2018年11月渋谷1


私は、週に2~3日は東横線(副都心線)で渋谷を通っています。車でもよく246や明治通りを通ります。

しかし、考えてみたら、もう1年くらい渋谷で途中下車したことがありません。最近はめっきり足が遠ざかっています。私にとって渋谷は、いつの間にか通過するだけの街になっていたのです。

今月、BSフジの「TOKYOストーリーズ」という番組で、二週に渡って「さよなら渋谷90s」と題し渋谷を特集していました。また、昨日のテレ東の「アド街」でも、「百年に一度の再開発」が行われている渋谷を特集していました。

それで、今日、久しぶりに渋谷で途中下車して、変わりゆく渋谷の街を歩きました。

私が一番渋谷に通っていたのも90年代です。「さよなら渋谷90s」では、牧村憲一(音楽プロデューサー)・谷中敦(東京スカパラダイスオーケストラ)・カジヒデキ・鈴木涼美・石川涼(アパレルブランド・せーの代表)・藤田晋(サイバーエージェント代表)・Licaxxx(DJ)らが、みずからの“渋谷体験”を語っていました。ただ、鈴木涼美とLicaxxxは、90年代の渋谷を語るには年齢的に若すぎ、明らかに人選ミスだと思いました。

もっとも番組で語られる渋谷は、パルコの広告戦略に象徴されるような公園通りを中心とした渋谷にすぎません。カジヒデキは、「95年頃に『渋谷系』ということばは終わった」と言ってましたが、私は最初から「渋谷系」ということばにすごく違和感がありました。このブログでも書いているように、私も、セゾン(パルコ)とは仕事をとうして関わっていましたが、しかし、公園通りの風景は渋谷のホンの一面でしかないのです。まして、藤田晋がヒップホップを語るなんて悪い冗談だとしか思えません。

昔、起業したばかりでまだ無名の藤田に密着したドキュメンタリー番組を観たことがありますが、そのなかで、田舎の両親が原宿かどこかのアパートでひとり暮らしする息子の行く末を心配しているシーンがあったのを思い出しました。エリートやボンボンによくある話ですが、渋谷を語るのに、昔はちょっとヤンチャだったと虚勢を張りたかっただけなのでしょう。ヒップホップもいいようにナメられたものです。

過去というのは、このように語る人間に都合のいいようにねつ造されるものなのです。それは、国家の歴史に限らず個人においても然りです。

彼らが語る渋谷には、ストリートの思想がまったくありません。そこには、ただ資本に踊らされる予定調和の文化があるだけです。

谷中敦は、番組のなかで、渋谷をうたった詩を朗読していましたが、そのなかにソウルフラワーユニオンの歌のタイトルを彷彿とさせるような「踊れないのではなく踊らないのだ」という詩句がありました。でも、谷中敦だって、「踊っていた」のではなく、「踊らされていた」だけではないのか。そして、これからも渋谷を支配する東急資本に踊らされるだけなのだろうと思います。都市と言っても、昔の都市(まち)と今の都市ではまったく違うのです。渋谷がなによりそれを象徴しているのです。

私は当時、南口の東急プラザの裏の、玉川通りから脇に入った路地によく車を停めていましたが、あたりにはまだラブホテル(というより「連れ込み旅館」と言ったほうがふさわしいような古いホテル)が残っていました。

夜遅く、車を取りに坂を上ると、暗がりに人がウロウロしているのです。最初は、なんだろうと怪訝に思って見ていました。でも、やがて彼らの目的がわかったのでした。イラン人からクスリ?を買うために来ていたのでした。イラン人たちは、ビルの前の植え込みなどにクスリ?を入れたビニール袋を隠していました。初めの頃は私もイラン人たちから警戒されているのがわかりました。しかし、やがて彼らの敵ではないことがわかると、目で挨拶されるようになりました。

路地で「東電OL」とすれ違ったこともありました。彼女の”仕事場”は、道玄坂の反対側の神泉や円山町あたりでしたが、ときどき道玄坂を横切り、坂の上から裏道を降りて東急プラザに来ていたのでしょう。

でも、今は東急プラザは壊され、跡地はステンレスの囲いで覆われ、来年の秋の開業に向けて新しいビルが建築中です。周辺も人通りが少なく殺風景になっていました。

牧村憲一は、「渋谷で知っているところはもう9割がた失くなった」と言ってましたが、私も歩いていたらいつの間にか、新しい渋谷より知っている渋谷を探している自分がいました。


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2018.11.25 Sun l 東京 l top ▲
渋谷のハロウィンのバカ騒ぎに対して、「狂騒」「暴徒化」などという言葉を使っているメディアさえありました。なんだか殊更問題化しているフシもなきにしもあらずです。渋谷区の長谷部健区長も、先週末に発生した一部参加者の乱痴気騒ぎに対して、「到底許せるものではない」と「緊急コメント」を発表。そして、ハロウィンから一夜明けた今日、長谷部区長は、来年以降ハロウィンの有料化も検討すると発言したそうです。ハロウィン有料化とは、まるでお笑いギャグのような話です。

私などは、渋谷の騒動と言えば、1971年の“渋谷暴動”を思い浮かべますが、あれに比べればハロウィンの騒ぎなんて子どもの遊びみたいなものでしょう。それに、もともと都市=ストリートというのは、常に秩序をはみ出す行動を伴うものです。そういった“無秩序”を志向する性格があるからこそ、私たちは、都市=ストリートに解放感を覚えるのです。都市=ストリートに対して、非日常の幻想を抱くことができるのです。

毛利嘉孝氏は、『ストリートの思想』(NHKブックス)の中で、イギリスにはじまって90年代に世界に広がった「ストリートを取り返せ」(RTS)運動について、次のように書いていました。

「ストリートを取り返せ」(引用者:原文では「リクレイム・ザ・ストリーツ」のルビ)のスローガンが意味するところは、やはり現在ストリートで切り詰められている「公共性」を、ダンスや音楽など身振りによって取り戻そうということだろう。ダンスや音楽は、「言うこと聞くよな奴らじゃない」連中が、同じように「言うこと聞くよな奴らじゃない」官僚制度や警察的な管理に対抗する手段だったのである。


テレビには、ハロウィンの若者たちは迷惑だと主張する地元商店会の人間たちが出ていましたが、私は以前、渋谷に日参していましたので、その中には当時顔見知りだった人物もいました。

私は、それを観て、渋谷は地元商店会のものではないだろうと思いました。渋谷に集まってくる若者たちだって、区民でなくても立派な渋谷の“住人”です。渋谷の街は、東急資本や地元商店会だけが作ってきたわけではないのです。私は、当時、路上で脱法ハーブやシルバアクセを売る外国人や地回りのやくざなどとも顔見知りでしたが、彼らだって渋谷の街を作ってきたのです。

もっとも、地元商店会にしても建前と本音があるのです。彼らも、商売の上では渋谷に集まる若者たちを無視することはできないのです。ドンキはじめ一部の商店が若者達に瓶に入った酒を売っていたとして批判を浴びていますが、イベント会場の周辺の店がイベントにやってくる若者相手に店頭で食べ物を売ったりするのと同じように、ハロウィンの若者たちを当て込みソロバンを弾いていた店も多いはずです。

メディアの前で迷惑顔をしている老人の中には、普段ストリート系の若者相手に商売をしている店の関係者もいました。若者の性のモラルの低下を嘆く教師や警察官や市議会議員などが、一方で中学生や高校生の少女を買春していた事件が後を絶ちませんが、あれと同じでしょう。

センター街には、昔からチーマーやコギャルが跋扈していましたが、しかし、跋扈していたのは彼ら(彼女ら)だけではなかったのです。コギャル目当ての大人たちも跋扈していたのです。チーマーやコギャル達は、そんな建前と本音のバカバカしさをよく知っていたのです。

それはメディアも然りです。メディアだって渋谷に建前と本音があることぐらいわかっているはずです。メディアは、地元の商店会と一緒になって建前を振りかざしながら、一方では若者たちを煽っているのです。「厳戒態勢の渋谷から中継」なんてその最たるものでしょう。今日の早朝の番組でも、各局がハロウィンから一夜明けた渋谷から中継していましたが、私にはバカ騒ぎの名残を惜しんでいるようにしか見えませんでした。

ともあれ、再開発の真っ只中にある渋谷が、やがて完全に東急に支配された(東急の色に染まった)街になるのは間違いないでしょう。そうなればストリートも消滅して、バカ騒ぎをする若者たちも、そんな若者たちに眉をひそめる地元の商店会も、街から排除される運命にあるのは目に見えています。そして、ハロウィンも、川崎などと同じように(あるいは、東京レインボープライドのパレードと同じように)、管理され秩序されたものにとって代わることでしょう。その意味では、渋谷の無秩序なハロウィンも、スカンクの最後っ屁のようなものと言えるのかもしれません。


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2018.11.01 Thu l 東京 l top ▲
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時間があったので、久し振りに川越に行きました。

土曜日ということもあって、川越はどこも大変な人出でした。駅から商店街にぬける駅ビルのアトレの通路も人の波がつづいていました。また、商店街のクレアモールも、原宿の竹下通りと見まごうばかりの人でごった返していました。

しかも、通りを歩いているのは、地元の若者ばかりではないのです。小江戸・川越を訪れた観光客も多く、ここでも外国人観光客の姿が目立ちました。

昔に比べても、訪れる人がますます多くなっている感じです。クレアモールから蔵造りの建物が並ぶ通りにぬけると、さらに人の多さに圧倒され、歩道を歩くのさえままらないほどでした。あちこちの食べ物屋の前では行列ができていました。通りの賑わいは、鎌倉にも劣らないほどでした。

川越の”繁盛”は、もちろん、東京というメガロポリスに近いという”地の利”があることはたしかでしょう。そのためにテレビなどメディアにも頻繁に取り上げられるため、さらに観光客が増えるのです。

私が昔、大分の友人に川越のことを紹介した際は、川越が原宿や渋谷など”若者の街”の対極にある街だからでした。つまり、若者ではなく、中高年向けに”まちづくり”をしていることが参考になるのではないかと考えたからです。しかし、今や川越は、中高年だけでなく、若者や外国人観光客までもが押し掛ける人気のスポットになっているのです。常に変貌することを宿命付けられたかのような東京にあっては、川越のようなレトロなまち並みが逆に新鮮に見えるのでしょう。


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2016.04.09 Sat l 東京 l top ▲
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目黒川の桜を見に行きました。午前の早い時間で、屋台などはまだ開店準備中でしたが、川沿いは多くの人で賑わっていました。桜は8分咲きくらいでした(午後から横浜の大岡川にも行きましたが、大岡川はまだ5分咲きくらいでした)。

目黒川も中国人観光客の姿が目に付きました。最近は、どこに行ってもアジアからの観光客ばかりです。先々月帰省した際に行った黒川温泉も、中国人観光客に席巻されていました。もちろん、湯布院や別府も然りでした。

泊った別府のホテルも、韓国や中国の団体客で朝のバイキングは大変な騒ぎでした。平気で割り込んでくるのです。もちろん、日本人にも似たような図々しい(しか取り柄がないような)おばさんがいますが、中国人のおばさんはひとりではなくつぎつぎと割り込んでくるので、呆気に取られるばかりでした。最初、この人たち、頭がおかしいんじゃないかと思ったくらいです。

そんな中国人が桜を愛でるなんて、ホントかよと言いたくなります。桜を愛でる真似をしているだけではないのかと言いたくなります。ただ、中国で事業をしている人に聞くと、共産党の党員など都会のエリートは、常識やマナーをわきまえた紳士や淑女が多く、日本人とまったく変わらないのだと言います。マナーの悪い中国人観光客というのは、ひと昔前の日本のノーキョーの団体客と同じようなものなのかもしれません。

ただ、これだけは言えるのは、中国人観光客は日本人よりお金をもっているということです。中国人をバカにする日本人より中国人のほうがはるかに金持ちなのです。日本の「愛国」主義は、アベノミクスに見られるように、拝金主義と国粋主義、それに、従属思想がドッキングしたいびつなものですが、「愛国」主義なら中国のほうが一日の長があると言えるでしょう。「日本はすごい、すごい」とテレビ東京的慰撫史観で自演乙している間に、いつの間にか中国に追い抜かれ、中国の後塵を拝するようになっていたのです。それで今度は、中国経済は崩壊すると言いはじめる始末です。なんだか日本人のおばさんと中国人のおばさんが、朝のバイキングでしゃもじの奪い合いをしているような感じです。

目黒川には、宴会をするスペースなどありませんので、花を見ながらそぞろ歩きをするだけです。あとは川沿いの屋台や店で食事をするくらいです。ただ、ところどころに設置しているベンチの上では、家族連れなどが家からもってきたおにぎりやサンドイッチを膝の上に置き、ささやかな花見の宴を開いていました。そういう光景はいいなあと思いました。


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2016.04.02 Sat l 東京 l top ▲
昨日の夜、首都高羽田線の天王洲のあたりを走っていたら、高層マンションが林立する近未来的で華やかな夜景が目に飛び込んできました。昔は、あのあたりは水上生活者の船が多く係留されている一帯だったのです。その光景は、1964年の東京オリンピックの頃まで見られたそうです。それが今や億に届こうかという高級マンションが林立するエリアに変っているのでした。

私は、同乗者に、「すごいね。あのマンションにみんな人が住んでいるんだよ。よくお金があるね」と言ったら、東京生まれの同乗者は冷めた口調で、「みんな、無理しているんじゃないの」と言ってました。

それが東京なのです。景気がいいのか悪いのか、わからない。信じられないほど景気がよく見える部分もある反面、絶望的なほど景気が悪く見える部分もある。

たしかに東京という街は華やかです。しかし、ひとりひとりの生活は地味で危ういのです。夜遅く駅前のスーパーに行くと、勤め帰りのサラリーマンやOLたちが、気の毒なくらい質素な買物をしています。でも、俯瞰すると、街は華やかに見えるのです。

もうひとつ、最近、私が「すごいな」と思ったのは、街なかでモンクレールやカナダグースのダウンを着ている人がとても多いということです。モンクレールやカナダグースのダウンは、10万円以上もする高級ブランドです。駅前の舗道ですれ違う子ども連れのお母さんのなかにも、そんな高価なダウンを着ている人をときどき見かけます。また、20歳そこそこの若い女の子が、自分の給料と同じくらいの値段のダウンを着て街を闊歩しているのもよく目にします。

