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■3年ぶりの浅間峠


前に山に行く準備をして寝ろうした矢先、友人から電話があり、深夜まで話し込んだので山行きを中止したという話を書きましたが、今、調べたら、2週間前の今月5日のことでした。

以来、準備をして布団に入るものの、結局眠れずに朝起きることができないということをずっとくり返していました。

山に行くためには、4時すぎに起床して5時すぎの電車に乗らなければなりません。薬箱を見たら「睡眠改善剤」というのがあったので、それを飲んで床に入っても、頭がボーッとして今にも眠れそうになるのですが、しかし、眠れないのです。睡魔に襲われるけど眠れないという感じで、文字通りベットの上でもがき苦しむばかりでした。

昔の嫌なことや悲しいことが頭に浮かんで来て、森鴎外ではないですが、「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」(夜中に突然起きて座り、ただ黙って泣きじゃくる)ようなことをくり返していたのでした。

不思議なもので、翌日が雨だったり土日だったりすると(土日は山に行かないので)、目覚ましをかけていなくても4時頃に電気のスイッチが入るみたいにパチッと目が覚めるのでした。

目が覚めないというのは、それだけ山に行くモチベーションが下がっているということでもあります。しばらく行かないと心理的なハードルも高くなるのです。

で、昨日のことですが、いつものように山に行く準備をして寝たら(と言っても、この2週間準備をした状態をそのままにしているだけですが)、どうしたのか午前3時に目が覚めたのです。

それでラッキーと思って、ザックを背負って駅に向かい、午前5時すぎの電車に乗りました。ブログには書いていませんが、前回の山行が昨年の11月25日でしたから、約5ヵ月ぶりです。

いつものように武蔵小杉駅で南武線に乗り換えて、さらに立川駅で武蔵五日市直通の電車に乗り換え、武蔵五日市駅に着いたのが午前7時すぎでした。そして、駅前から7時20分発の数馬行きのバスに乗りました。通勤客以外に武蔵五日市駅から乗ったハイカーは、4名でした。また、途中の払沢の滝入口のバス停から2名のハイカーが乗ってきました。払沢の滝の駐車場に車を置いて、先の方から浅間嶺に登って払沢の滝に下りるハイカーです。

檜原街道には多くのバス停から笹尾根や浅間嶺の登山口があり、私も大概のバス停を利用したことがありますが、途中、登山口のないバス停でハイカーが降りると「おおっ」と思うのでした。バスの中のハイカーたちも、(勝手な想像ですが)「どこに行くんだ?」と心の中がざわついているような気がするのでした。みんな、バスが走りはじめると、山中の停留所に降りたハイカーに視線を送っているのがわかります。そういったデンジャラスなハイカーは、奥多摩では尊敬と羨望の眼差しで見られる空気があるのです。

昨日行ったのは、2020年の1月と同じコースです。上川乗(かみかわのり)から浅間峠に向けて登り、浅間峠から笹尾根を三頭山の方に歩いて、日原(ひばら)峠から檜原街道に下る計画です。

前回は日原峠の先の小棡(こゆずり)峠から下りたのですが、膝が痛くて下山に時間がかかるのでその手前から下りることにしました。

上川乗のバス停に着いたのは8時すぎでした。そこから南秋川に架かった橋を渡って甲武信トンネルの方に進み、トンネルの手前から登ります。今回のコースはちょうど甲武信トンネルの上を横断するような恰好になります。

この川乗かわのりというのは、奥多摩の特産品であった川で採れる”のり”(食べるのり)のことです。海で採れる”のり”は「海苔」と書きますが、川で採れる”のり”は、奥多摩では「川苔」または「川乗」と書きます(一般的には「川海苔」と書くようです)。そのため、川苔山は川乗山とも書き、山名としてはどちらも正しいのでした。九州には川のりはないのか、私は川で採れる”のり”があるというのは、奥多摩の山に登るようになって初めて知りました。

既出の『奥多摩風土記』では、「川のり」について、次のように書かれています。

川のりは海藻の海苔(のり)に似ていますが、冷涼な渓流のひうち岩系の岩石に主として生育する緑藻です。海のりより鮮やかな緑色をした香気高い嗜好品で、初夏から秋にかけて採取します。生育条件が限られていて現在のところ養殖の方法がなく、狭い範囲の自然採取だけですから、一般的な土産品とするほどの数量は得られません。


上川乗のひとつ手前には下川乗というバス停もありますが、昔は街道に沿って流れる南秋川で川苔が採れたのでしょう。

登るときは膝の痛みはさほどなく、ただ息があがるだけです。まともな山行から遠ざかっているので体力の衰えは半端ではなく、完全に最初に戻った感じです。山に行くモチベーションが下がっているのもそれが原因かもしれません。

それ以上に精神的にしんどいのが下りです。膝の痛みが出るので辛くてならず、通常より倍以上の時間がかかるのです。そのため、前より早い時間に下山しなければならないし、距離が長いと身体的にも時間的にもやっかいなことになりかねないので、短い距離の道を歩くしかないのでした。

上川乗から浅間峠に登るのは、下りだけ使ったことも入れると、これで三度目です。笹尾根は山梨と東京(主に檜原村)の県境にある尾根で、私たちが歩いている登山道は、地域の人たちが山仕事に使った道であるとともに、甲州と武州の村人たちの交易路でもあったのです。そのため、檜原街道のバス停からそれぞれの峠に向けて道が刻まれているのでした。また峠の上からは山梨(上野原市)側にも同じような道があります。また、笹尾根の上にはそれらを結ぶ縦走路が走っています。文字通り自然にできたトレイルなのです。

前も書きましたが、1909年、田部重治と木暮理太郎が笹尾根を歩いたのですが、山田哲哉氏は、笹尾根を「日本初の縦走路」と書いていました。その際、二人は浅間峠のあたりで野営したそうです。そして、私のブログでもおなじみの三頭山の手前の西原(さいばら)峠まで歩いているのでした。

今までも何度も書いていますが、笹尾根は特に眺望がいいわけではないし、途中、アップダウンも多くて結構疲れるのですが、私は笹尾根が持つ山の雰囲気が好きです。普段でも人は多くないのですが、特に人が途絶える冬の笹尾根が好きです。冬枯れの山の森閑とした風景は、田舎の山を思い出すのでした。

笹尾根は山の形状から最初の登りがきつくて峠に近づくと登りが緩やかになります。もちろん、下山時はその逆になります。

九十九折の道がやっと終えた地点で、ふと足元を見ると、地面に「トヤド浅間」と書かれた小さな手作りの標識があるのに気付きました。「トヤド浅間」へは登山道は通ってないのですが、奥多摩の熟達者の間では知る人ぞ知るピークで、私もずっと気になっていました。

しばらく立ち止まって、かすかな踏み跡が続く「トヤド浅間」への登りを見ていたら、浅間峠の方から一人のハイカーが下りて来ました。もう山で人に話しかけるのはやめようと思っていたのですが、いつものくせでまた話しかけてしまいました。

「この『トヤド浅間』へ行ったことはあります?」
「いやあ、ないですね」
「そうですか、気になってはいるんですけどね。でも道がわかりにくと聞いているのでどんなものかなと思いましてね」

その50代くらいのハイカーは上野原市に住んでいて反対側から登ってきたそうです。しかも一旦 上川乗まで下りてまた登り返して来ると言っていました。トレーニングをしているようです。それから膝を痛めた話などをしました。「じゃあ、またどこかで」と言って別れるのもいつもの決まり文句なのでした。

浅間峠には1時間50分くらいかかりました。前回が1時間35分くらいです。途中、休憩しましたので、それを入れるとほぼ同じかなと思いますが、ただ足を止める回数などは前回と比べようもありません。

浅間峠でしばらく休憩してから日原峠に進みました。こんなにアップダウンがあったかなと思うほど、結構な傾斜の上り下りが続きました。アップダウンが続くのが笹尾根の縦走路の特徴です。

日原峠までは1時間近くかかりましたが、途中ですれ違ったのは一人だけでした。

■ハセツネカップ


笹尾根の縦走路は、ハセツネカップという歴史のあるトレランの大会が開かれることで知られています。去年の10月にも開催されたのですが、しかし、登山道を2千名のランナーが走ることで表土の剥離や崩落の問題が指摘されています。しかも、笹尾根は国立公園内にありますので、普段山を管理する人たちからも問題が指摘され、環境庁も指導に乗り出すという話がありました。

私もこのブログで次のように書きました。

(略)東京都山岳連盟が実質的に主催し笹尾根をメインコースとするハセツネカップ(日本山岳耐久レース)が、今年も10月9日・10日に開かれましたが、ハセツネカップに関して、国立公園における自然保護の観点から、今年を限りに大会のあり方を見直す方向だ、というようなニュースがありました。

私から言えば、ハセツネカップこそ自然破壊の最たるものです。大会の趣旨には、長谷川恒男の偉業を讃えると謳っていますが、トレランの大会が長谷川恒男と何の関係があるのか、さっぱりわかりません。趣旨を読んでもこじつけとしか思えません。

笹尾根のコース上には、至るところにハセツネカップの案内板が設置されていますが、それはむしろ長谷川恒男の偉業に泥を塗るものと言えるでしょう。それこそ「山が好きだ」というのとは真逆にある、YouTubeの軽薄な登山と同じです。

丹沢の山などが地質の問題も相俟ってよく議論になっていますが、登山者が多く訪れる人気の山には、登山者の踏圧によって透水性が低下し表土が流出することで、表面浸食がさらに進むという、看過できない問題があります。ましてや、2000名のランナーがタイムを競って駆けて行くのは、登山者の踏圧どころではないでしょう。ランナーたちが脇目も振らずに駆けて行くそのトレイルは、昔、武州と甲州の人々が行き来するために利用してきた、記憶の積層とも言える古道なのです。

東京都山岳連盟は、「この、かけがえのない奥多摩の自然を護り育むことは、私どもに課せられた責務である」(大会サイトより)という建前を掲げながら、その問題に見て見ぬふりをして大会を運営してきたのです。都岳連の輝かしい歴史を担ってきたと自負する古参の会員たちも、何ら問題を提起することなく、参加料一人22000円(一般)を徴収する連盟の一大イベントに手弁当で協力してきたのです。

ちなみに、コースの下の同じ国立公園内に建設予定の産廃処理施設も、都岳連と似たような主張を掲げています。これほどの貧すれば鈍する光景はないでしょう。

関連記事:
登山をめぐる貧すれば鈍する光景


実際に歩いてみると、剥離して土がむき出しになっている部分がかなりありました。笹尾根の土壌は黒い粘土質のものなので、剥離してむき出しになると踏圧で深く削られたり雨が降ると崩落したりすることになるのです。

■日原峠


日原峠からの道はあまり歩かれてないみたいですが、最初はゆるやかで快適でした。膝にも優しく、それほど痛みも出ませんでした。40分くらい下ると林道に出ました。林道は地図にありません。戸惑いつつ方向を確認していると、林道の横から下に延びている踏み跡がありました。標識も何もないのですが、どうやらそれが登山道のようです。

そして、そこから笹尾根の特徴の九十九折が現われるのでした。道幅も狭いし、倒木もそのまま放置されたままだし、しかも、長雨の影響なのでしょう、途中、道が崩れたところが何箇所かありました。膝への負担も増し痛みも出て来て、益々時間がかかっしまいてました。

森の中で倒木に腰かけて休憩し、その際、買ったまま食べてなかった卵サンドイッチを食べたのですが、それが悪かったのか、以後、吐き気も催してきて、まるで閻魔様から仕打ちを受けているような気持になりました。

ほうほうの態で下山口に辿り着きました。日原峠からちょうど2時間かかりました。古い橋を渡って石段を登ると、檜原街道に出ました。人家もないところで、ガードレールの間から人が現れたので、車で通りかかった人たちは、怪訝な目で私を見ていました。バスが通りかかったたら、中のハイカーたちから「おおっ」と思われたかもしれません。

5分くらい歩くと、下和田というバス停がありました。初めて利用するバス停でした。バス停に着いたのが14時ちょっとすぎで、次の武蔵五日市駅行きのバスまで1時間近く待ちました。

■産廃処理施設と「顔の見えすぎる民主主義」


檜原村は、ちょうど村長選挙と村議会選挙の真っ最中で、バスを待っていると、ひっきりなしに候補者の名前を点呼する選挙カーが通り過ぎて行きます。道が狭いからでしょう、ほとんどが軽の車でした。窓から手を出している候補者は、私の姿を見つけると一瞬手を上げそうになるのですが、恰好で村の人間ではないことがわかると上げかけた手をもとに戻すのでした。それが滑稽でした。

檜原村には産廃施設の建設が計画されていたのですが、統一地方選の直前、業者が計画を取り下げるというニュースがありました。

東京新聞 TOKYO Web
檜原村の産廃焼却場計画が白紙に 事業者が取り下げ願、東京都が受理

私もこのブログで計画のことを書いていますが、「白紙」になったのは慶賀すべきことです。しかし、その裏にはまだ予断を許さない政治的思惑が伏在しているという見方もあります。人口2千人の村の地縁・血縁を逆手に取った「顔の見えすぎる民主主義」のためにも、村長選と村議会選の結果が注目されるのでした。

関連記事:
檜原村の産廃施設計画

バスには5~6人のハイカーが乗っていました。ところが、朝、私が降りた上川乗にさしかかると、バス停に20名近くの団体客が待っているのが目に入りました。私は思わず「最低」と口に出して席を移動しました。大半はおばさんハイカーでした。あとから来たおばさんを「こっち、こっち」と手招きして、バス待ちの列に平気で割り込ませる、武蔵五日市駅前でおなじみのおばさんたちでした。

一方で、これも前に書いた記憶がありますが、西東京バスの運転手の応対は非常に丁寧且つ親切で、日頃横浜市営バスに乗っている横浜市民は感動すら覚えるほどです。

朝のバスには、途中のバス停から払沢の滝入口のバス停の近くにある小中学校まで通学する子どもたちが乗るのですが、その際もバス停や周辺の道路には揃いのジャンパーを着て小旗を持った地域の人たちが子どもたちの安全を見守っていますし、村の駐在所の巡査も必ず近くの横断歩道で交通整理をしています。また、朝のバスには村の診療所がある「やすらぎの里」を迂回する便もあるのですが、そのバスに乗って来る高齢者に対しても、バスの運転手は乗り合わせた人間の心まで温かくなるような親切な応対をするのでした。

私も田舎の出なので、田舎で生活することのうっとうしさもわかっているつもりですが、そこには400年間どことも合併しなかった小さな村で試みられようとしている、「顔が見えすぎる民主主義」の発想の原点があるような気がしました。

武蔵五日市駅からは、来たときと同じように、立川で南武線に乗り換えて武蔵小杉、武蔵小杉から東横線で帰りました。ちょうど夕方のラッシュに遭遇しましたが、私はほとんど寝ていました。最寄り駅に着いたのは18時すぎでした。

帰ってスマホの歩数を見たら、15.3キロ23000歩になっていました。スマホも登山アプリも距離は正確ではありませんが、山自体を歩いたのは、8~9キロで17000歩くらいだと思います。歩く速さ(時速)は、普段は4.4~4.5k/1hですが(膝を痛める前は4.7k/1hだった)、今日は3.4h/1hになっていました(これも参考程度の数値です)。山で会ったのは二人だけでした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

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上川乗バス停

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北秋川橋

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登山口

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登山道が崩落したみたいで、以前にはなかった橋

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この祠のところで最初の休憩

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トヤド浅間の案内板

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浅間峠

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昔の生活道路だったので至るところに祠や石仏

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日原峠の石像

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ハセツネカップの道標

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案内板も古いまま

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崩落した跡

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階段から林道に下りてきた

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林道から左に入る

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北秋川に架かる橋

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下和田バス停
2023.04.19 Wed l l top ▲
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(ヌカザス尾根)


■デンジャラスなハイカー


私が最近、ネットで「お気に入り」に入れてチェックしているのは、下記のサイトです。

奥多摩尾根歩き
https://www.okutama-one.com/

サイト主は、奥多摩の人が少ない山の、しかもバリエーションルートを使って尾根を歩くという、他人ひととは違う登山スタイルを持つハイカーです。記事によれば、奥多摩に通ううちに顔見知りになった、同じようなデンジャラスなハイカーが他にも何人かいるみたいです。

余談ですが、奥多摩の山域は狭く、電車だと大概奥多摩駅か武蔵五日市駅を利用するので、私も何度か遭遇するうちに顔見知りになった高齢のハイカーがいました。あるときは、行きの電車で会って、帰りの電車でも会ったことがありました。山に詳しいなと思っていたら、のちにその方が登山関係者の間では高名な登山家で、本も出していることを知りました。奥多摩に通っているとそんなこともあるのです。

