化”です。

コスパやタムパを重視するデジタルネイティブの世代の感性も、デジタル独裁=デジタル全体主義にとって追い風であるのは間違いありません。

タブレットを持って記者会見に臨んだだけで、「河野さんは他の大臣と違う」と称賛する(ホリエモンやひろゆきのような)アホらしい言説が、衆愚政治を招来しているのです。どうせ個人情報はGoogleに送られているのだから同じじゃないか、と彼らは言うのですが、そういった発言によって、彼らはデジタル全体主義のイデオローグになっているのでした。
2022.10.27 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲
PEAKSのウェブサイトに、下記の記事が出ていました。

PEAKS
クマが上から飛んでくる衝撃動画「登山中に熊に襲われた」 現場の真相を取材

私も、この動画をYouTubeで観ました。

私自身、二子山ではないですが、近辺の山に登ったことがあります。至るところに「熊の目撃情報あり」の注意書きの看板があり、あのあたりは熊の生息地域であることはたしかなようです。

子ども連れの親熊が、子どもを守るために本能的に襲ってきたのでしょうが、「埼玉のジャンダルム」などと言われるほど厳しい岩稜帯が連なる二子山をクライミングしている最中に、熊が頭上から襲って来る映像はたしかに衝撃的です。動画は、現在、470万回再生されており、英語の字幕を入れていることもあってか、世界中に拡散されているようです。

ただ、私が感心したのは、動画の主が「取材のご相談は登山系の媒体に限定させて頂いております」と概要欄で断っていることです。

PEAKSの記事でも、記事を執筆した山岳ライターの森山憲一氏が次のように書いていました。

動画公開後、島田さんのもとにはテレビ局などから動画利用のお願いが多数寄せられているそうだが、いまのところすべて断っている。「衝撃映像」などと題して流され、スタジオの人が「登山は危ないですね」などと語って終わるかたちで消費されたくないというのだ。


遭難事故でもそうですが、メディアは、「安易な登山は危険」「遭難は迷惑」みたいなお定まりの自己責任論で報じるのが常です。ましてや、テレビのバラエティ番組などでは、ゲストのタレントたちが「キャー怖い」とアホみたいな嬌声を上げてそれで終わりなのです。

前に上高地の小梨平でキャンプをしていた女性のハイカーが、テントで睡眠中に熊に襲われて怪我をするという事故がありました。その女性は、大学の山岳部出身のハイカーだったので、朝日新聞の取材を受けたり、『山と渓谷』誌に体験記を発表していました。その中で、「熊に恨みはない」「熊に申し訳ない」と書いていました。

すると、ネットでは、「なんだ、その言い草は」と嘲笑の的になったのでした。彼らは、「人間を襲う熊なんか殺してしまえ」という身も蓋もない考えしかないのです。そして、同じような単純な考えで、遭難したハイカーに悪罵を浴びせるのでした。

登山では必ず記録を付けます。それは、思い出のためだけではなく、何かあったときの検証のためでもあります。どんな山に登るのでも、登山届と記録は必須なのです。

登山において、検証するというのは非常に大事なことです。この動画を検証のため、熊対策のために使ってほしい、という動画主の考えは、本来のハイカーが持っている見識だと思いました。中には熊鈴がうるさいといって、顔をしかめたりブツブツ文句を言ったりするようなハイカー(大概高齢者)がいますが、そういう下等なハイカーは山に来るべきではないでしょう。

今の時期だと、どこのテレビや新聞も、「紅葉が盛りを迎えて登山客で賑わっています」というような定番の”季節ネタ”を取り上げるのですが、遭難事故が起きると、途端に鬼の形相になって、まるで自業自得だと言わんばかりに、遭難者叩きを煽るような口調に一変するのでした。それは、Yahoo!ニュースのようなウェブニュースも然りです。

そのため、遭難者自身や家族が、事故後もSNSのバッシングに苦しむという”二次災害”の問題もあります。

もし登山系ユーチューバーだったら、「衝撃注意」「死ぬかと思った」「危機一髪」などというキャッチ―なタイトルで仰々しく煽って、再生回数を稼ごうとするでしょう。実際に、遠くで熊を目撃しただけで、ここぞとばかりに大袈裟なタイトルを付けてアップしている動画はいくつもあります。

旧メディアでもネットメディアでも、まともな神経で接するのは非常に難しいと思いますが、このように明確な見識を突き付けるのもひとつの方法だと思いました。
2022.10.25 Tue l 社会・メディア l top ▲
先日、田舎から友人が上京して来たので、久しぶりに会いました。何でも天皇夫妻や三権の長が列席したような集まりに出席するために上京したそうで、警備が凄かった、と言っていました。

「こいつ、そんな役職に就いていたのか」と思いましたが、しかし、会えばいつもの他愛のない(いつまでも成長しない)話をするだけです。私は、山用のTシャツとパンツにスニーカーにリュックを背負った恰好でしたが、さすがに彼はちゃんと紺のスーツを着てネクタイを締めていました。

お土産だと言って田舎のなつかしいお菓子も貰いました。見た目は景気がよさそうだったので、食事もご馳走になりました。

その中で、久住連山の話になりました。彼も子どもの頃からの習慣でときどき山に登るので、自然とそういった話になるのでした。

私も前に書きましたが、久住連山が阿蘇国立公園と一緒になるとき、山の反対側の九重ここのえ町が「俺たちも九重くじゅうだ」と言い出して、折衷案として「阿蘇くじゅう国立公園」とひらがな表記になった話や、最近、久住山や久住連山が「九重山」や「九重連山」と表記されていることを取り上げて、「ホントに頭に来るよな」と言っていました。これは、私たちの田舎の人間に共通する感情です。

