大正四年の京都の御大典ごたいてんの時は、諸国から出て来た拝観人で、街道も宿屋も一杯になった。十一月七日の車駕しゃが御到着の日などは、雲もない青空に日がよく照って、御苑ぎょえんも大通りも早天から、人をもって埋めてしまったのに、なお遠く若王子にゃくおうじの山の松林の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が細々と立っていた。ははあ、サンカが話をしているなと思うようであった。


これは、柳田国男の『山の人生』のなかの有名な一節です。私は、柳美里の『JR上野駅公園口』を読んだとき、ふと、この文章が頭に浮かんだのでした。

現天皇は、学生時代、中世の交通史・流通史を専攻していますが、それは子どもの頃から登山が趣味だったということが関係しているのかもしれないと思ったりします。

山登りは中高年になってからその楽しみが増しますが、その意味では年齢的に「今から」というときに山登りを卒業せざるを得ないその境遇には、あらためて同情せざるを得ません。彼は、いにしえの人々の人生やその生活に思いを馳せながら、彼らがかつて行き来した道を辿ることはもうないのです。

交通史・流通史を専攻していれば、柳田国男の『山の人生』や宮本常一の『忘れられた日本人』も読んでいたはずです。上記の柳田国男の文章で示されているように、かつてこの列島には天皇制にまつろわぬ人々が少なからぬ存在していたことも、当然知っていたでしょう。

現天皇は、記録を見る限り、雲取山に三度登っていますが、交通史・流通史の観点から秩父往還の道に興味を持っていたのは間違いないでしょう。そして、その道が、天皇制国家に弓を引いた秩父事件で大きな役割を果たしたこともわかっていたに違いありません。

年を取り体力が衰えてくると、力まかせに登っていた若いときと違って、別の風景も見えてくるようになります。そのひとつが山中に人知れず行き交っている”道”です。

森崎和江は、五家荘の人々が古くから歩いていた道を「消えがての道」と呼んで同名の本を著したのですが、私が五家荘に行きたいと思ったのもその本を読んだからでした。しかし、先日、Googleのストリートビューで五家荘を見たら、中央線が引かれ至るところに標識が設置された立派な道路が走っており、あたりの風景も別世界のようになっていました。私が登った当時は、一応車道(林道)はありましたが、上りと下りは一方通行でした。つまり、離合(すれ違い)もできないような狭い道しかなかったので、上りのときと下りのときは別の道を利用しなければならなかったのです。当時は、五家荘は泉村と呼ばれていましたが、小学校は村内に七つの分校がありました。集落が離れているため、遠くて子どもたちが通えないからです。しかし、その「消えがての道」も、もう誰からも歩かれることがなく草木の下に消えてしまったに違いありません。

佐野眞一は、『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文春文庫)のなかで、上記の『山の人生』の一節を引用して、次のように書いていました。

   柳田はこの大正天皇の御大典に、宮内書記官として、衣冠束帯の古式の礼装に威厳を正して列席した。高級官僚であると同時にわが国民俗学の創始者でもあった柳田は、公式の席に列しながら、天皇にまつろわぬ民である非定着民のサンカの動向も、鋭く視野にいれることを忘れなかった。


『山の人生』は大正15年に発表されたのですが、柳田国男はそれ以前に書かれた『遠野物語』や『山人考』などでも、「非常民」に関心を寄せていました。しかし、東京帝大出の高級官僚(今で言う”上級国民”)であった柳田は、栄達の階段を上るにつれ、天皇制国家にまつろわぬ「非常民」への関心を失っていくのでした。

  (略)最後は貴族院書記官長までのぼりつめた柳田は、大正八年に官職を辞したにもかかわらず、『山の人生』以後、非常民にはほとんどふれず、常民と天皇制の基盤をなす稲作の世界に、日本民俗学の方向を大きくリードしていった。
(同上)


もしかしたら、現天皇も柳田国男と同じような心の軌跡を歩んでいるのかもしれません。眞子さんもそうですが、自由がきかないというのはホントに不幸なことなんだなとしみじみ思えてなりません。皇室に不幸という観念が存在するのかどうかわかりませんが、眞子さんの結婚だって、人間には幸福を求める権利はあるけれど、でも、必ずしもそうはならない場合もある、思いもよらない苦労をするのも人生だと考えれば(そう自分の胸に手を当てて考えれば)、あんなに目くじらを立てることもないのです。
2021.04.24 Sat l 本・文芸 l top ▲
登山家として知られているイラストレーターの沢野ひとし氏の『人生のことはすべて山に学んだ』(角川文庫)を読んでいたら、「文庫版あとがき」で、若山牧水の『木枯紀行』を読んで「胸がぎゅっと捕らえられた」と書いていました。そして、沢野氏自身も、牧水が歩いた十一月の初旬に、十文字峠から栃本集落まで歩いたのだそうです。

『木枯紀行』は青空文庫に入っていますので、私も早速、kindleにダウンロードして読みました。

牧水は、旧梓山村(現長野県南佐久郡川上村)から地元の老人に道案内を頼み、十文字峠を越えて秩父の栃本へ下ったのですが、調べてみると、牧水が『木枯紀行』の旅をしたのは、関東大震災があった1923年(大正12年)です。38歳のときでした。しかも、牧水自身、当時住んでいた静岡県の伊豆で震災を体験しているのです。震災があったのは9月1日です。それから2ヶ月後、牧水は、「御殿場より小淵沢、野辺山、松原湖、十文字峠、秩父への約十五日間」(『人生のことはすべて山に学んだ』)の旅に出るのでした。

牧水は、栃本集落について、次のように書いていました。

  日暮れて、ぞくぞく(註・原文はくりかえし記号)と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃本といふへ降り着い た。 此処は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其処では秩父四百竃の草分と呼ばれてゐる旧家に頼んで一宿さして貰うた。
  栃本の真下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど真角に切れ落ちた断崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい断崖でかえたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られてゐた。栃本の者が断崖を降り、渓を越えまた向う地の断崖を這ひ登つてその大根畑まで行きつくには半日かかるのださうだ。 帰りにはまた半日かゝる。ために此処の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の為事をして帰つて来るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に断崖の中途に引つ懸つてゐる様な村であつた。


私も、雁坂トンネルができる前に、栃本には何度か行っています。雁坂嶺にも登ったことがあります。雁坂峠や十文字峠は、秩父と信州を結ぶ秩父往還の道にある峠で、昔の人たちはこの標高2千メートル近くある峠道を交易路として行き来していたのです。

同じ道を歩いた沢野氏は、次のように書いていました。

  牧水が歩いた十一月の初旬にあわせて十文字峠から栃本とちもとまで約十六キロ。軽いザックを背に歩いてみた。一里ごとに観音様があり、手を合わせてお賽銭さいせんを置く。視界がないうっそうとした原生林の中をひたひたと歩くとやがてバス停の二瀬ふたせに出る。そして秩父鉄道の三峰みつみね口に着く。
  牧水の文庫本をポケットから時折取り出し、大きく溜息ためいきを吐く。牧水は登山家よりはるかに足腰が強い。中途半端な気持ちで来たことを反省していたが、あらたな山旅を発見した。
(『人生のことはすべて山に学んだ』)


牧水は、生前、日本の至るところを旅しています。それも、多くは街道ではなく山道を歩く旅です。そして、旅の途上で多くの歌を詠んでいたのでした。

『木枯紀行』のなかで、私が好きな歌は次の二首です。

  木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ

  草は枯れ木に残る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも

牧水は、その2年前には上高地にも行っていました。上高地から飛騨高山に下っているのですが、その際、焼岳にも登っていました。

旅と歌は切っても切れない関係にあったのでしょう。昔の歌人はよく旅をしていたようです。それも今風に言えば、ロングトレイルと言うべき道を歩いています。

九州の久住(くじゅう)連山の麓にある私の田舎にも、与謝野鉄幹・晶子夫妻が訪れ、歌を詠んでいます。また、山頭火も放浪の旅の途中に立ち寄っていることが、『山頭火日記』に記されています。『山頭火日記』では、私の田舎について、子どもたちは身なりは貧しいが道で会うとちゃんと挨拶するので感心した、というようなことが書かれていました。

『木枯紀行』を読んで、私も、栃本集落から雁坂峠や十文字峠を越える道をもう一度歩いてみたいとあらためて思いました。ただ、何度も同じことを書きますが、そう思うと、どうしても今の膝のことが頭を掠め、暗い気持にならざるを得ないのでした。


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2021.04.18 Sun l 本・文芸 l top ▲
山に生きる人びと


膝の具合ですが、その後、3回水をぬいてその都度ヒアルロン酸を注入しています。しかし、いっこうに改善の兆候はありません。ドクターも「もう水はたまってないと思っていたんですがねえ」と首をひねっていました。こんな調子ではいつ山に行けるようになるのかわかりません。そう思うと暗い気持になります。

だからというわけではないですが、民俗学者の宮本常一の『山に生きる人びと』(河出文庫)と柳田国男の『山の人生』(角川ソフィア文庫)を買って、山に思いを馳せながら、再び読み返しています。いづれもまだ20代の頃、友人と二人で、テントを担いで二泊三日で熊本の五家荘を縦走した際に読んだことがあるのですが、細かい部分はもう完全に忘れています。『山の人生』はkindleにも入っていますが、やはり紙の本でないとなかなか読む気になれず、そのままにしていました。

今、『山に生きる人びと』を読み終えたばかりですが、同書の冒頭は、次のような文章ではじまっています。尚、同書の単行本が刊行されたのは1964年です。

  山中の道を歩いていて、いったいここを誰が通ったのであろうと思ってみることがある。地図にも出ていない道であるのだが、下草におおわれながらもかすかにそこを何人かの人が通りすぎたあとがのこされている。人の歩いた部分はややくぼんでいて、草も生えていないか、生えていても小さい。木も道の上の空間はそれほど枝をさしかわしていない。といって一日に何人ほどの人が通るのであろうか。そういう道を歩ていると草が茂り木が茂って、とだえてしまっていることも多い。それからさきは人も行かなかったのであろうか。それとも雑木や雑草がうずめつくして通ることすらできなくなってしまったのであろうか。
  こうした道はまたどうしてひらいたものであろうか。古い道のなかには獣の通ったあとを利用したものもすくなくなかったようである。
  山の奥のどんづまりの部落でそれからさらに山中にはいり、峠をこえて向う側へ出ようとする道をたどろうとするとき、「どこそこからウサギ道になるから気をつけて行け」などと教えてくれることがある。ウサギ道とかシシ道というのが山の中にはあったうようで、山の中を往来する獣はおのずから道を定めてそこを通った。
(略)
  古い時代には野獣の数はきわめて多かった。そしてそれらが山の中を往来することによっておのずから道はできたわけであろう。その道を人もまた利用したのである。


今、私たちが登山と称して歩いている道のなかには、そんな古の道もあるのかもしれません。しかし、そこにはロマンなどとは別に、山に生きる(生きざるを得ない)人々の並大抵ではないつらい生活の現実があったのです。

著者の宮本常一が、戦前(昭和16年12月)、愛媛県小松から高知県寺川に行く山中で、ひとりの「レプラ患者」(註:ハンセン病のこと)の老婆に会ったという話には身につまされるものがありました。「ぼろぼろの着物を着、肩から腋に風呂敷包をかけていた。杖をついていたが手に指らしきものはなかった」老婆は、阿波(徳島県)から来て、伊予(愛媛県)の知り合いのところに行くのだと言う。どうやって来たのか訊くと、「四国には自分のような業病の者が多く、そういう者のみが通る道があって、それを通ってきた」と言っていたそうです。著者は、「阿波から石鎚山の東まで山道をよぼよぼ歩いて、五日や六日の日はかかったであろう。どこで泊って何を食べてきたのであろうか」と書いていました。

あとで泊めてもらった農家の人にその話をしたら、山中には「カッタイ道」というのがあって、「カッタイ病の者はそういう道を歩いて行き来している」と言われたそうです。

本書は、そういった山間に行き交う人知れぬ道とともに、長年のフィールドワークの賜物である、「狩人」「杣(そま)」「木挽」「木地屋」「鉄山師」「炭焼き」などの一所不在の人生を生きる人々の山の暮らしの様子が、エッセイ風に綴られていました。

私は山国育ちなので、私の原風景は山です。子どもの頃、見晴らしのいい峠に立って、彼方に見える尾根の先に思いを馳せ、いつかあの尾根を越えて行ってみたいと思っていました。

『山に生きる人びと』によれば、山奥で木地や杣(木こり)や狩猟のような山仕事と焼畑農業で生計を立てていた人々の多くは、里から山奥に入ったのではなく、多くは山を越えてやって来たのだそうです。だから、麓で稲作農業をしている里人たちとは没交渉だった場合が多いのだそうです。オーバーな言い方をすれば、別世界の人々だったのです。

たとえば、長野県下伊那郡上村下栗のごときもその一つである。この部落は遠山川の作った峡谷の上の緩傾斜にあるが、下の谷から上って村をひらいたものではなく、東の赤石山脈の茶臼岳をこえて、大井川の方からやって来たものであるという。


ちなみに、赤石山脈とは今で言う南アルプスのことです。茶臼岳はそのなかにある標高2,604mの山です。

(略)山中の村で奥から川や箸や椀が流れて来たのでいって見るとそこに村があったという話は八岐大蛇伝説のほかに広島、島根県境の村や、滋賀県山中できいたことがあるが、これらも山の奥は谷口の方からではなく、山の彼方から来て開いたもののあったことを物語る例であろう。このように山中には水田耕作をおこなわず、定畑や焼畑耕作によって食料を得ていた集落が、私たちの想像をこえたほど多かったのではなかろうか。


そういった一所不在の漂泊の民が通る道が、街道のような表の道とは別に山のなかに存在していたのです。

余談ですが、子どもの頃、父親と久住(九重ではありません!)の山に登ったとき、頂上から「あれが法華院だ」と言って父親が指差した先に、豆粒ほどの小さな建物がありました。法華院温泉の住所は、登山口と同じ久住町有氏(現竹田市久住町有氏)でしたので、父親の知り合いもいたみたいです。

今は、九重町(ここのえまち)の長者原まで車で行って、モンベルもあるような観光地化された長者原から徒歩で行くのが当たり前みたいになっていますが、同じ郡内からは、法華院温泉は山を越えて行くところだったのです。事実、江戸時代までは、法華院は竹田の岡藩の国境警備を兼ねた祈願所でもあったそうです。国境は山を越えた先にあったのです。山を越えるというのは、昔は当たり前のことだったのです。

そう言えば、前も書きましたが、秩父困民党の落合寅市は、明治政府からの弾圧を逃れるために、いったん高知県に逃亡した後、雁坂峠を越えて再び秩父に戻っていますが、おそらく官憲が把握し得ない山道を利用していたのでしょう。落合寅市だけでなく、幹部たちも信州や甲州や東京に潜伏しているところを捕えられています(なかには北海道まで逃走した幹部もいました)。官憲の目が光る街道ではなく、山の人間しか知り得ない逃走ルートが存在したのは間違いないでしょう。

秋田県檜木内(旧秋田県仙北郡檜木内村)にいた山伏は、「生涯に二度ほど熊野へまいったそうで」、その際「山から山へわたり歩いて熊野へ行った」のだとか。「羽黒に属している山伏は羽黒へ、熊野に属している山伏は熊野へ、一生のうち何回かは往復し、また高い山々の峰駆けもしている」のだそうです。

吉野(吉野山・大峰山)というのは、今の奈良県です。羽黒(羽黒山)は山形県の鶴岡市にある山です。今風に言えば、秋田から奈良まで山から山を伝ってトレランで往復したのです。

『山に生きる人びと』には、文政期(1800年代)、若い頃に東北への旅に出て、以後76歳で羽後(現秋田県)で客死するまで、郷里の三河(現愛知県)に戻ることのなかった菅江真澄という人が、旅の途中に郷里の知人に送った手紙が1年後返信されて戻ってきた話が出ていましたが、その「通信伝達の役目をはたした」のも山伏だったそうです。

ちなみに、山伏のなかには、麓の里から山麓の村まで物資を運ぶ「荷物持ち」(歩荷)のアルバイトをしていた者もいたそうで、「一人で二三~四貫の荷を背負った」ケースもあったと書いていました。1貫は3.75kgですので、86kg以上になります。前に甲武信ヶ岳から国師ヶ岳を縦走して大弛峠に下りて来たハイカーが背負っていたザックが20kgあるとかで、それを試しに背負わせて貰ったことがありました。よくこんな重いものを背負って山を越えて来たもんだなと感心しましたが、昔の山伏はその4倍以上の荷物を背負って山を登っていたのです。それにつけても、いくら乱暴に歩いたとは言え、たかだか6kgあまりのザックを背負い10キロちょっとの山道を歩いただけで、膝に水がたまって歩くのもままならなくなっている私は、なんと軟弱なんだとあらためて思わざるを得ません。

でも、「山に生きる」ということは、きびしい条件下における艱難辛苦に満ちた生涯であったことは想像に難くありません。落人伝説で語られる山の生活にしても、「世間の目をのがれて、きわめてひっそりと生きて来た」ようなイメージがありますが、実際は「決して安穏なものではなく、むしろそこにはたえず闘争がくりかされていた」そうです。平野部の「政治闘争」(領土争い)に果敢に参加した資料も残されているのだとか。「平野に住む農民たちよりはるかに荒々しい血をもっていたのではないかと思われる」と書いていました。

  元来稲作農民は平和を愛し温和である。日本文化を考えていくとき、平和を守るためにあらゆる努力をつづけ工夫したあとが見られる。にもかかわらず、一方には武士の社会が存在し、武が尊ばれている。しかもその武の中には切腹や首斬りの習俗が含まれている。それは周囲民族の中の高地民の持つ習俗に通ずるものである。それで武士発生の基盤になったものは狩猟焼畑社会ではなかったであろうかと考えるようになって来た。九州の隼人も山地の緩傾斜面で狩猟や焼畑によって生計をたて、関東武士も畑作(古くは焼畑が多かったと見られる)のおこなわれた山麓、台地を基盤にして発生しているのである。


著者は、「試論の域を出ない」と断った上で、このように書いていました。もとより、条件のきびしい山奥で生活するには、「荒々しい血」をもっていなくてはとても生き延びて行けないでしょう。

『山に生きる人びと』を読み返すにつけ、そんな古の人々に思いを馳せ、もう一度山道を歩いてみたい、特に子どもの頃の思い出のある故郷の山をもう一度歩いてみたいという思いを強く持ちました。ただ、一方で、今の膝の状態を考えると、よけい暗い気持にならざるを得ないのでした。
2021.04.08 Thu l 本・文芸 l top ▲
奥秩父 山、谷、峠そして人


31日から1日にかけては、ベットの上に寝転がって、山田哲哉氏の『奥秩父 山、谷、峠そして人』をkindleで読みました。私は、電子書籍より紙の本が好きなのですが、この『奥秩父 ・・・・』は初版が2011年なので、既に廃版になっているらしく、アマゾンでも中古本しか売っていませんでした。その中古本も5千円以上の値が付けられていました。まったくふざけた話です。それで、仕方なく電子書籍(1375円)を買ったのでした。

奥秩父は文字通り奥が深く、公共交通機関では日帰りするのが難しい山が多いのですが、昔、雁坂トンネルが開通する前に何度か行った栃本集落や雁坂峠(雁坂嶺)にはもう一度行ってみたいなと思いました。また、甲武信ヶ岳から国師ヶ岳に至る縦走路も、いづれ歩いてみたい道です。山田哲哉氏の本からは、よく練られた文章を通して、中学生の頃から通っているという奥秩父や奥多摩の山に対する造詣の深さと愛着がひしひしと伝わってきて、山が好きな人間には堪えられない本です。

山が好きだから山に登るのです。でも、最近はスピードハイクやトレランやYouTubeの影響で、山が好きだから山に登るという、そんなシンプルな理由で山に登る人も少なくなっているような気がします。山が好きだというシンプルな理由だからこそ、その先にある奥深い世界と出会うことができるのだと思います。

ネットでは「低山」や「鈍足」をバカにするような風潮があります。そこにあるのは”強者の論理”です。”強者の論理”は、山を知らない人間の妄言と言うべきでしょう。ネットでは、そういう愚劣な言葉で山を語ることが当たり前になっているのです。山田哲哉氏の本には、山が好きだから山に登るというシンプルな理由をもう一度確認させられるようなところがあります。

本の中に、こんな文章がありました。

ここで、自分の履歴書には書かれることのない目茶苦茶忙しかった十数年に触れるつもりはないが、この飛龍山の三角点を踏んだときが、三里塚の土地収用代執行と沖縄返還協定調印の隙間を見つけ、あらゆる無理算段を重ねて得た至福の時間だったことが思い出される。忙しくても、いや、忙しかったからこそ、 どんなに睡眠時間を削っても、どんなに仲間に文句を言われて奥秩父の森の中を登りたかった。あれほどの強烈な山への思いは、自分の中に、もう二度と生まれることはないだろう。


私が山に行っていることを知っている友人からの年賀状に、「煩わしい人間社会より自然だよな。羨ましい限りです」と書かれていましたが、山が好きだという理由の中に「逃避」が含まれているのもたしかです。山の魅力について、「全てを忘れることができるから」と言った現天皇の気持も痛いほどわかるのでした。

私は若い頃、親しい人間から「人間嫌い」と言われていました。だからと言って、人見知りをするとかいうのではなく、むしろ逆で、山でも出会った人に積極的に話しかけるタイプです。しかし、一方で、誰にも会わない山を歩くのが好きです。心の中ではやはりひとりがいいなあといつも思っているのです。なんだか今の私にとって、もう山しか「逃避」するところがないような気さえするのでした。

奥秩父の山に関しては、次の一文にすべてが凝縮されているように思いました。

  奥秩父は峠から始まった山だ。それは、登山の山として人が通ったはるか前に、人や馬や絹が運ばれ、塩、炭が運ばれ、善光寺参りや三峰神社詣での人が越えた山だからだ。奥秩父の峠には、それぞれに人のつけた痕跡がある。 荷物の交易の「荷渡し場」があり、炭焼き窯があり、関所跡が残されている。いま、峠越えをしようとする者には、かつてそれを越えた人たちの希望や絶望、夢や落胆があちらこちらで感じられるはずだ。
  信州や甲州から見れば関東の入り口である秩父。そこへ向かう峠は、新しい何かを得ようとする者、何かを捨てて違う生き方を探す者が必ず通過すべき場所だった。たとえば、急激な「富国強兵」政策で経済発展とともに近代的専制国家へと変貌した明治維新政府 から派遣された憲兵隊と鎮台兵に、十石峠、志賀坂峠、十文字峠へと敗走させられた秩父困民党にとって、峠は最後の決戦の場所であると同時に、「自由自治」の旗をそこから広げていく出発、転進の場所だったにちがいない。


山にはこんなロマンがあるのです。山を歩くことは、昔人のロマンに思いを馳せ、ロマンに浸ることでもあるのです。
2021.01.02 Sat l 本・文芸 l top ▲
未来への大分岐


斎藤幸平編『未来への大分岐』(集英社新書)を読みました。

私は、何事においても悲観論者なので、未来に対してもきわめて悲観的です。ただ、副題にあるように、現在が「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」の「大分岐」に差しかかっているというのはその通りでしょう。

本書のなかに、シンギュラリティということばが度々出てきます。技術的特異点(technological singularity)という意味の用語ですが、ウィキペディアでは以下のように説明されていました。

技術的特異点は、汎用人工知能(en:artificial general intelligence AGI)、あるいは「強い人工知能」や人間の知能増幅が可能となったときに起こるとされている出来事であり、ひとたび自律的に作動する優れた機械的知性が創造されると、再帰的に機械的知性のバージョンアップが繰り返され、人間の想像力がおよばないほどに優秀な知性(スーパーインテリジェンス)が誕生するという仮説である。


つまり、シンギュラリティというのは、AIが人間の知能や知性を凌駕する、その臨界点を表わすことばなのです。しかも、ウィキにも書いているように、それが2045年頃やって来るのではないかと言われているのです。そうなれば、私たちは人間ではなくAIに使われるようになるのです。私たちの上司は(実質的には)AIになるのです。サラリーマンの勤務評価もAIが行うようになるのです。入社の採否もAIが決めるのです。住宅ローンの審査も然りです(既にそれははじまりつつあります)。ありていに言えば、私たちはAIに支配されるのです。

もちろん、そうなれば私たち自身、つまり人間の概念も変わらざるを得ません。なんだかSFの世界の話のようですが、そんなSFの世界がもうすぐそこまでやって来ているのです。

本書のなかで、経済ジャーナリストのポール・メイソンは次のように言っていました。

  多くの宗教では、神が人間に魂を与えています。地球上の他のあらゆるものと、人間は異なる。私たちはもっと進んだ存在で、人間は自分たちの思考によって決断を下すことができる。魂は、人間の優越性の証でした。
   たとえば、人間は槍をライオンに向かって投げつけることができるけれども、ライオンはその槍がどこから来たのかさえ理解していない。私たちがなぜ魂を信じ、人間の優越性を当然視しているのかについて、唯物論的に説明すると、そうなります。
   ところが、二十一世紀半ばには、AIが私たちに向かって槍を投げつけるようになり、その槍がどこから来たのか、私たちにはわからないという状況に陥るでしょう。
   AIが私たちを出し抜き、優位に立つのです。人間があらゆる存在に対して優越しているという、多くの宗教が今まで主張してきた前提が融解してしまう。だからこそ、人間とは何か、という固有性についての答えは、人間の優越性ではない、何か別なものに根ざしたものでなければなりません。
(第三部・第四章シンギュラリティが脅かす人間の条件)


では、人間が人間たらしめるものは何になるのか?と鈴木はポール・メイソンに問います。それに対して、メイソンは次のように答えていました。

  それは、人間の自由(引用者:傍点あり)です。だからこそ、人間が機械を活用する必要があります。人間を必要性から解放し、できうる限り少ない労働ですむようにするために、です。
(同上)


こういった楽観主義はマイケル・ハートにも共通していました。マイケル・ハートも、今の情報テクノロジーをアントニオ・ネグリとともに提唱する「コモン」による民主的な管理が必要だと説いていました。「コモン」というのは、国家所有でも私的所有でもない共同管理(所有)というような概念です。むしろ、今の情報テクノロジーは現代資本主義の果実なのだから、その果実を利用しない手はないという考えです。なんだか東西の壁が壊れる前に、旧ユーゴで実験された自主管理型社会主義を思い出しました(でも、そのユーゴも東西の壁が壊れると、凄惨な内戦=民族間紛争に突入したのでした)。

マイケル・ハートは、情報テクノロジーの進化、つまりシンギュラリティの到来によって、むしろ人間は苦の労働から解放されるのだとさえ言います。そのためにも、「アルゴリズムという固定資本の管理権」を「コモン」が手にしなければならないのだと。

  人間のもつ知識が機械に集約・固定されれば、それは、大きな社会的進歩となる可能性があります。だからこそ、私たちが本当にしなくてはならないのは、アルゴリズムを拒否することではなく、アルコリズムという固定資本の管理権を求める闘いなのです。
(第一部・第四章情報テクノロジーは敵か、味方か)


斎藤幸平は、マイケル・ハートの言葉を「固定資本の管理権を手に入れる闘いは、非物質的労働の時代における生産手段をめぐる闘いだ」と解説していました。

しかし、工場がAIに制御されたロボットによってオートメーション化されるのは、ホントに苦の労働から解放されることを意味するのだろうかという疑問があります。工場で吐き出された鉄くずを集めたり、ゴミを捨てたりするのも、やはりロボットなのか。もしかしたら、そういった下働きは人間が担うようになるのではないか、と私などは思ってしまいます。

当然、オートメーション化によって労働者のかなりの部分はリストラされるでしょう。でも、それもマイケル・ハートによれば、苦の労働からの解放を意味するのです。労働力としてみずからを資本に売る、「労働力の再生産」から解放されることになるからです。そのために、マイケル・ハートはベーシックインカムを提唱しています。

となれば、ベーシックインカムのために、マイナンバーと銀行口座や所得額や職歴や学歴や婚姻歴や病歴などの個人情報が紐付けられても、それも良しとすることになるのでしょうか。「コモン」の共同管理のためなら、個人情報が一元管理されても問題はないと考えているのでしょうか。まして、本書のなかでも議論になっていましたが、ベーシックインカムも貨幣に変わりはないのですから、”貨幣の物神性”という問題は依然として残るのではないか。そんな素朴な疑問が次々と浮かんできました。

一方、マルクス・ガブリエルは、「啓蒙の復権」を主張していました。そうあらねばならないという倫理的な考えが大事なのだと言います。その基調にあるものも、ポール・メイソンやマイケル・ハートと同じです。

私は、なんと心許ない話なんだろうと思わずにおれませんでした。情報テクノロジーの進化ではいちばんわかりやすい中国の例を見ても、私にはAIに支配される未来の人間の姿しか浮かびません。

編者の鈴木幸平が「あとがき」で書いていた新しい社会主義像についても、私は楽観主義のようにしか思えませんでした。

  これは(引用者注:コモンは)、「上から」の共産主義、スターリン主義とは異なる、社会運動に依拠した「下から」のコミュニズム(communism)と言える。
  では、なぜ「上からの」社会変革ではだめなのか。現実の社会運動や共同参画に根付かない政策提案や制度改革による、「上からの」社会変革の戦略を、本書では「政治主義」と呼んだが、政治主義は、民主主義の闘争領域を選挙戦へと著しく狭めてしまうのだ。そして、専門家や学者による政策論は問題を抱えている当事者の主体性を剥奪する。
(おわりに―Think Big!)


