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■女性セブンの記事


今日、市川猿之助氏の自殺未遂のニュースが飛び込んできて、メディアはG7そっちのけで大騒ぎしています。

自宅の地下から遺書らしきメモも出てきたそうで、両親を道連れに無理心中したのでないか、と報じている一部メディアもありました。また、殺人か自殺幇助か自殺教唆のどれかで逮捕される可能性は高い、と伝えているメディアもありました。

市川猿之助氏に関しては、折しも昨日、『週刊女性セブン』がスクープと称してウェブサイトにアップした下記の記事が、自殺未遂と関連があるのではないかとして注目されています。今日は記事が掲載された『週刊女性セブン』の発売日でもあったのです。

NEWSポストセブン
【スクープ】市川猿之助が共演者やスタッフに“過剰な性的スキンシップ”のセクハラ・パワハラ「拒否した途端に外された」

この記事が事実であれば、文字通りジャニー喜多川氏の“二番煎じ”と言われても仕方ないと思います。記事はソフトな(というか曖昧な)表現で書かれていますが、内容自体は、ジャニー喜多川氏同様、歌舞伎の世界における絶対的な力を背景にした性加害とも言えるものです。

■歌舞伎とメディア


昔から芸能界にはゲイやバイセクシャルが多かったのですが、中でも歌舞伎の世界はその最たるものと言っていいのかもしれません。歌舞伎の語源の「かぶく」という言葉は、かたむく=ドロップアウトするというような意味があると言われ、歌舞伎者、つまり芸能の民は、元来は市民社会の埒外にいる(公序良俗からはみ出した)存在だったのです。

歌舞伎のはじまりはお寺の勧進興行だったと言われますが、寺社権力が衰退するのに伴い、寺の境内を追われた歌舞伎者たちは、当時不浄な場所と言われ、差別され一般社会から追われた人々が住んでいた河原で興行をはじめたのでした。そのため、河原乞食と呼ばれ蔑まされるようになったのです。

今の歌舞伎の伝統と言われるものがどこまで真正な(ホントの)伝統なのかわかりませんが、歌舞伎の世界は、その伝統を謳い文句に男尊女卑と同性愛が今もなお同居している、ガラパゴスのような世界を形成してきたのです。そんな世界を、着物で着飾ってお上品ぶっているおばさんたちが有難がって支えているのです。昔の河原乞食が、今では天皇制との絡みで国の宝みたいに遇されているのです。その大いなる誤魔化しと勘違いが、あのような梨園のバカ息子たちを次々と輩出する背景になっているのは間違いないでしょう。お上品なおばさんたちは、自分たちが上流階級だと勘違いしているのか、歌舞伎の世界に今なお残る”妾の文化”も芸の肥やしとして許容しているのですから、ある種のおぞましささえ覚えてなりません。

この21世紀のMeToo運動やLGBTQの時代に、芸能の民を”特別な存在”と見做すのは多分に無理があるのです。宮台真司氏のように、それを「加入儀礼」として捉える論理がトンチンカンに見えるのもむべなるかなという気がします。

しかし、市川猿之助氏のニュースでも、大半のメディアは奥歯にものがはさまったような言い方に終始しているのでした。夕方のニュース番組を観ていたら、スポーツ新聞の芸能担当記者が出ていて、歌舞伎の伝統と市川猿之助氏の人となりを語っていましたが、隔靴掻痒の感を禁じ得ませんでした。キャスターもゲストの記者も、肝心要なことは避けてどうでもいいような話でお茶を濁しているだけなのでした。

歌舞伎はたかだか松竹という民間会社の興行にすぎないのです。にもかかわらず、伝統を隠れ蓑にジャニーズ事務所と同じようなタブーが作られ、メディアは徹底的に管理され拝跪させられてきたのでした。

別の報道によれば、遺書は「知人」に宛てたもので、「愛している」とか「あの世で一緒になろう」と書かれていたそうです。私は、「おやじ涅槃で待つ」という某男優の遺書を思い出しました。

■LGBTQをどう考えるか


ゲイ自殺未遂の割合

これは、宝塚大学看護学部の日高庸晴教授らが2008年に実施した、街頭調査の資料の中に掲載されていた図を転載したものです(下記参照)。

「わが国における都会の若者の自殺未遂経験割合とその関連要因に関する研究―大阪の繁華街での街頭調査の結果からー」
https://www.health-issue.jp/suicide/index.html

この図を見ると一目瞭然ですが、同性愛者の男性の場合、異性愛者と比べて自殺未遂の割合が6倍近く高いことがわかります。しかも、それは、同じ異性愛者でも男性に限って見られる傾向なのでした。

ゲイで自殺する人間が多いというのは、昔からよく知られた話でした。それは、やはり、男らしくあれとか男のくせに女々しいとかいった、日本の社会に厳として存在するマッチョリズムによって生きづらさを人一倍抱える(抱えざるを得ない)からではないかと思うのです。あるいは、ジャニー喜多川氏のような犯罪と紙一重の”少年愛”などでは、罪の意識に苛められるということもあるのかもしれません。ゲイに詳しい人間は、ゲイは嫉妬深くて感情に走る人間が多いので、自分で自分をこじらせてしまうのではないかと言っていました。

織田信長と森蘭丸の話がよく知られていますが、武家社会では、男色は「衆道しゅどう」と呼ばれて半ば公然と存在したそうです。そのため、昔は男色に対して「寛容」であったという声もあります。でも、それは「寛容」と言うのとは違うような気がします。寺院の僧侶や武士など男社会の中で、女性の代用として若い男性のアヌスが利用されたという側面もあったのではないかと思うのです。つまり、「寛容」というより、それだけ動物的で放縦な時代であったということです。また、江戸時代には、歌舞伎者の周辺に「陰間かげま」と呼ばれる、女装して売春する少年までいたそうです。今で言う「ウリセン」です。

しかし、脱亜入欧のスローガンを掲げた近代国家の建設がはじまり、西欧文明が入ってくると、同性愛は”異常なもの”としてタブー視されるようになったのでした。ミッシェル・フーコーが言うように、キリスト教の道徳と市民法によって「倒錯」という概念が導入され、権力による性の管理が始まったのですが、日本でも近代化の過程でそういったキリスト教的な規範が輸入され、同性愛も私たちの視界から消えていったのでした。LGBTに対する理解増進を求めるLGBT法は、そんな日陰の身である性的指向を再び日向になたに連れ出すことになるのです。

LGBTQをどう考えるのか、どう共存して多様性のある社会を築いていくのか。私たちはその課題を突き付けられていると言えるでしょう。前も書きましたが、ドラマの「きのう何食べた?」のような浮薄なイメージや、リベラルであるならLGBT法に賛成しなければならないといった思考停止した中でLGBT法が成立するなら、仏作って魂入れずになるだけでしょう。

2019年に大阪市で行われた無作為抽出調査によれば、異性愛者は83.2%で異性愛者以外が16.8%だったそうです。経済界には、海外でビジネスを行う上で、性的マイノリティに対する国際基準を遵守する必要があるとしてLGBT法の早期成立を求める声があります。また、国内においても、LGBTQを新しい市場と捉えソロバン勘定する向きもあるようです。あのレインボーパレードに象徴されるような今のLGBTQが、換骨奪胎されて、強欲な資本の論理に取り込まれてしまう”危うさ”を持っていることもたしかでしょう。
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5月14日の夜、ジャニーズ事務所の公式サイトで動画が公開され、その中で藤島ジュリー景子社長が今回の問題に対して謝罪したというニュースがありました。しかし、事実関係については、明言を避け曖昧な態度に終始したままでした。そもそも記者会見ではなく、一方的に動画を配信し、外からの質問も一問一答形式の文書で答えるそのやり方に、ジャニーズ事務所の裸の王様ぶりが露呈された感じで、思わず目を覆いたくなりました。

不倫だったら、まるで百年の仇のようにあることないこと書き連ねて、アホな大衆を煽り、リンチの先頭に立つ芸能マスコミですが、不倫の比ではないジャニー喜多川氏の性加害=性暴力に対しては、ジャニーズ事務所の足下にかしづき、見ざる聞かざる言わざるを貫いてきたのです。しかも、ここに至ってもなお、ジャニーズ事務所の出方を伺うだけで、独自の取材に基づいた記事はいっさいありません。これでは、ゴミ以下と言われても仕方ないでしょう。

藤島ジュリー景子社長の謝罪も、そんな芸能マスコミと同様に、見て見ぬふりをしてきたみずからを弁解したものにすぎません。

週刊文春が言うように、事務所のスタッフが車で餌食になる少年をジャニー喜多川氏のマンションに送り届けていたわけで、それで「知らなかった」「気が付かなかった」はないでしょう。芸能マスコミと歩調を合わせた悪あがきは続いているのです。

中には、日本テレビの「news zero」でキャスターを務める櫻井翔が何を語るか、なんておめでたいことを言っているメディアもありますが、何を語るかではなく、櫻井翔がキャスターを務めていること自体が異常なのです。でも、それが異常なことだと誰も指摘しないのです。

この問題に救いがないのは、2002年にジャニー喜多川氏の性加害が東京高裁で認定されたにもかかわらず、メディアがほとんど報道せず隠蔽したことによって、さらにジャニーズ事務所が芸能界で絶対的な力を持ち、メディアを完全に支配するに至ったという事実です。そのために、ジャニー喜多川氏の性加害=性暴力はまったく止むことはなかったのです。むしろ、エスカレートしたのかもしれません。

その意味では、メディアの罪も極めて大きいと言えるでしょう。メディアは、藤島ジュリー景子社長の謝罪動画を他人ひと事のように報じていますが、開いた口が塞がらないとはこのことです。

たしかに、性被害を告発した元メンバーの背後にガーシーやひろゆきやいかがわしいユーチューバーの存在が囁やかれるなど、今どきの若者らしい”危うさ”や”軽さ”が垣間見えますし、芸能界が単に悪の反対語が善とは言えない、もしかしたら悪の反対語も悪であるような、一筋縄でいかない世界であることも頭の片隅に入れておく必要がありますが、それでもなお、長いものにまかれろという日本的な精神風土の中でタブーにされてきた、この前代未聞のスキャンダルが白日の下に晒される意味は大きいと言えます。同時にこの問題が、「独立した芸能人はどうして干されるのか?」という、”ドン”などと呼ばれるヤクザまがいの人物が調整役として跋扈する(テレビ局や芸能マスコミも一役買う)、「怖い怖い芸能界」からテイクオフするチャンスでもあることは言うまでもありません。

僭越ですが、この問題については下記の記事をご覧ください。

関連記事:
『噂の真相』とジャニーズ事務所
ジャニー喜多川の報道に見る日本のメディアの体質
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ネットの時代になり、ニュースにおいても、人々の関心はまるでタイムラインを見るように次々と移っていくのでした。

旧統一教会の問題も既に過去の問題になったかのようで、旧統一教会と自民党との関係も、何ら解明されないまま忘れ去られようとしています。

それは、ジャニー喜多川氏の問題も然りです。たしかにジャニー氏亡きあと退所者が出ていますが、しかし、まわりが思うほど(期待するほど)ジャニーズ事務所の屋台骨がぐらつくことはないのではないかと思います。

総務省事務次官を務め、退官後電通の副社長に天下りした櫻井翔の父親の力添えもあったのか、今では国のイベントにタレントを派遣するなど、政府や電通や博報堂の後ろ盾を得るまでになっているのです。櫻井翔に至っては、日本テレビのニュース番組のキャスターまで務めているのですから、悪い冗談どころか夏の夜の怪談みたいな話です。

■『噂の真相』の記事


メディアの中でジャニーズ事務所の問題を取り上げたのは、『週刊文春』と『噂の真相』と言われていました。それで、手元にある『噂の真相』でどんなジャニーズ関連の記事があったか調べたら、次のようなタイトルの記事が出てきました。

ジャニーズ事務所の全日空ホテル乱交パーティが発覚!
(2000年1月号)

『週刊文春』で危機のジャニーズ事務所の新女帝の後継問題
(2000年3月号)

スクープ! 遂にジャニー喜多川がホモセクハラで極秘証人出廷
(2002年2月号)

元マネージャーが語ったジャニーズ事務所の内部告発!
(2003年3月号)

ジャニーズ事務所と女性週刊誌の力関係の舞台裏
(2003年6月号)

セクハラと脱税で揺れる「ジャニーズ帝国」の舞台裏
(2003年9月号)

ほかには、今の時代では考えらえないことですが、「芸能界ホモ相姦図最新情報」とか「有名人ゲイ情報」とかいうのもありました。ただ、読むとかなり眉唾な話が多く、いい加減な記事だったことがわかります。おすぎとピーコが裏でこんな話をよくしていたそうですが、記事の対談や座談会に出ているのは、『噂の真相』の編集部から近い新宿2丁目のゲイバーのママなどでした。どんな連中なんだと思いました。

2004年1月1日発行の『別冊・噂の真相 日本のタブー』の中に、ジャニーズ事務所の圧力を具体的に書いた、次のような記事がありました。

「2000年に、『週刊女性』が少年隊の錦織一清の借金トラブルを報じたんです。すでに他社も報じていた話だし、確実なウラも取れていた。ところが、これに激怒したジャニーズ事務所が同じ主婦と生活社のアイドル雑誌『JUNON』に、『以後、取材に協力しない』と圧力をかけてきたんです。すぐに謝罪したんですが、結局ジャニーズとは決裂してしまい、それ以降、『JUNON』も『週刊女性』も急激に部数を低下させるハメになってしまった」(主婦と生活関係者)
 しかもこの時、ジャニーズ事務所は主婦と生活社に委託してきたジャニーズタレントのカレンダーの発売権まで引き上げている。
 実はジャニーズ事務所は、芸能系の雑誌を持たない出版社にも、こうしたカレンダーやタレント本を発売させることで、巧妙にルートを作り上げているのだ。あの新潮社ですら、あるタレント本のために、『フォーカス』の記事に影響があったほどなのだ。
 もちろん、最近になって、ようやくこの構造に風穴を開ける動きも出てきている。
 ジャニーズの影響を受けない数少ない大手出版社のひとつ、文藝春秋の『週刊文春』が、ジャニーズ事務所のトップ・ジャニー喜多川のホモセクシャル行為を告発した一件だ。
 これまで、北公次の告発本や本誌の報道をことごとく黙殺してきたジャニーズ事務所も、さすがに文春の影響力を無視できなかったのか、記事を名誉棄損で提訴したのだが、判決はジャニー喜多川のホモセクハラ行為が「事実だった」とするものであった。
 だが、それでも尚、芸能マスコミの多くはジャニーズタブーの呪縛から逃れられないでいるのだから情けない。
 事実、テレビはこの判決には一切触れず、かろうじて報じたスポーツ紙の記事も、ジャニーズ事務所のネームバリューを考えれば驚くほど小さなスペースでしかなかった。
 ジャニーズタレントたちは、今日も何ごとも無かったかのようにテレビや雑誌に登場し、相変わらず事務所に莫大な稼ぎをもたらしているのである。
(同上・「ジャニーズやバーニングが圧殺する有名芸能人のスキャンダル・タブー」)


そして今に至るという感じですが、しかし、記事を読むと、今より当時の方がまだタブーが緩かったことがわかります。誰がそうしたのか、ジャニーズ事務所は今の方がはるかに強硬だし傲慢になっているのです。

■宮台真司氏の言説


宮台真司氏は、下記の動画で、ジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)について、少年たちの主観は(第三者である私たちとは)違うところにあるのではないか、と言っていました。

Arc Times
<ジャニー喜多川氏の性暴力問題>  加入儀礼がまだ残る日本 告発せずに我慢しがちな芸能界や職人の世界

宮台氏は、ジャニー喜多川氏の行為は、ジャニーズに入るための「加入儀礼」だった、と言います。だから、少年たちの中で被害を訴える者は圧倒的に少数で、彼らには傍で見るほど被害者意識はなかったのではないか、と言うのです。もちろん、日本には伝統的にお稚児さん=ゲイ文化があり、ホモセクシャルな”秘儀”も特段めずらしいことではないのかもしれません。

「加入儀礼」は、その集団チームの一員になり、一人前の大人になるために、理不尽なことも不条理なことも我慢して受け入れなければならないということです。そして、「加入儀礼」は、みんなそうやった大人になってきたのだからお前も我慢しろ、という日本的共通感覚コモンセンスに支えられていると言います。それを丸山眞男は「抑圧の移譲」と言ったのだと。だから、ジャニーズの問題も言われるほど大きな問題になってない。日本の社会ではよくあることで、世間はそれほど関心はない。宮台氏は、そう言うのでした。

たしかに、少年たちは、アイドルになってキャーキャー言われたい、お金を手に入れていい生活をしたい、そう思って、みずからジャニーズの門を叩いたのです。何も道を歩いているときに、突然、変な爺さんに襲われたわけではないのです。だから、セクハラされるのは最初から承知の上だったんじゃないか、自業自得じゃないか、という見方があるのも事実でしょう。あるいは、宮台氏が言うように、社会に出ればもっと嫌なことや辛いことがあるのだから、それくらいのことで被害者ズラするのは我慢が足りない、というような批判もあるかもしれません。それに、退所して事務所の縛りから解き放されたタレントたちを見ると、アイドルと言うにはちょっとやさぐれたような若者が多いのも事実です(だから、被害を訴えるのはカマトトではないかという声があります)。

でも、だからと言って、ジャニー喜多川氏の性加害が免罪されることにはならないのです。性加害(性被害)には、必ずそこに支配⇔服従という権力関係が生まれるので(それを前提とするので)、問題の本質は宮台氏が言うような部分に留まらず、もっと先にあると考えるべきでしょう。むしろ、少年たちに被害者意識がないことが問題なのです。それは少年だけではありません。少女に対する性加害も同じです。

子どもの頃に性被害を受けたことによるトラウマの問題は深刻で、被害者意識がないということも、むしろその深刻さを表しているように思います。ジャニー喜多川氏の問題が大きく取り上げられたことで、彼らの中にフラッシュバックが起きることは充分考えられるように思います。退所や休業も、その脈絡で考える必要があるでしょう。

■自死した某男優と義父


1980年代、31歳の某男優が新宿のホテルから飛び降り自殺するという事件がありました。その際、義父でもあった所属事務所の社長に宛てて、「おやじ涅槃で待つ」という遺書を残していたとして話題になりました。

実はその男優は私と同じ地元の出身でした。私自身は面識はありませんが、当時はまだ私も地元の会社に勤めていましたので、彼と中学の同級生だった職場の同僚やその友人たちから彼に関する話を聞いたことがあります。彼は中学3年のときに突然「姿が消えた」そうですが、それまではバスケットボール部に所属し人一倍目立つ存在だったそうです。他校でも「O中学のジョージという生徒がすごくカッコいい」と評判になるほどの長身で美形の持ち主だったとか。でも、中学の同級生たちも、彼の素性はまったく知らなくて、「謎の人間だった」と言っていました。

そして、高校に進んだあと、学校の帰りに書店で『平凡』か『明星』だかを観てたら、そこにあのジョージが出ていたのでびっくりしたそうです。その際、彼のプロフィールを見たら、自分たちが通っている高校を中退したことになっていたので、狐に摘ままれたような気持になったと言っていました。

どういった経緯で芸能界に入ったのかわかりませんが、私は、テレビで養子縁組した義父の社長を見たとき、「ああ、そうだったのか」と思いました。そこには、ジャニー喜多川氏と同じような(宮台真司氏が言う)「加入儀礼」があったような気がしたのでした。彼の同級生たちもそう思ったそうです。実際に、ホモセクシャルの世界において養子縁組はよくある話なのです。

今にして思えば、彼の場合も、BBCの記者が言う「グルーミング」や「トラウマボンド」で説明が付くように思えてなりません。自殺に至ったのも、「トラウマボンド」によるものではないかと思うのです。トラウマを抱えながら、それがいつの間にか反転して「おやじ涅槃で待つ」というような一体化した関係を憧憬するようになる。それを心理学では「内在化」と言うのだそうですが、トラウマが人間心理の奥深くに入り込み、ある種の自己防衛のために、被害者が加害者に対して倒錯した愛情のようなものを抱くようになると言われます。

(ジャニー喜多川氏が逝去した際の)「ジャニーさんの子供になれて誇りに思う」「ジャニーさんとの絆は永遠に切れない」「ジャニーさんはこれらもいつも寄り添ってくれている」「僕の人生は、あなたから与えられた愛情のなかにある」などという、ジャニー喜多川氏が文字通り寝食を共にし、手塩にかけて育てたメンバーたちの言葉。メディアは、それを美談として報じてきたのでした。

ジャニーズのメンバーも、ひと昔前までは櫻井翔のようなおぼっちゃまは例外で、どちらかと言えば独り親の家庭やアンダークラスの家庭の出身者が多かったような気がします。そんな芸能人としての古典的なパターンもまた、「グルーミング」を受け入れる素地になっていたように思えてなりません。

ジャニー喜多川氏は、言うなれば、少年たちのハングリー精神や上昇志向を利用して、彼らの身体を欲望のはけ口にしたのでした。はっきり言えば、そうやって少年愛のハーレムを作ったのです。それを可能にしたのは、犯罪とのグレゾーンに築かれた支配⇔服従の権力関係です。私たちは、ジャニー喜多川氏の問題について、まずそこに焦点を当てて考えるべきではないかと思います。
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■ジャニー喜多川の性加害疑惑


イギリスの公共放送BBCは、先月、ドキュメンタリー番組で、ジャニー喜多川氏の少年たちに対する性加害(疑惑)と日本社会の「沈黙」(見て見ぬふり)を取り上げて、物議を醸したのでした。タイトルは、「J-POPの捕食者  秘められたスキャンダル」(Predator : The Secret Scandal of J-Pop)というものでした。

元フォーリブスの北公次が、『光GENJIへ』という本でジャニー喜多川氏の性癖を暴露したのが34年前の1988年(昭和63年)ですが、ジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)は、1960年代から始まっていたと言われています。その間、被害に遭った少年は数百人に上るという説もあるのです。

少年たちも、それを我慢しないとデビューできないことを知っていました。2002年5月には、東京高裁で、ジャニー喜多川氏の「淫行行為」は「事実」だと認定されているくらいです。でも、日本のメディアはいっさい報じて来なかったのです。

その中で、例外的に取り上げていたのが『週刊文春』と『噂の真相』でした。中でも『週刊文春』は、1999年10月から14週にわたって、ジャニー喜多川氏の「セクハラ」問題のキャンペーンを行ったのでした。上記の東京高裁の認定は、その報道に対して、ジャニー喜多川氏とジャニーズ事務所が、1億円の賠償金を求める名誉毀損訴訟を起こしたときのものです。ジャニーズ側は高裁の判決が不服として最高裁に上告したのですが、最高裁で上告が棄却され、高裁の判決が確定したのでした。訴訟自体は120万円の賠償金で結審したのですが、実質的には文春の勝訴と言われました。

当時のジャニー喜多川氏の自宅は六本木のアークヒルズにあり、少年たちから「合宿所」と呼ばれていたそうです。しかし、少年たちは陰では「合宿所」を「悪魔の館」と呼んでいたのだとか。

『週刊文春』は、12人の少年に取材し、そのうち10人がジャニー喜多川氏から性被害を受けたと答えたそうです。また、法廷で2人の少年が性被害(セクハラ行為)を証言したのですが、東京高裁の判決文では、「上記の少年らは、一審原告のセクハラ行為について具体的に供述し、その内容はおおむね一致し、これらの少年らが揃って虚偽の供述をする動機も認められない」「これらの証言ないし供述記載は信用できるものというべきである」と証言の信憑性を認めているのです。

しかし、日本のメディアは、芸能マスコミだけでなく、大手の週刊誌も新聞もテレビも、こぞって黙殺したのです。そのため、その後もジャニー喜多川氏の性加害は続き、それどころかジャニーズ事務所は日本を代表する芸能プロとして、その存在感を絶対的なものにしていったのでした。

ちなみに、私は30年以上前、当時勤めていた会社が六本木にあった関係で、たまたまガールフレンドが住んでいた六本木のマンションに入り浸っていた時期があるのですが、彼女のマンションと脇道をはさんで向かいにあるマンションにジャニーズの「合宿所」がありました。私自身は、シブがき隊の誰か(それも定かでない)をチラッと見た程度ですが、ガールフレンドの話ではその「合宿所」にはシブがき隊や少年隊のメンバーも住んでいたことがあり、彼等とは顔見知りだったそうで、誰々はいい子だけど誰々は悪ガキだとか、そんな話をしていました。

その当時も、春休みや夏休みになると、ファンの女の子たちが地方からやって来て、ガールフレンドのマンションの脇に一日中立ってメンバーを「出待ち」するので、住人から迷惑がられていました。

既にその頃からジャニー喜多川氏にまつわる噂は、公然の秘密として人口に膾炙されていました。芸能界の周辺にいたガールフレンドも、「芸能界は男も女も同じだよ」「パパがいる男の子は多いよ」とさも当然のことのように言っていました。

たしかに、戦国時代から江戸時代には、殿様の横で刀持ちを務める「小姓こしょう」と呼ばれる少年がいましたし、太古の昔から芸能の民は、両性具有の人間が多いと言われていましたが、時代を経て「個人」が確立されるにつれ、そんなロマンティックな言葉で誤魔化すことはできなくなったのです。というか、そういった男色の歴史とジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)はまったく別の問題と考えるべきでしょう。

相撲部屋と同じように、中学を出るか出ないかの年端もいかない少年たちを「合宿所」で集団生活させて、親代わりのように寝食をともにしながらエンターテイナーになるべく訓練する。そんなジャニーズ事務所特有のシステムの裏に潜んでいたのは、少年たちに対するジャニー喜多川氏の”歪んだ欲望”だったのです。そこにあるのは、支配⇔服従の関係以外のなにものでもありません。

ただ、忘れてはならないのは、ジャニー喜多川氏の行為を「気持悪い」「おぞましい」と感じるのは単なるホモフォビア(同性愛嫌悪)にすぎず、それは単に反動的で文化的な所産でしかないということです。ジャニー喜多川氏の行為が批判されるべきなのは、それが「気持が悪い」「おぞましい」からではなく、「デビューしたければ言うとおりにしろ」という支配⇔服従の権力関係に依拠した「性的搾取」だからです。もっとわかりやすく言えば、みずからの性的欲望をそういった関係を盾に有無を言わせず行使しているからなのです。

私はその手の話は詳しくないので、必ずしも正確な説明ができるとは言えませんし、言葉の使い方も適切ではないかもしれませんが、同性愛と言ってもいろんなパターンがあるようです。同性愛者同士の関係だけでなく、女性になれない女性の感覚で、無垢な少年の身体に性的な欲望を抱く同性愛者もいるそうです。

私は、ホモセクシャルな人たちがこの問題をどう考えるか知りたいのですが、残念ながら彼らの声がメディアに取り上げられることはありませんし、SNSでも見つけることはできませんでした。LGBTへの理解を求めるなら、彼らももっと積極的に発言すべきでしょう。

ゲイ雑誌の『薔薇族』は、一環してジャニー喜多川氏のような”少年愛”を称揚してきたと言われていますが、対象になるのが年端もいかない少年であるこということを考えれば、そこには最初から支配⇔服従の関係が生まれるのは当然です。それどころか、「調教する」というような倒錯した支配欲だってあったかもしれません。同性愛者たちは、そういったことをどう考えるのか。当たり前のこととして肯定していたのか。仮にドラマの「きのう何食べた?」のようなイメージの中に逃げるだけなら、それは極めて不誠実で卑怯な態度だと言わざるを得ません。

■グルーミングとトラウマボンド


番組を制作したBBCのスタッフは、朝日新聞のGLOBE+のインタビューで、ジャニー喜多川氏の行為は「グルーミング(grooming)」や「トラウマボンド(trauma bond)」といった心理学の概念で説明できる、少年たちに対する「性的搾取」だと言っていました。

GLOBE+
ジャニー喜多川氏の性加害疑惑追ったBBC番組制作陣が指摘した「グルーミング」の手口

尚、groomingとtrauma bondについては、ウィキペディアで次のように説明されています。

性犯罪におけるグルーミングとは、性交等または猥褻な行為などをする目的で、未成年者を手なずける行為である。「チャイルド・グルーミング」とも呼ばれる。(略)
未成年者への「性的なグルーミング」は、何らかの事情で孤立した対象を標的にして、標的からの信頼を積み上げて関係性を支配してから、性的な行為に及ぶものである。(略)
グルーミングはマインドコントロールの一種で、ごく普通のコミュニケーションの中で行われることを強調する。対象を近親者から切り離そうとするのも特徴で、そういう言動があったら警戒を促す。
だが、標的とされた子どもは加害者への恋愛感情や信頼心が醸成されていき、「信頼できる大人がそんなことをしてくるわけがない」と思い込まれているため、「性暴力被害を受けた」とは気づきにくい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/グルーミング(性被害)


トラウマの絆は、パトリックカーンズによって開発された用語で、報酬と罰による断続的な強化によって持続される繰り返しの周期的な虐待パターンから生じる、個人 (および場合によってはグループ) との感情的な絆を表します。(略)
トラウマの絆は通常、被害者と加害者が一方向の関係にあり、被害者は加害者と感情的な絆を形成します。(略)
トラウマの絆は、恐怖、支配、予測不可能性に基づいています。虐待者と被害者の間のトラウマの絆が強まり、深まるにつれて、周期的なパターンで現れる警戒感、しびれ、悲しみの相反する感情につながります. 多くの場合、トラウマの絆の犠牲者には主体性と自律性がなく、個人の自己意識もありません. 彼らの自己イメージは、虐待者の自己イメージの派生物であり、内面化されたものです。(略)
トラウマの絆は、関係が続いている間だけでなく、それ以降も被害者に深刻な悪影響を及ぼします。トラウマの絆の長期的な影響には、虐待的な関係にとどまること、低い自尊心、否定的な自己像、うつ病や双極性障害の可能性の増加などのメンタルヘルスへの悪影響、世代間の虐待サイクルの永続化などがあります。(略)
加害者と心的外傷を負った被害者は、多くの場合、これらの関係を離れることはできません。なんとか離れることのできた人でさえ、学習したトラウマの絆が蔓延しているため、多くの人が虐待的な関係に戻ります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Traumatic_bonding


ジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)は、多感な時期にある少年たちにとって、深刻な心的外傷トラウマをもたらす行為だったと言えますが、にもかかわらず、日本のメディアには、天皇制に勝るとも劣らない第一級のタブーだったのです。情けない話ですが、外国メディアでなければ扱えなかったのです。それも、死後でなければ不可能だったのです。

