横濱物語



■仮面強盗事件


5月8日に銀座で起きた「仮面強盗事件」で、逮捕されたのが16~19歳の横浜の遊び仲間だったという報道について、吉田豪氏がネットの番組で、「犯人が横浜の不良仲間と聞いて納得できましたよ」と言っていましたが、横浜住みの私も同じように思いました。

他の強盗事件にも関与していたようですが、しかし、闇バイトで実行部隊を集めた「広域強盗事件」ではなく、それを真似た事件だったのです。

先輩や友人に誘われてやったという供述が、如何にも横浜らしいなと思いました。横浜に住んでいると、誰が横浜をオシャレな街だなんて言ったんだ、と思うことが多いのです。

ガーシーが裏カジノにはまって借金を作ったのも、横浜の福富町の裏カジノだと言われていますが、さもありなんと思いました。

私は、前に横浜市立大を出た馳星周に、横浜を舞台にしたピカレスク小説を書いて貰いたいと書いたことがありますが、横浜ほど馳星周の小説が似合う街はないのです。

■『横濱物語』


にわか市民の私にとって、横浜のバイブルと言えるのは、平岡正明の『横浜的』(青土社)と小田豊二氏の『横濱物語』(集英社)です。

『横濱物語』は、黄金町の遊郭で生まれ、終戦後の横浜の夜の街でその名を轟かせた松葉好市氏という生粋のハマっ子に聞き書きした本で、終戦直後から1960年代半ばまでの、文字通り横浜が栄華を極めた頃の風俗や不良たちのことが語られているのでした。その中に、次のような箇所がありました。

 大正初期だったと聞いていますが、横濱の港湾荷役事業のために神戸からやってきたのが、「各酒藤兄弟会(かくしゅとうけいていかい)」。鶴井寿太郎、酒井信太郎、藤原光次郎というそれぞれの親分の頭文字を取って付けられた組織名で、いわゆる全国の港湾関係を仕切るために産まれた組織なんですね。
(略)
 その「鶴酒藤」の看板を次の世代で背負ったのが、酒井信太郎、笹田照一、藤木幸太郎、鶴岡政次郎といった親分衆。みなさん、神戸の山口組二代目・山口登さんと五人の兄弟分の人たち。その人たちが新興勢力として関西から横濱にやってきた。
藤木さんと鶴岡さんは綱島一家の盃をもらって藤木一家、鶴岡一家を興し、酒井さんと笹田さんもこの横濱で一家を構えて、親分になったんです。
(略)
 藤木企業? ええ、その前身です。でも息子さんはカタギで、いまでは横濱を代表する立派な実業家です。(略)
  港湾の仕事は、とにかく人を集めなければ話になりませんからね。それも働くのは沖仲仕と呼ばれる荒っぽい人たちですから、そういう組織がないとしめしがつかない。


 GHQは最初、荷役の下請けを禁止していたんですよ。ところが、直接に沖仲仕を雇うと、ストとか起こりやすいじゃないですか。それで、笹田親分の笹田組や鶴岡さんのところの東海荷役、それから藤木さんの藤木企業という会社に下請けをまかせたんです。(略)


松葉氏は、「この港湾事業のおかげで戦後の横濱が発展した」と言っていました。「とにかく横濱に行けば仕事にありつける」ということで、横浜に人が集まったのでした。そして、アメリカが接収した土地の6割が横浜に集中していたと言われるくらい進駐軍の影響が大きかった横浜は、繁華街もアメリカ文化に彩られ「憧れの街」になったのでした。そんな中から愚連隊が生まれ、横浜は愚連隊の発祥の地だと言われたそうです。「仮面強盗事件」の少年たちは、元祖愚連隊の継承者と言っていいのかもしれません。

■映画「ハマのドン」とカジノの”再燃”


2021年の横浜市長選では、山下埠頭にIR、つまりカジノを誘致するかどうかが大きな争点になりました。そして、カジノ反対の急先鋒に立ったのが、”ハマのドン”と言われた藤木企業会長の藤木幸夫氏でした。藤木氏は、昵懇の仲であった菅義偉首相(当時)と袂を分かって、立憲民主党が擁立した反対派の山中竹春候補(現市長)を支援することを表明し話題になりました。

その藤木氏を描いた映画「ハマのドン」が今月から劇場公開されています。これは、テレビ朝日が製作した2022年2月放送のドキュメンタリー番組を劇場版に再編集したもので、監督はテレビ朝日の「報道ステーション」でプロデューサーを務めた松原文枝氏です。

ところが、今年の2月の市議会で、山下埠頭の再開発計画に関する「山下ふ頭再開発検討委員会」の設置が決まったことで、横浜でカジノが”再燃”するのではないかという声が出ているのでした。と言うのも、再開発の事業者提案の中に、山下埠頭をスポーツ・ベッティング(スポーツの試合を対象にした賭け)の「特区」にするという計画案が含まれていたからです。しかも、スポーツ・ベッティングの解禁には法改正が必要なので、「特区」という文字に政治家や経産省の深慮遠謀を指摘する声もあるのでした。検討委員会の設置には、自民党だけでなく立憲民主党も共産党も賛成して、反対したのは無所属の2人だけだったそうです。

そういったカジノ”再燃”の不穏な動きとの絡みもあり、映画「ハマのドン」に対しても、「虚構」だ、藤木氏をヨイショしているだけだ、という批判が噴出しているのでした。私は、まだ本編を観ていませんが、予告編の冒頭に、「主権は官邸にあらず 主権在民」というキャッチコピーが画面いっぱいに映し出されるのを観ると、たしかに違和感を持たざるを得ないのでした。

市長選前の2021年8月3日に、藤木氏は外国特派員協会で記者会見を行なったのですが、その中で注目を集めた発言がありました。

YouTube
横浜市カジノ誘致に反対 「ハマのドン」藤木氏が会見(2021年8月3日)

「カジノの問題なんか小さな問題なんです。ただ、マスコミの皆さんがやっぱりカジノを中心にリポートされてるから、これだけのことになってる。私、カジノはやっていいんですよ。横浜港以外ならどこでもやってくださいよ。だって国がやると言ってるんだから」


ここに来て、藤木氏はカジノには反対ではなかった、ただ利権から外されたので反対しただけだ、という見方が再び取り沙汰されているのでした。

■旧市庁舎の売却問題とMICE


先日の市議会では、気に入らない質問があるとあきらかに不機嫌な様子を見せて、ふんぞり返るように椅子に座っている市の幹部の態度が一部の市民から批判されていましたが、横浜市は名にし負う役人天国でもあります。カジノの”再燃”には、横浜市庁舎の”中の人”たちの意向もあるのではないかという穿った見方もあります。何故なら、みなとみらいと同じように、巨大な天下り先が確保できるからです。

横浜にはカジノだけでなく、ほかにも問題が山積していますが、反対派が「激安処分」と呼ぶ旧市庁舎の売却問題もそのひとつです。林文子市長の時代に、旧横浜市庁舎の建物5棟を7700万円で売却し、土地を77年の定期借地権付きで貸し付ける契約を三井不動産を代表とする8社の企業グループと結んだのですが、これに対して、「たたき売り」だとして契約の差し止めを求める住民訴訟が起こされているのでした。しかし、立憲民主党に擁立された山中竹春市長は、契約は妥当で市に瑕疵がないと判断し、林市政の方針を受け継いでいるのでした。

7700万円で売却した旧市庁舎は、1959年に建築家の村野藤吾の設計によって建てられた、戦後日本を代表する近代建築と言われるような歴史的価値がある建造物です。しかも、2009年に60億円をかけて耐震補強までしているのでした。建物は一応保存することが売却条件になっており、そのうち旧行政棟は、星野リゾートの系列会社が2026年からホテルとして運営することが決まっています。一方で、三井不動産などの企業グループは、同じ敷地内に、地上33階建て高さ170メートルの高層ビルを、2026年完成を目指に建設することをあきらかにしているのでした。

市庁舎がある関内地区には、「都市景観形成ガイドライン」によって、さまざまな規制がかけられており、建築物の高さも実質的に33メートルから40メートルに規制されていました。そのため、私もこのブログで書いたことがありますが、都内のように高い建物で頭上を覆われるような圧迫感がなく、ヨーロッパの街のようなゆったりした雰囲気があり、それが横浜の街の魅力でした。ところが、いつの間にかガイドラインが”緩和”され、高層ビルの建設が可能になっていたのでした。もっとも、新しい市庁舎が36階建てで、行政みずからが横浜の街の景観を壊しているのが現状なのです。

山下埠頭の再開発では、基本計画の中に、観光庁が推進する「MICE」がテーマとして掲げられています。「MICE」というのは、「企業等の会議(Meeting)、企業等の行う報奨・研修旅行(Incentive Travel)、国際機関・団体、学会等が行う国際会議(Convention)、展示会・見本市、イベント(Exhibition/Event)の頭文字」(観光庁のサイトより)から取った言葉で、政府が成長戦略の一環として打ち出した総合リゾート型観光の中核をなすものです。要するに、そこにあるのは、コンクリートの箱を造ってイベントをやって滞在型の観光客を呼び込むという、旧態依然とした発想です。当然、その中にスポーツ・ベッティングの「特区」も含まれるのでしょう。

横浜がインバウンドの取り込みに失敗しているのは事実ですが、それはイベントをやる施設がないからではないのです。街がミニ東京みたいになってしまって外国人観光客に魅力がないからです。食べ物であれ景観であれ何であれ、日本を訪れる外国人観光客たちが求めるのは”日本らしさ”です。つまり、彼らは、ありのままの日本の歴史や文化を求め、異文化を体験するために日本にやって来ているのです。それがわかってないのではないか。

言うまでもなく、横浜は独自の歴史と文化を持った街ですが、その”記憶の積層”を過去の遺物だと言わんばかりに捨て去ってしまう今のやり方は、みなとみらいと同じように、のちに大きな禍根を残すような気がします。

■村社会の魑魅魍魎たち


横浜市は、人口が376万人(2023年1月現在)の大都市ですが、一方で古いしがらみが残る地方都市の側面もある街です。老舗と呼ばれる商店や、港湾(倉庫)業や運送業や建設業など、進駐軍がもたらした戦後の繁栄の恩恵に浴した者たちが、まるで”村社会”のように横浜の政治・経済を牛耳っているのでした。

たとえば、菅義偉元首相が小此木八郎氏の父親の秘書だったかとか、藤木幸夫氏が小此木八郎氏の名付け親だったとか、人間関係も非常に濃密です。そのため、彼らが表面的に対立する構図となった先の横浜市長選も、利権をめぐる“村社会”の内輪もめにすぎないのではないかという見方が当初からありました。

たしかに、林市政のときと同じように、いつの間にかオール与党体制に戻って、市長が変わっても”村社会”の利権の構造は何も変わってないのでした。

下記のような共産党の県議の投稿に対して、カジノ反対派の市民たちが反発していますが、しかし、言っていることはわかる気がします。


共産党も「山下ふ頭再開発検討委員会」の設置に賛成したので、お前が言うなという気がしないでもありませんが、横浜の“村社会”とそこに跋扈する魑魅魍魎たちのことを考えれば、話がそんな単純なものではなかったことがわかるのです。裏には裏があるわけで、横浜市民だったらそのくらい考えなさいよ、と言いたいのだろうと思います。それこそ横浜市歌を空で歌えるような横浜市民たちもまた、利権のおこぼれを頂戴するために横浜の“村社会”を支えているのです。私には、屋根の上からばらまかれる餅に我先にむらがるような、そんなイメージしかありません。

横浜市は、まさに日本の地方の縮図なのです。ただ、日本で一番人口の多い都市(市)なので、そのヤバさが桁違いだということです。「ドン」と呼ばれる人物や官尊民卑を地で行くような小役人が我が物顔で跋扈する街のどこがオシャレなんだ、と言いたくなるのでした。


関連記事:
横浜市長選の争点
”ハマのドン”の会見
横浜市政は伏魔殿
関内あたり※2010年2月
横浜の魅力※2009年3月
2023.06.01 Thu l 横浜 l top ▲
谷戸
(歩いたルート) ※クリックして拡大画像してください


■谷戸


先週の土曜日(5月6日)に同じところを散歩したのですが、谷戸やとと呼ばれる地形のことが気になったので、昨日、同じ場所を再び歩きました。

谷戸というのは、主に静岡以東の呼び方だそうです。私もこちらに来て谷戸という呼び方を初めて知りました。

横浜は谷戸が多く、横浜市のサイトでも「谷戸のまち横浜」というページがあるくらいです。それによれば、次のように説明されています。

 「谷戸」とは、丘陵大地の雨水や湧水等の浸食による開析谷を指し、三方(両側、後背)に丘陵台地部、樹林地を抱え、湿地、湧水、水路、水田等の農耕地、ため池などを構成要素に形成される地形のことです。
 「谷戸」という語源を辿ると、次のように言われています。
「静岡以東、主に関東に分布する東言葉で、古い時代に、主として稲作をしていた処ところの小地名である。だから山中には無いし、広い平坦地にも殆どない。その平坦地から山合いにはいりこんだ土地の名である。」
(谷戸のまち横浜)


開析谷かいせきこくと言うのは、私たちが普段イメージするような急峻な谷ではなく、どちらかと言えば、台地、あるいは登山で言うコル(鞍部)を広くしたもの、というようなイメージの方が近いかもしれません。

サイトにも書いていますが、横浜には谷戸が付いた地名が多く、昨日歩いた環状2号線沿いにも、「表谷戸」と「仲谷戸」というバス停があります。

ちなみに、九州では谷戸のことをさこと呼ぶみたいです。そう言えば、私の田舎にも「芋の迫」や「下迫しもざこ」という地名がありました。

住所で言えば、港北区師岡と鶴見区獅子ヶ谷の境界にあたる一帯です。私が住んでいるところから南に歩いて綱島街道に出ると、正面の丘の上にマンションや住宅が立ち並んでいるのを見渡すことができます。また、綱島街道沿いにある区役所の前の大きな交差点では、磯子区から鶴見区までの25キロ近くを結ぶ環状2号線が、綱島街道と交差して丘の上に向けて坂を上っているのでした。

私は、丘の上の住宅群がずっと気になっていました。それで、先週は環状2号線を通ってトレッサの横から迂回して行ったのですが、昨日は綱島街道から脇道に入り、直接上ろうと思いました。

前にホームセンターがあった場所にマンションが建設中で、その囲いの横にある狭い路地を進み、いったん裏の車道に出て、さらに住宅の横にある路地を奥に進むと丘の下に突き当り、そこに鉄の手すりが設置された石段がありました。石段を見上げていると、上からちょうど中年の男性が下りてきたのでした。

「すいません。これを上って行くと上の道に出るのですか?」
「そうですよ。尾根に出ますよ」

「尾根」と言われて思わず苦笑しそうになりました。昔の地形ではそうかもしれませんが、しかし、今は住宅地として開発され、崖の上にはマンションのコンクリートの建物が聳えているのでした。

石段を上って行くと、マンションの直下に樹木に囲まれた祠がありました。見ると、「大豆戸不動尊」という小さな柱がありました。崖の下から新横浜にかけての一帯は大豆戸おおまめどという町名です。昔は、丘の上に登り、さらに尾根を通って山の反対側の鶴見に行ったり、あるいはこの地域の守護神である師岡熊野神社に参拝したのでしょう。奥多摩の登山道などと同じように、そのためにショートカットする道だったのでしょう。

丘の上に登り、マンションの横を通りぬけると、先週歩いた見覚えのある道に出ました。地図で言えば、西から東の方へ上った格好になります。

見ると、台地の両端にはこんもりと木が茂った小山があり、典型的な谷戸の風景が広がっています。恐らく私が上って来た側にも昔は小山があったのだろうと思いますが、今は切り崩されて住宅地になっているのでした。

そこから斜度の一部が50度を超すような急坂を下りて、台地の西側にある横浜市指定有形文化財の「旧横溝家住宅」という古民家をめざすことにしました。

道沿いには鉄塔が建っていました。昭和の頃までは畑や田んぼが広がる田園地帯だったそうですが、今は台地の端は住宅地になっていて、中心部の畑や田んぼが広がっていた一帯は、建設会社の資材置き場や車庫、あるいはトタン板で囲われた産廃施設のようなものに変わっていました。

台地の先にあるトレッサ横浜は、トヨタ自動車のグループ会社が運営する商業施設で、フルオープンしたのは2008年(平成20年)ですが、それまでは新車を一時保管するプール(置き場)だったそうです。

■旧横溝家住宅と獅子ヶ谷市民の森


旧横溝家は、昔の名主の家で、江戸後期から明治中期に建てられた古民家です。1987年(昭和62年)に横浜市に寄贈され、1989年(平成元年)から公開されているそうです。

旧横溝家は、昔の典型的な農家の建物で、私も懐かしい気持で見学しました。土間のことを「にわ」と呼んだというのも、九州と同じでした。残された本棚の中の本を見ると、それまで住んでいた戸主は短歌を好んでいたことがわかります。また、旧横溝家の裏山には、小机城の支城の獅子ヶ谷城があったのではないかと言われているそうです。

台地の両端に残っている小山は、「獅子ヶ谷市民の森」として保存されていて、ハイキングコースになっており、旧横溝家を見たあとは鶴見区の方にある市民の森の一部を歩きました。

余談ですが、台地の上に家を買った人たちはどうして通勤しているんだろうと思いました。環状2号線沿いには、鶴見駅や綱島駅や菊名駅や新横浜駅に行くバスが通っていますが、それでも駅まではかなりの時間を要します。歩くとなると時間がかかる上に急な坂道を上ったり下りたりしなければならなりません。途中、下まで買い物に行って帰宅中とおぼしき人たちに遭遇しましたが、皆さん、それこそ登山のように前かがみになって息を整えながらゆっくりゆっくりと歩いているのでした。

ただ、横浜はこういった駅から離れた”不便なところ”は多く、むしろそれが当たり前みたいな感じさえあります。環状2号線沿いの住宅などは、法面に専用の階段が作られているような崖の上の家も多いのでした。

しかも意外だったのは、谷戸の台地の端に、少なくない数のアパートが建っていることでした。通勤通学するのにさぞや不便だろうと思いますが、住人たちは車を所有しているのかもしれません。でなけばとてもじゃないけど、生活できないように思いました。ただ、このブログにも書いたことがありますが、私自身は、運動会のときにひっそりと静まり返った校舎の裏に行ったり、家の裏山で一人で遊ぶのが好きだったし、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが牧場の裏の丘の上から、遠くに見える町の灯りを眺めながら物思いに耽る冒頭のシーンに自分を重ねるような子どもだったので、そういった表の喧騒と隔絶されたような場所はもともと嫌いではないのです。

獅子ヶ谷市民の森は、ハイキングと言うにはちょっと短い距離ですが、昔の自然が残されていて、山歩きのプチ体験ができるようになっていました。

帰りは、先週と逆コースの環状2号線を歩いて帰りました。

吉行淳之介に『街角の煙草屋までの旅』というエッセイ集がありましたが、これも僅か数時間の丘の上までの旅だったように思いました。

距離は8キロ弱、歩数は13000歩でした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC02932.jpg
マンション建設現場の囲いでおおわれた路地を進む

DSC02934.jpg
階段を上る

DSC02939.jpg
大豆戸不動尊

DSC02943.jpg
同上

DSC02946.jpg
台地の上からの眺望

DSC02954.jpg
急坂

DSC02971.jpg
鉄塔

DSC02966.jpg
鶴見大学師岡グランド

DSC03001.jpg
旧横溝屋敷

DSC03006.jpg
1847年(弘化4年)に建てられた長屋門

DSC03008.jpg
母屋

DSC02984_202305100910491f8.jpg
蔵の中に展示されている農具

DSC02988.jpg
同上

DSC03015.jpg
母屋の中の様子

DSC03017.jpg
土間(当時は「にわ」と言っていた)

DSC03027.jpg
台所(九州ではかまどのことを「おくど」と言っていた)

DSC03040.jpg
文書蔵(耐火性のある造りになっていて、大事な書き物などを保管していた)

DSC03047.jpg

DSC03052.jpg

DSC03055.jpg

DSC03066.jpg

DSC03083.jpg
内側から見る長屋門

DSC03085.jpg
右が農具が展示されている蔵

DSC03100.jpg

DSC03114_20230510091911ca0.jpg
西谷広場から登る

DSC03126.jpg
西谷広場

DSC03143.jpg

DSC03148.jpg
上からの眺望

DSC03152.jpg

DSC03160.jpg
ピンクテープもある

DSC03165.jpg

DSC03166.jpg
下谷広場に下りる

DSC03170.jpg

DSC03192.jpg

DSC03203.jpg
2023.05.10 Wed l 横浜 l top ▲
DSC01550.jpg


■鶴見川の土手


昨日も昼前から散歩に出かけました。いつもの代わり映えのしないコースで、鶴見川の土手を新横浜まで歩いて、そのあとは駅ビルに寄って本を購入して環状2号線を通って帰って来ました。

登山で使う地図アプリでトラック(歩いた軌跡)を記録しましたが、歩いた距離は7キロ弱でした。

ただ、昨日はゴールデンウィークの真っ只中だったので、いつもと様子が違っていました。

土手に上がる前に通る遊歩道には小さな公園がいくつかあって、休日は子どもたちで賑わっているのですが、ひとつの公園は、兄妹とおぼしき小学校低学年くらいの子どもが二人いるだけでした。さらに、もうひとつの公園は、乳飲み子を抱えたお母さんが、小さな子どもが一人で砂遊びしているのを見守っているだけでした。

鶴見川の土手もいつもの休日に比べると、ジョギングや散歩をしている人たちの姿も少なく閑散としていました。

横浜労災病院の先の新横浜の外れまで歩いて、ベンチに座ってコンビニで買ったおにぎりを食べていたら、一人の女性がやって来て隣のベンチに座ったのでした。そして、同じようにおにぎりを食べはじめたのでした。さらに、そのあとはショルダーバックから文庫本を出してそれを読み始めていました。

■新横浜の駅ビルと消えゆく書店の運命


新横浜の街に戻ると、駅に向かって人の波が続いていました。見ると女性が多いのですが、年齢層が若者から中高年まで幅広く、それもどちらかと言えば地味な服装の女性たちが多いのでした。横浜アリーナは反対側だし、コンサートの帰りには見えません。

私は宗教団体の集まりでも行われたのかと思いました。駅に向かう人たちを見ると、勧誘のためにグループで個別訪問している信者たちと似ている感じがしないでもありません。

気になったのでスマホで調べたら、近くにスケート場があり、そこでアイスショーが行われていたことがわかりました。昔は新横浜プリンスホテルスケートセンターと呼ばれていたのですが、今はコーセー化粧品が命名権を獲得して、「KOSÉ新横浜スケートセンター」と呼ばれているそうです。私もフィギュアスケートの大会などで、新横浜プリンスホテルスケートセンターという名前は知っていましたが、どこにあるのか場所は知りませんでした。アイスショーのファンはあんな感じなんだ、と思いました。

相鉄線と東横線の乗り入れにより、相鉄線の西谷駅から東横線の新綱島駅まで新たに新横浜線が敷設され、それに伴って新横浜駅にも新しい地下鉄の駅ができたばかりです。ところが、駅ビルのオープンとともに15年間テナントとして、駅ビルの3階と4階のフロアを占めていた高島屋のフードセンターが2月1日に閉店したのでした。高島屋のフードセンターは、デパ地下のコンテンツを地上階で展開したものです。そのため、新横浜周辺に住んでいる人たちには衝撃を持って受け止められているのでした。しかも、次のテナントは未定とかで、未だにベニヤ板で囲いがされたままです。

アフターコロナで観光地が賑わっているとか言われていますが、新横浜のような観光資源の乏しい、どちらかと言えばビジネス街のような街は関係ないのです。もっとも観光地にしても、インバウンドが頼りなので、ロンリープラネットで紹介されて外国人観光客が訪れないと、その恩恵に浴することはできないのでした。それが現実なのです。

階下の新幹線の改札口は多くの乗客で賑わっていましたが、やはり、途中の階のフードセンターが撤退した影響は大きいようで、最上階にある書店も前に比べて人は少なく淋しい光景が広がっていました。ただその中で、場違いに女性たちが群がっている一角がありました。見るとジャニーズ云々の文字が見えました。どうやらジャニーズ事務所のタレントたちの写真集やブロマイドなど関連グッズを売っているようでした。

それで再びスマホで調べたら、案の定、5月3日から6日まで横浜アリーナでKAT-TUNのコンサートが行われていたのでした。

前は駅前にあった書店が、横浜アリーナで開催されるコンサートに合わせて、アイドルのグッズを売っていましたが、その書店もとっくに閉店してしまいました。それで今度は駅ビルの書店が扱っているようです。ちなみに、駅前にあった書店は、神奈川に本社があるチェーン店で、私は昔、関東一円の店に文房具を卸していたことがあります。

このブログでも書いたことがありますが、横浜アリーナでアイドルのコンサートが行われたときなどは、駅前の書店はグッズを買い求めるファンたちでごった返すほどでした。しかし、それでも採算が合わずに閉店したのです。

これはみなとみらいなどのビルに入っている書店も同じですが、とてもじゃないけど採算が取れているようには思えません。外から見ても、年々来店者が減っているのがわかります。個人経営の小さな書店だけでなく、大型のチェーン店もやがて消えていく運命にあるのは間違いないように思います。

書店で未知なる本と出合えるのは読書家の喜び、というのはよくわかる話ですが、しかし、書店のシビアな経営にとって、そんな話は気休めでしかないのです。

■物価高騰と愚民社会


帰りに夕飯のおかずを買うためにスーパーにも寄りましたが、スーパーも人がまばらでした。まだ夕方の早い時間だったのですが、早くもトンカツが値引きされていましたので、それを買って帰りました。

私は家ではもっぱら伊藤園の濃いお茶を飲んでいるのですが、最近は2リットル入りのペットボトルが170円とか180円とか行くたびに値段が上がっています。如何にも「お得だ」と言わんばかりに「2本で350円」とか貼り紙が出ていることがありますが、冷静になって考えれば全然安くないのでした。

今の物価高騰こそ”異次元”と呼ぶべきだと思いますが、日本人の習性で、いつの間にか喉元過ぎれば熱さを忘れて、慣れっこになった感じすらあります。

大風呂敷を広げれば、今の状況は、危機に瀕するグローバル資本主義が制御不能になり、かつて経験したことがない世界的な物価高騰を招いていると解釈することができるでしょう。

今の物価高騰のきっかけが、ウクライナ戦争に伴う資源(エネルギー)価格の高騰にあり、その背景に世界の多極化という覇権の移譲が伏在していることを考えれば、アメリカが中国の台頭を牽制し、どう中国の脅威を喧伝しようとも、この流れを止めることはできないように思います。グローバルサウスと呼ばれる第三世界の国々が、アメリカの支配から脱して中国に乗り移ろうとしているのも当然なのです。

一方で、対米従属を国是とするこの国の政権の腰巾着ぶりを見ると、グローバル資本主義の危機に連動した私たちの生活が、これからもっと苦難を強いられるのは避けられない気がします。革命のDNAがない日本では、みずからの自由を国家に差し出して、さらに盲目的に国家に頼るのがオチですが、でもそれは、地獄への案内人に手を差し出すことでしかないのです。平均年収や最低賃金や相対的貧困率など、私たちの生活に関連する指標を見ても、既に日本はOECDの中で下位に位置するようになっています。それだけグローバル資本主義の危機によって、私たちの生活が圧迫されているのです。にもかかわらず、肝心な国民にはその危機感があまりに希薄です。

それどころか、中身は単なるバラマキ(あとで税金で回収)でしかない異次元の少子化対策なるものが打ち出されると、「ラッキー! これで住宅ローンの支払いが楽になる」と言わんばかりに、内閣の支持率が急上昇する始末です。そんな一片の留保もない動物的な反応を見ると、私は、福島第一原発の事故のあと、大塚英志と宮台真司が出した『愚民社会』(太田出版)という本のタイトルを思い出さざるを得ないのでした。