東京都の最高峰は雲取山で、標高は2017メートルですので、奥多摩には森林限界を越える山はありません。しかし、たとえば、川苔山の標高は1363.3メートルですが、鳩ノ巣駅からのルートだと単純標高差が1000メートルを越えます。埼玉もそうですが、奥多摩も関東平野の端にあるので、登山口の標高はそんなに高くないのです。そのため低山の割には標高差が大きい山が多いのです。当然、急登が多いので、樹林帯の中の急登を息を切らして登らなければならず、「修行」などと言う人もいます。挙句の果てにはツキノワグマの生息地なので、クマの痕跡は至るところにあり、クマの生態に対する基本的な知識は必須です。

そんな奥多摩では、一般のハイカーが登るのは一部の山に限られています。それ以外の山は、東京の後背地にありながらハイカーが少なく、1日歩いても誰にも会わないこともめずらしくありません。

記事の中には、私が知っている尾根も多く出てきますが、しかし、サイト主が登るのはその尾根ではなく、周辺の登山道がない尾根から登って、私たちが歩いている尾根に合流するのでした。登山道の外れにある支尾根や斜面から突然、人が現れるのを想像すると痛快でもあります。

実際に私も、そんなハイカーに遭遇したことがありました。突然、前方の斜面から現れて、「あれっ、こんなところに出て来たのか」とでも言いたげに首をひねっていました。「どうしたんですか?」と訊いたら、「いえ、いえ」と言って笑いながら去って行きました。

そういった登山スタイルにはあこがれますが、しかし、私には、体力的にも技術的にもとても叶わぬ夢です。ただ、人のいない山が好き(ひとり遊びが好き)だという点では共通するものがあり、親近感とともにあこがれの念を覚えてならないのでした。

■奥多摩の遭難


奥多摩は、上にあげたような特徴から、登山関係者の間では遭難が多いことでも知られています。

ちなみに、2021年の主要各県別の遭難者件数は以下のとおりです。主に警察がまとめていますが、2022年の集計がまだ出揃ってないので、2021年の件数を比較しました。

東京都
遭難件数 157件
遭難者数 195人
死亡・行方不明者 10人

長野県
遭難件数 257件
遭難者数 276人
死亡・行方不明者 47人

山梨県
遭難件数 116件
遭難者数 134人
死亡・行方不明者 12人

富山県
遭難件数 104件
遭難者数 110人
死亡・行方不明者 7人

また、『山と渓谷』の記事によれば、奥多摩では、他県に比べて若いハイカーの遭難が多いのも特徴だそうです。東京都の年齢別の割合は、以下のようになっています。

2021年
10代 20.7%※
20代 13.0%
30代 11.7%
40代 10.4%
50代 9.1%
60代 16.9%
70代 15.6%
※10代が多いのは2021年に小学生の集団遭難があったためです。
(参照:『山と渓谷』2023年2月号・「奥多摩遭難マップ21」)


このように東京都(奥多摩)の遭難件数は、南アルプスや八ヶ岳や奥秩父の山域を擁する山梨県より全然多いのです。先に書いたように、奥多摩は一般のハイカーが登る山は数えるほどしかありません。そう考えると、遭難の多さは“異常”と言ってもいいくらいです。

ただ、『山と渓谷』の「遭難マップ」などを見ると、大山(おおやま)がいい例ですが、初心者向けと言われる山での遭難が多く、若いハイカーの遭難が多いというもうひとつの特徴と合わせると、登山歴の浅いハイカーが初心者向けの山で遭難するケースが多いことがわかります。初心者向けの山でも、疲れて足がガクガクしていると、道迷いや滑落が生じやすい箇所があったりするのです。「あんなのたいしたことないよ、初心者向けだよ」というネットの書き込みを信じて登ると、思いっきり裏切られた気持になる、それが奥多摩の山なのです。

奥多摩は低山の集まりなので、尾根歩きには持ってこいです。しかし、上記のサイトを見ればわかるとおり、難度は高く、文字通りデンジャラスな山歩きと言えます。

■生活に密着した山


一方で、奥多摩は、山で暮らしを営んでいた人々の痕跡を至るところで見ることができる、生活に密着した山という側面もあります。「奥多摩尾根歩き」でも、林業に従事する人たちが利用していた作業道や小屋跡などがよく出てきますが、「こんなところに」と思うような山の奥にわさび田やわさび小屋の跡があったりします。また、東京都の水源でもあるので、水源巡視路もいろんなところに通っています。そういった道を見ると、山で仕事をしていた人たちは、私たちの登山とほとんど変わらない山歩きを日常的に行っていたことがわかるのでした。

山田哲哉氏は、小学生の頃から50数年奥多摩に通っている山岳ガイドですが、おなじみの『奥多摩 山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)で、奥多摩について、次のように書いていました。

 奥多摩は、より高く、より激しい山へ登るための練習場所でなければ、訓練の山でもない。この一見、地味な山塊は、夢や希望を与えてくれる。人間が本来あるべき姿、自然と格闘するからこそ共生する、人が人らしく生きる術や、不思議な魅力がギッシリと詰まった場所なのだ。


同時に、「自分が暮らす東京の片隅に、こんなに美しくワクワクと人を魅了する場所があるとは、その場に立つまで信じられなかった」として、次のようにも書いていました。

 どれだけ多くの人が、この奥多摩で山登りのすばらしさ、楽しさを知ったことだろう。僕が子どもから少年へと成長したように、たとえば退職して時間のできた初老の男が、ちょっとした好奇心で登り始めた山のおかげで、今までの自分とは違う「登山者」というアイデンティティをもつ人へと生まれ変わることもある。山に登るために生活習慣を改め、時には筋トレをし、つまり「昨日までの自分とは違う何者か」になるため、意識的に生きるはつらつとした人生を獲得した人もいる。それらの人々にとっての「最初の山」は、きっと多くが奥多摩だったはずだ。


山田氏が書いているように、「奥多摩の山々には無数の楽しみ方があり、訪れた者に毎回、必ず新たな発見をもたらしてくれる」のです。そういった思い入れを誘うような魅力があります。

■田部重治


また、これは既出ですが、田部重治は、100年前に書かれた「高山趣味と低山趣味」 (ヤマケイ文庫『山と渓谷 田部重治選集』所収)の中で、奥多摩や奥秩父などの山に登るハイカーについて、次のように書いていました。

 私は特に、都会生活の忙しい間から、一日二日のひまをぬすんで、附近の五、六千尺(引用者注:1尺=約30cm)の山に登攀を試みる人々に敬意を表する。これらの人々の都会附近の山に対する研究は、微に入り細を究め、一つの岩にも樹にも、自然美の体現を認め、伝説をもききもらすことなく、そうすることにより彼等は大自然の動きを認め人間の足跡をとらえるように努力している。私はその意味に於て、彼らの真剣さを認め、ある点に於て彼らに追従せんことを浴している。


ネットの時代になり、コンプラなるものを水戸黄門の印籠みたいに振りかざす、反知性主義的な風潮が蔓延していますが、それは登山も例外ではありません。コロナ禍で登山の自粛を呼びかけた山岳会や一部の「登山者」が、世の風潮に迎合して”遭難者叩き”のお先棒を担いでいる腹立たしい現実さえあります(そのくせ金集めのために、登山道を荒らすトレランの大会を主催したりしているのです)。

そんな中で、田部重治が言う日本の伝統的登山に連なる「静観派」登山の系譜は、デンジャラスな尾根歩きというかたちで今も受け継がれていると言っていいのかもしれません。


関連記事:
田部重治「高山趣味と低山趣味」
2023.01.25 Wed l l top ▲
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■PIVOT


たまたまネットをチェックしていたら、最近、元TBSアナウンサーの国山ハセンの転職先として話題になったPIVOTのYouTubeチャンネルで、宮台真司氏とYAMAPの春山慶彦社長が3回に渡って対談しているのが目に止まりました。

YouTube
PIVOT公式チャンネル
【宮台真司がシンクロした起業家】登山アプリYAMAP創業者/日本の起業家では珍しい身体性の持ち主/イヌイットとクジラ漁の経験/ビジネスパーソンに必須な「自然観」とは
https://www.youtube.com/watch?v=89cIyZX2Ch8

【宮台真司「現代人は身体を使え」】自然は単なる“癒やし”ではない/流域で生命圏を作り出す/キャンプの本質を考える/思考を研ぎ澄ませたい時にこそ山に行く【YAMAP 春山慶彦CEO】
https://www.youtube.com/watch?v=u3ESOfgfh0k

【宮台真司「仲間を誘惑せよ」】NISAなどの投資教育はインチキ/生き方を変えた人が資本主義にコミットせよ、そして少しずつ仲間を誘え【YAMAP 春山慶彦CEO 最終回】
https://www.youtube.com/watch?v=aKbyG-oxk2Y&t=0s

PIVOTでは本田圭佑がメインのように扱われ、企業の経営や投資に関して、独りよがりな付け焼刃の知識を開陳していますが、PIVOTは本田圭佑を推しているのかと思いました。

他に落合陽一や成田悠輔が出ている動画を観ましたが、最後まで観る気になりませんでした。

余談ですが、私は、成田悠輔の『22世紀の民主主義』を読みはじめたものの、途中で投げ出してしまいました。

文章は非常に優しく書かれていましたが、論理の前提になっているデータが極めて恣意的なもので、牽強付会にもほどがあると思いました。現状認識も粗雑で、コロナ禍のパンデミックを唯一くぐり抜けたのが権威主義国家の中国だと断定していましたが、今の状況を見ればとんだ早とちりだということがわかります。

権威主義に比べると民主主義はシステムが非効率なので、権威主義国家より民主主義国家の方が経済成長が鈍化している(だからAIでブラッシュアップしなければならない)、という主張にしても、それはキャッチアップする国とされる国の違いにすぎないことくらい、少しでも考えればわかるはずです。どこが「天才」なんだと思いました。

PIVOTと宮台真司氏の関わりも不思議ですが、出演者の顔ぶれをみると、国山ハセンは遠からずみずからの「決断」を後悔することになるような気がします。

YAMAPは昨秋(11月)、今まで3480円だった年会費を5700円に改定して、会員たちに衝撃を与えたばかりです。その値上がり率は何と60%超なのです。理由として、経営環境の悪化をあげており、従来から囁かれていた経営不振説が再び浮上しているのでした。そのためかどうか、最近、春山社長のネットメディアへの露出が増えています。堀江貴文のチャンネルにも出演して、山で遭難しそうになったときYAMAPのお陰で助かったなどというホリエモンのサービストークを交えて、今回と似たような対談を行っていました。

PIVOTと宮台真司氏の関わりが不思議だと言いましたが、この対談もYAMAPのステマのようなものかもしれないと思いました。

■身体性の復権


宮台真司氏と春山慶彦氏の対談の肝は、ひと言で言えば、”身体性の復権”ということです。それは登山をしている人間であれば腑に落ちる話です。

システムに依存するのでなく、感情や感性といった身体感覚を取り戻すことが大事だと言います。テクノロジーがめざしているのは「身体性の自動化」であって、であるがゆえに感情や感覚の能力を失う(奪われる)ことになるというのも、わかりすぎるくらいわかりやすい話でしょう。

春山氏は、東日本大震災の原発事故がきっかけで、YAMAPを発想したと言っていました。電気が止まると、トイレも使えないような脆弱な都市システムの中に生きていることに気付かされた、と言っていましたが、しかし、それは皮相的な見方だと言わざるを得ません。

都市で暮らすには、まず電気代を払えるだけの収入が必要です。電気代を払うお金がなければ、システムを享受することもできないのです。資本主義というのは、そういう社会です。その根本のところを飛ばして脆弱なシステムと言われても鼻白むしかありません。

しかも、電気代を払うことができる豊かさや平等も、もはや前提にすらならないような時代に私たちは生きているのです。システムの脆弱さを言うなら、そういった貧国や格差の現実をどうするかというのも大きな課題のはずです。

春山氏は、今の高度なテクノロジーに囲まれた社会では、逆に技術を使わないという「英知」が必要だとも言っていました。そういった倫理観や哲学や自然観が求められているのだと。

■スーパー地形


私は、登山アプリは「スーパー地形」を使っています。YAMAPやヤマレコを使っていた時期もありましたが、「スーパー地形」に変えました。

どうしてかと言えば、YAMAPやヤマレコの地図上のポイントをクリックするとルートが自動的に設定できる便利な(!)システムが嫌だったからです。それと、あの自己顕示の塊のような山行記録が鼻もちならなかったということもあります。

「スーパー地形」の場合、ルートは設定されていませんので、紙地図と睨み合いながら自分で描いていかなければなりません。ルート上の情報やポイントなども自分で設定しなければなりません。言うなれば、自分で登山用の地図を作るような作業が必要です。それは非常に面倒くさい作業でもあります。しかし、登山において、そういった作業も大事なことなのです。何より紙地図の重要性も再認識させられますし、山行には紙地図とコンパスを携行するのが必須になります。想像する楽しみだけでなく、山に登るリスクや不安を知ることにもなるのです。

身も蓋もないないことを言えば、”集合知”なる他人のベタな体験(の集積)に導かれて山に登って、何が楽しいんだろうと思います。未知に対する不安があるから楽しみもあるし、危険リスクに対する怖れがあるから喜びもあるのです。

■身体性の自動化


YAMAPやヤマレコにこそ、「身体性の自動化」につながるような反動的な技術テックだと言わざるを得ません。文字通り本来の登山とは真逆な「安全、安心、便利、快適」の幻想をふりまく、「歩かされる」だけのアプリのように思えてなりません。道迷いのリスクを減らすと言いますが、登山に道迷いのリスクがあるのは当たり前です。そのリスクを、アプリではなく自分の知識や経験や感覚で回避するのが登山でしょう。アプリで「歩かされる」だけでは、危険を回避するスキルはいつまで経っても身に付かないでしょう。

もとより、登山において地図読みのスキルは大事な要素なのです。アプリがなくて紙地図だけで山を歩けるかというのは基本中の基本です。万一、スマホが故障したり電池がなくなったりした場合、紙地図で山行を続けなければならないのです。そのために、本来ならYMAPやヤマレコは、「登山の安全のため、紙地図も持って行きましょう」と呼び掛けるべきだと思いますが、しかし、そうすると自己矛盾になるのです。

その結果、紙地図も持たずスマホだけで山に来て、常にスマホと見比べながら山を歩くような、危機意識の欠片もないハイカーを大量に生んでしまったのです。それこそシステムへの盲目的な依存と言うべきで、彼らがコースタイム至上主義に陥るのは理の当然でしょう。

山ですれ違う際、「にんにちわ」と挨拶するだけでなく、これから行くルートの状態や難易度を尋ねたりすることがあります。しかし、登山アプリによって、そういった情報交換のコミニュケーションも減ったように思います。私はよく話しかけますが、コロナ禍ということも相俟って、最近は迷惑そうな顔をされることが多くなりました(それでも話しかけるけど)。

前も書きましたが、車で峠まで行くのと、自分の足で息を切らせながら行くのとでは全然意味合いが違うように、他人の体験をスマホのアプリでなぞるのと、直接コミュニケーションを取りながら他者の体験から学ぶのとでは、身体性という意味合いにおいて、天と地ほども違うのです。二人も対談の中で言っているように、大事なのはコミュニケーションなのです。

ただ、山に行ってものを考えると余分なものが削ぎ落されるので、シンプルにものを考えることができるという春山氏の話は同意できました。私も前に、パソコンの前に座ってものを考えるのと、散歩に行って歩きながらものを考えることは全然違うというようなことを書いた覚えがありますが、そこに身体性の本質が示されているように思います。

もちろん、私も「スーパー地形」を使っていますので、登山アプリを全否定するわけではありません。技術テックに関して、ものは使いようというのはよくわかります。アプリで大事なのは、これから歩くルートではなく、歩いて来た軌跡だと言った人がいましたが、それはすごくわかります。つまり、道迷いしたら正しいルートの地点まで戻るのが基本ですが、その際、アプリの軌跡が役に立つからです。

ただ、登山アプリによって身体感覚がなおざりにされ鈍磨させられたり、登山の体験が「安全、安心、便利、快適」(の幻想)に収斂されるような、システムに依存した通りいっぺんなものになるなら元も子もないでしょう。何より山に来る意味も、山を歩く楽しみもないように思うのです。それこそ、”身体性の復権”とは真逆なものと言うべきなのです。


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「数馬の夜」
2023.01.18 Wed l l top ▲
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(2020年11月)


最近、マイクロプラスチックによる海洋汚染の問題をよく目にするようになりました。付け焼刃の知識ですが、マイクロプラスチックは、一次マイクロプラスチックと二次マイクロプラスチックの2種類に分けられるそうです。

