「見てみろ、凄いじゃないか。とうとう内閣の改造まで行ったぞ」と私は彼に言いたくなりました。

鉄パイプに黒のビニールテープを巻いただけの粗末な手製の銃から発射された2発の銃弾が、ここまで世の中を変えたのです。1発目を撃ったとき、まわりにいた人たちは、銃声だと思わなかったそうです。自転車か何かのタイヤがパンクした音のように聞こえたと。そんな粗末な手製の銃が、これほどのインパクトをもたらすとは誰が想像したでしょう。

まるでみずからの不手際を弁解するかのように、事件直後から垂れ流される容疑者の供述。それもまた、今までの事件では見られない異例のものだと言われます。事件直後には、「安倍元首相に対して不満があり、殺そうと思って狙った」という供述がありましたが、すぐに「元首相の政治信条への恨みではない」と「訂正」するような供述に代わっています。またそのあとも、「特定の団体に恨みがあり、安倍元首相が団体と繋がりがあると思い込んで犯行に及んだ」というような供述も発表されたのでした。

専門家の中には、犯行直後にそんな供述をするのは不自然だという声があるそうです。容疑者は、逮捕直後の混乱(興奮状態)の中で、「思い込んだ」と自分の犯行を後悔(否定)するようなことを口にしているのです。時間が経ってから後悔の念に苛まれてそう言うのならわかりますが、犯行直後なのです。

警察がメディアに発表した供述内容が、公判の際、調書に出てないことも多いのだとか。それはあくまで警察が発表した一方的な供述にすぎず、正式な供述ではないのです。

さらには、容疑者を精神鑑定するために鑑定留置することが認められたと発表されたのでした。それも4ヶ月にもわたる長期です。「動機に論理の飛躍が見られる」というのがその理由ですが、たしかに奈良県警が発表した供述に従えば、単なる「思い込み」であれだけの犯行に及んだのですから、「論理に飛躍が見られる」ことになるでしょう。

犯行からひと月が経ちましたが、あらためて暴力が持つインパクトの大きさを痛感させられるばかりです。容疑者は、決行するにあたって、「政治的意味を考える余裕はない」と言ったのですが、時間の経過とともに容疑者の行為はとてつもなく大きな「政治的意味」を持つに至ったのでした。

犯行の翌々日が参院選の投票日でしたが、選挙の結果がどうであれ山上容疑者の銃撃がなければ、これほど日本の政治が旧統一教会に浸食されていたことが白日のもとに晒されることはなかったでしょう。与党の議席がどうの野党の議席がどうのといういつもの報道がくり返されるだけで、胸にブルーリボンのバッチを付けた「愛国」政治家たちと韓国のカルト宗教の蜜月は、何事もなかったかのようにこれからも続いていたでしょう。

前も書きましたが、自民党の改憲案と旧統一教会の政治団体である国際勝共連合の改憲案が酷似しているというのはよく知られた話ですが、「愛国」政治家たちがジェンダーフリーやLGBTや同性婚や夫婦別性に反対して「日本の伝統的な家庭を守る」と主張しているのも、旧統一教会からの受け売りであったことが徐々にあきらかになっています。

今年の6月に開かれた神道政治連盟国会議員懇談会の席で、同性愛は「回復治療の効果が期待できる」「依存症」や「精神障害」であり、「LGBTの自殺率が高いのは社会的な差別が原因ではない」というような内容のパンフレットが配布されたとして問題になりましたが、神道系の議員たちが前はほとんど関心がなかった”性の多様性”の問題に急に関心を持ちはじめ、強硬な反対論を展開するようになったのも、旧統一教会の働きかけがあったからだと言われているのでした。

それどころか、彼ら神道系議員の母体である神社本庁が、日本人をサタンと呼ぶキリスト教系の旧統一教会の影響下に置かれているという、信じられない話まで飛び出しているのでした。神道の信者は数の上では莫大ですが、葬儀や結婚式を神道式で行なう人が稀であるように、実際に信仰している人は少なく、しかも、御多分に漏れず信者の高齢化が進んでいるそうです。そんな中、旧統一教会がNPO法人のような団体名で近づき、若い隠れ信者たちが神社本庁の活動を手足となって手伝うことで、神社本庁に浸透していったそうです。中には本部の職員に採用された信者もいたそうです。国会議員の選挙運動を手伝って、その議員を取り込み思想的影響下に置くのとまったく同じ手口です。また、神社本庁は内紛によって分裂状態にあるのですが、それも旧統一協会が裏で糸を引いていたのではないかという見方さえあるのでした。

何度もくり返さなければなりませんが、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)は、サタンの日本人は「アダムの国」の韓国に奉仕しなければならないと主張する韓国のカルト宗教なのです。

そんなカルト宗教に日本の「愛国」や「伝統」が簒奪されコントロールされていたのです。岸田首相は昨日の記者会見で否定していましたが、自民党の改憲案や神道政治連盟のパンフレットに見られるように、政権与党の政策が影響を受けていたのではないかという疑惑は拭えません。

神道政治連盟のサイトのトップページには、「日本に誇りと自信を取り戻すため、さまざまな問題に取り組んでいます」と麗々しく謳っていますが、そんな議員たちがよりによって、日本人をサタンと呼ぶ韓国のカルト宗教と密通していたのです。こんなふざけた話があるでしょうか。

国民に「愛国」を説き、国民向けには”嫌韓”を装いながら裏では韓国のカルト宗教にへいつくばりおべんちゃらを言っていたのです。こんな「愛国」者がいるでしょうか。

日本は美しい国、日本人の誇りを取り戻そうと言っていた政治家が、よりによって日本を「エバ国家」と呼ぶ韓国のカルト宗教と三代前から親しい関係を結び、選挙の際は票の配分を依頼するなど、みずから日本の政治のど真ん中に招き入れていたのです。

2発の銃弾が暴き出したのは、この国の「保守」と呼ばれる政治がまったくの虚妄だったという事実です。「保守」なるものが、「愛国」と「売国」が逆さまになった”戦後の背理”の産物にすぎなかったことがあらためて明らかになったのです。「愛国」や「保守」や「反日」や「売国」という言葉はことごとく失効したのです。

江藤淳は、占領軍の検閲によって、戦後の言語空間は閉ざされたものになったと言ったのですが、そもそも言語空間もくそもなかったのです。保守主義者の江藤淳が見ていたのは虚構だったのです。

今、私たちの前にあるのは、戦後の「保守」政治が見るも無残に破綻した光景です。それを未だに空疎な言葉を使って糊塗しようとするのは、あまりに往生際が悪くみっともない所業としか言いようがありません。ホントに「反日」なのは誰だったか、もう一度自問した方がいいでしょう。国葬なんかやっている場合じゃないのです。

それは、橋下徹や三浦瑠麗や東浩紀らテレビの御用知識人たちの言語も同様です。今回の事件では、彼らの言語の薄っぺらさが晒されるという副産物も生んだのでした。テレビを観ていて呆れた人も多いはずです。

目の前に突きつけられた事態があまりに衝撃的で想像を越えていたためか、彼らは、みずからの常套句で説明することができずトンチンカンを演じてしまった感じでした。わからないことはわからないと正直に言えばよかったのです。彼らが駆使する言語も、現実を剔抉することのできない、単なる口先三寸主義の屁理屈にすぎないことが明らかになったのでした。

このように、一夜にして世の中の空気が一変したのです。旧統一協会に再び世間の厳しい目が向けられるようになりました。また、今まで視野に入ってなかった信仰二世の問題にも、目が向けられつつあります。

自転車のタイヤがパンクしたと間違われるような粗末な手製の銃から発せられた2発の銃弾が、こと、、の善悪を越えて「凄いじゃないか。やったじゃないか」と言いたくなるような光景を引き出したのです。それは驚き以外のなにものでもありません。
2022.08.11 Thu l 社会・メディア l top ▲
また、『紙の爆弾』の記事の話になりますが、今月号(9月号)の中川淳一郎氏のコラム「格差を読む」に、思わず膝を打つような記事が載っていました。

ホントは全文を紹介したいくらいですが、もちろん、それは叶わぬことなので、もし興味があれば、『紙の爆弾』9月号(鹿砦社)をお買い求めください(いつもお世話になっているので宣伝します)。

タイトルは『「34位」の日本人が生きる道』。記事は次のような文章で始まっています。

  スイスのビジネススクール・国際経営開発研究所(IMD)が「世界競争力ランキング2022」を発表した。日本の競争力は二〇二一年の三一位から三四位に低下。これは六三ヵ国を対象に二〇項目・三三三の基準で競争力を数値化したもので、調査開始の一九八九年から九二年まで日本は四年連続一位。その後も二位、三位、四位、四位と上位の常連だった。九七年に一七位に急落し、二十番台が続いたが、ついに三四位まで落ちた。マレーシア(三二位)やタイ(三三位)の下である。
  もはや日本は東アジアの没落国といってもいいかもしれない。上位常連のころは、自動車・家電・金融・不動産が活況だったものの、ネット時代以降は社会の変化についていけなくなったようだ。また、かつて世界に五〇%はあった半導体のシェアが 一〇%を切るなど、目も当てられない状態になっている。
(『紙の爆弾』2020年9月号・「格差を読む」”「34位」の日本人が生きる道”)
※以下、引用は同じ。


私がこのブログでしつこいように書いている「ニッポン凄い!」の自演乙も、ここまで来るともはやギャグのように思えてきます。

だったら、日本にとって強みは何があるのか?、と中川氏は考えるのでした。

  (略)日本にとっての強みというのは、「物価が安くて食・サービスの質が高く、インフラが整い、歴史もあり、豊かな自然もあり、観光に適した国」というものしかなくなってしまう。あとは魚介類や野菜をはじめとしたグルメ方面か。


  自動車も家電もネットサービスも、今後日本が世界で存在感を示すことは難しいだろう。これから考え得る日本の進む道は「観光立国」しかない。となれば、国民の働き先は飲食店やホテルの掃除、コンビニ店員といったところになるだろう。現在、日本の都市部に住む東南アジア系の人々が担っている仕事を日本人がやるということだ。


私は、ほかに風俗と児童ポルノがあるのではないか、と思いました。コロナ前までは、中国人や韓国人の買春ツアーは活況を呈していました。風俗に詳しい人間の話では、外国人専用の派遣ヘルスも多くあったそうです。ガーシーではないですが、外国人相手に大和撫子をアテンドするプロのブローカーも「掃いて棄てるほど」いたそうです。

中川氏は、続けてこう書いていました。

国の物価を示す「ビッグマック指数」においても、もはや日本はタイよりも下である。この三十年間、給料が上がらない稀有な国こそ日本なのだ。


前も書きましたが、日本は「安くておいしい国」なのです。買春する料金も、外国人から見たら格安で「良心的」です。給料が上がらない分、風俗の料金も30年前から上がってないそうです。

「Youは何しに日本へ?」でインタビューされている外国人たちのかなりの部分は、ホントは日本に買春に来ているのです。秋葉原に行きたいというのも、ホントは児童ポルノが目当てなのです。昔のJ-POPのレコードを探しに来たとか、地方のお祭りに参加するために来たというのは、奇人変人の部類に属するような稀な例です。

以前、このブログで、若者の間で海外旅行離れが進んでいるという話題を取り上げたことがありますが、今調べてみたら2008年4月の記事でした。既にその頃から没落が顕著になり、私たちも身に沁みてそれを実感するようになっていたのでしょう。

私たちのまわりを見るとわかりますが、格差と言っても、親がどれだけ資産を持っているか、親からどれだけ遺産を受け継いだかによっても違います。起業しても同じです。手持ちの資金にどれだけ余裕があるかによって、どれだけチャンスをものにできるか、どれだけ持ちこたえることができるかが決まるのです。

とは言え、日本にはまだ個人の金融資産が2000兆円弱もあるそうです。それを食いつぶす間は”豊かな幻想”を持つことができるでしょう。一方、金融資産の恩恵に浴することができない人たちの多くは、既にこの社会の中で落ちぶれてアンダークラスを形成しているのです。

安倍元首相を狙撃した山上徹也容疑者の父親は、京大卒で大手建設会社に勤務していたそうです。母親も大阪市立大(現・大阪公立大)卒の栄養士だったとか。旧統一教会に寄付した総額は1億円だったそうですから、遺産も含めて、山上家には1億円の資産があったことになります。もし、母親が旧統一教会に入ってなければ、容疑者が言うように、その資産を使って大学にも行けたでしょうし、今もそれなりの生活を送ることができたでしょう。

今の「それなりに豊かに見える」生活も、単に親から受け継いだ資産が投映されたものにすぎない、と言ったら言いすぎかもしれませんが、没落していく国では、とりわけ親の資産や遺産の多寡によって子の人生が決まる無慈悲な現実があるのも事実です。そもそもスタートが平等ではないのですから、個人の努力の範囲は最初から限られているのです。

私たちの世代は、進学資金や結婚資金やマイホームの頭金などを親から出して貰うのが当たり前でした。じゃあ、私たちは、自分たちの子どもに同じことができるかと言えば、もうそんな余裕はありません。せいぜいが奨学金の保証人になるくらいです。

私は九州の高校を出たのですが、私たちの頃は東京の大学に進学した同級生が100人近くいました。今でも都内で開催される同級会には常時20~30人は集まるそうです。しかし、現在、母校から東京の大学に進学する生徒は数人程度です。それも私たちのような凡人ではなく、超優秀な生徒だけです。

私たちの頃と違って、圧倒的に地元志向、しかも公立志向なのです。つまり、それだけ親に経済的な余裕がなくなっているのです。同級生と話をすると、みんな口をそろえて「あの頃、親はよく仕送りしてくれたな」「考えられないよ」「よくそんなお金があったと思うよ」と言いますが、それが私たちの世代の実感です。

このように、私たちは子どもに残す遺産がないのです。身も蓋もないことを言えば、それだけ貧しくなっているということです。”負の世代連鎖”に入っていると言ってもオーバーではないでしょう。

ネットニュースの編集者でもあった中川淳一郎氏は、こうも書いていました。

  おそらく日本で給料が大幅に上がることは難しい。それは、ひとえに、情報の伝播のしやすさの問題だ。英語のサイトが世界中からアクセスを集められるのと比べて、日本語の情報は、ネット上の存在感が極端に低いのである。


とどのつまり、益々没落していくしかないということでしょう。

デジタル革命に乗り遅れたと言えばその通りなのですが、日本語の問題も含めて、そこには日本の社会そのものに起因する致命的な問題があるような気がしてなりません。

日本の企業は、いつまで経っても日本流の生産方式や品質管理が一番いいという「神話」から脱皮できず、そのために世界から取り残されてしまったという話を前にしたことがありますが、ネットの時代になって日本は逆に「愛国」という病理に、そして「ニッポン凄い!」という自演乙に自閉していったのでした。つまり、「パラダイス鎖国」の幻想に憑りつかれ、内向きになっていったのです。そうやっていっそう没落を加速させたのです。

海外に出稼ぎに行くにしても、「壊滅的に英語ができない国民」である日本人には、言語の壁が立ちはだかって難しいと皮肉を書いていましたが、それも笑い話で済まされるような話ではないでしょう。「同じ東アジアのタイやベトナム、カンボジアの方が日本より英語が通じる」現実を前にしてもなお、「ニッポン凄い!」と自演乙しつづけるのは、何だか哀愁を漂わせるピエロのギャクのようにしか見えません。


関連記事:
日本は「買われる国」
「安くておいしい国」日本
『ウェブはバカと暇人のもの』
2022.08.10 Wed l 社会・メディア l top ▲
ナンシー・ペロシ下院議長の台湾訪問は、当初、中間選挙で民主党の敗色が濃厚と言われている中での季節外れの“卒業旅行”みたいなものだとヤユする向きもありました。ところが、蓋を開けてみるとそんな呑気な話ではなく、82歳の老婆による、とんでもない”戦争挑発旅行”だったということがわかったのでした。

「これでウクライナが東アジアに飛び火した」と論評した専門家がいましたが、まさにそれこそがナンシー・ペロシの「電撃的な台湾訪問」に隠されたバイデン政権の狙いだったように思います。

アメリカ空軍の軍用機(要人輸送機C-40C)を使った今回の訪問が、露骨に中国を挑発するものであることは誰が見てもあきらかでしょう。でも、対米従属の日本では、「挑発」という言葉はまるで禁句であるかのようです。メディアにもその言葉は一切出て来ないのでした。

ナンシー・ペロシの行動をバイデン大統領が止めることができなかった。個人的な旅行なのに、中国が「メンツを潰された」と過剰に反応して、台湾や日本に軍事的な圧力をかけている。このまま行けば中国が戦争を仕掛けて来るかもしれない、というような報道ばかりです。

今回の挑発行動には、米中対立によって、半導体の一大供給地である台湾の戦略的な重要性が益々増しているという、近々の状況が背景にあることは間違いないでしょう。石油や天然ガスのような天然資源ではなく、今の時代ではデジタル技術も大事な資源なのです。そういった新たな資源争奪戦という帝国主義戦争の側面は否定できないように思います。

しかし、それだけではなく、アメリカ経済が陥っている苦境とも無縁ではないような気がします。FRBは、6月に28年ぶりの大幅利上げを行なったのですが、翌月にも同様の利上げを再度行なって世界を仰天させたのでした。このように、現在、アメリカは「経済危機」と言ってもいいような未曽有のインフレに見舞われているのです。そのため、アメリカは、起死回生のために新たな戦争を欲しているのではないか。台湾有事という”危機”を現前化することで、今やコングロマリットと化した軍需産業を起爆剤に、低迷するアメリカ経済を好転させる魂胆があるのではないか、と思いました。もとより、蕩尽の究極の場である戦争ほど、美味しいビジネスはないのです。1機100億円以上もする戦闘機がどんどん撃ち落とされるのを見て、歓喜の声を上げない資本家はいないでしょう。

アメリカは戦後、朝鮮戦争からシリア内戦までずっと他国の戦争に介入してきました。そうやって超大国の座を維持してきたのです。ただ、ウクライナ戦争を見てもわかる通り、既に直接介入する力はなくなっています。しかしそれでも、他国の人々の生き血を吸って虚妄の繁栄を謳歌する”戦争国家”であることには変わりがありません。

もちろん、どうして今なのか?を考えたとき、中間選挙をまじかに控えた民主党の党内事情も無視できないように思います。苦戦が伝えられる中間選挙で逆転するためには、”強いアメリカ”を演出しなければなりません。しかし、ロシアは役不足です。案の定、ウクライナ戦争はインパクトに欠け、国民も冷めています。やはり、中国を民主主義と権威主義の戦いに引き摺り込むしかない。バイデンらはそう考えたのかもしれません。

でも、バイデンは79歳、ナンシー・ペロシは82歳です。私たちは、ガーシー当選に勝るとも劣らない悪夢を見ているような気持になってしまいます。

ナンシー・ペロシの台湾訪問のひと月前に発売された『紙の爆弾』(7月号)で、天木直人氏(元駐レバノン大使)と対談した木村三浩氏(一水会代表)は、今回の挑発行為を予見していたかのように、次のように発言していました。

木村   (略)米国が次に狙うのが中国で、だからこそ台湾有事の勃発が危惧されている。しかし、日本にはその視点がない。独裁者のプーチンが暴走した。香港・ウイグル・チベットなどで人々を弾圧している習近平も暴走するに違いない、と事態が極度に単純化されている。この論調に政治が乗っかり、日米同盟を強化すべきだ、NATOに入るべきだといったことまで公言されています。防衛費増強にしても、米国からさらに武器を買って貢ぐことにすぎません。
(「台湾有事」の米国戦略と「沖縄」の可能性)


一方、天木氏は、台湾有事に備えるには、沖縄の平和勢力が「反戦平和」を唯一の公約にする、つまり、その一点で結集できる「沖縄党」をつくって国政に参加するべきだと言っていました。

唯一の地上戦を経験しながら、戦後も基地の負担を強いられてきた沖縄には、本土のように対米従属に対する幻想はありません。だから、ネトウヨには、沖縄は「左傾」した「中共のスパイ」のように見えるのでしょう。天木氏の提案は、そんな対米従属の幻想から「覚醒」した沖縄が、日本の対米従属からの脱却を促し、日本を「覚醒」させることができるという、沖縄問題を論じる中でよく聞く”沖縄覚醒論”の延長上にあるものと言えます。

何度もくり返しますが、日本という国は、国民に「愛国」を説きながら、その裏では、サタンの日本人は「アダムの国」の韓国に奉仕しなければならないと主張する韓国のカルト宗教と密通していたような、ふざけた「愛国」者しかいない国なのです。それは政治家だけではありません。”極右の女神”に代表されるような右派のオピニオンリーダーたちも同じです。嫌韓で自分を偽装しながら、陰では韓国のカルト宗教から支援を受け、教団をヨイショしていたのです。また、旧統一教会の魔の手は、「愛国」の精神的支柱とも言うべき神社本庁にまで延びているという話さえあります。

自民党の改憲案と旧統一教会の政治団体である国際勝共連合の改憲案が酷似しているというのはよく知られた話ですが、胸にブルーリボンのバッチを付けた「愛国」者たちが、ジェンダーフリーやLGBTや同性婚や夫婦別性に反対するのも、教団からの受け売り(働きかけによるもの)だったのではないかと言われています。それどころか、女系天皇反対もそうだったのではないかという指摘もあるくらいです。

そんなふざけた「愛国」者が煽る戦争に乗せられないためにも、「沖縄の覚醒」を対置するという考えはたしかに傾聴に値するものがあるように思います。しかし、同時に、もう沖縄に頼るしかないのか、また沖縄を利用するのか、という気持も拭えないのでした。

天木   米国はいまでも「一つの中国」について変わらないと繰り返す一方で、あいまい戦略を、どんどんあいまいではないようにしています。台湾への軍事支援を公然と行ない、独立をそそのかしている。五月に来日したバイデンは岸田首相との会談で「武器行使」を肯定する発言をしました。(略)そんな発言をすること自体、バイデンは米中関係を損ねているのです。


天木   この現実を変えるには、沖縄に期待するしかないと思うに至りました。(略)このままいけば再び沖縄は捨て石にされる。今度は中国と戦うことを迫られる。これだけは何があっても避けたいはずです。沖縄の人たちは、「ぬちどぅたから(命こそ宝)や万国津梁ばんこくしんりょう」という言葉を琉球王国時代からの沖縄人の魂だと言います。ならば、それを唯一の公約とした「沖縄党」をつくって国政に参加してほしい。


天木   (略)本当に有事になったときは、日本人は皆”反戦”に傾くはずです。そのときに民意を集約できるのは、既存の左翼勢力ではなく「沖縄党」だと、私は思っているのです。


天木氏の発言に対して、木村氏も次のように言っていました。

木村   (略)このまま台湾有事に向えば、今のロシアと同じように、冷静な意見も「お前は親中か!」と排斥が始まるでしょう。それでも沖縄が「二度と戦争の犠牲にならない」と言えば、誰も反論はできない。


ただ、中には、台湾有事になれば自衛隊が戦うだけ、沖縄が犠牲になるのは地政学上仕方ない、自分たちが安全圏にいられるならいくらでも防衛費を増強すればいい、と考えているような日本人も少なからずいます。彼らもまた、”対米従属「愛国」主義”に呪縛され、戦争のリアルから目を背けているという点では、ふざけた「愛国」者と五十歩百歩と言うべきなのです。


関連記事:
『琉球独立宣言』
2022.08.08 Mon l 社会・メディア l top ▲
先の参院選で当選したNHK党のガーシーが、8月3日の臨時国会の招集にあたって提出した海外渡航届に対して、参院議院運営委員会理事会は「納得がいく理由がない」として、全会一致で許可しないことを決定したという報道がありました。

この「許可しない」というのは渡航を許可しないという意味だと思いますが、許可するも何もガーシーは選挙前から渡航していて日本にいないのです。しかも、渡航届の帰国日は「未定」になっていたそうです。まったく冗談みたいな話です。

ところが、議院運営委員会理事会の決定に対して、ガーシーは、インスタグラムに下記のような怒りの投稿を行ったのでした。

Instagram
ガーシーチャンネル(東谷義和)
https://www.instagram.com/p/Cgx0SHVPvkA

gaasyy_chアホらし
お前らに参議院議員にしてもらった訳でもないのに偉そーにすな
オレの議員としての存続を決めれるのは、票を入れてくれた支持者だけや
居眠りこいてるジジイやゴルフや飲み過ぎで議会欠席してるジジイ、パパ活不倫してる奴らに言われる筋合いはない
オレの存在が疎ましーのはわかるけどな、
人のことばっかり気にしてると足元すくわれんぞ
『明日は我が身』この言葉、よー噛み締めてオレに攻撃してこい

突けば吹き飛ぶよーなジジイ相手にケンカしたないねん
海外にいてもできることはよーけある。
海外やないとできひんこともよーけある。

日本にいても何もせん、人の粗さがしてる老害ども
ええ加減に身ひいて、次の時代の若者にバトン渡せや

もーお前らが作った時代は完成してん
次の新しい時代をまた築くのに、お前らはただただ邪魔な存在なんや

そのあたりよー理解して、最後の議員生活満喫せーや

リモートでも当選することを立証した、それが次の選挙にどー繋がるか?
お前らにもわかるような未来が訪れるわ

SNSをろくにつかえん奴は当選せーへん時代がもーそこまできとるわ

それはオレを議員辞めさせようが続けさせようが変わらん未来や

ジタバタせんとオレの攻撃を待っとけ、な?
政界に嵐を吹き込んだるから。

当選された皆様
初登院おめでとうございます!
いつかオレが初登院したあかつきには、クラッカー鳴らす用意しとってくださいw

古い時代を踏み台に、新しい時代に足跡つける
オレの好きなミュージシャンの言葉

それを実践したるから、支持してくれたみんな
期待して、歓喜に震え、待っとけよ!!

ほなの!


何だかチンピラの口上みたいですが、コメント欄には、「ほんとそのとおりですね。 許可なんてする必要あります? くだらない議員ばかりのために納税させられてる身にもなれ」「リアルに議会政治のあり方が変わりますよ」「じいちゃんたちは時代の変化についてこれないから、新しい風を怖がってるんだね」というようなコメントが寄せられていました。

冗談みたいな話なのに、みんな本気で怒っているのでした。しかも、老害を打破して新しい政治の夜明けがはじまるみたいなことを言いはじめているのでした。

言うまでもなく、ガーシーのYouTubeは私怨からはじまったのです。いわゆる”BTS詐欺”をネットに暴露され窮地に追い込まれたガーシーに対して、今まで女性をアテンドしたりと親しくつきあってきた芸能人たちがみんなソッポを向いたことに怒り、「死なばもろとも」と彼らのスキャンダルをYouTubeで暴露しはじめたことが発端だったのです。

ところが、「死なばもろとも」どころか国会議員になったため、上の投稿のように、私怨が付け焼刃の”公共性”を纏うようになったのでした。裏カジノで「つまんだ」借金を返済するため、文字通り窮鼠猫を噛むではじめたことが、いつの間にか新しい政治の夜明けの話になったのです。多くの人たちが、呆気に取られたのは当然でしょう。

議院運営委員会の不許可は、除名への布石だという見方もありますが、仮に除名されて国会議員の地位を剥奪されると、取り沙汰されているような詐欺や名誉棄損、業務妨害などの容疑で、警察が表立って動き出す可能性はあるかもしれません。でも、私は、除名までは行かないように思います。というか、そこまで行くべきではないと思います。

公民権の停止を受けてない限り、どんな人間であれ、選挙に立候補する権利はあります。議会制民主主義の建前に従えば、それは最大限尊重されるべきです。どんな人間であっても、どんな考えを持っていてもです。

ガーシーは、法律に則り、287714票を得て参議院議員になったのです。選挙で選ばれた国会議員を簡単に除名などできないでしょう。ガーシーと言えどもそれくらい国会議員の身分は重いのです。

ただ、一部で言われているように、機を見るに敏なところがあるみたいなので、みずから辞職する可能性がないとは言えないでしょう。

でも、声を大にして言いたいのは、問題の所在はガーシーの帰国や除名や逮捕にあるのではないということです。公人になったので「個人的な問題」という言い方は適切ではないと思いますが、ガーシーの帰国や除名や逮捕は二義的な問題にすぎないのです。それより、ガーシーに「清き一票」を投じた有権者を問題にすべきでしょう。それがこの問題を考える上での基本中の基本だと思います。身も蓋もない話と思われるかもしれませんが、その身も蓋もない話が大事なのです。でないと、これからも第二第三のガーシーが(NHK党から?)出て来るでしょう。

呆気に取られるような日本の民主主義の劣化を体現しているのは、国民に「愛国」を説きながら、その裏で、サタンの日本人は「アダムの国」の韓国に奉仕しなければならないと主張する韓国のカルト宗教と密通していたような、胸にブルーリボンのバッチを付けた政治家だけではないのです。ガーシーに「清き一票」を投じた有権者も同じです。

ガーシーを支持するのは、「うだつのあがらない人生を送っている」ガーシーと同世代の中年男性が多いという説がありますが、世の中に対する不満がこのようなかたちで発露されるのはあり得ないことではないように思います。

集合知どころか、むしろ逆に「水は常に低い方に流れる」ネットの習性によって、反知性主義が臆面もなく跋扈するようになる「ネットの時代」を懸念する声は前々からありましたが、今回、それがきわめて具体的に、これでもかと言わんばかりに、私たちの前に突き付けられたとも言えるのです。

それは、NHKの問題も同じです。政治家と旧統一教会の関係にNHKが及び腰であるとして、リベラルな人間たちが、「#もうNHKに金払いたくない」などというハッシュタグを付けて反発しているそうですが、私は「またか」と冷めた目で見ることしかできませんでした。NHKに関しては、受信料の問題だけでなく、政治との関係においても以前から問題視されていました。今にはじまったことではないのです。

そもそもNHKの最高意思決定機関である経営委員会の委員は、国会の同意が必要ではあるものの、放送法の規定によって内閣総理大臣が任命することになっています。ときの政権に忖度するなと言う方が無理でしょう。そんなNHKの体質を問題視して、昔は受信料支払い拒否の市民運動もあったくらいです。

NHKの問題をNHK党の専売特許にさせたのは誰なのかと言いたいのです。今になって「#もうNHKに金払いたくない」などと言うのは、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」左派リベラルお得意のカマトトなご都合主義だとしか思えません。それに彼らは「払いたくない」と言っているだけで、払わないと言っているわけではないのです。これじゃNHK党にバカにされるのがオチでしょう。

弱みがあるのか、(計算高い)彼なりの計算があるのか、田村淳なども国会議員になったガーシーにすり寄っているみたいですが、そういったことも含めて、ガーシーを持ち上げる民意にこそ問題の本質があるのだということを忘れてはならないのです。

要は、この目の前に突き付けられた「ネットの時代」の”夜郎自大な現実”を、私たちがどう考えるかでしょう。斜に構えて冷笑するだけでいいのか。あるいは、無責任にざまあみろと囃し立てるだけでいいのかということです。これからこういった”野郎自大な現実”が、容赦なく私たちのまわりを覆うようになるのは間違いないのです。
2022.08.05 Fri l ネット l top ▲
岩波文庫 新編山と渓谷


田部重治の「数馬の夜」を読みました。

「数馬の夜」については、山田哲哉氏が「名文」だと書いていましたし、ネットでも何度も読み返したという投稿がありました。私も前から読んでみたいと思っていましたが、私が持っている山と渓谷社の『山と渓谷  田部重治選集』には何故か収録されていませんでした。それで、「数馬の夜」が収録されている岩波文庫の『新編   山と渓谷』をあらためて買ったのでした。

「数馬の夜」は、文庫本で3ページ半の短いエッセイです。

文章の末尾には、「大正九年四月の山旅」と記されていました。今から102年前の1920年、田部重治が36歳のときです。

山行について、本文には次のように書かれていました。

昨日は、朝、東京を出て八王子から高原を登りながら、五日市を経て南北秋川の合流点にある本宿もとじゅくの宿屋に平和な一夜を送ったが、今日は私は北秋川の渓流に沿うてその上流の最高峰御前ごぜん山にじてから、更に南秋川の渓谷を分けて此処へ辿たどりついたのである。


「此処」というのは、南秋川の最上流の数馬にある宿です。年譜で調べると山崎屋という旅館に泊まったみたいです。翌日は三頭山の三頭大滝を見てから山梨の上野原に下りて、東京に戻っています。

午後、「深山の静寂がひしひしと胸に迫ってく来る」数馬に着いて宿に荷を解き、山旅を振り返るのですが、それは、秋川の上流にある春の渓谷や山の風景に自分の心情を重ねた、内省的で情緒的なとても印象深い文章になっていました。

田部重治が秋川渓谷を歩いたのは10年以上ぶりで、当然ながら当時と比べて様子は変わっていますが、しかし、「南秋川の渓谷の奥では昔ながらの様子が残っている」と書いていました。そして、次のように綴るのでした。

道端の落ち着いた水車の響きや昔ながらの建物が平和な山奥の春を語って、一日の滞在が不思議なほど、私の周囲の生活の静まり返っている落着の姿を見せている。あたりの静けさ、渓河の響きは、私の心の奥底に真の自分と融け合っているような気がする。


田部重治は、「私はこの二、三ヶ月間絶えず不安な心持に動いて来た」と書いていましたが、文章からも懊悩の日々を送っていたことがわかります。そんなとき、ひとりで山に行きたくなる気持は、私も痛いほどわかるのでした。

私たちにとってもなじみの深いパトス(pathos)というギリシャ語は、ロゴス(logos)との対で、感情、あるいは感性という意味に解釈するのが一般的ですが、宮台真司氏は伊藤二朗氏との対談で、パトスはもともと「降ってくるもの」という意味で、「受動態」という意味の「passive」と同じ語源だと言っていました。

宮台氏は、パトスは感情が訪れるという意味だけでなく、山や川など自然があるのもパトスで、パトスという言葉は自然の中では人間は主体ではなく客体であるということを意味しているのだと言うのです。

自然が主体で人間は客体である(にすぎない)という考えは、自然保護の根本にも関わってくる話なのですが、私たちが山に行くと、自分が非力で小さな存在に感じたり、(俗な言葉で言えば)「山にいだかれる」ような気持になったりするのも、そこから来ているのかもしれないと思いました。

伊藤二朗氏は、対談の中で、雲ノ平の溶岩が季節や日や時間によって大きく見えたり小さく見えたりすると言ってましたが、仮にそれが”妄想”であっても、そういった”妄想”を誘うものが山にあるのはたしかです。「山に魔物が住んでいる」というような言い伝えも同じでしょう。

山に行くと、自分が自分ではないような感覚を抱くことがあります。若い頃によく言っていた、空っぽになるために山に行くというのも、山が空っぽにさせてくれたからでしょう。

(唐突ですが)平岡正明が『ジャズ宣言』の冒頭で掲げた下記のアジテーションはあまりに有名で、若い頃の私も心をうち震わせた人間のひとりですが、平岡正明が言うような激しい「感情」は登山とは無縁ではあるものの、このアジテーションも見方を変えれば、登山に通じるものがあるような気がしてならないのです。

  どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい。ジャズがわれわれによびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである。あらゆる感情が正当である。感情は、多様であり、量的に大であればあるほどさらに正当である。感情にとって、これ以下に下劣なものはなく、これ以上に高潔なものはない、という限界はない。


私たちは、電車が来てもないのに駅の階段を駆け下りていくような日常の中で、論理的一貫性とか整合性とか、そんな言葉で切り取られた「現実」に囚われてすぎているのではないか。そうでなければならないという強迫観念に縛られているのではないかと思います。もっと自由であるべきなのです。

田部重治は、夜の闇が押し寄せて来るまで自問自答をくり返し、最後に次のように書きます。

  今日、見て来た自然は何と素朴的なものであったろう。温かき渓谷の春は、静かに喜びの声をあげて、その間を動く人間もただ自然の内に融けている。それは全くそれ自身において一致している。私たちはこれに理想と現実との矛盾を感ずることは出来ない。私は解放されたる動物のように手足を自由に延ばしながら秋川の渓谷を遡って来た。私はただ萌え出ずる自由を心の奥から感じつつ来た。


ここに書かれているものこそパトスであり、これが山に登る、山を歩くことの真髄ではないのかと思いました。

そして、「数馬の夜」は、次のような感傷的な文章で終わっているのでした。

  もう夜の闇は押し寄せて来た。南秋川の流れは、ただ、闇の中に白く光って、爽やかな響きを立てている。台所の馬子の唄も止んで、あたりが静寂の気に充ち、私の心はしんとして静かな大地に沈んで行くかのように思われる。私は何の為すべき仕事を持ってない。私は、ただ明日、この上流の大きな滝を眺めてから、上野原まで五里の山道を行けばそれでよいのである。

2022.08.02 Tue l 本・文芸 l top ▲
先週、笹尾根に登った帰り、バスに乗っていると、檜原街道沿いの民家の軒先に「産廃施設建設反対」の幟が立っているのが目に入りました。それも幟はいたるところに立っているのでした。

それで帰ってネットで調べると、檜原村の人里(へんぼり)地区に産業廃棄物処理施設の建設計画が持ち上がっていることを知りました。人里も何度も行ったことのある、おなじみの集落だったのでびっくりしました。

計画については、下記のYouTubeで経緯等詳細を知ることができます。

YouTube
SAVE HINOHARA 東京の水源地「檜原村」を大規模産廃焼却場から守れ!〜「顔の見えすぎる民主主義」から日本の未来を考える〜

建設を計画している会社は、既に地元の武蔵村山市で産廃処理施設を運営しているのですが、その処理能力は1日4.8トンだそうです。しかし、檜原村の人里に建設を計画している施設は1日96トンの処理能力なのだとか。武蔵村山の施設が老朽化したからというのが新施設計画の理由のようですが、何と前より20倍の処理能力を持つ施設を造ろうというのです。

今年の3月1日に、廃棄物処理法に基づいて「廃棄物処理施設設置許可」の申請が東京都に提出され受理されています。建設される場所は檜原村なのですが、申請の窓口は東京都で、諸々の手続きを経て最終的に許可するかどうかを決定するのも東京都知事なのです。

申請後、1ヶ月の申請書の告示期間や関係市町村長(この場合は檜原村の村長)の意見聴取や利害関係者の意見書提出の手続きは既に終えており、専門家からの意見聴取(専門家会議)が先週の27日からはじまっています。専門家会議が終われば、あとは欠格事由に該当してないかどうかの審査と許可するかどうかの都知事の最終判断が残っているだけです。

朝日新聞デジタル
「具体性欠く」業者へ指摘続々 檜原村の産廃施設計画で専門家会議

行政手続法と都条例により、申請から180日以内に結論を出すという決まりがあるそうで、今年の10月か11月までには最終的な結論が下されるのではないかと言われています。

檜原村は島嶼部を除いては東京都で唯一の村で、令和4年7月26日現在の人口は2,069人(1,137世帯)です。人口も、島嶼部を除いて東京都でもっとも少ない自治体です。しかも、昭和の大合併や平成の大合併はもちろん、この400年間どことも合併せずに、独自の歩みを続けている稀有な村でもあるのす。

檜原村のサイトには、次のように村が紹介されています。

檜原村
村の概要

檜原村は、東京都の西に位置し、一部を神奈川県と山梨県に接しています。

面積は105.41平方キロメートルとなっており村の周囲を急峻な山嶺に囲まれ総面積の93%が林野で平坦地は少なく、村の大半が秩父多摩甲斐国立公園に含まれております。

村の中央を標高900m~1,000mの尾根が東西に走っており両側に南北秋川が流れていて、この川沿いに集落が点在している緑豊かな村です。


東西に走っている尾根が笹尾根と浅間尾根です。その間を檜原街道が通っています。そして、その檜原街道に沿って流れているのが北秋川と南秋川です。秋川は多摩川の支流で、檜原村は文字通り「東京の水源地」なのです。

人里(へんぼり)は、檜原街道から北側の山の縁にかけて家が点在するのどかな山里の集落です。浅間尾根の人里峠に至るには、最初に息も上がるような急坂を登らなければならないのですが、その急登に沿って家が建っているのでした。そして、突端の家の横から登山道に入りしばらく進むと、テレビの「ポツンと一軒家」で紹介された家があります。既に無人になっていますが、敷地内は自由に見学でき、庭の奥では400年前から出ているというとても美味しい湧き水を飲むことができました。

そんな集落の一角に、一日の処理能力が96トンという強大な産廃施設が造られるのです。予定地を地図で見ると、先週笹尾根の笹ヶタワノ峰から下りた道の西側にあたり、笹ヶタワノ峰の隣の笛吹(うずしき)峠から下りて来る道の近くでした。しかも、産廃施設ができると、ツキノワグマも生息するような森を持つ山に囲まれた焼却炉から、産廃を燃やす煙が24時間止むことなく吐き出されるのです。それは、想像するだけでも異様な光景です。それだけではありません。あの檜原街道を一日に70台の産廃を積んだトラックが行き交うようになるそうです。

業者は、2020年の11月に、産廃施設の予定地に隣接する場所に、村の木材産業協同組合などの協力を得てバイオチップ工場を造っているのですが、それは産廃施設を造るための”地ならし”だったのではないかと言われています。「SDGsは『大衆のアヘン』である」と言ったのは斎藤幸平ですが、ここでも「循環型社会」「エコサイクル」「地球(環境)に優しい」という言葉が、自然を収奪する資本の隠れ蓑に使われているのでした。

ダイオキシンをはじめ、水銀やカドミウムや鉛やヒ素など有害物質による周辺の環境への影響も懸念されます。ましてや村のサイトでも謳われているように、檜原村の大部分は秩父多摩甲斐国立公園の中にあり、檜原村は「国立公園の中の村」と言ってもいいくらいです。そんな村に24時間稼働の巨大産廃焼却施設を造るなど、どう考えてもとんでもない話と言わざるを得ません。

YouTubeの中でも、パネラーの宮台真司氏が北アルプスの雲ノ平山荘の小屋主の伊藤二朗氏の話をしていましたが、先の「登山道の整備と登山者の特権意識」という記事で触れたような、日本の国立公園が抱える自然保護の問題が、檜原村の産廃問題にも映し出されているように思えてなりません。また、下記の対談で語られている人と自然の関係というテーマとも無縁ではないように思います。

YouTube
宮台真司×伊藤二朗 -自然と社会を横断する二つの視点から

法律では最終的な決定権は小池百合子都知事にあるので、極端な話、可否は小池都知事の胸三寸みたいなところがあります。そのため、最後は(よりによって)あの小池百合子都知事に、「小池さん、許可しないでください」とお願いするしかないのです。それが今の民主主義のルールなのですが、何か割り切れないものを覚えてなりません。

業者も、人口が2000人で村会議員も9人しかいない小さな村なので、御しやすいと思ったのは間違いないでしょう。宮台真司氏は、過疎地は有力者のネットワークですべてが決まるので、民主主義をコントロールしやすいと言っていましたが、業者はまさにそういった地縁・血縁に縛られた日本の田舎の”弱点”を衝いてきたとも言えます。

しかし、建設予定地区の住民や村の若い後継者や移住者などが中心になり、勉強会を開いたり、ネットを利用して計画のことを村の内外に発信したり、村の歴史上画期的とも言える反対デモを行ったりして、「とんでもないことが進んでいる」「あきらめるのはまだ早い」ということを訴えてきたのです。その結果、村議会における全会一致の反対決議や村民の3人に2人が反対署名するという、村挙げての反対運動に発展したのでした。檜原街道沿いの民家の軒先に掲げられた幟もそのひとつなのでしょう。

そんな反対運動を通して、YouTubeのトークイベントのタイトルにもあるように、誰もが顔見知りであるような小さな村の利を逆に生かした、「顔の見えすぎる民主主義」なる住民自治を模索する試みもはじまっています。小さな村の人々が思考停止を拒否しているのです。

檜原村の問題は、檜原村に通うハイカーにとっても、自然保護を考える人たちにとっても、日本の国立公園のあり方を考える上でも、見て見ぬふりのできない問題だと言えるでしょう。


関連サイト:
Change.org※ネット署名
東京都の水源地「檜原村」に、産業廃棄物焼却場を建設しないでください!
Twitter
檜原村に産廃焼却場を建設しないでください
facebook
檜原村の産廃施設に反対する連絡協議会


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

DSC04461.jpg
人里バス停

DSC04463.jpg

DSC04464.jpg
登山口

DSC04469.jpg

DSC04471.jpg

DSC04473.jpg

DSC04478.jpg

DSC04483.jpg
テレビの「ポツンと一軒家」で紹介された民家

DSC04490.jpg
400年前から出ているという湧き水

DSC04503.jpg

DSC04506.jpg

DSC00296.jpg
浅間嶺展望台

DSC00132.jpg

DSC00135.jpg

DSC00261.jpg

DSC00372.jpg

DSC00378.jpg

DSC00380.jpg

DSC00383.jpg

DSC00421.jpg
「払沢の滝入口」バス停

DSC04736.jpg

DSC04701.jpg
払沢の滝
2022.08.01 Mon l 社会・メディア l top ▲
ハーシス(新型コロナウイルス感染者等情報把握・管理支援システム)の不具合の影響なのかどうか知りませんが、28日、東京都の新規感染者数が4万人を越えました。一方で、5万人越えも想定されているという声さえあります。

ちなみに、東京都の専用サイトを見ると、28日現在、入院中の感染者は30,794人、ホテルなどの宿泊療養が6,323人、自宅療養が178,862人、さらに入院・療養調整中が70,884人いるそうです。

東京都の病床使用率は50.5%で「まだ余裕がある」はずですが、にもかかわらず70.884人が入院・療養調整中というのはどう考えればいいのか。保健所のコントロールが機能してないのか。あるいは病院側に問題があるのか。いづれにしても、とても正常な状態とは思えません。

奈良で行われた全国知事会で、平井伸治会長(鳥取県知事)は、冒頭「私たちは今、未曽有の危機にあります」と挨拶したそうですが、しかし、そのあと「新型コロナを抑え、経済も回さなければなりません」と述べたそうです。「そういった難しいかじ取りが使命となっている」のだと。