BBCの放送を受けて、4月12日に元ジャニーズJr.のメンバーで現在もアーティスト活動を行っている男性が、外国特派員協会で会見し、みずから体験した性被害を告白したことで、既存メディアでは全国紙とNHKがようやく報道を解禁しました。しかし、それは、批判を回避するため、アリバイ作りのために会見に触れたようにしか思えない、通りいっぺんの内容でした。一方で、今でもジャニーズ事務所の統制下にあるテレビや雑誌などは「見て見ぬふり」をしたままです。特に女性週刊誌とワイドショーは、まるでジャニーズ事務所との心中も厭わないかのように忠誠を誓っているのでした。

昔は、所属タレントのスキャンダルをめぐって、ジャニーズ事務所と女性週刊誌との間でバトルが繰り広げられたこともありましたし、ジャニーズ事務所が、3億7000万円の所得隠しや経理ミスで、東京国税局から重加算税も含めて2億円あまりを追徴課税されたり、グッズ販売の所得隠しにより、法人税法違反容疑で東京地検特捜部に告発されたこともあったのです。いづれも『週刊文春』との裁判があった2002年頃の話です。しかし、その後、総務省事務次官や電通副社長などを務めた嵐の櫻井翔の父親の権勢もあってか、ジャニーズ事務所は絶対的なタブーになり、吉本ともども国のご用達プロダクションのような立場になったのでした。ジャニー喜多川氏は、2019年7月に89歳で亡くなったのですが、死してもなお、メディアが見ざる言わざる聞かざるの姿勢を貫いているのは、そういった背景も無関係ではないように思います。

私は、芸能マスコミとテレビ局が芸能界をアンタッチャブルなものにした、と前々から言ってきましたが、それは今なお続いているのです。弱小プロダクションのタレントが「不倫」したら、世界の一大事のように大騒ぎするくせに、本来なら日本の芸能界をゆるがせてもおかしくないジャニー喜多川氏の性加害(疑惑)に対しては、裁判で認定され、もはや誰もが知っているほど人口に膾炙されているにもかかわらず、「見て見ぬふり」をしているのでした。そして、ジャーニーズ事務所のタレントたちは、何事もなかったかのように、歌番組だけでなくバラエティ番組や情報番組やCMなどテレビをはじめとするメディアを席捲しています。それどころか、報道番組のキャスターを務めたり、政府のイベントでは客寄せパンダの役割を担うまでになっているのでした。

このように長いものに巻かれ、強いものにごびへつらう日本のメディアの事大主義的な体質は、WBCやジャニーズ事務所の報道においても共通して見られる、もはや宿痾と言ってもいいようなものです。「言論の自由」も、彼らには猫に小判でしかないのです。


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『芸能人はなぜ干されるのか?』
2023.04.13 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
篠田麻里子Twitter
(本人のツイッターより)


■ゲスな感情


私は、タレントの篠田麻里子に関しては、AKB48の元メンバーだったくらいの知識しかありません。もちろん、ファンでも何でもありません。

しかし、昨日、篠田麻里子が離婚したとかで、Yahoo!のトップページがそのニュースで埋まっていたのでびっくりしました。

見出しは次のようなものでした。

週刊女性
【篠田麻里子が離婚】「目的は子どもではなくカネ」元夫が送りつけていた“8000万円脅迫メール”

FLASH
篠田麻里子、離婚発表に同情の声が少ない理由「いつ結婚するの?」「にんにくちゃん」上から目線の過去発言

ディリースポーツ
篠田麻里子が離婚 連名で「夫婦間の問題、無事に解決」夫「麻里子を信じる」

東スポWEB
篠田麻里子の離婚発表で「ベストマザー賞」トレンド入り 受賞者〝離婚率高い説〟は本当か

NEWポストセブン
《離婚発表》元夫はなぜ篠田麻里子の「言葉を信じる」ことになったのか 不倫疑惑に「悪いことはしていない」

文春オンライン
【離婚発表】元AKB篠田麻里子(36)の夫が篠田の“不倫相手”を訴えた!「不貞行為の物証も揃っている」《夫は直撃に「訴訟に関しては間違いない」と…》

読者の需要があるからでしょうが、タレントとは言え、他人ひと様の離婚にこんなに興味があるのかと思いました。しかも、記事は出所不明な情報を根拠にした、悪意に満ちたものばかりです。

出会って2週間で結婚したものの、すれ違いが生じた上に別居。離婚調停中に妻に不倫疑惑が持ち上がり、夫が妻の相手を被告として、「不貞行為」をあきらかにする民事訴訟を起こして「泥沼の不倫訴訟」に発展した、というのがおおまかな流れのようです。ところが、相手を訴えていた夫が「(妻を)信じる」と態度を一変して、急転直下、離婚が成立したのでした。でも、芸能マスコミやネットのデバガメたちにはそれが気に食わないようです。

もちろん、本人は否定していますが、彼らは、なにがなんでも不倫したことにしなければ気が済まない、でなければ話が成り立たないとでも言いたげです。

要するに、訴訟を起こした夫の人間性や思惑などは関係なく、ただ篠田麻里子を夫以外の男と寝た“ふしだらな女”にすることだけが目的のように見えて仕方ありません。夫が不倫だと言えば、それが一人歩きしてバッシングが始まったのです。

しかも、いくらバッシングされても表に出る篠田麻里子の写真や映像はいつもニコニコしているものばかりなので、さらに反発を招いてバッシングがエスカレートしていったような感じさえあるのでした。世間にツラを晒す仕事をしている芸能人が、カメラの前で愛想笑いを浮かべるのは当然ですが、それさえ「図太い神経の持ち主」みたいに言われバッシングの材料にされるのでした。また、中には、WBC優勝の翌日に離婚発表したことで、篠田麻里子は「つくづく空気が読めない」と批判している写真週刊誌までありました。

不倫=“ふしだらな女”というイメージの前では、かように何から何まで坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式に言いがかりの対象にされるのでした。芸能マスコミでは、不倫は向かうところ敵なしの絶対的な”悪”なのです。しかも、その多くは女性の問題とされ、叩かれるのはもっぱら女性です。

■我慢料


異次元の少子化対策などがその典型ですが、政府の発想は相も変わらず家や家族が中心です。保守的な政治家や多くの宗教団体が、旧統一教会と同じように伝統的な家族像にこだわり、LGBTを激しく拒否し嫌悪するのも、結婚して子どもを産む家族を社会の基礎単位と考える思想を墨守しているからでしょう。そして、それが戦前を美化するような「日本を愛する」思想へと架橋されているのでした。

でも、工業社会からポスト工業社会、サービス(第三次)産業中心の社会に移行する過程では、家族ではなく個人が基礎単位になるのは必然と言っていいのです。農耕社会では、家父長制の大家族主義でしたが、工業社会になり、農家の次男や三男が都会に働きに出るようになって核家族化が始まりました。さらに、ポスト工業社会になり働き方が多様化するのに伴い、家族より個人の価値観が優先される時代になったのです。吉本隆明も言っていたように、第三次産業に従事する労働者の割合が50%を超えた社会では、労働の概念や労働者の意識が大きく変わるのは当然なのです。「存在は意識を決定する」というのはマルクスの有名な言葉ですが、社会の構造や労働の形態は、個人の生き方や家族のあり方にも影響を与え、変容を強いるのです。

当然、結婚や恋愛のあり様も変わっていきます。個人より家の意志が優先されるお見合い結婚や出会い結婚から、職場や学校といった一定の属性下にある”場”が介在する恋愛を経て、現代では個々のマッチングアプリを使ったダイレクトな出会いが当たり前のようになりました。そんな個の時代に、家を守る女性は貞操でなければならないとでも言いたげな不倫=“ふしだらな女”というイメージは、きわめて差別的で抑圧的で反動的な「俗情との結託」(©大西巨人)と言わざるを得ません。(前も書きましたが)仕事を持った女性の過半が婚外性交渉=不倫の経験があるという統計もあるくらいで、既に不倫なんかどこ吹く風のような人たちも多いのです。というか、不倫という言葉は、現実には死語になっており、週刊誌やテレビのワイドショーの中だけで生きながらえていると言っても過言ではないのです。

会社に勤めていた若い頃、文句ばかり言う私は、上司から「いいか、サラリーマンにとって給料は我慢料なんだぞ。我慢することも仕事なんだ」と言われたことがありましたが、異次元の少子化対策で実施される様々な子育て支援なるものも、考えようによっては、アナクロな家族単位の社会を維持するための「我慢料」のようなものと言えるのかもしれません。そして、その延長上に、新しい時代の自由に対する怖れや反動として、篠田麻里子を叩く“ゲスな感情”があるように思えてなりません。そこにもまた、本来フィクションでしかないのに、差別と排除の力学によって仮構される”市民としての日常性”の本質が露呈していると言っていいでしょう。
2023.03.24 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
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(イラストAC)


■WBCがトップニュース


WBCの準決勝の日本対メキシコ戦が、日本時間の今日(21日)、アメリカ・フロリダ州のローンデポ・パークで行われ、ロッテの佐々木朗希投手が先発ピッチャーに予定されているそうです。

テレビの悪ノリはエスカレートする一方で、報道番組でも、国会審議やウクライナ情勢やアメリカの”金融危機”や中ロ会談を押さえて、WBC関連のどうでもいいようなニュースがトップになっているのでした。

ウクライナ和平の仲介を買って出た中国の習近平主席は、昨日、3日間の予定でロシアを訪問しプーチン大統領と会談しました。初日の非公式会談で習主席は、「ロシアとともに『本当の多国間主義を堅持し、世界の多極化と国際関係の民主化を推進」すると強調」(産経新聞より)したそうです。

「民主化」は悪い冗談ですが、これは、アメリカの没落に伴い世界が多極化する中で、中国がその間隙をぬって300年振りに覇権国家として世界史の中心に復帰するという、歴史の転換を象徴する発言と言っていいものです。

既に中国とロシアは、BRICSや上海機構などを使ってドルの基軸体制から脱却した、新たな(多極型の)通貨体制の構築を進めていますが、欧米の金融危機が顕在化したことで、それがいっそう加速されているのでした。世界の多極化は、私のような人間でさえ2008年のリーマンショックのときから言い続けていることです。アメリカが唯一の超大国の座から転落して、世界は間違いなく多極化する。アジアの盟主は中国になる。面従腹背であれ何であれ(好きか嫌いかなど関係なく)、”東アジア経済共同体”のような協調路線に転換しない限り、日本は生き残れないと。手前味噌ですが、それがいっそう鮮明になっているのでした。

歴史は大きく変わろうとしているのです。中国によるウクライナ和平の仲介もその脈絡で考えるべきなのです。しかし、日本のメディアでは、それよりも東松山のヌーバー・フィーバーの方が優先されるのでした。

■70歳以上に際立つ人気


そんな中で、やっぱりと思ったのが下記の記事でした。

Yahoo!ニュース(個人)
侍ジャパンに岩手県と高齢者が大フィーバー!~大谷翔平・佐々木朗希・村上宗隆らの活躍に熱視線!~

次世代メディア研究所代表でメディアアナリストの鈴木祐司氏は、日本戦の過去5試合の視聴率が軒並み40%を超えたというビデオリサーチの「世帯視聴率」とともに、次のような「興味深いデータ」も取り上げていました。

特定層別視聴率を測定するスイッチメディアや、都道府県だけでなく市町村別視聴率を割り出しているインテージによれば、70歳以上の高齢者が格別に盛り上がっており、地域では岩手県の視聴率が傑出している。


具体的に世代別の視聴率を見ると、まずZ世代(25歳以下)は、「10%に届かないほど低」く、「この世代では、野球に興味のある人がかなり少ないようだ」と書いていました。また、コア層(13~49歳)も、「個人全体と比べると5%以上低い」そうです。

つまり、WBC人気を支えているのは、50歳以上の中高年なのです。中でも、70歳以上が際立って多いのだと。

50~60代は個人全体より7~8%高い。そして70歳以上に至っては個人全体の倍近い。やはり野球は高齢者に支えられているスポーツだ。



WBC日本戦の特定層別視聴率
(上記記事より)


地域別でも、東京は低くて、大谷や佐々木朗希の地元を中心にして、地方の方が圧倒的に高いのだそうです。

関東地区も比較的低く、熊本県をはじめとする南九州が高い。そして北海道や岩手県を頂点に、東北が高くなった。


メディアが言うように、日本中が歓喜に沸いているわけではないのです。昼間のワイドショーでも、電波芸者コメンテーターたちが見ていて恥ずかしくなるような俄かファンぶりをさらけ出しはしゃぎまくっていますが、当然ながらそんな光景を醒めた目で見ている人たちも多いのです。

でも、今の翼賛的な報道の下では、そう言うと、侍ニッポンに水をかけるとんでもない暴言だとして、非国民扱いされかねない雰囲気です。90年前だったら、鉈や斧で襲われたかもしれません。

ヤフコメもWBCでフィーバー(笑)していますが、あの世界の一大事みたいなコメントを投稿しているのも、野球ファンのおっさんたちなのかもしれません。ヤフコメにヘイトな書き込みをしているのは、ネトウヨ化した中高年が多いと言われていますが、合点がいったように思いました。

Yahoo!のトップページに、「韓国が日本に負けて屈辱を味わっている、ざまあ」みたいな記事が多いのも、ヤフコメのコアな層である中高年をさらに煽るために、ネットの守銭奴が意図的に掲載しているのかもしれません。

■テレビ局の切羽詰まった事情


今や野球は、(過去の遺物とは言わないけど)中高年に愛される昔のスポーツなのです。若者のテレビ離れが言われて久しいですが、地上波の視聴者も今は中高年がメインで、中高年向けのコンテンツが必須と言われています。かつての「テレビっ子」がもう中高年のおっさんになったわけですが、それは、プロ野球が国民的人気を博した、”野球の黄金時代”とちょうど重なっているのでした。

そう考えると、WBCをここぞとばかりに(まるで戦争報道のように)煽りに煽りまくって熱狂を演出する、テレビ局の切羽詰まった事情もわからないでもないのです。ただ、「WBC1」(下記の関連記事参照)に足元を見られて放映権料が高騰しているため、40%以上の高視聴率を叩き出しても営業的には赤字なのだそうで、次回の中継はないのではないか(無理ではないか)と言われているのでした。

もっとも、国際大会と言っても、営利を目的とする会社が主催する(サッカーの)カップ戦を真似た興行にすぎないので、次回開催されるかどうか不透明だという声があるくらいです。そもそも各国のリーグ戦が始まる前に「世界一」を決めるというのはお笑いでしかなく、言うなれば、選手たちは、キャンプの合間に、MLBと選手会が共同で作った会社が主催する資金集めのイベントに駆り出されているようなものです。それで、「いざ決戦へ」「世界一奪還」「歴史を塗り替える」などと言われても、鼻白むしかないのです。

と言っても、今のご時世では、それってあなたの意見、感想ですよね、と言われるのがオチなのでしょう。


関連記事:
WBCのバカバカしさ
2023.03.21 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
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(public domain)


■きっこのツイッター


きっこのツイッターに下記のようなツイートがありました。

@kikko_no_blog

嫌味に思われるかもしれませんが、あえて自慢すれば、私は、中学3年のとき、夏の甲子園大会で全国優勝したこともある野球の強豪校からスカウトに来たくらいの、地元ではそれなりに知られた野球少年でした。授業中に野球部の顧問の先生から校庭に呼び出されて、県内では誰もが知る有名人であった強豪校の監督の目の前でマウンドに立ち、投球を披露した(させられた)ことがありました。

野球をするならどこの高校でも入学できるぞ、と今の時代なら信じられないようなことを顧問の先生から言われたのですが、私はそんなのはバカバカしいと思いました。

高校に入って、夏の予選大会で自分たちの学校の応援に行ったら、球場で別の強豪校の野球部に入っている中学時代の同級生に会ったり、また、スカウトに来た監督が私を見つけると傍にやって来て、「お前、野球やってないのか? どうしてやらないんだ? ○○監督(私の高校の野球部の監督)はお前のことを知らないのか?」と言われたことがありました。私が野球をやっていたことを知らないクラスメートたちは、目の前のやり取りを見て驚いていましたが、しかし、その頃の私は既に野球に対する興味が薄れていました。と言うか、むしろ「野球バカ」みたいに見下すような気持すらありました。

ただ、高校を卒業して東京の予備校に通っていたときも、知り合いの伝手で後楽園球場でアルバイトをしていました。その際、試合前の練習をするプロの選手たちをまじかで見てまず驚いたのは、投げたり打ったりするときのフォームの美しさでした。何のスポーツでもそうですが、基本ができているとフォームがきれいなんだなとしみじみ思ったものです。

■野球はマイナーなスポーツ


しかし、現在、監督が市議会議員まで務めた件の強豪校は、野球部のスカウトをやめてただの県立高校になっています。同じように夏の間私の田舎に合宿に来ていた私立高校の強豪校も(そこの監督からもスカウトされた)、今はクラブ活動より特進クラスの大学進学に力を入れて、昔の「不良の集まり」からイメージを一新しています。PL学園もそうですが、「甲子園出場」で生徒を集めるというような発想は、この少子化の時代ではもはや時代錯誤な考えになっているのです。

私の友人は、子どもには野球をさせたいと、用具を揃えるためにスポーツ用品店に行ったら、野球のコーナーは片隅に追いやられ、品数も少なくて「びっくりした」と言っていました。友人の子どもも、少年野球のチームに入った(入れられた)もののすぐにやめて、サッカーのチームに入り直したそうです。

アメリカのメジャーリーグの選手があれだけ“多国籍”になり、開幕戦が日本で行われたりするのも、ひとえに国内の人気が下降して海外に活路を見出そうとしているからでしょう。もっとも、“多国籍”と言っても、その範囲は、かつてアメリカ帝国主義の影響下にあった中南米やアジアの国に限られています。世界大で見ると、サッカーと違って野球はマイナーなスポーツなのです。

WBCの出場国にしても、もともと野球が普及していたのは、本家のアメリカを除くと、日本と中南米のキューバやドミニカやプエルトルコやメキシコくらいで、韓国や台湾も野球が本格的に普及したのは第二次世界大戦後です。その韓国や台湾も、野球の人気が思ったように上がらず、プロ球団の経営にも苦労しているようです。まして、チェコやオーストラリアなどは超マイナーな野球後進国で、そもそも「世界大会」に出場すること自体無理があるのです。と言うか、そういった国を集めて「世界大会」と銘打つのは、多分におこがましく、ウソっぽいと言わざるを得ません。

■TBSとテレビ朝日の悪ノリ


Yahoo!ジャパンがWBCの特設サイトを作っているのを見ると、栗城史多のエベレスト挑戦で、同じように特設サイトを作ったことを連想せざるを得ません。あのとき、Yahoo!ジャパンは、栗城と共同で、ベースキャンプでカラオケとソーメン流しをして、それをギネスに申請するという、恥ずべき企画を立てた前科があるのでした。

選手たちの本業が消防士や地理の教師や金融アナリストや不動産会社社員で、日本に修学旅行気分でやって来たという、どう見てもアマチュアにすぎないチェコと戦って、「勝った」と言って大騒ぎし「日本快進撃」などと言われても鼻白むしかありません。野球をする人間が希少動物のようなマイナーな国を相手に勝って、何が嬉しいんだろうと思います。環境も歴史も違う弱小チームを打ち負かせて、「お前よくやったな」と偉そうに言ってみんなで優越感に浸っているだけです。もともとレベルが違うアマチュアとプロを戦わせるのは、アンフェアな弱い者いじめにすぎません。それで「予選リーグ突破」「準決勝進出」だなんて、片腹痛いと言わねばなりません。

特に、放映権を握るTBSとテレビ朝日の悪ノリには目に余るものがあります。まるでウクライナ戦争における戦争報道と見まごうばかりです。そこに伏在するプロパガンダの構造は、戦争でも野球でも違いはないのです。

ピッチャーが交代すると、カメラマンがどこからともなく現れて、マウンドの近くで投球練習をするピッチャーを撮影したり、ホームランを打ったら、三塁ベースをまわる選手の横をテレビカメラを手にしたカメラマンが並走したりと、試合中にメディアの人間がグランドに闖入するなど本来ならあり得ないことでしょう。

準決勝の相手はイタリアだそうですが、また実況中継のアナウンサーは絶叫し、日本中が「日本凄い!」と歓喜に沸くのでしょうか。悪ノリにもほどあるとしか思えません。裸の王様ではないですが、「こんなのバカバカしい」と誰も言わない不思議を考えないわけにはいきません。

■いびつな「世界大会」のしくみ


また、興行面においても、元毎日新聞記者の坂東太郎氏は、「このWBCという大会は収益配分などが極めていびつで『アメリカのアメリカによるアメリカのための大会』とも揶揄されている」と書いていました。

Yahoo!ニュース・個人
坂東太郎
WBCのいびつな収益構造で太り続けるMLBと選手会。しかも有力選手は出し渋る矛盾した体質

それによれば、大会収益とスポンサー料の66%は、MLB(アメリカ大リーグ機構)と同選手会が共同で設立した「WBC1」という会社に入り、日本に入るのは13%にすぎないのだそうです。そのため、日本の選手会は、せめて「スポンサー権と代表に関連したグッズなどを商品化するライセンス権を代表チームに帰属させるべきと訴えた」のですが交渉が難航。その結果、前回から6年のブランクが生じたと言われているのです。

 結局、この問題は大会期間外にも日本代表(侍ジャパン)を常設して年単位で募ったスポンサー収入の一部や対外試合などの収入を得られるという条件をWBCIに納得してもらい妥協が図られました。


しかし、収益の66%がアメリカに入るという構造はそのまま残されたそうです。

さらに、坂東氏は、大会の組み合わせについても、次のように書いていました。

 とはいえ「アメリカのアメリカによる」という構図は大きく変わっていません。収益配分66%が動いていないのに加えて、

・第1ラウンドC・D組と準々決勝、および準決勝と決勝すべての会場はアメリカ

・3月開催もMLBの日程を優先しての決定

などなど。

 他にも第1ラウンドは予選を勝ち抜いた(日本は免除)4チームを除けばほぼ地域別なのに政治的にアメリカ(C組)と対立しているキューバはなぜか台北開催のA組。日本と同じくアメリカと覇を競う地力のあるドミニカ、プエルトリコ、ベネズエラはD組と万に一つもアメリカが第1ラウンド敗退とならないよう「工夫」されているのです。


最近はG7やG20など国際会議を見ても、スーツの襟に自国の国旗のバッチを付けている首脳がやたら目に付くようになりました。アメリカなどは、共和党も民主党も関係なく(トランプもバイデンも同じように)、アメリカ国旗のバッチを付けています。それはパンデミック後の世界をよく表しているように思います。ユヴァル・ノア・ハラリなどが予言したように、国家が前面にせり出し、人々がナショナリズムに動員されるような時代に再び戻っているのでした。

この捏造された野球の「世界大会」で繰り広げられる(扇動される)「ニッポン凄い!」というナショナリティーに対する熱狂は、パンデミック及びウクライナ戦争後の世界を象徴する愚劣で滑稽な光景と言っていいでしょう。

きっこは、こんな「世界大会」を「クリーン」で「感動する」と言うのです。この程度のミエミエの”動員の思想”にすら簡単に取り込まれてしまう、その見識のなさには呆れるばかりです。ホントに野球が好きな人間ならこんな「世界大会」はしらけるはずです。
2023.03.12 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
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(イラストAC)


■渡辺優樹容疑者の共犯者として逮捕


今回の連続強盗事件は、EXITの兼近の番組降板が取り沙汰されるような思わぬ方向に波及しています。と言うのも、兼近に関しては、2012年に札幌市内で起きた1千万円窃盗事件で逮捕されたことが既に公けになっていましたが、今回の事件で、何と「ルフィ」こと渡辺優樹容疑者の共犯者として逮捕されていたことがあきらかになったからです。

兼近は、その前年の2011年にも、女子高生の売春を斡旋したとして売春防止法違反で逮捕されており、札幌時代は結構なワルだったことが想像できるのですが、それどころか、渡辺優樹容疑者の手下だったという話さえ出ているのでした。

余談ですが、渡辺優樹容疑者は、首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗死刑囚と同じ別海町の出身です。地元の高校を卒業して道内の大学に進学したのですが、大学時代にススキノでアルバイトを始めてから学校にも来なくなり、人が変わったという同級生の話がありました。

俄に信じ難いのですが、アクセスジャーナルは、下記の動画で、兼近は「広域暴力団○○連合系の企業舎弟」だったと言っていました。さらに驚くべきことに、ガーシーのトバイ人脈にも関係しているという話さえあると言うのです。

アクセスジャーナルch
指示役ルフィとされる男との関係が明らかになったEXIT兼近。共犯事件に加え企業舎弟の過去も。連続極悪事件とドバイ住人との関係性追及。

兼近への批判について、“コンプラの暴走”というような声もありますが、ホントにそうなのか。

私たちがうかがい知れない“深い事情”が伏在しているのではないかと思ったりもします。前も書きましたが、ガーシーに関する強制捜査も、著名人に対する名誉棄損は入口にすぎず、本丸は他の犯罪の疑惑が持たれている「ドバイ人脈」だという指摘がありますが、それが兼近にも飛び火するのではないかと言うのです。

■兼近の父親のトラブル


『FLASH』は、2年半前に、札幌でリフォーム会社をやっている兼近の実父が、裁判沙汰になっている顧客とのトラブルを取り上げていますが、その中で、「俺にはヤクザの不動産屋が付いている」と某広域暴力団の名前を出して凄んだという、相手側の証言を伝えていました。

本人は否定していますが、父親が口にしたと言われる某広域暴力団というのが、渡辺容疑者らの特殊詐欺事件に関連して、2020年の2月に合同捜査本部が家宅捜査した札幌の山口組系の団体と同じなのです。しかも、兼近が一緒に逮捕された窃盗事件は、渡辺容疑者が飲食店をはじめる資金を集めるためと言われていますが、逮捕当時の渡辺容疑者の肩書は「不動産業」でした。時期的にはズレがありますが、これは偶然なのだろうかと思いました。

smart FLASH
EXIT「兼近大樹」の父親がリフォーム工事をめぐり裁判沙汰

■お涙頂戴の弁明


ススキノで仕事をしていた知人の話では、ススキノは狭い世界なので、ワルたちがつるんで犯罪に走るのは普通に考えられることでめずらしいことではないと言っていました。兼近も(本人の話では)子どもの頃極貧の家庭で育ち、ススキノに流れて来た若者の一人ですが、ススキノではそういった若者たちのすぐ近くに「金のためなら何でもする」ワルたちの”友達の輪”があり、犯罪と隣り合わせのような日常があったのでしょう。

売春斡旋による逮捕歴が発覚した際には、吉本興業の剛腕で「若気の至り」みたいな話として切り抜けたのですが、今度はそうはいかないかもしれません。

ただ、芸能マスコミには、兼近のお涙頂戴の弁明を称揚し、過去は過去なので前向きに生きてほしいと、芸能界もファンもみんな応援しているかのような報道が目立ちます。兼近を批判するのは、無慈悲な人間みたいな感じさえあるのでした。

しかし、公序良俗のリゴリズムに与するわけではありませんが、実際に”半グレ”で歌のうまい若者が歌手になったり、顔がきれいな女の子がタレントやモデルになったりする例はありますし、YouTubeがいわゆる”反社”の新たなシノギになっている現実もあるのです。それは、芸能人が独立すると干されるような芸能界のアンタッチャブルな顔と表裏の関係にあるものです。言うまでもなく、独立した芸能人を干すのにテレビも加担しており、テレビも共犯関係にあると言えるのです。

兼近が売春防止法違反で逮捕された件について、私はつまびらかには知りませんが、要するにヤクザまがいの女衒ぜげんのようなことをしていたのでしょう。お金を巻き上げるために、親しい女子高生を得意の話術で説き伏せて(半ば脅して)売春するように仕向けたのかもしれません。そこから垣間見えるのは、おぞましいとしか言いようのない、ワル特有の他人(女性)に対する非情さです。にもかかわらず、「かねちー、カッコいい」なんて言っている女性ファンは、ホストに入れ込み金づるにされるのと同じような心理なのかもしれません。

■本人は過去を忘れても過去は本人を覚えている


「本人は過去を忘れても過去は本人を覚えている」と言ったのは柳美里ですが、ホントに「過去は過去」で済ませるような話なのかと思います。しかも、過去と言っても僅か11年前のことです。渡辺容疑者と一緒に逮捕された翌年(2013年)、兼近は吉本総合芸能学院(NSC)東京校に入学。そして、前のコンビを解消したあと、2017年にEXITを組んだのでした。それは、売春防止法違反の逮捕から7年後、渡辺容疑者と一緒に逮捕されてから6年後です。ちょろい人生だと思ったとしてもおかしくないでしょう。

しかも、2012年の事件をきっかけに、経営していた飲食店が潰れ、(おそらく闇金に)莫大な借金を抱え追い込まれた渡辺容疑者らはフィリピンに渡り、今に至る特殊詐欺事件に手を染めたと言われているのです。兼近が渡辺容疑者らと組んで行った窃盗事件は、単なる「過去」とは言えないのです。兼近は、ただ騙されただけと言っているようですが、窃盗事件では、兼近はマンションを管理している不動産会社の社員だという偽の社員証を出して、鍵屋に部屋を開錠させる役割を担っているのでした。偽の社員証も然りですが、自分がやっていることが犯罪だとわかっていたのです。それで「騙された」もないでしょう。

フィリピンの収容所で、渡辺容疑者の手下と言われる今村磨人容疑者が、上半身裸のまま寝そべって、スマホで「一日1万円です」とか何とか電話している盗み撮りの動画が放送されていましたが、それは自分たちのためにやっていると言うより、誰かに「やらさせている」としか思えませんでした。背後にいる闇の勢力が収容所の中の彼らをそこまで必死にさせている、と考えた方がいいでしょう。

どこかで誰かが舌を出してほくそ笑んでいるとしたら、兼近の弁明も一瞬にして瓦解してしまうでしょう。もちろん、お笑い芸人と言えども、プロダクションにとっては商品なので、兼近の発言にも吉本興業の思惑がはたらいているのは言うまでもありません。

■「自伝的小説」と吉本興業


吉本は、一昨年、過去の悪行を逆手に取り、兼近に「自伝的小説」の『むき出し』を書かせて(!?)、芥川賞や直木賞の胴元の文藝春秋社から出版したのですが、それにより、兼近は、何とフジテレビの「めざまし8」や「ワイドナショー」でコメンテーターに起用され、他人の事件に対してこましゃくれたことをコメントするまでになったのでした。これも吉本の力のなせる業と言うべきかもしれません。