一次プラスチックというのは、プラスチック製品に使用される「レジンペレット」と呼ばれるプラスチック粒や、製品の原材料として製造された小さなビーズ状のプラスチックのことで、たとえば、古い角質を削って肌をスベスベにする洗顔料や歯磨き粉などの原料であるスクラブ剤などに使われています。それらは、生活排水と一緒に下水道を通って海へ流れ出るのです。

マイクロプラスチックは、5ミリメートル以下のプラスチックのことを指すそうですが、微小なプラスチックは下水処理施設の装置も通りぬけてしまうので、いったん海に流れ出たマイクロプラスチックを回収するのは難しいのだとか。

二次マイクロプラスチックというのは、投棄されたビニール袋(レジ袋)やペットボトルなどのようなプラスチック製品が、紫外線によって劣化したり波に洗われて破砕され小さくなったものです。

自然界のプラスチックが分解されるには、100~200年、あるいはそれ以上もかかると言われており、その間に海洋生物の体内に取り込まれて、さらに食物連鎖で海藻や魚や貝などを介して人体に入ることになります。プラスチックに使われている有害性の添加物は、マイクロ化しても残留するそうで、人体に対する影響も懸念されているのでした。

また、マイクロプラスチックが、サンゴに取り込まれることによって、サンゴと共生する植物プランクトン(褐虫藻)が減少し、海の生態系のバランスが崩れる影響も指摘されています。

人体に対する影響では、消化器官の中に取り込まれるマイクロプラスチックは、一日程度体内に留まるだけで、便と一緒に排出されるのでそれほどの問題にはならないそうですが、他の器官に吸収されると影響は避けられないそうです。特に肺に入ると呼吸器系の疾患を生じると言われています。また、血液にも混入して体内の隅々にまで運ばれるそうで、それで人体に影響がないと言えばウソになるでしょう。

そのために、日本でもレジ袋の有料化がはじまりましたが、使い捨てプラスチック製品を減らすことは自然環境を守るための世界的な課題になっているのでした。

そこで、目に止まったのは下記の記事です。

GIZMODO(ギズモード)
ポリエステルの服は、着ているだけで大量のマイクロプラスチックを放出している…

記事によれば、「アクリル、ナイロン、ポリエステルなどの合成繊維でできた衣服を洗濯すると、何十万ものマイクロプラスチック繊維が引きはがされ」生活排水とともに海に排出されるそうです。しかし、問題は洗濯だけではないのです。

また、研究チームは4つの衣服の複製を着たボランティアたちに、日常生活と同じような動きをしてもらった結果、わずか20分で1gあたり最大400個のマイクロファイバーが空気中に放出されることがわかりました。つまり、ポリエステル製の服を着て通常の生活を3時間20分続ければ、4,000個のマイクロファイバーが放出され、洗濯時に水を流すのと同じくらいの汚染が生じるというわけです。もっと大きなスケールで考えると、平均的な人は洗濯によって毎年約3億個のポリエステル繊維を放出し、ポリエステル製の衣服を着るとその3倍の繊維を放出してしまうらしい(略)。
(上記記事より)


登山用のウエアは、速乾性と透湿性にすぐれているという理由で、ポリエステルやポリウレタンが多く用いられています。

ただ、パタゴニアに代表されるように、「SDGs」「自然に優しい」を謳い文句に、同じポリエステルでも「リサイクル・ポリエステル」を使っているケースが多く、最近は他のメーカーもそれに追随しています。

しかし、リサイクルであろうが何であろうが、そもそもポリエステルを3時間20分着ているだけで4000個のマイクロファイバー(プラスチック繊維)を自然界に放出している(飛散させている)ことには変わりがないのです。

記事にあるように、「洗濯してもダメ、着てもダメ。いったいどうすれば…」と思ってしまいますが、少なくともアウトドア=自然が好き=自然を大切する気持がある、というのは幻想でしかないのです。欺瞞だと言ってもいいくらいです。

都岳連のハセツネカップの自然破壊はきわめて悪質ですが、でも、私たちも山の中にマイクロプラスチックをばらまきながら山に登っているという点では同罪かもしれません。

マイクロプラスチックを体内に取り込んでいるのは、海洋生物だけでなく、山に生息する野生動物も同じなのです。

高機能を謳い文句に数万円の大金をはたいて買ったウエアで、ハイカーたちがマイクロプラスチックを山中にばらまいているという現実。それで「山っていいなあ」とひとりよがりな自己満足に浸っているのです。

また、車のタイヤが地面と摩擦する際に飛び散るゴム片にも、多くのマイクロプラスチックが含まれているそうです。今のタイヤは、昔のような天然ゴムではなく合成ゴムです。合成ゴムというのは、石油を原料とするポリマー(高分子化合物)で、海に流入するマイクロプラスチックのうち、タイヤのゴム片によるものが28%を占めているという説さえあるそうです。最近はマイカー登山が当たり前になっていますが、林道を通って登山口まで車で行くのも、山中にマイクロプラスチックをばらまいていることになるのです。もちろん、沢もマイクロプラスチックで汚染されます。

こう言うと、「じゃあ、どうすればいいんだ?」と言うに決まっていますが、そう開き直る前に、自称「自然を愛する」ハイカーたちは、自分たちが自然に対して傲慢で欺瞞な存在であることをまず自覚すべきなのです。「そんなこと言ってたらきりがないじゃないか」と言われるかもしれませんが、たしかにきりがないのです。それくらい深刻なのです。

言うまでもなく、再び感染拡大がはじまっている新型コロナウイルスも、鳥インフルエンザも、自然界からのシッペ返しに他なりません。デジタル社会だ、5Gだ、AIだ、シンギュラリティだ、などと言っても、新型コロナウイルスによるパンデミックが示しているように、人間は自然に勝てないのです。人間が自然に対して傲慢である限り、これからもシッペ返しは続くでしょう。

登山もまた、「自然保護」とは対極にある行為なのです。だったら、せめてマイカーで行くのをやめたり、保護活動のために入山料を払ったりして、少しでも「自然保護」に協力すべきでしょう。

著名な登山家の一部も、身過ぎ世過ぎのためか、登山用品のメーカーと契約して、マイクロプラスチックの問題などどこ吹く風で、ポリエステルで作られた高級登山ウェアの宣伝に一役買っています。それは、今やカタログ雑誌と化した登山雑誌も同じです。そして、彼らは、エベレストやヒマラヤをプラスチックのゴミ捨て場にしているのです(下記記事参照)。

AFPBB News
エベレスト山頂もマイクロプラスチック汚染、登山具に由来か 研究

ポリエステルのような化繊より、メリノウールなどの天然繊維の方が「環境に優しい」と言われています。人寄せパンダの有名登山家や、節操のない俄かハイカーに過ぎないユーチューバーの商品レビューや、広告代理店と組んだ登山雑誌の特集などに惑わされるのではなく、できる限り天然素材のウエアに変えるのも選択肢のひとつでしょう。

誤解を怖れずに言えば、たとえば山菜取りで山に入って道に迷った高齢者でも、致命的な怪我を負わずに食糧や水さえ持っていれば、数日でも生き延びることができるのです。山菜取りが目的の高齢者は、必ずしも速乾性と透湿性にすぐれた高価な登山用のウエアを着ているわけではありません。アンダーウエアだって普通の綿の下着でしょう。厳冬期だったら別でしょうが、厳冬期以外の私たちが普段登る山のレベルでは、人寄せパンダの登山家や登山雑誌がすすめるような高価な登山ウエアは、言われるほど必要ではないのです。それより予備の食料と水(それとライトと雨合羽と山用のマッチ)を持って行く方がよほど大事です。

それにしても、「自然を大事にしましょう!」という掛け声だけは盛んですが、どうして日本の山はマイカー規制と入山料の徴収が進まないのか、不思議でなりません。
2022.11.13 Sun l l top ▲
笹尾根・ハセツネカップ
笹尾根


久し振りに登山に関するYouTubeを観たら、登山ユーチューバーの中で既にやめていたり、休止状態のユーチューバーが結構いることがわかり、妙に納得できました。

登山ユーチューバーというのは、単に趣味で登山動画を上げている人のことではありません。直近の1年間で動画の総再生時間が4000時間を超えているとか、チャンネル登録者数が1000人以上など一定の条件を満たして、Googleからアドセンスなどの広告収益を得ている人たちです。

私も一時よくYouTubeの動画を観ていましたが、最近は観ることがめっきり少なくなりました。それはどのジャンルでも同じかもしれませんが、動画をあげるユーチューバーたちのあざとさみたいなものが透けて見えるようになったからです。でも、それは、上のGoogleから与えられた条件を満たすためには仕方ない一面もあります。

もともと他のジャンルに比べると、登山人口はそんなに多くありません。むしろ、ニッチのジャンルと言ってもいいでしょう。同じアウトドアでも、キャンプなどに比べると雲泥の差です。現在いま、アウトドアブームと言われていますが、それはキャンプに代表されるように、あくまで山の下の話なのです。

最近の世代は、デジタルネイティブと言われるように、生まれたときからデジタル機器に親しんでいたということもあり、コスパやタムパ(タイムパフォーマンス)を重視する傾向があり、スマホで動画を観る際も、早送りして観たり(=倍速視聴)飛ばしながら観たり(=スキップ再生)するのが特徴だと言われています。

そういったコスパやタムパを重視する世代にとって、登山なんて効率の悪い典型のような趣味です。実際に山に登るとわかりますが、登山は、倍速視聴やスキップ再生のような感覚とは対極にある、自分の体力とスキルと判断力しか頼るものがない、アナログで愚直で、それでいて文化的な要素もある、(スポーツとも言えないような)きわめて対自的な「スポーツ」です。どうしてわざわざあんなにきつくて、へたすれば怪我をするようなことをするのか理解できません、と言われたことがありますが、バカの高登りと言われれば、たしかにその通りなのです。

しかも、登る山は限られています。そのため、毎年紅葉シーズンになると、涸沢など人気の山にユーチューバーがどっと押しかけて、似たような動画があがることになるのです。私の知る限り、登山ユーチューバーが本格的に登場したのは、ここ3~4年くらいですが、紹介される山は既に一巡も二巡もしており、飽きられるのは当然と言えば当然なのです。

そもそも彼らの多くは、俄か登山愛好家ハイカーにすぎません。普通はもっと時間をかけてステップアップするものです。私が山で会った女性は、登山歴は5年以上になるけど、尾根を歩くのが好きだったので、最初の2年くらいは頂上に登らないで尾根ばかり歩いていた、と言っていました。私も尾根が好きで、昔、地図で尾根や峠を探してはそこを訪ねて行くようなことをやっていましたので、その気持がよくわかりました。

紙の地図を見てあれこれ想像力をはたらかせる楽しみも、デジタルの時代になって失われました。「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない」というのは、寺山修司の言葉ですが、「好き」という感覚には、必ず想像力(妄想)が付随するものです。それは山も同じです。そもそも登山というのは、どこかに人生が投影された非常に孤独な営為です。だから、登山が人を魅了するのでしょう。

私は、人が多い山が嫌いなので、平日しか山に行きませんが、ほとんど人に会うこともなくひとりで山を歩き、途中、疲れたのでザックをおろして地面に座り、水を飲みながらまわりの景色(と言ってもほとんどが樹林だけど)を眺めていると、突然、胸の奥から普段とは違った感情が込み上げてくることがあります。そんなとき、”身体的”ということを考えざるを得ません。ロックは外向的だけどジャズは内向的な音楽だ、とよく言われますが、その言い方になぞらえれば、登山はきわめて内向的な(スポーツならざる)「スポーツ」と言えるように思います。”身体”というのは、内に向かうものだということがよくわかるのでした。

中には、再生回数が見込める人気の山に登るために、飛び級で北アルプスなどに登っているユーチューバーもいますが、そんなユーチューバーにとって、登山はただお金と称賛を得るためのコンテンツにすぎないのかもしれません。そのため、思うように収益があがらないと、山に登るモチベーションも下がってしまうのでしょう。まるで業界人のように、「撮れ高」とか「尺」とか「視聴者さん」などと言っている彼らを見ると、最初から勘違いしているのではないか、と思ってしまうのでした。

結局、残るのは、若くてかわいい女性の動画だけという身も蓋もない話になるのです。山は二の次なのです。

そんな一部の女性ユーチューバーに、コロナ禍で苦境に陥った登山ガイドや山小屋や登山雑誌などが群がり、人気のおこぼれに預かろうという、あさましく涙ぐましい光景も見られるようになりました。ペストやスペイン風邪がそうであったように、新型コロナウイルスで街の風景も人々の意識も変わりましたが(これからもっと変わっていくでしょうが)、登山をめぐる光景も変わったのです。登山が軽佻浮薄な方向に流れることを”大衆化”と勘違いしているのかもしれませんが、それこそ貧すれば鈍する光景のようにしか思えません。

登山は、生活や人生に潤いや彩りをもたらすあくまで趣味にすぎないのです。あえてそんなクサイ言い方をしたいのです。そして、その中から、山に対する思いが育まれ、自分の登山のスタイルを見つけていくのです。その後ろには、平凡な日常やままならない人生が張り付いているのです。だから、「山が好きだ」と言えるのです。トレイル(道)を歩くことは哲学だ、とロバート・ムーア は言ったのですが、そのように登山というのは、ヒーヒー言って登りながら、自分と向き合い哲学しているようなところがあります。

YouTubeとは違いますが、東京都山岳連盟が実質的に主催し笹尾根をメインコースとするハセツネカップ(日本山岳耐久レース)が、今年も10月9日・10日に開かれましたが、ハセツネカップに関して、国立公園における自然保護の観点から、今年を限りに大会のあり方を見直す方向だ、というようなニュースがありました。

私から言えば、ハセツネカップこそ自然破壊の最たるものです。大会の趣旨には、長谷川恒男の偉業を讃えると謳っていますが、トレランの大会が長谷川恒男と何の関係があるのか、さっぱりわかりません。趣旨を読んでもこじつけとしか思えません。

笹尾根のコース上には、至るところにハセツネカップの案内板が設置されていますが、それはむしろ長谷川恒男の偉業に泥を塗るものと言えるでしょう。それこそ「山が好きだ」というのとは真逆にある、YouTubeの軽薄な登山と同じです。

丹沢の山などが地質の問題も相俟ってよく議論になっていますが、登山者が多く訪れる人気の山には、登山者の踏圧によって透水性が低下し表土が流出することで、表面浸食がさらに進むという、看過できない問題があります。ましてや、2000名のランナーがタイムを競って駆けて行くのは、登山者の踏圧どころではないでしょう。ランナーたちが脇目も振らずに駆けて行くそのトレイルは、昔、武州と甲州の人々が行き来するために利用してきた、記憶の積層とも言える古道なのです。

東京都山岳連盟は、「この、かけがえのない奥多摩の自然を護り育むことは、私どもに課せられた責務である」(大会サイトより)という建前を掲げながら、その問題に見て見ぬふりをして大会を運営してきたのです。都岳連の輝かしい歴史を担ってきたと自負する古参の会員たちも、何ら問題を提起することなく、参加料一人22000円(一般)を徴収する連盟の一大イベントに手弁当で協力してきたのです。

ちなみに、コースの下の同じ国立公園内に建設予定の産廃処理施設も、都岳連と似たような主張を掲げています。これほどの貧すれば鈍する光景はないでしょう。


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2022.10.13 Thu l l top ▲
トレイルズ


昨日の8月11日は「山の日」でした。

ネットで調べると、「山の日」を提案したのは、作曲家の船村徹氏だそうです。船村徹氏は山好きで、日本山岳会の会員でもあったので、「海の日」があるなら「山の日」があってもいいんじゃないかと、そんな理由で提案したみたいです。

船村徹氏の提案に、あのコロナで山登りの自粛を呼びかけた山岳4団体(日本山岳・スポーツクライミング協会、日本勤労者山岳連盟、日本山岳会、日本山岳ガイド協会)や自然保護団体、各登山雑誌などが賛同し、超党派の「山の日」制定議員連盟が設立され、制定に向けての活動がはじまったのだそうです。

最終的には、自民党、民主党(当時)、日本維新の会、公明党から、共産党、社民党までの9党が共同で祝日法の改正案を提出して、2014年の衆参両院で可決成立し、「山の日」の制定が決まったということでした。

「山の日」制定議員連盟の会長には、先日、「日本は韓国の兄貴分」というトンデモ発言で批判を浴びた、清和会の最高顧問の衛藤征士郎議員が就いていました。

衛藤征士郎議員は大分県選出の国会議員なので、昔からそれなりに知っているのですが、もう81歳になっていることを知ってびっくりしました。だったら、清和会の最高顧問にもなるはずだと思いました。