でも、それは、「難しいかじ取り」ではなく「二兎を追う者は一兎をも得ず」で、最初から無理な相談ではないのかと思いました。

できないことでも、みんなでやればできるみたいな精神論は日本人の得意とするものですが、今回の新型コロナウイルスにおいても、そうやって最後は没論理の精神論に行き着いてしまう「日本の思想」の哀しさを感じました。

スーパー近代と前近代が切れまなく連続しているのが「日本の思想」の特徴だと言ったのは丸山眞男ですが、新型コロナウイルスでもそれが見事なほど露わになっているように思います。

朝のワイドショーで、コロナに感染したコメンテーターがみずからの体験談を話していましたが、その際、「感染したことで経済を止めたのもたしかで」とわけのわからないことを言っていました。要するに、感染して仕事を休んだことで、「経済を止めた」結果になり申し訳ないと言いたかったようです。

何だかひとりで国家を背負っているような発言ですが、そこにも日本人特有のメンタリティがあるように思えてなりません。でも、それは間違っても思考ではありません。ただ神のご託宣を伏して待つようなメンタリティがあるだけです。だから、いとも簡単に自我の中に国家が入って来るのでしょう。

政府が「経済を止めることはできない」と言えば、識者たちも国民も、さらには公衆衛生学や感染学の立場から感染防止策を進言し啓蒙していたその道の専門家たちも、途端に思考停止に陥って、オウム返しのように同じ台詞を口にしはじめるのでした。「悩ましい問題ですね」と他人事のように言うのですが、悩ましくしているのは自分自身だということがわかってないのです。

たとえば、朝日に載っていた下記のような記事にも、日本人特有の寄らば大樹の陰のメンタリティが示されているように思いました。

朝日新聞デジタル
マスクなし、声出しありの欧州の応援 日本「ガラパゴス化」のなぜ

スポーツライターの増島みどり氏は、マスクを付けて大声も出さずに応援する日本のサッカーの観戦スタイルに、「違和感」を覚えたそうです。「ガラパゴス化」した光景に見えたと言うのでした。

もっとも、それは「海外と比べて」そう見えたという話にすぎないのです。そこにあるのも思考停止です。どうして海外をお手本にしなければならないのかという留保さえ存在しないのです。その手の言説は、私たちのまわりにうんざりするほどあります。

私は、花粉症ということもあり、コロナ禍の前から真夏を除いて1年の3分2以上マスクをしているような”マスク人間”ですが、そんな人間から言わせてもらえば、マスクを外さずに感染防止に努める日本人の潔癖な習性は、むしろ”日本的美徳”と言ってもいいはずです。それがどうして同調を求める日本社会の象徴みたいに言われ、否定的な意味合いで語られなければならないのか。

今回の第7次感染拡大がはじまる前、感染が落ち着いたのでもう終息に向かっていると早とちりしたのか、いつまでもマスクを外さない日本人をヤユするような文章が新聞などメディアに飛び交い、上記の記事のように、マスクを外すことが日常を取り戻すことであるかのようなもの言いが多く見られました。

たとえば、下記のようなキャッチーな記事のタイトルにも、そんな”含意”が顔をのぞかせているように思いました。

朝日新聞デジタル
マスク外す?外さない? 自分で決められない日本社会の空気感

今回の感染拡大では、あらためてエアロゾル感染を防ぐ重要性が指摘されていますが、メディアや識者はつい昨日まで、いつまでマスクをしているんだ、海外を見習え、とマスクを外さない日本人を恫喝していたのです。

海外がそうだからというだけで、それが”いいこと”なのかどうかという検証はないのです。先日のテレビで、フランス人は政府が強制すると、反発しながら一応マスクを装着するけど、強制が解除されるとほとんどの人はマスクを外すという話をしていましたが、新型コロナウイルスの感染防止にとって、それが”いいこと”がどうかが大事なのです。フランス人がマスクを外したので日本人もマスクを外すべきだという話にはならないでしょう。それこそ日本人が好きなエビデンス(!)の問題でしょう。

丸山眞男は、『日本の思想』の中で、「思想評価の際にも、西洋コンプレックスと進歩コンプレックスとは不可分に結びつき、思想相互の優劣が、日本の地盤で現実にもつ意味という観点よりは、しばしば西洋史の上でそれらの思想が生起した・・・・時代の先後によって定められる」と書いていましたが、私は、ただの思考停止の産物でしかない夜郎自大な「マスク論」を目にするたびに、このような丸山のシニカルな言葉を思い出さざるを得ませんでした。

そんな中、「未曾有の」感染拡大を前にして、新型コロナウイルスを感染症法上の「2種相当」から季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げるべきだ、という声が日ごとに大きくなっています。

「5種」になれば、診察した病院が、感染者の詳細な情報を保健所に届け出る義務(全数把握)がなくなります。代わりに都道府県が指定した指定医療機関が、患者の発生状況を一定の期間ごとに報告するだけです(定点把握)。医療機関や保健所の業務の負担が減るというのは、そのとおりでしょう。

しかし、その代わり、今のようなリアルタイムの新規感染者数のカウントがなくなるのです。もちろん、濃厚接触者という扱いもなくなります。新型コロナウイルスが可視化されなくなるのです。

「5種」に引き下げられると、今までの発熱外来に限られた窓口が一般の病院にまで広がりますので、症状があるのに病院から断られて診察してもらえない「受診難民」が減るのは間違いなく、それもたしかにメリットです。でも、濃厚接触者の追跡がなくなるのは、今後に大きな禍根を残すような気がしてなりません。

濃厚接触者の追跡がなくなれば、当然、今以上に感染は広がります。しかし、どのくらい感染が広がっているのかはわかりません。感染症なのですから、無症状や軽症の人たちも他人に感染させる可能性は当然あります。にもかかわらず彼らは市中に放置されるのです。

また、「5類」引き下げには、別の政治的背景があることも忘れてはなりません。今回の感染拡大では、行動制限をしてないにもかかわらず、感染拡大で休む人間が多くなり、社会インフラや企業活動に支障が出てしまいました。これでは元の木阿弥です。「休む理由をなくせ」「休ませないようにしろ」という資本の要請があったことは想像に難くありません。

一方、メディアも、ほとんど異論をはさむことなく、むしろ逆に、「5種」引き下げの世論を煽っている感さえあります。既に一部の新聞には、今回の第7次の感染が収まったら、「5種」に引き下げになる方向だという記事も出ています。

”日本的美徳”と言えば、弱肉強食の欧米式「社会実験」ではなく、重症化リスクの高い高齢者に対する”配慮”を一義に考える敬老精神もそう言えるでしょう。「5種」に引き下げになれば、高齢者に対する”配慮”もなくなり、「経済をまわす」ためにはある程度の犠牲はやむを得ないという、無慈悲な経済合理主義が大手を振ってまかり通るようになるのです。

資本にとって、眼中にあるのは労働力として使える(再生産できる)健康な現役世代の人間だけです。労働力として使えない高齢者なんて知ったことじゃないのです。ネットでよく高齢者はコストばかりかかる社会のお荷物みたいな言い方がされますが、それは思考停止したネット民が資本の論理を受け売りしているだけです。古市憲寿や落合陽一なども同じようなことを言ってますが、彼らも資本の論理を代弁しているだけです。「資本家の犬」は岸田首相だけではないのです。

もちろん、新型コロナウイルスは終息する目処が立ったわけではありません。いつ終わるか誰にもわからないのです。今後、免疫をすりぬける新種が出て来る可能性もあると言われています。感染が一旦収まっても、それは次の感染拡大までの”準備期間”にすぎないのです。

それに、いくら弱毒化したからと言って、みんながみな無症状や軽症だとは限らないのです。自分が無症状や軽症で済むという保障もないのです。上の東京都のデータを見てもわかるとおり、「風邪みたいなもの」と言われながら、感染して入院中の人、ホテルなどで宿泊療養している人、入院・療養調整中の人を合わせると、10万人以上の人たちが入院・加療を必要としているのです。

「5類」引き下げ、あるいは「5類」並み緩和の方針に対して、医療現場も専門家も与野党の政治家も識者もメディアも国民も、明確に反対する声はほとんどありません。私のような考えの人間は、「不安神経症」などと言われるほど圧倒的に少数です。

一応医療費の公費負担は維持されるようですが、「5種」引き下げになれば、行政レベルの感染対策はほとんどなくなるに等しいのです。もう補償金や支援金を払うことはないぞ、休む理由もなくなったぞ、あとはお前たちの責任でコロナ禍を乗り越えろ、と言われているようなものです。でも、みんな歓迎しているのです。いつの間にかパンデミックという言葉も使われなくなりましたが、「5類」引き下げになれば、パンデミックが終わったかのような空気が益々広がっていくことでしょう。

感染して自宅療養している知人がいるのですが、その知人のもとに、政府が「5類」に引き下げてくれればこんなに騒がれなくてもよくなるのにね、と職場の同僚から慰めのメールが届いたそうです。コロナ疲れもあるのかもしれませんが、なんだか面倒くさいものから解放されたい、という気持の方が先に立っているような気がしないでもありません。新型コロナウイルスはイメージではないのですから、私たちの見方や捉え方が変わったからと言って、ウイルスの性質が変わるわけではないのです。これからも(当分は)新型コロナウイルスに翻弄される日々は続くのです。今の感染状況を見ると、集団免疫というのも随分怪しい話になってきました。なのに、こんな安易な気分に流されてホントにいいんだろうか、と「不安神経症」の私は思うのでした。
2022.07.29 Fri l 新型コロナウイルス l top ▲
オミクロン株「BA.5」の感染は拡大する一方です。WHO(世界保健機関)の最新レポートによれば、先週1週間の日本の新規感染者は96万9068人で世界で最多だったそうです。また、昨日(7/27)の国内での新規感染者も20万人を越えた、というニュースもありました。

それでも政府は行動制限を行わない姿勢を崩していません。政府がやったことは、抗原検査キットを医療機関に配ったくらいです。

NHKが発表している病床使用率は、7月20日時点で全国平均が37%、酸素吸入などが必要な重症病床の使用率は19%です。政府の無作為は、こういった数字を根拠にしているのかもしれません。

しかし、この数字は、毎週木曜日に1週間分を集計して翌日の金曜日に発表したものです。つまり、あくまで1週間前の20日時点の数字にすぎないのです。20日以後この1週間で、東京都の新規感染者数は3万人を越すなど、ほとんどの自治体で新規感染者数が「過去最高」を更新しているのです。明日(7/29)発表される最新データが、これよりはるかに高い数値を叩き出すのは火を見るよりあきらかでしょう。

実際に昨日(27日)のデータでは、大阪府の病床使用率が52.0%です。東京都も50.5%、沖縄に至っては87.8%(重症病床使用率43.5%)です。

一方、厚労省が発表した7月20日現在の自宅療養者は全国で61万2023人にものぼっているそうです。何度もくり返しますが、これも20日時点の話なので、この1週間でさらに増えていることは安易に想像できます。

病院の外来が一日に診察するキャパを超え診察を断っている、というニュースが連日伝えられています。そのため、発症しても病院で診察を受けることができないのです。でも、病床使用率は「まだ余裕がある」というのです。これもおかしな話と言えるでしょう。

現在は感染しても、病院どころかホテル療養も難しいと言われています。専門的な診断を受けることもなく、保健所との電話のやり取りで「軽症」と判断され、自宅療養を余儀なくされるのです。しかも、保健所の受付もキャパを越えたため、電話ではなくFAXに切り替えたなどという話さえあります。

感染した人の中には、「軽症」と言われても症状が想像以上にきつく、2~3日食事もできず重症化するのではないかという不安に襲われたと話す人も多いのです。

もちろん、医療従事者も感染の蔓延と無縁ではありません。感染したり濃厚接触者になったりして休まざるを得ないケースも多いのです。先の病床使用率が低い”矛盾”も、人員の配置ができずベットを使いたくても使えないケースも多いのではないかと思います。

すると、政府は、科学的知見を無視して、濃厚接触者の待機機関を従来の7日から原則5日(最短3日)に短縮すると方針転換したのでした。要するに、「早く職場に出て来い」ということです。泥縄式とはこのことでしょう。でも、日本医師会が会見を開いて注意を喚起したように、7日間は他人を感染させる可能性があるのです。これでは、政府みずから感染を拡大させる要因を作っているようなものでしょう。

医療が逼迫した状況がある一方で、夏休みに入った街には人々が繰り出し、繁華街は感染拡大がウソのように人でごった返しているのでした。その別世界のような光景にも驚かざるを得ません。それは、文字通り「水は低い方に流れる」光景と言うべきでしょう。彼らは、政治の無作為を口実に、「自分だけは大丈夫」「所詮は風邪と同じ」と言い聞かせて、楽な方、欲望の赴く方に身を預けるだけで、それ以上のことは考えることができないのでしょう。政治の方も、旧統一教会との関係を黒塗りしたり、見せしめのために死刑を執行することには熱心ですが、肝心な感染拡大に対しては、「経済をまわすため」というお題目を唱えてサボタージュするだけなのです。どっちもどっちという気がしてなりません。

しかし、感染者や濃厚接触者が集中して発生したため、郵便局の窓口が閉鎖されたとか電車やバスが運休されたとかいう話も出ています。皮肉なことに、政府の無作為によって社会インフラがみずから崩壊しつつあるのです。

夜の飲み屋街でも、人出が減り飲食店が再び苦境に立たされているという話も出ています。感染の拡大を怖れ、外での飲食を控える人が多くなっているからです。政府は感染源は飲食ではなく家庭が多いと言うのですが、実際に感染した人の話を聞いても、飲食が原因だったという人も多いのです。

この季節でこれほど感染が拡大しているのですから、秋冬になったらどうなるのだろうと考えてしまいます。今の「BA.5」に比べて3倍も感染力が強いと言われる新しい変異株「BA.2.75」の市中感染も、既に東京や大阪などで確認されています。第8波の感染爆発も当然のように予定(予想ではなく予定)されているのです。それが、秋冬にずれ込んだらと考えると戦慄さえ覚えます。

もちろん、「BA.2.75」は最終型ではありません。重症化率が低くなり「弱毒化」されたからと言って、新型コロナウイルスが終わりに近づいたという保障はどこにもないのです。次々と登場する変異株の中には、免疫をすり抜ける新種も含まれているという話もあるくらいです。

新型コロナウイルスとの戦いがはじまってまだ3年も経ってないのです。いつ終わるのか、誰もわからないのです。

にもかかわらず、政府が根拠のない”楽観論”を振り撒き、「経済をまわす」ことを優先する背景には、深刻度を増す世界経済の状況も無関係ではないように思います。

アメリカのFRBが2ヶ月続けて利上げを行なったのも、資本主義世界の危機の表われだとしか思えません。それくらいインフレが深刻なのでしょう。アメリカは、インフレ(物価高)と不況の股裂き状態にあり、その泥沼(=スタグフレーション)から抜け出す手立てもなく苦境に喘いでいるのです。それが属国・日本に及ぼす影響は想像を絶するものがあるでしょう。

感染対策を二の次にして「経済をまわす」という日本政府のかたくなな方針も、換言すれば、感染対策を二の次にせざるを得ないということなのかもしれません。ウイズコロナなんて呑気な話ではないのかもしれないのです。
2022.07.28 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲
今日、2008年の「秋葉原事件」の実行犯で、死刑が確定していた加藤智大死刑囚に刑が執行されたというニュースがありました。事件から14年。加藤智大死刑囚は39歳だったそうです。

穿ちすぎと言われるかもしれませんが、どうして今のタイミングなんだ?と思いました。「模倣犯に対する抑止効果」「みせしめ」。そんな言葉が浮かびました。宮台真司風に言えば、「呼んでも応えない国家」からの警告なのか、と思ったりしました。

加藤智大死刑囚は、青森県下トップレベルの進学校である青森高校を卒業しています。しかし、犯行時は派遣工として各地を転々とする生活をしていました。安倍元首相銃撃事件の山上徹也容疑者も、奈良県下でも有数の進学校を卒業しています。でも、犯行時は派遣社員として務めた工場を辞めて無職でした。年齢もほぼ同じのいわゆるロスジェネ世代です。驚くほどよく似ています。しかし、ふたりが胸の内に持っていた言葉はまったく違うように思いました。

「秋葉原事件」について、私は、このブログでは事件直後と事件から10年目の2回記事を書いています。事件直後の記事で、事件を聞いて憂鬱でやり切れない気分が続いていると書きましたが、今日、死刑執行のニュースを聞いたときも同じような気分になりました。

僭越ですが、とり急ぎ事件直後の記事を再掲させてもらいます。

-------------------------

秋葉原事件 2008.06.20

秋葉原の無差別殺傷事件以来、憂鬱でやり切れない気分がつづいています。山田昌弘氏の『希望格差社会』(ちくま文庫)には”「負け組」の絶望感が日本を引き裂く”という副題が付けられていますが、秋葉原事件はまさにそれが現実のものとなった気がします。私も事件の報を聞いたとき、雨宮処凛氏がマガジン9条のブログに書いていたのと同じように「とうとう起きてしまったか」と思いました。

埼玉に住んでいたとき、たまたま近所の工場で派遣社員として働く若者と知り合い、話を聞いたことがありますが、誤解を怖れずに言えば、派遣会社が借り上げたワンルームマンションに住んでいるという点も含めて、秋葉原事件の犯人とあまりにも似通った部分が多く、あらためて愕然とせざるを得ませんでした。今や年収200万円以下の労働者が1000万人もいるというような現実の中で、程度の差こそあれ、絶望感に打ちひしがれ閉塞した日々を送っている彼らのような若者達は日本中の至るところにいると言っても過言ではないのでしょう。

派遣社員の彼はさかんに「あいつら」という言い方をしていました。「あいつら」とは誰なのかと言えば、正社員のことなのです。そんな二重あるいは三重とも言われる差別構造の中で、秋葉原事件の犯人は、始業前に自分の作業服(つなぎ)が見つからなかったことがきっかけで「この会社はなめている」とその鬱屈した感情を爆発させたのですが、恐らく似たような環境にある彼も「その気持はわかる」と言うに違いありません。

犯人と同じ青森県出身で、30年近く前、季節工として半年間トヨタの自動車工場に勤務した体験をもとに書かれたルポルタージュ『自動車絶望工場』(講談社文庫)の著者の鎌田慧氏は、今回の事件に関する新聞のコメントの中で、「派遣は(当時の)季節工よりも労働条件が劣悪だ」と言ってました。30年前より現在の派遣工(派遣社員)の方が劣悪な条件におかれているというのは信じがたい話ですが、しかし、考えてみれば、本工→期間工(季節工)→派遣工というヒエラルキー(三重構造)の中で、派遣工は会社にとって直接雇用のリスクがない分、雇用の調整弁として安易に「使い捨てられる」運命にあるのは当然かもしれません。

そんな中で、戦前のプロレタリア文学の代表作である小林多喜二の『蟹工船』が多くの若者達に読まれベストセラーになっているという現象もあります。最初、この話を聞いたとき、正直言って、どうして今、『蟹工船』なんだ?と思いました。古典的な窮乏化論などとっくに終ったと思われていたこの時代に、『蟹工船』と重なるような搾取や貧困がホントに存在するのだろうかと俄かに信じられない気持でした。

吉本隆明は、『文芸春秋』7月号で、『蟹工船』ブームについて、『蟹工船』を読む若者達は、貧困だけがつらいのではなく、彼らが感じている重苦しさはもっと別のものかもしれないと言ってました。

ネットや携帯を使っていくらコミュニケーションをとったって、本物の言葉をつかまえたという実感が持てないんじゃないか。若い詩人や作家の作品を読んでも、それを感じます。その苦しさが、彼らを『蟹工船』に向かわせたのかもしれません。
 僕は言葉の本質について、こう考えます。言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ、と。
 沈黙とは、内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分の言葉を発し、問いかけることが、まず根底にあるんです。
 友人同士でひっきりなしにメールで、いつまでも他愛ないおしゃべりを続けていても、言葉の根も幹も育ちません。それは貧しい木の先についた、貧しい葉っぱのようなものなのです。
(「蟹工船」と新貧困社会)


この記事は秋葉原事件の前に書かれていますが、なんだか秋葉原事件の犯人に向けて言っているようにも受け取れます。秋葉原事件の犯人も、とりわけネットに依存し、ネットに翻弄されたことが大きいように思います。彼のネットの書き込みを読むにつけ、大方の書き込みと同じように、あまりにもものの考え方が短絡的で想像力が貧困なのにはびっくりします。恐らくそれは自分の言葉を持ってない、つまり、ホントに自分と向き合い胸を掻きむしるように苦悩したことがないからでしょう。

しかし、それでも私は、今回の事件を個人の問題に還元するのは、やはり、問題を矮小化することになるような気がしてならないのです。たしかに、本人や家庭に問題があったかもしれません。でも、20才そこそこの若者にしては、親に頼らず派遣会社に登録して、ひとりで知らない土地に行き、1年なり2年なり工場で働いて生活の糧を得ていたというのは、むしろ「がんばっていた」と言えるのではないでしょうか。それをマスコミのように、「実家とは疎遠」「派遣会社を転々とした生活」などというのはあまりにも底意地が悪く冷たい気がします。要は、「偉いじゃないか」「がんばっているじゃないか」と言ってくれる人がいなかったことが彼の悲劇だったように思います。だからこそ、派遣の問題やその背景にあるグローバリズムの問題も含めて、社会的に未熟な25才の若者をそこまで追い込んだこの社会のしくみや風潮こそもっときびしく問われて然るべきではないかと思うのです。


関連記事:
秋葉原事件
秋葉原事件から10年
2022.07.26 Tue l 社会・メディア l top ▲
昨日(7/25)の朝日に、北アルプスにおいて、4月から行われている「登山道整備の協力金を求める実証実験、『北アルプストレイルプログラム』」の記事が出ていました。

朝日新聞ジタル
北アルプスで登山道がピンチ 整備の協力金一口500円を呼びかけ

記事を書いたのは、”山岳記者”として知られる近藤幸夫氏です。実験は昨年に続いて2回目だそうです。

通常、登山道の整備は山小屋のスタッフを中心にしたボランティアの手で行われています。しかも、人員だけでなく費用の一部も山小屋が負担しているのです。

ところが、近年、山小屋の経営がきびしくなったことで、登山道の維持管理にも支障が出はじめているそうです。それで、関係する団体や有志で協議会を立ち上げて、登山者に1口500円の「任意の協力金」を求める試みがはじまったのでした。

 安全登山を支える登山道の整備は山小屋を中心にした関係者の努力で整備されてきました。しかし、自然災害による登山道の被害に加え、新型コロナ禍で山小屋の経営が厳しくなり、これまでの枠組みでは登山道を守ることが難しくなっています。この実態を登山者に知ってもらい、新たな制度を発足させる狙いがあります。


しかし、それでも費用を賄うことはできてないのだとか。

 2021年度の同協議会の決算書によると、約1600万円の歳入に対し、歳出は約2500万円でした。差額の約900万円は、山小屋の収益から持ち出すことで補われました。しかし、コロナ禍で、各山小屋とも経済的な余裕がなくなっています。


私たちが登る山の多くは、国立公園や国定公園(あるいは県立公園)の中にあります。しかし、国立公園の中で国が所有するのは6割にすぎず、あとは民有地なのです。

よく知られた話では、尾瀬の40%は東京電力が所有し、間ノ岳・塩見岳・悪沢岳・赤石岳・聖岳・光岳など、3000メートル級の山がひしめく南アルプスの山域は、特種東海製紙が所有しています。余談ですが、私はポストカードやポスターを輸入する会社に勤めていた頃、オリジナルのポストカードを作るのに、当時は特種製紙と呼ばれていた静岡の同社に何度か足を運んだことがありました。

このブログでも触れたことがありますが、以前『週刊ダイヤモンド』(2019年10月5日号)でも「日本の山が危ない 登山の経済学」という特集が組まれ、その中で登山道の問題が取り上げられていました

記事を担当した鈴木洋子記者も、次のように書いていました。

(略)登山道整備の多くは日常の整備を担当する山小屋が担う。どの登山道をどの山小屋が分担するかは、山小屋間の申し合わせで決まる。
  だが、経営が安定している山小屋とそうではない山小屋では、登山道整備に費やせる金銭・人的リソースが全く異なる。実際は山小屋の費用持ち出しが発生するからだ。登山道の安全は近隣の山小屋の経営状況で決まるのが現実だ。
   国立公園は『美しい景観を国民が楽しむことを目的として、国が管理する自然公園』と定義されている。だが、山の環境や登山道の正確な状況について全容を把握し管理計画を立てている機関は、国にも地方自治体にも存在しない。


下記は、『週刊ダイヤモンド』の特集に添付されていた、日本とアメリカとイギリスの国立公園のデータを比較した図です。これを見ると、記事でも指摘されていましたが、日本の国立公園は「ヒト」「カネ」のリソースが足りてないことがよくわかります。

週刊ダイヤモンド国立公園
(『週刊ダイヤモンド』(2019年10月5日号より)

アメリカやイギリスの国立公園では、投資対効果や地域への経済効果なども細かに検証されているそうです。もちろん、当然のように入山料も徴収しています。しかし、「日本では国立公園の経済効果の試算は存在しない。そもそも行政が積極的に国立公園を運用する計画自体がない」のです。

そのため、日本とアメリカ・イギリスとでは、国立公園の”あり様”が大きく異なっています。簡単に言えば、日本の場合、門戸が開放されてない、誰でも行ける国立公園ではないのです。とりわけ、北アルプスや南アルプスなどは、上高地など麓の施設を除くと、国立公園と言っても、近づくことすらできません。ただ、遠くから山を眺めるだけです。しかも、その山は、上級者レベルの登山者だけが登ることができる”特別な場所”のようになっています。

私は、谷川岳の天神平や北横岳の坪庭や新穂高ロープウエイの展望台に、家族に手を引かれた高齢者や車椅子に乗った身障者が来ているのを見たとき、「ああいいなあ」と感動さえ覚えました。年を取っても、身体が不自由になっても、山に来たい(登りたい)という気持はあるのです。そう考えたとき、山は誰のものなのかと思わざるを得ませんでした。一部の特殊な登山者のものではないはずです。ましてや、「勝者」や「強者」のものではないのです。

国立公園であるなら、子どもでも高齢者でも身障者でも誰でも、自然に触れ合えるような場所であるべきでしょう。もちろん、それは無節操に開発するという意味ではありません。手始めにまず、アメリカやイギリスのように、「山岳レンジャー」や山岳ガイドが常駐する体制くらいは整えるべきしょう。

とは言え、前例主義と事なかれ主義に呪縛された行政にそうそう期待できるはずもなく、とりあえず現状の中で次善の策を考えるしかないのです。「北アルプストレイルプログラム」もそのひとつと言えるのです。

あまり整備されると登るのがつまらなくなる。最低限の整備にとどめるべきだ。危険と背中合わせなところが登山の魅力だ。一部の「軽業師」か「消防夫」(田部重治)のような登山者に、そういった高慢ちきな特権意識が存在するのは事実でしょう。

また、北アルプスなどはブランド化され、「登山者のあこがれ」「聖地」みたいに祭り上げられている現実もあります。登山雑誌でも登山シーズンになると、北アルプスの特集が組まれるのが定番です。そんなミーハーな意識で訪れている登山者も多いのです。

山小屋を運営する自治体もあるので、自治体の支援に濃淡があるのは当然ですが、中央の行政機関の担当者の中には、登山道の整備に税金が投入しづらいのは、現状ではまだ世論が充分納得しているとは言い難いからだという声もあるそうです(と言いながら、皇族が登るときは惜しみなく税金を使って整備しているのですが)。

遭難事故が発生するとさも迷惑みたいに叩かれるのも、警察やメディアに誘導された無知と悪意による予断が大きいのですが、一部にはそういった登山者の特権意識に対する反発もなくはないように思います。

山を「征服」するヨーロッパ由来のアルピニズム思想を無定見に信奉しながら、一方で自然保護を唱える矛盾も同じです。私の知人で登山愛好家を「偽善者」「似非ナチュラリスト」と痛罵する人間がいますが、まったく的外れとは言えないのです。

前から言っているように、私も登山における利用者負担は当然と思っています。また、行政の支援に頼るだけでなく、上記のような”協議会方式”で利用者負担の仕組みを作るのも、ひとつの方法だと思います。実際に北アルプスだけでなく、全国の山域でも同じような試みが既にはじまっているそうです。

考えてみれば、魚釣りに行くのも入魚料を徴収されるのです。私が子どもの頃、九州の山奥の渓谷みたいところで魚を釣るのでも、途中にある煙草屋で入漁料を払っていました。山に登る際も、入山料を払うのが当たり前のようになるべきでしょう。記事にも書いているように、登山者の間でも、利用者負担(入山料の徴収)に対する理解は広がっているのです。というか、むしろ登山者自身が率先して声を上げるべきでしょう。

入山料が当たり前になれば、登山道の整備費用が賄えるだけでなく、登山者の抑制にもつながるので、丹沢などに象徴されるようなオーバーユースの問題が解消されるメリットもあるのです。国立公園のあり方を考えるきっかけにもなるでしょう。

北アルプスのようなブランドの山なら、子どものお誕生日会のプレゼント代みたいなケチな金額ではなく、1万円でも2万円でも入山料を徴収すればいいのではないか。「あこがれの」ブランドの山なのだから、それくらい払ってもバチが当たらないだろう。そんな皮肉さえ言いたくなるのでした。
2022.07.26 Tue l 山行 l top ▲
新型コロナウイルスの新規感染者数が23日、初めて20万人を超え、4日連続での過去最多を更新しました。東京都は23日が3万2698人で、3日連続での3万人超えになりました。

政府は、急遽、4回目のワクチン接種を医療従事者や介護施設の職員などに拡大する方針を決定しましたが、同時に、現時点では「まん延防止等重点措置」などの新たな行動制限は行わない考えをあらためて表明しました。

そんな中、軽井沢で開かれている経団連の夏セミナーを訪れた岸田首相は、その席で、「『日本は、これまで6回の感染の波を乗り越えてきた。全体として対応力は強化されている。政府としては現時点で新たな行動制限を考えてはいないが、医療体制を維持・強化しメリハリのきいた感染対策を行ないながら、社会経済活動の回復に向けた取り組みを段階的に進めていく方針だ』と強調した」(FNNニュースより)そうです。

一方で、政府は、濃厚接触者の待機期間を現在の原則7日間から5日間に短縮するなど方針転換を発表したのでした。行動制限や時短営業についても、「感染者が減らせるエビデンスがない」「感染拡大の原因は飲食店ではなく家庭だ」と今までとは180度違うことを言い出しているのでした。政府は、オミクロン株は感染力が強いけど重症化リスクが低く、弱毒化していると言っていますが、オミクロンはそんな根本的な転換を伴うほど違うのだろうか、と首をひねりたくなります。

現在の感染拡大はBA.5という亜種によるものですが、でも、オミクロン株にも次々と新種が発見されています。既にBA.5に比べて3倍もそれ以上も感染力が強いと言われる、新しい変異株のBA.2.75が市中で発見されたという話もあります。そんなに能天気に構えていていいのかと思わざるを得ません。

先日、ワイドショーの某電波芸者コメンテーターが、「国民はもうこれ以上できないというくらい感染防止をしっかり行ってきました」、それでも感染を防げないのならウィズコロナに向けてウイルスと共存する方法を考えた方がいいのではないか、というようなことを言っていました。

しかし、身近を見てもわかるとおり、「国民はこれ以上できないくらいしっかり感染防止を行っている」わけではありません。政府の180度転換した楽観論をこれ幸いに、国民の感染防止もかなり緩んでいるのは事実です。夏は外ではマスクを外しましょう。でも、2メートル以内に接近したらマスクを付けましょうと呼びかけていますが、そんな面倒なことをしている人なんていません。マスクを外した人も目立って多くなりました。手の消毒をスルーする人も多くなりましたし、電車内でのあたり憚らないお喋りも復活しています。何より夜の繁華街や行楽地を見れば、その緩みは一目瞭然でしょう。

場当たり的なワクチン接種の拡大を見てもわかるとおり、結局のところ、政府に成す術がないということではないのか。行動制限も、行わないのではなくできないのではないのか。もはや日本の経済にそんな余裕がないというのが本音ではないのか、と思ってしまいます。

それを言い訳のようにアナウンスするので、国民もオミクロンは風邪と同じみたいな受け止め方をして、感染対策がいっきに緩みはじめたように思います。いつの間にか日本全体が反コロナの陰謀論に宗旨変えしたみたいになっているのです。

既にいろんなところで言われていますが、先進国において日本だけがこの30年間成長が止まったままです(給与も上がってない)。そのため、いつの間にか韓国や中国の後塵を拝するまでになっているのです。過去の”遺産”があるので何とか先進国のふりをしていますが、年を経るごとに貧しくなり没落しているのは誰の目にもあきらかです。ゼロ金利政策を取り続けているのも日本だけです。日本だけが泥沼から抜け出せない状態になっているのです。それはあきらかにアベノミクスなど政策ミスによるものです。

中国のような強権的なゼロコロナ政策も問題かもしれませんが、ああやって経済を止めて強力な感染対策を講じることができるのも、中国に経済的な余裕があるからでしょう。

しかも、あろうことか、政府の分化会などでは、現在の感染症法上の「2類相当」の扱いからインフルエンザ並みに緩和すべきだという声も出ているようです。これだけの感染爆発を前にして、「2類相当」の厳格な要件を適用すると、社会経済活動に再び支障が出てくるからでしょう。すべては本末転倒した社会経済活動ありきの発想なのです。

「だが重症化率が低いといっても、季節性インフルエンザに比べればまだ高い水準にある。厚生労働省の資料によると、60歳以上の重症化率はオミクロン株2・49%に対し、インフルは0・79%。致死率もオミクロン1・99%、インフル0・55%でなお開きがある」(JNNニュースより)という指摘があることも忘れてならないのです。

先日、バイデン政権の首席医療顧問を務めるアンソニー・ファウチ博士が、バイデン大統領の任期が終わる2025年1月までに退任する意向を明らかにしたというニュースがありました。ファウチ博士は現在81歳ですが、退任の理由として、「新型コロナがなくなってから辞めるとなると、私は105歳になってしまう」と言ったそうです。

新型コロナウイルスとの戦いは、これからも長く続くのです。国内で初めて新型コロナウイルスの患者が確認されたのは、僅か2年前の2020年1月です。なのに、早くもギブアップしている日本はホントに大丈夫なのかと心配になってきます。

発熱外来は患者が殺到して予約が取れないとか、保健所も電話が鳴りやまずパニックになっているとか、救急外来も救急車を断るようになったとか、重症化リスクが低いと言いながらまた医療現場の混乱が伝えられています。にもかかわらず、何故かメディアも識者も、肝心な感染防止策に対して言及することはないのです。水が溢れて大変だと言いながら、蛇口から流れる水をどうすれば減らすことができるかの議論がまったくないのです。それは実に奇妙な光景です。

不勉強なので素人の戯言ですが、今のような感染防止がないがしろにされた状態を見るにつけ、紙幣を増刷してそれを国民に配り(俗な言い方をすれば、働かないでも当面しのげるお金を給付して)とりあえず感染防止を優先するという、MMT理論のような大胆な方策も必要ではないか、と考えたりもするのです。そして、感染が収まったら、十全な状態で経済活動を復活させればいいのではないか。ちなみに、アメリカは200兆円使って国民一人あたり15万円の支援金を3回給付しました。一方、日本は10万円を1回給付しただけです。

いつまで続くのかわかりませんが、これからも新株が出るたびに感染爆発が起きるのは間違いないでしょう。新型コロナウイルスは、世界史の上でも特筆すべき大きな出来事なのです。私たちは現在、その歴史の真っ只中にいるのです。この国の為政者には、その認識が決定的に欠けているように思えてなりません。
2022.07.24 Sun l 新型コロナウイルス l top ▲
武蔵小杉駅~立川駅~武蔵五日市駅~「仲の平」バス停~【数馬峠】~【笹ヶタワノ峰】~「浅間尾根登山口」バス停~武蔵五日市駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約6時間(休憩等含む)
※山行距離:約6.5キロ
※累計標高差:登り約488m 下り約392m
※山行歩数:約18,000歩
※交通費:3,808円


一昨日、奥多摩の笹尾根を歩きました。前回の1年3ヶ月ぶりの山行から既にひと月の間が空いてしまいました。

雨が続いたかと思えば、つかの間の晴れ間は「熱中症警報」が発令されるような酷暑で、山どころではなかったのです。

早朝5時すぎの東横線に乗って武蔵小杉駅。武蔵小杉駅から南武線で立川駅。立川駅から武蔵五日市線の直通電車で武蔵五日市駅。武蔵五日市駅に到着したのは7時すぎでした。そして、駅前から7時20分発の「数馬行き」のバスに乗って、終点の「数馬」のひとつ手前のこのブログではおなじみの「仲の平」(檜原村)のバス停まで行きます。「仲の平」まで約1時間かかりますが、半分も進まないうちに乗客は私だけになりました。これもいつものことです。

実は前日にいったん出かけたのです。武蔵小杉まで行き、南武線の改札口に向っている際、首にサコッシュがかかってないことに気付いたのでした。サコッシュには、財布や健康保険証やクスリなどが入っています。もっとも、普段の移動はモバイルスイカを使っていますので、スマホさえあれば支障はないのですが、とは言え、心はまだアナログ人間なので一抹の不安がありました。それで、山行を中止して自宅に戻ることにしたのでした。ちなみに、翌日の山行では、財布をサコッシュから一度も出すことはありませんでした。

登山口がある「仲の平」のバス停に着くと、外は雨になっていました。それもかなり雨脚が強く、山の方も霧におおわれています。前回(と言っても一昨年)下山で使った道を登ろうと計画していましたので、傘を差してバス停から民家の横の細い道を川の方に下って行きました。その際、民家から出て来たおばさんに出くわしました。

「おはようございます」と挨拶したら、「今から山に登るんですか?」と訊かれたので「そうです」と答えたら、「生憎の雨で大変ですね。気を付けて下さいね」と言われました。

川まで下りると、そこは昔のキャンプ場の跡になっています。朽ちたバンガローが数軒、そのまま残っています。炊事場だったところに屋根があるので、そこで雨宿りを兼ねて山に登る支度をはじめました。

40分以上待ったけどいっこうに雨が止む気配がないので、しびれを切らして雨具を着て登ることにしました。途中の伐採地まで結構な登りが続きます。

私は笹尾根には今まで冬か秋しか来たことがなく、夏は初めてでした。道中は草が繁茂して半分藪漕ぎみたいなところもあり、同じ山だとは思えないくらい様相が変わっていました。もちろん、山行中誰にも会うことはありませんでした。

息が上がり足も重くてなりませんでした。それに雨具を着ているので、外気と湿気で水を被ったように全身汗びっしょりになり、よけい疲労感が増します。雨も止む気配がなく、情け容赦なく叩きつけてきます。

30分近く歩くと、ようやく登りがいったん緩む伐採地に出ることができました。既に疲労困憊でした。でも、山の中なので雨宿りができる建物などあろうはずもありません。

それで、木の下にあった倒木に座って、休憩がてら雨脚が弱くなるのを待つことにしました。天気予報によれば、1~2時間経てば雨が止むはずです。

再び傘を差してうずくまるように座り、おにぎりを頬張っていたら、何だか情けなくて泣きたいような気持になりました。でも一方で、「やっぱりひとりがいいなあ」と心の中で呟いている自分もいました。自己愛の強い私は、そんな孤独な自分が嫌いではないのです。

30~40分待つと、空も明るくなり雨脚も急速に衰えてきました。雨具を脱いで再び歩きはじめたのですが、1年以上のブランクとまだ少し痛みが残っている膝の影響もあって、足を前に進めるのがつらくてなりませんでした。それに、同じ道とは思えないほどの景色の違いにも、心が萎えるばかりでした。全身から吹き出す汗に水も減る一方です。水は2.5リットル持って来ましたが、既に1リットル以上飲んでいました。

山に登ることほど孤独な営為はありません。常に自分と向き合い、自分と葛藤しながら足を出して登っているのです。しかも、その自分は文字通り素の自分です。そこにいるのは、ハァーハァー息を切らし鼻水を垂らしながらネガティブな気持と戦っている、何の後ろ盾もない非力な自分です。

普段の生活のように、自分を強く見せたり、大きく見せたりすることもできないのです。自然の前にいる自分は何と非力で小さな存在なのかとただただ思い知るだけです。

前も書きましたが、ヨーロッパ由来のアルピニズムでは、山は「征服」するものでした。アダム・スミスの研究者である山口正春氏(日本大学教授)が下記の論稿でも指摘しているように、西洋の自然観は『聖書』の「天地創造説」に影響されています。つまり、「神が自然(世界)を創造し、『神の似像』として人間を創り、人間が支配し、食糧とするために自然が与えられている」という考えです。そのように、「元々キリスト教の教義の中には『自然支配』の思想、さらに『人間中心主義』が包含されていた」のでした。

山口正春
西洋の自然観とその問題点

私たちは、「人間中心主義」と言うと、ルネッサンスのような人間賛歌、ヒューマニズムの原点のように思いがちですが、しかし、それは「自然支配」と表裏の関係にあるものにすぎないのです。ヨーロッパ由来のアルピニズムに、軍隊用語がふんだんに使われているのも故なきことではないのです。

それに対して、日本人は古来から自然に対して畏敬の念を持っていました。とりわけ山岳信仰などはその代表的なものでしょう。また、採集経済においては恵みを与えてくれるものとして、そして、畑作や稲作の農耕文化が伝来すると雨乞い信仰の対象として、山を崇拝するようになりました。山は「征服」するものでなく、「ありがたい」ものだったのです。

文字通りほうほうの体で笹尾根上の数馬峠(標高1102メートル)に着いたときは、既に12時をまわっていました。登山アプリのコースタイムより1時間以上多く時間がかかってしまいした。

他の季節だと、数馬峠からは山梨県側の眺望がひらけているのですが、大きく茂った灌木が邪魔をしている上に、まだ水蒸気が下から上に登っている最中だったということもあり、正面にそびえる権現山(標高1312メートル)の大きな山容もほどんど雲に隠れていました。その先には富士山も望めるのですが、もちろん、姿かたちもありません。

笹尾根は、東京都(檜原村)と山梨県(上野原市)の間に延びている、標高1000メートル前後の都県境尾根です。檜原村からは尾根の上に向っていくつも道が伸びています。それこそ、檜原街道沿いのバス停があるところからは大概登山道があるくらいです。そして、尾根の上からは、今度は山梨側に向って道が下っているのでした。さらに尾根上にもそれらをつなぐ道が走っています。

私たちが今登っている道は、昔の人たちの生活道路だったのです。そうやって双方を行き来したり、尾根の上で物々交換をしていたのです。尾根を越えて反対側の集落に嫁ぐ例さえあったそうです。ちなみに、数馬峠というのは東京側の呼び名で、山梨側は「上平峠」と呼ぶみたいです。

私の奥多摩歩きのバイブルである『奥多摩   山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)の中で、著者の山田哲哉氏は、今から110年前の1909年、田部重治が東京帝国大学の先輩である木暮理太郎と二人で、笹尾根を歩いたことを「日本初の縦走路   笹尾根」と題して書いていました。二人は、奥多摩の小仏峠から景信山、陣馬山、和田峠を経て奥多摩に入り、途中、浅間峠のあたりで1泊したあと、西原峠まで笹尾根を歩いたのでした。私も田部重治の『山と渓谷』で、その山行について書かれたエッセイを読みましたが、実は二人の最終目的は笹尾根ではなく、笹尾根を経由して雲取山に登ることだったです。

そのため、三頭山の手前の西原峠から上野原側の郷原へ下山して鶴峠を越え、今の奥多摩湖畔の川野から(恐らく鴨沢ルートで)雲取山に登っているのでした。しかも、田部重治は、それが初めての本格的な登山だったそうです。山田氏は、二人のこの「壮大な山行」が日本で初めての「縦走登山」だったと書いていました。

笹尾根は、広義に解釈して三頭山から高尾山まで40キロ近くの縦走路をそう呼ぶ人もいますが、実際は、三頭山から浅間峠までの20キロあまりを笹尾根と呼ぶのが正しいようです。

山田氏は、笹尾根について、次のように書いています。

  起伏が少なく、山上に広々とした地形をもつ笹尾根は、その尾根自体が生活を支える重要な場所であった。ここ20年ほどの間に広葉樹が繁茂し、かつてのような一面カヤトは少なくなっても、40年ほど前までは、茅葺き屋根の材料だったカヤを得る場所として、明るい展望とともに随所に美しい茅原が広がりを見せていた。今でも、峠道を少し下れば炭焼き窯の跡が点々と残っている。
(『奥多摩   山、谷、峠、そして人』)


このブログにもたびたび出て来るように、私は笹尾根が好きで、今までも何度も歩いています。

前も書きましたが、田部井淳子さんも冬の笹尾根を歩くのが好きだったそうです。今の笹尾根は、檜原街道を挟んで反対側にある浅間尾根に比べると歩く人が少ないのですが、たまたま山中で一緒になった女性ハイカーに話を聞くと、やはり田部井さんの足跡を辿って歩いている人も多いようです。

数馬峠には、たしかベンチが二つあったはずです。ところがベンチが見当たりません。一瞬、「エッ、これが数馬峠?」と思ってしまいました。よく見ると、ベンチは原型をとどめないくらい朽ちて崩壊していました。私はその荒れように少なからずショックを受けました。

仕方なくベンチの残骸の上に腰を下ろすと、バリバリと木が折れてさらに崩壊してしまいました。ザックからおにぎりを出して食べようとすると、コバエが集まって来て食べるどころではありませんでした。しかも、どこからか蟻も這い出てきてスタッフバッグの上を我が物顔に徘徊しているのでした。そのため、ザックに戻すのにくっ付いた蟻をいちいち払い落さなければなりませんでした。