子どもをめぐる問題を貧困問題(上か下かの問題)として捉える視点がない与野党も含めた今の政治は、この格差社会において政治の責任を放棄し、完全に当事者能力を失っているとしか思えませんが、そういった声もまったく聞かれません。これでは、政治家たちは、大衆なんてチョロいと高笑いして、危機感もなく国会でうたた寝をするだけでしょう。

エマニュエル・トッドではないですが、現在は大衆社会の閾値を超えるような高学歴の社会になったのです。だからこそ、愚民批判は、ためらうことなく、もっと苛烈に行われるべきだと思います。中野重治の『村の家』のような、インテリゲンチャと大衆という区分けはとっくになくなったのです。もうインテリゲンチャも大衆もいないのです。

「それ、あなたの意見ですよね」という”ひろゆき語”だけでなく、「上から目線」という言い方や、YouTubeでアンチに対して「だったら見なければいい」というような身も蓋もない言い方がネットを中心に流通していますが、要するに、そうやって思考停止する自分に開き直ることが当たり前になっているのです。「上から目線」という言い方に対しては、逆に何様なんだ?と言いたくなりますが、昔だったら、そんな言い方は、とても恥ずかしくて口に出して言えませんでした。でも、今は恥ずかしいという感覚はなく、むしろ”論破”したつもりになっているのです。そういったネット特有の夜郎自大について、「孤立」しているからだという見方がありますが、私は、必ずしも「孤立」しているのではないように思います。ネットの時代になり、同類項の人間たちが可視化されたことで、恥ずかしい言語を共有する仲間トライブができたのです。そして、その中でみずからを合理化できるようになったのです。

ひろゆきにしても、どう見ても”痛いおっさん”にしか見えません。ひと昔前なら嘲笑の対象だったでしょう。でも、彼は「論破王」などと言われて持て囃され、社会問題についてコメントまでするようになったのです。文字通り愚民社会のスターになったのでした。

メディアは言わずもがなですが、左派リベラル界隈の言説にしても、まったく現実をこすらないような空疎な(屁のような)言葉ばかりです。どうしてこすらないのかと言えば、愚民批判のような”闘技”を避けているからです。シャンタル・ムフの言葉を借りれば、今こそ(カール・シュミットが言う)「友敵関係」を明確にした”闘技”の政治、つまり、感情をゆさぶるようなラジカルな政治が求められているのだと言いたいのです。

政治家たちは、勝手に高笑いしてうたた寝をしているのではないのです。愚民社会がそうさせているのです。


関連記事:
理念神話の解体
『愚民社会』
新横浜
2023.05.05 Fri l 横浜 l top ▲
publicdomainq-0057537ohqzks.jpg
(public domain)


■東急東横線


私が横浜のこの街に住んでもう20年近くになりました。私が住んでいるのは、毎年、不動産サイトが発表する「首都圏で住みたい沿線ランキング」において、上位ランクの常連でもある東急東横線沿線の横浜側の街です。2022年は東横線は2位でした。ちなみに、1位は東京のJR山手線です。

ただ、JR山手線沿線と言われても、あまりにざっくりした感じで、住宅街としてのイメージが湧いてきません。住宅街としては、東横線沿線の方が具体的なイメージがあり、一般的に認知されていると言えるかもしれません。

輸入雑貨の会社に勤めていた頃、私は横浜を担当していましたので、週に1回は渋谷から東横線に乗って横浜に行っていました。当時は渋谷から横浜まで200円もしなくて、電車代が他の会社に比べて安かったのを覚えています。もちろん、東横線の終点は横浜駅ではなく桜木町駅でした。

東横線に乗ると、何だか電車の中がもの静かで、お上品なイメージがありました。そんな中で、当時の武蔵小杉は雑多で異質な街でした。駅から少し離れると工場がひしめていて、しかも京浜工場地帯の後背地を通る南武線も走っていたし、何だか東横線のイメージにそぐわないような感じさえ抱いたものです。

武蔵小杉の工場跡地にタワーマンションが建ったのは、私が横浜に引っ越したあとのことです。やがて駅周辺に迷路のような囲いが作られて建設が始まり、あれよあれよという間にオシャレな街に変貌していったのでした。

■昭和のアパート


今、私が住んでいる街も、昔は町工場が多くあったところです。ただ、武蔵小杉などよりずっと前に住宅地の開発がはじまり、平坦な土地が多いということもあって、”高級”のイメージが付与され、人気の住宅地になったのでした。昔は畑の中に大手家電メーカーの工場があり、周辺に下請けの工場が点在していたそうです。

前も書いたことがありますが、ANAの女子寮もありました。また、たまたま私の高校時代の同級生が、若い頃すぐ近くにある某メーカーの独身寮に住んでいたそうで、当時は社宅や寮なども多くあったのです。しかし、今はほとんど残っていません。最後に残っていた保険会社の社宅も、現在、跡地に大手デベロッパーのマンションが建設中です。

私が引っ越して来た当時、駅周辺の路地の奥には、”昭和のアパート”といった趣きの古い木造のアパートがいくつもありました。おそらく、それらのアパートは、当初は周辺の町工場で働く人たちを対象に建てられたのだと思います。

アパートの前を通ると、ときどき建物から出て来る住人に遭遇することがありましたが、ほとんどが高齢者でした。仕事をしているのか、オシャレな恰好をして鉄階段を下りて来る高齢の男性を見たこともありますし、また、アパートの前に植えられた桜の木にカメラのレンズを向けている高齢女性を見たこともあります。年齢の割に派手な恰好をしたお婆さんでした。あるいは、開けっぱなした窓から見える室内の壁一面に揮毫をふるった書道の紙を貼っている、ちょっととっぽい感じのお爺さんもいました。

でも、それらのアパートはこの15年くらいの間に多くが取り壊され、アパートと呼ぶのかマンションと呼ぶのかわからないような、今風の建物に変わってしまいました。もちろん、住人も様変わりして、若いカップルや夫婦になりました。

久し振りに前を通ると、新しい建物に変わっているのでびっくりするのですが、そのたびにあの高齢の住人たちのことを思い出すのでした。

そして、わずかに残っていた昭和のアパートが最後に姿を消したのは、この5~6年のことです。待機児童の問題が取り沙汰されるようになり、横浜市でも次々と保育園が作られたのですが、その用地になったのでした。

しかし、最近は保育園も過剰になったのか、どこも前を通ると、「入園者募集」と「保育士募集」の紙が貼られています。そう言えば、待機児童の問題がニュースになることもなくなりました。

それらの保育園に子どもを預けているのは、近辺のマンションに住んでいる若い夫婦たちです。人気の東横線沿線に住みたいと思って、背伸びして割高なマンションを買ったような人たちと言っていいかもしれません。

週末のスーパーに行くと、30代くらいの若い家族連れが目立ちますが、高齢者と入れ替わるように、そんな若い家族が越して来たのでした。

■冷たい街


よく「どこに住んでいるのですか?」と訊かれて、この街の名を告げると、決まって「いいところに住んでいますね」と言われるのですが、ただ、私がこの街に住んだのは特に理由があったわけではありません。それこそ「所さんのダーツの旅」みたいな感じで選んだだけです。しかし、実際に住んでみると、外から見るイメージと実際は全然違います。当たり前の話ですが、”高級住宅街”と言っても、住んでいる人間が高級なわけではないのです。ただ地価が高いというだけです。

住民には若い女性たちも多く、夕方、駅前のスーパーに行くと、勤め帰りの彼女たちが買い物に来ていますが、はっきり言って買っているのがショボくて、コンビニと間違えているんじゃないかと思うほどです。家賃が高いので、食費を倹約しなければならないのかもしれません。それは週末のスーパーに来ている若い夫婦も同じで、恰好はオシャレですが、カゴの中は質素倹約そのものです。横浜に来る前は埼玉に住んでいましたが、埼玉のスーパーの方が全然買いっぷりがいいように思いました。

一方で、入れ替わりが激しいのですが、カットサロン、私たちの年代で言えば美容院、田舎にいた子どもの頃の呼び方で言えば、パーマ屋がやたら多いのでした。

だからと言って、商店街に活気があるわけではなく、むしろ逆で閉塞感が漂っています。地元の人たちに聞いても、昔の町工場の時代の方が活気があったと言っていました。

何だか“虚飾の街”という感じがしないでもありません。東横線の電車がお上品に見えたのも、実際に住んでみるとただの錯覚だったということがわかりました。高級とかオシャレとか言われるのも、腹にいちもつの不動産会社が捏造した、ただのイメージにすぎないのだということがよくわかります。むしろ逆に、人々に余裕がないのか、どことなく街に冷たいところがあるのでした。何というか、山に登っているときにすれ違ったハイカーに「こんにちわ」と挨拶しても無視されるような、そんなバリアのようなものを感じるのでした。その点は、ヤンキー家族が多い埼玉の街の方が、お世辞にもお上品とは言えないし、何かトラブルがあったときは面倒ですが(子どもの前でも平気でヤクザ口調になるパパがいたりする)、その分開けっ広げに素顔を晒すような清々しさや人間臭さがあったように思います。

いつの間にか姿が見えなくなった昭和のアパートの住人たち。どこに行ったんだろうと思います。彼らは、高級やオシャレと引き換えに、私たちの目に見えないところに追いやられたのでした。

■老後の貧困


最近は高齢者に対して、無駄だとか邪魔だとか足手まといだとかいった言葉を投げつけられるような、”棄民の思想”さえ垣間見えるようになっています。少子化問題もそうですが、そこにあるのは、資本家と同じような経済合理主義の考えだけです。老人や子どもの問題を、貧困問題として捉えるような視点はどこにもありません。

昔、老後の貧困を扱ったNHKの番組の中で、「老いることは罪なのか」という言葉がありましたが、もうそんな問いかけさえなく、最初から「罪だ」と決めつけているような風潮があります。政治家だけでなく、メディアが老人問題を報じる際も、真っ先に出て来るのが高齢者の社会保障費や医療費が財政を圧迫しているという問題です。そこから話がはじまるのでした。「シルバー民主主義」という言葉も、直接的な言い方を避けた”老人叩き”のための隠喩として使われていることを忘れてはならないでしょう。

でも、2022年3月に厚労省が発表した最新のデータによれば、老齢年金の平均受給額(月額)は、国民年金が55,373円で、厚生年金が145,638円です。個々の高齢者は、こんな僅かな年金でそれこそ爪に火を点すような老後の暮らしを送っているのです。これでは家族がいない単身者が生活できないと嘆く気持がよくわかります。にもかかわらず、高齢者たちは無駄だとか邪魔だとか足手まといだとか言われて、老いることも自己責任のように言われるのでした。

どうしてこんな冷たい社会になったんだろうと思います。五木寛之は、どう生きたかではなく、どんな人生であっても、とにかく生きぬいて来ただけで凄いことだし立派なことなんだ、と言っていましたが、やはり、国家が没落して貧しくなると、高齢者を敬い、労わるような余裕もなくなるのだろうかと思ったりします。何だかそれは、この街の冷たさと似ているような気がします。将来の納税者を増やす異次元の少子化対策のために、老人は目に入らないところに消えてくれと言っているような感じすらあるのでした。
2023.04.27 Thu l 横浜 l top ▲
P1080458.jpg


■師岡熊野神社


このところ、山に行こうと準備をして床に就くのですが、朝、起きることができず、ずっととん挫しています。

山に行くには、早朝、5時すぎの電車に乗らなければならないのですが、どうしても寝過ごしてしまうのでした。目覚ましでいったん目が覚めるものの、再び寝てしまい、あとで自己嫌悪に陥るという年甲斐もないことをくり返しているのでした。それだけ山に行くモチベーションが下がっているとも言えます。

昨日の朝も起きることができずに中止にしました。それで、午後から散歩に出かけたのですが、半分やけになっていたということもあって、15キロ21500歩を歩きました。

まず最初に、この界隈の鎮守神である熊野神社に行ってお参りをしました。熊野神社は、鎮守の森にふさわしい小さな丘の上にあります。社殿に参拝したあと、神社の裏手にまわってみると、裏山に登る「散策道」と書かれた階段がありました。神社には何度が来ていますが、そんな道があるなんて初めて知りました。

それで木の階段を登ってみました。すると、「権現山広場」という標識が立てられた山頂に出ました。広場には東屋やベンチが設置され、木立の間から綱島方面の街並みを見渡すことができました。その中に、新綱島駅の横に建設中のタワーマンションがひときわ高くそびえていました。

写真を撮ったあと、神社に戻るため階段を下りていたら、下から話声が聞こえてきました。すると、制服姿の女子校生と上下ジャージ姿の少年が登ってきたのでした。少年はまるで登山ユーチューバーのように(笑)、女子高生の後ろでスマホをかざして登っていました。

■昔の思い出


熊野神社をあとにして、表の幹線道路まで戻り、幹線道路沿いに綱島の方向に歩きました。しばらく歩くと、幹線道路は鶴見川にかかる橋(大綱橋)を渡ります。前々日も鶴見川の土手を歩いたばかりなのですが、今度は対岸を新横浜方面に向かって歩きました。

新横浜に着いたら、既に17時をまわり、街は駅に向かう勤め人たちで溢れていました。散歩を終了して帰ろうかと思ったのですが、何故かふと思い付いて、新横浜駅から市営地下鉄で横浜駅に行くことにしました。

横浜駅も帰宅を急ぐ勤め人たちで、スムーズに歩くのも苦労するくらい混雑していました。まるで競争しているみたいに、みんな、歩くのが速いのです。横浜駅の中は相変わらず迷路のようになっており、久しぶりに来ると、方向感覚が順応せず戸惑ってしまいます。

しかも、駅から表(西口)に出ると、巨大な開渠のようなところに線路が束になって走っているため、手前の道から向かいの道に行くのさえひどく遠回りしなけばならないのでした。

開渠の上の橋を渡って、再び駅の方向に歩いて、目に付いた新しい建物に入ったら、そこは地下の出口が駅の中央通路につながっている、横浜駅ではおなじみのルミネのビルでした。しかし、夕方のラッシュ時というのに、ルミネの中は閑散としていました。反対側の東口に、建て替えのため2011年から休業していた同じJRグループのCIALシャルが2020年にオープンしたばかりなので、そっちに客を取られているのかなと思いました。

サラリーマンの頃、CIALやビブレの中のテナントや東口の松坂屋や西口のそごうを担当していたので、横浜駅にも定期的に訪れていました。のちに長い間付き合うことになった彼女と初めて会ったのも、そごうで行われたブライダルショーでした。そんなことが次々と思い出されるのでした。

■『デパートを発明した夫婦』


ルミネを出てから、西口の地下のダイヤモンド商店街(旧名)を通って、その突き当りにあるそごうに行きました。そごうを訪れたのも数年ぶりです。そごうもまた、夕方の書き入れ時にしては客が少なくてびっくりしました。コロナ前、1階の入口付近はもっと買い物客で混雑していました。入口では、年末の商店街のような抽選会をしていたのにも驚きました。デパートでそんなことをするのかと思いました。

昔、そごうの外商が全国チェーンの店にフランスの版画家のポスターを売ったとかで、テナントで入っていた画材店から依頼を受け、ポスターを納入して徹夜で額装したことを思い出しました。たしか、7階の今の紀伊国屋書店のあたりに店があったように思います。

紀伊国屋書店がまだ健在だったのでホッとしましたが、紀伊国屋もその手前にあるロフトも、前に比べたら客はまばらで先行きが心配される感じでした。

1987年、旧セゾングループが渋谷にロフトを作ったときもオープンに立ち会いましたので、ロフトにも思い入れがあるのですが、その頃と比べるとまったく様変わりしており、今のロフトは似て非なるものと言ってもいいくらいです。東急ハンズも既に売却されてただのハンズになりました。ソニープラザはもっと前に売却されて、やはりただのプラザになっています。

折しも、鹿島茂氏の『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書)を読み返しているのですが、あらためて、もうデパートの時代は終わったんだな、としみじみした気持になりました。そごうだけでなく、一世を風靡し業界では「イケセイ」と呼ばれていた池袋西武も、殺風景な新宿西口をミロードやモザイク通りとともにオシャレな街に生まれ変わらせた小田急ハルクも、もう見る影もありません。東京や横浜以外で昔担当していたデパートは、その大半が既に姿を消しています。世界で初めてデパートのボン・マルシェがパリに誕生して170年、あのバブル前のイケイケドンドンの頃からまだ30年しか経ってないのです。こんなことになるなんて誰が想像したでしょうか。グローバル資本主義とインターネットの時代の荒波に呑み込まれて、瞬く間に海の藻屑と化した感じです。というか、それらに引導を渡されたと言った方がいいかもしれません。

『デパートを発明した夫婦』は、1991年のデパートが時代を謳歌する(謳歌しているように見えた)イケイケドンドンのときに書かれたのですが、著者の鹿島茂氏は、その中で、「近代資本主義は、デパートから生まれた」と書いていました。まさにデパートは使用価値から交換価値への転換と軌を一にした近代という時代を映す「文化装置」でもあったのです。そんなデパートの時代が終焉を迎えたのは、大衆消費社会と私たちの消費生活の構造的な変化が起因しているのは間違いないでしょう。それは、資本主義の発達とともに変遷した時代精神の(ある意味)当然の帰結でもあったと言っていいのかもしれません。

1887年、パリのバック街とデーヴル街とヴェルポー街とバビロン街の四方に囲まれた広大な土地に建設されたボン・マルシェの新しい店舗は、「商業という従来の概念をはるかに超越した新しいスペクタル空間だった」と鹿島氏は書いていました。

(略)万国博覧会のパヴィリオンと同じように、鉄骨とガラスでできたこの〈ボン・マルシェ〉のクリスタル・ホールは、パノラマやジオラマのような光学的イリュージョンを多用したスペクタルと同様の効果を客に及ぼすものと期待されたのである。仰ぎ見るほどに高い広々としたガラスの天窓からさんさんとふり注ぐ眩いばかりの陽光は、店内いっぱいに展示された目もあやな色彩の布地や衣服を、使用価値によって判定される商品から、アウラに包まれた天上的な何物かへと変身させてしまう。
( 『デパートを発明した夫婦』)


オシャレをする高揚感がなくなったように、このようなデパートという空間に存在したハレの感覚とそれに伴う高揚感もなくなったのです。

私は、コロナ以後、長い間苦しめられていた花粉症の症状がピタリと止み、例年になく花粉の量が多いと言われている今年もほとんど症状が出ていません。それで、先日、病院に行った折、ドクターとその話になりました。「年を取ったので、免疫機能が低下したからでしょうか?」と訊いたら、ドクターは、「花粉症というのは、バケツの中の水がいっぱいになってそれ以上入らなくなったことで、抗体が高止まりした状態になり過剰に反応するからですが、ずっと満杯状態が続くと抗体に免疫ができるということはあるでしょうね」と言っていました。

私たちは、資本からさまざまなイメージを与えられ欲望をかきたてられています。流行モードなどがその典型ですが、そうやってまるで何かにとり憑かれたように、、、、、、、、、、次から次へと新しい商品を手に取るようになるのです。資本主義は、私たちの飽くなき欲望をかきたてることで過剰生産恐慌の宿痾から逃れることができました。しかし、私たちの欲望のバケツも、いっぱいになり、消費することに高揚感がなくなってしまった。つまり、近代資本主義で神聖化されていた交換価値に免疫ができて、その魔法が効かなくなった。そう解釈することもできるのではないでしょうか。

そう考えれば、水野和夫氏ではないですが、デパートに引導を渡したグローバル資本主義も、所詮は死に至る資本主義の最後のあがきのようにしか見えないのです。

紀伊国屋で本を買ったあと、横浜駅から久しぶりに通勤客にもまれて電車で帰りました。


関連記事:
『誰がアパレルを殺すのか』
『セゾン文化は何を夢みた』


P1080454.jpg

P1080407.jpg

P1080410.jpg

P1080412.jpg

P1080415.jpg

P1080421.jpg

P1080429.jpg

P1080431.jpg

P1080442.jpg

P1080449.jpg
2023.04.06 Thu l 横浜 l top ▲
DSC02518.jpg


■ショーケン


横浜に住んで15年以上になりますが、昨日、初めて鶴見の総持寺に行きました。

もう10年以上も前ですが、フジテレビで萩原健一に密着したドキュメンタリーが放送されたことがありました。

晩年は都内に引っ越したみたいですが、ショーケンは長い間、鶴見区の寺尾というところに住んでいて、早朝から散歩に出かけて、途中、総持寺にお参りするのが日課になっているとかで、本堂で懸命に手を合わせて念仏を唱えているシーンがありました。2019年に亡くなったときも、葬儀は鶴見で行われたそうです。

私がショーケンが出た映画で印象に残っているのは、神代辰巳の「青春の蹉跌」(1974年)と深作欣二監督の「いつかギラギラする日」(1992年)です。「青春の蹉跌」は、新宿の今はなき日勝地下だったかで観た記憶があります。あの頃は人生の難題が重なってホントに苦しんでいました。血を吐いたこともありました。

総持寺は歩いて行くにはちょっと遠すぎるので、バスで行きました。

鶴見行のバスに乗ったのも二度目ですが、昔の狭いクネクネ道がバイパスに変わっていました。前にバスに乗ったときもこのブログに書いていたので調べたら、2010年の8月でした。13年振りに鶴見行のバスに乗ったのです。

■曹洞宗の大本山


終点の「鶴見駅」の一つ手前の「総持寺前」で降りましたが、バス停の前には歯学部で有名な鶴見大学の建物がありました。

実は、鶴見大学も総持寺が運営しているのです。総持寺は、「総持学園」という学校法人を持っており、傘下には鶴見大学だけでなく、短期大学や中学や高校、幼稚園もあるそうです。

参道の両側に大学の校舎があるので、参道を山門に向かって歩いていると、前から鶴見大学の学生がひっきりなしにやって来るのでした。春休みでそれなのですから、学校がはじまれば参道は学生で埋まるのでしょう。

総持寺は、曹洞宗の大本山の寺です。曹洞宗では「総本山」とは言わないみたいです。また、曹洞宗には大本山が二つあり、もう一つは福井県にある永平寺だそうです。曹洞宗の開祖は道元ですが、道元が祀られているのが永平寺で、総持寺で祀られているのは、4代目の祖である鎌倉時代の禅師の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)だそうです。

山門(総門)の三松関(さんしょうかん)をくぐり、さらに両側に金剛力士像が睨みをきかす三門(さんもん)をくぐると、まず目に飛び込んで来たのが広大な境内に配置された伽藍堂とそのまわりを囲む桜の木でした。

いつくかの門をくぐって坂道を登ると、正面に仏殿(本殿)が見えてきました。ただ、本殿のまわりは工事中で、袈裟を来た僧侶たちが首からカメラを提げて工事の模様を撮影していました。

また、本殿の中に入ると、修行中なのか、5~6人の僧侶が一列に並んで、古参の僧侶から所作の指導を受けていました。

本殿に行く途中に「受付」という看板が立てられた香積台(こうしょだい)という建物があり、お土産などを売っているのですが、その中に事務所みたいなのがあって、丸坊主で袈裟を来た坊さんがパソコンを打ったり電話をしたりと、事務作業を行っていました。何だか奇妙な光景でした。

総持寺のあとは鶴見駅まで歩いて、横浜駅に行こうと京浜東北線に乗ったのですが、途中で気が変わって東神奈川駅で下車して横浜線に乗り換えて、菊名から東横線で帰りました。駅を出たら、ちょうど雨が降りはじめたので、自分の選択が間違ってなかったんだと思って、ちょっと誇らしいような気持になりました。人間というのはそんなものです。


関連記事:
ショーケンはカッコええ
『日本映画[監督・俳優]論』
ショーケンの死


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC02635_2023033001114623a.jpg

DSC02506.jpg

DSC02514.jpg
三松関

DSC02523.jpg

DSC02533_202303300113232d7.jpg
香積台

DSC02540.jpg
百間廊下

DSC02562.jpg
仏殿(本殿)

DSC02554.jpg
本堂

DSC02566.jpg

DSC02612_2023033012070617c.jpg

DSC02597.jpg
白く映っているのは、舞い散る花びらです。
2023.03.30 Thu l 横浜 l top ▲
DSC02391.jpg


■相鉄・東急 新横浜線


最近はよく散歩をしています。先週の土曜日は新横浜まで歩いて、新横浜駅から隣の新綱島駅まで、開通したばかりの「相鉄・東急 新横浜線」に乗りました。

新綱島駅は、東横線の綱島駅とは綱島街道をはさんだ反対側に新しくできた駅です。尚、東横線と接続するのは、綱島の隣の日吉駅です。

新綱島駅の出口の横には、さっそくタワーマンションの建設がはじまっていました。こうやって開発から取り残された二束三文(?)の土地が、数十倍にもそれ以上にも化けるのです。そういった現代の錬金術を可能にするのが道路と鉄道です。

駅のすぐ近くに鶴見川が流れているので、土手の上の遊歩道を歩きました。対岸の大倉山(実際は大曽根)側には桜の木が植えられているので、その下では花見をする人たちが大勢いました。

中にはテントを張っている人たちもいました。最近は鶴見川の土手をよく歩いているのですが、平日でも大倉山や新横浜の土手下にテントを張っているのを見かけます。奥多摩ではコロナをきっかけに登山客がめっきり減ったそうですが、その代わりキャンプ場は盛況だそうです。今はタムパやコスパの時代にふさわしく、ハアハア息をきらして山に登るのではなく、山の下で遊ぶのがトレンドなのです。

土曜日の歩数は1万7千歩でした。さすがに1万歩を超えると膝に痛みが出て来ますが、ただ痛み止めの薬を飲んでサポーターをすればそれほどではありません。1万歩くらいだとほとんど痛みもありません。と言っても、こわばりのようなものはまだ残っています。

■環状2号線


今日は、環状2号線を歩いて鶴見にある県営三ツ池公園まで歩きました。

三ツ池公園は二度目で、前に行ったときもこのブログに書いた覚えがあるので調べたら、2008年の1月でした。昨日のことのように記憶は鮮明なのですが、15年前だったのです。

当時と同じコースを歩きましたが、まわりの風景もほとんど変わっていませんでした。三ツ池公園も、もちろん当時のままです。あらためて月日が経つのははやいなとしみじみ思いました。そう思う気持の中には、哀しみというかせつなさのようなものもありました。

■大分のから揚げ


途中に「大分からあげ」という登りを立てた弁当屋があったので、から揚げ弁当を買って、それを持って三ツ池公園に行きました。

三ツ池公園は広大な敷地の中に、名前のとおり三つの池があるのですが、他にレストハウスもあるし、テニスコートや野球のグランドやプールもあります。また、さまざまな名前が付けられた広場は7つもあります。

平日にもかかわらず花見客で賑わっており、駐車場の入口は車が列を作っていたほどです。レストハウスの近くには、数台のキッチンカーも出ていました。

池のまわりを歩いたあと高台に登り、一人で花見をしました。弁当の中に入っていたから揚げは、案の定、大分のものとは違っていましたが、でもそれはそれで美味しいから揚げでした。

私の田舎は平成の大合併で隣の市と合併したのですが、前に田舎に帰ったとき、用事があって隣町の市役所の本庁に行ったら、そこでたまたま幼馴染に会って一緒に昼食に行ったことがありました。幼馴染は、「××ちゃん(私の名前)はから揚げが好きだったよな。○○に行こうよ」と言われて、子どもの頃、私の田舎にも支店があったから揚げ専門店の本店に行ったのでした。

「大分からあげ」と言うと、東京では県北にある中津のから揚げが代名詞みたいに言われていますが、中津にから揚げがあるというのは東京に来て初めて知りました。地元では養鶏場直営で昔からある田舎の店の方が知られており、今は「大分からあげ」の店として大分駅にも出店するまでになっているのです。

久住くじゅうの山もそうですが、私たちの田舎は人が好いのか、それとも商売っ気がないのか、他の自治体に先に越されて(いいとこどりされて)後塵を拝するようなことが多いのです。久住連山だけでなく、祖母山も私たちの田舎(市)にありますが、祖母山なんてまったく関係ないよその山みたいなイメージさえあるのでした。