私が出た学校の関係で、実家の親たちは衛藤議員の後援会に入っていました。田舎の人間は妙に律義なところがあり、その程度の縁でも大事にするのです。そんな律儀な田舎の人間たちがこの国の保守政治を草の根で支えているのです。

ところで、衛藤征士郎議員がどうして議員連盟の会長で、「山の日」制定の呼びかけ人に名を連ねているかと言えば、同議員が大分県の玖珠郡というところの出身だからです(国政に転進する前は玖珠郡玖珠町の町長を務めていました)。

玖珠郡は、現在、久住連山の表の登山口のようになっている長者原(玖珠郡九重町ここのえまち)があるところです。私の田舎とは久住連山を挟んで反対側にある町です。久住連山の地元ということで、「山の日」制定に動いたのでしょう。

前も書きましたが、私たちが子どもの頃は、私たちの田舎の方が表側の登山口でした。久住連山はもちろんですが、山を越えた先にある法華院や坊がつるも、私たちの田舎と同じ住所です。江戸時代には法華院に国境警備を兼ねた藩の祈願所があったそうで、昔は久住の山を越えて行っていたのです。

それは雲取山と似ています。雲取山も今では東京の山のように言われていて、登山者の9割は東京側(実際の住所は山梨県丹波山村)の鴨沢から登って来るそうですが、昔は逆で埼玉の三峰側から登って来るハイカーの方が多かったそうです。

だから、昔は山小屋も埼玉側の登山道沿いに多くあったし、今唯一残っている雲取山荘の小屋主も秩父の人でした。周辺の山の名前にドッケという秩父の方言が残っていることからもわかるように、雲取山はどっちかと言えば埼玉の山だったのです。奥多摩の風土記などを読むと、大昔、奥多摩に移住して来た人たちも、秩父などから雲取山を越えてやって来たケースが多いのです。

今の自動車道は、谷底を迂回したり、山の下にトンネルを掘ったりして造られていますが、昔は徒歩だったので、ショートカットして山を越えて行くのが一般的でした。そのため至るところに道ができているし、それらをつなぐ尾根上の道もありました。

私の田舎は久住連山の麓にある温泉場ですが、登山シーズンになるとどこの旅館も登山客でいっぱいでした。今と違ってマイカーがなかった昔は山に登るときは前泊するのが普通だったのです。

しかし、九州横断道路(やまなみハイウェイ)が開通してマイカーが普及するようになると、長者原に駐車場が整備されたこともあって、長者原を起点にした日帰りのマイカー登山が主流になったのでした。

そのためかどうか、山名も、山と高原の地図などではいつの間にか「久住山」が「九重山」と表記されるようになり、環境庁の説明文も「九重山」になってしまったのでした。

もうひとつは、深田久弥が久住山を「九重山」、久住連山を「九重連山」と書いたことも大きいように思います。私などから見れば、「くそったれ」と言いたくなるような話ですが、深田久弥に関しては、本多勝一氏が「深田さんは確かに山が好きだったけれど、山と旅をめぐる雰囲気を愛したのであって、『山それ自体』への関心があまり深くなかったのではありませんか」(朝日文庫『新版山を考える』所収「中高年登山者たちのために あえて深田版『日本百名山』を酷評する」)と書いていたのがわかるような気がします。

私は、「九重山」と表記されているを見ると、つい「ここのえやま」と読んでしまいます。私たちの頃は、学校で使っていた地図帳も「久住町、久住山、九住連山」でした。また、最近は下記の「関連記事」で紹介している森崎和江さんの『消えがての道』でも表記されているように、「九重高原」という表記もよく目にしますが、久住町にあるのは久住高原で、九重町ここのえまちにあるのは飯田はんだ高原です。「九重高原」なんてどこにもないのです(『消えがての道』の「九重高原」は久住高原のことです)。

「阿蘇くじゅう国立公園」という呼称も、1986年に阿蘇国立公園に大分県の久住連山が加わることになり、新しい呼称について周辺自治体で議論された際、本来なら「阿蘇久住国立公園」となるべきところ、九重町ここのえまちが「俺たちも九重=くじゅうだ」と言い出し、その結果、折衷案としてひらがなで「くじゅう」と表記するようになったのです。

当時、私の田舎の人たちは、「そんなバカなことがあるか」と憤慨していました。阿蘇は私の田舎からは県境を跨いで隣にありますが、九重町ここのえまちと阿蘇は離れており、同じ地域というイメージはありませんでした。

で、その名称でもめたとき、九重ここのえ側の先頭に立って「九重=くじゅう」説を強引に主張したのが、衛藤征士郎議員だったと言われているのでした。ひらがな表記の折衷案になったのも、彼の政治力のたまものだったのかもしれません。にもかかわらずうちの親たちは、九重ここのえ側の強引な主張には憤慨しつつも、一方で地元でもない衛藤議員を応援していたのでした。

たかが「久住山」が「九重山」に変わっただけじゃないかと思われるかもしれませんが、当事者にとってはそんな簡単な話ではないのです。私たちが暮らす街でも、昔からの町名が如何にも不動産会社が喜びそうな今風な名前に変えられることがありますが、あれと同じで、町名が変わるということは、永年そこで暮らしてきた人々の記憶もそこで遮断されることを意味するのです。

私もこちらに来て町名の変更を経験したことがありますが、マンションに住んでいるような新しい住民はこれで不動産価値が上がるなど言って歓迎しますが、昔から住んでいるの人たちは愛着のある名前がなくなるのは淋しいと反対するのでした。町名変更は、沿線開発を目論む鉄道会社とそれに乗っかかる行政の思惑が一致して行われるケースが多いのですが、結局は多勢に無勢で、「不動産価値が上がる」ような変更に押し切られるのが常です。

記憶は私たちの生きるよすがでもあります。記憶によって私たちのアイデンティティは形成されています。そして、記憶はいろんなものと結びついており、地名もそのひとつです。その記憶が遮断されリセットさせられるのです。私がこんなに偏執狂のように拘るのも、自分の中の幼い頃の記憶がないがしろにされたような気持があるからです。それくらい私たちの幼い頃の記憶は、久住や阿蘇とともにあったのです。

私は、衛藤議員のその政治力を、たとえば登山道の整備にもっと税金を投入するとか、欧米に比べてお金とヒトのリソースが圧倒的に足りない日本の国立公園のあり方を改善するとかいったことに使って貰いたいと思うのですが、そんな問題意識は見られません。地元に対する顔つくりと利益誘導に使われただけです。それは、呼びかけ人に名を連ねていたほかの国会議員たちも同じです。

「山の日」制定にあたって、「全国『山の日』制定協議会」なる財団法人が設立されたのですが、役員の顔ぶれを見ると、日本山岳会などと同じように、お年寄りのサロンのようになっています。年に一回、「山の日」が真夏の8月なので、冷房の効いた屋内で開催地の地名士を集めて記念イベントをやるくらいです。上記のような日本の山が直面している問題に対して、会として何かアクションを起こしているという話は聞きません。

そもそも「山の日」が何のためにあるのかもわからないのです。船村徹氏ではないですが、「海の日」があるので「山の日」も作ろうというような理由で、ただ休みを増やすために付け焼き刃で作った祝日のようにしか思えません。制定の趣旨を見ても、私にはこじつけのようにしか思えません。

「山の日」は認知度が低く、国民からもっとも「不評」な祝日だと言われているそうですが、それは一般ハイカーにとっても同じでしょう。山とは相容れない、妙な政治力みたいなものしか感じられないのです。

ちなみに、久住連山に登るのなら、久住の側からの方が全然楽しいし山に登っている気分を味わうことができます。長者原の登山口は、由布岳もそうですが、あまりにも観光地化されていて、これから山に登る(冒険する)というワクワク感は得られません。久住側はシーズン外だと人が少なく、道も一部わかりにくいところがありますが、その分、本来のトレイルを歩く楽しさがあります。

『トレイルズ  『道』と歩くことの哲学』(A&F出版)の著者・ローバート・ムーアは、トレイルについて、同書の中で次のように書いていました。

  以前、森や都市の公園で標識のない道を見つけたとき、誰がつくったのだろうと疑問に思ったことがある。それはたいてい、誰かひとりでつくったわけではない。道は誰かがつくるのではなく、そこに現れる。まず誰かが試しにそこを通ってみる。そして次の人がそれに続く。つぎつぎにそこを誰かが通るたびに、少しづつルートが改善されていく。


  人間は地上で最初に道を切り拓いたわけでも、最大の開拓者でもない。人がつくる不格好な土の道と比べて、アリの道は明らかに優美だ。哺乳類の多くも道を切り拓くのが巧みだ。どれだけ知性の劣る動物でも、最も効率よく場所を通過するルートを見つめることができる。こうしたことは人間の言語にも反映されている。日本では、デザイア・ラインは「獣道」と呼ばれる。フランスでは「ロバの道」だ。オランダでは「ゾウの道」、アメリカとイギリスでは「ウシの道」という言い方をすることがある。


私たちが山を歩く際に利用するトレイルは、あらかじめブルトーザーで切り拓かれた道ではありません。モンベルが出店したり、人が車でやって来るのに便利なように造られた道ではないのです。

私たちが歩く道は、もともとは山に棲む動物の知恵で自然に生まれた(現れた)ものです。それが長い時間をかけてアップデートされて今の道になったのです。アプリのアップデートにも「履歴」が残るように、道にはそこを歩いてきた者たちの”記憶の積層”があります。私たちはその上を歩いているのです。もちろん、”記憶の積層”は人間のものだけではありません。前に書いたように、トレイルにおいても人間は客体なのです。野生動物や小さな昆虫と同じように、ただの一個の存在にすぎないのです。


関連記事:
『消えがての道』 九州に生きる
2022.08.12 Fri l l top ▲
昨日(7/25)の朝日に、北アルプスにおいて、4月から行われている「登山道整備の協力金を求める実証実験、『北アルプストレイルプログラム』」の記事が出ていました。

朝日新聞ジタル
北アルプスで登山道がピンチ 整備の協力金一口500円を呼びかけ

記事を書いたのは、”山岳記者”として知られる近藤幸夫氏です。実験は昨年に続いて2回目だそうです。

通常、登山道の整備は山小屋のスタッフを中心にしたボランティアの手で行われています。しかも、人員だけでなく費用の一部も山小屋が負担しているのです。

ところが、近年、山小屋の経営がきびしくなったことで、登山道の維持管理にも支障が出はじめているそうです。それで、関係する団体や有志で協議会を立ち上げて、登山者に1口500円の「任意の協力金」を求める試みがはじまったのでした。

 安全登山を支える登山道の整備は山小屋を中心にした関係者の努力で整備されてきました。しかし、自然災害による登山道の被害に加え、新型コロナ禍で山小屋の経営が厳しくなり、これまでの枠組みでは登山道を守ることが難しくなっています。この実態を登山者に知ってもらい、新たな制度を発足させる狙いがあります。


しかし、それでも費用を賄うことはできてないのだとか。

 2021年度の同協議会の決算書によると、約1600万円の歳入に対し、歳出は約2500万円でした。差額の約900万円は、山小屋の収益から持ち出すことで補われました。しかし、コロナ禍で、各山小屋とも経済的な余裕がなくなっています。


私たちが登る山の多くは、国立公園や国定公園(あるいは県立公園)の中にあります。しかし、国立公園の中で国が所有するのは6割にすぎず、あとは民有地なのです。

よく知られた話では、尾瀬の40%は東京電力が所有し、間ノ岳・塩見岳・悪沢岳・赤石岳・聖岳・光岳など、3000メートル級の山がひしめく南アルプスの山域は、特種東海製紙が所有しています。余談ですが、私はポストカードやポスターを輸入する会社に勤めていた頃、オリジナルのポストカードを作るのに、当時は特種製紙と呼ばれていた静岡の同社に何度か足を運んだことがありました。

このブログでも触れたことがありますが、以前『週刊ダイヤモンド』(2019年10月5日号)でも「日本の山が危ない 登山の経済学」という特集が組まれ、その中で登山道の問題が取り上げられていました

記事を担当した鈴木洋子記者も、次のように書いていました。

(略)登山道整備の多くは日常の整備を担当する山小屋が担う。どの登山道をどの山小屋が分担するかは、山小屋間の申し合わせで決まる。
  だが、経営が安定している山小屋とそうではない山小屋では、登山道整備に費やせる金銭・人的リソースが全く異なる。実際は山小屋の費用持ち出しが発生するからだ。登山道の安全は近隣の山小屋の経営状況で決まるのが現実だ。
   国立公園は『美しい景観を国民が楽しむことを目的として、国が管理する自然公園』と定義されている。だが、山の環境や登山道の正確な状況について全容を把握し管理計画を立てている機関は、国にも地方自治体にも存在しない。


下記は、『週刊ダイヤモンド』の特集に添付されていた、日本とアメリカとイギリスの国立公園のデータを比較した図です。これを見ると、記事でも指摘されていましたが、日本の国立公園は「ヒト」「カネ」のリソースが足りてないことがよくわかります。

週刊ダイヤモンド国立公園
(『週刊ダイヤモンド』(2019年10月5日号より)

アメリカやイギリスの国立公園では、投資対効果や地域への経済効果なども細かに検証されているそうです。もちろん、当然のように入山料も徴収しています。しかし、「日本では国立公園の経済効果の試算は存在しない。そもそも行政が積極的に国立公園を運用する計画自体がない」のです。

そのため、日本とアメリカ・イギリスとでは、国立公園の”あり様”が大きく異なっています。簡単に言えば、日本の場合、門戸が開放されてない、誰でも行ける国立公園ではないのです。とりわけ、北アルプスや南アルプスなどは、上高地など麓の施設を除くと、国立公園と言っても、近づくことすらできません。ただ、遠くから山を眺めるだけです。しかも、その山は、上級者レベルの登山者だけが登ることができる”特別な場所”のようになっています。

私は、谷川岳の天神平や北横岳の坪庭や新穂高ロープウエイの展望台に、家族に手を引かれた高齢者や車椅子に乗った身障者が来ているのを見たとき、「ああいいなあ」と感動さえ覚えました。年を取っても、身体が不自由になっても、山に来たい(登りたい)という気持はあるのです。そう考えたとき、山は誰のものなのかと思わざるを得ませんでした。一部の特殊な登山者のものではないはずです。ましてや、「勝者」や「強者」のものではないのです。

国立公園であるなら、子どもでも高齢者でも身障者でも誰でも、自然に触れ合えるような場所であるべきでしょう。もちろん、それは無節操に開発するという意味ではありません。手始めにまず、アメリカやイギリスのように、「山岳レンジャー」や山岳ガイドが常駐する体制くらいは整えるべきしょう。

とは言え、前例主義と事なかれ主義に呪縛された行政にそうそう期待できるはずもなく、とりあえず現状の中で次善の策を考えるしかないのです。「北アルプストレイルプログラム」もそのひとつと言えるのです。

あまり整備されると登るのがつまらなくなる。最低限の整備にとどめるべきだ。危険と背中合わせなところが登山の魅力だ。一部の「軽業師」か「消防夫」(田部重治)のような登山者に、そういった高慢ちきな特権意識が存在するのは事実でしょう。

また、北アルプスなどはブランド化され、「登山者のあこがれ」「聖地」みたいに祭り上げられている現実もあります。登山雑誌でも登山シーズンになると、北アルプスの特集が組まれるのが定番です。そんなミーハーな意識で訪れている登山者も多いのです。

山小屋を運営する自治体もあるので、自治体の支援に濃淡があるのは当然ですが、中央の行政機関の担当者の中には、登山道の整備に税金が投入しづらいのは、現状ではまだ世論が充分納得しているとは言い難いからだという声もあるそうです(と言いながら、皇族が登るときは惜しみなく税金を使って整備しているのですが)。

遭難事故が発生するとさも迷惑みたいに叩かれるのも、警察やメディアに誘導された無知と悪意による予断が大きいのですが、一部にはそういった登山者の特権意識に対する反発もなくはないように思います。

山を「征服」するヨーロッパ由来のアルピニズム思想を無定見に信奉しながら、一方で自然保護を唱える矛盾も同じです。私の知人で登山愛好家を「偽善者」「似非ナチュラリスト」と痛罵する人間がいますが、まったく的外れとは言えないのです。

前から言っているように、私も登山における利用者負担は当然と思っています。また、行政の支援に頼るだけでなく、上記のような”協議会方式”で利用者負担の仕組みを作るのも、ひとつの方法だと思います。実際に北アルプスだけでなく、全国の山域でも同じような試みが既にはじまっているそうです。

考えてみれば、魚釣りに行くのも入魚料を徴収されるのです。私が子どもの頃、九州の山奥の渓谷みたいところで魚を釣るのでも、途中にある煙草屋で入漁料を払っていました。山に登る際も、入山料を払うのが当たり前のようになるべきでしょう。記事にも書いているように、登山者の間でも、利用者負担(入山料の徴収)に対する理解は広がっているのです。というか、むしろ登山者自身が率先して声を上げるべきでしょう。