雨のあがった夏空からは強烈な陽光が容赦なく照り付けています。じっとしていても汗が吹き出して、ひっきりなしに水を飲みました。

と、そのときでした。山梨側の方から「オッ、オッ」というようなやや甲高い鳴き声が聞こえてきたのでした。山梨側にも道が通っているはずですが、藪に覆われて踏み跡も判明しないほどかなり荒れていました。最初、猟犬かと思いましたが(山中でGPSのアンテナを装着した猟犬に遭遇すると腰をぬかすほどびっくりしますが)どうも犬の鳴き声のようには思えません。何だろうと思っていたら、ふと、山の中で「おーい、おーい」と人を呼ぶような声が聞こえたら注意した方がいいという話を思い出したのでした。

「おーい、おーい」というのは、仔熊が母熊を呼んでいる鳴き声なのだそうです。私は、首から下げている笛を「ピーピー」と吹きました。しかし、鳴き声は止みません。それで、あわててザックを背負うとその場をあとにしたのでした。あとで気付いたのですが、その際、カメラのレンズのキャップを落としたみたいです。

冷静になって考えると、熊だったという確証はなく、いつものひとり芝居だったのかもしれないと思いました。誰にも会わずにひとりで山の中を歩くのが好きだと言いながら、このように過剰に熊に怯える自分もいるのでした。前方にある枯れ木や岩が熊に見えることもしょっちゅうです。そんなときは枯れ木や岩に向って懸命に笛を吹いているのでした。

当初の予定では数馬峠から7キロくらい先にある浅間峠から下る予定でしたが、時間が押していたので計画を変更して、数馬峠の先にある笹ヶタワノ峰(標高1121メートル)から「浅間尾根登山口」のバス停に下りることにしました。

「浅間尾根登山口」は「仲の平」から三つ手前のバス停です。2年前も反対側の浅間峠から歩いて来て下りたことがありますし、また、浅間尾根(浅間嶺)に登る際に下車したこともありました。

下の方は「中央区の森」になっているため道も整備され、2年前はそれこそ鼻歌交じりで下りたものですが、今回は痛い方の膝をかばうように歩いたので、前回の倍くらい時間がかかりました。そのため、鼻歌どころではなく、やたら時間が長く感じて苦痛を覚えるばかりでした。

バス停に下りたのが15時すぎで、武蔵五日市駅行きのバスは出たばかりでした。15時台のバスはないので、次は16時すぎです。1時間以上も待たねばなりません。仕方なくバス停のベンチにひとりぽつんと座ってバスを待ちました。もちろん、やって来たバスには乗客は誰も乗ってなくて、来たときと同じ私ひとりだけでした。

武蔵五日市駅からは朝と逆コースを帰りましたが、電車の連絡がスムーズに行ったので、横浜の自宅に帰り着いたのは19時半すぎでした。

翌日はオミクロン株BA.5の感染爆発に怖れをなしてワクチン接種に行ったのですが、太腿に筋肉痛はあったものの、接種会場の階段を下りる際、セサミンのテレビCMに出ているおばさんのようにトントントンと下ることができたので、自分でもびっくりしました。


関連記事:
田部重治「高山趣味と低山趣味」
若い女性の滑落死と警鐘


※オリジナルの画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC01219.jpg
閉鎖されたキャンプ場の炊事場

DSC01221.jpg

DSC01237.jpg
途中の伐採地から

DSC01254.jpg

DSC01263.jpg

DSC01264.jpg
数馬峠からの眺望

DSC01268.jpg
数馬峠の朽ちたベンチ

DSC01274.jpg

DSC01283.jpg
笹ヶタワノ峰から下る

DSC01288.jpg

DSC01296.jpg
途中の大羽根山(標高992メートル)

DSC01306.jpg
「中央区の森」の中のヌタ場
※沼田場(ヌタ場)とは、イノシシやシカなどの動物が、体表に付いているダニなどの寄生虫や汚れを落とすために泥を浴びるぬたうちを行う場所のこと。(ウィキペディアより)

DSC01315.jpg
「中央区の森」の中にある炭焼き小屋
※体験用の炭焼き小屋です。

DSC01317.jpg
「浅間尾根登山口」バス停

DSC01319.jpg
反対側のバス停
バス停の上から下りて来ました。
2022.07.24 Sun l 山行 l top ▲
一昨日、今回の安倍晋三元首相銃撃事件に関連して、朝日新聞デジタルに、下記のような宮台真司氏のインタビュー記事が掲載されていました。

宮台真司氏は、近代化により(中間共同体が消滅して)むき出しになった個人が、近代合理主義(=資本主義)のシステムと直接向き合わなければならなくなり、その結果「寄る辺なき個人」が大量に生まれた、そのことが今回の事件の背景にあると言うのです。そして、「寄る辺なき個人をいかに社会に包摂するかを考えていくことが大切だと指摘」するのでした。

朝日新聞デジタル
(元首相銃撃 いま問われるもの)バラバラな人々に巣くう病理 宮台真司さん

それは、オウム真理教の事件の際に出版された『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)に書かれていることのくり返しで、正直言って「またか」という気持を持ちましたが、言っていることはよくわかるのでした。たままた本棚を整理していたら『終わりなき日常を生きろ』が出て来ましたので、もう一度読み返してみようかなと思ったくらいです。

宮台氏は次のように言います。

 「既に安倍氏への過度な礼賛や批判が『確かな物語』を求めて増殖中です。それとは別に、『民主主義への挑戦』と批判して済ませる紋切り型も気になります。無差別殺傷事件も政治家を狙った事件も、『剥き出しの個人の不安』と『国家を呼んでも応えないがゆえの自力救済』という類似面があります」


前に書いた『令和元年のテロリズム』に出て来るような事件を、宮台氏は「国家を呼んでも応えないがゆえの自力救済」だと言います。それと「剥き出しの個人の不安」は「類似」していると。でも、私には、「類似」というより表裏の関係のように思いました。

そんな「寄る辺なき生」に、カルトは「確かな物語」(大きな物語)を携えてやって来ます。『令和元年のテロリズム』を読むと、登場する人物たちがカルトとすれすれのところで生きていることがよくわかります。

ただ、それは今回の事件の一面にすぎません。今までの報道を見る限り、容疑者はカルトに取り込まれたわけではないのです。容疑者にとって「大きな物語」は、ネトウヨの陰謀論であり、その延長にある安倍政治に随伴することだったのです。

なのに容疑者は安倍を撃ったのです。統一教会によって家庭がメチャクチャにされた積年の恨みが、「本来の敵ではない」安倍に向けられたのです。たとえイデオロギーと関係がなくても、行為自体はきわめて政治的なものと言っていいでしょう。

もしかしたら、ネトウヨを自認する容疑者には、安倍元首相に対して「可愛さ余って憎さ百倍」のような感情があったのかもしれません。安倍元首相は、国内向けには嫌韓的なポーズを取りながら、その裏では、サタンの日本人は「アダムの国」の韓国に奉仕すべきだと主張する韓国のカルト宗教と三代に渡って親密な関係を続けてきたのです。そのジキルとハイドのような二つの顔を知ったことが、安倍元首相をターゲットにする”飛躍”につながったのではないか。そう考えなければ今回の事件は理解できません。

宮台氏の言説に従えば、あの腰の座った覚悟の犯行も「自己救済」ということになります。私はむしろ逆ではないかと思っていました。ロープシンの『蒼ざめた馬』のような”虚無のテロリスト”さえ幻視していたのです。一発目が逸れたあと、容疑者はためらうことなくさらに前へ進み、致命傷となる二発目を命中させているのです。容疑者にとって、「本来の敵ではない」安倍元首相は「呼んでも応えない」国家だったのか。あるいは、国家を呼び出すために安倍を撃ったのか。警察発表の犯行動機を理解するためには、私たちもまた、”飛躍”が必要なのです。

一方で、宮台氏も言うように、既に「心の平穏に向けた物語化」がはじまっているのでした。ワイドショーの電波芸者コメンテーターたちの言動にも、そういった空気の変化が反映されています。メディアも、統一教会と政治の関係に言及するのを避けるようになっているそうです。

これから「国葬」に向けて、死者の悪口を言わないという”日本的美徳”のもと、安倍政治を賛美する声が益々大きくなっていくのでしょう。そして、今回の事件も、容疑者個人の一方的な「思い込み」で起きたことにして幕が下ろされるに違いありません。

朝日の記事のタイトルのように「病理」と言うなら、個人の心より政治、特に安倍元首相を含めたこの国の「愛国」者たちの”二律背反”こそそう呼ぶべきなのです。間違っても(記事のタイトルに含意されているような)「個人的な思い込みによる事件」として回収させてはならないのです。


関連記事:
『令和元年のテロリズム』


追記:(7/21)
事件の政治的な側面ということで言えば、宮台氏もインタビューでは統一教会と自民党の関係に言及していたそうです。しかし、J-CASTニュースによれば、朝日新聞が掲載に当たってその部分を削除したのだとか。宮台氏もTwitterでそれを認めています。

Yahoo!ニュース
J-CASTニュース
宮台真司氏「掲載中止よりもマシ、Twitterで捕捉」 朝日新聞がインタビューから削除した「重要なポイント」

削除された「重要なポイント」について、J-CASTニュースは次のように書いていました。

(略)旧統一教会が提唱する原理を学ぶ団体の原理研究会が1970年代末以降どのように活動していたかや、自民党と教会が2000年代末以降にズブズブの関係になっていたことについて、宮台氏の元の原稿では言及されていた。しかし、朝日の担当記者がその記述を残そうと奮闘したにもかかわらず、記事公開に当たって、それらの部分が削除されたという。


別に目新しい話ではなく、正直言って、そんなに騒ぐことなのかと思いました。自民党に忖度したと言えばそう言えないこともありませんが、私には穿ちすぎのような気がしました。
2022.07.21 Thu l 社会・メディア l top ▲
先日、自民党の某国会議員が、過去に世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体が開催したイベントに祝電を送ったという指摘を受け、お詫びのコメントを発表した上で、旧統一教会との関係を否定したという報道がありました。

しかし、その「国会議員」こそ、30年近く前に、私が元取引先が統一教会のフロント企業であったことを知った週刊誌の記事に書かれていた人物なのです(「統一教会・1」参照)。

保守系の国会議員のサイトから、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に関係する記述が次々と削除されているそうですが、このように国会議員たちの間で再び、知らぬ存ぜぬの”猿芝居”がはじまっているのでした。

しかも、それは、自民党だけにとどまらず、国民民主党の玉木雄一郎代表にも飛び火したのでした。玉木代表への寄付は、同代表が旧民社党の流れを汲む政治家だからだと思いますが、もしかしたら、統一教会は野党や労働団体にも触手を伸ばしていたのかもしれません。

有田芳生氏がツイートしていましたが、テレビに出た際、事前に番組の担当者から、「政治の力」という言葉は使わないでほしい、具体的に政治家の名前を出すのは控えてほしいと釘を刺され、「昔のテレビとは違うんだ」と言われたそうです。

たしかにテレビのワイドショーを観ていると、時間の経過とともにコメンテーターたちに、統一教会の問題と安倍元首相の事件を分けて考えるべきだ、一緒くたにするのは誤解を招く、というような言動が目につくようになりました。そうやって、事件は山上容疑者の「思い込み」だったという結論に持って行こうとしているかのようです。「精神鑑定」が行われたという話も、恰好の口実になっているように思います。

でも、安倍晋三元首相こそ統一教会の問題を「象徴する存在」(山上容疑者)なのです。「安倍三代」と統一教会との関係を考えれば、統一教会にもっとも近い政治家と言っていいでしょう。

一方で、コメンテーターたちの言動を見るまでもなく、政治と宗教の”不都合な真実”も、徐々に幕引きがはかられているように思えてなりません。結局、安倍元首相らが体現する”戦後の背理”は糊塗され、獅子身中の虫もそのままに、元の日常に戻っていくのでしょう。その大団円として「国葬」が用意されているのかもしれません。

山上容疑者は、みずからをネトウヨとツイートしていましたが、そのネトウヨが、彼らのヒーローの安倍元首相に引き金を引いたのです。そのことの意味はあまりに大きいと言わねばなりません。「愛国者に気をつけろ」というのは鈴木邦男氏の著書の書名ですが、私たちはまず、「愛国」者を疑うことからはじめなければならないのです。

サタンの日本人は「アダムの国」の韓国に奉仕しなければならないと主張する韓国のカルト宗教の教祖に、「日本を守るために」反共団体の設立を依頼する。そんな愛国者がどこにいるでしょうか。統一教会の問題であきらかにされたのは、そういった日本の戦後政治を蝕んでいた「愛国」という病理なのです。
2022.07.20 Wed l 社会・メディア l top ▲
親族によれば、容疑者の母親は、統一教会に入信したあと、自殺した父親の保険金などを原資に3年間で6000万円、容疑者の祖父が死亡後、相続した会社の土地や自宅などを処分して4000万円、総額1億円を献金したそうです。その後、親族が教団と交渉して5000万円が返金されたそうですが、それも再び献金したという話があります。

11年以上前の資料ですが、下記の『週刊文春』の記事によれば、1999年から9年間に日本から韓国に送金された総額は約4900億円にのぼるそうです。年平均約544億円です。

週刊文春 Shūkan Bunshun 2011.9.8
統一教会 日本から「4900億円送金リスト」を独占入手!

統一教会の献金や霊感商法などの”集金システム”の背景に、「真の父母と一緒にいる食口(引用者注:シック。信者のこと)たちは、この世の中のすべての物を自由に使えるのがあたりまえだ」というこ故・文鮮明総裁の考え方があるのは間違いないでしょう。この世の中の物やお金は、サタンが勝手に奪ったものにすぎない。だから、「真の父母と一緒にいる食口たちが、たとえそれを盗んで使ったとしても、それが世の中の法律にひっかかったとしても、実際には何でもないことになる」(後述する朴正華氏の手記より)と文鮮明氏は言うのです。ただ、サタンから奪い返しただけだと。

統一教会(現・世界平和統一家庭連合)は、そうやって集めた巨額な資金を使って、食品業や建設業や不動産業やリゾート産業に進出し、今や韓国でも有数な財閥になったのでした。

2018年の平昌冬季オリンピックでアルペンスキーの大回転・回転競技の会場となった龍平リゾートも、世界平和統一家庭連合が所有するスキー場です。また、龍平リゾートは、のちに日本でもブームとなった韓流ドラマ「冬のソナタ」のロケ地にも使われたそうです。教団も、日本人観光客を呼び込むためにロケ地めぐりのツアーを手がけ、文鮮明氏の肖像画が飾られたスーベニールショップでは、日本人観光客が先を競ってグッズを買い求めていたそうです。

高麗人参(朝鮮人参)でおなじみの「一和」も、統一教会系列の会社(フロント企業)です。「一和」は、サッカークラブ城南FCの実質的なオーナー企業と言われています。

また、先頃、ニューヨークタイムズが、アメリカに寿司を広めたのは日本ではなく韓国の統一教会だった、という記事を掲載して話題になりました。記事によれば、統一教会は所有する食材卸会社「True World Foods」を通して、現在、アメリカの寿司レストランの7割から8割と取引しており、年間で500億円を売上げているそうです。

日本人は「アメリカで寿司ブーム!」「ニッポン凄い!」と自演乙していましたが、実はそんな話ではなかったのです。テレビ東京の「世界ナゼそこに?日本人」という番組で紹介された日本人女性たちの中に、統一教会の合同結婚式で嫁いだ信者が含まれていたとして問題になったことがありましたが、それと似たような話です。しかも、統一教会は、寿司は韓国が発祥だと主張しているそうです。

話は戻りますが、紀藤正樹弁護士は、日本からの送金額は世界全体の半分以上を占めているとテレビで言っていました。どうして日本が突出して多いのか。もちろん、政界に深く食い込んでいるため、他の国に比べて規制が緩く、活動しやすいということが大きいでしょう。ただ、それだけでなく、日帝の植民地支配に対する韓国人の反日感情も関係していると言われています。韓国を植民地支配した日本はとりわけ罪深い「エバの国」であり、日本人は極悪なサタンである。サタンの日本人は「アダムの国」の韓国に奉仕しなければならないという考えです。セミナーなどでも、日本人信者にそういった贖罪意識を植え付けるのだそうです。

1949年北朝鮮の興南収容所で、同じ服役囚として文鮮明氏と知り合い、以後13年間行動をともにして、統一教会の設立に加わった朴正華氏も、手記『六マリアの悲劇・真のサタンは、文鮮明だ!!』(恒友出版・1993年刊)の中で、次のように書いていました。

六マリアの悲劇・真のサタンは、文鮮明だ!!
統一教会創始者 朴 正華(パク チョン ファ)
https://xn--u9j9e9gvb768yqnbn90c.com/

  ことに隣国の日本では、統一協会の実態を知らない食口たちが、理想世界の実現を信じて金集めに走り、霊感商法という反社会的な大問題に発展した。

  創成期の苦労を知らない一族がなせる弊害、という他はない問題である。「法に触れて盗んでも神様は許してくれる」と、女食口を唆した文鮮明の身内らしいやり口で、物欲・金銭欲にいっそう拍車がかかっている。

  そしてもう一つ。

  朝鮮は日帝支配で被害を受けた。その日本に仇を討つためにも、日本の金を洗いざらい捲き上げよ」と文鮮明が豪語していた事実(何人もの幹部が聞かされた)を、日本の純粋な食口たちは知っているのだろうか。

(以下引用は同じ。一部、改行やスペースを引用者が修正しています)


私は、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)についての報道や識者の発言には、隔靴掻痒の感を覚えてなりません。言うまでもなく、統一教会の教義の大きな柱である「復帰摂理(復帰原理)」と呼ばれる、「セックスリレー」=「血代交換」のことがまったく触れられてないからです。

文鮮明氏が北朝鮮の興南刑務所で服役(強制労働)することになったのも、夫と3人の子どもがいる信者の家で人妻と同棲し、しかも、神の啓示を受けたとしてその人妻と「小羊の儀式」(正式な結婚)を行なうと言い出して騒ぎになり、「社会秩序紊乱罪」で警察に逮捕されたからでした。

朴正華氏の手記にある「六人のマリア」というのも、「六人の人妻」という意味です。統一教会の「復帰摂理(復帰原理)」については、朴正華氏の手記に多くの具体例が出ていますが、もとは聖書の「創世記」の独自な解釈に基づいたものだそうです。

  六千年前、神様は、土で人のかたちを造りその鼻に息を吹き込んで、人として動けるようにした。その名をアダムと呼び、エデンの園に住まわせた。そして、ふさわしい伴侶を造るため、アダムが眠っているとき、アダムのアバラ骨を一本とって女性を造った。それがエバである。神様は二人に、エデンの園の中央にある木の実だけはとって食べてはいけないと命じたが、蛇がエバを唆したため、エバはついに禁断の木の実を食べ、夫であるアダムにも勧めて食べさせた。

  そして、神を裏切り禁断の木の実を食べた二人は、木の陰に身を隠し、発見されたとき恥ずかしそうに無花果の葉で身体を隠していた。神様がアダムを創造しエバを造った目的は、エバが成熟したらこの世の中に罪のない子孫を繁殖させることだったが、神様に背いた二人は、やがてエデンの園から追放され、再び帰ることができなくなった。罪を犯し汚れたアダムは、汗を流して働かなければ生きてゆけなくなり、エバは、お産の苦しみという苦労をしなければならなかった。

  二人の間にはカインとアベルの兄弟が生まれたが、やがて兄のカインは弟のアベルを殺すことになり、この世の中に初めて罪人ができた。

  エバを唆した蛇とは天使長ルーシェルのことで、ルーシェルは、神様の摂理を知って甘い言葉で本成熟(原文ママ)なエバを誘惑し、禁断の木の実を食べさせた。つまりルーシェルとエバはセックスをしたのだ。そして処女を犯されたエバは、神様に見つかる前に、サタンの血で汚れた身体のまま夫のアダムともセックスをした。


  「形のない神様は、エバがエデンの園で成熟したら、形ある人間のアダムに臨在し、アダムとエバが結婚して、汚れていない子どもがこの世の中に生まれ、その子孫がこの世の中に繁殖することによって、この世の中を平和で罪のない社会にすることを目的としていた。ところが、天使長ルーシェルが神の目的を知って、エバを誘惑して奪い取ったため、この世の中はサタンのものになり、罪人ばかりになってしまった。だから、夫のいる人妻を奪い取ることによって、サタンに汚された血を浄める復帰摂理の儀式が成り立つことになる」と文鮮明は説明した。

  文鮮明は私に、復帰する方法まで具体的に教えてくれた。その復帰の方法とは、「今までのサタンの世の中では、セックスをするときに、男の人が上になり、女の人が下になっていたが、復帰をするときには、二回まで女の人が上になり、男の人が下になるのだ」「そして、蘇生、長成、完成と、三回にわたって復帰しなければならない」ということだった。


「血代交換」とは、「第二のアダムであるイエスが達成できなかったことを、第三のアダム(要するに文鮮明氏)がこの世の中に再臨して血代交換をする」という教えです。

メシア(引用者注:文鮮明氏のこと)が世界の代表として、六人のマリアと三十六家庭の妻たちとセックスをすれば、汚れた血がきれいになるということで、この儀式を血代交換と言う。そして、血代交換をした三十六家庭から生まれてくる子どもは、罪のない天使ばかりであり、こういう人たちが世界に広まることによって、罪悪のない世の中が生まれる」ということだ。


1987年に発生した朝日新聞阪神支局などを襲った赤報隊事件で、統一教会の関連団体が一時捜査の対象になったという話もありますが、有田芳生氏によれば、オウム真理教の事件のあと、警察庁の幹部から頼まれて、警察施設で眼光の鋭い刑事たちを前に、統一教会のレクチェーをしたことがあったそうです。その際、幹部は、オウムの次は統一教会だと言っていたのだとか。しかし、待てど暮らせどその気配はない。そして、10年が経った頃、たまたま会った幹部にレクチャーの話をしたら、「政治の力でストップがかかった」と言われたそうです。

全国霊感商法対策弁護士連絡会のサイトを見ると、2020年の旧統一教会関連の相談件数は、消費者センターに寄せられたものも含めて、214件、918072300円で、もっとも活発だった1990年前後に比べれば、件数・金額ともに10分の1以下に減っています。しかし、それでも被害がなくなっているわけではないのです。

自民党などの保守派の議員が、選択制夫婦別姓や同性婚やジェンダーフリーに強硬に反対するのも、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の結婚観や家庭観が影響しているからではないかと言う人もいるくらい、彼らは「愛国」を叫ぶ一方で、このようなカルト教団と深い関係を結び、日本を食いものにする彼らの活動に手を貸しているのです。それは、政治家だけではありません。あの”極右の女神”が系列の新聞社の集まりで講演している写真もネットにアップされていました。

1967年、来日中の文鮮明氏が右翼の大物の児玉誉士夫氏、笹川良一氏と富士五湖の本栖湖で会談して、70年安保をまじかに控えて高まりを見せる反対運動に対抗すべく反共団体を設立することで合意。そして、その翌年、統一教会の政治団体である国際勝共連合が日本でも設立され(韓国では前年に設立)、会長に統一教会の日本支部会長の久保木修己氏、名誉会長に笹川良一氏が就いたのでした。その裏には、統一教会の日本進出(1964年東京都が宗教法人として認可)に尽力した岸信介元首相のお膳立てがあったと言われています。その頃から、統一教会の日本の政界への浸透が本格的にはじまるのでした。

どうして日本に反共団体を作るのに、韓国の宗教団体の教祖が主導的な役割を果たすのか。そこにも戦後保守政治やそれに連なる戦後右翼の歪んだ姿が露わになっているように思います。

戦後政治を考える場合、どうしても日米関係ばかりに目が行きがちですが、隣の韓国との”奇妙な関係”も視野に入れるべきでしょう。もちろん、韓国との関係の背景に、当時のアメリカの東アジア戦略が伏在しているのは言うまでもありません。

韓国では1963年、日本の陸軍士官学校出身の朴正煕がクーデターを決行し、以後1979年まで軍事独裁政権を続けたのですが、国際勝共連合も軍事独裁政権下のKCIA(大韓民国中央情報部)の要請で作られたという説があります。

朴政権は日帝の植民地支配の記憶がまだ色濃く残っている中で、「反日」を演じながらその裏では岸信介氏ら日本の保守政治家と癒着して、日韓基本条約で対日請求権の放棄に伴って供与されることになった5億ドル(当時は1ドル360円)の経済支援=「経済協力金」をめぐる利権を築いたと言われています。経済支援は、最終的には借款等も併せて11億ドルにものぼったそうです。

そういった表では「反日」、裏では買弁的な「親日」を使い分けるヌエのような関係が、日本の戦後政治にさまざまな闇をつくったと指摘する声もあります。統一教会の日本の政界への浸透を許すことになったのも、そのひとつと言えるでしょう。

このように統一教会をめぐっても、「愛国」と「売国」が逆さまになった”戦後の背理”が如実に示されているのでした。こんなことを言っても今の日本人には馬の耳に念仏かもしれませんが、この国を蝕む獅子身中の虫は誰なのか、「愛国」を口にする人間たちはホントに愛国者なのか、もう一度考えてみる必要があるでしょう。それは、安倍元首相の死に対する言説でも同じです。
2022.07.17 Sun l 社会・メディア l top ▲
今朝、テレビを点けたら、「モーニングショー」で統一教会の特集をやっていて、金沢大学教授の仲正昌樹氏がリモートで出ていたのでびっくりしました。仲正氏は社会思想史の研究家ですが、昔から新書もよく出しており、雑誌などでもわかりやすい文章を書いていたので、私は比較的早い頃から読んでいました。

仲正昌樹氏が過去に統一教会に入っていたことは私も知っていました。自分でそのときのことを書いていたのを読んだ記憶があります。ハンナ・アーレントについて啓蒙的な文章をよく書いているのも、統一教会の体験と関係があるのかもしれないと思ったこともありました。でも、まさかテレビに出て、自分の学問とは直接関係ない”黒歴史”のことを話すとは思ってもみませんでした。

ただ、自分でも言っていましたが、仲正氏の場合、その性格ゆえか懐疑的な部分を完全に払拭できないまま信仰生活を送っていたみたいなので、完全にマインドコントロール下にあったとは言い難く、テレビで扱う事例としてはあまり参考にならないかもしれません。

私の高校時代の同級生にも、仲正氏と同じように東大で統一教会に入信し合同結婚式で外国人女性と結婚した人間がいます。あるとき、別の同級生から、同級生で彼の結婚をお祝いする会を開きたいという連絡が来ました。それで私は、「何言ってるだ、統一教会じゃないか」「どうして俺たちが信者の結婚をお祝いしなければならないんだ」と差別感丸出しで怒鳴りつけ、以来同級会には行っていません。風の噂に聞けば、彼はその後大学教授になったそうです。

私たちの年代は、桜田淳子の合同結婚式をきっかけにメディアを席捲した統一教会のキャンペーンを知っていますので、統一教会に対してはある程度の”免疫”がありました。駅頭でまるで憑かれたように「統一原理」の理論を延々と語っている若者の姿をよく見かけましたし、夜遅くアパートに北海道の珍味を売りに来た風体が怪しい若者とトラブルになったこともありました。

当時は私たちの身近にも統一教会の影が常にチラついていたのです。海外のポストカードやポスターを輸入する会社に勤めていた頃、すごく買いっぷりのいい顧客がいました。いつもまとめて大量に買ってくれ、しかもニコニコ現金払いでした。しかし、都内の会社だったのですが、FAXと電話でやりとりするだけで一度も会ったことがありません。それで、一度ご挨拶に伺いたいと電話したところ、「いや、結構です」とにべもなく断られました。

それから数年経ち、私も転職していたのですが、週刊誌を見ていたら、ある記事の中にその会社と電話した担当者の名前が出ていたのを偶然目にしたのでした。

それは、保守系の国会議員のスキャンダルに関する記事だったのですが、その中で、議員が統一教会の影響下にあり、秘書も統一教会から派遣された人間で占められているというような内容のことが書いていました。そして、議員を取り込む工作をした中心人物として、得意先であった会社と担当者の名前が上げられていたのでした。記事の中でも、私が納めた商品が額に入れられてセミナー会場などで数万円で販売されていると書かれていました。でも、私が納めたのは1枚千円にも満たない商品です。何のことはない、得意先の会社は統一教会のフロント企業だったのです。

また、同じ頃だったと思いますが、当時交際していた女性のお父さんが病気で急死したという出来事がありました。彼女の実家は、JRのターミナル駅の近くにあって、数億円の資産価値があると言われていました。

ある日、彼女が「最近、変なおばさんが家によく来ている」と言うのです。今まで見たこともない人なので、どこで知り合ったのかお母さんに訊いたら、道で声をかけられてそれから親しくなった、と言うのだそうです。それを聞いた私はピンと来て、「そのおばさん、もしかしたら統一教会かも知れないよ」と言いました。「一回、たしかめた方がいいよ」と。

それから数日後、彼女から電話がかかってきて、「やっぱり、統一教会だった」と言うのです。お母さんに私から言われたことを話したら、お母さんがおばさんに「あなた、もしかしたら統一教会じゃないでしょうね」と問い詰めたそうです。すると、おばさんはお母さんの権幕に気圧されたのか、「ごめんなさい、統一教会です」とあっさり認めたということでした。

恐らく道で声をかけたのも偶然ではなく、家の資産やそのときの家庭状況も把握した上で接近して来たに違いありません。どこかでそういった情報を手に入れているのでしょう。

その頃、統一教会のキャンペーンは、合同結婚式から霊感商法などへ拡大しており、大学では統一教会の名を伏せたダミー団体を使って学生を勧誘したり、街角でも手相などの占いを餌に声をかけてセミナーに誘うという統一教会の活動が次々と可視化されていました。だから、そのときもピンと来たのだと思います。

しかし、ほどなく発生した地下鉄サリン事件など、オウム真理教の一連の事件によってメディアもオウムの方に関心が移り、統一教会はいつの間にか「忘れられた存在」になったのでした。そのため、今は”免疫”どころか、統一教会について何の予備知識もない若者も多いそうです。しかも、統一教会は、分裂騒ぎもあって教団名を変えているのです。昔の統一教会のことを知らない若者が増えたということは、教団にとって好都合であるのは間違いないでしょう。そのための改名だったという話もあるくらいです。

今回の銃撃事件で、「暴力は民主主義の敵」「暴力に屈してはならない」「民主主義を暴力から守ろう」というような常套句が飛び交っていますが、しかし、考えてみれば、銃撃事件がなければ、これほど統一教会のことが取り上げられることはなかったのです。

元首相を銃撃する「許されざる暴力」があったからこそ、統一教会というカルト宗教の問題、特に日本の政界に深く食い込んでいる憂慮すべき問題が再び可視化されつつあるのです。怪我の功名と言ったら不謹慎かもしれませんが、もし今回の銃撃事件がなかったら、統一教会は「忘れられた存在」のままだったでしょう。

私たちは、今回の事件で、言論では微動だにしなかったものが暴力だと簡単に動かすことができるという、この社会の本質とも言える脆弱性を見せつけられたと言っていいかもしれません。同時に、「許されざる暴力」という規範や「話せばわかる」という幻想が、この社会から疎外された人たちにとっては、単なる”不条理”にすぎないことも知ったのでした。今回の事件で「暴力の連鎖」を懸念する声が出ていますが、これほど赤裸々に暴力のインパクトを見せつけられると、それもまったくの杞憂だとは言えないように思います。

どんな立派な意見も、最初に「もちろん暴力がいけないことは言うまでもありませんが」とか「容疑者がやったことは許されることではありませんが」という枕詞(断り)を入れると、途端に「きれいごと」のトンマな言説に見えてしまうのも、暴力のインパクトがあまりにも大きかったからでしょう。自業自得とは言え、言論は為すすべもなく戯画化されているのです。
2022.07.15 Fri l 社会・メディア l top ▲
知り合いの話では、東京タワーが安倍元首相追悼のために真っ暗になっていたそうです。「びっくりした」と言っていました。それで、ネットで確認したら、株式会社TOKYO TOWERのサイトに次のようなプレスリリースがアップされていました。

東京タワーは本日(7/9)、安倍晋三元首相に哀悼の意を表し、ライトアップを消灯して喪に服します。

株式会社TOKYO TOWER
2022年7月9日 15時45分

東京タワーは7月9日(土)、多大な功績を残された安倍晋三元首相に哀悼の意を表し、終日、ライトアップを消灯して喪に服します。

尚、足元については観光でお越しのお客様の為ライトアップを点灯致します。

ご理解いただきますよう、よろしくお願い致します。


いくら追悼とは言え、ここまで来ると異常としか言いようがありません。それは東京タワーだけではありません。新聞やテレビなども、まるで独裁者が亡くなったかのように、歯の浮いたような賛辞のオンパレードなのでした。

安倍元首相は毀誉褒貶の激しい政治家だったのは衆目の一致するところです。それをすべて賛美や美化に塗り変えるのは、もはや言論の死と言っても過言ではないでしょう。死人を鞭打つのかと言われるかもしれませんが、死してもなお毀誉褒貶に晒されるのが政治家でしょう。民主国家ならそうあるべきでしょう。

今回の事件を「民主主義に対する挑戦」「自由を封殺する行為」と非難し、社説で「言論は暴力に屈しない」と表明していながら、メディアはみずからで言論を封殺しているのでした。これでは、私たちは警察が描いたストーリーの方向に誘導されているのではないか、という不信感さえ抱いてしまいます。

山岡俊介氏のアクセスジャーナルに次のような記事が出ていました。

アクセスジャーナル
安倍氏に批判的なジャーナリストも洗う? 本紙・山岡の出入り先に警視庁捜査員

山岡氏が一時事務所として使っていた建物の管理人室に刑事が訪れ、そこの住所が印刷された昔の山岡氏の名刺を出して、「(山岡氏は)ここの部屋を使っているかと聞いて来た」そうです。

「今回の安倍氏銃殺を機に、警察庁(中村格長官)の方から安倍氏に批判的な者、それもジャーナリストを徹底的に洗えとの指示が出ている」そうなので、「“私文書偽造”など、何でもいから微罪でいちゃもんを付けようと動いている可能性もあるのではないか」と書いていましたが、私は記事を読んで、そうではなく、警察はまだ”政治テロ”の線を捨てていないのではないかと思いました。

山岡氏が別の動画で言っていましたが、山上徹也容疑者が右翼団体に出入りしていたという話もあるそうです。山上容疑者は前日は新幹線で岡山の遊説先まで行ったことがわかっています。韓鶴子氏の代わりにしては、かなり執拗に安倍元首相を付け狙っていたことがわかります。それに、前も書きましたが、当日の山上容疑者の行動には相当な覚悟すら感じます。あの用意周到さと冷静沈着さは、警察が発表する供述とどこかそぐわない気がしてならないのです。

もとより、韓鶴子氏の代わりなら他の教団幹部をターゲットにしてもおかしくないでしょう。日本支部の幹部でもいいはずです。集会で挨拶するビデオを見たからと言って、どうして安倍元首相だったのか、どうしてそこまで”飛躍”したのか、という疑問は残ります。

山岡氏は、下関市長選に絡んで(山口の)安倍元首相の自宅に火炎瓶が投げ込まれた放火未遂事件をスクープしていますし、最近も、13年間安倍元首相の私設秘書を務めた経歴を持ちながら、先の参院選に立憲民主党の山口選挙区から立候補して話題になった秋山賢治氏の自宅やその周辺に、糞尿がまかれる事件があったこともあきらかにしていました。

このように安倍元首相周辺ではきな臭い事件も起きていたので、警察はそういったことに関連して聞き込みをしていたのではないでしょうか。

旧統一教会との関係もそうですが、安倍元首相は、祖父や父親の代からの縁もあって、地元では在日朝鮮人実業家などと深い関係があるのはよく知られています。青木理氏の『安倍三代』(朝日新聞出版)にも書かれていますが、山口県下関市にある安倍元首相の自宅や事務所も、パチンコで財を成した地元の在日朝鮮人実業家から提供されたものなのです。その政治姿勢や言動を考えると信じられないかもしれませんが、地元の総連系の朝鮮人で安倍元首相の悪口を言う者はほとんどいないそうです。

旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)は、教祖の文鮮明氏亡きあと、未亡人の韓鶴子氏と子どもたちの間で後継者争いが起きて、韓鶴子氏と三男と四男・七男が対立し、四男・七男が「サンクチュアリ協会」を設立しました。日本にも支部がありますが、アメリカの「サンクチュアリ協会」は、トランプ派によるホワイトハウス占拠事件にも関わっているような過激な団体で、占拠事件の際、七男の文亨進氏も現場にいたそうです。

聖書のヨハネの黙示録に出て来る「鉄の杖」は銃を指していると解釈する「サンクチュアリ協会」は、半自動小銃を信奉しており、合同結婚式にも小銃を携行するように呼びかけているくらいです。

折しも設立者の文亨進氏が先月から来日しており、今も日本に滞在中で各地で集会を開いているそうです。

文亨進氏の来日については、下記に詳しく書かれています。

ディリー新潮
統一教会から分派「サンクチュアリ教会」指導者が来日 文鮮明7男は集会でアブナイ発言を連発

いわゆる「信仰二世」の山上容疑者は、幼い頃は母親に連れられて統一教会に通ったのは間違いないでしょう。そのあと脱会したのかどうか。また、統一教会の分裂の際、山上容疑者と教会はどういう関係だったのかなど、気になる点はいくつもあります。

警察も自分たちが描いたストーリーに沿った情報を小出しにしながら、それとは別に、事件の洗い直しを行っているのかもしれません。

尚、前の記事で、実兄が自殺して本人も海上自衛隊時代に自殺未遂したと書きましたが、「ディリー新潮」によれば、父親も自殺だったそうです。しかも、父親が亡くなったので母親が宗教にのめり込んだと言われていますが、そうではなく、母親が統一教会の前に別の宗教にのめり込んでいたのが原因で父親が自殺したと記事には書かれていました。父親が京大卒だったというのにも驚きました。山上容疑者が学業優秀だったというのもわかった気がしました。
2022.07.14 Thu l 社会・メディア l top ▲
私は山に着て行く服はパタゴニアが多く、特にこの季節はズボンもTシャツもパタゴニアです。雨具もパタゴニアです。ザックは、大小ともにパタゴニアのものを使っています。このようにいつの間にか”歩くパタゴニア”みたいになっているのでした。

パタゴニアの商品は少し値段が張りますが、パタゴニアを使っていると環境にやさしいことをしているみたいな気分になるので、”気分料”みたいなものだと割り切って買っています(ホントは大きなサイズが揃っているからですが)。山に登るなら環境のことを考えなければならない。そういった強迫観念みたいなものがありますが、そこをパタゴニアにうまく突かれているような気がしないでもありません。もっとも最近は、外国のアウトドアメーカーはどこもリサイクル素材を使ったりと、環境に配慮するのがトレンドになっています。

パタゴニアの製品自体は特に優れていると思ったことはありません。逆にちゃちなと思うことすらあります。

先の参院選に際して、パタゴニアの公式サイトに掲げられた次のような呼びかけも、他のメーカーのサイトではなかなかお目にかかれないものでしょう。

パタゴニア(Patagonia)
VOTE OUR PLANET

私たち人間は、健全な地球とそれを基盤とした社会がなければ生きられません。
近年顕著な気候危機とともに、私たちは人間、動物、生態系の健康がつながっていること、地球の生物多様性の破壊や生態系の損失は、経済にも大きな影響を与えることを知りました。

私たちには、自然に根差した解決策をもって、社会構造を大胆かつ公正に変化させようとするリーダーが必要です。

政治に関心がなくとも、関係なくはいられません。
私たちそれぞれにとって大切な何かとともに生きるために、行動しましょう。


そんな意識高い系から支持されているパタゴニアですが、一昨日の朝日に次のような記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
「パタゴニア」パート社員ら労組結成 雇用「5年未満」見直し求める

それは、パタゴニアの店舗で働くパート社員や正社員ら4人が、「不更新条項」の撤廃を求めて労働組合を結成したという記事でした。2013年に改正された労働契約法では、非正規労働者が同じ会社で通算5年を超えて働いた場合、本人が希望すれば無期雇用に転換できるという「5年ルール」が設けられたのですが、それに対して「雇用期間を制限し、無期転換できないようにする『不更新条項』を設ける企業」もあり、パタゴニアも例外ではなかったのです。

アパレル業界では、ファストファッションの台頭によって、委託先の工場がある発展途上国では、低賃金・長時間労働・使い捨て雇用といった劣悪で過酷な労働環境が問題になっていますが、そんな中でパタゴニアはいち早くフェアトレードの方針を打ち出し、環境にやさしいだけでなく労働者にもやさしい会社のイメージを定着させたのでした。

ところが、足元の職場では法律のすき間を利用して労働者に不利な条項を設けるような、資本の論理をむき出しにした”普通の会社”であることが判明したのでした。

環境にやさしい、身体にやさしいというオーガニック信仰は、思想としてはきわめて脆弱で、手軽でハードルも低く、そのため、意識が高いことをアピールする芸能人などの間では、一種のファッションとして流通している面もあります。

しかも、ヨーロッパでは既に「エコファシズム」という言葉も生まれているように、そういった純潔なものを一途に求める思考は、ややもすればナチスばりの純血主義のような思考に行き着いてしまう危険性もあるのです。

古谷経衡氏は、Yahoo!ニュース(個人)で、今回の参院選の比例区で176万3429票を集めて1議席を獲得し、選挙区・比例区ともに得票率2%をクリアして政党要件を満たした参政党をルポしていましたが、その中で、参政党の躍進が意識高い系の人たちのオーガニック信仰に支えられていることを指摘していました。

Yahoo!ニュース個人
参政党とは何か?「オーガニック信仰」が生んだ異形の右派政党

参政党は、1.子どもの教育、2.食と健康・環境保全、3.国のまもりを三つの重点政策として掲げていますが、特に2と3が両翼の政党だと言われています。3を具体的に言えば、「天皇を中心とした国家」「外国資本による企業買収や土地買収が困難になる法律の制定」「外国人労働者の増加を抑制し、外国人参政権を認めない」というような多分に右派的な主張です。

しかし、古谷氏は、どちらかと言えば2が「主」で3は「従」みたいな関係にあると言っていました。

古谷氏は同党の街頭演説などに出向いて、数多くの「定点観測」をしたそうですが、その中で、中心メンバーのひとりである歯科医師の吉野敏明氏の次のような演説に、参政党が意識高い系の人たちに支持される秘密が隠されていると書いていました。

…悪性リンパ腫に限らずですよ、白血病とかでも限らず、普通のがん、骨肉腫もそうです。まず(甘いものを)やめなきゃいけない。

結局は甘いものは何もかもダメなんです。人工甘味料でもダメなんです。蜂蜜もだめなんです。(中略)これらのものに加えてもっと強い発がん物質である食品添加物。


セブンイレブンの何とかハンバーグって、和風ハンバーグとかってなるでしょ。(中略)ところが100g98円とかで売ってるわけ。ありえないでしょ。どうやったら安くなるんですか。

 それは、クズ肉を使うしかない。本来だったら廃棄処分にする。例えば死んだ豚とか。ね。あるいはそもそも全部内蔵取っちゃったあとの余ってる部分の、豚の顔とか牛の顔とか、或いは糞便が詰まってる普通使わない大腸とか。こういうとこを使うわけですよ。そういうのを使うと凄いにおいがします。食品添加物が臭いを消すんです。においを消したらハンバーグっぽい味にしなきゃならないから、合いびき肉だから、豚のエキスとか牛のエキスとか、食品添加物だからそれっぽい味を出すわけです。


一番いけないのはコンビニの弁当とかを、電子レンジでチーンってやって、みそ汁代わりにカップヌードルを飲んでるとかなんだか、中にコーディングしてるわけでしょ、毒の水をわざわざ毒性を強くして、電子レンジで化学反応を起こして食べてる。ていう人たちががんになってるの。もう全員って言っていい、もう。


もちろん、古谷氏も書いているように、どれも科学的根拠があるわけではなく、陰謀論というか都市伝説みたいなものです。それは、「日本版Qアノン」と言われた新型コロナウイルスについての主張も同様です。

しかも、国立ガンセンターなど専門機関が(すべて原因がわかっているのに)公表しないのは、日米合同委員会や国際金融資本による圧力や情報操作があるからだと主張するのでした。

古谷氏は、演説の中で唐突に日米合同委員会や国際金融資本の話が出て来ることについて、次のように書いていました。

(略)だがこれは何ら不自然ではない。

「混じりけのない純粋なる何か」をそのまま延長していくと、「日本は純血の日本民族だけが独占する、混じりけのない国民国家であるべきだ」という結論に行きつくのは当然の帰結だからだ。


このようにオーガニック信仰が持っている純潔主義が、(民族の)純血主義、そして国家主義へと架橋されるメカニズムを指摘しているのでした。

(略)熱心な参政党支持者の人々は、驚くほど政治的に無色であり、むしろ参政党支持以前には政治自体に関心がほとんどないような、政治的免疫が全く無いような人々が多い。でいて自然食品や有機野菜などを好んで摂取する、消費者意識の高い比較的富裕な中高年や、自分の子供に食の安全を提供しよう思っている女性層が、あまりにも、驚くほど多い。

 それまでヨガ教室に熱心に通い、自然食品を愛好し、個人経営の自然派喫茶店が行きつけである、とフェイスブックに書いていた人が、ある日突然、参政党のYouTubeに感化されシェア・投稿しだす。それまでインド等の南アジアを放浪し、自然の偉大さや神秘に触れる感動的な旅行記を寄稿していた人が、ある日突然、参政党のYouTubeに感化され…。このような事例は観測するだけで山のようにあるし、私の周辺にも極めて多い。


従来、「環境・エコロジー」は左派リベラルの専売特許でした。反戦や人権や多元主義とセットで論じられることが多かったのです。ただ一方で、『古事記』でも「倭は 国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる 倭し麗し」と謳われているように、「環境・エコロジー」はもともと右派のテーマではないのかという声があったこともたしかです。参政党は、荒唐無稽でカルトな面はあるものの、初めてそれを前面に出して、有権者に認知された右派政党と言えなくもないのです。

私は、日本のトロッキズム運動の先駆者だった太田竜が、アイヌ解放論者から自然回帰を唱えるエコロジー主義者になり、さらにユダヤ陰謀論者から最後はウルトラ右翼の国粋主義者へと、めまぐるしく転向(?)していった話を思い出しましたが、今にして思えば彼の”超変身”も支離滅裂なことではなかったと言えるのかもしれません。