■上野千鶴子


高台の見晴らしのいい場所で弁当を食べていたら、無性に山に行きたくなりました。人のいない山に登って、山頂で一人の時間を過ごしたいなと思いました。山に行くと、やっぱり一人がいいなあと思うのでした。クマが怖いけど、私は、誰もいない山を一人で歩くのが好きです。ただ、足が痛いと充分楽しむことができず、特に下山がつらくて時間もかかるので、それで億劫になって遠ざかっているのでした。

山と言えば、『山と渓谷』の最新号を見ていたら、上野千鶴子が「山ガール今昔」という文章を書いていたのですが、彼女は京大のワンダーフォーゲル部の出身なのだそうです。当時、女子の部員は彼女だけだったとか。山岳部だと親が反対するので、親の目をごまかすためにワンダーフォーゲル部に入ったと書いていました。

私は、上野千鶴子の本はわりとよく読んでいますが、ただ首都高をBMWで走るのが趣味だと聞いて、”嫌味な人間”というイメージがありました。ところが、彼女がBMWで首都高を走っていたのは、ルーレット族のようなことをしていたからではなかったのです。八ヶ岳にある歴史家の色川大吉氏の元へ通うためだったのです。

色川大吉氏は、「五日市憲法草案」の発掘などで知られる民衆史の碩学で、私は若い頃、色川氏の講義を聴くために、氏が勤務していた東京経済大学にもぐりで通ったこともあるくらいです。色川氏が秩父事件の背景になった奥多摩や秩父の自由民権運動を研究するようになったのも、山が好きだったからではないのか。二人を結び付けたのも山だったのではないか、と勝手に想像したのでした。

日本を代表するフェミニストの”不倫の恋”、ゲスの極みのような週刊文春では「略奪愛」のように言われていますが、現金なもので、私はその記事を見て、逆に上野千鶴子に対する”嫌味な人間”のイメージがなくなったのでした。

尚、今夏、山と渓谷社から『八ヶ岳山麓より』というエッセイ集を刊行するそうで、何のことはない、上記の文章はそのプロモーションだったのです。

帰ってスマホのアプリを見たら、往復で13キロ、1万9千467歩でした。だったら少し遠回りして2万歩にすればよかったなと思いました。


関連記事:
環状2号線


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

DSC02400.jpg

DSC02433_20230328000416c6a.jpg

DSC02439.jpg

DSC02452_202303280004200ce.jpg

DSC02458.jpg

DSC02464.jpg

DSC02493.jpg

DSC02487_2023032800061307e.jpg

DSC02496_202303280006154e6.jpg
2023.03.27 Mon l 横浜 l top ▲

■1万5千歩


昨日、午後から久しぶりにみなとみらい界隈を散歩しました。歩数を稼ぐために隣駅まで歩いて、東横線・みなとみらい線で馬車道まで行き、馬車道から汽車道、汽車道から赤レンガ倉庫、赤レンガ倉庫から象の鼻パーク、象の鼻パークから山下公園まで歩きました。帰りは山下公園から遊歩道で赤レンガ倉庫まで戻り、そのあと大観覧車の横を通ってみなとみらいのクイーンズスクエアまで歩いて、みなとみらい駅から電車に乗って帰りました。

帰ってスマホを見たら、1万5千歩を越えていました。大体今まで月平均で12万〜15万歩は歩いていたのですが、最近はその半分くらいしか歩いていません。それで、月10万歩を目標に歩こうと思ったのでした。今月はこれで6万歩近く歩いていますので、今のところ順調です。

もちろん、山に行けば1回で少なくて2万歩、多いときは3万歩を歩きますので、10万歩なんて軽くクリアするのですが、最近は膝のこともあって、山に行くのがおっくうになっているのでした。

■『裏横浜』


昨日は正月明けで、しかも曇天で夜から雨の予報だったということもあってか、赤レンガ倉庫や山下公園も人はそれほど多くありませんでした。やはり若者が目立ちました。(昔風に言えば)アベックだけでなく、如何にも仲が良さそうな女性同士のカップルも目に付きました。韓国に行くと女の子同士が手をつないで歩いていますが、韓流文化の影響なのか、はたまた結婚だけでなく恋愛に対する幻想もなくなった今の時代を反映しているのか、さすがに手はつないでないものの、最近は若い女性同士のカップルがやたら多くなったような気がします。

結婚だけでなく、若者たちの生き方を窮屈なものにしていた恋愛至上主義が瓦解したのはとてもいいことだと思います。少子化対策なんてクソくらえなのです。あれはあくまで国家の論理にすぎません。あんなものに惑わされずに、若者たちは好きなように自由に生きていけばいいのです。恋人より友達というのも全然ありだと、おじさんは思うのでした。

汽車道の対岸の船員アパートがあったあたりは、タワマンやアパの高層ホテルや32階建ての横浜市庁舎が建っていました。そうやって港町の”記憶の積層”が消し去られて、横浜の魅力であったゆとりの空間があたりを睥睨するような愚劣な建物に奪われているのでした。私は、万国橋からの風景が好きだったのですが、それらの建物が視界を邪魔して、つまらない風景になっていました。

最近読んだ八木澤高明著『裏横浜』(ちくま新書)によれば、現在、「象の鼻パーク」と呼ばれ整備されている堤防のあたりは、ペリーが来航した際に、日米和親条約を結ぶためにぺーリー艦隊と江戸幕府との会談が行われた場所だそうです。今の風景の中で、その痕跡を探すのはとても無理な相談です。

赤レンガ倉庫も、明治末期から大正時代にかけて、当時の日本では重要な輸出品であった生糸を保管するために造られたものです。生糸は、『女工哀史』や『あゝ野麦峠』で有名な信州や、官営の富岡製糸場があった上州などの生産地からいったん八王子に集められ、八王子から輸出港である横浜に運ばれたそうです。その運搬用に敷設されたのが今のJR横浜線です。

山下公園に行くと、「インド水塔」の改修工事が行われていました。「インド水塔」は、関東大震災の際に避難してきた多数のインド人を横浜市民が「救済」したとして、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために昭和14年12月に在日インド人協会が建立したのだそうです。朝鮮人に対しては斧や鉈で襲い掛かった日本人が、インド人を助けたというのは驚きですが、そう言えば山下公園では毎年首都圏在住のインド人が集まる、インド人の祭りも開催されています。ただ、横浜の住民がインド人を「救済」したのは、当時、生糸の主要な輸出国がインドだったということも無関係ではないように思います。

私も昔、横浜のシルク業者からシルクのスカーフなどを仕入れて、都内の雑貨店に卸していたことがありました。その業者も若い頃は地元の貿易会社に勤めていたと言っていました。カナダやアメリカからステッカーを輸入していたのも横浜の会社でしたし、中国から横流しされた安売りのシールを輸入していたのも横浜の若い業者でした。いづれも既に廃業していますが、横浜にはそういった港町の系譜を汲む貿易商のような人たちも多くいたのです。

1884年(明治17年)に勃発した秩父事件も、国際的な生糸価格の暴落という背景があります。秩父地方もまた生糸の生産地だったのですが、秩父事件は、生糸価格の暴落により困窮した民衆が高利貸に借金の棒引きなどを要求して武装蜂起し、僅かな期間ながら秩父に”自治政府”を樹立したという、日本の近代史上特筆すべき出来事なのです。赤レンガ倉庫の背後には、そういった歴史も伏在しているのでした。

「メリケン波止場」と呼ばれた大さん橋も、現在はクルーズ船のターミナル港(寄港地)になっていますが、昔はブラジルなど南米への移民船の出港地で、『裏横浜』にも、「横浜から旅立った人々のうち一番多かったのは、旅客ではなく、移民である。その数は100万人ともいわれている」と書かれていました。その中には、横浜の鶴見からブラジルに旅立った当時中学生のアントニオ猪木の一家も含まれていたのでした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。


DSC01733.jpg


DSC01790.jpg


DSC01808.jpg
汽車道沿いの運河の上を「ヨコハマエアーキャビン」という観光用のロープウェイ”が架けられていました。

DSC01823.jpg
汽車道

DSC01827.jpg
「エアキャビン」と反対側の風景

DSC01884.jpg


DSC01893.jpg
万国橋から

DSC01916.jpg
赤レンガ倉庫

DSC01921.jpg
射的の出店

DSC01935.jpg


DSC01948_20230116154321561.jpg


DSC01951_20230116154323e63.jpg


DSC01962.jpg
恒例のイベント・スケートリンク

DSC02055.jpg

DSC02057.jpg
多くの移民が向かった大さん橋への道

DSC02095.jpg
山下公園

DSC02164.jpg

DSC02215.jpg
写真を撮っている横は、一時よく通っていた「万葉倶楽部」
2023.01.14 Sat l 横浜 l top ▲
DSC01706_202301130301479b9.jpg
横浜橋商店街


大晦日、ふと思い付いて、午後からカメラを持って横浜の街を歩きました。

新横浜駅から市営地下鉄に乗り、桜木町で下車して、桜木町から馬車道を経て伊勢佐木町、伊勢佐木町から横浜橋商店街まで歩き、帰りは同じコースを馬車道まで戻り、馬車道からみなとみらい線(東横線)で帰りました。

帰ってスマホを見たら1万5千歩を越えていました。膝は運動不足ということもあるのでしょうが、ちょうど距離の長い山を歩いたあとのような感じで、多少の痛みもありました。

新横浜駅に向かっていたら、住宅街に貸しスタジオみたいなものがあり、その入り口の看板に、某大物ミュージシャン夫妻のセッションの告知が書かれていました。私は、ギョッとして立ち止まって、その看板に目が釘付けになりました。

看板にはただ、「○○・△△セッション」の文字とその下に日にちと料金が書かれているだけでした。料金は、ドリンク付きで2000円です。テレビなどでもほとんど行われないあの大物ミュージシャン夫妻のセッションが2000円。私は、もしかしたら、近所に住んでいて、半ばプライベートでセッションするのかもしれないと思いました。

スマホで検索してみると、やはり、「○○・△△セッション」のワードでヒットしました。それによれば、「1人1曲リクエスト」となっていました。エッ、リクエストにまで応じてくれるのか。凄いセッションだなと思いました。

でも、何かひっかかるものがあるのです。それで、もう一度、スマホに表示されたサイトの説明文を上から下まで丁寧に読み直してみました。非常にわかりにくいのですが、どうやら本人たちが出演するわけではなく、会の主催者のミュージシャンがリクエストに応じて演奏するライブのようです。なのに、どうしてこんなわかりにくい説明文を書いているのか。看板だけ見ると完全に誤解します。ただ、こんなところでホンモノがセッションするわけないだろう、常識的に考えればわかるだろう、と言われればたしかにそのとおりなのです。

子どもの頃、近所の神社の境内にサーカスがやって来たことがあるのですが、そのときのことを思い出しました。その中の催しに、「一つ目小僧」というのがありました。サーカス用の大きなテントの横に建てられた小さなテントの中で、「一つ目小僧」が展示されているというのです。もちろん、サーカスとは別料金です。

私はそれに興味を引かれ、「一つ目小僧を観たい」と親に泣きつきました。親は「ニセモノだ」とか「騙しだ」とか言って取り合ってくれません。それでも一人息子で甘やかされて育てられた私は、ダダをこねて執拗に訴えたのでした。親も(いつものことですが)最後には根負けしてお金を出してくれました。

それで、お金を握りしめいそいそと出かけた私が、テントの中で目にしたのは、理科室にあるようなビーカーに入れられアルコール漬けされた頭の大きな爬虫類らしきものの死骸でした。子ども心にあっけに取られた私は、別の意味で見てはいけないものを見たような気持になったのでした。サーカス団はとんでもない悪党の集まりで、子どもをさらってサーカスに入れるという(今ではあきらかにヘイトな)話も、もしかしたらホントではないかと思ったほどでした。

もっとも、その頃、町内に唯一あった映画館で、葉百合子(ホンモノは葉百合子)という有名浪曲師のコピーの公演が行われたことがありました。うちの親たちは笑っていましたが、それでも町の年寄りは座布団を脇に抱えて出かけていたのです。祖父母も行ったみたいで、親は陰で悪態を吐いていました。

新横浜駅では、もちろん、スーツケースを転がした家族連れの姿が目立ちましたが、しかし、やはりコロナ前に比べると、人の数はあきらかに少ない気がしました。

途中、横浜アリーナの前を通ったのですが、大晦日は桑田佳祐のカウントダウンライブが行なれるはずなのに、開演までまだ時間があるからなのか、周辺もそれほど人が集まっていませんでした。いつもだと、駅からの舗道ももっと人通りが多いのですが、舗道も閑散としていました。アリーナの横にある公園も、開演待ちの観客たちで溢れているのですが、それもありません。帰ってネットで調べたら、横浜駅からアリーナまで無料のシャトルバスが運行されたのだそうです。これもコロナ前にはなかったことで、やはり電車や駅や舗道の”密”を避けるためなのかもしれません。

私もこのブログで書いたことがありますが、前は駅前のマクドナルドなども、コンサートの観客でごった返していましたが、シャトルバスで会場に直行するならそういったこともなくなります。

桜木町の駅前も、閑散と言ったらオーバーですが、やはり人は少なく、いつもと違いました。伊勢佐木モールも、先日、「REVOLUTION+1」を観に行った際、久しぶりに歩いたばかりですが、相変わらず人通りは少なく、うら寂しさのようなものさえ覚えました。

これは何度も書いていますが、私の田舎では、大晦日は「年取り」と言って、家族みんな揃って一日早くおせち料理を食べるしきたりがあります。大晦日が一番の御馳走で、食膳にはおせち料理のほかに刺身なども並びました。祖父母は歩いて5~6分くらいのところに住んでいたのですが、大晦日は祖父母も我が家にやって来てみんなで「年取り」の膳を囲むのでした。だから、大晦日の「年取り」に家族が揃うということは大変重要で、帰省する場合も「年取り」までには必ず(ほとんどが前日までに)帰るのが鉄則でした。その意味では、コロナ禍によって、こちらの大晦日の風景も、九州の田舎に似てきたような気がしないでもありません。

伊勢佐木モールで目に付いたのは高齢者と外国人です。何だか黄昏の日本を象徴するような光景に見えなくもありません。それが”横浜のアメ横”とも言われる横浜橋の商店街に行くと、さらに外国人の割合は多くなり、買物に来ているのは日本人より外国人の方が全然多いようで、耳に入ってくるのは、中国語や韓国語やその他聞きなれない外国語ばかりでした。

そのため、年末と言っても、おせち料理の食材よりエスニックな食材を売っている店が多く、いちばん人盛りができていたのは鶏のから揚げやメンチカツなどを売っていた揚げ物の店でした。私も買って帰りたいと思ったのですが、人をかき分けて店員とやり取りするのが面倒なので、買うのをあきらめました。

横浜橋はキムチを売っている韓国系の店も多いのですが、私は最近、スーパーで居合わせたきれいな奥さんから、旦那さんが虜になっているという美味しいキムチを教えて貰い、私も何故かそれに虜になっていますのでキムチはパスしました。

九州はどうだったか記憶にないのですが、こちらのスーパーでは年末になると商品棚も正月用の食品が並びます。しかも、魚も肉もえらく高くなるのです。別に長生きしたいとは思わないものの、一応年越しの蕎麦を買おうと近所のスーパーに行ったら、いつも買っている蕎麦がないのです。その代わりに縁起物だとかいう無駄な包装を施した年越し用の蕎麦が棚を占領していました。もちろん、いつも買う蕎麦の何倍も高価です。しかも、いつも買う蕎麦と同じシリーズのうどんは売っていました。値段が高く利幅が大きい蕎麦を売るために、蕎麦だけ奥に仕舞ったのでしょう。それで、意地でも蕎麦は買わないぞと思って、うどんを買って帰りました。

年末のスーパーの商品棚を見ていると、新宿や渋谷などの繁華街の喫茶店などで行われていた「正月料金」を思い出します。喫茶店自体が”絶滅危惧種”になっており、そのあとチェーン店のカフェが市場を席捲しましたので、今はもうそういった商習慣もなくなったのかもしれませんが、当時は喫茶店が高いため、「正月料金」の設定がないマクドナルドなどに客が殺到して大混雑していました。

若い頃、正月にガールフレンドと新宿の喫茶店に入ったら、メニューにコーヒーが1200円と表示されているのが目に入り、私は一瞬「ぼったくりの店だ」と思って、いったん下ろした腰を再び上げそうになりました。

しかし、東京生まれのガールフレンドは、あわてふためく私を横目で見ながら、「正月はどこもそうよ」とこともなげに言ったのでした。そして、「大丈夫、あたしが払うから」と。それ以来、彼女の口から「カッペ」という言葉がよく出て来るようになった気がします。「カッペ」というのも、東京に来て初めて知った言葉でした。

最寄り駅に着いて、普段あまり行くことがない駅前のガード下にある小さなスーパーに入ったら、他のスーパーでは取っ払われていた総菜も普段どおり売られていました。私は心の中で「これだよ、これ」と呟きながら、メンチカツやアジフライや鶏のから揚げなどを買って帰りました。

写真は、見て貰えばわかるとおり、「大晦日の横浜」と言ってもそれらしい写真は撮れていません。世の中に対して、引け目を感じ遠慮している今の自分の気持が反映されたような、腰が引けた写真ばかりです。写真屋だった父親がよく言っていた、「前に出て写真を撮れ」「遠慮していたらいい写真は撮れないぞ」という言葉が今更のように思い出されてなりません。


DSC01555_2023011303014884c.jpg
新横浜・マリノス通り

DSC01561_20230113030149d74.jpg
新横浜駅

DSC01578_202301130301517e2.jpg
桜木町駅

DSC01587_20230113030154682.jpg
桜木町駅前

DSC01635_202301130306362af.jpg
市役所が建てられたのに伴い弁天橋の上に歩道橋ができていた。その上から撮影。

DSC01662_20230113030638fb4.jpg
馬車道・神奈川県立西洋美術館(旧横浜正金銀行)

DSC01669_20230113030639c85.jpg
馬車道の通り

DSC01682_2023011303064115b.jpg
馬車道・太陽の母子像(アイスクリーム発祥の地)

DSC01691_20230113030642457.jpg
伊勢佐木モール入口

DSC01702_20230113030644e5e.jpg
伊勢佐木モール
2022.12.31 Sat l 横浜 l top ▲
横浜市長選の結果について、横浜市民の一人としては、取り立てての感慨はありません。何度も言うように、とにかく「日本一大きな田舎」を仕切る「村社会」に風穴を空けなければどうしようもないと思っていますので、そのことに興味があるだけです。今回の選挙結果が蟻の一穴になるかどうかはまだわからないのです。

山中竹春候補を担いだ立憲民主党も、かつて(そして今も?)「村社会」の一員だったということを忘れてはならないのです。少なくとも、ついこの前まで林市政の与党として林前市長を支えてきた夫子自身の総括は何もしてないのです。それどころか、旧民主党は林市政の”製造者責任”さえあるでしょう。党名を変えたから免罪されるというものではないのです。それでは、連合や自治労やあるいは市関係4労組のような獅子身中の虫に掻きまわされて元の木阿弥になるのがオチだと思います。「市民自治の復活」と言うのはあまりにも能天気すぎるのです。

むしろ、今回の市長選を一歩下がったところから見ると、選挙結果とは別にいろんなことが見えて興味をそそられました。たとえば、立憲民主党の事なかれ主義をどう捉えるかということにも関係しているのだと思いますが、山中竹春候補と田中康夫候補を支持する左派リベラルの間で、それぞれ「左の全体主義(ファシズム)」VS「限界系左翼」という罵り合いがくり広げられたこともそのひとつです。それは、選挙が終わった今もつづいています。

そこにあるのは、吐き気を催すようなきわめて古い政治の風景です。今になればどんなことでも言えますが、やはり、60年代後半の運動(大衆叛乱)を正しく検証していない(する気がなかった)人間たちのお粗末さ、滑稽さが露呈されているように思えてなりません。彼らは、過激派が内ゲバで自滅してざまあみたいな既成左翼の見方をただ無定見に踏襲しているだけです。そんな同病相哀れむような罵り合いに対しては、党派に随伴することでしかみずからの政治的主張を表明することができない不幸と恐怖を考えないわけにはいきません。

私は天邪鬼な人間なので、こういう選挙結果になったら、今度は逆に林前市長の功績を考えてみたくなりました。操り人形でも操り人形なりの功績が何かあったのではないか。そう思ってSNSを見ていたら、横浜市民の方のツイッターで、林市長になってから職員の対応が良くなったのはたしかだというツイートが目にとまりました。もしかしたらこのブログにも書いたかもしれませんが、私も同じことを思いました。それまではホントにひどかったのです。何をしているかわからない職員もいました。ちょうどラスパイレス指数で横浜市の職員の給与が日本一になった頃だと思いますが、私自身横浜に引越したばかりだったので、まだこんな役人天国の世界が残っていたのかとびっくりした覚えがあります。職員の対応が良くなったというのは林市政の数少ない功績のひとつと言えるでしょう。

それからもうひとつ天邪鬼ついでに言えば、任期最後の今月4日の定例記者会見での林前市長の次のような発言にも感心しました。

(略)3期12年にわたり行ってきた定例会見の意義について「市にとって必要な役割。次の市長になる方も記者会見を大切にしてほしい」と述べた。
(略)
「本当に厳しい質問が毎週のようにあった。私自身は行政をやる上での姿勢を果たすとともに、反省する機会にもなった」と振り返った。
(略)
定例会見は厳しく自分を律する場でもあったとして「記者は遠慮せずにぶつけてくれる場であってほしい」と期待した。

Yahoo!ニュース
カナロコ(神奈川新聞)
【横浜市長選】横浜・林市長が任期中最後の会見「次の市長になる方も記者会見を大切に」


少なくとも菅総理や、今の自民党を牛耳る安倍・麻生・二階の三○○大将には間違っても望めない発言でしょう。

その菅総理についてですが、市長選の結果を受けて、政治的に窮地に立ち、自民党内でも「菅降ろし」がはじまるのではないかという見方がいっせいに出ています。しかし、三〇〇大将が牛耳る今の自民党の党内力学はそんな単純でヤワなものではないでしょう。なにより菅総理自身が、そうなればなるほど自他ともに認める鋼のようなメンタルの強さを発揮するはずです。それは、換言すれば厚顔無恥ということですが、政治屋に厚顔無恥なんてことばは通用しないのです。むしろ、厚顔無恥であってこそ政治屋なのです。本人は、「叩き上げだから打たれ強い」という自己に対する迷信をさらに深めて、政治屋の本領を発揮するに違いありません。

菅総理に関しては、下記のプチ鹿島氏の分析がどんな政治評論より的を射ているように思いました。

文春オンライン
《横浜市長選で与党惨敗》「総裁選に勝利して衆院解散に…」とにかく“タフ”な菅首相が“次に期待”し続ける理由

この感染爆発と医療崩壊のなかにあってもなお、「9月12日」という中途半端な緊急事態宣言の期限に見られるように、感染対策より総裁選や解散総選挙のスケジュール(つまり、権力者の都合)が優先されるという政治の末期症状。そこにあるのは、政治家ではなく政治屋の姿です。

横浜市の人事に介入にして「陰の横浜市長」と言われたり、総務省でも意に沿わない官僚を飛ばしたりという、人事権をふりかざして人を支配するその非情さが、コロナ対策にも表れているように思います。

上記のプチ鹿島氏の分析でも触れていますが、朝日の鼎談で、日本学術会議の任命を拒否された加藤陽子氏(東京大教授)は、今の政権が持っている説明責任の欠如について、次のように指摘していました。

加藤 「やはり人事権を握った、官房長官時代からの菅さんと、杉田和博官房副長官のふるまいが大きいと思います。彼らは説明『しない』ことによって、忖度(そんたく)させるという権力の磁場を新たに作った。そういう誤った方向での強い自負があるのではないか」

朝日新聞デジタル
コロナ敗戦から考える「危機の政治」と「政治の危機」


でも、それは中小企業のワンマン経営者などにありがちな裸の王様の手法でしかないのです。言うなれば、中小企業のワンマン経営者が総理大臣をやっているようなものです。

今の菅総理には、自宅に「放置」されひとり死を待つ人々の姿は目に入ってないかのようです。コロナ禍にあっても、コロナ対策より自分の権力の維持が優先される。そんな政治屋が総理大臣になったこの国の不幸を今更ながらに痛感せざるを得ないのです。


関連記事:
政治屋・菅義偉の恐怖支配と”横浜方式”
横浜市政は伏魔殿
2021.08.24 Tue l 横浜 l top ▲
横浜市長選は、今日(8月21日)が選挙運動の最終日で、明日が投票日です。それで一応、情勢に関する記事を書いておきます。

ちょうど1週間前の8月14日に神奈川新聞が下記のような記事を掲載して、地元では大きな衝撃をもって受け止められました。

カナロコ(神奈川新聞)
世論調査:山中氏先行、追う小此木氏 林・松沢・田中氏続く

で、この1週間で情勢がどう変わったのか。各メディアの出口調査によれば、「巻き返し」どころか逆に「引き離した」「引き離された」という声が多いようです。また、前の木下ちがや氏の文言にあるように、文字通り「脅迫と粛清の嵐」のすさまじい「切り崩し」のなかで、切り崩された候補はとうとう先頭争いから脱落したという報道もあります。「村社会」の”暗闘”が、”暗闘”どころか白日下の内ゲバにまでエスカレートしたことで、「引き離した」候補が益々漁夫の利を得たという側面はたしかにあるでしょう。

もちろん、デルタ株の感染拡大が追い風になったのも間違いありません。「災害級の感染拡大」「今まで経験したことのない事態」などと言いながら、オリ・パラを開催し、トンチンカンな自粛要請をくり返すだけの菅政権に対する反発が、地元の市長選で「側近中の側近」の苦戦になって示された(言うなれば意趣返しされた)と言えなくもないのです。

さらに横浜市の感染対策のお粗末さがそれに輪をかけています。10万人当たり感染者数では、沖縄県・東京都・神奈川県の三県が上位を占めていますが、横浜市の一日の新規感染者数も最近は千人の大台を越えるようになってます。また、神奈川県の「入院率」は公式では9%(入院が必要な患者100人のうち9人しか入院できない)と発表されていますが、実際はもっと深刻で感染して重症化しても病院を見つけるのは至難の業だ、最初からあきらめるしかないと公然と言われているのです。つまり、完全に医療崩壊を招いているのです。医療崩壊というのは、手っ取り早く言えば「放置」です。感染しても病院に入れず「放置」されるというのは、新型コロナウイルスは風邪と同じというネトウヨのような陰謀論者ならいざ知らず、リアルな日常を生きる真っ当な市民にとってはきわめて深刻な話で、それが市長選の情勢に反映されるのは当然と言えば当然でしょう。

そんななかで、横浜市ではワクチン接種も遅々として進んでいません。知り合いの50代後半の人は、まだ接種券も届いてないと嘆いていました。ワクチンも打てない、感染しても病院にも入れない。もう踏んだり蹴ったりというのが実情なのです。

ただ一方で、「危ない」と言って危機感を煽るのが選挙の常套手段でもあり、「引き離した」「引き離された」という報道は額面どおりに受け取れないという慎重な声もありました。

元町のバッグの「キタムラ」の社長がIR推進の候補を応援しているのは横浜では有名な話ですが、その「キタムラ」では「脅迫と粛清の嵐」のなかで不買運動に見舞われ、社長が憤慨しているというオチまでありました。

Yahoo!ニュース
SPA!
横浜市長選で小此木氏失速、菅首相の「全面支援」がマイナス要因に

政治と宗教の話がタブーだというのは商売のイロハです。商売のイロハを忘れた5代目経営者には当然のツケと言うべきかもしれません。かつてハマトラをけん引したおしゃれブランドの社長がIR=カジノ誘致の先頭に立っているのは、どう考えてもシャレにならないでしょう。