どうなっているんだと思いますが、それが東京なのでしょう。ホントに景気がいいのかどうか、誰もわからない。


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目黒川2013020


若い頃は花なんてまるで興味がありませんでした。花見に行くのも彼女とのデートが目的で、花なんてどうでもよかったのです。「花がきれいね」「いや、君のほうがきれいだよ」なんてことは言わなかったものの、花より団子、花より女の子という感じでした。

ところが不思議なもので、年を取ると花が恋しくなるのです。梅でも桜でも、花の季節になると、無性に花を見たいと思うようになるのでした。

今年は桜の開花が早く、都内では先週が見頃でした。そのため先週の土日は、東横線の電車から目黒川が見えるのですが、目黒川の川沿いや中目黒界隈は大変な人出で、文字通り芋を洗うがごとしの様相でした。しかも、昨夜(月)は雨が降り、今日も朝から強い風が吹いていましたので、このままでは今年は桜を見逃してしまうのではないか、そう思うといてもたってもいられません。それで、今朝、目黒川に花を見に行ってきました。

この界隈はドラマにもよく登場するので若いカップルにも人気で、最近もフジの「最高の離婚」というドラマのロケで使われたそうです。恋を語るには、ぼんぼりの明かりに照らされた夜桜のほうがお似合いなのかもしれませんが、花が目当てのピューリタンなおっさんにはそんなの関係ねぇ(古い!)、むしろ朝のほうが似合っているのでした。

(写真はスマートフォンで撮りました)


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2013.03.26 Tue l 東京 l top ▲
東横線渋谷駅0010


午後から渋谷に出かける用事があったので、ついでにもう一度東急東横線渋谷駅の写真を撮ってきました。

今日が最終日とあって、駅構内は記念の写真を撮る人たちで大混雑でした。また明日から地下にもぐる代官山~渋谷間では、道路の至るところにカメラを構えた人たちの姿が見えました。一方、ホームが見渡せる駅前の歩道橋の上もカメラを構えた人たちが鈴なりでした。テレビ局のクルーもあちこちに来ていて、通行人や写真を撮っている人たちにインタビューしていました。

ホームでは、「迷惑になりますので、立ち止まらないでください!」「ここは撮影禁止です。撮影をおやめください!」と警備員たちの怒号のような声が響いていました。そのくせ、「東急電鉄」の腕章を付けたグループは、乗客の迷惑も顧みず(!)ベストポジションでビデオカメラをまわしているのでした。

ホームでは、腰の曲がったお婆さんが写真を撮っていました。聞けば、祐天寺から写真を撮るためにやってきたのだそうで、「涙が出そうですよ」と言ってました。怒鳴られ邪魔者扱いされながらも、みんなそれぞれ思い出を胸にカメラを構えているのでした。


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2013.03.15 Fri l 東京 l top ▲
明治神宮01


朝、明治神宮に”初詣”に行ってきました。時間がはやいということもあったのでしょうが、参拝客は思ったより少なくて、普段の平日とほとんど変わりませんでした。

心境は”初詣”というより「苦しいときの神頼み」といった感じですが、しかし、凡夫はどこに行っても凡夫で、浮世の垢を拭うことはできないのでした。お賽銭箱に100円玉を入れたつもりがうっかりして500円玉を入れてしまったのです。お賽銭を投げ入れた格好のまま一瞬止まり、思わず「あっ!」と声が出てしまいました。

お参りを終えて参道を引き返していたとき、中年のサラリーマン風の男性が、携帯電話でなにやら話しながら私の前を歩いていました。その声が聞くともなしに聞こえてきました。

「申し訳ございません。なんとかしますから」
「はい、私のほうのミスです。申し訳ございません」

どうやらクレームの電話のようです。でも、その男性にしても、つい先ほどお参りしたばかりなのです。「今年も平穏無事にすごせますように」と祈願したのかもしれません。神様はなんと理不尽なんだろうと思いました。

もっとも、キリスト教やイスラム教のような一神教であれば、神は唯一絶対的な存在なので、神から背を向けられたら絶望するしかないのですが、この日本は八百万の神の国です。だから、捨てる神もあれば拾う神もあるのです。

携帯電話を耳に当てたままペコペコ頭を下げている男性をみながら、私は、「拾う神」を求めてつぎの神社を参拝したほうがいいんじゃないか、なんて不謹慎なことを考えました。

今や初詣のテレビCMが流れる時代ですし、またアニメの”聖地”などと言ってオタクに秋波を送る神社まで出てくる時代です。恋愛や病気や商売繁盛などご利益を特化して他と差別化をはかる神社もあります。文字通り、神様の世界も資本主義の洗礼を受けているのです。

「神はまず悲哀の姿して我らに来たる」と綱島梁川が言うときの”神”と、初詣のときに拝殿の奥に鎮座まします”神”は、なんだかまったく別のもののようにさえ思えてきます。たしかに、日本中にある神社は、その土地の”偉人”、つまり「大きな物語」を担った”偉人”を顕彰するという側面もあったのでしょう。

そう考えると、私たちが手を合わせるべきは、拝殿の奥に鎮座まします”神”より、まず自分の謙虚な心のなかにある”神”のほうではないか。仏教で言う「念仏申さんと思ひたつこころ」こそが大事ではないか。それが「八百万の神」の基底にある考え方ではないか、と困ったときだけ神頼みをする不信心者は思ったのでした。


明治神宮02

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2013.01.17 Thu l 東京 l top ▲
大倉山雪1

関東地方をおそった大雪。

もっとも、このブログでも何度か積雪の写真を掲載していますが、東京と言えどもそんなに大雪がめずらしいわけではありません。もちろん毎年あるわけではないですが、何年に1回くらいはあります。そのたびにマスコミは、カマトトぶって「雪に弱い東京」とかなんとか驚いてみせるのでした。

道路が大渋滞になったり、凍結で転倒者が続出して多くの負傷者が出たりというのは、要するに東京が過密都市だからです。雪が降らなくても渋滞しているのですから、雪が降ればさらに渋滞するのは当然でしょう。電車通勤のため、雪が降っても革靴やハイヒールの人が多く、朝、雪の舗道を急ぎ足で会社に向かえば、「滑って転んで大分県」になるのも当然でしょう。

ただ、実際に転倒して負傷するのは、東京より横浜のほうが多いそうです。なぜなら横浜は坂道が多いからです。この積雪のなか、山手のような丘の上の住民たちはどうしているんだろう、どうやってあの坂道を行き来しているんだろうと思いました。

「雪に弱い東京」というのは、いわゆる”常套句”です。いつも雪が降ると、「雪に弱い東京」という”常套句”が使われるのですが、でも、そうやってなにかを語っているようで、実はなにも語ってないのです。そこには、あらかじめ用意された「お定まりの現実」があるだけです。

午後から渋谷に行かなければならない用事があったのですが、雪だけでなく風も強くて、むしろそっちのほうが難儀でした。しかも雪のなか、都心で車を運転するはめになったのですが、環七や山手通りなど幹線道路の至るところで、路肩に車が「放置」されていて、それがよけい渋滞を招いているのでした。そもそも雪が積もった道路をノーマルタイヤで走るなどというのは、「雪に弱い」とか言う以前の問題です。そんな常識のない人が半端なく多いのも東京なのです。


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2013.01.15 Tue l 東京 l top ▲
神宮外苑201211102007

夕方、用事があって青山に行ったついでに神宮外苑に寄ってみました。数日前の新聞に、「黄色の絨毯」というタイトルで神宮外苑のイチョウ並木の写真が掲載されていたのを思い出したからです。

ところが、行ってみると、雨のせいなのか、写真のように「黄色の絨毯」とはほど遠いさみしい光景しかありませんでした。

夢のなかに昔つきあっていた彼女が出てきて、それ以来、なんだか彼女の亡霊にとり憑かれたかのように暗い気分のなかにいます。女性は恋愛に対しても切り替えが早く、男性に比べてドライだと言いますが、こういった気分はやはり男性特有のものなのでしょうか。私は、女のきょうだいのなかで育ち、女性の嫌な面は飽きるほど見てきましたが、だからと言って、女性心理の機微に通じているわけではありません。むしろ、恋愛がことごとくうまくいかなかったのは、この「女心がわからない」性格がわざわいしているとも言えます。

以前、渋谷の雑踏で彼女によく似た女性を見つけて、思わずその場に立ち尽くしたことがありました。また、山手線の電車のなかで、同じように彼女に似た女性を見つけたときは、途端に息苦しくなり額から汗がタラタラ流れ出して、途中の駅で降りたこともありました。

どうしてこんなにひきずるんだろうと思います。それだけ未練があるのかと言えば、どうもそういうのとは違うように思います。だからやっかいなのです。”男心”というのも、女性が思うほど「単純」ではないし「わかりやすい」ものでもないのです。

神宮外苑のイチョウ並木の下を歩いていたら、いつの間にかまた夢の余韻に囚われている自分がいました。そして、いっそう暗い気分になりました。人間を長くやっているとろくなことはないのです。

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2012.11.30 Fri l 東京 l top ▲
スカイツリー1

連休の中日。しがない自営業の身には連休なんて関係ないのですが、それでも連休に浮かれる世間様がうらやましくてなりません。それでふと思いついて、お上りさん気分で、東京スカイツリーに行ってみました。

渋谷から銀座線で浅草まで行って、浅草からスカイツリーラインに乗ると、ひと駅で「とうきょうスカイツリー」駅に着きます。ちなみに、このスカイツリーラインというのは、以前は東武伊勢崎線と呼ばれていました。というか、今でも東武伊勢崎線には違いないのですが、一部区間のみスカイツリーラインと改称されたそうです。また、「とうきょうスカイツリー」駅も、スカイツリーができるまでは「業平橋」駅だったのです。このように都心から離れた”辺境の地”にスカイツリーを造らざるをえなかったために、いろんなところにイメージアップのための苦心がうかがえます。

墨田区に住んでいる知人は、「スカイツリーのある押上(業平橋)なんてなにもないところだぜぇ」とワイルドな口調で言ってましたが、たしかに「なんにもないところ」でした。東京スカイツリーの「東京」は、かつて荒川区にあった「東京スタジアム」の「東京」と同じで、同じ「東京」でも場末感は否めないのです。

もっとも、そんな「なんにもないところ」が街の魅力だったりするのです。だから「住みやすい」ということはあるはずです。スカイツリーは、そんな「なんにもない」街のつつましやかな日常や記憶の積層を蹂躙してやってきたのでした。

東京タワーは、モスラが東京タワーを壊す映画の場面に象徴されるように、いわば高度成長に突き進む日本のシンボルでした。でも、今の日本には、そんな先進国に追いつけ追い越せというキャッチアップの力強さも希望に満ちた明るい未来もありません。東京タワーと違ってもはやシンボルにもなりえないスカイツリーの威容に、私は、悲哀すら覚えました。

スカイツリーには東武と京成の駅がありますが、いづれも改札口がスカイツリーや付属の商業施設の東京ソラマチと直結していますので、これでは大半の観光客はただ行って帰るだけで、周辺の商店街に人が流れることはあまり期待できないように思います。

東京ソラマチ(「エキナカ」や「エキュート」などと同じように、いかにも官僚的な鉄道会社らしい安易なネーミングですが)も新鮮味の乏しい商業施設でした。観光地の施設というより、むしろ街中でよく目にする駅ビルという感じです。ディベロッパーが変わっても、中身はどこも似たかよったかで、この手の施設がもう完全に手詰まりになっていることを痛感させられます。マツモトキヨシもあるし、魚力(魚屋)もあるし、二木の菓子もあるし、三省堂書店もあるし、プラザ(旧ソニープラザ)もあるし、ロフトもあるし、ZARAもあるし、ユナイテッドアローズもあるし、もちろんユニクロもあるのです。それどころか、東武百貨店だってある。どこにもあるものがあるだけです。これじゃJRがやってることと同じで、街を殺すだけでしょう。

帰りはついでに浅草を散策しました。浅草寺周辺は大変な人出でした。いつの間にか台数が増えた人力車の客引きがちょっとうざかったけど、東京スカイツリーを見たあとだとよけい人の温もりを感じてホッとしました。浅草は浅草で大変だという話も聞きますが、地元の人たちの努力もあって、まだかろうじて「街が生きている」という気がしました。

>> 浅草・ほうずき市


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2012.07.15 Sun l 東京 l top ▲
先日、田舎の友人からどこか居候させてくれるところを知らないかと電話がありました。といって、居候するのはその友人ではなく、彼の甥っ子です。なんでも俳優になるために上京すると言ってきかないらしいのです。しかし、住むところのあてもなく、本人は「ホームレスをしてもいい」と言っているのだとか。

私はその気持がまぶしく思えてなりませんでした。それで、「五木寛之は早稲田に入るために上京したとき、下宿するお金がなかったので、早稲田の穴八幡神社の床下に寝泊まりしたらしいぞ。そのほうが大物になるんじゃないか」と言いました。

折しも、先日、『ヤンキー進化論』を書いた難波功士氏の新著『人はなぜ〈上京〉するのか』(日本経済新聞出版社)を読んだばかりなのですが、今の若者たちの人生にとっても、上京は大きな意味をもつのだろうかと思いました。

「東京・東京・東京と書けば書くほど哀しくなる」と言った寺山修司と同じように、私はとにかく東京に行きたくてなりませんでした。東京に行かなければなにもはじまらない、東京から自分の人生ははじまるのだ、と思っていました。しかし、今になり、じゃあなにがはじまったんだと自問すると、ただ自己嫌悪におちいるばかりです。結局このざまだ、という気持しかありません。

しかし、それでも上京したことを後悔する気持はありません。それは自分でも不思議です。だから、将来田舎に帰りたいという気持もまったくありません。むしろ、(何度も言いますが)たとえ野垂れ死にしても田舎には帰らない、という気持のほうが強くあります。