辺野古の基地建設反対運動をしていた女性に久し振りに会ったら、参政党の支持者になっていたのでびっくりしたという話がネットに出ていましたが、あり得ない話ではないように思います。

これは蛇足ですが、私たちは、政治のような”大状況”より日々の生活の”小状況”の方が大事です。それは当たり前すぎるくらい当たり前のことです。多くの人たちは、”大状況”なんてあまり関心もないでしょう。でも、カルトやそれと結びついた政治は、私たちの”小状況”の中に巧妙に入り込んできて、無知なのをいいことに彼らの”大状況”に誘導し引き込んでしまうのです。
2022.07.13 Wed l 社会・メディア l top ▲
参院選挙は文字通り空しくバカバカしいお祭りで終わりました。

自民党は単独で改選過半数を越えたばかりか、寄らば大樹の陰の「改憲勢力」も3分の2を越え、改憲の発議も可能になったのでした。このように、少なくとも次の国政選挙がある3年後まで、絶対的な数を背景に「やりたい放題のことができる」環境を手に入れたのです。文字通り「大勝」の一語に尽きるでしょう。

もっとも、この選挙結果は大方の予想どおりだったとも言えるのです。メディアの事前の予想も、ここまで自民党が大勝するとは思ってなかったものの、与党が過半数を越えるのは間違いないという見方で一致していました。

これもひとえに野党、特に野党第一党の立憲民主党のテイタラクが招いた結果だというのは、誰の目にもあきらかです。厳しい状況だとわかっていたにもかかわらず、執行部は野党共闘からも背を向け、漫然と(敗北主義的に)選挙戦に突入したのでした。

ところが、開票後の記者会見で、泉健太代表は辞任するつもりはないと断言しています。その無責任な感覚にも唖然とするばかりです。3年後も与党の勝利に手を貸すつもりなのか、と思いました。

そもそも労使協調で業界の利害を代弁するだけの、文字通り獅子身中の虫のような大労組出身の議員たちをあんなに抱えて、何ができるのでしょうか。彼らは、間違っても労働者の代表なんかではないのです。

私は、旧民主党は自民党を勝たせるためだけに存在しているとずっと言い続けてきましたが、とは言え、まさかここまであからさまに醜態を晒すとは思っても見ませんでした。

「野党は批判ばかり」というメディの批判を受けて、泉代表は「提案型野党」という看板を掲げ(そうやってみずからずっこけて)、野党としての役割を実質的に放棄したのでした。そのため、先に閉幕した第208回通常国会では、1996年以来26年ぶりに政府が提出した法案61本が全てが成立するという、緊張感の欠けた国会になったのです。これでは野党がいてもいなくても同じでしょう。

90年代の終わり、メディアは55年体制の弊害を盛んに取り上げていました。何故なら、自民党の支持率の長期低落と(旧)社会党の労組依存による退潮がはっきりとしてきたからです。つまり、彼らが支配してきた議会政治にほころびが生じ始めたからです。そのため、既存政党の、特に野党の再編(立て直し)の必要に迫られたのでした。それを受けて、小沢一郎などが先頭に立ち、野党の支持基盤である労働戦線の右翼的統一を手始めに、小選挙区制と政党助成金制度をセットにした「政権交代のできる」二大政党制の実現に奔走(ホントは暗躍)、その結果「連合」と民主党が誕生したのでした。あれから20数年経った現在、見るも無残な野党の劣化を招き、一方で、選挙を「金もうけ」と考えるような政党まで輩出するに至ったのです。少なくとも政党助成金制度がなかったら、NHK党のような発想は生まれなかったでしょう。

さらにメディアは、今度は「批判ばかりの野党」キャンペーンを展開して野党の骨抜きをはかり、巨大与党の誕生を後押ししたのでした。

津田大介氏は、今回の選挙結果について、朝日のインタビュー記事で次のように語っていました。

朝日新聞デジタル
この10年変わらぬ選挙構図、続く低投票率 津田大介さんが見た絶望

自民、公明の両党が全体の4分の1の得票を得て大勝する。この大きな構図は直近10年間の国政選挙と変わっていない。ただ、安倍元首相に対する銃撃事件があってなお低投票率が続き、NHK党、参政党といった新興政党が議席を確保した2点からは、有権者の既存政党に対する絶望感が見えてくる


(略)投票に行った有権者のなかにも既存政党に対するあきらめが漂っていた。こうした人々の不満を巧みなマーケティングとネット戦略ですくいとったのが、参政党とNHK党だった。


 今回の参院選は、ネット選挙が本格化する嚆矢(こうし)となっただろう。良くも悪くも注目を集めてアクセス数を増やしてお金を集める。そんな「アテンションエコノミー」とも呼ばれる手法の有効性が示された。既存政党への不満が最高潮に達する中、不満を吸い取ることに特化した新興政党が出てくることに対し、既存政党側も対策をとり、ネットを積極的に活用していく必要があるだろう。


そして、最後にいつもの常套句を持って来ることを忘れていません。

 もちろん有権者にとっても投票する際の判断材料が増え、見極める力が問われる。自分で情報を集めて精査し、判断する人が増えることで有権者の投票の質が高まる。そのことが投票率の向上にもつながり、政治への信頼を高めることにもなる。


ビジネス用の言説なのか、ホントにそう考えているのかわかりませんが、こんな生ぬるい駄弁を百万編くり返しても何も変わらないでしょう。この国の議会制民主主義は、もはや「絶望」するレベルを越えているのです。与党か野党か、保守かリベラルか、右か左かのような、非生産的で気休めなお喋りをつづけても何の意味もないのです。無駄な時間を費やして日が暮れるだけです。

バカのひとつ覚えのように何度もくり返しますが、今、必要なのは「上」か「下」かの政治です。求められているのは、「下」を担う政党(政治勢力)です。そのためには、ヨーロッパで「下」の政治を担っている急進左派や極右が示しているように、ネットより街頭なのです。

やはり、お金の問題は大きいのです。安倍元首相銃撃事件の犯人が抱えていた疎外感や怨恨も、 シングルイシューのポピュリズム政党に拍手喝さいを送る人々のルサンチマンも、根本にあるのはお金の問題です。そして、言うまでもなく、お金の問題は「上」か「下」かの問題でもあります。「働けど働けど猶わが暮らし楽にならざりぢっと手を見る」と謳った石川啄木が、アナキズムにシンパシーを抱いたのもゆえなきことではないのです。このままでは「最低限の文化的な生活を営む」こともままならない人々は、ファシズムに簒奪されてしまうでしょう。

泉代表だったか誰だったかが、選挙戦で物価高の問題を訴えたけど、有権者にそこまで切実感はないみたいで訴えが響いたようには見えなかった、と言ってましたが、それは物価高でもそれほど困ってない人たちに訴えていたからでしょう。今の野党は「中」を代弁する政党ばかりです。耳障りのいい政策を掲げて、そのクラスの有権者を与党と奪い合っているだけなのです。
2022.07.11 Mon l 社会・メディア l top ▲
私は、石原慎太郎と安倍晋三とビートたけし(北野たけし)が大嫌いですが、昨日、突然舞い込んできた安倍晋三元首相殺害のニュースには、びっくり仰天しました。

昼寝をしていてふと目を覚ましたら、点けっぱなしになっていたテレビから、奈良市内で参院選の応援演説していた安倍元首相が銃撃され、心肺停止になっているというニュースが目に入り、飛び起きてしまいました。

犯人は同じ奈良市内に住む41歳の元海上自衛隊員だそうで、しかも使われた銃が、鉄パイプに黒いビニールテープを巻いた手製だったというのにも驚きました。

夜になると、テレビ東京を除く東京のキー局は通常の番組を取りやめて、いっせいに安倍氏死去の報道特別番組をやっていました。出演するアナウンサーなどは黒い喪服のようなものを着て、沈痛な表情で事件の経緯や安倍氏の政治的な功績を伝えていました。

それは既存メディアだけではありません。ネットでも、「民主主義に対する挑戦だ」と既存メディアと同じセリフで今回の犯行を非難しているのでした。そして、いつの間にか、下手なことを言えば「不謹慎だ」として炎上しかねないような空気に覆われていたのでした。ホリエモンに至っては、日頃の”マスゴミ批判”はどこへやら、Twitterで「反省すべきはネット上に無数にいたアベカー達だよな。そいつらに犯人は洗脳されてたようなもんだ」などとトンチンカンなネット批判をする始末でした。

警察発表によれば、犯人は、政治信条とは関係なく、家族をメチャクチャにした宗教団体と関係がある元首相に恨みを持ち殺意を募らせた、と供述しているそうです。だとすれば、政治テロと言うには無理があるように思いますが、ただ、ジャーナリストの一部には、あの用意周到さと冷静沈着さと捨て身の覚悟に、政治テロの可能性も捨てきれないという見方も残っているようです。

たしかに、これほどの重大事件なのですから、情報が厳重に管理されているのは間違いないでしょう。昭恵夫人が病院に到着して数分後に亡くなったというのも、到着まで死亡確認を待っていたのかもしれません。

一方で、犯人の人生を考えると、あそこまで殺意をエスカレートした裏に、やはり”上と下の問題”があるように思えてなりません。元海上自衛隊員と言っても20代前半の3年間だけで、最近は家賃38000円のワンルームマンションにひとりで暮らし、派遣の仕事で生活を支えていたそうです。職場の人たちも、大人しくて孤独な印象だった、と口を揃えて証言しているのでした。

大物政治家の家系に生まれて上げ膳据え膳で大切に育てられ、おせいじにも優秀だったとは言えないボンボンだったにもかかわらず、周りが敷いたレールに乗って、とうとう総理大臣にまで上り詰めた元首相。父親の死をきっかけに母親が統一教会に入信して経済的に破綻した末に、家族の関係も崩壊して大学進学も断念し、人生設計をくるわされた犯人(この記事のあとにアップされた文春オンラインには、実兄が病気を苦に自殺、本人も海上自衛隊時代に自殺未遂したと書かれていました)。そんな二人を対比すると、私には不条理という言葉しか浮かびません。文字通りこの世に神はいないのかと思ってしまいます。

ちなみに、事件の発端になった統一教会(現在は「世界平和統一家庭連合」と改名)は、霊感商法と合同結婚式で知られた韓国に本部があるカルト宗教で、安倍元首相が同会と深い関係があるのは衆知の事実でした。昨年の系列団体のイベントでもリモートで挨拶しているくらいです。犯人が元首相を逆恨みしたのも故なきことではないのです。

事件直後、ひろゆきは下記のように、今まで蔑ろにされ社会から疎外された人たちの多くは自殺を選んできたけど、これからは「他殺」を選ぶ人間も出てくるのではないか、とツイートしていましたが、ホリエモンなどに比べれば的を射た発言のように思いました。


さらに話を飛躍させれば、社会から疎外された人たちの声を代弁する「下」の政治(政党)が不在な中で、今回の犯人も含めて彼らは、政治的イデオロギーとは別の回路でこの社会の矛盾や不条理に突き当ったとも言えるのです。その結果として、個人的なテロがあるのではないか。

誤解を怖れずに言えば、フランスをはじめヨーロッパでは「下」の政治を極右や急進左派が担っているのですが、日本ではカルト宗教がその代わりを担っていると言えなくもないのです。もちろん、それは餌食にされているという意味です。参院選の応援演説の場で犯行が行われたのも、まったく機能していない政治に対する「下」からのメッセージのようにも私には思えました。

これだけ監視カメラが街中に設置され徹底した監視が行われていても、「暴力は民主主義の敵だ」というような「話せばわかる」民主主義の幻想が振り撒かれても、死や逮捕を覚悟した個人的なテロを防ぐことはできないように思います。「ロンリーウルフ型テロ」という言葉があるそうですが、まさかと思うような人間が政治的イデオロギーとは関係なくテロを実行するような時代になっているのです。今回の事件も特殊な例だとはとても思えません。


※「宗教団体」を実名に直しました。
※内容を一部書き直しました。


関連記事:
『安倍晋三 沈黙の仮面』
薄っぺらな夫婦 青木理『安倍三代』
たったひとりの”階級闘争”
2022.07.09 Sat l 社会・メディア l top ▲
これは私の勝手な妄想なのですが、このブログでGoogleの悪口を書き始めた頃から、ブログのアクセス数が目に見えて減少したように思います。と言うと、ブログの質が落ちたからじゃないか、最近は、床屋政談のような時事問題ばかり扱っているので、検索でヒットしなくなったのは当然だ、という辛辣な声が返って来るかもしれません。ただ、今の私は、かように被害妄想を抱くほど、Googleに対しては不信感しかありません。

Web2.0の黎明期の16年前、私はこのブログで、Googleのことを半分皮肉を込めて「あらたな神」と書きましたが、その後、Googleは、かの有名な「Don't be evil」という行動規範をこっそり削除していたことがわかりました。今、私たちがGoogleに抱いているイメージも、神というより独裁者に近いものです。

検索で上位に表示されるものほど、内容のすぐれたものだとホントに言えるのでしょうか。そもそもAIは、公平で客観的な評価軸を持っているものなのでしょうか。でも、現実は欧州委員会も指摘しているように、ECサイトの「おすすめ順」と同じで、広告を出稿したりとGoogleに都合のいいサイトが上位に表示されるケースも多いのです。

千葉大学大学院教授で、科学史や科学技術社会論が専門の神里達博氏は、朝日新聞デジタルで、次のようなエピソードを紹介していました。

朝日新聞デジタル
ブラックボックスの「ご託宣」 アルゴリズムの透明性が欠かせない

 今月、米国のIT企業グーグルのエンジニア、ブレイク・ルモイン氏が、同社が開発した対話型のAI(人工知能)「ラムダ」に、感性や意識が芽生えたと主張している、と報じられた。

 まるでAIに魂が宿ったかのようだが、それは錯覚である。要するにこのシステムは、テキスト情報のビッグデータを元に、人間の会話のパターンを学習し、やりとりを模倣する仕組みに過ぎないからだ。


AIは「artificial intelligence」の略ですが、それを直訳すれば「人工知能」です。私たちもまた、この「人工知能」という言葉に惑わされ、上記のGoogleのエンジニアと同じように、AIに幻想を抱いているのではないでしょうか。

先日、アマゾンで、代金を払ったものの商品が届かない不正なサイトにひっかかり、アマゾンと返金交渉を行いました。以前とシステムが変更になったみたいで、カスタマーセンターに問い合せると、まずAIとチャットを行なうように指示されました。

「AIチャットボット」と名乗っていましたが、何のことはない問答集を自動化したものにすぎず、「人工知能」とはほど遠いものでした。そのため、チャットをしているとイライラして来るのでした。

最後に「解決しない」を選ぶと、今度は生の人間とチャットができるのですが、しかし、一旦チャットを終えたあと、確認したいことがありカスタマーセンターに再びアクセスすると、また最初から「AIボット」相手に同じ問答をくり返さなければ前に進まないのでした。何だか「AIボット」におちょくられている感じで、イライラが募るばかりでした。

挙げ句の果てに、AIの次に出た中国名の担当者も、「AIボット」と似たような問答をくり返すだけで、私は最初、AIなのか人間なのかわからず戸惑ったくらいでした。彼女?たちもまた、マニュアルどおりの(常套句を並べるだけの)返答を行なうように訓練されているのでしょう。

AIが人間の知能や知性を凌駕する「シンギュラリティ」が2045年頃にやって来ると言う人がいますが、そのことについて、神里達博氏は次のように書いていました。

 かつて米国の哲学者ジョン・サールは、人工知能を「弱いAI」と「強いAI」に区別して考察した。前述のラムダや、囲碁のAIなども含め、現在実現しているAIは全て前者である。一方で後者は、感性や意識、自我や感情などを持つAIのことを指す。「ドラえもん」のように人間の友達になったり、逆に「ターミネーター」のように人類の脅威になったりするのは「強いAI」だ。

 結論としては、「強いAI」は現在も、どうすれば実現できるのか、その端緒すら見えていない。また、そもそも原理的に可能なのかという点も、AIの専門家の間で意見が割れている。実現可能性を否定しない「楽観的な」専門家ですら、ほぼ全員が、できるにしても相当に遠い未来のことだろうと推測している。
(同上)


神里氏は、「そういう話を聞いたら全て、SFだと考えてよい」と書いていました。

「食べログ」が飲食店の評価に使っているアルゴリズムも、きわめて恣意的なものであったことが先日の東京地裁の判決で認定されました。要するに、もっともらしい衣装を着けたアルゴリズムが恣意的な評価の隠れ蓑になっていたのです。それが、神里氏が言う「食べログ」をめぐる「問題の核心」なのです。

 IT化によって客観的で公平な評価が実現すると期待している人は少なくないだろう。だが、どんなシステムも、運用するのはAIではなく人間だ。そこでは、透明性や可読性が欠かせない。
(同上)


私たちはネットだけではなく、人生のいろんな場面においても、既にAIやアルゴリズムに「支配」されています。でも、それは、集められたデータを基にスコアリングされ、導き出された「傾向」や「確率」を使って、推論したり再現(模倣)したものに過ぎないのです。そんな「傾向」や「確率」に、私たちは振り回されているのです。しかも、その「傾向」や「確率」は、「ブラックボックス」と化したアルゴリズムの中で操作されており、決して公平で客観的なものとは言えないのです。そもそも基礎になるデータが正しいかどうかもわかりません。入力ミスだってあるかもしれません。神里氏が言うように、「透明性」や「可読性」は大事ですが、ホントにそれが担保できるのか、きわめて疑問です。

生身の人間が評価したのなら「この野郎!」とか「間違っているだろ!」とか文句をいうこともできますが、AIから評価されたら拳を振り上げることもできません。機械的に処理され、私たち自身も機械的に受け止めるだけで、感情が介在する余地すらないのです。それはとても冷酷で怖いことですが、私たちはそんな時代に生きているのです。しかも、もう後戻りすることはできないのです。


関連記事:
あらたな神
Google
2022.07.07 Thu l ネット l top ▲
ダイヤモンドオンラインに、ノンフィクションライターの窪田順生氏が下記のような記事を書いていました。

ダイヤモンド・オンライン
ウクライナ侵攻5カ月目…日本人は「戦争報道のインチキさ」今こそ検証を

手前味噌ですが、私も同じことをこのブログでしつこいくらい書いています。

窪田氏は、冒頭、こう書いていました。

 侵攻直後は「ウクライナと共に!」と芸能人たちが呼びかけ、ワイドショーも毎日のように戦況を紹介し、スタジオで「どうすればロシア国民を目覚めさせられるか」なんて激論を交わしていた。今はニュースで触れる程度で、猛暑だ!値上げだ!という話に多くの時間を費やしている。

 作り手側が飽きてしまったのか、それとも視聴者が飽きて数字が稼げなくなったのかは定かではないが、「打倒プーチン!」と大騒ぎをしていたことがうそだったかのように、ウクライナ問題を扱うテンションが露骨に落ちてきているのだ。


「支援疲れ」と言えば聞こえはいいですが、要するに”支援ごっこ”に飽きてきたというのが本音かもしれません。

前の記事で触れた暴露系ユーチューバーのガーシーが、楽天の三木谷浩史社長が親しい経営者仲間とゴルフコンペしたあと、ウクライナ人モデルを集めてパーティをしていたとみずからのチャンネルで暴露したのですが、それに対して、三木谷氏自身がTwitterで過剰に反応して、結果的にパーティの存在をみずから認めてしまったというオチがありました。

もっとも、一方的なネットの話なので虚実は不明です。NHK党から立候補したガーシーの挑発(話題作り)に、三木谷氏がうっかり乗ってしまった、乗せられてしまったという側面もなきにしもあらずでしょう。ただ、下記のような三木谷氏の反応を見ると、ゴルフのコンペのあとにウクライナ人女性を集めてパーティをやったことはどうやら間違いないようです。


「戦争を忘れてあげようと思って」パーティしたという三木谷氏のツイートは、子どもの言い訳のようで笑ってしまいました。野暮を承知で言えば、楽天が子どもを含めたウクライナ人避難民たちを招待して交流をはかり激励した、というような話ではないのです。あくまでコンペの打ち上げの仲間内のパーティなのです。

日本在住のウクライナ人について、ウィキペディアには次のように書かれています。

日本に在留しているウクライナ人の数は2003年には最大の1,927人にまで急増したが、かつて主流だった興行ビザによる滞在は2005年の興行ビザ発給制限の影響で減少し、2006年の387人から2020年では29人にまで大幅に減った。 2021年6月時点の中長期在留者・特別永住者は1,860人となっている。


興行ビザが厳格化されるまでは、ダンサーやモデルなどの資格で来日してロシアンパブなどで働いていたウクライナ人たちも多かったのです。特に外国人の場合、モデルと言ってもピンキリで、ホステスやコンパニオンがそう呼ばれていることも多いのです。

私は、ここでも”支援ごっこ”という言葉を浮かべざるを得ませんでした。

日本のメディアには、自由で清く正しい民主国家・ウクライナVS世界で孤立した悪の帝国・ロシアという図式が所与のものとして存在しているかのようです。あるメディアは、上記のような二項対立を否定してロシア「擁護」の陰謀論にはまっている人間は、同時に新型コロナウイルスの陰謀論にもはまっているタイプが多いと書いていましたが、とうとうここまで来たかと思いました。こんなことを書くのは日本のメディアだけでしょう。同調圧力にもほどがあると言いたくなります。

でも、そこにも、おなじみの「日本、凄い!」の自演乙、自己愛が伏在しているのです。

 日本人が働く日本のマスコミは、どうしても「日本が世界の中心」という考えに基づいた自国ファーストの情報を流す。そして、「数字」が欲しいので、日本人の読者や視聴者が「いい気分」になる話を扱いがちになる。西側についた日本が世界の中心だと視聴者や読者に知らしめるには、ロシアという国がいかに狂っていて、非人道的な連中なのか、とおとしめるのが手っ取り早い。ナショナリズムが報道の客観性をゆがめてしまっているのだ。
(同上)


旧西側陣営の主要メンバーとしてウクライナを支援して、「可哀そうなウクライナ」の人たちから涙ながらに感謝される日本。でも、実際に受け入れた避難民は千人ちょっとにすぎません。しかも、中には早速外国人パブで働きはじめた避難民がいて、それは人道支援の主旨と違うと行政が指導したというニュースもありました。

これでは、給付金詐欺と同じように、外国人パブで人気のウクライナ人ホステスを入国させるために、人道支援を隠れ蓑にしたケースもないとは限らないでしょう。「ウクライナの美女が中国に避難するのを歓迎」という投稿が載った中国のSNSを日本のメディアはやり玉に上げていましたが、その前に我が身を振り返ってみた方がいいかもしれません。

一方、昨日、朝日新聞に次のような記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
「ジャベリンなかった」最前線、報道と落差 愛国か命か、揺れる兵士

これは今までの翼賛的な戦争報道と一線を画す記事で、「支援疲れ」の中でやっと出てきた記事と言えるのかもしれません。

 命じられた任務は、想像以上に過酷だった。部隊が前進する際に最前線の状況を確認し、ロシア軍の地雷などがあれば破壊。軍用車両が来れば爆発物で吹き飛ばす――。ロシア軍の進軍を防ぎつつ自陣を確保する、いわば「先遣隊」のような役割だった。

 だが、ほぼ実現することはなかった。「なぜなら、ずっと劣勢で、ウクライナ軍は押し返され続けてきたからです」

 とにかく、武器が足りなかった。メディアは、ウクライナ軍が欧米諸国から対戦車ミサイル「ジャベリン」や「NLAW」などの提供を受け、大きな戦果を上げていると報じている。

 だが男性は、「ジャベリンもNLAWも、見たことなんてない」と不満を口にした。「どこにあるのでしょうか?」。そう尋ねると、「政府や政治家に聞いてくれ」と批判した。


愛国心から軍に入った兵士。でも、今、前線から離れることを望んでいるそうです。しかし、軍人だから脱走するわけにはいかないと言います。

 ゼレンスキー大統領は、「勇気や知恵は輸入できない。我々の英雄が携えているものだ」などと述べて兵士らを鼓舞するが、男性は「そういう言葉を口にするのが大統領の仕事だから」とだけつぶやいた。

 「現場で戦っている兵士は決してあきらめていない」とも男性は言う。一方で、本当の戦況を知らされていないようにも思う。「もう疲れた。こんな状況で、人生を失いたくない」


戦争にプロパガンダは付き物です。もちろん、プロパガンダはロシアの専売特許ではないのです。当然、ウクライナもロシアと同じように、もしかしたらロシア以上にプロパガンダを発信しています。でも、”支援ごっこ”の日本人は、そんな当たり前のことすら理解してないように見えます。

何度も言っていますが、私たちは記事の兵士が抱いているような「厭戦」と連帯すべきなのです。ウクライナ・ロシアを問わず「戦争で死になくない」と考えている人々と連帯すべきなのです。そして、「戦争で死ぬな」と呼びかけるべきなのです。そんな素朴実感的なヒューマニズムが何より大事なのです。それしか戦争を止める道はないのです。

今、街頭で選挙演説している政治家や、そんな政治家に向かって手を振っている有権者に、ホントの平和主義者なんていません。彼らは無定見に国家の論理に拝跪しているだけです。先の大戦前、東条英機の自宅に、「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」などというような手紙を段ボール箱に何箱も書いて送った国民と同じ心性を共有する、国家の論理で動員された人々がいるだけです。
2022.07.05 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲
高橋理洋


このブログはFC2ブログを利用しています。

今日、管理画面に入るためにIDとパスワードを入力しようとしたら、画面の余白に「PR」の文字とともに、上記の画像が表示されたのでした。

私は、一瞬、「なんだ、このXJAPANのYOSHIKIみたいなおっさんは?」と思いました。FC2の創業者の高橋理洋氏です。高橋氏は、現在、アメリカ国籍を取得してアメリカに住んでいるのですが(FC2の本社もアメリカ)、2015年の「FC2わいせつ動画配信事件」に連座して、日本の警察当局から「国際海空港手配」されている身なのでした。そのため、日本に帰るには逮捕を覚悟で帰るしかないのですが、でも、逮捕されたら執行猶予は付かず、数年の実刑になる公算が高いので(ホントかな)帰ることができない、と本人は言っていました。

「国際海空港手配」については、下記の記事に詳しく書かれています。

ライブドアニュース
わいせつ動画配信事件で「FC2」創設者に逮捕状
「国際海空港手配」とはなにか?


ところが、高橋氏は今話題の暴露系ユーチューバーのガーシーと旧知の仲だったようで、先日、突然、ガーシーの動画に登場して、その場で今回の参院選にガーシーこと東谷義和氏ともどもNHK党から立候補することを明らかにしたのでした。

それも、本人の話では、NHK党の候補者募集にその場のノリで手を上げたということでした。NHK党は、得票率2%を獲得して政党要件を満たすために、塵も積もれば山となる作戦で、供託金300万円(比例は600万円)持参で選挙を”宣伝の場”と割り切る「当選を目的としない」候補者を手広く募集していたのです。

当日の動画も観ましたが、スキットルと呼ばれるウイスキーを入れた缶を手にしたサングラス姿の高橋氏はかなり酔っぱらっている様子で、呂律がまわらない口調でよくわからないことをブツブツ言うだけでした。

国会議員に与えられる不逮捕特権を手に入れて一時帰国したいんじゃないかという穿った見方もありますが、本人はユーチューブの中で否定しています。

ちなみに、憲法第50条は次のように謳っています。

第五十条
両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。


立候補にあたっての公約は、任期中の議員歳費を児童養護施設に寄付する、AVのモザイクを潰す(なくす)という2点を上げていました。ガーシーの動画に出ていたときと同じTシャツを着ていましたので、まだ酔いが残っていたのかもしれませんが、これってネタじゃないのかと思いました。話している内容も言葉使いも、おせいじにも聡明とは言い難く、48歳という年齢を考えても幼稚な感じがしてなりませんでした。

彼の公約にツッコミを入れるのは野暮のような気もしますが、たとえばAVについても、社会的に未熟だったりメンヘラだったりする女性が性被害を受けるとか、ガーシーが言う「デジタルタツゥー」によって顔を晒された動画が半永久的にネット上に残るとかいった問題などがあります。しかし、話を聞いていると、そういう問題はまったく視野に入ってない感じでした。

昨年末に父親が亡くなったけど、葬儀に出ることができなかったので悲しかったという話をしていましたが、その際、父親の死因について、腕に注射をする恰好をしながら、「これをやった直後になくなりまして」「でも、因果関係があるのかどうか不明です」と言っていたのには呆気に取られました。

FC2に関しては、動画、それも成人向けの動画共有サービスの「FC2動画アダルト」が大きな収益源であるのは言うまでもありません。FC2ユーザーとしてこんな言い方をするのはおかしいのですが、そんな会社がどうしてあまりお金にならないブログサービスを運営しているのか、不思議に思うくらいです。

FC2動画は、アダルト動画の投稿だけでなく、アニメなどの違法アップロードも多く、いつも当局とのいたちごっこがくり返されていますが、今やその言語は、(Wikipediaによれば)日本語・英語・中国語(簡体字、繁体字)・朝鮮語・スペイン語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・インドネシア語・ポルトガル語・ベトナム語をカバーしており、文字通り世界中に視聴者を抱えるまでになっているのでした。ネットはエロとアニメの天国を象徴するようなサイトと言えるでしょう。

2015年の「FC2わいせつ動画公開事件」の際、ユーザーである私のもとにも下記と同じ文面のメールが届きました。

本日の報道に関しまして

平素は、FC2(fc2.com)をご利用いただき、誠にありがとうございます。

2015年4月22日(日本時間23日)に弊社の開発委託先会社の社長が逮捕されたとの報道がございました。

報道では、開発委託先会社ではなく、FC2の代表者が逮捕されたとの誤った報道が散見されますが、FC2の代表者が逮捕されたという事実はございません。

FC2は、今までどおりコンプライアンスを重視し、ユーザー様のご要望・ご期待にに沿えるよう全力でサービスを提供して行く所存です。


FC2総合インフォメーション
04/23 本日の報道に関しまして

たしかに「逮捕されたという事実」はなかったので、FC2の文章だけを読むと、代表者の高橋氏は事件とは無関係で、メディアの勇み足みたいに思ってしまいます。私もそう思いました。でも、逮捕はされてないだど、その代わり指名手配されていたのです。ものは言いようとは言いますが、何だか騙されたような気持になりました。

今のネットにどっぷりと浸かった若者たちにとって、高橋氏は、ホリエモンなどと同じように、ネットの時代のサクセス・ストーリーを地で行くヒーローなのかもしれません。手段や方法は二の次に、金もうけがうまければそれだけで凄い!という話になるのです。それが、給付金詐欺やオレオレ詐欺(特殊詐欺)の敷居の低さにもつながっているような気がしてなりません。

正直言って、高橋氏のユーチューブを観て、FC2ブログを利用していることに恥ずかしさを覚えました。でも、ブログを移転するのもめんどうなのです。前にも一度、他の会社のブログに移転したものの、FC2の方が使いやすかったのですぐに戻ってきたということがありました。弁解するわけではありませんが、エロで稼いでいるからなのか、FC2ブログが安くて使いやすいのはたしかです。

もちろん、優等生ぶってコンプライアンスがどうたらと言いたいのではありません。高橋氏に対しても、ホリエモンなどと同じように、ただ単純に、生理的と言ってもいいような嫌悪感しか覚えないと言いたいだけです。「なんだ、このおっさん」という気持しか持てないのです。

どこかのホテルチェーンの女社長みたいにみずから広告塔になりたいのかもしれませんが、プラットホームを提供する裏方なら裏方に徹すべきでしょう。それが商売のイロハのはずです。
2022.07.03 Sun l ネット l top ▲
先日、ロシアのサハリン州(樺太)北東部沿岸で開発されている資源プロジェクト「サハリン2」の運営会社の資産を、ロシアが設立した新会社に移管する大統領令にプーチン大統領が署名したというニュースが伝えられました。すると、当地での日本の天然ガスの権益が失われ、供給もままなくなるとして、日本でもセンセーショナルに報道されたのでした。

現在の運営会社の株は、ロシアの国営天然ガス企業・ガスプロムが50%、イギリスの石油大手シェルが27.5%、日本の三井物産が12.5%、三菱商事が10%を保有していますが、それがごっそり新会社に無償譲渡されることになるのです。文字通り火事場泥棒の所業とも言えますが、戦争当事国としてはあり得ない話ではないし、予想できない話ではなかったはずです。

「サハリン2」で生産される液化天然ガス(LNG)の60%は日本向けで、日本はLNGの輸入の8.8%(2021年)をロシアに依存しており、その大部分が「サハリン2」だそうです。

もちろん、岸田首相が日本の首相として初めてNATO首脳会談に参加して、「ウクライナは明日の東アジア」などと述べ、アジア太平洋地域とNATOとの連携の強化を呼びかけたことなどに対する意趣返しであるのはあきらかでしょう。

日本は、G7のロシア産の石炭や石油の段階的な禁輸の方針には足並みを揃えることを表明していますが、LNGに関しては代替の調達が難しいという理由で制裁から除外していたのです。ロシアは、そんな都合のいい態度をとる日本の足元を衝いて来たとも言えるのです。

しかし、誤解を怖れずに言えば、ロシアは決して孤立しているわけではありません。アメリカのシンクタンクの集計でも、ロシア非難に加わらなかった国の人口を合わせると41億人で、世界の人口77億人の53%になるそうです。つまり、G7やNATOの制裁に同調する国は、世界の人口の半分にも満たないのです。特にG7に対抗する新興国のBRICS (ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)が運営する新開発銀行(本部は上海市)には、既にUAE(アラブ首長国連邦)・ウルグアイ・バングラデシュが新規に加盟しており、BRICSを中心にドル離れも進んでいます。

それどころか、肝心なアメリカ国民にも、ロシアとの”経済戦争”に冷めた見方をする人たちが多くなっていると言われています。アメリカも一枚岩ではないのです。

コロンビア大学のShang-Jin Wei教授(金融学・経済学)も、『Newweek』(7/5号)のコラムで、「 彼ら(引用者:アメリカ国民)の多くは、エネルギー価格高騰の全ての責任がロシアのプーチン大統領にあるとするバイデンの主張に賛同していない」(「アメリカの原油高を止める秘策」)と書いていました。

アメリカのガソリン価格は、現在、1ガロン55ドルくらいだそうですが、これを1ガロン=3.78リットル、1ドル=135円で換算すると、1リットル178円です。アメリカのガソリンは水みたいに安いと言われたのも今は昔で、日本とほぼ変わらないのです。2022年5月の価格は、昨年同月比の75%増だったそうです。

アメリカは2017年以降、世界の産油国の中でトップを占めるくらい輸出を行っており、原油(シェールガス)の埋蔵量も豊富です。世界最大の原油消費国であるとともに、原油輸出国でもあるのです。だったら、この原油高なのですから、アメリカ経済にもっとうるおいをもたらしてもいいはずです。しかし、アメリカの一般市民は、恩恵に浴してないどころか、逆に値上げに苦しんでいるのでした。

そこには資本主義のしくみが関係しています。原油高の利益が貪欲な石油会社とその株主、つまり資本に独占されているからです。しかも、彼らにとって、国内の消費者も収奪の対象でしかないのです。

アメリカは40年ぶりと言われる猛烈なインフレに見舞われ、アメリカ経済は疲弊しています。それが、FRBが25年ぶりに、政策金利を通常の3倍の0.75%という大幅な利上げに踏み切った背景です。もちろん、金利が上がれば経済成長は鈍化しますが、それよりインフレを抑える方に舵を切ったのです。それくらいインフレが深刻なのです。

アメリカにかつてのような超大国としての”余裕”はもうないのです。今秋(11月)の中間選挙次第では、バイデン政権が進めるウクライナ支援にも、ブレーキがかかる可能性があるかもしれません。アメリカの世論は、ウクライナ支援より自分たちの生活が大事という内向き志向になっているのは間違いありません。もはや「世界の警察官」としての自負もなくなっているのです。

「協調を忘れた世界」のツケが先進国の人間の消費を享受する便利で豊かな生活を直撃する、私たちはその危うい現実を突き付けられたと言っていいでしょう。まして、資源小国の日本が資源大国に歩調を合わせて「協調を忘れた世界」の論理に与すると、「サハリン2」のようなどえらいシッペ返しを受けるのは当然でしょう。良いか悪いかではなく、それが世界の現実なのです。それでもやせ我慢して、(本音では誰も戦場に行きたくないのに)軍事増強に突き進み、犬の遠吠えみたいな対決姿勢を鮮明にするのか。勇ましい言葉に流されるのではなく、今一度虚心坦懐に冷静に考える必要があるでしょう。
2022.07.02 Sat l ウクライナ侵攻 l top ▲
参議院選挙が公示され、駅前では候補者が揃いのTシャツを着たスタッフを従えて、愛想を振り撒きながら演説をしている光景が日常になっています。

聞くと勇ましい国防の話は多いのですが、もっとも身近で切実な格差社会=貧困の問題はどれも通りいっぺんなものばかりで、候補者がホントに貧困問題の切実性を共有しているかはなはだ疑問です。もとより貧困問題はあまり票になりにくいという側面もあるのかもしれません。

当然ながらどの候補者も物価高の問題には触れてはいますが、それも貧困にあえぐアンダークラスに向けてというより、まだまだ余裕があるミドルクラスの有権者に媚を売るような主張が多いのです。

でも、日本は先進国で最悪の格差社会を有する国です。生活保護の基準以下で生活する人が2000万人もいるような国なのです。

所得から所得税・住民税・社会保険料など租税公課を差し引いた金額が可処分所得ですが、さらに世帯ごとの可処分所得を世帯員数の平方根で割った金額を等価可処分所得と言います。そして、ちょっとややこしいのですが、等価処分所得の中央値の半分に引いたラインが「貧困線」になります。その貧困線に満たない(達しない)世帯員の割合が相対的貧困(率)と呼ばれます。相対的貧困(率)はOECD(経済協力開発機構)で定められた計算式に基づいて算出される国際基準で、そのボーダーラインの可処分所得は2019年で127万円だと言われています。

厚労省が発表した「2019年国民生活基礎調査」によれば、ボーダーラインの可処分所得が127万円未満の国民は、全体の15.4%だそうです。人数で言えば、約1930万人です(上の生活保護基準以下の数値とほぼ一致する)。つまり、日本の相対的貧困率は15.4%で、G7の中ではワースト2位です。

子ども(17歳以下)の相対的貧困率は13.5%、約260万人です。また、ひとり親世帯の相対的貧困率は48.1%、約68.2万世帯です。

日本では、これだけ多くの人たちが可処分所得127万円以下で生活しているのです。127万円を月に直せば10万円ちょっとです。その中から家賃や電気代やガス水道代やNHK受信料!を払い、残りのお金で食費をねん出しているのです。マンションや一戸建ての家を持っているミドルクラスのサラリーマン家庭が口にする「生活が苦しい」とは、まるでレベルが違うのです。

音楽評論家の丸屋九兵衛氏のTwitterを見ていたら、次のようなリンクが貼られていました。


アホな人間は、日本人は何でもすぐ政治のせいにするなどと言って、貧しいのも自己責任であるかのような言い方をするのが常ですが、カナダの大学が言うように、日本の貧困は「世界的にも例の無い、完全な『政策のミス』による」ものなのです。個人の努力が足りないからではないのです(上記のリンクは途中までしか表示されていません。「Twitterで会話をすべて読む」をクリックすると、最後まで表示されます)。

今でも何度もくり返し言っているように、日本には「下」の政党が存在しなことがそもそもの不幸だと言えます。(上か下かを問う)「下」の政治が存在しないのです。

同じ丸屋九兵衛氏は、次のようなツイートにもリンクしていました。


いくら「日本凄い!」と自演乙しようとも、日本がどんどん貧しくなっているのは誰の目にもあきらかです。誰も本気で戦場に行く気もないのに、口先だけの”明日は戦争”ごっこをしている場合ではないのです。

今、必要なのは「下」の政治なのです。フランスでは、「下」の政治を5月革命のDNAを受け継ぐ急進左派とファシストの極右が担っているのですが、日本ではそれが決定的に欠けているのです。

いつものことですが、メディアも政権党を側面から応援するために、格差社会の現実から目を背け”明日は戦争”を煽るばかりです。貧困にあげく人たちは完全に忘れられた存在になっています。彼らの切実な声をすくい上げる政党がないのです。その意味では、今回の参院選も、いい気な人たちのいい気なお祭りのようにしか見えません。
2022.06.29 Wed l 社会・メディア l top ▲
ウクライナ侵攻がロシアの侵略であることは論を俟ちません。そんなのは常識中の常識です。しかし、だからと言って、ロシア糾弾一色に塗り固められた報道が全てかと言えば、もちろん全てではないでしょう。まったく別の側面もあるはずです。

旧西側のメディアが伝えているように、ホントにウクライナが小春日和の下で平和で穏やかな日々を過ごしていた中に、突然、無法者のロシアがやって来て暴力を振るい家の中をメチャクチャにしたというような単純な話なのでしょうか。

2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命とウクライナは国を二分する騒乱の渦中にありました。その中で、西欧流民主主義を隠れ蓑にしたしたウクライナ民族主義が台頭し、ロシア語話者に対する迫害もエスカレートしていったのでした。ロシアはその間隙を衝いて、ロシア系住民を保護するためという大義名分を掲げてクリミア半島に侵攻し併合したのです。

それは、ソビエト連邦やソ連崩壊時の独立国家共同体の理念を借用した行為であるとともに、国民向けには大ロシア主義=ロシア帝国再興の夢を振り撒く行為でもありました。

ただ、当時のウクライナは文字通り内憂外患の状態にあり、政治は腐敗しマフィアが跋扈し常に暴力が蔓延しており、欧州でいちばん貧しく遅れた国と言われていたのです。今回の侵攻で英雄視されているアゾフ大隊もそんな中で登場したネオナチの民兵組織で、国内の少数民族や社会主義者や労働運動家や性的マイノリティやロシア語話者に対する弾圧の先頭に立っていたのです。

でも、ロシアによるウクライナ侵攻によって、そういったウクライナのイメージはどこかに行ってしまったのでした。

欧米から供与された武器が闇市場に流れているのではないかという指摘もありますが、まったく荒唐無稽な話とは思えません。

今日、Yahoo!ニュースには次のような記事も出ていました。

Yahoo!ニュース
AFPBB News
ウクライナ侵攻で薬物製造拡大の恐れ 国連

国連薬物犯罪事務所(UNODC)は、薬物に関する年次報告書で、ロシアによるウクライナ侵攻で、ウクライナ国内の「違法薬物の製造が拡大する恐れがあると警告した」そうです。

 年報によると、ウクライナで撤去されたアンフェタミン製造拠点の数は2019年の17か所から20年には79か所に増加した。20年に摘発された拠点数としては世界最多だった。

 侵攻が続けば、同国における合成麻薬の製造能力は拡大する可能性があるとしている。

 UNODCの専門家アンジェラ・メー(Angela Me)氏はAFPに対し、紛争地帯では「警察が見回ったり、製造拠点を摘発したりすることがなくなる」と説明した。
(上記記事より)


これなども、今まで私たちが抱いている「可哀そうなウクライナ」のイメージが覆される記事と言っていいかもしれません。

俄かに信じ難い話ですが、ゼレンスキー大統領が国民総動員体制を敷いて、最後の一人まで戦えと鼓舞している傍らで、「合成麻薬の製造能力が拡大する可能性がある」と言うのです。しかも、それを国連が警告しているのです。

日本のメディアの「可哀そうなウクライナ」一色の報道に日々接していると、文字通り脳天を撃ち抜かれたような気持になる記事ではないでしょうか。それともこれも陰謀論だと一蹴するのでしょうか。

また、『紙の爆弾』(7月号)には、こんな記事がありました。

ウクライナから避難民とともに日本に入国したペットについて、「農林水産省は入国に際し、180日間の隔離などの狂犬病の動物検疫を免除する特例を認めた」そうです。どうしてかと言えば、避難民が動物検疫所係留の管理費用を払うことができず、費用負担できなければ「殺処分になる」というメールを検疫所から受け取ったことに端を発して(でも、実際にはそういったメールは送信されてなかった)、テレビや超党派の動物愛護議員連盟が費用免除を訴えたからです。それで、農水省が「人道への配慮」により検疫免除の特例を認めたのでした。

しかし、ウクライナは、「毎年約1600件の狂犬病の症例が報告され」「狂犬病が動物と人間の間で広まっている欧州唯一の国」なのです。そのため、農水省の決定に対して、専門家の間から狂犬病のリスクを持ち込む「善意の暴走」という批判が起きているそうです。もっとも、記事によれば、動物検疫所に係留されているのは、犬5匹と猫2匹にすぎないそうです。

言葉は悪いですが、これもウクライナの”後進性”を示す一例と言えるでしょう。と同時に、「可哀そうなウクライナ」の感情だけが先走る日本人の薄っぺらなヒューマニズムを示す好例とも言えるかもしれません。

でも、そう言いながら、日本が受け入れている避難民は、今月の24日現在で1040人にすぎません。大騒ぎしているわりには、受け入れている避難民はきわめて少ないのです。善意のポーズだけなのです。

ウクライナ侵攻に反対を表明しているあるロシア人ユーチューバーは、最近、侵攻以来届いていた「クソリブ」がほどんど届かなくなり、それはそれで逆に悲しいことでもあると言っていました。どうしてかと言えば、「クソリブ」が届かなくなったのは日本人の間でウクライナ侵攻に対する関心が薄れてきたことを示しているからだと。熱しやすく醒めやすい日本人の性格をよく表した話だと思いました。

私たちは今回の戦争について、はたしてどれだけ知っているのでしょうか。というか、どれだけ知らされているのか。「可哀そう」の感情だけでなく、もっといろんな角度から知る必要があるでしょう。そして、ゼレンスキーのプロパガンダに抗して、「戦争で死ぬな」と言い続ける必要があるのです。
2022.06.27 Mon l ウクライナ侵攻 l top ▲
いわゆる侮辱罪を厳罰化する刑法改正が先の国会で成立しました。今回の改正は、フジテレビの「テラスハウス」に出演していた女子プロレスラーの木村花さんがネット上の誹謗中傷が原因で自殺したことが直接のきっかけでした。改正案でも「ネット上の誹謗中傷を抑止するため」と説明されています。