現に日本では、前にも書きましたが、社民党の立憲民主党への合流に見られるように、社会運動に依拠した政治勢力は壊滅状態に追いやられているのです。これからは野党周辺においても、左派的な社会運動を排除する動きが盛んになるでしょう。「『下からの』コミュニズム」なんて絵に描いた餅のようにしか思えません。しかも、菅政権のデジタル庁構想に見られるように、「サイバー独裁」「デジタル封建制」の方がむしろ現実になりつつあるのです。
2020.12.01 Tue l 本・文芸 l top ▲
最近、老眼鏡をかけないと本を読めないということもあって、本を読む時間が少なくなっていました。しかし、そうなればそうなったでこれではいけないと強く思うのでした。本を読むことだけが自分の取り柄みたいなところがありますので、これで本から遠ざかったら何の取り柄もなくなってしまうじゃないか、と自分に言い聞かせているもうひとりの自分がいます。

若い頃は、2~3冊の本を同時に読んだりしていました。むしろ、それが当たり前でした。でも、今はそういう芸当もできなくなりました。年を取ると知識欲も減退するのか。しかし、それでは知性に敵対する元学ラン剃りこみ応援団員のどこかの国の総理大臣と同じになってしまいます。それではいけないと思って、本を買って来て自分で読書週間を設け、みずからを鼓舞して読み始めているところです。

買ってきたのは、仲正昌樹『人はなぜ「自由」から逃走するのか』(ベストセラーズ)、斎藤幸平編『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への分岐』(集英社新書)、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)、崔実『pray human』(講談社)の4冊です。

斎藤幸平は、今、話題のベストセラー『人新世の「資本論」』の著者で、久々に若手の左派の論客が登場したという感じです。世界が中世に逆戻りしているかような今の状況のなかで、なんだか“期待の星”にすら思えるのでした。

『未来への分岐』は、マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソンという世界的に著名な”左派“の論客と対談した本ですが、そこで語られているのは、「『上からの』共産主義、スターリン主義とは異なる、社会運動に依拠した『下からの』コミュニズム」(あとかぎ)を志向する、マルクスを現代風に解釈したエコロジカルで斬新でラジカルな革命論です。

まだ読み始めたばかりですが、『未来への分岐』のマイケル・ハートとの対談で、斎藤は次のように言っていました。

斎藤 (略)本来なら、カリスマ的なリーダー探しをするのではなく、現実の社会問題に地道に取り組む社会運動をいかに政治的な勢力に変容させるかを模索すべきだし、そうして生まれた政治的な勢力が、運動とのつながりを断ち切らないようにするにはどうしたらよいか、を考えるべきでしょう。
しかし、リベラル派はそのような思考をめぐらすことはせず、安倍に対抗できるくらい強力な政治権力をもつことによって――ただし今度は「立憲主義」の理念のもとで――社会変革をするのが、効率的な対抗戦略であると信じて疑わないのです。そして、主戦場はいつも選挙政治と政策提言になっていて、「投票に行こう」がリベラル派のお題目になってしまっています。


最近の社民党の立憲民主党への合流(吸収?)と重ね合わせて考えると、“愚劣な政治”はなにも右派の専売特許でないことがよくわかります。斎藤も本のなかで言っていましたが(私もこのブログで何度も書いていますが)シリザもポデモスもSNPも、そして、バーニー・サンダーズも、みんな社会運動のなかから生まれたのです。社会運動の基盤があったからこそ、あれほどの政治勢力になり得たのです。

社民党の立憲民主党への合流=実質的な消滅は、社会運動を放棄し、社会運動の基盤を否定するものです。社会運動の基盤を担う”戦う左派”を解体して、野党を中道保守の”戦わないリベラル”に糾合する「選挙政治」の最たるものと言っていいでしょう。言うまでもなくそれは、二大政党制という政治の翼賛化に通底する行為でもあります。そんなリベラル派に何が期待できるのでしょうか。

また、4年の沈黙を破って発表した途端に三島由紀夫賞の候補になった、崔実の『pray human』も楽しみです。眠れない夜など、この弛緩した感性がゆさぶられるようないい小説を読みたい渇望感に襲われることがあります。本を読んでよかったなと思えるような本に出会いたい、そんな干天の慈雨のような本に出会いたいと切に思うことがあります。


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崔実「ジニのパズル」
2020.11.24 Tue l 本・文芸 l top ▲
今日、アメリカで最も権威のある文学賞「全米図書賞」に、柳美里の『JR上野駅公園口』が選ばれたというニュースがありました。

朝日新聞デジタル
柳美里さんに全米図書賞 「JR上野駅公園口」英訳版

トランプの狂気が覆うアメリカ社会に、まだこういった小説を選ぶようなナイーブな感性が残っていることになんだかホッとさせられました。

格差社会によってもたらされたネトウヨ化やヘイトの蔓延は、日本も例外ではありません。もはや、他人(ひと)の振り見て我が振り直す“余裕”すらなくなっているのです。

海外旅行が趣味だという若者が、「日本人は外国人に比べて冷たい」「恥ずかしがり屋だとかいうのはウソで、そうやって冷たい自分たちを誤魔化しているだけなんだと思う」と言っていましたが、『JR上野駅公園口』が描く居場所のない人間のやり場のない哀しみこそ、「冷たい」日本人の心に向けて放たれた矢なのだと思います。

『JR上野駅公園口』が日本よりアメリカの文学界で評価されているという現実も、宮台真司の言う日本社会の「感情の劣化」を表しているように思えてなりません。


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柳美里『JR上野駅公園口』
2020.11.19 Thu l 本・文芸 l top ▲
女帝小池百合子


石井妙子著『女帝 小池百合子』(文藝春秋社)を読みました。

「救世主か? “怪物”か? 彼女の真実の姿」と帯に書かれた本書の肝は、なんと言っても、カイロ大学に留学していた際に、小池百合子と同居していた女性の証言です。小池百合子は、名門のカイロ大学を「正規の四年で(しかも首席で)卒業することのできた最初の日本人」と主張し、それが売りでメディアに登場して、現在の足場を築いたのでした。

ちなみに、小池百合子は、カイロ大学の留学時代に、アラビア語の語学学校で知り合った男性と学生結婚しています。それは、今回小池百合子の謎に包まれた”アラブ留学時代“を証言した「早川さん」と1回目の同居をはじめたあとの話です。小池百合子と「早川さん」が知り合ったのは、語学学校の共通の知人の紹介だったそうです。

その頃の小池百合子は、カイロ大学とは別の私立大学に通っていたそうですが、しかし、同居人の「早川さん」が「勉強しないでも平気なの?」と訊いたほど、本やノートを開くことはまったくなく、アルバイトに明け暮れていたということでした。お父さんが「石油を扱う貿易商」で、芦屋の「お嬢さま」だと聞いていたのに、親がまったく送金してこないので「驚いた」そうです。

関西学院大学を1年で中退してカイロにやって来た当時の小池百合子は、カイロ在住の日本人の中では飛びぬけて若く、日本人社会の中では「アイドルのような存在」でした。そのため、毎夜、二人が同居する家に商社マンなど男性が遊びにやって来るので、語学留学していた「早川さん」はこれではなんのためにカイロにやって来たかわからないと悩んだほどでした。

一方、結婚生活は、本人によれば「半年」とか「数ヶ月」とかで破綻してしまいます。ただ、小池百合子が再び「早川さん」の前に現れたのは、結婚するために引っ越してから3年後のことで、離婚後どこでどう暮らしていたのかはわからないと書いていました。そして、そこから二度目の同居がはじまったのでした。

結婚している間に、彼女は、父親の知り合いのエジプト政府の要人(副首相?)の紹介で、カイロ大学の2年に編入した(コネ入学した)と言われています。しかし、神戸にいた父親は事業に失敗して破産してしまいます。父親の仕事は、「石油を扱う貿易業」と言っていましたが、石油を直接輸入していたわけではく、「業転」(業者間取引の略)と言われる仕事をしていたにすぎません。

車に乗っていると、車体にエッソや昭和シェルやキグナスなどの石油会社の社名が入ってない無印のタンクローリーが走っているのを見かけることがありますが、あれが「業転」なのです。そういったタンクローリーは、メジャーの系列店とは別の安売りスタンドなどに、正規の流通で余った?ガソリンをスポットで納入しているのです。父親は、そのブローカーの仕事をしていたのです。

父親は、兵庫二区から衆院選挙に出馬するなど無類の「政治好き」でしたが、一方で、「大風呂敷で平気で嘘を吐く」「政治ゴロ」だったと陰で言う人もいます。破産後の小池家の”後見人”になった朝堂院大覚こと松岡良右氏は、父親の出馬について、「選挙に出て、あの家は傾いたんじゃない。傾いていたから一発逆転を狙って、後先を考えずに選挙に出たんやろ。議員になってしまえば、借金も返せると浅はかに考えて」と言っていたそうです。

父親の経歴について、本書は次のように書いていました。

   海軍中尉だったと語る一方で彼はまた、周囲に「満鉄経理部で働いていた」「満鉄調査部にいた」「満鉄の野球部で活躍した」とも語っている。だが、海軍にいたのなら満鉄にいられるわけはなく、満鉄にいたのならば海軍にいたとは考えにくい。


そういった「大風呂敷で平気で嘘を吐く」性格は、娘も受け継いでいるという声もあります。娘は父親を憎んでいたと言われており、事実、父親の話をすると不機嫌になったそうですが、しかし、二人は「一卵性父娘」だったと言う人も多いのです。

学歴だけでなく、芦屋のお嬢様だったという生い立ちも、間一髪飛行機事故を回避して命拾いしたという逸話も(それも二度も)、亡くなった父親や母親に関する美談も、もちろん、政治の世界に入ってからの数々の発言やパフォーマンスも、嘘とはったりで、「蜘蛛の糸を掴む」ようにして「虚飾の階段」を登るその過程でねつ造された「物語」だと書かれていました。

本書を読む限り、彼女の虚言は枚挙に暇がなく、学歴詐称はそのひとつに過ぎません。ただ、その後の彼女が歩んだ人生を考えれば、学歴詐称によって、小池百合子はルビコンの川を渡ったと言っていいのかもしれません。

先日、都議会で本書について自民党の都議から質問を受けた際、小池都知事は次のように答えたそうです。

自民党の清水孝治氏は、先日発売された「女帝小池百合子」というタイトルの書籍を手に質問。一部を音読するひと幕まであった。「百合子さん」と繰り返す清水氏に、小池氏は「これほど、本会議場でファーストネームで呼ばれたことは初めて」と、笑い飛ばした。

日刊スポーツ
小池知事、学歴詐称報道に「読んでいないので…」


本書を読むと、こういったはぐらし方こそ、如何にも彼女らしいなと思います。

学歴詐称問題は、今までも何度も取り沙汰されてきました。しかし、「嘘も百回繰り返せば真実になる」というナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの言葉を実践するかのように、こういったはぐらかしと強心臓で否定し続けてきたのでした。もちろん、学歴詐称が事実であれば、公職選挙法違反になるのは言うまでもありません。

アラビア語には、口語と文語があり、文語は非常に難解で、外国人が文語をマスターするのは至難の業だと言われているそうです。

  エジプトでは現在も、口語(アーンミンヤ)と文語(フスハー)が明確に分かれており、日常では口語が使われている。
  一方、文語はコーランに典型的な四世紀頃から続く古語で、アラブ各国のインテリ層の間では、この文語が共通語として使用される。
  ニュースや大統領の演説には、格調高いこの文語が用いられ、書物や新聞も当然、文語である。カイロの大学の教科書も、教授の講義も文語でなされる。文語は大変に難解で、エジプトの庶民階層に非識字者が多い理由もここにある。
(中略)
  アラビア語を母国語とする人でも苦しむ、この文語を外国人、とりわけ日本人が習得するのは並大抵のことではなく、だからこそカイロ大学を正規に卒業した日本人は数えるほどしかいないのだ。
(中略)
  アラビア語の口語すら話せなかった小池が、文語をマスターして同大学を四年で卒業する。そんなことは「奇跡」だと嫌味を込めて語る人は少なくない。


しかも、本人は、首席で卒業したと主張しているのです。

彼女の主張について、「ある国際関係の専門家」は、「あの小池さんの意味不明な文語を聞いて、堪能、ペラペラだ、なんて日本のマスコミは書くんだから、いい加減なものだ。卒業証書なんて、カイロに行けば、そこら中で立派な偽造品が手に入りますよ」と言っていたそうです。また、「日本在住のエジプト人女性が語った言葉も私には忘れられない」と著者は書いていました。

「たどたどしい日本語で、『私、東大出たよ、一番だったよ』と言われたら、日本人のあなたは、どう思いますか。東大、バカにするのかって思うでしょ。(略)」


ある日、同居人の「早川さん」が帰宅したら、小池百合子がしょんぼりしていたそうです。どうしたのと訊いたら、進級試験に落ちたと。しかも、よくよく聞けば、それは最終学年ではなく、3年から4年に進級する試験だったそうです。そのため、追試も受けられない。それで結局、彼女は、日本航空の現地スタッフとして働きはじめたのだそうです。

ところが、それからほどなく、サダト大統領夫人が日本に来るので帰って来いという父親からの連絡を受けて一時帰国し、父親が娘を「カイロ大学卒」として日本アラブ協会に売り込んだのが功を奏して、大統領夫人の接待係に採用されたのです。そして、それが彼女の人生の大きなターニングポイントになったのでした。

当時の東京新聞には、彼女のことが次のように紹介されていたそうです。

「この九月、日本女性として初めてエジプトのカイロ大学文学部社会学科を卒業し、十月中旬に帰国したばかり」(一九七六年十月二十七日)


日本から戻ってきた小池百合子は、「嬉しそうにスーツケースから新聞を取り出すと早川さんに見せた」そうです。

(略)早川さんは読み進めて思わず声をあげた。
「百合子さん、これって・・・・」
  見上げると小池の視線とぶつかった。驚く早川さんを見て、小池はいかにも楽しそうに微笑んでいた。そんな小池を目の当たりにして、早川さんはさらに当惑した。
「百合子さん、そういうことにしちゃったの?」
  小池は少しも悪びれずに答えた。
「うん」


カイロに戻ってきたのは、カイロでの生活を精算して日本に帰国するためでした。最後の夜、彼女は「早川さん」に次のように言ったのだとか。

「あのね。私、日本に帰ったら本を書くつもり。でも、そこに早川さんのことは書かない。ごめんね。だって、バレちゃうからね」


「早川さん」は現在もカイロに住んでいますが、しかし、小池百合子の”過去”を知る人間として、恐怖すら覚えるようになっているのだとか。政治家として権力を持った元同居人。しかも、現在のエジプトは「なんでもまかり通ってしまう軍事国家」です。なにより、民主的な法秩序より人治的なコネやツテが優先されるアラブ世界。こうして”過去”の話をあきらにしたのも、あえて声をあげることで、みずからの身を守ろうとしているのかもしれません。

日本に帰国した小池百合子は、日本テレビの朝の情報番組「ルックルックこんにちは」で、竹村健一の対談コーナーのアシスタントとしてデビューします。さらに、「東京12チャンネル(現テレビ東京)の天皇」と言われた社長の中川順氏に気に入られ、「ワールドビジネスサテライト」のキャスターに抜擢されるのでした。そして、「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを踏み台にして、政界に進出し、誇大妄想の泡沫候補で、「政治ゴロ」と言われた父親の夢を娘が叶えたのです。

政界に入ってからも、日本新党、新進党、自由党、保守新党、自民党と渡り歩き、その間、細川護熙・小沢一郎・小泉純一郎などの権力者に接近することで、「政界の渡り鳥」「爺々殺し」「権力と寝る女」などという陰口をものともせず、政治家としても華麗な転身を遂げていったのでした。そして、今や憲政史上初の女性総理大臣候補と言われるまでになっているのです。

彼女の政界遊泳術については、新進党時代の同僚議員であった池坊保子氏の証言が正鵠を得ているように思いました。

「(略)小池さんは別に政治家として、やりたいことはなくて、ただ政治家がやりたいんだと思う。そのためにはどうしたらいいかを一番に考えている。だから常に権力と組む。よく計算高いと批判されるけれど、計算というより天性のカンで動くんだと思う。それが、したたか、と人には映るけれど、周りになんと言われようと彼女は上り詰めようとする。そういう生き方が嫌いじゃないんでしょう。無理しているわけじゃないから息切れしないんだと思う」


現在、新型コロナウイルスを奇貨として、小池百合子東京都知事はまさに水を得た魚の如くお得意のパフォーマンスを繰り広げています。まるで日本の救世主=ジャンヌ・ダルク(彼女自身、「政界のジャンヌ・ダルクになりたい」と言っていた)であるかのようです。たとえば、彼女がぶち上げた「東京アラート」なるもので歌舞伎町がやり玉に上げられていますが、そんな彼女のパフォーマンスによって、多くの人たちが苦境に陥り、破産か自殺かの瀬戸際にまで追い詰められていることも忘れてはならないのです。もちろん、本書でも再三書かれていますが、彼女をここまで祭り上げたメディアの罪も大きいのです。

小池百合子が「カイロ大学を首席で卒業した」ことをウリに日本に帰って来ると、鼻の下を伸ばしたジャーナリストたちが中東通で才色兼備の彼女に群がり、政界や財界の要人たちとのパイプ作りに一役買ったのですが、なかでも、のちに『朝日ジャーナル』の編集長になった朝日新聞(元カイロ特派員)の故伊藤正孝氏は、今の政治家・小池百合子の”生みの親”としてあまりに有名です。

本人たちは否定していますが、彼女が結婚まで考えたという”元恋人”の舛添要一氏は、彼女の学歴詐称問題について、次のようにツイートしていました。

舛添要一6月6日ツイッター

私は、舛添氏のツイートを見て、木嶋早苗が逮捕された際、唯一金銭抜きで交際していた恋人(某新興宗教団体の本部職員だった男性)が警察から彼女の本名を聞かされて、その場に膝から崩れ落ちたという話を思い出しました。木嶋早苗は、本命の恋人にも本名を伝えてなかったのです。伝えていたのは偽名だったのです。小池百合子にも、似たような心の闇があるのではないか。そんな気がしてなりません。


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新型コロナウイルスは小池都知事の一人勝ち
2020.06.08 Mon l 本・文芸 l top ▲
混迷を深めていたイギリスのEU離脱(ブレグジット)も、離脱の是非を問う下院の総選挙で、離脱強硬派のジョンソン首相が率いる与党の保守党が圧勝したことにより、来年1月末までの離脱が決定的になりました。

一方、離脱に対して賛成から残留に舵を切り、方針が一貫しなかった野党の労働党は大敗。党内最左派(オールドレイバー)のジェレミー・コービン党首は、責任を取って辞任することになりました。

かねてからブレイディみかこ氏は、ブレグジットについて、下層の労働者たちがどうして労働党に三下り半を突き付け、保守党を支持するに至ったかを、右か左かではなく上か下かの視点からルポルタージュしていました。私も、再三、このブログでブレイディみかこ氏のルポを紹介していましたので、離脱が決定的になった今、氏の最新報告を読みたいと思い、「UK地べた外電」というルポを連載していた晶文社のサイト・スクラップブックにアクセスしてみました。しかし、案の定、連載は昨年の3月から途絶えたままでした。

晶文社 スクラップブック
UK地べた外電

また、氏のオフィシャルブログも、最近は本の宣伝ばかりで、オリジナルの文章はすっかり姿を消しています。そのため、Yahoo!ニュース(個人)に転載されていた文章も、2017年6月から途絶えたままです。

その一方で、ブレイディみかこ氏はすっかり売れっ子になっており、毎日新聞や朝日新聞で「時評」を連載したり、新潮社から本を出したりしています。さらに、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)では、毎日出版文化賞の特別賞を受賞しています。

最近はよく帰国しているみたいなので、まだ保育士をつづけているのかどうかわかりませんが、オフィシャルブログに矢部太郎と対談したことを自慢げに書いている氏を見ていると、(私の感覚では)なんだか痛ましささえ覚えてなりません。

ブレイディみかこ氏には、「アナキズム・イン・ザ・UK」というブログもありますが、やはり2015年から途絶えたままです。売れっ子になったので、アナーキーな心情も忘却の彼方に追いやったということなのでしょうか。

私自身は全共闘運動に乗り遅れた世代ですが、私たちは、全共闘運動に随伴してさかんに学生たちを煽っていた“左翼文化人”たちが、運動が終焉を迎えると手の平を返したように豹変し、お得意の自己合理化をはかりながら体制内に戻って行ったのを嫌と言うほど見てきました。

それをある人は「新左翼ビジネス」と呼んでいました。今は右の時代なので、愛国ビジネスやヘイトビジネスが盛んですが、左も例外ではないのです。

"左翼文化人"たちは、左派のシンパの人間たち向けに、受けのいい文章を書いて禄を食んでいたにすぎないのです。でも、私たちは、"左翼文化人"が売文業者だったなんてゆめゆめ思っていませんでした。貨幣ならぬ”文字の物神性”のようなものに呪縛されている私たちは、文字になって”書かれたもの”を無定見に信じるがゆえに、いとも簡単に騙されてしまったのでした。

今のブレイディみかこ氏を見ていると、もうタダの文章は書かない(無料経済はやめた)、大手出版社と全国紙しか相手にしないとでも言いたげで、残念な気がしてなりません。


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EU離脱と地べたの人々
『ヨーロッパ・コーリング』
ギリシャ問題と「勝てる左派」
2019.12.15 Sun l 本・文芸 l top ▲
津原泰水氏の『ヒッキーヒッキーシェイク』文庫化をめぐるトラブルで、津原氏の単行本の実売数を公表し物議を醸した見城徹氏が、各方面からの批判に耐えかねてとうとうTwitterの終了を宣言しました。本人のことばを借りれば「身から出た錆」とは言え、実にみっともない終幕を演じることになったと言えるでしょう。

同時に、AbemaTVの冠番組『徹の部屋』も、同番組のなかで終了すると宣言したそうです。どうしてAbemaTVに冠番組をもっているのか不思議に思いましたが、どうやら見城氏がテレビ朝日の放送番組審議会の委員長を務めていることが関係しているようです。言うまでもなく、AbemaTVはサイバーエージェントとテレビ朝日が共同で出資したネットテレビで、見城氏とサイバーエージェントの藤田晋社長も親しい関係にあります。なんのことはない、わかりすぎるくらいわかりやすいメディアの私物化なのでした。

『徹の部屋』には、今まで安倍総理や百田尚樹氏や有本香氏、それに見城氏と親しい秋元康や坂本龍一や村上龍や藤原紀香や郷ひろみなどが出演したそうです(坂本龍一にも今回の問題をどう思うか聞いてみたい気がする)。また、以前は出演拒否していたテレビ朝日の「報道ステーション」に安倍総理が出演するなど、最近のテレビ朝日と官邸の”蜜月ぶり”が話題になっていますが、テレビ朝日と官邸をつないだのも見城氏だと言われています。

見城氏は、慶応在学中はブント(共産主義者同盟)系の活動家として赤軍派にシンパシーを抱いていたという話があります。過去には、幻冬舎には場違いとも思える重信房子の本が出ていますが、それも見城氏の個人的な“負い目”が関係しているのかもしれません。

そのあたりの話は、下記のBLOGOSの記事でも触れられていました。

BLOGOS
ITビジネスに積極的だった見城徹氏のSNS終了宣言

今回の“騒動”について、私は、フリーライターの佐久間裕美子氏の「みんなウェルカム@幻冬舎plusをおやすみすることにしました」というブログと、花村萬月氏のTwitter上の発言に考えさせるものがありました。しかし、花村萬月氏は、既にTwitterのアカウントを削除しています(追記:後日確認したら、また復活していました)。

佐久間裕美子 明日は明日の風が吹く
みんなウェルカム@幻冬舎plusをおやすみすることにしました

佐久間裕美子氏は、上記のブログのなかで、つぎのように書いていました。

(略)先週、見城徹社長が、Twitter上で、幻冬舎からの出版が中止になった津原泰水さんの過去の作品の部数を「晒し」たということを知り、これまで感じたことのない恐怖感を感じました。出版社しか知りえない情報が、作家を攻撃し、恥をかかせるための武器として使われたのです。

自分が書いた文章を世の中に発表するーーそんな恐ろしい行為をありったけの勇気を振り絞ってやれるのは、後ろで背中を押さえていてくれる編集者がいるからです。そして、どうやら自分は、今まで出版社への信頼というものを、編集者との関係に置いてきたようでした。今回の件で、恐怖感を感じたのは、自分が置いてきた信頼というものが、書き手対出版社という関係性においてまったく脆いことがわかったから。そして、批判の声を上げた書き手が、出版社に守られるどころか、攻撃の対象になりうることがあると知ったときに、「みんなウェルカム」を幻冬舎プラスで続けていくことはできない、と思ったのでした。


まさに見城氏は「編集者失格」と言わねばならないでしょう。見城氏のふるまいは、まるで独裁国家の国営出版社の社長のようです。佐久間氏が感じたのも、それに連なる「恐怖感」だったのでしょう。

一方、花村萬月氏は、百田尚樹氏らが執拗に(!)攻撃する津原泰水氏の「粘着質な性格」について書いていました。仮にそうだとしても、個人的には付き合いたくないタイプだけど、しつこくて細かい性格は小説を書く上ではプラスになると書いていました。

津原氏の作品を読むと、小説家というのは、妄想狂で文才のある人のことだというのがよくわかるのでした。優れた小説は、往々にして世間的な常識とは対極にあるものです。世間様が眉をひそめるような“非常識”のなかに、ものごとの(人間存在の)真実が隠されているかもしれないのです。

たとえば、山本一郎氏が書いているように(めずらしくマトモなことを書いている)、「五色の舟」を読めば、津原氏が百田氏など足元にも及ばない才能の持ち主であることがわかるはずです。「五色の舟」は、夢野久作や小栗虫太郎を彷彿とするようなフリークな世界を描いた傑作で、私は、久しぶりに「蠱惑的」ということばを思い浮かべたのでした。

どんな人間かなんて関係ないのです。作品がすべてなのです。もしかしたら性格破綻者や犯罪者が書いた小説が100年後も読み継がれるような名作になるかもしれないのです。だからこそ編集者は常にフリーハンドでなければならないのです。もとより編集者には、そんな名作を発掘する使命と誇りもあるはずです。

しかし、こんなことを見城氏に言っても、所詮は馬の耳に念仏でしょう。見城氏もまた、歌を忘れたカナリアになり晩節を汚したと言えるのかも知れません。いや、権力や権威に接近することで勘違いしてみずから墓穴を掘った、と言った方が適切かもしれません。今の見城氏には、BLOGOSの記事にある「滑稽」ということばがいちばんふさわしいように思います。編集者としても、経営者としても、ただの頓馬と言うしかありません。
2019.05.21 Tue l 本・文芸 l top ▲
津原泰水氏の文庫本出版の中止をめぐって、幻冬舎社長・見城徹氏の次のようなツイートが物議を醸しています(現在は謝罪の上削除)。

津原泰水さんの幻冬舎での1冊目。僕は出版をちゅうちょしましたが担当者の熱い想いに負けてOKを出しました。初版5000部、実売1000部も行きませんでした。2冊目が今回の本で僕や営業局の反対を押し切ってまたもや担当者が頑張りました。実売1800でしたが、担当者の心意気に賭けて文庫化も決断しました。


このもの言いからは、作家や作品に対するリスペクトなど微塵も伺えません。まして、実売数を晒すなど編集者としてあり得ない話です。何様のつもりかと言いたくなります。「クズ編集者」(ビジネスジャーナル)「編集者失格」(久田将義氏)という批判は当然でしょう。

津原泰水氏によれば、『ヒッキーヒッキーシェイク』の文庫化は、「ゲラが出て、カバー画は9割がた上がり、解説も依頼して」いたにもかかわらず中止になったのだそうです。そして、担当編集者から、「『日本国紀』販売のモチベーションを下げている者の著作に営業部は協力できない」と一方的に「通達」されたのだとか。どうやら幻冬舎から出ている『日本国紀』を批判したことがお気に召さなかったようです。

一方、トラブルが表面化したことで、幻冬舎に対して、多くの作家や読者から批判が寄せられています。そして、朝日や毎日が記事にするまでになっています。

津田大介氏は次のようにツイートしていました。


ホントかなと思います。「多くの作家や読者」と書きましたが、実際は「一部の作家や読者」が正しいのではないか。「多くの」作家は沈黙を守る、と言ったら聞こえはいいですが、要するに見て見ぬふりをするだけでしょう。それは、新潮や文春のときも同じでした。

幻冬舎のイメージが悪くなったのは事実でしょうが、だからと言って、読者の不買や作家の執筆拒否・版権引き上げにまで事態が拡大するかと言えば、それはとても”叶わぬ夢”のように思います。

見城徹社長は、角川書店にいた頃から、五木寛之氏のエッセイに登場するなどやり手の編集者として有名でした。幻冬舎という社名も、たしか五木氏が命名したような記憶があります(今、ウキペディアで確認したら、やはり、五木氏が命名したと書いていました)。

一方で、「幇間」「爺殺し」というレッテルも常に付いてまわっていました。最近では、安倍総理や石原慎太郎氏の腰巾着として知られています。五木氏に取り入ったのも同じなのでしょう。

五木寛之氏は、作家としてデビューした際、質(純文学)より量のエンタテインメント(中間小説でも大衆文学でもなく通俗小説)の世界で勝負したいと”宣言”して、芸術至上主義的な純文学の世界にうんざりしていた読者から拍手喝采を浴びたのですが、今になればそれが両刃の剣であったことがよくわかるのでした。86歳になった五木氏にこんなことを求めるには酷かもしれませんが、かつての五木ファンのひとりとして、この問題に対する五木氏の見解を聞きたいものです。”製造者責任”もあるのではないでしょうか。

また、津原氏と見城氏のバトルに参戦した花村萬月氏が、「ボクは小説は最後しか読まない」という若かりし頃の見城氏の「放言」を暴露したことも波紋を広げています。「それは文字通り、小説のラストだけ目を通して、すべてを決めるということで、雑念が入らぬぶん、当たりを出せるということ──らしい」と。

このツイートに対して、見城氏はなんと訴訟をチラつかせて反論したのでした(のちにやはり謝罪して撤回)。こういった対応ひとつ見ても、「編集者失格」と言われても仕方ないでしょう。

今回の問題について、花村萬月氏は次のようにツイートしていました。


まったくその通りで、作家にとって作品がすべてなのです。優れた作品なら、どんな人間であるかなんて関係なく無条件に評価されるべきなのです。もちろん、優れた作品かどうかということと、売れたかどうかということは別問題です。見城社長や編集とネットワークビジネスを混同したあのエキセントリックな社員は、出版社としての自社の看板にみずから泥を塗ったと言えるでしょう。


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渡部直己氏のセクハラ問題
五木寛之の思い出
2019.05.19 Sun l 本・文芸 l top ▲
左派ポピュリズムのために


先日、朝日新聞デジタルに、政治学者の山本圭氏(立命館大学準教授)の非常に示唆に富んだ寄稿が掲載されていました。

朝日新聞デジタル
極右に対抗「左派ポピュリズム」広がる 政治家に存在感

山本氏は、次のように書いています。

もとよりポピュリズムに対しては、「大衆迎合主義」と(誤って)翻訳されることが多いせいか、本邦ではことのほかネガティブな印象が強い。これが喚起するイメージといえば、デマゴーグによる人気取り政策、あることないこと放言する民主主義の腐敗、おおかたそんなところだろう。

 とはいえ、元来ポピュリズムとは、既存の政党政治からこぼれ落ち、疎外されてきた人々を、ひとつの政治勢力としてまとめあげる、そのような政治手法を指す言葉である。そのかぎりで、ポピュリズムこそ真に民主主義的である、という見方も当然成り立つ。

 近年、欧州や米国ではポピュリズムのこうした伝統が回帰している。それが〈左派ポピュリズム〉と呼ばれるものだ。ギリシャの急進左翼進歩連合(シリザ)やスペインのポデモスといった政党をはじめ、英国労働党のコービン、「不服従のフランス」のメランション、米国のサンダース、さらに最近になると富裕層への課税を訴える民主党のオカシオコルテスといった政治家らが存在感を示している。


また、ブレイディみかこ氏も、かつてみずからのブログ「The Brady Blog」で、左派ポピュリズムについて、次のように書いていました。

Yahoo!ニュース
ポピュリズムとポピュラリズム:トランプとスペインのポデモスは似ているのか

「ポピュリズム」という言葉は、日本では「大衆迎合主義」と訳されたりして頭ごなしに悪いもののように言われがちだが、Oxford Learner’s Dictionariesのサイトに行くと、「庶民の意見や願いを代表することを標榜する政治のタイプ」とシンプルに書かれている。
(中略)
EU離脱、米大統領選の結果を受けて、新たな左派ポピュリズムの必要性を説いているのは英ガーディアン紙のオーウェン・ジョーンズだ。

「統計の数字を見れば低所得者がトランプ支持というのは間違い」という意見も出ているが、ジョーンズは年収3万ドル以下の最低所得者層に注目している。他の収入層では、2012年の大統領選と今回とでは、民主党、共和党ともに票数の増減パーセンテージは一桁台しか違わない。だが、年収3万ドル以下の最低所得層では、共和党が16%の票を伸ばしている。票数ではわずかにトランプ票がクリントン票に負けているものの、最低所得層では、前回は初の黒人大統領をこぞって支持した人々の多くが、今回はレイシスト的発言をするトランプに入れたのだ。英国でも、下層の街に暮らしていると、界隈の人々が(彼らなりの主義を曲げることなく)左から右に唐突にジャンプする感じは肌感覚でわかる。これを「何も考えていないバカたち」と左派は批判しがちだが、実はそう罵倒せざるを得ないのは、彼らのことがわからないという事実にムカつくからではないだろうか。


左派ポピュリズムについては、私もこのブログで何度もブレイディみかこ氏のことばを引用して書いてきました。大事なのは、右か左ではなく上か下かだ、と。

そして、ブレイディみかこ氏やオーウェン・ジョーンズやポデモスのパブロ・イグレシアスに影響を与えているのが、ベルギーの政治学者のシャンタル・ムフです。

山本圭氏が邦訳した彼女の新著『左派ポピュリズムのために』(明石書店)は、現代の社会運動を担う人々にとってバイブルになり得るような本だと思いました。私は、本を読むとき、受験勉強のなごりで、重要と思う箇所に赤線を引いて、そのページに付箋を貼る習慣があるのですが、『左派ポピュリズムのために』は文字通り赤線だらけ付箋だらけになりました。

でも、その多くは、このブログで再三くり返していることです。

どこを引用してもいいのですが、たとえば、中道化するなかで新自由主義という”共通の土俵”に上がってしまった「社会ー民主主義」勢力(=左派リベラル)のテイタラクについて、シャンタル・ムフは次のように書いています。

 多くの国において、新自由主義的な政策の導入に重要な役割を果たした社会ー民主主義政党は、ポピュリスト・モーメントの本質を掴みそこねており、この状況が表している困難に立ちむかうことができていない。彼らはポスト政治的な教義に囚われ、みずからの過ちをなかなか受入れようとせず、また、右派ポピュリスト政党がまとめあげた諸要求の多くが進歩的な回答を必要とする民主的なものであることもわかっていない。これらの要求の多くは新自由主義的なグローバル化の最大の敗者たちのものであり、新自由主義プロジェクトの内部にとどまるかぎり、満たされることはない。
 (略)右派ポピュリスト政党を「極右」や「ネオファシスト」に分類し、彼らの主張を教育のせいにすることは、中道左派勢力にとってとりわけ都合がよい。それは右派ポピュリスト政党の台頭に対する中道左派の責任を棚上げにしつつ、彼らを不適合者として、排除する簡単な方法だからである。「民主的討議」から「過激派」を追い出すための「道徳的」フロンティアをつくり上げることによって、「善良なる民主主義者たち」は、自分たちが「不合理な」情念の台頭を止めることができると信じているのである。


でも、それは「政治的には無力である」とシャンタル・ムフは書いていました。

私たちは、右派ポピュリズムに学ばなければならないのです。生産諸関係のなかに「政治的アイデンティティ」を求めるような「階級本質主義」(労働者本隊主義の幻想!)から離別し、左派ポピュリズムに依拠することをためらってはならないのです。既存の政治から見捨てられた人々のなかに、もうひとつの”政治”を発見しなければならないのです。シャンタル・ムフは、「その結果として、平等と社会正義の擁護に向けた共通の感情を動員することで、『人民』の構築、すなわち集合的意志の構築が生じるだろう。これにより、右派ポピュリズムが推し進める排外主義政策と闘うことができるようになる」のだと書いていましたが、まさにそこにこそコミュニズムの現代的意味があるのだと思います。


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2019.02.20 Wed l 本・文芸 l top ▲
週刊読書人のウェブサイトを見ていたら、次のような短歌が目に止まりました。

見送ると汽車の外(と)に立つをさな子の鬢の毛をふく市の春風

これは、歌人の太田水穂の若かりし頃の歌で、1898年(明治31年)の作だそうです。

週刊読書人の「現代短歌むしめがね」というコラムで、歌人の山田航氏が紹介していました。

週刊読書人ウェブ
現代短歌むしめがね

山田氏は、同コラムで次のように書いています。

太田水穂は1876(明治9年)に長野県東筑摩郡広丘村(現在の塩尻市)に生まれ、長野市にあった長野県師範学校(信州大学の前身の一つ)に進学した。この歌は師範学校を卒業して、現在の松本市に小学校訓導として赴任するために、長野を汽車で去った体験にもとづく。
(略)
遠くへと旅立つ自分と、汽車の外から見つめてくる恋人。恋人の鬢の毛が春風に揺れている。実にロマンティックな一首だ。