でも、私は、前も書いたように、「村社会」の蟻の一穴しか興味がありません。とにかく、このチンピラの街に風穴を空けることが肝要なのです。


関連記事:
横浜市長選の魑魅魍魎
横浜市長選の魑魅魍魎 ‐ 追記
”ハマのドン”の会見
横浜市長選の争点
横浜市長選情勢
2021.08.21 Sat l 横浜 l top ▲
横浜市長選は折り返し点に差し掛かろうとしていますが、同選挙を観察している政治社会学者の木下ちがや氏が、こたつぬこのアカウントで開設しているみずからのツイッターで、現在の情勢を次のように表現していました。山中応援団の視点なので、少し割り引いて見た方がいいかもしれませんが、今回の選挙で「村社会」内の”暗闘”が炙り出されたのはたしかなようで、個人的には密かに拍手を送りたい気持でした。と言うか、もうそれしか興味がない。「村社会」に少しでも亀裂が入れば、それが蟻の一穴になるのは間違いないのです。


こたついぬ 横浜市長選

こたつぬこ🌾野党系政治クラスタ
@sangituyama
https://twitter.com/sangituyama
2021.08.13 Fri l 横浜 l top ▲
横浜市長選は、今日告示されましたが、選挙の争点について、下記の朝日の特集がわかりやすくまとめているように思いました。

朝日新聞デジタル
2021横浜市長選挙

たとえば、下記の記事で指摘されているように、横浜市が子どもの医療費の助成が東京23区に比べて遅れているという問題も、横浜の個人市民税が日本でいちばん高い(2021年5月現在)という話につながっているのです。

記事によれば、横浜市の法人市民税の税収は「東京23区の約14分の1しかない」のだそうです。つまり、「横浜市は、東京23区や大阪市に比べて上場企業数が少なく、法人市民税が乏しい」からです。それを日本一高い個人市民税で補っているのです。しかし、横浜市の財政を支える働き盛りの市民たち(主に青葉区や都筑区や緑区や港北区などに居住する、比較的所得が高い”新市民”たち)にも既に高齢化の波が押し寄せ始めています。だから、市の執行部や議会は、「それを補う増収策として、カジノを含む統合型リゾート(IR)の誘致が必要だと説明してきた」のです。私は、これを「チンピラの論理」と呼んでいます。

同上
小児医療費、23区との格差なぜ 横浜市の懐事情を分析

また、横浜市は、「市の財政規模に対する借金残高などの割合を示す将来負担比率は19年度に140・4%と、京都市、広島市に次いで3番目に悪」く、財政再建も喫緊の課題です。IR誘致がその切り札みたいに言われているのですが、一方で、下記の記事にあるように、新市庁舎を筆頭に「大規模な公共施設やインフラ」を次々に手がけ、さらに今後も「巨大プロジェクトが目白押し」なのです。

 市が誘致を進めるカジノを含む統合型リゾート(IR)は民間事業者による開発・運営だが、建設予定地の山下ふ頭周辺は、道路整備などの公費負担が見込まれる。

 同じ横浜港に面したみなとみらい21地区では、バレエやオペラ中心の劇場新設が検討され、用地費を除く建設費などは約480億円と試算されている。

 郊外部の米軍上瀬谷通信施設跡地では、27年の国際園芸博覧会の会場建設費に約320億円、新交通システム整備に約700億円、土地区画整理事業に約600億円が見込まれ、一部は市費が投じられる。

同上
庁舎に劇場構想…ハコモノ新設、突出の横浜 財政は悪化


みなとみらい自体が、30年経った今なお”負の遺産”として重荷になっている状況は何も変わっていません。また、「自治体労働者への攻撃だ」と誹りを受けるかもしれませんが、全国の自治体でトップクラスを誇る市職員の高給も無視することはできません。彼らも(連合神奈川を含めて)間違いなく財政を蝕む「村社会」の一員なのです。

なんだかワクチンで一発逆転の菅政権みたいに、IRで一発逆転を狙っているかのようです。ギャンブルでギャンブルしてどうするんだと思います。

IRという発想自体は、決して新しいものではありません。海外に目を向ければ競争相手はごまんと存在します。国内でも現在7地区が候補地として名乗りをあげており、このなかで3地区が選定されると言われています。

IRの主要な顧客は、言うまでもなく海外の富裕層です。ただ、今回のコロナ禍で見られたように、パンデミックや戦争や自然災害が発生すると、海外からの観光客は一瞬で途絶えてしまうのです。新型コロナウイルスは100年に1度の感染爆発だなどと言われますが、専門家の間では、これから数年単位、あるいは週十年単位で同じような感染爆発は起こり得るという話もあります。

もちろん、賭場ができれば、周辺に闇紳士たちが跋扈するようになるのはいつの時代も同じでしょう。そういった周辺地域の風紀の乱れを懸念する声が出るのも当然です。それに、神奈川県警は不祥事が多いことで有名で、かつて「犯罪のデパート」と呼ばれていたことも忘れてはならないのです。私は前に、横浜市立大出身の馳星周に横浜を舞台にしたピカレスク小説を書いて貰いたいと書いたことがありますが、神奈川県警の数々の不祥事を見ると、オシャレな街・住みたい街のイメージとは真逆の、横浜という街が持つ”特異な性格”を反映しているような気がしてならないのです。

Wikipedia
神奈川県警察の不祥事

IRが一発逆転をもたらすような打ち出の小鼓と考えるのは、あまりにもお気楽な考えと言わざるを得ません。と言うか、ハコモノを作り続けて財政を悪化させた上に、IRで一発逆転して借金をチャラにするみたいな発想は、まさに多重債務に陥ったギャンブル狂のそれと同じです。

市民生活に直結した問題は、子どもの医療費補助だけではありません。これはよく知られた話ですが、横浜市には学校給食がありません。なんと子どもたちから注文を受けて仕出し弁当を配っているのです。朝日の記事が指摘しているように、校舎も改修(補修)もされず古いものが多いのです。ないのは給食だけではありません。横浜には市立(公立)の幼稚園がありません。また、市立の保育園も現在民間に移管中です。でも、市立の大学や高校はあります。まったくおかしな話ですが、しかし、どうして市立の幼稚園がないのか、誰も(市役所も)わからないと言います。そんなバカなというような話が公然とまかり通っているのです。

はまれぽ.com
横浜市立の幼稚園がない理由は?

また、人口377.9万人(7/1現在)の大都市でありながら保健所は市内に1つしかなく、それがコロナ対策の遅れにつながったという指摘があります。65歳以上の高齢者 92.2万人(令和2年現在)のうち半数が一人暮らしという深刻な高齢化の問題もあります。一人暮らしが多いということは、一人分の年金しかないので、それだけ貧困に陥る割合が高いのです。

関連記事:
寿町(2011/8/7)

70歳以上の市内在住の高齢者を対象に、非課税所帯で一人月4000円(生活保護所帯は3200円)、その他所得に応じて7000円~20500円の自己負担で、市内のバスや市営地下鉄が”乗り放題”になる(ただし、みなとみらい線や相鉄線は対象外)敬老パス(シルバーパス)という制度がありますが、それについても対象年齢の引き上げや自己負担額の引き上げが検討されています。

横浜の場合、東京23区と違って、電車や地下鉄の交通網が発達してないので、駅から遠い地区も多く、移動手段はバスに限られるケースも多いのです。市内を歩くとわかりますが、駅から遠い丘の上にまるで「限界集落」のように取り残された地域もめずらくありません。高齢者が外出する場合、市内を循環するバスはなくてはならないものです。しかも、高齢になると病院通いは必須です。そんな高齢者、特に低所得の高齢者にとっては”命綱”とも言うべき敬老パス(シルバーパス)も、財政悪化を理由に見直しが始まっているのです。

高齢者のささやかな”命綱”にさえ手をつけようとする一方で、次々と計画される桁違いの巨大プロジェクトや全国トップレベルの市職員の給与などは半ば聖域化されており、見直しを求めるような声はあまり聞かれません。

IRに関しては市民の70%だかが「反対」と言われていますが、オリンピック開催反対と同じで、どこまで本心なのか、私は懐疑的です。市民と言っても、ネットの書き込みに見られるように、「村社会」に従属しているような意識しかなく、市民税や国民健康保険料など負担が増すばかりの市政に対する不満も、”生活保護叩き”と同様”敬老パス叩き”のようなものに向けられているのが現実です。そして、財政再建のためにはIRは必要だとか、IRが誘致されれば横浜のブランド価値が上がるのでマンションの資産価値も上がるなどという、「チンピラの論理」で思考停止している(させられている)市民も多いのです。
2021.08.08 Sun l 横浜 l top ▲
今週(3日)、横浜市長選に関連して、山下埠頭のIR進出に強硬に反対している”ハマのドン”こと藤木幸夫氏(藤木企業会長)が、外国特派員協会で行った記者会見の模様をYouTubeで観ました。ちなみに、投票用紙は今日届きました。

YouTube
横浜市カジノ誘致に反対 「ハマのドン」藤木氏が会見(2021年8月3日)

会見は藤木氏がみずから申し出て行なわれたそうです。また、会見の司会は、「ビデオニュース・ドットコム」代表でジャーナリストの神保哲生氏が務めていました。

藤木氏は今月の18日で91歳になるそうですが、たしかに年齢を感じさせないパワフルな印象を受けました。しかし、喋っている内容は、”ハマのドン”を意識して自分を大きく見せようとしているのか、多分に自慢話のようなものが多く、正直言って辟易させられました。

IRに反対と言っても、話を聞く限り、みずからの権益に関係する山下埠頭でのIRに反対という風に読めなくもありませんでした。たしかに、ほかでやりたければやればいいみたいな軽口も叩いていました。どうしてもIRを強行するならオープンの日に、会場で切腹自殺すると過激な発言もしていましたが、そういった発言も鼻白むしかありませんでした。

昨日までのIR推進はどこへやら、一転「白紙撤回」を掲げて立候補を表明した小此木八郎氏のことをさかんに「八郎」「八郎」と言ってましたが、藤木氏によれば自身は小此木八郎氏の名付け親なのだそうです。

「当選するのは八郎でしょ」と口を滑らせていましたが、自民党市連が「白紙撤回」の小此木氏で結束しつつあるので、名付け親としてはホッと胸を撫でおろしているのかもしれません。藤木氏は、「野党統一候補」の山中竹春氏の合同選対会議の名誉議長に就任し、「山中氏を全面支援する考えを示した」(朝日)と伝えられていますが、しかし、会見では山中氏に対する支援の話は出ないままでした。

会見の模様を伝えた東スポも、次のように書いていました。

 会見で藤木氏は「山中さんについては何も知りません」とキッパリ。立憲民主党の江田憲司衆院議員に人選を任せただけだという。「そしたら(江田氏が)山中さんを連れてきた。『あんた目が鋭すぎるよ』と言いました。あとから聞くと(山中氏は)いい人だ。でも当選するのは八郎でしょ」とぶっちゃけた。

東スポWeb
横浜市長選 IR招致反対〝ハマのドン〟藤木幸夫氏が断言「やるならオープンの日に切腹する」


藤木氏の話では、田中康夫氏も藤木氏のもとを訪れて「港がついてくれるなら間違いないから」と支援を乞うたのだそうです。

もし藤木氏の話がホントなら、山中氏も田中氏もアウトだと思いました。藤木氏こそ横浜の「村社会」の象徴のような人物で、よりによって支援を乞うなどというのはあり得ない話でしょう。

たしかに、藤木氏のなかに(そしてIRに「反対」する多くの市民のなかにも)、森鴎外が作詞した「横浜市歌」に象徴されるような港町・横浜に対する、”横浜ナショナリズム”とも言うべきパトリな感情が伏在しているのは事実でしょう。しかも、現在の市長は(県知事も)、本来横浜とは何の関係もない、中央の政党(旧民主党)の思惑で他所からやって来た人間です。そんな外様の首長が、みずからの政治的保身のために、市政を食い物にする獅子身中の虫たちと結託して巨大プロジェクトを次々に立ち上げ、市の財政をさらに借金漬けにしてしまったのです。今回のIRもその延長上にあるのは間違いないでしょう。藤木氏の義憤はわからないでもないですが、しかし、小此木氏との関係ひとつをとってもわかるように、「村社会」との関係があまりにもズブズブすぎるのです。

IRに関して言えば、林氏が勝てば計画通り山下埠頭、小此木氏が勝てば山下埠頭は「白紙撤回」して、時間を措いたあとその他の候補地で再度募集、あるいは状況次第・・・・では再びドンデン返しで山下埠頭ということになるのでしょう。もっとわかりやすく言えば、時期が早いか遅いか、山下埠頭かその他の場所(あるいは状況次第・・・・で山下埠頭)か、華僑・中国系の業者かアメリカの業者かの違いです。ただ、トランプが負けてバイデン政権に変わったので、アメリカの業者にこだわる必要はなくなった(だから「白紙撤回」した)という見方もあります。

「村社会」内のIRをめぐる”暗闘”を浮かび上がらせたという点では(でも、利害が同じなので終着点は同じ)、会見はそれなりの意味はあったとも言えますが、一方で、過半が「反対」だという市民の声はどこかに行ってしまった感じです。「反対」がホントなら市民はいいようにコケにされていると言ってもいいでしょう。しかし、オシャレな街、住みたい街とか言いながら、これほど「村社会」をのさばらせた責任の一端は市民にもあるのですから、自業自得と言われても仕方ないのです。今回の市長選でも、党派に動員された投票要員の”市民”がいるだけで、「村社会」=既成政党を乗り越えるような自立した市民の姿はどこにもないのでした。


関連記事:
横浜市長選の魑魅魍魎 ‐ 追記(7/29)
横浜市長選の魑魅魍魎(7/9)
2021.08.06 Fri l 横浜 l top ▲
横浜市長選は、8月8日告示、22日投開票ですので、告示までちょうどひと月となりました。早いもので、私が横浜に住んでもう3回目の市長選です。前2回の市長選のときもこのブログで記事を書いていますので、僭越ですが最下部の関連記事をお読みいただければ幸いです。

今回の市長選が前2回と異なるのは、候補者が乱立していることです。そのため、どれが「本命」でどれが「当て馬」でどれが「泡沫」なのか(「対抗」がいないところがミソです)、わかりにくいということです。文字通りカオスと化しているのです。

もちろん、今回の市長選の大きなテーマはIR誘致に賛成か反対かです。選挙の争点はIRだけじゃない、ほかの市民生活に直結する問題も大事だという声もありますが、それはどちらかと言えば、IRを争点にしたくないIR賛成派からあがっている声です。今年の1月に、IRの是非を問う住民投票の条例案が提出されたのですが、議会で多数を占める自由民主党と公明党によって否決されたのでした。そのため、今回の市長選がIRの是非を問う場にならざるを得なくなった(なってしまった)というのが実情です。それをIRだけが争点じゃないというのは、居直り強盗のような言い草と言うべきでしょう。

とは言っても、立候補予定者の多くはIRに反対を表明しています。それは、IR反対が過半の市民の声でもあるからです。その意味でも、住民投票の条例案を否決した自公の罪は大きいのです。

それどころか、ここに来て、自民党神奈川県連の会長として、IR推進の先頭に立っていた小此木八郎氏(菅総理が秘書を務めた小此木彦三郎元建設相の三男)が、突然、国家公安委員会委員長を辞職して、「IR白紙撤回」を公約に立候補を表明するというちゃぶ台返しがあったのでした。そのため、メディアのことばを借りれば、市長選はいっそう「混迷を深める」ことになりました。ただ、小此木氏の出馬がホントにちゃぶ台返しなのか、疑問の声もあります。憲法改正&核武装を主張し、日本青年会議所のカルト的な極右思想を共有する典型的なおぼっちゃま議員が、一転してIR反対に寝返るなど俄かに信じられず、「白紙撤回」というのは山下埠頭に限った話ではないのかという見方も出ているのでした。

もちろん、反対が過半の市民の声であるとは言え、こんなに乱立すると反対派が共倒する懸念があります。知人(横浜市民)は、「見てみ、林文子が漁夫の利を狙って必ず出て来るよ」と言っていましたが、知人の言うとおり、態度をあきからにしなかった現職の林文子市長も、乱立で勝算ありと睨んだのか、どうやら立候補の意思を固めたようです。

自民党横浜市連は、ずっと前に林市長に対して、多選と高齢を理由に支持しないことを伝えているのですが、それはもしかしたら小此木氏出馬の伏線だったんじゃないかと思ったりもします。今回の市長選は何でもありなので、それも単に下衆の勘ぐりとは言えない気もするのでした。

一方で、関内や元町や中華街などの地元商店街や横浜市商工会議所や横浜建設業協会などは、「IR推進」の立場から林市政の継続を求めているそうです。

反対派のツイッターによれば、崎陽軒や元町のキタムラの社長と並んで、中華街組合(横浜中華街発展会協同組合)の理事長もカジノ推進だそうです。今の理事長は日本人のようですが、華僑たちのいつもながらのこずる賢く立ち回る向銭奴ぶりが連想され、私は、魯迅の「利口者と馬鹿と奴隷」のなかに出て来る「利口者」の話を思い出しました。現在、残っている応募業者は、シンガポールのカジノ会社&日本のゼネコンのグループ(共同企業体)と香港でカジノを運営する会社の2つだけで、いづれも華僑系もしくは中国系の業者なので、中華街のIR推進もその辺の絡みもあるのかもしれません。浮利を追うだけでなく、その前に香港の弾圧に声を上げろよと言いたくなります。

また、このブログでも何度も書いていますが、市関係4労組(自治労横浜・横浜交通労組・横浜水道労組・横浜市教職員組合)も、建前はともかく、本音では良好な関係にある林市政の継続を求めているはずです。前々回の市長選までは、彼らは公然と林市長を支持していたのです。

同様に前々回まで林市長を支持していた旧民主党(立憲民主党)は、今回は林市長に「裏切られた」として独自候補を擁立しました。住民投票を求める署名活動をしていた市民団体も、立憲の候補を支持することを決定してしています。しかし、今まで旧民主党が横浜でやって来たことを考えると、今更のように偽善者ぶっている立憲民主党に対して、眉に唾して見ている人は多いでしょう。それに、前回も林市長を推薦した連合神奈川の本音が、立憲の候補とは別のところにあるのは間違いないのです。立憲の候補者は横浜市立大医学部の”名物教授”だった人だそうですが、なんだか気の毒にすら思えてきます。

他に、田中康夫氏も立候補を表明しましたが、反IR候補の乱立に一本化を求める声があることに対しては、一本化は「開かれた談合」だと拒否しているそうです。私は、田中康夫氏が横浜に移住していたことも、FMヨコハマで7年前から番組を持っていたことも知りませんでした。ただ、田中氏のバックにはFMヨコハマのオーナーでもある”ハマのドン”がいると言われて、本人もそう仄めかしているようです。だったら、一本化に前向きであってもよさそうですが、そうではないのです。

田中氏は、2016年の参院選におおさか維新の会から立候補し、私もこのブログで「田中康夫の変節」と題して批判しましたが、記者からそのことを指摘された田中氏は、あれは自分にとって「黒歴史」だと言ったそうです。しかし、あのときの田中氏の選択は、そんなひと言で済まされるようなものではないでしょう。

関連記事:
田中康夫の変節

当初、自民党の候補者リストとして、タリーズコーヒーの松田公太や菅総理の子飼いの三原じゅん子参院議員や林市長と親しく柳美里とも親友だという八方美人の元TBSアナウンサー・渡辺真理などの名前があがっていましたが、その顔ぶれを見るにつけ、どれだけ人材がいないんだと呆れるばかりでした。三原じゅん子が市長候補だなんて悪い冗談だとしか思えませんが、横浜では「三原じゅん子市長」は冗談ではないのです。マジなのです。

メディアは「一部の女性経営者」と書いていましたが、既に支援者たちによって「三原氏を支援する会」が結成され、擁立に動いているというニュースもありました。ただ、三原参院議員の名誉のために言っておけば、三原議員は、本来横浜には何のゆかりもないにもかかわらず、神奈川選挙区でトップ当選を果たした実力者です。横浜では存在感のある立派な(!)政治家なのです。

言うなれば、それが横浜が横浜である所以です。常に「住みたい街」の上位に位置し、オシャレな街、あこがれの街として君臨する横浜も(でも住民税や国民健康保険料はバカ高い)、一皮むけば、そういった外から見れば目をシロクロさせるような光景が、なんの臆面もなく当たり前のように存在する街なのです。

こうして見ると、あたらめて横浜って田舎だなあと思います。それも今どきめずらしいようなド田舎です。子飼いにしても、その取り巻きにしても、面子があまりにもお粗末としか言いようがありません。誰かのセリフではないですが、お神輿はなるべくハリボテで軽い方がいいとでも言いたげです。むしろ、それしか考えてないような感じです。

もうひとり、出馬の噂が消えない元横浜DeNAベイスターズ球団社長の池田純氏は、下記の文春オンラインの記事で、横浜は「日本一大きな田舎」「限られた人たちだけの『村社会』」と言っていましたが、まったくそのとおりで、その認識は私が前に書いた記事とも一致します。ただ、そこが横浜が一筋縄ではいかないところですが、そう言う池田氏自身が「村社会」の住人でないという保証はないのです。”ハマのドン”ばかりが強調されるので誤解されているようですが、横浜は、イスラム世界と同じように、”ドン”と呼ばれる一握りの人間たちによって支配された田舎で、菅総理も新参者ながらそのひとりであることを忘れてはならないでしょう。

文春オンライン
“日本一大きな田舎”横浜の問題点…なぜ横浜市長選は盛り上がらないのか?

横浜市の人口は372.2万人(2015年現在)で、名目GDPは、2021年3月の推計で13兆8774億円(実質GDPは13兆3740億円)です。たとえば、ミャンマーのGDPは6兆6000億円ですから、ミャンマーの倍です。同じくらいのGDPの国を調べると、ハンガリーが12兆6000億円ですので、ハンガリーとほぼ同じです。当然ながら、横浜市には国家レベルの強大な”利権”が存在します。一にもニにも、それが横浜が田舎でありつづける(オシャレになれない)理由なのです。

林市長の前に市長だった中田宏氏は、女子大生とコンパをしたとか人妻と不倫しているとかいった週刊誌のスキャンダル記事によって失脚したのですが、それも、中田氏よる新自由主義的な市政運営が「村社会」の”利権”という虎の尾を踏んだからだと言われています。もちろん、全国でトップクラスの給与を得ていた市関係4労組も、歳出(人件費)削減を掲げる中田市長と激しく対立していたことは言うまでもありません。

別に中田氏の肩を持つわけではありませんが、中田氏が無所属で立候補するまでは横浜市長選は総じて各党相乗りの選挙でした。また、中田氏が辞任したあとの林現市長の時代になると、以前と同じように各党相乗りのオール与党体制に戻っています。中田氏が目の上のたん瘤だった理由がわかるような気がします。

その中田氏に対して「ハレンチ市長」のキャンペーンを張った某週刊誌が、今回も獲物を狙って横浜の街を嗅ぎまわっているそうです。どんなスキャンダルが飛び出してくるか知れたものではありません。このように、今回の市長選でも、”ドン”の息がかかった「村社会」の魑魅魍魎たちがあちこちで跋扈しているのです。

「こんなバカバカしい選挙なんか行ってもしょうがない」という知人の声は、民主主義を無定見に信奉する”良識派”(「負ける」という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ勝てない左派)は眉をひそめるでしょうが、しかし、私は、その声が横浜に対するもっともリアルな批評であるように思えてなりません。


追記:(7/14)
その後、記事で触れた部分で動きがありましたので、一応追記しておきます。
①自民党横浜市連は、小此木支援で話がまとまらず「自主投票」になりました。一方で、小此木氏のちゃぶ台返しは菅総理との「出来レース」だという噂があります。それは、IRに反対する”ハマのドン”が90歳と高齢なので、とりあえずIR誘致は凍結して”ハマのドン”に花を持たせる(”状況”が変わるまで待つ)という、如何にも政治屋・菅義偉らしい話です。
②池田純氏は、出馬しないことをあきらかにしました。横浜市長選ではおなじみの週刊誌にDeNAとの金銭トラブルが報じられ、断念せざるを得なかったというのがどうやら真相のようです。ちなみに、女性初の経団連の副会長に就任したばかりのDeNAの南場智子会長は、横浜の再開発に深く関わっており、IR推進の代表的な人物です。
③三原じゅん子参院議員も、出馬しない意向を支援者に伝えたということです。
結局は、林VS小此木の事実上の一騎打ちという、大山鳴動して鼠一匹のような「村社会」が描く構図になってきました。さすが横浜で、「乱立」「混迷」のなかでも、「本命」「当て馬」「泡沫」の輪郭が徐々にはっきりしてきました。

追記:(7/29)
神奈川県内に無料配布されるタウン紙・「タウンニュース」の最新号(7月29日号)の「意見広告」に、小此木氏と菅義偉首相の対談が掲載されていました。そのなかで菅首相は、「横浜の顔になれるこれ以上の人はほかにいない」「すべての横浜市民の未来のために、小此木さんの政治活動を全面的かつ全力で応援します」と小此木氏への支持を明言していました。
上記に書いたとおり、これで小此木氏の出馬が「出来レース」であることがはっきりしました。林VS小此木の一騎打ちの色彩がより濃くなったとも言えますが、一方で、もう勝負は決まったも同然という声もあります。もっとも、林VS小此木と言っても、(ここが重要!)現状のまま話を進めて華僑・中国系にするのか、それともいったん「白紙撤回」してアメリカのIR業者の再登板を待つのか、そのどっちかにすぎないのです。このままでは候補者の乱立も茶番に終わりそうな気配ですが、口さがない街のスズメたちの間でも、選挙戦そのものより、「退路を断ってない」候補者のなかで誰が出馬をとりやめるかに関心が移っています。
また、ここに来て、関内駅近くの一等地にある評価額9億2千万円の旧市庁舎跡地が、7700万円で三井不動産やDeNAなどの企業グループに叩き売られた問題にも再度スポットが当てられています(実際は建物は売却だが土地は70年の定期借地権契約)。濡れ手に粟の買い物をした企業グループのなかに、林市長と親しい星野リゾートの関連会社が入っていたことが物議を呼んでいるのでした。もちろん、その背後にIRの存在があるのは言うまでもありません。
横浜市は直近のデータ(平成30年度)で市債発行残高が3兆1570 億円あり、しかも残高は右肩上がりで増え続ける一方です。それで、執行部や議会は、だから博打のテラ銭で借金を返済しなければならないのだ、とまるでチンビラのような言い草で市民を脅すのですが、その一方で、昨年、917億円の巨費を投じて32階建ての新市庁舎を馬車道駅の近くの北仲通に新築・移転したのでした。ところが、完成した途端に雨漏りがしたとかで、「天下の笑いもの」と言われたり、全国でトップクラスの高給を誇る職員たちが32階の雲上から市民を睥睨するため、横浜名物の「三塔物語」をもじって「デビルの塔」とか「ドラキュラの塔」とヤユされる始末なのでした。
もちろん、このような市政を支えているのはオシャレな街の住民たちです。文字通りこの市民にしてこの市政ありなのです。横浜が「日本一大きな田舎」なら、横浜市民は「日本一の田舎坊」と言うべきでしょう。
横浜市は、住民税が全国一高い自治体です(前は職員の給与が全国一高い自治体でした)。どうして住民税がこんなにバカ高いのかということを少しは考えてもよさそうですが、そんな市民は圧倒的に少数です。言うなれば、住みたい街、オシャレな街という不動産会社が作ったイメージをバカ高い住民税で買っているようなものですが、それがまるでわかってないのです。
ともあれ、これで「日本一大きな田舎」にふさわしい市長選になったと言えるでしょう。


関連記事:
※日付の古い順に掲載
横浜はイナカ
横浜市長選
横浜市長選と民進党
横浜市政は伏魔殿
2021.07.09 Fri l 横浜 l top ▲
今日は成人の日だそうですが、私たちの年代には成人の日と言えば1月15日というイメージがあるので、1月11日が成人の日と言われてもピンと来ません。もっとも、2000年からハッピーマンデー制度がはじまり、1月の第2月曜日が成人の日と定められているそうで、成人の日が1月15日でなくなってから既に20年も経っているのです。

成人の日と言えば、沖縄や福岡などヤンキーたちによる荒れた式典がメディアに取り上げられ、果たして公費を使って成人の日の式典を行う必要があるのかという議論が毎年巻き起こるのが決まりでした。

ところが、今年は様相を一変しています。新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、成人式を中止や延期する自治体が続出しているのでした。特に、二度目の緊急事態宣言が出された首都圏では、1月11日に成人式を挙行する自治体はごく稀です。