『人はなぜ〈上京〉するのか』のなかでは、つぎのような五木寛之の文章が紹介されていました。

 九州出身者なら、九州から鈍行を乗りつぎ、参考書を枕にごろ寝しつつ悠々上京してくるような受験生が好きだ。東京の宿が高いと思えば、新宿あたりのフーテンと共に街に眠って、デパートの便所を使い、大学の池で顔を洗って試験場に臨むような高校生が好きだ。場合によったら、ジャズ喫茶か何かで金持ちの遊び人女子学生でも引っかけ、相手の車でも貸してもらって、その中で寝るような若者が好きだ。新宿旭町付近でも、どこでも一泊二百円のベットハウスぐらいびくともしない受験生が好きだ。(五木寛之『風に吹かれて』新潮文庫、1972年)


私も五木寛之の真似をして、ゴーリキーの『私の大学』を携えて上京し、友人のアパートを転々としていました。受験のために上京したときも、ホテルなんて望むべくもなく、このエッセイと似たようなことをしていました。親も私がどこに泊まっているか知らなかったくらいです。あの頃のことを思い出すと、息苦しくなるくらいなつかしくてなりません。

今の私にとって、春はどこかせつないものがあります。いつの頃からか、そんな季節になりました。春は希望に満ちた旅立ちのイメージがありますが、この年になると、もうそんな季節が訪れることがないからでしょうか。
2012.03.25 Sun l 東京 l top ▲
有栖川記念公園3914

どうやらしばらく広尾に通うことになりそうです。今日も広尾に行きましたが、時間が空いたので、有栖川公園(有栖川宮記念公園)に行って時間を潰しました。今日も季節外れの「真夏日」でしたので、公園内の小川では近所の子どもたちがザリガニ捕りをしていました。

広尾では時間を潰すのに苦労します。マクドナルドも狭くていつも混雑しているので、とても入る気になりません。かといって、肩にセーターを巻いて、素足でモラシンをはいた、石田純一もどきのおっさんが通りに向かって足を組んですわっているような、おっしゃれなカフェにひとりで入る勇気はないし、北尾トロ氏ではないですが、「ルノアールはないのか?」と言いたくなります。ルノアールのない街はどうもなじめません。

もっとも、広尾も以前に比べると、なんだか華やかさがなくなり、街全体がくすんだような印象を受けました。なかでも広尾ガーデンの凋落がそれを象徴しているように思います。昔を知る人間としては、伊東屋や青山ブックセンターやソニープラザ(クリスマス限定店舗)のない広尾は、やはりさみしいものがあります。さらに同じようにランドマークだったナショナル麻布も今月いっぱいで閉店するそうで、じゃあこれからの季節、クリスマスカードはどこで買えばいいんだろうと思いました。広尾の街には、個人的に悲しい思い出もありますが、いいことなのか悪いことなのか、そういった思い出も一緒にくすんでしまったような感じでした。

昨日、テレビの情報番組で、「セレブの街・六本木」の特集をしていましたが、それをみていて、どこが「セレブの街」なんだ?と思いました。足が地についてないような「如何にも」といった感じの会社や人間が多いのもこの界隈の特徴です。

「ガキみたいな女の子がどうして家賃が30万も40万もするようなマンションに住むことができるのか、一体なんの仕事をしているんだ?と思いますよ」と地元の人が言ってましたが、それが東京なのですね。いわばそれは「動体視力でみる東京」です。その女の子にしても、半年か1年もすればいなくなるのです。そして、また別の女の子がやってくる。そのくり返しなのです。

人間だけでなく会社もショップも同じです。あんな高い家賃のところに店を出して、ホントに採算が合うんだろうか?と考えるのは野暮なのです。みんな短いサイクルでどんどん入れ替わっていく。でも、私たちがみているのは、そのひとコマにすぎないのです。そして、「東京ってすごいな」「みんな、おしゃれでいい生活をして羨ましいなぁ」と思うのですね。

若い頃、六本木通りを車で走っていたとき、横の車線からベンツが強引に割り込んできたので、「どうしてベンツやBMWに乗っているのは、マナーの悪いやつが多いんだろう?」と言ったら、助手席に座っていた女の子から、「そんなことを言うとみじめになるだけだよ」と言われたことがありました。思わず首をしめてやろうかと思いましたが、運転中だったのでムッとして黙っていたら、「どうしたの? 急に黙って」と言われました。長い髪をなびかせ颯爽とした足取りで前から歩いてくるモデル風の女の子をみていたら、ふとそんなことを思い出しました。妙なことはいつまでも覚えているものです。

>> 六本木
2011.10.19 Wed l 東京 l top ▲
昨日、今年の夏いちばんの暑さだったそうですが、原宿で人と会う用事があったので午後から出かけました。

用事のあと、ついでに原宿界隈を散歩しました。といっても、表通りはとても散歩する状態ではないので、裏道を選んで散歩しました。

残念ながら写真は撮っていません。デジカメで写真を撮ろうとしたら、カメラがまったく反応しないのです。「故障?」と思ってなかを開けたら、電池が入っていませんでした。充電したまま本体に戻すのを忘れていたのです。年をとると、このように毎日がハリー・ポッターです。

歩いているうちになんだかさみしい気持になりました。若い頃は歩いていると必ず誰か知り合いに会ったものです。でも、今は知っている人に会うこともありません。それどころか、なんだか知らない街にでも来ているかのような気持になりました。

途中、私が事務所を借りていた場所を通りました。昔、私はサラリーマンをしながら、一方で事務所をもって別の仕事をしていたことがありました。いわゆる二足のわらじで、事務所にはアルバイトの女の子まで雇っていました。しかし、借りていたビルは既に建て替えられており、周辺の雰囲気も全然変わっていました。かろうじて角の郵便局が当時のまま残っているだけでした。

会社を辞めてしばらくして、同じ会社に勤めていた人間と会ったら、「変わりましたねえ」「別人みたいですよ」と言われたことがありました。たしかに、あの頃は若くてバイタリティがあったなと自分でも思います。

ついでに駐車場を借りていた場所に行ったら、おしゃれなビルが建っていました。アパレルの会社が入っていた角のビルは、今は空いているらしく、ショールームだった部屋のガラスに「テナント募集」の紙が貼られていました。

ビルの前の路上では、個性的な格好をした若者たちが煙草を吸っていました。彼らもやがて年をとったら、孤独感と疎外感を抱きながら、同じ通りを歩くことになるんだろうかと思いました。

表参道から脇道に入り、キラー通りと呼ばれている外苑西通りにいったん出て、再び原宿駅の方に戻り、最後は表参道の反対側からキャットストリートを通って渋谷まで歩きました。

グレイのポロシャツを着ていたのですが、ふと気が付くと、脇の下などに黒く汗が浸みだしていました。いかにも加齢臭+汗の臭いプンプンのおっさんといった感じなので、汗をひかせようと、渋谷の駅裏にある喫茶店に入ったのですが、案の定「節電」でいっこうに涼しくないのです。しかも、店内は煙草の臭いでむせるほどでした。それで、よけい暗い気持になりました。
2011.08.19 Fri l 東京 l top ▲
表参道3206

表参道のイルミネーションは、一昨年11年ぶりに復活したのですが、環境に配慮してLEDに切りかえたからなのか、以前に比べるとやや地味な感じを受けます。人出も以前ほどではありません。もっとも、今はいろんなところでイルミネーションが行われていますので、わざわざ原宿に来るまでもないのかもしれませんが。

表参道を歩いている人達を見ると、ここでも若者に混じって中高年の姿が目に付きました。中でも目立つのは、ホテルのランチバイキングのコーナーを占領しているような中高年の女性グループです。彼女達はヴィトンやグッチやシャネルやフェンディなど、誰でも知っているようなブランドのバッグを手に提げているのが特徴です。

道ですれ違う同年代の男性を見ても、結構おしゃれをしている人はいるのです。おそらくその人なりのこだわりをもって、おしゃれしているつもりなのでしょう。しかし、はたから見るとおしゃれしているようには見えないのです。だからといっておしゃれをやめると、”最後の砦”も失ってしまうような気がしてやめるわけにはいかないのでしょう。その気持はよくわかります。

雑誌などでもよく「ナイスミドルになるためのおしゃれ術」なんて特集が組まれて、「年を取るほどおしゃれは必要です」とか「おしゃれをする気持を忘れたらおしまいです」なんて”おしゃれ心”を煽るのですが、それは常に過剰生産恐慌の恐怖にさらされながら拡大再生産をつづけなければならない資本主義の呪文のようなものです。

やっぱり、おしゃれは若者のものです。表参道を歩きながらつくづくそう思いました。何と言っても彼らのおしゃれは街に映えています。そんな若者が羨ましくてなりません。若い頃もっと勇気を出しておしゃれをすればよかったと思いました。

彼らの可処分所得の多くはおしゃれに使われているのでしょう。よくひとり暮らしの女の子から、食事代をけずってでもファッションにお金をかけるという話を聞きますが、そういう”情熱”が羨ましいなと思います。中高年のおしゃれは、どこか「浮いている」感じがあり、ある種の痛ましささえ覚えることがありますが、若者のおしゃれにはそれがないのです。

もちろん、武田泰淳ではないですが、そんな若者達も苦悩とは無縁ではないのでしょう。しかし、少なくともそうやっておしゃれをして街を闊歩している姿は、すがすがしくていいもんだなと思いました。人生において、そういった「楽しい」とか「好き」とかいった気分や気持は、ホントに大事だなと思います。

街を歩く楽しさ、東京にはそれがあります。それが東京の大きな魅力です。

表参道3232

表参道3248

表参道3263

表参道3269

表参道3284
2010.12.14 Tue l 東京 l top ▲
川越_3015

今日は午後から川越に行きました。川越に行くのは、横浜に引っ越して以来なので、約4年ぶりです。10数年前、まだ川越が今ほどメジャーではなかった頃、大分の地元で街おこしをやっている友人に川越のことをメールに書いたことがあります。

若者相手のかわいいペンションの時代は終わった。これからは中高年だ。中高年がけん引するホンモノのレトロブームが来る。その成功例が川越で、今後の街づくりの参考になるんじゃないか、というようなメールを送りました。すると、市の職員などを伴って九州から視察にやって来たのです。

その際メールに添付した川越の写真がいつの間にかフォルダごと消えてしまいました。それで、あらためて写真を撮りに出かけたのでした。

言うまでもなく川越は、その後、NHKの連続ドラマの舞台にもなったりしてすっかりメジャーになりました。しかし、その分、作りものじみた部分が目立つようになり、逆につまんなくなった気がしないでもありません。

でも、団塊の世代の足腰が立たなくなるまでこのレトロブームはつづくのではないでしょうか。まったくどこに行っても「ちい散歩」ごっこの中高年ばかりです。

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2010.11.14 Sun l 東京 l top ▲
神宮外苑2988

尖閣諸島沖ビデオのネット流出事件は、実に「いやな感じ」(高見順)がしました。ビデオの公開にさまざまな意見があるのはわかりますが、あくまでそれを判断するのは政治です。どんなに愚鈍な政治であろうとも、それが民主国家としての最低限のルールです。犯人の海上保安官は「国民が知るべきだ」と言ったそうですが、一介の公務員のどこにそんな権利があるのか、と言いたいですね。海上保安官の行為は、シビリアンコントロールの否定にもつながりかねない、きわめて重大な”公務員の犯罪”です。しかし、そういった問題の本質がいっさい問われることなく、ただ情緒的扇動的な報道がくり返される今の状況は、まったく異様だとしかいいようがありません。

APEC開催中とあって横浜はどこも警察官の姿ばかりが目立っています。ましてみなとみらいは散歩どころではありません。それで、今日は秋の風情を求めて神宮外苑に行きました。しかし、渋谷の街も警察官がやたら目につきました。渋谷郵便局に寄って、そのまま青山通りを通って神宮外苑まで歩いたのですが、青山通りでは車道に警察官がずらり並んで検問も行われていました。

絵画館前ではいちょう祭りの準備が行われていましたが、まだ少し早い感じでした。いちょうと言えば、子供の頃、近所の神社の境内にあったいちょうの木を思い出します。私達はその神社を「天神様」と呼んでいましたが、この季節になると、木の下の黄色に敷きつめられた落葉の上でよく相撲をとったりして遊んだものです。

青山通りを歩いていて、ふといつもと違うなと思いました。最近、自分はこんな歩き方だったかなと思うことがあって、歩いている自分に違和感を抱くことが多かったのですが、今日はまわりのペースにあわせて大股でさっそう(?)と歩いている自分がいて、気分も爽快でした。

考えてみたら、歩く自分に違和感を覚えたのは横浜に引っ越してからです。横浜の人は都内と違って歩くのがのろくて、特に横浜駅のような人ごみでは、自分のペースで歩けないもどかしさをいつも感じていました。歩くことひとつにも、そういった「身体の記憶」というのがあるのだということがわかりました。

神宮外苑3001

神宮外苑3013
2010.11.11 Thu l 東京 l top ▲
四谷_2966

早いもので、もう10月です。今年も残すところあと3カ月。

10月は私の誕生月ですが、この年になると誕生日なんて来なけりゃいいのにと思いますね。先日、70才すぎてもなお、現役のピアニストとして仕事をされている方に会った際、敬老の日の話になりました。

「敬老会に行くんですか?」
「行くわけないわよ」
「老人会から招待されないんですか?」
「だから、老人会に入ってないのよ。老人会に入ってなければ関係ないのよ」
「じゃあ、田舎と違うんですね? 田舎の場合、ほとんど強制的に敬老の日には敬老会に招待されて、公民館などで婦人会がご馳走を作って接待するんです。だから、65才になったら自分の意思に関係なく老人扱いですよ」
「まあ、それこそお節介よね。田舎じゃなくてよかった」
「これから老人になる人間から言わせもらえば、敬老の日なんてなくなればいいのにと思いますね」
「あたしもそう思うわ」
「民主党も郵政改革法案なんかより敬老の日廃止法案でも出してもらいたいですよ」
「ホント、敬老の日なんてありがた迷惑よね」

こうして誕生日が来るということは、あの悪夢のような「敬老の日」が1歩づつ近づいているということなのです。「敬老」と言うなら年金をなんとかしろと言いたい。口先だけで「おじいちゃん、おばあちゃん、長生きしてくださいね」と言うのは簡単なのです。