1898年と言えば、今から120年前です。いつの時代も恋愛は存在したのです。

私がこの歌に目が止まったのは理由がありました。もしかしたら、前にも書いているかもしれませんが、二十歳のときに見たある光景が今でも心の中に残っているからです。この歌によって、そのときの光景が目の前によみがえってきたのでした。

当時、私は、九州の別府にある国立病院に入院していました。別府は、私が高校時代をすごした街でした。実家は、別府からだと汽車とバスを乗り継いで3時間近くかかる熊本県との境にある山間の町にありました。

今と違って、私達の頃は高校を卒業すると、地元を離れ、関西や関東の大学に行くのが一般的でした。私も、東京の予備校に通っていたのですが、身体を壊して帰省し、入院したのでした。みんな都会の大学に行っているので、別府に戻っても、親しい同級生は誰一人残っていませんでした。

その日、私は、外泊許可をもらい、実家に帰るために別府駅から汽車に乗りました。

4人掛けのボックス席の前の席には、70歳をとうにすぎたような年老いた男性が座っていました。そして、外を見ると、同じ年恰好の女性がホームに立っていました。二人は黙ったまま、時折ガラス越しに目を合わせていました。

やがて発車を告げるベルがけたたましく鳴り響き、汽車がゆっくりと動き始めました。二人は手を挙げるでもなく、ただ目を合わせているだけです。汽車がホームを離れ、見送りにきた女性の姿が見えなくなりました。すると、目の前の男性は、背広のポケットからハンカチを取り出して目頭を拭きはじめたのでした。

老いた二人のしっとりとした別れ。昔の恋人が久しぶりに会いに来て、再び別れるシーンだったのではないか、と私は勝手に想像していました。

そのあと、男性は、何かに思いを馳せるように、ずっと窓の外の風景に目をやっていました。

ロマンティックというのは、たしかに古い感覚ですが、しかし、いつまで私達の胸を打つものがあります。
2018.10.10 Wed l 本・文芸 l top ▲
滑走路


先日、朝日新聞で紹介されていた萩原慎一郎の歌集『滑走路』(KADOKAWA)を読みました。

歌集については、下記のような歌を挙げて、非正規の生きづらさを指摘する声があります。

ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼を食べる

今日も雑務で明日も雑務だろうけど朝になったら出かけてゆくよ

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている

しかし、私は、やはり中高時代に遭遇したいじめが大きかったように思います。いじめは、そのあとも彼の心に暗い影を落とし、その後遺症に苦しむことになるのでした。多感な時期にいじめに遭うということは、どれほど残酷なものでしょうか。

以来、彼はずっと精神の不調を抱え苦しんでいたのです。歌を詠むようなナイーブな内面を持っているからこそ、よけいいじめが残酷なものになったことは容易に想像できます。

自死の誘惑に抗いながら、次のような歌を詠んでいたのです。

木琴のように会話が弾むとき「楽しいな」と率直に思う

靴ひもを結び直しているときに春の匂いが横を過ぎゆく

この二首は、私が歌集の中で好きな歌です。しかし、こういった日常をもっても、彼は死の誘惑に抗うことはできなかったのでした。

癒えることなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ

疲れていると手紙に書いてみたけれどぼくは死なずに生きる予定だ

消しゴムが丸くなるごと苦労してきっと優しくなってゆくのだ

一方で、このように自分を奮い立たせるような歌も詠んでいますが、しかし、(当然ながら)残酷な記憶を消し去ることはできなかったのです。

前回、職場で息子ほど歳の離れた若い社員から罵声を浴びせられた知人の話を書きましたが、作者が抱いていた生きる苦しみや哀しみは、私達とて無縁ではないのです。

彼は、よく自転車に乗って界隈を探索していたようで、自転車の歌もいくつかありました。

公園に若きふたりが寄り添っている すぐそばに自転車置いて

春の夜のぬくき夜風吹かれつつ自転車を漕ぐわれは独り身

寒空を走るランナーとすれ違いたるぼくは自転車を漕いでいるのだ

私は、これらの歌を読んだとき、ふと寺山修司の次のような歌を思い出しました。

きみのいる刑務所の塀に 自転車を横向きにしてすこし憩えり

しかし、昨年6月、第一歌集の『滑走路』を入稿し終えたあと、作者の萩原慎一郎氏は、みずから死を選んだのでした。32年の短い人生でした。

作者も「あとがき」で名前を挙げていますが、歌人の岡井隆氏に『人生の視える場所』という歌集があります。しかし、「人生の視える場所」に立っても、眼前に広がるのは、必ずしもきれいな、心休まる風景とは限らないのです。

巨いなる寂しさの尾を踏み伝ふ一歩一歩の爪さきあがり
(『人生の視える場所』)

こういった歌も、作者の心の奥底にあるものを氷解させることはできなかったのです。

「悲しみ」とただ一語にて表現できぬ感情を抱いているのだ

作者は、そう歌っていますが、私は「むごい」という言葉しか持てませんでした。
2018.10.08 Mon l 本・文芸 l top ▲
渡部直己氏のセクハラ問題は、とうとう新聞各紙が報道するまでに至っています。

最初に渡部氏のセクハラを取り上げたのは、ビジネス誌などを出版するプレジデント社の「プレジデントオンライン」で、既に関連記事も含めて3本の記事をアップしています。

PREDIDENT Online
早大名物教授「過度な求愛」セクハラ疑惑
早大セクハラ疑惑「現役女性教員」の告白
早大セクハラ疑惑"口止め教員"の怠慢授業

1984年に出た渡部氏の『現代口語狂室』(河出書房新社)のなかに、四方田犬彦氏のつぎのような発言がありました。

四方田 「女子大生と記号学には手を出すな」ってタブーがあるの知っている? 日本のアカデミズムにさ。
渡部 知らない(笑)
(われらこそ「制度」である)


今になれば、皮肉のように読めなくもありません。もしかしたら、当時から渡部氏の”性癖”が懸念されていたのかもしれません。

渡部氏のセクハラについて、周辺では「別に驚くことではない」という声が多いそうです。栗原裕一郎氏によれば、女性ライターの間では「超有名」だったそうです。女性記者の間で「超有名」だったどこかの国の財務官僚とよく似ています。

もっとも、1984年当時は、渡部氏もアカデミズムの住人ではありませんでした。高田馬場にあった日本ジャーナリスト専門学校(通称「ジャナ専」)の講師にすぎませんでした。ただ、今回のセクハラの発覚に対して、当時「ジャナ専」に通っていた人間たちからも(もう相当な年のはずですが)、「ざまあみろ」という声が上がっているようです。やはり、当時からそのような風評は流れていたのかもしれません。

プレジデント社との兼ね合いで言えば、『現代口語狂室』のなかで、渡部氏は、『プレジデント』誌の表紙について、つぎのような辛辣な文章を書いています。同誌の表紙は、当時は今と違って、写真と見まごうようなリアルな人物の顔が描かれていたのです。モデルは、もちろん、功成り名を遂げた財界人や歴史上の英雄でした。

(略)『プレジデント』という誌名からしてすでに厚顔に勝ち誇った雑誌の、比類なく扇情的な表紙を視つめることは不可能なのだが、実寸大で掲げてしまえばたちどころに首肯されうるように、中川恵司なる人物が毎号面妖のかぎりをつくして制作するこの表紙は、もはや雑誌の顔などというものではない。それはまさに、「プレジデント」たちのむきだしの下腹部と称する他ない、非凡なまでに醜悪な突起物として、書店の棚に、文字通り身ヲ立テ名ヲ遂ゲヤヨ励ミつつ、にわかに信じられぬほどの異彩を放っているのである。
(『プレジデント』あるいは勝者の愚鈍なる陽根)


まさか30数年後の意趣返しではないでしょうが、どこか因縁めいたものを感じてなりません。

渡部氏の父親は統幕会議議長という自衛隊の大幹部だったのですが、この文章を読むと、もしかしたらその成育過程で、渡部氏のなかに男根至上主義的な刷り込みがあったのかもしれないと思ったりもします。三つ子の魂百までというのは、文学を持ち出すまでもなく、人間存在の真実なのです。

渡部氏は、絓秀実氏との共著『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』(太田出版)で、自分は絓氏に感化されて「新左翼」になったというような、冗談ともつかないようなことを話していました。その後、絓氏の引きがあったのかどうか、めでたく近畿大学文学部教授としてアカデミズムの一員になることができたのです。さらに、それを足がかりに、早稲田大学教授の地位まで手に入れたのでした。

それにしても、とんだ「新左翼」がいたものです。”SEALDsラブ”の老人たちと同じような「新左翼」のなれの果てと言うべきかもしれません。(以後、墓場から掘り出した死語を使って「新左翼」風に‥‥)指導教官あるいは『早稲田文学』の実質的な「発行人」という特権的地位を笠に、人民(女子学生)をみずからの性的欲望のはけ口に利用するのは、マルクス・レーニン主義に悖る反革命行為と言うほかありません。ブルショア国家の公的年金がもらえる年になったからといって、これ幸いに辞職するなどという反階級的な敵前逃亡を断じて許してはならないのであります。人民の名において革命的鉄槌が下されなければなりません。

「おれの女になれ」なんて、どこかで聞いたような台詞です。エロオヤジ的、あまりにエロオヤジ的な台詞です。しかも、渡部氏は、プレジデントオンラインの取材に対して、つぎのように文学的レトリックを使って弁解しているのでした。

「(略)過度な愛着の証明をしたと思います。私はつい、その才能を感じると、目の前にいるのが学生であること忘れてしまう、ということだと思います」


田山花袋でもなったつもりか、と思わずツッコミを入れたくなりました。

「電通文学」というのは、渡部氏の秀逸な造語ですが、渡部氏自身が電通の向こうを張るセクハラオヤジだったのですから、これほどのアイロニーはないでしょう。もっとも、『早稲田文学』も、今や「電通文学」の牙城のようになっているのです。

被害者女性が相談に行ったら逆に口止めされた「教員」が誰なのか、『早稲田文学』の購読者や「王様のブランチ」の視聴者なら簡単に解ける問題でしょう。

今回のセクハラ問題であきからになったのは、渡部氏がいつの間にか文壇村の”小ボス”に鎮座ましまして、早稲田の現代文芸コース(カルチャーセンターかよ)や『早稲田文学』を根城に、文壇政治を司る”権力者”に成り下がっていたということです。若い頃、渡部氏の本を読んで、目からウロコが落ちる思いがした人間にとっては、反吐が出るような話です。

この問題については、私が知る限り、作家の津原泰水氏のツイッター上の発言がいちばん正鵠を射ているように思いました。

津原泰水 (@tsuharayasumi) | Twitter
https://twitter.com/tsuharayasumi








2018.06.29 Fri l 本・文芸 l top ▲
安倍晋三沈黙の仮面



森友問題における財務省の佐川宣寿元理財局長の証言もひどかったですが、今回の加計問題での柳瀬唯夫元首相秘書官の答弁も、それに輪をかけてひどいものでした。愛媛県知事が怒るのも当然でしょう。野党や国民はもっと怒るべきでしょう。「官僚いじめ」だと言われたからと言って、怯んでいる場合ではないのです。

昨年の“森友国会”の際、安倍晋三首相は、野党からの追及を受ける佐川宣寿理財局長(当時)に、「もっと強気で行け」とメモを渡したそうですが、木で鼻をくくったような(国会や国民をバカにしたような)彼らの答弁には、たしかに、安倍首相の個人的なキャラクターが影を落としているように見えなくもありません。今になれば、「強気で行け」というのが、「強気で嘘をつけ」という意味だったことがよくわかるのです。

必死に言い逃れようとする二人を見て、「(東大の法学部まで出ていながら)惨めなもんだな」と思いましたが、しかし、当人たちは、逆に心のなかで、安倍首相に向かって「やりましたっ!」とVサインを送っていたのかもしれません。文字通り、「ハイルヒトラー!」の気分だったのかもしれません。彼らにとって、安倍首相を忖度することは、官僚としてのレーゾンデートルと言ってもいいくらい大事なことなのかもしれないのです。一方で、東大出に対して学歴コンプレックスを抱いている(後述の野上忠興氏)安倍首相にとっては、東大法学部を出たエリート官僚をまるで飼い犬のようにかしずかせるのは、これ以上ない快感に違いありません。

菅野完氏は、国会を騙す安倍政権のやり方は、「授権法なき授権法体制」だと言ってましたが、生殺与奪の人事権を握って官僚を徹底的に平伏させるのも、「ナチスのやり方を学んだ」(麻生太郎副総理)のかもしれません。

元共同通信社の記者で、(旧)安倍派の番記者を務めた野上忠興氏の『安倍晋三 沈黙の仮面』(小学館)に、安倍晋三氏の乳母・久保ウメさんが語ったつぎのようなエピソードがあります。

 夏休みの最終日、兄弟の行動は対照的だった。兄は宿題が終わっていないと涙顔になった。だが、晋三は違った。
「『宿題みんな済んだね?』と聞くと、晋ちゃんは『うん、済んだ』と言う。寝たあとに確かめると、ノートは真っ白。それでも次の日は『行ってきま~す』と元気よく出ます。それが安倍晋三です。たいした度胸だった。(略)」
 ウメは「たいした度胸」と評したが、小学校時代の級友達に聞いて回っても、宿題を忘れたり遅刻をしたりして「またか」と先生から叱られたとき、安倍は「へこむ」ことはなかったという。


「愛に飢えた」少年時代ゆえか、平然と嘘をつくのは、子どもの頃からの”得意技”だったのです。

久保ウメさんは、安倍晋三氏が2歳5か月のときから岸・安倍両家に40年使え、「安倍家のすべてを知る生き字引」と呼ばれている女性です。彼女は、本のなかで、安倍晋三氏について、「強情で芯の強い子ども」「泣かない子」「自己主張・自我が人一倍強い」と評していました。

あるとき、父親(安倍晋太郎)の大事なものがなくなり、居合わせた兄弟が詰問された際、父親の「怒気を含んだ声」に気圧されて半べそをかいていた兄の傍らで、弟の晋三は、「真っ白なハイハイ人形みたいな顔をして、ほっぺをプーッと膨らませてパパをにらみ返し、パパとにらみ合いが続いた」そうです。そして、とうどう父親は、「晋三、お前はしぶとい!」と「白旗を揚げた」のだとか。

平然と嘘をつく、そして、しぶとい。なんだか今の安倍政権を象徴しているようなエピソードです。支持率も下がり追いつめられているようなイメージがありますが、安倍総理にその意識はあまりないのかもしれません。これからも、誰からなんと言われようと、嘘に嘘を重ねてしぶとく居座るのではないでしょうか。

ウメさんも、つぎのような示唆に富んだ言い方をしていました。

「私はパパとのケンカで最後まで屈しなかった姿が頭に残っているから、政治家になったあの子(晋三)が、自分のしたいことから逃げない、自分が思わないこと、駄目だと思ったことには一切妥協しない特性がいつ出るかと思っているの。ただね、何でも我を通すことがいいことにはならないでしょう。とことん突っ張る分、反動が出たときはそれだけ大きいことを覚悟しなくてはいけないのよ。(略)」


著者も「あとがき」で、同じようなことを書いていました(一部既出です)。

(略)安倍氏は「気が強くわがまま」(養育係の久保ウメ)で、「反対意見に瞬間的に反発するジコチュー(自己中心的)タイプ」(学友)だ。それが、父・晋太郎が懸念した「政治家として必要な情がない」一面につながっている。
 気にくわない場面や意見に出くわすことは誰にでもある。いちいち過剰反応しては神経がもたない。ちょっと頭を巡らせ、ちょっと感情を抑え、つまり臨機応変に知と徳を働かせて言動を工夫する。そうして「懐が深くなった」と印象づけるだけでも、ずいぶん政治家として熟した姿を示せるはずだ。でも長年取材してきた安倍親子において、父にあって子に足りないのは、今もってそこだと感じる。


安倍晋三氏は、能力はともかく気質においては、独裁者になる条件を充分備えている(いた?)と言っていいでしょう。


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2018.05.12 Sat l 本・文芸 l top ▲
月山


森敦の「月山」(文春文庫『月山・鳥海山』所収)を読みました。

最初に「月山」を読んだのは、二十歳のときでした。私は、当時、九州の実家に蟄居していました。東京の予備校に通っていたのですが、持病が再発したため帰省して、高校時代をすごした別府の国立病院で入院生活を送ったあと、退院して実家に戻っていたのです。実家は、別府から70キロ以上離れた、熊本県に近い山間の町にありました。

入院したのは三度目でした。つまり、持病が再々発したのです。さすがに三度目となると深刻で、周りが慌てているのがよくわかりました。担当した先生は、「寿命の短い患者を引き受けたな」「若いのに可哀そうだな」と思ったそうです。実際に、最初の数か月はほとんど寝たきりでした。

しかし、若かったということもあって、一年間の長期入院になったものの、なんとか退院することができたのでした。当分は通院しなければならないので、実家にいるしかなかったのですが、そのあとどうするか、もう一度上京して受験するか、志半ばで宙ぶらりんな状態に置かれた私は、思案に暮れていました。同級生たちはみんな、都会の大学に行ってましたので、なんだかひとりぽつんと田舎に取り残されたような感じでした。

私は、毎日、実家の二階の部屋で本を読んですごしていました。月に一度、バスと電車を乗り継ぎ片道3時間以上かけて病院に行くのが、唯一の外出でした。今のようにネット通販もありませんでしたので、そのときにひと月分の本を買い込んできました。

そのなかに、芥川賞を取ったばかりの「月山」があったのです。

「月山」は不思議な小説でした。仕事もせずに文学を志して放浪する「わたし」が、山形の鶴岡の寺の紹介で、十王峠を越えた先の、月山の「山ふところ」の集落にある寺を訪ね、そこでひと冬をすごす話です。

寺には、寺男の「じさま」がひとりいるだけでした。「じさま」が作る大根が入った味噌汁が毎日の食事でした。しかも、大根は、趣向を凝らすためか、毎日扇や千本や賽の目などにかたちを変えて切られているのでした。

冬が近づいてくると、「わたし」は、寒さを凌ぐために、寝起きしていた二階の広間の奥に、物置で見つけた祈祷簿で蚊帳を作ります。

雪に閉ざされた山奥の寺で、祈祷簿で作った蚊帳のなかで冬をすごす主人公。当時の私は、その姿に自分を重ねたようなところがありました。文字通り、世間から隔絶され、人生を諦観したような感じがしたのです。

「わたしは」こう独白します。

こうしてここにいてみれば、わたしはいよいよこの世から忘れられ、どこに行きようもなく、ここに来たような気がせずにはいられなくなって来たのです。


それも、当時の私の心境と重なるものがありました。

「寺のじさま」は、暇があると、「暗い台所の煤けた電球の下で割り箸を割っている」のでした。その姿に、「わたし」はつぎのように自問します。

寺のじさま、、、もそうして割り箸を割ることがまさに祈りであり、その祈りはただいま、、に耐えるというだけの願いなのに、その祈りによってもなおいま、、すら耐えられるものがあるのでしょう。


また、鉢のなかに落ちたカメ虫が、底から縁に何度も這い上がっては落ち、落ちては這い上がる様を観察しながら、つぎのように思う場面も印象に残りました。

ああして飛んで行けるなら、なにも縁まで這い上がることはない。そのバカさ加減がたまらなくおかしくなったのですが、たとえ這い上がっても飛び立って行くところがないために、這い上がろうともしない自分を思って、わたしはなにか空恐ろしくなって来ました。


しかし、40年近く経って再び読み返すと、「月山」はまた違ったイメージがありました。今の私のなかに浮かんだのは、生と死のイメージです。

十王峠を越えて、寺のある集落の七五三掛(しめかけ)へ向かう途中、「死の象徴」である月山を眺めながら、「わたし」は、つぎのように思うのでした。

月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそ私たちにとってまさにある、、べき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみ、、、、めいたものを感じさせるためかもしれません。


そして、つぎのような冬の夕焼けの情景にも、死と浄土のイメージが呼び起こされる気がするのでした。

(略)渓越しの雪山は、夕焼けとともに徐々に遠のき、更に向こうの雪山の頂を赤黒く燃え立たせるのです。燃え立たせると、まるでその火を移すために動いたように、渓越しの雪山はもとのところに戻っているが、雪山とも思えぬほど黒ずんで暗くなっています。こうして、その夕焼けは雪の山々を動かしては戻しして、彼方へ彼方へと退いて行き、すべての雪の山々が黒ずんでしまった薄闇の中に、臥した牛さながらの月山がひとり燃え立っているのです。かすかに雪の雪崩れるらしい音がする。わたしは言いようのない寂寥にほとんど叫びださずにいられなくなりながら、どこかで唄われてでもいるように、あの念仏の御詠歌が思いだされて来ました。

    〽彼の岸に願いをかけて大網の
     〽曳く手に漏るる人はあるじな

 それにしても、なにものもとらえて漏らさぬ大網を曳く手とはなんなのか。それほど仏の慈悲が広大だというなら、広大なることによって慈悲ほど残忍な様相を帯びて来るものはないであろう。‥‥‥


年を取ると、否応なく死というものを考えざるを得ません。それは、上の文章で言えば、「言いようのない寂寥」です。断念した果てに現在(いま)があるのだとしみじみ思い知らされます。しかし、大悲は「倦きことなくして常に我が身を照らしたまう」(『往生要集』)のです。そう信じてただ手を合わせ祈るだけです。

このように「月山」は、年を取って読むと、若い頃とはまた違った景色が見えてくる小説です。それが帯にあるように、名作たるゆえんでしょう。
2018.05.10 Thu l 本・文芸 l top ▲
ルポ川崎


磯部涼『ルポ川崎』(CYZO)を読んだ流れで、ヒップホップグループBAD HOPのドキュメンタリーをYouTubeで観ました。

YouTube
MADE IN KAWASAKI 工業地帯が生んだヒップホップクルー BAD HOP

もう20年以上前ですが、川崎の桜本にある病院にお見舞いに行ったことがありました。そのとき、ちょうどロビーで赤ちゃんを抱いた若い夫婦に遭遇しました。出産した妻が退院するので夫が迎えにきたみたいです。

ただ、二人はどう見てもまだ10代の少年少女でした。しかも、髪はアイパーを当て剃り込みを入れた、見るからにヤンキーといった感じでした。一緒に行った友人は、「ああいった光景はここらではめずらしくないよ」と言ってました。

お見舞いのあと、車を病院の駐車場に置いて、友人が「朝鮮部落」と呼ぶ桜本や池上町を歩きました。友人もまた在日朝鮮人で、実家は都外にあるのですが、桜本や、多摩川をはさんだ対岸の大田区に親戚がいると言ってました。親戚の多くは、もともと鉄くずなどの回収業や土建業をやっていたそうです。

大きな通りから一歩なかに入ると、粗末な造りの家が密集した一帯がありました。しかも、路上に車がずらりと停められているのです。なかには、廃車にされたまま打ち捨てられているのでしょう、原形をとどめないほどボロボロになった車もありました。友人は「みんな、違法駐車だよ」「車庫なんてないよ」と言ってました。

BAD HOPのドキュメンタリーを観ていたら、ふとそのときのことを思い出したのでした。

ドキュメンタリーのなかで、「いちばん好きなライムってありますか?」と質問されて、リーダーのYZERRが答えたのは、つぎのような「Stay」のライム(韻)です。

14でSmoke Weed
15で刺青
16で部屋住み


「部屋住み」というのは、ヤクザの事務所に住み込んで見習いになることです。

「Stay」のBarkのパートには、つぎのようなリリック(歌詞)があります。

オレの生まれた街 朝鮮人 ヤクザが多い
幼い少女がチャーリー 絶えぬレイプ、飛び降り
金のために子どもたちも売人か娼婦へ
生きるために子どもたち罪を犯す罪人かホームレス
こんなところで真面目なんて難しい
積み重なる空き巣に暴行、毎夜の悪さは普通だし
15の頃には数十人まとめて逮捕
それでも一度のことじゃないから反省ない態度
とって繰り返し 気づけば暗がり 切れないつながり黒いつながり
進路は極道かハスラー なるようになったお似合いのカップル
(『ルポ川崎』より転載)


「チャーリー」はコカイン、「ハスラー」はクスリの売人という意味のスラングです。

言うまでもなく、ヒップホップは、70年代にアメリカの黒人やヒスパニックなどマイノリティの社会で生まれたアンダーカルチャーで、人種差別や貧困や犯罪などが背景にあります。川崎の少年たちが、ヒップホップに惹かれていったのは当然でしょう。BAD HOPのラップが体現しているのは、彼らの実体験に基づいた不良文化です。そして、そこで歌われているのは、都市最深部の風景です。

桜本のコミュニティセンター「ふれあい館」の職員であり、みずからも在日コリアンである鈴木健は、“川崎的なるもの”という「ドツボの連鎖」から抜け出すためにも、「BAP HOPの存在は大きい」と言います。

「(略)だからこそ、成功してほしい。これまでも川崎からはラッパーは出てきていますけど、“川崎なるもの”にとらわれて挫折してしまった人もいる。BAD HOPが起こしたムーブメントが大きくなって、どこに行っても彼らにあこがれた子どもたちがラップをしているような現在、仮に彼らが挫折してしまったら、ダメージを受ける子どもたちは多いだろうから」
(同上)


小学生が「将来の夢」の欄に、「ヤクザ」と書くような環境。ヤクザになることが、「普通に育ったヤツが高校に行くのと同じ感覚」のような人生。ヤクザになれないヤツは、クスリの売人か職人になるしかない現実。「そこにもうひとつ、ラッパーという選択肢をつくれたかも」と彼らは言います。自分たちは、ラップによって変われたのだと。先の「Stay」のなかで、Barkもつぎのように歌っています。

この街抜け出すためなら欲望も殺すぜ
ガキの頃と変わらない仲間と目にするShinin
We Are BAD HOP ERA 今じゃドラッグより夢見る売人


また、下記の「Mobb Life」でも、成り上がることを夢見るほとばしるような心情が表現されていました。

掃き溜めからFly
この街抜け出し勝つ俺らが
まだまだ足りない
数えきれんほど手に札束
誰にも見れない
景色を拝みに行くここから
収まらないくらい
俺ら仲間達と稼ぐMoney


YouTube
BAD HOP / Mobb Life feat. YZERR, Benjazzy & T-Pablow (Official Video)

『ルポ川崎』では、川崎を標的にしたヘイト・デモに対してカウンター活動をおこなっているC.R.A.C.KAWASAKIなども取り上げられているのですが、著者は川崎の若者たちで交わされるつぎのようなジョークを紹介していました。

 川崎の若者たちと話していると、いわゆるエスニック・ジョークのようなものが盛んに飛び交う。
「お前の親は北朝鮮だろ?」
「ふざけんな、韓国だよ」
「北朝鮮っぽい顔しているんだけどな」
「どっちも同じようなもんだろ。なんなら日本人も」
 端で聞いているとぎょっとするが、そのポリティカル・コレクトネスなど知ったことではないというような遠慮のなさは、外国人市民との交流のなさから生まれる被害妄想めいたヘイトとは真逆のものである。


今、読んでいる桐野夏生の新作『路上のX』は渋谷が舞台ですが、やはり都市最深部の風景を描いた小説と言っていいでしょう。『ルポ川崎』のなかに、「自由は尊いが、同時に過酷だ」ということばがありましたが、けだし資本主義社会は自由だけど、同時に過酷なのです。都市最深部の風景が映し出しているのは、差別や貧困や犯罪と共棲する(せざるをえない)過酷な現実です。


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2018.03.10 Sat l 本・文芸 l top ▲
昨日、ネットで、つぎのようなツイッターのつぶやきを目にしました。



まったく同感です。このブログでも書いたことがありますが、私も、えげつないヘイト本が本屋の平台を占領するようになって、本屋に行くのが嫌になり、前より足が遠のいています。

昔は本屋に行くのが楽しみでした。ワクワクしました。本屋で知らない本に出会うのが楽しみだったのです。本屋には知性がありました。こんな本があるよと教えてくれたのです。でも、今はそんな出会いは望むべくもありません。本屋大賞なんて片腹痛いのです。

ヘイトな発言で有名な某作家は、講演料が200万円だそうです。前も書きましたが、元ニュースキャスターの”ネトウヨの女神”も、港区の数億円とも言われる白亜の豪邸に住んでいるそうです。彼らは愛国者なんかではないのです。ただのヘイトビジネスの商売人にすぎないのです。貧すれば鈍する書店は、そんなヘイトビジネスに便乗しておこぼれを頂戴しようとしているのでしょう。

出版文化に対する気概も見識もない書店なんて潰れればいいのだと思います。潰れてもざまあみろと思うだけです。

それは、テレビも同じです。最近は、100円ショップの商品を海外に持って行って、外国人に「ニッポン、凄い!」と言わせる番組がありますが、日本の「凄さ」はそんなところにしかないのかと思うと、なんだか情けなくなります。しかも、それらの商品の多くは中国製なのですから、もはや笑えない冗談です。



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2018.02.28 Wed l 本・文芸 l top ▲
ルポ ニッポン絶望工場


日本は公式には「移民労働者」を認めていません。しかし、下記の毎日新聞の記事によれば、2016年末の在留外国人数は238万2822人で、そのうち永住資格を持つ「永住者」が72万7111人もいるそうです。

在留資格のなかでは、「永住者」がもっとも多く、つぎに在日韓国・朝鮮人などの特別永住者(33万8950人)、留学生(27万7331人)、技能実習生(22万8588人)の順になっています。「永住者」は「1996年の約7万2000人から約10倍と大幅に増加」しているのです。

首都大学東京の丹野教授が言うように、「在留資格の更新が不要で職業制限もない『永住者』は実質的に移民」なのです。これが日本が「隠れ移民大国」と言われるゆえんです。

毎日新聞
在留外国人 最多238万人…永住者、20年で10倍

一方、「移民労働者」を認めない政府が、「国際貢献」や「技能移転」という建て前のもとに、外国人労働者の期限付きの受け入れをおこなっている「技能実習生制度」には、過重労働や低賃金など多くの問題が指摘されています。“現代の奴隷制度”だと指摘する人さえいるくらいです。

実習生の失踪も問題になっていますが、その主因になっているのが低賃金です。

実習制度を統括する公益財団法人「国際研修協力機構」(JITCO)が公表している2009年9月に「基本給が最も低い技能実習生」の平均給与額は、14.3万円です(なぜか2009年以降公表されてない)。しかし、そのなかからさまざまな名目で経費が引かれるため、実際に手にするのは10万円くらいだと言われています。

昨年度の大宅賞の候補になった『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α文庫)の著者・出井康博氏は、外国人労働者が置かれている実態について、「日本が国ぐるみで『ブラック企業』をやっているも同然だ」と書いていました。

どうして低賃金になるのかと言えば、背後にピンハネの構造が存在するからです。つまり、実習生たちが受け取るべき労働の対価の一部が、「会費」や「管理費」の名目で、監理団体や監理機関の「天下り役員たちの報酬に回されている」からです。

『ルポ ニッポン絶望工場』では、その「”ピンハネ”のピラミッド構造」について、具体的につぎのように書いていました。

 実習生の受け入れ先では、「監理団体」と呼ばれる斡旋団体を通すのが決まりだ。受け入れ先の企業は、監理団体に対して紹介料を支払うことになる。(略)一人につき約50万円の支払いが生じる。(略)
 実習制度には、民間の人材派遣会社などは関与できない。監理団体も表面上は「公的な機関」ということになっていて、実習生の斡旋だけを目的につくることは許されていない。しかし、そんな規制はまったく形骸化してしまっている。
 監理団体には一応、「協同組合」や「事業組合」といったもっともらしい名前がついている。だが、実際は人材派遣業者と何ら変わらない。しかも、実習生の斡旋を専業とする団体がほとんどだ。監理団体は業界に幅広い人脈を持つ関係者が設立するケースが多い。運営には、官僚に顔のきく元国会議員なども関わっている。
(略)
 受け入れ側の日本と同様、送り出し国でも公的な機関しか関われない決まりだ。しかし、それも建て前に過ぎず、実際には現地の人材派遣会社が送り出しを担っている。政府や自治体の関係者が送り出し機関を設立し、仲介料を収入源にしていることもよくある。
 送り出し機関にとっても、実習生は”金ヅル”なのである。一人でも多く日本へと送り出せば、毎月入っている「管理費」も増える。だが、実習生が失踪すれば管理費も途絶えてしまう。そこで失踪を防ごうと、実習生から「保証金」と称して大金を預かり、3年間の仕事を終えるまで「身代金」にしているような機関もある。
 一方、日本の監理団体は、実習生が仕事を始めると、受けれ先から「管理費」を毎月徴収する。送り出し機関と山分けするためのものだ。金額は団体によって差があるが、月5万円前後が相場である。だからといって、監理団体が実習生を「管理」してくれるわけではない。
 受け入れ先は、監理団体に年10万円程度の「組合費」も支払わなくてはならない。あの手この手で、監理団体が受け入れ先からカネを取っているわけだ。

 
こうしたピンハネ構造には官僚機構も加わっています。「国際研修協力機構」(JITCO)は、法務・外務・厚生労働・経済産業・国土交通の5つの官庁が所轄し、役員には各官庁のOBが天下りしています。しかも、JITCOは、監理団体や受け入れ先から年13億円の会費収入を得ているのです。