2019年に兼近の売春防止法違反の逮捕歴を報じたのは、実は『週刊文春』でした。その際、吉本は、「人権侵害」だとして、「法的措置」も「検討している」と強く反発したのです。ところが、2021年に兼近はその文藝春秋社から小説を出版したのでした。両者の間で何らかの”手打ち”が行われたと考えるのが普通でしょう。今回の新たなスキャンダルとも言うべき騒動について、文春が完全にスルーしているのは驚きですし、いつもの文春からすればきわめて不自然ですが、そこには抗えない”大人の事情”があるからでしょう。吉本の方が一枚上手だったと言うべきかもしれません。

総合エンターテインメント企業として政権に食い込み、今や政府の仕事を委託されるまでになった吉本興業ですが、森功著『大阪府警暴力団担当刑事』(講談社)によれば、昭和39年(1964年)の山口組に対する第一次頂上作戦を行った兵庫県警の捜査資料のなかに、舎弟7人衆のひとりとして、吉本興業元会長(社長)の林正之助の名前が載っていたそうです。

お笑い芸人たちが、兼近に対して「前向きに生きてほしい」と激励するのも、吉本がテレビのお笑い番組の枠をほぼ独占し、絶対的な権力を持っているからで、彼らはただ吉本に動員されているにすぎないのです。そんな吉本を忖度するだけの文春や芸能マスコミのヘタレぶりにも呆れるばかりです。

上記の「自伝的小説」の中で、未成年の女の子を中絶させたとか、中学時代(だったか)にいじめたクラスメートがのちに自殺したとかいった話が出てくるのですが、兼近はSNSでそれはフィクションだと答えています。逮捕歴に関する弁解じみた話は真実で、新たなスキャンダルになるような都合の悪い話は「フィクション」だと言うのです。涙で弁解する一方で、都合の悪いことは「フィクション」「誤解」「ネタ」のひと言で済ませ開き直っているような感じさえあるのでした。

過去に犯罪歴があってもやり直すチャンスはあるべきだという声もありますが、芸能界は私たちが住んでいる世界とは違う”特殊な世界”だということを考える必要があるでしょう。竹中労は、フライデー事件の際、「この世の中には面(つら)はさらしたい、有名にはなりたい、ゼニは稼ぎたい、でも自分の生活は隠しておきたいなんてそんなムシのいい話はないでしょう」とたけしを批判したのですが、もとより、インスタなどを見てもわかるとおり、芸能人はみずからのプライバシーを切り売りすることも厭わない、イメージを商売にする”特殊な”人間たちです。であれば、プライバシーにリクスが伴うのは当然で、過去の犯罪歴がイメージを損ない致命傷になる場合だってあるでしょう。「つら」をさらす仕事をしている限り、それは仕方のないことだとも言えるのです。本人は、過去と真摯に向き合うというようなことを言っているみたいですが、それは今のタワマンに住んでいるような生活を守るために向き合うと言っているだけで、最初から話があべこべなのです。

仮に百歩譲って兼近の弁明を受けれ入れたとしても、では、女子高生を売春させたり、特殊詐欺や強盗事件の主犯格の人間と一緒に窃盗をはたらいた人間の芸に笑うことができるのか、という話でしょう。とどのつまり、それに尽きるのです。


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2023.02.01 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲

■アルゼンチンの「規約違反」


FIFAがワールドカップで優勝したアルゼンチンに対して、決勝戦において「規定違反」があったとして、処分の手続きを開始したというニュースがありました。

AFP
FIFA、アルゼンチンの処分手続き開始 W杯決勝で規定違反か

記事は次のように伝えています。

 FIFAは、アルゼンチンに「攻撃的な振る舞いやフェアプレーの原則への違反」や「選手と関係者の不適切行為」のほか、メディアとマーケティングに関する規定違反があった可能性を指摘している。


私は、それみたことかと言いたくなりました。手前味噌になりますが、私は、ワールドカップでアルゼンチンが嫌いだとして、このブログで下記のような記事を書きました。

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■勝てば官軍


しかし、日本のメディアは、アルゼンチンの優勝を我が事のように喜び、「勝てば官軍」のような称賛の記事のオンパレードだったのです。サッカー専門のメディアも含めて、アルゼンチンの「汚いサッカー」を指摘する声は皆無でした。

それは、カタール大会のいかがわしさに対しても同じでした。一片の見識もないのです。疑問を呈する声はいっさいシャットアウトして、「勝てば官軍」の報道一色に塗られたのでした。

この思考停止した“日本的な光景”は、サッカーだけの話ではありません。ウクライナ侵攻についても、中国脅威論についても同じです。そこにあるのは、寄らば大樹の陰の浅ましい心根だけです。

「国境なき記者団」による2022年の「世界報道の自由度ランキング」で、日本は180ヶ国中、前年の67位からさらにランクを落として71位だったのですが、そのことについても、メディアも国民も危機感などはまったく見られません。ちなみに、アジアでは台湾が38位、韓国が43位です。

■ガーシーの問題


「世界報道の自由度ランキング」が71位という、既に独裁国家並みの報道の自由しかない日本のメディアのテイタラクは、たとえば、(わかりやすい例を上げれば)ガーシーの問題にもよく表れています。

警視庁が強制捜査に乗り出したことについても、メディアは盛んに著名人に対する名誉棄損や脅迫を上げていますが、警視庁のホントの狙いはもっと深いところにある、と「アクセスジャーナル」が書いていました。

アクセスジャーナル
<芸能ミニ情報>第108回「警視庁は、ガーシー議員とZをセットで狙っている?」

ガーシーがドバイに「逃亡」したのもそうですが、「身の安全のために」日本に帰国しないと主張していたのは、最初から不自然でした。現在は、著名人に対する名誉棄損などのために逮捕されたくないからという主張に変わっていますが、当初はそうではなかったのです。

”何か”に怯えていたのです。裏カジノに手を出して莫大な借金を抱えていたことは知られていましたので、反社の闇金融から追い込みをかけられているのではないかと思っていましたが、それだけだったのか。

「アクセスジャーナル」は、「特殊詐欺集団の大物元締」との関係を指摘しています。「興味深い情報」として、二人は「汚れ仕事を手を染めているだけでなく、連携していると聞いていた」と書いていました。警視庁は、YouTubeからの収入などを管理する「合名会社」やその関係者宅を家宅捜索し、一部では捜査の過程で新たな「投資トラブルがあったことも発覚した」と伝えられています。

「アクセスジャーナル」が言う「汚れ仕事」が、著名人に対する「常習的脅迫」だけ・・を指しているとはとても思えません。捜査は、YouTubeによる著名人への名誉棄損や脅迫から、別の方向に進んでいるような気がしてなりません。

国会議員に対する強制捜査に着手したというのは、国会議員には国会開会中は逮捕されないという「不逮捕特権」がありますので、当然国会との調整もついた上のことでしょう。

と思ったら、案の定、参議院の石井準一議院運営委員長が、ガーシーに対して、今月の23日に召集される通常国会も欠席が続けば「懲罰に相当する」との認識を示したという報道がありました。

ガーシーは3月の上旬に帰国すると答えていますが、石井議院運営委員長は今月の通常国会と言っているのです。警視庁が国会の処分を視野に強制捜査に着手したのは間違いない気がします。誰かも言っていましたが、たしかに「詰んできた」ように思います。

芸能人に女性をアテンドし、裏カジノに手を出して、既に和解したとは言え”BTS詐欺(まがい)”まではたらき、それで芸能界の周辺にたむろするいかがわしい人間達と関係がないというのは、どう考えても無理があるでしょう。

だからと言って、ガーシーの標的になった芸能人がまったくの被害者なのかと言えば、そうも言えないのが芸能界が芸能界たる所以です。吉本隆明ではないですが、芸能界は普通のお嬢ちゃんやお坊ちゃんでは務まらない”特殊な世界”なのです。言うなれば、美男美女の不良ワルが集まったところなのです。当然、脛に傷を持つ不良ワルも掃いて棄てるほどいるでしょう。

名誉棄損や脅迫といった”軽犯罪”で、どうして関係者宅まで家宅捜索されるのか。そもそも「合名会社」や関係者というのは何なのか。疑問は尽きませんが、メディアは右へ倣いしたようなおざなりな報道をくり返すだけです。

私は、ここに至って、再びみずからの動画でガーシーに弁明させた田村淳に対しても、何をそんなに怯えているのかと思いました。「ワイドナショー」でも田村淳はガーシーを擁護していたようですが、それは単なる逆張りとは思えません。
2023.01.15 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
Revolution+1


足立正生監督の「REVOLUTION+1」の完成版が、先週の土曜日(24日)から公開されましたので、今日、横浜のジャック&ベティに観に行きました。

「REVOLUTION+1」が年内に公開されているのは、横浜のジャック&ベティと大阪の第七藝術劇場と名古屋のシネマスコーレの三館のみです。

私が観たのは公開3日目の昼間の回でしたが、客は半分くらいの入りでした。初日は超満員で、二日目も監督の舞台挨拶があったので入りはよかったみたいですが、三日目は平日ということもあってか、関東で唯一の上映館にしては少し淋しい気がしました。観客は、やはり全共闘世代の高齢者が目立ちました。

国葬の日に合わせてラッシュ(未編集のダイジェスト版)の公開がありましたが、そのときから観もしないで「テロ賛美」「暴力革命のプロパガンダだ」などと言って、ネトウヨや文化ファシストがお便所コオロギのように騒ぎ立てていました。しかし、彼らには「安心しろ。お前たちの心配は杞憂だ」と言ってやりたくなりました。

「REVOLUTION+1」はどうしても「略称・連続射殺魔」(1969年)と比較したくなるのですが、「略称・連続射殺魔」に比べると、饒舌な分凡庸な映画になってしまった感は否めません。ラッシュの限定公開を国葬の日にぶつけたので、もっと尖った映画ではないかと期待していたのですが、期待外れでした。

足立監督は、記者会見で、山上徹也容疑者(映画では川上哲也)を美化するつもりはないと言っていましたが、むしろそれが凡庸な作品になった要因のようにも思います。「やったことは認めないけど気持はわかる」というのは「俗情との結託」(大西巨人)です。むしろ、あえて「美化」することから自由な表現が始まるのではないか。尖ったものでなければ現実をこすることはできないでしょう。

安倍晋三元首相や文鮮明夫妻を痛烈に批判する言葉はありますが、しかし、「ジョーカー」のように、彼らに対する憎悪が観る者に迫ってくる感じはありませんでした。

監督自身も舞台挨拶で、この映画を「ホームドラマ」と言っていたそうですが、主人公と家族の関係もステレロタイプな描き方に終始していました。私は、「家庭の幸福は諸悪の根源である」という太宰治の言葉が好きなのですが、映画のように、家族はホントに”帰るべきところ”なのか、”郷愁”の対象なのかと思いました。だったら、世の中にはどうしてこんなに家族殺しがあるのかと言いたくなります。

主人公の妹が、自分の旧統一教会に対する復讐は(兄と違って)「政治家を変えること」だと言っていましたが、その台詞には思わず笑いを洩らしそうになりました。さらに、妹は次のように言います。

「『民主主義の敵だ』って言うバカもいる。でも、民主主義を壊したのは安倍さんの方だよ。誰が考えても民主主義の敵を攻撃したのは兄さんだよ。だから、私は兄さんを尊敬するよ」

そして、妹は、「青い山脈」みたいに、うららかな日差しに包まれた坂道を自転車で駆け登って行くのでした。私はそのシーンに仰天しました。

安倍元首相を銃撃するシーンの前には、足立映画ではおなじみの水(雨)がチラッと出て来ますが、監督の意図どおりに効果を得ているようには思えませんでした。

主人公の父親が京大でテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の”犯人”と麻雀仲間だったという設定や、アパートの隣室に「革命二世」の女が住んでいて、主人公が銃を造っていると打ち明けると、「あんた、革命的警戒心が足りないよ」と諭されるシーンや、主人公が「おれは何の星かわからないけど星になりたい」と呟くシーンが、この映画の”通奏低音”になっている気がしないでもありませんが、しかし、観客に届いているとは言い難いのです。

そもそも映画に登場する「革命二世」や「宗教二世」も、まるで取って付けたような感じで、その存在感は人形のように希薄です。「革命二世」や「宗教二世」の女性に誘われて気弱く断る主人公に、監督の言う山上徹也容疑者「童貞説」が示されており、山上容疑者の人となりを描いたつもりかもしれませんが、そこにはピンク映画時代の古い手法と感覚が顔を覗かせているようで興ざめでした。

山上徹也容疑者の行為がどうしてテロじゃないと言えるのか。それは、単にマスコミや警察がそう言っているだけでしょう。映画はもっと自由な想像力をはたらかせることができる表現行為のはずです。たとえば、(架空の)教団に視点を据えてカルトの残忍さと滑稽さを描くことで、「川上哲也」の一家を浮かび上がらせる手法だって可能だったはずです。その方が足立映画の武器であるシュルレアリスムを駆使できたのではないかと思います。

どうして警察やメディアの視点に沿った「俗情」と「結託」したような映画になってしまったのか。700万円強という低予算で、しかも、実在の事件から日を置かず制作され撮影期間も短かったという事情があったにせよ、とても残念な気がしました。私は、「問題作」にもなってないと思いました。むしろ、戦後民主主義におもねる不自由な映画のように思いました。

映画の出来はともかく、この映画が上映されることに意味があるという意見もありますが、それは政治的に擁護するための詭弁で、ある意味作品に対する冒涜とも言えます。私はその手の言説には与したくないと思いました。

ただ、低予算、短い撮影期間の突貫工事の割には、チープな感じはなく、足立正生監督の「映画を撮るぞ」のひと言で、今の日本の映画界の屋台骨を支える(と言っても決してオーバーではない)錚々たるメンバーがはせ参じた「足立組」の実力を見た気がしました。その点は凄いなと思いました。
2022.12.28 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
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今回のワールドカップは、暇だったということもあったし、ABEMAが全試合を(しかも無料で)放送したということもあって、ほぼ全試合観ることができました。

結局、アルゼンチンが36年振りにワールドカップを手にすることになったのですが、実は私は延長戦の後半早々に、ゴール前のこぼれ球をメッシが入れた時点で、テレビを消してふて寝したのでした。「ニワカ」ですので、それもありなのです。

ところが、朝起きてテレビのスイッチを入れると、そのあとエンバペがPKを入れて同点に追いついて、最終的にはPK戦になってアルゼンチンが勝ったことを知ったのでした。

どうしてふて寝したのかと言えば、フランスを応援していたということもありますが、メッシが好きではないからです。小柳ルミ子が歓喜のあまり号泣したという記事が出ていましたが、私はその反対です。

メッシの背後にはアルゼンチンの汚いサッカーがあります。自分たちのラフプレーは棚にあげて、すぐ倒れて仰々しくのたうちまわり、そして、審判に文句ばかり言う。アルゼンチンのおなじみのシーンには、毎度のことながらうんざりさせられます。

オランダ戦ほどではなかったものの、アルゼンチンとフランス戦を見ても、マナーの違いは歴然としていました。手段を選ばず「勝てば官軍」という考えは、別の意味で、日本と似たものがあります。メッシは、そんなアルゼンチンのサッカーのヒーローにすぎないのです。

翌日の日本のテレビには、「神の子・メッシ」などという恥ずかしいような賛辞が飛び交い、ここはアルゼンチンかと思うくらい小柳ルミ子ばりの「勝てば官軍」の歓喜に沸いていましたが、何をか言わんやと思いました。

たしかに、メッシのキックの精度は目を見張るものがあったし、こぼれ球などに対する反応は抜きん出ていたと思います。しかし、動きは相変わらず交通整理の警察官みたいだったし、ボールが渡っても奪われるシーンも多くありました。メッシがいることで、アルゼンチンは10人半のサッカーを強いられた感じがありました。

MVPは、むしろメッシ以外のアルゼンチンの選手たちに与えるべきでしょう。彼らは、メッシを盛り上げるために、半人足りないサッカーに徹して勝ち進んで行ったのです。それはそれで凄いことです。

FIFAの不透明な金銭のやり取りや出稼ぎ労働者が置かれた劣悪な労働環境やLGBTに対する差別などに、目を向けて抗議の声をあげたのはヨーロッパの選手たちでした。そんなものは関係ない、「勝てば官軍」なんだと言って目をつぶったのは、日本をはじめ他の国の選手たちでした。

カタール大会の負の部分などどこ吹く風とばかりに、カタールのタミル首長とFIFAのジャンニ・インファンティーノ会長からトロフィを渡されて満面の笑みを浮かべるメッシの姿は、全てをなかったことにするよこしまな儀式のようにしか見えませんでした。

また、アルゼンチンの優勝を自国のそれのように報道する日本のメディアは、ハイパーインフレに見舞われているアルゼンチンが、サッカーどころではない状況にあることに対しては目を背けたままです。アルゼンチンからカタールまで遠路はるばるやって来て応援しているサポーターは、インフレなどものともしない超セレブか全財産を注ぎ込んでやって来たサッカー狂かどっちかでしょう。いくらサッカーが貧者のスポーツだからと言って、その日の生活もままならず、それこそ泥棒か強盗でもしなければ腹を満たすこともできないような下層な人々はサッカーどころじゃないのです。

チェ・ゲバラとフィデル・カストロの入れ墨を入れたマラドーナは、そんな下層の虐げられた人々に常に寄り添う姿勢がありました。だから、アルゼンチンのみならずラテンアメリカの民衆の英雄ヒーローたり得たのです。しかし、メッシはアルゼンチンのサッカーのヒーローではあるけれど、マラドーナのようなサッカーを越えるカリスマ性はありません。それが決定的に違うところです。

もしマラドーナが生きていたら、今回のカタール大会に対しても、サン・ピエトロ大聖堂を訪問したときと同じように、痛烈な皮肉を浴びせたに違いありません。

一方、日本では、本田圭佑のような道化師ピエロを持て囃すことで、全てなかったことにされ、サッカー協会の思惑通り森保続投が既定路線になっているようです。小柳ルミ子が出場するのかどうか知りませんが、森保監督は大晦日の紅白歌合戦にも審査員として出演するそうなので、これで監督交代はまずないでしょう。検証など形ばかりで、いつものように「感動をありがとう!」の常套句にすべて収斂されて幕が引かれようとしているのです。

日本のサッカーはついに世界に追いついた、などと言うのは片腹痛いのです。どうして日本のサッカーには批評がないのか、批評が生まれないのか、と思います。それは、選手の選定や起用にまでスポンサーが口出しするほど、スポンサーの力が強いということもあるでしょう。でも、それはとりもなおさず、日本サッカー協会の体質に問題があるからです。批評させない、批評を許さない、目に見えない圧力があるのではないか。

高校時代にちょっとサッカーを囓っただけで”サッカーフリーク”を自称するお笑い芸人たち(ホントは吉本興業がそういったキャラクターで売り込んでいるだけでしょう)にサッカーを語らせる、バラエティ番組とみまごうばかりのサッカー専門番組。また、一緒に番組に出ているJリーグのOBたちも、所詮は協会の意向を代弁する協会の子飼いにすぎません。相撲などと同じように、如何にも日本的な”サッカー村”が既に形成されているのです。こんなカラ騒ぎでは、「ワールドカップが終わったらサッカー熱が冷める」のは当然でしょう。
2022.12.20 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
サッカーボール


スペインが、決勝トーナメントの初戦で、PK戦の末モロッコに敗れましたが、モロッコ戦のスペインは日本戦のときと同じでした。スペインは決勝トーナメントを見据えて日本戦で手をぬいた、というような話がありましたが、それは誇大妄想だったのです。そもそもスペインには、そんな“強者の余裕”などはな 、、からなかったのです。あれがスペインの今の力だったのです。

日本のメディアでは、「日本サッカーの歴史が変わった」などと「勝てば官軍」のバカ騒ぎが続いていますが、そんな中で、まるで自画自賛の浮かれた空気に冷水を浴びせるように、セルジオ越後氏が下記のような感想を述べていました。

日刊スポーツ
【セルジオ越後】早い段階からブラボーブラボー…弱いチームが快進撃続けた時の典型的なパターン

もうブラボーって言えなくなったな。早い段階から日本はブラボー、ブラボーと騒ぎすぎた。喜ぶのはいいことだが、日本国内も現地カタールでも、すべてを得たような騒ぎだった。弱いチームが快進撃を続けた時の典型的なパターン。結局、世界の中で日本の立ち位置はまだ低いということだね。決勝トーナメントに入ってからが本当の勝負なのに、その前に満足したのかな。クリスマスの前に騒ぎすぎて、いざクリスマスの時は酔っぱらいすぎて疲れてしまったって感じだな。


攻め手がなく、みんな守り疲れて、スイッチを入れるタイミングでは足が動かなかった。ロングボールを前線に蹴り込んで、何とかしてくれ、と言われても何とかならない。


カウンターに頼るのが弱いチームの常套戦術であるのは、「ニワカ」の私でも知っています。私もたまたま観ていて、思わず膝を叩いたのですが、内田篤人も、クロアチア戦のあとの「報道ステーション」で、選手の声として、次のように伝えていました。

「このスタイルがこの先の日本の方向性を決めるスタイルなのかな。僕たちがやりたいサッカーって何なのかな。これは強いチームに対してしっかり守ってカウンター。それは日本のやりたいことなのかなっていう声も選手の中では聞こえてきました」(ディリースポーツの記事より)


ホントに日本のサッカーは進歩したのか。11月9日の国内組の出発の際は、数十人が見送っただけだったのに、今日は約650人のファンと約190人の報道陣が、成田空港の到着ロビーに出迎えたそうです。こんな安直な手のひら返しの現実を前にして、「日本サッカーの歴史が変わった」と言われても鼻白むしかありません。

終わりよければ全てよしで、森保監督の続投も取り沙汰されていますが、何だかサッカーまでが野球や相撲と同じパラダイス鎖国のスポーツになりつつあるような気がしてなりません。日本では、テストマッチや選手の起用などにスポンサーが関与することが前から指摘され、問題視されていました。日本のサッカーが世界のレベルに近づくためには、まず日本サッカー協会が前時代的な”ボス支配”から脱皮することが必要なのです。そういった改革を求める声も、いつの間にかどこかに飛んで行った感じです。

「勇気をもらった」「元気をもらった」「感動をありがとう」などという、お馴染みの情緒的な言葉によって思考停止に陥り全てをチャラにする没論理的な精算主義は、日本人お得意の精神的な習性とも言えるものですが、あにはからんや、森保監督の「和」を尊ぶ対話路線が「歴史を変えた」みたいな話が出て、この4年間の検証はそれで済まされるような空気さえあります。そうやって全員野球ならぬ”全員サッカー”の日本的美徳が言挙げされ、結局また元の木阿弥になってしまうのかもしれません。

ワールドカップなんて、国内リーグの「おまけ」「お祭り」みたいなものと言う人もいるくらいで、たしかに海外の強豪国のサッカーは個々の選手のパフォーマンスの競演みたいな感じがあります。一方、日本は「和」を重んじる”全員サッカー”で、選手の個性があまり表に出て来ません。「オレが」「オレが」というのは嫌われ、「出る杭は打たれる」のが日本の精神的風土ですが、しかし、(遊びでも実際にサッカーをするとわかりますが)サッカーというのは「オレが」「オレが」のスポーツなのです。そういった精神性もサッカー選手にとって大事な要素であるのはたしかでしょう。たまたまかもしれませんが、今大会で唯一個性が出ていたのは三苫薫くらいです。だから、彼は高い評価を得たのでしょう。

いつまで「日本人の魂」や「日本人の誇り」でサッカーを語るつもりなのか、と言いたくなります。スポーツライターの杉山茂樹氏いわく、「海外にも、適任者はたくさんいるが、こう言っては何だが、そのキャリアを捨て日本代表監督になろうとする人物はけっして多くない」(Web Sportiva)そうなので、外国人監督を招聘するのも大変なのかもしれませんが、子飼いの日本人監督だったら誰がなっても同じだと思います。彼らのサッカーは、丸山眞男が言う「番頭政治」みたいなものです。日本の選手たちがせっかくこれだけ海外のクラブでプレーして、世界レベルのサッカーで揉まれて、それなりのパーフォーマンスを身に付けているにもかかわらず、内田篤人が言うように、自己を犠牲にした守りに徹した上に、ロングボールでカウンターではあまりに芸がなさすぎる、と「ニワカ」は思うのでした。
2022.12.07 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
日本がスペインを破って決勝トーナメントに進出を決めたことで、日本中が地鳴りが起こるような大騒ぎになっています。メディアの「勝てば官軍」はエスカレートするばかりです。

まるで真珠湾攻撃のあとの大日本帝国のように、国中が戦勝ムードに浮かれているのを見ると、天邪鬼の私は、気色の悪さを覚えてなりません。

私はただの「ニワカ」ですが、もちろん、みながみなサッカーに関心があるわけではないでしょう。サッカーで騒いでいるのは一部と言っていいかもしれません。でも、メディアの手にかかれば、まるで国中が歓喜に沸いているような話になるのです。

また、Jリーグのクラブチームの熱烈なサポーターの中には、代表戦にはまったく興味がないという人間もいるのです。それは、日本だけではなくヨーロッパなども同じで、サポーターの間ではそういったことは半ば常識でさえあるそうです。私の知り合いで、スペインリーグの熱烈なファンがいて、年に何度か現地に応援に行っていましたが、彼も代表戦にはまったく興味がないと言っていました。

だから、彼らは、代表戦のときだけサッカーファンになって騒ぐ人間のことを「ニワカ」と呼んでバカにするのですが、たしかに日頃からスタジアムに足を運んで、地元のチームを応援している人間からすれば、代表戦のときだけユニフォームを着てお祭り騒ぎをしている「ニワカ」たちをバカにしたくなる気持はわからないでもありません。

ところが、そんな代表戦を醒めた目で見ていたサッカー通のサポーターでも、スペインに勝った途端、「こんな日が来るとは思わなかった」「隔世の感がある」なんてツイートするあり様なのでした。これではどっちが「ニワカ」かわからなくなってしまいます。

今回のワールドカップで印象的なのは、ヨーロッパや南米のチームが相対的に力が落ちてきた(ように見える)ということです。

日本戦でも、前半のスペインは、まるで日本をおちょくっているかのような、緊張感のないパス回しに終始していました。巧みなパス回しは「ティキ・タカ」と言われスペインサッカーの特徴だそうですが、その先にあるはずの波状攻撃がほとんどありませんでした。パス回しを披露する曲芸大会ではないのですから、今になればあれは何だったんだと思ってしまいます。後半に立て続けに日本に点を入れられてからのあたふたぶりやおざなりなパスミスも、今までのスペインには見られなかったことです。

スペインは、日本が0対1で負けたコスタリカには7対0で圧勝しているのです。サッカーはそんなものと言えばそうかもしれませんが、日本戦ではコスタリカ戦で見せたような迫力に欠けていたのはたしかでしょう。

メディアが言うように、日本の力がホントにスペインやドイツを打ち負かすほど上がってきたのか。でも、ワールドカップの前までは、日本のサッカーはまったく進化してない、そのためワールドカップも関心が薄い、と散々言われていたのです。それが、今度は手の平を返したようなことを言っているのです。

それに、今のバカ騒ぎを見ていると、コロナ禍もあって、どこのクラブも経営が悪化していることが嘘のようです。今年の3月にはお茶ノ水の本郷通りから入ったところにある日本サッカー協会の自社ビル(JFAビル)が、JFAの財政悪化で三井不動産に売却されることが発表され衝撃を与えました。私は、JFAが渋谷の道玄坂の野村ビルにあった頃から知っていますが(その横にいつも路上駐車していたので)、今調べたらお茶の水に自社ビルを建てて移転したのは1993年だそうです。あれから僅か30年で再び賃貸生活に戻るのです。「ニワカ」たちは、日本のサッカーが置かれている厳しい現実に目を向けることも忘れてはならないでしょう。

交通整理の警察官みたいなメッシに頼るだけのアルゼンチンがサウジに負けたのは、小柳ルミ子と違って私は別に驚きませんでしたが、ポルトガルも韓国に負けたし、ブラジルもカメルーンに、ベルギーもモロッコに、フランスもチュニジアに負けました。ドイツに至っては前回大会に続いてグループリーグ敗退なのです。

決勝トーナメントに進出した16ヶ国のうち、ヨーロッパは半分の8ヶ国を占めて一応面目を保ちましたが、南米はブラジルとアルゼンチンの2ヶ国だけでした。たしかに、サッカーも、ヨーロッパや南米が特出した時代は終わり、世界が拮抗しつつあるのかもしれません。

森保監督は、決勝トーナメント第一戦のクロアチア戦への意気込みを問われて、「日本人の魂を持って、日本人の誇りを持って、日本のために戦うということは絶対的に胸に刻んでいかないといけない」と、まるで戦争中の校長先生の訓辞のようなことを言っていましたが、それを聞いて、私は、この監督の底の浅さを見た気がしました。登山もそうですが、スポーツは戦争とは違うのです。森保監督は、スポーツを戦争と重ねるような貧しい言葉しか持ってないのでないか。

日本の代表メンバー27人のうち国内組は7人にすぎず、あとは海外のクラブに所属しています。多くの選手は、普段は海外でプレーしており、代表戦のときだけジャパンブルーのユニフォームを着て、肩を組んで君が代を歌っているにすぎないのです。

サッカーは偶然の要素が大きいスポーツですが、そうそう偶然が続くとは思えないので、日本のサッカーのレベルが上がったのかもしれませんが、そうだとしても、「日本人の魂」や「日本人の誇り」は関係ないでしょう。日本代表のレベルが上がったのなら、多くの選手が海外のクラブに所属して、世界レベルのサッカーを経験したからです。強調すべき(問われるべき)は、「日本人の魂」や「日本人の誇り」ではなく、海外で培われた(はずの)ひとりひとりの選手のパフォーマンスでしょう。

それにしても、メディアの「勝てば官軍」には、恥ずかしささえ覚えるほどです。ヨーロッパでは、カタール大会に批判的な声が多く、それに抗議するためにパブリックビューイングをとりやめたり、スポーツバーなども応援イベントを中止したりして、今までの大会のような熱気は見られないと言われています。中にはいっさい報道しないという新聞もあるくらいです。ところが、日本のメディアの手にかかれば、それは負けて意気消沈してお通夜のように静まりかえっている、という話になるのです。戦争中の大本営発表か、と言いたくなりました。