先週の『週刊東洋経済』では、「第2の就活 70歳まで働く! 」という特集が組まれていましたが、私だって70才になっても75才になっても元気なうちは働きたいと思っています(というより働かなければならない)。真昼間から用もないのにホームセンターや家電量販店の中をウロウロして、木の実ナナのような私服警備員から尾行されるくらいなら、元気な老人は働いた方がいいと思いますが、だからと言って、高齢や病気で働けなくなった、特に(官僚が好きな)「自助努力」ができなくなった生活困窮者の老人が見棄てられるような現実は、決して見すごせるものではありません。厚労省が全廃を決定している療養型病床の問題ひとつをとっても、菅政権の言う「最小不幸社会」は悪い冗談だとしか思えません。

「今の菅さん達を見ても、松下政経塾を出たような若い人達が多くて、あの人達は頭はいいのかもしれないけど、政治をただ観念的にシステムとしてしか捉えてないような感じで、人が見えてない気がする。それって怖いわよ」 この老ピアニストの言葉は、今の菅政権の本質を衝いているのではないでしょうか。

四谷土手_2957

今日は午後から慶応大学病院に行く用事があったのですが、久しぶりの晴天だったので、渋谷から青山通り・神宮外苑を通って信濃町まで歩きました。私は会社を辞めてから、5年間くらいほぼ毎日のように神宮外苑から信濃町の慶応大学病院の前を通って四谷三丁目まで車で通っていたことがあります。それで、同じルートを歩いてみようと思ったのです。

また、用事を終えたあとも、四谷三丁目から新宿通りを四谷駅まで歩いて、さらに四谷雙葉の前からお濠沿いの土手を歩きました。四谷の土手は特に木がこんもりと茂っていて、都心とは思えないくらい緑にあふれています。

四谷にももう20年近く通っていますが、都心の街にしてはめずらしくそんなに大きな変化は感じません。小さな飲食店でもつづいているのは、それなりに商売ができているということなのでしょう。四谷という街は、案外住んでいる人が多いということもあってか、ほかの街に比べて「地元意識」のようなものが強いように思います。

今日も新宿通りを歩いていたら、「久しぶり、元気?」と声をかけられました。私は一度も行ったことはないのですが、しんみち通りだかにあるレストランのご主人でした。知り合いの会社で何度か顔を合わせているうちに、顔見知りになったのですが、そういう気さくな一面があります。

土手を歩いている途中、ふと思いついて、近くの会社に勤めている知人に電話をしたところ、市ヶ谷駅の近くのルノアールで待ち合わせることになりました。せきしろの『去年ルノアールで』ではないですが、私達の世代はやはり、ルノアールが落ち着きますね。知人と一緒に某総合誌の元編集者だという人もやってきました。知人の知り合いらしいのですが、有名出版社の裏事情など、いろいろ面白い話を聞きました。特に、社会が騒然としていた70年前後の保守論壇の動向などは興味をそそられました

知人と別れたあと、再び、麹町の旧日テレ通りを上って新宿通りを四谷三丁目まで戻りました。途中、上智大学の前では、ゼッケンをつけた数人の学生がアジ演説をしていました。夕暮れの近代的なビル群の中に、彼らの拡声器の声がやけに大きく反響していました。

帰って万歩計を見たら、1万9千歩でした。


四谷駅_2955
四谷駅

上智大グランド_2963
上智大グランド
2010.10.01 Fri l 東京 l top ▲
巣鴨2929

来るべき老後に備えての予行演習というわけではないのですが、今日は巣鴨に行きました。と実は、私にとって巣鴨は思い出のある街なのです。

高山文彦氏の『エクストラ-中上健次の生涯』(文春文庫)を読むと、中上健次も私と同じ高田馬場の予備校に通っていたようですが、私もまた中上健次と同じように名ばかりの予備校生で、当時はほとんど住所不定の状態でした。それで一時、巣鴨の地蔵通りのすぐ脇に入ったところにある友人のアパートに居候していたことがありました。ある夜、友人が「明日は5時に起きる」と言うのです。聞けば、毎月4の付く日がとげぬき地蔵の縁日なのですが、縁日の翌朝は早く起きて、地蔵通りに落ちているお金を拾って歩くのだとか。これが結構な金額になるのだそうで、「早く行かないとホームレスに先を越されるからな」と言ってました。

当時は縁日になると、包帯を巻いて杖をついた傷痍軍人の物乞いが地蔵通りの入口に立っていることもありました。もちろん、戦後40年以上経って、傷痍軍人などいようはずもありません。あるとき、歩道橋の下で休憩している彼らに、友人が「儲かりますか?」と訊いたらしいのです。すると、途端に鬼のような形相になり、襟首をつかまれて「ぶっ殺すぞ!」と言われたのだとか。友人は、「あいつらには近づかない方がいいぞ」と言ってました。

巣鴨2932

車ではしょっちゅう通っていましたが、こうしてのんびり地蔵通りを歩くのは久しぶりでした。巣鴨は舗道も広くゆったりしていますし、知る人ぞ知るときわ食堂をはじめ、定食屋も多く、今も昔もひとり者には暮らしやすい街だと思います。地蔵通りから一歩中に入ると、まだ昔の民家も残っていました。もしやと思って、友人のアパートがあった路地に入ってみましたが、さすがに友人のアパートは残っていませんでした。

地蔵通りにはきれいな娘がいる蕎麦屋があって、娘目当てに好きでもない蕎麦を食べに行ってました。娘がオスカー・ピーターソンのファンであることまで聞き出したのですが、なぜかそのあとの記憶が残っていません。なにか記憶を消したくなるような出来事があったのでしょうか。その蕎麦屋を探したのですが、残念ながら見つかりませんでした。

また、サラリーマンの頃、フランス帰りの芸術家崩れで占有屋をやっていた知人がいて、彼が巣鴨のビルを占有していたことがありました。私も一度訪ねて行ったことがあるので、そのビルを探したところ、今は立派な会社が入居するビルになっていました。ちなみに、占有屋の知人は、ある日突然連絡がつかなくなり、以後音信不通のままです。

巣鴨2944

とげぬき地蔵の本殿の前では、やや素人ばなれした背広姿の中年男性が、横綱の土俵入りのような大仰な動作で、二礼二拍一礼してお参りしていました。でも、とげぬき地蔵は、高岩寺というれっきとした曹洞宗のお寺のはずです。さらにあろうことか、男性はお地蔵さんの前でも同じように二礼二拍一礼していました。

ビートルズ以後の世代である我々は、年をとっても巣鴨詣でをすることはないだろうと思っていますが、ホントにその心配はないのでしょうか。仮に永井荷風が現代に生きていたとしても、荷風は絶対に巣鴨へは行かなかっただろうと思います。そういう老人になりたいものです。とか言いながら、ビートルズもローリングストーンズも関係ないくらい老いさらばえると、やはり、念仏をとなえながらお地蔵様の膝や腰をタオルでこすっていたりするのかもしれません。巣鴨には縁起ものの赤い下着を売る店がありますが、赤いパンツをはいて塩大福を食べている自分の姿なんて想像したくないですが。

巣鴨2950

帰りは、地蔵通りからそのまま庚申塚をぬけて大塚駅まで歩きました。大塚駅の前では、会社帰りのサラリーマンといった感じの初老の男性が、駅から出てくる若い女性に片端から声をかけている姿が目に入りました。以前は渋谷のセンター街でそういった光景をよく目にしましたが、大塚にもラブホテルがありますので、おそらく「お金をあげるのでホテルに行かない?」と”援交ナンパ”をしているのだと思います。「おっさん、なに考えてるの?」と言いたくなりますが、世の中にはそういった煩悩にまみれた、救いようのない人間もいるのです。しかし、仏教に「摂取不捨」という言い方がありますが、仏教ではこういう煩悩熾盛の人間こそ救われる、救われなければならないと言うのです。特に親鸞以後の考え方はそうです。巣鴨詣での善男善女にすれば、「じゃあ、あたしたちはなんなのよ」と言いたくなるでしょうが、仏教というのはときに理不尽に思えるほど慈悲深いのです。

一方で、つらつら考えるに、そんなアホなおっさんと私達はどう違うんだろうという思いもあります。私達だって、煩悩熾盛の人間であることには変わりがないのです。「摂取不捨のご利益」というのも、実は誰も救われないという逆の意味もあるんじゃないか。ふとそう思いました。私達のまわりを見ると、むしろそう考えた方が納得できるような気さえします。ホントは善男善女なんてどこにもいないのかもしれないのです。夕暮れの大塚駅前で発情しているおっさんを見ながら、凡夫の私はそんなことを考えました。
2010.09.03 Fri l 東京 l top ▲
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関東地方はこの週末が桜の見納めだと言うので、今日は目黒川に夜桜見物に行きました。横浜で用事を済ませてから、そのまま東横線で中目黒まで行きました。土曜日の夕方だからなのか、中目黒の駅は人でごった返していました。特に改札口の前の歩道は待ち合わせの人で通り抜けるのに苦労するほどでした。かと言って、夜桜見物でもなさそうで、週末はいつもこんな感じなのかもしれません。

車ではしょっちゅう通っていましたが、中目黒の街をゆっくり歩いたのは久しぶりでした。やはり東横線沿線で常にトップの人気をほこる街にふさわしく、表通りだけでなく路地の中も活気にあふれていました。大倉山の商店街とは比べものになりません。中目黒に比べたら、大倉山なんてお通夜みたいです。

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山手通りを五反田の方に少し歩いて、目黒川沿いの遊歩道に下りました。川の両岸にずらりと下がったぼんぼりの灯りに桜の花がほんのりと浮かび上がり、なんとも言えない幽玄な雰囲気をかもし出していました、と言いたいところですが、そうでもなかったです(笑)。ちょっと遅かったみたいで、人もそんなに多くありませんでした。川面が白い泡のようなものにおおわれているので、目黒川はまだこんなに汚染されているのかと思ってよく見ると、なんとそれは川面をおおう桜の花びらでした。

歩いているのは圧倒的にカップルが多かったです。学生風のバカップルは少なくて、大人のカップルが多かったように思います。その点は横浜と違います。

途中、目黒エンペラーという有名なラブホテルがあるのですが、その前を通りかかったら、ちょうどカップルがホテルから出てきたのです。そうなると私の好奇心はもう押さえようがありません。よく見ると、中年男性と若い女性のカップルでした。男性はいかにもさえない感じのおっさんでした。髪はビゲン(白髪染め)の使いすぎで茶色に変色して、しかも下刈りをすませたばかりの雑木林のようにスカスカなのです。一方、女性の方は20代の半ばくらいで今風のかわいい子でした。言うなれば、温水洋一と北川景子のようでした。

この不釣り合いなカップルはどういう関係なんだろう?と考えはじめたら、もう頭の中はそのことでいっぱいで桜どころではありませんでした。さまざまな想像が頭の中をかけめぐり、うしろから追いかけて「どういう関係ですか?」と直接訊きたい心境でした。

帰りは、行人坂をのぼり目黒駅から東急目黒線で帰りました。
2010.04.10 Sat l 東京 l top ▲
私はかつて有楽町の西武と阪急を担当していましたが、有楽町西武が今年の12月で閉店するというニュースを聞いたとき、「やっぱり」と思いました。これは、西武がセブン&アイ・ホールディングスの傘下に入ったときから既定路線だったように思います。ニュースの中で、有楽町店が西武の"顔"だったというような言い方がありましたが、有楽町店は最初からお荷物で、"顔"というほどの存在感はなかったように思います。もともとデパートにしては床面積が小さかったので、堤清二氏は、当初雑貨専門のデパート(つまり、のちのロフト)にしたかったんだという話を聞いたことがあります。

ご多分にもれず近年売上げは落ちていたようですが、それでも真向かいの阪急よりはましだったそうです。ただ、阪急に比べて賃料が高いので、それが大きな負担になっていたようです。私が担当していた頃でも、西武と阪急を比べると、売場のコンセプトにしても品揃えにしても問題にならないくらい西武の方が上でした。

横浜を見ても、横浜そごうはもはやデパートと呼べるんだろうかと思うときがあります。おしゃれな横浜市民は高島屋に行くけど、典型的な横浜市民はそごうに行くと言われるのもむべなるかなと思います。デパートの時代が終わったのは誰の目にもあきらかで、ヨーカドー傘下で無残な姿をさらすよりはむしろよかったのではないでしょうか。
2010.02.10 Wed l 東京 l top ▲
新宿1・2009年12月30日

ほしい本をネットで検索したら、新宿の紀伊国屋と池袋のジュンク堂にしか在庫がなかったので、新宿の紀伊国屋まで行きました。いつもこの時期になると、渋谷や新宿などの駅前には聖書の言葉を掲げる集団が現れるのですが、たしかに行き交う人達は、私も含めて罪深き人間ばかりのようです。

紀伊国屋の中で、若者達が群がっているコーナーがあったのでなんだろうと思ったら、先頃亡くなったレヴィ・ストロースを特集したコーナーでした。誰かも言ってましたが、今の若者というとどうしてもネットの掲示板などのイメージでとらえがちですが、もちろんこのような若者達もちゃんといるのです。

新宿2・2009年12月30日

新宿駅では市ヶ谷かどこかで人身事故があったとかで、中央線が止まっていました。東京では毎日、このように人身事故で電車が止まっています。人身事故というのは、要するに飛び込み自殺のことですが、おそらく明日の大晦日もあさっての元日も、どこかの電車は人身事故で止まるのでしょう。武田泰淳が言うように、みんな、苦悩を背負って歩いているのですね。それを考えれば、罪を悔い改めるなんてたいしたことではないように思いました。

では、よいお年をお迎えください。
2009.12.30 Wed l 東京 l top ▲
浅草・ほうずき市01


マスコミ風の言い方をするなら、下町の夏の風物詩、浅草のほうずき市に行ってきました。私は、ほうずき市は初めてでしたが、仲見世から浅草寺の界隈は大変な人出でした。お約束のマスコミもテレビ局各社が取材に来ていました。

また、外国人観光客の姿も目立ちました。欧米系の外国人はひと目でわかりますが、アジア系、特に台湾・韓国・香港・中国からの観光客は、人ごみに紛れたら日本人と見分けがつきません。それを考えれば、相当数の外国人観光客が来ていたのではないでしょうか。今や浅草も原宿の竹下通りなどと同じように外国人観光客で持っているようなものかもしれません(竹下通りの場合は大半はアジアからの観光客ですが)。