 受け入れ企業の上には監理団体と送り出し機関があって、さらに制度を統括するJITCOが存在する。このピラミッド構造を通じ、実習生の受け入れが一部の業界関係者と官僚機構の収入源となっている。そして陰では、官僚や政治家たちが利権を貪っているわけだ。その結果、実習生の賃金は不当に抑えられてしまう。


しかし、話はこれだけにとどまりません。実習制度の問題点が指摘されると、その「改善」と制度の拡充を目的に、あらたな法律(技能実習適正化法)が作られたのでした。そして、同法の成立に伴い、今年1月、JITCOとは別に、厚労省と経産省によって外国人技能実習機構(OTIT)という監理機関が設立されたのでした。しかし、OTITも受け入れ先企業や監理団体からの「会費」を収入源としており、またひとつピンハネ先と天下り先が増えたと言っても言いすぎではないでしょう。「転んでもタダでは起きない」如何にも官僚らしいやり方ですが、出井康博氏もあたらしい監理機関の設立について、「官僚利権」の「焼け太り」だと批判していました。

そのOTITのサイトに、先日、つぎのような「重要なお知らせ」が掲載されていました。

外国人技能実習機構(OTIT)
送出機関との不適切な関係についての注意喚起

でも、これがみずからを棚にあげたきれい事にすぎないことは誰が見てもあきらかでしょう。諸悪の根源は、国が主導する「”ピンハネ”のピラミッド構造」にあるのです。

しかし、“現代の奴隷制度”は、実習制度だけではありません。技能実習生の”悲惨な実態”を取り上げる新聞社に対しても、出井氏は批判の矛先を向けています。新聞社も決して他人事ではないのです。

今や都市部の新聞配達は外国人(特にベトナム人)留学生なしでは成り立たないと言われています。彼らは、留学ビザで来日していますので、就労は「週28時間以内」に制限されています。しかし、彼らの目的は勉学ではなく就労(出稼ぎ)です。日本語学校のなかには、手数料を取ってアルバイトを斡旋しているところもあるそうです。

人手不足に悩む新聞販売店は、(なにがあっても泣き寝入りするしかない)彼らの”弱み”に付け込み、「週28時間以内」の制限はおろか、法定賃金や法定休日を無視した違法就労を強いているのです。出井氏は、「外国人労働者で今、最もひどい状況に置かれているのは実習生ではなく、留学生」で、その典型が「新聞配達の現場」であると書いていました。

 朝日新聞本社社員の平均年収は約1237万円(2015年3月末)にも達する。そんな高給も販売所、そして配達現場で違法就労を強いられている外国人たちのおかげなのである。


まったくどこに正義や良心があるんだと言いたくなります。テレビやネットでは、相変わらず「ニッポン、凄い!」の自演乙が満開ですが、(大手企業の検査データ改ざんなどもそうですが)どこが「凄い!」のだろうと思ってしまいます。ホントに日本は世界の人々があこがれる「凄い!」国なのか。出井氏もつぎのように書いていました。

 シリア内戦で難民が欧州に押し寄せた際、日本も彼らを受け入れるべきだという声が出た。確かに日本は、欧米の先進国と比べて難民の受け入れ数は少ない。だが、難民にとっては日本は魅力的な国なのだろうか。事実、400万人にも達したシリア難民のうち、日本への亡命を希望した人はわずか60人程度と見られる。命がけで国を逃れたシリア人にとってすら、日本は「住みたい国」ではないのである。
 今、日本でも移民の受け入れをめぐっての議論が始まっている。だが、私から見れば、受入れ賛成派、そして反対派にも大きな勘違いがある。それは、「国を開けば、いくらでも外国人がやってくる」という前提で議論を進めていることだ。日本が「経済大国」と呼ばれ、世界から羨望の眼差しを注がれた時代は今や昔なのである。にもかかわらず日本人は、昔ながらの「上から目線」が抜けない。


外国人労働者の主流は、中国人や日系ブラジル人からベトナム人やネパール人に変わりつつあるそうです。中国人やブラジル人が少なくなっているのは、母国が経済発展して、もはや日本でお金を稼ぐ必要がなくなったからです。それは裏を返せば、出井氏が書いているように、日本が彼らに「見捨てられた」と言えなくもないのです。彼らにとって、日本はもはやお金を稼ぐ国ではなくなったのです。その魅力も必要性もなくなったのです。もちろん、そのうち、ベトナム人やネパール人からも「見捨てられる」ときがくるでしょう。

国家を食い物にすることしか能のない政治家や官僚たち。自分たちが坂道を下っているという自覚さえない国民。そこには、移民受け入れ是か非か以前の問題があるように思えてなりません。「ニッポン、凄い!」と自演乙しているのも、なんだか滑稽にすら思えてくるのです。


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上野千鶴子氏の発言
2017.12.20 Wed l 本・文芸 l top ▲
誰がアパレルを殺すのか


「衣料品不況」と言われるほど、衣料品が売れてないのだそうです。

『誰がアパレルを殺すのか』(杉原淳一/染原睦美・日経BP社)によれば、「1991年を100とした場合の購入単価指数は、2014年度には60程度まで落ち込んでいる」のだとか。また、「総務省の家計調査によると、1世帯当たりの『被服・履物』への年間支出額は2000年と比べて3割以上、減少した」そうです。

本書では、その要因として、つぎのような”内輪の論理”=「負のサプライチェーン」を上げていました。

 中国で大量に作り、スケールメリットによって単価を下げる。代わりに大量の商品を百貨店や駅ビル、SCやアウトレットモールなど、様々な場所に供給することで何とか商売を成り立たせる。需要に関係なく、単価を下げるためだけに大量生産し、売り場に商品をばらまくビジネスモデルは、極めて非合理的だが、麻薬のように、一度手を染めると簡単にはやめられないものだった。ムダを承知で大量の商品を供給しさえすれば、目先の売り上げが作れるからだ。


その結果、ブランド名が違うだけで、似たようなデザインの似たような商品が店頭にあふれるようになったのです。ブランド名も、デパートなどとの取引上の都合のために、メーカーが空手形のように節操もなく生み出したものだとか。

しかし、私は、衣料品が売れなくなったのは、そういった業界の怠慢だけにあるのではないように思います。“内輪の論理”も、二義的な要因にすぎないように思います。もっと本質的な要因があるのではないか。デフレで服の原価を消費者が知ってしまったからなどというのも、表層的な要因のようにしか思えません。

私は、本書のなかでは、「メチャカリ」を運営するストライプインターナショナルの石川康晴社長の「アパレル不況の要因の一つは、洋服が生む高揚感が減っていることにある」ということばに、アパレル不況の本質が示されているように思いました。

既出ですが、吉本隆明は、埴谷雄高との間で交わされた「コムデギャルソン論争」のなかで、『アンアン』を読み、ブランドの服を着ることにあこがれる《先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち》が招来しているものは、「理念神話の解体」であり「意識と生活の視えざる革命の進行」である、とブランドの服にあこがれる若い女性たちを肯定的にとらえたのですが、あれから30年が経ち、今の若者たちは、もはやブランドの服を着ることにさえ高揚感を持てなくなったということなのかもしれません。

本書で紹介されていた「アパレル産業の未来」なるものも、とても「未来」があるようには思えませんでした。アパレル業界お得意の「ネット通販」がありきたりな発想にすぎないように、手作りの「別注商品」も、ユーズド商品を扱う「シェアリングエコノミー」も、私には気休めにしか思えませんでした。

モードの時代は終わったのです。資本主義は常に過剰生産恐慌の危機を内包しており、そのためにさまざまなマジックを使って購買意欲を煽るのですが、アパレルの世界ではそのマジックが効かなくなったということなのでしょう。中野香織氏が言う「倫理の物語」の消費もその表れでしょう。

要するに、おしゃれをする”意味”がなくなったのです。おしゃれをすることが”意味”のあることではなくなったのです。それは、街を歩けば一目瞭然でしょう。おしゃれをして街を闊歩する高揚感なんて、もはやどこにもないのです。

「アパレルを殺す」のは、業界の”内輪の論理”などではなく、時代の流れと言うべきでしょう。コモディティ化もそうですが、アパレルという文化的な最先端の商品に(最先端の商品であるからこそ)、先進資本主義の”宿阿”が端的に表れているということではないでしょうか。


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理念神話の解体
ポーターのバッグ
『モードとエロスと資本』
2017.11.14 Tue l 本・文芸 l top ▲
遠藤賢司が亡くなったというニュースもあって、久しぶりにYouTubeで高田渡の「夕暮れ」を聴きました。

YouTube
夕暮れ / 高田渡

年を取ると、「夕暮れ」の歌詞がよけい心に染み入ります。

「夕暮れ」は、黒田三郎の詩に高田渡がメロディを付けたものです(ただ、何ケ所か原詩に手が加えられており、原詩より諦念のイメージが強くなっています)。

原詩はつぎのようなものです。

「夕暮れ」 黒田三郎

夕暮れの街で
僕は見る
自分の場所からはみ出てしまった
多くのひとびとを

夕暮れのビヤホールで
彼はひとり
一杯のジョッキをまえに
斜めに座る

彼の目が
この世の誰とも交わらない
彼は自分の場所をえらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間

夕暮れのパチンコ屋で
彼はひとり
流行歌と騒音の中で
半身になって立つ

彼の目が
鉄のタマだけ見ておればよい
ひとつの場所を彼はえらぶ
そうやてったかだか三十分か一時間

人生の夕暮れが
その日の夕暮れと
かさなる
ほんのひととき

自分の場所からはみ出てしまった
ひとびとが
そこでようやく
彼の場所を見つけ出す


「その目がこの世の誰とも交わらない」(歌詞)「自分の場所」。孤立無援の思想ではないですが、そういう場所を選んで生きてきた人も多いでしょう。

親も亡くなり帰る場所もなくなった今、仕事帰りの人々が行き交う夕暮れの街をひとりで歩いていると、「遠くに来たもんだな」としみじみと思うことがあります。そのとき自分のなかに溢れてくるのは、慰安と諦念がない交った気持です。

私は、田舎に墓参りに帰るたびに、もうこれを最後にしようと思うのですが、戻って日が経つとまた帰りたいと思うのでした。田舎に帰っても、誰にも会わずに戻って来ようといつも思うのですが、ついつい昔の知り合いを訪ねて行く自分がいます。そして、あとで自己嫌悪に陥るのでした。

駅前の路地の奥にある定食屋で、背を丸め安飯をかきこんでいる老いた自分の姿を想像すると、さすがに気が滅入ってきますが、でも、誰も知らない土地で、孤独に生き、孤独に死ぬ、というのが理想だったはずです。

容赦なく老いはやってきます。どうやって老いるのか。「その目がこの世の誰とも交わらない」「自分の場所」で、どうやって黄昏を迎えるかです。
2017.10.25 Wed l 本・文芸 l top ▲
夜の谷を行く


桐野夏生の最新作『夜の谷を行く』(文藝春秋社)を読みました。

連合赤軍事件から40年。

主人公の西田啓子は、当時24歳で、「都内の山の手にある私立小学校の教師を一年務めてから、革命左派の活動に入ったという、異色の経歴」のメンバーです。山岳ベースに入った「革命左派の兵士の中では、最も活動歴が浅く、無名の存在」でした。

米軍基地に侵入しダイナマイトを仕掛けた勇気を買われ、永田洋子に可愛がられていました。しかし、山岳ベースでは、「総括」という名のリンチ殺人がエスカレートして凄惨を極め、兵士たちは疲弊していました。そんななかで、彼女は同じ下級兵士であった君塚佐紀子と二人でベースを脱走し、麓のバス停で警察に逮捕されるのでした。

他のメンバーと決別して「分離公判」を選択した彼女は、5年9カ月服役したあと、中央線の駅前のビルで学習塾を経営していましたが、それも5年前に閉じ、63歳になる今は、昭和の面影が残る古いアパートで、貯金と年金でつつましやかに暮らしています。「とにかく目立たないように静かに生きる」と決意して今日まで生きてきたのでした。逮捕によって親類とは疎遠になり、現在、行き来しているのは、実の妹とその娘だけでした。

しかし、2011年2月、そんな日常をうち破るように、永田洋子が獄死したというニュースが流れます。西田啓子は、永田の死に対して、「永田が二月のこの時期に亡くなるとは、死んだ同志が呼んだとしか思えない」と衝撃を受けます。

啓子は、あの年の二月に何があったか、よく覚えていた。四日には、吉野雅邦の子を妊娠していた金子みちよが亡くなった。大雪の日だった。そしてその日に、永田と森が上京したのだ。六日、自分が脱走する。


 あれは、金子みちよが亡くなった夜のことだった。雪が積もって凍り、キラキラと月に光る稜線を眺め上げていると、横に君塚佐紀子が立った。
 保育士だった佐紀子も、活動歴の浅さや地味な性格では、啓子と同程度だった。二人とも、ベースでは、森や永田、坂口ら指導部の連中など遠くて見えないような末席に座らせられていた。個室に炬燵、暖かな布団で寝られるのは指導部だけで、下級兵士は、板敷きに寝袋で雑魚寝である。
「凍えるね」
 啓子が呟くと、佐紀子が「うん」と頷いて啓子の方を見遣った。目が合った。目には何の色もなく、互いに互いの虚ろを確認しただけだった。
 その日、永田と森が資金調達に山を下りたのを契機に、二人とも何も言わずに荷物を纏めた。


永田洋子の死と前後して、昔のメンバーから電話がかかってきます。そして、かつて同志として結婚していた元夫とも再会することになります。元夫は、出所後、社会の底辺で生きて、今はアパートを追い出されホームレス寸前の生活をしていました。新宿で待ち合わせ、中村屋でカレーライスを食べているとき、突然、激しい揺れに襲われます。東日本大震災が発生したのでした。そして、啓子の生活も封印していた過去によって、激しく揺さぶられることになるのでした。

小説だから仕方ないでしょうが、連合赤軍事件については、薄っぺらな捉え方しかなく、興ざめする部分はあります。もっとも、当時のメンバーたちにしても、あるいはその周辺にいた人間たちにしても、事件について、真実をあきらかにし、ホントに総括しているとは言い難いのです。現実も小説と同じなのです。

啓子が、君塚佐紀子と再会したとき、つぎのように呟くシーンがあります。君塚佐紀子は、出所後、親兄弟と縁を切り、名前も変えて、今は神奈川県の三浦半島の農家に嫁いでいるのでした。

「(略)永田も坂口もみんな、死んだ森のせいにしている。でも、あたしたちだって、永田と森のせいにしているじゃない」


クアラルンプール事件での釈放要求を断り、みずから死刑囚としての道を選んだ坂口弘は、もっとも誠実に事件と向き合っているイメージがありますが、しかし、彼の著書を読むと、やはり「死んだ森のせいにしている」ような気がしてなりません。あさま山荘の銃撃戦には、リンチ殺人に対する贖罪意識があった、彼らなりの「総括」だったという見方がありますが、ホントにそうだったのか。

もとより私たちが知りたいのは、つぎのような場面における個的な感情です。そこにあるむごたらしいほどの哀切な思いです。そこからしか連赤事件を総括することはできないのではないか。私が、この小説でいちばんリアリティを覚えたのも、この場面でした。

「西田さん」
もう一度、金子がはっきりと呼んだ。
啓子は外の様子を窺ってから、金子の横に行って、顔を覗き込んだ。
「どうしたの」
金子は腫れ上がった目を開けて、じっと啓子を見上げた。「反抗的な目をしている。反省していない」と森や永田を怒らせた眼差しだった。
「こんな目に遭っても赤ん坊が動いているのよ。凄いね」
金子は小さな声で呟くように言った。笑ったようだったが、顔が腫れていて、表情はよくわからなかった。
啓子は胸がいっぱいになり、励まそうとした。
「頑張らなきゃ駄目よ」
少し経ってから、金子が聞いた。
「頑張ってどうするの?」
「赤ちゃん、産むんでしょう」
金子が微かな溜息を吐く。
「そんな体力は残ってないかもしれない」
「でも、頑張りなさいよ」
「ねえ、頼みがあるんだけど」
金子が低い声で囁いた。
「何?」
多分、金子の頼みを叶えることはできないだろう、と啓子は思いながら、聞き返した。
「子供だけでも助けて。西田さんも妊娠しているからわかるでしょう。この子を助けて、革命戦士にして」
「わかった」
啓子はそう言って、素早く金子のもとを離れた。テントの外に足音がしたからだ。


もちろん、『夜の谷を行く』はエンターテインメント小説ですので、最後に”どんでん返し”のサービスが待っているのですが、その“どんでん返し“もこの場面と対比すると、蛇足のように思えました。


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2017.05.16 Tue l 本・文芸 l top ▲
木嶋佳苗手記


『週刊新潮』(4月20日号)に掲載された木嶋佳苗被告の手記を読みました。

4月14日、最高裁第2小法廷は、木嶋被告の上告を棄却し、死刑が確定しましたが、手記は判決前に書かれたものです。

木嶋被告は無実を訴えていますが、一方で上告破棄を「覚悟」していたかのように、手記のなかで、死刑の「早期執行の請願」を行うことをあきらかにしていました。

 生みの母が私の生命を否定している以上、確定後に私は法相に対し、早期執行の請願をします。これこそ「ある決意」に他なりません。通常、全面否認事件での女子の執行は優先順位が極めて低いものですが、本人からの請願は何より強い“キラーカード”になる。
 まったくもって自殺願望ではなく、生きてゆく自信がない、それだけです。


木嶋被告は、実母との確執によって、「生きていく自信」がなくなったと書いています。以前、北原みのり氏が『木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』で、木嶋被告は幼い頃から実母との葛藤を抱えていたと書いていましたが、木嶋被告は、ブログで、北原氏を「『毒婦』ライター」と呼び、つぎのように批判していました。

「毒婦」ライター。彼女が私に関して語ることの7割は、事実じゃありません。3割は事実かって?それは、NHKのニュースで報道されるレベルのこと。彼女の取材能力は限りなくゼロに近いので、ルポルタージュを書けるライターじゃないですよ。

木嶋佳苗の拘置所日記
心がほっこりするイイ話


ところが、ここに至って木嶋被告は、実母との間にかなり深刻な確執があったことを認めているのです。それどころか、実父の死は、事故ではなく、夫婦関係が原因による自殺だったことをあきらかにしているのでした。もしかしたら図星だったから、あのように北原氏に対してヒステリックに反発したのかもしれません。

上記の引用文の前段にそのことが書かれています。

 私の父は妻である母に心を蝕まれた結果、還暦で自死を選びました。私が30歳のときです。4人の子ども達に残された遺言状を見るまで父の懊悩や2人の不仲など知る由もなかったし、限界まで追い詰められいたことに気付かなかった4人は遺骸の前で慟哭するほかなかった。母は父の親族から葬儀の喪主になることを許されなかったほどです。


木嶋佳苗被告が、父親の墓を実家のある北海道の別海町ではなく、わざわざ浅草の寺に造った理由も、これで納得がいきました。

このように実母との確執は、今にはじまったわけではないのです。昔からあったのです。私も以前、彼女の”売春生活”は、母親のようになりたくないという「不機嫌な娘」の意趣返しという側面もあったのではないかと書きましたが、まったく的外れではなかったのです。

ただ、それがどうして、早期の執行を求める理由になるのか。今更の感はぬぐえません。「自殺願望ではなく、生きてゆく自信がない」からという弱気な発言も、唐突な感じがしてなりません。まだ、「木嶋佳苗劇場」(木嶋被告の自己韜晦)は、つづいているような気がしてならないのです。彼女の心の奥底にあるものは、あきらかになってないように思えてならないのです。


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木嶋佳苗被告と東電OLの影
木嶋佳苗 100日裁判傍聴記
人名キーワード 木嶋佳苗
2017.04.17 Mon l 本・文芸 l top ▲
韓国の慰安婦(少女)像に対する、筒井康隆氏のつぎのようなツイート(既に削除)が批判に晒されています。

筒井康隆ツイート

元になった「偽文士目碌」の文章は、以下のとおりです。

偽文士目碌
http://shokenro.jp/00001452

新聞記事によれば、筒井氏は、批判に対して、「侮辱するつもりはなかった」「“炎上”を狙ったもので、冗談だ」と弁解しているそうです。

毎日新聞
筒井康隆氏 ブログで少女像への性的侮辱促す 韓国で反発広がる

筒井氏は、日本を代表する(と言ってもいいような)著名な作家です。そこらにいる「バカッター」とは違うのです。炎上狙いだなんて、あまりにもお粗末と言うしかありません。しかも、筒井氏は82才の高齢です。82才のじいさんがツイッターで炎上を狙ったなんて、「大丈夫か」と言いたくなろうというものです。

筒井康隆氏は、かつて社会や日常に潜在するタブーに挑む作家として、平岡正明らによってヒーローのようにもてはやされていた時期がありました。私が最初に筒井康隆氏の作品を読んだのは、『大いなる助走』や『農協月へ行く』だったと思いますが、メタフィクション的手法を用いたブラックユーモアが筒井作品のひとつの“売り”であったのはたしかでしょう。

『噂の真相』に連載していたコラムをまとめた『笑犬樓よりの眺望』や平岡正明の『筒井康隆はこう読め』などを今も持っていたはずなので、もう一度読み返したいと思い、本のなかを探したのですが、どうしても見つけることができませんでした。

唯一見つかったのが、1985年11月1日発行の『同時代批評』という季刊誌に載っていたインタビュー記事でした。それは、当時、巷間を騒わせていた“ロス疑惑“を特集したなかで、同誌を編集していた岡庭昇氏のインタビューに答えたものです。筒井氏は、そのインタビューで、「窓の外の戦争」というみずからの戯曲に関連して、「日本人の特性」をつぎのように批判していました。

(引用者注:「窓の外の戦争」の)戦争責任を追及するというのは、うわべのテーマであって、実際は、自分と関係のあることでも、あまり関係なさそうに客観的に見て、自分だけ逃れていこうとする。そういう日本人の特性がイヤだったんです。まあ、大きな声じゃ言えないけど、戦争に負けといて、今、日本人が一番うまいことをしている。それを別に恥ずかしいこととも思わないで、外国へ出かけていっては、やっぱり嫌われて戻ってきて、あるいは自分の国にも原因のある他国の災害とか戦争とか、そういったものをまったく関係のない、無関係の現象という目で見て、騒いで、無関係と思うからこそ騒げるわけです。(略)そもそもすべてのことを自分のこととして見ることができない特性というのが日本人にはあるんじゃないかと思うんですね。それを追及したかったんです。
(『同時代批評14』・星雲社)


この30年前の発言と「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」という発言がどうつながるのか。慰安婦と(筒井氏の世代にはなじみ深い)キーセンツアーを結び付けた皮肉なのかと思ったりもしますが、さすがにそれは牽強付会と言うべきでしょう。

「先生と言われるほど馬鹿でなし」という川柳がありますが、今や作家センセイは世間知らずの代名詞のようになっています。いちばん世間を知らなければならないはずの作家が、いちばん世間知らずになっているのです。にもかかわらず、彼らのトンチンカンぶりが、逆に“作家らしい本音”みたいに扱われるのです。それは、政治に対しても同様で、政治オンチな発言をしても、大衆(庶民)の心情を代弁しているみたいに、むしろ好意的に受け止められることさえあるのです。

でも、炎上狙いという点では、筒井康隆氏のツイートは、コンビニの冷凍ケースのなかに横になったり、股間をツンツンした指でコンビニの棚の商品をツンツンしたり、チェーンソーをもってクロネコヤマトを脅したりした、あの「バカッター」たちとほとんど変わらないレベルのものです。

『大いなる助走』も、『農協月に行く』も、断筆宣言も、ツイッターがない時代だったから見えなかっただけで、実際は今回のツイートと同じような底の浅い風刺や皮肉でしかなく、大西巨人が言う「俗情との結託」にすぎなかったのかもしれません。私も筒井氏のツイートに対しては、「おぞましさ」というより俗情におもねる「あざとさ」のようなものしか感じませんでした。

あらためて筒井康隆ってなんだったんだと思えてなりません。彼の作品をありがたがって読んでいた読者たちこそ好い面の皮でしょう。
2017.04.12 Wed l 本・文芸 l top ▲
あんぽん 孫正義伝


著者の佐野眞一氏は、ご存知のとおり、『週刊朝日』に連載した「ハシシタ 奴の本性」で批判を浴び、責任をとってペンを置いたのですが、この『あんぽん 孫正義伝』を読み返すと、あらためてこの本がすぐれたルポルタージュであることを痛感させられるのでした。ベストセラーになったのもよくわかります。

著者は、父親の正憲氏に焦点を当てることで、孫正義氏を典型的な“在日の物語”を背負った人物として描いているのでした。日本国籍を取得するに際して、それまで名乗っていた通名の「安本」ではなく、本名の「孫」を名乗ることを決心し、日本名としての前例がないことを理由に「孫」を認めない法務当局と何度も折衝の上、「孫」という朝鮮名での日本国籍取得を実現した孫正義氏の“こだわり”が依拠するのも、一家の“在日の歴史”です。孫氏は、日本国籍を取得するに際して、あらためて自分のルーツが朝鮮半島にあることを宣言したのです。

私がこの本でいちばん印象に残ったのは、功成り名を遂げた孫正義氏が鳥栖の駅前にふらりとやってきて、かつて自分が住んでいた場所を感慨深げに眺めていたという、つぎのシーンです。(文中の引用は、すべて『あんぽん』より)

 孫正義の一家がかつて住んでいた場所には、現在、ファミリーレストランが建っている。その周辺で聞き込みを続けていると、数年前にこのあたりでばったり孫正義に会ったというタバコ屋の主人に遭遇した。
 そのタバコ屋の主人によれば、鳥栖駅前で孫に会ったのは、ダイエーホークスが親会社ダイエーの経営難から売却され、球団オーナーがソフトバンクホークスに変わった年だったという。ということは二〇〇五年のことである。

「店の前をどこか見た人が通り過ぎたんですよ。誰やったかなあ……としばらく考えて、ようやく孫正義さんだと気がついた。結婚式場のあたりをぼけーっと眺めていた孫さんに駆け寄って声をかけると、『ああ、おじさん』って、私のことを覚えてくれていたんです。『懐かしいなあ、僕の家、どこやったかね』と言うので、ファミリーレストランの付近を指差して、このあたりだと教えてあげました。
 しばらく感慨深げにそのレストランを眺めていましたね。地味なジャンパーにスラックスという、普通の恰好をしていましたね。近所のおじさんという感じでした。たったそれだけのことですが、孫さんがひとりでふらっと鳥栖に寄ってくれたのは嬉しかったですね」


そこは、最盛期に数十戸のバラック小屋が軒を連ね、三百人くらいの朝鮮人が身を寄せ合って暮らしていた「朝鮮部落」でした。朝鮮人たちは、軒先で豚を飼ったり、密造酒を作ったりして、それを生活の糧にしていたのです。

当時の暮らしについて、「朝鮮部落」に住んでいた元住民は、つぎのように話していました。

「狭い豚小屋にぎゅうぎゅう詰め込まれて、残飯ばかり食わされ、糞も小便も垂れ流しです。足が腐った豚もいた。しかも、その場所で豚を締めるんです。解体して肉やホルモンをとる。食べる部分以外は、朝鮮部落前にあるドブ川に流していたから、すごい臭いなんです」


孫正義氏の従兄弟の話では、孫少年は、そんな「朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ建て小屋の中で、膝まで水に浸かりながらも、必死で勉強していた」そうです。著者の佐野眞一氏は、その話を聞いて、「孫正義という男をつくってきた背骨のありかが、よくわかった」と書いていました。

九州では、養豚業のことを「豚飼い」と言うのですが、私も子どもの頃、「豚飼い」の人が、豚の餌にする残飯をもらいにリヤカーを引いて近辺の家々をまわっていたのを覚えています。リヤカーに積んだ石油缶のような“残飯入れ”から放たれる強烈な臭いに、私たち悪ガキは、鼻をつまんで急ぎ足でその横をとおりすぎたものです。

九州で会社勤めをしていた頃、取引先に在日朝鮮人の社長がいましたが、その社長もやはり、親が「豚飼い」をしていたと言ってました。在日朝鮮人が戦後、生活のために「豚飼い」をしていたというのは、九州ではよく見られた光景だったのでしょう。

また、本には孫氏が子どもの頃、豚の金玉を七輪で焼いて食べていたという話が出てきますが、私も子どもの頃、遊び場のすぐ脇にあった豚小屋で、「金抜き」と呼ばれていた仔豚の去勢を見たことがあります。「金抜きがはじまるぞ」とはやし立てながら豚小屋に向かうと、ギャーギャー泣き叫ぶ仔豚を大人たちが押さえ付けていました。そして、息を呑んで見つめる私たちの目の前で、「金抜き」(金玉の切断)がおこなわれるのでした。「金抜き」のあと、切り落とされた金玉はそのまま草むらに放置されていましたが、朝鮮人たちはあれを七輪で焼いて食べていたのです。

もっとも、孫少年にとって、鳥栖駅前の「朝鮮部落」の生活は、小学校に上がるまでで終わります。と言うのも、父親の正憲氏が、北九州の黒崎に事務所を構え、八幡製鉄所の工員相手に金融業(サラ金のはしりのようなもの)をはじめたからです。商才に長けた正憲氏は、さらに金融業で儲けたお金を元手にパチンコ業に転身し、九州一のパチンコチェーンを築くまでになったのでした。最盛期には、孫一族がもっていたパチンコ店は、福岡と佐賀に56軒もあったそうです。

そうやって成功した父親からの潤沢な資金(仕送り)によって、孫少年は九州屈指の進学校・久留米大付設高校へ進学、さらに同校を1年の半ばで中退するとアメリカ留学へ旅立つのでした。

それは、「ウンコ臭い水があふれる掘っ建て小屋の中で、膝まで水に浸かりながらも、必死で勉強していた」頃からわずか10年後の話です。そうやって短期間に生活がジャンプアップしたことが、孫氏の「前のめりに突っ走る危うさ」や私生活の「子どもじみた」成金趣味につながっているように思えてなりません。

それはまた、両班(ヤンバン)の末裔だと言いながら、下品で粗野な朝鮮語を使い、お互いを罵り合うような孫一族の仲の悪さなどにもつながっているように思います。とは言え、孫正義氏もまだ在日三世にすぎないのです。差別と貧困の記憶が、心のなかに刻まれている世代でもあるのです。多くの在日朝鮮人の成功者と同じように、「子どもじみた」成金趣味に走るのも無理からぬものがあると言えるのかもしれません。

成金趣味と言えば、ソフトバンクが福岡ダイエーホークスを買収し球団経営に乗り出したのも、経営するパチンコ屋の店名に「ライオンズ」と付けるほど熱烈な西鉄ライオンズファンだった父親への「恩返し」ではないかという親戚の話がありました。実際に、正憲氏本人も、自分がホークスの買収を息子に進言したと証言しているのでした。

金貸し時代から20年間、父親の正憲氏の下で働いた夫人の弟(つまり孫正義氏の叔父)は、正憲氏のことをつぎのように証言していました。

「口癖は『信用できるのは、金と自分だけ』という人間でしたからね。確かに事業欲だけはすごかった。事業を常に大きくしていくことに執着していました。立ち止まるということを知らない人でした」

「メチャクチャ人づかいが荒かった。正直、奴隷みたいなものでした」

「義理人情の人ではない。人間的にはついていけませんでした。あの人から、優しさみたいものを感じたことは一度もありません」

「やめたいと言ったときには『わかった』と言って、すぐ椅子を振り上げるんです(笑)。いつもそうでした。気が短くてキレやすい」


別の「元ヤクザ」の義弟は、著者のインタビューで、正憲氏について、こう言っています。

「(略)あいつはとんでもないヤツだ。まともじゃない。東京に出てきたら半殺しにすると、あいつには、はっきり伝えてある」


もっとも、正憲氏自身もつぎのように言っていたそうです。

「顔を合わすと、いつも殴り合いのケンカですから、もう本当に『血はうらめしか』ですよ。血がつながった実の姉弟同士ですからね。本当に『血はうらめしか』です」


ちなみに、孫正義氏の両親は、取材時は別居していて、正憲氏は、インタビューでも、夫人のことを「くそババア」と悪態を吐いていたそうです。

でも、これは、在日朝鮮人の間では別にめずらしい話ではありません。知り合いの在日の身内には、それこそ朝鮮総連で活動している者もいれば、ヤクザまがいの金貸しや不動産屋もいるし、もちろん、土建屋や焼き肉屋やパチンコ店や芸能プロダクションを経営している者もいました。三世四世になると、医者や弁護士など“士業”が多くなるのもこの本に書いてあるとおりです。IT時代の前には、テレクラやゲーム機で大儲けしたという者もいました。父親の友人(頼母子講の仲間)には、誰でも知っているアイドル歌手や人気女優の父親などもいました。

もちろん、差別や貧困から這い上がってきた者に上品さや紳士的な素養を求めるのは無理な相談でしょう。それこそ並大抵の根性やバイタリティがなければ這い上がることはできないのです。孫正義氏が中学生のとき、「『僕のお父さんの知り合いにコワい人がいる。そんな人が家に出入りするのがイヤなんです』と担任に打ち明けた」のもわからないでもありません。

孫正義氏の家族もまた、典型的な”在日の一族”と言えるでしょう。著者が書いているように、それが一部の人たちから、孫氏がうさん臭く見られる要因にもなっているように思います。そして、いちはやくトランプに取り入る狡猾さ、節操のなさも、そういった生い立ちからきているように思えてならないのです。