入山料が当たり前になれば、登山道の整備費用が賄えるだけでなく、登山者の抑制にもつながるので、丹沢などに象徴されるようなオーバーユースの問題が解消されるメリットもあるのです。国立公園のあり方を考えるきっかけにもなるでしょう。

北アルプスのようなブランドの山なら、子どものお誕生日会のプレゼント代みたいなケチな金額ではなく、1万円でも2万円でも入山料を徴収すればいいのではないか。「あこがれの」ブランドの山なのだから、それくらい払ってもバチが当たらないだろう。そんな皮肉さえ言いたくなるのでした。
2022.07.26 Tue l l top ▲
武蔵小杉駅~立川駅~武蔵五日市駅~「仲の平」バス停~【数馬峠】~【笹ヶタワノ峰】~「浅間尾根登山口」バス停~武蔵五日市駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約6時間(休憩等含む)
※山行距離:約6.5キロ
※累計標高差:登り約488m 下り約392m
※山行歩数:約18,000歩
※交通費:3,808円


一昨日、奥多摩の笹尾根を歩きました。前回の1年3ヶ月ぶりの山行から既にひと月の間が空いてしまいました。

雨が続いたかと思えば、つかの間の晴れ間は「熱中症警報」が発令されるような酷暑で、山どころではなかったのです。

早朝5時すぎの東横線に乗って武蔵小杉駅。武蔵小杉駅から南武線で立川駅。立川駅から武蔵五日市線の直通電車で武蔵五日市駅。武蔵五日市駅に到着したのは7時すぎでした。そして、駅前から7時20分発の「数馬行き」のバスに乗って、終点の「数馬」のひとつ手前のこのブログではおなじみの「仲の平」(檜原村)のバス停まで行きます。「仲の平」まで約1時間かかりますが、半分も進まないうちに乗客は私だけになりました。これもいつものことです。

実は前日にいったん出かけたのです。武蔵小杉まで行き、南武線の改札口に向っている際、首にサコッシュがかかってないことに気付いたのでした。サコッシュには、財布や健康保険証やクスリなどが入っています。もっとも、普段の移動はモバイルスイカを使っていますので、スマホさえあれば支障はないのですが、とは言え、心はまだアナログ人間なので一抹の不安がありました。それで、山行を中止して自宅に戻ることにしたのでした。ちなみに、翌日の山行では、財布をサコッシュから一度も出すことはありませんでした。

登山口がある「仲の平」のバス停に着くと、外は雨になっていました。それもかなり雨脚が強く、山の方も霧におおわれています。前回(と言っても一昨年)下山で使った道を登ろうと計画していましたので、傘を差してバス停から民家の横の細い道を川の方に下って行きました。その際、民家から出て来たおばさんに出くわしました。

「おはようございます」と挨拶したら、「今から山に登るんですか?」と訊かれたので「そうです」と答えたら、「生憎の雨で大変ですね。気を付けて下さいね」と言われました。

川まで下りると、そこは昔のキャンプ場の跡になっています。朽ちたバンガローが数軒、そのまま残っています。炊事場だったところに屋根があるので、そこで雨宿りを兼ねて山に登る支度をはじめました。

40分以上待ったけどいっこうに雨が止む気配がないので、しびれを切らして雨具を着て登ることにしました。途中の伐採地まで結構な登りが続きます。

私は笹尾根には今まで冬か秋しか来たことがなく、夏は初めてでした。道中は草が繁茂して半分藪漕ぎみたいなところもあり、同じ山だとは思えないくらい様相が変わっていました。もちろん、山行中誰にも会うことはありませんでした。

息が上がり足も重くてなりませんでした。それに雨具を着ているので、外気と湿気で水を被ったように全身汗びっしょりになり、よけい疲労感が増します。雨も止む気配がなく、情け容赦なく叩きつけてきます。

30分近く歩くと、ようやく登りがいったん緩む伐採地に出ることができました。既に疲労困憊でした。でも、山の中なので雨宿りができる建物などあろうはずもありません。

それで、木の下にあった倒木に座って、休憩がてら雨脚が弱くなるのを待つことにしました。天気予報によれば、1~2時間経てば雨が止むはずです。

再び傘を差してうずくまるように座り、おにぎりを頬張っていたら、何だか情けなくて泣きたいような気持になりました。でも一方で、「やっぱりひとりがいいなあ」と心の中で呟いている自分もいました。自己愛の強い私は、そんな孤独な自分が嫌いではないのです。

30~40分待つと、空も明るくなり雨脚も急速に衰えてきました。雨具を脱いで再び歩きはじめたのですが、1年以上のブランクとまだ少し痛みが残っている膝の影響もあって、足を前に進めるのがつらくてなりませんでした。それに、同じ道とは思えないほどの景色の違いにも、心が萎えるばかりでした。全身から吹き出す汗に水も減る一方です。水は2.5リットル持って来ましたが、既に1リットル以上飲んでいました。

山に登ることほど孤独な営為はありません。常に自分と向き合い、自分と葛藤しながら足を出して登っているのです。しかも、その自分は文字通り素の自分です。そこにいるのは、ハァーハァー息を切らし鼻水を垂らしながらネガティブな気持と戦っている、何の後ろ盾もない非力な自分です。

普段の生活のように、自分を強く見せたり、大きく見せたりすることもできないのです。自然の前にいる自分は何と非力で小さな存在なのかとただただ思い知るだけです。

前も書きましたが、ヨーロッパ由来のアルピニズムでは、山は「征服」するものでした。アダム・スミスの研究者である山口正春氏(日本大学教授)が下記の論稿でも指摘しているように、西洋の自然観は『聖書』の「天地創造説」に影響されています。つまり、「神が自然(世界)を創造し、『神の似像』として人間を創り、人間が支配し、食糧とするために自然が与えられている」という考えです。そのように、「元々キリスト教の教義の中には『自然支配』の思想、さらに『人間中心主義』が包含されていた」のでした。

山口正春
西洋の自然観とその問題点

私たちは、「人間中心主義」と言うと、ルネッサンスのような人間賛歌、ヒューマニズムの原点のように思いがちですが、しかし、それは「自然支配」と表裏の関係にあるものにすぎないのです。ヨーロッパ由来のアルピニズムに、軍隊用語がふんだんに使われているのも故なきことではないのです。

それに対して、日本人は古来から自然に対して畏敬の念を持っていました。とりわけ山岳信仰などはその代表的なものでしょう。また、採集経済においては恵みを与えてくれるものとして、そして、畑作や稲作の農耕文化が伝来すると雨乞い信仰の対象として、山を崇拝するようになりました。山は「征服」するものでなく、「ありがたい」ものだったのです。

文字通りほうほうの体で笹尾根上の数馬峠(標高1102メートル)に着いたときは、既に12時をまわっていました。登山アプリのコースタイムより1時間以上多く時間がかかってしまいした。

他の季節だと、数馬峠からは山梨県側の眺望がひらけているのですが、大きく茂った灌木が邪魔をしている上に、まだ水蒸気が下から上に登っている最中だったということもあり、正面にそびえる権現山(標高1312メートル)の大きな山容もほどんど雲に隠れていました。その先には富士山も望めるのですが、もちろん、姿かたちもありません。

笹尾根は、東京都(檜原村)と山梨県(上野原市)の間に延びている、標高1000メートル前後の都県境尾根です。檜原村からは尾根の上に向っていくつも道が伸びています。それこそ、檜原街道沿いのバス停があるところからは大概登山道があるくらいです。そして、尾根の上からは、今度は山梨側に向って道が下っているのでした。さらに尾根上にもそれらをつなぐ道が走っています。

私たちが今登っている道は、昔の人たちの生活道路だったのです。そうやって双方を行き来したり、尾根の上で物々交換をしていたのです。尾根を越えて反対側の集落に嫁ぐ例さえあったそうです。ちなみに、数馬峠というのは東京側の呼び名で、山梨側は「上平峠」と呼ぶみたいです。

私の奥多摩歩きのバイブルである『奥多摩   山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)の中で、著者の山田哲哉氏は、今から110年前の1909年、田部重治が東京帝国大学の先輩である木暮理太郎と二人で、笹尾根を歩いたことを「日本初の縦走路   笹尾根」と題して書いていました。二人は、奥多摩の小仏峠から景信山、陣馬山、和田峠を経て奥多摩に入り、途中、浅間峠のあたりで1泊したあと、西原峠まで笹尾根を歩いたのでした。私も田部重治の『山と渓谷』で、その山行について書かれたエッセイを読みましたが、実は二人の最終目的は笹尾根ではなく、笹尾根を経由して雲取山に登ることだったです。

そのため、三頭山の手前の西原峠から上野原側の郷原へ下山して鶴峠を越え、今の奥多摩湖畔の川野から(恐らく鴨沢ルートで)雲取山に登っているのでした。しかも、田部重治は、それが初めての本格的な登山だったそうです。山田氏は、二人のこの「壮大な山行」が日本で初めての「縦走登山」だったと書いていました。

笹尾根は、広義に解釈して三頭山から高尾山まで40キロ近くの縦走路をそう呼ぶ人もいますが、実際は、三頭山から浅間峠までの20キロあまりを笹尾根と呼ぶのが正しいようです。

山田氏は、笹尾根について、次のように書いています。

  起伏が少なく、山上に広々とした地形をもつ笹尾根は、その尾根自体が生活を支える重要な場所であった。ここ20年ほどの間に広葉樹が繁茂し、かつてのような一面カヤトは少なくなっても、40年ほど前までは、茅葺き屋根の材料だったカヤを得る場所として、明るい展望とともに随所に美しい茅原が広がりを見せていた。今でも、峠道を少し下れば炭焼き窯の跡が点々と残っている。
(『奥多摩   山、谷、峠、そして人』)


このブログにもたびたび出て来るように、私は笹尾根が好きで、今までも何度も歩いています。

前も書きましたが、田部井淳子さんも冬の笹尾根を歩くのが好きだったそうです。今の笹尾根は、檜原街道を挟んで反対側にある浅間尾根に比べると歩く人が少ないのですが、たまたま山中で一緒になった女性ハイカーに話を聞くと、やはり田部井さんの足跡を辿って歩いている人も多いようです。

数馬峠には、たしかベンチが二つあったはずです。ところがベンチが見当たりません。一瞬、「エッ、これが数馬峠?」と思ってしまいました。よく見ると、ベンチは原型をとどめないくらい朽ちて崩壊していました。私はその荒れように少なからずショックを受けました。

仕方なくベンチの残骸の上に腰を下ろすと、バリバリと木が折れてさらに崩壊してしまいました。ザックからおにぎりを出して食べようとすると、コバエが集まって来て食べるどころではありませんでした。しかも、どこからか蟻も這い出てきてスタッフバッグの上を我が物顔に徘徊しているのでした。そのため、ザックに戻すのにくっ付いた蟻をいちいち払い落さなければなりませんでした。

雨のあがった夏空からは強烈な陽光が容赦なく照り付けています。じっとしていても汗が吹き出して、ひっきりなしに水を飲みました。

と、そのときでした。山梨側の方から「オッ、オッ」というようなやや甲高い鳴き声が聞こえてきたのでした。山梨側にも道が通っているはずですが、藪に覆われて踏み跡も判明しないほどかなり荒れていました。最初、猟犬かと思いましたが(山中でGPSのアンテナを装着した猟犬に遭遇すると腰をぬかすほどびっくりしますが)どうも犬の鳴き声のようには思えません。何だろうと思っていたら、ふと、山の中で「おーい、おーい」と人を呼ぶような声が聞こえたら注意した方がいいという話を思い出したのでした。

「おーい、おーい」というのは、仔熊が母熊を呼んでいる鳴き声なのだそうです。私は、首から下げている笛を「ピーピー」と吹きました。しかし、鳴き声は止みません。それで、あわててザックを背負うとその場をあとにしたのでした。あとで気付いたのですが、その際、カメラのレンズのキャップを落としたみたいです。

冷静になって考えると、熊だったという確証はなく、いつものひとり芝居だったのかもしれないと思いました。誰にも会わずにひとりで山の中を歩くのが好きだと言いながら、このように過剰に熊に怯える自分もいるのでした。前方にある枯れ木や岩が熊に見えることもしょっちゅうです。そんなときは枯れ木や岩に向って懸命に笛を吹いているのでした。

当初の予定では数馬峠から7キロくらい先にある浅間峠から下る予定でしたが、時間が押していたので計画を変更して、数馬峠の先にある笹ヶタワノ峰(標高1121メートル)から「浅間尾根登山口」のバス停に下りることにしました。

「浅間尾根登山口」は「仲の平」から三つ手前のバス停です。2年前も反対側の浅間峠から歩いて来て下りたことがありますし、また、浅間尾根(浅間嶺)に登る際に下車したこともありました。

下の方は「中央区の森」になっているため道も整備され、2年前はそれこそ鼻歌交じりで下りたものですが、今回は痛い方の膝をかばうように歩いたので、前回の倍くらい時間がかかりました。そのため、鼻歌どころではなく、やたら時間が長く感じて苦痛を覚えるばかりでした。

バス停に下りたのが15時すぎで、武蔵五日市駅行きのバスは出たばかりでした。15時台のバスはないので、次は16時すぎです。1時間以上も待たねばなりません。仕方なくバス停のベンチにひとりぽつんと座ってバスを待ちました。もちろん、やって来たバスには乗客は誰も乗ってなくて、来たときと同じ私ひとりだけでした。

武蔵五日市駅からは朝と逆コースを帰りましたが、電車の連絡がスムーズに行ったので、横浜の自宅に帰り着いたのは19時半すぎでした。

翌日はオミクロン株BA.5の感染爆発に怖れをなしてワクチン接種に行ったのですが、太腿に筋肉痛はあったものの、接種会場の階段を下りる際、セサミンのテレビCMに出ているおばさんのようにトントントンと下ることができたので、自分でもびっくりしました。


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田部重治「高山趣味と低山趣味」
若い女性の滑落死と警鐘


※オリジナルの画像はサムネイルをクリックしてください。

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閉鎖されたキャンプ場の炊事場

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途中の伐採地から

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数馬峠からの眺望

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数馬峠の朽ちたベンチ

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笹ヶタワノ峰から下る

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途中の大羽根山(標高992メートル)

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「中央区の森」の中のヌタ場
※沼田場(ヌタ場)とは、イノシシやシカなどの動物が、体表に付いているダニなどの寄生虫や汚れを落とすために泥を浴びるぬたうちを行う場所のこと。(ウィキペディアより)

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「中央区の森」の中にある炭焼き小屋
※体験用の炭焼き小屋です。

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「浅間尾根登山口」バス停

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反対側のバス停
バス停の上から下りて来ました。
2022.07.24 Sun l l top ▲
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武蔵小杉駅~渋谷駅~池袋駅~飯能駅~東吾野駅駅~【ユガテ】~【スカリ山】~【北向地蔵】~鎌北湖~毛呂駅~高麗川駅~昭島駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約5時間(休憩等含む)
※山行距離:約5.5キロ
※累計標高差:登り約496m 下り約455m
※山行歩数:約16,000歩
※交通費:2,828円



一昨日、埼玉(奥武蔵)の山に行きました。1年3ヶ月ぶりの山行です。

このところ長雨が続いており、予定が立てづらかったのですが、一昨日は朝から曇り空で雨が降るのは夜という予報でしたので、急遽、予定を立てて行くことにしました。

膝はまだ多少の痛みは残っています。そのため、どうしても痛い方の足をかばうところがあります。ただ、最初の頃と比べると「劇的」と言ってもいいほど改善しました。

病院も2月で終わりました。水も溜まらなくなったので、「これでいいでしょう」「あとは膝まわりをストレッチして下さい」とドクターから言われて、治療は終了になったのでした。

ドクターの見立ては「オーバーユース」でした。変形膝関節症もそんなに進行していないと言われました。ただ、私の場合、身体が大きくてその分体重も重いので、治りも遅れがちで、「ほかの人に比べて不利なんですよ」と言われました。

とは言え、自分では未だに湿布薬とサポーターは欠かせません。病院との縁が切れたので、湿布薬は薬局で買っています。

昨日は、湿布薬を貼って、頑丈なサポーターでガードして出かけました。サポーターを締めすぎたため、太腿の血流が悪くなり、痺れが出た以外は、そんなに痛みはありませんでした。ストック(トレッキングポール)を使いましたが、特別に痛みが増したということもありませんでした。

当然のことですが、体力は元に戻っています。また一からやり直すしかないのです。それを考えれば気が重いのですが、山に行きたい気持は募るばかりなので、自分を奮い立たせて出かけたのでした。