私は知らなかったのですが、久住連山とは別に最寄り駅から祖母山への登山バスも出ているそうです。祖母傾山は「おらが山」という感覚はないので意外でしたが、祖母山は日本百名山なので、登山客の便宜をはかっているということでした。「百名山なんて、あんなもん関係ないじゃん」と言ったら、「まあ、まあ、まあ」と言って笑っていました。もっとも、地図上では祖母山も「おらが村」の端っこにあるのです。

私も若い頃、祖母山に登ったことがありますが、そのときは赴任先の町で、役場の職員や学校の教師をしている地元の青年たちが山登りのグループを作っていて、彼らに誘われて一緒に登ったのでした。祖母傾山は、彼らには地元の山でしたが、私自身は、今の奥多摩などと同じように、よその山に登っているような感じでした。私にとっては、やはり久住が地元なのです。中でも大船山が「おらが山」なのです。

祖母山の登山口がある町も、当時、私が担当していた地区だったので、よく車で行っていました。今でも忘れられないのは、登山口の近くにおいしい湧き水が出ているところがあるので、湧き水を飲もうと車を停めて車外に出たら、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできて、子どもの頃から紅葉は見慣れているはずなのに、「紅葉ってこんなにきれいなんだ?」と感動したことです。そんなさりげない風景が、一生忘れられない風景になることもあるのです。

これも前に書いたかもしれませんが、地元にいた頃、夜、その友人の家を訪ねて行ったことがありました。友人の家は、私たちの田舎の最寄り駅がある人口が1万人ちょっとの城下町にあります。

私たちの田舎は、ウィキペディア風に言えば、「祖母山・阿蘇山・くじゅう連山の3つの山岳」に囲まれた町で、当時は平成の大合併の前だったので、友人の町は私の実家がある町とは別の自治体でした。大昔は同じ「郡」だったのですが、友人の町が分離して「市」になり、そして、平成の大合併で今度は分離した「市」に統合されたのです。人口が1万ちょっとというのは、合併する前の話で、現在は2万人弱だそうです。

当時、私は、実家とは別に、祖母傾山の大分県側の登山口がある町の隣町の営業所に勤務していました。会社が借り上げたアパートに住んでいたのですが、何故か、ふと思い付いて車で30~40分かかる友人の家を訪ねて行ったのでした。

友人の家は駅の近くの商店街の中にあったのですが、行くとお母さんが出て来て、友人は出かけていると言うのです。1時間くらいしたら帰って来るので、(家に)上がって待っているように言われたのですが、「いいです。ちょっと時間を潰してまた来ます」と言って、町外れにあるパチンコ屋に行ったのでした。

でも、パチンコ屋に入ったらお客は数人しかいませんでした。店内には古い歌謡曲が流れており、うら寂しい雰囲気が漂っていました。

時間が経ったので、再び、友人の家に行き、友人と一緒に近所のホテルの中の小料理屋に行って話をしました。商店街も人通りはまったくなくひっそりと静まり返っていました。もちろん、商店街と言っても、アーケードがあるような立派なものではなく、ただ、昔ながらの店が並んでいるような通りにすぎません。

また、ホテルも、今で言えば民宿やゲストハウスみたいな二階建ての小さな建物です。小料理屋は、おそらく宿泊客が食事をするところなのでしょうが、私たち以外お客は誰もいませんでした。

どうして急に友人の家を訪ねて行ったのかと言えば、たぶん会社を辞めて再び上京することを告げに行ったのだと思います。まるでゴーストタウンのようなひっそりとした町の様子がそのときの自分の心象風景と重なり、それで今でも心に残っているのでしょう。

その頃の私は、仕事はそれなりに順調でしたが、耐えられないほどの寂寥感と空虚感に日々襲われていました。のちに当時の会社の同僚と会ったとき、私がどうして会社を辞めたのか理解できず、みんなで首を捻っていた、と言われたのですが、もとより心の奥底に沈殿するものが他人にわかるはずもないのです。その意味では、私はホントに孤独でした。

私は本を読んだり映画を観たりするのが好きでしたが、当時、私が住んでいた町には本屋は1軒あるだけで、映画館はありませんでした。本屋もめぼしい本は売ってないので、いつも注文して取り寄せて貰っていました。

でも、九州の山奥の人口が2万人足らずの小さな町のアパートで、本を読んでも何だか淋しさを覚えるばかりでした。へたに東京の生活を知っていたので、ミーハーと言えばそうなのですが、新宿の紀伊国屋や渋谷の大盛堂で本を買って、名画座で独立プロのマイナーな映画を観たりするような生活がなつかしくてならなかったのです。そういった空気に飢えていたのでした。

朋あり遠方より来る、そして、旧交を温めるのも、年を取ると何となく淋しさもあります。もう二度と戻って来ない時間が思い出されるからでしょう。

「久住の紅葉を見に帰っちくればいいのに」と言われましたが、「そうだな、今年は無理じゃけん、来年かな」と答えました。でも一方で、来年ってホントに来るんだろうか、と思ったのでした。
2022.10.25 Tue l 故郷 l top ▲