今までの侮辱罪の法定刑は、拘留30日未満、もしくは科料1万円未満でしたが、改正により1年以下の懲役または禁錮、もしくは30万円以下の罰金に強化され、時効も1年から3年に延長されました。つまり、拘留ではなく懲役刑が科せられることになったのです。

刑法には別に名誉棄損罪があります。名誉棄損と侮辱はどう違うのか、それも曖昧なままです。ただ、侮辱罪の方が名誉棄損罪に比べてハードルが低いのはたしかでしょう。

リテラでも、侮辱罪のハードルの低さを次のように指摘していました。

リテラ
「侮辱罪の刑罰強化」の目的は政権批判封じ=ロシア化だ! 自民党PT座長の三原じゅん子は「政治家にも口汚い言葉は許されない」

 そもそも、名誉毀損罪は公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した場合に成立するが、例外規定として、公共の利害にかんする内容かつ公益を図る目的があり、その内容が真実であれば罰せられない。また、真実だと信じてもやむをえない状況や理由、つまり「真実相当性」があれば悪意はないとして違法性は阻却されることになっている。一方、侮辱罪は事実を摘示しなくても公然と人を侮辱した場合に成立し、名誉毀損罪のような例外規定がない。何をもって「侮辱」とするかは極めて曖昧だ。
(同上)


そのため、三原じゅん子議員のような「政治家への言論を規制したいという目論見に対し、何の歯止めもなされていない」(同上)のが実情です。「侮辱罪の厳罰化をめぐる法制審議会の審議でも『政治批判など公益のための言論なら罰されない』という意見が出されているが、しかし、公益性があるかどうかを判断するのは権力側の捜査当局」(同上)なのです。要は権力の胸三寸なのです。

2019年の前回の参院選の際、北海道の札幌で、街頭演説していた安倍晋三首相(当時)に対して、男性が「安倍辞めろ」「帰れ」とヤジると北海道警の警察官がやって来て強制的に排除され、さらに別の男性が「増税反対」と訴えると、同じように移動するように求められ、演説が終わるまで警察官に付きまとわれたという事件がありましたが(のちの裁判で札幌地裁は、北海道警の行為は「表現の自由」を侵害するもので違法と認定)、これからはそういった行為も、告訴されれば侮辱罪として摘発される可能性がないとは言えないでしょう。

もっとも、当局のいちばんの狙いは、摘発より抑止効果だという指摘があります。厳罰化によって、政治家や著名人や有名企業に対する批判(悪口)を委縮させ封じ込める効果を狙っていると言うのです。

リテラも次のように書いていました。

そもそも、世界的には侮辱罪や名誉毀損罪は非犯罪化の流れにあり、当事者間の民事訴訟で解決をめざす動きになっている。国連自由権規約委員会も2011年に名誉毀損や侮辱などを犯罪対象から外すことを提起、「刑法の適用は最も重大な事件に限り容認されるべきで拘禁刑は適切ではない」としている。ところが、今回の侮辱罪厳罰化は世界の流れに逆行するだけでなく、もっとも懸念すべき権力者への批判封じ込めに濫用されかねないシロモノになっているのである。


また、言論法やジャーナリズム研究が専門の山田健太専修大学教授も、「琉球新報掲載のメディア時評のなかで、こう警鐘を鳴らしている」そうです。 

〈日本では、政治家や大企業からの記者・報道機関に対する「威嚇」を目的とした訴訟提起も少なくない。いわば、政治家が目の前で土下座させることを求めるかのような恫喝訴訟が起きやすい体質がある国ということだ。そうしたところで、より刑事事件化しやすい、あるいは重罰化される状況が生まれれば、間違いなく訴訟ハードルを下げる効果を生むだろう。それは結果的に、大きな言論への脅威となる。〉
(同上)


しかし、侮辱罪の厳罰化に便乗しているのは与党の政治家や有名企業だけではありません。野党の政治家や、あるいはリベラル系と言われるジャーナリストやブロガーなども同じです。彼らにも、自分たちに向けられた批判(悪口)に対して、すぐ訴訟をチラつかせるような姿勢が目立ちます。しかも、無名の市民のどうでもいいようなSNSの書き込みに対して過剰に反応しているケースも少なくないのです。そこには、「自由な言論」(竹中労)に対する一片のデリカシーもないかのようです。彼らは、所詮権力と利害を共有する”なんちゃって野党”にすぎないことをみずから白状しているのです。

参院選が近づくにつれ、立憲民主党界隈からのれいわ新選組に対する攻撃もエスカレートする一方です。国会の対ロシア非難決議に、れいわ新選組が唯一反対したことを根拠に、何だか主敵は自公政権よりれいわ新選組と考えているのではないかと思えるくらい、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式にエスカレートしているのでした。大石あきこ議員の(岸田総理は)「資本家の犬」「財務省の犬」という発言も、彼らにはヤユしたり嘲笑したりする対象でしかないのです。彼らは、この国の総理大臣が「資本家の犬」「財務省の犬」だとは寸分も思ってないのでしょう。

戦争中の鬼畜米英と同じで、ロシア非難の翼賛的な決議に同調しないれいわ新選組はまるで「非国民」のような扱いです。特に、ゴリゴリの左派系議員の憎悪をむき出したような発言を見るにつけ、三つ子の魂百までではないですが、衣の下からスターリン主義の鎧が覗いたみたいでおぞましささえ覚えるほどです。ここでも左派特有の”敵の敵は味方論”が顔を覗かせているのでした。

ブルーリボンのバッチを胸に付け、「ミサイル防衛・迎撃能力向上」「ハイブリッド戦への対応」の「強化」など、「防衛体制の整備」(立憲民主党参院選2022特設サイトより)を訴える野党第一党の党首。今までの対決姿勢から政策提案型へ路線変更したことで、先の国会では内閣が提出した法案61本が全て可決・成立し、国内外の難題が山積しているにもかかわらず、国会は惰眠を貪るような牧歌的な光景に一変したのでした。

先日行われた杉並区長選挙では、市民団体が擁立した野党統一候補が4選を目指した現職に競り勝ちましたが、参議院選挙では連合からの横槍が入ったこともあり野党共闘にはきわめて消極的で、一人区で候補者を一本化できたのは半分にも満たないあり様です。そのため、杉並区長選の”追い風”を生かすこともできないのでした。そもそも生かすつもりもないのでしょう。

参院選を前にして、自民党を勝たせるためだけに存在する旧民主党のずっこけぶりはまったく見事としか言いようがありません。傍から見ると、敗北主義の極みみたいですが、でも、当人たちは危機感の欠片もなく”敵の敵”に塩を送りつづけているのでした。

れいわ新選組の対ロシア非難決議反対については、下記のような評価があることも私たちは知る必要があるでしょう。

JAcom
「れいわ」の見識をロシア非難に見る【森島 賢・正義派の農政論】

全体主義への道を掃き清めているのは誰なのか。何度も言うように、私たちは、”左派的なもの”や”リベラル風なもの”をまず疑わなければならないのです。


※タイトルを変更しました。
2022.06.22 Wed l 社会・メディア l top ▲
AFPの記事によれば、NATOのイエンス・ストルテンベルグ事務総長が、ウクライナ侵攻は今後数年続く可能性があると述べたそうですが、たしかに和平交渉が完全にとん挫している今の状況を考えると、その言葉に首肯せざるを得ません。と同時に、戦う前から戦意喪失しているロシア軍は早晩敗退するだろうと言っていた、当初のメディアの報道は何だったんだと思わざるを得ません。言うまでもなく、持久戦になれば、悲劇はその分増すことになるのです。

経済制裁でロシアが苦境に陥っていると言われていますが、しかし、日本の異常な円安と物価高、アメリカのインフレと大幅な利上げに伴うNYダウの暴落などを見ていると、むしろ苦境に陥っているのは反ロシアの側ではないのかと思ってしまいます。

アメリカ(FRB)がNYダウの暴落を覚悟で大幅な利上げに踏み切ったのも、ドル崩壊を阻止するためでしょう。そこに映し出されているのは、超大国の座から転落するアメリカのなりふり構わぬ姿です。そして、何度も何度もくり返しくり返し言っているように、世界は間違いなく多極化するのです。ウクライナ侵攻もその脈略で捉えるべきで、手前味噌になりますが、このブログでも2008年のリーマンショックの際、既に下記のような記事を書いています。

関連記事:
世界史的転換

少なくとも資源大国であるロシアや「世界の工場」から「世界の消費大国」と呼ばれるようになった中国を敵にまわすと、世界が無傷で済むはずがないのは当然でしょう。それが、どっちが勝つかとか、どっちが正しいかというような単純な話では解釈できない世界の現実なのです。

今回のウクライナ侵攻のおさらいになりますが、元TBSのディレクターでジャーナリストの田中良紹氏は、『紙の爆弾』(7月号)で、アメリカの世界戦略について次のように書いていました。

  米国の世界戦略は、世界最大の大陸ユーラシアを米国が支配することから成り立つ。米国はユーラシアを欧州・中東・アジアの三つに分け、欧州ではNATOを使ってロシアを抑え、アジアでは中国を日本に抑えさせ、そして中東は自らがコントロールする。
(「ウクライナ戦争勃発の真相」)


しかし、アフガン撤退に象徴されるように、アメリカは中東(イスラム世界)では既に覇権を失っています。アジアの「中国を日本に抑えさせ」るという戦略も、ここぞとばかりに防衛費の大幅な増額を主張し軍事大国化を夢見る(「愛国」と「売国」が逆さまになった)対米従属「愛国」主義の政治家たちの思惑とは裏腹に、その実効性はきわめて怪しく頼りないものです。と言うか、中国を日本に抑えさせるという発想自体が誇大妄想のようなもので、最初から破綻していると言わねばならないでしょう。

今回のウクライナ侵攻にしても、ロシアを「抑える」というバイデンの目論みは完全に外れ、アメリカは経済的に大きな痛手を受けはじめているのでした。それに伴い、バイデン政権が死に体になり民主党が政権を失うのも、もはや既定路線になっているかのようです。

  ウクライナ戦争はバイデンにとって、アフガン撤退の悪い記憶を消し、インフレを戦争のせいにできる一方、米国の軍需産業を喜ばせ、さらに厳しい経済制裁でロシア産原油を欧州諸国に禁輸させれば、米国のエネルギー業界も潤すことができる。そうなればバイデンは、秋の中間選挙を有利にすることができる。
(略)
しかしバイデンの支持率は戦争が始まっても上向かない。米国民は戦争より物価高に関心があり、バイデン政権の無策にしびれを切らしている。
(同上)


これが超大国の座から転落する姿なのです。ソ連崩壊によりアメリカは唯一の超大国として君臨し、「世界の警察官」の名のもと世界中に軍隊を派遣して、「悪の枢軸」相手に限定戦争を主導してきたのですが、ソ連崩壊から30年経ち、今度は自分がソ連と同じ運命を辿ることになったのです。今まさに世界史の書き換えがはじまっているのです。

(略)ロシアに対する経済制裁に参加した国は、国連加盟国一九三ヵ国の四分の一に満たない四七ヵ国と台湾だけだ。アフリカや中東は一ヵ国もない。米国が主導した国連の人権理事会からロシアを追放する採決結果を見ても、賛成した国は九三ヶ国と半数に満たなかった。
米国に従う国はG7を中心とする先進諸国で、BRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)を中心とする新興諸国はバイデンの方針に賛同していない。このようにウクライナ戦争は世界が先進国と新興国の二つに分断されている現実を浮木彫りにした。ロシアを弱体化させようとしたことが米国の影響力の衰えを印象づけることにもなったのである。
(同上)


最新のニュースによれば、フランス総選挙でマクロン大統領が率いる与党連合が過半数の289議席を大幅に割り込む歴史的な大敗を喫したそうです。

その結果、急進左派の「不服従のフランス」のメランションが主導する「左派連合」が141議席前後に伸ばし、野党第1党に躍り出る見通しだということでした。また、極右のルペンが率いる「国民連合」も前回の10倍以上となる90議席を獲得したそうです。

もちろん、この結果には、今までもくり返し言っているように、右か左かではない上か下かの政治を求める人々の声が反映されていると言えますが、それだけでなく、ウクライナ一辺倒、アメリカ追随のマクロン政権に対する批判も含まれているように思います。

極右の台頭はフランスだけではありません。来春行われるイタリア総選挙でも、世論調査では極右の「イタリアの同胞」がトップを走っており、今月イタリア各地で行われた地方選挙でも「右派連合」が主要都市で勝利をおさめており、ムッソリーニ政権以来?の極右主導の政権が現実味を帯びているのでした。

このように、ウクライナ侵攻が旧西側諸国に経済的にも政治的にも暗い影を落としつつあるのです。

一方、次のような記事もありました。

Yahoo!ニュース
共同
ロシア軍、命令拒否や対立続出 英国防省の戦況分析

Yahoo!ニュース
讀賣新聞
ゼレンスキー氏、南部オデーサ州訪問…英国防省「ウクライナ軍が兵士脱走に苦しんでいる可能性」

どうやらロシア軍だけでなく、ウクライナ軍にも兵士の脱走が起きているようですが、ホントに「戦争反対」「ウクライナを救え」と言うのなら、ウクライナ・ロシアを問わずこういった「厭戦気分」と連帯することが肝要でしょう。しかし、日本のメディアをおおっている戦争報道や、メディアに煽られた世論は、そんな発想とは無縁に、最後の一人まで戦えというゼレンスキーの玉砕戦を無定見に応援しているだけです。「戦争で死ぬな」とは誰も言わないのです。まるで金網デスマッチを見ている観客のように、ただ「やれっ、やれっ」「もっとやれっ」と観客席から声援を送っているだけです。そんなものは反戦でも平和を希求する声でも何でもないのです。


関連記事:
戦争で死にたくないと思う人たちの存在
2022.06.20 Mon l ウクライナ侵攻 l top ▲
去年の秋までスマホは二台続けてHUAWEIを使っていました。いづれも3年くらい使ったと思います。

しかし、二台目は何故か地面に落とすことが多くて、画面にかなり傷がついてしまいました。とは言え、使うのに支障をきたすほどではなかったのですが、去年の秋にふと思い付いて新しいスマホに買い替えることにしました。

新しく買ったのは、某国産メーカーのXというミドルレンジの機種で、今まで使っていたHUAWEIと比べると3倍くらい高いスマホです。

しかし、半年以上使ってみて、HUAWEIからXに替えたことを後悔しています。これだったら、HUAWEIの画面を修理して、ついでにバッテリーも新しく交換した方がよかったような気さえします。あるいは、最近、HUAWEIの代わりにハイスペックな割りに低価格なOPPOというメーカーのスマホが出ていますが、それでもよかったように思います。

そう言うと、ネトウヨまがいな連中から、個人情報を中国共産党に流されていいのかというお決まりな”反論”が返って来るのが常です。しかし、別に中国共産党でなくても、個人情報はGoogleにいいようにぬかれています。そして、スノーデンの話では、その個人情報をアメリカ国家安全保障局 (NSA)が勝手に覗いているのです。スマホを使っている限り、そこでやりとりされる個人情報は裸も同然なのです。そんなのは常識中の常識でしょう。

「ニッポン凄い!」の自演乙をいつまで続けていても、このように現実はどんどん先に、ニッポンがそんなに凄いわけではない方向に進んでいるのでした。日本のメディアは、「日本的ものづくりの大切さ」みたいな物語を捏造して、どうみてもお先真っ暗のような町工場の未来をさも希望があるかのように描くのが好きですが、でも、私たちの前にあるのは容赦ない、誤魔化しようのない現実です。

「中華製」というのは、中国製品をバカにする言葉ですが、いつの間にかバカにできない「中華製」の商品が私たちの前に溢れるようになっているのでした。日本人の多くは、未だ「中華製」は所詮コピーにすぎないと「格下」に見るような偏見に囚われていますが、しかし、私にはそれは負け惜しみのようにしか思えません。もとより技術移転というのはそんなものでしょう。日本製品だって昔はモノマネと言われていたのです。とりわけIT技術で管理された現代の工業製品の世界では、キャッチアップする速度も昔とは比べものにならないくらい速くなっているのです。もちろん、よく言われるようにイノベーション能力がこれからの中国の大きな課題ですが、少なくとも中国が安価でハイスペックな商品を造る段階まで達したのはたしかでしょう。

ひるがえって考えれば、そこに、いつまでも過去の栄光にすがり、武士は食わねど高楊枝で「ニッポン凄い!」を自演乙している日本人及び日本社会の問題点が浮かび上がってくるのでした。

外資系大手のカナディアン・ソーラー・ジャパンの社長である山本豊氏は、朝日のインタビュー記事で、「外資系企業で長く働いた経験から、日本メーカーに共通する弱点」を次のように指摘していました。

朝日新聞デジタル
存在感失った日本メーカー 外資系社長が語る「圧倒的に劣る3点」

  「日本メーカーは、日本流の品質管理、日本流の生産計画が一番いいという『神話』で動いている。アジアの拠点に日本からマネジメント層を送り込み、日本流のやり方でやるんだ、アジアの人は安い労働力として使うんだという、そういう上から目線。それではなかなかうまくいかない。客観的に見ると、日本の製造業は生産計画、品質管理、すべての面でかなり遅れている。データの取り方、使い方が昭和のやり方のまま。こと量産でコストを落とすことの真剣さは完全に中国に負けている」


ここで言う「神話」こそが「ニッポン凄い!」という自演乙にほかなりません。経済(名目GDP)成長率も先進国で最低であるにもかかわらず、急激な円安と物価高に見舞われている日本が、これから益々経済的に衰退して貧しくなっていくのは誰が見ても明らかでしょう。でも、日本のメディアは、インバウンドで日本経済が復活するかのような幻想をふりまいています。前も書きましたが、外国人観光客が日本に来るのは、日本が安い国だからです。安い国ニッポンを消費するためにやって来るのです。ただそれだけのことなのに、そこに日本再生のカギがあるかのように牽強付会するのでした。

一方で、中国のゼロコロナ政策を嘲笑うような報道も目立ちますが、私は逆に、ゼロコロナ政策に中国経済の”余裕”すら感じました。もちろん、一党独裁国家だから可能なのですが、もし日本だったらと考えても、あんなに徹底的に都市封鎖して経済活動を完全に止めることなどとてもできないでしょう。

案の定、日本は、弱毒化したとは言え、新規感染者がまだ毎日1万人以上出ているにもかかわらず、経済活動を再開しなければ国が終わるとでも言わんばかりに、昨日までの感染防止策もほとんど有名無実化するほど焦りまくっているのでした。マスクにしても、感染が落ち着いたのにどうして日本人はマスクを外さないのかと、まるでまだマスクをしているのはアホだとでも言いたげな新聞記事まで出るあり様です。しかし、そんな手のひら返しをした末に打ち出された経済活動再開の目玉が、日本のバーゲンセールとも言うべきインバウンドなのです。もうそれしかないのかと思ってしまいます。この前まで人流抑制とか言っていたのに、一転して人流頼みなのです。

もっとも、そのインバウンドにしても、コロナ前の2019年度の訪日外国人観光客31,882,049人のうち、実に33%が中国からの観光客です。欧米の中でいちばん多いアメリカ人でさえ5%にすぎません。しかも、中国人観光客の個人消費額は欧米人の約5倍で、人数だけでなく落とすお金においても中国頼りなのです。中国から観光客がやって来ない限り、インバウンドの本格的な経済効果も見込めないのが現実なのです。

1千万人単位の国民に対していっせいに無料のPCR検査を行なう中国の凄さにも驚きましたが、その上海の街の様子や検査の行列に並ぶ市民の恰好などを見て感じるのは、日本以上に洗練された豊かな都市の光景です。一党独裁国家だからという理由だけでは説明がつかない、中国の底力を見せられた気がしました。

HUAWEIがあれだけ叩かれたのも、アメリカにとってHUAWEIが脅威だったからでしょう。個人情報云々は建前で、5GのインフラをHUAWEIに握られるのを何より怖れたからでしょう。

『週刊エコノミスト』の今週号(6/21号)に掲載されていた「ウクライナ危機の深層」と題する記事で、執筆者の滝澤伯文(たきざわおさふみ)氏は、ウクライナ侵攻をきっかけに今後、世界の「軸」はアジアに移ると書いていました。もちろん、それは中国が世界の「軸」になるという意味です。

アメリカがウクライナを支援する背景には「経済利権」維持の狙いがあり、バイデン政権の中枢やその周辺には、「経済・軍事における米国の覇権を死守し、基軸通貨ドルを維持したい『最強硬派』と、米国は総体的な優位を維持しながら、中国との共存もやむなしと考える『多極主義者』」が存在し対立しているそうです。

  米国の政権中枢部は、中国とも協調すべきとする多極主義者たちのほうが多数派であり、仏独など大陸欧州も同様だ。国内総生産(GDP)で中国に抜かれても、米欧の優位性はまだしばらく続くという考え方だ。
  とはいえ、資本主義経済の優劣は人口が決め手になる。すなわち、経済では中国が勝者となり、白人優位が終わり、清王朝の最盛期だった18世紀前半以来世界の軸が300年ぶりに欧米からアジアにシフトする。究極的には、これを容認するかしないかが最強硬派多極主義者の違いだ。両者の暗闘の帰越はウクライナでの戦況さえ左右しかねない。
(『週刊エコノミスト』6/21号・「ウクライナ危機の深層」)


アメリカの尻馬に乗って核武装を唱え対抗意識を燃やす前に、まず日本人がやらなけばならないのは、好きか嫌いかではなく、虚心坦懐に現実を見ることでしょう。そうしないと、アジアの盟主として、世界を分割する覇権国家として、再び世界史の中心にその姿を現わした中国にホントの意味で対抗などできないでしょう。いつまでも現実から目をそむけて、負け犬の遠吠えみたいことを続けていても仕方ないのです。


関連記事:
日本は「買われる国」
「安くておいしい国」日本
2022.06.17 Fri l 社会・メディア l top ▲
DSC01122.jpg


武蔵小杉駅~渋谷駅~池袋駅~飯能駅~東吾野駅駅~【ユガテ】~【スカリ山】~【北向地蔵】~鎌北湖~毛呂駅~高麗川駅~昭島駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約5時間(休憩等含む)
※山行距離:約5.5キロ
※累計標高差:登り約496m 下り約455m
※山行歩数:約16,000歩
※交通費:2,828円



一昨日、埼玉(奥武蔵)の山に行きました。1年3ヶ月ぶりの山行です。

このところ長雨が続いており、予定が立てづらかったのですが、一昨日は朝から曇り空で雨が降るのは夜という予報でしたので、急遽、予定を立てて行くことにしました。

膝はまだ多少の痛みは残っています。そのため、どうしても痛い方の足をかばうところがあります。ただ、最初の頃と比べると「劇的」と言ってもいいほど改善しました。

病院も2月で終わりました。水も溜まらなくなったので、「これでいいでしょう」「あとは膝まわりをストレッチして下さい」とドクターから言われて、治療は終了になったのでした。

ドクターの見立ては「オーバーユース」でした。変形膝関節症もそんなに進行していないと言われました。ただ、私の場合、身体が大きくてその分体重も重いので、治りも遅れがちで、「ほかの人に比べて不利なんですよ」と言われました。

とは言え、自分では未だに湿布薬とサポーターは欠かせません。病院との縁が切れたので、湿布薬は薬局で買っています。

昨日は、湿布薬を貼って、頑丈なサポーターでガードして出かけました。サポーターを締めすぎたため、太腿の血流が悪くなり、痺れが出た以外は、そんなに痛みはありませんでした。ストック(トレッキングポール)を使いましたが、特別に痛みが増したということもありませんでした。

当然のことですが、体力は元に戻っています。また一からやり直すしかないのです。それを考えれば気が重いのですが、山に行きたい気持は募るばかりなので、自分を奮い立たせて出かけたのでした。

今回行ったのは、前に二度歩いたことのある西武秩父線の東吾野(ひがしあがの)駅と峠を越えた先にある鎌北湖の間のトレッキングコースです。よく知っている道なら、万一膝が痛くなってもエスケープすることができるだろうと考えたからでした。

早朝5時すぎの東急東横線に乗り、そのまま地下鉄副都心線で池袋駅まで行って、池袋から西武池袋線の飯能行きの特急に乗りました。飯能駅に着いたのが7時すぎでしたが、線路をはさんだ反対側にあるホームには、既に3分後に発車する秩父行きの電車が停まっていました。エスカレーターを急ぎ足で登り、電車に駆け込むと電車はすぐに発車しました。

西武秩父線の東吾野駅に着いたのは7時半すぎでした。降りたのは私ひとりでした。

池袋駅で特急電車を待っていたら、秩父方面から到着した電車の車体が雨で濡れていたので、もしかしたら雨が降っているのかもしれないと思い不安になりました。私は”予備がないと不安症候群”なので、スマホには”お天気アプリ”をふたつ入れています。それを見ると、ひとつは曇りなのですがもうひとつは雨の予報です。もし雨だったら秩父まで行って、温泉にでも入って帰ろうと思いました。

しかし、東吾野駅に着いたら雨は上がっていました。雨は上がったばかりみたいで、駅前のベンチは座ることができないほどまだ濡れていました。

飯能から秩父までは谷底の川沿いを国道299号線が走っているのですが、秩父線はそれを見下ろす高台を走っており、国道に出るにはどこの駅からも坂道を下らなければなりません。

通勤時間帯にもかかわらず人気のない駅前の広場で準備をして、坂道を下り、交番の前を通って国道を少し進むと、吾野神社の階段が見えてきます。今回歩く登山道は社殿の横にあります。

この登山道は「飛脚道」と呼ばれています。江戸時代、飛脚の緊急用の裏道だったそうです。その道を現代の私たちは、重いザックを背負い登山靴を履いて歩いているのです。

3年ぶりですが、道案内の指導標も新しくなり、しかも、日本語の下に英語でも行先が書かれていました。前にも書いたことがありますが、都内から近いということもあって、このあたりのトレッキングコースは外国人が非常に多いのです。実際に歩いていると、必ずと言っていいほど外国人とすれ違います。昨日も、峠の途中にあるユガテという集落で休憩していたら、若い白人の女性二人組が英語でキャーキャーお喋りしながら通り過ぎて行きました。

前に峠の茶屋のご主人が、外国人のハイカーが多いので、週末はイギリスへの留学経験がある知り合いの女の子にアルバイトに来てもらっている、と話していたのを思い出しました。

平日のしかも梅雨の合間なので、山中で遭う人は少なくて6~7人くらいしかいませんでした。外国人の女性以外はみんな中高年のハイカーでした。

雨が上がったばかりなので、周辺の草木はまだ濡れており、地面もぬかるんでいます。そのため、靴やスボンの裾も泥ですぐ汚れてしまいました。それに、岩や木の枝にうっかり足を乗せると滑ってしまいます。私も急登を下っている際に濡れた木の枝に足を乗せてしまい尻もちをつきました。

今回のルートは、途中に小さな山が点在しているのが特徴で、ユガテに行く途中にも、橋本山という山があって、そこに差し掛かると「男坂」と「女坂」の案内板が立っていました。私は今までは「女坂」を歩き橋本山をスルーしていたのですが、今回は「男坂」から橋本山を登ってみることにしました。

この「男坂」「女坂」という表示は山の「あるある」で、身近でも高尾山や御岳山や大山や伊豆ヶ岳や武川岳などにあります。「男坂」は直登して山頂に至るコース、「女坂」は山頂を巻く(あるいは巻いて山頂に至る)コースの意味で、「男坂」はきつい道、「女坂」はゆるやかな道を示しているのです。

しかし、今のジェンダーレスの時代に、こういった表現に違和感を抱く人もいるでしょうし、時代にそぐわないという声が出てもおかしくないでしょう。「男坂」「女坂」には、男=きつい=逞しい、女=楽=ひ弱という固定観念が間違いなくあるのでした。

山は男のもんだよ、女が山に来るのは迷惑だみたいに嘯くおっさんが山に多いのは事実ですが(そういうおっさんたちに限って熊鈴がうるさいとかアホなことを言う)、そういうおっさんたちもあと10年もすれば山から姿を消すでしょう。そんなアナクロなおっさんたちが牽引してきた”山の文化”がこれから大きく変わるのは間違いありません。

だからと言って、何度も書いているように、アナクロなおっさんに引率され武蔵五日市駅や秦野駅のバス停に蝟集する、おまかせ登山のおばさんたちの振舞いが、ジェンダーレスとはまったく異なる次元の問題であることは言うまでもありません。一方で、女性登山家が”登山界”で「名誉男性」のような扱いを受けることにも違和感を覚えてなりません。

前に人流の「8割削減」を受けて登山の自粛を呼びかけた日本山岳会の愚行を批判しましたが、そもそも昔取った杵柄のようなおっさんたちが牛耳る日本山岳会の”歪さ”も考えないわけにはいきません。それこそ「男坂」「女坂」の象徴のような組織と言えるでしょう。「山の日」ってなんだよ、国立公園と言いながら、登山道の整備も民間のボランティア任せのようなおざなりな現実を見れば、もっと他にやるべきことがあるだろう、と言いたいのです。

橋本山の「男坂」はたしかにきつかったですが、ただ距離か短かったのでそれほどつらく感じませんでした。小さな山なので、山頂と言ってもそれほど広いスペースがあるわけではなく、ただの見晴らしのいい場所という感じでした。昔、埼玉に住んでいたとき、この山域にもしょっちゅう来ていて、林道に車を止めて見晴らしのいい場所までよく登っていましたが、橋本山も前に来たような錯覚を覚えました。

ユガテで休憩したあと、エビガ坂というチェックポイントまで行き、エビガ坂の分岐からは今まで歩いたことのないルートに歩を進めました。同じ鎌北湖に下りるのに、少し迂回して下りようと思ったのでした。

しばらく進むと、今回のメインであるスカリ山がありました。スカリ山は標高434メートルの低山で、このルートにある小さな山のひとつにすぎないのですが、スカリ山が注目されたのは伐採されて眺望がよくなってからで、それまでは誰からも見向きもされない「不遇の山」だったそうです。従来のハイキングルートはスカリ山を巻く(スルーする)ように設定されていたため、道標もなく、道も整備されておらず、道迷いも発生していたのだとか。特に、今回登った西側からは急登がつづき、ミッツドッケの山頂への直登ルートによく似ていました。きつさもミッツドッケの山頂に匹敵すると言ってもオーバーではないくらいでした。

岩と石がむき出しになった急登を登ったら、まったく眺望のないスペースに出ました。あれっと思ってスマホでルートを確認すると山頂はまだ先の方でした。でも、先は急な下りになっています。「エッ、これを下るのかよ」と思っていたら、60代くらいの女性がひとりで登って来ました。

「ここが山頂ではないんですよね?」
「そうみたいですね。私も初めてなんですがスマホで見るともっと先ですね」と言ってました。そして、そのまま急坂を下って行きました。

地面が濡れているので、身体を横向きにして慎重に下らなければならず神経を使いました。小さなコルに下りると、また見上げるような急登が目の前に現れました。足が全然進まず筋力が落ちていることを嫌というほど思い知らされました。ヒーヒー息が上がり、頭から玉のような汗が滴り落ちています。でも、一方で、そんな自分がちょっと嬉しくもありました。そうやって再びひとりで山に登る喜びを実感しているのでした。

山頂の手前の木の枝に「スカリ山」という小さな札が下げられていました。まだ人にあまり知られてない頃の名残りなのでしょう。その札を過ぎると突然、開けた場所に出ました。スカリ山の山頂でした。

「いやあ、これは凄いな」と思わず声が出ました。想像だにしなかった眺望が北側に広がっていました。小さなベンチが四つ山頂を囲うようにありました。眺望を見渡せるベンチに、夫婦とおぼしき60代くらいの男女のハイカーが座っておにぎりを食べていました。その横のベンチには、手前のスペースで会った女性が座っていました。女性は私の方に振り返ると、「お疲れ様でした」と言いました。そして、帰り支度をはじめ、「どうぞ、ここに座って下さい」と言いました。私は、「いいですよ。こっちに座りますので。ゆっくりして下さい」と言いましたが、女性はそのままザックを背負うと「お先に失礼します」と言って、登って来た道と反対側の道を下って行ったのでした。

反対側の道もかなりの急登で、私はそこで尻もちをついたのですが、ただ、距離は短くてそれほど時間もかからず林道に出ました。反対側からだと林道に車を停めれば、急登ではあるものの短時間で登ることができます。私が昔よくやっていたスタイルなので、もしかしたらここも来たことがあるかもしれないと思ったりしました。

スカリ山の標高434メートルは私の田舎より低いのですが、山頂からは毛呂山町や坂戸市の街並みだけでなく、遠くに長沢背稜から延びる蕎麦粒山や日向沢ノ峰(ひなたざわのうら)などの山々や群馬の山も見渡すことができました。

アスファルトの林道を15分くらい歩くと、今回のもうひとつの目的である北向(きたむかい)地蔵が林道沿いにありました。北向地蔵にお参りすると、再び登山道に入りあとはゆるい坂道をひたすら鎌北湖に向けて下って行きます。40~50分歩くと鎌北湖畔の廃墟になったホテルの横に出ました。

帰ってスマホのアプリで歩いたルートを確認すると、5つの山を登ったことになっていましたが、私が山頂を意識したのは、橋本山とスカリ山と、それからスカリ山の隣りにある観音ケ岳という3つの山だけでした。

鎌北湖では堤防の上に座って、コンビニで買ってきたおにぎりを食べました。下りて来たのが12時半近くで、1時間近く湖畔でゆっくりしたあと、鎌北湖から約1時間かけて八高線の毛呂駅まで歩きました。鎌北湖から毛呂駅までは5キロ近くあります。今まで何度も歩いていますが、一昨日がいちばんつらく感じました。山を歩くよりつらかったかもしれません。

毛呂からは昭島、昭島からは中央線で立川、立川からは南武線で武蔵小杉、武蔵小杉からは東横線で最寄り駅まで帰りました。途中の電車の乗り換えにえらく時間がかかり、最寄り駅に着いたのは午後5時半近くになっていました。鎌北湖から何と4時間もかかったのです。

帰ってズボンを脱いだら、お尻から下に一面泥が付いていました。知らぬが仏で、その汚れたズボンで電車を乗り継いで帰って来たのでした。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

DSC_0014.jpg
西武池袋線・特急ラビューむさし1号の車内(1号車)

DSC00953.jpg
東吾野駅

DSC00961.jpg
吾野神社の階段

DSC00963.jpg
吾野神社

DSC00965.jpg
吾野神社の謂れ

DSC00968.jpg
吾野神社にあった標識

DSC00970.jpg
登山道(飛脚道)

DSC00986.jpg
途中からの眺望

DSC00978.jpg

DSC00988.jpg
途中の分岐にあった標識

DSC00993.jpg
分岐

DSC01002.jpg
橋本山山頂標識

DSC01011.jpg
橋本山からの眺望

DSC01012.jpg
橋本山の山頂

DSC01023.jpg
飛脚道の案内図

DSC01030.jpg

DSC01045.jpg
ユガテの入口にあった標識

DSC01047.jpg
ユガテ入口

DSC01050.jpg
ユガテの案内看板

DSC01059.jpg
ユガテ

DSC01070.jpg
同上

DSC01073.jpg
同上

DSC01082.jpg

DSC01083.jpg
エビガ坂分岐

DSC01085.jpg
同上

DSC01090.jpg
スカリ山登り口

DSC01098.jpg
急登を上から見る

DSC01093.jpg
急登

DSC01104.jpg
同上

DSC01109.jpg
「スカリ山」木札

DSC01124.jpg
スカリ山山頂
雨で煙っていたため、山頂から見た山の写真はうまく撮れていませんでした。

DSC01122.jpg
スカリ山山頂標識

DSC01145.jpg
北向地蔵

DSC01147.jpg
北向地蔵の謂れ

DSC01156.jpg
鎌北湖への道

DSC01169.jpg
同上

DSC01179.jpg
湖畔の廃墟のホテル

DSC01183.jpg
鎌北湖
2022.06.10 Fri l 山行 l top ▲
前の記事の続きになりますが、今回のウクライナ侵攻をきっかけに、国家はホントに頼るべきものなのか、できる限り国家から自由に生きるにはどうすればいいのか、ということを考えることが多くなりました。

今のように無定見に身も心も国家に預けたような生き方をしていたら、たとえば、ウクライナのように”国家の災難”に見舞われたとき、私たちは容赦なく国家と運命をともにすることを余儀なくされるでしょう。

国家に命を捧げるのが「英雄」とされ、それを支えた家族の物語が「美談」として捏造され称賛されても、人生の夢や希望が一瞬にして潰えてしまい、家族とのささやかでつつましやかな日常もはかない夢と化してしまうことには変わりがないのです。

そういった考えは、前の戦争のときよりは私たちの中に確実に根付いています。大震災からはじまってコロナ禍、そしてウクライナ侵攻と、国家が大きくせり出している今だからこそ、そんな”身勝手な考え”が大事なように思うのです。

現在、与野党を問わず政治家たちの間で、核武装も視野に敵基地攻撃能力を保有して、ロシアや中国の脅威に対抗しようというような勇ましい言葉が飛び交っていますが、では、誰がロシアや中国と戦うのですか?と問いたいのです。汚れ仕事は自衛隊に任せておけばいいのか。そうではないでしょう。

時と場合によってはロシアや中国と戦争することも覚悟しなけばならないというのは、当然ながら自分の人生や生活より国家の一大事を優先する考えを持つことが必要だということです。国家や家族を守るために、みずからを犠牲にするという考えを持たなければならないのです。

国家の論理と自分の人生、自分の生き方はときに対立するものです。俗な言葉で言えば、利害が対立する場合があります。まして命を賭す戦争では尚更でしょう。当然、そこに苦悩が生まれます。しかし、天皇制ファシズムの圧政下にあった先の大戦においては、そういった苦悩はほとんど表に出ませんでした。むしろ、没論理的に忠君愛国に帰依するような生き方に支配されたのでした。私たちは、のちに第一次戦後派と言われた若い文学者たちが、官憲の目を逃れて人知れず苦悩していたのを僅かながら知るのみです。しかし、現代はそうではありません。ささやかでつつましやかな幸せを一義と考えるような”ミーイズム”が人々の中に当たり前のように浸透しています。

そんな戦争に象徴される国家の論理と自分の生き方との関係性を考えるとき、朝日に掲載されていた次のような記事がとても参考になるように思いました(私は朝日新聞デジタルの有料会員なので、どうしても朝日の記事が中心になってしまいますがご容赦ください)。

最初は、過酷な引き揚げ体験を持つ五木寛之氏のインタビュー記事です。

朝日新聞デジタル
国にすてられ、母失った五木寛之さん 「棄民」の時代に問う命の重さ

五木氏は、現在は「棄民の時代」だと言います。そして、次のように言っていました。

 ――「はみ出した人々」ですか。初期のころから使ってこられたフランス語の「デラシネ」という言葉も印象的です。

 「デラシネとは『流れ者』じゃない。すてられた国民のことなんですよ。今の言葉だと、まさに難民です。これからの世界で、難民の問題がとても大きくなっていくでしょう。どうも、デラシネ、根無し草というと流れ者のような感じで、自分から故郷を出て行ってフラフラしている人っていうイメージを持つ人もいるんですが、ぜんぜん違う。たとえば、スターリン時代に、まさにウクライナなどから強制的に移住させられてシベリアへ移った大勢の人たちもそうです。政治的な問題や経済的な問題で、故郷を離れざるを得なかった人たちのことをデラシネだと僕は考えている」

 「私自身が難民であり、国にすてられた人間でした。敗戦の時に、日本の政府は、外地にいた650万人もの軍人や居留民が帰ってきては食料問題などもあって大変だと考えたんでしょうが、『居留民はできるだけ現地にいろ。帰ってくるな』という方針を打ち出していたのです。それを知ったときには怒り心頭に発しました。一方で当時の軍の幹部や官僚、財閥などの関係者といった人々は、私たち一般市民と違って、戦争が終わる前から家財道具と一緒に平壌から逃げ出していたのですから」

 「平壌はソ連兵に占領され、母を失い、収容所での抑留生活を余儀なくされました。戦後2年目に、私たちはそこから脱北しました。妹を背負い、弟の手を引いて、徒歩で38度線を越え、南の米軍キャンプにたどり着いたのです。国にすてられた棄民という心の刻印は一生消えません」

 「デラシネの基本思想だと私が思っているのは、評論家の林達夫さんの指摘です。移植された植物の方が、そこに原生の植物より生命力があると。最初からその地に生まれ育ったものより、無理やり移されたものには、『生命力』や『つよさ』があるというのです。もちろん例外はあるでしょうが、僕はそれを頼りにして生きてきました」

 「難民として世界に散らばって生きていかざるをえない人々が日々たくさん生まれていますが、その境遇をマイナスとだけ捉えないで、どうかプラスとして考えて生きていって欲しいと思います」


「棄民」というのは、文字通り国家に棄てられたという意味です。「難民」も似たような意味ですが、しかし一方で、「棄民」の方が国家との関係性において積極的な意味があるような気がします。国家に棄てられたというだけでなく、みずから国を棄てた(棄てざるを得なかった)というような意味もあるような気がするからです。だったら、五木氏が言うように「棄民の思想」というのがあってもいいのではないかと思うのです。

今の日本にも、「難民」ではなく、実質的に「移民」と呼んでもいいような人たちが政府の建前とは別に存在します。彼らは、ときに日本人から眉をしかめられながらも、逞しく且つしたたかに生きているのは私たちもよく知っています。そんな彼らの中に、私は「棄民の思想」のヒントがあるような気がするのです。

ロシアや中国に対抗するというのなら、国の一大事か自分たちの幸せかの二者択一を迫られる日が、再び来ないとも限りません。今のウクライナを見てもわかるように、国家というのはときにそんな無慈悲な選択を迫ることがあるのです。それが国家というものなのです。

話が脇道に逸れますが、健康保険証を廃止してマイナンバーカードに一本化するという政府の方針も、たとえば国家が国民の健康状態を一元管理できれば、医療費の抑制だけでなく、いざ徴兵の際に迅速に対応できるという安全保障上の思惑もなくはないでしょう。もちろん、そうやってマイナンバーカードが義務化されれば、GooglePayどころではないさまざまな個人情報を紐付けることも可能で、ジョージ・オーウェルも卒倒するような超監視社会の到来も”夢”ではないのです。

たまたま今、『AI監獄 ウイグル』(新潮社)という本を読んでいるのですが、著者のジェフリー・ケインは、本の中で、中国政府はウイグル自治区を「ディストピア的な未来を作り上げる最先端の監視技術のための実験場に変えた」と書いていました。その先兵となったのが、アメリカのマイクロソフトと中国のIT企業が作った合弁企業です。それを著者は「不道徳な結婚」と呼んでいました。

もちろん、その監視技術は、コロナウイルス対策でも示されたように、ウイグルだけでなく、既に中国全土に広がっているのです。そうやって超監視社会に進む中国の現実は、私たちにとっても決して他人事ではないのです。と言うか、日本政府は中国に対抗するために、中国のようになりたいと考えているようなフシさえあるのでした。国民の個人情報を一元管理して迅速で効率的な行政運営をめざす日本の政治家や官僚たちにとって、もしかしたら中国共産党や中国社会こそが”あるべき姿”なのかもしれないのです。

もうひとつは、明治大学教授(現代思想研究)の重田園江氏が書いた、映画監督セルゲイ・ロズニツァをめぐる言説の記事です。

朝日新聞デジタル
体制に同意せざる者の行き場は 映画監督セルゲイ・ロズニツァに思う

ちなみに、セルゲイ・ロズニツァは、「1964年、ベラルーシ(当時のソ連)に生まれ、幼少期に一家でキーウに移住した。コンピューター科学者として勤務した後、モスクワの全ロシア映画大学で学んだ。サンクトペテルブルクで映画を制作し、今はベルリンに移住している」映画監督で、文字通り五木寛之氏が言う「デラシネ」のような人です。

彼は、ウクライナ侵攻後、ロシア非難が手ぬるいとしてヨーロッパ映画アカデミー(EFA)をみずから脱退したのですが、ところが翌月、今度はウクライナ映画アカデミー(UFA)から追放されたのでした。UFAがセルゲイ・ロズニツァを追放した理由について、重田氏は次のように書いていました。

UFA側の言い分はこうだ。ロシアによる侵略以来、UFAは世界の映画団体にロシア映画ボイコットを求めてきた。あろうことかロズニツァはこれに反対している。彼はロシア人の集団責任を認めていないのだ。ロズニツァは自らを「コスモポリタン(世界市民)」と称している。だが戦時下のウクライナ人に望まれるのは、コスモポリタンではなくナショナル・アイデンティティーなのだ、と。


ここにも今の戦時体制下にあるウクライナの全体主義的な傾向が見て取れるように思います。さらに重田氏はこう書いていました。

 ロズニツァは、コスモポリタンであることを理由に人を非難するのはスターリニズムと同じだという。スターリンは晩年、「反コスモポリタン」を旗印にユダヤ人迫害を強めたからだ。ロシア、そして世界の至るところに「ディセント=体制に同意せざる者」がいる。映画を通じて体制への疑念や物事の多様な見方を表現する者たちは、世界から排除されれば行き場を失うだろう。

(略)

 国家に住むのは人びとである。彼らは多様な感情と思想を持って生きている。悲惨な戦争のさなかにあっても、ナショナル・アイデンティティーに訴えて少数者や異端者を排除するのは危険である。ロズニツァはそれを誰よりも理解している。

 芸術家は、ハンナ・アーレントがエッセー「真理と政治」において示した、真理を告げる者である。政治は権力者によるうそをばらまくことで、大衆を操作し動員してきた。これに対し、芸術家は政治の外に立って、人びとが真理とうそを区別するための種をまく。政治がコスモポリタンたる芸術家を排除し、うそと真理を自在に作り変えるなら、真理はこの世界から消え去るだろう。後に残るのは政治的意見の相違だけだ。