ワールドカップの関連施設の建設に従事した同じアジアからの出稼ぎ労働者6500人が、過酷な労働で亡くなった問題などどこ吹く風のようなはしゃぎようです。ブラジルの応援団の男性が、虹が描かれたブラジルの州旗を持ってスタジアムの近くを歩いていたら、カタールの警察に取り囲まれて旗を取り上げられたという出来事もあったそうですが、そんな国でワールドカップが開催されているのです。カタールは、同性愛者は逮捕され、拷問を受けたり死刑にされたりする国なのです。

日本はそういった問題にあまりにも鈍感なのですが、もっとも、日本でも外国人技能実習制度が人権侵害の疑いがあるとして、国連の人種差別撤廃委員会から是正の勧告がなされていますし、レインボーカラーに対しても、LGBTに反対する杉田水脈のような日本会議や旧統一教会系の右派議員から反日の象徴みたいに呪詛されており、カタールと似た部分がないとは言えないのです。

JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は、大会前に、カタールの人権侵害に抗議の声が上がっていることについて、「今この段階でサッカー以外のことでいろいろ話題にするのは好ましくないと思う」「あくまでサッカーに集中すること、差別や人権の問題は当然のごとく協会としていい方向に持っていきたいと思っているが、協会としては今はサッカーに集中するときだと思っている。ほかのチームもそうであってほしい」とコメントしたそうですが、それこそスポーツウォッシング(スポーツでごまかす行為)の見本のようなコメントと言っていいでしょう。ヨーロッパのサッカー協会に比べて、田嶋幸三会長の認識はきわめてお粗末で下等と言わねばなりません。それがまた、日本のメディアの臆面のない「勝てば官軍」を生んでいるのだと思います。

もっとも、前も書きましたが、「勝てば官軍」=ぬけがけ・・・・の思想においては韓国も同じです。ここでも、日本と韓国は同じ穴のムジナと言っていいほどよく似ているのでした。
2022.12.03 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
明日(11月20日)開催されるFIFAワールドカップカタール大会の開会式のイベントに出演するために、BTSのジョングクが韓国を旅立った、というニュースがありました。彼は、大会の公式サウンドトラックも担当しているそうです。

カタール大会については、前の記事でも書きましたが、関連施設の建設に従事した出稼ぎ労働者が過酷な労働で6500人も亡くなったという話や、カタール政府のLGBTの迫害や女性に対する抑圧などに抗議して、ロッド・スチュワートやデュア・リパが出演を辞退しています。また、選手の間でもさまざまな抗議の動きがあります。そんな中、ジョングクはイベントで(まるでぬけがけのように)パフォーマンスを披露するのです。

折しも、今日の朝日新聞に、「BTSから考える『男らしさ』の新時代」という、元TBSアナウンサーの小島慶子のインタビュー記事が掲載されていました。聞き手は伊藤恵里奈という女性記者です。

朝日新聞デジタル(11月19日)
ジェンダーを考える 第6回
BTSから考える「男らしさ」の新時代 過ちを認め、学び、変化する

その中に次のような箇所がありました。

 ――BTSのデビューは13年。15年から16年ごろ、歌詞が「女性差別だ」と批判を受けました。例えば女性の外見を批評して「女は最高のギフト」としたほか、「食事を目で食べるっていうのか? 女みたいに」と女性を見下す表現がありました。

 当時、韓国ではフェミニズム運動の高まりを受けて、BTSだけでなく色々なK-POPアイドルの歌詞や言動が批判されました。

 BTSは時間はかかったものの、「女性蔑視の表現だった」と認めて、公式に謝罪しました。

 ――かつては、彼らも誤っていた、ということですね。

 そうです。その後は、ジェンダー問題の専門家の意見を交えながら、無意識のうちに内面化されてきた女性差別的な視点が出ないように、本気で学んだのです。


しかし、カタールはイスラム国家であるため、女性の権利は著しく制限され抑圧されています。もちろん、前の記事で書いたように、LGBTへの弾圧も日常的に行われています。カタールの法律では、同性愛の最高刑は死刑と規定されており、実際に死刑になった例もあると言われています。

BTSのどこが「女性蔑視」の誤りを認め、フェミニズムを「本気で学んだ」と言えるのでしょうか。歌詞についての”学び直し”も、所詮はビジネス上の損得勘定によるものにすぎなかったのではないか。まして、韓国は、日本以上に家父長制的な男尊女卑の考えが残る社会です。BTSもそんな風土で育った若者たちです。だから、何の疑いもなくあんな歌詞を書いたのでしょう。

その上、カタールは、出稼ぎ労働者に対する「カファラシステム」という事実上のドレイ制度さえ存在する国です。出稼ぎ労働者の多くはBTSと同じアジアから来た人たちです。BTSは、国連などでは立派な発言をしていますが、目の前の人権侵害に対しては一片のナイーブな感性さえ持ち合わせてないのか、と言いたくなります。

私は、『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)の中で、著者の朴裕河パクユハが、ベトナム戦争に参戦した韓国軍の兵士たちが「過去に日本やアメリカがしてきたことをベトナムでした」と書いていたのを思い出しました。念の為に言えば、それは、現地の女性に対する性暴力のことです。

経済的に発展して先進国の仲間入りをした今の韓国人たちは、発展途上のアジアの国の人々に対して、かつて日本人が自分たちを視ていたのと同じような目で視ているのではないか。そう思えてなりません。

朝日の記事で、小島慶子が開陳した“BTS論”は、どう見ても“買い被り”です。BTSは、ロッド・スチュワートやデュア・リパのような自分の言葉を持ってないのです。ただ持っているふりをしているだけです。「Love Myself」キャンペーンや国連でのスピーチも、世界進出のためのポーズだとしか思えません。それが、世界の市場を相手にする(せざるを得ない)K-POPと、「パラダイス鎖国」で完結するJ-POPの大きな違いなのです。

たしかに、世界的なイベントに呼ばれるだけでも凄いとは思いますが、それで無定見にホイホイ出かけていく姿を見て、(言い方は悪いですが)化けの皮がはがれたという気がしないでもありません。もしかしたら、(契約上)仕方なくジョングクひとりだけ行った、などと言ってまたぞろ詭弁を弄して言い訳するのかもしれませんが、私たちはもういい加減眉に唾して聞いた方がいいでしょう。
2022.11.19 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
ワールドカップボール


2022FIFAワールドカップ・カタール大会が11月20日に開幕します。大会が迫るにつれ、メディアは、グループリーグでスペイン・ドイツ・コスタリカと同じ「死の組」に入った日本は、果たして決勝トーナメントに勝ち進むことができるか(進めるわけがない)、勝機はどこにあるか(あるわけない)、という話題で連日(空しい)盛り上がりを見せています。というか、サッカー人気に陰りが出てきた中で、そうやって180億円とも200億円ともはたまた350億円とも言われる、放映権料(非公表)に見合うだけのテレビの視聴率を上げようと躍起になっているのでしょう。

しかし、今回のカタール大会においては、開催に疑問を持つ意見が多く、大会に際して、欧州のサッカー協会や選手たちから抗議の声があがっており、具体的に抗議の意思を示す流れも広がっているのでした。

と言うのも、カタール政府は、ワールドカップ開催に対して、約3000億ドル(43兆円)の巨費を投じて、スタジアムや宿泊施設、それに道路や鉄道などのインフラの工事が行ったのですが、イギリスのガーディアン紙によれば、開催が決定してからこの10年間で、工事に従事したインドやパキスタンやバングラデシュやフィリピンやネパールなどからやって来た出稼ぎ労働者6500人以上が、劣悪な労働環境の中で命を落とした、と言われているからです。

アムネスティの報告でも、中東特有の酷暑と長時間労働によって、多くの出稼ぎ労働者が犠牲になっていることを伝えています。

アムネスティ
カタール:酷暑と酷使で亡くなる移住労働者 悲嘆に暮れる母国の遺族

IOL(国際労働機関)も調査に乗り出して、2021年11月に報告書をまとめています。それによれば、カタール政府が運営する病院と救急サービスからワールドカップ関連の事案を収集した結果、2021年だけで50人の労働者が死亡し、500人以上が重傷を負い、さらに3万7600人が軽・中等の怪我を負っていると報告されています。

ロッド・スチュワートも、100万ドル(1億3000万円)でオファーされた開会式のイベントの出演を、カタールの人権問題を理由に断ったと言われています。また、デュア・リパも、「全人類に対する人権が認められるまで決してこの国を訪問しない」と公言し、出演を辞退したことをあきらかにしてます。挙句の果てには、カタール開催の際のFIFA会長であったゼップ・ブラッター前会長も、今になってカタールを開催地に選んだのは「間違い」だったと発言しているのでした。

カタールは、天然ガス資源に恵まれ、そのガスマネーにより中東でも屈指の金満国家です。気温が40度以上にも上がるような酷暑に見舞われるカタールは、とてもサッカーの大会に向いているとは思えませんが、FIFAが開催を決定したのは、ひとえに潤沢なガスマネーに期待したからでしょう。

カタールは人口290万人のうち、自国民は1割程度しかいなくて、あとは外国人で成り立っている国です。公務員も半分は外国人だそうです。でも、経済的には豊かな、それこそ成金のような国なので、外国から出稼ぎ労働者を積極的に受け入れています。というか、特権階級の10%の自国民の日々の生活のためには、現場仕事をする出稼ぎや移民の外国人労働者が必要不可欠なのです。

カタールに限らず中東には、出稼ぎ労働者を対象にした「カファラシステム」という制度があるそうです。「カファラシステム」というのは、雇用主が出稼ぎ労働者の「保証人」になる制度だと言われていますが、しかし、私たちが普段抱いている「保証人」のイメージとは違います。言うなれば、昔の「女郎屋」の主人と「女郎」のような関係で、雇用主が出稼ぎ労働者に対して在留資格の判断も含めて絶対的な権限を持ち、雇用主の許可がなければ、職場を変わることも帰国することもできないのです。そのため、雇用主による虐待や強制労働、人身売買の温床になっているという指摘があります。言うなれば、現代のドレイ制度です。その点では、日本の外国人技能実修生の制度とよく似ています。

また、カタールは厳格なイスラム国家ということもあって、同性愛などは法律で禁止されており、性的マイノリティの人間が内務省の予防保安局という組織に摘発され、拷問を受けるようなことが日常的に行われているそうです。カタールは、民主主義と相いれない警察国家でもあるのです。

先日も、大会アンバサダーを務める元カタール代表MFカリッド・サルマーンが、ドイツのテレビ局のインタビューで、性的マイノリティについて「彼らはここで我々のルールを受け入れなくてはいけない。同性愛はハラームだ。ハラーム(禁止)の意味を知っているだろう?」と発言し、さらに、同性愛が禁止の理由を問われると「私は敬虔なムスリムではないが、なぜこれがハラームなのかって?なぜなら、精神へのダメージになるからだ」と主張したというニュースがありました。

カタールW杯アンバサダーがLGBTへ衝撃発言…ドイツ代表も絶句「言葉を失ってしまう」

カタールで開催される今大会について、ヨーロッパ10カ国のサッカー協会が、共同でFIFAに対して、「カタールにおける移民労働者の人権問題改善のために行動を起こすよう求める書簡を出した」そうです。

ロイター
サッカー=欧州10協会、カタール人権問題でFIFAに要望

また、ヨーロッパ8か国のキャプテンが、LGBTへの連帯を示す虹色のハートが描かれた腕章を巻いてプレーすることを決定した、というニュースもありました。

欧州勢の主将がカタールW杯で差別反対を示す「OneLove」のキャプテンマーク着用へ

さらに抗議の声は広がっており、フランスではパリやマルセイユなど8都市が、パブリックビューイングを行わないと決定したり、大会に抗議して記事をいっさい掲載しないという新聞まで出ています。

デンマークの選手たちは、ユニフォームを黒にしてカタール政府に抗議する意志を表明しています。

オーストラリアの代表チームは、カタールの人権問題を非難するメッセージ動画を公開しています。その中で、彼らは「苦しんでいる移民労働者(の数)は単なる数字ではない」「性的少数者の権利を擁護する。カタールでは自らが選んだ人を愛することができない」と抗議の声を上げているのでした。

カタールにくすぶる人権問題 広がる抗議―W杯サッカー

オランダ代表の選手たちは、カタールで出稼ぎ労働者から直接話を聞いたそうで、「彼らは非常に過酷な条件下でスタジアム、インフラストラクチャ、ホテルなどの宿泊施設の建設に従事してきた。僕らはそこでのすべての活動を通じて、その問題を認識してきた。これらの条件を改善する必要があることは誰の目にも明らかだ」という声明を発表しているのでした。

オランダ代表がカタールの出稼ぎ労働者を支援! W杯の着用ユニフォームをオークションに

それに比べて、日本のサッカー協会や選手やサッカーファンの反応の鈍さには愕然とするしかありません。私は、ヨーロッパの8か国のキャプテンが、LGBTへの連帯を示す虹色のハートが描かれた腕章を巻いてプレーするというニュースを見て、「カッコいいいなあ」と思いましたが、日本の大半のサッカーファンはそういった感覚とは無縁のようです。ただ、勝つかどうかだけです。そのための痴呆的な熱狂を欲しているだけです。カタールの「カファラシステム」と日本の外国人技能実修生の制度がよく似ているので、むしろ“あっち側”ではないのかとさえ思ってしまうほどです。

スポーツライターの西村晃氏は、下記の記事の中で、日本の姿勢を「スポーツウォッシング」(スポーツでごまかす行為)ではないか、と書いていました。

集英社新書プラス
スポーツウォッシング 第6回
カタール・サッカーW杯に日本のメディアと選手は抗議の声をあげるのか?

西村氏は、カタール大会の問題について、日本サッカー協会に直接問い質すべく、取材依頼も兼ねたメールを送ったそうです。そして、その回答がメールで送られて来たそうですが、日本サッカー協会の回答について、西村氏は下記のように書いていました。(協会の回答文は、上記の西村氏の記事でお読みください)

  一読、なんとも無味乾燥で当たり障りのない文言が連なった文章、という印象は拭いがたい。カタールで建設作業等に従事した移民労働者の死亡補償と救済の要求、同国での人権抑圧状況への抗議など、W杯参加国競技団体や選手たちが積極的な行動を起こしている一方で、日本や日本人選手は何らかの意志表示を行うつもりはあるのか、あるとすればどのような行動を取るのか、という質問に対する具体的な回答はなにも記されていない。
(上記記事より)


国際的な人権規約に基づいて各国の人権状況を審査している国連の人権に関する委員会が、先日、日本の入管施設で5年間に3人の収容者が死亡したことに懸念を示し(2007年以降で言えば、18人が死亡し、うち自殺が6人)、日本政府に対して施設内の対応の改善をはかるよう勧告した、というニュースがありました。しかし、そういったニュースに対しても、外国人技能実修生の制度と同様、日本の世論はきわめて冷たく、不法滞在の外国人なのだからそれなりの扱いを受けるのは当然だ、という声が多いのが実情です。国連の勧告も、人権派に付け入るスキを与えるもの、という声すらあるくらいです。

日本の「スポーツウォッシング」(スポーツでごまかす行為)が、単なる”スポーツバカ”の話ではなく、巷の下衆な排外主義を隠蔽する役割を果たしていることも忘れてはならないのです。


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2022.11.17 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
三浦春馬・竹内結子につづいて、今度は神田沙也加なのかと思いました。2019年には菊田一夫演劇賞を受賞するなどミュージカル女優として高い評価を得て、しかもミュージカル女優のひとつの頂点とも言える「マイ・フェア・レディ」のヒロインを務める公演の只中で、宿泊先のホテルの部屋から身を投じたのです。なんだか切なくてやり切れない気持にならざるを得ません。

母親の松田聖子は、国家公務員の父親のもと、プチブルのめぐまれた家庭でなに不自由なく育ち、たとえば彼女のデビューと入れ替わるように引退した山口百恵などとは対極に位置する、新しい時代の衣装を纏ったアイドルと言われました。小倉千加子は『松田聖子論』(朝日文庫)のなかで、松田聖子のことを「<近代家族の退屈>という温室の中で育った、芸能人としては稀有のケースに属する少女」と評し、そこに松田聖子というアイドル歌手の現代性があるのだと書いていました。

神田沙也加は、そんな”豊かな時代”(という幻想)を代表するアイドル歌手の一人娘として生まれたのですが、しかし、三浦春馬や竹内結子と同じように、幼い頃、両親の離婚を経験します。松田聖子と神田正輝が離婚したのは、彼女が10歳のときだそうです。

もちろん両親の離婚が彼女の自死に直接関係しているわけではないでしょうが、しかし、それが幼い少女のトラウマになり、三浦春馬や竹内結子と同じように、彼女のなかに孤独な心をもたらしたのは間違いないでしょう。

また、その後、母親の再婚に伴ってアメリカに移住したものの、再度の離婚で帰国し、転入した私立中学でひどいいじめに遭ったとも言われています。それが心の傷としてずっと残っていたということもあるかもしれません。

彼女が身を投じたとき、外は雪が降っていたみたいで、窓下の屋外スペースに倒れているのが発見された彼女の身体は、30センチくらいの雪に埋もれた状態だったそうです。彼女の人気と評価を不動のものにした「アナと雪の女王」ではないですが、その光景になんだかせめてもの救いがあるような気がしました。

遺書も残されてないみたいなので、具体的に何が原因で35歳の生涯をみずから閉じることになったのか、今となっては誰にもわからないのですが、ただ彼女は人知れずずっと自分のなかの孤独な心と向き合っていたに違いありません。そして、徐々にそのなかに引きずり込まれ、気が付いたとき、もはや後戻りできない自分がいたのではないでしょうか。

宮本亜門がテレビのインタビューで語っていましたが、彼が演出を務めたミュージカルのオーディションに神田沙也加が一般応募して主役の座を射止めたとき、彼女が宮本に「有名人の子どもだから選ばれたのでしょうか?」と尋ねたそうです。しかし、審査の際、彼女が松田聖子の娘であることは知らなかったので、そうではないと答えたら、その大きな瞳で宮本を見つめながら「私、本物になりたいんです」と言ったのだと。そのエピソードには、親の七光りを何の臆面もなく利用する世の二世タレントとは違った苦悩が彼女のなかにあったことを伺わせます。と同時に、歌手になるまで九州に帰らないと言った母親とよく似た意志の強さも感じました。

三浦春馬も竹内結子も、そして神田沙也加も、テレビのバラエティ番組に積極的に出るタイプではなく、むしろお笑い芸人が作り出すわざとらしくハイテンションなバラエティ番組の空気感とはそぐわない感じに見えました。また、みずからのプライバシーを切り売りするタイプの芸能人でもありませんでした。それは、ひとえに孤独な心を持ち、人一倍ナイーブな感性を持っていたからではないでしょうか。そうであるがゆえに、パンデミック下のえも言われぬ陰鬱な空気も人一倍感受していたのかもしれません。

毎年同じことを書いているように思いますが、年の瀬を迎えると「人身事故」で電車が止まることが多くなります。都内に乗り入れる路線では、毎日どこかで電車が止まっています。今では自殺は、電車が止まったとか、人を巻き込んだとか、有名人だったとか、そういった場合にニュースになるだけです。

でも、一方では、毎年2万以上の人たちがみずから命を絶っている現実があるのです。警察庁の統計によれば、昨年(令和2年)の自殺による死亡者は21081人です。もっとも、これでも平成15年の34427人からずっと下がりつづけているのです。男女比で言えば、男性が女性の2倍多いそうです。ただ、前も書いたことがありますが、専門家の間では死亡した人間の背後には、未遂に終わった人間がその10倍いると言われているのです。むしろ、そっちの方が衝撃的です。10倍説に従えば、昨年だけでも自殺未遂者は20万人以上もいることになります。同じ人間が何度も繰り返す場合もあるでしょうが、この10年間で200万人以上が自殺未遂していると考えることもできるのです。それくらい自殺は身近な出来事なのです。

年齢の離れた私でさえ、ニュースを聞いて以来ずっと気分が落ち込だままで、たしかに死んだ方が楽になるかもしれないという思いを抱くことがあります。江藤淳の「形骸を断ずる」ということばにひどく囚われる自分を感じることもあります。まして若い人たちのなかには、三浦春馬や竹内結子や神田沙也加とそう遠くない場所にいると思っている人も多いのではないでしょうか。要は、(言い方が適切ではないかもしれませんが)ちょっとしたきっかけや弾みなのです。それくらい死の誘惑はすぐ近くにあるのです。死を選択するのはホントに紙一重なのです。しみじみそう思えてなりません。


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2021.12.21 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
ビートたけし(北野武)の乗った車が今月の4日、TBS構内で「つるはしを持った男に襲われた」という事件がありました。

朝日新聞デジタル
ビートたけしさんの車つるはしで襲う 小刀所持容疑で40代男を逮捕

通報でかけつけた警察官に逮捕された男は、「突然つるはしで襲いかかり、車のフロントガラスや運転席の窓ガラスなどを割った」そうで、「容疑を認めているが、つじつまの合わない供述もしており、署が慎重に調べている」と記事は書いていました。

私は、最初「つじつまの合わない供述」という箇所を読んで、「責任能力の有無も含めて捜査する」類の事件なのかと思ったのですが、しかし、最新の記事によれば、逮捕された男は、「指定暴力団住吉会系の組関係者であることが」わかったそうです。一方で、「事件に暴力団が絡んだ形跡はなく、組織性も確認できない」とも書いていました。

朝日新聞デジタル
車襲撃「弟子入り志願、無視」

現役の暴力団員が弟子入りを志願して無視されたので襲ったというのは、たしかにつじつまの合わない奇妙な話です。もちろん、個人的な誇大妄想ということも考えられますが、一方で、闇社会からのなんらかのメッセージ、警告だったのではないかという疑念も拭えません。「弟子入り志願」というのも、考えようによっては不気味なことばです。過去には大手芸能事務所に銃弾が撃ち込まれた事件もありましたが、闇社会の住人にとって、こういったやり方は別にめずらしいことではないのです。

私がそんな穿った見方をしたのは、ニュースを見てとっさに1992年の参院選に新右翼の大物が参院選挙に出馬した際、麻布十番で行われた記者会見の席に、たけしが横山やすしらとともにひな壇に座っていた光景を思い出したからです。娘が芸能界にデビューした際も、発表会見の席に「大物右翼」が同席していたそうです。でも、それらは、『噂の真相』など一部のメディアを除いて、大手のメディアは報じていません。

今回の事件も、襲撃したのが「住吉会系の組関係者」であることを伝えたあと続報が出ていません。なにしろ、たけしは報道番組のレギュラーまで持つ大物芸人なので、このまま尻切れトンボで終わる可能性もあります。しかし、今回の事件で、たけしの身辺に、今なおきな臭いものが漂っている気がしたのは私だけではないでしょう。

たけしのような大物芸能人が収録を終えて帰る際、彼らが乗ったベントレーやロールス・ロイスやベンツを見送るために、番組の担当者らが玄関先にずらりと並び、深々と頭を下げている光景を見たことがありますが、ああいった大仰な光景もなんだかヤクザのそれと似たものがあります。下の者が上の者の楽屋に、卑屈なほど平身低頭して挨拶まわりするのも同じですが、報道機関でもあるテレビ局には未だそういった芸能とヤクザが密着していた時代を彷彿とするような慣習を許容する空気があるのです。それでは、島田紳助ではないですが、後部座席に座っている大物芸能人がますますふんぞり返り、ヤクザまがいのふるまいをするようになるのは当然でしょう。芸能人が独立するとどうして干されるのかという話でも何度も書いているように、テレビ局がそうやって芸能界をアンタッチャブルなものにしているのはたしかなのです。

若い頃、仕事の関係で取引のあった会社が、売掛金を回収するのに苦労して、あろうことかヤクザに回収を頼んだということがありました。ところが、それ以後、事務所にいかつい男たちがたむろするようになり、そのうち実質的な経営権はヤクザに握られ、挙句の果てにはいいようにしゃぶり尽くされて会社が潰されてしまったのでした。上司から、「ヤクザというのは利用したつもりでも利用されてしまうんだ。あんなことしたらおしまいだ。あの会社にはもう近寄るな」と言われましたが、その通りになったのです。

記事によれば、たけしも74歳だそうです。もし今回の事件が単なる個人的な誇大妄想でないとしたら、残り少ない人生も安閑としてはいられないでしょう。自分で蒔いた種とは言え、「私は過去を忘れても、過去は私を忘れてくれない」のです。メディアは忘れたふりをしてくれるけど、過去は容赦なくいつまでも追いかけて来るのです。


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水道橋博士
2021.09.07 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
今度は竹内結子がみずから命を絶ちました。深夜、寝室のクローゼットで縊死した状態で見つかったそうです。普段どおりの様子だったので、家族も異変に気づくことはなかったそうです。

他人が羨むような美貌に生まれ、その美貌ゆえに原宿でスカウトされ、華やかな芸能界でスター女優としての道を歩み、離婚を経験したとは言え、再婚して今年の1月には第二子を産んだばかりです。

誰もが羨み、誰もがあこがれるような人生ですが、しかし、その一方で、彼女自身は、人知れず深い心の闇を抱えていたのでしょうか。

どうしてこんなに芸能人の自殺がつづくのだろうと思います。芸能人の自殺について、「コロナ禍で将来に不安を覚えたからじゃないか」というような見方がありますが、しかし、それは皮相な見方のように思います。みずから命を絶った人たちは、俳優としては恵まれた環境のなかにいた人たちばかりです。語弊があるかもしれませんが、経済的にいちばん困窮しているはずのお笑い芸人はひとりも含まれていません。私は、彼らの自死は、究極の“感情労働”である俳優という仕事に関係しているような気がしてなりません。コロナ禍がそのきっかけになったのではないか。

よく女優は男のような性格の人間が多い、男のような性格でなければ女優は務まらないと言いますが、竹内結子も御多分に漏れず「男まさり」の勝気な性格だったと言われています。しかし、それは、ナイーブであるということと矛盾するわけではありません。さまざまな仮面をかぶり、感情移入して、役の人物を演じる俳優という仕事は、むしろナイーブな感性を持ってないととても務まるものではないでしょう。

自殺を伝えるニュースのなかでもその場面が出ていましたが、特に女優は、悲しくもないのに演技で涙を流すことができるのです。いや、それは、悲しくないのではなく、実際に悲しいのだと思います。そう自分を追いつめているのだと思います。俳優をつづけていると、ホントの自分がどこにいるのかわからなくなると言いますが、俳優という仕事はそれだけ過酷な“感情労働”とも言えるのです。

竹内結子の場合、幼い頃、両親が離婚して実母と離れ離れになったと言われています。もし、それが事実なら、「母親に捨てられた」幼児体験がトラウマになっていたということもあるかもしれません。ただ、逆にそれが、女優として必須なナイーブな感性を培ったと言えなくもないのです。

私たちは、このコロナ禍のなかで、えも言われぬ重苦しさ、憂鬱な気分のなかにいます。そんななかで、ナイーブな人間ほど、まるでカナリアのようにその空気を感受して、みずからを追いつめていくというのはあるでしょう。戦後生まれの私たちにとって、孤独や死がこれほど身近で切実なものになったのは、かつてなかったことなのです。

私は、竹内結子の自殺の報道のなかで、木下優樹菜がInstagramで竹内結子の自殺について呟いたと言われる下記のことばが目にとまりました。

日刊大衆
木下優樹菜、竹内結子さんの死を悼む「こんなに辛いのに生きてるってなんだろう」「見て 優樹菜を」

 この日、木下はストーリーズで「おはよお 朝から悲しい。こんなに辛いのに生きてるってなんだろう。とかなんで生きなきゃいけないんだろうとか、ふとした瞬間にもうぜんぶやーめた。つかれた。てどうしようもないきもちになるんだ これはこういうふうになった人にしかわからない あの恐怖の感情 いや。恐怖すらかんじないかな」と死を考えた時の心境について吐露した。
 続けて「でも今些細な事で生きててよかったーて思える事たくさん増えたから 前からもだし、新しいアカウントになっても来るけどさ、死にたいとか。見て 優樹菜を」と死にたいと訴えるファンを励ました。


最近のゴシップが持ち上がった芸能人に対するバッシングは目にあまるものがあります。もはや狂気と言っても過言ではないほどです。木下優樹菜もその標的になったひとりですが、彼女は持ち前のメンタルの強さ?で不条理な仕打ちを耐え抜いたのです。だからこそ、「見て 優樹菜を」ということばには、稚拙ではあるけれど非常に重みがあるように思いました。
2020.09.27 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
ときどき、この重苦しさ、この憂鬱な気分はなんだろうと思うことがあります。それは、今のコロナ禍で、多くの人が抱いている感情なのかもしれません。

ややオーバーに言えば、芸能人も、以前のようなあこがれの存在から、この重苦しさや憂鬱な気分を象徴する存在になったような感じすらあります。

コロナで非業の死を遂げた志村けんや岡江久美子もそうですが、自死した三浦春馬や芦名星や藤木孝のニュースも、普段以上にショッキングな出来事として心に重くのしかかってくるのでした。

また、飲酒運転で追突事故を起こした山口達也が、実は家賃7万円のワンルームのアパートに住んでいたとか、自殺した藤木孝も80歳をすぎて住んでいたのが家賃8万円の木造アパートだったとか、俳優の矢崎滋が、東北の田舎町で、人目を忍んで一日5千円のホテル暮らしをしているとかいう話も、なんだか暗い気分にさせられるものがあります。

私自身も、(コロナ禍には関係ないけど)それなりに名前が知られた俳優やタレントが、病気のために、医療扶助を受けながら人知れず亡くなったという話を知っています。

こうやってことさら芸能界の暗い話題ばかりに目が行くのは、コロナ禍によって死や貧困や孤独が身近なものになっているからかもしれません。

政治家やメディアにはそこまで危機感がないようですが(そう装っていますが)、誰がどう考えても、大倒産・大失業・大増税の時代がやって来るのは間違いないのです。

鉄道会社や航空会社があれだけの大減収にもかかわらず持ちこたえているというのも、ある意味で驚きですが、それだけ莫大な内部留保を抱えていたからでしょう。

多くの企業や家庭では、収入が減った分を給付金や預金で補って今をやりすごしているのが実情ではないでしょうか。その余裕がない企業や家庭が行き詰っているのです。

密を避けるためのリモートワークや特別休暇などのコロナ対策をきっかけに、企業が人が少なくてもなんとかやっていけることに気付いた意味は大きいと言っていた人がいましたが、たしかにそうで、これからリストラが本格化するのも避けられないように思います。コロナはそのための恰好の口実になるでしょう。