今回行ったのは、前に二度歩いたことのある西武秩父線の東吾野(ひがしあがの)駅と峠を越えた先にある鎌北湖の間のトレッキングコースです。よく知っている道なら、万一膝が痛くなってもエスケープすることができるだろうと考えたからでした。

早朝5時すぎの東急東横線に乗り、そのまま地下鉄副都心線で池袋駅まで行って、池袋から西武池袋線の飯能行きの特急に乗りました。飯能駅に着いたのが7時すぎでしたが、線路をはさんだ反対側にあるホームには、既に3分後に発車する秩父行きの電車が停まっていました。エスカレーターを急ぎ足で登り、電車に駆け込むと電車はすぐに発車しました。

西武秩父線の東吾野駅に着いたのは7時半すぎでした。降りたのは私ひとりでした。

池袋駅で特急電車を待っていたら、秩父方面から到着した電車の車体が雨で濡れていたので、もしかしたら雨が降っているのかもしれないと思い不安になりました。私は”予備がないと不安症候群”なので、スマホには”お天気アプリ”をふたつ入れています。それを見ると、ひとつは曇りなのですがもうひとつは雨の予報です。もし雨だったら秩父まで行って、温泉にでも入って帰ろうと思いました。

しかし、東吾野駅に着いたら雨は上がっていました。雨は上がったばかりみたいで、駅前のベンチは座ることができないほどまだ濡れていました。

飯能から秩父までは谷底の川沿いを国道299号線が走っているのですが、秩父線はそれを見下ろす高台を走っており、国道に出るにはどこの駅からも坂道を下らなければなりません。

通勤時間帯にもかかわらず人気のない駅前の広場で準備をして、坂道を下り、交番の前を通って国道を少し進むと、吾野神社の階段が見えてきます。今回歩く登山道は社殿の横にあります。

この登山道は「飛脚道」と呼ばれています。江戸時代、飛脚の緊急用の裏道だったそうです。その道を現代の私たちは、重いザックを背負い登山靴を履いて歩いているのです。

3年ぶりですが、道案内の指導標も新しくなり、しかも、日本語の下に英語でも行先が書かれていました。前にも書いたことがありますが、都内から近いということもあって、このあたりのトレッキングコースは外国人が非常に多いのです。実際に歩いていると、必ずと言っていいほど外国人とすれ違います。昨日も、峠の途中にあるユガテという集落で休憩していたら、若い白人の女性二人組が英語でキャーキャーお喋りしながら通り過ぎて行きました。

前に峠の茶屋のご主人が、外国人のハイカーが多いので、週末はイギリスへの留学経験がある知り合いの女の子にアルバイトに来てもらっている、と話していたのを思い出しました。

平日のしかも梅雨の合間なので、山中で遭う人は少なくて6~7人くらいしかいませんでした。外国人の女性以外はみんな中高年のハイカーでした。

雨が上がったばかりなので、周辺の草木はまだ濡れており、地面もぬかるんでいます。そのため、靴やスボンの裾も泥ですぐ汚れてしまいました。それに、岩や木の枝にうっかり足を乗せると滑ってしまいます。私も急登を下っている際に濡れた木の枝に足を乗せてしまい尻もちをつきました。

今回のルートは、途中に小さな山が点在しているのが特徴で、ユガテに行く途中にも、橋本山という山があって、そこに差し掛かると「男坂」と「女坂」の案内板が立っていました。私は今までは「女坂」を歩き橋本山をスルーしていたのですが、今回は「男坂」から橋本山を登ってみることにしました。

この「男坂」「女坂」という表示は山の「あるある」で、身近でも高尾山や御岳山や大山や伊豆ヶ岳や武川岳などにあります。「男坂」は直登して山頂に至るコース、「女坂」は山頂を巻く(あるいは巻いて山頂に至る)コースの意味で、「男坂」はきつい道、「女坂」はゆるやかな道を示しているのです。

しかし、今のジェンダーレスの時代に、こういった表現に違和感を抱く人もいるでしょうし、時代にそぐわないという声が出てもおかしくないでしょう。「男坂」「女坂」には、男=きつい=逞しい、女=楽=ひ弱という固定観念が間違いなくあるのでした。

山は男のもんだよ、女が山に来るのは迷惑だみたいに嘯くおっさんが山に多いのは事実ですが(そういうおっさんたちに限って熊鈴がうるさいとかアホなことを言う)、そういうおっさんたちもあと10年もすれば山から姿を消すでしょう。そんなアナクロなおっさんたちが牽引してきた”山の文化”がこれから大きく変わるのは間違いありません。

だからと言って、何度も書いているように、アナクロなおっさんに引率され武蔵五日市駅や秦野駅のバス停に蝟集する、おまかせ登山のおばさんたちの振舞いが、ジェンダーレスとはまったく異なる次元の問題であることは言うまでもありません。一方で、女性登山家が”登山界”で「名誉男性」のような扱いを受けることにも違和感を覚えてなりません。

前に人流の「8割削減」を受けて登山の自粛を呼びかけた日本山岳会の愚行を批判しましたが、そもそも昔取った杵柄のようなおっさんたちが牛耳る日本山岳会の”歪さ”も考えないわけにはいきません。それこそ「男坂」「女坂」の象徴のような組織と言えるでしょう。「山の日」ってなんだよ、国立公園と言いながら、登山道の整備も民間のボランティア任せのようなおざなりな現実を見れば、もっと他にやるべきことがあるだろう、と言いたいのです。

橋本山の「男坂」はたしかにきつかったですが、ただ距離か短かったのでそれほどつらく感じませんでした。小さな山なので、山頂と言ってもそれほど広いスペースがあるわけではなく、ただの見晴らしのいい場所という感じでした。昔、埼玉に住んでいたとき、この山域にもしょっちゅう来ていて、林道に車を止めて見晴らしのいい場所までよく登っていましたが、橋本山も前に来たような錯覚を覚えました。

ユガテで休憩したあと、エビガ坂というチェックポイントまで行き、エビガ坂の分岐からは今まで歩いたことのないルートに歩を進めました。同じ鎌北湖に下りるのに、少し迂回して下りようと思ったのでした。

しばらく進むと、今回のメインであるスカリ山がありました。スカリ山は標高434メートルの低山で、このルートにある小さな山のひとつにすぎないのですが、スカリ山が注目されたのは伐採されて眺望がよくなってからで、それまでは誰からも見向きもされない「不遇の山」だったそうです。従来のハイキングルートはスカリ山を巻く(スルーする)ように設定されていたため、道標もなく、道も整備されておらず、道迷いも発生していたのだとか。特に、今回登った西側からは急登がつづき、ミッツドッケの山頂への直登ルートによく似ていました。きつさもミッツドッケの山頂に匹敵すると言ってもオーバーではないくらいでした。

岩と石がむき出しになった急登を登ったら、まったく眺望のないスペースに出ました。あれっと思ってスマホでルートを確認すると山頂はまだ先の方でした。でも、先は急な下りになっています。「エッ、これを下るのかよ」と思っていたら、60代くらいの女性がひとりで登って来ました。

「ここが山頂ではないんですよね?」
「そうみたいですね。私も初めてなんですがスマホで見るともっと先ですね」と言ってました。そして、そのまま急坂を下って行きました。

地面が濡れているので、身体を横向きにして慎重に下らなければならず神経を使いました。小さなコルに下りると、また見上げるような急登が目の前に現れました。足が全然進まず筋力が落ちていることを嫌というほど思い知らされました。ヒーヒー息が上がり、頭から玉のような汗が滴り落ちています。でも、一方で、そんな自分がちょっと嬉しくもありました。そうやって再びひとりで山に登る喜びを実感しているのでした。

山頂の手前の木の枝に「スカリ山」という小さな札が下げられていました。まだ人にあまり知られてない頃の名残りなのでしょう。その札を過ぎると突然、開けた場所に出ました。スカリ山の山頂でした。

「いやあ、これは凄いな」と思わず声が出ました。想像だにしなかった眺望が北側に広がっていました。小さなベンチが四つ山頂を囲うようにありました。眺望を見渡せるベンチに、夫婦とおぼしき60代くらいの男女のハイカーが座っておにぎりを食べていました。その横のベンチには、手前のスペースで会った女性が座っていました。女性は私の方に振り返ると、「お疲れ様でした」と言いました。そして、帰り支度をはじめ、「どうぞ、ここに座って下さい」と言いました。私は、「いいですよ。こっちに座りますので。ゆっくりして下さい」と言いましたが、女性はそのままザックを背負うと「お先に失礼します」と言って、登って来た道と反対側の道を下って行ったのでした。

反対側の道もかなりの急登で、私はそこで尻もちをついたのですが、ただ、距離は短くてそれほど時間もかからず林道に出ました。反対側からだと林道に車を停めれば、急登ではあるものの短時間で登ることができます。私が昔よくやっていたスタイルなので、もしかしたらここも来たことがあるかもしれないと思ったりしました。

スカリ山の標高434メートルは私の田舎より低いのですが、山頂からは毛呂山町や坂戸市の街並みだけでなく、遠くに長沢背稜から延びる蕎麦粒山や日向沢ノ峰(ひなたざわのうら)などの山々や群馬の山も見渡すことができました。

アスファルトの林道を15分くらい歩くと、今回のもうひとつの目的である北向(きたむかい)地蔵が林道沿いにありました。北向地蔵にお参りすると、再び登山道に入りあとはゆるい坂道をひたすら鎌北湖に向けて下って行きます。40~50分歩くと鎌北湖畔の廃墟になったホテルの横に出ました。

帰ってスマホのアプリで歩いたルートを確認すると、5つの山を登ったことになっていましたが、私が山頂を意識したのは、橋本山とスカリ山と、それからスカリ山の隣りにある観音ケ岳という3つの山だけでした。

鎌北湖では堤防の上に座って、コンビニで買ってきたおにぎりを食べました。下りて来たのが12時半近くで、1時間近く湖畔でゆっくりしたあと、鎌北湖から約1時間かけて八高線の毛呂駅まで歩きました。鎌北湖から毛呂駅までは5キロ近くあります。今まで何度も歩いていますが、一昨日がいちばんつらく感じました。山を歩くよりつらかったかもしれません。

毛呂からは昭島、昭島からは中央線で立川、立川からは南武線で武蔵小杉、武蔵小杉からは東横線で最寄り駅まで帰りました。途中の電車の乗り換えにえらく時間がかかり、最寄り駅に着いたのは午後5時半近くになっていました。鎌北湖から何と4時間もかかったのです。

帰ってズボンを脱いだら、お尻から下に一面泥が付いていました。知らぬが仏で、その汚れたズボンで電車を乗り継いで帰って来たのでした。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

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西武池袋線・特急ラビューむさし1号の車内(1号車)

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東吾野駅

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吾野神社の階段

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吾野神社

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吾野神社の謂れ

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吾野神社にあった標識

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登山道(飛脚道)

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途中からの眺望

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途中の分岐にあった標識

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分岐

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橋本山山頂標識

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橋本山からの眺望

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橋本山の山頂

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飛脚道の案内図

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ユガテの入口にあった標識

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ユガテ入口

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ユガテの案内看板

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ユガテ

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同上

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同上

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エビガ坂分岐

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同上

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スカリ山登り口

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急登を上から見る

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急登

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同上

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「スカリ山」木札

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スカリ山山頂
雨で煙っていたため、山頂から見た山の写真はうまく撮れていませんでした。

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スカリ山山頂標識

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北向地蔵

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北向地蔵の謂れ

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鎌北湖への道

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同上

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湖畔の廃墟のホテル

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鎌北湖
2022.06.10 Fri l l top ▲
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武蔵小杉駅~立川駅~青梅駅~奥多摩駅~東日原バス停~【三ツドッケ(天目山)】~東日原バス停~奥多摩駅~青梅駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約6.5時間(休憩等含む)
※山行距離:約12キロ
※累計標高差:登り約1,226m 下り約1,228m
※山行歩数:約23,000歩
※交通費:3,458円


昨日(10日)、三ツドッケ(天目山・1575メートル)に登りました。三ツドッケは都県境尾根の長沢背稜にある山です。尚、三ツドッケというのは、埼玉側の呼び名で、東京側の呼び名は天目山です。天目山という山は山梨や群馬にもありますし、中国の浙江省にもあるみたいなので、もしかしたら日本文化あるあるで中国の山に模して命名されたのかもしれません。

だからという訳ではありませんが、私は埼玉側の呼び名である三ツドッケの方が好きです。ほかにも、雲取山から長沢背稜へ向かう分岐のところには芋ノ木ドッケ、秩父の浦山には大ドッケがあります。また、同じ長沢背稜にある酉谷山(とりだにやま)も、埼玉側では黒ドッケと呼ばれています。ドッケというのは、「尖ったところ」という意味の秩父の方言だそうです。つまり、三ツドッケには三つの瘤があり、そのひとつが山頂になっているのです。

三ツドッケの下には、連続強盗事件で有名な一杯水(いっぱいみず)避難小屋がありますが、一杯水避難小屋から山頂へは距離こそ短いもののかなりの急登で、しかも、いったん登ってまた下ることをくり返さなければなりません。

山にはマナーの悪いおばさんやおっさんだけでなく、痴漢や泥棒もいるし、大言壮語の嘘つきは掃いて棄てるほどいます。それどころか、追いはぎまでいるのです。山と言っても、所詮は地上の延長なのです。「こんにちわ」と挨拶するので、山に来る人はあたかも”いい人”ばかりのように思いがちですが(登山者性善説)、それは幻想でしかないのです。

早朝5時すぎに横浜の家を出て、武蔵小杉まで東横線、武蔵小杉からは南武線・中央線・青梅線を乗り継ぎ、奥多摩駅に着いたのは8時すぎでした。駅前のバス停から東日原(日原鍾乳洞)行きのバスは数分後に出ます。急いでバス停に向かったら、既にバスは乗客を乗せて待機していました。

乗客は20数名でほぼ座席が埋まるほどでした。鍾乳洞に行くとおぼしき数名の若者以外はハイカーでした。ただ、ハイカーの大半は、川苔山の登山口がある川乗橋(かわのりばし)のバス停で下車し、残ったハイカーは私と40代くらいの男性ハイカーふたりだけになりました。

東日原は、川乗橋からさらに6つ先のバス停です。もうひとりの男性も私と同じ東日原で降りました。通常、東日原にある登山口は、三ツドッケと鷹ノ巣山の稲村岩尾根ルートのふたつです。

ただ、鷹ノ巣山の稲村岩尾根ルートは、一昨年10月の台風19号の被害で未だ通行止めになっていますので、現在、 東日原からは三ッドッケか一杯水避難小屋を経由する蕎麦粒山しか登ることができません。また、東日原行きのバスも、道路の崩落により1年以上運休していて、去年の12月に再開したばかりなのです。

私は、バス停から数十メートル戻ったところにある登山口から登ったのですが、もうひとりの男性はバス停の先の方に歩きはじめました。先の方からも登山道に合流できるみたいですが、大半のハイカーは手前の登山口を利用します。道がわかってないのかなと思いました。

東日原のバス停は、一日の何便かは終点及び始発になるので、屋根付きのベンチとトイレのほかに、バスが方向転換できるようなスペースも設けられています。尚、日原鍾乳洞のバス停は、東日原から二つ先です。

トイレに行ったあと、ベンチで準備をしていたら、登山の恰好をした高齢の女性がやって来てトイレに入りました。そして、トイレから出て登山の案内板を見ていたのですが、突然、後ろを振り返り、「すいません」と話しかけられました。

「鷹ノ巣山の稲村岩尾根は通行止めなんでしょうか?」と驚いた様子で訊くのでした。
「そうですよ。一昨年の台風で登山道が崩落したとかでずっと通行止めになったままなんですよ」
「エエッ、そうなんですか。鷹ノ巣山に登るつもりで来たんですが・・・・。困ったなあ」と困惑した表情を浮かべていました。

そして、「失礼ですが、どちらに登るのですか?」と訊くので、「三ツドッケ、ここに書いてある天目山です」と案内板の地図を指で示しました。
「天目山? 結構距離があるみたいですね?」
「でも、鷹ノ巣山よりは楽ですよ」
「そうですかあ。残念です。ありがとうございました」と言って駐車場の方に歩いて行きました。

登山口は、集落が管理するハイカー用の駐車場の前の坂を登って行くのですが、坂に差しかかると、先程の女性がご主人とおぼしき男性とふたりで道路脇に立っていました。どうやら車で来たみたいです。そして、私から聞いた話をご主人に伝えているところでした。「あの方は天目山に登るみたいですよ」という女性の声が背中の方から聞こえてきました。