在日朝鮮人の知り合いから「ぶっ殺してやるぞ」などと言われた人間からみれば、朝鮮人とお互いに理解し共存していくなんてとても無理なことのように思えます。少なくとも、左派リベラルのステレオタイプな在日像では期待を裏切られるだけでしょう。もし理解や共存の道があるとすれば、それこそヘイトぎりぎりの本音をぶつけ合うことからはじめるしかないように思うのです。

孫正義氏は、まぎれもなく在日のヒーローであり、現代の若者たちにとってもIT時代のヒーローです。でも、著者の佐野眞一氏は、その裏に、あまりにも人間臭い、在日特有のハチャメチャと言ってもいいうような一族の存在とその歴史があることを、丹念な取材であきらかにしたのでした。それが、この本が傑出したルポルタージュであるゆえんです。


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2017.02.12 Sun l 本・文芸 l top ▲
実話BUNKAタブー2016年2月号


トランプがツイッターで、LLビーンの商品の購入を呼び掛けたことで、逆にLLビーンの不買を呼び掛けるツイートが広がり、反トランプの不買運動がにわかに注目を集めています。

トランプが購入を呼び掛けたのは、創業者の孫娘がトランプを支持する政治団体に献金したからだそうです。トランプの政治観は、損得勘定だけだという批判がありますが、献金してくれたから購入を呼び掛ける、こういったところにもトランプの政治家としての資質に疑いをもたざるをえません。

就任式で、メラニア夫人が着ていたブランドはラルフローレンだったそうですが、私は、去年今年とたてつづけにラフルのダウンを買ったばかりで、なんだかこのニュースを見てラルフを着るのが恥ずかしくなりました。

私は身体が大きいので、普段はアメリカの(安い)ブランドばかり買っているのですが、LLビーンもそのひとつです。折しも今日、LLビーンからカタログが届いたばかりで、今年の冬は、ラフルのダウンにLLビーンのセーターとコーデュロイのスラックス、それにニューバランスのスニーカーが定番でした。役員がトランプ支持を表明したニューバランスも不買運動の対象になっていますので、これでは不買運動が歩いているようなものです。

不買は過剰反応ではないかという声もありますが、それだけトランプに反発する声が大きいということでしょう。アメリカの反トランプデモを見ると、「FASCIST」という文字をよく目にしますが、日本ではなぜかそういった見方は少ないようです。

メディアの報道も危機感の欠けた的を外したものばかりです。80年前のナチス政権誕生の際も、おそらくこんな感じだったのではないかと想像されますが、しかし、今回は日本の“宗主国”の大統領なのです。その影響はヒットラーの比ではないでしょう。

「宰相A」同様、いち早くトランプタワーを訪問し、トランプをヨイショした孫正義氏は、さすがネットの守銭奴の面目躍如たるものがあると言えるでしょう。幼少期、在日朝鮮人として差別を経験した人間が、長じてヘイトクライムの権化のような人物にすり寄り揉み手しているのです。

『あんぽん 孫正義伝』(佐野眞一著・小学館)によれば、孫正義氏が生まれたのは、佐賀県の鳥栖駅に隣接する「豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いがする朝鮮部落」だったそうです。そして、多くの朝鮮人の子どもたちと同様、日本人から汚いとか近寄るななどと言われて石を投げられた経験があり、そのときの傷跡が今でも頭に残っているそうです。それが今では石を投げる人間の側に立っているのです。かつての自分と同じように差別に苦しんでいる子どもたちがいることなど、まるで頭にないかのようです。お金のためなら悪魔にでも魂を売るのでしょうか。私は、そこに人間のおぞましさのようなものさえ覚えてなりません。そして、編集権の独立と無縁なYahoo!ニュースが、トランプ批判にどこか遠慮がちなのもわかる気がするのです。

一方、日本では、南京大虐殺を否定する元谷代表の著書を客室に常備しているアパホテルや、東京MXテレビで沖縄ヘイトのニュース番組を制作しているDHCなど、トランプまがいの社長が率いる会社が批判を浴びています。

1年前の『実話BUNKAタブー2016年2月号』(コアマガジン)には、『日本会議の研究』の著者の菅野完氏が書いた(と本人が明らかにしている)「愛国ネットウヨ企業大図鑑」という記事がありました。記事では、不買運動をしたくなるような、トンデモ思想に染まった「ネトウヨ企業」がずらりと紹介されていました。

アリさんマークの引越社、ゴーゴーカレー、アパグループ、イエローハット、カドカワ(ニコ動とKADOKAWAの持株会社)、DHC、フジ住宅、高須クリニック、播磨屋おかき。大企業では、出光興産、九州電力、ブリヂストンサイクル、JR東海などの名があがっていました。しかも、そのなかには、ブラック企業として知られている会社も多いのです。

今後、孫正義氏のように、トランプ詣でする経営者が続出するのは間違いないでしょう。これも「本音の時代」のひとつの姿と言えるのかもしれません。
2017.01.23 Mon l 本・文芸 l top ▲
島尾敏雄の妻・島尾ミホの生涯を書いた評伝『狂うひと  「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子著・新潮社)を読んでいたら、たまらず『死の棘』を読みたくなり、本棚を探したのですが、島尾敏雄のほかの作品はあったものの、なぜか『死の棘』だけが見つかりませんでした。それで、書店に行って新潮文庫の『死の棘』をあたらしく買いました。奥付を見ると、「平成二十八年十一月五日四十八刷」となっていました。『死の棘』は、今でも読み継がれる、文字通り戦後文学を代表する作品なのです。

まだ途中までしか読んでいませんが、『死の棘』も、若い頃に読んだときより今のほうがみずからの人生に引き寄せて読むことができ、全然違った印象があります。

愛人との情事を克明に記した日記を妻が読んだことから小説ははじまります。ある夏の日、外泊から帰宅した私は、仕事部屋の机の上にインクの瓶がひっくり返り、台所のガラス窓が割られ、食器が散乱しているのを目にします。それは、妻の発病(心因性発作)を告げるものでした。それ以来、二人の修羅の日々がはじまります。

来る日も来る日も、妻は私を責め立てます。一方で、頭から水をかけるように言ったり、頭を殴打するように要求したりします。詰問は常軌を逸しエスカレートするばかりです。私も次第に追い詰められ、自殺を考えるようになります。

夫を寝とった愛人への暴力事件を起こした妻は、精神病院の閉鎖病棟に入院し睡眠治療を受けることになります。その際、医師の助言で、私も一緒に病院に入ることになるのでした。

     至上命令
敏雄は事の如何を
問わずミホの命令に
一生涯服従す
    如何なることがあっても順守
    する但し
    病氣のことに関しては医師に相談する
                    敏雄
 ミホ殿


これは、『狂うひと』で紹介されていた島尾敏雄自筆の誓約書の文面です。しかも、それには血判が押されているのでした。

愛人との情事を克明に記録し、しかも、それを見た妻が精神を壊し、責苦を受けることになる。それでも作家はタダでは転ばないのです。小説に書くことを忘れないのでした。文学のためなら女房も泣かす、いや、女房も狂わすのです。

週刊文春ではないですが、不倫を犯罪のようにあげつらう風潮の、まさに対極にあるのが『死の棘』です。だからこそ、『死の棘』は戦後文学を代表する作品になったのです。

もちろん、『死の棘』も“ゲスの文学”と言えないこともないのですが、しかし、ゲスに徹することで、人生の真実に迫り、人間存在の根源を照らすことばを獲得しているとも言えるのです。

昔、付き合っていた彼女は、男が約束を破ったので、ナイフを持って追いかけまわしたことがあると言ってました。さすがに私のときはそんなことはありませんでしたが、旅行の帰途、車のなかでお土産の陶器を投げつけられ、今、ここで車から降ろせを言われたことがありました。そして、薬を買うので薬局の前で停めろと言うのです。

また、早朝5時すぎにアパートのドアをドンドン叩かれ、大声で喚かれこともありました。深夜、死にたいと電話がかかってきたこともありました。しかも、私を殺して自分も死ぬと言うのです。

別れたあと、私はいつか刺されるのではないかと本気で思いました。でも、刺されても仕方ないなと思いました。土下座して謝りたいと手紙を書いたことがありましたが、返事は来ませんでした。

しかし、それでもそこには愛情がありました。哀切な思いも存在していました。それが男と女なのです。愛するということは修羅と背中合わせなのです。

誰だって大なり小なり似たような経験をしているはずです。『死の棘』を読めば、自分のなかにあることばにならないことばに思い至ることができるはずです。公序良俗を盾に、他人の色恋沙汰をあれこれ言い立てる(国防婦人会のような)人間こそ、本当はゲスの極みだということがわかるはずです。彼らは、人間や人生というものを考えたことすらないのでしょう。人間や人生を洞察することもなく、ただ身も蓋もないことしか言えない不幸というのを考えないわけにはいかないのです。
2016.12.13 Tue l 本・文芸 l top ▲
「愛国」ばやりです。どこを向いても「愛国」の声ばかりです。それは、ネットだけではありません。テレビや新聞など、既存のメディアにおいても然りです。今や「愛国」だけが唯一絶対的な価値であるかのようです。言うまでもなく、安倍政権が誕生してから、日本は「愛国」一色に染まっているのです。

しかし、現在(いま)、この国をおおっている「愛国」は、実に安っぽいそれでしかありません。自分たちに不都合なことは詭弁を弄して隠蔽する、まるでボロ隠しのような「愛国」です。無責任で卑怯な、「愛国」者にあるまじき「愛国」でしかありません。「愛国心は悪党たちの最後の逃げ場である」(サミュエル・ジョンソン)ということばを、今更ながらに思い出さざるをえないのです。

さしずめ石原慎太郎や稲田朋美に代表される「愛国」が、その安っぽさ、いかがわしさをよく表していると言えるでしょう。それは、みずからの延命のために、国民を見捨て、恥も外聞もなく昨日の敵に取り入った、かつての「愛国」者と瓜二つです。

私は、「愛国」を考えるとき、いつも石原吉郎の「望郷と海」を思い出します。そして、私たちにとって、「愛国」とはなんなのかということを考えさせられるのでした。

1949年2月、石原吉郎は、ロシア共和国刑法58条6項の「反ソ行為・諜報」の罪で起訴、重労働25年の判決を受けて、刑務所に収容されます。そして、シベリアの密林地帯にある収容所に移送され、森林伐採に従事させられます。しかし、重労働で衰弱が激しくなったため、労働を免除。1953年3月、スターリンの恩赦で帰国が許可され、同年12月舞鶴港に帰還するのでした。

石原吉郎もまた、「愛国」者から見捨てられたひとりでした。

海から海へぬける風を
陸軟風とよぶとき
それは約束であって
もはや言葉ではない
だが 樹をながれ
砂をわたるもののけはいが
汀に到って
憎悪の記憶をこえるなら
もはや風とよんでも
それはいいだろう。
盗賊のみが処理する空間を
一団となってかけぬける
しろくかがやく
あしうらのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
しろくかがやく
怒りのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
(陸軟風)

 海を見たい、と私は切実に思った。私には渡るべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、海ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なにより海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へ変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。
 私が海を恋うたのは、それが初めてではない。だが、一九四九年夏カラガンダの刑務所で、号泣に近い思慕を海にかけたとき、海は私にとって、実在する最後の空間であり、その空間が石に変貌したとき、私は石に変貌せざるをえなかったのである。
 だがそれはなによりも海であり、海であることでひたすら招きよせる陥没であった。その向こうの最初の岬よりも、その陥没の底を私は想った。海が始まり、そして終わるところで陸が始まるだろう。始まった陸は、ついに終わりを見ないであろう。陸が一度かぎりの陸でなければならなかったように、海は私にとって、一回かぎりの海であった。渡りおえてのち、さらに渡るはずのないものである。ただ一人も。それが日本海と名づけられた海である。ヤポンスコエ・モーレ(日本の海)。ロシアの地図にさえ、そう記された海である。
 望郷のあてどをうしなったとき、陸は一挙に遠のき、海のみがその行手に残った。海であることにおいて、それはほとんどひとつの倫理となったのである。
(石原吉郎『望郷と海』)


この痛苦に満ちたことばのなかにこそ、「愛国」とはなんなのかの回答があるのではないでしょうか。私たちは、「愛国」を考えるとき、無責任で卑怯な「愛国」者たちによって見捨てられた人々の声に、まず耳を傾けるべきなのです。


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『永続敗戦論』
2016.10.11 Tue l 本・文芸 l top ▲
乳がんで闘病生活を送っている小林麻央が連日、病床から更新しているブログが話題になっています。おとといのブログでは、痛みなどを緩和するためにQOLの手術を受けたことや、がんの進行度が末期のステージ4であることを告白していました。

彼女が今置かれている状況を考えると、こうやってブログを更新していること自体、“驚き”としか言いようがありません。もし自分だったらと考えると、とても信じられないことです。

小林麻央は先月ブログを再開した際、「なりたい自分になる」と題して、がんと闘う決意を表明していました。自分の病状を公表するのは、その決意の表れなのでしょう。

吉本隆明は、言葉について、「自己表出」と「指示表出」という分け方をしています。「自己表出」というのは、自分に向けられる言葉で、「指示表出」というのは、他者とのコミュニケーションに使われる言葉です。吉本隆明は、これを一本の木に例えて、幹と根が自分に向けられる言葉(=沈黙)であり、枝や葉や実に当たるのがコミュニケーションに使われる言葉だと言ってました。そして、言葉の本質は、「沈黙」であると言うのです。

自分のことを考えてみても、自分に向ける言葉(沈黙)に“本音”があることは容易にわかります。他者に向けると、言葉に別の要素が入ってきて、“建前”とは言わないまでも、“本音”とは少し違ったものになるのです。

西欧の言語学でも、従来、話し言葉(パロール)のほうが書き言葉(エクリチュール)より発話者の観念を正確に表現するという考え方が主流でした(現代思想は、そういった伝統的な二項対立の考えに異議を唱えたのですが)。

書き言葉だと、さまざまな文章表現の制約もあり、うまく自分の考えが表現できないというのも日ごろ感じることです。なにより、そこには既に「自己表出」を「指示表出」に変換(翻訳)する作業がおこなわれているのです。ブログでも同じです。読者を想定している限り、内外のさまざまな制約から逃れることはできないのです。

末期のがんを前にして、自分の最期の姿を書き残したいという思いもあるのかもしれません。だとしたら尚更、自分の思いを正確に書き記すことができないもどかしさを感じることはないのだろうかと思います。

また、末期がんというきわめてプライベートでセンシティブな事柄について、SNSという公の場で、詳細な病状が公表されたり、家族間でやり取りがおこなわれたりすることに、私は、どうしても違和感を覚えてならないのです。世間には、小林麻央のブログに勇気をもらったとか元気をもらったとか励まされたとかいった声がありますが、他人の不幸で勇気をもらったり元気をもらったり励まされたりするのは、むしろ「蜜の味」と紙一重の心根と言えるでしょう。

例えは悪いですが、禁煙やダイエットなどと同じように、あえて口外することで、それをみずからの(闘病の)モチベーションにしたいと考えているのかもしれませんが、結果的にメディアに格好のネタを提供することになっているのは事実です。芸能ニュースの反応がまったく気にならないと言ったらウソになるでしょう。まして芸能人のブログは、アフィリエイトと無縁ではあり得ないのです。況やアメブロにおいてをやです。

不謹慎と言われるかもしれませんが、私は、小林麻央のブログに、芸能人の”悲しい性(さが)”とともに”したたかさ”のようなものさえ感じてならないのです。
2016.10.04 Tue l 本・文芸 l top ▲
文藝春秋2016年9月号


芥川賞を受賞した村田紗耶香の「コンビニ人間」(『文藝春秋』9月号)を読みました。

この小説を「現代のプロレタリア文学」と評した人がいましたが、つぎのような表現をそう解釈したのかもしれません。

(略)かごにセールのおにぎりをたくさん入れた客が近づいてくるところだった。
「いらっしゃいませ!」
 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。


 朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。


選考委員の村上龍は、選評で、みずからが司会を務める「カンブリア宮殿」で見聞きしたことを引き合いに出して、企業の教育やトレーニングに共通している「挨拶」の徹底は、「一種の『規律』であり、いろんな意味での、会社への同化・帰属意識の醸成である」と書いていましたが、しかし、これってただ当たり前のことを言っているにすぎないのです。それをさも自分が“発見“したかのように、フーコーまがいの表現でもったいぶって書いているだけです。

村上龍が働いたことがあるのは、デビューする前に、霞が関ビルでガードマンのアルバイトをしたことくらいで(その際、エレクトーンを弾いていた奥さんと知り合い結婚したと言われています)、彼は、私たちが想像する以上に“世間知らず“なのです。だから、「カンブリア宮殿」に出てくる海千山千の「社長」たちをあのように「すごい」「すごい」と言って感嘆するのでしょう。

「コンビニ人間」を「現代のプロレタリア文学」と評するのも、村上龍と同じような“世間知らず“の読み方だとしか思えません。

この小説に“社会性“があるとすれば、大学1年のときから18年間、就職もせずに同じコンビニでアルバイトをつづけている、36歳・未婚・恋愛経験なしの主人公に向けられる“世間の目”に、かろうじて見ることができるだけです。

 コンビニで働いていると、そこで働いているということを見下されることが、よくある。興味深いので私は見下している人の顔を見るのが、わりと好きだった。あ、人間だという感じがするのだ。


差別する人には私から見ると二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。


そして、そんな“世間の目”を代弁するような屁理屈をこねまわす同じ「万年フリーター」(私の造語です)の男と出会い、奇妙な同居生活をはじめることで、この小説は、作者の真骨頂とも言うべき「普通ではない」世界に入っていくのでした。

しかし、「普通ではない」世界から陰画のように描かれた「普通」の世界(世間)は、今どきのテレビドラマでもお目にかかれないような、単純化され戯画化されたそれでしかありません。

「コンビニ人間」は、緻密な心理描写を排した簡潔な文体で、しかもユーモアもあり、とても読みやすい小説です。おそらく芥川賞受賞の話題性で映像化されるでしょうが、映像化に適している作品とも言えます。ユーモアもお笑い芸人のギャグレベルのもので、その意味でも面白くて受け入れやすいと言えるでしょう。でも、それだけです。読んだあとになにか考えさせられるような小説の奥深さはありません。予定調和のウケを狙った小説と言えないこともないのです。

今や小説家は、“世間知らず“の代名詞になっているかのようです。選評を読んでも、トンチンカンなものが目立ちます。なかでも川上弘美のトンチンカンぶりは相変わらずですが、今回の選評では、崔実の「ジニのパズル」をどう評価するかに、彼らの小説家としての”現実感覚”が試されているように思いました。

選評では、高樹のぶ子と島田雅彦が「ジニのパズル」を推していることがわかります。

高樹のぶ子は、「ジニのパズル」について、つぎのように書いていました。

 一読したとき、頬を叩かれたような衝撃を受けた。(略)
 胸を打つ、という一点ですべての欠点に目をつむらせる作品こそ、真に優れた作品ではないのか。かつて輝かしい才能が、マイノリティパワーとして飛び出して来たことを思い出す。


一方、山田詠美は、「ジニのパズル」を散々にこき下ろしていました。

『ジニのパズル』。ここにも、のっけから<感受性>という言葉が出ているよ。今度は感受性ばやり? そして、文章が荒過ぎる。特に比喩。どうして、こんなにも大仰な擬人化? <雨の滴が窓ガラスに体当たりするようにぶつかって、無念だ、と嘆きながら流れ落ちていった>だって…! わははは、滑稽過ぎるよ。


島田雅彦は、「コンビニ人間」と「ジニのパズル」をそれぞれ「能天気なディストピア」「マイナー文学の傑作」と評して、つぎのように書いていました。

 タイトルとテーマ、コンセプト、そしてキャラだけでもたぶん小説は成立するだろう。叙述や会話のコトバから一切オーラを剥奪しても、心理の綾をなぞることを省いても、ギリギリセーフだ。セックス忌避、婚姻拒否というこの作者にはおなじみのテーマを『コンビニ人間』というコンセプトに落とし込み、奇天烈な男女のキャラを交差させれば、緩い文章も大目に見てもらえる。


 全世界的に外国人排斥と自民族中心主義が広がる中、移民二世、三世は移民先の文化に適応するか、ルーツの民族主義に回帰するか、あるいはハイブリッド文化を構築するか、パンク文化するか、やけっぱちのテロリズムに走るか、これは文化の未来を左右し、文化の不安をかき立てる。在日三世の韓国人が日本の学校から、なぜか朝鮮学校を経て、米オレゴン州へと向かった少女の反抗と葛藤の記録は肉弾的リアルティに満ちている。(略)試行錯誤のパズルを繰り返すジニの姿こそが世界基準の青春なのかもしれない。荒削りで稚拙な表現を指摘する委員が多かったが、それは受賞作にも当てはまるので、この作品の致命的欠点とはいえない。受賞は逃したが、『ジニのパズル』はマイナー文学の傑作であることは否定できない。


芥川賞の選考委員なんて町内会のお祭りの実行委員みたいなものなので、マスコミ受けする又吉の「火花」のつぎは、読者に迎合して「大目に見てもらえる」小説を選んだのかもしれません。


関連記事:
崔実「ジニのパズル」
2016.08.15 Mon l 本・文芸 l top ▲
サッカーと愛国


清義明氏の『サッカーと愛国』(イースト・プレス)の感想文を書こうかと思っていたら、リテラが同書を取り上げていました。

リテラ
リオ五輪、W杯最終予選直前に考える、サッカーは右翼的ナショナリズムやレイシズムと無縁ではいられないのか

最近リテラの記事を引用することが多いので、リテラを真似したように思われるのではないかと気にしています。自意識過剰と思われるかもしれませんが、ネットというのは、かように自意識過剰になり自己を肥大化しがちなのです。相模原殺傷事件の犯人も、ネットで夜郎自大な自分を極大化させ、ヘイトな妄想を暴走させたと言えるのではないでしょうか。

リテラは、芸能人の誰々が安倍政権を批判したとか改憲に懸念を表明したとか、そんな記事がやたら多いのが特徴ですが、私は、そんな姿勢には以前より違和感を抱いていました。なかには書かれた芸能人もさぞや迷惑だろうと思うような牽強付会な記事もあり、なんだか負け犬根性の染みついたリベラル左派の”友達多い自慢”のようで、見ていて痛々しささえ覚えるのです。

でも、リテラの「人気記事ランキング」を見ると、常にその手の記事が上位を占めています。芸能人や有名人が自分と同じような考えをもっていることを慰めにしている人たちも多いみたいです。そんな人たちは、無定見にSEALDsを支持し、官邸デモの盛り上がりに、「政治が変わる」「夜明けは近い」と思っているのかもしれません。それが”お花畑”と言われるゆえんでしょう。

明日、リオ・オリンピックでサッカーの初戦・ナイジェリア戦がありますが、今日も知り合いのサッカーファンたちの間では、その話題で持ちきりでした。

清義明氏は、『サッカーと愛国』で、「サッカーは右派的なスポーツではない」と題して、つぎのように書いていました。

(略)もともとナショナルチームというのはサッカーの大会のカテゴライズのひとつにすぎない。多くのサッカーファンは各国の代表チームではなく、それよりもクラブチームを重視している。例えば、Jリーグの熱狂的なサポーターで、毎週末に日本中のどこだろうとアウェーの自分のチームの試合を追いかけていくような部類の人でも、日本代表の試合となると、スケジュールすら知らないという人もたくさんいる。代表チームは、自分のチームの選手が選ばれている時だけしか興味を示さないという人も多いのだ。むしろ、クラブチームに入れあげれば入れあげるほど、そうなる傾向が強い。


日本戦のあと、渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをして騒いでいるサッカーファンなんて、急ごしらえの俄かサッカーファンにすぎないという指摘は頷けるものがあります。そして、そんな俄かサッカーファンたちがメディアに煽られて安っぽいナショナリズムを叫び、都知事選で桜井某に11万票を投じたのでしょう。

自民党政権が60年安保の盛り上がりに怖れをなして、ヤクザを台頭する左翼の対抗勢力とすべく、”右翼”として組織し利用したのは有名な話ですが、それと同じように、ヨーロッパの民族紛争では、サッカーのサポーターたちが民族排外主義者に利用され、“民族浄化”の先兵として殺戮行為に加担していた例があるそうです。

著者が言うように、「サッカーの起源はマチズモ(引用者:男性優位主義)に満たされ、排外主義的な思想を招きやすいのは否定できない事実」ですが、しかし一方で、ヨーロッパで育まれたサッカー文化には、リベラルで啓蒙主義的な面があるのも事実なのです。

ISのテロで露わにされたヨーロッパ社会の二重底。自由と博愛の崇高な精神を謳う西欧民主主義の裏に張り付いた人種差別の根深さ。そのため、ヨーロッパのサッカーは、常に高いハードルを科してレイシズムと戦わなくてはならないのです。

2008年、欧州連合は、「人種・皮膚の色・宗教・血統・出身国・エスニックな出自による差別を罰するように求め、これに懲役刑を定めるように要請する」「枠組みの決定」を採択したのですが、UEFA(欧州サッカー連盟)も、それに同調する方針を打ち出し、それがサッカーにおける「世界基準」になっているのです。

でも、日本の現状が、ヨーロッパのそれに比べて遅れているのは否めないのです。以前、このブログでも取り上げましたが、浦和レッズのサポーターが「JAPANESE ONRY」の横断幕を掲げ、無観客試合の制裁を受けた事件の背景には、「韓国選手を獲らない」というクラブの方針と李忠成の加入があるのではないかという指摘などもその一例でしょう。

また、Jリーグの国籍規定が「鎖国的」だという指摘もあります。プロ野球の場合、日本の学校に3以上在籍した選手は外国籍扱いしない(外国人枠の対象外)という規定があるのですが、Jリーグはあくまで国籍がすべてです。ところが、在日の有望選手が多いため、3名の外国人枠とは別にわざわざ1名の「在日枠」を設けているのだそうです。一方、FIFAは、二重国籍など国籍の概念が多様化している現状を考慮して、ナショナルチームの選手の資格を判断するのに国籍よりもパスポートを優先しているのだとか。だから、チョン・ホセ(鄭大世)は、韓国籍であるにもかかわらず北朝鮮の代表に選ばれたのです。チョン・ホセの家は、父親とホセが韓国籍で、母親が朝鮮籍だそうです。

サッカーと在日は切っても切れない関係にあります。かつて幻の最強チームと言われた在日朝鮮蹴球団。また、東京の朝鮮高校も高校では最強のレベルでした。帝京高校が強くなったのも、近所に朝鮮高校があったからだと言われていました。日本の強豪校は、朝鮮高校と定期戦をおこないレベルアップをはかっていたのです。

李忠成の家族も、祖父が朝鮮籍で父親が韓国籍、そして忠成が日本籍だそうです。李忠成の父・李國秀は、かつて横浜トライスター(横浜フリューゲルスの前身)の選手で、その後、多くのJリーガーを輩出した桐蔭高校の監督を10年務めた、指導者として知られた人物です。

その李國秀のインタビューは、「サッカーと愛国」を考える上でも興味深いものがありました。

李忠成が韓国U-19代表の合宿に召集された際、在日であるがゆえに「差別」を受け、そのために韓国の代表に選ばれなかったという話がありましたが、李國秀はつぎのように否定していました。

「それよりも、パク・ジュヨンとポシションがかぶっていたね。うまく溶け込めなかった。ちょうどU-19のチームのスタイルを固めようとしているときにあいつが入っていった。そうしたらサッカーが合わない。中国との練習試合の時に、あいつがヒールパスを出したんだけど、誰も反応できなかった。メイド・イン・ジャパンのサッカーなんだよ。スタイルが違う。フィジカル重視のスタイルに合わない。スペースにボールを蹴り込んで走っていくスタイルに、あいつがヒールパスを出したり、パスをスルーしても違うんだね」
「差別」は代表に選ばれなかった理由ではないというわけだ。
「いくら韓国の血であっても、小中高と日本のサッカーをやってきたら、サッカーのアイデンティティは日本なんだ」


さらに、つぎのような李國秀の話には、私たち日本人が知り得ない在日の歴史の重みがあるのでした。李忠成の曽祖父が、一旗揚げようと朝鮮半島から博多にやってきて、沖仲仕の仕事をはじめたのが100年前だそうです。そこから李一家の在日の歴史がはじまったのです。

李忠成の祖父は、戦争中は特攻隊員だったそうです。ところが、戦争が終わった途端に「日本人」から「外国人」になったのです。

「(略)親父(引用者:李忠成の祖父)は終戦後、今でも日本国籍になってないし韓国籍でもない。それは親父の妹が北朝鮮に帰還事業で帰っているからなんだ。兄が日本国籍を取得したことがバレたら、妹が強制収容所にでも送られてしまうかもしれないって理由で。
 一方で俺は忠成と一緒に韓国籍になった。親父はまだ朝鮮籍。だからウチは、長男の三代が、日本籍、韓国籍、朝鮮籍として一緒の家に住んでいるわけです。全員パスポートが違うんですよ(笑)。
 これが幸せなのか不幸なのか、よくわからないな。親父は日の丸を命を張って守ろうとして軍隊まで行ったのに、俺は『パッチギ!』の世界ですよ。そして忠成は新しい人生で日の丸を背負っている。これが100年の歴史なんですよ。なんで在日が日本にいるんだって人もいるだろうけど、社会とイデオロギーに翻弄されている歴史をわかってほしいよね。そうやって翻弄されながら生きてきていることは、人間の弱さなのかもしれないし、強さかもしれない。それはよくわからない」


サッカーには、レイシズムの誘惑という負の部分と、まったく正反対にリベラルな文化という顔もあります。私たちは、ある日突然、日本人から外国人になった経験もなければ、二重国籍の現実も知りません。もちろん、「永住許可」という制度に縛られることもないのです。だから、国籍規定の疑問点を指摘されたJリーグの理事のように、「自由にやりたきゃ日本国籍をお取りなさい」というようなタカピーな発言になるのでしょう。浦和の横断幕も横浜マリノスの「バナナ事件」も、根底にあるのは、このような「民族主義サッカー」の考えです。それが渋谷駅前の俄かサッカーファンにも投影されているのではないか。
2016.08.04 Thu l 本・文芸 l top ▲
3・11後の叛乱


しばき隊初期のメンバーで、先頃『サッカーと愛国』(イースト・プレス)を上梓したばかりの清義明氏は、『3.11後の叛乱』(集英社新書)について、ツイッターで、この本は野間易通氏の「プロパガンダの書」で、それを笠井潔氏がロマンチックに「ポジショニングしようとしている」と書いていましたが、言い得て妙だと思いました。

清義明 (@masterlow) | Twitter
https://twitter.com/masterlow?lang=ja

清義明2016年7月ツイッター1

清義明2016年7月ツイッター2

おそらくこの本を読んだ多くの人たちも、清氏と同じように、チグハクと思ったのではないでしょうか。なかでも笠井潔氏の言説をトンチンカンに思った人も多いはずです。

笠井潔氏は、60年代後半は構造改革派の共産主義労働者党のイデオローグでした。そして、70年代に入ると「マルクス葬送派」として左翼論壇で存在感を放っていました。共労党やその学生組織に属していたメンバーのなかには、のちにメディアで名を馳せた人が多いのですが、笠井潔氏もそのひとりでした。

笠井氏は、反原発や反安保法制で国会前を埋め尽くした群衆こそ、ネグリ/ハートが『叛逆』で規定した新たな大衆叛乱の姿だと言います。それは、<1968>後の「新しい社会運動」たる反グローバリズム運動をも乗り超えた、<2011>後の大衆叛乱なのだと。その主体となるのは、「何者でもない私」である「ピープル」です。

 分子的な無数の主体(シトワイヤン)がブラウン運動を続けながら、創発的に自己組織化し、やがてピープルを実現する。無数の微粒子としての主体は「何者でもない私」である。ピープルという創発的なシステムに、決定論的で機械論的なシステムであるネーションが対立する。ネーションを構成するのは、その国籍を有し国家に権利を保障される者、ようするに「何者かである私」だ。ピープルが流体(原文はルビ:リキッド)的な分子運動の産物だとしたら、ネーションはステートという鋳型のなかで凝固した均質な固形物(同じくルビ:ソリッド)にすぎない。


これは、SEALDsのデモで発せられた「国民なめんな」のコールが、「近代の国民概念を先鋭化しているとか、国民主体から排除されているマイノリティに差別的だという批判」に対しての反論であり、SEALDsを擁護する論拠です。私は、最初、皮肉ではないのかと思ったほどでした。

笠井氏は、しばき隊の後継組織であるあざらしについても、つぎのように書いていました。

 興味深いのはあざらしが、声なき声の会に始まる「市民」性と全共闘的な「大衆」性の双方を、意識的・無意識的に継承しているらしい点だ。同じ陣営に属すると見なされていた進歩派教授を全共闘が徹底批判したように、「しばき隊」はヘサヨや大学の文化左翼などに容赦ない攻撃を浴びせかける。


辺見庸氏の言う元全共闘の「ジジババども」が反原連やしばき隊やSEALDsにシンパシーを覚えるのは、こういった理由なのかと思いました。

一方、野間易通氏は、「官邸前デモでは規範や規律が重視されていて、はみだし者が自由に参加する余地があまりない」という素人の乱(福島の原発事故直後に高円寺の反原発1万人デモを主催した人たち)の批判に対して、つぎのように反論しているのでした。

(略)私は、「大衆というのは、はみだし者の集合ではない。そのはみだし者が忌避するような、規律を好む穏健で目立たない普通の人たちの集まりである」と反論した。デモや抗議行動が奇異な恰好で反社会的行動を好んでとるようなはみだし者の集まりになるとそれは同好の士の集いにすぎなくなり、ひいてはデモそれ自体が目的化してしまう。官邸前に集まっている人々のあいだに「反社会的で暴力的なアンチヒーローを望む声」などなく、ただ政策を変更してほしいと訴えているだけなのだと。


だから、デモの参加者に対して「おまわりさんの言うことを聞け」とか「選挙に行こう」などと呼び掛けていたのでしょう。となると、デモに参加している「規律を好む穏便で目立たない普通の人々」は、「何者でもない私」というよりむしろ「何者かである私」ではないのかと思ってしまいます。さしずめSEALDsはその典型ではないのか。彼らが体現しているのは、どう見ても共産党や民進党に一票を投じればなにかが変わるというような、それこそ<1968>の運動で否定された古い政治の姿です。

しかし、笠井氏の論理はエスカレートするばかりです。しばき隊の運動に、初期社会主義運動の理論家で、「武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取と人民武装による独裁の必要を主張した」(ウキペディアより)ルイ・オーギュスト・ブランキの「結社」の思想を重ね合わせるのでした。

特定の行動という一点に目標を絞り込んで、他の一切を排除するところにブランキ型の<結社>の特異性がある。これは近代的な政治運動や社会運動の団体としては異例、むしろ異形である。レイシストしばき隊の特異な組織思想は、ブランキの<結社>と時代を超えて響きあうところがあるように感じられる。


笠井氏は違った見解をもっているようですが、ブランキの思想は、18世紀末のフランス革命におけるジャコバン派の独裁政治を起源とし、パリコミューンで実践されたことにより、レーニンの「プロレタリア独裁」にも影響を与えたと言われています。笠井氏は、しばき隊を日本左翼の悪しき伝統であるボリシェヴィズム(ロシアマルクス主義)の対極に据えているのですが、そういった論理自体が既に矛盾していると言えなくもないのです。

 大衆蜂起が自己組織化され、市民社会の諸分節に評議会という自己権力機関が形成される。大小無数の評議会が必要に応じて連合し、下から積みあげられて政治領域まで到達する。最終的には、政府が評議会の全国連合に置き換えられる。


ここまでくると、たしかにロマンチシズムと言うしかないでしょう。なんだか片恋者の妄想のようです。

清氏が言う「書かれていないこと」がなにを意味するのかわかりませんが、鹿砦社の『ヘイトと暴力の連鎖』でとりあげられていたしばき隊のスキャンダルもそのひとつかもしれません。「リンチ事件」でも、被害者に対して、ツイッターで執拗に誹謗中傷がおこなわれ、被害者の氏名や住所、学校名までネットで晒されるという二次被害が生じているそうです。野間氏自身も、個人情報を晒すなどの行為により、ツイッター社からアカウント停止の処分を受けたのだとか。

私は、ネットで個人情報を晒すという行為に対して、新左翼の内ゲバの際、対立する党派のメンバーが勤めている職場に、「おたくの××は、過激派の○○派ですよ」などと電話をして、対立党派の活動家=「反革命分子」を職場から追放するように仕向けていたという話を思い出しました。襲撃して殺害するよりはマシと言えますが、そういった”内ゲバの論理”としばき隊がネットでやっていることは似ているような気がしてならないのです。

そして、私は、やはり(今や幻となった)辺見庸氏のSEALDs批判を思い出さないわけにはいかないのでした。

だまっていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし「帰れ!」コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?だまっていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。
よしんばかれらが××派だろうが○○派だろうが、過激派だろうが、警察に〈お願いです、かれらを逮捕してください!〉〈あの演説をやめさせてください!〉と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強してでなおしてこい。古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘をさすとしずくがかかってひとに迷惑かけるから雨合羽で、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。絶対安全圏で「花は咲く」でもうたっておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ。下痢がおかげさまでなおりました、とさ。コール「民主主義ってなんだあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。

かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで「勝った」だと!?おまえらのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれじしんもなんだかわからなくなって、けっきょく、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。Happy birthday to me! クソッタレ!