田舎の人間にすれば、ほうずきがひと鉢2500円と言われると「なんで?」と思いますが、ここは花の都・東京ですので致し方ないのかもしれません。子供の頃、よくほうずきを口で鳴らしたものですが、この鉢植えのほうずきもやはり口で鳴らすんだろうかと思いました。

浅草も久しぶりでした。私は、以前は仕事するのももっぱら車でしたので、都心の道路はそれこそタクシーの運転手ができるくらい精通しているつもりですが、他に江東区や墨田区や台東区といった、いわゆる下町の道路も結構詳しく、それくらいよく来ていた時期がありました。

浅草と言うと、どうしても永井荷風を連想しますが、荷風が通っていた頃の浅草は、(荷風自身は「昔のような江戸情緒がなくなった」と嘆いていたようですが)今と違ってまだワクワクするような華やかさがあったのではないでしょうか。

また、個人的には、故・竹中労氏が『黒旗水滸伝・大正地獄篇』(皓星社)で描くところの、「左右を弁別せざる時代」大正デモクラシー下の浅草にも遠く想像力をかきたてられるものがあります。当時、浅草の空にそびえていた十二階下の「青白き巣窟」(室生犀星)や浅草出身のニヒリスト辻潤と彼をめぐる「美的浮浪者の群れ」など、なんだか想像するだけでも蟲惑的なロマンを覚えます。

私は、浅草に来ると、「人生の幸せってなんだろう?」と考えることがあります。それは、野毛などと同じように、浅草も人生が露出している街だからかもしれません。浅草も個人商店の街なのですね。それは、渋谷や原宿や代官山や六本木やみなとみらいなどにはない浅草のよさです。だからこそ、浅草には本来の意味で”ハレ”があるように思います。荷風が晩年、孤独な生活の中で、浅草に日参したのもなんとなくわかる気がします。

浅草・ほうずき市02

浅草・ほうずき市03

浅草・ほうずき市04

浅草・ほうずき市05

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浅草・ほうずき市061

浅草・ほうずき市06

浅草・ほうずき市08
2009.07.09 Thu l 東京 l top ▲
エチカ池袋

オープンしたばかりのエチカ池袋に行きました。残念ながら写真を撮ることができませんでしたので、今回はパンフレットの画像のみです。

私が上京して最初に住んだのは、西武池袋線沿線の街でした。そして、一昨年、横浜に引っ越すまで10数年住んでいたのが、東武東上線沿線の街です。従って、乗継ぎ駅の池袋は、私にとって東京でいちばん馴染みのある街です。特に、東武東上線を利用するようになってからは、東口より西口に出ることが多くなりました。西口は東口に比べて人が少なく、ややひなびた感じがあるので、なんとなくホッとするところがありました。

それに、なんと言っても私にとっていちばん大きな理由は、西口には芳林堂書店(2003年12月閉店)があったからです。東武デパートの旭屋や東口のジュンク堂など大型書店ができるまでは、池袋と言えば芳林堂でした。私は本屋に行くのが趣味のような人間ですが、いちばん利用したのはやはり池袋の芳林堂です。

西口の地下の端には人知れず新線池袋という駅がありました。有楽町線の和光市駅や小竹向原駅でうっかり「新線池袋行」に乗ろうものなら、西口の地底深くに作られたホームに放り出され、少なからず戸惑うはめになります。ましてJRに乗り換えようとすると、改札口を出てからさらに閑散とした地下通路を東口の方に向って延々歩かなければなりませんでした。

その閑散とした地下通路に約40の店舗が入って先月オープンしたのが、エチカ池袋です。ちなみに、”駅の地下”だから、「エチカ」だそうです。もちろん、事業主体は東京メトロ(旧営団地下鉄)です。エチカ池袋の場合、20代~40代のカップルがターゲットだそうですが、実際は有楽町線や副都心線を利用して都心で働く、埼玉都民の若い女性達が主流になるのでしょう。それにしても、東京メトロが「エチカ」で、JR東日本のエキナカ(駅の中)が「エキュート」(駅がキュート?)と、いづれも人を食ったような安易なネーミングで、なんだかまぎらわしくてなりませんね(ネーミングまでが横並びというのはいかにも官僚的な鉄道会社らしい気がします)。

西口の商店街は、今回は相乗効果を期待して反対もなかったそうです。たしかに、JRと違って改札口の外の通路なので、利用客が地上に出てくることを期待する気持はわからないではありません。しかし、残念ながら地下通路の構造や位置関係からみると、とても地上に上がってくるとは思えず、相乗効果は画餅になる可能性大です。

それより、池袋を利用する埼玉都民の多くが口にしているように、「ホントに大丈夫なの?」というのが偽らざる現実でしょう。これほどエキナカや駅ビルが乱立すると、もはやテナントに新鮮味もなく、あきらかに企画のマンネリ感は否めません。もっとも、東京の都心の地域間競争なるものも、所詮鉄道会社におんぶに抱っこしたものでしかないのですから、こんな個性のない街づくりが消耗戦になるのは当然でしょう。

ところで、私が何より驚いたのは、このエチカ池袋のコンセプトが「池袋モンパルナス」だということです。西口には東京芸術劇場があるので(かの舞台芸術学院もあるし)、その延長で「池袋モンパルナス」を思いついたのかもしれませんが、資本というのは金もうけのためならなんでも利用するもんだなとあらためて思いました。

「池袋モンパルナス」については、宇佐美承氏が文芸誌『すばる』に連載していたのを読んで私も初めて知ったのですが(同氏の『池袋モンパルナス』は現在、集英社文庫に収録)、その芸術家達御用達であった芳林堂も今はなく、また、サンカ小説で有名な作家・三角寛(大分県直入郡出身)がはじめた文芸座も実質的になくなり、今や池袋中華街構想に象徴されるように、中国人とムスリムの聖地と化したような西口に、「池袋モンパルナス」をコンセプトにもってくるなど、「いい根性しているな」と思いました。(西口の商店街が反対しなかったのは、中華街構想よりまだこっちの方がマシだという消去法だったのかもしれません)

もっとも、エチカ池袋は全面オープンではなく、今秋、さらに「アートの薫りがするゾーン」「ESPACE ART」がオープン、同時に地上9階地下3階のテナントビル・池袋12番街区ビル(仮称)も完成予定だそうです。しかし、西口には既に東武百貨店の隣にメトロポリタンプラザもありますし、埼玉都民ならずとも「ホントに大丈夫なの?」と言いたくなりますね。毎日乗継ぎでいろんなものを見ている埼玉都民の感覚は意外と鋭いですよ。あなどるなかれ。
2009.04.02 Thu l 東京 l top ▲
町田001

かつて業界では、柏(千葉県)と大宮(埼玉県)と町田(東京都)が東京近郊で最も元気のある街だと言われていました。たしかに、夕方に行くと、駅前の商店街などは都心の繁華街に負けないくらい大変な活気がありびっくりさせられます。後年、そのネタ元がアクロスであったことを知りましたが、要するに、都心へ向かう買い物客をそれらの街が途中で堰きとめていると言いたかったのかもしれません。

後述の『新・都市論TOKYO』でも紹介されていましたが、町田を舞台にした三浦しをんさんの小説『まほろ駅前多田便利軒』(文春文庫)で描かれているように、町田には「スーパーもデパートも商店街も映画館も、なんでもある」のです。私も「若者達のジモト(地元)志向」なんていう言葉を耳にすると、必ず町田を連想します。もっとも、私の場合は、かつて同じ会社に勤めていた女の子から、学生時代はいつも厚木のベースのアメリカ兵と町田で遊んでいたという話を聞いたことがあり、そのイメージが未だに残っているからかもしれません。ちなみに、彼女は小田急線沿線の新興住宅街に住んでいて、幼稚園から大学まで玉川学園に通っていた典型的な東京近郊のプチブル家庭の子でしたが、今にして思えば、町田という街を考える上で格好のサンプルになるような女の子だったように思います。

建築家の隅研吾氏は、清野由美氏との対談集『新・都市論TOKYO』(集英社新書)の中で、町田について、次のように書いていました。

町田にはどこからか染み出てきたような、あか抜けしない泥臭さのようなもの―それをリアリティと呼んでもいいだろう―が、私鉄的なフィクションの隙間から顔を出し、流れんばかりの勢いで、街全体を覆っている。


今回、私は初めて横浜線で行きましたが、新横浜からわずか7つ目なのに、町田が近づくにつれ車内の様子が変わってくるのが不思議でした。短髪でやや剃りこみを入れたようなチンピラっぽい若者や電車の床に座り込む高校生のグループなどが目に付くようになりました。そして、これが「私鉄的なフィクション」に対するJR的な「リアリティ」なのかと思ったものです。

隅氏は対談の中で、町田には「”都市”が噴出している」と言ってましたが、しかし、その”都市”はどこかにひらかれているわけではなく、「文化と人間が流れつく最果ての場所」(『まほろ駅前多田便利軒』)なのです。同じ”都市”に生きるさみしさでも、町田のそれはどんづまりのさみしさがあるのではないでしょうか。それが、都市化した郊外の街がときに凶悪な犯罪の舞台になる背景でもあるように思います。

可視的である(なんでもわかっている)というのは、”俺様主義”の今時の若者には楽で居心地がいいのかもしれませんが、しかし、自分の人生に少しでも謙虚に向き合おうとするようなナイーブな人達には、やはり、このどんづまりのさみしさは耐えられないのではないでしょうか。駅ビルからつづく通路の上から、「なんでもある」駅前の通りを眺めながら、そんなことを考えました。
2009.02.14 Sat l 東京 l top ▲
渋谷1092008年12月

写真は今年の渋谷109のクリスマスです。

渋谷や原宿を歩いていると、クリスマスが年々さみしくなっているのを痛感します。地元の商店主達の口から出るのも悲観的な話ばかりです。駅前が再開発されるまで当分はこの状態をしのぐしかないのかもしれませんが、少なくとも渋谷や原宿が地域間競争で後塵を拝しているのはたしかな気がします。それは、長年の悲願であるにもかかわらず、未だ“若者の街”から脱皮できないからでしょう。

渋谷駅2008年12月

一方で、若者達が置かれている状況も益々悪くなるばかりです。“派遣切り”などと言われる大手企業による非正規労働者の雇用調整が広がっていますが、なんだか秋葉原事件の犯人が提起した問題がここにきて一気に表面化してきた気がします。厚労省の調査では来年3月までに約3万人の非正規労働者が失業する見通しだそうですが、労働団体には10万単位の労働者が失業するのではないかという悲観的な見方さえあるようです。

「ロストジェネレーション=失われた世代」? ざけんじゃねえ! 「失われた」んじゃねえ。「われわれ」が生きていくために必要なsomethingを、誰かが「奪ってきた」んだろ。全国のロスジェネ諸君! 今こそ団結せよ!


これは、今春創刊されたインディーズ系雑誌『ロスジェネ』の巻頭に掲げられている「ロスジェネ宣言」なるものですが、年の瀬に“派遣切り”で情け容赦なく路上に放り出されている多くの若者達を前にすると、既得権者から奪われたものを取り返すなんていう言説さえなんだか牧歌的に思えるほどです。

ある若者向けのショップのオーナーは、表の通りを行き交う若者達を指さしながら、「だって、彼らの多くはフリーターや派遣だからね。ものが売れないのは当たり前でしょ」と言ってましたが、その言葉が現在の渋谷や原宿の置かれている状況をよく物語っているように思いました。

それにしても、この不況で真っ先に寒風に身をさらされているのが若者と高齢者であることを考えるとき、今更のように製造業の派遣解禁や後期高齢者医療制度を導入したあの小泉改革とはなんだったのかと考えざるを得ません。

※追記

雇用情勢が急速に悪化する中、今年10月から来年3月までに職を失ったか、失うことが決まっている非正規労働者が約8万5000人に上ることが26日、厚生労働省の調査でわかった。
今月19日時点で把握した数値で、前回調査(11月25日時点)の約3万人に比べ、3週間余りで2・8倍に急増した。(12/26 読売新聞より)


>>秋葉原事件
>>ワーキングプア
2008.12.22 Mon l 東京 l top ▲
四方田犬彦氏の『月島物語』が昨年、『月島物語ふたたび』(工作舎)という書名で復刊されたのを機に再読したら、月島に行ってみたくなり、久しぶりに月島に出かけました。車では何度か行ったことがありますが、電車で出かけたのは今回が初めてでした。

『月島物語』は集英社の『すばる』という文芸雑誌に1990年1月号から1991年7月号まで18回にわたって連載されたものですが、私は連載中からこのカルチュラル・スタディーズの先駆けとも言うべきエッセイを愛読していました。

月島橋

四方田氏は、昨今の下町ブームにおける”月島人気”について、「明治中期にさながら植民地のように開発された月島は、真性の下町である本所深川が跡形もなく消滅してしまったため、今日では一挙にガラパゴス島的な意味あいで下町と見なされるに至ったのだ」と書いていました。

月島は明治以降に埋め立てられた歴史の浅い埋立地であるにもかかわらず、東京大空襲の被害を受けず、また、東京オリンピック開催に伴う再開発からもまぬがれたことで、長屋や路地などの昔ながらの風景が偶然にも残ったのでした。そのため今日では下町の代表のように見なされるようになったというわけです。しかし、四方田氏によれば、実際の月島は「日本のモダニズムの政治―社会―文化的な結節点であり、『下町情緒』といった抽象的な紋切型(ステレオタイプ)とはまったく別の表情」があるのだそうで、私はその月島の「別の表情」にこそ興味がありました。

西仲通り商店街

富国強兵のスローガンの下、近代国家への脱皮を目指す殖産興業によってこの新開の埋立地に造船業をはじめ、鉄工業や金属加工など多くの工場が設立され、それに伴い「故郷を離れ、根を絶たれた自由労働者が大量に流入」することによって月島の歴史ははじまったのです。当時の月島はこのようにいわば殖産興業の最前線でもあったのです。“もんじゃストリート”として有名なわりにはやや寂れた感はまぬがれない西仲通り商店街(写真上)も、かつては何十という夜店が並び、過酷な労働を終えた労働者達が一時の休息とウサ晴らしをする繁華街だったそうです。そして、その背後に彼らの住居でもある長屋が連なっていたのです。