 私たちは戦争をめぐるうそを聞かされすぎた。いまは世界を蝕(むしば)むこうした言葉を聞くべき時ではない。真理とうその区別がなおも世界に残ることを望むなら、その種を芸術と歴史のうちに探すべき時だ。


敵か味方かという戦時の言葉に席捲された世界。それは芸術においても例外ではないのです。もちろん、戦争当事国であるかどうかも関係ありません。

いくら侵略された被害国だからと言って、コスモポリタンであることを理由に非難され追放されるような社会、そんな国家(主義)を私たちはどう考えるかでしょう。だったら、「棄民の思想」を対置してそれをよすがに逞しく且つしたたかに生きていくしかないのではないか。そんな人々と「連帯」することが大事ではないのかと思います。

もっとも、UFAのような愚劣な政治の言葉は、ウクライナだけではありません。先日、国家の憎悪を一身に浴び20年の刑期を終えて出所したS氏(どっかのブログを真似てイニシャルで書いてみた)に対する、日本共産党や立憲民主党に随伴する左派リベラル界隈の人たちから浴びせられた罵詈雑言も同じです。愚劣な政治の言葉でひとりの人間の存在を全否定する所業は、昔も今も、左も右も、ウクライナも日本も関係ないのです。S氏の短歌のファンである私は、衣の下から鎧が覗いたような彼らの寒々とした精神に慄然とさせられたのでした。
2022.06.04 Sat l ウクライナ侵攻 l top ▲
昨日、朝日に下記のような記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
ゼレンスキー氏、男性の出国求める請願書に「故郷守ろうとしてない」

ウクライナは現在、戒厳令と総動員令がセットになった戦時体制下にあり、政党活動は禁止され、18~60歳の成人男性の出国も禁止されています。もちろん、ロシアの理不尽な侵攻に対して一丸となって戦うためですが、政党活動が禁止されているというのは、実質的に政府のやることに異を唱えることができないということでもあります。その意味では、きつい言い方ですが、今のウクライナはロシアよりむしろ全体主義的な状況にあると言っていいのかもしれません。

余談ですが、昨日の「モーニングショー」では、ロシアでは戦場に派遣する兵士が不足して、片目がない身障者まで駆り出されているというウクライナのニュースを紹介していました。そして、例によって例の如く電波芸者コメンテーターの石原良純や山口真由らがああでもないこうでもないと与太話をくり広げていました。

もっとも、ロシアは徴兵制度はあるものの、ロシア軍は志願兵が主体で、徴兵制によって集められた兵士の割合は全体の2割以下だと言われています。ホントに身体障害者を戦場に派遣するほど兵員不足なら、もっと徴兵制の運用を強化するでしょう。スマホのアクセスログなどのチェックはあるみたいですが、ウクライナと違って男性の出国も可能です。そのため、多くの若者が侵攻に失望して国を離れていると言われているのです。

戦争なのですから、情報戦が行われるのは当然です。にもかかわらず、そうやって敵か味方かの二項対立で多分にバイアスのかかったニュースを取り上げ、戦争当事国の片方に肩入れするような「言論の自由度ランキング」71位の国のメディアでは、現在の戦況を含めて”ホントのこと”を知ることはできないでしょう。日本のメディアの報道は極めて政治的で、むしろ戦争を煽るものと言うべきなのです。

話は戻りますが、記事によれば、ウクライナでは、成人男性の出国禁止に対して、出国を「可能にすることを求める請願書に2万5千人の署名がインターネット上で集まっている」のだそうです。

そのネット請願に対して、ゼレンスキー大統領は、次のように「不快感を示した」のだとか。

「この請願書は誰に向けたものなのか。地元を守るために命を落とした息子を持つ親たちに、この請願書を示せるのか。署名者の多くは、生まれ故郷を守ろうとしていない」


バイデンと一緒になって「ウクライナ頑張れ」と外野席から声援を送っている人たちから見れば、ゼレンスキーの言うとおりで、何と「身勝手」な人たちなんだろうと思うかもしれません。

しかし、私は、民衆は国家に対して「身勝手」を言う権利と言うか、資格はあるだろうと思います。それが民主主義ではないのか。「身勝手」が言えないなら全体主義国家でしょう。「国を出るなら勝手に出ろ、その代わり二度と戻ってくるな」と言うのならまだわかりますが、国を出ることは一切認められない、そんな人間は”非国民”だとでも言いたげなゼレンスキーの発言は、どう見ても全体主義者のそれに近いものです。

ゼレンスキーが求めているのは、最後の一人まで戦えということです。文字通り戦前の日本が掲げた「進め一億火の玉だ」と同じ愛国心を求めるものです。ゼレンスキーは国を守るために国民に銃を渡すと言っています。総動員令というのは国民皆兵と同義語なのです。その意味では(暴論を承知で言えば)ブチャなどのジェノサイドも、「起こるべくして起こった」とも言えるのです。国民皆兵であれば、誰が兵士で誰が兵士でないか(誰が銃を持っているか)わからないでしょう。戦場の極限状況の中では疑心暗鬼に囚われ、「だったら皆殺しにしてしまえ」と命令が下されるのは「あり得ないことではない」ように思います。同じようなジェノサイドは、旧日本軍もやったし、アメリカも朝鮮やベトナムでやってきたのです。

今も毎日多くのウクライナ国民がロシア軍の銃弾の犠牲になっているのは、ゼレンスキーの言うとおりです。しかし、ゼレンスキーら指導部は、厳重に警護された安全地帯にいて、ただ国民を鼓舞するだけです。もちろん、鼓舞すればするほど国民の悲劇は増すばかりです。それでも、ゼレンスキーは、今の時点で和平交渉を行うつもりはないと明言しています。

もしかしたら、国民の犠牲と引き換えに、和平交渉に向けて有利な条件を創り出そうとしているのかもしれません。犠牲になった国民に対しては、「お前は英雄だ」と言っておけばいいのです。戦争では、いつの時代も国家が「英雄」の空手形を乱発するのが常です。

今回の戦争は、21世紀とは思えない古色蒼然としたものだと言われますが、しかし、戦争に駆り出される国民の間に、戦争で死んで「英雄」扱いされるより(戦争で犬死するより)、目の前の幸せを守る方が大事だという考えが前の世紀より浸透しているのはたしかな気がします。井上光晴が『明日』 という小説で、原爆投下の前日(1945年8月8日)の長崎の庶民の一日を描いたように、国家が強いる”運命”より以前に、私たちには人生の夢や希望や悲喜こもごもの日常が存在するのです。戦争のやり方は進歩していないけど、戦争に向き合う人々の意識は多少なりとも進歩していると言えるのではないでしょうか。

小室さんと眞子さんの結婚で盛んに言われた”幸福追求権”を持ち出すまでもなく、自分の運命は自分で決める、戦争で死にたくない、そのために、国を出て戦争で死なない人生を選択したいと思うのはごく自然な気持でしょう。でも、国の指導者は、愛国心を盾に彼らを”非国民”扱いして不快感を示すのです。不快感だけならまだしも、警察権力を使って拘束した上で、強制的に前線に送ることだってあるかもしれません。

「平和国家」の国民を自認するのなら、バイデンやメディアに煽られて「ウクライナ頑張れ」と声援を送るだけでなく、戦争で死にたくないと思う人たちの存在や、その人たちの視点からこの戦争を見ることも必要ではないのか。

反戦平和のためには、あるいは「ウクライナを救え」と言うのなら、戦争で死にたくない(銃を持ちたくない)と思っているウクライナの人たちや、ロシアの内外で侵攻に反対し心を痛めているロシアの人たちと、国を越えて「連帯」することでしょう。

ヒューマニズムを標榜するなら、戦争の論理や国家の論理より個人の論理、個人の事情を優先する考えをまず持つことでしょう。日本でのメディアの報道姿勢や国民の関心の持ち方を見ると、所詮は戦争の論理や国家の論理を忖度し拝跪したものにすぎません。そんなものはヒューマニズムでも何でもないのです。

前も書きましたが、たとえば、テレビで得々と戦況を解説している防衛省管下の防衛研究所の研究員にしても、彼らはヒューマニズムとは無縁な(税金を使って)戦争を研究する専門家です。戦略や戦術を研究して理論化する、言うなれば”戦争屋”なのです。その簡易版が「軍事評論家」と称するフリージャーナリストたちです。そんな彼らの戦争の論理がテレビを通して”お茶の間”を席捲し、多くの国民のこの戦争に対する視点を決定付けているのは否定すべくもない事実でしょう。これこそプロパガンダと言うべきではないでしょうか。
2022.05.24 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲
マリウポリのアゾフスターリ製鉄所で、2ヶ月以上に渡って抵抗していたウクライナ軍(アゾフ大隊)がついに投降、ウクライナ政府も任務の完了=敗北を認めました。

アゾフスターリ製鉄所の陥落について、朝日新聞は、これで「ロシアが占領するクリミア半島とウクライナ東部をつなぐ要衝を、ロシアが近く完全制圧する可能性が高くなった」と伝えています。

併せて、「ウクライナ戦争で最も長く血なまぐさい戦闘が、ウクライナにとって重要な敗北に終わる可能性がある」というロイター通信の見方も紹介していました。

朝日新聞デジタル
ロシア軍、マリウポリ完全制圧へ 「最も血なまぐさい戦闘」が節目

また、メディアは、当初、投降した兵士たちがロシア支配地域に移送されたことで、今後、兵士たちは捕虜交換に使われる見込みだと報じていました。ところが讀賣新聞は、ネオナチのアゾフ大隊の兵士たちは、ウクライナに引き渡さない可能性が出てきたと伝えています。

讀賣新聞オンライン
「アゾフ大隊」兵士の引き渡し、ロシア拒否か「彼らは戦争犯罪者」…捕虜交換の禁止案

ロシア下院は18日、ウクライナ南東部マリウポリのアゾフスタリ製鉄所から退避した武装組織「アゾフ大隊」の兵士と、ロシア兵との捕虜交換を事実上禁じる法案を審議する。アゾフ大隊の兵士のウクライナへの引き渡しにロシアが応じない可能性が出てきた。


私たちは、こういった報道を見ると、頭が混乱してしまいます。私たちが日頃接している報道では、士気の高いウクライナ軍によって、ロシア軍は各地で劣勢を余儀なくされ、それに加えて厭戦気分も蔓延しているため、今にもロシアの侵攻は失敗で終わるかのようなイメージを抱いていたからです。

もっとも、「国境なき記者団」が先日発表した2022年の「報道の自由度ランキング」では、日本は世界180の国や地域のうち71位でした。私たちが日々接しているのはその程度の報道なのです。

何度も言いますが、戦争なのですから敵も味方もありません。どちらもプロパガンダが駆使され、真実が隠されるのは当然のことです。でも、日本人はそんなことは露ほども念頭になく、まるでサッカーの代表戦と同じように、「ウクライナ大健闘」を信じ込んでいるのでした。

ウクライナから日本に避難した人たちが、記者会見で、祖国を離れて安全な日本に避難したことに後ろめたさを覚えるとか、祖国のために戦っている同胞を誇りに思うとか、今年の秋(何故か今年の秋を口にする人が多い)までには戦争が終わって祖国に帰ることを望んでいるとか言うと、日本人も彼らに同調して、そう遠くない時期にウクライナ勝利で戦争が終わるかのように思い込んでいるのです。

しかし、それは、ウクライナ人たちが戦時体制の中で、自由にものを考えることを禁止されているからに他なりません。ロシアの侵略はまぎれもない蛮行=戦争犯罪ですが、でも、もはやウクライナは取り返しがつかない国家の分断に向っているように思えてなりません。

とは言え、ウクライナの国民たちは皆が皆、”ロシア化”に反発しているわけでもありません。ロシア語の話者たちの中に、ロシアへの帰属を望んでいる人たちがいるのも否定できない事実です。一方で、ロシアの支配地域に住んでいながら帰属を望まない人たちもいます。

勝ったか負けたか、敵か味方かではなく、そんな国家に翻弄される人々の視点で戦争を見ることも大事でしょう。いつの戦争でもそうですが、そこには私たちの想像も及ばない個々の事情とそれにまつわる悲劇が存在するのです。

どっちの国が正しいかではないのです。まして、どっちの国に付くかでもないのです。大事なのは、人々が国家から少しでも自由になることでしょう。戦争の際、「国のために死ぬな」という言葉がリアリティを持つのはそれ故です。国家の論理に対して、人々の個々の論理、個々の事情が対置されるべきだし優先されるべきなのです。ホントに戦争に反対し「ウクライナを救え」と言うのなら、まず「国のために死ぬな」と言うべきでしょう。

「ウクライナを救え」の人たちの間では何故かタブーになっていますが、そもそも今のウクライナは、ロシア革命に勝利したボリシェヴィキによって半ば人工的に作られた国という側面もなくはないのです。プーチン政権は、それを持ち出して、ロシア語の話者が多く住む地域をロシアに併合する暴挙に出たのでした。もちろん、そこには、NATOの東方拡大に対する危機感やロシア帝国再興の野望(大ロシア主義)もあったでしょう。

一方、ウクライナ国内でも、オレンジ革命による民主化への高まりによって、逆に「二つのウクライナ」が政治的に大きなテーマになり、ネオナチの集結とともにロシア語話者に対する差別や迫害がエスカレートしていったのでした。「民主主義」とネオナチが、反ロシアと愛国(ウクライナ民族主義)で手を結んだのです。そこにも、西欧的価値観=西欧民主主義の限界と欺瞞性が露呈されているように思います。そして、オレンジ革命の「二つのウクライナ」は、2014年のユーロマイダン革命の悲劇へとつながっていったのでした。

何度もくり返しますが、勝ったか負けたかでも、敵か味方かでもないのです。戦争で命を奪われた人々は「英雄」でもないし、「美談」の主人公でもありません。占領されると、お前はどっちの側だと旗幟鮮明を迫られ、敵側だと見做されると拷問されて殺害されるのです。「お国のため」という美名のもとに兵士になり、国家からは「英雄」だと持ち上げられ、家族からは「誇り」だと尊敬されても、敵国に捕らえられると容赦なく命を奪われ、”家庭の幸福”も一瞬にして瓦解します。

それでもアメリカは、和平の「わ」の字も口にすることなく、「お前たちは英雄だ」「もっとやれ」「もっと戦え」「武器はいくらでも出すぞ」と言って、ゼレンスキー政権を煽りつづけているのでした。まるでそうやってロシアをウクライナに張り付かせていた方が、都合がいいかのようにです。そこにあるのは、ヒューマニズムや民主主義で偽装された大国の都合=国家の論理だけです。

先日、床屋で髪を切っていたら、テレビからロシア軍がアゾフスターリ製鉄所に籠城するアゾフ大隊に対して、白リン弾を使用したというニュースが流れました。すると、それを観ていた床屋の主人が、「でも、アメリカだってベトナムで同じことをやってたじゃないですか。だからドクちゃん何とかちゃんみたいな奇形児が出来たんでしょ」と言ってました。たしかに、その通りです。アメリカはどの口で言っているだという話でしょう。

しかも、アゾフスターリ製鉄所で化学兵器を使ったという話も、確証がないままいつの間にか消えてしまったのでした。このようにウクライナ側の情報も、(ロシアに負けず劣らず)フェイクなものが多いのです。

ウクライナは、アメリカやNATO諸国にとって、所詮は”捨て駒”なのです。誰かも同じことを言って炎上していましたが、ロシアの体力を消耗させるのために、アメリカが用意したサンドバックのようなものです。「ウクライナを救え」と言うのなら、いい加減そのことに気付くべきでしょう。


関連記事:
「戦時下の言語」とジャーナリズムの死
2022.05.19 Thu l ウクライナ侵攻 l top ▲
「きっこのブログ」でおなじみのブロガー・きっこが、先日、次のようにツイートしていたのが目に止まりました。


なんだよ、これは。山で遭難した人間をそんな目で見ていたのか、と思いました。開いた口が塞がらないとはこのことでしょう。

きっこは、「オムライス党」と呼ぶ社民党のシンパであることを公言し、特に激しい安倍政権批判で人気ブロガーになったのですが、こういった登山に対する予断と偏見を何のためらいもなく書き散らしているのを見て、あらためて彼女の底の浅さ、危うさを痛感させられた気がしました。

それは、(古い言い方ですが)朝日新聞の”リベラル風”とよく似ているように思います。

前も書きましたが、1950年代半ばに、北朝鮮への帰還事業と並行して「内地に居留する旧植民地出身者を追い出す」ために、旧厚生省が主導した生活保護叩きのキャンペーンが行われたのですが、その際、キャンペーンのお先棒を担いだ朝日新聞には、「こんなに贅沢な朝鮮人受給者」「(受給者の家に行くと)真新しい箪笥があった」「仕事もしないで一日中のらりくらい」というようなバッシングの記事が連日掲載されていたそうです。今のネトウヨが主張する「在日特権」のフォーマットは60年前の朝日新聞にあったのです。

私たちは、”左派的なもの”や”リベラル風なもの”をまず疑わなければならないのです。

もちろん、登山というのはあくまで趣味=遊びにすぎません。登山が趣味の人生であっても、登山より大事なものは沢山あります。新興宗教にのめり込む信者と同じように、仕事そっちのけで登山にのめり込む人間もいますが、そんな人間はハイカー(登山愛好者)の基準ではないし、ましてや憧れでも尊敬の対象でもありません。私が登山ユーチューバーの動画を観て違和感を抱くのはその点です。だからと言って、きっこのような言い草はないでしょう。これではヤフコメなどの下等な”遭難者叩き”と寸分も変わらないのです。

たかが登山の話なのに大袈裟と思われるかもしれませんが、そこには”左派的なもの”や”リベラル風なもの”が依拠するこの社会の本質が露呈されているように思えてなりません。右か左かではないのです。右も左にも共通するこの社会の本質こそが問題なのです。

きっこのブログは、所詮この社会を構成するマジョリティ=規範に依拠し思考停止した薄っぺらな言説にすぎないのです。それでは、差別と排除の力学によって仮構されたこの社会や市民としての日常性の本質に、絶対に行き当たることはないでしょう。きっこは、「現実をかすりもしない」(宮台真司)左派リベラルの弛緩したトートロジーから生まれた(手垢にまみれた”左派リベラル風”の常套句をただ駆使するだけの自称政治通の人たちにとっての)愛玩物アイドルにすぎないのではないか。それがこのような、リゴリスティックな予断と偏見に満ちたもの言いを生んでいるのではないかと思いました。
2022.05.17 Tue l 社会・メディア l top ▲
昨夜、テレビでサンドイッチマンやバナナマンが出ている番組を観ていたとき、ふと先日自殺した渡辺裕之のことが頭に浮かびました。

ちょうど自殺のニュースが出る前日だったと思いますが、たまたま観ていた深夜の通販番組に彼が出演していたのです。深夜の通販番組に出演しているのは、こう言っては何ですが、既に旬を終え、しかも結婚してそれなりに年を取ったタレントが多いので、家族のために仕事を選んでおれないんだろうなと思ったりするのでした。

ただ渡辺裕之の場合は、売れなくなったという印象はなかったので意外でした。通販番組独特のわざとらしい空気にまだ慣れてないのか、観ているとどこかぎこちない感じがありました。しかも、胸に大きなエンブレムが付いたおせいじにも趣味がいいとは言い難いポロシャツの通販でしたが、「実は僕もこれを着ているんですよ。どうですか? いいでしょ」とブレザーを脱いでそのポロシャツをひけらかすシーンでは、日頃ダンディを売り物にしているだけに何だか痛々しささえ覚えました。

勝手な推測ですが、そんな場違いな仕事と自死がどこかでつながっているのではないか。自殺のニュースを聞いて、ふとそう思ったのでした。

で、お笑い芸人の番組でどうして渡辺裕之の自殺を思い出したのかと言えば、芸能人でみずから死を選ぶのは、渡辺だけでなく神田沙也加や竹内結子や三浦春馬の例を見てもわかる通り、歌手や俳優が多く、お笑い芸人はあまりいないなと思ったからです。お笑い芸人というのは、そういった行為とは遠い存在のような気がしたのです。サンドイッチマンやバナナマンのどうでもいいようなお笑いとそのはしゃぎぶりを観ていたら、そんな偏見に囚われたのでした。

ところが今朝、ダチョウ倶楽部の上島竜平が自死したというニュースが流れてびっくりしました。

私は一時、仕事で四谷三丁目に日参していた時期があり、四谷三丁目は太田プロが近かったので、太田プロのタレントもよく見かけました。迎えの車を待っているのか、四谷三丁目の交差点に、耳にイヤホンをはめた某宗教団体の”私設公安”の傍で、人待ち顔で立っている彼を見かけたことがありますが、それはどこにでもいるようなちょっと崩れた感じのおっさんでした。ハンチング帽にアロハシャツの恰好で地下鉄の駅から出て来たのに遭遇したこともありますが、どう見ても街中をうろついている職業不詳のオヤジ風で、芸能人のオーラなど微塵もありませんでした。

あの身体を張ったリアクション芸の裏に、こんな孤独な心があったのかと思うと、余計痛ましく、そして切なく思えてなりません。コロナ禍でリアクション芸の機会が失われ、このまま自分の出番が失くなっていくことを感じ取っていたのかもしれません。あるいは、芸能界の恩人と言って憚らなかった、志村けんの死のショックを未だ引き摺っていたのかもしれないと思ったりもしました。

コロナ禍をきっかけに、飛沫感染の怖れがあるからなのか、ドリフのDNAを受け継いだような身体を張ったギャグは、すっかりテレビの世界から姿を消しました。でも、コロナ禍はあくまできっかけにすぎなかったように思います。もうあんな大仰なリアクション芸で笑いを誘う時代ではなくなったのです。

ある日突然、自分の仕事が失くなるというのは、芸能界だけでなく、いろんな職業についても言えることです。ペストやスペイン風邪のときも、同じようなことが起きているのです。「新しい生活様式」なる国家が強制する”ファシスト的日常性”とは別に、パンデミックによって世の中の慣習や嗜好が変わるのは、当然あり得る話でしょう。それとともに、用をなさない仕事も出て来るでしょう。同じように仕事を失ったり、あるいは先行きに不安を抱いたりして、暗い日々を過ごしている人も多いはずです。

私たちは「芸能界」と一括りに呼んでいますが、しかし、その中にはさまざまなジャンルがあり、さらにそのジャンルの中でも芸の分担が細分化されているのです。潰しのきかない芸能界にあって、自分の得意芸の出番がなくなる不安は想像に難くありません。

一方で、いつの間にか、情報番組の司会やコメンテーターにお笑い芸人が起用されるようになっています。彼らに求められているのは、頭の中身は二の次に、機を見るに敏な状況判断とバランス感覚、ボキャブラリーの貧弱さを補って余りあるような口達者、それにお笑い芸人特有の毒を消して”好い人”を演じられる器用さです。

「竜兵会」の後輩芸人たちも、みんなそうやって時流に乗り、人気芸人になっています。同じリアクション芸人の出川哲郎も、”好い人”へのイメージチャンジに成功し、好感度もアップしました。何だか不器用な上島竜平だけが、仲間内で取り残されたような感じでした。

さらにコロナ禍だけでなく、ウクライナ侵攻をきっかけにした戦争の影も私たちを覆うようになりました。そんなえも言われぬ憂鬱さの中に、今の私たちはいるのです。私もそのひとりです。

こんな時代だからこそ笑いが必要だと業界の人間は言いますが、それは強がりやカラ元気みたいなものでしょう。テレビにはお笑い芸人たちが溢れていますが、しかし、現実は呑気にお笑いが溢れるような時代の気分ではないのです。
2022.05.11 Wed l 訃報・死 l top ▲
田中龍作氏は、5月3日の記事で、キーウの基地で遭遇した日本人義勇兵を取り上げていました。

田中龍作ジャーナル
【キーウ発】日本人義勇兵 「自由と独立を守るためには武器を取って戦わなければならない」

元自衛隊員の義勇兵は、まだ正式にウクライナ軍の兵士と認められてないため、無給だそうです。志願の動機について、下記のように書いていました。

 志願の動機は―

 「(旧ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破って満洲に侵攻してきた)1945年と同じことがまた起きたと思った」

 「かつて交際していた女性の祖父は満洲で終戦となったためシベリアに抑留された」。

 57万5千人の日本軍将兵・満蒙開拓団員などがシベリアに連行され、強制労働に従事させられた。5万5千人が病気や衰弱などで死亡した(厚生省調べ)。

 「ロシアはウクライナに対しても当時と同じようなことをした」

 「自由と独立を守るためには武器を取って戦わなければならないことを日本人は認識していない」 

 「私戦予備罪を押してでも行く価値があると思い志願した」


しかし、この義勇兵は、田中氏が書いているように、ホントにただの義憤に駆られた人なのか。彼こそ、前に藤崎剛人氏が書いていた、世界中からウクライナに集まっているネオナチのひとりではないのか。

田中宇氏は、Qアノンまがいのコロナワクチンを巡る発言などにより、ややもすれば陰謀論の権化のように言われる毀誉褒貶の激しい人ですが、ウクライナ・ネオナチ説について、次のように書いていました。

田中宇の国際ニュース解説
ウクライナ戦争で最も悪いのは米英

ウクライナ軍は腐敗していたため国民に不人気で、2014年の政権転覆・内戦開始後に徴兵制を敷いたものの、徴兵対象者の7割が不出頭だった(2017年秋の実績)。多くの若者が徴兵を嫌って海外に逃げ出していた(若者の海外逃亡の結果、国内で若手の労働力が不足した)。予備役を集めて訓練しようとしても7割が出頭せず、訓練の会合を重ねるほど出席者が減り、4回目の訓練に出席したのは対象者の5%しかいなかった(2014年3-4月の実績)。(略)


親露派民兵団やロシア側に対抗できる兵力を急いで持つことを米英から要請されていたウクライナ政府は、政府軍の改善をあきらめ、代替策として、ウクライナ国内と、NATO加盟国など19の欧米諸国から極右・ネオナチの人々を傭兵として集め、NATO諸国の軍が彼らに軍事訓練をほどこし、政府軍を補佐する民兵団を作ることにした。極右民兵団の幹部たちは、英国のサンドハースト王立士官学校などで訓練を受けた。民兵団は国防省の傘下でなく、内務省傘下の国家警備隊の一部として作られた。ボー(引用者註:NATOの要員だったスイス軍の元情報将校)によると、2020年時点でこの民兵団は10万2千人の民兵を擁し、政府軍と合わせたウクライナの軍事勢力の4割の兵力を持つに至っている。ウクライナ内務省傘下の極右民兵団はいくつかあるが、最も有名なのが今回の戦争でマリウポリなどで住民を「人間の盾」にして立てこもって露軍に抵抗した「アゾフ大隊」だ。


今回のロシア侵攻を考えるとき、このようなゼレンスキー政権の極右化の問題も無視することはできないのです。もちろん、だからと言って、ロシアの戦争犯罪が免罪されるわけではありません。ただ一方で、ほぼ内戦状態にあったウクライナ東部において、ゼレンスキー政権が「極右民兵団」を使ってロシア系住民(ロシア語話者)を迫害していたのは、いろんな証言からもあきらかです。もちろん、ロシアへの併合を目論むロシア系民兵組織も同じことをやっています。しかし、「極右民兵団」によるロシア系住民の迫害が、ロシアに「個別的自衛権」の行使という侵攻の口実を与えることになったのは事実です。

そこにアメリカの”罠”があったのではないか。結果として、ゼレンスキー政権はバイデン政権からいいように利用され、そして煽られ、和平交渉の糸口さえ見つけることもできずに、総力戦=玉砕戦に突き進むことになったのでした。これではウクライナ国民はたまったものではないでしょう。でも、バイデン政権にしてみれば、してやったりかもしれません。アメリカはウクライナに巨額の軍事援助を行っていますが、それは同時に民主党政権と密接な関係にある産軍複合体に莫大な利益をもたらすことになるからです。

このように和平の働きかけも一切行わず、8千キロ離れたワシントンからただ戦争を煽るだけのバイデン政権の姿勢(それを異常と思わない方がおかしい)が、今回の侵攻を考える上で大きなポイントになるように思います。

今回の侵攻で、その帰趨とは関係なく、ロシアの国力や軍事力が大きくそがれ、プーチンの目論見とは裏腹に、ロシアが国家として疲弊し弱体化するのは否めないでしょう。一方で、プーチンの神経を逆なでするかのように、NATOはさらにフィンランドとスウェーデンの加入が取り沙汰されるなど、拡大の勢いを増しているのでした。言うなれば、アメリカは、ウクライナ国民の犠牲と引き換えに、ロシアをウクライナ侵攻という”泥沼”に引きずり込むことに成功したのです。そこに民主主義国家VS権威主義国家という、多極化後にアメリカが選択するあたらな世界戦略が垣間見えるように思います。

アメリカが唯一の超大国の座から転落して世界が対極化するということは、アメリカがみずから軍隊を派遣するのではなく、今回のように”同盟国”に武器を提供して”同盟国”の国民を戦わせることを意味するのです。そう方針転換したことを意味するのです。アメリカにとって、戦争は政治的な側面だけでなくビジネスの側面も強くなっており、そのため戦争の敷居が格段に低くなったのは事実でしょう。

日本でも早速、対米従属愛国主義の政治家ポチたちが、敵基地への先制攻撃を可能にする憲法9条の改定や核シェアリング(実質的な核武装)の導入など、戦争ができる体制を作るべきだと声高に主張し始めています。しかも、2014年のクリミア半島とルハンスク州南部・ドネツィク州東南部侵攻の際には、ウラジーミルとシンゾーの関係を優先して欧米の制裁に歩調を合わせなかった安倍晋三元首相が、今度は先頭に立って核武装を主張しているのですから開いた口が塞がらないとはこのことでしょう。

でも、実際に戦場で戦うのは自衛隊員だけでなく国民も一緒です。ウクライナでも見られたように、避難した民間人を警護するという建前のもと、実際は弾除けの盾に使われることだってあるでしょう。戦争なのですから何だってありなのです。政治家ポチの勇ましい言葉に踊らされている「風にそよぐ葦」の国民は、戦争に対するリアルな想像力が決定的に欠けていると言わねばなりません。ウクライナが可哀そうという感情に流されるだけで、戦争の現実をまったく見てないし見ようともしてないのです。

何だかまわりくどい話になりましたが、このような敵か味方かの国家の論理に依拠した今の報道は、ウクライナが可哀そうという”善意の仮面”を被ったもうひとつのプロパガンダと言うべきなのです。
2022.05.08 Sun l ウクライナ侵攻 l top ▲
子供の日だからなのか、5月5日放送の「モーニングショー」で、Z世代の消費行動が取り上げられていました。

Z世代とは、いわゆるミレニアル世代に続く「1990年代半ばから2010年代生まれ」の25歳以下の若者を指す世代区分で、日本では主にマーケティングの分野で使われている場合が多いようです。

Z世代の特徴として真っ先にあげられるのは、生まれながらにしてネットに接していたデジタル・ネイティブだということです。そのため、テレビよりYouTubeやSNS等のネット利用時間が多く、情報収集も、テレビや新聞や雑誌などではなく、TwitterやYouTube、Instagram、TikTokのようなウェブメディアが主流だということです。自分が興味がない情報は最初からオミットして、興味のある情報だけを選択するのも特徴で、そのスキルが先行世代より長けていると言われているそうです。

でも、ものは言いようで、これって単なるスマホ中毒じゃないのかと思ったりします。私の中には、スマホに熱中するあまり、電車の中や駅のホームで、おばさんに負けじとやたら座りたがる若者たちのイメージがあります。

また、自分が「押す」アイドルやユーチューバーなどに対して、惜しげもなくお金を使って応援する「ヲタ活」なども、この世代の特徴だと言われています。一方で、「押し」のユーチューバーにスパチャ(投げ銭)するために、親のクレジットカードを勝手に使い、後日多額の請求が来て親子間でトラブルになるケースもあるみたいで、先日の新聞にもそういった話が出ていました。他に、給料が手取り20万円しかないのにスパチャに10万円使っている若いサラリーマンの話も出ていました。「ネットはバカと暇人のもの」と言った人がいましたが、ユーチューバーはもちろんですが、スパチャの30%を手数料として天引きするGoogleにとっても、彼らは実に美味しい存在だと言えるでしょう。

Z世代の彼らは如何にも主体的にネットを駆使しているように見えますが、しかし、一枚めくるとこのような煽られて踊らされる「バカと暇人」の痴呆的な光景が表われるのでした。しかも、彼らが取捨選択している(と思っている)情報も、膨大な個人データの取得(ビッグデータ)でより高度化されたアルゴリズムで処理されたものです。パーソナルターゲティング広告に象徴されるような、あらかじめプロファイリングされて用意された(与えられた)情報にすぎないのです。

番組では、前の世代が自分が興味があるものをネットなどに上げることで自己承認を求めたのに対して、Z世代は最初から「インスタ映え」して自己承認されることが前提の商品(「もの」や「こと」)を求める点が大きく違っていると言っていましたが、デジタル・ネイティブとは、バーチャルな世界にどっぷりと浸かりいいように転がされる、クラウド=AIに依存した人間のことではないのかと思いたくなります。

ナノロボット工学の進化により、「人間の脳をクラウドに接続する日は限りなく近づいている」というSFのような研究論文がアメリカで発表されたそうですが、Z世代の話を聞くと、何だかそれが現実化しつつあるような錯覚さえ抱いてしまうのでした。

しかし、幸か不幸かそれはあくまで錯覚にすぎません。私たちはGoogleが掲げた「Don't be evil」という行動規範や「集合知」「総表現社会」「数学的民主主義」などという言葉を生んだWeb2.0の理想論にずっと騙され、ネット社会に過大な幻想を抱いてきましたが(「Don't be evil」は既にGoogleの行動規範から削除されています)、今回のウクライナ侵攻を見てもわかるとおり、現実は戸惑うほど古色蒼然としたものです。戦争を仕掛ける国家指導者は昔の人間のままです。もちろん、前線で戦う兵士も、戦火の中逃げ惑う国民も、昔の人間のままです。ロシア文学者の亀山郁夫氏が言うように、私たちは依然として、ドフトエフスキーが描いた19世紀の人間像がそのまま通用するような世界に生きているのです。IT技術は、あくまで情報を処理する上での便利なツールにすぎないのです。

Z世代が日常的に接して依存しているネットの情報も、テレビや新聞などの旧メディアから発せられたものばかりです。ネットは、その性格上、セカンドメディアである宿命からは逃れられないのです。インフルエンサーやユーチューバーから発せられる情報も、ネタ元の多くは旧メディアです。商品の紹介はメーカーからの案件が大半です。この社会の本質は何も変わってないのです。

むしろ私は、番組を観ながら、ネットを通した「自己承認欲求」という極めてパーソナルで今どきな心理までもが資本によって外部化されコントロールされるという、現代資本主義のあくなき欲望の肥大化とその在処ありかを考えないわけにはいきませんでした。

そこに見えるのは、あまりに無邪気で能天気で無防備な、飼い馴らされた消費者としての現代の若者の姿です。だから、Z世代が今後の消費形態を変える可能性があるなどと、やたら持ち上げられるのでしょう。

ゲストで出ていた渋谷109のマーケティング部門の担当者も、Z世代の若者たちは如何に個性豊かにネットを利用しているかを得々と説明していましたが、それこそマーケティング業界お得意のプロパガンダと言うべきなのです。

こういった「世代論」は、マーケティング業界の常套句のようなもので、今までも何度も似たような話が繰り返されてきました。

昔は女子高生が流行を作るなどと言ってメディアに情報を売っていた怪しげなマーケティング会社が渋谷や原宿に雨後の筍のようにありました。その怪しげなビジネスも、いつの間にか大資本(東急資本)の看板に付け替えられ、もっともらしく箔づけされていることに隔世の感を覚えましたが、この手の話は眉に唾して聞くのが賢明でしょう。


関連記事:
追悼・堤清二
『セゾン文化は何を夢みた』
渋谷と西武
Google
2022.05.05 Thu l ネット l top ▲
侵攻前からキーウ(キエフ)に入っていたフリージャーナリストの田中龍作氏は、ロシア軍がキーウ(キエフ)に侵攻した際も、大手メディアの記者たちがまるで蜘蛛の巣を散らすように逃げ去るのを尻目に戦火のなかにとどまり、今なお現地の生々しい状況を発信しつづけているのですが、4月25日の記事で次のように書いているのが目に止まりました。

田中龍作ジャーナル
【キーウ発】たとえ戦争広告代理店があったとしても

  湾岸戦争(1991年)やコソボ紛争(1990年代)の頃と決定的に違うのは、SNSの普及である。デッチあげは「ウソだ」とすぐに告発される。

  もう一つ決定的に違うのは、ウクライナでは言論の自由が保障されていることだ。ゼレンスキー大統領をクソミソにこき下ろしても許される。(略)

  戦争広告代理店による捏造があったりしたら、住民がSNSで告発するだろう。それが今のところない。

(略)
 
  「ネオナチ説」「自作自演説」を唱える言論人に共通するのは、虐殺の現場に一歩も足を踏み入れず、住民の話をひと言も聞いていないことだ。


最初に断っておきますが、今のウクライナは非常事態宣言が発令された挙国一致の戦時体制下にあるので、「言論の自由」は保障されていません。昔の日本と同じで、民主的な制度(権利)は完全に停止されています。野党の政治活動も停止させられていますし、それどころか先日は新ロシア派の野党の党首が逮捕されています。もちろん、「ゼレンスキー大統領をクソミソにこき下ろしても許される」自由などあろうはずもないのです。そんなことを口にしたら、当局に密告されて「ロシアの手先」のレッテルを貼られ、とんでもない目に遭うでしょう。

それより私が看過できないと思ったのは、「『ネオナチ説』『自作自演説』を唱える言論人に共通するのは、虐殺の現場に一歩も足を踏み入れず、住民の話をひと言も聞いていないことだ」という箇所です。

しかし、実際には私が知る限り、「言論人」でロシアの荒唐無稽な主張をそのままなぞったような主張を唱えている人はほとんどいません。「ロシア寄り」と言われている人たちも、ロシアの侵略は弁解の余地もない蛮行だけど、だからと言ってゼレンスキーが言っていることを百パーセント信じていいのかと主張しているだけです。

にもかかわらず、ウクライナ可哀そうVSプーチン憎しの人たちは、「ロシアの侵略は弁解の余地もない蛮行」という断りを故意に無視し、”ゼレンスキー批判”だけを言挙げして「陰謀論」「ロシア寄り」と決めつけ、問答無用に悪罵を浴びせるのでした。彼らには、そういった”客観的な視点”も利敵行為に映るみたいです。敵か味方か、旗幟を鮮明にしなければ、戦争を語ってはいけないとでも言いたげです。田中氏は、針小棒大なもの言いをすることで、ウクライナ可哀そうVSプーチン憎しの人たちの「俗情と結託」(大西巨人)しているにすぎないのです。

もっとも、ウクライナ可哀そうVSプーチン憎しの彼らも、最近はウクライナ問題に関心が薄らいでいるという指摘もあります。それはそうでしょう。彼らは、メディアのセンセーショナルな戦争報道に動員された(煽られた)人たちにすぎないので、メディアの情報量が減っていけば、関心も薄らいでいくのは当然なのです。そのうち(大声で”正義”を叫んでいた人ほど)、「いつまでウクライナのこと言ってるんだ?」なんて言い出すに決まっています。所詮はその程度の存在にすぎないのです。

どういった団体なのかよくわかりませんが、「世界の共産党・労働者諸党」が2月25日に発表した緊急声明「ウクライナにおける帝国主義戦争に反対する」では、ロシアのウクライナ侵攻を批判する一方で、次のようにウクライナ政府も批判しているそうです。

  われわれは、ウクライナにおけるファシスト・民族主義勢力の活動、反共主義および共産主義者迫害、ロシア語話者住民への差別、ドンバスの人びとへのウクライナ政府の無力攻撃を糾弾する。

  われわれは、ヨーロッパ=大西洋諸国[=NATO諸国]が彼らのプランを実施するため、ウクライナの反動的政治勢力をファシスト集団も含めて利用していることを糾弾する。

(『「世界」臨時増刊 ウクライナ侵略戦争』所収「資料と解説 異なる視点―第三世界とウクライナ危機」)


これは、所謂「どっちもどっち」論とも言えますが、少なくとも世界の左派の間では、ゼレンスキー政権は「ファシスト」「民族主義者」「反共主義者」に支えられた反共右派政権であるとの認識が共通していたのは事実のようです。

ウクライナは、人口が4130万人で、ヨーロッパで7番目に人口の多い国ですが、今のウクライナが建国されたのはロシア革命時の1917年で、正式に独立したのはソ連崩壊後の1991年です。

しかし、ウクライナは、「東ウクライナ」と「西ウクライナ」の二つのウクライナがあると言われるように、ウクライナ語とロシア語が併存する言語やカトリック教会と3つの正教会からなる4つの教会が存在する宗教など、多元的な文化を内包している若い国です。言うまでもなく、ウクライナの多元的な文化は、他の旧東欧諸国と同様、ソ連によって人為的に「人民共和国」が作られた建国の経緯から来ているのでした。ちなみに、ウクライナ国民のうち、35~40%がロシア語の話者で、同じ割合でウクライナ語の話者が存在し、残り20%がロシア語とウクライナ語の両方を話すバイリンガルだそうです。

下記の論稿の執筆者のアンドリー・ポルトノフ氏(ベルリン・フンボルト大学客員教授)によれば、「教育や人文学においては、ウクライナ語は支配的であるものの、ロシア語はマスメディア、政治、ビジネス、科学の分野において明白に浸透している」のだそうです。

WEBアスティオン
ウクライナ史に登場した「ふたつのウクライナ」とは何か(上)─ウクライナ・アイデンティティ
アンドリー・ポルトノフ(ベルリン・フンボルト大学客員教授)

ウクライナの公用語はウクライナ語ですが、ロシア語も準公用語の扱いでした。ところが、オレンジ革命(2004年)を機に、二つのウクライナという「定型句」が流布されるようになり、ウクライナのアイデンティティを求める機運が高まったと言われます。

ふたつのウクライナという定型句(つまり、ナショナルな意識に目覚めたウクライナと、〔ロシアおよびソ連の影響が残った〕「混ざりものの」('creole')ウクライナであり、前者が好ましい規範とされる)は、政治的選択の範囲、あるいは所属集団の選択の動機を単純な図式に押し込めることになる。

そして、その図式では、規範とそこからの逸脱という二者択一の考えが生まれてしまうのである。

(ウクライナ史に登場した「ふたつのウクライナ」とは何か・上)


私は、ウクライナのナショナリズムを考えるとき、「ウクライナのナショナリズムの要素が、法の支配、社会的正義、移動と表現の自由といったヨーロッパの神話に溶けあわされたのである」というアンドリー・ポルトノフ氏の指摘が重要であると思いました。「民主化運動」が排外主義的なナショナリズムと融合し、西欧的デモクラシーがその方便に使われたというパラドックス。そこには、右か左か、独裁か民主かでは捉えきれない、現代世界が抱える深刻な問題が伏在しているように思いました。

「帝国主義戦争」というのは、ロシア革命に際してレーニンが唱えたテーゼですが、そういった古い左派の視点も一概に無視できないものがあるように思います。と言うか、そういった視点でこの戦争を見ると、今まで見えなかったもの(見えにくかったもの)も見えてくるような気がするのです。

ウクライナの経済成長率は、ロシアがウクライナ領のクリミア半島に侵攻し併合した2014年がマイナス6.58%、翌年の2015年がマイナス9.79%に落ちたものの、その後、プラスの成長が続いて経済は持ち直していました。ところが、ゼレンスキーが大統領に就任した翌年の2020年にいっきにマイナス3.80%に落ち込んだのでした。そのため侵攻前、ゼレンスキー政権の支持率は41%まで下がり、ウクライナで反ゼレンスキーデモが頻発していたのでした。田中氏自身も記事のなかで、「開戦前、反ゼレンスキーデモで掲げられたプラカード。DICKTATORは独裁者と男性器(大統領はコメディアン時代、裸踊りで人気を博した)をかけたシャレだ」というキャプションを付けて、反ゼレンスキーデモの写真を掲載していたくらいです。

では、侵攻前に反ゼレンスキーデモに参加したような人々は、どうなったんだろうと気になります。これ幸いに、アゾフ大隊のようなネオナチから排斥(処刑?)されたりしてないだろうかと心配せざるを得ません。

当たり前の話ですが、何事にも表もあれば裏があります。況や政治や戦争においてをやです。それを伝えるのがジャーナリストではないのか。自由な言論による談論風発、百家争鳴がジャーナリストの生命線でしょう。何度もくり返しますが、国家に正義などないのです。戦争で亡くなった人々は「英雄」なんかではないのです。ましてや、「美談」であろうはずもありません。

田中氏は、「オレはお前たちと違ってこの目で現場を見ているんだ」とすごんでいるつもりかもしれませんが、しかし、敵か味方か、勝ったか負けたかの二項対立(=国家の論理)でしか戦争を語ることができないという点では、田中氏も、大手メディアの記者たちも、同じ穴のムジナのようにしか見えません。「戦時下の言語」に与するのはジャーナリズムの死ではないのか。そう言いたくなります。
2022.04.26 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲
ウクライナのドネツク州にあるマリウポリで、ウクライナ政府軍の最後の拠点となっているアゾフスターリ製鉄所をめぐる攻防戦は、製鉄所内に閉じこもって抵抗を続けるウクライナ軍がロシア軍の再三の降伏勧告にも応じなかったことで、プーチン大統領が火器による攻撃の中止を命令。今後は「ハエも入り込めないよう封鎖」(プーチン)した兵糧攻めの戦術に転換するというニュースがありました。

アゾフスターリ製鉄所は、ソ連時代に作られたウクライナ国内最大の製鉄所で、核攻撃でも耐え得るように地下に要塞を備えているそうです。アゾフスターリ製鉄所は、その名称からもわかるとおりアゾフ大隊の地元(誕生の地)にあり、地下要塞に立てこもっているのはアゾフ大隊を中心とする部隊だと言われています。