三ツドッケは、片道が6キロです。最初は樹林帯の中の九十九折の道を歩きますが、1200メートルくらいから先は痩せ尾根、そして巻道がつづきます。巻道は幅が狭く、横は断崖で切れているので、足を滑らしたり躓いたりしたら大きな事故につながる危険があります。ただ、慎重に歩けばそれほど難しい道ではありません。基本的には歩き易い道です。

最初は東側の巻道で、いったん尾根(ヨコスズ尾根)に出たあとは今度は西側の巻道になります。先週までは雪や霜が残っていたみたいですが、今週に入って暖かな天気が続いたので雪や霜もまったくなく、落ち葉が積もっているだけでした。

特に昨日は気温が20度近くまで上がったとかで、春を思わせるような陽気でした。私もバス停でジャケットを脱いで、以後、帰りの武蔵小杉駅までは薄手のパーカーだけでした。ただ、痩せ尾根を通るとき、尾根が下から吹き上げて来る風の通り道になっているのでもろに風を受け、パーカーだと肌冷く感じました。

山頂直下の避難小屋までは誰にも会いませんでした。そのため、マイペースで登ることができ、時間的にも順調に進みました。途中、二度ほどおにぎりタイムを設けたのがよかったのか、登山アプリのコースタイムより30分近くはやいペースで登ることができました。

避難小屋に着くと、小屋の前のベンチで40代くらいの男性ハイカーが休憩していました。既に山頂に登って戻って来たところだそうです。これから蕎麦粒山と川苔山を縦走して下るのだと言っていました。

「ここはいい山ですね。どうして人が少ないのか不思議ですよ」と言っていました。それで、私も「ホントにそうですね。歩いていて感動するくらいでしたよ」と言いました。

山頂はどうだったか訊いたら、「四方に眺望が拓けていていいですよ」「ただ、登りがきついですね。私はザックをデポして登ったのですが、デポしてよかったと思いましたよ」と言っていました。

「そうですか。じゃあ、私は巻道を利用しようかな」と言ったら、「エッ、巻道があるんですか?」と訊くのです。
「そうですよ。そこの小屋の横の道が巻道なんですよ」
「そうだったんだ」

山頂へは避難小屋の裏から直登する道と小屋の横から巻く道があります。ただ、巻道はやや遠回りになるし、やはり山頂直下に急登があります。

直登は、南側から登って南東の瘤を経由し、山頂のドッケに登ります。一方、巻道は、西に巻き西側の瘤を経由して登ることになります。巻道は酉谷山から下って来る縦走路と合流するので、短い距離ですが長沢背稜縦走の雰囲気を味わうことができます。私は、巻道を選択したことで、雲取山から長沢背稜を歩きたいという思いをあたらめて強くしたのでした。

三ツドッケについて、私の奥多摩歩きのバイブルと言ってもいい『奥多摩 山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)のなかで、著者の山田哲哉氏は次のように書いていました。尚、文中のハナド岩というのは、一杯水避難小屋から長沢背稜を2キロ弱雲取山方面に登ったところにある眺望のすぐれた岩です。今回は時間の都合で訪れることができませんでした。

  ハナド岩は岩峰でもなければピークをもたない展望台だ。地形図には露岩記号もない。その東に天目山、秩父側では三ツドッケと呼ばれるカラマツと広葉樹の明るい山頂がある。ドッケとは尖った峰の意味をもつ。南側・奥多摩の山からは2つの山頂しか見えないが、北側からは明瞭に3つの尖峰がきれいに並ぶのが見える。小川谷、ハナド岩、三ツドッケは、東日原から横スズ尾根をたどれば日帰りで往復は可能だが、奥多摩でも最奥に位置するため、縦走途中に立ち寄るのは容易ではない。それだけに、明るい眺めとは裏腹に、遠い、静かな独特の雰囲気をもっている。
(22章「最奥の展望台 ハナド岩」)


また、山田氏は、ヨコスズ尾根や一杯水避難小屋についても、『奥秩父 山、谷、峠そして人』(東京新聞)で、次のように書いていました。私は、雲取山から長沢背稜を歩いて仙元峠を通り、秩父(埼玉側)へ下りるための事前調査という目的もあって、前回は埼玉側から今回は奥多摩側から登ったのでした。私の足では、2泊して歩くようになるかも知れないので、一杯水避難小屋も見ておきたいという気持もありました。

   奥多摩への通路だったのが仙元峠だ。浦山ダムという巨大なアーチ式のダムが建設され、秩父側は生活の場としての雰囲気が失われてしまったが、 学校や寺もある大きな山間の集落が浦山奥にはあった。東日原のバス停から横スズ尾根を通り、一杯水避難小屋で三ツドッケ下に出て、初夏にはシロヤシオも咲く美しい尾根をたどったところが仙元峠だ。ここはいわゆる「峠」の形ではなく、 蕎麦粒山と並ぶ小高いピークで、山頂には浅間神社の小さな石の祠がある。ここから富士山が見えるためかもしれない。この仙元峠もかつては頻繁な人の行き来があり、現在の避難小屋のあるところは日原、浦山双方からの荷物を交換する場所だったという話を日原でうかがったこともある。いまは、奥多摩でも訪れる人の少ない静寂のブナやミズナラの美しい楽しい登山路だが、東日原から尾根上に出るまでの大きな標高差に丁寧にジグザグ道がつけられて歩きやすいのも、その名残かもしれない。


山頂に行ったら、朝バスで一緒だった男性がいました。「あれっ」と言ったら、「下調べが充分でなかったので、鷹ノ巣山が通行止めだというのを知らなくて、こっちに登って来たんですよ」と言っていました。どうやらバス停の先にある道から登ってきたみたいです。

男性は望遠鏡で四方の山を眺めていました。そして、「ここはいいですね」としきりに言っていました。

男性は下りる際、「昼ごはんは食べたんですか?」と訊くので、「途中でおにぎりを食べたんですが、ただ、ここでひとりで食べるのはちょっと淋しいので、下の避難小屋で食べようかなと思っています」と言ったら、「ああ、そうですね」と笑っていました。そして、「お先に」と言って下りて行きました。

帰りは直登コースを下りましたが、すぐ下で高齢の女性とすれ違いました。ハアハア息を弾ませながら「疲れました」と言っていました。

「もうそこが山頂ですよ」
「ああ、そうですか? やっと着いた」
「眺望がいいですよ。四方に広がっていますよ」
「ありがとうございます」
そう言って、さも嬉しそうな表情を浮かべていました。

70歳を優に越えているような年恰好ですが、そうやってひとりで山に登って来るなんて凄いなと思いました。バス停で声をかけられた女性もそうでしたが、なんだかすごく上品そうなもの言いをする女性でした。武蔵五日市駅のバス停で平気で割り込んで来る”おまかせ登山”のおばさんたちと違って、どこかインテリ臭が漂っているのでした。おばさんたちよりひとつ前の世代のハイカーのような感じです。

認知心理学が専門で、みずから登山を趣味にしている日本大学文理学部の巌島行雄教授は、PEAKSのインタビュー記事で、「ソロ登山の心理学」について、次のように言っていました。

PEAKS
なぜ、人はひとりで山を歩くのか? ソロ登山の心理学

  (引用者注:ソロ登山の人は)いろいろ自分で考えて行動できるタイプの人ですね。そういった行動力のある人のほうがむしろ多いように感じるんです。ソロ登山はすべてをひとりでこなさなくてはならないですよね。だからそういう人のほうが向いているし、もっといえばそういう人でないとできない。


(略)ひとりで登っていれば単純に自由度が高いですから。歩くときに人にペースを合わせなくてもいいとか、日程が自由になるというのも現実的に大きな利点ですよね。

ただ、自由は責任とセットなので、ソロ登山は自由なぶん、責任も大きい。登山は自己責任というけれど、ソロ登山はそれがいちばんはっきりしている。だから、リスクや責任を負ってでも自由をとりたいという人がソロ登山を選ぶのではないでしょうか。それが自立ということかもしれません。


(略)ひとりで登っていると話したり相談したりする相手がいないから、四六時中、山に神経を向けていますからね。

分岐が出てきたらどっちに行くか考えて決めなくてはいけないし、雲が出てきたら天気のことを気にかけないといけないし。もちろんどうしたらいいか聞く相手はいないから、自然と状況を一所懸命観察しますよね。それが結果的に山から得られる体験を深くし、豊かにするということなんだと思います。


ミッツドッケの登山口には、単独で登ったまま行方不明になった二人の男性の情報提供を求めるチラシが貼られていたそうですが、もう撤去されたのか、私は気付きませんでした。また、途中の巻道でも滑落事故が発生しているみたいで、注意喚起の表示もありました。ネットでも、ミッツドッケは登山者が少ない山なので、単独で登るのは避けた方がいい、と書いているブログがありました。

ミッツドッケに限らず、リスクの大きい単独行は警察から推奨されていませんが、しかし、自分のことを考えても巌島教授の話は腑に落ちます。ひとりで山に登る魅力はたしかにあるのです。と言うか、私の場合、ひとりのほかは考えられない。

下りは、思ったよりはやく、2時間弱でバス停に着きました。登山計画に利用している登山アプリより1時間はやく着きました。そのため、16時台のバスに間に合うことができました。

帰りは、来たときと同じように、奥多摩駅から青梅線で青梅駅、青梅駅から中央線で立川駅、立川駅から南武線で武蔵小杉駅、武蔵小杉駅から東横線で最寄り駅に帰りました。最寄り駅に着いたときは20時を越えていました。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

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東日原バス停

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登山口
表示を右折する

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斜面の上の狭い道を登る

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登山道沿いにあった廃屋

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最初は樹林帯の中の道

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金網の先は、奥多摩工業の採掘場

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アンテナ
標高1200メートルくらい

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樹林帯をぬけて巻道がはじまった
滝入ノ峰ピークの下あたり

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「通行注意」の札もあります。滑落事故が発生したので、こういう札も下げられたのでしょう。

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痩せ尾根
このあたりは風が強くて寒かった

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右下は断崖

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尾根の上にあった穴だらけの木
キツツキの仕業?

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ヨコスズ尾根の背中を登る

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鳥の巣のように見えますが、ヤドリギ(宿り木)です。

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今度は西側の巻道に変わります。

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一杯水避難小屋

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避難小屋の内部

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巻道を選択して山頂へ

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長沢背稜の縦走路との分岐(合流地点)

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山頂に向かう道

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最初の瘤の登り

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次(山頂)の瘤の登り

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山頂が見えてきた

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山頂標識
もともと三ツドッケは雑木に覆われて眺望がよくなかったそうですが、無断伐採で今のような眺望になったとか。三ツドッケと言えば、一杯水避難小屋の強盗と山頂の無断伐採が有名です。
ちなみに、無断伐採した男性は、自然保護法違反で30万円の罰金を払ったそうです。下記は、その男性と山頂で会ったというブログの記事です。
https://jetstream777.blog.ss-blog.jp/2013-03-03

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三等三角点

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奥多摩方面
正面に見えるのは大山や御前山

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埼玉(奥武蔵)方面
中央の尖った山が、一杯水避難小屋から行ける蕎麦粒山

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奥秩父(雲取)方面
奥に見えるのは、天祖山や小雲取山

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もう一度山頂の様子
無断伐採から既に15年近く経っていますので、この眺望が見られるのもあと15年から20年くらいでしょう。

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下る際、このような南東側の瘤(ドッケ)への登り返しがありました。

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避難小屋への下り

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避難小屋をあとにして尾根を下ります。

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横が切れた巻道をもう一度

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同上

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同上

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東日原の集落が見えてきた

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奥多摩駅
2021.03.11 Thu l l top ▲
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池袋駅~飯能駅~名郷バス停~【蕨山】~【藤棚山】~【大ヨケの頭】~さわらびの湯(河又・名栗湖入口バス停)~飯能駅~練馬駅~自由が丘駅

※山行時間:約.6.5時間(休憩等含む)
※山行距離:約11.5キロ
※累計標高差:登り960m下り1025m
※山行歩数:約21,000歩
※交通費:3,998円


一昨日(3月4日)、蕨山に登りました。蕨山と言えば、このブログを読んでいただければわかると思いますが、昨年の8月に手痛い思いをしたいわくつきの山です。今回は言うなればリベンジのようなものです。

飯能駅から前回と同じ6時55分発「名郷」行きのバスに乗りました。電車から降りてそのまま駅前のバス停に直行しましたが、既に3人のハイカーが並んでいました。しかし、あとからおばさんたちのグループがやって来て、あっという間に20人くらい列が伸びました。通勤客も入れると最終的には30人近くが並んでいたと思います。座席がちょうど埋まるくらいの人数でした。途中のバス停から乗った人たちの中には立っている人もいました。

しかし、ハイカーの大半は棒ノ折山の登山口がある「河又・名栗湖入口」で降車し、以後、終点の「名郷」までは最後部の座席に座っていた私と高齢のハイカーの2人だけになりました。

「名郷」に降りると、高齢のハイカーは蕨山の登山口とは逆方向のキャンプ場の方に歩き始めました。蕨山ではなく武川岳に登るんだなと思いました。

橋を渡り、林道を20分進むと林道の突き当りになります。そこから右の土手を下り、小さな沢を渡ると登山道が始まります。前回登ったあとに台風や大雨があったからなのか、登山道の状況も若干変わっている気がしました。登山道横の斜面にも、至るところに流されてきたとおぼしき大量の倒木が横たわっていました。

最初は樹林帯の中をひたすら登り続けます。そして、尾根に出ると今度は痩せ尾根や岩場に変わります。蕨山がきついのは、何度も同じような急登や岩場が出てくることです。まるでデジャブを見ているように同じような道が目の前に現れるのでした。

蕨山の標高は1044メートルで、実質的な山頂扱いになっている展望台は1033メートルです。名郷のバス停の標高が326メートルですから、単純標高差は700メートルちょっとです。それだけを見ると、チョロいと思うかもしれませんが、山というのは、山の形状や登山道の状況等により、数字とは違う難易度やきつさがあるのです。

蕨山に関しても、ネットには「あっと言う間に着いた」「特に問題ない」というような感想や、信じられないくらい俊足のコースタイムの山行記録があります。今やネットはそういった「オレ凄いだろ」式の自己誇示の場になっているのです。山小屋や山頂で遭遇するベテランハイカーの大言壮語が、そのままネットに移ってきた感じです。

ヤマケイオンラインに、「ネットでみかける“スゴイ”登山記録。あなたは、どう感じますか?」という、読者の質問に山田哲哉氏が答えた記事がありました。質問自体は、北アルプス?のような高山の冬季の山行に関したものですが、そこには、ファクトチェックされることのないネット特有のウソとハッタリだけでなく、現在の登山が抱えている深刻な問題も示されているように思いました。

ヤマケイオンライン
ネットでみかける“スゴイ”登山記録。あなたは、どう感じますか?