(辺見庸「日録1」2015/09/27)

※Blog「みずき」より転載
http://mizukith.blog91.fc2.com/


「左翼の終焉」はそのとおりだとしても、それがどうして反原連・しばき隊・SEALDsになるのか、私にはさっぱりわかりません。「教義も修道院も持たない新たなレフトの誕生」(野間氏)なんて片腹痛いと言わねばなりません。私たちは、前門の虎だけでなく、後門にも狼がいることを忘れてはならないのです。
2016.07.31 Sun l 本・文芸 l top ▲
ヨーロッパ・コーリング

ヨーロッパ・コーリング帯

私は、よくこのブログで、「右か左ではなく上か下の時代だ」というブレイディみかこ氏のことばを引用していますが、その箴言が帯に麗々しく掲げられた本が出版されました。

ブレイディみかこ氏の新著『ヨーロッパ・コーリング』(岩波書店)です。と言っても、書き下ろしではなく、Yahoo!ニュース(個人)に書いた記事をまとめたものです。

表紙の写真は、イスラエルのパレスチナ自治区のベツレヘムで撮った、バンクシーの有名な「The Flower Thrower」です。装丁もとてもセンスがよくて、見た目もカッコいい本になっています。

折しもイギリスでは、EU離脱をめぐって国民投票がはじまりました。日本時間で今日にも投票結果が判明すると言われていますが、EU離脱をめぐっても、右か左ではなく上か下かの時代が色濃く表れているように思います。EU離脱は、ブレイディみかこ氏が書いているように、単に移民問題だけでなく、反緊縮・反グロバーリズムの側面があることも見過ごしてはならないでしょう。

一方、この国は参院選の真っ最中ですが、メディアの情勢調査では、与党が改選過半数を越える勢いで、改憲派が改憲の発議に必要な3分の2の議席を確保する可能性が高いと伝えられています。

与野党党首の演説を聴いても、私には与党と野党の違いがわかりません。特に、経済政策についてはどこも同じなのです。安倍総理は、成長の果実を社会保障の充実や介護や子育てに分配するためにも、アベノミクスのさらなる進化が必要だと演説していましたが、野党の党首たちも物言いは異なっても、成長と分配という基本的な考えはほとんど同じです。

左派の劣化は、たとえば公務員の給与問題などにも端的に表れているように思います。公務員の給与は下がっている、公務員は大変だと言われますが、それは今や公務員の半分を非正規雇用が占めている現実がそういったイメージを作り出しているにすぎないのです。

私の田舎は、交付金の5割近くが人件費に消えていくと言われるほど県内でも上位の”高給自治体”ですが、高齢者が多く住民の所得が低い田舎では、市役所の職員はまさに”特権階級”です。横浜も、かつてスパイラル指数で日本一になったほどの”高給自治体”です。ただ、横浜の場合、大都会なので、田舎のように“特権階級“ぶりが目に付きにくい面があり、それが彼らに幸いしているだけです。もっとも、自治労や左派に言わせれば、それは偉大なる階級闘争の成果であって、高給を批判(嫉妬)する者は労働者の敵、保守反動ということになるのでしょう。

自民党と同じ”成長神話”にとり憑かれた左派。公務員問題をおおさか維新のようなファシストの専売特許にさせてしまった左派のテイタラク。民進党は左派ではありませんが(リベラルですらありませんが)、公務員と原発の二つのタブーを抱えたあんな政党が支持を受けるわけがないのです。何度も言いますが、民進党(旧民主党)は、もはや自民党を勝たせるためだけに存在していると言っても過言ではないのです。今度の選挙でも、民進党が野党第一党であることの不幸を痛感させられることになるのは間違いないでしょう。

一方、プロレタリア革命を掲げ”革命左派”を自認する新左翼のセクトも、自治体労働者に対する”賃下げ攻撃”を階級的反撃で打ち砕けと訴えていますが、それは、公務員のシンパからのカンパに頼っている財政的な事情もあるのではないかと穿った見方をしたくなります。レーニンは『国家と革命』のなかで、公務員の給与は全労働者の賃金の平均を越えてはならないと戒めていますが、それは社会主義国家がその性格上官僚主義=「役人天国」に陥る傾向があるのをレーニン自身がよくわかっていたからでしょう。

自治労の組合員たちをプロレタリアと言ったら、もはやギャグでしかないでしょう。右か左かなんてほとんど意味をもたないのです。

先進国で最悪の格差社会を招来したこの国にこそ上か下かの新しい風が待ち望まれますが、そのためにはまず、徹底的に敗北し、徹底的に絶望することでしょう。そうやって「勝てない左派」と決別することでしょう。

 難民問題で右傾化していると言われる欧州では、実のところ左派が猛烈な勢いで台頭している。それは「与党も野党も大差なし」と醒めていた人々に、いまとは違う道は存在することを示す政治家たちが登場したからだ。彼らは、勝てる左派だ。勝てない理由を真摯に受け止め、あらためて、敗けるというお馴染みの場所でまどろむことを拒否した左派だ。この欧州に吹く風が、地球の反対側にも届くことを祈りながら本書をぶち投げたい。
(帯より)



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2016.06.24 Fri l 本・文芸 l top ▲
群像6月号


第59回群像新人文学賞を受賞した崔実(チェシル)の「ジニのパズル」(『群像』6月号)を読みました。

主人公のジニは、アメリカのオレゴン州の高校に留学している在日の少女です。下宿先の主は、ステファニーという絵本作家です。ジ二は、ハワイの高校を退学してオレゴンにやってきたのですが、オレゴンの高校も退学処分になろうとしています。

 全校生徒、全員のロッカーが並ぶ長細い廊下に腰を落ち着けた。廊下の端から端までは、ゆっくり歩いたって二分は掛からない。
 ガムテープでぐるぐる巻きにしただけの悲惨な修理が施されたヘッドフォンを耳にかけて、レディオヘッドのセカンドアルバム『ザ・ヘンズ』を流した。そうして視線の先を行きかう靴を眺めるのが、私の日課だった。


ジニは、そんな孤独ななかにいます。10代の在日の少女が抱く孤独と焦燥。それを主人公は、「空が今にも落ちて来そう」という言い方をするのでした。

「人生の歯車が狂い始めたのは、五年前のことだ」とジニは言います。それは、中学進学を機に、日本の学校から北区十条の朝鮮学校に入ったことです。そこからジニの告白がはじまります。

ジニの母親のアッパ(父親)は、家族を日本に残して北朝鮮に帰国しています。そのアッパから娘(ジニの母親)に届いた手紙がジニの告白の途中に挿入されています。最初は「北朝鮮は、とても住み心地が良い国だぞ」「こっちに来て正解だったと思う。どんどん発展していくぞ」と書いていましたが、そのうち「アッパのことは、忘れるんだ。いいな。どうか、次の手紙は待たないでくれ」と書いてくるようになります。そして、やがて、アッパは病院にも行けないような極貧のなかで亡くなるのでした。

朝鮮語を話せないジニにとって、日本語が禁止の朝鮮学校はまったくの異世界で、常に違和感がありました。なにより気になったのは、教室の正面に恭しく掲げられている金日成と金正日の肖像画でした。いつも誇らしげに微笑んでいる二人。それはジニにとって「気持の悪いもの」でしかありませんでした。

肖像画が掲げられているのは、「終戦後、日本に残った在日朝鮮人が自らの文化を守り、教育を受ける為の支援として、北朝鮮がお金を出してくれたことへの感謝の気持ちなのだという」のです。しかし、北朝鮮に渡ったあと収容所に入れられた家族を取り戻すために、大金を使って交渉し、奇跡的に日本に「帰国」させることができた話を親戚のおばさんがしているのを聞いたジニは、つぎのように思うのでした。

 一体、誰を返してもらえたのだろうと、その晩考えた。一体どれほどのお金を払ったのだろうか。北朝鮮では奇跡が起これば、人の命をお金と交換できる。なんて素晴らしい国なのだろうか。そのような素晴らしい国に作りあげ、いつまでも支配している金一家の肖像画を私は学校に行くだけで毎日拝むことが出来る──。
 間違いだ!
 私は、間違いを発見した。どうして、こんなにも簡単な間違いを見つけられなかったのか。教室にある肖像画は間違いである。学校中に飾られている肖像画は間違いである。


テポドンが発射された日、朝鮮学校の生徒たちは、チマチョゴリを鞄のなかに入れて、体操着で通学するよう連絡が来ます。チマチョゴリ姿だと心ない日本人から嫌がらせを受けるからです。学校にも水道に毒を入れたとか、女生徒を拉致し裸にして吊るなどという脅迫が殺到します。しかし、友人のニナが忘れたせいで、ジ二にはその連絡がきませんでした。そのためにチマチョゴリで家を出たジニは、電車のなかで乗客たちの冷たい視線にさらされるのでした。うっかりして急行電車に乗ったジニは、池袋で下車し、十条に引き返そうとします。しかし、その前にふと懐かしくなってパルコの地下のゲームセンターに入るのでした。

そこで、警察を名乗るスーツ姿の三人の男に囲まれたジニは、ゲームセンターの外に連れ出され、「朝鮮人ってのは、汚い生きものだよな」などということばを浴びせられた上、性的な嫌がらせを受けるのでした。その日以来、学校を休んだジニは、やがて「革命」を起こすことを決意するのでした。

ジニは、「革命」を決行するために三週間ぶりに登校します。真っ先に教室に入ったジニの目には、つぎのような光景が映っていました。

誰もいない教室は、とても神聖な場所に見えた。ベランダの窓から差し込む太陽の日差しは半分カーテンに遮られ、柔らかい光の影が教室を優しく照らしていた。教室がより一層、愛おしく見えるように演出されているみたいだ。その光の中に舞うチリのような白い埃までも、まるで小さな妖精みたいだ。ただ、黒板の上に居座る、いつもの金一家がそれを汚していた。北朝鮮は支配できても、国境を越えた日本の朝鮮学校までいつまでも同じだと思うな。こんな学校の体制のせいで、くだらない大人の誇りのせいで、大切な友達まで傷付くようなことになったら、学校もろともぶっ壊して、お前等にだって地獄を見せてやる。


そして、ジニは、天国のハラボジ(おじいさん)に訴えるのです。

朝鮮学校に通っているのに、どうして今現在の北朝鮮から目を逸らすのだろうか。学校と政治は関係ないと言われた。だったら、どうして政治的なものが校内にあるの。感謝の気持ちを表しているものだなんて、そんな理由があるか。感謝している人だけ、心で勝手に感謝して、子供たちのために、取り外せば良いじゃない。大人って、ずるいよ。
 子供相手に脅迫してくる日本人も、子供が犠牲になっても変わらぬ学校の連中も、いとも簡単に人の命を奪う金の糞独裁者も、みんなみんな、糞食らえだ。ハラボジ、私は、絶対に目を逸らさない。逸らすもんか。会ったことがなくても血の繋がった家族が北朝鮮にいるんだ。だから、ハラボジ、私は、絶対に目を逸らしたくない。全員を敵に回しても、目を逸らしたくないよ。


私は、この小説を読んで、その熱量に胸苦しささえ覚えました。そして、若い頃親しくしていたガールフレンドを思い出さないわけにはいきませんでした。彼女もまた十条の朝鮮学校を出ていたのです。この小説の主人公と同じように、中学から朝鮮学校に入ったと言ってました。

どうして朝鮮学校に入ったのか訊いたら、親が朝銀から融資を受けるためだったと言うのです。融資をあっせんする代わりに、子どもたちを朝鮮学校に入れることを総連から「指導」されたらしいのです。

彼女は、本を読むのが好きで、特に林真理子のファンでした。モデルをしていたのですが、ショーのあと、楽屋に林真理子が来て直接話をしたこともあるそうで、感激したと言ってました。ただ、一度か二度手紙をもらったことがありますが、日本語で文章を書く訓練を受けてないので、それはまるで子どもが書いたようなたどたどしい文章でした。私は、手紙を読んで、これから日本の社会で生きていくのは大変だろうなと思いました。

まだ拉致問題がマスコミに取り上げられる前でしたが、既に一部の人の間ではその噂がささやかれていました。彼女は、李英和の『北朝鮮 秘密集会の夜』を読んでショックを受けたと言ってました。それで、私は、崔銀姫と申相玉の『闇からの谺』を読むことを勧め、その感想を聞いた覚えがあります。

親たちは、帰国した人間たちのなかには厄介払いされた人間も多いと言っていたそうです。帰還事業には、建て前はともかく、鼻つまみ者を祖国建設の美名のもとに厄介払いで帰国させる、そんな一面もあったのでしょう。

彼女も、学校の集会で、このたび何々トンム(君)が祖国に帰国することになりました、皆さんでお祝いの拍手を送りましょうなどと校長から紹介されるのを見ながら、「バカじゃないの。あんな貧しい国に帰ってどうするの」と思っていたそうです。実際に朝鮮学校の生徒ほどブランド好きはいないと言っていました。大人はベンツやロレックス、子どもはヴィトンやプラザが大好きなのです。

また、朝鮮大学から北朝鮮の大学に留学して帰国した知り合いが、突然行方不明になり、家族から居場所を知らないかと電話がかかってきたこともあったそうです。そういった不可解なことも身近で起きていたのです。

金日成が死んだとき、「悲しくないの?」と聞いたら、「なんで私が悲しまなければならないの?」と言ってました。テポドンなんてまだない頃でしたので、金日成が死んでまた北朝鮮のことが話題になるのが嫌だなと言っていました。

その彼女もやがて小説の主人公と同じように、アメリカに旅立って行ったのでした。アメリカに行くのに、朝鮮籍より韓国籍のほうが便利なので、韓国籍に変えると言ってましたので、おそらく韓国籍に変えたのでしょう。

朝鮮学校の日常が小説になったということは特筆すべきことです。また、拉致やテポドン以後の北朝鮮に対する若い在日の葛藤が小説になったということも特筆すべきことと言えるでしょう。在日という理不尽な存在。理不尽なものにしているのは、旧宗主国の私たちの社会です。ヘイト・スピーチはその一端にすぎません。それより、大多数の日本人のなかにある”サイレントヘイト・スピーチ”のほうがはるかに問題でしょう。在日の問題は、私たち日本人の写し鏡でもあるのです。

選評では、「素晴らしい才能がドラゴンのように出現した!」(辻原登)、「何としても世に送り出さなければならない作品だ」(野崎歓)と絶賛されていましたが、少なくとも又吉直樹なんかよりホンモノであるのは間違いないでしょう。この作品によって、文学が国家や民族や政治的イデオロギーなどからまったき自由であり、自由でなければならないのだということを再認識させられたのはたしかです。

ジニは、ステファニーから「逃げたら駄目よ。逃げたら、そこで終わりなの」と言われます。「だけど、私には過去がくっ付いてくる。それこそ、逃げ場のない過去だよ」とジ二は言います。だから、受け入れるしかないんだとステファニーは言います。それがどんな空であれ、落ちてくる空を受け入れるのだと。すると、ジニは、ステファニーの腕のなかで「赤子のように声をあげて泣いた」のでした。

 もしかしたら、私は待っていたのかもしれない。いつか、誰かが私を許してくれる日を。落ちてくる空を。それが、どんな空であれ、許し、受け入れることを。誰かに、良いんだ、と。それで良いんだ、と。認めてもらえる日をずっと待っていたのかもしれない。


作者は、「受賞のことば」のなかで、「作家として生き抜いてやりたい」と書いていました。上の文章はその覚悟のようにもとれます。文学という苦難の道をどう生き抜くのか、作者の今後の作品を待ちたいと思いました。


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2016.05.21 Sat l 本・文芸 l top ▲
消えがての道


今回の地震は、正式には「平成28年熊本地震」と言うのだそうです。しかし、私には、「熊本地震」とか「熊本と大分の地震」とか言うより「九州の地震」と呼んだほうがピタリきます。

今回の地震をきっかけに、あらためて自分は九州の人間なんだとしみじみ思い知らされています。地震がきっかけで、私は、森崎和江の『消えがての道』(花曜社)を本棚の奥から出して読み返しました。これは、1983年に刊行された本です。

この本の帯には、「九州に生き、九州を旅する」という惹句がありました。その「九州」という文字がいつになく胸にせまってきました。

九州に生きる。私も、この本を読んだ当時はそう思っていたのです。私は、地元の会社に勤めていて、まあそれなりに順調でしたので、おそらくこのまま地元で暮らして行くんだろうなと思っていました。

読んだのが先だったかあとだったか覚えていませんが、この本に出てくる五家荘に、著者と同じように私も訪れたことがあります。阿蘇側にある旧矢部町から旧泉村(五家荘)に登り、「五木の子守唄」で有名な五木村へと尾根を越えたのでした。

五家荘は、”九州の屋根”と呼ばれていた”秘境”でした。その生活には、私たちの想像も及ばないような苦労があったに違いありませんが、一方で私は、そういった山里離れた山奥に定住したということも含めて、柳田国男の言う「山の人生」にロマンのようなものをかきたてられたのでした。

 山の暮らしといっても、町には町ごとに表情があるように、山村にもひとつひとつ面影があるのだと、近年うっすらと知ったようだ。阿蘇山や九重高原の村は空が広い。たとえ民家は谷あいにあっても、眺望がきくひろがりを山々が持っている。が、九州の屋根といわれる五家荘・米良荘の山は隣接する山々にはばまれて生活空間は空と地が呼応しつつ、筒のようにこんもりとしている。他郷の空へは鳥が渡るように天の川を伝って思いを馳せるほかない。と、そう思うほど、村は孤独で独自の天地を持っている。
(『消えがての道』第三章・尾根を越えて)


 かつては牛馬の通う道もなかったと聞いた。足で歩き、荷はすべて人の背に負った。わたしは対馬や天草の山の中の細道も歩いたが、それらの山の一軒家は、なるほどひっそりとした一軒家だったが、馬が通い牛が通った。傾斜がなだらかで、家畜も人も歩けたのである。
 が、五家荘にはそのような斜面はめったにない。皆無といっていいほどの急斜面が谷へながれて、いくつもいくつも重なっている。かつて人びとはこの崖を、木の根草の根を頼りによじ登って他郷との用を足した。
(同上)


五家荘には当時親しくしていた知人と一緒に行きました。彼は、地元でも知られた大百姓の跡取り息子で、国立大学の農学部を出て、実家の農業を継いでいました。私とは農業や農村を考える集まりで知り合ったのでした。彼はまた、写真が趣味で、その点も写真屋の息子である私とは気が合ったのでした。

しかし、五家荘を訪れてほどなく、知人は海外青年協力隊に志願して、タイへ行ったのでした。そして、帰国後、同じ海外青年協力隊のメンバーであった女性と結婚、一時地元に帰ったものの、すぐに群馬か栃木だかに行ってしまったのです。あれだけ農業や農村の問題を真剣に考えていた人間が、農業を捨てふるさとを捨てたのです。そのため、地元では彼の評判はガタ落ちでした。

彼は、農業にも地元にも実家にも失望したと言ってました。私は、その話を聞いたとき、彼の気持がわかるような気がしたのです。というのも、私自身も既にその頃は地元に骨をうずめるという気持がぐらつきはじめていたからです。そして、それから数年後、私も会社を辞めて上京したのでした。

「アジアはひとつ」という有名なドキュメンタリー映画がありましたが、最近、あらためて汎アジアならぬ”汎九州”の思想について考えることがあります。それは、かつて谷川雁のコミューン思想や五木寛之の『戒厳令の夜』などで示されていた、ナショナル(土着)なものを掘り下げて行けばインターナショナルなものに行き着くという考えです。九州に生きるということは、アジアに生きるということでもあるのです。九州から出て行ったうしろめたさもあるのかもしれませんが、九州の地震が、このような”九州ナショナリズム”とも言うべき九州への思いを私のなかに呼び覚ましているのでした。
2016.04.30 Sat l 本・文芸 l top ▲
最近、暇なとき、よくインスタグラムを見ています。私は、写真屋の息子でしたので、他人の写真を見るのは昔から好きでした。

インスタグラムにアップされている写真を見るにつけ、ホントにみんな写真を撮るのがうまいなと感心させられます。

写真館をやっていた父親は、いつも私たちに、写真を撮るときはどんどん前に出てシャッターを押せと言ってました。恥ずかしいとか邪魔になるとか思ったらダメだ、遠慮なく前に出て撮った写真がいい写真なんだと言ってました。

家には小さい頃から、「アサヒカメラ」や「カメラ毎日」や「日本カメラ」などのカメラ雑誌がありましたが、そのなかの写真コンテストの入選写真を見ると、たしかに28ミリの広角レンズで(前に出て)撮った写真ばかりでした。インスタグラムに掲載されている写真にも、そんな「前に出て撮った」写真が多いのです。デジタルの時代になり、写真は手軽で身近なものになりましたが、父親が言っていたいい写真、上手な写真がホントに多いのです。

ただ、一方で、テクニックは申し分ないものの、なにかが足りないような気がしてならないのです。それは、テクニックとは別のものです。そして、私は、大塚英志が『atプラス』27号(太田出版)に寄稿した「機能性文学論」のなかで書いていた、つぎのような文章を思い出したのでした。

(略)何年か前、まんがの書き方を大学で教えていて印象深かったのは、かつて「ペンタッチ」と呼ばれた描線のくせ(註:原文は傍点)を彼らの多くが、忌避したがるという傾向だった。確かにまんがの描線は「きれいで細やかだが単調」というのが主流になっている。ペンタッチに作画上の個性を求めるという、ちょうど文学における「文体」に近いものがまんが表現でも忌避されているわけだ。


大塚英志によれば、堀江貴文(ホリエモン)は、かつて『ユリイカ』2010年8月号(青土社)の”電子書籍特集”で、「どうでもいい風景描写とか心理描写」をとっぱらって、尚且つ「要点を入れて」あるような小説をみずからの「小説の定義」としてあげていたそうです。それは、文学における文体の否定であり、文学に作者性=個性はいらないという、文字通り身も蓋もない”暴論”です。そこには、守銭奴の彼が信奉する経済合理性と通底する考えが伏在しているのでしょう。

ただ、大塚英志は、時代の流れのなかに、ホリエモンのように文学に「情報」(機能性)のみを求める傾向があるのもたしかだと言います。そして、「まんが表現における『ペンタッチの消滅』」は、「自我の発露である『文体』の消滅」とパラレルな関係にあるのだと言うのです。(余談ですが、私は、文体の消滅=「文学の変容」に関して、又吉直樹の『火花』と芥川龍之介の『或阿呆の一生』の同じ花火に関する描写を比較した部分がすごく説得力があって面白かったです)

それは写真も同じではないでしょうか。風景・心理描写やペンタッチをうっとうしいとか恥ずかしいとか思ったりする今の傾向は、写真においても個性の消滅というかたちで表れているのではないか。たしかに、インスタグラムにアップされている写真から見えるのは、個性より「情報」です。そこにあるのは、パターン化された構図と撮る人と撮られる人(もの)との無防備で弛緩した関係性です。おそらく二者の間になんらかの緊張感のようなものが存在すると、うっとうしいとか恥ずかしいとかいう感覚になるのでしょう。こんな機能性ばかりを求める摩耗した感覚こそ”今様”と言えるのかもしれません。

でも、これだけは言えるのは、いくら文学やまんがや写真の表現が「変容」しようとも、私たちの人生は「変容」しようがないということです。「快適」や「癒し」だけが人生ではないのです。他人から勇気やパワーをもらったりできるほど、人生は単純ではないということです。
2016.04.10 Sun l 本・文芸 l top ▲
バカラ


桐野夏生の新作『バカラ』(集英社)を読みました。帯には、「今、この時代に、読むべき物語。」という惹句とともに、「ノンストップ・ダーク・ロマン」という語句がありました。どういう意味だろうと思ってネットで調べても、『バカラ』以外にこの語は出てきませんので、もしかしたら造語なのかもしれません。

しかし、私は、この小説は「ノンストップ」では読めませんでした。途中、何度も挫折しそうになりました。「面白くていっきに読みました」というレビューを見ると、別に皮肉でもなんでもなく、すごいなと思います。こんなのが面白んだと感心します(これは皮肉です)。

群馬県O市で生まれたブラジル日系人の子ども「ミカ」。彼女は、家庭不和から夫と別れあらたな職を求めて渡航した母親に連れられて、中東のドバイに渡ります。ところが、母親は現地で知り合った情人に殺害され、「ミカ」は養子売買のシンジケートに売られるのです。ドバイのショッピングモールの奥にあるベビースーク。そこで売られている子どもたちは、全員「バカラ」と呼ばれています。「バカラ」とは、”神の恩寵”という意味です。2歳の「ミカ」=「バカラ」は、2万ドルで売られていました。

日本人の女性に買われて日本に戻った「バカラ」。しかし、東日本大震災によって、「バカラ」の運命は、さらに大人たちの思惑に翻弄されるのでした。福島原発の爆発直後に養父に連れられてフクシマに入った「バカラ」は、被爆して、のちに甲状腺ガンになっていることがわかります。「悪の権化」のような養父の手から逃れ、置き去りにされた犬とともに「警戒区域」の納屋のなかにいるところをペットを救済するボランティアの「爺さん決死隊」に発見された「バカラ」は、反原発派のメンバーとともに全国を放浪する旅に出ます。

当時の日本は、東日本は「警戒区域」に指定されて人口が激減し、首都も大阪に移り、東西二つに分裂した状態になっており、カルト宗教や排外主義(レイシズム)が跋扈する荒廃した世相にあります。そんななかで、被害を隠蔽し原発事故の収束をはかりたい推進派や警察は、さまざまな陰謀をめぐらし反対派の抹殺を狙っています。その数奇な運命から反原発派のシンボルのようになった「バカラ」の周辺でも、親しい人がつぎつぎと不可解な死に方をするのでした。

しかし、私には、この小説は”荒唐無稽”としか思えませんでした。エンタテインメントとは言え、話の展開が取ってつけたようにめまぐるしく変わるため、登場人物も尻切れトンボのように、途中であっけなくいなくなります。その唐突感は、『だから荒野』とよく似ていました。

それは、この小説も”反原発”とかいった観念が優先しているからではないか。小説というのは、絶対的に自由なものです。あらゆる観念から自由だし、自由でなければならないのです。まず”反原発”(それは、”社会主義バンザイ”や”戦争反対”でも同じですが)ありきでは、ステレオタイプで皮相的なつまらない作品になるのは当然です。自由であるからこそさまざまな人間も描けるし、奥行きのある面白い小説になるのです。自由であるということと”荒唐無稽”ということは、必ずしもイコールではないのです。

ジャンルは違いますが、たとえば、井上光晴の『地の群れ』などを対置すれば、それがよくわかります。戦後文学、特に左翼体験をひきずっていた近代文学派(系統)の作家たちにとって、観念との格闘は切実なものでした。ブレイディみか子氏の「右か左かではなく上か下か」ということばを借りれば、文学もまた「右か左かではなく上か下か」なのです。

「桐野文学の最高到達点」という惹句もありましたが、『ハピネス』などと比べてもとてもそうは思えませんでした。


関連記事:
桐野夏生『だから荒野』
桐野夏生『ハピネス』
2016.04.01 Fri l 本・文芸 l top ▲
帝国の慰安婦


いわゆる「従軍慰安婦」問題に関する日韓合意について、私は、朴裕河(パクユハ)著『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)をとおして考えてみたいと思いました。

小熊英二の『<民主>と<愛国>』(新曜社)の帯に、「私たちは『戦後』を知らない」という惹句がありましたが、私たちは、戦後はもちろん、あの戦争についても実はなにも知らないのです。知らされてないのです。

90年代に再浮上した「従軍慰安婦」の問題は、私たち戦争を知らない世代にとっても、正視に耐えないようなおぞましくショッキングなものでした。できれば見たくなかった歴史の赤裸々な現実でした。それは、「強制性」があったかどうか、「自発的な売春婦」であったかどうかなんて関係なく、人として国家として、その根幹に関わる恥ずべき行為、恥ずべき歴史だと言えます。

慰安所の行列のなかには、間違いなく私たちの祖父や父親たちがいたのです。いくら「従軍慰安婦」の存在を否定しようとも、その事実は否定しようがないのです。そして、彼らは、そのおぞましい記憶を胸の奥に秘匿したまま戦後を仮構してきたのです。

慰安所の利用を常識とし、合法とする考えには、その状況に対する恥の感覚が存在しない。しかし、一人の女性を圧倒的な多数の男性が欲望の<手段>としたことは、同じ人間として、恥ずべきことではないだろうか。慰安婦たちが尊厳を回復したいと言っているのはそのためでもある。彼女たちの羞恥の感覚はおそらく、人間ではなく、<もの>として扱われた記憶による。
『帝国の慰安婦』(以下引用は同じ)


慰安婦問題の日韓対立は、記憶の対立で、そこに記憶の隠蔽と抑圧が存在していると言うのは、そのとおりでしょう。著者が見ようとしたのも、「強制」と「自発」の不毛な対立の先にある植民地支配の「矛盾と悲惨」であり、当事者の私的な記憶の回復です。国家としての公的な記憶や被害者史観に基づいた共有の記憶ではなく、元慰安婦たちのなかにある個別具体的な汚辱と協力と悲しみの記憶なのです。

著者が本の前半で、「韓国に残っているのは、あらゆるノイズを――不純物を取り出して純粋培養された、片方だけの『慰安婦物語』でしかない」と韓国内の取り組みに手厳しいのも(そのために元慰安婦の名誉を傷つけたと訴追されたのですが)、そういった理由によるものなのでしょう。