その中で、杉並区と横浜市は式典を開催(強行?)したのでした。二度目の緊急事態宣言が発令され、「ステイホーム」「不要不急の外出自粛」というおなじみのキーワードが発せられ、メディアも繁華街の人出が思ったより減ってないなどと報道する一方で、それにまったく反するような式典が挙行されたのでした。

去年までメディアの間で姦しく飛び交っていた”成人式不要論”はまったく影を潜めています。何が言いたいのかと言えば、緊急事態宣言という「ファシスト的公共性」と成人式の開催は矛盾しているではないかということです。それこそ、再三言っているように、頭隠して尻隠さず、あるいは竜頭蛇尾の典型と言えます。私は、杉並区や横浜市の首長は、これからどんな顔をして「ステイホーム」「不要不急の外出自粛」を言うつもりなんだろうと思いました。

特に横浜市は、全国の市町村で最多の3万7000人の新成人がいて、その中で7割の新成人が式典に出席する予定だと言われています。感染対策として、会場を例年の横浜アリーナのほかにパシフィコ横浜も加え、さらにそれぞれの会場で4回ずつ8回に分けて式典が行われるそうです。

新成人に対するテレビの街頭インタビューなどでは、「思い出になるので式はやってほしい」という声が多くありました。「思い出」というのは便利な言葉ですが、要するに彼らにとって成人式は、クリスマスやハロウィンなどと同じようなイベントなのです。言うなれば、ジモト(地元)やタメ(同級生)というヤンキー的テイストに基づいて騒ぎたいだけなのです。成人式という公的に認められた場で、晴れ着を着て、地元の友達と誰に遠慮することもなく盛大に無礼講を行ないたいだけなのです。それを彼らは「思い出」という言葉で合理化しているのでした。

そんな「思い出のため」などという誰でも言える無意味なワードが飛び交っている今年の成人式に対して、猪瀬直樹が、大学進学率が5割になった今は「成人式をやる意味がない」とめずらしく正論を述べていました。メディアから”成人式不要論”が忽然と消えた中で、唯一と言っていい正論だと思いました。

エキサイトニュース
東スポWeb
猪瀬直樹氏が持論 大学進学率50%の今「成人式をやる意味ない」

(略)猪瀬氏は自身の時代の成人式を振り返り「成人式はきわめて空疎な式典だ。僕の時代は大学進学率が12%ぐらいで大学生は成人式には行かなかった。大部分は中卒・高卒で社会人となり仕事も慣れたところで、成人式は通過儀礼としての意味があった」とし、本来は社会人になった成人のための式だったとした。

 その上で「いま大学進学率50%+専門学校、ほとんど学生だ。いま成人式をやる意味はない。卒業式で充分だ」と私見を述べた。


まったくその通りで、私は猪瀬直樹より下の世代ですが、私たちの頃も、大学に行った人間は成人式に出席しないのが普通でした。私は大学どころか、まだ東京の予備校に通っている身でしたので、成人式と言われてもピンと来なかったというのが正直な気持でした。中学を卒業すると3分の1は就職するような田舎でしたので、二十歳になった小中学校の同級生のほとんどは既に働いていました。そんな中で、未だ親の脛を齧っている身としては、肩身が狭い気持もありました。猪瀬直樹が言うように、成人式には社会に出て一人前の大人になる通過儀礼の側面がたしかにあったのです。

私の田舎では成人式は夏に行われていましたが、成人式の年の秋、私は、持病の再発で東京から九州に戻り、国立病院で三度目の入院をすることになりました。そして1年間の長期入院を余儀なくされたのでした。父親が、東京に迎えに来たとき、盆休みに行われた成人式の写真を持って来ました。そこには懐かしい小中学校の同級生たちの顔がありましたが、しかし、病気による失意の只中にいたということもあって、特別な感慨はありませんでした。ましてや「思い出」などという言葉が入り込む余地などありませんでした。

ただ、翌年の1月15日の成人の日に、突然、主治医の先生や婦長さんが病室にやって来て、病棟の職員一同からの記念品としてアルバムを貰いました。その頃はまだ病状が安定せず、ほとんど寝たきりの状態でしたので、すごく感激したことを覚えています。アルバムの上には「祝成人」と書かれた熨斗(のし)が貼られていました。アルバムは今も大切に持っています(成人式の写真は紛失して手元にありません)。それが私にとって、成人式の「思い出」と言えば「思い出」です。

「ステイホーム」「不要不急の外出自粛」などと言いながら、政治家や公務員はこっそり忘年会をやり、若者たちに迎合して成人式を挙行するのです。それでは、「ステイホーム」「不要不急の外出自粛」が建前にしか聞こえないのも当然でしょう。とりわけ、昨今の成人式は、公費を使ってSNS向けの「思い出」作りに手を貸すようなものです。ヤンキーが多い横浜市も荒れる成人式として有名ですが、式典のあと、新成人たちがお行儀よく自宅に帰るとはとても思えません。成人式は、ウィルスの運び屋である若者たちの密や飲み会を、半ば公認するようなものと言っていいでしょう。これでは「正しく怖れる」など夢物語でしょう。

もともと横浜とは縁もユカリもないシャネル大好きのおばさんを市長候補として連れて来たのは、当時民主党の党首であった小沢一郎ですが、その結果、横浜市は、菅義偉のような市政を牛耳る地域のボスと市関係4労組(自治労横浜・横浜交通労組・横浜水道労組・横浜市教職員組合)が共存する伏魔殿になったのでした。

横浜市は、令和2年度末時点で、市債と外郭団体の借入金を合わせると、4兆3千億円の借金があります。そのうち、外郭団体の収入(水道料金やバス運賃など)を除いた”純借金”は3兆1千億円です。そんな中で、昨年、800億円の巨費(それも借金)を投じて、桜木町駅近くの北仲通南地区に32階建ての市庁舎を建てたのでした。

横浜市には、外郭団体を入れて4万5千人の職員がいます。人件費は、1年間の歳出の実に20%、3700億円を占めています。2010年には、横浜市は、ラスパイレス指数(国家公務員給与を100とした時の地方公務員の給与水準)で、全国の地方自治体で1位になり、高給が批判を浴びました。今は当時より給与水準は落ちているものの、依然として100超(つまり、国家公務員よりは高い給与を得ている)であることには変わりがありません。それに、外郭団体のほかにみなとみらいのような第三セクターも多く、退職後の再就職先(天下り先)も手厚く保障されているのです。

32階建ての豪華市庁舎から市民を睥睨する”役人天国”の住人たち。成人式の挙行も、公務員の忘年会と同じような、現実と乖離した建前と本音の所産なのかもしれません。

今日も近所のスーパーは行列ができるくらいお客が殺到していました。また、休日の都心に向かう朝の電車も、コロナ前の電車と変わらないくらい混雑していました。「ステイホーム」「不要不急の外出自粛」という「ファシスト的公共性」が、行政に対する不信感によって骨抜きにされているのは(言っていることが矛盾しているようですが)いいことです。しかし、COVID-19の猛威は続いているのです。悩ましい話ですが、私たちは、正しい知識で「正しく怖れる」必要があるのです。一方で、自分たちの自由は自分たちで守る必要もあるのです。

新型コロナウイルスは撲滅などできないのです。共生するしかないのです。罰則規定を新たに設ける特別措置法や感染症法の改悪が俎上に登る中で、みずから進んで国家に自由を差し出す”自粛警察”のような衆愚を他山の石として、自由を守りながらどう感染防止を行うか、どう「正しく怖れる」かという課題が私たちに突き付けられているのだと思います。


関連記事:
横浜市政は伏魔殿
2021.01.11 Mon l 横浜 l top ▲
DSC03075.jpg


考えてみれば、今日は12月20日で、今年もあと10日あまりとなりました。でも、あまり年の瀬という感覚はないのでした。年を取ると、時間が経つのが早くて、1年なんてあっという間です。なんだか季節の感慨も追いつかないほどです。

来週は、もう仕事納めです。それで、午後から病院に行きました。薬を処方してもらわないと、正月の間薬なしで過ごさなければなりません。別に飲まなくても、急に症状が変わるような疾患ではないのですが、私はそういったところは案外律儀な性格なのでした。同じ病院に通っている知り合いは、ひと月に1回行かなければならないのに、いつも2ヶ月に1回しか行かないので、行くたびに先生から皮肉を言われると言ってましたが、彼のような患者に比べれば、私は“優等生”と言えるのかもしれません。

病院に行くと、やはりいつもより患者が多くて、待合室は座る場所もないくらいでした。結局、診察(と言っても、1分くらいで終わる簡単な問診)まで1時間半もかかりました。病院の下にある調剤薬局も人が多く、そこでも30分以上待ちました。

薬局を出たら、午後5時をまわっていましたが、それから市営地下鉄に乗って桜木町に行きました。毎年、赤レンガ倉庫で行われているクリスマスマーケットを見ておこうと思ったからです。

クリスマスが近づくと、山下達郎の「クリスマスイブ」やジョン・レノンの「ハッピークリスマス」が街角に流れたりしますが、最近、そういった定番のクリスマスソングを聴いても心がときめくことがなくなりました。

以前だと、渋谷駅前のオーロラビジョンからクリスマスソングが流れると、クリスマスが近づいたんだなあと心がザワザワしたものです。しかし、いつの間にかザワザワすることもなくなりました。クリスマスのイルミネーションも同じで、イルミネーションを観に行こうなんて考えることすらなくなりました。

金曜日ということもあって、汽車道も大勢の人が行き交っていました。汽車道の対岸の船員アパートが立ち並んでいたところは、タワーマンションとアパの高層ホテルが建ち、まるであたりを睥睨するかのようにその威容を誇っていました。こうして“記憶の積層”がどんどん消えていき、横浜らしさがなくなっていくのです。

クリスマスマーケットも、今や食べ物のイベントになっています。もともとは、本場のドイツと同じように、(主にドイツの)クリスマスグッズを販売するイベントでした。最初は横浜だけで行われていましたが、今では都内でも何ケ所かで行われています。それにつれ、横浜の方は食べ物に傾注して行ったのでした。もっとも食べ物も、ほとんどがクリスマスと関係のないものばかりです。それを強引にクリスマスにこじつけているに過ぎないのです。

業界にいた人間から見れば、こういったところにも輸入雑貨が過去のものになったことを痛感させられるのでした。昔は、クリスマスカードをはじめ、クリスマス関連の雑貨は飛ぶように売れ、この時期は文字通り猫の手も借りたいほどでした。海外の雑貨がそれだけめずらしかったということもあったのでしょうが、もうひとつは、クリスマス自体が”特別なもの”だったからでしょう。世間も私と同じように、もうクリスマスに心をときめかすことがなくなったのかもしれません。

端の方にグッズを売っているテントがありましたが、見ると、ロシアの民族衣装を着た外国人が、マトリョーシカを売っているのでした。マトリョーシカとクリスマスはどういう関係にあるんだろうと思いました。

広場では、これも恒例のスケートリンクが設置されていましたが、最初の頃と比べると規模も設備もショボくなるばかりです。他には、横浜お得意の光のデジタルアートのイベントが催されていました。デジタルアートは、お金もかからずお手軽なので、イベントの穴埋めにはうってつけなのでしょう。

こうしてイベントに行ったり街を歩いたりすると、クリスマスなど師走の風景から疎外されている自分をしみじみと感じます。こういうのを「広場の孤独」(堀田善衛)と言うのだろうかと思いました。

来週あたり、”登り納め”ではないですが、今年最後の山に行こうかなと思っています。やはり、誰もいない冬枯れの山を歩く方が心が落ち着きます。今の自分にはそっちの方が似合っている気がするのでした。


DSC02941.jpg

DSC02947.jpg

DSC02980.jpg

DSC02984.jpg

DSC03016.jpg

DSC03029.jpg

DSC03046.jpg

DSC03054.jpg

DSC03062.jpg
2019.12.20 Fri l 横浜 l top ▲
横浜市長選・山尾志桜里


先月、横浜市の林市長は、カジノを含むIRの誘致について、「白紙」方針を撤回し誘致する旨を公式に表明しました。

現在の林市政は、共産党を除く“プレ・オール与党体制”です。もともと横浜市に縁もゆかりもない林文子氏を2009年8月の横浜市長選に担いだのは、同年の5月まで民主党代表であった小沢一郎氏だと言われています。事実、2009年の初出馬の際は、民主党公認で立候補しました。林市長が菅義偉官房長官の「子飼い」だと書いているメディアがありますが、それはのちの話で、最初は民主党系の市長だったのです。しかも、初出馬から今に至るまで、市関係4労組(自治労横浜・横浜交通労組・横浜水道労組・横浜市教職員組合)は林市政を支持しているのです。

林文子氏は、(私も同じ業界にいましたのでわかりますが)要するに車のトップセールスマンだった人です。それで「優秀」と見なされたのです。しかも、当時は女性のセールスマン(セールスウーマン)は少なかったので、よけい「評価」された側面もあったでしょう。ただそれだけの話です。

ところが、市長になるとトップセールスマンの本領を発揮して、自公にも擦り寄り、二期目は民主党のほかに自民党・公明党の推薦も得て、今の“プレ・オール与党体制”が成立したのでした。さらに2017年の三期目では、民進党内のゴタゴタもあって、自民党・公明党のほかに連合が推薦に名を連ねています。

上記の写真は、前回の選挙のときのものです(再掲)。前回の選挙について、私は、このブログで次のように書きました。

今回の選挙では、民進党内の旧維新の市議が、“市民派”として立候補しました。一方、民進党内の旧民主党系は、現職候補を支援しています。そのため、民進党は自主投票になりました。旧維新の“市民派”候補に対しては、共産党が独自候補の擁立を見送り、実質的な“野党共闘”候補として支援しています。

このように横浜市長選は、さまざまな思惑が絡む複雑な構図になっているのですが、少なくとも民進党内の多数派や連合や市関係4労組(自治労横浜・横浜交通労組・横浜水道労組・横浜市教職員組合)は、安倍政権の懐刀である菅義偉官房長官(神奈川二区選出・元横浜市議)が牛耳る自民党と手を組み、カジノ推進や戦前賛美の育鵬社教科書採択の現職市長を支持しているのです。横浜市長選の構図を見る限り、民進党は“野党”なんかではありません。”野党”のふりをしているだけです。

関連記事:
横浜市長選


IRの誘致に関して、メディアは「『白紙』方針を一転」と言っていますが、既にずっと前からトーンダウンしており、(私も書いているように)実際は「推進」だったのです。今になって、「だまし撃ちだ」などと驚いたふりをしている人間たちは、眉に唾して見る必要があるでしょう。

今回の公式表明には、菅官房長官だけでなく、林市政を支持している自治労横浜(横浜市従業員労働組合)の意向もはたらいているのではないか、と私は穿った見方をしたくなりました。何故なら、山下ふ頭にカジノが誘致されれば、みなとみらいを凌ぐほどの新たな天下り先が誕生することになるからです。

財政再建団体への転落が懸念されたほど莫大な負債を抱えているにもかかわらず、全国トップクラスを誇る職員給与。みなとみらいをはじめとする多くの天下り団体。来年完成予定の32階建ての豪奢な市庁舎。横浜市は名にし負う“役人天国”で、それは、飛鳥田時代(1963年~1978年までの革新市政)からの“負の遺産”でもあります。

横浜市が他の自治体に比べて、国民年金保険料や市民税など、「租税公課」の負担が大きいのはよく知られた話です。と言うと、だからカジノを誘致して市民の負担の軽減をはかるというような話になるのですが、市職員の給与や天下り団体や市庁舎の建設を考えると、それが子供だましの方便であることがわかります。林市長がカジノ誘致の理由として挙げる「高齢化」や「人口減」も然りでしょう。

報道によれば、市民の80%だかがカジノ誘致に「反対」しているそうです。だったら市長をリコールすればいいだけの話で、ことは簡単だと思いますが、そうはいかないのが横浜の摩訶不思議なところなのです。

横浜市に住んでいると、立憲民主党や国民民主党に対して、一片の幻想さえ抱くことはありません。抱きようがないのです。文字通り、横浜市政は伏魔殿と化しているのですが、その一端を連合や市関係4労組が担っているのです。そんな”獅子身中の虫”に目を向けることなく、林市長に裏切られたと言って市役所に押しかけて抗議する市民団体は、今更ながらおめでたいとしか言いようがありません。


関連記事:
横浜市長選と民進党
横浜市長選
横浜はイナカ
2019.09.02 Mon l 横浜 l top ▲
2018年12月9日14


関内に用事があったついでに、いつものように日本大通りから山下公園、さらにみなとみらい界隈を散歩しました。

紅葉もほぼ終わり、日本大通りや山下公園のイチョウも、黄色い葉がかろうじて枝に付いている感じでした。

日曜日とあって、横浜はどこも多くの観光客で賑わっていました。横浜に来る観光客で特徴的なのは、カップルが多いことです。そのなかを、大男のオヤジがいっそう背を丸め歩いているのでした。

例年赤レンガ倉庫で催される「クリスマスマーケット」も、大変な人出で、歩くのも苦労するほどでした。もともと「クリスマスマーケット」はドイツかどこかのマーケットを真似ていて、販売されているのも海外のクリスマスグッズが主でした。ところが、よく見ると、ずいぶん様変わりしており、グッズは影を潜め、食べ物の店が前面に出ているのでした。もちろん、多くはクリスマスと関係のない食べ物屋ばかりです。やはりクリスマスも「花より団子」なのかと思いました。

若い頃から輸入雑貨の仕事に携わり、クリスマスのカードやグッズを扱ってきた人間としては、ちょっとさみしい気持になりました。

デパートなどでバラエティ雑貨とか趣味雑貨と呼ばれていた輸入雑貨を最初に手掛けたのは、芸能界の周辺にいた人間たちでした。彼らが、ひと儲けしようと海外からめずらしい雑貨を持ち帰り、徐々に増えはじめていた雑貨の店に売り込んだのです。あの三浦和義もそのひとりでした。私が最初に勤めた会社の社長も、某フォークディオのマネージャーでした。なかには、元グループサウンドのメンバーが立ち上げた会社もありました。私は、彼らから「面白かった時代」の話をよく聞かされました。でも、今も生き残っている会社はほとんどありません。

そう言えば、この時期は休みもなく働いたもんだなあ、と昔をなつかしんだりしました。この時期が一年でいちばんの「書き入れ時」でした。

帰りに、いつものように、ランドマークタワーのくまざわ書店に寄って、本を買いました。会社に勤めていた頃、くまざわ書店も担当したことがありました。当時は八王子にある小さな書店にすぎませんでした。ところが、会社を辞めてしばらく経ったら、いつの間にか全国区に急成長していたのでびっくりしましたが、TSUTAYA(蔦屋書店)などと同じように、大手取次会社の資本が入ったからでしょう。

本を物色していたら、モデルと見紛おうようなきれいな娘(こ)に遭遇しました。あまりジロジロ見ると、変態オヤジと思われそうなので、さりげなく視線を走らせましたが、きれいな娘に胸をときめかすなんて、なんだか昔にタイムスリップしたような気分になりました。と同時に、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に漂っていた、あの虚無感が思い出されるのでした。人は変わっても、街はいつの時代もきらびやかで若いままなのです。

年をとると、どこに行ってもなにを見ても、さみしい気持になるばかりです。


2018年12月9日1

2018年12月9日2

2018年12月9日3

2018年12月9日4

2018年12月9日6

2018年12月9日7

2018年12月9日8

2018年12月9日9

2018年12月9日10

2018年12月9日11

2018年12月9日12

2018年12月9日13

2018年12月9日15

2018年12月9日16

2018年12月9日17

2018年12月9日18

2018年12月9日19


関連記事:
『33年後のなんとなく、クリスタル』
2018.12.09 Sun l 横浜 l top ▲
2018年11月伊勢山皇大神宮2


夕方から散歩に出かけました。桜木町と野毛の間の丘の上に、伊勢山皇大神宮という神社があるのですが、まだ一度も行ったことがないので行ってみようと思いました。

自宅から新横浜まで歩いて、新横浜から市営地下鉄に乗り、横浜駅のひとつ先の高島町駅で降りました。高島町駅からは、スマホのナビを頼りに国道16号線を桜木町駅方面に進み、途中から右手にある紅葉坂(もみじざか)を上りました。かなり急な坂ですが、坂の上は伊勢山という横浜で有名な高級住宅地です。ここでも成り上がったら坂の上に住むという横浜人の法則がはたらいているのでした。

既にあたりは暗くなりましたが、坂の上に県立青少年センターという公共施設があったので、入口の警備員の人に、伊勢山皇大神宮の場所を訊きました。

「あの脇道を入れば、裏参道があるよ」と言われ、言われたとおり脇道を入ると、薄闇に参道の階段が現れました。

境内は人の姿もなく、ひっそりと静まり返り、夕闇の中に浮かび上がった本殿が一層荘厳に見えました。本殿の前では、仕事を終えた巫女さんが拝礼していました。

帰りは表参道を降りて、野毛の方へ坂を下りました。そして、野毛をぬけ、伊勢佐木町の有隣堂で本を買い、さらに関内・汽車道・赤レンガ倉庫から臨港パークを歩き、大観覧車のあるコスモワールドの脇をとおって、横浜駅まで歩きました。

途中、汽車道の対岸にある北仲では、再開発に伴って三井不動産のタワマンやアパの高層ホテル、それに32階建ての横浜市庁舎の建設が進んでいました。なんだか途端に現実に引き戻された気がしました。

3兆円を超す借金(市債発行残高)。全国的にトップクラスの職員給与。地上32階の豪奢な市庁舎。公務員の給与が高いのではない、民間の給与が低すぎるのだと嘯き、現市政を支持する労組。「自治体労働者への攻撃を許すな」と主張する新左翼セクト。そこにあるのは、醜悪としか言いようのない、平岡正明が言う「中音量主義」をまるで嘲笑っているかのような光景です。

帰りはさすがに足が棒のようになっていました。万歩計を持っていませんでしたが、1万歩を優に超したのは間違いないでしょう。


2018年11月伊勢山皇大神宮3

2018年11月伊勢山
(野毛に向かう坂)

2018年11月汽車道2
(ワールドポーターズの前のツリー)

2018年11月北仲
(汽車道から北仲を望む)

2018年11月臨港パーク
(臨港パーク)
2018.11.17 Sat l 横浜 l top ▲
2018春節01


中華街の春節のイベントも、昨日(3月2日)が最終日で、夕方から媽祖廟で「元宵節燈籠祭」という奉納舞がおこなわれるというので、中華街に行きました。

しかし、行ってがっかりでした。媽祖廟は改装中で、入口の通路が工事の囲いで覆われていました。しかも、通路が見物客で溢れているため、中でおこなわれている奉納舞がまったく見えないのです。

もっとも中国の旧正月である春節は、2月15日~2月21日だそうです。「元宵節燈籠祭」も、観光用に引き伸ばされた春節のイベントのひとつにすぎないのでしょう。

「元宵節燈籠祭」の見学をあきらめ、江戸清で豚まんを買い、伊勢佐木町で蕎麦を食べて帰りました。

中華街は言わずもがなですが、伊勢佐木町も歩いていると、至るところから中国語が耳に飛び込んできます。若い中国人のチンピラも相変わらず目につきます。一方、隣の福富町に行くと、途端にコリアンの店が多くなるのです。これこそアジア的混沌と言うべきかもしれません。

前も書きましたが、横浜市立大卒で横浜の事情に通暁している馳星周あたりが、伊勢佐木町や福富町を舞台にしたピカレスク小説を書いたら、きっと面白いものが書けるのに、とあらためて思いました。


2018春節05

2018春節04

2018春節09

2018春節11

2018春節03

2018春節06
2018.03.03 Sat l 横浜 l top ▲
ドッグヤード1月3日


正月休みの間、文字通り食っちゃ寝てのプチ引きこもり生活をしていましたので、夕方から散歩に出かけました。

横浜駅で降りて、馬車道・伊勢佐木町・長者町を歩き、帰りも日出町から桜木町、みなとみらいをまわって横浜駅まで歩きました。

途中、温かい蕎麦を食べたいと思いましたが、まだ正月の3日なので目当ての店はどこも休みでした。それで、仕方なくラーメンを食べて帰りました。

何度も同じことを書きますが、私は、休日の夜の横浜の街が好きです。祭りのあとのさみしさのようなものを覚えるからです。平岡正明の言う“場末感”が漂っているからです。

横浜は決してオシャレな街などではありません。文明開化の足音がする時代には、西欧文化の入口だった横浜はオシャレな街だったのかもしれませんが、今はどちらかと言えば、時代に取り残されたようなレトロな街になっています。

めまぐるしく変わる東京と比べれば、その違いは一目瞭然でしょう。みなとみらいや、あるいは青葉区や都筑区や港北区のような郊外のベットタウンは別にして、古い横浜の街にはまだ個人商店が残っているところも多いのです。アイパーをあてた古典的なヤンキーなども未だ生息しています。

私は、当時勤めていた会社で横浜を担当していましたので、白塗りのメリーさんが馬車道のベンチに座っている姿を見ることもできました。ちょうど横浜博覧会が催された頃です。その頃の馬車道は、今と違って人通りも多く賑わっていました。伊勢佐木町も、“伊勢ブラ”の時代には及ばないものの、まだ繁華街の華やかさが残っていました(だからゆずも路上ライブをやったのでしょう)。

一方で、都内と比べれば横浜はどこか地方都市のような雰囲気がありました。それが横浜の個性だったのです。そして、それからほどなく横浜の旧市街は、みなとみらいの開発と引き換えに、日増しに”場末感”を増していくのでした。

横浜市庁舎の建設に合わせるように、近くの北仲では高層マンションなどの建設がはじまっています。また、みなとみらいの空地も、いくつか建築中のビルがありました。

横浜の場合、街中のビジネスビルが建つ表通りから一歩なかに入ると、古い住宅街が広がっているのが特徴です。そんな路地の奥にひっそりと佇む家々が、街灯の仄かな灯りに照らし出される夕暮れの風景が私は好きです。それこそ、美空ひばりの「哀愁波止場」が聞こえてくるような感じがするのです。繁華街の路地にも、裏町のような雰囲気のところが多く残っています。そのコントラストが横浜の魅力なのです。

カメラをあたらしく買ったので、久しぶりにカメラをもって散歩に出かけたのですが、とは言え、写真を撮るとなると、やはりみなとみらいの風景になるのでした。みなとみらいは、謂わば表の顔です。横浜の人たちにとって、たしかにみなとみらいは”自慢”ではあるのですが、でも、愛着があるのは”場末感”が漂う旧市街なのです。


関連記事:
哀愁波止場
横浜の魅力
野毛
2018.01.03 Wed l 横浜 l top ▲
横浜市長選・山尾志桜里


横浜市長選において、昨日(7月27日)、桜木町駅前で上のような光景が見られました(写真はネットから拾った画像をモザイク処理しています)。一瞬目を疑う光景ですが、これが民進党の姿なのです。

民進党の山尾志桜里衆院議員は、同党の牧山ひろえ参院議員(神奈川選挙区)とともに林文子候補の選挙カーに乗り、つぎのような応援演説をおこなったそうです。

林さんは「女性だからできない」という世の中を変えてきた先駆者。都知事も女性のリーダー。仙台市長選郡さんは素晴らしい結果を出した。実力のある女性リーダーが多様な市民の声とつながった時本当の意味で社会が動き政治が変わる。横浜も是非!

https://twitter.com/fumipoohchan/status
/890827485545283584


山尾志桜里議員は、党内では前原誠司氏に近いと言われていますが、今回の行動は、単に「(スポンサーの)連合に頼まれたから」などという話ではないように思います。

林市政の問題点は、カジノだけではありません。横浜市の市立中学146校の歴史と公民の教科書は、2011年につづき2015年も「愛国心の育成に主眼を置いた」育鵬社の教科書を採択しているのです。日本会議は、「自虐史観」からの脱却を掲げ、全国の自治体に育鵬社の教科書の採択を要請する運動をおこなっていますが、横浜市は、育鵬社のシェアが4~6%と伸び悩むなかでも、その要請に忠実に(!)応えている自治体なのです。