しかも、地下要塞には、アゾフ大隊だけでなく、1000人近くの一般市民も避難しているため、世界中のメディアが注視するなか、ブチャの二の舞を怖れるロシア軍も容易に手が出せないというのが真相かもしれません。こう言うとまた「ロシア寄り」と批判されるかもしれませんが、製鉄所を前にして地団駄を踏んでいるロシア軍を見るにつけ、ウクライナ政府のメディア戦略は見事に成功しているように思います。

でも、よくよく考えてみれば、アゾフ大隊の抵抗は一般市民=民間人を盾にした”背水の陣”と言えないこともないのです。ブチャでの「ジェノサイド」キャンペーンで敵を牽制する方法を学んだウクライナ政府は、今回もメディアを使って、「またジェノサイドをくり返すのか」とロシア軍を牽制しているようにも見えます。

製鉄所の地下要塞に避難しているのは、女性や子どもや高齢者が大半のようですが、悲しいな、彼らもまた、「人間の盾」として国家に利用されていると言わざるを得ません。

ホントに戦争に反対して平和を求めるのなら、くり返しになりますが、「国家のために死ぬな」と声を上げるべきでしょう。ロシアとウクライナ双方に対して、「一般市民=民間人を戦争に巻き込むな」「戦争を美談にするな」と言うべきでしょう。私たちは、侵略する国の非道さとともに、国民に銃を渡して総力戦を強いた上に、戦場で戦う国民を英雄扱いする国家の非道さ、いかがわしさも考える必要があるのです。

勝ったか負けたか、(どっちが)敵か味方かではないのです。勝とうが負けようが、敵であろうが味方であろうが、一度きりの人生を戦争で奪われた人々は、決して浮かばれることはないのです。

一方、Yahoo!ニュースには、次のようなCNNの記事が転載されていました。記事は、今回の戦争でも看過してはならない大事な問題を伝えているように思いました。

Yahoo!ニュース
CNN.co.jp
ウクライナに供与した大量の兵器の行方、米国も把握しきれず

(略)長期的なリスクとして、そうした兵器の一部が米国の意図していなかった相手の軍や武装組織の手に渡る可能性があると、米当局者も軍事アナリストも指摘している。


「短期的な保証はある。だが戦争という霧の中に入ればほぼゼロになる」。米国が入手した情報について説明を受けた関係者はそう語る。「短い期間が過ぎれば大きなブラックホールの中に落ち、ほとんど感知できなくなる」


以前、ロシアの政治や経済はマフィアに支配されていると盛んに言われた時期がありました。それがいつの間にか、マフィアがオリガルヒと言い換えられるようになったのですが、それはウクライナも同じです。ウクライナも、ロシアに勝とも劣らないマフィアが支配する社会だったはずです。

私もふと、あのマフィアたちはどこに行ったんだろうと思いました。高潔な愛国人士に生まれ変わり、銃を手に先頭に立って戦っているのでしょうか。まさか、そんなことがあるんだろうかと思います。

戦争終結後、欧米から供与された武器で過激に武装したアゾフ大隊が、イスラム原理主義組織と同じように、ウクライナにとって”獅子身中の虫”になるのではないかと前に書きましたが、それはマフィアのような犯罪組織も同じでしょう。

「ブラックホール」のなかに消えていった大量の武器が、来るべき「全体主義の時代」に、あらたな”戦争の種”を蒔き散らす危険性もなくはないのです。
2022.04.22 Fri l ウクライナ侵攻 l top ▲
私もほぼ2日に一度スーパーに買物に行くのですが、最近の食品や日用品の相次ぐ値上げは尋常ではありません。既に値上げされた商品は6000品目にも上るそうです。しかも、今までと違って値上げの幅も大きいのです。

この値上げをもらたした要因は、言うまでもなく円安です。では、何が今の急激な円安をもたらしているのかと言えば、日米の金利差によるものだと言われています。

今や先進国で金融緩和を続けているのは日本だけです。どうして日本だけが金利を抑制する金融政策を転換しないのか。その背景について、メディアに登場する専門家は誰も説明しません。ただ、円安は、日米の金融政策の違いによるものだと決まり文句を言うだけです。

そのことについて、Yahoo!ニュースのオーサーコメンテーターの山田順氏は、次のように書いていました。

Yahoo!ニュース(個人)
なぜ、円はロシアのルーブルより弱いのか? 誰もズバリ言わない円安の本当の理由。

 金融緩和をやめて、引き締めに転じれば、当然ながら金利は上昇する。インフレに対する金融対策はこれしかない。しかし、そうすると、国債利払い費がかさみ、国家財政が破綻してしまう可能性が現実になる。
(以下、引用はすべて同じ)


つまり、政府日銀の金利抑制策の背景には、危機的なレベルに達している国家財政(莫大な国債の利払い負担)の問題が伏在しているというわけです。政府の失政のために、国民の生活が犠牲になっているのです。

昨日(20日)も、日銀は指定した利回りで国債を無制限に買い入れる「指し値オペ」(公開市場操作)を行ったという報道がありました。ただ、日銀が買った国債に利払いは生じませんので、この場合は、日銀がお札を刷って政府の借金を帳消しにしているだけです。言うなれば、MMTを実践しているようなものです。しかし、それだけあらたに刷ったお札が市中に出回ることになるので、さらなる円安&インフレ要因になるのは素人でもわかります。

もちろん、市中に出回ると言っても、空中からばら撒かれるわけではないので、私たちの懐に直接入るわけではありません。学校の教科書では、経済の法則でまわりまわって懐に入って来ることになっていますが、賃金の実状からもわかるように、実際はまったくまわって来てないのです。

東京はときならぬ再開発ブームで、まるで競い合うように超高層ビルがあちこちに建てられていますが、そんな異様な光景と今の”金余り”は無関係ではありません。市中に出回ったお金はそういったところに集中的に注がれているのです。政府と日銀は、自国の通貨の価値を下げながら、そうやって不動産バブルを煽っているのです。

でも、超高層ビルのなかで働いている人間の半分は非正規雇用です。建物だけは立派でオシャレだけど、働いている人間たちの生活はちっとも豊かではないしオシャレでもないのです。それが今の日本の現実です。

しかも、円が安くなっているのはドルだけではないのです。ユーロや人民元、さらには経済制裁を受けている(はずの)ロシアのルーブルに対しても安くなっているのです。「そんなバカな」と言われるかもしれませんが、「そんなバカな」ことが現実に起きているのです。

ただ一方で、円安がアメリカとの金利差に連動していることもからわかるように、ロシアのウクライナ侵攻と同じように、アメリカが超大国の座から転落して世界が多極化するという世界史の書き換えと無関係でないのも事実です。対米従属の所産という側面も忘れてはならないのです。

ロシアが原油や石炭や天然ガスなどの支払いをドルではなくルーブルに変えるように各国に要請したというニュースを前に伝えましたが、そこにあるのも世界経済の基軸であったドル(建て)からの脱却です。ウクライナ侵攻をきっかけに、ロシアも公然とその姿勢をあきらかにしたのでした。

 かつて世界の産油国は、石油取引で手にした莫大なドル収入を、ロンドンを中心とした世界中のオフショア金融市場を通じてドル建て金融商品で運用してきた。その最大の金融商品は、アメリカ国債だった。

 つまり、世界の資産はほぼドル建てであり、グローバル企業も富裕層も、みなドルで資産を運用してきた。ロシアのオリガルヒも同じだ。

 しかし、いま、その体制がウクライナ戦争をきっかけに崩れようとしている。バイデン大統領が、「軍事介入はしない」と言って、ロシアのウクライナ侵略を許したために、こんなことになってしまった。この老大統領は、ドルの価値を低下させ、アメリカの世界覇権を失わせつつあることに気がついているのだろうか。


気がついてないわけがなく(笑)、もはやそれしかアメリカの生きる道はないからです。

 アメリカはなぜ、イタリアやテキサスより小さい約1兆5000億ドルのGDPしか持たないロシアを脅威としたのか? ただ、核を持っているだけで、軍事費にいたってはアメリカの10分の1である。

 そんな国のために、アメリカが世界覇権を失い、ドルが基軸通貨から転落するとしたら、世界は無秩序になる。


それが多極化ということなのです。金との兌換通貨でもないドルが、いつまでも基軸通貨でいられるわけがないのです。金本位制から変動相場制に移行しても、ドルが実質的な基軸通貨でありつづけたのは、圧倒的な経済力と軍事力を背景にした”経過処置”にすぎなかったのです。

最新版の2021年「世界の一人当たり名目GDP国別ランキング」(IMF発表)によれば、日本は28位です。一方、韓国は30位でまだ韓国に追い抜かれていません(「一人当たり購買力平価GDP」では2019年に既に抜かれています)。ちなみに、2000年は2位、アベノミクスが始まる前の2012年でも13位でした。アベノミクス以降、それだけ日本の経済力は落ちているのです。

一方、2000年から2018年の「一人当たり名目GDP成長率」は、中国が12.9%、韓国が5.7%、アメリカが3%なのに対して、日本は0.7%と際立って鈍化しています。これでは、「世界の一人当たり名目GDP国別ランキング」も、国民の平均年収と同じように、早晩、韓国に抜かれるのは間違いないでしょう。

賃金も然りで、2000年から2020年までの20年間で、各国の賃金は1.2倍から1.4倍に上がっていますが、日本だけが横ばいでほとんど上がっていません。にもかかわらず、急激な円安で円は20年前の水準まで下落、物価が急上昇しているのです。単純に考えても、益々生活が貧しくなり格差が広がるのは目に見えています。当然の話ですが、国の経済力が衰えるというのは、それだけ国民が貧しくなるということでもあるのです。

 円安は円が売られるから起こる。しかし、いまの円安は、円売りではなく「日本売り」だ。日々、経済衰退する国の通貨を、投資家はもちろん、誰も持ちたがらない。


この現実をどうして日本人は見ようとしないのか。それが不思議でなりません。韓国に抜かれる悔しさもあるのかもしれませんが、まるで見ないことが「愛国」であるとでも思っているかのようです。前の記事で書いた高齢者の貧困問題と同じように、みんな目を遠ざけて問題を先送りしているだけです。
2022.04.21 Thu l 社会・メディア l top ▲
先日、新宿三丁目駅で副都心線に乗ろうとしたら、突然、後ろにいたおばあさんから「これは新丸子に行きますか?」と訊かれました。それで、「はい、行きますよ」と言ったら、おばあさんも私の後につづいて電車に乗ってきました。見ると、80歳近くになろうかというかなり高齢のおばあさんでした。

ちょうどシルバーシートがある乗車口だったのですが、シルバーシートは初老のおっさんやおばさんとスマホ中毒の若者に占領されていました。休日になるとこれに子ども連れのファミリーが加わるのですが、いづれも電車の座席に座ることが人生の目的のような人たちです。

私とおばあさんは、ドアを間にして向い合せに立ったのですが、おばあさんはドアの横の手すりに身を持たせるように立っていました。そして、心許ない手付きでショルダーバックから手帳を取り出すと、それを読み始めたのでした。私は最初、文庫本かなと思ったのですが、文庫本ではなく同じサイズくらいの手帳でした。

電車が揺れるので、手すりにしがみつくように掴まり如何にも読みにくそうにしながら、上体を折り曲げるようにして読んでいました。

なんだろうと思って手帳を目をやると、人体のようなイラストがあり、その下にびっしり文字が書き込まれていました。ただ、私の距離では何が書いているのか判別できませんでした。

東横線に乗り入れている新副都心線は、新宿三丁目の先の北参道や原宿・表参道で降りる客が多くていっきに車内が空くのですが、やはり、北参道をすぎるとシルバーシートに空きができました。しかし、おばあさんは座ろうとせず、相変わらず手帳に目をやっているだけです。

これは決してオーバーではなく、私は今まで、あんな高齢者が電車でずっと立っている姿を見たことがありません。あり得ないとさえ思いました。しかも、原宿・表参道の先は渋谷なので、また電車の座席に座ることが人生の目的のような人たちが目を血走らせて乗ってきます。

私は、おっせかいかなと思いつつも、「うしろの座席が空きましたよ」と言いました。しかし、おばあさんは「ありがとうございます」と言って座ろうとしません。そのうち電車は渋谷駅に着きました。案の定、ニワトリのように首をキョロキョロさせ目を血走らせた人々が乗り込んでくると、座席はあっという間に埋まってしまいました。

新宿三丁目から乗ったのは各駅停車だったのですが、各駅停車は渋谷までで、渋谷から先の東横線内は急行になりますという車内放送がありました。となれば、新丸子は急行は停まらないので、自由が丘で各駅停車に乗り換えなければなりません。

私はおばあさんに近づいて、「渋谷から急行になりますので、自由が丘で各駅に乗り換えてください。新丸子は急行は停まりませんので」と言いました。おばあさんは、半分きょとんとした感じでしたが、「はあ、そうですか。ありがとうございます」と言ってました。

しかし、不安なのかそれから反対側のドアの上にある路線図にしきりに目をやっていました。そして、電車が次の中目黒駅に着く寸前でした。突然、おばあさんは私に向って「どうもご親切にしていただいてありがとうございました」と言って頭を下げ、ドアの方に身体を向けて見るからに降りる体勢を取ったのでした。

私はあわてておばあさんに近づいて、肩を叩きながら、「次は中目黒ですよ」「ここで乗り換えてもいいけど、自由が丘まで行けばホームの反対側に各駅停車が停まってますので、自由が丘で乗り換えた方がいいですよ」と言いました。そして、おばあさんが不安に思っているようなので、「私も自由が丘で乗り換えますので大丈夫ですよ」と付け足しました。

そうするうちに、電車は中目黒駅に到着しました。中目黒も乗降客が多いので、再びシルバーシートに空きができました。それで「座ったらどうですか。自由が丘に着いたら案内しますので心配しなくていいですよ」と言いました。すると、「どうもありがとうございます」と言って、やっと座席に腰を下ろしたのでした。

やがて電車は自由が丘の駅に着きました。私は、座席から立ち上がると、おばあさんに向かって「自由が丘に着きましたよ」と言いました。ドアに向って立っていると、後ろから「お上りさんなので何にもわからなくて」というおばあさんの声が聞こえてきました。シルバーシートの横に座っていた人にそう言ったようです。

「お上りさん」ということは東京に住んでいるんじゃないんだ、だから不安そうにしていたんだなと思いました。ただ、服装はとても地方から来たとは思えないような普段着です。しかも、エコバックのような布袋を手に持ち、肩からやはり布製のかなり使い古された感じの小さなショルダーバッグをたすき掛けに下げているだけです。「お上りさん」ならもっと他所行きの恰好をしているだろうにと思いました。

自由が丘駅に着いて、反対側のホームに停まっている各駅停車のドアのところまで一緒に行って、「これに乗って三つ目の駅で降りてください。三つ目が新丸子ですから」と言いました。おばあさんは「どうもありがとうございました。ご親切にしていただいて助かりました」と何度も頭を下げていました。私も同じ電車に乗るのですが、ちょっと照れ臭かったので、おばあさんと別れて隣の車両に乗りました。

電車が新丸子駅に着いたとき、注意して外を見ていたら、ホームに降りてエスカレーターの方に歩いて行くおばあさんの姿がありました。それを見て、ホッとしたものの、取り越し苦労症の私は、同時に不安な気持も湧いてきたのでした。

どうして「お上りさん」のおばあさんがひとりで新宿三丁目から新丸子まで行くのか。「お上りさん」と言いながら他所行きの恰好をしてないのはどうしてなのか。あの手帳は何なのか。

それからというもの、私の妄想は膨らむ一方でした。もしかしたら、おばあさんは認知症だったのではないか。あるいは、振り込め詐欺に遭って新丸子までお金を持って行くように指示されたのではないか。いや、カルト宗教の信者で、新丸子周辺での布教を指定され、それで向ったのかもしれない。あの奇妙な手帳は、講義を受けたときにメモした個別訪問の際の問答集が書かれているのではないか。

やっぱり、もっと詳しく新丸子に行く用事を訊くべきだったかもしれない。新丸子の駅に一緒に降りて、最後まで見届けるべきだったかも。とうとうそんなことまで考えて、後悔の念さえ覚える始末でした。

その数日前に、高齢者問題を扱った「NHKスペシャル」でも取り上げられたことがある某都営団地に行く機会があったのですが、そこで見たのはあまりにも哀しく切ない、そして、身につまされる老人たちの姿でした。そんな老人たちが目の前のおばあさんにオーバーラップして、余計気になったのかもしれません。

高齢者の老後まで、経済合理性=自己責任の論理で語られ、社会からまるで棄民のように扱われる老人たち。無防備な環境のなかで、悪徳訪問販売やカルト宗教の餌食になったり、既に自力で生活する能力を失った認知症の老人が、都会の団地の一室でまるで人目を忍ぶかのように暮らす光景。しかも、一人暮らしの老人も多いのです。

高齢者の老後に暗い影を落としているのが貧困です。生活保護受給世帯のうち、約半数は65歳以上の高齢世帯です。しかも、そのうち約90%が一人暮らし世帯です。そのように、とりわけ一人暮らしの高齢者の貧困問題は深刻です。

労働力の再生産過程から外れた老人たちは、もはや資本主義社会にとっては役に立たない用済みな存在でしかないのです。あとは孤独と貧困のなかで、人生の終わりを待つだけです。それが老後の現実です。

団地で会った高齢者たちは生きる気力さえ失い、ただ毎日をやり過ごしているだけのように見えました。何だか生きていることが申し訳ないとでもいうような感じすらありました。

もちろん、そんな老人たちは私たちの明日の姿です。でも、そう思っている人は少ないのです。多くの人たちは見たくないものとしてあえて目を遠ざけている感じです。そして、そうやって見て見ぬふりをすることが、経済合理性=自己責任の論理で老後を語る社会の冷たさを生み、「老いることが罪」であるかのような老後を強いることにつながっているのです。


関連記事:
『老人漂流社会』
車内でのこと
2022.04.17 Sun l 日常・その他 l top ▲
『週刊プレイボーイ』のウェブサイトに、新著の宣伝で大塚英志のインタビュー記事が掲載されていましたが、そのなかで今回のウクライナ侵攻にも言及していました。

ちなみに、大塚英志は、戦時下大衆文化が戦意高揚のために如何に活用されたかという研究をすすめているのですが、新著『大東亜共栄圏のクールジャパン「協働」する文化工作』(集英社新書)もそのシリーズのひとつです。刊行と侵攻が重なったのは、「まったくの偶然」だと言っていました。

大塚英志は、ゼレンスキー大統領の演説について、次のように言っていました。

週プレNEWS
大塚英志氏インタビュー「ウクライナ侵攻から見える戦時の国家宣伝の意図とは」(後編)

大塚   (略)ゼレンスキーが用いている動員の話術みたいなものにも注意が必要です。もちろん、ウクライナのほうが侵略された側だし、対プーチンではゼレンスキーが正しいように見える。それでも、第三者である日本が彼らの宣伝戦に巻き込まれて、今度は自分たちの国の選択を間違えるようではいけない。とくにゼレンスキーの国会での演説が、世論を誘導するためのものとして使われようとしていることには注意すべきです。


大塚   ウクライナ市民が市内にとどまり市街戦のため銃を持つ姿が「美談」として日本でも報じられています。そうした戦争美談報道が、人々の戦争への認識をどう情緒的に作り替え、それが有権者としての政治的選択をどう左右してしまうかについて、私たちは冷静に考えなければいけない。この時代錯誤的な姿が改憲論などに与える影響は大きいでしょう。前提として、戦争に感動を求めたらダメだよという自制が必要だと思いますね。


手前味噌になりますが、これは私自身もこのブログでくり返し書いていることです。しかし、今、私たちの前にあるのは、大塚英志の警鐘も空しく響くような現実です。

ウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの安直な感情に覆われた日本。まるでウクライナ政府のスポークスマンのような発言をくり返す識者たち。スポーツの試合のように、ロシアは敵、ウクライナは味方の論理で戦況を解説する軍事ジャーナリストたち。そこにあるのは善か悪か、敵か味方かに色分けされた二項対立の身も蓋もない風景です。

そういった「戦時下の言語」によって、非核三原則や専守防衛など戦後この国が堅持してきた平和憲法の理念も、何の躊躇いもなく捨て去ろうとしているのでした。ロシアの振り見て我が振り直せではないですが、侵略戦争の反省もどこかに行ってしまったかのようです。

もちろん、それは、右派の話だけではありません。言い方は多少異なるものの、立憲民主党も含めた野党も同じです。むしろ、彼等こそ、この空気をつくり出していると言ってもいいでしょう。

最近、防衛省の防衛研究所の研究員が頻繁にテレビに出演して戦況を解説するという奇妙な現象がありますが、防衛研究所は防衛省直轄の研究機関です。彼らは、間違ってもフリーハンドで解説しているわけではないのです。そこに国家のプロパガンダがないとは言えないでしょう。

これでは大塚英志のような主張も袋叩きに遭うのがオチです。「言論の自由なんてない、あるのは自由な言論だけだ」と言ったのは竹中労ですが、ウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの感情に囚われた(ある意味で)「善意」の人々は、みずからの感情に少しでも棹さして逆なでするような異なる意見=自由な言論に対して、いつの間にか「ロシアの手先」「陰謀論」というレッテルを貼り牙を剥きだして襲いかかるほどエスカレートしているのでした。こういうのを「善意のファシズム」というのではないか。

私は、前の記事で、戦争に反対するには人々の個別具体的なヒューマニズムこそが大事だと言いましたが、それと今のウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの感情は似て非なるものです。何故なら、ウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの感情のなかには、国家の論理=「戦時の言語化」が混在しているからです。だから、一方で、戦時体制を希求するナショナリズムやロシア人に対するヘイトクライムに向かわざるを得ないのです。何度も言いますが、国家に正義なんてないのです。

「あまりにひどい」として、ネットで袋叩きに遭った『アエラ』(3/21号)の的場昭弘神奈川大副学長と伊勢崎賢治東京外語大教授の対談「糾弾だけでは停戦は実現せず」を読みましたが、どこが「ひどい」のかまったくわかりませんでした。

伊勢崎   (略)(NATOは)軍事支援はするものの、届ける確証のないまま、外野席からの「戦え、戦え」という合唱ばかりでウクライナ人だけに戦わせている。非常に歪な構造です。何故「停戦交渉」を言わないのか。
的場   (略)ゼレンスキーのほうはショーをやってしまっている。ぼろぼろの服を着て、追い込まれて大変だという雰囲気を醸し出しながら、民衆には「武器を持って戦え」と。国家同士なら状況次第で降伏しますが民衆は降伏しませんから、どんどん犠牲者が増えてしまう。民衆には絶対銃を渡しちゃだめなんです。そこを煽れるのが彼が役者出身だからというのが皮肉な話ですが。


このように、両人は、どうすれば「一日も早く停戦を実現」できるかについて、至極真っ当な意見を述べているに過ぎません。その前にどっちが悪いか、どっちが敵でどっちが味方かはっきりしろ、と言う方が異常なのです。

的場    私は、ウクライナは中立化するしか生きる道はないと思います。地理的にさまざまな国や民族が行き来し、ときに土足で踏みつけられてきた「ヨーロッパの廊下」のような存在です。ロシアにとってNATO、EU(欧州連合)との緩衝国家(クッション役の果たす国家)でもあります。さらにウクライナを流れるドニエプル川、ドネツ川はロシアへつながり、黒海から入った船はこれらを上がってロシアへ行く。ウクライナがここを「占領」することは難しく、中立化して「開けて」おかないといけないんです。
伊勢崎   そこは国民の意思を越えたところでの「宿命」ですね。ウクライナは緩衝国家を自覚するしかない。西、東、どちらに付くかで、市民は死んではならないのです。日本でも「ウクライナを支持する」として「反戦」を訴えている人がいます。私は違和感がある。悲惨な敗戦を経験した国民なら、なぜ「国家のために死ぬな」と言えないのか。


政治家たちはさかんに「ウクライナに寄り添う」「日本はウクライナとともにある」と言ってますが、そういった扇動(文字通りの動員の思想)は、一方で、この対談にあるような”客観的な視点”はいっさい許さないという、日本社会特有の同調圧力(感情の強要)を誘発しているのでした。

伊勢崎氏は、(日本国民は)「国家のために死ぬな」となぜ言えないのかと言ってましたが、「ウクライナに寄り添う」「日本はウクライナとともにある」と言う政治家たちは、「国家のために死ぬことは美しいのだ」と言いたいのがミエミエです。

某軍事ジャーナリストは、みずからのツイッターで、「ヨーロッパの廊下」や「宿命」ということばだけを切り取ってこの対談に罵言を浴びせていましたが、それも同調圧力に便乗したきわめてタチの悪いデマゴーグと言うべきでしょう。戦争は、軍事ジャーナリストにとってバブルのようなものなので、「勝ったか負けたか」「敵か味方か」を煽ることで自分を売り込んでいるつもりかもしれませんが、それが彼らをしておぞましく感じる所以です。

案の定、ヤフコメなどは、軍事ジャーナリストの口真似をした俄か軍事評論家たちによる、”鬼畜露中”の痴呆的なコメントで溢れているのでした。戦争のような悲惨なニュースであればあるほど、それをバズらせてマネタイズすることしか考えてないYahoo!ニュースはニンマリでしょうが、これではどっちが”鬼畜”かわからないでしょう。
2022.04.13 Wed l ウクライナ侵攻 l top ▲
今日、朝日新聞にロシアのペスコフ大統領報道官が、イギリスのテレビ局のインタビューで「ロシア軍は多大な損失を被った。我々にとって大いなる悲劇だ」と語ったという記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
ロシア大統領報道官「多大な損失、大いなる悲劇」 自軍の苦戦認める(有料会員記事)

たしかに記事にあるように、「ロシア側が自軍の苦戦を認めるのは珍しい」のですが、私が注目したのではそこではなく、次のような箇所です。

 ロシア国防省は3月25日時点で1351人のロシア兵が死亡したとしている。一方、ウクライナ軍参謀本部は今月8日の発表で1万9千人のロシア兵を殺害したと主張している。


ロシアのプロパガンダばかりが取り沙汰されていますが、ウクライナだってプロパガンダを流しているはずです。戦争とはそういうものでしょう。

私たちは、いわゆる”西側”の情報に接しているので、ロシアだけがウソを吐いていると思っていますが、両方ウソを吐いている場合もあるのではないか。

上記の戦死者数がそれを示しているように思います。出来る限り数を少なく発表して被害を小さく見せるロシアと、逆に数を盛って戦果を強調するウクライナの姿勢の違いが、この二つの数字によく表われているように思います。

キーウ(キエフ)周辺からロシア軍が撤退したニュースも、ウクライナ側から言えば「撃退」したことになるのです。たしかに侵略者がいなくなったので「解放」されたのは事実だし、ロシアの作戦がウクライナ軍の抵抗で「うまくいかなかった」と見ることができるかもしれませんが、「撃退」したというのはいささかオーバーな気がします。ロシアがウクライナ東部での戦いに傾注するために撤退したというのが真相でしょう。

ブチャのジェノサイドで、ロシア軍に銃殺され路上に放置された遺体のなかに、白い腕章をした遺体があったというニュースを見て、私は、白い腕章って何だろうと思い調べてみました。

腕章と言ってもただの布切れですが、田中宇氏によれば、市街戦では敵と味方を見分けるために、ウクライナ側の住民は青い腕章を巻いているそうです。他の映像を見ると、たしかにウクライナ軍の兵士たちは青い腕章を巻いていました。一方、白い腕章は、文字通り白旗を上げたもので、ロシア軍に降参して恭順の意を示した印なのだそうです。白旗を上げるというのが万国共通だとは思いませんでしたが、となれば、白い腕章を巻いた遺体は、ロシア側に寝返ったとして処刑された可能性もなくはないのです。

もちろん、ロシア軍の虐殺や略奪や性暴力は事実でしょう。キーウに入って精力的に取材している田中龍作ジャーナルの記事などを見ても、ロシア軍の蛮行は弁解の余地がありません。

参考サイト:
田中龍作ジャーナル

ブチャの遺体がウクライナの「自作自演」だというロシアの主張があまりに荒唐無稽で、お話にならないのは言うまでもありません。

しかし、だからと言って、ウクライナ軍は、ロシア軍と違って聖人君子のような軍隊なのかという疑問があります。ロシア軍が撤退したあとにブチャに入ってきたウクライナ軍のなかにはアゾフ大隊も含まれていたと言われます。アゾフ大隊は、まるでヒットラーの時代を彷彿とするようなネーミングの国家親衛隊に所属しており、通常の軍事行動以外に、治安維持や工作員の摘発など”国家警察”としての役割も担っているそうです。

前の記事でも書いたように、アゾフ大隊は、国内の少数民族や性的マイノリティーや左派活動家を標的にして暴力を振るったりしていたのですが、それにとどまらず、今回プーチン政権が分離独立を画策しているドネツクやルガンスクなどでは、ロシア系住民を拉致して殺害したり、暴行、拷問などを行ってきたのは公然の事実で、それがロシアに侵攻の口実を与えたという指摘もあるくらいです。そんなネオナチのアゾフが、戦場でお行儀のいい、模範青年のような振舞いをしているとはとても思えません。むしろ、極限状況下では、排外主義的なネオナチの本性をむき出しにしていると考えるのが普通でしょう。

ネットには、住民からウクライナ軍の兵隊の妻だと密告された女性がロシア兵にレイプされ殺害された、という記事が出ていましたが、短期間とは言え、ロシア軍が占領していた間には当然密告を強要されることはあったでしょう。なかには拷問されて取り調べられた人間もいるかもしれません。協力を拒否して銃殺されたケースもあったに違いありません。

今のウクライナは、政党活動が禁止され、国民総動員令で18歳〜60歳までの成人男性の出国も禁止されるなど、民主的な制度が停止された戒厳令下にあります。そして、ウクライナ政府は、国民に武器を渡して徹底抗戦を呼びかけているのです。成人男性だけでなく、武装できない女性や老人たちが、市街戦に備えて火炎瓶や土のうを作っている場面が映像でも流れていました。そうやって昔の日本のように、「民間人」も一丸となって戦えと言っているのです。

武装した民兵が、女性や子どもや老人たちの周辺を警護していることもあるでしょう。あるいは、一部で指摘されているように、民兵が女性や子どもや老人たちを盾に応戦したり、そのなかに紛れて敵を待ち伏せたりすることだってあるかもしれません。戦争なのですから何でもありなのです。

そうなれば、戦闘員と「民間人」の識別も困難になりますし、遭遇した「民間人」が民兵ではないかと疑心暗鬼に囚われるようになるのは当然でしょう。ロシア軍による憎悪を伴った暴力が「民間人」にも向けられるようになったのも、(語弊を招く言い方ですが)当然の成り行きとも言えるのです。一方で、ロシア側に協力した人間が、ウクライナの国家親衛隊から”裏切り者”として処刑されたケースがあったとしても不思議ではないように思います。

「民間人」が虐殺されたのは事実だとしても、今のようにメディアが報道している内容が全てかと言えば、必ずしもそうとは言いきれない現実があるのではないか。ゼレンスキー大統領は、ブチャに外国首脳やメディアを”招いて”、みずから悲惨な現場を案内したりしていますが、今のジェノサイド報道には、情報発信に長けたウクライナ政府による政治的プロパガンダの側面がないとは言えないでしょう。

戦争でいちばん犠牲になるのは女性と子どもと老人だと言われますが、検証のためと称して、まるで見世物のように、いつまでもブチャの路上に並べられている彼らの遺体を見るにつけ、死んでもなお国家の宣伝に使われ、(それが事実だとしても)「可哀そうなウクライナ人」を演じなければならない彼らの不憫さを思わないわけにはいきません。

そう言うと、今回の戦争はロシアの一方的な侵攻からはじまったのではないか、ロシアが侵攻しなかったら住民の虐殺も発生しなかった、だから全てはロシアの責任だ、というお決まりの反論が返ってくるのがオチです。でも、そういった紋切型の解釈で済ませてホントにいいんだろうかと思えてなりません。真相は真相としてあきらかにすべきではないのか。

先日の「モーニングショー」で、コメンテーターの女性が、ゲストで出ていた防衛省の防衛研究所の研究員に、「ロシアはこんなことをしたらもう二度と国際舞台に出て来ることはできないように思いますが、プーチンはそのことをどう考えているんでしょうか?」と質問していました。それに対して、防衛研究所の研究員は、「ロシアの狙いは世界が多極化することなんで、欧米とは別に自分たちの極を造ることしか考えてないのだと思いますよ」というようなことを言ってました。

それは今回のウクライナ侵攻を考える上で大変重要な話だと思いますが、司会の羽鳥慎一はあっさりとスルーして、次のロシアが如何に極悪非道かという話に移っていったのでした。

女性コメンテーターが言う「国際舞台」というのは、たとえば国連やG20のようなものを指しているのかもしれませんが、そういった発想自体が既に古く、世界の多極化を理解してないと言えます。

前からしつこいくらい何度もくり返し言っているように、アメリカが唯一の超大国の座から転落して世界が多極化するのは間違いないのです。そのなかで、大ロシア主義や”新中華思想”やイスラム主義が台頭して、欧米とは違う価値観を掲げる「全体主義の時代」が訪れるのもまた、間違いないのです。今、私たちはそんな世界史の転換(書き換え)の真っ只中にいるのです。

先のアフガンからの撤退や今回のロシア侵攻に対するバイデン=アメリカ政府の”腰砕け”に見られるように、もはやアメリカが唯一の超大国などではなく世界の警察官の役割も果たせなくなったことは、誰の目にもあきらかになっています。今、私たちが見ているものこそ、多極化する世界の光景なのです。

7日に国連総会で採択された国連人権理事会におけるロシアの理事国資格を停止する決議は、賛成が欧米や日本など93カ国、反対はロシアや中国・北朝鮮など24カ国で、採択に必要な投票の3分の2を超えて資格停止が成立したのですが(採決を受けてロシアは理事会から脱退)、投票数に含まれない棄権はインドやブラジルやメキシコなど58カ国にも上ったのでした。中南米やアフリカや東南アジアの多くの国は棄権にまわっています。

私たちが日々接する報道から見れば考えられないことですが、そこからも多極化という世界史の転換を読み取ることができるように思います。敢えて棹さすことを言えば、ロシアは必ずしも世界で孤立しているわけではないのです。

イスラム学者の中田考氏は、先日出演したビデオニュースドットコムで次のように言ってました。

マル激トーク・オン・ディマンド (第1095回)
ロシアのウクライナ侵攻と世界の反応に対するイスラム的視点

(略)中田氏は現在、われわれが「国際秩序」と呼んでいるものは、17世紀以降、西欧を中心に白人にとって都合のいい理屈をいいとこ取りして作られたものに過ぎず、そのベースとなるウェストファリア体制下の主権国家という考え方も、それを支える「自由」や「民主」、「平等」などの概念も、あくまで白人が非白人を支配するために都合よく考え出された概念に過ぎないと、これを一蹴する。

 実際、西欧の帝国主義が世界を席巻する前の17世紀の世界は、「東高西低」と言っても過言ではないほど、オスマン帝国(トルコ)やサファヴィー朝(イラン)、ムガール帝国(インド)、清(中国)などアジアの帝国が世界で支配的な地位を占め、空前の繁栄を享受していた。中田氏はその時代がイスラム教にとっても全盛期だったと語る。しかし、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国が欧州領土の大半を失った後、西欧諸国が帝国主義的な植民地政策によって経済的に優位な立場に立ち、18世紀以降、かつてのアジアの帝国は植民化されるなどして西欧諸国から支配され、好き放題に搾取される弱い立場に立たされた。その関係性はその後の2度の世界大戦を経た後も、大枠では変わっていない。
(概要より)


同時に、私たちがいる”西側世界”も、「全体主義の時代」に引き摺られるかのように、政治は右へ全体主義の方へ傾斜しています。ヨーロッパでは極右政党が台頭しており、明後日(10日)から始まるフランス大統領選挙でも、ロシア寄りの極右・国民連合のルペン候補が現職のマクロン大統領を「猛追」しているというニュースがありました。ハンガリーでは、4月3日に行われた総選挙で、政権与党が勝利して、右派で強権的なオルバン政権が信任されています。ハンガリーはEU加盟国ですが、ウクライナに武器の提供はしないと明言していますし、ロシア産原油の支払いをプーチンの要請に従ってルーブルに変更することを決定しています。それどころか、アメリカでも、バイデン政権が一期で終わるのは必至で、もしかしたら共和党を簒奪したトランプの復活もあるのではないかと言われているのです。

右へ傾斜しているという点では、日本も例外ではありません。野党の立憲民主党まで含めて、戦争に備えるために、防衛予算を増やして非常時に対応した現実的な安保政策を再構築すべきだという声が大きくなっています。東浩紀が称賛したように、国家がどんどん際限もなくせり出して来ているのです。それが国民の基本的な権利の制限と表裏一体であるのは言うまでもありません。でも、世論もそれを容認しているように見えます。

メディアも国民も、戦争が長引くにつれ、益々安直にプーチン憎し、ウクライナが可哀そうの敵か味方かの二項対立で戦争を語るようになっているのです。でも、それでは目には目を歯には歯の復讐律しか生まないでしょう。政治家たちが短絡的なナショナリズムを振りかざして悪乗りしているように、それこそが動員の思想と言うべきなのです。

マイケル・ムーアが言うように、ウクライナ侵攻におけるメディアの戦争プロパガンダは、戦争主義者たちにとって”願ってもない成果”をもたらしつつあるのです。バイデンの再三に渡る挑発的な発言は、どう見ても戦争を煽っている(火に油を注いでいる)としか思えませんが、何故かそう指摘するメディアはありません。これでは、常に敵を必要とする産軍複合体は笑いが止まらないでしょう。
2022.04.08 Fri l ウクライナ侵攻 l top ▲
岸田首相の特使として、ウクライナの避難民支援のためにポーランドを訪問していた林外務大臣は、昨日(日本時間4日)、日本行きを希望する避難民20名を政府専用機の予備機に乗せてワルシャワを出発。今日(日本時間5日)、羽田空港に到着するそうです。

このニュース、なんだか人道支援に積極的に取り組む日本政府の姿勢をアピールするパフォーマンスのように思えてなりません。政府専用機で避難民を移送するなどという、こんな大仰なやり方をするのは日本だけです。

しかし、定員が150人の予備機に乗れるのは僅か20名。自力で渡航手段を確保するのが困難な人というだけで、その選定基準も定かではありません。なかには、日本のアニメにあこがれて、日本でマンガを学びたいという若い女の子も含まれているようです。

昨夜放送された「報道ステーション」によれば、その女の子は前にメインキャスターの大越健介氏の現地取材に出たことがあるそうです。それで、アピールするのに好都合だとして選ばれたのではないか、と余計なことまで考えてしまいました。

国外に避難したウクライナ人は既に400万人を越えていますが、そのうち日本が受け入れたのは3月30日現在で337人(速報値)です。言うまでもなく高額な渡航費(飛行機代)がネックになっているからです。

政府専用機で避難民を運ぶというのなら、1回きりでなく、それこそ何度でもピストンで運べばいいように思いますが、そういった予定はないようです。

各自治体が、避難民を受け入れます、公営住宅を用意してサポートします、とアピールしていますが、それも地方都市では10人とかそれくらいを想定しているにすぎません。大きいのは掛け声だけなのです。

日本政府の方針は、渡航費はあくまで自分で用意するというのが原則です。遠くて渡航費が高額なのを幸いに、そうやって避難民が押し寄せるのをコントロールしているような気がしてなりません。

2020年12月現在、日本にいるウクライナ人は1867人で、そのなかで1404人が女性です。女性が多いのは、ロシアンパブ(外国人パブ)などで働く出稼ぎのホステスなどが多いからかもしれません。そこにも平均年収が日本の5分の1以下というウクライナの現実が投映されているような気がします。

ニュースなどを見ると、日本政府は避難民の多くは日本にいる親戚や知人を頼って来ると想定しているようです。本音はなるべく縁故のある人間だけにしてもらいたいということかもしれません。

でも、日本人の受け止め方はきわめて安直で情緒的です。避難民が迎えに来た親戚と空港で抱き合うシーンに胸を熱くして、日本政府の人道支援に対して、日本国民として誇らしい気持すら抱いているかのようです。そこに冷徹な政治の思惑がはたらいていることは知る由もないし、知ろうともしないのです。

私たちは、可哀そうなウクライナ人VS憎きロシアのプーチンの感情のなかで、いつの間にか「戦時下の言語」でものを考え、語るようになっているのです。そうやって、メディアによる「戦争の『神話化』」(藤崎剛人氏)に動員されているのです。誤解を怖れずに言えば、ウクライナのためにキーウ(キエフ)に残って戦うゼレンスキー大統領が「英雄」に見えたら、それはもうアゾフと心情を共有していると考えていいでしょう。

作家の津原泰水氏のTwitterで知ったのですが、映画監督のマイケル・ムーアは、ポッドキャストでウクライナをめぐるマスコミ報道を次のように批判していたそうです。

長周新聞
米映画監督マイケル・ムーアが批判するウクライナ報道 「戦争に巻き込もうとする背後勢力に抵抗を!」

 ゼレンスキーの演説は強く感情的なものになるだろうが、その背後に私の知っている者たちがいる。私たちを戦争に引き込もうとしている奴らがいるが、それはプーチンのような人々ではない。

 私は、旧ソビエト連邦とソ連崩壊後のロシアを訪問したことがある。その時に数回プーチン氏と顔を合わせて、ウクライナについて考えを聞いたこともある。その時のプーチンの考えと今のプーチンの考えは、何も変わってはいない。

 変わったのは、私たちを戦争に引きずりこもうとしている奴が出現したことだ。それは政治家、マスメディア、戦争で何千万、何億ドルともうけようとする軍需企業だ。私たちは、「われわれはウクライナに行かねばならない。われわれは戦争しなければならない」という内側からの誘惑に対して抵抗しなければならないのだ。

 アメリカは第二次世界大戦後の75年間に世界で暴虐の限りを尽くしてきた。それらは朝鮮、ベトナム、カンボジア、ラオス、中近東諸国。中南米ではチリ、パナマ、ニカラグア、キューバ。第一次イラク戦争とそれに続くグロテスクなイラク戦争、アフガニスタン戦争など数えたらきりがない。

 アメリカはイラクで、アフガニスタンで100万人もの人々を殺し、多くの米兵が死んだ。その陰には息子を失った親、夫を失った妻、父親を失った子どもたちがいる。もはや、アメリカ人は戦争することは許されないのだ。

 私はアメリカのテレビがどんな放送を耳や目に押し込んでいるかを確認するとき以外はスイッチを切っている。テレビは毎日、毎日、悲しいニュースばかり流している。道路の死体や子どもたちを見せて、ひどいひどいと刷り込むことであなたの心をむしばんでいく。悲しければ、悲しいほど、大衆洗脳と戦争動員プロパガンダ効果があるのだ。


今もキーウ(キエフ)近郊のブチャで、410人の民間人とみられる多数の遺体が見つかったというニュース映像がくり返し報じられ、欧米各国もロシア軍によるジェノサイドだとしてロシアを強く非難、対ロ制裁をさらに強化すべきだとの声が高まっています。

このロシア軍の行為を民間人や民間施設を攻撃することを禁止したジュネーブ条約に違反する「戦争犯罪」だと非難しているのですが、しかし、戦場の極限下において、そういった条約がどれほど効力を持つのかはなはだ疑問です。不謹慎かもしれませんが、「戦争ってそんなもんだろう」「お行儀のいい戦争なんてあるのか」「それを言うなら戦争そのものが犯罪じゃないのか」と言いたくなります。

ジェノサイドがセンセーショナルに報じられることによって、欧米にさらなる制裁を促して和平交渉を有利に持っていくという意図がまったくないとは言えないでしょう。

もちろん、ロシア政府は、フェイクだ、ウクライナの演出だ、とお得意の謀略論を展開してジェノサイドを否定しています。日本でも安倍晋三元首相に代表される右派が、先の戦争での南京大虐殺や従軍慰安婦を否定していますが、それと同じです。そうやって戦争犯罪を否定することが愛国者の証しなのでしょう。

だからと言って、ロシアを非難するヨーロッパの口吻も額面通りに受け取るわけにはいかないのです。EU加盟国は、ここに至っても未だにロシアから天然ガスや石油の供給を受けているのです。ちなみに、2020年度にロシアがパイプラインで外国に送った天然ガスの84.8%がEU向けだそうです。『エコノミスト』(毎日新聞)によれば、「侵攻後25日間でEUがロシアに支払った輸入総額は(略)160億ユーロ(約2兆円)を超えている」そうです。

なかでもドイツとフランスの依存度が高く、ドイツが輸入した天然ガスの55.2%はロシアからノルドストリーム1(NS1)という海底パイプラインを使って供給を受けたものです。現在もノルドストリーム1は稼働しています。ロシアからの天然ガスの供給がストップすれば自国の経済が大混乱に陥るので、それだけはなんとしてでも避けなければならないというのがドイツなどの本音なのでしょう。もちろん、その背後には、ロシアとの貿易で巨利を得ているコングロマリットの意向もあるでしょう。

戦争ほど理不尽でむごいものはありません。「民間人」に被害が及ぶのは、知らないうちに自分たちが味方の軍隊の盾にされているからということもあるのですが、戦争でいちばんバカを見るのは「民間人」と呼ばれる市井の人々です。それこそ自力で避難する手段を確保することができずに戦場に取り残された人たちなのです。それが戦争の本質です。戦争がどんなかたちで終結を迎えようと、犠牲になった無辜の人々は浮かばれることはないのです。

「祖国のために」末端の兵士が憎悪をむき出しにして殺し合い、市井の人々が進駐してきた敵の兵士に殺害されたり拷問されたりレイプされたりする傍らで、国家の中枢にいる権力者や資本家たちは、みずからの延命や金儲けのために、落としどころを見つけるべく、戦闘相手国と丁々発止のかけ引きを行っているのです。もちろん、市井の人々の悲劇も、かけ引きの材料に使われているのは言うまでもありません。