月島に流入した「自由労働者」の中に若き日の大泉黒石きだみのるがいたというのは、なんだか「見事」と言ってもいいような因縁さえ感じます。明治の頃、日本橋や京橋など対岸の街では子供達は親から叱られるとき、「言うことをきかないと、島にやっちまうよ」と言われたのだそうですが、それくらい在来の人間にとって月島というのは異境の地だったのでしょう。そんな月島にそれぞれの事情を抱え故郷を出奔してやって来た住人達は、江戸時代からの漁村であった隣の佃島と違って、お互い一定の線以上には立ち入らないというゆるやかで柔軟性に富んだ独特の共同体意識を根付かせてきたのです。その象徴として路地の風景があったのです。

月島路地

一方で、月島に生まれ育った人達の中には、当然ながら故郷としての月島に対する二律背反的な思いもあったはずで、月島出身の吉本隆明氏を論じた「エリアンの島」では、「私を拒絶する風景」という『固有詩との対話』の中の言葉を手がかりに、月島に対して「“喪失”と“隔たり“の意識」を持つ氏の屈折した心情を描き出していました。「私を拒絶する風景」というのは、個人的にもすごくよくわかります。そして、そういった屈折した心情があるからこそ、「エリアンの島」で引用されていた「佃渡しで」のような叙情的な美しい詩が書けるのだと私は思います。(娘を連れて対岸の明石町から渡船で佃を訪れたときの詩だそうです)

「佃渡しで」

佃渡しで娘がいつた
〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう
ずつと昔からそうだつた
〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ掘割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行つた
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいつた
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞つていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちよつとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあつたか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあつた

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいつて
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いつさんに通りすぎる


時代が変わり、街が変わるのは仕方ないとしても、古い街がどうして大事なのかと言えば、そこに暮らしてきた人々の記憶の積層があるからです。その記憶の積層の中から人生を慈しむ気持や人を思いやる気持や、そして、こんな美しい詩も生まれるのだということを私達は忘れてはならないのではないでしょうか。
2008.05.21 Wed l 東京 l top ▲
蒲田西口1

故・竹中労氏の『無頼の点鬼簿』(ちくま文庫)を読んでいたら、その中で、「駅前やくざは、もういない」と題して蒲田のことが書かれていました。氏も昭和30年代に蒲田に住んでいたのだそうです。そういえば、坂口安吾も蒲田に住んでいた時期がありますが、蒲田はかつては彼ら無頼派の硬骨漢達を惹きつけるような魅力のある街だったのでしょうか。

蒲田は東の錦糸町や新小岩などと雰囲気が似ている気がします。やはり、街の成立ちが似ているからでしょう。やたら消費者金融(サラ金)の看板が目立つ駅前の風景やフィリピンや南米系の女性達が多いのも共通しています。

蒲田西口2

私は西口に車を停めるのでもっぱら西口から入ることが多いのですが、鳩の糞が頭上から降ってくる駅前の広場のベンチは、何故かいつも時間を持て余したような人達でいっぱいです。また、背後の壁に鳩が止まるたびに、野球のボールを投げつけて鳩を追い払う靴磨きのおじさんも西口の名物と言ってもいいかもしれません。私の知る限り、もう10年以上、銀行の前の定位置で商売をしています。

選挙があると、大田区を地盤にしていた保守政治家の選挙事務所が西口にできるため、周辺の路上パーキングは彼らに占領されてしまうのです。「ここはあんた達の道路じゃないだろう」と一度文句を言った覚えがありますが、やがてその政治家はみずから命を絶ち衝撃的な最後を遂げるのでした。

太田区役所が蒲田に移転する際、田園調布や大森山王のお屋敷町の住民達が、「大田区のイメージが低下する」と反対したのも記憶に新しいところです。しかし、今では公務員(竹中労風に言えば、”木っ端役人”)が多くなったためか、駅周辺の人の様子も徐々に変化している気がします。ご多分にもれずJRは、今春、駅ビルのサンカマタ&パリオ(昨年の夏から閉鎖中)を全面改装し新しい駅ビルとしてオープンする予定だそうです。それに伴いサンカマタ&パリオの名も消えるのだとか。こうして蒲田の街もあの猥雑さが排除され、区役所が立地する街にふさわしいあか抜けた街に変貌していくのでしょうか。個人的にはちょっとさみしい気がしないでもありません。
2008.02.20 Wed l 東京 l top ▲
甘酒横丁

一時帰国して再び海外へ戻る知人と水天宮のホテルで待ち合わせたついでに、久しぶりに人形町界隈を散策しました。

人形町の表通りから甘酒横丁に入ると、明治座での芝居見物を終えた様子の中高年の一団が前からやって来ました。皆さん、笑顔が絶えず心が弾んでいる感じでした。

鯛焼きの柳屋に行くと、今日は店内に数人の先客があるだけで、それほど待たずに買うことができました。鯛焼きで東京の御三家と言われているのは、四谷のわかば、麻布十番の浪花屋、それに人形町の柳屋ですが、個人的にもそれらの街とは縁が深く、甘党の私にはいづれもなじみの店ばかりです(そして、いづれの街にもせつない思い出があります)。

こういった江戸風情の残る歴史のある街に来ると、我々地方出身者達はどこか気後れするようなところがあります。普段、まるで強迫観念にとりつかれたかのようにやたら格好を付けて生きているのも、根底にはそういったぬきがたいコンプレックスがあるからでしょうか。哀しき習性です。
2008.02.13 Wed l 東京 l top ▲
ボロ市1


世田谷のボロ市に行きました。私はボロ市は初めてでした。

三軒茶屋から世田谷線に乗って「世田谷」で下車、世田谷通りから一本脇に入ったいわゆるボロ市通りとその周辺の路地は文字通り芋を洗うが如しの賑わいでした。

このボロ市は430年の伝統があり、東京都の無形民俗文化財に指定されているのだそうです。約700の露店が軒を連ね、それこそ何でもありという感じでした。骨董品や古着はもちろん、漬物やプロマイドを売る店までありました。中には「屋根の修理」という看板を出して年老いた店主がひとりぽつんと座っているだけの店もありました。

ボロ市2

私が興味を持ったのは売っている商品よりも各露店の店主達でした。それこそサラリーマンとは対極に位置するような個性的な風体の人物が多いのです。

私はサラリーマンの頃、知り合いの会社から頼まれて、催事を仕切るアルバイトをしていたことがありました。催事の初日、出店業者の場所の割りふりを行ったり、最終日に片付けがスムーズに行われるよう陣頭指揮をするのが主な仕事でした。いつも輸入雑貨の業者が多かったのですが、それは個性的な人達ばかりでした。ボロ市をまわりながら、当時のことを思い出しました。

彼らの多くはいわゆる団塊の世代です。60年代後半のカウンターカルチャーの洗礼を受け、いわば日本株式会社のレールからドロップアウトした人達です。ここには80兆円とも言われる退職金目当てにやたらもてはやされるサラリーマン退職者達とは別の団塊の世代の姿があるような気がします。私は個人的に団塊の世代は好きではないのですが、こういった組織に頼らず個性的な生き方をしている人達にはシンパシーを覚えます。

松陰神社

帰りに近くの松陰神社に寄ってお参りしました。昨日は散歩の途中、最寄り駅にある熊野神社にお参りしたし、健康に不安を持った途端、所かまわず神頼みしている自分がいます。まったく人間というのは現金なものです。
2008.01.16 Wed l 東京 l top ▲
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一定の世代以上の方でないとわからないと思いますが、紙ふうせんの「冬が来る前に」を聴きながら銀座の通りを歩いていたら、ちょっとセンチメンタルな気分になりました。

私は、銀座の老舗や高級店とはまったく無縁な人間ですが、銀座の街にはどこか魅かれるところがあります。それは、銀座には駅ビルやショッピングセンターがないからかもしれません。

20年前、この業界に入った当初、ちょうど今頃の時期だったと思いますが、私は、仕事で夕暮れどきの銀座の街を歩いていました。そして、松屋の前を通りかかったとき、店頭からクリスマスのメロディが流れてきたのです。その途端、私は、何故か胸がいっぱいになり涙が溢れてきたことがありました。

銀座にはそんな人を包み込むような雰囲気があります。それは、(同じことをくり返しますが)長い間にその土地の風土が培ってできた街だからではないでしょうか。たとえ縁がなくても、表通りの老舗や高級店から疎外されている感じはありません。それが銀座の魅力ではないでしょうか。

嫌なことがあったときや疲れたときなど、私は銀座に行きたくなります。そして、人込みの中をひとりで歩いていると、なんとなく慰められ元気づけられているような気持になるのです。

最近も個人的に、それこそ人間のおぞましさを見せつけられるような出来事がありました。そんなとき、私には「汚い」とか「卑怯だ」とかいった言葉しか思い浮かばず、人間の本性に関してひどくボキャブラリーが貧困な自分を思い知らされたのでした。それは、今までそういった人間の本性と正面から向き合うことがなかったからなのかもしれません。

そんな情けなさとやり切れなさの中で、私の足は銀座に向かったのでした。

マロニエゲート

ただ、私は、話題のマロニエゲートにはあまり関心がありません。いつからあの横の通りがマロニエ通りと呼ばれるようになったのでしょうか。そして、その入口にあるからマロニエゲートだなんてネーミングからしてちょっと安易すぎる気がします。事業主体は三菱地所だそうですが、「如何にも」という気がしないでもありません。

真向かいのプランタンも戦々恐々と言われていましたが、むしろプランタンが戦々恐々としているのは、先月オープンしたばかりの有楽町イトシアの方でしょう。マロニエゲートはわずかひと月で主役の座を渡した感さえあります。

それにしても(余談ですが)、せっかく新しくビルを建てたのにどうしてあんな古臭い造りになったのでしょうか。特にエスカレーターに乗っているときの窮屈な感じはどうにかならなかったのでしょうか。”高級”ということに関しても、どこか違うような気がしてなりません。

仕事だけでなく、プライベートでも銀座にはいろんな思い出がありますが、そんな思い出をいつまでも大事にしてくれる街であってほしいなと願わずにおれません。
2007.11.09 Fri l 東京 l top ▲
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自由が丘にももう20年来通っていますが、かつて取引していた雑貨屋さんがコンビニになったり、お気に入りの手芸雑貨の店がなくなったりと細かい変化はあるものの、この街の良さはずっと変わらず残っているように思います。

上の写真は駅の並びにある自由が丘デパートです。外観は以前に比べてちょっとオシャレになりましたが、中は相変わらずディープな自由が丘が健在です。隣のひかり街とともに昔の自由が丘を垣間見せてくれ、私の好きなスポットのひとつです。そういえば、世田谷の池尻にも池尻デパートというのがありましたが、昔の東京には三越や伊勢丹とは違うこの手の「デパート」が点在していたのでしょうか。

サラリーマンの頃、アルバイトというか、知り合いの南米雑貨の店が月に1回、駅のホームにある貸しスペースで催事(出店)をするのに商品の搬入と搬出の手伝いをしていたことがありました。車で商品を運ぶだけで1時間もあれば終わるような簡単な仕事でしたが、1回につき1万5千円のアルバイト代を貰っていました。

ただ、搬入も搬出も日曜日の夕方だったので、それが面倒でしたが、よくガールフレンドと待ち合わせてアルバイト代を軍資金に自由が丘でデートしたものです。

今の自由が丘はスィーツフォレストの登場などもあって、”スィーツの街”というイメージがすっかり定着しましたが、昔はスィーツと言えば駅前のダロワイヨしか記憶にありません。もっとも、周辺にこれだけ典型的な中産階級の住宅地を抱えているわけですから、私が知らないだけで、昔からおいしいスィーツの店はあったのかもしれません。ちなみに、ダロワイヨに関しては、あの不二家の不祥事のとき、不二家の子会社だということを初めて知り、ちょっとがっかりした覚えがあります。

もうひとつ、今の自由が丘で目立つのは学習塾です。それも専任のガードマンがいて交通整理をしたり、生徒専用のカフェが併設されていたりと、やたら贅沢なのです。やはり、周辺の奥沢など高級住宅街の子弟向けに高級志向になっているのでしょうか。

小さな子供を連れたお母さんもよく目に付きますが、これも最近の自由が丘のウリのひとつになっているようです。それに合わせて、子供向けのショップも多くなりました。かつて、セゾンが運営していた子供向けの百貨店(デパート!)・パオが自由が丘にもあったのですが、たしか10年も持たなかったのではないでしょうか。なんだか皮肉なものです。

自由が丘は圧倒的に女性の街ですが、最近は特に若い女性が目立つようになりました。そんな中でドキッとするようなきれいな子をよく見かけます。そのためか、駅前にはスカウトマンとおぼしきスーツ姿の青年が目の前を通りすぎる女の子達に視線を走らせながらいつも立っています。これもおなじみの光景になりました。

しかし、昔、モデルの女の子に聞いた話では、最新のファッションを着て自由が丘の駅周辺をブラブラ歩きまわる仕事があるのだそうです。要するに、ファッションメーカーの宣伝なのですね。私は、その話を聞いてから、自由が丘で遭遇するきれいな子がみんなやらせのモデルに見えて仕方ないのです。

下の写真は、駅の南側の緑道沿いに新しくできた花屋さんです。なんだかフランスのポストカードに出てくるようなオシャレな花屋さんだなと思ったら、それもそのはずで、パリにある花屋さんのチェーン店だそうです(MONCEAU FLEURS JAPON)。駅から少し離れると緑が残っているところも多いので、これからの季節はこういったショップがよけい映えるのではないでしょうか。

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自由が丘というのは、現代風なオシャレ度も高いけれど、一方で昔の東京の郊外の街の良さも残っており、駅ビルやショッピングセンターなどとは違った、いわば街を散策する楽しさを満喫できる数少ない街だと思います。下北沢みたいに駅前再開発なんていう無粋な話が出て来ないことを願うばかりですね。
2007.09.28 Fri l 東京 l top ▲
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普段山手線を利用している方の中には同じように気になっている方もいるのではないかと思いますが、私は、五反田駅と大崎駅の間に立っているこの奇妙なモニュメントが前から気になって仕方ありませんでした。