山尾志桜里議員は、「保育園落ちた日本死ね」のブログをきっかけに、待機児童の問題を国会で取り上げた人物として知られていますが、もうひとつ、先の国会で大きな役割を果たした法案があります。それは、共謀罪と抱き合わせで成立した、性犯罪を厳罰化する刑法改正です。以前紹介した写真に見られるように、性犯罪の厳罰化を求める団体と金田勝年法務大臣をつないだのも山尾議員らなのです。

そんな“厳罰化の思想”と(国権主義的な)育鵬社の教科書を採択した林市政を支持する姿勢には、共通したものがあるように思えてなりません。

関連記事:
「共謀罪」と厳罰化の風潮

一方、民進党では、蓮舫代表が辞意を表明したことに伴い、山尾議員の”親分”の前原誠司氏と枝野幸男氏が代表選に立候補すると言われています。民主党政権が崩壊したあとも、党人事などで出てくるのは当時の“戦犯”ばかりです。

有権者から見れば、野ブタを復権させたことで、蓮舫代表は最初からアウトだったのですが、前原氏も枝野氏もその点を批判することはないのです。自分たちも同じ穴のムジナなのですから、できるわけがないのです。有権者を愚弄しているのは、自民党だけでなく民進党も同じです。代表選に「リベラルか保守か」なんていう図式をあてはめるのも、単なるお笑いでしかありません。

政権崩壊の責任が不問に付されたまま、相も変わらず一部の人間たちで党人事がたらいまわしにされている民進党。支持率が下がれば下がるほど、自民党と一緒になりたい者たちの声が大きくなる民進党。そんな民進党に未来がないのは、誰が見てもあきらかです。「解党的出直し」などではなく、もはや解党するしかないでしょう。


関連記事:
横浜市長選
森友学園問題の思想的背景
2017.07.28 Fri l 横浜 l top ▲
来週の日曜日は横浜市長選の投票日です。現職の候補は、もともとは民主党が担いだ落下傘候補(当時は東京日産自動車販売の社長)でした。2009年8月の市長選で初当選したのですが、その前月には民主党政権が誕生しています。擁立には、民主党が政権に就く前まで同党の代表だった小沢一郎氏の意向が大きくはたらいたと言われています。

そのため、民進党(旧民主党)はずっと与党として市政を支えてきました。もちろん、連合神奈川も自治労神奈川も同様です。市議会に民進党所属の東電労組出身の議員を送り込んでいる電力総連も、現職市政を支える強力な支援団体です。

現職候補は今回で三期目ですが、その間自民・公明にも接近し、二期目からは自民・公明・民進が推薦する、実質的な“オール与党体制“が成立しています。

今回の選挙では、民進党内の旧維新の市議が、“市民派”として立候補しました。一方、民進党内の旧民主党系は、現職候補を支援しています。そのため、民進党は自主投票になりました。旧維新の“市民派”候補に対しては、共産党が独自候補の擁立を見送り、実質的な“野党共闘”候補として支援しています。

このように横浜市長選は、さまざまな思惑が絡む複雑な構図になっているのですが、少なくとも民進党内の多数派や連合や市関係4労組(自治労横浜・横浜交通労組・横浜水道労組・横浜市教職員組合)は、安倍政権の懐刀である菅義偉官房長官(神奈川二区選出・元横浜市議)が牛耳る自民党と手を組み、カジノ推進や戦前賛美の育鵬社教科書採択の現職市長を支持しているのです。横浜市長選の構図を見る限り、民進党は“野党”なんかではありません。”野党”のふりをしているだけです。

横浜とカジノに関しては、ネットに次のような記事もありました。

デイリー新潮
カジノ利権を狙う「横浜のドン」の影が見え隠れ 総理の椅子が欲しくなった「菅官房長官」(1)
菅官房長官、「横浜カジノ」消滅でメンツ丸つぶれ 地元ドンの一声で

如何にも新潮らしく前と後では書いていることがまったく違っており、一体どっちが本当なんだと突っ込みたくなりますが、横浜市にも「神戸と山口組」と同じように、港湾都市特有のダークな部分がまだ残っているということなのでしょうか。横浜市民の感覚から言えば、とんだ”野党”やとんだ労組がいたものだと言わざるを得ません。

先日、桜木町駅近くの建設予定地で新市庁舎の起工式がおこなれましたが、新市庁舎はに地上32階地下2階高さ155.4mの高層ビルで、2020年6月完成予定だそうです。総工費は、計画段階から133億円増え749億円だとか。

横浜市の財政状況は、前回の市長選のときからいくらか改善されたものの、依然として”危機的状況”であることには変わりがありません。平成26年度は(カッコ内は平成22年度)、歳入が1兆4690億円(1兆3991億円)、歳出1兆4333億円(1兆3796億万円)、市債の発行1509億円(1345億円)です。特別会計も含めた全会計の市債発行残高は、4兆3134億円(4兆5478億円)です。横浜市は、収入の3倍近い借金を抱えた多重債務者なのです。その多重債務者が「災害」や「市民サービス」を口実に、またあらたに借金して、一等地に豪奢な庁舎を新築しているのです。

横浜市・財政局
横浜市の財政状況

市職員の給与は、基本給に諸手当を含めた(期末手当は含まない)「平均給与月額」が、2015年度で442,772円(42.4才)です。これは、全国1788市町村のなかで60位です。言うまでもなく職業に貴賤はありませんが、技能職のなかに職種別の給与も出ていました。清掃職員421,837円(45.5才)、守衛436,307円(43.8才)、用務員423,330円(50.3才)、バス運転手460,846円(46.9才)。何度も言いますが、これは期末手当(ボーナス)を含まない給与月額の平均です。

給料.com
横浜市(神奈川県)職員の月収・年収を知る(2015年)

よその自治体から転居してきた人は、横浜市の国民健康保険料が高いのにびっくりするはずてす。また、住民税も全国で有数の高さです。私の実感でも、所謂「租税公課」は、もはや収入とのバランスが崩れ、生活を圧迫するほどの高額になっています。一方で、横浜市にはみなとみらいやパシフィコ横浜など37の外郭団体があり、市職員の天下りやワタリの問題が相変わらず指摘されています。

サラリーマンの税金計算してみたブログ
住民税が最も高い&安い自治体(市&区)はどこ?【2017年版ランキング】

現職候補の優位は変わらないようなので、カジノができればまた山下埠頭がみなとみらいのように開発されるのでしょう。オシャレな街の賢明な市民たち(皮肉ですが)は、地上32階の豪奢な市庁舎や対岸に見えるきらびやかなカジノのネオンサインをどんな思いで見るのでしょうか。「やっぱ、横浜はすごいじゃん」と思うのでしょうか。


関連記事:
横浜はイナカ
2017.07.24 Mon l 横浜 l top ▲
伊勢佐木町の劣化は目を覆うものがあります。外国人の比率の高さは、歌舞伎町や池袋西口や錦糸町も足元にも及ばないくらいで、一時目立っていた南米系の外国人は少なくなり、今は中国人に席巻されています。そうなると、どうしても中国人の横暴さやマナーの悪さが目に付いてならないのです。

昨日、伊勢佐木町のドンキホーテに行ったときのことです。最近流行りのシルバーワックスを買おうと思って行ったのですが、ヘアケアのコーナーには、試供品のような小分けにされてパックに入ったものが1種類あるだけでした。私は、とりあえずそのパックを持ってレジに行きました。

そして、レジの女の子に、「このワックスで容器に入ったものはありますか?」と尋ねました。すると、女の子は早口でムニャムニャ言いながら、パックを手に取るとさっさとバーコードを読み取る機械にかざしはじめたのでした。

私は、あわてて「エエッ、なに?」と訊き返しました。しかし、ただムニャムニャと言うだけです。私は、再度「エエッ、なに?」と訊き返しました。すると、女の子はやっと手を休め、 半ば不貞腐れたような感じで、「あるだけです」とたどたどしい日本語で答えたのでした。

レジの女の子は、中国人のアルバイトのようです。たしかに、伊勢佐木町のドンキも中国人客が目に付きます。それで、中国語で対応できる同国人を雇っているのかもしれません。

それにしても、その態度はないだろうと思いました。在庫があるかどうか確認しようともせず、つっけんどんに通り一遍のセリフを口にするだけなのです。もしかしたら、在庫の有無を訊かれたら、そう答えればいいと教えられているのかもしれませんが、あまりにもおざりな対応と言わねばなりません。私は、「ちゃんと日本語を喋る人間を雇えよ」などと心のなかで悪態を吐きながら店を出ました。

そのあと、イセザキモールを歩いていたら、空腹を覚えてきました。ふと前を見ると、「〇〇や」という“かつ“で有名なチェーン店の看板が目に入りました。私は、「〇〇や」には今まで入った記憶がほとんどないのですが、看板を見たら急にかつ丼を食べたくなりました。

店に入ると、カウンターの奥に二人の女性のスタッフがいました。ひとりがホールを担当し、もうひとりが調理を担当しているようでした。二人はおしゃべりの最中で、「いらっしゃいませ!」と言って水を置くと、そのままカウンターの奥に入っておしゃべりのつづきをはじめるのでした。またしても中国語です。それも、店内に響き渡るような大きな声でまくし立てるようにしゃべっているのでした。

私は、かつ丼を注文しました。やがて前に置かれたかつ丼を見た私は、一瞬我が目を疑いました。かつの衣が黒く焦げているのです。あきらかに揚げすぎです。そのため、かつも惨めなくらい縮んで小さくなっていました。ご飯も器の半分以下しかなく、見るからにみすぼらしいかつ丼なのです。チューン店の公式サイトには、「サクサク、やわらか、ボリューム満点」と謳っていましたが、まるでそのキャッチフレーズを嘲笑うかのようなシロモノでした。隣の席の男性もかつ丼を頼んでいましたが、サイトの写真とは似ても似つかないみすぼらしいかつ丼に固まっていました。

私は、苦い味のカツ丼を半分残して席を立ちました。レジで伝票を出すと、店員は伝票には目をくれず「500円」と言うのです。しかし、私が頼んだのはかつの量が多いほうだったので、700円のはずです。私が「エッ」と言うと、店員はあわてて伝票に目をやり、「700円」とぶっきらぼうに言い直したのでした。

中国人を雇うなとは言いませんが、雇うなら接客の心得くらい教えろよと言いたくなりました。本人たちにその自覚があるかどうかわかりませんが、まったくお客をなめているのです。ただ人件費が安ければそれでいいと思っているのなら、それこそブラック企業と言うべきでしょう。

外に出ると、中国人のグループが店の看板をバックに記念写真を撮っていました。「〇〇や」も中国人ご用達なのかと思いました。なんだか中国人に翻弄されているような気持になりました。

もちろん、伊勢佐木町の中国人は観光客ばかりではありません。その背後には、メガロポリスを支える3Kの巨大な労働市場があるのです。「研修生」の名のもと、安い給料でこき使われているのでしょう。そんな外国人労働者たちが、まるで吹き寄せられるように伊勢佐木町に集まっているのでしょう。

伊勢佐木町は、デビュー前のゆずが路上ライブをしていた街として有名ですが、今は通りもすっかり荒んだ空気が漂っています。外国人だけでなく、日がな一日中、路上のベンチを占領している、見るからにやさぐれてうらぶれたような老人たち。それは、北関東の街の駅前の光景とよく似ています。

横浜には、「恋する横浜」というその標語を目にするだけで恥ずかしくなるような市公認のキャンペーンがありますが、わざわざ伊勢佐木町でデートするカップルなんていないでしょう。私は最近、横浜を舞台にした小説をよく読んでいるのですが、前も書いたように、馳星周(横浜市立大卒)が伊勢佐木町を舞台にしたピカレスク小説(悪漢小説)を書いたら面白いものができるような気がします。

「いせブラ」も今は昔、高知東生のように、はだけた胸から金のネックレスをちらつかせながら、チンピラが肩で風を切って歩くのなら似合うかもしれませんが、もはやカップルや家族連れがそぞろ歩きをするような街ではなくなっているのです。

関連記事:
伊勢佐木町から横浜橋
2016.07.11 Mon l 横浜 l top ▲
20160424_155653(0).jpg


最近は野暮用で週の半分は伊勢佐木町に行ってます。そして、天ぷらが好きな私は、関内界隈の天ぷら屋めぐりするのを楽しみにしています。天ぷらのあとは、いつもみなとみらいまで歩いています。

今日も伊勢佐木町に行きました。日曜日とあってさすがに伊勢佐木モールは人出が多く賑わっていました。もちろん、そのかなりの部分は外国人です。今や伊勢佐木町は、周辺の外国人労働者ご用達の街と化しているかのようです。昔は、”銀ブラ”ならぬ”伊勢ブラ”ということばもあったくらい、伊勢佐木町は横浜を代表するおしゃれな街だったのですが、そんな昔の面影を探すのはもはや至難の業です。

誰だったか忘れましたが、街歩きのレポーターをしている芸能人が「昔は東京から元町や伊勢佐木町など横浜に来ると、気後れするくらいおしゃれな雰囲気がありました」と言ってましたが、もちろん、そんなおしゃれな雰囲気を探すのも至難の業です。

この土日は、ちょうど野毛で恒例の大道芸のイベントがおこなわれ、大岡川をはさんで隣接する吉田町でもアート&ジャズフェスティバルが開催されていました。ただ、野毛の大道芸も、当初に比べれば、新鮮味が失われているような気がしないでもありません。最近は、横浜では一年中どこでも大道芸がおこなわれていますので(野毛の大道芸も年に2回おこなわれています)、見飽きた感じがなきにしもあらずなのです。

野毛の飲み屋街は、イベントの相乗効果で、いつもよりお客が多く集まっていました。路地のなかの店は、テーブルや椅子を店の前に出して、即席の”オープンテラス”のようにしていましたが、おそらく昔の野毛はこうだったんだろうと思うくらいどこも酔客で賑わっていました。

一方、吉田町のアート&ジャズフェスティバルでは、路上ライブのバンドが年々減っており、今年はひと組しか見当たりませんでした。そして、いつの間にか、ビアガーデンのようなものが通りの中心を占めるようになっていました。このように、アート&ジャズフェスティバルも、駅前のショッピングビルと同じで、当初のコンセプトから徐々に変質しているのでした。

でも、私はやはり、(何度も書いていますが)週末の夜の「祭りのあとのさみしさ」のような横浜のほうが好きです。繁華街のすぐ近くに、古い民家が連なる路地が幾重にも延びているのが横浜の街の特徴ですが、街灯が薄い影を落とし表通りとは違った空気が流れる、そんな路地を歩くのが私は好きです。

このブログではおなじみ平岡正明の『横浜的』(青土社)から野毛に関する文章を引きます。

 釣銭を受けとりながら、おや、雨だ、とつぶやくと、店のママが「こやみになるまで待ってらっしゃい」といった。うん、そうする。椅子に戻って背もたれごしに町をみているときにかかっていた曲が、ケニー・ドリューの、ピアノのスインギーなやつで、町のテンポよりはやい。さっと一雨きたのに、町のテンポはあんがいのんびりしている。これが港町の雨というものだろう。
 横浜は野毛がいい。このいい方は正確じゃないな、横浜にはいいところが多いが、土地っ子が集まる野毛には野毛のよさがある。場外馬券場があり、立ち呑みの酒屋があり、醤油味の飯屋があり、ベリー・コモの「バラの刺青」を流していたりするコーヒースタンドの近くに、講談の会の連絡所の古本屋があったりする。野毛は「横浜の日本人町」だ。



関連記事:
アート&ジャズフェスティバル
野毛
2016.04.24 Sun l 横浜 l top ▲
20160416_164229.jpg


九州で地震があった朝、多摩川の河原のグランドでは子どもたちがサッカーや野球などの試合をおこなっていました。グランドの脇では、応援に来た父兄たちが我が子に声援を送っていました。また、遊歩道では、ジョギングやウォーキングに励む人たちが引きも切らずに行き交っていました。それはいつもの週末の光景です。九州の地震なんて遠くの出来事にすぎないのです。でも、それは当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれません。

私も、午後からいつものように散歩に出かけました。伊勢佐木町に行くと、なにやら人盛りができていました。今日と明日、みなとみらいや伊勢佐木町などで、好例の「ヨコハマ大道芸」が開催されていたのでした。

山下公園も、大勢の人たちが心地よい海風を受けながら散策していました。芝生の上にビニールを敷いて、ピクニック気分でおしゃべりに興じているグループもいました。

赤レンガ倉庫に行くと、広場で「ホーリー横浜」という催しがおこなわれていました。なんでもインドの色かけ祭りだそうで、キャーキャー歓声をあげながら、食紅のようなものをお互いの身体に塗りあっていました。私の田舎の大分にも、かまどの炭を塗りあう祭りがありますが、あれとよく似ていました。

広場に設けられたステージの上では、「踊るマハラジャ」のようなインドの踊りが披露されていました。周辺には、インドの食べ物や雑貨の店なども出ており、広場は故国の文化をなつかしむインドの人たちで埋め尽くされ、彼らが放つ強い香水の匂いがあたりに充満していました。

一方、私は、そんなインド人たちを見ながら、不謹慎にも(?)もっとダイエットしなきゃと思ったのでした。インド人はメタボな人が多いのです。女性も20代の半ばをすぎると、腰回りがえらく大きくなってくるみたいです。たしかにインド料理は、炭水化物のオンパレードなのです。

何事もなかったかのようないつもの週末。みんな笑いが弾け、さも楽しそうでした。私は、バカボンのパパではないですが、「これでいいのだ」と思いました。少なくとも、元気を与えるとか元気をもらったなどとバカなことを言うより余程マシなのです。


20160416_181112.jpg

20160416_183338.jpg
2016.04.16 Sat l 横浜 l top ▲
20160406_183814.jpg


夕方から再び大岡川の桜を見に行きました。

桜木町で降りて、桜川橋から宮川橋、長者橋、旭橋、黄金橋、末吉橋、太田橋まで、1キロちょっと大岡川沿いを歩きました。桜はまだ満開に近い状態でした。川沿いの遊歩道は、勤め帰りの人たちでいっぱいでした。屋台で買ったおでんや焼き鳥などを橋の欄干に置き、缶ビールを片手に、花見酒をしている光景があちこちで見られました。

途中、都橋から宮川橋、長者橋にかけては、ソープやヘルスなど風俗の店が立ち並ぶ通りが並行して走っており、そのコントラストが如何にも横浜らしいなと思います。桜木町駅の反対側に屹立するみなとみらいの近代的でおしゃれなビル群と比べると、風俗街が隣接する大岡川沿いは、謂わば横浜の裏の顔と言えるのかもしれません。ただ、みなとみらいができる前は、こっちのほうが桜木町の中心だったのです。

太田橋からは大岡川を外れ、大通りを南下して坂東橋をとおり横浜橋商店街に行きました。なんだか”橋”ばかり出てきますが、港町の横浜にはかつて運河が縦横に走っていた関係で、公式な住居表示とは別に今も橋が付く”地名”が多いのです。

横浜橋からは伊勢佐木町を通って馬車道まで歩き、馬車道でみなとみらい線に乗って帰ってきました。帰って万歩計を見たら、1万2千歩歩いていました。


20160406_184812.jpg

20160406_190015.jpg
2016.04.06 Wed l 横浜 l top ▲
夕方、鎌倉に行った帰り、所用のため関内で途中下車したら、突然、ジャズの演奏がきこえてきました。昨日と今日の二日間、横浜は恒例のジャズプロムナードが開催され、市役所前で「街角ライブ」がおこなわれていたのです。

このブログでも何度かジャズプロムナードのことを書いていますが、最近はすっかり興味も失せ、開催中だということも知りませんでした。

見ると、照明もない薄暗いコンクリートの壁の前で、決して若いとは言い難いメンバーたちがスローな曲を演奏していました。秋の夕暮れにスローな曲というのは、それはそれで映えるのですが、しかし、私は、照明に汗がキラキラ光っているような激しい演奏を聴きたいなと思いました。今は亡き阿部薫のあの悲鳴のようなアルトサックスがなつかくしく思い出されます。そう言えば、阿部薫のLPを何枚かもっていましたが、あれはどこに行ったんだろうと思いました。

市庁舎の「街角ライブ」のすぐ近くでは、ホームレスの人たちが長い列を作っていました。これも夕刻の市庁舎前ではよく見かける光景ですが、ボランティア団体の炊き出しを待っているのか、あるいは横浜市が支給するドヤ券(宿泊券)やパン券(食事券)をもらうために並んでいるのでしょう。また、横浜スタジアムの前では、路上に空き缶を置き、コンクリートの上に正座して物乞いをしている男性もいました。

平岡正明は、『ヨコハマ浄夜』(愛育社)のなかで、1999年のジャズ・プロムナードの「横浜エリントン週間」について書いていますが、しかし、私が興味をもったのは、デューク・エリントンではなくベートーヴェンについて書かれたつぎの箇所です。

 ラジオから流れるドイツの交響曲を戦場で聴いていたのはドイツ兵だけではない。連合軍の兵も地下抵抗運動家も、市民も農民もだ。ドイツ第三帝国敗色濃厚なヨーロッパに慟哭粛々たる『英雄』第二楽章が流れる。
 「国家のために死んでも、国粋主義のために死んだのでは断じてあるまい。そういう《死》を慰藉してくれるものが『英雄』や『第七』『第九』にあったと思う。あの頃の日本の青春にベートーヴェンの<主としてシンフォニーが>果たしてきた役割を無視して、ぼくらにどんなベートーヴェンが語れようか。」(五味康祐『西方の音』)

平岡正明『横浜浄夜』所収・「ジャズ・プロムナード・横浜エリントン週間」


余談ですが、先の大戦では、日本においても230万人の戦死者が出たと言われています。しかし、その60%は戦闘死ではなく病死で、大半は餓死だったそうです。如何にあの戦争が無謀な戦争であったかということをこの数字は物語っていますが、日本の若者たちは、五味康祐が言うように、「国家のために死んでも、国粋主義のために死んだ」のでは「断じて」ないのです。そんな非業な「日本の青春」とベートーヴェンの交響曲の関係について、戦後生まれの私たちは知る由もないのですが、ただ人生のどんな場所にも音楽はちゃんと存在していたんだなとしみじみ思ったのでした。

高校時代、わけもわからず平岡正明の『ジャズ宣言』や『ジャズよりほかに神はなし』を読み、地元に唯一あったジャズ喫茶に通っていた頃、一方で私は、ジャズとは別に衝撃的な本に出会うのでした。それは、窮民革命論をとなえる竹中労が著した『山谷―都市反乱の原点』という本です。平岡正明は、『ジャズ宣言』のなかで、ジャズと暴力と革命は「腹ちがいの双生児」だと言っていましたが、ジャズや歌謡曲に「プロレタリアートの旋律」(井上光晴)を見るような独自の音楽論や、山谷や寿町や釜ケ崎や、あるいはパレスチナなどに視点を据えた、私たちの小市民的な日常を打ち砕くようなラジカルな革命論に、田舎の高校生の感性は、文字通り根底から打ち砕かれたのでした。

これは、『ジャズ宣言』の冒頭にかかげられた有名な一節です。

 どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい。ジャズがわれわれによびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである。あらゆる感情が正当である。感情は、多様であり、量的に大であればあるほどさらに正当である。感情にとって、これ以下に下劣なものはなく、これ以上に高潔なものはない、という限界はない。(略)
 われわれは感情をこころの毒薬にひたしながらこっそり飼い育てねばならぬ。身もこころも智慧も労働もたたき売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな。他人にあたえるな。

平岡正明『ジャズ宣言』(1979年増補版)


しかし、今やジャズは優雅な(?)老後をすごす団塊の世代の老人たちの手慰みものと化し、市庁舎前の「街角ライブ」のジャズの演奏に耳を傾ける人たちとその日の泊る場所と食べ物を確保するために行列を作る人々とは、まるで別世界の人間のように見えます。

この二日間は、横浜の至るところでジャズのコンサートが開かれており、そのコンサートをどこでも自由に見ることができるフリーパスを購入した人たちは、中国人観光客と同じように、胸に目印のバッチをつけているのですが、バッチをつけて通りを歩いているのは見事なほど老人ばかりでした。彼らは、市庁舎前の行列や寿町のうらぶれた光景は、まったく目に入っていないかのようです。かく言う私も、老後の不安に急きたてられせっせと年金保険料を納めていますが、しかし、「年金」に還元されない生の現実や『ジャズ宣言』が言うやつらに渡せない「感情」というのはあるでしょう。

辺見庸は、「かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども」と書いていましたが、聞けば、かつての全共闘運動の活動家たちも国会前のデモに参加して、SEALDsをさかんに持ち上げていたそうです。全共闘世代の「ジジババども」が40数年前に体験したのはその程度のものだったのかと言いたくなりますが、路上生活者たちの行列を一顧だにせずに、ジャズの演奏に老体をゆらしている「ジジババども」も同じでしょう。 

中上健次は、羽田で肉体労働をしながら小説を書いていた”修行時代”に、新宿のジャズ喫茶「ジャズ・ヴィレッジ」に通っていた頃のことをつぎのように回想しています。60年代後半のジャズが置かれた時代背景がよく出ているように思いますので、ちょっと長くなりますが引用します。

 その日から足を洗うまで五年間の生活の全てにジャズが入っていた。毎日、「ジャズ・ヴィレッジ」に通い、常連のチンピラ達と何をするでもなく一緒だった。めちゃくちゃな生活で、いわゆる今、流行の”限りなく透明に近いブルー”などではなく、ジャズの毎日は精液のように、一タブレットの睡眠薬の錠剤を噛みくだいて水で飲むその色のように白濁していた。私もそうだが、ジャズ・ヴィレッジの連中は、言ってみれば逃亡奴隷のようなもので、、ジャズを創りジャズを支えた黒人の状態に似ている。一世代遅れた埴谷雄高言う”ロックとファック”の時代には、そんなものはない。一つ通りの向こうのモダンジャズ喫茶店に、永山則夫が、ボーイとして働いていた。永山則夫が、連続ピストル射殺事件の犯人として逮捕されて、それを知った。もちろん、そのジャズ・ヴィレッジ界隈にうろつく者すべてが、永山則夫のように、家そのものが壊れ、家族がバラバラになり、貧困にあえいでいたのが、東京の新宿へ流出してきたという訳ではないはずだが、私にも常連にも、その後を振り返っても壊れた家があるだけだという形は、他人事とは思えなかった。(略)
 コルトレーンは、そんな聴き手のリアリティーに支えられて、コード進行から自由になり、音の消えるところまで行く。自由とは、疎外され抑圧され差別されることからの自由であり、ジャズの持つ黒人というアメリカのマイノリティの音楽という特性からの自由である。黒人という特性から出発して、特性から解き放たれる、と私はコルトレーンのジャズを聴きながら思ったのだった。
 特性からの自由、それは机上のものではなく、頭でだけ考えたものではない、切って血が出る自由である。コルトレーンのジャズを聴いて、音とは、文章と同じように肉体であると思った。

中上健次『夢の力』(1982年刊)所収・「路上のジャズ」


B級グルメやゆるキャラと同じようなまちおこしのコンテンツとしてのジャズではない、私たちの魂をゆさぶるような「路上のジャズ」はもう望むべくもないのでしょうか。

関連記事:
横濱ジャズプロムナード
中音量主義
2015.10.11 Sun l 横浜 l top ▲
身体を売ったらサヨウナラ


昨日の夕方、春節の中華街に行ったのですが、平日だからなのか、思ったほど人出はなく、通りの店を覗いてもどこか手持無沙汰な様子でした。と言っても、食事に行ったわけではありません。近くに用事があったので、ついでに華正樓に肉まんを買いに行っただけです。

人盛りができているのは、テレビの影響なのか、店頭で小籠包を食べることができるような店ばかりでした。観光客たちは、発泡スチロールの器に入った小籠包を箸でつつきながら、頬をすぼめて食べていました。

そのあとは、伊勢佐木町まで歩いて、有隣堂で鈴木涼美著『身体を売ったらサヨウナラ』(幻冬舎)を買いました。この本は売り切れになっている書店が多かったので、やっと買えたという感じでした。