給付金にしても、あれだけの大判振舞いをしたツケがまわってこないないわけがないのです。しかも、それはザルだったのです。持続化給付金をめぐる詐欺事件が摘発されていますが、今摘発されているのが氷山の一角であることは誰が見てもあきらかです。

リモート飲み会などというおままごとのようなことが行われていますが、そんな何でもネットで取り替え可能みたいな風潮によって、人々の孤独はより深まり、より追い込まれていくのです。

「悲しくてやりきれない」という歌がありましたが、芸能界の暗い話題に、私たちは今の自分たちの心の風景を映しているように思えてなりません。
2020.09.24 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
松任谷由実が、安倍首相が辞任表明した日の深夜のラジオ番組で、「見ていて泣いちゃった。切なくて。安倍夫妻とは仲良し。同じ価値観を持っている」などと発言したことに対して、白井聡氏がフェイスブックに「荒井由実のまま夭折(ようせつ)すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいい」と書き込んだことが波紋を呼び、白井氏が謝罪するはめになったというニュースがありました。

デイリースポーツ
ユーミン批判の白井聡氏が謝罪ツイート「自身の発言の不適切さに思い至りました」

もっともこれは、例によって例のごとく、橋下徹が白井氏の発言を見つけて、思想警察よろしくネットに晒したことに端を発して、拡散&炎上したものです。橋下とメディアと安倍応援団による見事な連携プレーと言うべきで、彼らはしてやったりとほくそ笑んでいることでしょう。

ユーミンの発言に対しては、ユーミン同様安倍昭恵夫人とお友達の三宅洋平が、ツイッターで秀逸なツイートをしていました。

三宅洋平ツイート2018年9月3日
https://twitter.com/MIYAKE_YOHEI/

私は以前、酒井順子が『ユーミンの罪』で、ユーミンの歌について分析していた「助手席性」に関して、このブログで次のように書きました。

ユーミンの歌の主人公たちは、「中央フリーウェイ」のように、助手席にすわり、助手席の自分に満足している場合が多いのですが、しかし、それは必ずしも受け身な「古い女性」を意味しません。女性たちは「選ばれる人」ではなく「選ぶ人」なのです。どの助手席にすわるのかを「選ぶ権利」は、あくまで自分にあるのでした。


「選ぶ人」については、もう少し説明が必要だったかもしれません。

ユーミンが描く世界の女性たちは、華やかに時代を享受しながら、専業主婦として安定したプチブルの人生を送ることができるような相手を探し求める、したたかで計算高い女性たちです。そのためのアイテムとして、性を排除したお伽噺のような恋愛やカモフラージュされた生活感のない日常やそれを彩るさまざまなブランドが存在するのです。

そんなユーミンが安倍夫妻と「仲良し」になったのは当然かもしれません。ファーストレディの昭恵夫人こそ、究極の専業主婦と言えるでしょう。しかし、その安倍夫妻は、(おしどりマコに言わせればこれもヘイトになるのかもしれませんが)一皮むけば、夫婦ともどもいいとこの出だけど学業不振で生来の嘘つきでカルトにいかれた、ユーミンの歌に出てくる登場人物とは程遠いイメージの人間なのです。とても「ドルフィン」でソーダ水を飲みながら、物憂げに海を見ているようなおしゃれでナイーブな人たちではないのです。かたや憲法改正して天皇親政による戦前のような国家の再建を主張し、かたや「波動」や「気」を信じオカルトに心酔する、アナクロを絵に描いたような夫婦なのです。

白井聡氏が口を滑らせたのも、自身も書いているように、安倍夫妻と「同じ価値観を持っている」今のユーミンが醜態を晒しているように見えたからでしょう。もしかしたら、白井氏はユーミンファンだったのかもしれません。それで、ユーミンの発言に愕然として思わず口を滑らせたのかもしれません。

ユーミンの若作りの厚化粧の下にあったのは、目を背けたくなるような老残の姿だったのです。小林幸子には申し訳ないけど、最近のユーミンがますます”小林幸子化”しているのも頷けようというものです。


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酒井順子『ユーミンの罪』
2020.09.04 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
やれやれ、今度のターゲットは鈴木杏樹のようです。鈴木杏樹を叩く“最低の世論”とそれに媚を売るメディアは、(いつも言ってますが)常軌を逸しているとしか思えません。

相模ゴム工業のアンケートだけでなく、(前も書きましたが)はるか昔に総理府だったかが「有職既婚女性」に対しておこなった調査でも、半数以上が「婚外性交渉」の経験があるという結果が出て、一時話題になったことがありました(調査対象の年齢層など細かいことは忘れました)。それは、金妻や失楽園のはるか前のことでした。

私たちのまわりでも、あるいは自分自身の胸に手を当てて考えてみれば、「不倫」が当たり前の現実があることは誰でもわかっているはずです。文藝春秋社の社員だってテレビ局の局員だって、実際に「不倫」をしている人間も、あるいはチャンスがあれば「不倫」をしたいと思っている人間も多いはずです。もとより、男と女が惹かれ合うのに、「不倫」もクソもないでしょう。恋愛に良いも悪いもないのです。たとえ「遊び」であってもです。

ネット民たちが、非モテのうっぷん晴らしで「不倫」を叩いているのはある程度想像できます。愛知トリエンナーレの電凸と同じように、ネトウヨ化した中高年のひきこもりが、ここでもまた中心的な役割を果たしているのかもしれません。でも、いちばん問題なのは、既存メディアがそんな“最低の世論”の片棒を担いでいることです。

今日のワイドショーでも、司会の坂上忍が、鈴木杏樹が千葉の海岸でデートしたあと、みずから運転する車でラブホに入ったことに対して、「あまりにも生々しすぎてショックでした」と、如何にも役者らしい大仰なもの言いでコメントしていました。

このようにテレビは、手っ取り早く視聴率を稼ぐために、頭の中は空っぽなのに口だけ達者な芸能人に “道徳ズラ”させて、“最低の世論”に媚を売るのでした。

一方、同じ「不倫」でも、大御所の芸能人はあっさりとスルーされるのでした。ビートたけしが再婚した相手の女性とは、誰もが知る「不倫」でした。しかも、その前もグラビアアイドルと「不倫」していました。たけしが愛人にそそのかされてオフィス北野から「独立」した際、愛人と愛人の犬の名前の頭文字を新しい事務所名に付けて色ボケぶりを晒したのですが、しかし、たけしは、愛人ではなくビジネスパートナーだと強弁していました。それがミエミエの嘘であることはみんなわかっていました。しかし、芸能マスコミの中でそれ以上の追及を行うところはありませんでした。

「不倫」三昧のたけしは、「不倫」などどこ吹く風でふんぞり返って大口を叩き(ときにはニュース番組で「道徳」を説き)、ベッキーや唐田某や鈴木杏樹は番組を降板させられるのです。なんと理不尽な話だろうと思わずにはおれません。

女性芸能人が「不倫」したら、どうして「略奪愛」と呼ばれ、まるで犯罪者のように悪罵を浴びせられるのか。昔から色恋が「芸の肥やし」と言われたのは、男性芸能人だけでした。女性芸能人は、ふしだらな女と石を投げられたのです。

でも、そうやって女性に「貞操」を求める一方で、実際は働く女性の半分以上が「不倫」を経験しているのです。フェミニストの小倉千加子は、「女はすべて外見」がフェミニズムの「最終回答」だとあえて身も蓋もないことを言ったのですが、「モテる」「モテない」という暗黙の基準を考慮すれば、(仕事を持っていて)異性にモテる女性にとって、「不倫」はめずらしいことではないのです。

「不倫」はあくまで夫婦間の問題にすぎません。相手の喜多村某が家庭内で処理すべきことで、「まったく」とは言わないけど、鈴木杏樹には関係のない話でしょう。

私は、女性が50歳になってもなお、恋する気持を忘れずに、好きな人を思い胸を焦がすのは、むしろすばらしいことだと思います。女優としても、文字通り「芸の肥やし」になるでしょう。鈴木杏樹が「不倫」していたことを知って、逆に彼女の魅力を再発見したファンも多いはずです。それに、50歳の女性が恋をすれば、(ここでも「モテる」「モテない」の暗黙の基準を考慮すれば)相手に既婚者の割合が高くなるのは仕方ないことでしょう。

鈴木杏樹に比べて、厚労省の役人(文字通りの上級国民)が税金を使って「不倫」旅行をしたことに対しては、何故かメディアも国民も腰が引けています。ワイドショーでも、鈴木杏樹の10分の1も時間を割いていません。たけしのときと同じように、見て見ぬふりをしようとしているかのようです。ここにも、官尊民卑のこの国のヘタレな体質が出ているような気がしてなりません。要するに、芸能人の「不倫」は、叩きやすいところを叩いているだけなのです。

また(蛇足を承知で言えば)、「不倫」を叩く”最低の世論”の背後に、杉田水脈の”生産性発言”に象徴されるような、「伝統的家族」という戦前回帰の思想が伏在していることも忘れてはならないでしょう。
2020.02.08 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
若い頃、親しくしていたモデルの女の子は、常々、男性モデルは「性格の悪い人間が多い」と言ってました。

彼女に言わせれば、男性モデルはお金を持ってないので(モデルでは飯は食えないので)、自分の“美貌”を売りに女性にたかることしか考えてない「最低の男」が多いそうです。当時、ホストという職業があったのかどうかわかりませんが、今で言うホストのようなものかもしれません。その中で唯一「性格がいい」と褒めていたのは、阿部寛だけでした。

また、のちに“スキャンダル王”として芸能マスコミを賑わすことになる某男性タレントから誕生パーティに誘われたときも、「あの男は女を騙すことしか考えてないから気を付けた方がいいよ」と同じモデル仲間から忠告されたと言ってました。案の定、数年後、彼はお金と女にまつわるスキャンダルを起こして芸能界から姿を消したのでした。

私は、東出昌大の「不倫」報道を見て、昔の彼女から聞いたそんな話を思い出したのでした。東出昌大もモデル出身だそうで、彼もまた、女にたかることしか考えてない「最低の男」だったのかもしれません。もとより、杏にしても、東出から口説かれ東出の「最低の男」の部分に惚れて、みずからも熱を上げたのではないか。さらに、東出昌大は、杏を口説いたときと同じ手口で、唐田某を口説いたのではないか。「不倫」はただその延長上にあっただけなのでしょう。

今回のスキャンダルで、杏に同情が集まり、杏の好感度が上がったと言われていますが、私は、まったく逆でした。私は、杏が二十歳のときに、一般的な登山ルートでは国内で最難関と言われる奥穂・西穂間を縦走したと聞いて、彼女を尊敬していましたが(芸能界とは関係ない?)、今回の件ではがっかりしました。

東出の「不倫」は、カルロス・ゴーンのケースと同じで、本来家庭内で処理すべき問題だったのではないか。ここまで騒ぎが大きくなったのは、東出にきわめて近い筋からのリークがあったからではないかと言われていますが、もしそれが事実なら、三人の子どもの父親でもある夫に、社会的な制裁を加えるようなやり方は、あまりにもえげつないとしか言いようがありません。なんだか格差婚を盾にした上から目線さえ感じます。

東出と唐田某をこれでもかと言わんばかりに叩く芸能マスコミとそれに煽られる大衆にも、いつものことながら違和感を抱いてなりません。芸能人に聖人君子を求めてどうするんだと言いたくなります。芸能人こそ、聖人君子とはもっとも遠くにいる人間でしょう。何度もくり返しますが、芸能人は、本来、市民社会の埒外に存在する「河原乞食」なのです。「不倫」でもなんでもあるでしょう。聖人君子のような役者になんの魅力があるのかと思います。

同時に私は、あらためて村西とおる氏の下記の文章が思い出されてなりませんでした(引用元の「ポリスジャパン」はリンク切れになっていました)。

女優という生きものには「魔性」が潜んでいます。

すべての行動原理は「自からの利害得失」による、という「魔性」であります。 その女優が「好きになったから」という理由だけで女優が結婚するとはまったく考えられないのでございます。

女優は自分自身に惚れて惚れぬいて、自分しか愛せなくなった人間の就く職業でございます。 由に人前で他人の男とも平気でSEXが出来て、泣き笑い叫び歌えるのでございます。

女優とは人々からの「喝采」に魂を売り渡した人間であります。

「喝采」のためならなんでもやれる、のでございます。 淫売になれるどころか、必要なら人殺しさえやりかねない、それが女優であります。

だから普通の「お嬢さま」では絶対に「ならない」「なれない」のが「女優というお仕事」なのでございます。


それは、女優に限らず男優も同じて、芸能人というのは、ことばの真正な意味において、やくざな存在なのです。

「不倫」で芸能界から追放されるなんて、一体いつの時代の話だと言いたいです。他人の不幸は蜜の味とばかりに、執拗に東出や唐田某を叩くメディアや大衆には、おぞましささえ覚えます。

(やはり前に紹介しましたが)コンドームメーカーの相模ゴム工業が働く女性350人を対象に行った調査によれば、なんと58%が「不倫」の経験があるそうで、そんな「不倫」が当たり前の世の中にあって、このメディアや大衆を覆うリゴリズム(厳格主義)は異常と言うしかありません。私は、そこにもまた、この社会や大衆が持つ”病い”を覚えてならないのです。


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魔性
2020.01.27 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
何度も書かねばなりませんが、沢尻エリカ逮捕に関して、彼女にMDMAを渡したと言われていた元恋人は、結局、釈放され不起訴になりました。文字通り、泰山鳴動して鼠一匹になったのです。

メディアは、沢尻エリカやその恋人の逮捕によって、芸能界で芋ずる式の摘発がはじまるようなことを書いていましたので、なんだか肩透かしを食らったような感じです。僭越ですが、私のようなシロウトでもわかる話なのに、メディアはどうして、沢尻逮捕が拙速で杜撰であることがわからなかったのか。「新聞記者」「報道記者」が聞いて呆れます。

しかし、彼らはここに至っても、元恋人の釈放は「泳がせている」だけだというような記事を書いているのです。それこそ何とかに付ける薬はないとしか言いようがありません。

彼らは、沢尻エリカが保釈されたあとそのまま都内の某大学病院に直行したことについても、(前の記事で書いた)TBSの夕方のニュースのカマトト男性アナウンサーと同様、薬物治療のために入院したようなことを書いていました。しかし、沢尻エリカは尿検査は陰性で、薬物を使用した証拠(形跡)はどこにもないのです。

その後、沢尻エリカは大学病院から別の病院に転院したそうです。すると、彼らは、前言を翻して、沢尻エリカが入院した某大学病院は薬物の専門治療ができないので、元TOKIOの山口達也が「静養」した関東近郊の心療内科専門の病院に転院したと言っています。でも、山口達也は薬物とは関係がなく、彼が芸能界を引退したのは未成年者に対する「強制わいせつ容疑」です。心療内科に転院したのは、山口達也と同じように、事件によるストレスで身心に影響が出ているので、治療し「静養」するためでしょう(それと、メディアの取材から逃げるためでしょう)。

さらに、メディアは、言うに事欠いて、大学病院は入院費が高額になるので、入院費が安い病院に転院したなどと言い出す始末です。まさに妄想のオンパレードで、言っていることはネットのそれと変わらないのです。彼らはホントに記者なのか。一体、何を取材しているのかと言いたくなります。

伊藤詩織さんの事件は、同じ山口姓でも山口達也とは雲泥の差でした。彼女からの告訴状を受理した警視庁高輪署は、捜査した結果、「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある」(刑事訴訟法)と判断して、元TBSワシントン支局長・山口敬之氏の逮捕状を東京地裁に請求、東京地裁も逮捕の必要性を認め逮捕状を発付したのでした。にもかかわらず、かつて菅官房長官の秘書官を務め、官邸ときわめて近しい(と言われている)山本格警視庁刑事部長(当時)の指示で、「安倍晋三の伝記作家」(英タイムズ紙)である山口氏の逮捕は執行寸前で見送られたのです(のちに書類送検され不起訴処分)。山本氏自身も、官邸の介入は否定していますが、自分が執行停止を指示したことは認めています。

警察なんて政治の意向でどうにでもなるのです。もとより警察も国家権力の一員です。沢尻逮捕に政治的な意向がはたらいてないとどうして言えるのか。

尚、山口氏と官邸の関係については、下記の「デイリー新潮」の記事が詳しく伝えています。

Yahoo!ニュース
デイリー新潮
伊藤詩織さん「勝訴」!敗訴の「山口敬之」 TBS退社後を支えた美味しすぎる“顧問契約” 菅官房長官の口添えも…

”政治のマフィア化”という点でも、安倍政権はロシアのプーチン政権とよく似てきました。

元恋人の釈放&不起訴でますます明らかになった沢尻エリカ逮捕の拙速で杜撰な面(その不可解さ)がなにを意味しているのか、その背景には何があったのか、伊藤詩織さんの事件をヒントに、もう一度考えてみる必要があるでしょう。


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沢尻エリカ保釈のバカ騒ぎ
沢尻エリカ逮捕の拙速と杜撰
沢尻エリカ逮捕と疑惑隠し
2019.12.22 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
今、夕方のニュースを観ていたら、「沢尻被告の保釈を認める決定」という速報があり、東京湾岸署からの中継がはじまりました。湾岸署の玄関には、沢尻被告が頭を下げて謝罪するシーンをカメラにおさめるべく、大勢のメディアが陣取っていました。

今日、沢尻エリカは麻薬取締法違反(所持)の疑いで起訴されたのですが、起訴された当日に保釈というのは異例だそうです。それだけ事件は限定的で、今後の広がりはないということなのでしょう。

警視庁の組織犯罪対策課と東京地検は、権力の面子に賭けて起訴したのでしょう。しかし、それは、当初描いた構図とは違って、沢尻エリカみずからが白状した棚ぼたのMDMA所持の起訴になったにすぎないのです(ほかにもLSDが見つかったという報道もあります)。しかも、所持と言っても、悪ガキが好奇心で持っていた程度の少量です。尿検査も陰性で、本当に依存性があったどうかさえもわかりません。結局は、沢尻エリカと彼女にクスリを渡した元恋人のデザイナー(ヤンキーの聖地=横浜で修行した典型的なストリート系のヤンキーデザイナー)の二人を起訴しておしまいになる可能性が大きいでしょう。

文字通り、大山鳴動して鼠二匹(一応、二匹出てきたけど)といった感じです。前も書きましたが、これほど拙速で杜撰な捜査はありません。まるで鼠よりも大山鳴動する(させる)ことが目的だったみたいです。警視庁と密通して捜査情報をもらった手前もあるのか、TBSはヘリコプターまで飛ばして「湾岸署の上空から中継」なんてやっていますが、どこまで恥さらしなんだと思いました。

こういったなんでもありの人権侵害(=市中引き回し)は、文春の“ロス疑惑”報道からはじまったのでした。小泉政権によって衆愚政治の堰が外されたように、文春によって報道の(人権の)堰が外されたのです。そして、なんでもありになったのです。

自宅に帰れば、自宅周辺が大騒ぎになるので、政治家と同じで、とりあえず病院に逃避して「クスリと絶縁」を演出したいのかもしれません。今後も芸能界に残るためには、そうせざるを得ないのでしょう。TBSの夕方のニュース番組のカマトトアナウンサー(ワイドショーや夕方のニュースでは、主婦受けを狙っているのか、カマトトな男性アナウンサーが多いのが特徴です)は、「病院で治療」を強調していましたが、(何度も言いますが)尿検査の結果が陰性だったのですから、「治療」するほどの依存性があるのかどうかもわからないのです。今や報道番組も、真実は二の次でそういった印象操作に走ってばかりで、ワイドショーとの見分けもつかないほどになっています。

TBSと同じ系列のスポニチは、尿検査が陰性だったことについて、大河ドラマが決まったので”クスリ絶ち”をしていたのではないかと書いていましたが、本当に依存性があるなら”クスリ絶ち”などできないはずです。言っていることがメチャクチャなのです。

どっかで聞いたセリフですが、「沢尻エリカよ、爪の垢程度のMDMAごときで頭なんか下げるな」と言いたかったけど、どうやら頭を下げるシーンはないみたいです。バカボンのパパではないですが、「それでいいのだ」と思いました。


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沢尻エリカ逮捕の拙速と杜撰
田口被告の土下座
メディアの印象操作
2019.12.06 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
沢尻エリカが合成麻薬のMAMDを所持していたとして、麻薬取締法違反容疑で逮捕されましたが、逮捕したのは、マトリ(厚生労働省麻薬取締部)ではなく、マトリのライバルと言われている警視庁の組織犯罪対策課でした。

今回の逮捕は、安倍政権の「桜を見る会」の疑惑隠しのためではないかという見方がありますが、あながち的外れとは言えないでしょう。週明けからメディア(特にテレビのワイドショー)は、沢尻逮捕のニュース一色になるに違いありません。安倍晋三首相の、あの二度に渡る「異例の」ぶら下がり会見を見ても、官邸が「桜を見る会」の疑惑にかなり慌てていたのは間違いないのです。

どこかのフリーターが逮捕されたのではニュースにもならないし、なんのインパクトもありません。有名芸能人でなければならないのです。

共産党が国会質問のために資料請求したその日に、内閣府は「桜を見る会」の招待者名簿を破棄したそうですが、これはモリカケ疑惑のときとまったく同じで、まさにマフィア化する政治の面目躍如たるものがあると言えます。

招待者名簿の破棄は、どう考えても証拠隠滅で、公職選挙法及び政治資金規正法違反容疑で言えば、沢尻エリカ以上の逮捕要件ではないのかと思ってしまいますが、ときの政権の「違法」行為に対しては、国家ぐるみで隠ぺい工作に手を貸すのでした。「上級国民」ではないですが、法の下の平等なんて絵に描いた餅にすぎないのです。

「桜を見る会」の疑惑に見られるのも、税金=国家を食い物にする構造です。長期政権の「緩み」などという呑気な話ではありません。安倍政権は、言うなれば”営業右翼”のようなもので、「改憲」や「嫌韓」を錦の御旗にしながら税金=国家を食い物にしているのです。また、国家を食い物にするだけでなく、国家を細切れにして、アメリカ=グローバル企業に売り渡してもいるのです。何度も言いますが、ここにも「愛国」と「売国」が逆さまになった“戦後の背理”が見事なほど見て取れるのでした。私たちはまず、声高に「愛国」を叫ぶ者たちをこそ疑わなければならないのです。右翼風に言えば、安倍晋三首相は日本にとって獅子身中の虫ではないのか、そう思えてなりません。でも、安倍晋三首相をそのように見る右翼・民族派はほとんどいません。それどころか、既成右翼もネトウヨ化しているのが現実だとか。

あだしごとはさておき、MDMAは、「エクスタシー」という俗称があるように、”キメセク”で使われる「セックスドラッグ」として有名なクスリだそうです。大麻などとはまったく性格の異なるクスリなのです。そう言えば、不倫相手の銀座のホステスを死なせた押尾学も、使用していたのがMDMAでした。ASKAがクスリに溺れるきっかけになったのもMDMAだと言われています。

子どもの頃から芸能界にいてまわりの大人たちからチヤホラされてきた沢尻エリカが、世間知らずでわがままであるのはおよそ想像が付きます。世間知らずでわがままであるということは、それだけスキがあるということです。それに、あのハーフの美形です。クスリ漬けにして、いいように弄び、あわよくば金ヅルにしようと企む芸能界やその周辺にいるワルたちが近寄って来るのは当然なのです。

女優としての才能を高く評価されながら、クスリで”転落”したその軌跡を考えるとき、スターダストプロモーションから契約解除されたあとに、エイベックスと業務提携したのがポイントになるような気がしてなりません。

ただ、ひとつだけ言えば、沢尻エリカは少なくとも税金でクスリを買ったわけではありません。税金を食い物にする総理大臣と比べて、どっちがワルか、指弾すべきなのはどっちなのか、少しでも考えればわかることでしょう。

溝口敦著『薬物とセックス』(新潮新書)によれば、男性がMDMAを多用すると勃起不全になるので、男性が女性に投与するケースが多いそうです。

同書には、次のようなMDMAの体験談が掲載されていました。

  <服用から三〇分程度たつとスイッチをオンしたようにガツンと効果が表れて薬効が切れるまで、瞳孔が開き、高い声が出るようになり、歯が折れたり内頬がザクザクになるほど無意識に歯を食いしばり続けます。
   音楽やSEXが最高に気持よくなり、一緒に使用している人と深い友情、愛情に結ばれているように思えます。
   実際はタイプでは全くない不細工な異性なのにもかかわらず、色っぽい美人に見えて、尋常じゃない性欲がやってきますが、チン〇ンは立ちません。
   しかし覚醒剤同様に全身クリトリスになったと思わんばかりの快感があります。
   効果が出ている間は体温調整が分からなくなり、現状が暑いのか寒いのか分からなくなります。
   人によってはクラブなどで効果が切れるまで永遠に踊り続けたり、酷い幻覚を見て苦しんだり、痙攣や嘔吐して、最悪の場合、死にます>


もちろん、合成麻薬も裏社会のシノギになっており、元締めから蜘蛛の糸のように伸びた売人のネットワークは、社会の隅々まで張り巡らされているそうです。そして、彼らがまず最初にやるのがヤク中を作ることなのです。

今回もまた、捜査情報がTBSにリークされていたようですが、これからもヤク中の有名人は、ことあるごとに権力者の都合で利用され、(目くらましのために)晒し者にされ市中引き回しの刑に処されるのでしょう。権力者の下僕と化したメディアは、今や市中引き回しの囃し役になっているのです。「麻薬撲滅」なんて単なる建前にすぎないのです。そして、いつだって「悪は栄え、巨悪は眠る」のです。
2019.11.17 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
先日(10月21日)、東京地裁で、大麻取締法違反の罪に問われた田口淳之介被告と小嶺麗奈被告に対する判決公判が開かれ、それぞれ懲役6ヶ月執行猶予2年の判決が言い渡されました。

判決は、当初7月30日の予定でしたが、検察側の請求でこの日に延期されたのだそうです。と言うのも、関東信越厚生局麻薬取締部(マトリ)が、二人の住居を捜索した際に撮影した映像をフジテレビに提供していたことが判明したからです。さすが権力と密通した右派メディアという感じですが、そのため、押収物の証拠能力に問題がないか調べていたということでした。

小嶺被告の弁護士は、映像をメディアに流したマトリを国家公務員法違反(守秘義務違反)で刑事告発しているそうですが、素人が考えても、マトリの行為は法の下の平等を著しく逸脱しており、押収物の証拠能力に疑義が生じるのは当然でしょう。

まさに、ここには、芸能人の薬物事件や「所得隠し」などにおける、当局とメディアがタッグを組んでおこなわれるキャンペーンの、そのカラクリが露呈しているのでした。そして、ターゲットになったら最後、芸能人はメディアによってあることないこと書き立てられ、血祭りに上げられるのでした。

公判で、二人の関係について問われた小嶺被告は、前にプロポーズされたことを明かし、できれば結婚したいと答えたのですが、するとメディアは、「仰天!法定プロポーズ」などと書き立てる始末でした。

エキサイトニュース
小嶺麗奈、田口淳之介への「法廷プロポーズ」に寄せられた“失笑と懸念”

これなどは、「嫌韓論」と同じで、大衆の負の感情を煽る、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式の報道と言えるでしょう。

田口被告や小嶺被告だけではありません。今メディアを賑わせているチュートリアルの徳井義実の「所得隠し」も然りです。徳井は、まるで“非国民”扱いです。天邪鬼の私は、これも年末調整や確定申告の時期を控えた“いつもの光景”にしか見えませんが、芸能マスコミはここぞとばかりに国税がぶら下げたエサに飛びつき、“徳井叩き”に狂奔しているのでした。

マトリや国税にとって、みずからの存在価値をアピールする上で、芸能人は格好のターゲットです。と同時に、国民に対して一罰百戒の見せしめの効果を持つ一石二鳥の美味しいターゲットでもあるのです。

また、「オレたちはきちんと納税しているのに(ホントか?)、あんなにお金を稼いで贅沢な生活をしている人間が税金を払わないなんてけしからん」という大衆の下劣な嫉妬心を煽り、大衆の中にある重税感にカタルシスを提供するのも国税のいつものやり方です。

メディアは、徳井が2億円だかの「高級マンション」を買ったので、「所得隠し」が発覚したのではないかと言ってますが、そんなカマトトな話はないでしょう。国税からのリークであるのは、誰の目にもあきらかでしょう。

徳井のようなことをやっていたら国家が成り立たないと書いていたメディアがありましたが、そうやって「国家への帰順」が声高に叫ばれ、大衆へ向けた一罰百戒の暗黙の“脅し”がおこなわれるのでした。

でも、私自身も、平均年収のはるか下の「貧困」のボーダーラインに近い収入しかないにもかかわらず、単身所帯ということもあって、いわゆる租税公課が総収入の40%以上にもなる重税感に苦しんでいますが、だからと言って、世間の人間たちのように、徳井に嫉妬して正義感に怒り狂うというようなことはありません(公務員の高待遇や税金の無駄使いには怒りを覚えますが)。他人の「所得隠し」なんてどうだっていいのです。むしろ、徳井の「想像を絶するルーズさ」に親近感さえ抱くほどです。

徳井の「所得隠し」に怒る人々は、国家に踊らされているだけの文字通りの”踊るアホ”なのですが、彼らにそういった自覚はないのでしょう。それが彼らを”衆愚”と呼ぶゆえんです。全体主義は正義と道徳の仮面を被ってやって来ると言った人がいましたが、ただ水に落ちた犬を叩いて喜ぶカタルシスを与えられているだけなのに、まるで国家を代表しているかのような正義感を抱いて、徳井に悪罵を浴びせる愚さと怖さを考えないわけではいかないのでした。


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田口被告の土下座
2019.10.29 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
昨日、昼のテレビを観ていたら、各局のワイドショーが揃って日韓対立の話題を取り上げていました。しかし、とても正気とは思えないような、坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い式の韓国ヘイトのオンパレードで、思わず目をおおいたくなりました。コメンテーターたちも、平日はテレビで顔を売り週末に講演で荒稼ぎしているような下等物件(©竹中労)の“電波芸者”ばかりで、その顔ぶれにも唖然とさせられました。

テレビがやっているのは、旧宗主国意識丸出しのヘイトビジネスです。テレビを観て、異常だと思わない視聴者もまた、異常と言うべきでしょう。どこを見ても、煽る人間と煽られる人間しかいなくて、冷静にものごとを見るような意見は彼らのファナティックな声にかき消され、ややもすれば「反日」扱いされかねない空気です。