それで、大崎に行ったついでに写真におさめてきました。

以前、このブログでも書きましたが、現在、大崎駅の周辺は東京都の新都心に指定されたことに伴い大規模な再開発が進行中です。

大崎駅は以前は山手線の中でもどちらかといえば地味で目立たない駅だったのですが、今では埼京線・りんかい線・湘南新宿ラインが乗り入れているため駅の構造が複雑化し、ホームからコンコースに上がると方向感覚を失って自分の出る改札口がどこにあるかわからなくなるくらいで、その変貌ぶりにはびっくりします。今秋には西口の明電舎の工場跡地に30階建ての複合施設・ThinkParkTowerがオープンしますし、さらに来年からはソニーの工場跡地の再開発もはじまるようです。

個人的には昔の名残をとどめる西口のニュー大崎ビルが残ってほしいのですが、おしゃれなオフィスビルと高級マンションが林立する街に変貌しつつある中では、もはや風前の灯火という気がしないでもありません。

このモニュメントは、東口のアートビレッジ・大崎セントラルタワーという、やはり再開発に伴って今年の1月にできたばかりのビルの横に立っています。

インゲス・イデーというドイツの4人組のアーティストの「グローイングガーデナー」という作品だそうです。同ビルのサイトには以下のような説明文が載っていました。

街区を囲む緑豊かな「丘の庭」に設置したこの作品は、森の守り神を意味する庭師(ガーデナー)をモチーフとしています。その長くて赤い帽子は空に向かって伸びる花のようで、また本来小さいはずの森の妖精が大きな体を持っているという対比もユーモラスです。それは神秘的なものと不思議なもの、明確な形態と抽象的な意味など様々な対比する要素を融合させた表現であり、いくつもの相反する事象が共生している現代の様相を表しているようです。この作品は、この新しい街と庭を守りつつ、街全体にアクセントを与える作品となっています。

これでひとつすっきりしました(笑)。

余談ですが、アートビレッジ・大崎セントラルタワーは、只今放映中の綾瀬はるか主演のドラマ・「ホタルノヒカリ」のロケに使われたそうです。
2007.08.13 Mon l 東京 l top ▲
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まだ梅雨も明けてないというのに、渋谷も原宿も新宿もいっせいにバーゲンがはじまっています。何だか年々早くなっているような気がします。

渋谷の街も一見、バーゲン目当ての若者達で賑わっているように見えますが、地元で古くから店をやっている人に言わせれば、現実はかなり深刻なようです。先日、若者向けの週刊誌で「渋谷のスラム化」が特集されていましたが、何を今更という気がしました。

渋谷が一番輝いていたのは、やはり、80年代ではないでしょうか。私が渋谷に通いはじめたのもちょうどその頃です。その立役者はなんといっても70年代に本格的に渋谷に進出した西武・セゾングループでしょう。

右肩上がりの経済を背景に、斬新な広告と多彩な文化戦略で渋谷の街を一変させたのはご存知のとおりです。そして、その中心を担ったのが宇田川町に本社を構えていたパルコでした。

ところが、当時『アクロス』の編集長だった三浦展氏の「80年代消費社会論の検証」によれば、既に80年代からパルコの売上げは下降線を辿りはじめていたのだそうです。これは意外でした。

もっとも、当時、西武を担当していた私の中にも、「ホントにこれで儲かってるのだろうか?」という疑問がまったくなかったわけではありません。しかし、”池西(いけせい)”と呼ばれていた池袋西武の伝説的な売場である8階ギフトエリアやオープンしたばかりの渋谷ロフトの行け行けドンドンのお祭り騒ぎの中で、そういった疑問も片隅に追いやられていたというのが現実でした。

私の中の西武の印象は、よく言えば自由、悪く言えばいい加減といった感じでした。だから、三浦氏が書いていたように、パルコの文化戦略なるものも実は先日亡くなった元パルコ社長・増田通二氏の単なる思い付きや個人的な趣味にすぎず、元々戦略なんてなかったんだ、というのもわかるような気がします。

パルコの本社のみならず当時池袋にあった西武百貨店の商品部も、とにかくびっくりするくらい自由な雰囲気に溢れていました。私達は「喜多郎みたいな社員がゴロゴロいる」なんて言い方をしていました。仕入れの権限もほとんど売場の担当者に任されていましたし、(給料はそんなによくなかったみたいですが)社員達には働きやすい職場だったのではないでしょうか。

後年、ある雑貨チェーンの会社に商談に行ったら、西武でバイヤーをやっていた女性がいたのでびっくりしたことがありました。経営難に伴うリストラで転職したということでした。しかし、彼女はあきらかに窮屈そうでした。「すいません。西武と違って上の決済をもらわなければならないので時間をいただいていいでしょうか?」と申し訳なさそうに言ってたのが印象的でした。

ロフトの会合に出席したとき、関係者の挨拶の中に当時流行っていた経済人類学の用語がポンポン出て来るので、「何だ、これは」と思ったことを覚えています。また、あるとき、西武の担当者が「(雑貨の会社で)社員が20人を越すとダメになる会社が多いんですよね~」と言ってましたが、西武はそういった零細な業者でも商品さえ面白ければ偏見なく受け入れてくれたのです。ちなみに、日本ではまだなじみの薄かった海外のポストカードやラッピングなどを一番最初に興味を示したのも西武だったそうです。

三浦氏は、『アクロス』の定期購読者でもあったという上野千鶴子氏との対談集『消費社会から格差社会へ』の中で、かつての西武・セゾングループの総師・堤清二氏にはある種の破滅志向があったんじゃないか、と言ってましたが、もしかしたら西武・セゾングループには彼らオールドコミュニスト達の見果てぬ夢が込められていたのかもしれません。

渋谷ではかつて東急と西武の戦争が行われていると言われていましたが、では、果たして今、東急はホントに渋谷で勝利したと言えるのでしょうか。私には渋谷が益々個性が失われたつまらない街になっているように思えてならないのです。
2007.07.11 Wed l 東京 l top ▲
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いつもより早く仕事が終わったので恵比寿ガーデンプレイスに寄って帰りました。

横浜に転居してから、恵比寿で日比谷線に乗り換えて帰宅することが多くなりましたので、本を買うのも最近はもっぱら駅ビルのアトレの中にある有隣堂書店を利用しています。

もちろん、売っている本はどこでも大差ありませんが、有隣堂は店の雰囲気が合っているのか、本を選びやすい気がして好きな本屋のひとつです。

もっとも、有隣堂は横浜が本社で都内に店舗は少ないため、今までは蒲田に行った際、サンカマタという駅ビルにある店に立ち寄るくらいでした。

20年近く前、私は六本木にあった会社に勤めていましたので、当時も毎日恵比寿で日比谷線に乗り換えていました。だから、乗り換える電車は逆方向ですが、なんだかなつかしい気持もあります。

もちろん、当時は駅ビルはなくて古い駅舎があるのみでした。私がいちばん記憶に残っているのは、自動改札のバーを若い外人達が堂々と跨いで通過している光景でした。つまり、キセルしているのですが、それが当たり前のように行なわれていました。

モデルをしていた女友達は、「男のモデルなんて性格の悪い人間ばかりで最低」といつも口癖のように言ってました。中でも外人のモデルは「最悪」だそうで、私はその話を聞くたびにあの恵比寿駅での光景を思い出したものです。

当時は六本木の喧騒を避けて麻布十番か恵比寿で食事することが多かったのですが、恵比寿の表通りにはまだ昔ながらの商店街が残っていて、どこかひなびた雰囲気がありました。一方、表通りから一歩入ったビルの中などには業界人が集まるこじゃれた店もあり、そのコントラストが恵比寿の魅力になっていたように思います。

ガーデンプレイスができたということもあるのかもしれませんが、今の恵比寿は昔に比べてスーツ姿のサラリーマンがやたら多くなった気がします。その分、恵比寿がどこにでもあるちょっと乙に澄ました”ただの街”になってしまった感は否めません。それにつれ、あの「最悪」なモデル風外人達を見かけることはなくなりましたが‥‥。
2006.12.04 Mon l 東京 l top ▲
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両国の江戸東京博物館で催されている「荒木経惟 -東京人生-」を観に行きたいと思っていたのですが、引越しの準備やらなんやらでとても行けそうもありません。

それで、パジリコ社から出ている同名の本『東京人生』を買いました。

ここにはいわゆる「エロ写真家」の荒木氏とは違うもうひとりの荒木経惟氏がいます。その心はセンチメンタリズムです。

私が最初に荒木経惟氏の写真と出会ったのは、作家の鈴木いづみさんの写真でした。鈴木いづみさんの大ファンだった私は、その官能的で存在感のある写真に圧倒されました。

当時は白夜書房から出ていた『写真時代』という雑誌に、毎号、荒木氏の写真が発表されていましたので、『写真時代』は欠かさず買っていました。

荒木氏の本には書名に「東京」と付くものが多いのですが、上京して20年近くになる私も最近、”東京で生きるということ”をしきりに考えるようになりました。

荒木氏は三ノ輪の下駄屋の息子ですが、私の知り合いにも神楽坂で生まれ育った人間がいます。彼らの目に映っているのは、私達地方出身者が見る東京とは全然違う東京なのです。

86年、鈴木いづみさんは自死し、荒木氏は彼女の写真を集めた『私小説』を出版しました。そして、90年、最愛の妻・陽子さんが病死して『センチメンタルな旅』は終わりました。

陽子さんが亡くなった日に自宅のバルコニーから撮った雪景色の写真が私は好きです。

5~6年前だったか、四谷三丁目の交差点で信号待ちをしているときでした。ふと、横を見ると、小柄な荒木氏が立っていました。思わず私は「こんにちわ」と挨拶しました。すると、「あっ、どうも」と言って頭をペコリと下げ、さもバツが悪そうな感じでした。

東京の人間というのはホントはシャイで律儀な人が多いのですが、『東京人生』に掲載されているのもそういった写真が多い気がします。
2006.10.20 Fri l 東京 l top ▲
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人と待ち合わせていたので上野に行きました。

私は九州の出身なので、上野駅に対して特別な思い入れがあるわけではありませんが、それでも上野に行くとどこかホッとするところがあります。それで、ときどき用事もないのにふらっと上野界隈に出かけたりします。

公園の中の精養軒でちょっとリッチなランチを食べました。日曜なのに店内は満席で、それも大半は着飾った中高年の女性客でした。

そういえば、昔、文具の問屋の展示会で精養軒に来たことがあります。展示会といっても、取引き先の人たちを食事とお土産付きで招待して商談するだけなのですが、何故か文具業界はこういった格式の高い会場を使用することが多いのです。

時間が余ったので、そのあと不忍池の周辺を散策しました。ここはいつ来てものんびりした気持になります。最近は特に、年齢のせいもあるのか、公園を散策したりすることが多くなりました。なんだかそうやって日々の生活の中で息継ぎをしているような気がします。

仕事では縁が薄いのですが、個人的には好きな土地なので、不忍池には結構プライベートな思い出があります。それらのことを思い出して少しセンチメンタルな気分になりました。

その一方で、楽しそうにボートを漕いでいるカップルを見ながら、10日くらい前に不忍池に死体が浮いていたというニュースがあったことを思い出しました。私の悪いクセですね(笑)。
2006.08.20 Sun l 東京 l top ▲
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今日は川越の喜多院にお参りに行きました。

喜多院は古くから近在の善男善女たちの信仰を集めている名刹で、私もときどきお参りしています。

お盆休みが明けた直後だということもあるのか、境内は閑散としていました。そんな中、学生風の若いカップルが並んで一心に手を合わせていたのが印象的でした。

大悲は常に我を照らし給ふ。ふと、そんな言葉を思い出しました。

帰途、久しぶりに蔵造りの街並みの通りをそぞろ歩きしました。

この通りは電柱もなくまるで映画のセットみたいです。最近は高齢化社会を前にして、マーケットの中心が若者から中高年にシフトしているので、この手のレトロな街並みも全国の到るところで見られるようになりましたが、川越はそのハシリといえるのかもしれません。

数年前、九州で町おこしをやっている友人に川越のことを話したら、自治体の担当者らと一緒に視察に来たこともありました。

路地に入ると、とある店の前で「19日に”ぶらり各駅下車の旅”の取材が来ます」という貼り紙を見つけました。一瞬、あの車だん吉さんの顔が浮かびました(笑)。

今日も茹だるような暑さだったので、川越名物のいもアイスでも食べようかと思ったものの、やはり、ひとりで入る勇気がありませんでした。

それで、駅ビルのルノアールでクリームソーダを食べて帰りました。
2006.08.17 Thu l 東京 l top ▲
今日、野暮用で大崎に行きました。

山手線の池袋~品川間でいちばん縁がないのが大崎です。考えてみれば、10数年前、大崎のニューシティーの中にあるあのキティちゃんの聖地で行われた業界の会議に出席して以来、大崎駅には下車していませんでした。

ニューシティーは東口ですが、反対側の西口でも再開発事業が進行中で、巨大なビル群が建設中でした。

隣の品川も大きく変貌しましたし、他に飯田橋でも再開発がはじまっています。それになんといってもあの渋谷の駅ビル建替えに伴う再開発計画もあります。

東京の街はバブル期を凌ぐほど再び大きく変わりつつあります。

「日本はどこに行こうとしているのでしょうかね~」とある人が慨嘆していましたが、その気持はわからないでもありません。なんだか永遠に走りつづけなければならない資本主義の宿命のようなものさえ感じます。その先には一体何が待っているのでしょうか。
2006.08.10 Thu l 東京 l top ▲
今日は暑い一日でした。日中、外を歩いているとめまいさえおこしそうでした。酷暑、ふと、そんな言葉が頭に浮かびました。

そんな中、浅草橋に発送の際に使うOPP(透明の袋)を買いに行きました。埼玉にも包装用品の問屋があるのですが、どうしても浅草橋まで足を延ばしてしまいます。

以前は車で行くことが多かったものですが、最近はもっぱら電車なので、重い荷物を下げて帰るのはひと仕事です。それでも浅草橋まで行くのは、この業界にいると浅草橋は何かにつけ縁のあるおなじみの土地だからです。

独立した当初、文具関係の商品を扱っていた関係で、浅草橋にある某文具メーカーの子会社の問屋と取引きをしていました。

別の問屋から紹介されたのですが、どこの馬の骨とも知れない新参者と取引きをすることに対して、会社が二の足を踏むのは当然です。しかし、当時、部長をしていた方が尽力してくれたおかげで取引きすることができました。