著者は、日本軍の関与だけが強調される一方で、慰安婦たちを直接集め管理し搾取した朝鮮人業者たちが不問に付されている現実に対しても、被害者史観に基づいた記憶の抑圧と批判しているのでした。「日本も悪いが、その手先になっていた朝鮮人のほうがもっと悪い」という元慰安婦の声は、支援者たちには無視され、日本の否定論者たちには、「責任転嫁の材料しにしか使われなかった」のです。

朝鮮人慰安婦は、ほかのアジアの慰安婦とは異なる存在だったと言います。たとえば、スマラン事件(インドネシアのジャワ島のスマランの民間人収容所に入れられていた17歳~28歳のオランダ人女性35名を日本軍が強制的に慰安所に拉致して、輪姦し売春させた事件)のような事例とは、同じ慰安婦でも質的に異なるのだと言います。それは、彼女たちが植民地人、つまり、「二番目の日本人」だったからです。そのため、如何にも日本的な名前を名乗らされ、着物を着て、「大和撫子」を装い、文字通り日本兵を慰安する役割を担わされたのでした。そこに朝鮮人慰安婦の「矛盾と悲惨」があるのだと言います。

 性を媒介とした日本軍と朝鮮人女性の関係は、しいて区別すれば文字通りレイプを含む拉致性(連続性)性暴力、管理売春、間接管理か非管理の売春の三種類だったと考えられる。オランダ人、中国人などを含む「慰安婦」たち全体の経験はこの三種類の状況を併せ持つものと言えるが、朝鮮人慰安婦の体験は、例外を除けば管理売春が中心だった。


もちろん、だからと言って、日本帝国主義が犯した罪が免罪されるわけではありません。「朝鮮人慰安婦問題は、普遍的な女性の人権問題以上に、<植民地問題>であることが明白だ。そして個人を過酷な状況に追い込む制度を国家が支えていた以上、『軍の関与』はまぎれもない事実となるほかないので」す。

慰安婦の発生起源は、近世以降の日本文化の伝統や、それを効率的に利用できるようにした近代的制度にあった。そこに帝国内の人々が動員されたのは、あくまで彼らが日本国民とされていたからである。もっともそのようなゆるやかな国家動員を可能にした直接の体制は、ファシズムや帝国主義である。しかし慰安所とは、あくまで<移動>する近世的遊郭が、国家の勢力拡張に従い出張り、個人の身体を国家に管理させた<近代的装置>だった。


かつて山崎朋子や森崎和江が書いたように、日本には年端もいかない少女たちが、「出稼ぎ」名目で、ボルネオやシンガポールなどアジアの娼館に売られていった「からゆきさん」の歴史がありますが、朝鮮人慰安婦たちは、公娼制度の最下層に組み入れられることで、そういった日本人の「代替」という側面もあったと言います。著者は、慰安婦の前身は「からゆきさん」であったと書いていました。

しかも、慰安婦問題は、決して過去の問題ではないのです。戦後、韓国は、日本と同じように、「共産主義から国を守る」ためにアメリカに従属したのですが、その過程で、慰安婦が再び「動員」されることになるのでした。

「沖縄でアメリカの軍属たちは一二歳ないし一三歳の沖縄少女たちを米軍基地にある捕虜収容所に入れて兵士たちへの性的なサービスを強制した。フィリピンでアメリカ軍の部隊長は積極的に売春を奨励し、彼らのうち一部は自分所有のクラブを持って売春婦たちを団体で管理した。一九七〇年代の韓国では軍用バスが一日に二〇〇人もの女たちを東豆川基地村から近くのキャンプケイシに運んだりした。このとき部隊長はそういうことを暗黙裡に見逃すか積極的に加担した」(引用略)のです。

さらに、韓国が経済成長した2000年代に入ると、東豆川基地村から韓国人の姿がなくなり、中国人朝鮮族やロシア人やフィリピン人やペルー人に取って代わったそうです。「これはまさしく、大日本帝国時代に日本人慰安婦がしていたことを朝鮮人慰安婦がするようになったのと同じ構造である」と著者は書いていました。

また、ベトナム戦争では、アメリカの傭兵として参戦した韓国人兵士たちが、「過去に日本やアメリカがしてきたことをベトナムでした」のです。著者は、「いつかベトナムの女性たちがアメリカや韓国に『謝罪と要求』をしてくる日が来ないとも限らない」と書いていました。

今回の日韓合意の背後にアメリカの意向がはたらいているのは間違いないでしょう。韓国の支援団体が慰安婦の少女像をアメリカに建立しているのも、アメリカ政府やアメリカの世論に訴えるためですが、そこには虎の威を借りたい狐の意図がミエミエで、あらたな「植民地支配の矛盾と悲惨」をくり返しているように思えてなりません。著者が言うように、「旧帝国(日本)の罪を、ほかの帝国(オランダ)と提携してもう一つの旧帝国(アメリカやイギリスやヨーロッパ)に問うて審判してもらうというような、今の運動における世界連帯は、その意味ではアイロニーでしかない」のです。

「帝国は崩壊したが、冷戦体制は依然として東アジアを分裂させ」、冷戦の思考をひきずったままなのです。それは、「強制」と「自発」をめぐって対立する両国の自称「愛国」者たちも同じです。

慰安婦問題が戦争も戦後も知らない私たちに突きつけた問題の在り処は、あまりに広く深いと言えるでしょう。それをひとつひとつ丹念に拾い上げ、真摯に向き合うことで、私たちは戦争や戦後を知ることができるのだと思います。もとより私たちは、戦争や戦後を知らなければならないのです。
2015.12.29 Tue l 本・文芸 l top ▲
拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々


元共同通信政治部記者の野上忠興氏が書いた『安倍晋三 沈黙の仮面 その血脈と生い立ちの仮面』(小学館)のなかに、「安倍が異様なまでに安保法案を『9月18日』にこだわったのはなぜだったのか」という文章があります。

 実はこの日程は、安倍が売りにしてきた拉致問題に絡んでいた。「9月18日」は、北朝鮮が日本政府に「1年程度を目標に再調査結果を報告する」と通告してきてからちょうど1年目にあたる日だったのである。
(略)
 この日が安保法案の参院強行採決と重ならなければ、新聞各紙には「北朝鮮の拉致被害者調査再開から1年、進展なく」などと北朝鮮外交の失敗が大きく報じられていたはずだ。国民的関心も高く、安倍にとって「売り」であった拉致問題での失敗は、当然ながら本人が株価とともに最も気にする内閣支持率に大きな影を落としかねない。それが安保法案にかき消され、拉致被害者調査が暗礁に乗り上げている実相は国民の目に触れないまま忘れられる格好になった。


2014年7月の日朝局長級協議で、拉致被害者らの「再調査」のための「調査委員会」の設置合意を受けて、安倍政権は北朝鮮に対する経済制裁の一部解除を決定したのですが、「再調査」の報告はその後再三延長された挙句、結局、「反故」にされたと日本政府は説明しています。

そのため、日本政府は、朝鮮総連の許宗萬(ホ・ジョンマン)議長の次男らをマツタケの不正輸入の容疑で逮捕して圧力を強めていますが、もし日本政府の言うことが本当であれば、拉致問題を政治的なパフォーマンスに利用するだけの安倍政権に対して、北朝鮮が一枚も二枚も上手だった、したたかだった、という見方もできるでしょう。

一方、拉致被害者・蓮池薫氏の実兄で、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」の事務局長であった蓮池透氏は、新著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社)で、北朝鮮が報告をしたくても日本側の都合で報告できないのではないか、と書いていました。もちろん、「再調査」とか「報告」とかいったものがまったくのカマトトであるのは言うまでもありません。常識的に考えても、全体主義国家が、拉致被害者や残留日本人(妻)の動向(生死)を把握してないはずがないのです。

また、拉致問題に詳しいジャーナリストのなかには、非公式に「報告」を受けているけど、政治的な事情で、日本政府がそれを公表できないのではないかという見方もあります。このように拉致問題は、「再調査」の「報告」ひとつとっても、一筋縄ではいかないのです。

問題は、蓮池氏も書いているように、拉致問題の解決の「定義」がはっきりしてないことでしょう。要するに、”落としどころ”が決まってないからです。これでは、「報告」のたびに、北朝鮮に対するバッシングだけでなく、日本政府の”弱腰”にも批判が集まるのは当然で、そんな解決の糸口が見えない状況に”苦慮”しているのは、日本政府も同じだというわけです。

私は以前、事務局長を解任されたあとの蓮池氏の講演を聞いたことがありますが、同書は講演のときにも触れていなかった「家族会」やその支援組織である「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)の”内情”を赤裸々に書いているので驚きました。それは各章の見出しによく表れています。

序章 「救う会」に乗っ取られた「家族会」
第一章 拉致を使ってのし上がった男
第三章 拉致被害者を利用したマドンナ
第五章 「救う会」を牛耳った鵺
第七章 カンパを生活費にする男

「拉致を使ってのし上がった男」や「拉致被害者を利用したマドンナ」や「『救う会』を牛耳った鵺(ヌエ)」や「カンパを生活費にする男」」が誰を指すのか。獅子身中の虫は誰なのか。拉致問題に少しでも詳しい人たちには明々白々でしょう。

「家族会」は収支決算報告をしたことがないそうです。著者が「横田ファンド」と呼ぶカンパで集まった億単位のお金は、横田滋氏がひとりで管理しているのだとか。「家族会」から「救う会」に渡った1千万単位のお金。「家族会」の事務局専従としてM氏に支払われた給与。挙句の果てに、「家族会」も「救う会」もお金がらみで内紛が起きるのでした。

この本のなかで、私があらためて興味をもったのは、2004年6月に蓮池薫・祐木子夫妻が上京し、赤坂プリンスホテルで、横田めぐみさんの情報を家族に伝えたその内容です。蓮池薫氏は、「たとえ、めぐみさんの消息にとってネガティブな情報であったとしても、断腸の思いで話した」と言っていたそうです。

①めぐみさんは、精神的にかなり病んでいた。
②めぐみさんのDVが激しく、娘のウンギョンさんは、たびたび同じ招待所に住む弟、蓮池薫の家に避難してきた。弟は、ウンギョンさんを歓待した(ウンギョンさんは、うちの三番目の子どものような存在だ、と弟は語る)。
③めぐみさんは、自分の髪の毛を自身の手で切る。洋服を燃やすなどの奇行を繰り返していた。
④めぐみさんは何度かの自殺未遂をしている。
⑤めぐみさんは、北朝鮮当局に対して、「早く日本に帰して」「お母さんに会わせて」と、盛んに訴えていた。弟は何度も止めるように促したが、彼女は受け入れなかった。
⑥夫の金英男氏は、めぐみさんとの結婚について、当局に騙されたといっていた。
⑦めぐみさんは二回、招待所からの脱走を試みた。一回は平壌空港を目指し、もう一回は万景峰(マンギョンボン)号が係留される港を目指した。その際、北朝鮮当局に発見され、拘束された。
⑧このため、弟一家や同じ招待所に居住する地村さん一家は連帯責任を問われ、「山送り(=強制収容所行き)」の危機に晒された。だが、弟たちの必死の請願により、それは免れた。その代わり、めぐみさんは、義州(ウィジュ)という場所にある四九号予防院(精神科病院)へ送られることとなった。
⑨その後、夫の金氏は、「何があっても一切の異議を申し立てない」という誓約書を書かされた。
⑩一九九四年三月、病院に向かうめぐみさんが乗ったクルマを見送った。それ以降、めぐみさんに会うことはなかった。
⑪夫の金氏は、数年後に再婚し、息子をもうけた。


しかし、母親の横田早紀江さんは、話自体を否定するのだそうです。蓮池薫氏は、「せめて、聞いたけれども信じたくないといってほしい」と嘆いていたのだとか。

ちなみに、横田夫妻は、滋氏が「宥和派」 、早紀江さんが「強硬派」で、意見が噛み合わず喧嘩になることもあるそうです。一方で、そういった意見の相違を利用して、北朝鮮は横田夫妻にさまざまなゆさぶりをかけているのです。

ジャーナリストの田原総一郎氏は、「横田めぐみさんらの拉致被害者は生きていない。外務省もそれをよく知っている」とテレビで発言し、1千万円の慰謝料を求める民事訴訟を起こされたのですが、蓮池氏も書いているように、「拉致問題に関して、日本政府の政策や『家族会』の意向に異論を唱えることがタブー化している」のは事実でしょう。

北朝鮮が「報告」できない理由(日本政府が「報告」を受けていても発表できない理由)は、このあたりにあるのかもしれません。

拉致問題を利用した政治家や反共(反北朝鮮)運動の活動家たち。「経済制裁をすれば北朝鮮はもがき苦しむ。そして、どうしようもなくなって日本に助けを求めてくる。ひれ伏して謝り、拉致被害者を差し出してくる」とか、北朝鮮に自衛隊(?)を派遣して奇襲作戦で拉致被害者を奪還するとか、そんな荒唐無稽な「強硬論」を利用し偏狭なナショナリズムを煽ることで名を売って、権力の階段を一気に駆け上がったのが安倍晋三氏です。しかし、小泉訪朝で拉致被害者5名が帰国した際、北朝鮮との約束だからと北朝鮮に戻ることを一貫して主張したのが、ほかならぬ当時小泉内閣の官房副長官であった安倍晋三氏なのです。そして、荒唐無稽な「強硬論」を煽ることで自縄自縛になり、その勇ましい声とは逆に拉致問題を停滞させたのも彼なのです。

私たちを政治利用する国会議員は、党派を問わず、タカ派と呼ばれる人が多い。見分け方は簡単である。そういう人は、間違いなくブルーリボンバッチを付けている。そして、必ずといっていいほど、北朝鮮に対して強硬な主張をする。
「今度帰ってこなければ、制裁復活だ。さらに追加制裁を要求する」と。


巻末では、蓮池透氏とジャーナリストの青木理氏が対談をしていましたが、そのなかで、青木氏はつぎのように安部首相の姿勢を批判していました。

 拉致問題を最も政治的に利用したのが安倍さんだったといっても過言ではないと思います。経済制裁をやるだけなら、誰でもできるでしょう。


日朝首脳会談後の日本の姿勢、特に安倍政権の対北政策は、ひたすら圧力をかけていれば北朝鮮が困って折れてくるはずという、単純皮相なものでした。


中国ばかりか韓国との関係すらぶち壊しておいて、日朝関係や拉致問題が前進するわけがないということです。歴史問題や靖国問題で中国や韓国を怒らせておいて、拉致問題の解決に向けた協力は得たい、というのはムシがよすぎる。


また、拉致被害者・蓮池薫氏のつぎのような発言も考えさせられるものがありました。

「頭でわかっていても抑えられない感情が相手にあることを理解するべきだ。それを刺激してはいけない。日本と朝鮮半島の過去の事実を踏まえながら今後の関係を発展させていくヒントはそこにある」


でも、こういった声も、安倍晋三氏には馬の耳に念仏でしょう。いつものようにせせら笑うだけでしょう。それがこの国の総理大臣なのです。
2015.12.21 Mon l 本・文芸 l top ▲
山口百恵は菩薩である


深夜、ラジオを聴いていたら、中森明菜の「スローモーション」とかぐや姫の「神田川」がつづけて流れてきました。「スローモーション」は1982年、「神田川」は1973年の曲で、10年近くの時代的な開きがあるのですが、今あらためて聴くと、「スローモーション」の”歌謡曲的世界”に圧倒され胸が震えました。

若い頃の私は、「神田川」のほうが好きでした。しかし、それなりに人生の辛酸を舐めた現在、「スローモーション」のほうが心に沁み入ってくるのです。おそらく「スローモーション」には、メロディだけでなく、歌の世界を表現することばに”普遍性”があるからでしょう。あるいは、それをことばの”重力”と言い換えてもいいのかもしれません。もちろん、「スローモーション」に”普遍性”や”重力”をもたらしたのは、来生えつこ(作詞)や来生たかお(作曲)ではなく、中森明菜です。

そして、私は、最近再読した平岡正明の『山口百恵は菩薩である』(講談社文庫)のなかのつぎの一節を思い出したのでした。

(引用者註:フォークが)決定的にだめなことは反社会性がないことだ。反体制まではいく。しかし、そこでとどまり、中産階級の自足のなかにひき返す。思想本来の姿では反体制は変態性を通って反社会性を出るのであるが、フォークはそれを遮断し、シカトウを決め込んでいる。反社会性の核心は、破壊ということである。個人原理を社会性や国家の上位におき、快楽と労働の嫌悪と暴力と、総じてルンペン・プロレタリアート的実存のもとに、改良ではなく、革命を熱望するこころである。ジャズ、艶歌、ロックンロールにはこの方向がある。フォークは安全音楽である。


また、平岡正明は、「流行歌は、作り手と歌い手が別でなければならない」と書いていました。「歌謡曲は作り手、歌い手の角逐のなかに、聴衆の欲望という巨大な第三者を吸引するのであって、シンガー・ソングライターは、中産階級の日常生活における感傷を代弁したとたん聴衆の日常性にはりついて終わるのだ」と。平岡正明は、中産階級はその「知の性質」によって、資本主義総体を見ることができないと書いていましたが、それはとてもよくわかる話です。

『山口百恵は菩薩である』の単行本が刊行されたのが1979年です。私がまだ「神田川」に涙していた頃です。

『山口百恵は菩薩である』を読むと、このブログでも再三書いていますが、山口百恵や中森明菜や松田聖子が如何にすごいのかということがよくわかるのです。人生の甘いも酸いも知った(と思っている)いい年こいたおっさんでさえそう思うのでした。五木寛之流の言い方をすれば、彼女たちは、間違いなく「時代と寝た」のです。

『山口百恵は菩薩である』には、数々の箴言がちりばめられています。その箴言の背後には、朝鮮の港湾労働者のメロディを母胎に生まれたと推定する艶歌論や、「日本の敗戦こそ、抗日戦争が革命戦争に飛翔する決定的時点だった」と夢想する汎アジア革命論への論理的飛躍が伏在しているのでした。まさに平岡正明の面目躍如たるものがあります。

美空ひばりから山口百恵への転換は戦後史の転換である。


一つの音楽の方向が、「社会の半分を表現する多くの才人」ではなしに、まさに山口百恵によって開花していったのは、山口百恵におけるプロレタリアートの勝利である。


山口百恵は地涌の菩薩である。地涌の菩薩は仏教的に表明されたプロレタリアートの原像である。


山口百恵の歌は、日本社会の最深部とまでは断言しないが、ジャズがどうしても到達できなかった深部にはとどいている。


若いとき、高円寺のスナックでたまたま隣り合わせた人から、「スター誕生」の予選に出場したときの話を聞いたことがあります。当日、遅れてやってきた中学生の女の子がいて、新聞配達のアルバイトをしているので遅刻したと言っていたそうです。その中学生がのちの山口百恵だったとか。

酔っ払いの話なのでどこまでホントかわかりませんが、しかし、実際に中学生のとき、お母さんが脊椎の病気で入院したために、彼女は5歳下の妹の世話をしながら、読売新聞の朝刊を配達するアルバイトをはじめているのです。

山口百恵は! デビュー以前、中学一年の夏休み、朝四時半に朝刊配達のアルバイトをし、新聞の束をかかえてアパートの五階へ駆けのぼったり、丘をかけおりたりする途中見たであろう屋根のきれめの横須賀の海を、「横須賀ストーリー」で、〽急な坂道駆けのぼったら、今も海が見えるでしょうか、と謳って感覚を全開放して、原体験の昇華を歌で行って以来、歌をもって、貧民的実存を民衆の品位に昇華しつづけている。


その山口百恵が、やがて富士フィルム・グリコ・花王・トヨタ・国鉄などこの国を代表する企業のイメージソングを歌い、この国の資本主義の「シンボリズムの華」になっていくのです。そして、結婚引退は、そういった「資本主義のシンボリズムの華であることを背負い込まされた山口百恵の実存の反撃」である、と平岡正明は書いていました。

「私生児として生まれ、生活保護を必要とした母子家庭に育った子ども」が、愛する人と幸せな結婚生活を夢見ることこそ「プロレタリアートの実存」と言うべきで、そうであるがゆえに私たちにもその気持は痛いほどよくわかるのです。

松田聖子は若干違いますが、山口百恵や中森明菜は生活のために歌手になったのです。年端もいかない少女がそう選択しなければならない「貧民的実存」。平凡な歌詞でも、彼女たちが歌うと、どこかはかなげで陰影の深いことばになるのは、そこに彼女たちの生い立ちや生き方が露出しているからでしょう。

そんなリアルに生の実感を得ることができた時代がかつてあり、そのなかに山口百恵や中森明菜や松田聖子が(まるで菩薩や女神のように)屹立していたのです。アイドルは文字通りスターでもあったのです。

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『松田聖子論』
2015.11.08 Sun l 本・文芸 l top ▲
琉球独立宣言


先日(10月15日)、朝日新聞に、「『琉球独立』絵空事ではない」という松島泰勝・龍谷大教授の寄稿文が掲載されていました。松島教授は、石垣島出身で、「琉球民族独立総合研究学会」の共同代表を務めている人物です。

朝日新聞デジタル
「琉球独立」絵空事ではない 松島泰勝・龍谷大教授寄稿

そのなかで、松島教授は、つぎのように述べています。

 琉球人は基地の押し付けを「沖縄差別」であると考えている。このまま差別が続くならば、独立しかないと主張する人が増えてきた。ネットの世界で飛び交っている、琉球独立運動への偏見に満ちた言葉によっては、琉球で今起きていることは理解できない。

 今、琉球では歴史上これまでになく独立を求める声が広がっている。琉球は日本から本当に独立できるのだろうか。何のために独立するのだろう。私たちにとって独立とは世界のどこかのことであり、自分とは関係がないと思っている人が日本人の大半ではないか。

(略)そのような日本の中で琉球では本気で独立を目指す運動が活気づいているのである。どこから独立するのか? この日本からである。琉球の独立は日本や日本人とって他人事でも、絵空事でもなく、自分自身の問題である。


「琉球人の琉球人による琉球人のための独立」を主張する松島教授に対して、ネットでは「中国共産党の手先」「反日」「売国奴」「スパイ」などという罵詈雑言が浴びせられていますが、ネットを席巻している”中国脅威論”についても、松島教授は、近著『琉球独立宣言』(講談社文庫)のなかで、漢字・仏教・法制度・芸術など、日本が中華文明からさまざまな影響を受けてきたがゆえに、「日本人のアイデンティティ」が「中国の文物を否定することで形成された一面」があることを指摘していました。つまり、”中国脅威論”には、単に政治的な意味合いだけでなく、「中国のやることなすことを否定することで日本人として自己認識し、他の日本人からも同じ日本人と認められるという」”東夷”の国の屈折した心性が伏在しているというわけです。

自民党沖縄幹事長であった翁長雄志氏が、2014年の知事選で、「イデオロギーよりアイデンティティ」という有名なことばを残して、共産党を含む「オール沖縄」の候補として立候補したきっかけについて、松島教授は、『琉球独立宣言』で、つぎのように書いていました。

2013年に41自治体の全市町村長、議会議長、県議会各会派代表、経済団体代表がオスプレイ配備撤回、普天間基地の閉鎖撤去、県内移設断念を日本政府に訴えた「建白書」を翁長はとりまとめ、東京の街を皆でデモ行進しました。そのとき、沿道から「うじ虫、売国奴、日本から出て行け」などのヘイトスピーチの攻撃を受けました。そのころから、翁長の心には「被差別の対象」であり、「自己決定権行使の主体」という琉球人アイデンティティが強くなり、イデオロギーをこえた「オール沖縄」への志向がこれまでになく高まったのではないでしょうか。


辺野古の問題に限らず沖縄をめぐる一連の問題の根底には、あきらに沖縄への差別があり、沖縄を日本の植民地のようにしか見ない考えがあります。ネトウヨや百田尚樹らの沖縄に対するヘイト・スピーチは、そんな日本の本音をあらわしたものと言えるでしょう。

しかし、琉球が日本から統治されていたのは、1879年から1945年までと1972年から現在までの109年にすぎないのです。14世紀の北山国、中山国、南山国の三国時代から1429年に琉球国に統一され、1872年に明治政府によって琉球国が滅ぼされ日本に併合される(琉球処分)までの600年近く、「琉球は日本国とは異なる国として存在していたのです」。もともと沖縄(琉球)は、別の国だったのです。

かつて琉球国は、アメリカ・フランス・オランダと修好条約を締結していました。その原本は、現在、外務省の外交史料館にあるそうです。

今年の1月、松島教授ら「琉球民族独立総合研究学会」のメンバーが外務省沖縄事務所を訪問して、その原本の琉球への返還を求めたのに対して、応対した外務省の職員は、「当時の状況があいまいであるため、琉球国は存在したとも、存在しないとも言えない」と答えたそうです。琉球の歴史にとって、これほど侮蔑的な発言があるでしょうか。

1903年の大阪で開催された内国勧業博覧会において、琉球人は檻に入れられ見世物にされたそうですが、そういった差別の本質は現在も変わらないのです。

「本土復帰」の際に体験した「同化」教育について、松島教授はつぎのように書いていました。

「復帰」の年に小学校3年生であった私は、担任の教員から「方言札」の罰を受けました。生徒が琉球諸語を教室で話すと「方言札」と書かれた紙を首からつるされ、さらし者のように1日を過ごさなくてはならないのです。


ヨーロッパでは現在、分離独立運動が政治的なトレンドになっています。昨年の9月に実施されたイギリスのスコットランド独立を問う住民投票は独立派が僅差で敗れましたが、独立運動を担っているスコットランド国民党(NSP)は、先の総選挙で56議席を獲得し、保守党・労働党に次ぐ第三党に躍進しました。また、私たちにもジョージ・オーウェルの『カタロニア賛歌』でなじみが深いスペインのカタルーニャ自治州では、今年の9月におこなわれた州議会選挙で、独立派が過半数を制したというニュースがありました。スペインではほかに、バスク地方の分離独立運動も先鋭をきわめています。もちろん、スペインだけでなく、イギリスにもフランスにもイタリアにもドイツにも、ヨーロッパには数えきれないくらい分離独立運動が点在しており、スコットランドやカタルーニャの躍進が、それらの地域の独立の機運をさらに高めるだろうと言われています。

ヨーロッパの分離独立運動の高まりの背景には、反緊縮・反グローバリズムを掲げる急進左派の台頭があると言われており、ヨーロッパのトレンドをそのまま沖縄にあてはめることはできないと思いますが、しかし、「民族自決」の気運は決して過去のものではないのです。

さらに、辺野古の問題でもあきらかなように、琉球ナショナリズムの視点から日本のナショナリズム(「愛国」主義)を見ると、日本のそれが如何に対米従属主義の所産でしかなく、「売国的」なものでしかないのかが情けないほどよくわかるのです。琉球ナショナリズムは、日本のナショナリズムの欺瞞性を陰画のように映し出しているのです。


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琉球処分
2015.10.21 Wed l 本・文芸 l top ▲
めでたく芥川賞を受賞した又吉が、「アホなりに人間を見つめて書きました」と自著のCMをテレビでやっていますが、それ以前には、インスタントコーヒーを買うと、芥川賞作家・又吉直樹の書き下ろしエッセイを無料でプレゼント、というようなバナー広告がYahoo!のトップページに出ていました。

『貧乏の神様 芥川賞作家困窮生活記』(双葉社)を書いた柳美里によれば、作家のなかで、副業をもたずに小説だけで生活している人は、せいぜい「30人を超えることはない」そうです。新人作家の場合、年収100万円なんでザラだとか。柳美里は、そんな作家の”懐事情”について、下記のインタビュー記事でも具体的に語っていました。

Business Journal
年収1億円から困窮生活へ――芥川賞作家・柳美里が告白「なぜ、私はここまで貧乏なのか」

『火花』は発行部数が200万部を越えたそうなので、印税が仮に10%だとすれば、印税収入だけで2億6千万円です。もしかしたら、又吉ひとりで、この国の純文学作家全員の収入を越えるのかもしれません。

昔、井上陽水や中島みゆきのように、テレビに出ないことを「売り」にするシンガーソングライターがいましたが、純文学の「小説を書くのはお金のためじゃない」というイメージは、あれと似ている気がします。純文学の芸術至上主義的でピュアなイメージとお笑い芸人という「意外な」組み合わせが、今回の芥川賞の「売り」なのです。

吉本興業は、今やさまざまなコンテンツビジネスを展開する「総合エンタテインメント企業」です。テレビ番組や映画の製作だけでなく、当然出版部門ももっています。文春だけでなく吉本にとっても、『火花』が”金のなる木”であるのは言うまでもないでしょう。

又吉の芥川賞も、南海キャンディーズのじずちゃんの”オリンピック”と同じように、吉本のプロジェクトによるものではないかという見方がありますが、小説を書く前は「本好きの芸人」で売り込み、クラシックな丸メガネをかけた如何にも文士然としたいでたちで、新潮文庫のイメージキャラクターになったりしていましたので、吉本がまったく関与してないということはないでしょう。

上げ底の作家・又吉直樹が、そのうちフェードアウトして、「又吉の芥川賞受賞って、あれはなんだったんだ?」という話になる可能性も大ですが、今回の芥川賞に関しては、そんなことはすべて織り込み済みのような気がします。

一方で、吉本興業は、コンテンツや肩書以上に、もっと大きなものを手に入れたとも言えるのです。それは”文壇タブー”です。週刊文春や週刊新潮に対して、”文壇タブー”という治外法権を手に入れることができたというのは、芸能プロダクションにとって、想像以上に大きいはずです。それは、又吉だけでなく、所属する芸人たちにも大きな恩恵をもたらすことでしょう。

さっそく、女性レポーターのタメ口が気に入らないとかなんとか、又吉センセイの何様のような発言が出ていますが、当分は週刊文春や週刊新潮に吉本のタレントのスキャンダル記事が載ることはないでしょう。

さらに今度は、ジャニーズ事務所の某が次回の直木賞候補にあがるのではないかという噂も出ていますが、二匹目三匹目のドジョウを狙った“作家輩出ブロジェクト“はこれから益々盛んになっていくのかもしれません。もちろん、出版不況で背に腹をかえられない出版社も利害は一致するのです。かくして小説はタレントの”隠し芸”になり、文学はただのコンテンツビジネスになっていくのです。
2015.09.07 Mon l 本・文芸 l top ▲
東京を生きる


雨宮まみの『東京を生きる』(大和書房)を読みました。「東京”で”生きる」でも「東京”に”生きる」でもなく「東京”を”生きる」と書くところに、作者の東京に対する思いが込められているように思います。

地方出身者の哀しい性(さが)というべきか、私のなかには、小説でもエッセイでも写真集でも雑誌の特集でも、「東京」という文字が入っていると、つい手にとってしまう習癖があります。

東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京
書けば書くほど恋しくなる。


少年時代に東京にあこがれた寺山修司は、『誰か故郷を想はざる』(角川文庫)でこう書いたのですが、実は私は、この「恋しくなる」という語句を「哀しくなる」と間違って記憶していたのです。書けば書くほど哀しくなる、と。

私たち地方出身者にとって、東京というのはあこがれであると同時にどこか哀しい存在でもあります。そのあこがれと哀しみの狭間に、地方出身者それぞれの「上京物語」があるのです。

そして、東京に対するあこがれと哀しみの二律背反な思いは、同時に『ふるさと考』(昭和50年・講談社現代新書)で松永伍一が書いていた、故郷に対する「愛憎二筋のアンビバレンツな思い」とパラレルな関係にあります。「追い出す故郷が同時に迎い入れる故郷となる矛盾」。ふるさというのは求心力のようであって実は遠心力でもあるのです。

「書けば書くほど哀しくなる」ような地方出身者の「哀しい性」は、時代が変わってもいっこうに変わることがありません。あえて言うならば、その思いを彩る時代の意匠が変わっただけです。

家賃より高いブランドの服を買い、ときにお金がなくてその服をクリーニングに出すこともままならないような「身の丈に合わない暮らし」。「いつになったら、季節ごとに服を買い替えるような生活をやめられるのだろう。すぐ夢中になり、すぐ飽きてしまうような生活をやめられるのだろう」と著者は自問します。そして、こう書きます。

 すぐに飽きてもいい。つまらなくなってもいい。手に入れたことを後悔してもいい。それでもいいから新しいものに夢中になりたい。刺激が欲しい。刺激が欲しい。刺激が欲しい。


それが資本主義の最先端の都市で生活するということなのです。東京では、誰しもがそんな欲望や刺激から逃れることはできないのです。「欲望が私の神で、それ以外に信じられるものはない。もっと、もっと、と神が耳元で囁き、私はその声に、中途半端にしか応えられない自分に苛立つ」のです。

「ロハスな生活」とか「スローライフ」とか言っても、どこにもロハスな生活やスローライフはありません。そういった商品があるだけです。だったら、欲望にまみれ刺激に狂い、目いっぱい見栄を張って、破滅への道を突き進むほうがよほど自分に正直ではないかと思うのです。少なくとも「東京を生きる」思想があるなら、そういった欲望と刺激のなかにしかないでしょう。

 貯金もないくせに、私はおいしいものを食べ、好きな服を買い、お酒を飲み、本を買い、香水や化粧品を買い、美術館や映画館に行き、上等なタオルや石鹸を使い、自分のものにはならない家にために家賃を払って生きる。
 どこまでが分相応で、どこからが分不相応なのか、私にはわからない。
 いつか、そういう堅実ではない生き方に、天罰が下るだろうか。
 砂の上を、幻を見ながら歩いているような暮らしに、破滅が訪れるのだろうか。
 来るなら来ればいい。私はそれまで、魂に正直に生きる。破滅が訪れることよりも、破滅に遠慮して、悔いの残るような選択をすることのほうがずっと怖い。