安倍政権がトランプの真似をして韓国への制裁措置を取ると、まるで堰を切ったように、メディアがいっせいに韓国ヘイトの報道を流しはじめる今の光景に対しては、私は「全体主義」あるいは「翼賛体制」という言葉しか思い付きません。

鈴木邦男氏によれば、開戦前夜、東条英機の自宅に「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような手紙が段ボール箱に何箱も届いたそうですが、この国のメディアはいつの時代もそうやって国民を煽ってきたのです。その体質は、時代が変わってもいささかも変わってないのです。

戦争を待望し、東条英機の自宅に手紙を送った国民たちは、戦争がはじまると、当然ながら戦禍が自分たちの身にふりかかり、辛酸を舐めることになるのでした。そして、終戦を迎えると、今度は一転軍部に騙されたと言い出し、犠牲者ズラしたのでした。今の「韓国が・・・・」「韓国が・・・・」と言っているような人間たちも同じでしょう。

一方で、テレビ局は”音楽出版利権”を媒介に芸能界の黒い紳士たちと結託して、芸能界をアンタッチャブルなものにしてきました。その典型が「独立した芸能人はどうして干されるのか?」というあの問題です。

先日、朝日新聞に掲載されていた下記の記事は、遅きに失した感はあるものの、新聞とテレビの系列化という”電波利権”を考えると、それなりのタブーを破った記事と言えるでしょう。間違っても、テレビのワイドショーでは扱うことのできない問題であることはたしかです。

朝日新聞デジタル
のんさんに何が起きているのか エージェントが語る圧力

能年玲奈の問題に関しては、今更説明するまでもないでしょう。能年玲奈という本名さえ使えない異常。これほど理不尽な話はありません。しかも、裁判所がドレイ契約を容認し、本名の使用禁止を正当と認めたのです。

今、能年玲奈は芸能界とは無縁だったコンサルティング会社とハリウッド方式のエージェント契約を結んでいるそうです。もちろん、彼女が結んでいるエージェント契約は、吉本興業が表明した「エージェント制」とは似て非なるものです。

テレビから干されている能年玲奈に対しては、仕事もなくどうやって生活しているんだろうと誰もが思っていることでしょう(私もそう思っていました)。しかし、契約先の「スピーディ」の福田淳社長は、「とんでもない誤解」だと言ってました。

「(略)彼女は現在、マルコメやメンソレータム社・アジアパシフィック(香港)など、のべ20社とCM契約があります。事務所に所属せず、ギャラから手数料分のみを私に払う仕組みなので、おそらく日本の俳優の中でもトップクラスの手取りがあるでしょう」


現在の能年玲奈は、テレビから干された「弱い立場」の芸能人などではないと言います。

「のんは現状、テレビ番組に出ていないだけで、十分すぎるほどの経済的成功を収めているし、うちの会社は芸能事務所ではなく、コンサルタント会社。本業は企業などのブランディングで別にあり、タレントマネジメントはのんだけ。だから、芸能業界に自由にものが言える立場にある」


ただ、テレビに関しては、現場からオファーは来るものの、企画が具体化すると「なかったことにしてください」と言われるのが常だとか。中には、衣装合わせまで済ませたのに出演が見送りになったケースもあったそうです。要するに、芸能界の黒い紳士たちから圧力がかかるからです。

福田社長は、「(略)他の事務所に移籍しようものなら『今おまえが成功しているのは、育てた事務所のおかげだ』と言われ、その後も多方面に圧力をかける。まるで江戸時代の女衒(ぜげん)の世界です」と言ってましたが、まったくその通りでしょう。

また、どうして他の芸能プロと同じように所属契約を結ばないのか?という質問に対して、福田社長は次のように答えていました。

「ハリウッド型の、透明な契約にするためです。仕事ごとの契約金額自体や配分もタレントがわかるようになるし、僕のエージェントとしての働きが悪かったら、のんが僕をクビにすることもできる。一部の古い芸能事務所とタレントの間には、長年『雇っているから、言うことを聞かないとクビにするぞ』という一方的な力関係があった。タレント自身が、仕事の契約金額もわからない、上下関係があり、もの申せない……。『奴隷契約』です。僕はインドやアフリカの児童労働くらいひどいと思っています」


これは、竹中労が常々言っていたことですし、私もこのブログで何度も書いてきたことです。これが当たり前の、正常な感覚なのです。テレビの世界が異常なのです。女子アナの笑顔の背後に、怖い!怖い!芸能界のアンタッチャブルな世界があることを知るべきでしょう。それは、”テレ朝の天皇”と安倍政権との関係に見られるように、政治も同じです。韓国ヘイトと芸能人が干される問題の根っこにあるものは、同じなのです。

日本の社会は、空気に流され同調圧力が生まれやすいと言われますが、私たちは、とりわけテレビがこの国を異常なものにしているという認識をもっと持つ必要があるのではないか。つくづくそう思いました。


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芸能界を支配する女郎屋&タコ部屋の論理
がんばれ、能年玲奈!
能年怜奈の「洗脳」騒動
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2019.08.29 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
吉本をめぐる騒動には、メディア(芸能マスコミ)やただメディアに踊らされるだけのネット民 ぐみん のお粗末さが、これでもかと言わんばかりに露呈されているように思いました。

ご存知のとおり、当初、振り込め詐欺グループから「お金をもらってない」とウソを吐いた宮迫博之や田村亮は、メディアやネットで袋叩きに遭いました。特に、芸能マスコミにとって、謝罪会見もしない彼らは目の敵でした。

ところが、二人の捨て身の会見で、謝罪会見を吉本上層部から止められていたことが暴露されると、今度は“吉本叩き”に空気は一変したのでした。

二人の会見のあと、アクセスジャーナルの山岡俊介氏は、つぎのような記事をアップしていました。

アクセスジャーナル
<主張>「吉本興業に、反社会勢力からの謝礼を理由に宮迫らをクビにする資格なし」

現在、私は会員ではないので、記事の最後まで読むことができませんが、公開された部分にはつぎのように書かれていました。

そもそも「吉本興業」側にはそれを理由に所属芸人をクビにする資格はないのではないか。
なぜなら、未だに吉本興業自体、反社会勢力とのつきあいを絶てていないのではないかとの疑惑があるからだ。


裏事情にも精通するある芸能関係者は、20日の宮迫らの会見後、こんな電話を本紙に寄越した。
「宮迫らは会見では告発してたけど、数日もすれば口を噤むよ。見てな。


案の定、二人の会見から10日以上経った現在、「この問題の本筋は、宮迫らが反社グループからお金をもらったことだ」「宮迫らがウソを言わなければ、ここまで問題が大きくなることはなかった」などと、”吉本叩き”は問題のすり替えだと言わんばかりに、再び空気は変わりつつあります。

しかし、忘れてはならないのは、二人の捨て身の会見で、吉本興業に関して、看過できない二つの大きな問題が暴露されていたことです。

ひとつは、振り込め詐欺グループのパーティについて、田村亮が入江慎也に「大丈夫か?」と訊いたら、「吉本の会社を通したイベントについてくれているスポンサーなので安心です」と答えたという話です。それで、宮迫も「安心した」と言ってました。この「スポンサー」というのは、振り込め詐欺グループのフロント企業のようで、間接的であれ、吉本興業は振り込め詐欺グループのフロント企業と取引きをしていた疑惑があるのです。もっとも、入江は吉本公認で別会社を作って、今回のようなイベントなどの営業をしており、入江周辺では”闇営業”かそうではないのかという線引きも曖昧だったのかもしれません。

宮迫の契約解除の引き金になった(と言われている)金塊強奪事件の犯人たちとの写真についても、私はどこが問題なのかさっぱりわかりませんでした。たまたま飲み屋で一緒になり、トイレから出てきたら、彼らに囲まれて写真を撮らせてくれと言われて断りきれずに写真を撮った、「ただそれだけのことです」と宮迫は言ってましたが、芸能人の場合、こういったケースはよくあるのではないでしょうか。まして、相手が強面だったらよけい断ることはできないでしょう。それがどうして「ギャラ飲み」になるのか。

そもそもフライデーが一連の写真をどうやって手に入れたか、そっちの方が問題でしょう。反社周辺の人間がフライデーに写真を持ち込んだのは間違いなく、フライデーが謝礼を払って買取ったと考えるのが常識でしょう。反社からお金をもらったことと反社にお金を渡したことにどれほどの違いがあるんだろうかと思ってしまいます。考えてみれば、今回の騒動を仕掛けたのは、(写真を持ち込んだ)反社なのです。フライデーをはじめメディアは、反社に振りまわされているだけなのです。なんだか反社の連中の高笑いが聞こえるようです。

もうひとつは、岡本社長から「在京5社、在阪5社のテレビ局は吉本の株主だから大丈夫と言われた」という発言です。私は、なんだそういうことかと思いました。だから、テレビが吉本芸人に占められていたのかと合点がいきました。

能年玲奈(のん)や元SMAPのメンバーの例を上げるまでもなく、芸能人が独立するとどうして干されるのかという問題の根っこにあるのも同じでしょう。そこにあるのは、芸能プロダクションとテレビ局の共犯関係です。それは、芸能マスコミが華々しくぶち上げる芸能人のスキャンダルなるものも同じです。ターゲットになるのは、いつも弱小プロか個人事務所の人間ばかりなのです。

昔は、芸人の楽屋にまでヤクザが借金の取り立てに来ていたそうですが(タイガースの選手も、球場に取り立てに来ていたそうです)、それは芸人だけの話ではないのです。吉本自体も興行会社として闇社会と持ちつ持たれつの関係にあったというのは、多くの人が証言しています。

前に紹介しました森功著『大阪府警暴力団担当刑事』(講談社・2013年刊)では、わざわざ「吉本興行の深い闇」という章を設けて、吉本と闇社会の関係について書いていました。

昭和39年(1964年)の山口組に対する第一次頂上作戦を行った兵庫県警の捜査資料のなかには、舎弟7人衆のひとりとして、吉本興業元会長(社長)の林正之助の名前が載っていたそうです。

2006年、正之助の娘の林マサと大崎洋会長(当時副社長)&中田カウスの間で起きた内紛(子飼いの芸能マスコミを使った暴露合戦)は、私たちの記憶にも残っていますが、その背後にも裏社会の魑魅魍魎たちが跋扈していたと書いていました。本では具体的な名前まで上げて詳述していますが、巷間言われるような、裏と表、守旧派と開明派、創業家と幹部社員の対立というような単純なものではなかったのです。また、その対立は、2011年の島田紳助の唐突な引退にもつながっているそうですが、今回の騒動にもその影がチラついているように思えてなりません。

一方で、総合エンターテインメント企業を名乗る吉本興業は、テレビ局と癒着することで公序良俗の仮面をかぶり、さらには官邸と密接な関係を築いて国家の事業にまで触手を伸ばすようになったのでした。それが、今回のようなゴタゴタを招いた(謝罪会見を止めた)遠因であるのは間違いないでしょう。

それにしても、岡本社長の会見を見て、あんなボキャブラリーが貧しく如何にも頭の悪そうな人間がどうして社長になったのか不思議でなりませんが、それもひとえに岡本社長が大崎会長の操り人形だからなのでしょう。岡本社長のパワハラも、虎の威を借る狐だからなのでしょう。「大崎会長が辞めたら自分も辞める」という松本人志や、「大崎会長がいなくなったら吉本はもたない」という島田紳助の発言は、将軍様ならぬ会長様の意向を汲んだ(あるいは忖度した)、多分に政治的なものと考えるべきなのです。

ここにも怖い怖い芸能界のその一端が垣間見えているのです。


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2019.07.31 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
今日、夜のニュースを観ていたら、元KAT-TUNの田口淳之介被告が、保釈された警察署の前で、地面に頭をこすり付けて土下座している場面が目に飛び込んできて、思わず目が点になりました。能町みね子ではないですが、見てはいけないものを見たという感じでした。

もう20年以上前ですが、六本木にあったマリファナショップに大麻草がデザインされた海外のステッカーや缶ケースなどを卸していたことがあります。と言っても、その店はマリファナを売っているわけではなく、マリファナに関連する吸引具やグッズなどを売っている、言うなれば法の網をかいくぐった”合法的”な(正確に言えば、”脱法的”な)店でした。もちろん、当時も芸能人などを対象にしたみせしめの摘発はあったものの、今よりは大麻に対しておおらかな空気がありました。レゲエが流行っていましたので、マリファナの葉がプリントされたTシャツなどが当たり前のように売られていたし、ドレッドヘアの若者たちも、当たり前のようにそれを着ていました。

私は、その店に吸引具を卸してる同業の人間から店を紹介されたのですが、彼は、大田区の水道管を造っている町工場に頼んで、オリジナルの吸引具を制作したと言ってました。たしかに、よく見ると水道の蛇口に似たような形をしていました。

記事によれば、田口被告は「金輪際、大麻などの違法薬物、そして、犯罪に手を染めないをここに誓います。(略)しっかりと更正し、罪を償い、1日でも早くみなさまのご信頼を取り戻すべく、必死に生きて参ります」と謝罪したそうですが、なんだか大仰な気がしてなりません。私は、どうしても「たかがマリファナで」という気持は拭えないのです。

先日も、参院議員会館の近くで、大麻草が自生しているのが見つかったというニュースがありましたが、安倍昭恵夫人を持ち出すまでもなく、日本では古代から神事に麻が使われていたのは事実ですし、医療用大麻の合法化を主張する意見も多くあります。

厚労省やメディアが言う「習慣性」や「精神作用」についても、煙草や酒ほどの「習慣性」や「精神作用」はないという意見もあります。実際に、承知のとおり、海外ではマリファナが解禁されている国も多いのです。

大麻が覚せい剤などとひとくくりにされて、麻薬=危険のイメージが流布されているのはたしかでしょう。その背景にあるのは、昨今の犯罪に対して厳罰化を求める社会の風潮です。震災以後、国家が前面にせり出してきたのに伴ない(東浩紀はそれを手放しで礼賛したのですが)、冷静な議論は隅に追いやられ、問答無用の厳罰化の声ばかりが大きくなっているのです。

田口被告の土下座も、そんな世間に恭順の意を示すためと見えなくもありません。わざとらしいという声もありますが、だとしたらまだしも”救い”があります。それくらい、土下座は異様な光景と言うほかありません。

水は常に低い方に流れるの喩えどおり、相変わらずネットは痴呆的な”説教コメント”のオンパレードですが、その中で、私は、下記のツイートに「いいね」をあげたくなりました。


余談ですが、メディアでは、大麻使用は小嶺麗奈被告が主導し、田口被告は小嶺被告に引きずり込まれた「犠牲者」であるかのような報道が多いのですが、それも「ふしだらな女」と同じで、「犯罪の陰に悪女あり」という定番の印象操作のように思えてなりません。田口被告をかばうような供述をしている小嶺被告は、むしろ「けなげな女」に見えますが、メディアはどうしても小嶺被告を「悪女」にしたいようです。「悪女」こそ世間が求めるイメージなのです。メディアの印象操作は、文字通り反吐が出るような「俗情との結託」(大西巨人)と言うべきでしょう。


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2019.06.07 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
先日、NHKの「クローズアップ現代」で、「独自映像 “ショーケン”最期の日々」と題してショーケンのプライベート映像が放送されていました。GIST(消化管間質腫瘍)を発病したあと、八年間に渡って撮りだめた53時間の映像がNHKに託されたのだそうです。

映像には、死を意識しながら仕事に取り組むショーケンの姿が克明に記録されていました。前に『日本映画[監督・俳優]論』を取り上げた中でも書きましたが、ショーケンの俳優としての覚悟と「感受性の高さ」が映像にも出ていました。

ショーケンは、四度目の結婚に際して、今までジェットコースターのような人生だったけど、メリーゴーランドのような穏やかな人生を送りたいと言っていたそうで、映像の中でも、奥さんに対する感謝のことばを述べている場面がありました。

死を前にしたとき、家族がどんなに支えになったことでしょう。家族のいない私は、ひとりで死んでいく覚悟は持っているつもりです。しかし、それでも、孤独な死に耐えられるだろうかと思ったりもします。その意味では、ショーケンが羨ましくもあります。

ただ、一方で、ショーケンには(ショーケンだけは)最後まで破天荒でいてもらいたかったという気持もあります。

映像の中で、ショーケンは、今まで三回結婚したけど、ひとりの女性も幸せにできなかった、ひとりの女性も幸せにできない男になりたくないというようなことを言ってました。

でも、私は、ショーケンからそんなことばを聞くのは、ちょっとさみしい気持がしました。

破天荒なら破天荒でいいじゃないか。別に丁寧に生きなくたっていいじゃないかと思います。最後まで破天荒を貫くことで、映画や文学の本質にせまることができるはずです。俳優にとって(表現を生業とする人間にとって)、それこそ本望なのではないでしょうか。

何度も引用して恐縮ですが、ショーケン自身も、神代辰巳監督について、次のように語っているのです。

 これはあの人のいいところでもあるんだけど、名刀を持っているくせして、止めを刺せない優しさがあるんです。獲物を捕ってもさらに止めを刺せ、というんだ。でも刺せない。それがあの人の優しさなんだな。止めを刺せよ。もう死んでるも同然じゃないか。これ以上生かしておいたらかわいそうだよ。生き物なんだから。映画監督なら止めを刺さなきゃ。それが黒澤にも溝口(健二)にも小津(安二郎)にもあるんだよ。人間としての残酷さが。
(『日本映画[監督・俳優]論』)


芸能人というのは、市民社会の埒外に存在するものです。サラリーマンではないのです。サラリーマンの嘘臭さの対極にいるのが芸能人なのです。それは作家も同じです。

たしかに、死を前にすると、常識や規範や日常(家族)といった”市民的価値意識”に身を委ねたくなる気持もわからないでもありません。

でも、人間というのはもともと破天荒で矛盾だらけで、”市民的価値意識”に収まりきれない存在なのです。文学や映画が描こうとしているのも、そういった人間存在の真実なのです。人様に身を晒して生きる芸能人こそ、ことばの真正な意味においてヤクザな存在なのです。「河原乞食」には「河原乞食」の矜持があるはずです。だからこそ、差別をあこがれへと止揚することができるのです。


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『日本映画[監督・俳優]論』
2019.04.18 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
NGT48暴行問題に関する第三者委員会による報告書が公表されたことに伴い、AKSの運営責任者らが会見を行いましたが、会見を観ていた被害者がリアルタイムに反論をTwitterに投稿。そのため、次々に上がってくる反論について、記者が運営会社に回答を求め、3時間にも及ぶ異例の会見になったそうです。一方的な会見に対しては、SNSを使ったこんな方法もありなんだなと思いました。

何度も言いますが、私はAKBのファンではありません。ただ、AKBのアイドル商法にも、女衒と見紛うような旧態依然とした怖い!怖い!芸能界のオキテが存在しており、その点に興味があるだけです。

AKBのアイドル商法の問題点について、リテラは次にように書いていましたが、すべてはこれに尽きるように思います。

LITERA
NGT48暴行問題で山口真帆が謝罪強要を訴えるも運営は無視! 第三者委員会も運営も秋元康の責任隠蔽

 そもそもAKBグループのシステム自体が内部で不和を誘発しやすいものである。「選抜総選挙」や「個別握手券の売上」など過度な競争を煽る構造や、「恋愛禁止」といった非人道的なルールを強要している環境によるストレスは、メンバーのメンタルをむしばみ、メンバー間の軋轢を引き起こす要因になるからだ。

 また、握手会に代表される“疑似恋愛”ビジネスも、ファンとのトラブルを生み出す要因となっていることは言うまでもない。さらに、一部メンバーが秋元氏ら運営幹部から優遇される一方、そうではないメンバーのなかには過度な競争のなかで承認を求めてファンへの依存度が高まってしまうという問題も生じている。


リテラが言うように、「こうしたシステムをビジネスとしてつくり上げ、温存させてきたのは無論、秋元氏」なのです。にもかかわらず、秋元康氏は、今回の問題でも、メディアの前に出ることがなく無言を貫いています。

一方で、秋元氏は、グループ内ではまるで「天皇」のように振舞い、お気に入りのメンバーを“喜び組”のように傍に置いて寵愛しているのです。これではアイドルを私物化していると言われても仕方ないでしょう。秋元氏と幹部たちの関係は、キャバクラを運営する会社の社長と店長の関係に似ているように思えてなりません。

運営会社にとって、被害者のメンバーが目の上のたんこぶであるのは間違いないでしょう。どうやってフェードアウトさせるか悪知恵を絞っているに違いありません。でも、それがみずから墓穴を掘ることになるのだという認識は、彼らにはないのでしょう。

やっというべきか、ここにきてAKBのアイドル商法のいかがわしさがいっきに露呈した感じです。選抜総選挙の中止も、AKBのアイドル商法が追い詰められている証左と言えるでしょう。と言うか、末路を辿りはじめたと言っても過言ではないかもしれません。

AKBのアイドル商法に踊った(踊らされた)朝日新聞をはじめメディアに対しては、ざまぁwとしか言いようがありません。今になって手の平を返したような記事を書いても、白々しく見えるだけです。


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NGTと怖い!怖い!芸能界
朝日新聞とAKB
2019.03.24 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
嵐の突然の「活動休止」には驚きましたが、だからと言って、彼らの歌の題名もなにひとつ知らない私は、嵐に対してはとりたてて興味があるわけではありません。ただ、SMAPのときと同じように、オジサンの年齢になってもなお、アイドルを演じるのは傍目で見る以上にしんどいものなんだろうなと思っただけです。

もっとも、SMAPのメンバーのその後を見ると、芸能界にとどまる限り、SMAPの呪縛から解き放されてもアイドルの呪縛から解き放されるわけではないということがよくわかります。むしろ、逆に痛々しく見えるほどです。

SMAPの解散や嵐の「活動休止」は、ジャニー喜多川氏の高齢化に伴って、ジャニーズ事務所の権勢にほころびが見え始めた兆候ととらえることができるでしょう。と言うか、ジャニーズ帝国自体が内部崩壊に向かっている証左と言えなくもないのです。今後も大物アイドルの退所の噂があるようですが、さもありなんと思います。

しかし、芸能マスコミは、相変わらず美談仕立ての話を伝えるばかりで、そういった「活動休止」の背後にある問題に触れようとしません。それは一般紙も同様です。

朝日の特集記事では、中森明夫、デープ・スペクター、井上公造、駒井千佳子のコメントが紹介されていましたが、そのなかでまともなことを言っているのは中森明夫だけでした。

朝日新聞デジタル
SMAP解散に絶望「ジャニーズの生態系崩壊」と評論家

あとはジャニーズ帝国を忖度したいつものおべんちゃらにすぎません(デープ・スペクターなんて、奥さんが片山さつきと共著を出して、その広告看板に公選法違反の疑いがかけられたほど、与党政治家とズブズブの関係にあるのに、未だにワイドショーのコメンテーターに起用されているのは大いに問題ありでしょう)。

でも、ジャニーズ帝国を忖度した時代遅れのおべんちゃらは、芸能レポーターだけではありません。系列局のニュース番組にコメンテーターとして天下っている大手新聞の(元)「論説委員」なる人間たちも同様です。

彼らのコメントもまた、芸能リポーターの美談話と寸分も違わないトンチンカンなものです。たかが芸能と言うなかれ。彼らがジャーナリストだなんて片腹痛いのです。

スーツにネクタイ姿のいい歳したおっさんが、「嵐は日本中から愛され、もはやアイドルグループの枠を超えていました。特に東日本大震災のあと、彼らは被災者たちに多くの元気を与えたのです」などと、したり顔で解説しているのを見るにつけ、思わずお茶を吹き出しそうになりました。

私たちは、せめてこういうもの言いを冷笑するくらいの見識はもちたいものです。”動員の思想”(=共感の強要)の対極にあるのがシニズムで、斜に構えてものごとを見るのも、それはそれで意味はあるのだと思います。
2019.01.29 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
NGT48のメンバーが、会社が寮として借りていたマンションの部屋の前で男二人から暴行を受けた事件は、私たちに「『人形遣い』の錬金術」(週刊新潮)の”素の部分”を垣間見せてくれたように思います。少なくとも、熱狂的なファン(ヲタ)のストーカー行為というような“単純な話”でないことだけはたしかでしょう。

なんら対策も講じず事件を隠蔽しようとする運営側にしびれをきらした被害者が、事件から一か月後に動画サイトにアップした悲痛な訴えには、アイドル商法の裏にある”闇”を伺わせるものがありました。

「本当のこと言わないとなにも解決しないし。私とまた同じ目に遭う人がいるのに、結局この1カ月待ったけど、なんも対処してくれなくて。今村さんだって『クリーンなNGTにする』って言ったのに。『新しいNGTにする』って、『悪いことしてるやつらだって解雇する』って言ったくせに、なんも対処してくれてなくて」
(略)
「今回、私は助かったから良かったけど、殺されてたらどうするんだろうって思うし。なんで他のグループでは許されないことがNGTでは許されるかわかんない。生きてる感じがしない(中略)ずっとずっと言いたかったけど、全部対処してくれるって言ったからこの1カ月怖かったけどずっと待ってた。だけど、結果、なんもしてくれなくて。悪いことしてた人たちも全部そのままで。誰かが取り返しつかなくなったらどうするんだろう。全部言いたいけど、お世話になってる人たちにも迷惑かかるし」

LITERA
NGT48暴行被害でメンバーが運営の無責任体質を告発! 芸能マスコミはスルーしAKSの火消しに協力


さらに被害者はTwitterでも、メンバーが男たちに被害者の部屋や帰宅時間を教え部屋に行くようにそそのかしたとか、加害者の男たちはメンバーの部屋から出てきたなどと書き込み、事件にメンバーが関与していたことを示唆したのでした。

また、被害者が以前、メンバーのなかの風紀の乱れを運営側に訴えていたという報道もあります。それらをつなぎ合わせると、ネットの“正義感”もあながち暴走と言えない面もあるように思います。

もとより芸能界は、“普通の”社会ではないのです。市民社会の埒外にあるものです。吉本隆明が言うように、「特殊××」なのです。かつてAKBの熱心なファンだった知人は、今回の事件について、「アイドルだなんて言っても、昔で言えば女郎屋と女郎の関係のようなもので、こんなことはいくらでもあり得るよ」と吐き捨てるように言ってました。

「総選挙」によってグループ内で序列が付けられるため、一票でも多くの票を獲得することはメンバーにとって至上命題です。そのために、投票に影響力のある一部のファンと、疑似恋愛を越えた関係をもつメンバーが出てくるのはあり得ない話ではないでしょう。言うなれば、多くの指名を取るために、同伴出勤したり、ときに枕営業も厭わないクラブのホステスと同じようなものかもしれません。それに、アイドルと言っても、今どきの若い女の子ですから、ヤンキーと親和性の高い(美意識を共有する)子だっているでしょう。現に週刊誌に、そういったゴシップ記事が出たメンバーもいました。彼女は、今やテレビでひっぱりだこの売れっ子になっているのです。

AKBに関しては、初期の活動資金に、振り込め詐欺や闇金や闇カジノなど違法ビジネスで稼いだお金が使われていたという記事が出たことがありましたし、私的なパーティの席で、AKBのメンバーがあられもない恰好で運営会社のスタッフの膝の上に座ってはしゃいでいる写真が流出したこともありました。また、AKBのメンバーと運営会社の社長との「不適切な関係」がとり沙汰されたこともありました。そういったことと、今回の事件はすべてつながっているように思えてなりません。

被害者の訴えを受け、男たちとつながっていたメンバーが誰なのか、ネットでは犯人捜しがはじまっていますが、一方で、その加熱ぶりに警鐘を鳴らす識者の声もあります。しかし、今回の事件に限って言えば、識者の建前論よりネットの犯人捜しのほうが、まだしも事件の本質にせまっているように思います。識者の建前論は、事件の幕引きをはかる運営会社の策動に手を貸すものだというネットの主張も、的外れとは言えないでしょう。AKB関連の報道には常にバイアスがかかっているのも事実で、芸能マスコミに彼らが不信感をもつのも当然なのです。

余談ですが、事態が落ち着いたら、被害者は「一時休養」した上で、そのままフェードアウトする可能性もなきにしもあらずでしょう。怖い!怖い!芸能界のオキテに従えば、それしか落としどころはないように思います。


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2019.01.16 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
さいたまスーパーアリーナで開催予定だった公演をドタキャンした問題で、沢田研二がメディアから袋叩きに遭っています。

袋叩きの背後にあるのは、「旧メディアのネット世論への迎合」(大塚英志)です。「ファンに失礼だ」「プロ意識に欠ける」などという身も蓋もない言い方で、「動物化」した大衆を煽るメディア。それもまた、芸能人の「不倫」や「独立」報道でくり返されるおなじみの光景です。

挙句の果てには、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに、ジュリーの年老いた容姿までヤユし嘲笑する始末です。

その好例が日刊ゲンダイデジタルの次のような記事でしょう。

日刊ゲンダイデジタル
沢田研二の不人気とジリ貧 公演ドタキャン騒動で浮彫りに

 ツアーは7月6日の日本武道館を皮切りに展開中で、来年1月21日の日本武道館公演まで全66公演。この状況で完走できるか心配だが、SNS上には「もともとジュリーはファンを大切にしていない」「歌唱中に歌詞が飛んだりして、健忘症どころか認知症じゃないか」と批判の声まで飛び交い始めた。スポーツ紙芸能デスクはこう言う
「反原発活動でスポンサーが離れた上、今春に発売したCDも売れず、ツアー展開するための資金繰りにすら困っていたようです。個人事務所は都内雑居ビルにあるし、ホームページも古い手づくり的なもので、インディーズレーベルでの活動は大変に見えます。今ツアーでは、予算削減のためかステージに上がるのは沢田さんとギタリストの2人だけ。大規模ホールは初めから無理があったのかもしれません」


日刊ゲンダイは政府批判の記事が多く、ネトウヨからは「左翼」扱いされるメディアですが、しかし、政治的な立ち位置なんて関係なく、いざとなればこのように翼賛メディアに豹変するのです。”動員の思想”に右も左もないのです。

記事にあるように、沢田研二が個人事務所なので叩きやすいという、これまたおなじみの側面もあるでしょう。ジャニーズやバーニングには腰が引けて何も書けないくせに、個人事務所だったらあることないこと書き連ね徹底的に叩く事大主義も芸能マスコミの特徴です。