平日の夕方、横浜の街を歩いていると、たしかに、巷間言われるように、横浜はおしゃれな娘(こ)が多いなと思います。どうしてかと言えば(身も蓋もない言い方になりますが)、自宅通勤の娘の割合が高いからです。つまり、可処分所得の高い女の子が多いからです。そして、若い女性の可処分所得が高い街は、これは名古屋なども同じですが、”デパート率”=「お買い物はデパート」の意識が高いという特徴があります。横浜の場合も、横浜そごうや業界で「横高」と呼ばれている横浜高島屋の存在は、傍目で見る以上に大きいのです。

『身体を売ったらサヨウナラ』の著者も、典型的な可処分所得の高い女性のひとりです。実家は鎌倉で、両親は大学教員で、明治学院高から慶応、さらに東大の大学院に進んだお嬢様。でも、元キャバ嬢で元AV女優で元新聞記者。

まだ読みはじめたばかりですが、フィールドワークの手法を宮台真司に学び、生き方の基本と文章の書き方を鈴木いづみに学んだようなこの本は、その速射砲のような文体と相まって、ひさびさに面白い本に出会ったという感じです。

『身体を売ったらサヨウナラ』は、つぎのような疾走感のある文章ではじまり、読者は冒頭から一発パンチを食らったような感覚になるのでした。

 広いお家に広い庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的な余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ、そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
 シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート、プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(略)
 でも、全然満たされていない。ワタシはこんなところでは終われないの。1億円のダイヤとか持ってないし、マリリン・モンローとか綾瀬はるかより全然ブスだし、素因数分解とかぶっちゃけよくわかんないし、二重あごで足は太いしむだ毛も生えてくる。
 ワタシたちは、思想だけで熱くなれるほど古くも、合理性だけで安らげるほど新しくもない。狂っていることがファッションになるような世代にも、社会貢献がステータスになるような世代にも生まれおちなかった。それなりに冷めてそれなりにロマンチックで、意味も欲しいけど無意味も欲しかった。カンバセーション自体を目的化する親たちの話を聞き流し、何でも相対化したがる妹たちに頭を抱える。
 何がワタシたちを救ってくれるんだろう、と時々思う。


それに対して、川崎の中学生が多摩川の河川敷でリンチされて殺された事件は、言うなれば可処分所得の低い世界の悲劇とも言えます。両親が離婚し、母親に連れられて隠岐の島からやってきた少年が、地元の少年たちの格好の餌食になったのは想像に難くありません。

今話題のピケティが言う「世襲型資本主義」による不平等のスパイラル(格差の世襲化)が、このような悲劇を生み出す遠因になっているのは否定しえない事実でしょう。アイパーとB系ファッション、コンビニの前のうんこ座りと夜の公園の花火、喧嘩上等・夜露死苦・愛羅武勇・愛死天流などバッドセンスなボキャブラリー、EXILEと安室奈美恵、キラキラネームに深夜のドンキ、「劣悪な家庭環境」というリアルな日常、学校に行きたくない、でも働きたくない、でもお金がほしい究極の生活観、「そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた」ような世界もまた、労働者の街の子どもたちのひとつの現実です。

縦に長い川崎は、「川崎の南北問題」と言われるように、ふたつの世界が南武線というバリアによって隔てられているのですが、一方、横浜は、黒沢明監督の「天国と地獄」で描かれたような丘の上と下という線引きはあるものの、ふたつの世界が混在しているのが特徴です。
2015.02.25 Wed l 横浜 l top ▲
2014年11月 3日3


夕方、横浜駅前の中央郵便局に行ったついでに、いつものように横浜駅からみなとみらい・関内を歩きました。

やはり、連休の最終日だからなのか、途中、横浜ベイクォーターやコスモワールドは大変な人出でした。そもそも一人で歩いている人間なんてほとんどいません。しかも、なぜか人波に逆らって歩くことが多いため、舗道を通りぬけるのさえひと苦労でした。

コスモワールドは、夜景はきれいなのですが、施設は期間限定の「暫定施設」なので、乗物や施設はショボくて、どことなく場末感が漂っています。ちなみに、みなとみらいにある2階建ての建物などは、ほとんどが期間限定の「暫定施設」です。最近、やたらと外車ディラーのショールームができていますが、それらも期間限定の「暫定施設」にすぎません。そして、そういった「暫定施設」が、なによりみなとみらいが「負の遺産」であることを物語っているのです。

舗道が歩きずらいので、コスモワールドのなかに入ったら、なかはカップルだらけでした。私の前を新垣結衣に似たかわいい娘(こ)が男の子と手をつないで歩いていました。おじさんは、新垣結衣のミニスカートからすらりと伸びた足に目が吸い寄せられ、目まいを起こしそうでした。どうやら二人はお化け屋敷に入るみたいで、お化け屋敷が近づくと、新垣結衣は隣の裾のほつれたズボンをはいた男の子に身を寄せながら、「怖いよォ~」と甘えた声を出していました。すると、サルのような顔をした男の子が、「大丈夫だよ」と言って人さし指と中指で新垣結衣のおでこをつついたのでした。それを見ていたおじさんは、「ふん」と鼻で笑い、二人をガン見すると、そそくさと追い抜いて行ったのでした。

象の鼻パークに行くと、「スマートイルミネーション横浜2014」というイベントの一環で、プロジェクターを使った「野外劇」がおこなわれていました。それは、隣接するビルの壁に映し出された人物が会話劇を演じる、奇妙で薄気味の悪いパフォーマンスでした。

横浜は、このようなアートの催しが多いのが特徴です。でも、どう考えても普段の横浜はアートなんてまったく似合いません。アートはあくまで観光客向けのイベントにすぎないのでしょう。素の横浜は、アートよりマンガ、ジャズよりヒップホップや演歌が似合うヤンキーの産地です。横浜では新垣結衣もヤンキーになるのです。そして、ハリボテの「暫定施設」やおつに済ましたアートなどとは関係ない、そんな素の部分にこそ横浜の魅力があるのです。


2014年11月 3日1


2014年11月 3日2

関連記事:
横浜の魅力
2014.11.03 Mon l 横浜 l top ▲
昨日、いつものように横浜駅からみなとみらい・馬車道・伊勢佐木町・桜木町・野毛をまわり、再び横浜駅まで戻りました。

私は、日曜日の夕暮れどきの横浜の街を歩くのが好きです。私は、運動会のときにの校舎の裏に行ったり、終着駅のある街や人里離れた山奥にある湖などを訪れるのが好きなのですが、日曜日の夕暮れの横浜の街にもそれらとどこか似た感覚があります。それは、祭りのあとのさみしさと似ています。そして、それが東京の街にない横浜の魅力なのです。

夕暮れの街を歩きながら、いつの間にか感傷的になっている自分がいました。ネオンの灯りに照らされた表通りとその横から薄暗い闇のなかに伸びている路地。そんな路地にいっそう寂寥感をかきたてられるのでした。

人生が露出した等身大の街。それは、生き方も生活もなにもかもが規格化された郊外の街にない魅力です。昔、「喜びも悲しみも幾歳月」というタイトルの映画がありましたが、そんな「喜びも悲しみも幾歳月」のような人生の風景がある街に、平岡正明は「場末美」を見たのでしょう。

途中、伊勢佐木町の有隣堂本店に立ち寄りましたが、いつの間にか有隣堂にも「嫌中憎韓本」のコーナーができていました。「有隣堂よ、お前もか」と言いたくなりました。ヘイト・スピーチにも「言論・表現の自由」があると考えているのなら、出版文化に携わる者としては失格と言わざるをえません。国連の「勧告」でも示されているように、自由の敵に自由を許すなというような考えも必要でしょう。貧すれば鈍するではないですが、今の書店に、その程度の見識を求めることさえ無理な相談なのでしょうか。最低限のモラルとして、「製造者責任」だけでなく「販売者責任」もあるはずです。

帰って万歩計を見たら、1万7千歩を歩いていました。

関連記事
野毛
2014.10.27 Mon l 横浜 l top ▲
2014年5月30日 031


ふと海を見たいと思い、夕方から大桟橋に行きました。こういった海辺の風景が身近にあるのが、なんと言っても横浜の魅力です。今日も「夏日」とかで暑い一日でしたが、埠頭に立つと海から吹く風が心地よく感じられました。

大桟橋の”くじらのせなか”でしばし海を眺めて時をすごしました。”くじらのせなか”のあちこちには、同じように飽くことなく海を眺めている人たちがいました。今日はなぜか若い女性のグループが目立ちました。

対岸に向かってカメラを構えていると、「すいません」という声が背後からするのです。うしろを振り返ると、若い女の子が立っていました。

「あのー、シャッターを押してくれませんか?」

見ると、若い女の子ばかりの4人連れです。

「いいですよ」
「じゃあ、これでお願いします」

そう言ってスマホを差し出すと、彼女たちはデッキの端に立ち、夕陽に向かっていっせいに両手を掲げ、そして両手を掲げたまま上半身を左のほうに傾けたのでした。いつもそうやって写真を撮っているのか、まるで申し合わせたかのように統制のとれたポーズでした。私は、彼女たちの背後からやや中腰の姿勢でシャッターのボタンを押しました。

聞けば、所沢から来た高校生のグループだそうです。「ありがとうございました!」とこれまた全員で統制のとれた挨拶をして、笑顔で去って行きました。

「若いっていいなぁ」

私は、その後ろ姿を見ながら、しみじみと思いました。もちろん、彼女たちにも苦悩はあるでしょう。でも、彼女たちには、その苦悩を背負うことのできる若さがあるのです。その若さが羨ましくてなりませんでした。


2014年5月30日 027

2014.05.30 Fri l 横浜 l top ▲

201442033.jpg


この季節になると、やはり桜を観に行かなければと思うのです。それは、半ば強迫観念のようなものです。

テレビの天気予報によれば、明日は雨と風が強く、この週末まで花がもつかわからないのだそうです。それで、いてもたってもいられず、夕方から野毛・福富町・長者町にかけての大岡川沿いの桜を観に行きました。目黒川か大岡川か迷ったのですが、目黒川だと帰りは帰宅ラッシュの電車に乗らなければならないので、大岡川のほうに決めたのでした。

途中、屋台でタコ焼きや鶏肉の団子のような揚げ物のなんとか焼きを買って、橋の欄干にそれを置き、飲めないビールを飲みながら、しばし川沿いの桜を眺めてすごしました。まわりでも会社帰りのサラリーマンやOLたちが同じように欄干にツマミを並べてささやかな酒宴をひらいていました。そんな光景を見るにつけ、やはりみんな桜が好きなんだなと思いました。

そのあとは、おなじみ野毛の「萬里」で、海老チャーハンと餃子を食べて帰ってきました。

>> 「萬里」の「19番」


201442152.jpg

201442145.jpg

201442171.jpg

201442159.jpg

201442024.jpg
2014.04.02 Wed l 横浜 l top ▲
2014年1月13日1


連休最後の夜。変な話ですが、食事を兼ねて散歩に出かけました。新横浜まで歩いて、新横浜で中華を食べ、食事のあとは市営地下鉄で桜木町へ。桜木町からはいつものように汽車道、万国橋、海岸通り、関内、伊勢佐木町、坂東橋、黄金町、初音町、日ノ出町をまわって、再び桜木町に戻ってきました。そして、馬車道からみなとみらい線に乗って帰ってきました。都合1万7千歩の散歩でした。

みなとみらいや伊勢佐木町を除くと、休日の夜の横浜の街は人通りも少なく、寂寥感さえ覚えます。平岡正明は、それを「場末感」と呼んだのですが、それが横浜の街の魅力でもあるのです。

今日は成人式だったので、桜木町駅は、色鮮やかな振袖姿の女の子が目に付きました。そんな賑やかな駅を背に、私は繁華街とは逆の方向に歩いて行きました。目の前にまっすぐに伸びている人通りの絶えた舗道を進んでいると、なんだか引き返すことのできない片道切符の道を歩いているような気持になってきます。

田舎の友人から届いた年賀状には、誰々がビルの階段から転落して救急車で運ばれたとか、誰々が脳梗塞で倒れたとか、誰々が腎臓の手術をしたとか、誰々が大腸の手術をしたとかいった、同級生の話が書き記されていました。また、別の友人の年賀状には、只今ガンの治療中だと書いていました。

私の田舎では、「後ろをふり返る」とは言わずに「あとをふり返る」と言うのですが、歩け、歩け、あとをふり返らずに歩け、そう自分に言い聞かせながら歩いているような感じでした。そのうち散歩することさえ苦行になってくるのでしょう。だから、いまのうちにできる限り遠くまで歩いて行きたいと思うのでした。


2014年1月13日2

2014年1月13日3
2014.01.13 Mon l 横浜 l top ▲
2013年11月7日 002


別にラーメン好きというわけではないのですが、なぜか急に大分のラーメンが食べたくなりました。

ネットで調べたら、伊勢佐木町の近くに大分ラーメンの店があるというので、夕方から散歩がてら出かけました。

しかし、残念ながら期待外れでした。やはり違うのです。こっちでホンモノの味を求めるのは無理なのかもと思いました。

道路の反対側では、某有名ラーメン店の開店を待つ人たちの行列ができていました。私は、並んでまでラーメンを食べたいとは思いませんが、あの人たちってホントにラーメンの味がわかっているんだろうかと思いました。

ホテルやデパートの食材偽装の店だって、食通と称する人たちが「やっぱりファミレスとは違うわ」とかなんとか言いながら、歯に挟まった肉の切れはしを爪楊枝でほじくるのを我慢して、さも満足そうに蘊蓄を傾けていたのかもしれませんが、なんのことはないファミレスや牛丼屋と同じだったのです。なかにはミシュランガイドで星を獲得した店もあったそうですから、ミシュランもいい加減なものです。

回転寿司にしても、何千万円も出してマグロを買いつけ、店頭で解体ショーを行ったりして”ホンモノ度”をアピールしていますが、しかし実際に出されているのは、ほとんどが「もどき」の魚ばかりだそうです。「やっぱり今の時期のカンパチはうまいな」なんて言ってるサラリーマンのお父さんは、正確には「やっぱり今の時期のカンパチもどきはうまいな」と言うべきなのです。

ラーメンを食べたあと、日の出町から野毛、そして、みなとみらいに寄り、本などを買って、さらに横浜駅まで歩きました。

季節のせいもあるのでしょうが、夕暮れどきの横浜の街っていいなとしみじみ思いました。街中でも住宅地と接近しているので、食べ物屋に入っていても、近くに住んでいる人が普段着でふらりとやって来る、そんな雰囲気があります。それは、東京の都心では決して味わえない雰囲気です。

そして、それがまた街の雰囲気にもつながっているように思います。東京のように人でごった返していることがないので、歩きながらいつの間にか自分の世界に浸っている自分がいました。そして、なんだかなつかしいようなせつないような気持になっているのでした。年取ってもう一度同じ街を歩いたら、きっと泣くだろうなと思いました。

みなとみらいでは、既にクリスマスツリーが飾られていました。


2013年11月7日 013

2013年11月7日 016

2013.11.07 Thu l 横浜 l top ▲
2013年8月12日 009


横浜駅の西口のそごうに買い物に行ったついでに、ベイクォーターからみなとみらいの象の鼻パークまで散歩しました。

ちょうど夕方の5時すぎでしたので、3階のテラスにあるビアガーデンは、勤め帰りのサラリーマンやOLたちで行列ができていました。でも、上の4階や5階のテラスにも似たような飲食の店はあるのですが、にぎわっているのは3階のビアガーデンだけで、あとは閑散としていました。もっとも、盆休みということもあるのか、ベイクォーターのショップはどこも閑古鳥が鳴いていました。

横浜駅からベイクォーターはすぐですが、でも実際に行くとなると非常にわかりにくくて苦労します。これはベイクォーターに限らず、横浜の街自体がそうで、初めて来た人は戸惑うだろうなと思います。実際に途方に暮れた感じで案内板を見ている、観光客とおぼしき人たちをよく見かけます。

たとえばベイクォーターからみなとみらいに行くにはどうすればいいのか。あるいは、みなとみらい線のみなとみらい駅で下りても、そこから赤レンガ倉庫や山下公園に行くにはどうすればいいのか。地元の人ならわかるでしょうが、初めて横浜に来た人は途方に暮れるのではないでしょうか。

みなとみらいや赤レンガや山下公園や中華街や馬車道や伊勢佐木町や桜木町や野毛や元町や山手など、地名は有名なので知っているかもしれませんが、それらをくまなくまわるとなると至難の業です。

前にこのブログでも書きましたが、関内あたりは人も少ないし、それに威圧するような高いビルもないので、なんだかヨーロッパの街に似た雰囲気があり、私はあのあたりをぶらぶらするのが好きです。それは東京の街にはないものです。

そういった雰囲気を押す視点があっていいように思いますが、最近の横浜は、逆にそんな”横浜らしさ”から目をそらそうとしているような感じさえあります。

昨日、横浜市長選挙が告示されましたが、横浜市長選が結局”茶番”になってしまったのは、(私も市民のひとりなのであまり偉そうなことは言えませんが)やはり市民の力が弱いからでしょう。

市議会議員の木下よしひろ氏が、サイトに掲載している「横浜市の借金時計」によれば、平成24年度末の横浜市の一般会計の市債残高は、2兆4495億1127万4千円、特別会計・企業会計を合わせた全会計の市債残高は、4兆4430億6228万3千円だそうです(いづれも見込み額)。

一方、横浜市が発表した平成22年度(確定)の財政収支は、歳入は1兆3992億5100万円、歳出は1兆3796億9900万円で、57億1800万円の黒字ですが、ただこのなかには、1234億3300万円のあらたな市債の発行が含まれているのです。つまり、収入の4倍近くの借金を抱えながら、今なお借金は増えつづけているのです。

にもかかわらず、職員の給与は全国でもトップクラスです。職員数は、人口比から言っても決して多くなく、むしろ少ないくらいです。しかし、給与に関しては、下記の「参考」にあるように、「ラスパイレス指数」で見ると、高いレベルであることは否定できません。そして、2010年度は「ラスパイレス指数」が全国一になったのでした。

参考:
①平成24年度の横浜市の平均月額給与(総務省発表)
指定都市のラスパイレス指数の状況
指定都市別ラスパイレス指数等の状況
②横浜市総務局労務課が公表した平成24年度の平均給与年額
横浜市の給与・定員管理等について

6月の市議会で、7月1日から来年3月まで、市長・職員の給与及び議員報酬を減額する条例案(市長・副市長は13%、職員は役職に応じて3.79~8.79%の減額)が可決されましたが、ただそれは、東日本大震災の復興財源にあてるため国家公務員の給与を7.8%引き下げたのに伴ない、政府が地方公務員の給与引き下げを要請したことに応じたものです。あくまで来年3月までの期間限定にすぎず、横浜市独自のものではないのです。

もちろん、市関係4労組(自治労横浜・横浜交通労組・横浜水道労組・横浜市教職員組合)が自分たちの既得権益を守ろうとするのは、労働組合として当然です。給与が高いのも闘いの成果で、彼らにとっては誇るべきことでしょう。また、言うまでもないことですが、”財政危機”の責任は、市職員にあるわけではないのです。市政をつかさどる行政と議会、それに私たち市民にあるのです。

要は、横浜市の現状に対して、納税者である市民がどう考えるかです。市民税や国民健康保険料など、市民への負担ばかりが優先されていますが、ゴミ収集の民間委託や新庁舎の建設や膨大な負債を抱える第三セクターの整理や市職員の天下りやワタリの問題など、課題はいくらでもあります。それは右も左も関係ありません。もっと喧々諤々の議論があっていいはずなのに、市民の声がまったく聞こえてこないのです。その結果が、今の緊張感の欠けた”オール与党体制”になっているのではないでしょうか。横浜は、このように市民の意識もイナカだと言わざるを得ないのです。

帰って万歩計を見たら、1万5千歩を越えていました。


2013年8月12日 012

2013年8月12日 015

2013年8月12日 039

2013年8月12日 048

>> 関内あたり
2013.08.12 Mon l 横浜 l top ▲
晩秋の横浜201201

横浜駅の西口に用事があったので、そのあと、東口にまわって日産自動車の本社を通り、旧ジャックモールから、みなとみらい、汽車道、山下公園、伊勢佐木町、野毛、桜木町、再びみなとみらいのルートを歩きました。

先週のはじめ、元町に用事があって行ったときは、山下公園のイチョウもまだ青いままでした。ところが、今日行くと、黄色く色づいていました。わずか1週間でこんなに変わるんだと思いました。季節の移り変わりはホントにはやいです。

私は、この季節の横浜がいちばん好きです。平岡正明氏が言うように、やはり横浜は場末感が似合います。クリスマスもそうですが、東京のように華やかではないし、人も多くないので、それが逆に寂寥感漂うロマンチックな雰囲気をかもし出しているように思います。

みなとみらいのランドマークプラザを歩いていたら、「横浜の恋と、ユーミンと。」というポスターが目につきました。しかも、「お買い物を楽しんでください」とかなんとか、ユーミンの声が館内に流れているのです。とうとうユーミンもここまで落ちぶれたのかと一瞬思いましたが、実は今日は、デビュー40周年を記念したベストアルバム「日本の恋と、ユーミンと。」が発売された日だったのです。ランドマークタワーでは、それに関連してユーミンのステージ衣装などが展示された催しも行われているそうです。そして、来週からプロコル・ハルム(なつかしい!)とのツアーもパシフィコ横浜を皮切りにはじまるそうで、どうやらそのキャンペーンだったみたいです。

街路樹が裸になり、舗道から落葉が消えると、いよいよクリスマスの季節です。クリスマスのイルミネーションの時期になると、なんだか街がいっせいに着飾ったようで、いつもとは違うよそ行きの顔になるのです。年をとると、そんなクリスマスからも疎外される感じがありますが、でもいつまでもしがみついていくぞと思っています。グループで街に繰り出して、まわりの目もなんのその、クリスマスムードをわがものにせんとするあの中高年女性たちの強欲なパワーを少しは見習ったほうがいいのかもしれません。

晩秋の横浜201202

晩秋の横浜201203

晩秋の横浜201204

晩秋の横浜201206

晩秋の横浜201207

晩秋の横浜201217

晩秋の横浜201208

晩秋の横浜201209

晩秋の横浜201210

晩秋の横浜201211

晩秋の横浜201213

晩秋の横浜201216

晩秋の横浜201218
2012.11.20 Tue l 横浜 l top ▲
2012年8月21日01

ダイエットはいっこうに進んでいません。3キロくらい減ったのですが、その後、一進一退をくり返しています。もっとも、以前のように熱が入っていませんので、それも当然ですが。

今日もふと思いついて、夕方から散歩に出かけました。なんと10日ぶりくらいの散歩でした。定番の大桟橋から赤レンガ界隈を歩きました。

大桟橋に向かっていると、海からの風に乗って潮の香りが漂ってきました。なんだか子どもの頃の別府の海を思い出しました。最近、『絵はがきの別府・古城俊秀コレクションより』(松田法子著・左右社)という本を買ったばかりなので、なにかにつけ別府のことが思い出されてならないのです。

この『絵はがきの別府・・・』は感涙ものでした。郷愁をそそられるにはあまりある本です。以下は、Amazonで紹介されている「内容」です。

古城俊秀コレクション…大分萩原郵便局局長を務めた古城俊秀氏による驚くべき絵はがきコレクション。明治末期から昭和初期、絵はがきの黄金時代に発行されたはがきから、大分に関するもの、各種交通機関、干支、こどもの遊びなどのテーマで収集され、総数はおよそ6万枚にもおよぶ。本書では別府の近代をテーマに都市史専門家の手で厳選された、資料的価値、図案の巧みさ、色彩の美しさに優れた600枚をはじめて公開する。ひとつの都市の近代史が、表情豊かな写真絵はがきから甦るさまが驚きとともに感じられるだろう。
(「BOOK」データベースより)


大桟橋では、しばらく夕闇に沈む海を眺めました。「くじらのせなか」には、同じように海を眺める人たちが集まっていました。こういった光景が身近にあるというのが、横浜の魅力です。

夏の夕方、海辺の町に行くと、近所の人たちが防波堤にすわって、おしゃべりに興じながら海を眺めている光景によく出くわしますが、横浜にも似たような光景があるのです。潮の香りとともに、すごくなつかしい気持になりました。

何度も同じことをくり返しますが、思えば遠くに来たものです。こうしてひとりで横浜の海を眺めているのも不思議な気さえします。

2012年8月21日02

2012年8月21日03

2012年8月21日04

2012年8月21日06

2012年8月21日07
2012.08.21 Tue l 横浜 l top ▲
693

この時期は、テレビの通販番組などでもやたらダイエット商品の特集が多くなりますが、薄着の季節になると、男性でも体形が気になるものです。特に上着を脱いだときの腰まわりが気になって仕方ありません。

久しぶりに体重計に乗ったら、案の定、6キロオーバーでした。6キロならまだ引き返せる。そう自分に言い聞かせて、再び三度、いや六度目か七度目ですが、ダイエットをはじめることにしました。

今回もライティングダイエットをやろうと思います。今までの経験上、いちばん効果があったからです。もしかしたら、ライティングダイエットは私の性格に向いているのかもしれません。

当然、運動も必要ですが、最近、忙しさにかまけて散歩もご無沙汰でした。それで、今日は病院に行ったついでに、定番のみなとみらい界隈を散歩しました。

病院では半年ごとの検査の結果の説明を受けたのですが、数値は正常で、先生も「薬が非常に効いていますね」と言ってました。ただ、月に1回の通院は今後もつづけてください、と釘を刺されました。

ここ数年、病院通いをはじめてからのおなじみのセリフですが、検査の結果が良好だと心も晴れやかです。病院のあとは市営地下鉄で関内に行って、夕暮れの街を山下公園まで歩きました。さらにいつものコースで、山下公園から遊歩道を通って赤レンガ倉庫・汽車道、そして横浜駅まで歩きました。帰って万歩計を見たら、2万歩を超えていました。

最近は都内に出ることが多いのですが、こうして久しぶりにみなとみらい界隈を歩くと、やはり海っていいなと思います。海辺の風景というのは心が落ち着きます。横浜にはいろんな顔がありますし、横浜は間違っても「おしゃれな街」なんかではありませんが、ただ海に近いというのが横浜の魅力であることはたしかです。特に今は潮風を受けながら散歩するにはいい季節です。

722.gif

739.gif

746.gif

785.gif

800.gif

806.gif

821.gif

831.gif

961.gif


2012.05.14 Mon l 横浜 l top ▲
このあたりは都市計画法で第一種住居地域に指定されていて、商業施設の面積が細かく規制されているのですが、なぜか今月4000平米を超える大型スーパー(スーパーと医療モールとドラッグストアからなる複合施設)がオープンすることになりました。

オープンに至る経緯については、「ライフ大倉山店建築計画を解剖する」という秀逸なサイトに詳しく書かれていますが、たしかに、近所にスーパーができれば、わざわざ駅の近くに行かなくて済むので便利です。それに、食品スーパーが必要だというのも理解できないわけではありません。しかし、周辺の道路事情を考えると、駐車場付きの大型スーパーなんてホントに大丈夫なんだろうか、「無謀」じゃないか、と思わざるを得ません。

それに、最初に計画したスーパーは却下されたのに、どうして今のスーパーがOKだったのかという疑問もあります。さまざまな噂も流れていますが、過酷な競争のなかにある企業が、生き残りをかけて新しい市場を開拓するのはある意味で当然で、そのためにはどんな手段だって(どんな政治力だって!)使うでしょう。要は、それに対して、地元がどういう姿勢で臨むかではないでしょうか。

何度も同じことを言いますが、大倉山にはいい素材があるのに、どうしてわざわざこのような「ファスト風土化」を選択しなければならなかったのかと思います。この件では、横浜市の事なかれ主義もさることながら、まちづくりに対する商店街や住民たちのポリシーのなさが、はからずも露呈したように思えてなりません。大倉山出身の建築家・隅研吾氏は、清野由美氏との対談『新・ムラ論TOKYO』(集英社新書)のなかで、「二十一世紀に町を再開発するなら、まず道路を『敵』にする発想が絶対に必要です」と言ってましたが、どうしてそんな発想が生まれなかったのでしょうか。近隣のほかのスーパーでも問題になっているようですが、どこにでも車で行かなければ気が済まないような”イタい人”たちに迎合して、どんなまちづくりができるんだと思います。