最初に会社に呼ばれて、社長をはじめ会社の人達に紹介されたのは、そうやって私の人となりと見てもらえば安心するのではないか、という配慮があったみたいです。

そのあとも何かにつけ「会社に来ませんか?」と言われてよく伺いました。そして、そのたびに夕飯をご馳走になりました。

部長は、私が自分の息子と同じくらいの年齢なので、「がんばってもらいたいんですよ」と言ってましたが、ホントは心配だったのだろうと思います。

やがて部長は会社を定年退職することになりました。その頃は既に取引きも有名無実化していましたので、それをきっかけに取引きも解消しました。

最後に会った夜も「がんばってくださいね」と言われて手を差し出してきました。私は握手をしながら、「ありがとうございました」と言って別れました。

そして、先日、文具業界の旧知の人に会った際、部長が退職後ほどなくして病気で亡くなったことを知りました。

商売の現場にいると、えげつなくて不愉快な思いをすることはよくありますが、ときにそんな暖かい人情に触れることもあります。
2006.07.26 Wed l 東京 l top ▲
日本橋人形町界隈には一時期プライベートでよく通っていました。(残念ながらカメラを持って行ったことがないので、写真がありません)

普段仕事で訪れている街とはまるで雰囲気が違いますので、とても新鮮な感じがします。

人形町界隈には、グルメが垂涎する有名店が数多くありますが、もともとは職人の多い街だったので、それらもかつてはいなせな職人達が通う店だったのではないでしょうか。

だから、老舗といっても、そんなに敷居も高くないし、まだ庶民的な雰囲気を残した店が多く、それが人形町の魅力だと思います。

年の瀬も押し迫ると、舗道に衣類や食品を売る露天がずらりと並び、まるで昭和30年代にタイムスリップしたような光景をみることができます。

確定申告のシーズンには、やはり、舗道にテーブルをひとつ置いただけの受付に、作業着姿の職人達が書類を手に次々訪れているのをみたこともあります。恐らく、ひとり親方の職人達がまとまって申告するために、互助組織が設置したものではないでしょうか。

かつて人形町には芝居小屋や寄席などもあり、また、吉原の遊郭も最初は人形町にあったのだそうです。昔は華も色もある街だったのです。

地元に住んでいる知人から蛎殻町の小さなバーに連れて行ってもらったことがあります。ジャズの音色が心に沁みる、とてもいい店でした。

外に出たら、人通りの絶えた路地裏で、酔いでほてった頬に夜風がとても心地よかったのを覚えています。傍若無人にふるまうような若者達がいないというのが、この街のいいところでもあります。

人形町は谷崎潤一郎の生家があったことでも有名です。また、誰だった忘れてしまいましたが、蛎殻町の芸妓の元に足しげく通った作家の話を読んだ記憶もあります。再開発がはじまった現在の蛎殻町からは想像もできませんが、昔はそんなしっとりした雰囲気もあったのでしょう。

元日の早朝、人形町に行ったことがありました。人っ子ひとり通らない表通りに日の丸の旗だけがパタパタと風にはためいていて、なんだかすごく厳かな気分になりました。

ゆったりした時間が流れている、というとなんだかありきたりな表現になりますが、都心にあってそんな表現がよく似合う街だと思います。
2006.06.18 Sun l 東京 l top ▲
昔はホントによく人と会って食事をしていました。1週間、毎日誰かと食事なんてこともめずらしくありませんでした。

それに比べたら、ここ数年、人付き合いが悪くなったな~、と自分でも思います。

それで、前にも書きましたが、最近はつとめて人と会うように心がけています。

昨日も、四谷三丁目で、サラリーマン時代の元同僚(♀)と食事をしました。

彼女は、現在、海外に住んでいるのですが、一時帰国したこの機会に、約10年ぶりに会うことになったのです。

四谷三丁目界隈は、かつて親しい取引先があった関係で、毎日のように通っていた時期があり、それこそ私にとっては庭のようなところでした。

四谷三丁目のランドマーク・丸正の前で待ち合わせて、近くの「天春」という天ぷらの店に行きました。「天春」は天ぷらだけでなく、てんこ盛りのしじみ汁でも有名な店です。

昔は仕事でいいことがあったら、ご褒美に「天春」で食事をするのが楽しみでした。

彼女はいつもポジティブでバイタリティにあふれた女性なので、仕事のことや私生活のことなど、なんだか気合いを入れらっぱなしでした。どこぞのロックミュージシャン流にいえば、「パワーをもらった」感じでした。

友達っていいな~、とあらためて思いました。なんだか(ちょっとクサイ言い方ですが)心まで満腹になった気がしました。
2006.06.08 Thu l 東京 l top ▲
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春の一日、深川から門前仲町界隈の下町探索に出かけました。

清澄庭園(写真)・深川江戸資料館・深川不動・富岡八幡などをそぞろ歩きしながらまわってきました。

深川というと、江戸時代の庶民の生活を描いた時代小説などによく登場しますが、たしかに隅田川を渡るとガラッと雰囲気が変わって、なんだかホッとした気持になります。

江東区も近年表の通りにはオフィスビルが目立つようになり、足早に行き交うサラリーマンの姿も多くなりましたが、通りから一歩中に入ると、まだ昔ながらのゆったりした日常が残っているところがあります。

特に我々地方から来た人間は肩肘張って生きているところがありますので、文字通りスーツを脱いで普段着に着替えたような気持になります。

永井荷風ではないが、永代橋の上から隅田川を眺めていたら、上京して20年、思えば遠くに来たもんだ、なんていつの間にか感傷的になっている自分がいました。
2006.05.23 Tue l 東京 l top ▲
名古屋に対しては格別な思いがあります。

ポスターやポストカードを輸入する会社に勤めていた頃、私は名古屋を担当しており、月に一度月曜から金曜まで名古屋に出張していました。当時、名古屋だけで50軒近くの取引先がありました。

名古屋を担当する際、名古屋は独特なところなので苦労するぞ、とまわりから言われました。たしかに、”名古屋モンロー主義”などと言われるくらい、排他的な面がなきにしもあらずでした。また、「大阪で集金できたら一人前、名古屋でものを売ったら一人前」という言葉もあると聞きました。

初めて名古屋駅に降りたとき、まだ今のような立派な駅ビルではなく昔ながらの古い建物でしたので、私は少なからず落胆したのを覚えています。よく東京・大阪・名古屋などという言い方をしますが、私も名古屋は東京と比肩するような大都市だと思っていたからです。しかし、どちらかといえば、「大きな地方都市」といった感じで、実際に名駅や栄の地下街などを歩いていると、顔見知りの人にばったり会ったりするのでした。

気質の違いなど、最初は戸惑うことも多かったのですが、慣れてくると、名古屋の人達は東京とは比べものにならないくらい暖かいものがありました。信用されるまでにやや時間がかかりますが、一旦信用されると、彼らの人の好さ、懐の深さをすごく感じました。

やがて、親しい友達も沢山できたし、名古屋の女の子と恋にも落ちました。一時は本気で名古屋に引っ越そうかと思ったほどです。

当時、名古屋を揶揄するタモリのギャクが流行っていましたが、まさにタモリから揶揄されていたようなどこかあか抜けないところが、逆に名古屋の良さのように思います。名古屋と言えば尾張商人ですが、たしかに昔ながらの”分限者”も多いので、絵画のコレクターなども多くて、文化的に豊穣な土地柄でもあるのです。
2006.05.17 Wed l 東京 l top ▲
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この業界で初めて勤めた会社が六本木でしたので、私にとって六本木はおなじみの街です。

会社は今の六本木ヒルズのところにありました。先日、久しぶりに行ってみましたが、六本木ヒルズを前にして記憶の底から当時の風景を思い起こすのにさすがに苦労しました。

当時はちょうどバブルの絶頂期で、毎夜、六本木には東京中の(と思えるくらいの)若者達が押し寄せていました。

陽が落ちると、表の舗道はスムーズに歩けないほど人でごった返していました。それで、私達は仕事を終えて駅まで行くのにいつも裏道を利用していました。

当時の六本木には表通りを一歩入ると迷路のような路地が入り組んだ住宅街がまだ残っていました。ひっそりと静まり返った家々の軒先を何度も曲がって前に進むと、まるで魔法にでもかかったみたいに駅のすぐ近くに出ることができるのです。初めてその経路を教えてもらったときは感激したほどです。

だから、私にとって六本木というのは、むしろ裏道のイメージの方が強く、もちろん、あのバブリーな華やかさとはまったく無縁でした。仕事帰りに食事をするときも、六本木ではなく、もっぱら坂を下って麻布十番の方に行ってました。当時の”十番”は近くに駅もなく陸の孤島のような街で、そのため都心にあってまだ下町の雰囲気が残った、六本木とは対照的な街でした。

あるクリスマスイブの夜のことでした。私はいつものように路地をぬけて駅に向かっていました。

路地の途中にはレストランの裏口があり、表の店ではブランドの服を身にまとったカップル達がクリスマスディナーを楽しんでいました。一方、裏口では下働きをしている中近東系の外国人達が、やけに鋭い眼光をあたりに放ちながら路面に座り込んで休憩していました。

私は彼らと視線を合わせないようにして横を通り過ぎながら、華やかさの裏にいつもくっついている、あのむなしさとさみしさをあらためて感じていました。

そのときです。ふと、空を見上げると、夜空に飛行船が浮かんでいるのが見えたのです。淡い光の中に浮かんだ飛行船は、まるでよその星からやってきたような幻想的な雰囲気を漂わせていました。そして、飛行船の船体には”Merry Christmas! ”と書かれていたのです。

いかにもバブルの時代にふさわしい光景ですが、そのとき、私は、飛行船を見上げながら妙に感動したのを覚えています。

しかし、先日、訪れた折、路地を探したのですが、残念ながらあたりの風景は一変しており面影さえ残っていませんでした。
2005.10.25 Tue l 東京 l top ▲
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下北沢の駅は狭くて人が多くいつも混雑しているので乗り降りするたびに憂鬱になります。また、車でシモキタ(下北沢)に行くと道は狭く一方通行ばかりで、いつも車で来たことを後悔するはめになります。

そのためか、今、シモキタでは幹線道路の建設や駅前再開発の計画が持ち上がっているようです。

シモキタ住人(?)による秀逸なサイト下北沢のページではシモキタのことを「歩いて楽しめる町」と呼んでいますが、たしかに、車で行くには不便だからこそ「歩いて楽しめる」シモキタの魅力があるといえなくもありません。

以前、シモキタの商店街の通りでファッションショーが行われたことがありました。そのとき、如何にもシモキタらしいなと思いました。

シモキタの魅力はなんといっても路地にあるのです。シモキタは路地の街といってもいいかもしれません。路地を曲がるたびにまるで玉手箱のようにいろんな店が目の前に現れる、そんな街を散策する楽しみがあります。

幹線道路が建設されて駅前にロータリーができると、バスに乗るには便利になるでしょうが、でも、シモキタがどこにでもあるようなただの街になってしまう心配はないのでしょうか?

シモキタには本多劇場やスズナリなど小さな劇場が多く、演劇の街というイメージがありますし、また、個性的な雑貨屋さんも多いのですが、一方、シモキタは安くて美味しい食べ物屋さんが沢山集まっている街でもあります。私にはむしろそっちのイメージの方が強いくらいです。

この”安い”というのがシモキタのキーワードかもしれません。雑貨にしても自由が丘や原宿にあるような高級な店は少なく、お手頃なアジアン雑貨を扱う店が多いのも特徴です。

一時古着のブームがありましたが、あれもシモキタあたりからはじまったように思います。同じ路地裏でも、ウラハラ(裏原宿)のような、あの手のブランド信仰とは無縁な街です。

いつまでもシモキタがシモキタであらんことを願うばかりです。
2005.09.03 Sat l 東京 l top ▲
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私が渋谷に通いはじめてもうかれこれ20年近くになります。大体週に2~3日は渋谷に通っていますので、この間の変遷はずっと身近で見てきたつもりです。

ひと頃ほどではないものの、相変わらずテレビなどでは、センター街の入口あたりで若者にインタビューをして、最近の流行ものを取り上げたりしていますが、そんな”若者の街・渋谷”もこれから大きく変貌しようとしているのはご存知でしょうか?

渋谷が”若者”から脱皮したいというのは、地元の商店街にとっては永年の悲願のようなもので、もう10年もその前から繰り返し言われてきたことでした。余談ですが、原宿にしても事情は同じです。あの街の喧騒からは見えない街の本音というのがあるのです。

相変わらず人は多いけれど、しかし、たしかに、最近の渋谷は少し街のパワーがなくなっている気がします。

ヤマンバが派生してなんとかバンバの女の子達が出現したとか、正直言って、もうその手の話題にうんざりしているのは私だけでしょうか?

そんな中、池袋から渋谷に直通する地下鉄13号線が2年後の平成19年に開通しますが、この開通に伴い駅ビルの建替えも予定されており、それによって駅前の再開発もいっそう加速されるのではないかといわれています。

渋谷が”若者の街”から”大人の街”へと変貌しないと新宿や池袋との地域間競争に勝てないというのはそのとおりでしょう。もっとも、渋谷はもともとサラリーマンの街だったので、いわば先祖返りするといってもいいのかも知れません。

私達が若い頃、渋谷は文字通り若者文化の発信地で、地方から出て来た人間にはあこがれの街でした。私がこの業界に入り渋谷に通いはじめた頃もまだそういった雰囲気が残っていました。

しかし、やがて渋谷にやって来る”若者”の質が違ってきたように思います。

シールを売る人間がこんなことを言うと反発を受けるかもしれませんが、業界の事情通と称する人達が「女子高生が流行を作る」なんて言い出した頃から、私も渋谷の街に違和感を覚えるようになりました。

前のブログでも書きましたが、シールのいちばんのお客様はOLの皆さんです。それから30代のお母さん達なのです。意外に思われるかもしれませんが、実際にOLの皆さんが勤め帰りに立ち寄るようなお店の方がよく売れています。

それまでシールというのは文具店でしか売ってませんでしたが、10数年前、私達がポストカードをヒントにして雑貨屋さんに卸しはじめた頃からシールブームが到来したのはそんな背景があったからだと思います。

その意味で、もう一度OLの皆さんが戻って来るようになれば、渋谷もまた違った魅力のある街になるのではないかと、私自身はひそかに期待しているのですが‥‥。

2005.08.27 Sat l 東京 l top ▲