一方、ミュージシャンのグローバーは、フジテレビ「とくダネ!」で、沢田研二のドタキャンに対して、つぎのようにコメントしたそうです。

Yahoo!ニュース
東大卒のミュージシャン・グローバー ドタキャンのジュリーに「感動した」

当初9000人の動員と聞いていたが、当日聞かされた集客状況が7000人だったため、空席が多い状態で歌うことを拒否したという説明に、自身もバンドでコンサートを行っているグローバーは「沢田さんを見ていて感動する」と言い、「こういうことを正直に言えないことのほうが多い。体調不良だとか、そういう理由でキャンセルする」と指摘した。

 また、「自分が今やりたい、自分がみんなを幸せにしたい、こういう空間をつくりたいっていうのがはっきりあって、だから今回キャンセルの理由もこうなんだ」と説明したと言い、「ちっちゃい会場で満員でそれでできる幸せな空間もあるし、大きい会場の満員でしかできない音楽の幸せもある。沢田さんは70歳、音楽人生考えたら一定以上のキャパで、満員でつくる自分でしかつくれない幸せをつくりたいってこと。(沢田をキャンセル理由とした)意地って言葉は、これは美しい言葉の意味に(自分は)とってます」と強調していた。


また、小学生の頃から沢田研二の大ファンで、当日、公演会場に来ていたダイアモンドユカイも、TBSの「ビビット」で、次のようにコメントしていたそうです。

スポニチアネックス
ダイアモンド☆ユカイ ドタキャン謝罪の沢田研二を「あんな正直に語れる人は素敵」

 公演を中止にした沢田の判断については「その人それぞれの考え方だし、沢田さんって何でも自分で決める立ち位置にいるから、すごく大変だと思う。すごく正直に謝罪しているじゃないですか。あんな正直に語れる人っていうのは素敵じゃない。これは子供っぽいとかあるかもしれないけど、そういう人が世の中にいなくなってきているから、貴重な人だと思いますよ」と自身の考えを話した。


私は、沢田研二の会見を観て、ふと「孤立無援の思想」という言葉を思い浮かべました。プロ意識と言うなら、これこそプロ意識と言うべきでしょう。

沢田研二がタイガースで人気絶頂を極めていた頃、新幹線の車内で居合わせた乗客とトラブルになり、暴力を振るったとかいった事件がありました。私は、その頃はまだ子供でしたが、「カッコいい」と思ったことを覚えています。

ダイヤモンドユカイのように、ロッカーはかくあるべしという考えを持つほどロックに通暁しているわけではありませんが、しかし、尖った人間というのはいつでも「カッコいい」のです。ミック・ジャガーは最近やや好々爺のようになってきましたが、70歳にもなってまだこのように尖った考えを持ち続けている沢田研二ってカッコいいじゃないかと思います。尖った考えというのは、言い換えれば気骨があるということです。気骨がある人間が「孤立無援」になるのは当たり前なのです。沢田研二が内田裕也やゴールデンカップスなど、先輩のロッカー達に可愛がられたのもわかる気がします。

私には、「ファンに失礼だ」「プロ意識に欠ける」などと、常にマジョリティの側に身を寄せて身も蓋もない言い方しかできない人間達が滑稽に見えて仕方ありません。彼らは、「私は愚鈍な大衆です」と白状しているようなものでしょう。そこには、寄らば大樹の陰、同調圧力を旨とする日本社会がデフォルメされているのです。まして、沢田研二の行為を(イベント会社の社員に対する)パワハラだなどと言っている手合いは愚の骨頂と言うべきでしょう。

私は、沢田研二のファンサイトに寄せられていた次のようなコメントに、今回の問題の本質が示されているように思いました。

Saoの猫日和
会見

ジュリーが一番納得いかないのは、イベント会社は9,000人客が入っていると言ったのに7,000人しか入ってなかった。この会場を予約したのは2~3年前で、そんなに集客出来なかったら自分はできないのでやらないと言っていたのにイベント会社サイドは大丈夫ですと言っていた。
当日ふたを開けたらやはり黒幕で覆っている場所が目立つ。約束がちがうではないか。
ジュリーは空席が目立つ集客ならやらないと言っていたのに、結局イベント会社に騙された形になったのに我慢ができなかったのではと思うのです。
それでもやるのがお客に対するプロだと言われればそうかもしれませんが、私はそれでこそジュリーだと思いました。



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横浜の魅力
2018.10.19 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
安室奈美恵が引退の前日、故郷の沖縄でラストライブが行ったので、安室ファンが沖縄に集結し、沖縄は「安室一色になった」と報道されていました。

地元紙の女性記者が、安室奈美恵は沖縄の人間に対するイメージを変えたと言ってましたが、たしかにその一面はあるでしょう。また、沖縄出身の安室ファンの女性が、上京して、職場で「どこの出身?」と訊かれたので、おずおずと「沖縄です」と答えたら、「安室奈美恵と一緒だ!」「いいなあ」と言われてびっくりした、というような記事も新聞に出ていました。

ちょうどアムラーブームの頃でしたが、原宿の竹下通りにある取引先の店に、沖縄出身の女の子がアルバイトで入ってきたことがありました。雑貨の店だったのですが、場所柄、タトゥーを入れた娘(こ)も働いていました。そんな女の子たちも、浅黒でエキゾティックな容貌の沖縄出身の彼女のことを「羨ましい」と言ってました。

彼女たちの会話を傍で聞いていた私は、若い頃、アルバイト先で一緒だった人間から聞いた話を思い出していました。彼は、「川崎の先に沖縄の人たちが集まって暮らしているところがあるんだよ」と言ってました。大学の授業(フィールドワーク)で、そこを訪れ、住人から話を聞いたのだそうです。「川崎の先」というのは、正確には横浜の鶴見のことです。鶴見は、今、私が住んでいる東横線沿線の街からは山を越えた反対側(海側)にありますが、たしかに、横浜に来て沖縄出身の人と遭遇することが多くなりました。

私は、九州の大分出身ですが、九州でも東の方の人間にとって、沖縄はとても遠い存在でした。東京に来るまで、沖縄出身の人間に逢ったことはありませんでした。むしろ、朝鮮半島や中国出身の人間の方が身近にいました。

今と違って、観光で沖縄に行くなんてこともほとんどありませんでした。飛行機の直行便もなく、交通の便が悪かったからです。私が地元で働いていた頃は、福岡経由で韓国の済州島にゴルフに行くのが流行っていましたが、福岡からだと沖縄より韓国の方が近かったのです。会社には、全国に地区ごとの販売担当者がいましたが、沖縄は九州に入っていませんでした。交通の便を悪いので、東京から直接行っていました。

昔、沖縄は犯罪者が逃げ込む島のようなイメージがありました。小中学校の同級生で二人、犯罪を犯して指名手配された人間がいるのですが、二人とも沖縄に逃げていました。沖縄が“癒しの島”のようなイメージを付与されたのはまだ先のことです。当時は暴力団抗争が頻発する、犯罪者が逃げ込む島というイメージのほうが強かったのです。

そう言えば、安室奈美恵を見出した養成学校の関係者も、東京でトラブルを起こして沖縄に逃亡し、学校を作ったというような記事を読んだ覚えがあります。

以前、鶴見在住の沖縄出身の人と知り合り、話を聞いたことがありますが、その人も若い頃は、沖縄出身であることにコンプレックスを抱いていたと言ってました。苗字が独特なので、沖縄出身であることがすぐバレて、差別されることも多かったそうです。アパートも貸してもらえないこともあったそうです。そのため、京浜工業地帯で働く沖縄出身者を中心に、「ウチナーンチュのコミュニティが自然にできたんだろう」と言っていました。

ラストライブの際、共演したBEGINのメンバーが、MCの中で、東京で肉体労働のアルバイトしたとき、顔が本土の人間と違うので、イラン人やパキスタン人などと同じ外国人の列に並ばせられたというようなエピソードを面白可笑しく話していたそうですが、それはややオーバーにしても、ついこの前まで沖縄人が露骨に差別されていたのは否定し得ない事実でしょう。

沖縄も、なんだか韓流と似ている気がします。今の女子高生たちの中には、オルチャンメイクやオルチャンファッションなど韓国人に憧れる子が多いそうですが、しかし、その一方で、ネットでは相変わらず“嫌韓”=韓国人差別が根強く残っています。沖縄も同じです。“安室反日認定”などはその最たるものでしょう。

いらぬおせっかいだと言われるかもしれませんが、最近、沖縄のアイデンティティってなんだろうと思うことがあります。知事選も、なんだか本土の代理戦争のような気がしてなりません。

沖縄は、現在、空前の不動産ブームだそうですが、悲惨な戦争体験→米軍基地が集中した島→平和を希求する自然豊かな”癒しの島”のイメージが、見事なまでに資本主義の欲望に組み込まれ、「金のなる島」になっているように思えてなりません。

竹中労は、『黒旗水滸伝』の中で、次のような民謡の一節を紹介していました。「黄金の花」ではないですが、”癒しの島”になる中で失ったものもあるのではないか。そう思えてなりません(カッコ内のふりがなは本文ではルビ)。

うら頼(たの)ま南風(ばいかじ) 事言(くろうい)つく空(うい)るけ
大石垣(うふいしがき) 主島(あるじしま)吹ち通し
譬(たと)りばん物無(むぬね)ぬ 此びりばん事無ぬ
肝絶(きむた)いて 胸煙(んにきぶり)立ち通し
(八重山群島『言遣り節(いやりぶし)』)



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安室スキャンダルと”劣化”の構造
『琉球独立宣言』
2018.09.19 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
私のようなサッカーの素人でも、イニエスタの凄さはよくわかります。今日のデビュー戦でも、その抜きん出たテクニックの一端を垣間見ることができました。イニエスタの鋭いスルーパスに、ヴィッセル神戸の選手が付いて行くことができなかったほどです。

トーレスの果敢で迫力あるゴール前のパフォーマンスも然りです。日本の選手だとチャンスにできないような場面でも、トーレスはチャンスを演出するのです。その違いを観るだけでも、サッカーの醍醐味を味合うことができます。

アジアでは中国のスーパーリーグに世界レベルのスター選手を取られて、Jリーグは場末感が否めませんでしたが、イニエスタとトーレスの加入はJリーグに大きな刺激になることでしょう。もちろん、リップサービスは別にして、彼らがいづれJリーグに失望するのは目に見えています。できる限り長く日本に留まり、日本サッカーに風穴を空けてくれることを願うばかりです。

私の中にはまだワールドカップの余韻が残っていますが、ワールドカップの試合を観ても、ヨーロッパなどのチームと比べると、日本が見劣りするのは否定し得ない事実でしょう。なんだかバタバタするばかりで迫力がなく、スピードもまるで違うのでした。「世界から称賛されている」なんて片腹痛いのです。

でも、サッカー通(サッカーのコアなファン)は「ニッポン、凄い!」と言うばかりです。日本のサッカーは確実に世界レベルに近づいていると、十年一日の如く言い続けています。永遠にそう言い続けるつもりなのでしょう。彼らは、ネトウヨと同じで「煽られる人」にすぎません。サッカーの素人たちは、サッカーメディアやサッカー通のアホらしさに対して、遠慮せずに嘲笑する勇気を持つべきでしょう。ワールドカップを観てもわかるように、熱狂的なサッカーファンと言ってもただの酔っぱらいにすぎません。ホントにサッカーを楽しみ、サッカーを冷静に観ているのは、サッカーの専門誌も読んでなくて、サポーターとも呼ばれないようなサッカーの素人たちなのです。

今夜のフジテレビのスポーツニュース「S-PARK」では、イニエスタの日本デビューのニュースを後まわしにして、「香川真司の復活を支えた『フィットネス』」なんて特集を延々とやっていました。香川真司が安物のアイドルのような恰好をした“カリスマトレーナー”と出演して、彼女との「異色コラボ」でロシアW杯に臨んだ話をしていました。まるで青汁のCMと見まごうような特集でした。こういったところにも、ハリル解任の背後にあった「スポンサーの意向」が顔を覗かせているように思いました。

そんなミエミエの特集がイニエスタデビューのニュースより優先される日本のサッカー報道のいかがわしさを、私たちはもっと知る必要があるでしょう。そして、日本サッカーの閉塞感がこういったところから始まっているのだということも知る必要があるのです。


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日本サッカーとゼロ年代の批評家たち
2018.07.22 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
ワールドカップの「ニッポン、凄い!」キャンペーンは、ますますエスカレートするばかりです。メディアによれば、日本のサッカーは、100均の商品と同じように、世界中から称賛されているそうです。

ハリル解任はサッカー協会がスポンサーの意向を忖度したものだと批判していたサッカーファンは、見事なくらい手のひらを返して、「ニッポン、凄い!」キャンペーンに踊っています。もしかしたら、キャンペーンの背後にも、メディアを支配する電通の存在があるかもしれません。しかし、もはやそういう想像力をはたらかせることさえできないみたいです。

踊っているのは、”痴呆的”なサッカーファンだけではありません。日頃、ヘイト・スピーチに反対し、モリ・カケ問題の「手段を選ばない」隠蔽工作を指弾している某氏は、一方で著名なサッカーファンでもあるのですが、彼は、ポーランド戦のパス回しの時間稼ぎについて、つぎに進むために「手段を選ばない」のは当然だと言ってました。いざとなれば、翼賛的な空気に同調する左派リベラルの正体見たり枯れ尾花と言いたくなりました。

くり返しますが、勝ち試合で時間稼ぎをしたのではないのです。負け試合で時間稼ぎをしたのです。フェアプレーポイント云々以前に、スポーツとしてあり得ない話でしょう。

ラジオ番組で、やはり西野ジャパンの時間稼ぎに疑問を投げかけた明石家さんまにも、批判が集中しているそうです。さんまはサッカーを知らない「にわか」ファンにすぎないと叩かれているのだとか。上記の著名なサッカーファンの某氏と同じように、「時間稼ぎを批判するのはサッカーを知らない人間だ」と言いたいのでしょう。

livedoor NEWS
サッカー「にわか」を叩く風潮 明石家さんまにも矛先?

「感動」を強要し、「感動」しない者を叩いて排除する空気。異論や異端を排除することによって、「ニッポン、凄い!」という“あるべき現実“が仮構されるのです。

集団心理は、ときにこういう”異常”を招来するものです。”異常”のなかにいる者たちは、自分たちが”異常”なんて露ほど思ってなくて、むしろ自分たちこそが正義を体現していると思い込むのです。

改憲のために「手段を選ばない」安倍政権を批判しながら、サッカーでは「ニッポン、凄い!」キャンペーンに同調して、袋叩きの隊列に加わる左派リベラルのサッカーファン(サッカー通)。やはり、「感動」がほしいのでしょうか。全体主義を志向するファナティックな情念に右も左もないのです。こういう”左のファシスト”は、赤旗と日の丸の小旗を両手にもって、渋谷のスクランブル交差点を行進すればいいのです。
2018.07.04 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
私は、ベルギーが優勝候補の最有力と思っていましたので、日本が2点先制したときは、「まさか」と思いました。ただ、2点先制されるまでのベルギーは、油断していたのか、ナメていたのか、パスミスが多く、動きもチグハグでした。日本のほうがはるかにシステムが機能していました。

アルゼンチンやポルトガルの例を上げるまでもなく、ひとりのスーパースターにボールを集めるようなスタイルのサッカーは、もう終わりつつあるのです。ヨーロッパの5大リーグのようなところでは、客寄せの“ショー”として有効かもしれませんが、ワールドカップでは通用しなくなっているのです。世界の主流が、ヨーロッパスタイルと言われる、連携重視の組織的なサッカーになっているのは、多くの人が指摘するとおりです。

前半のベルギーは、アザールがセンタリングを上げて、ルカクがゴール前に飛び込むというパターンをくり返すだけでした。そういったワンパターンのサッカーには、ルカクをよく知っている吉田麻也ら日本の守備は有効でした。

3対2という得点差を上げて、「日本のサッカーは確実に進化している」「世界との差は縮まっている」などという声がありますが、それはいつもの翼賛的なサッカーメディアのおためごかしな意見にすぎません。4年前も8年前も、同じことが言われました。

日本のサッカーのためには、むしろ3対0で完敗したほうがよかったのではないかと思ったりします。「あと一歩」というような情緒的な総括では、日本のサッカーの課題を見つけることはできないでしょう。偶然の要素が大きいサッカーには番狂わせがつきものですが、とは言え、そう何度も番狂わせがあるわけではないのです。

2点先取したにもかかわらず、後半30分足らずの間に3点取られて逆転されたという事実にこそ、世界との差が表れているのだと思います。しかし、感情を煽るだけのサッカーメディアや、ただサッカーメディアに煽られるだけの単細胞なサッカーファンに、そんな冷静な視点は皆無です。

よその国だったら、むしろ短時間の間に逆転された問題点が指摘されるはずです。敗退したのに、「感動をありがとう!」「元気をもらった!」なんて言われて、敗因を問われることがないのは日本くらいでしょう。

今朝のテレビでも、「日本中が熱狂」「心が震えた」などということばが躍っていますが、そんなに「感動」を求めるなら、「宰相A」に頼んで戦争でもしてもらえばいいのです。戦争なら、サッカーどころではない「熱狂」を得られるでしょうし、もっと大きな「心が震える」感動を味わうこともできるでしょう。スポーツバーならぬ”戦争バー”でも作って、「ニッポン、凄い!」と感動を分かち合えばいいのです。そうすれば、渋谷のスクランブル交差点を日の丸の小旗を打ち振りながら堂々と行進できるでしょう。
2018.07.03 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
日本が2大会ぶりに決勝トーナメントに進出しましたが、終盤に露骨な時間稼ぎをおこなった日本チームを見て、なんだこりゃと思いました。実況アナウンサーは、「日本の冷静な判断が大きな力になりました」とわけのわからないことを言ってました。

タツゥーだらけの選手がまるで酸欠に陥った鳥のようにバタバタ倒れて、大仰に「ファウルだ」「PKだ」「FKだ」とアピールする南米のチームは見苦しくてうんざりさせられますが(ブラジルなんて負ければいいと思います)、日本の時間稼ぎも同様に見苦しいものでした。

そもそも、今大会から導入されたフェアプレーポイント(Tポイントじゃないんだから)なるものも問題ありです。フェアプレーと言うなら、日本のような時間稼ぎにも積極的にイエローカードを出すべきでしょう。でないと、今回のように、フェアプレーポイントを守るためにフェアプレーを放棄するという矛盾が出てくるのです。

日本は勝ち試合で時間稼ぎをしたのではないのです。ドローでもない。負け試合なのに、フェアプレーポイントの恩恵を受けるために時間稼ぎをしたのです。スポーツとしては、あり得ない話でしょう。

試合後、選手たちは、アンフェアな時間稼ぎには頬かむりして、「決勝トーナメントでは成し遂げた事のない結果を出したい」「歴史を変えたい」などと言ってましたが、なんだか真珠湾攻撃のときの軍部の口調と似ているように思いました。真珠湾攻撃も、手段を選ばず勝ちに行ったのですが、その結果、身の程知らずの破滅への道を暴走することになったのでした。

あのときも日本人は、「ニッポン、凄い!」と歓喜の声を上げたのです。そして、同じように、試合後の渋谷のスクランブル交差点では、サッカーファンたちが日の丸の小旗を打ち振りながら、「ニッポン、凄い!」と歓喜の声を上げているのです。

日本が決勝トーナメント進出を果たしたのは、一にも二にもコロンビアのお陰です。日本のサッカーファンは、コロンビアに足を向けて寝ることはできないでしょう。コロンビアも、日本戦以後は本来の力を発揮していたように思います。初戦の日本戦の不調はなんだったんだと思わざるを得ません。

たしかに、二戦目のセネガル戦に関しては、日本は健闘したと言っていいでしょう。決勝トーナメント進出は、その健闘が生きたという声もありますが、でも、それも牽強付会と言わざるを得ません。

余談ですが、ワールドカップの会場で、試合後に日本人サポーターたちのゴミ拾いをする様子が話題になっているという報道がありました。これも、日本のメディアの手にかかれば「ニッポン、凄い!」話になるのです。Jリーグでもそういう光景は見られますが、しかし、一方で、渋谷のスクランブル交差点でサポーターが大騒ぎした翌朝の渋谷駅周辺は、散らかし放題でゴミだらけです。商店街の旧知の店主は、「テレビが煽るからだよ」「迷惑だよ」と嘆いていました。これも、ニッポン的な建て前(表向きの顔)と本音(裏の顔)なのかと思いました。

先日、表参道で食事をしていたら、隣の席で若い女の子たちがワールドカップの話をしていました。

「サッカーって大袈裟すぎない?」「だってさ、どう見ても、たまたま目の前に転がってきたボールを蹴ったらゴールに入った感じなのに、解説者は、計算された結果だ、ゴールも必然だ、みたいに興奮して言うのよ。バカみたい」

たしかに、サッカーってただの玉蹴りにすぎないのです。その起源も、イングランドの田舎町でおこなわれていた寒さ凌ぎの玉蹴り合戦だったと言われています。女の子たちが言うように、サッカーは偶然の要素が大きいのも事実です。だから、番狂わせも多いのでしょう。偶然と見るか、必然と見るかによって、サッカーに対する見方も違ってくるでしょうし、サッカーの魅力をどうとらえるかも違ってくるでしょう。

所謂、サッカー通のコアなファンというのは、偶然にすぎないものを、必然と強弁して悦に入る、そうやって思考停止に陥る「バカみたい」な人間たちです。日本の時間稼ぎについても、「あれがサッカーだ」「フェアじゃないと批判するのはサッカーを知らない人間だ」などと言ってますが、彼らは、いつもそうやって現実を追認することで通ぶっている(サッカーを知っているふりをしている)だけです。むしろ、サッカーを巡る熱狂を冷めた目で見る原宿の女の子たちのほうが、サッカーの本質(魅力)を見抜いていると言えるのかもしれません。
2018.06.29 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
19日のコロンビア戦の”歴史的快挙”について、朝日新聞の忠鉢記者がつぎのような記事を書いていました。

朝日新聞デジタル
日本代表「勝てば官軍」か ハリル解任、正当化は反発も

みんなが論理も倫理もクソもない「風にそよぐ葦」になった今だからこそ、こういう記事は貴重だと思います。

そんな「勝てば官軍」の報道を見るにつけ、坂口安吾ではないですが、戦争に負けた途端に、「生きて虜囚の辱めを受けず」などと言っていた軍人(もののふ)から「天皇の赤子」まで、我先に昨日の敵にすり寄っていったあの光景を想起せざるを得ないのです。まさにあのときからこの国の戦後がはじまったのです。

今回のワールドカップは、PKとカウンターで試合が決まることが多いのですが、そのなかで日本は、「百年に一度の幸運」を得たと言っても過言ではないでしょう。  

「運も実力のうち」なんてのは、屁理屈にすぎません。サッカーに番狂わせはつきものですが、コロンビア戦に関しては、番狂わせと呼ぶのさえおこがましい気がします。明日のセネガル戦で日本の真価が問われるのは、言うまでもないでしょう。

余談ですが、わずか試合開始2分で10人でサッカーをすることを余儀なくされたコロンビアを見て、私は、もしこれがアルゼンチンだったらどうなっていただろうと思いました。10人になったら、メッシを交代させたでしょうか。もちろん、交代させることなんかできるわけがありません。でも、メッシをそのまま使えば、10人ではなく9人で試合するようなものです。”メッシ愛”が半端ねぇ小柳ルミ子には申し訳ないけど、メッシがいるアルゼンチンが相手だったら、5点くらい取れたかもしれません。そうなったらコロンビアどころではなく、日本中が狂乱したことでしょう。人気挽回を狙う「宰相A」が、代表チームに国民栄誉賞を、なんて言い出したかもしれません。

そして、私は、さらに話を飛躍させ、この国に全体主義をもってくるのは容易いことに違いないとあらためて思ったのでした。そんな論理も倫理もクソもないアジテーターがまだ出てきてないだけです。


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夜郎自大な国のサッカー
2018.06.24 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
今日、ロシアワールドカップの日本代表の最終メンバーが発表されましたが、これほど盛り上がらないメンバー発表もめずらしいのではないでしょうか。心なしか、メンバーを発表する西野監督の表情も精彩を欠いていたように思います。

それもそのはずで、昨夜のガーナ戦のテイタラクはまさに目を蔽うばかりでした。「それ見たことか」ということばしか見つかりません。「ハリル解任ってなんだったんだ?」という言い方さえカマトトに思えるくらいです。

ガーナはワールドカップ予選に負けたばかりのチームです。あたらしいチーム作りもまだはじまってない状態でしょう。そんなチームが親善試合で招待されて来日したのです。知人は、どうせ吉原に行くのが楽しみで来たようなもんだろうと言ってましたが、どう考えてもボクシングで言う「咬ませ犬」にすぎません。負けるのが仕事のようなものです。

一方、日本はワールドカップの最終メンバーの発表を翌日に控えた、文字通り最後のアピールとなる試合でした。両チームのモチベーションは、天と地の差があったはずです。実際に、ガーナの選手たちは、アマチュアのチームのように、統制の取れてないチグハグな動きをしていました。そんなチームに、FKとPKだったとは言え2対0で完敗して、勝つことが前提の壮行試合を台無しにしたのです。お話にならないとはこのことでしょう。

ヨーロッパのサッカーメディアは、ハリルを解任した日本を今大会の最弱国だと辛辣な評価を下しているそうですが、あながち的外れだとは言えないでしょう。昨夜の試合では、「明日につながる試合だった」「課題が見つかった」などという常套句もさすがに影を潜めていました。

サッカーは、野球や相撲と違って、世界を相手に戦わなければならないのです。常にみずからを世界の基準に晒さなければならないのです。「一国社会主義」では世界に通用しないのです。いくら「ニッポン、凄い!」と自演乙しても、そんなものはクソの役にも立たないのです。サッカー協会の派閥やスポンサーの意向を忖度して世界で戦おうなんて、悪い冗談だとしか思えません。真面目に勝つことを考えているとはとても思えません。

ハリル解任を主張していたセルジオ越後氏や杉山茂樹氏などは、さっそく西野ジャパンの戦術を批判していますが、今更なにを言ってるんだと思いました。批評のレベルも、その国のサッカーのレベルに比例するのでしょう。

そして、グループステージで敗退してロシアから帰ってきたら、翼賛的なサッカーメディアに訓致されたサポーターたちは、「感動をありがとう!」「勇気をもらった」などというおなじみの垂れ幕を掲げて拍手と歓声で迎えるのでしょう。そんな痴呆的な光景が目に浮かぶようです。


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2018.05.31 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
愛しきソナ


今、映画監督のヤン・ヨンヒ氏の小説・『朝鮮大学校物語』(角川書店)を読んでいるのですが、それで思うところがあって、同監督の「愛しきソナ」(2011年)をNetflixで観ました。「愛しきソナ」を観たのは、これで二度目です。

大阪の鶴橋に住む在日朝鮮人の一家。1970年代の初め、18歳・16歳・14歳の息子三人は、当時「地上の楽園」と言われた北朝鮮に帰国します。日本に残ったのは、朝鮮総連の幹部であった父親と母親、それにまだ6歳のひとり娘(ヤン・ヨンヒ監督)でした。

やがて三人の息子はそれぞれ家庭をもち、両親には北朝鮮に八人の孫がいます。三人の息子の生活は、日本からの仕送りで支えられています。母親からの仕送りは、兄たち家族の「生命線」だと映画のなかで言ってました。お金や薬、それに風呂釜まで送られたそうです。

「愛しきソナ」は、次兄の娘・ソナにフォーカスを当て、1995年から10年以上に渡り、北朝鮮と日本に分かれた一家の悲喜こもごもの交流を記録したドキュメンタリー映画です。

ソナが5歳のとき、実母が子宮外妊娠で亡くなります。一周忌のために訪朝した際に撮られた、ソナが母親の墓前で、受験のときに覚えたという「将軍様」を讃える詩を暗唱するシーンは、なんだかせつないものがありました。

ソナの父親にとって、ソナの母親は二度目の妻でした。妻の死から二年後、次兄は三度目の結婚をします。母親は、今回も結婚式の費用はもちろん、花嫁衣装やブーケまで日本からもって行ったのでした。

一方、長男は、日本にいるときはコーヒーとクラシック音楽が好きだったそうですが、北朝鮮に渡ったのち、躁うつ病になります。その薬も日本から送っていました。しかし、薬の催促のためにかかってきた国際電話で、薬事法の改正で患者本人でないと薬を処方してもらえなくなったので、薬を送ることができなくなった、と母親が説明するシーンがありました。

その長男も、息子に音楽家になる夢を託して2009年に亡くなるのでした。同じ2009年11月、脳梗塞で倒れた父親も亡くなります。また、ヤン・ヨンヒ監督も、前作「ディア・ピョンヤン」(2006年)が北朝鮮当局に問題視され、入国禁止を言い渡されるのでした。

どんな国に生まれても、子どもたちの小さな胸には夢がいっぱい詰まっており、子どもたちは天真爛漫に生きているのです。ただ、舞台が北朝鮮だと、どうして天真爛漫さが哀しく映るんだろうと思いました。

ピョンヤンの劇場の前の階段に、小学生のソナと監督の二人が座り、カメラを止め、日本では休日にどんなことをするのかとか、日本の演劇では誰が好きかといったことを話すシーンも(映画のなかでは、黒い画面に会話の文字が映し出されるだけですが)、印象に残りました。ソナは、「わからないけど、聞いているだけで楽しい」と言うのでした。

映画のなかで、「そっちに行くのも難儀でな」「国交が正常化したら行き来しような」と父親が電話で話すシーンがありましたが、今回の融和ムードを祈るような気持で見ている在日朝鮮人も多いことでしょう。

「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。それは、北朝鮮で生きる人たちだって同じでしょう。私たちは、北朝鮮のことを考える上で、その”当たり前の事実”を忘れてはならないのです。

政治に翻弄され、家族がバラバラになった朝鮮人にとって(北朝鮮によって家族が引き裂かれた拉致被害者の家族にとっても)、今回の融和ムードは掛け値なしに喜ぶべきことでしょう。トランプや金正恩の政治的思惑などどうだっていいはずです。戦争より平和のほうがいいに決まっているのです。それがすべての前提でしょう。


YouTube
「愛しきソナ」予告編
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「かぞくのくに」
2018.05.16 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
今日、Yahoo!トピックスに、『女性セブン』が2014年に掲載した安室奈美恵に関する記事について、発行元の小学館が「お詫び」を掲載したという日刊スポーツの記事がアップされていました。