同じ東横線沿線でも元住吉などは、個人商店ががんばっていて、すごく魅力のある商店街になっています。地元の食品スーパーが大手のスーパーに伍してがんばっている姿を元住吉では見ることができます。隣の日吉からも買物に来るそうですが、それもよくわかります。そのいちばんの要因は、駅前の道路を日中通行止めにして買物客を優先しているからです。それこそ「道路を『敵』にする発想」と言うべきでしょう。

「便利になるからいいじゃないか」「反対するやつはなんでも反対するんだ」と言うのは、原発と同じで、(宮台真司の受け売りですが)丸山真男が言う「作為の契機の不在」です。水は低いほうに流れるではないですが、悲しいかな、そうやってほとんどなにも考えなくても済むような(考えようともしないような)、自明性や二者択一論のわかりやすさや長いものに巻かれろの事大主義といった「作為の契機の不在」の空気に流されるのが現実なんだな、としみじみ思いました。
2012.03.06 Tue l 横浜 l top ▲
春節20124

今日は旧暦の元日だそうです。祖父母がまだ健在だった子どもの頃、祖父母の家では旧正月の前に餅つきをしていました。私の田舎では大晦日に「年取り」といって、一家が揃ってご馳走食べる風習があるのですが、旧暦の大晦日も祖父母の家では「年取り」をやっていました。子どもの私は正月が二度あるのが不思議でなりませんでした。また、祖父母は「数え年」で、実際より1つか2つ多く年齢を数えるので、それも混乱するばかりでした。

中国では旧正月のことを春節と言うのだそうです。それで、病院に診察に行ったついでに、中華街まで足をのばしました。さすがに旧正月の中華街は人も多く賑わっていました。首都圏の中国人たちも春節を祝うためにやってきているようで、いたるところで中国語が飛び交っていました。キンキラキンの成り金趣味の中国人は別ですが、一般の中国人は、ちょっとあか抜けない身なりや特徴ある髪型で、ひと目で中国人だとわかります。(余談ですが、中国人旅行客はどうしてみんなスポーツウェアなのでしょうか? この時期は決まってダウンジャケットだし)

そんなふるさとの正月情緒を求めてやってきた中国人の家族が、年に一度奮発して豪華な卓料理を囲んでいるのをみるにつけ、別に中国人に借りも義理もないけれど、なんだか胸が熱くなるものがありました。広島刑務所を脱獄した李国林受刑者の原点は、中国残留孤児二世らが江東区で結成した不良グループ「怒羅権(ドラゴン)」だそうですが、たしかに歌舞伎町や池袋西口などでは、金のブレスレットをチャラチャラいわせながら肩で風をきってのし歩き、青龍刀をふりまわすような、どうしようもない中国人がいるのも事実です。しかし、多くは異国の地でハンディを背負いながら、ささやかな夢と希望を胸に、歯を食いしばってがんばって生きているのだと思います。中華街に響き渡る春節のドラの音は、そんな中国人たちを励ましているようにも聞こえました。

今日は中華街では、「採青(さいちん)」という正月行事がおこなわれていました。要するに、日本で言う獅子舞のようなものです。詳細はつぎのサイトをご覧ください。http://www.chinatown.or.jp/agenda/event/984

「採青」がおこなわれている店の周辺は大変な人ざかりで、写真を撮るのも苦労するほどでした。ちょうど横ではNHKの腕章をつけたカメラマンが脚立の上に乗ってカメラをまわしていました。

春節20122

春節20123

春節20125

春節20126

春節20127
2012.01.23 Mon l 横浜 l top ▲
DSC00039.jpg

サラリーマンではなくてもたまには日曜日らしいことをしようと、夕方から桜木町に食事に行きました。そして、ついでにいつものようにみなとみらい界隈を散歩しました。最近は忙しくて散歩もご無沙汰していましたので、帰ったらくたくたでした。ちなみに万歩計は1万5千歩を超えました。

最近、デジカメを流行りのミラーレスの一眼レフに買い換えたものの、まだ一度も使っていませんでしたので、試し撮りも兼ねて写真を撮りまくりました。しかし、カメラは変われど写真は同じで、いつも同じような写真ばかりで芸がないなと自分でも思います。

休日の横浜は、カップルと家族連ればかりですが、カップルを見てもうらやましいと思うような女の子はひとりもいませんでした。先日発表された電通の調査結果では、23才~49才の独身女性のうち7割は彼氏がいないそうですが、別に恋なんてしなくてもいいのではないでしょうか。私のまわりでもそうですが、今は「いい女」ほど恋をしないのです。

先日の『週刊新潮』(12/8号)のインタビュー記事では、新潮社の作家タブーをいいことに、阿部和重と川上未映子が思い切りバカップルぶりを発揮していましたが、あれじゃ『すべて真夜中の恋人たち』のような薄っぺらな恋愛小説しか書けないわけだと納得できました。

休日の横浜で愛を語るカップルや芸能人気取りの芥川賞カップルなんかより、私は、深夜の寝静まった病室の薄明かりの下で、一心に藤枝静男の『悲しいだけ』を読んでいた老人や、目尻から一筋の涙を流しながら、病床でふるさとの思い出を語っていた老人のほうが興味があります。

クリスマスムードに彩られたみなとみらいのなかを歩きながら、私は、”生きる哀しみ”ということを考えました。もし神様がいるなら、せめてクリスマスのときだけでも、神様はそんな哀しみに寄り添いともに涙を流し慰めてもらいたいなと思います。切にそう思います。

DSC00051.jpg

DSC00059.jpg

DSC00075.jpg

DSC00106.jpg

DSC00142.jpg

DSC00146.jpg

DSC00202.jpg

DSC00255.jpg

DSC00346.jpg

DSC00428.jpg


DSC00476.jpg
2011.12.18 Sun l 横浜 l top ▲
横浜ジャズプロムナード3872

今、横浜では三年に一度の現代美術の祭典「横浜トリエンナーレ2011」が開催中です。また、昨日と今日は恒例の「横濱ジャズプロムナード2011」も開かれていました。

”素顔の横浜”からみれば、こういった文化的な催しはとても似あいませんし、実際に横浜市民のほとんどは無関心です。これらはあくまで観光客目当ての催し物なのです。

私たちが抱く”素顔の横浜”は、相鉄線沿線や京急沿線のブルーカラーの色彩の濃いイメージのなかにあります。言うなれば、現代美術よりマンガ、ジャズよりヒップホップ、ジモトとヤンキーといったイメージです。私は「それでいいのだ」と思いますし、個人的にはそっちの方が興味があります。そういった横浜がもっているディープ感は、前に住んでいた埼玉にもないものです。いわば、ホンモノの(年季の入った)ディープな街といったイメージが横浜にはあるのです。にもかかわらず、どうしてあんなにお上品ぶりたがるのでしょうか。

平岡正明氏は、横浜はジャズが似あう街だと常々言ってました。「横濱ジャズプロムナード」も野毛の大道芸などと同じように、平岡さんのプロパガンダの賜物なのかもしれません。しかし、そこにあるのは、あくまで外ズラの(営業用の)横浜なのです。

本町の港郵便局に行ったついでに、馬車道とイセザキモールで行われていた街角ライブをみました。正直言って、アマチュアの演奏には興味がありませんので、アマチュアだったらパスしようと思っていたのですが、馬車道では学生とプロのセッションが行われていましたし、イセザキモールはプロのフュージョンのバンドが演奏していました。ただ、途中、近所の店から音が高すぎるとクレームが出たらしく、バンドのメンバーも「やりくにいですね」と嘆いていました。街をあげての催しじゃないのかと言いたかったけど、一方で、ホントはジャズなんかには関心のない横浜(商店街)の本音を垣間見たような気がしました。

聴衆は圧倒的に中高年の人たちでした。団体客なのか、あるいは通し券をもった目印なのか、胸にワッペンをつけている人を多くみかけましたが、ひとりの例外もなく中高年のおっさんとおばさんでした。そのうちジャズも敬老会の演目になるのかもしれません。

ただ、連休ということもあってか、人出は多く、関内あたりもいつになく賑わっていました。そのあと、みなとみらいのランドマークプラザのくまざわ書店に行ったのですが、みなとみらい周辺も人でいっぱいでした。クィーンズスクエアでも、ジャズの演奏が行われていましたが、アマチュアのバンドだったので写真だけ撮って帰ってきました。

横浜ジャズプロムナード3863_edited
関内ホール前(馬車道)

横浜ジャズプロムナード3876
イセザキモール

横浜ジャズプロムナード3887
汽車道

横浜ジャズプロムナード3897
大道芸(グランモール公園)

横浜ジャズプロムナード3906
スヌーピー(クイーンズスクエア)

横浜ジャズプロムナード3911
クイーンズスクエア

>>中音量主義
2011.10.09 Sun l 横浜 l top ▲
郵便局に行かなければならない用事があったのですが、ついでに散歩をしようと思って、電車に乗って本町の横浜港郵便局に行きました。みなとみらい線の「日本大通り」で下車すると、港郵便局はすぐ近くです。このあたりは、県庁をはじめ地方裁判所や県警本部やハローワークや日銀などが集まった、いわば横浜の官庁街であり中心地です。もっとも地図でみると意外に狭くて、せいぜい300~400メートル四方くらいで、そのなかに本町・北仲通り・海岸通り・元浜町・大田町・相生町などの地名が入っているのです。そして、まわりを桜木町や伊勢佐木町や元町(石川町)などに囲まれていて、これがいわゆる「関内」と呼ばれる地域です。

関内は、このように住居表示が非常に細かく町の数が多いので、逆にわかりにくい面があります。しかも、目印になるような道路や建物がないため、ときに方向感覚を失うことがあり、休日などは、観光に来たとおぼしき人たちが、道に迷って戸惑っている姿をよくみることがあります。

郵便局で用件を済ませたあと、関内周辺を目的もなく歩きました。今日は山下公園や赤煉瓦倉庫やみなとみらいはあえて外しました。日曜日は人が多くて歩きにくいからです。中華街や元町をぬけるときも、人の通りが少ない裏道を選んで歩きました。

歩いていると、やたら若いカップルとすれ違うのですが、それも横浜の特徴です。「横浜」というイメージに、やはり若いカップルはあこがれるのでしょうか。

途中、寿町も通りました。そこは、若いカップルとはまるで違う世界がありました。寿町で目に付くのは、路上駐車の車とゴミの山とドヤ(簡易宿所)の前の自転車です。昼間から酔っぱらって通りをウロついている人がいるのも相変わらずですが、しかし、昔と比べたら通りに出ている人は少なく、しかも高齢の人が目立つようになりました。それになんといっても、殺気立った雰囲気がなくなりました。周辺にはマンションやテナントビルが押し寄せていますので、寿町もますます肩身が狭くなりたそがれていくのだろうと思います。

しかし、もちろんドロップアウトする人たちが減るわけではありません。ただ、寿町のような簡易宿所が自然発生的に一ヶ所に集まるような街(ドヤ街)の形態がなくなるというだけです。そうやってドロップアウトした人たちは街に拡散して行き、私たちの目から見えなくなるのです。

先日、生活保護の受給者が200万人を超えるようになったことで、財政負担の増大に悲鳴をあげている地方自治体と厚労省が、生活保護制度の抜本的な見直しに向けて協議をはじめたという記事がありました。そして、そこでも医療費などと同じように、「総額抑制」論が前面に出ているのです。都市部では、最低賃金や基礎年金との”逆転現象”が出ていることをあげて、如何にも生活保護が「めぐまれている」かのような言い方がされるのですが、それはただ最低賃金や基礎年金がもともと生活できないくらい低いからにほかならなりません。また、働く意欲のない人間は3~5年で給付を打ち切るという案も出ているようですが、そういった”裁量”を役所に与えると、それこそ血も涙もないお役所仕事に転化するのは目にみえています。その記事には、「働かざる者食うべらからず」という見出しが付いていましたが、「食うべからず」ということは「死ね」ということなのか、と言いたくなりました。

先日も寿町近くで生活している受給者の住まいを尋ねて話を聞く機会がありましたが、こんなところがあったのかと思うようなタコ部屋のようなアパートで、正直言って、「みじめ」と言ってもいいような生活ぶりでした。陰でベンツに乗っているような人間が、なぜか公営住宅に住み生活保護を受給している極端な例を持ち出して、生活保護は「不労所得」「怠け者の巣」のように言う人もいますが、それは「強いものには下手に出て、弱いものには居丈高な態度に出る」小役人の習性で、強面の要求を断ることができなかった窓口に問題があるだけの話です。

今の世の中をみるとき、生き方が下手な人や身体が弱い人や知的障害のある人や家庭的にめぐまれず満足に学校に行けなかった人などにとって、かなりしんどい社会であることは事実でしょう。また、失業や離婚や病気など人生のアクシデントによって、経済的に困窮する状態に陥る人だっているでしょう。そんな人たちが最低限の生活を維持するために制度を利用するのは、憲法で保障されている国民の権利なのです。にもかかわらず、制度を利用する人が多くなったので締め付けをして制限すればいいというのは、まさに本末転倒した話だと思います。それこそいちばん政治や行政の手が必要な部分ではないでしょうか。だったら、行政・議会・組合がタッグを組んで、地方自治を食いものにしている現状をどうかする方が先ではないか、と言いたくなります。

相互扶助の精神ではなく、いたずらに損得勘定や嫉妬心や差別心などの俗情を煽るような政治というのは、宮台真司風に言えば、「依存と統制」の政治の最たるものだと言えます。生活保護受給者が親しき隣人であり、明日はわが身かもしれないという想像力が、今の世相には決定的に欠けているように思います。だから、こんなタチの悪い政治が跋扈することになるのでしょう。

そんなことを考えながら、たそがれていく寿町のなかを歩きました。

>>ワーキングプア
2011.08.07 Sun l 横浜 l top ▲
篠原八幡神社_3853

郵便局に行ったついでに、菊名から新横浜の篠原口まで歩きました。菊名駅の南側の錦が丘という住宅街をのぼっていくと、丘の上から篠原北町という住居表示に変わります。そして、丘を越え迷路のように入り組んだ道を下ると新横浜駅の篠原口に出るのです。もっとも、遠くに見える新横浜のビル群を目印に下っていけばいいので、方向さえ間違わなければそう道に迷うことはありません。

横浜はどこもそうですが、丘が連なるこのあたり一帯も、見事なほど宅地造成され住宅地が広がっています。丘の上にはアパートもありますが、駅からだと15分も20分も坂道をのぼらなければならないし、近所には店もないし、夜道は物騒な感じだし、よく借りる人がいるなと思いますが、なぜか結構人気があるのだそうです。月極めの駐車場も1万5千円くらいするそうで、そんなに安くはないのです。

丘のちょうど突き当りに、鎮守の森の名残のような木々に囲われた篠原八幡神社がありました。境内では作業着姿の年老いた男性がひとり草むしりをしているだけで、ほかに人の姿はありませんでした。

篠原八幡神社は、無病息災の霊検あらたかな神社だそうで、私も一度お参りしたいと思っていましたので、やっと念願が叶った感じでした。静謐な空気が流れるなかで、パンパンと柏手を打つと、やはり凛とした気持になるものです。

今、NHKブックスの『「かなしみ」の哲学-日本精神史の源をさぐる』(竹内誠一著)という本を読んでいるのですが、そのなかで、綱島梁川の「神はまず悲哀の姿して我らに来たる」(『病間録』)という言葉が紹介されていました。また、源信の『往生要集』に出てくる「悲の器」という言葉も紹介されていましたが、私は高校の頃、高橋和己の『悲の器』という小説が好きでした。「悲の器」である人間にとって、神や仏が「まず悲哀の姿をして我らに来たる」のだと思えば、なんだか救われる気持になります。この年になると、神や仏はいてほしいと思います。

余談ですが、『「かなしみ」の哲学』では、つぎのような哲学者の西田幾太郎の文章も紹介されていました。私はそれを読んだとき、石巻の大川小学校をはじめ、今回の震災で我が子を亡くした親たちのことが連想されてなりませんでした。

人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれは親にとっては耐え難き苦痛である。・・・何としても忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめてわが一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。・・・おりにふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。(『思索と体験』)

著者の竹内誠一氏は、「それがいかに苦痛であろうと、そうした生者の『いたみ(いたましさ・いたわり)』を通してしか死者はその存在をこちら側に現わすことはできない。『悼む』とは、そうした営みである」と書いていましたが、それはもはや宗教的な営みと言ってもいいのではないでしょうか。教義や教団なんてどうでもいいけど、じっと目を瞑って手を合わせる気持というのは、やはり大事じゃないかと思います。

神社の石段をおりようとしたら、前の道を学校帰りとおぼしき女子中学生たちがキャーキャー嬌声をあげながらとおりすぎて行きました。丘の上に突然現れた女子中学生たちに思わずびっくりしましたが、道を下って行くと途中に中学校がありました。彼女たちにとっては、丘の上のこの迷路のような道は通学路なのです。

道を下りきると、目の前に新横浜駅の白い建物がそびえてきました。その建物をめざして昔の農道のような曲がりくねった細い道をひたすら進んで行くのでした。やがてたどり着いた駅前には小さなロータリーがありましたが、表口と比べると、同じ新横浜駅の駅前とは思えないほどのどかな雰囲気が漂っていました。


篠原八幡神社_3836

篠原八幡神社_3841

篠原八幡神社_3859
2011.07.16 Sat l 横浜 l top ▲
横須賀_3534

石原吉郎ではないけど、ふと海をみたいと思いました。それで、朝、横須賀線の反対側の電車に乗って、横須賀に行きました。

私も昔、横須賀には仕事で来ていましたが、取引先はもっぱら京急の「横須賀中央」駅の方にありました。都内から来るのも京急の方が便利なので、横須賀線を利用したことは一度もありません。「横須賀」駅におりたのも今日が初めてでした。ちなみに、横須賀線の「横須賀」駅のすぐ近くには、京急の「汐入」駅があり、「横須賀中央」は隣の駅になります。

ただ、軍港として発展した横須賀の歴史上の中心は、やはり横須賀線の「横須賀」なのでしょう。「横須賀」駅をおりると、すぐ目の前は海です。ほかに目立つのは、ダイエーやシネコンが入ったショッピングビルのショッパーズプラザ横須賀がありますが、開店間際だったからなのか、あまり繁盛している雰囲気はなく、「オープン20周年」の垂れ幕がさみしげに風にゆれていました。それ以外は、ただ海があり、海に浮かんでいる軍艦があるだけです。

ところが、そんな海を朝からボーッと眺めている人たちが結構いるのでした(私もそのひとりでしたが)。ホントにボーッと眺めているだけです。それも、ほとんどが中高年の男性で、しかも、ひとりでやってきたような人たちばかりでした。横顔に憂いをたたえている・・・というほどカッコよくはないけれど、それでもどこか孤独の影をひきずっている感じがしないでもありません。やはり、みんな「海をみたい」と思ったのかもしれません。

高校生のとき、とある事件に連座して警察の取り調べを受けたことがありました(といって、窃盗や暴力や痴漢のような破廉恥な事件ではありません)。あのときも、ふと海をみたいと思いました。それで、取り調べを終え警察署を出ると、海の方に歩いて、テトラポットの上に座り、ずっと海を眺めていたました。おそらく4~5時間くらい眺めていたのではないかと思います。夕方になり、あたりが暗くなりはじめたので帰ったのですが、帰ったら家では親たちが大騒ぎしていました。取り調べが終わったあと、警察署から「今、帰りました」という連絡があったものの、いっこうに帰ってこないので、よからぬことでも考えたのではないかと心配したらしいのです。

海を眺めながら、学校をやめて東京にでも行こうかと思いました。なんだかこの街にいることも、この高校にいることも、ひどくめんどうくさい気がしました。やはり事件に連座して、一緒に学校を謹慎になったクラスメートがいたのですが、最近、彼が地元の銀行で役員になっているという話を聞きました。でも、私の場合は未だに当時の心情をどこかでひきずっているようなところがあります。それは性格なのですね。だから、今もまだふと海をみたいなんて思ったりするのでしょう。

シベリア抑留生活での思索をつづった『望郷と海』の冒頭で、石原吉郎はつぎのように書いていました。

海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。



横須賀_3541

横須賀_3577

横須賀_3583

横須賀_3617

横須賀_3630
2011.06.09 Thu l 横浜 l top ▲
朝、横須賀線に乗っているとき、ふと思いついて東戸塚で下車して、隣の保土ヶ谷まで歩きました。最近、運動不足気味なので、このように突然、歩かなければという強迫観念のようなものにおそわれるのです。

残念ながら写真を撮りませんでしたので、証拠(!?)はないのですが、東口の駅前の道路を左に向かって坂道をのぼっていきました。まだ通勤時間帯でしたので、坂の上からは駅に向かう人たちが五月雨式に下ってきます。でも、そんな人の流れに逆らって坂をのぼっていく(やや若づくりの)おっさんに、目にとめる人間なんて誰もいません。みんな、気味が悪いくらい無表情なのでした。

マンションが立ち並ぶ通りをぬけると、境木地蔵尊という小さな祠が石段の上にありました。地蔵尊というからには、昔はこのあたりに墓所でもあったのかもしれません。そういえば、地蔵尊があるあたりはちょうど山の頂になっていて、あの世との境界としてはうってつけの場所のような気がします。

地蔵尊の前から道は急に細くなりました。それで、不安になり、犬の散歩をしていた女性に、「権田坂はどっちの方向ですか?」と尋ねました。

「権田坂の何丁目に行くのですか?」
「いえ、権田坂から国道1号線に出たいのです」
「ああ、だったら、この道をそのまま下って行けば1号線に出ますよ」

というわけで、片側に人がひとり通れるくらいの歩道が付いているだけの細い道路を下りはじめました。おそらく昔は険しい山道だったのでしょう。少し下ると、小学校の前にややひなびた感じの商店街があるのに気づきました。坂道の脇にまっすぐに伸びた路地の両側に個人商店が点々と並んでいて、地形でいえば山の中腹にあたるため、路地の先から風景が大きくひらけているのでした。山を削って宅地開発され、今に至るまでの”記憶の積層”がつまっているような商店街でした。横浜は都内ほど鉄道網が発達してないため、駅から遠い住宅街も多く、そういったところにこのような古い商店街がぽつんと残っているのです。

余談ですが、こうして横浜に暮らすほど、(決して貶めているつもりはありませんが)横浜というのは”地方都市”だなとしみじみ思います。街も人も”偉大なる田舎”なのです。だから、相鉄線沿線で出会った横浜生まれの生粋の「ハマッ子」の老人は、私が住んでいる東横線沿線の街を「東京」と言ったりするのです。彼らの感覚では、東横線や田園都市線は「東京」なのでしょう。一方で、「横浜は東京と同じ都会だ」と勘違いして、横浜から外に出ない若い「ハマッ子」をみると、なぜかすごく反感をおぼえて、おちょくりたくなるのです。そもそも横浜独自の文化なんてもうどこにも残ってない現在、「ハマッ子」という言葉自体も既に死語だと言えます。むしろ、”偉大なる田舎”ならそれはそれでいいじゃないかと思います。そういうところから新しい「横浜らしさ」が生まれるかもしれないのです。

「東京と横浜は同じだから、わざわざ東京まで行く必要もない」なんていうベタな地元志向は所詮、井の中の蛙だなと思います。東京はまったく別格で、横浜と比べようもありません。好きか嫌いかは別にして、東京というオバケのような大都会がもつあのハチャメチャな活力と魅力を素直に受けとめる感受性があるかどうかは、今の時代を生きる上で、「決定的」と言ってもいいくらい大事なことのように思います。いわゆる「郊外論」などもそうですが、東京というのは、それくらい(自分の人生を揺り動かすくらい)大きな存在なのです。

角に家電のコジマが建っている「権田坂上」の交差点で国道1号線に出ると、あとは保土ヶ谷駅まで一本道です。普段、横須賀線の車窓から眺めている見覚えのある風景が沿道につづきました。

保土ヶ谷駅に着いて、万歩計をみたら、7千歩ちょっとでした。時間にしてちょうど1時間でした。少し物足りない気がして、このまま横浜駅まで歩きたい心境でしたが、時間がなかったので、保土ヶ谷から再び横須賀線に乗りました。

>>保土ヶ谷から歩いた
2011.04.15 Fri l 横浜 l top ▲
新横浜3448

うららかな春の陽気に誘われて(ついでに放射能を浴びながら)、太尾緑道から新横浜にかけて鶴見川沿いを散歩しました。

桜は7~8分咲きくらいでした。おそらく今週末が見頃ではないでしょうか。新横浜の川沿いの遊歩道では、やはり春の陽気に誘われた人たちが、三々五々桜並木の下を歩いたりベンチで休憩したりしていました。最近はやたら苛立つことが多いのですが、今日はしばし浮世の憂さを忘れ、ゆったりした気分で午後の時間をすごすことができました。

遊歩道を歩いていると、私が通っている病院を川向うに見ることができます。こうして遠くから眺めると、病院の中のあわただしさがウソのようです。そして、その先には横浜マリノスの本拠地の日産スタジアムがあります。周辺は運動公園になっていて、さまざまな運動場やスポーツ施設などがあり、贅沢な空間が広がっています。ここもまた横浜の郊外なのです。ただ、川があるおかげで、郊外特有の規格化された風景から逃れているのでした。

昔、新横浜に取引先の会社があって、一度だけ来たことがありました。駅を出て高架橋を渡り、ラブホテルが林立する一帯をぬけるとめざす会社のビルがありましたが、今日はさっぱりわかりませんでした。あのときは道に迷うことなくスムーズに行けたのですが、いまひとつ記憶がはっきりしないのです。

あたりに店舗はほとんどなくて、ただ無機質なビルが建っているだけの少し場末感が漂うようなエリアなのですが、よく見ると意外とマンションも多いのです。買物などは不便でしょうが(とはいっても、新横浜駅まで歩いて10分もかかりませんが)、こういうところに住むのもいいかもと思いました。ちょっとさみしい雰囲気が魅力ですね。どうせひとりならさみしい方がいいのです。

吉行淳之介さんのエッセイ「街角の煙草屋までの旅」ではないですが、夕暮れせまる郊外の街を歩きながら、これもまたひとつの旅かもしれないと思いました。

新横浜3446

新横浜3457

新横浜3469
2011.04.06 Wed l 横浜 l top ▲
大倉山梅まつり3375

この週末は大倉山公園で梅まつりが行われていましたので、出かけてみました。と言って、大倉山公園は自宅の裏にあり、いわば裏山のようなものです。近くの路地から行けばすぐなのです。

梅林は公園の窪地にあるため、駅の方から行く場合、駅横の坂道をいったん丘の上までのぼり、頂上にある大倉山記念館の裏手から今度は窪地の方へ下りなければなりません。しかし、自宅からだとコンビニの前の路地を入って、住宅街の中を先に進んで行くと、そのまま窪地に突き当ります。

いつもだと近所の人達が犬の散歩をしているくらいですが、今日は観梅客で賑わっていました。その大半は家族連れかカップルです。梅林の下では野点や日本舞踊などが催され、公園の遊歩道沿いにはずらりと出店も出ていました。

出店は地元の商店街の店もありましたが、プロの香具師(露天商)の人達も多くいました。私はむしろそっちの方が興味がありました。

私は梅まつりは初めてでしたが、それにしても、毎年裏山でこんなに賑やかな催しが行われていたなんてちっとも知りませんでした(ただ興味がないだけだったのですが)。

公園を一周して、そのまま駅横の坂道を下りました。途中のTOTSZEN BAKER'S KITCHENも外まで行列ができていました。駅前の銀行に寄ったあと、今度は新横浜まで歩きました。駅ビルの三省堂書店で本を買って、帰りも歩いて帰りました。帰って万歩計を見たら1万歩ちょっとでした。

大倉山梅まつり3364


大倉山梅まつり3369

大倉山梅まつり3370

大倉山梅まつり3383

大倉山梅まつり3392

大倉山梅まつり3398
2011.02.20 Sun l 横浜 l top ▲