しかし、人間というのは哀しい動物で、いくら欲望にまみれ刺激に狂っていても、自分を忘れることはできないのです。それが孤独な心です。自分を変えたい、今までの自分を叩きつぶして欲しいと思って上京したものの、「東京は私を叩きつぶしてくれるほど、親切な街ではなかった」「ただ私はまるでそこに存在しないかのように、そっと黙殺されるだけ」です。

池袋や新宿や渋谷の喧噪のなかにいると、無性にひとりになりたいと思うことがあります。帰りの電車で車窓に映るネオンサインを見るとはなしに見ているときや、スーパーの袋を下げてアパートに帰る道すがらに、ふと抱く底なしの孤独感。

そんな孤独感の裏に張り付いているのが望郷の念です。今の時代に望郷の念なんて言うと笑われるだけかもしれませんが、しかし、そういった湿った感情は、多少の濃淡や色彩を変えつつも、いつの時代にあっても私たち地方出身者の心の奥底に鎮座ましましているはずです。

 (略)困ったとき、自分が東京で食べていけなくなったとき、逃げ場として心の中で実家を頼っていること。
 あんなところに帰るのは嫌だ、と言いながら、同時に、自分に故郷の悪口を言う資格なんてない、と思う。
 嫌だ嫌だと言っておきながら、故郷を最後の保険にしている。帰る場所として頼っている。


ここには松永伍一が言う「追い出す故郷が同時に迎い入れる故郷となる矛盾」が表現されていると言えます。

個人的なことを言えば、親が亡くなり帰る場所がなくなったら、途端に望郷の念におそわれている自分がいます。それは、むごいほど哀しい感情です。欲望にまみれ、刺激に狂った思い出と、もはや帰るべき家もなくなった望郷の念。その二つの思いを胸に、これからも東京を生きていくしかないのです。「東京を生きる」には、そういった祭りのあとのさみしさのような”後編”があることも忘れてならないでしょう。
2015.08.30 Sun l 本・文芸 l top ▲
はたらかないで、たらふく食べたい


栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい』(タバブックス)を読みました。

小さな出版社の本だからなのか、横浜市内の書店をまわってもどこも在庫がありませんでした。横浜駅の地下街にある有隣堂のカウンターで、スマホの画面を見せながら「この本はありますか?」と尋ねました。すると、応対した若い男性の店員は、大きな声で「『はたらないで、たらふく食べたい』ですね」と念を押すのでした。その途端、まわりのお客たちがいっせいに私のほうをふり返った気がしました。

結局、横浜では見つけることができず、ネットで在庫を検索したら池袋のジュンク堂にあることがわかりました。それで池袋まで行きました。サイトに表示された売り場のカウンターに行くと、若い女性の店員が出版社の営業マンと楽しそうにおしゃべりをしていました。私は、スマホの画面を指し示しながら、「この本ありますか?」と尋ねました。すると、おしゃべりを中断させられた店員は、ちょっと不機嫌な表情を見せながらスマホに目をやり、こう言ったのです。「ああ、あの本」。

『はたらかないで、たらふく食べたい』という書名は、それだけで人々の顰蹙を買うのかもしれません。その顰蹙のなかに、「生の負債化」があるのだと著者は言います。つまり、働かざる者食うべからずというあれです。

著者の栗原康氏は、30代半ばのアナキズム思想が専門の研究者です。現在は大学の非常勤講師をしていますが、それでも年収が80万円。その上、奨学金の借金635万円を抱え、埼玉の実家で、両親の年金に寄生して暮らしています。

 大杉(引用者註:大杉栄)がいっていることは、ひとことでいうと、やりたいことしかやりたくないということだ。文字通りの意味である。そして、これをいまの資本主義社会にあてはめると、はたらかないで、たらふく食べたいということだ。(略)
 でも、資本主義社会だとこういわれる。やりたいことをやりたければ、まずカネをかせげ、やりたいことでカネをかせぐか、それができなければ、ほかの仕事でカネをかせいでこい。そうじゃなければ、生きていけないぞと。


カネを稼ぐことができない者は落伍者。働かざる者食うべらからず。これが資本主義社会のオキテです。しかも、「生の負債化」は、労働倫理の強制だけにとどまりません。資本主義社会では労働と消費は一体化しているのです。

(略)かせいだカネで家族をやしないましょう。よりよい家庭をきずきましょう。家をたてましょう。車をもちましょう。おしゃれな服をきて、ショッピングモールでもどこでもでかけましょう。これがやばいのは、そうすることが自己実現というか、そのひとの人格や個性を発揮することであるかのようにいわれていることだ。まるで、カネをつかうことが自分のよろこびを表現しているかのようだ。ショッピングをたのしまざるもの、ひとにあらず。


特に資本主義の尖端にある都会では、消費することが一義的なことで、それが生きることと直接つながっています。働いてものを買うというより、ものを買うために働いているという感じです。消費するバロメーターが幸福のバロメーターであるかのようです。消費できなければ都会では生きていけないのです。消費することが都会で生きる証しですらあるのです。

合コンで小学校教諭の女性と知り合い婚約まで至ったものの、年収50万円(当時)の婚約者に不安を抱いた相手から三行半を突きつけられ、公務員の妻の扶養に入るという甘い夢ははかなく終わるのでした。でも、著者は、みずからの失恋に伊藤野枝の「矛盾恋愛」を重ね、思想的に総括することを忘れません。アナキズムの”絶対的な自由”を今の社会に敷衍するとどうなるか。それは、ときに滑稽に見えることもありますが、しかし一方で、笑い話で済ますことができない本質的な問題を示してもいるのです。

ほんとうはただ相手のことをたいせつにおもっていただけなのに、結婚というものを意識した瞬間から、自分のことばかり考えるようになってしまう。しらずしらずのうちに、いわゆるカップルの役割を演じていて、それをこなすことが相手のためだとおもいこんでしまう。それがたがいに自分を犠牲にするものであったとしてもである。むしろ自分がこれだけのことをしているのだから、相手もこのくらいはしてくれないとこまるとおもいがちだ。たがいに負い目をかさね、見返りをもとめるようになる。


こういった考えが親鸞の他力思想にまで遡及していくのは当然でしょう。日本のアナキズム思想は、単に政治的な思想にとどまらず、自由恋愛論者の大杉栄に代表されるように、個人の思いや感情に視点を据えた人間味あふれる魅力的な思想でもあるのです。
2015.08.09 Sun l 本・文芸 l top ▲
悲しいだけ


早朝の5時前に目が覚め、ベランダのカーテンを開けて、徐々に白んでゆく外の景色を眺めていたら、途端に、母が亡くなったときの感情がよみがえってきました。そして、帰るべき家がなくなった事実をあらためてしみじみと思い知らされたのでした。

若い頃、藤枝静男の『悲しいだけ』を読んだとき、親が亡くなり帰るべき家がなくなってこの小説を読んだらつらいだろうなと思ったことがありました。今、そのときが訪れたのです。

『悲しいだけ』は、つぎのような文章ではじまっています。

 私の小説の処女作は、結核療養所に入院している妻のもとへ営養物をリュックにつめて通う三十余年前の自分のことをそのままに書いた短編であったが、それから何年かたったとき友人の本多秋五が「彼の最後の近くになって書く小説は、たぶん最初のそれに戻るだろうという気がする」と何かに書いた。そのとき変な、疑わしいような気がしたことがあった。むしろ否定的に思った。
 しかし今は偶然に自然にそうなった。


読者である私も、作者とは別に、いつかこの小説に「戻ってくるだろう」と思ったのでした。

『悲しいだけ』は、妻の死を綴った短編小説です。39年間の結婚生活のなかで、妻が健康だったのは最初の4年間だけでした。肺結核とそのあとに発見された乳癌によって、あとの35年間は入退院と手術のくり返しでした。

小説のなかに、こんな場面があります。

 死期が近づいて全身の衰弱が訪れたころの妻は、腹水の貯溜のための仰臥も横臥もできなくなった身体を、折りたたんで重ねた布団や枕にもたせかけた姿勢で昼夜を過ごしていた。ときおりは細い項を俯向け、絶えずふらつく上体を両手で支えて、小学校時代の唱歌を小声でうたっていることがあった。俯向いたままの顔を僅かに動かして
 「こうしていると気がまぎれるのよ」
 と呟いた。(略)その低い声が、動かしがたい運命の悲しみから無意識に逃れようとする一筋の細道のように思われた。 


死を前にした床のなかで、小声で唱歌を口ずさむ。なんだか私も同じ場面を見たような気がしてきました。そんな日常こそがホンモノで、今のこの日常はニセモノであるような気がします。藤枝静男の小説を読むとそんな気持になるのです。私は、藤枝静男の小説を読むたびに、小説を読んでよかったなとしみじみ思うのでした。

先日、家の電話に田舎の妹からの着歴がありました。おそらく新盆に帰ってくるのかどうか、その確認の電話なのだろうと思います。でも、私は返事の電話もしてないのでした。私も年に一度くらいは墓参りに帰りたいと思っています。でも、姉妹にも田舎の人たちにも、誰にも知られずにひっそりとお墓に参りたいと思っているのです。

人間というのは身勝手なもので、こうして年を取り、今度は自分の番だと思うと、今までめったに帰ることもなかった田舎が、なつかしく思えてくるのでした。”郷愁”と言えばそう言えるのかもしれませんが、ただ、その田舎は、あくまで子どもの頃に見た風景のなかにある田舎なのです。

『悲しいだけ』には、作者が周辺の寺や河川などを訪れ、その風景にみずからの心境を映すような場面がくり返し出てきますが、私は今回は、小説に出てくる地名をパソコンで検索しながら読みました。

すると、初めて『悲しいだけ』を読んだすぐあとに、当時付き合っていた彼女と浜松の周辺をまわったときのことが思い出されてきたのでした。その頃、私は、会社の仕事で名古屋と静岡を担当しており、月に一度、それぞれ出張で訪れていたのですが、名古屋に住んでいた彼女がちょうど浜松の友達のところに行く用事があるというので、仕事を終えた翌日、浜松で落ち合い、周辺をドライブしたのでした。

佐鳴湖という小さな湖に行って、近くのレストランで食事をしたことや、遠州灘の景色を遠くに眺めることができる山の頂きにのぼったことなどを今でも覚えています。そのときずっと頭のなかにあったのは藤枝静男の小説のことでした。その前年に父親を亡くしたということもあり、私のなかでは、浜松の風景と藤枝静男の小説を重ねる気持があったのでしょう。

 妻の手を掌にくるんで握ると、もう冷えていた。曲げた片脚をずらして踏みのばすように動かすのでさすってやると何の反応もなく動きが止まった。それは運動ではなくて、縮めるための緊張をしていた神経が働きを停止して自然の状態に戻る動きであった。


このように、死を看取る作者の目は、医者らしく冷静で客観的なものです。それだけに読む者にはよけいせつない気持が増してくるのでした。作者は、「自分が如何に感覚だけの、何ごとも感覚だけで考え判断し行動する以外のことはできもせずしもしなかった人間であった」と言うのですが、私たちはそういう「感覚」のなかで生を紡いでいるのだと思います。

亡くなった人の目尻に涙の跡が残っていたという話を聞いたことがありますが、ホントなんだろうかと思います。死を前にした床のなかで、自分はなにを思うのだろう。最近、そんなことをよく考えます。私の場合、誰にも看取られず、孤独に死を迎えるのは間違いありませんが、涙を流しながら死ねたらいいなと思います。そんな「無機質」な感覚のなかで、死を迎えたらいいなと思うのです。

「妻の死が悲しいだけ」という感覚が塊となって、物質のように実際に存在している。これまでの私の理性的または感覚的の想像とか、死一般についての考えとかが変わったわけではない。理屈が変わったわけではない。こんなものはただの現象に過ぎないという、それはそれで確信としてある。ただ、今はひとつの埒もない感覚が、消えるべき苦痛として心中にあるのである。


人間の生において最後に残るのは、このような原初的な「無機質」な感覚なのでしょう。

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母の死
「盗作」事件
2015.07.31 Fri l 本・文芸 l top ▲
ウェブニュース 一億総バカ時代


月刊誌『Journalism』(朝日新聞出版)の5月号に、Yahoo!ニュース編集部員の井上芙優氏が、「『取材をしない』ニュース編集部 いかに報道マインドを根付かせるか」という記事を書いていました。

Yahoo!ニュースの編集部が新卒社員を受け入れるようになって、今年で5年目を迎えるのだそうですが、現在、編集部には、東京・大阪・北九州・八戸のオフィスに26名の部員が所属していて、新卒入社組は8名で、残りは報道機関からの転職組だそうです。

ただ、新卒入社組は、Yahoo!ニュースの編集部を希望して入社したわけではなく、「何れもビジネスコースの採用枠で入社し、入社後に編集職に配属」された人たちなのだそうです。つまり、彼らは、最初から「報道」に対する問題意識をもって入社したのではないのです。

Yahoo!ニュース編集部の場合、「取材をしない」だけでなく、みずから記事を書くこともありません。取材をすることと記事を書くことは、ジャーナリストの基本中の基本です。その”修練”は、単なるテクニックの問題にとどまらず、ジャーナリストとしての視点や問題意識を養う上で、大きな意味をもつはずです。

記事によれば、Yahoo!ニュースでは、編集者として身につけなければいけないことが大きく分けて二つあるのだとか。ひとつは、「ニュースの“価値判断能力”」、もうひとつは、「Yahoo!ニュース編集者としての“マインド”」です。

”価値判断能力”については、契約先から配信される1日あたり約4000本の記事のなかから、トップページ(Yahoo!ニューストピックス)に掲載される8本(1日で約100本)の記事をピックアップする訓練が、「野球の1000本ノックのように」くり返しおこなわれるのだそうです。

そして、その”価値判断能力”に欠かせないのが、もうひとつの「Yahoo!ニュース編集者としての“マインド”」です。

記事によれば、編集部には、”マインド”について、3つの「定義」があるそうです。

①ニュースを“出して終わり”でなく、「ユーザーに届いているか」という視点
②ネットでニュースを届ける世界を切り開く者としての気概
③伝統的な報道機関が必要としてきたニュースの使命感・責任感・恐ろしさへの理解、公権力監視・弱者への配慮


私は、Yahoo!ニュースにもっとも足りないものがこの”マインド”なのだと思います。特に、③の「公権力の監視・弱者への配慮」です。

ヤフトピ(Yahoo!ニューストピックス)を見ていると、政治ネタにおいても芸能ネタにおいても、ユーザーの負の感情を煽るような記事が目に付きます。ときに戦争や差別を煽っているのかと思うことすらあります。それは、Yahoo!ニュースの”マインド”の低さを表しているように思えてなりません。生活保護バッシングの際も、バッシングを煽るような記事はこれでもかと言わんばかりに掲載するけど、生活保護受給者のきびしい生活の実態を伝えるような記事が載ることは皆無でした。そんな姿勢は、今の安保関連法案に対しても同じです。

Yahoo!ニュースに決定的に欠けているのは、野党精神(=「公権力の監視」)であり、弱者に向けるまなざし(=「弱者への配慮」)です。でも一方で、それはないものねだりなのかもしれないと思うこともあります。なぜなら、ウェブニュースの「価値基準」は、「公権力の監視」や「弱者への配慮」にはないからです。ウェブニュースの「価値基準」は、まずページビューなのです。どれだけ見られているかなのです。それによってニュースの「価値」が決まるのです。それは、ウェブニュースの”宿命”とも言うべきものです。

そもそも、Yahoo!ニュースの編集者はジャーナリストと言えるのでしょうか。

 ニュースを取り巻く環境はここ数年間で大きな転換期を迎えている。情報摂取の起点はスマートフォンやタブレット端末等のスマートデバイスが中心となり、インターネットにおける情報摂取の導線も、スマホのアプリやツイッター・Facebook等のSNSの広がりに因って大きく変化した。Yahoo!ニュースもスマートデバイスの普及に因って、2014年の6月には月間100億PVの半数以上をスマートフォンからのアクセスが占めるようになった。
 ジャーナリストの仕事というと、主に報道機関等の組織に属している記者の他、フリーランス等も含めて、“取材して書く・撮る”という手法が真っ先に思い浮かぶ人も多いのではないかと思う。だが、ニュースの“見られ方”“見せ方”の変容に因って、取材して書く・撮る人材“だけ”がジャーナリストを名乗っていた世界は変わろうとしている。


記事はこう言いますが、しかし、どう考えてもYahoo!ニュースの編集者をジャーナリストと呼ぶのは無理があるように思います。どちらかと言えば、まとめサイトの編集者と言ったほうが適切ではないのか。実際に彼らの仕事は、まとめサイトの管理人がやっていることと同じです。

ウェブニュースの内部事情とそのからくりについては、『ウェブニュース 一億総バカ時代』(三田ゾーマ著・双葉新書)が具体的に書いていました。著者の三田ゾーマ氏は、企業系ニュースサイトの編集者をつとめる、いわゆる「中の人」です。

私たちがYahoo!ニュースをはじめ、ウェブニュースをどうして無料で読むことができるのかと言えば、ニュースサイトが広告を収入源としているからです。そのため、ニュースサイトは、多くのページビューが稼げるニュースを優先して掲載するようになるのです。ページビューを多く稼げば、それだけ広告枠が高く売れるからです。

 ニュース媒体を持てば広告収入が得られて金が儲かる。だから酷い媒体になるとどんな記事でも、誰が書いたものでも構わないから掲載して人々のアクセスを集めようとする。その記事は何の専門性もないアルバイトが書いたものかもしれないし、どこかからかコピペされた一部だけを書き換えたような”盗作”かもしれない。(略)
 そして、そんな屑を”報道”だとありがたがって読んでいるとすれば? 曖昧な発言元の情報に踊らされ、根拠の薄い発表を信用し拡散する人が増えていく。バカの一丁上がりである。


ページビューを稼ぐための記事。業界では「バズる」と言うそうですが、TwitterやFacebookで拡散される記事。そのための煽るような記事。そう思って、ヤフトピを見れば、納得できるものがあるのではないでしょうか。

しかし、ウェブニュースの問題はこれだけではありません。広告収入で成り立っているニュースサイトでは、広告そのものが巧妙化し、記事と広告の見分けもつかなくなっているのです。

ウェブ広告は、バナー広告のクリック率が下がり広告の効果が薄れてくると、記事を装ったタイアップ広告やステマなどのネガティブ広告へと、次第にエスカレートしていったのでした。そして、PCに比べて画面の情報量が少なく、ユーザーが閲覧するページ数も少ないスマホ時代になると、ニュースをマネタイズする方法はますます巧妙化し、ブラックになっているのです。

 ・広告主からお金を貰って作ったタイアップ広告を、広告であることを隠して(記載せず)掲載する。
 ・広告主の商品を、大して流行もしていないのに、広告であることを隠して「今話題になっている・・・」と称して記事を作る。
 ・広告主の商品が、さも業界を代表するブランドであるかのように紹介する記事を、広告であることを隠して作る。
 ・数十人規模のアンケートをもとに、広告であることを隠して、広告主の商品がさも日本中で求められているかのように記事を作る。


今なにが流行っているか(なにがトレンドか)という記事や、サイトに必ず設けられているアクセスランキングなどは、特に眉に唾して見る必要があるでしょう。

ニュースサイトの目的が、広告で金儲けすることであり、ニュースがそのための手段である限り、広告に対するルールや倫理感が欠如するのは当然でしょう。「読者をバカにして金を稼ぐウェブニュース」。それはYahoo!ニュースも例外ではないのです。
2015.07.21 Tue l 本・文芸 l top ▲
新潮2015年7月号


『新潮』(7月号)に「400枚一挙掲載」されていた金原ひとみの「軽薄」を読みました。

小説としては、登場人物も話の筋立ても荒っぽくて散漫でした。おそらくこの小説を評価する人は少ないだろうと思います。

作者の金原ひとみは、東日本大震災に伴う原発事故のあと、放射能汚染を避けて(?)岡山県に移住し、現在はフランスに住んでいるそうです。その間、次女を出産し、二人の娘の母親になっていたのです。

でも、この作品では、そんな家庭の幸福とは真逆を求める既婚女性が主人公です。

スタイリストとして華やかな世界で仕事をするカナ。カナは、イタリアの服飾ブランドの日本支社に勤める夫と8歳になる息子との三人家族です。カナと夫は、イギリスで知り合い結婚しました。当時、夫は服飾ブランドの日本法人からマーケティングディレクターとしてイギリスに派遣されていて、カナは服飾系の専門学校に留学していました。

しかし、カナの留学にはある事情がありました。カナには、16歳のときから2年間、薬と酒に溺れたような「破滅的な」関係をつづけていた男がいたのです。でも、そんな関係に疲れ、普通の人と「普通の恋がしたい」と思ったカナは、浮気相手と一緒に男のもとから逃げたのでした。それから男は、ストーカーと化し、カナに執拗に付きまとい脅迫するようになったのです。それで、カナは友達の家やキャバクラの寮などを転々として逃げまわっていたのですが、とうとう居場所を知られ、ある日突然、背後からナイフで刺されたのです。それがきっかけで、イギリスに留学したのでした。

なに不自由ない生活。夫も非の打ちどころのないような人物です。過去とはまるて別世界のような日常。しかし、カナはどこか満たされない思いを抱いています。心の空隙を埋めるかのように仕事に生きがいを求めるカナ。しかし、やがて、カナは、その空隙のなかに、あの過去の「破滅的な」恋愛の”しこり”が残っていることを気付かされるのでした。

それは、姉の息子・弘斗との道ならぬ関係によってでした。弘斗は19歳の大学生です。姉一家もまた、長い間、アメリカで暮らしていて帰国したばかりです。弘斗とは幼児のときに会ったきりでした。弘斗もカナと同じように、日本の社会に対してどこか疎外感を抱いているのでした。

 弘斗とのセックスは気持ち良い。でも、それは世界を揺るがすようなものではない。私は、甥と不倫しても壊れない世界に苛立っているのかもしれない。そんな事をしたら世界が変わると思っていたのかもしれない。でも世界は壊れなかった。私の世界を変える人や物は、もうこの人生の中には現れないのかもしれない。そう思ったら苛立ちも消えて、プッチ柄みたいな幾何学模様を見つめている時に抱くような、だから何だという虚無的な気持ちになった。


そう思っていたカナでしたが、弘斗との関係が深まり、さらに弘斗がアメリカで起こしたストカ―まがいの刺傷事件を知り、夫の浮気の気配を感じたりするにつれ、カナの心の奥深くに眠っていた「破滅願望」や「狂気」が再び頭をもたげはじめたのでした。それは、弘斗に対する「執着」だけでなく、過去のあの事件にケリをつけるということでもあります。

私はあの時果たせなかった誠実であり続けるという、自分自身の望みでもあり彼の望みでもあった道を、ここで果たせるのではないかと、自分でも信じれられないような希望を抱いている事に気付く。彼とだったら、私はあの時諦めてしまった、相手に対して誠実に向き合うという行為から逃げずに二人の関係を全う出来るかもしれない。あの時捨てた自分と、あの時捨てた男と、あの時捨てた狂気と、私は邂逅しているような気持ちでいた。


狂気が、また私の中に宿ったのかもしれない。軽蔑し、倫理的に否定し続けてきた非合理的な狂気を、長い時を経て私は今甘受したのかもしれない。(略)
時計の針が帳尻合わせをするように、私は帳尻合わせをしているのだ。善と悪、嘘を真実、希望と諦め、未来と過去、全ての両橋の合間でどこに立てばいいのか、迷いながら自分が倒れないバランスを探している。私はこの思いに全てを差し出すだろう。軽蔑の上に築き上げてきた物ものは、乾いた紙粘土が崩れるように倒壊し、砕け散り、辺りに舞い上がる埃の中、私はそれでもまだ生きていて、弘斗の手を探すだろう。


恋愛というのは大なり小なり「狂気」の要素が含まれているものです。まして不倫のような恋愛であれば尚更でしょう。”背徳”ということばは、決して死語ではないのです。

法事で帰省した折、姉と妹がささいなことで口喧嘩になりました。その際、エスカレートして、「あのとき男を追いかけて行って」とか「あんただって男にお金を貢いで」とか「お金をせびって」とか、ずいぶんきわどい話になったのです。もちろん、いつも●●●桟敷に置かれている私には、初めて聞く話でした。

でも、私は、それを聞いて、なにかホッとしたような気持になったのでした。今の彼女たちは、どこの誰が見てもさえない中年のおばさんでしかありません。しかし、若いときに、そんな世間の人たちから眉をひそめられるような、それこそ親戚が知ったら非難轟々のような非倫理的な恋愛を経験していたことを知って、私は逆に「よかったな」と思ったのです。

人生には「破滅願望」や「狂気」を抱くような瞬間というのはあるはずです。赤裸々な人間性がむき出しになったとき、もうどうなってもいい、そんな気持になることもあるでしょう。非倫理的な恋愛であればよけいそうでしょう。人間は誰しも、墓場までもっていく話がひとつやふたつはあるはずです。それが恋愛に関するものであれば、人生はもっと奥行きができて、色合いも豊かなものになるでしょう。どんな恋愛であれ、「恋愛は人生の花」(坂口安吾)なのです。

この作品は饒舌すぎるのです。それに飾り物が多すぎる。それが小説の魅力を損なっているように思います。

私は、カナと弘斗二人の場面だけで充分のような気がします。18禁のようなセックス描写も、そこに流れる空気感もすごく巧みで惹かれるものがありました。そういった場面だけで小説を構成すれば、もっと読者の想像力をかき立てるような魅力的な作品になったように思います。別に、叔母と甥でなくてもいい。ただの人妻と大学生の話でも、カナと弘斗の世界は充分成り立つように思います。

「破滅願望」や「狂気」を抱かせるような恋愛。たとえさえないおばさんやおっさんになっても、心のなかにはそんなせつなく哀しい思い出はあるのです。私たちにとって、カナや弘斗は決して遠い存在ではないのです。カナや弘斗をとおしてみずからの人生と向き合うこともできるはずです。でも、そのためには、この小説は饒舌すぎるのです。その饒舌さは、平板で倫理的な結婚生活を送っている作者の弁解のように思えないこともありません。


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2015.07.10 Fri l 本・文芸 l top ▲
いい加減食傷気味なのは重々承知ですが、あと一度だけ『絶歌』について書きたいと思います。と言うのも、朝日新聞の「『絶歌』出版を考える」企画の第二弾(下)で、荻上チキと斎藤環両氏のインタビューが掲載されていたのですが、その記事を読んで思うところがあったからです。

朝日新聞デジタル
(表現のまわりで)『絶歌』出版を考える:下 何が読み取れるのか 識者に聞く

ハフィントンポスト(転載)
『絶歌』何が読み取れるよのか 荻上チキさん・斎藤環さん

二人のインタビューは、好対照、と言うより、まったくレベルの違うものでした。萩上キチは、大方の人たちと同じように、世間の”反発”をただなぞっただけの薄っぺらな”感想”に終始していました。要するに、誰でも言えることを言っているだけです。最近、テレビの情報番組に、口だけ達者な芸能人がコメンテーターとして出ていますが、荻上キチが言ってることはそんな芸能人となんら変わらないのです。

一方、斎藤環氏は、精神分析の専門家だけあって、示唆に富んだ分析をしていました。

 彼は祖母への愛着から性的な発展がいびつな方向に向かい、嗜虐(しぎゃく)的な方法でしか快楽が得られなくなります。その後、手段が急激にエスカレートしていく過程は、アルコールなどの依存症者のパターンとよく似ています。最初は猫を殺すことで満足していたのが、次第に耐性がついて同じ刺激では満足できなくなる。

 彼は他人と違う衝動を抱えた劣等感が強く、孤立感を抱えたまま自己を追い詰めていった可能性があります。どうすれば良かったかと言われれば、そうした性的嗜好(しこう)が思春期には特別なものではないことを説明できる大人が、じっくり彼の話を聞く機会を持つことが抑止効果を持ち得たかもしれません。


逮捕されたあと、面会に来た叔母さん(母親の妹)が、泣きながら「A、ごめんな、ごめんな」と謝ったというのも、そういった後悔の念があったからかもしれません。

私たちも、専門家ではないので斎藤環氏の分析のすべては無理だとしても、その半分くらいは読み取ることができるのではないでしょうか。

罪を憎むことは簡単です。小田嶋隆氏や荻上チキのように、罪を非難するだけなら誰でもできる。しかし、同時に罪の先にある人間を見ることも必要ではないのか。少くともそれが「識者」の役割ではないのか。

斎藤環氏の分析にもあるように、『絶歌』の本質は、むしろ第一部のなかにあるのだと思います。それを荻上チキは、「いかにも90年代的な言葉遣いがちりばめられた第一部は、痛々しくて読むのが苦痛でした。冗舌ですが表層的。」と否定するのでした。要するに、なにも読み取ることができず(読み取る気もなく)、ただ俗情と結託しているだけなのです。

荻上キチが否定する「いかにも90年代的な言葉遣い」(90年代的な言葉遣いってなに?って感じですが)についても、斎藤氏は、「象徴的表現をたくさん使うのは健全化の証拠」と言ってました。

ゼロ年代の批評家たちは、どうしてこんなに揃いも揃って人間に対して鈍感なのでしょうか。いや、それは人間に対してだけではありません。政治に対しても然りです。彼らの相対主義的な言説は、案外全体主義のそれと隣接しているのではないか。
2015.06.30 Tue l 本・文芸 l top ▲
今日の夜、カーラジオでTOKYO FMを聴いていたら、「TIME LINE」という番組で、『絶歌』のことを取り上げていました。そのなかで、コメンテーターのコラムニスト・小田嶋隆氏が、『絶歌』について、本名も明かさず自己顕示欲だけでこのような本を書くのはおかしい、というような趣旨の発言をしていました。私はそれを聞いて、びっくりしました。まさか小田嶋氏がこのような発言をするとは思ってもみなかったからです。

さらに、アメリカの出版事情に詳しいという女性がゲストで登場し、アメリカで施行されている「サムの息子法」について説明していました。「サムの息子法」というのは、犯罪者がみずからの犯罪について本を書いた場合、それによって得た利益(印税)を被害者やその家族が強制的に取り上げることができるという法律です。しかし、言うまでもなく、本を書くことや本の印税を得ることは、憲法で保障された基本的な権利です。「サムの息子法」は、表現の自由や経済活動の自由を侵害するとんでもない法律と言えないこともないのです。

テレビやラジオのコメンテーターたちが始末が悪いのは、「表現・出版の自由は尊重されるべきですが」と前置きしながら、実際は世間の空気に迎合して、犯罪者は表現の自由を制限されて当然だ、犯罪者の本を出版するような出版社に出版の自由はない、と言わんばかりの発言をしていることです。どうして、内容の議論より表現そのものを制限するような話になるのか。

小田嶋氏に至っては、書いた本人よりこんな本を出す出版社のほうが問題だ、個人の利益だけでなく出版社の利益も取り上げるようにすべきだ、と言ってました。これでは、場合によっては出版の自由が制限されても仕方ないと言っているようなものです。言論統制を目論む和製ヒットラーが聞いたら拍手喝采するような話でしょう。

このような主張は、STAP細胞問題の”小保方バッシング”のときからずっとつづいている、この社会の全体主義的な空気を反映したものと言えるでしょう。常に”異物”を排除しようとする日本社会特有の同調圧力が、このような空気を作り出しているのは間違いないでしょう。なんのことはない、みずから進んで「もの言えば唇寒し」社会を招来しているのです。

朝日新聞のインタビュー記事での森達也氏の発言にしても、どこか腰が引けた感じで歯切れが悪いのも、こういった抗えない空気があるからでしょう。でも、それは、”抗えない”のではないのです。抗ってないだけです。

『絶歌』に対する世間の過剰な反応で垣間見えたのは、私たちの”市民としての日常性”が、実は差別と排除の力学によって仮構されているという、この社会の構造です。「少年A」「酒鬼薔薇聖斗」という私たちの日常を脅かす”異物”が目の前に現れると、このようにたちどころに私たちの日常が牙を剥くのです。なぜなら、私たちの”市民としての日常性”は、本来フィクションであって、ただ差別と排除の力学によって仮構されているにすぎないからです。”異物”を不断に差別し排除することによって、私たちの日常が保守されるのです。その構造は、小田嶋氏のように、原発再稼働反対とか改憲反対とか安倍政権打倒とかに関係ないのです。

私たちの日常がもっとも凶暴なかたちで露出したのが、関東大震災の際の朝鮮人虐殺です。朝鮮人虐殺は、イデオロギーの問題なんかではなく、”市民としての日常性”が危機に瀕したとき、差別と排除の力学があのようなテロルを私たちの日常に呼び込んだのです。だから、「善良なる市民」(!)たる芥川龍之介も、自警団のひとりとして、ためらいもなく狂気の隊列に加わったのでした。

匿名ではなく本名を名乗れ。(ネットでは既に本名が晒されていますが)そうやって”テロルとしての日常性”を挑発するコメンテーターたち。でも、彼らは、作家や評論家にペンネームではなく本名を名乗れとは言いません。犯罪者(元犯罪者)なら、”私刑”の標的にされ晒し者にされても当然だ、とでも言いたげです。反知性的な風潮を嘆くような人たちが、みずから反知性的な風潮に身を寄せて、一緒になって石を投げているのです。
2015.06.27 Sat l 本・文芸 l top ▲