Yahoo!ニュース
安室洗脳記事 女性セブン謝罪

また、朝日新聞デジタルも、同様の記事を掲載していました。

朝日新聞デジタル
女性セブン、安室さん記事でお詫び 男女関係報道など

ちなみに、日刊スポーツは朝日新聞系列のスポーツ紙です。

『女性セブン』は、安室の事務所から事実無根と訴えられていたそうで、おそらく、引退を間近に控え、両者でなんらかの”手打ち”がおこわれたのでしょう。

手前味噌ですが、”洗脳記事”が出た当時、私は、このブログにつぎのような記事を書きました。

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安室スキャンダルと”劣化”の構造
※一部リンク切れあり

芸能人が独立すると、見せしめのために、人格を否定するようなスキャンダルが流されるのはよくある話です。女性週刊誌やスポーツ紙などの芸能マスコミがそのお先棒を担ぎ、さらに、ワイドショーがそれを追いかけて、テレビからも締め出しを食うのです。そうやって独立した芸能人は兵糧攻めに遭うのです。それが怖い怖い芸能界のオキテです。

何度も言いますが、そうやって芸能マスコミやテレビ局が芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。

今回、小学館は彼女の引退ビジネスに乗り遅れるのを懸念して、頭を下げたということなのでしょう。小学館は、児童書を手掛ける一方で、『SAPIO』などでもひどいヘイト記事を垂れ流しており、お金のためなら悪魔にでも平気で心を売る出版社です。

私は、件のねつ造記事に関わった記者や編集者(編集長)を、芸能マスコミから永久追放するくらいのきびしい処分が必要ではないかと思いますが、もちろん、彼らは口を拭い、これからも悪徳プロダクションと結託して、ねつ造記事を流しつづけるのでしょう。

一方、”洗脳記事”をなんの見識もなく掲載し、アクセスを稼ぐためにコメント欄に常駐する「バカと暇人」(中川淳一郎)を煽ったYahoo!ニュースは、相変わらず他人事です。しかし、そうやってねつ造記事をマネタイズするYahoo!ニュースも同罪であることは言うまでもありません。


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『ネットメディア覇権戦争』
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2018.04.13 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
代表戦しか観ない俄かサッカーファンの私でさえ、ワールドカップ本戦を目前にしたハリル解任には、違和感を禁じ得ませんでした。

ハリルの戦術(あるいは性格?)に問題があったとは言え、この時期に監督を入れ替えて、ホントにワールドカップ本戦に効果があると思っているのでしょうか。どう考えても、混乱や戸惑いしかもたらさないように思います。

日本代表の低迷は、なにも今にはじまったことではないのです。低迷の原因は、ときの代表監督の戦術だけにあるのではないのです。それはむしろ些末な問題です。どんな優秀なドライバーでも、車のエンジンが貧弱ではレースに勝てないのです。杉山茂樹氏は、ハリルホジッチのサッカーは「サッカーの質が悪い」と言ってましたが、それは監督の問題ではなく選手の問題でしょう。

日本代表の低迷の原因は、スポンサーの関係で海外に移籍する選手は多いものの、実際に世界に通用する選手が少ない、そういった選手が育ってないということでしょう。それは、日本のサッカー文化や選手の育成の問題です。強いて言うならば日本サッカー協会の問題でしょう。

直近のベルギー遠征の結果に危機感を抱いたと言ってますが、それは、日本代表の”真の実力”が見えたにすぎないのです。まるでボクシングの「咬ませ犬」のような海外のチームをホームに招待しておこなわれる、スポンサー主催の親善試合だけでは”真の実力”ははかれないのです。ハリル自身がこの時期の海外遠征を切望したと言われていますが、そうやって日本代表の”真の実力”を知る必要を感じたからでしょう。

セルジオ越後氏は、西野監督になったら通訳が必要ないので、選手とのコミュニケーションもよくなるだろうと言ってましたが、もしそれが本当ならあまりにレベルの低い話で呆れるばかりです。選手の意見を聞かないハリルの独裁的な姿勢が、選手との信頼関係を損なったなどという報道がありますが、ナショナルチームはサッカー同好会ではないのです。常にきびしい結果を求められる代表チームの指揮官が、妥協を排し独裁的にならざるを得ないのは当然でしょう。それに、出場機会の減った選手が不平不満を漏らすのは、スポーツの世界ではよくある話です。一方で、香川や岡崎や本田などスター選手の起用法をめぐって、スポンサーの不評を買っていたという話もあります。解任の本当の理由は案外、そのへんにあるのかもしれません。

代表監督の交代劇のたびに、協会の任命責任や協会内部の派閥の問題が指摘されていますが、協会の役員たちは責任を取らず、いつも現場に責任を押し付けるだけです。

不都合の責任を外国人監督ひとりに押し付けるだけの日本サッカー。そんな協会を忖度するだけのスポーツメディア。なんと夜郎自大な国の夜郎自大な対応なんだろうと思います。そうやって日本サッカーの”真の実力”という現実から、いつまでも目を背けつづけるつもりなのでしょう。


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ブラジルの大敗と自由なサッカー
マラドーナ
2018.04.09 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
ビートたけしの“独立騒動”に関して、リテラが『噂の真相』の記事を引用して、さらにつぎのような記事をアップしていました。

リテラ
愛人問題を森社長の責任にスリカエ、たけし軍団の声明文がネグるオフィス北野“株問題”の真相とたけしのタブー

たけし軍団の声明文に書かれた「デタラメな主張」。水道橋博士は、「たけし軍団は徒弟制度の中にある」「いわゆる芸能事務所と違う」「師匠が言うことは絶対」とテレビで言ってましたが、だからと言って、デタラメを言っていいということにはならないはずです。

リテラが書いているように、たけしだけでなく軍団の古参メンバーも、たけしが太田プロから独立してオフィス北野を設立した経緯や、26年前に森社長がオフィス北野の筆頭株主になった経緯などは当然知悉しているはずです。にもかかわらず、森社長が「裏切った」「いつの間にか筆頭株主になっていた」などと主張するのは、極めてタチが悪い言いがかりと言うべきでしょう。

また、オフィス北野の従業員の給与の問題やたけしが軍団のために持ち株を売却したという話も、彼らが言っていることは嘘ばかりだとか。そもそも愛人を「ビジネスパートナー」と呼んでいることからして、彼らの主張は眉に唾して聞く必要があるでしょう。それは、森友文書の改ざん問題で、改ざんを「書き換え」と呼んでいるのと同じようなものです。

まして、水道橋博士やガダルカナル・タカは、ワイドショーでコメンテーターを務めているのです。それを考えれば、悪い冗談だとしか思えません(たけしが報道番組のキャスターを務めているのは、それ以上の悪夢ですが)。

たけし軍団が今のお笑いの世界からズレており、お笑い芸人として終わっているのは誰の目にもあきらかです。たけしの後ろ盾を失ったら、芸能界で生き残るのは難しいでしょう。だから、あれほど必死なのかもしれません。

今回の”独立騒動”に対して、芸能マスコミは相変わらず及び腰です。たけしの番組のカラミもあるのでしょう、ワイドショーも、たけしを”善人”あるいは“被害者”と見るスタンスを崩していません。たけしのいかがわしさを指摘する声は皆無なのです。そのため、Yahoo!ニュースのコメント欄なども、テレビ報道を真に受けた情弱なコメントで溢れています。

私は、森昌行社長がたけしと決別して、北野映画の「影の監督」であったみずからの役割について”衝撃の告白”をすることを期待していますが、ただ、芸能界に跋扈する魑魅魍魎の存在を考えれば、それはとても無理な相談かもしれません。

何度も言いますが、芸能マスコミやテレビ局が、芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。今回の“独立騒動”でも、その一端が垣間見えたように思えてなりません。


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ビートたけしの虚像
2018.04.05 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
噂の真相2002年5月号


ビートたけしが「オフィス北野」から独立して、愛人と一緒に設立した新事務所に移籍するというニュースが話題になっています。ちなみに、(俄かに信じがたいけど)事務所名の「T.Nゴン」というのは、「T」がたけし、「N」が愛人の頭文字で、「ゴン」が二人の愛犬の名前だとか。もしこれが本当なら「色ボケ」と言われても仕方ないでしょう。

ただ、私が興味があるのは、たけしの「色ボケ」より、「世界の北野」などと言われた映画監督・北野武の虚像が、これでようやく白日のもとに暴かれるのではないかということです。

リテラも、今回の“独立騒動”に関して、下記のような記事を掲載していました。

リテラ
ビートたけし「恩人を切り捨て愛人と独立」の報い…“陰の共同監督”を切り捨てて北野映画は撮れるのか

リテラは、休刊した『噂の真相』の旧スタッフたちが中心になって運営されているそうですが、私が知る限り、かつて北野武の虚像を記事にしたのは『噂の真相』だけです。

それで、私は、本棚の奥から『噂の真相』のバッグナンバーを引っぱり出して、関連する記事を読み返してみました。たけしは、独立について、「軍団を含め、これまで背負ってきたものをいったん下ろしたい」と言ったそうですが、記事を読むと、そのことばの意味もなんとなくわかるような気がするのでした。

フライデー事件(1986年)以降、たけしのまわりでは右翼や闇社会の人間たちが見え隠れするようになりました。それは、芸能界復帰に関する右翼団体とのトラブルに、広域暴力団の組長に仲介を頼んだためと言われています。事件をきっかけに、太田プロから独立したのも、そのカラミだったそうです。1992年、新右翼の大物が参院選挙に出馬した際、麻布十番で行われた記者会見の席に、たけしが横山やすしらとともにひな壇に座っていたのも、そういった裏事情があったからなのでしょう。しかし、その手の人間たちも徐々に離れていったと言います。

以下、長くなりますが、記事から引用します。

 愛娘、北野井子の売り出しの際、大物右翼の同席の記事が潰される一件があったように、『フライデー』事件以降、たけしの周辺には常に闇人脈が群がっていたのは周知の事実だろう。ところが、いまやその闇人脈でさえたけしから離れていっているのである。(略)
 こうした厳しい状況は、たけし本人が一番理解しているだろう。「映画を撮るために、テレビで金を稼いでいる」と虚勢をはるが、本音はわずらわしいテレビの仕事を離れ、映画に集中したいのではないか。
 だが、たけしはそれでもなおテレビから離れられないのだ。たけし軍団や前述した愛人たちの存在があるからである。
「今やオフィス北野は完全な映画製作会社で、芸能部門は放し飼いですからね。古株のダンカンやガナル・タカあたりはまだしも井出らっきょあたりは、まだまだたけしの庇護が無ければやっていけない。実際、食い詰めた大森うたえもんが独立したけどすぐに潰れてしまった。軍団を養っていくためにも、たけしは自分の番組を無くすわけにはいかないんだ」(前出・事務所関係者)
 そしてもうひとつ。最大の理由が、数々の愛人スキャンダルを乗り切ったことで、今や”マザコン”たけしの母親代わりとして確固たるポジションを得た幹子夫人の存在だ。
 たけしのギャラは、基本的にはオフィス北野からたけしの個人事務所である北野企画に支払われているが、この金は幹子夫人がいっさい管理しているという。(略)
 妻や弟子たち、さらに愛人たちへの責任をも背負い、どれだけ落ち目になったとしても、たけしはブラウン管でその醜態を晒し続けなければならない事情があるのだ。
(『噂の真相』2002年5月号・『フライデー』スクープで判明した北野武「権威」の残像と凋落との因果)


また、ほかの号では、北野映画について、つぎのような記事を掲載していました。北野映画では、「沈黙」や「無表情」が絶賛されると沈黙や無表情のシーンをやたら増やしたり、青色のトーンが「キタノ・ブルー」と評価を受けると、今度は青色を多用するようになったのだとか。もっとも「キタノ・ブルー」にしても、撮影監督の柳島克己氏が『ソナチネ』でたまたま「そういった色彩で撮っただけ」だそうです。

そして、北野映画において「影の監督」と言われたのが、テレビ朝日からオフィス北野の社長にヘッドハンティングされ、北野映画のプロデューサーを務めた森昌行氏なのです。

「もともとたけしさんは、映画監督としては信じられないくらい無責任な人で、ロケハンも自分はいかず他人まかせ。とくにプロデューサーの森さんにはオンブにダッコで、キャスティングやスタッフの選定も全部決めてもらっていた。今や北野映画に不可欠といわれている久石護の音楽だって、起用を決めたのはたけしさんじゃなく、森さんだしね。ただ、そんなたけしさんも、演出と編集だけは絶対に人に口をはさませなかったんです。(略)ところが、『HANA-BI』から、その演出と編集まで森さんに頼り、ほとんどいいなりになって作ったんです」(前出・元スタッフ)
 実際、『HANA-BI』における森の姿はまさに「影の監督」といってもいいものだった。撮影中はたけしにぴったり張りつき、ワンカット撮るたびにたけしとひそひそ話し合い、撮影が終わればラッシュを見て、たけしの相談に乗る――。(略)
 しかも、この傾向は作品を重ねるごとに強くなり、「BROTHER」にいたっては、撮影現場にたけしが不在で森がメガホンをとっている光景までが一部で目撃されている。
(『噂の真相2001年3月号・映画「BROTHER」』で絶賛された北野武の映画監督手腕と辛口両断!)


そうやって「世界の北野」が作られていったのです。

既出ですが、ビートたけしは、東日本大震災の前年、『新潮45』に掲載された電事連のパブ記事のなかで、つぎのように発言しています。

原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)


これもまた、ビートたけしの虚像を表していると言えるでしょう。たけしがイタいのは、滑舌や笑いのセンスや事務所のネーミングだけでなく、その知性や見識においても然りなのです。芸能マスコミは、そんなたけしを持ち上げ、批判を封印し、タブー視していたのです。


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水道橋博士
2018.03.31 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
手前味噌になりますが、文春砲とそれに煽られる“お茶の間の論理”や、大塚英志が言う「旧メディア のネット世論への迎合」によって文春砲が増幅される“私刑の構造”について、私はこのブログで一貫して批判してきたつもりです。

ただ、今回の小室哲哉に関する文春砲については、文春砲に煽られる“お茶の間の論理”だけでなく、一転して文春砲を批判する世論に対しても、違和感を抱かざるを得ません。

今回の文春砲について、いろんな人が発言していますが、そのなかで目にとまったのは、ゲスの極み乙女。の川谷絵音の「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間。」という発言と、新潮社の出版部部長でもある中瀬ゆかり氏の「二元論でものを考える人は怖い」という発言です。

デイリースポーツ
川谷絵音「病的なのは週刊誌でなく世間」

デイリースポーツ
中瀬ゆかり氏、文春批判にひそむ危険性を警告「二元論でものを考える人は怖い」

中瀬氏はつづけて、つぎのように言ってます。

「私の好きな言葉に『知性っていうのは、思ったことを極限までに突き進めないことだ』っていう。知性っていうのは、あるところで歩留まりというか、そこで止められることが一種の知性だと思っているので。一方的に、感情だけでカッとして、『だから廃刊にしろ』とか『不買運動だ』みたいになっている人たちは、また今度、何かあった時には手のひらを返すんだろうなって気はしてみてますね。


川谷絵音の発言に対して、ネットでは「お前が言うな」と批判が起きているそうですが、私はむしろ中瀬氏の発言のほうに、「お前が言うな」と言いたくなりました。

世間も週刊誌もメディアも「病的」なのです。そうやって“異端”や”異物”を排除することで、”市民としての日常性”が仮構されるのです。”市民としての日常性”は、そんな差別と排除の力学によって仮構されているにすぎないのです。

それにしても、中瀬氏の“知性論”は噴飯ものです。「留保」ということを言いたかったのかもしれませんが、そうやって他人の不幸を飯のタネにする自分たちのゲス記事をただ弁解しているとしか思えません。そもそも新潮社の中瀬氏がテレビのワイドショーに出て、したり顔でコメントしている光景にこそ、”私刑の構造”の一端が垣間見えるのです。

今回、文春砲を批判し炎上させている人間たちは、小室の場合はやりすぎだけど、山尾志桜里や上原多香子やベッキーは別だというスタンスが多いようです。男の不倫には理由があるが、女の不倫はどんな理由も許されないとでも言いたげです。そこにあるのは、文春や新潮と同じ男根主義的な”オヤジ目線”です。また、日頃不倫に眉をしかめる世間の人間たちも、妻の介護によるストレスや欲望のはけ口を身近な女性に求めたことには、なぜか理解を示すのでした。

前も書いたことがありますが、小室哲哉に関しては、みずからが手を付けたB級アイドル(華原朋美)をデビューさせた公私混同ぶりや、絶頂期の目をおおいたくなるようなバブリーな振舞いに、私は当時から違和感を抱いていました。

絶頂期の彼には、今のような如何にも「誠実そうな」姿とは真逆な一面がありました。常にクスリやオンナの噂が付き纏っていたのは事実です。詐欺事件で逮捕されたときも、事件に登場する人物たちにどこかいかがわしい人間たちが多かったのも事実でしょう。

芸能人である限り、「不倫なんてどうだっていいじゃないか」「どこが悪いんだ」「お前たちだって不倫したいと思っているだろう」と口が裂けても言えないのです。そのため、小室哲哉は、よりによって妻の介護と不倫を結び付け弁解しているのです。小室哲哉が虚像であることは言うまでもないでしょう。文春砲に対してどっちの立場をとるにせよ、その当たり前の前提がすっぽりとぬけ落ちているのです。それが違和感を抱く所以です。


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上原多香子と柳原白蓮
ベッキー降板で思った
2018.01.25 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
大相撲日馬富士の暴行問題。

もし加害者が横綱の日馬富士ではなく一般人だったら、当然逮捕されたはずです。しかし、横綱だと逮捕を免れ、書類送検でことが済まされるのです。

しかも、話は暴行傷害事件という問題の本質を離れ、おかしな方向に行っています。なぜか警察に告訴した貴乃花親方が批判に晒されているのです。

話をおかしな方向にもって行ったのは、テレビやスポーツ新聞など大相撲周辺のメディアです。「相撲ジャーナリスト」や「東京相撲記者クラブ会友」などという手合い(最近はそれに「相撲レポーター」というのが加わっています)のいかがわしさは、もっと指摘されて然るべきでしょう。

今回の問題では、日本相撲協会とメディアとの力関係が如実に表れているように思います。例えばNHK以外の民放のテレビ局は、本場所の取組みをスポーツニュースなどで取り上げる場合でも、すべて日本相撲協会の映画部が撮影した映像を借りるしかないのです。自由に取材できないのです。つまり、メディアは相撲協会から完全に首根っこを押さえられているのです。

相撲協会の隠蔽体質も、こういった力関係が背景にあるのはあきらかでしょう。今回も、貴乃花親方が批判されるのは、内輪で処理しなかった(隠蔽しなかった)からでしょう。

そもそも大相撲はスポーツと言えるのか、あるいは大相撲はホントに「国技」なのかという疑問があります。

ネットを見ていたら、ヤフー知恵袋に「相撲ってフリークショ-みたいなものですか?」という質問がありました。それに対して、つぎのような秀逸な回答がおこなわれていました。

一部を除き、あんな太った体形にするのが有利な種目なんて世界標準からみたら奇形大会みたいなものですもんね。
フリークショーという言葉でも外れていないかもしれない。

大体、朝起きて空きっ腹でけいこして、その後大食して昼寝して脂肪をつけるという、スポーツ医学を真っ向から否定するような競技は、このヘルシーブームに逆行しますよね。

Yahoo!知恵袋
相撲ってフリークショ-みたいなものですか?


私も昔、なにかの雑誌で、大相撲を「小人プロレス」やサーカスの「小人曲芸」などと同じように、フリークショ-として論じている記事を読んだ記憶があります。体形的な特徴(「異形」)を見世物にする残酷な世界が昔の大衆文化にはあったのです。

取組みで、でぶっちよの力士が土俵に転がったり、土俵下に頭から落ちたりすると、観客は大笑いしながら拍手喝采を送っていますが、それはどう見ても、スポーツ観戦というより見世物を見ている感じです。

「異形」ということで言えば、歌舞伎なども同じ系譜に属すると言ってもいいのかもしれません。江戸時代以降の相撲は、勧進興行としておこなわれていたそうで、歴史的に見ても、相撲は歌舞伎など芸能と重なる部分があるのです。

寺社権力の庇護を外れた芸能は、生き残りのため、不浄の場所である河原で興行を打つことになります。そのために、「河原乞食」などと呼ばれ蔑まされたのでした。それは、相撲も似たようなものでしょう。「日本の伝統文化を継承」と言っても、それは本来マージナルなものだったはずです。

海外では、力士は「スモウレスラー(sumo wrestler)」と呼ばれるそうですが、大相撲もプロレスなどと同じように興行(見世物)なのです。興行である限り、八百長云々は野暮というものでしょう。今回「モンゴル会」の実態が公になったことで、ますますその疑念を深めた人も多いのではないでしょうか。

ただ、話がややこしいのは、同じ興行でも、大相撲は国家に庇護されているため、「国技」などと言われ、権威づけられていることです。もっとも「国技」の根拠も、明治天皇が相撲好きだったからというような話にすぎないのです。なかには、相撲の常設施設を造る際、「国技館」と名付けたので「国技」と呼ばれるようになったという信じ難い(アホらしい)説さえあります。

横綱が神の「依代」と言われるのも、勧進興行の名残なのでしょう。言うなれば、勧進興行の(普請のためにお金を集めるための)セールストークだったのでしょう。そのために、「品格」をもたなければならないと言われても、彼らは単にスモウレスラーのチャンピオンにすぎないのです。チャンピオンになったからと言って、急に「品格」なんかもてるわけがないのです。白鵬などを見ても、無理して「品格」がある風を装っているのがありありと見てとれます。

力士たちの貧しいボキャブラリーが「愛嬌」と見られるのも、見世物ゆえでしょう。彼らが、日本の伝統文化を背負っているなどと言われ裃を付けても、どこかぎこちなく見えるのも、(まるで「騎馬民族征服王朝説」を地で行くように)今やチャンピオンの多くが大陸からやって来た騎馬民族だからという理由だけではないでしょう。

公益財団法人という特段の地位を与えられ、国家に庇護されている今の大相撲は、虚構ではないのか。今回のように、対応がおかしな方向に向かうのも、虚構であるがゆえの弥縫策に走るからではないのか。そんな気がしてなりません。
2017.12.01 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
ネットに出ていた上原多香子が不倫相手と交わしたLINEの文章を読んでいたら、ふと柳原白蓮のことを思い出しました。

私は、高校生のとき、持病があり、月に一度かかりつけの病院に通っていたのですが、その際、赤銅御殿の前を通って病院に行ってました。隣にキリスト教系の女子高があり、下校時にそこの生徒たちと遭遇すると、遠慮のない視線を浴びせられ、思春期の真っ只中にあった私は、いつの間にか耳たぶが熱くなっているのがわかるのでした。赤銅御殿は、既に人手に渡り旅館になっていましたが、高い石塀と庭木に囲われた目を見張るような豪邸は、昔のままの姿で残っていました。

成り上がり者の炭鉱王・伊藤伝右衛門は、大正天皇の従妹にあたる25歳下の白蓮のために、贅を尽くした別邸を大分県別府市の海が見渡せる高台に作ったのです。歌人でもあった白蓮は、赤銅御殿に多くの文人や歌人を招き、サロンのように使っていました。白蓮は、赤銅御殿で、脚本の上演許可をもらいに来た7歳年下の東京帝国大生・宮崎龍介(孫文を支援した右翼の巨頭・宮崎滔天の長男)と知り合い、やがて手に手を取り合って出奔するのでした。姦通罪が存在していた時代の、文字通りの“不倫の恋”です。東大の新人会(戦前の学生運動の団体)に属し、進歩的な思想をもっていた宮崎龍介は、男と女が「肉の欲」に負けるのは別に悪いことではないと白蓮に言います。貞淑な上流婦人であった白蓮は、「肉の欲」というあけすけなことばに衝撃を受け、宮崎龍介に惹かれていくのでした。

上原多香子も、不倫相手にLINEでこう書き送っています。

NEWSポストセブン
上原多香子 不倫LINEで「止められなくなる」「そばにいて」

上原《私、結婚ってとっても大きなことで人生の分岐点だったこともあるー だから、離婚するとか浮気は、もうあり得ないって思ってたのね でもさー、トントンに伝えられなかった好きと、やっぱり大好きと、私の一方的やけど肌を合わせて感じるフィット感が今までとはまったく違うの。》


上原《私はそんなに器用じゃなくて、、旦那さんとの生活を続けながら、トントンを想い続けること、トントンに想いがすべて行ってる中、騙し騙し旦那さんと居ることが、やっぱり出来ないです。(中略)今すぐにでも、すべて捨ててトントンの元へ行きたいです。だけど、私ももう大人、、いろんな問題があるし、私だけの想いでトントンに迷惑はかけられません。今すぐは難しいかもしれないけど、私も少し大人になって、ちょっとずつ、旦那さんと別の道を歩めるようにします。こんな気持ちでは絶対に旦那さんに戻れない。》


なんと、ぞくぞくするような愛の告白でしょうか。不謹慎を承知で言えば、これこそが不倫の恋の醍醐味とも言えるのです。上原多香子が不倫相手に送った「2人の子供作ろうね」ということばが、元夫が自殺する決定的な要因になったのではないかと言われていますが、でも、人間というのは自分でもままならないもので、道ならぬ恋だからこそ、よけい燃え上がるというのはあるでしょう。

元夫の自殺に対する責任を問う人もいますが、それは他人がとやかく言う問題ではないでしょう。自殺しているのを発見した際、彼女はひどく取り乱して、警察の取り調べにも応じられなかったと言われています。また、自殺によって不倫相手とも別れているのです。

柳原白蓮は、世間から「淫乱女」だと指弾され、石を投げつけられたのですが、上原多香子に対する世間の反応も同じです。姦通罪はなくなっても、不倫ということばは生きつづけているのです。でも、不倫なんて誰でもあり得ることです。恋に「良いか悪いか」なんてないのです。

不倫の恋に身を焦がしたのは、上原多香子や柳原白蓮だけではありません。栗原康氏が『村に火をつけ、白痴になれ』で書いていますが、伊藤野枝も「不倫上等」のような人生を送っていました。『美は乱調にあり』で伊藤野枝の伝記を書いた瀬戸内寂聴自身も、大学教員だった夫の教え子と不倫をしています。さらにそのあと井上光晴との不倫もよく知られています。みんな、上からのお仕着せのイデオロギー(道徳)ではない、自前の論理や感性で生きた人たちなのです。

上原多香子のことを「芸能界から追放必至」などと書いていたスポーツ紙がありましたが、芸能界というのは、本来、公序良俗の市民社会の埒外に存在するものです。名女優と呼ばれている人たちも、不倫の恋に身を焦がして女優として羽ばたいた人が多いのです。女優にとって奔放であることは決してマイナスではないはずです。

むしろ、今になって(元夫が盗み見た)LINEのやり取りや遺書を公表したり、4千万円だかの金銭を要求したと言われる元夫の家族こそ、眉に唾して見るべきでしょう。


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ベッキー降板で思った


2017.08.12 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
前回の記事のつづきになりますが、その後、ノンフィクションライターの田崎健太氏が、『週刊現代』に連載している「ザ芸能界」で、能年玲奈の問題を取り上げていました。

現代ビジネス
能年玲奈「干されて改名」の全真相 〜国民的アイドルはなぜ消えた?

記事によれば、当初『週刊文春』が伝えた能年の給与が「月5万円」というのは、事実だそうです。所属事務所・レプロの担当者もそれを認めているそうです。担当者に言わせれば、その代わり、高級マンションに住まわせ(と言っても、4~5名の共同生活)、その家賃など「生活全ての面倒を見て、レッスン代、交通費などの関連費用も全部こちらで持った上で、さらに小遣いが5万円ということ」だとか。

でも、駆け出しとは言え、彼女たちはタレントなのです。レッスンだけしているわけではなく、いくらかなりとも報酬(ギャラ)を得ているはずです。事務所はそれをピンハネしているのです。それで、「小遣い」はないだろうと思います。

赤字だろうが、先行投資だろうが、こういったシステム自体が前近代的で、レプロの主張は女郎屋、あるいはタコ部屋の論理と同じです。芸能界というのは、前近代的な、労働基準法も及ばないブラックな論理が、さも当たり前のように未だにまかり通っている世界なのです。

「あまちゃん」で売れたので、これから投資した分を回収しようとした矢先、独立したいと言い出したため、レプロが激怒したのは容易に想像がつきます。芸能マスコミに能年玲奈の「洗脳」記事がいっせいに流れたのは、その頃でした。

記事で注目されるのは、能年の顧問弁護士が初めて口を開いたことです。顧問弁護士の星野隆宏氏は、有名芸能人の顧問を務める弘中惇一郎弁護士などと違い、外資系法律事務所に所属する商事紛争が専門の裁判官出身の弁護士だそうです。今まで芸能界と付き合いのない弁護士だからこそ、その主張は芸能界の問題点を的確に衝いているように思いました。

星野はレプロに限らず、日本の芸能プロダクションの、所属タレントに対する姿勢を問題視する。

「確かに、レプロは彼女にコストを掛けたかもしれない。ただ、それはビジネスだから当然のことです。

事務所に集められた全員が成功するわけではない。本人の努力や運、さまざまな要素がかかわってくる。事務所はそうして成功したタレントをうまく活用すればいい。それがマネジメントです。

しかし現状は、あたかもタレントを事務所の所有物のように扱いコントロールしている。タレントに対し、とにかく逆らうな、言った通り仕事をしろ、という発想がある」

仕事をしたいと主張する能年に対して、レプロは「事務所との信頼関係がない限り、仕事は与えられない」と言うのだそうです。

「我々が(代理人として)入ってからは、常に彼女は仕事をやりたがっていました。『仕事をください』という要求を、6回も書面で出しています。するとレプロ側は『事務所との信頼関係がない限り、仕事は与えられない』という回答を送ってきた。

『では、その信頼関係はどうやったら作れるんですか』と返すと、『社長との個人的な信頼関係がなければ仕事はあげられない』。

そして、弁護士を介さずに社長と本人の一対一で話し合いをしたいと言う。ただ、代理人がついた事件で、当事者同士が直接交渉するということは、弁護士倫理上も許容できない。到底認められなかった」


芸能界は、まさにヤクザな世界なのです。テレビ局や芸能マスコミがそのヤクザな世界に加担しているのです。彼らは、女郎屋&タコ部屋の論理を追認しているのです。

ただ、そういったテレビ局や芸能マスコミの姿勢に、視聴者や読者から批判的な見方が出ていることもたしかです。”音楽出版利権”に見られるように、芸能界のボスと結託して甘い汁を吸っている彼らの”裏の顔”は、既に多くの視聴者や読者の知るところとなっているのです。
2016.11.08 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