井上光晴は、『明日』という小説で、長崎に原爆が投下される前日、明日自分たちの身に降りかかって来る”運命”も知らずに、小さな夢と希望を持ってつつましやかでささやかな日常を送る庶民の一日を描いたのですが、私は、今回の戦争でも、『明日』で描かれた理不尽さややり切れなさを覚えてなりません。

しかも、マイケル・ムーアが言うように、戦争がビジネスになっている現実さえあります。戦争では日々高価な武器が惜しみなく消費されるので、軍需産業にとってこれほど美味しい話はないのです。今回の戦争にも、そういった資本主義が持っている凶暴且つ冷酷な本性が示されているのです。それが西欧の醜悪な二枚舌、ダブルスタンダードを生み出していると言えるでしょう。

私たちは、メディアの戦争プロパガンダに煽られるのではなく、冷静な目で戦争の現実とそのカラクリを見ることが何より大事なのです。
2022.04.05 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲

昨日、みなとみらいのランドマークタワーに行ったら、イベント用のスペースでウクライナ支援の募金と演奏会が開かれていました。募金箱が置かれ、寄せ書きをするコーナーもありました。看板を見ると、ウクライナのオデッサ州と友好関係を結んでいる神奈川県が主催した支援のイベントだそうです。ちなみに、横浜市も、オデッサ州の州都であるオデッサ市と姉妹都市になっています。

ウクライナは、現在、国民総動員令が施行され、18~60歳の男性の出国が禁止されているため、避難している人の9割は女性と子どもだそうです。また、高齢者が少ないのは、体力的な問題とともに経済的な問題もあるからでしょう。避難するにもお金がかかるのです。

避難した人たちの話を聞いても、子どもの将来を考えて、子どもだけでも安全なところに避難させたいと考えた家庭が多いことがわかります。そのため、自宅に残りロシア軍の攻撃に晒されている祖父母や両親などを心配し後ろめたさを口にする避難民も多いのです。

自分たちの身近を考えても、寝たきりや一人暮らしの老人などが動くに動けないのはよくわかります。また、経済的に困窮している人たちにとって、避難がとても叶わぬことであるのは容易に想像がつきます。

まして、ウクライナは、お世辞にも豊かな国とは言えません。ロシア侵攻前の直近(2022年1月)のウクライナの平均年収は、日本円に換算するとおよそ636,000円です。ちなみに、日本(2022年)の平均年収は4,453,314円(中央値3,967,314円)です。ウクライナの年収は日本の5分の1以下なのです。そんな国の国民のなかで、子どもの将来のことを考えて避難できるのはごく一部の恵まれた、あるいは運のいい人たちの話にすぎないでしょう。

平均年収が60万円ちょっとしかない国の国民が、家族3人なら100万円以上もかかる飛行機代を払って日本に来るなど、援助してくれる人がいない限り、とても無理な話なのです。

東欧にネオナチが多いのも、反ソ連=反ロシアの感情以外に、貧困の問題もあるような気がします(一方で、ロシアにも大ロシア主義に憑りつかれレコンキスタの幻影を追い求める「ロシア帝国運動」のようなネオナチが存在します。そのことも強調しておかなければなりません)。

大半の国民たちは、銃弾が飛び交うなか、恐怖と不安と空腹で眠れる夜を過ごしているのです。ロシア軍に包囲され孤立した街では、餓死する市民も出ているという話さえあります。

逃げたくても逃げることができない人々。そんな戦場に取り残された人々こそ戦争のいちばんの犠牲者と言えるでしょう。まるでスポーツの試合のように戦況を解説する軍事ジャーナリストたちの話を聞いていると、がれきの下で息をひそめて日々を過ごしている人々の存在をつい忘れてしまいそうになります。

前も書いたように、国家が強いる敵か味方かの二項対立の”正義”に動員されないためには、メディアのステレオタイプな視点とは別の視点から今の事態を見ることも必要です。そう考えるとき、半ばタブーになっているウクライナのネオナチの存在も無視することはできないのです。もちろん、だからと言って、ロシアの蛮行が正当化されるわけではありませんが、ウクライナのネオナチの存在が、ロシアにウクライナ侵略(実際はウクライナ併合の野望)の口実を与えたことは否めないように思います。

ウクライナのアゾフ大隊は、アメリカのCIAやヨーロッパの情報機関だけでなく、日本の公安調査庁の「国際テロリズム要覧」でも取り上げられているウクライナのネオナチ組織です。しかし、現在、アゾフはウクライナ国防省の指揮下に置かれ、今回の侵攻でも民兵として大きな役割を担い、その戦いぶりで英雄視されるまでになっているのでした。
※4月8日、公安調査庁は「国際テロリズム要覧2021」からアゾフ大隊に関する記述を削除しました。日本でもこうして「戦時下の言語」に塗り替えられているのです。

昨日のテレビ朝日の「サンデーステーション」でも、アゾフ大隊は「国家親衛隊」の一員として紹介され、マクシム・ゾリンなる司令官のインタビューが放送されていました。軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏は、番組のなかで、「アゾフはナショナリストで極右ではあるけれど、ネオナチではない」とわけのわからないことを言っていました。

YouTube
ANNnewsCH
【独自】ロ軍が敵視する「アゾフ連隊」司令官が語る(2022年3月27日)

出版社のカンゼンが、『ULTRAS』と『億万長者サッカークラブ』というサッカー関連の本のなかで、ロシアとウクライナのとんでもなく過激なサポーターをルポした章を2週間限定で無料公開しているのですが、そのなかでアゾフのことが詳しく書かれていました。

note
【全文公開】『ULTRAS』第8章 ウクライナ 民主革命を支えた極右勢力のこれから

ちなみに書名になっている「ULTRAS(ウルトラス)」というのは、フーリガンと同じようなサッカーの熱狂的なサポーターを指すことばです。日本では理解しがたいかもしれませんが、とりわけ東欧においては、「サッカーは、共産主義によって封じ込められていた民族主義的な衝動を、暴力的な手段で表現するはけ口」(『ULTRAS』)になっており、ウクライナのアゾフもそんなウルトラスに起源を持っているのでした。

 もともとアゾフはメタリスト・ハルキウ(引用者註:ウクライナのサッカークラブ)のウルトラスが設立した志願兵の部隊を前身としていたが、当時はアンドリー・ビレツキーという人物が率いていた。
 ビレツキーは極右の指導者で、超国家主義者、急進右派、そしてネオナチの連合体である社会国民会議という組織を創設しており、ユーロマイダンが始まった時点ではハルキウ(引用者註:ウクライナの都市)で服役していた。だがヤヌコーヴィチがロシアに逃亡して4日後、ウクライナ最高議会は全ての政治犯を釈放する法律を可決する。かくして自由の身になったビレツキーは、アゾフの初代司令官に収まることとなった。

 2014年6月、アゾフはマリウポリを親ロシア派の勢力から解放することに成功し、彼の地に拠点を置くようになる。ロシアとの軍事衝突が始まって以来、ウクライナは屈辱的な敗北を重ねていただけに、マリウポリでの勝利は画期的だった。
 ユーロマイダン、そしてロシアとの軍事衝突における貢献度の高さは、アゾフの名前を広めただけでない。ウクライナにおけるウルトラスの名誉復権にも貢献した。
 かつてのウルトラスは、粗暴で人種差別的で社会に何らの利益ももたらさない存在として見なされていた。たとえばBBCは2012年、ウクライナがポーランドとEURO2012を共催する前に、ドキュメンタリー番組を放送。カルパティ・リヴィウのサポーターがナチス式の敬礼を行い、黒人選手に罵声を浴びせる場面を伝えている。
 また同番組はハルキウで、メタリストのウルトラスにインタビューしている。この人物はアンドリー・ビレツキーが率いるもう一つの極右組織、「ウクライナの愛国者」の幹部も務めていた。彼は自分たちがネオナチではないと盛んに強調したが、やはりメンバーはナチス式敬礼をしたり、インド人の学生グループを襲ったりしていた。
 さらに彼らの党旗には、ナチス時代のヴォルフスアンゲル(狼用の罠をモチーフにしたデザイン)に似たシンボルも用いられている。ビレツキーは「ウクライナの愛国者」を解散させた後、同じシンボルをアゾフの軍旗にも採用するようになった。
 だがユーロマイダンとロシアとの軍事衝突を通して、ウルトラスと極右勢力は自らの悪しきイメージを払拭し、社会において一定の立場を確保することに成功したのである。
「ロシアとの紛争が起きた後は、多くのウクライナ人にとって、極右勢力は二次的な問題に過ぎなくなったのです」
 ヨーロッパ大西洋協力研究所の政治学者で、ウクライナとロシアの政治に詳しいアンドレアス・ウムランドは指摘している。
「極右勢力は反ロシア、反プーチン主義の立場を貫いてきました。この事実は、そもそも彼らが反ロシアを標榜する理由(ラディカルな民族主義)よりも重視されたのです」
(『ULTRAS』)


こうしてアゾフは、世界の情報機関の懸念をあざ笑うかのように、過去の悪行は水に流され、ウクライナ国民から英雄視され美談の主人公に祭り上げられていったのでした。

ロシアへの経済制裁に対して、インドやアフリカの国が反対はしないものの積極的に賛同もしない曖昧な態度を取っているのも、ロシアや中国に対する遠慮だけでなく、アゾフの存在が暗い影を落としているような気がします。

ロシアの侵攻がはじまった当初、ウクライナから脱出する留学生たちについて、次のような記事がありました。

Yahoo!ニュース
ロイター
焦点:ウクライナ脱出図る留学生、立ちはだかる人種差別や資金難

人種差別によって出国がさらに難しくなっている、と語る学生もいる。ソーシャルメディアを見ると、アフリカやアジア、中東出身者が国境警備隊に暴行を受け、バスや列車で乗車を拒否される動画が目に入る。そのかたわらで白人は乗車を許されている。


アゾフには、他に遊牧民のロマ(ジプシー)のキャンプを襲撃したり、LGBT(性的マイノリティ)の集会に乱入して暴力を振ったり、左派の労働運動家を拉致してリンチするなどの行為が指摘されています。ネオナチどころか、ど真ん中のナチス信奉者、ゴリゴリの白人至上主義者で、ファシストとしか呼びようがない集団なのです。

何より「サンデーステーション」で司令官が身に付けていた防弾チョッキの記章が、彼らの主張を雄弁に語っているように思いました。それは、上記の『ULTRAS』の記事で指摘されているように、ナチスのヴォルフスアンゲルを模したアゾフ大隊の記章です。ネットで画像検索すれば、彼らがナチスのハーケンクロイツ(鉤十字)の旗とともに記念写真に映っている画像も見ることができます。

『ULTRAS』に「極右はウルトラスの人気に便乗する形で勢力を拡大している。その際には、自分たちが信奉するのは、ファシズムやナチズムではなくナショナリズムだ、単にウクライナという国を愛しているに過ぎないと幾度となくアピールした」という記述がありましたが、「サンデーステーション」でもアゾフの司令官は、自分たちは(ネオナチではなく)ただの愛国者だと強調していました。黒井文太郎氏が言っていることも同じでした。

ネットには、アゾフはウクライナ軍に編入された時点で「無力化」されているので、アゾフを問題視するのはロシアに加担する陰謀論だと言う声がありますが、それこそ国家の”正義”に動員された先にある思考停止=反知性主義の典型と言うべきでしょう。「無力化」の意味が今ひとつわかりませんが、ファシストが「無力化」されたなどというのは、如何にもネット民らしいお花畑の戯言にすぎません。そもそも極右だけどネオナチではないなどという、禅問答のような話を理解しろという方が無理でしょう。

旗幟鮮明し単色化した世界(タコツボ)のなかで、異論や少数意見をシャットアウトして、メディアから発せられる多数派の口上に同調するだけでは、当然ながら見えるもの、見るべきものも見えなくなってしまうでしょう。今や”電波芸者”と化した軍事ジャーナリストたちのさも訳知りげな解説は、眉に唾して聞く必要があるのです。

非常時なのでとりあえず目を瞑るということもあるのかもしれませんが、戦争にカタがついたあと、欧米から提供された武器で武装したアゾフが、手のひらを返して開き直り、「飼い犬に手を噛まれた」イスラム原理主義組織の二の舞になる怖れは多分にあると言えるでしょう。そうやって再度ウクライナに悲劇を招く懸念も指摘されているのです。アメリカの軍事顧問はアゾフに対して、提供した武器の使用方法などを指導していたそうですが、それはかつてアメリカが中東やアフガンにおいて、「敵の敵は味方」論でイスラム原理主義組織にやったこととまったく同じです。それどころか、藤崎剛人氏が指摘しているように、ネオナチのネットワークでウクライナにやってきて、容赦ない戦争暴力を体験したネオナチたちが自国に戻ることで、既存の”民主主義世界”、とりわけヨーロッパの脅威になる可能性も大きいのです。

アゾフが求めるのが、プーチンと同じような(あるいはそれ以上の)”ヘイトと暴力に直結した政治”であることを忘れてはならないのです。それは、ロシアの侵略戦争に反対することやウクライナを支援することと、決して矛盾するものではないのです。


関連記事:
ウクライナに集結するネオナチと政治の「残忍化」
2022.03.28 Mon l ウクライナ侵攻 l top ▲
ウクライナのゼレンスキー大統領がアメリカの連邦議会で演説した際に、ロシアの侵略を日本軍の真珠湾攻撃に例えたことに対して、日本のネトウヨが猛反発して、”ゼレンスキー叩き”が沸き起こっているのだそうです。

リテラが次のように伝えていました。

リテラ
ロシアの侵略を「真珠湾攻撃」にたとえたゼレンスキー大統領を非難する日本のネトウヨの言い分がプーチンとそっくり!

 これ(引用者注:ゼレンスキー演説)に対し、ネトウヨが「真珠湾攻撃とロシアの侵略を同列に語るなんて許せない」と怒り狂い始めたのだ。

〈こいつ何言ってるんだろう…。 真珠湾を今回のロシアの侵略と同義で扱うとか控えめに言って頭おかしい。 ウクライナに対する気持ちが一気に冷めた。〉
〈真珠湾攻撃を思い出せ?お前らを応援するのやめたわ、バカバカしい〉
〈正直、ウクライナには冷めた。〉
〈ゼレンスキー、日本に喧嘩を売っているのだろうか?〉

 演説内容が報じられた直後から、ツイッター上ではこんなウクライナ、ゼレンスキー攻撃であふれ、16日深夜、東北で大地震が起きても、「真珠湾攻撃」「パールハーバー」がトレンドワードに留まり続けた。

 さらに、在日ウクライナ大使館のツイッターアカウントに直接、こんな罵倒リプを飛ばす輩も現れた。

〈真珠湾攻撃を引き合いに出した時点でウクライナを支援する気持ちは毛頭無くなりました〉
〈真珠湾攻撃を例えにしたから支援は無理です。 旧ソ連同士潰し合いよろしくやってな!〉
〈まずは真珠湾攻撃発言の謝罪と撤回を。ヘイトスピーチをやっておいて支援をしろとは、ウクライナはヤクザ国家ですか?〉
〈お宅の大統領が米議会で真珠湾攻撃をネタにして演説したことに日本人は憤りを感じてますよ?〉
〈大統領が真珠湾攻撃云々という国に対して援助する必要はあるのだろうか。日本人はお人好しばかりだね。日ソ中立条約を破って北海道に侵攻した旧ソ連。ウクライナって旧ソ連だよね。〉

 そして、ゼレンスキー大統領が日本の国会で演説をするという計画についても反対意見が巻き起こっている。

〈ゼレンスキー何故いまそれを言う? 日本人舐めてんの? 日本の国会で何言って煽るの? この大統領アホかも?〉
〈ロシアの攻撃を日本の真珠湾攻撃に例えるようなやつを国会で演説なんてさせてはいけない。〉
〈テロと真珠湾攻撃を同等扱い。こんな奴国会で演説させんの、ど〜すんの笑〉


「戦争反対」も、国家や党派や民族と接続されると全体主義に架橋される怖れがあると前の記事に書きましたが、その典型のような話です。

21日の時点で、国外に避難したウクライナ人は353万人を超えているそうですが、そのなかで日本に来た難民は、百数十人にすぎません。距離が遠いということもあって、高額な渡航費がネックになっていると言われています。日本に避難できたのは、身内などが住んでいて国内に受け入れ先があり、一人当たり30万とも40万とも言われる飛行機代を払うことができた人たちだけです。

それに、仮に渡航費の一部でも日本政府に援助して貰いたいなどと言おうものなら、上記のゼレンスキー大統領の発言ではないですが、途端に、避難民は甘えている、迷惑な存在だ、受け入れるだけでもありがたく思え、なんていうバッシングがはじまるのは目に見えています。「受け入れて頂いてありがとうございます」と頭を下げ、日本人に感謝する「従順で哀れなウクライナ人」と認められれば、まるで捨て猫が頭を撫でられるように、日本人のヒューマニズムは機能するのです。そうでなければ難癖を付けられて、機能しなくなるのです。

一方で、ロシアのウクライナ侵攻以来、在日ロシア人に対する嫌がらせも頻発しているようです。ロシア料理店の看板が壊されたり落書きされたり、「日本から出て行け」というような恐喝めいた電話がかかってくることもあるそうです。

「哀れなウクライナ人」と「侵略者の手先のロシア人」、日本人にとってそれはまるでコインの表裏のようです。

そんなニュースを見て、私は、日本国内の「戦争反対」の声はホンモノなんだろうかと思いました。

”ゼレンスキー叩き”とロシア人ヘイトに共通するのは、”日本第一”です。「戦争反対」と言っても、結局、ナショナリズムに縛られたままなのです。偏狭なナショナリズムの呪縛から自由ではないのです。

私は、ロシア料理店にいたずら電話をかけるくらいなら、世界の首脳のなかでも異常なほどプーチンに入れ込み、2019年9月に27回目(!)の首脳会談を終えたあと、プーチンに向って「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」と語りかけた(朝日の記事より)安倍晋三元首相を糾弾する方が先だろうと思いますが、そんな愛国者はこの国にはいないのです。それどころか、安倍晋三元首相は愛国者たちにとって未だにヒーローでありつづけるのです。

今になれば、お粗末な資質を見抜かれたのか、安倍晋三元首相はプーチンにいいように利用されていただけなのは誰が見てもわかりますが、その結果、ロシアとの平和条約交渉に向けた経済協力費として、2016年度から6年間で約200億円を支出しているのでした。しかも、あろうことか、ウクライナ侵攻が始まり、経済制裁の意趣返しに平和条約交渉が一方的に破棄されたにもかかわらず、先ごろ成立した今年度予算には未だ関連予算として21億円が計上されているのです。でも、日本の愛国者たちはその事実さえ見ようとせず、いつものように現実を糊塗するだけです。

2014年のクリミア侵攻の際は、ウラジーミル❤シンゾーの関係を重視して、日本政府(安倍政権)は制裁に及び腰で、欧米と共同歩調を取ることはありませんでした。今の中国と同じように、ロシアの蛮行を半ば黙認したのです。そのときと比べればいくらかマシとは言えますが、それでもどこか「所詮は他人事」のような姿勢を感じてなりません。入国ビザを簡素化しても、いちばんのネックの渡航費の問題は見て見ぬふりなのです。政府の支援策が曖昧ななかで、むしろ自治体が国に先んじて支援を始めているのが実状です。政府は、アメリカに押されて仕方なくやっているように見えなくもないのです。

このように、この国は「戦争反対」でも愛国でも見せかけだけで、中身は薄っぺらとしか言いようがないのです。


※この記事は、日本の国会でのゼレンスキー演説の前に書きました、為念。

追記:(3/25)
前回の記事に、ウクライナとネオナチに関する清義明氏の記事のリンクを貼りました。
2022.03.23 Wed l ウクライナ侵攻 l top ▲
前の記事からのつづきですが、思想史が専門で、カール・シュミットの公法思想を研究している藤崎剛人氏は、Newsweek日本版に次のような記事を書いていました。

Newsweek日本版
世界中の極右を引き寄せるウクライナ義勇軍は新たなファシズムの温床か

ウクライナを支援するために、義勇兵として世界各地からネオナチが集まっているそうですが、藤崎氏は、そういった戦争経験によって、世界的に政治の「残忍化」が進むことは避けられないと書いていました。

その前に、2月27日のメルマガで田中宇氏が書いていた記事を紹介します。

田中宇の国際ニュース解説
ウクライナがアフガン化するかも

ウクライナには以前から、ロシア敵視のウクライナ系ナショナリスト勢力(極右ネオナチ)から、ロシア系などの親ロシア勢力までの諸勢力がいる。極右は米英諜報界に支援されてウクライナの諜報機関を握ってきた。ゼレンスキー大統領も極右の側近たちに囲まれている。ウクライナの極右は、イスラエルの入植者と似て、ナショナリストと言っているが本質はそうでなく、ロシアに打撃を与えることを最優先にしている。彼らの本質は極右というより米英のスパイだ(エリツィン時代のロシアのオリガルヒとか、コソボのKLAも同質)。


新型コロナウイルスでもトランプばりの謀略論を唱え、すっかり”イタい人”になった田中氏ですが、ただ、ウクライナ政府と極右=ネオナチの関係については、他にも鳩山由紀夫氏が、Twitterで「ウクライナのゼレンスキー大統領は自国のドネツク、ルガンスクに住む親露派住民を『テロリストだから絶対に会わない』として虐殺までしてきたことを悔い改めるべきだ」と発言していましたし、寺島実郎氏も「サンデーモーニング」(TBS系)で「(ウクライナが)一方的な被害者かっていうと、そうでもない」と発言していました。二人ともロシアのウクライナ侵攻は「ヒトラーがやったこととほぼ同じ」(寺島氏)と断った上での発言でしたが、いづれもネットで袋叩きに遭っています。

藤崎氏によれば、少なくともソ連崩壊後に頻発した東欧の紛争において、ネオナチの存在は半ば常識のようです。しかし、私の知る限り、メディアに出ている日本の専門家たちのなかで、ウクライナとネオナチの関係に触れている人は皆無でした。

ウクライナはロシアに侵略された被害者です。プーチンの演説に帝政ロシア時代の3色旗を打ち振りながら熱狂する国民の姿が示しているように、ロシアこそファシスト国家と呼ぶべきでしょう。ましてウクライナの民衆の悲惨な現実から目をそらしてならないことは、言うまでもありません。それはいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。

しかし、一方で、メディアが国家のプロパガンダのお先棒を担ぎ、善か悪かに単純化されてしまっているのは否めないように思います。テレビに出ている「軍事評論家」たちは、戦争をまるでスポーツの勝ち負けのように解説するだけだと言った人がいますが、同じように思っている人も多いはずです。とは言え、ロシアが一方的に侵略したのはまぎれもない事実で、それを考えれば、善か悪かの二元論で語るのもそうそう間違いではないのです。ただ、善か悪かの二元論では見えない部分があることもまた、たしかなのです。上記のように思わず口に出してしまった粗忽な人間以外にも、いわゆる「識者」のなかには、メディアはものごとの一面しか報じてないと心のなかで思いながらも、火中の栗を拾わないように沈黙を選んでいる人もいるに違いありません。

もちろん、藤崎氏が上記の記事のなかで紹介しているように、政治アナリストのジョナサン・ブランソンの「現時点でウクライナに必要なのは兵力であり『今は』その中身について問うべきではない」という意見はそのとおりかもしれません。

でも、同時に、「ロシアの侵略と戦うウクライナは、ネオナチに実戦経験とその神話化の機会を提供する。それはかつてナチスの台頭を招いた政治の『残忍化』につながりかねない」という藤崎氏の懸念にも、無視できないものがあるように思いました。ウクライナの抵抗に冷水を浴びせる話と思われるかもしれませんが、私たちの素朴実感的なヒューマニズムが国家や党派に簒奪され”動員の思想”に利用されないためにも、善か悪か、敵か味方かの二元論とは別にところにある、こういった少数意見に耳を傾けることも大事であるように思います。

(引用者注:ドイツの)左翼党の議員マルティナ・レンナーは、こうしたネオナチの活動家がウクライナで戦闘経験を積むことはドイツ政治に悪い影響を与えるのではないか、と述べている。

レンナー議員のこの危惧は理解できる。というのは100年前のドイツでもやはり、ヴァイマル共和国に暴力的な政治文化を形成し、ヒトラーの台頭を招いたのは、第一次大戦やそれに続くバルト地方からの撤退戦などに参加し、凄惨な暴力を体験してきた兵士たちだったといわれているからだ。

第一次大戦後のドイツでは、前線経験がある若者を主体とする義勇軍組織(フライコール)が結成され、縮小した正規軍に代わって左翼活動家や労働者たちの弾圧に関わった。(略)


また、藤崎氏は、「ヴァイマル共和国の不安定化はそれ以前の戦争経験に基づくという、政治の『残忍化』テーゼを打ち出し一躍注目を浴びた」ジョージ・L・モッセの『英霊』(筑摩文庫)も紹介していました。

モッセによれば、兵士や義勇兵たちによって形成された「戦争体験の神話」は政敵を非人間化し、その殲滅を目指す思考を受け入れやすくする。そのことによってファシズムの残忍さは、残忍であるがゆえに魅力的なものとなるのだ。


さらに藤崎氏は、こうつづけます。

『英霊』におけるモッセの議論は、我々がメディアを通して戦争を受容するときの戒めにもなるかもしれない。メディアを通して我々が「残忍化」するというと、我々は「××人を殺せ」のような好戦的メッセージの危険性をまず思い浮かべる。しかしモッセが取り上げているのはそれだけではない。戦没者追悼などを通した「英雄化」や、小説やゲーム、絵葉書、子供の玩具などを通した戦争表象の「陳腐化」も彼は議論の対象にしている。


我々が日々接しているメディアでも、ウクライナ戦争の「英雄化」や「陳腐化」が行われている。たとえばSNSで拡散されるような英雄的に戦うウクライナ兵士のエピソードや、ロシア軍に屈しないウクライナ市民たち、不屈の指導者としてのゼレンスキー表象、ウクライナを応援するための国旗色が施された様々なグッズ、などはその例といえるだろう。

戦争が始まってから二週間、SNSを含むメディアの進化によって、虚実入り混じった情報が急速なスピードで世界を飛び交い、戦争の「神話化」がリアルタイムで進んでいる。我々は少しずつ戦争に慣れ始め、戦時下の言語で語るようになっている。(略)


鳩山由紀夫氏に対しても、「喧嘩両成敗は加害者の味方」というような批判があったそうです。旗幟鮮明でなければならないのです。それも「戦時下の言語」と言わねばなりません。そこにあるのは、まさに”動員の思想”です。

何度もくり返しますが、どんな国家であれ、国家に正義などないのです。現在、ロシアがウクライナでやっていることは、アメリカが世界各地でやっていたことと同じです。ロシアとアメリカは、同じ穴のムジナ、どっちもどっち!なのです。にもかかわらず、敵か味方かの発想は、必ず正義の旗を掲げた国家の介入を招くことになり、どっちの側に付くのかという旗幟鮮明を迫られるのです。

私たちは、それとは別に、熾烈な弾圧にもめげずにロシア国内から反戦のメッセージを発している「3.5%」のロシアの人々に対しても、連帯することを忘れてはならないのです。今日も、国営テレビの生放送中に、女性ディレクターが「乱入」して、手書きの反戦メッセージが書かれたボードを掲げたというニュースが世界を駆け巡りましたが、そういった内からプーチン政権に異を唱える人々に連帯の意志を示し支援することも、戦争を終わらせるためには非常に大事なことなのです。

現代の戦争は、「ハイブリッド戦争」と呼ばれ、地上の戦闘だけでなく、ネット空間でのサイバー戦や情報戦も欠かせない要素になっています。「ハイブリッド戦争」は、人々の声が国家のプロパガンダに利用される可能性がある反面、人々が直接戦争に関与できる余地もあるように思います。国境を越えて侵略国家の中の「3.5%」の勇気ある人々と連帯し、反戦の世論を喚起することも可能になったのです。そうやって国家でも党派でもない、ひとりひとりの自立した素朴実感的な平和を願う声が世界を動かすことも不可能ではなくなったのです。それが、19世紀とも20世紀とも違う現代の特徴なのです。

新型コロナウイルスが瞬く間に世界に広がって行ったように、私たちは、自分たちの連帯の声が瞬く間に世界に広がって行くような時代に生きているのです。それを武器にしない手はないでしょう。

そのためにも((ハイブリッド戦に巻き込まれないためにも)、少数意見や反対意見にも耳を傾け、常にみずからを対象化し検証することが肝要でしょう。反戦平和のヒューマニズムにしても、時代的な背景は異なるものの、スペイン人民戦線の悪夢が示しているように、国家や党派や民族と接続されると全体主義に架橋される怖れがないとは言えないのです。


追記:(3/25)
その後、清義明氏が、朝日の「論座」で、ウクライナとネオナチの関係について書いていました。でも、清氏の記事も、ネットではロシアを擁護する陰謀論として叩かれていました。

論座
ウクライナには「ネオナチ」という象がいる~プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【上】
ウクライナには「ネオナチ」という象がいる~プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【中】
ウクライナには「ネオナチ」という象がいる~プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【下】
2022.03.15 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲
ロシア軍によるキエフの掃討作戦(ザチストカ)が目前に迫っていると言われています。キエフのビタリ・クリチコ市長によれば、3月11日現在、人口350万人のうちまだ200万人がキエフにとどまっているそうです(ロイターの記事より)。

常岡浩介氏は、『ロシア 語られない戦争 チェチェンゲリラ従軍記』(アスキー新書)で、次のように書いていました。

国際紛争の場で難民はメディアに取り上げられがちだが、本当に悲劇的な状況に直面しているのは難民よりもむしろ、難民になれず戦争の中に取り残された人たちや、絶望の中で遂に武器をとって立ち上がった人たちだ。難民とは危険な境遇からの脱出に成功した運のいい人たちのことだ。


200万人の市民が残っているキエフで掃討作戦が実行されれば、想像を絶するような惨劇を目にすることになるでしょう。アサド政権支援のためにシリア内戦に参戦したときと同じように、生物・化学兵器の使用も懸念されています。キエフにもサリンが撒かれる可能性があるかもしれません。

ただ、ウクライナにもチェチェンと同じように、「一人が倒れても、次の10人が立ち上がる」(同上)パルチザンの歴史があります。ウクライナの民兵の士気の高さは、メディアなどでも指摘されているとおりです。ロシアにとって、ウクライナはアフガニスタンの二の舞になるのではないかという見方もありますが、その可能性は高いでしょう。仮にロシアがウクライナに傀儡政権を作り、ウクライナを支配しても、ウクライナ人の抵抗がそれこそ世代を越えて続いていくのは間違いないでしょう。

一方、ポーランドがウクライナに戦闘機を供与するという話も、ロシアを刺激するからという理由でアメリカが反対して中止になりました。ロシアが核の使用を公言するなど、あきらかにルビコンの河を渡ったにもかかわらず、アメリカやヨーロッパは旧来の戦略から抜け出せず、世界から失望され呆れられるような怯懦な態度に終始しています。ただ手をこまねいて見ているだけの欧米は、ウクライナに「俺たちのために人柱になってくれ」と言っているようなものでしょう。

バイデンは、ロシアが生物・化学兵器を使えば「重い代償を払うことになる」と警告したそうですが、ワシントンでそんなことを言ってももう通用する時代ではないのです。誰かのセリフではないですが、戦争は現場で起きているのです。

もっとも、(矛盾することを言うようですが)これはあくまで全体主義(ロシア)VS民主主義(ウクライナ)の図式を前提にした話でもあるのです。欧米の腰が重い背景には、核戦争の脅威やNATO加入の有無、天然ガスの供給の問題の他に、もうひとつ別の理由もあるような気がしないでもありません。それは”懸念”と言い換えてもいいかもしれません。もちろん、だからと言って、ロシアの蛮行がいささかも正当化されるわけではありませんし、ウクライナ国民の悲惨な姿から目を逸らしていいという話にはなりません。上にも書いたとおり、パルチザン=人民武装の歴史は正しく継承されるべきだと思いますが、それにまったく”懸念”がないわけではないのです。

いづれにしても、ロシアは後戻りできない状態にまで進んでいるようにしか思えません。ロシア帝国の失地回復(レコンキスタ)は、「ロシアの権力を”シロビキ”と呼ばれる治安機関と軍の出身者で固めて、ソ連時代を上回る秘密警察支配を完成させた」(同上)プーチンにとっても、みずからの権力と命を賭けた責務になっているかのようです。

2008年、プーチンが2期8年でいったん大統領を退いた際、「一旦、権力を渡してしまった秘密警察から、再び権力を取り上げて民主的体制を建設し直すのは困難だし、ことによるとプーチンの身にも危険が及ぶだろう」(同上)と常岡氏は書いていましたが、大ロシア主義というあらたな愛国心に取り憑かれたロシアの暴走をもはや誰も押しとどめることができないのかもしれません。

日本のメディアでは、NATOの東方拡大に対するプーチンの不信感と警戒心が今回の侵攻を引き起こしたというような論調が多く見られますが、多極化を奇貨とした大ロシア主義=ロシア帝国再興の野望に比べれば、それは副次的な問題にすぎないように思います。

下記の朝日の記事もNATOの東方拡大について書かれた記事ですが、その主旨とは別に、今回のロシアの暴走を知る上で参考になるものがあるように思いました。

朝日新聞デジタル
ゴルバチョフは語る 西の「約束」はあったのか NATO東方不拡大(有料記事)

クリントン政権時代に国防長官を務めたウィリアム・ペリー氏は、著書(共著『核のボタン』田井中雅人訳・朝日新聞出版)のなかで、次のように述べているそうです。

「冷戦終結とソ連崩壊は米国にとってまれな機会をもたらした。核兵器の削減だけでなく、ロシアとの関係を敵対からよいものへと転換する機会だ。端的に言うと、我々はそれをつかみ損ねた。30年後、米ロ関係は史上最悪である」


また、米軍将校から歴史家に転じたアンドリュー・ベースビッチ氏は、2020年6月の朝日新聞のインタビューで次のように語っていたそうです。

「ベルリンの壁崩壊を目の当たりにして、米国の政治家や知識人は古来、戦史で繰り返された『勝者の病』というべき傲慢(ごうまん)さに陥り、現実を見る目を失ったのです」


冷戦に勝利した欧米の民主主義がその寛容さを忘れ傲慢になってしまったというのはそのとおりかもしれません。欧米にとって、新生ロシアは、あらたな市場(資本主義世界にとってあらたな外部)の出現であり、収奪の対象でしかなかったのです。その結果、司馬遼太郎が指摘していたような自意識の高いロシアのノスタルジックな大国意識に火を点け、核を盾にした暴走を許すことになったのです。挙げ句の果てには、今のように、暴走するロシアに対して為す術もなく、ただオロオロするばかりなのです。

それは日本も同じです。と言うか、むしろ日本は欧米以上にロシア寄りでした。ロシアの暴走は、2014年のクリミア半島の併合からはじまったのですが、当時、プーチンに肩入れしていた安倍政権はロシアに対する制裁に消極的で、欧米と歩調を合わせようともしなかったのです。それが今になって「暴挙だ」「力による現状変更はとうてい認めることはできない」などとよく言えたものだと思います。

昨日のテレビでも、今回の侵攻は、NATOに加入したかったけど加入できなかったプーチンの個人的な恨みによるものだ、と大真面目に解説しているジャーナリストがいました。また、ロシアに対する経済制裁の影響で、イクラやカニなどの仕入れが難しくなり、「回転ずしにも暗い影を落としそうだ」という新聞記事もありました。能天気な日本人のトンチンカンぶりには、口をあんぐりせざるを得ません。

何度も同じことをくり返しますが、欧米の民主主義は、現在、我々の目の前に姿を現わしつつある「全体主義の時代」にほとんど無力なことがはっきりしたのです。もちろんそれは、アジアの端に連なる日本にとっても、決して他人事ではないはずです。

韓国に”親日”の大統領が当選したからバンザイとぬか喜びしている場合ではないのです。私は嫌韓ではありませんが、僅差とは言え、ミニプーチンような前検事総長を大統領に選ぶ国(国民)の怖さと愚かさをまず考えるべきでしょう。民主主義に対して、あまりにデリカシーがなさすぎると言わざるを得ません。
2022.03.12 Sat l ウクライナ侵攻 l top ▲
言うまでもなく戦争では、武力衝突だけでなく、プロパガンダを駆使した情報戦で敵を撹乱するのも重要な戦略です。

たとえば、2003年にアメリカがイラクに侵攻する際の根拠となったイラクの大量破壊兵器(WMD)の保有がまったくの捏造だったことは、あまりに有名です。アメリカはネット顔負けのフェイクニュースを流して、テロ撲滅の名のもと50万人(推定)の無辜の民を殺戮したのでした。

また、1991年の湾岸戦争では、アメリカ軍によってアラビア海の油まみれの水鳥の写真が公表され、国際世論がいっきにイラク非難に傾くということがありました。それは、イラクがクェートの油田を攻撃して、流出した油でアラビア海が汚染された写真だと言われたのですが、実はアラビア海とはまったく関係がなく、アラスカ沖のタンカー事故の写真だったのです。

さらに、「ナイラ」という名前のクェートの少女が、NGOの人権委員会で、イラクの兵士たちが生まれたばかりの赤ん坊を床に投げつけて殺害していると涙ながらに証言したニュースが世界に発信され、まるで鬼畜のようなイラク兵の蛮行に世界中が憤慨したのですが、そう証言した少女はクェートの駐米大使の娘で、アメリカの広告会社が14億円で請け負ったプロパガンダだったことがのちに判明したのでした。

今回の戦争でも、似たようなプロパガンダが行われていることは想像に難くありません。もちろん、アメリカだけでなく、ロシアもウクライナもやっているでしょう。しかも、始末が悪いのは、テレビのコメンテーターたちが、そのプロパガンダの片棒を担いでいるということです。

もちろん、だからと言って、それでロシアの侵攻がいささかも正当化されるわけではありません。何が言いたいかと言えば、どんな戦争であろうと、戦争に正義はないということです。国家の言うことに騙されてはならないということです。私たちが依拠すべきは、国家でも党派でも、あるいは制度でもイデオロギーでもなく、みずからの心のなかにある自前の平和や人を思う気持なのです。それしかないのです。

キエフなどで実施された「人道回廊」は、チェチェン紛争でも実施された過去がありますが、しかし、そのあとクラスター爆弾や化学兵器を使った容赦ない無差別攻撃によって、人口の半分が殺害されるようなジェノサイドが行われたのでした。時間稼ぎのために、「人道回廊」や一時停戦を提案するのはロシアの常套手段だと言われていますが、今回もキエフの掃討作戦(ザチストカ)の前触れのような気がしてなりません。

アムネスティ・インターナショナルの発表でも、チェチェンでは、1994年から1996年にかけての第一次チェチェン紛争で、数万人の民間人が死亡(10万人という説もある)。プーチン政権が介入した1999年から2009年の第二次チェチェン紛争では2万5千人が犠牲になったと言われています。その他に数千人の行方不明者がいるそうです。行方不明者というのは、「強制失踪」や誘拐によるものです。常岡浩介氏の『 ロシア語られない戦争 チェチェンゲリラ従軍記』(アスキー新書)によれば、「25万人、一説には30万人」が犠牲になったと書かれていました。ちなみに、チェチェン共和国の人口は80万人、首都グロズヌイの人口は6万人ですから、如何にすさまじいジェノサイドが行われたかがわかります。

コメンテーターの玉川徹氏は、これ以上犠牲を増やさないために、ウクライナの国民は降伏することも選択肢に入れるべきだと発言して物議をかもしたのですが、それに対して、降伏することは銃で戦うことより恐ろしい現実が待っているというウクライナ国民の声がメディアで紹介されていました。ウクライナ国民は自分たちがチェチェン人と同じ目に遭うのを恐れているのです。抵抗をやめれば、チェチェンのように街ごと焼かれ、ジェノサイドの標的になるのがわかっているからでしょう。

ライオンの檻のなかに入れられたら、あらん限り抵抗しないとライオンに食われるのです。ライオンに食われないために抵抗しなければならないのです。もう抵抗しませんと両手を上げたら即ライオンの餌食になるだけです。玉川徹氏の発言が「平和ボケ」と言われたのは、ライオンの檻のなかに入れられたらどうなるかがわかってないからです。情報機関出身者の発想は、殺るか殺られるかで殲滅の一択しかないと言った人がいましたが、プーチンを見ているとむべなるかなと思わざるを得ません。

アメリカはもちろんですが、ヨーロッパの国々も、プーチンのKGBとFSBで培われた非情さは熟知しているはずです。しかし、それでもなお、ロシアへの制裁に及び腰で、こっそりロシアと取引きする抜け道を設けているのでした。もしかしたら、ヨーロッパの人間たちは、他国で万単位の人間が犠牲になることより、ロシアの天然ガスで自分たちがぬくぬくと冬を過ごす方が大事と思っているのではないかと勘繰りたくなります。

何度も言いますが、今回の戦争では、欧米が掲げる民主主義のその欺瞞性も露呈されているのでした。そのことも忘れてはならないでしょう。
2022.03.10 Thu l ウクライナ侵攻 l top ▲
(前の記事からのつづきです)

ロシア国内では、反戦デモで連日数千人から1万人近くの参加者が拘束されていますが、ロシア政府は最近、デモによる逮捕者を戦場に送ることができるよう法律を改正したそうです。これにより逮捕された参加者は、戦場に送られ弾除けに使われる怖れが出てきたのです。21世紀にこんな国があるのかと思いますが、ロシアには死刑がないので(制度を廃止したわけではなく一時凍結)、そうやって「反逆者」たちに見せしめの懲罰を課すつもりなのでしょう。

西側から見れば悪魔のように見えるプーチン政権ですが、ロシア国内では3分の2以上の国民から支持されており、反戦デモに参加する人はごく一部にすぎません。今のロシアで反戦デモに参加することは、人生や命を賭けた決断が必要なのでそれも当然かもしれません。もっとも、それはロシアに限った話ではなく、日本でも似たようなものです。大多数の人は寄らば大樹の陰なのです。

そう考えるとき、斎藤幸平氏が『人新生の「資本論」』で書いていた、「3.5%」の人が立ち上がれば世の中は変わるということばをあらためて思い出さざるを得ないのでした。「真理は常に少数にあり」と言ったのはキルケゴールですが、いつの時代も世の中を動かしてきたのは少数派なのです。

私は今、『トレイルズ ―「道」と歩くことの哲学』(エイアンドエフ)という本を読んでいるのですが、たとえばトレイル(道)ができるのも、集団のなかで勇気があったり好奇心が旺盛だったりと、跳ね上がりの個体が最初に歩いてトレースを作ったからなのです。

国家や党派とは無縁な、素朴実感的なヒューマニズムに突き動かされて立ち上がった「3.5%」の人々が国際的に連帯すれば、やがてそれがロシア国内に跳ね返って、クロンシュタットの叛乱のような造反の呼び水になるかもしれないのです。プーチン政権がネットだけでなく、言論統制の法律を作り外国メディアを締め出したのも、海外から入ってくる報道が呼び水になるのを怖れているからでしょう。

それにつけても、今回の戦争に関する報道では、玉川徹氏だけでなく、テレビに出てくる専門家たちのお粗末さ加減には目を覆うばかりです。もちろん、彼らは予想屋ではないのですが、侵攻が始まるまで、ロシアがウクライナに侵攻することはないだろう、たとえ侵攻しても親露派が傀儡政権を作ったウクライナ東部に限るのではないかと言っていました。キエフ侵攻の可能性を指摘した人間は皆無でした。ロシア問題のアナリストを名乗りながら、単なる「平和ボケ」の知ったかぶりにすぎないことが判明したのでした。

彼らの解説を聞いても、その大半は想像でものを言ってるだけで、ホントに現状を分析しているのか首を捻らざる得ません。挙げ句の果てには、自分たちの予想が外れたからなのか、プーチンは精神に変調をきたしている、暗殺を恐れて秘密アジトから指令を出しているなどと、ユーチューバーもどきの怪しげな情報を吹聴する始末です。

ただ、そんな講談師見てきたような嘘を言う「平和ボケ」の一方で、今回の戦争が今までになく市井の人々の関心を集めていることはたしかで、私はそのことにささやかながら希望のようなものを感じました。

パンデミックを経験した多くの人々は、みずからの民主的権利を国家に差し出すことにためらいがなくなり、感染防止のためならプライバシーが多少侵害されても仕方ないと考えるようになっています。民主主義が毀損されることに鈍感になっていったのでした。東浩紀ではないですが、国家がせり出してきたことに一片の警戒心もなく、むしろ礼賛さえするようになったのです。

ところが、ウクライナ侵攻が始まり、連日、戦火に追われるウクライナの民衆の姿を見て、戦争こそが国家が全面にせり出した風景であることにはたと気付いた人も多かったはずです。同時に、自分たちの民主的な権利の大切さに思い至った人もいるでしょう。

また、ワクチン・ナショナリズムに象徴されるように、排他的な考えも蔓延し、ヘイトがまるで正義の証しであるかのような風潮も日常化していました。感染対策で入国を制限しているということもあって、少し前までは国境の向こうにいる人々に思いを寄せるなど考えられない空気がありました。でも、今回の侵攻でその空気も少しは緩んできたように思います。

パンデミックで”動員の思想”に絡めとられた寄らば大樹の陰の人々も、ウクライナ侵攻で冷水を浴びせられ、自分たちのあり様を少しは見直す契機になったかもしれません。

口ではロシアを非難しながら、今もなお石油や天然ガスをロシアに依存し、みずから経済制裁の抜け道を作っているヨーロッパの国々。それを見てもわかるとおり、相変わらず国家はクソでしかありませんが、しかし、たとえば地下壕のなかで、「死にたくない」と涙を流す女の子にいたたまれない気持になり何とかしなければと思うような、素朴実感的なヒューマニズムを抱く人は昔に比べて多くなったし、そのネットワークも世界に広がっているのです。ウクライナの現状を考えれば、気休めのように思われるかもしれませんが、とにかく、あきらめずに連帯を求めて声を上げ続けることでしょう。プーチンがいくら情報を遮断しても、世界はウクライナやロシアと繋がっているのです。それだけは間違いないのです。


関連記事:
”左派的なもの”との接点
2022.03.08 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