YouTubeや5ちゃんねるの登山スレなどによく見られる「凄い」「凄い」という煽りは論外としても、今の登山について、山田哲哉氏は、「“登山の常識”は大きく変わったどころか、“登山の常識”なんて言葉は、なくなったに等しいのが現在の日本の登山界です」と書いていました。たしかに身近にあった地域や職場の山岳会や登山サークルなどもまったく過去のものになりました。もちろん、そういった組織が持つ体育会的な体質がウザいと思われたのも事実ですが、しかし一方で、山岳会や同好会で知識や技術を学び、それが継承される”功”の一面もあったのです。そういった場所がなくなり、”登山の常識”や自然に対する畏敬の念や山に登ることの謙虚さが、登山者から失われたのは事実でしょう。

マラソンで記録を競っているかのようなコースタイム至上主義が、ネットに投稿される山行記録の”盛り”につながるのは当然でしょう。それどころか、そもそも5ちゃんねるような掲示板は、実際に山に登ってない”なりすまし登山者(エア登山者)”が多いという話さえあります。なりすまして何が面白いんだろうと思いますが、そういったほとんどビョーキのような人間たちによってまことしやかに山が語られているのです。たとえば、前も書きましたが、「貧脚」とか「ナマポ」などということばを使って山を語っているのは間違いなく”なりすまし登山者”です。山に非日常性や自己克己を求めて登っている人間は、そんな歪んだ日常的な視点で同じ登山者を見たりはしません。そもそもそんな悪意でものを見る余裕などありません。ネットで語られる山と、実際の山は似て非なるものなのです。

睡眠不足と酷暑でヘトヘトだった前回と比べると、今回は1時間早く展望台に着きました。前回が如何に無謀だったかがわかります。途中、誰にも会わず、展望台に行っても人影はありませんでした。そして、ベンチに座って、おにぎりを食べていたら、何と武川岳に行ったと思っていた高齢のハイカーが別の道から姿を現したのでした。

「武川岳に行ったのかと思っていましたよ。どこから登ってきたのですか?」と訊いたら、「鳥首峠の方から登って来ました」と言うのです。鳥首峠というのは、名郷と秩父の間にある峠で、私が歩いたコースに比べると、かなり迂回するコースです。

「名郷から登って来たんですか?」と訊かれたので、「そうです」と答えたら、「きつかったしょう?」と言われました。

「そうですね。何度も同じような道が出て来るので嫌になりますね」
「ああ、たしかに」と言って笑っていました。

そのハイカーとは下りでも一緒でした。私の方が先に下りたのですが、途中で追い抜かれました。昔から山を歩いている熟達者のようで、年齢を感じさせないような足さばきでした。また、帰りのバスでも一緒でした。

下りは、さわらびの湯まで7キロの道を歩きましたが、初めてだったということもあって、実際の距離以上に長く感じられました。太腿の筋肉が悲鳴をあげているのがわかりました。

大ヨケの頭というピークから下ると、林道を横切り金比羅尾根を登るのですが、そこに差し掛かったら人の話し声が聞こえてきました。見ると、軽トラが停まっていました。近くに行くと、軽トラから林道脇に木製の柱が数本降ろされているのが見えました。

余談ですが、この大ヨケの頭(おおよけのあたま)というのはどういう意味なんだろうと思って、ネットで調べたのですが、どこにも謂れが載っていませんでした。「ヨケ」というのは、「除け」のことかもしれません。魔除けとか悪除けとかいった意味があるのかもと勝手に想像しました。

林道脇に置かれている柱には見覚えがありました。というのも、登る途中に何度も見かけたからです。蕨山の指導標はどれも古く、中には文字が消えかかっているものもあります。そんな指導標の横に真新しい柱が置かれていたのです。その柱には、「飯能市」という銘板が取り付けられていました。

指導標を新しく取り替えるために、とりあえず柱だけを先に運んでいるのだと思います。ということは、指導標に刻まれている「名栗村」の文字はもう見られなくなるのです。

軽トラが走り去ったあとには、作業服姿の男性が3人残っていました。ひとりは20代くらいで、あとのふたりは40代くらいの年格好です。

すると、若い男性が柱を肩に担ぎ、片手でそれを支えながら登山道を登り始めたのです。そして、次の男性も同様にあとに続いて歩き始めました。残りの男性は、ロープで柱を縛っています。どうするのかと思ったら、柱を背負子に縛り付けていました。背負子で運ぶみたいです。

「ご苦労さまです。上の方で柱が置かれているのを見て、どうやって運んでいるんだろうと思っていたところだったんですよ」
「ハハハ、こんな原始的な方法なんです」
「山頂に近いところなんか、大変だったでしょ? やはり担いで登ったんですか?」
「そうですよ、あそこは根性で登りました」と言ってました。

そのあと、先の方で休憩していたので、足を止めて暫く話をしました。市から委託された建設会社の仕事で来ているそうですが、本業は林業だと言ってました。

指導標が設置された場所の写真と地図が印刷された紙を持っていました。また、他に、昭文社の山と高原地図とコンパスも持っていました。それらで場所を確認しながら運んでいるそうです。ただ、中には作業道と登山道の識別がつかずわかりづらいところもあると言っていました。私たちと一緒なのです。

それにしても、凄い体力です。やはり、山のプロは違うなと思いました。彼らに比べれば、私などは恥ずかしいくらいのヘタレです。

「プライベートで山登りはするんですか?」と訊いたら、「しないですね」と言われました。質問したあと、愚問だったかなと思いました。

逆に、「よく山に登るんですか?」と訊かれました。「そうですね。月に2〜3回登っていますね」と答えたら、「凄いな」と言われました。そして、「そうやって頻繁に山に登る山の魅力ってなんですか?」と質問されました。

「よく言われることですが、やはり、忘れることができるってことですかね」
「忘れることができる?」
「そうです。日常生活では、嫌なことや憂鬱なことが沢山あるじゃないですか。楽しいことよりむしろそっちの方がはるかに多いでしょ。でも、山に来るとそれを忘れることができるんですよ。空っぽになれるんです」
そう言うと、「なるほどな。奥が深いな」と言ってました。しかし、それは決して皮肉で言っているような感じではありませんでした。

山に行くと、下刈りや枝打ちをしてない山も多くあります。その話をしたら、枝打ちをしているのは役所から依頼された山が大半で、個人所有の山は放置されたものが多いと言ってました。どうしてかと言えば、木を売っても維持管理の費用がペイしないからだそうです。つまり、赤字になるからです。しかも、枝打ちをしなかったら木の商品価値はどんどん下がるので(「二足三文になる」と言ってました)、枝打ちしない山はそのまま放置するしかないのだそうです。

私の祖父は晩年、山のブローカーのような仕事をしていました。祖父は私が高校生のときに亡くなったので詳しくは知らないのですが、木が成長した山を買い、木を切り出してお金に替えるとその山を転売して、また別の山を買うというような仕事をしていたみたいです。自分で切り出す手間を省いて早くお金に換えたい持ち主と交渉して、山を買い(買いたたき)自分たちで切り出して利益を得ていたのでしょう。

それ以外にも、自分の山を持っていて、私の誕生記念とか小学校入学記念とかに植えた木を見せられたことがありました。でも、私はまったく興味がなかったので、祖父と山に行ったのは一度か二度あるかどうかです。

高校時代、休みで実家に帰っていたとき、祖父が亡くなった直後だったということもあって、ふと祖父が自分のために植えた木がどうなったか見に行ってみようとひとりで出かけたことがありました。しかし、途中の道がきつくて引き返してしまいました。その頃からヘタレだったのです。

そうやって林業が本職だという人たちの話を聞いていたら、なんだか懐かしいような切ないような気持になり、ちょっとしんみりしました。

旧金毘羅神社の跡地から名栗湖ネイチャートレイルという自然探索路を下ると、さわらびの湯の前にある墓地の横に出ました。そこが下山口でした。バスの時刻表を見ると、次のバスは30分後でした。それで、「河又・名栗湖入口」まで歩いて、屋根付きのバス停の中でバスを待ちました。

飯能駅からは西武池袋線の電車に乗り、途中の練馬駅で元町・中華街行きの地下鉄副都心線の直通電車に乗り換えました。いつの間にか眠り込み、渋谷を過ぎて東横線に入った頃に目を覚ましたら、目の前は帰宅する通勤客で立錐の余地もないほど密になっていました。

これが緊急事態宣言下の光景?と思いました。かく言う私も、不要不急の外出を控えるようにという呼びかけを無視して、こうして山に出かけているのです。深夜、繁華街を通ると、時間短縮の要請を無視してヤミ営業している風俗店や飲食店もめずらしくありません。看板の灯りを消した店の物陰に客引きが立ち、夜の街を徘徊する”不心得者”に声をかけています。にもかかわらず、新規感染者数は、(下げ止まったとは言うものの)最初の頃に比べると目を見張るように減少しているのです。

自粛なんかしてないのに、新規感染者数は1500人や2000人から最近は300人前後にまで激減しているのでした。緊急事態宣言の効果だなどと言いながら、さらに2週間延長することが決定したのでした。しかし、その前に、自粛しなくても新規感染者数が減った不思議な現象を説明する方が先ではないでしょうか。

感染防止策は、もはや科学ではなく政治なのです。オリンピック開催という政治の都合でボロ隠しのように行われているにすぎないのです。命令に従わない国民には罰を与えて自粛を強制しながら、オリンピックは開催する。こんなでたらめな政府を許すなら、それこそ主権者の沽券にかかわるでしょう。

同時に、歓送迎会も花見も卒業旅行も自粛せよと呼びかける一方で、メディアも野党も、そして専門家と称する科学者たちも、誰もオリンピックを中止せよと言わない不思議も考えないわけにはいきません。本来ならオリンピックを中止して、この際徹底的に感染防止に務めるべきだと言ってもおかしくないのに、どうして言わないのだろうと思います。歓送迎会や花見や卒業旅行より、オリンピックを中止することが先決でしょう。まず隗より始めよではないですが、まずそこから始めるべきでしょう。

私が乗った直通電車は通勤特急でしたので、もう一度自由が丘で各駅停車に乗り換えなければなりませんでした。最寄り駅に着いたときは19時をまわっていました。


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登山口までの林道
杉の枝で埋まっています。

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林道の突き当り

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右側の土手を下りる

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最初はひたすら樹林帯の中の急登を登ります。

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古い指導標

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逆光で見えませんが、尾根に出ました。約3分の1の地点。

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上の指導標を少し登った地点から撮り直した

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やや痩せた尾根になりました。

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こういった指導標ももう見納めです。

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手前が前武川岳と武川岳、奥が武甲山だと思います。

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痩せ尾根

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最初の岩場

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遠くに名郷の集落
恥ずかしいのですが、カメラをフルオートに設定していたので、ピントが前の木になっています。

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次の岩場
こういった岩をがしがし登って行きます。と言って、そんなに危険ではありません(下りはともかく、登りの滑落はほとんどあり得ない)。

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前武川岳と武川岳のアップ

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次の痩せ尾根

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危険注意の標識

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落石注意の標識

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次の岩場

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同上

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稜線に出た

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古い指導標の横に置かれた新しい柱

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目の前に展望台

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展望台の様子

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前回はこのベンチで横になっていました。

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山頂標識(と言えるのかどうか)

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はるか先に見えるのは、武尊山(ほたかやま)や榛名山など群馬の山です。

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河又に向けて下山

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ここにも新しい柱

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藤棚山
男性のハイカーがひとり、ベンチで昼食を食べていました。

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登山道に煙草のポイ捨て
展望台にも、吸い殻や包装紙が捨てられていました。

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大ヨケの頭

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こうやって柱を運んでいるのです。

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金毘羅神社跡
下記の看板に書いていますが、ここも焼失したようです。原因はタバコか焚火なのか。いづれにしても火の不始末なのでしょう。

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鳥居だけが残っていた

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指導標が「河又」から「さわらびの湯」に変わった(どっちも同じです)

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現在の金毘羅神社

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金毘羅神社の謂れ

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さわらびの湯の入口

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墓地が下山口
下りてきたとき、「参ったな」と思いました。
そう言えば、棒ノ折山の滝ノ平尾根ルートも民家のお墓の横に下りて来ます。
奥多摩などでも、お墓の横が登山口というのは結構多いのです。


関連記事:
蕨山
2021.03.06 Sat l l top ▲
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新宿駅~武蔵五日市駅~浅間尾根登山口バス停~【浅間嶺】~払沢の滝入口バス停~武蔵五日市駅~拝島駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約5.5時間(休憩等含む)
※山行距離:約12キロ
※累計標高差:919m(登り)1250m(下り)
※山行歩数:約21,000歩
※交通費:2,036円


一昨日(20日)の土曜日、奥多摩の浅間嶺に登りました。当初、長沢背稜の三ツドッケ(天目山)に登る予定でしたが、前夜、あまり寝てなかったので、慎重を期して「予備」の浅間嶺に行くことにしました。それで、今回のホリデー快速では、8号車から10号車の「あきかわ号」に乗りました。

春を思わせるような好天が予報されていましたので、ハイカーも多いのではないかと思いましたが、意外にも車内はガラガラでした。

ちなみに、三ツドッケは、奥多摩駅から日原街道を行った東日原のバス停に登山口があります。一昨年の台風19号の被害で、1年以上運休していた東日原のバス便が昨年の12月にやっと開通したので、川苔山の百尋ノ滝ルートなどとともに登山も可能になったのでした(ただし、鷹ノ巣山の稲村岩尾根ルートは登山道の被害が甚大で未だに再開されていません)。三ツドッケは、片道(登り)だけで6キロ近くありますので、もう少し日が長くなってから登ろうと思っています。

いつものように新宿駅6時46分発のホリデー快速「あきかわ号」に乗ると、終点の武蔵五日市駅には8時ちょっと過ぎに着きます。しかし、目的の数馬行きのバスは9時しかなく、1時間近く待たなければなりません。それで、バス停のベンチで朝食のおにぎりを食べてバスを待ちました。出発時間が近くなるとハイカーの行列ができましたが、もちろん私が一番先頭でした。密を避けるためか、バスは臨時便も出ましたが、二台目のバスには半分も乗っていませんでした。私たちが乗った先頭のバスも、全員が座ることができました。

浅間嶺は二度目ですが、今回は檜原街道の「浅間尾根登山口」のバス停から登って、帰りは「払沢の滝入口」のバス停まで歩くことにしました。距離は12キロくらいあります。山を歩く持久力を付けるためには、日頃からできる限り長い距離を歩くことが大事だということに遅ればせながら気付いたのでした。

バス停から尾根の上までは1時間弱でした。この程度だと休憩もなしに登ることができます。それから尾根道を歩いて浅間嶺の展望台まで1時間半かかりました。途中で写真を撮ったり、眺望があるところではしばらく足を止めて景色を堪能したりと、マイペースで歩きましたが、それでも私が利用している登山アプリのコースタイムと比べると30分はやく着きました。今回はそれほどバテた感じはありませんでした。と言うか、現金なもので、逆に物足りないくらいでした。

こうやって奥多摩の山に通っていると、最近は奥多摩の山が身近に感じられ、愛着を覚えるようになりました。このところ憂鬱な気分が続いていましたので、山に行くと山に慰められているような気がします。山は、たしかに嫌なことも憂鬱なことも忘れさせてくれるのでした。

登る途中、私としてはめずらしく追い抜いた中年のカップルがいましたが(イチャイチャしていたので夫婦ではないのかもしれない)、尾根に上がって眺望の開けたところで山を眺めていたら、目の前をさっさと通り過ぎて行きました。いらぬお節介かもしれませんが、もっと山を楽しめばいいのにと思いました。

展望台に行くと、大声でバカ話をしながらインスタントラーメンを食べているおっさんのグループがいました。ラーメンを食べたあとはみんなで煙草をプカプカ吸っていました。いつも思うのですが、ホントにインスタントラーメンは一滴も残さずに全て平らげているのでしょうか。バス待ちの列に平気で割り込んだり、鼻をかんだティッシュを登山道の脇に捨てたりするような日頃のマナーを考えると、食べ残したものを律義に持ち帰っているとはとても思えないのです。

山でカツ丼を作っているユーチューバーの動画を観たことがありますが、ネットではそういった軽薄な登山がまことしやかに流通しているのです。

登山雑誌とネットが、山メシなるもの(と言ってもインスタント食品を温めるだけ)やコースタイム至上主義のような軽薄な登山を助長させたと言っても過言ではないでしょう。そうやってアウトドア用品のあらたな市場を開拓し、少しでも多くの広告を集めたいという切実な事情があるからでしょう。

登山雑誌と言えば聞こえはいいですが、『山と渓谷』が「山と広告」とヤユされるように、今や登山雑誌もカタログ雑誌と化しています。特集記事も、毎年使いまわされたものばかりで、余程の物好きか山のビギナーでない限りわざわざ買って読むほどの価値はありません。雑誌の販売より広告収入に依存したカタログ雑誌の休刊のニュースが女性誌で相次いでいますが、登山雑誌も早晩同じ運命を辿るのは目に見えているように思います。もっとも老舗と言われる登山雑誌は、既にいづれも売却の憂き目に遭っており、今後、広告収入の減少によって、譲渡先から足手まとい扱いされリストラされる可能性も大きいでしょう。身も蓋もない資本の論理を山に持ち込んだのは彼らなのですから、自業自得とも言えるのです。結局、生き残るのは、京都大学山岳部の有志によって創刊されたという輝かしい歴史を持つにもかかわらず、東京新聞からモンベルに譲渡され、金をもうけたら”文化人風な能書き”を垂れたい(間違っても順序は逆ではない)成金会長の”自己満誌”のようになっている『岳人』だけかもしれません。

浅間嶺のウリは、昔の奥多摩を彷彿とさせるような眺望です。前も歩いた人里(へんぼり)峠と浅間嶺の間に伐採地があり、そこからの眺望も見事でしたが、浅間嶺から時坂(とっさか)峠に下る間にもあらたに伐採地ができていました。そのあたらしい伐採地からも目の前に御前山や大岳山がそびえ、さらには三頭山やその奥に雲取山や飛龍山も見渡せました。また、東の端には先日登った馬頭刈尾根から続く鋸尾根の上にポツンと飛び出した鋸山の特徴のある山容も見ることができました。

途中、北側の巻き道には残雪が凍結した箇所があり、石尾根のときと同じように山側の足跡が少ない斜面の上を歩きました。しばらく行くと、下から登って来る若い男性とすれ違いましたが、足元を見るとスニーカーでした。たしかに浅間嶺はハイキングと言ってもいいいうような行程ではあるものの、凍結した道をスニーカーで登るのはちょっときびしいのではないかと思いましたが、山にひとりで来る若者はコミュ障みたいな男の子が多いので(ホントに)、声をかけずらいのです。昨日はひとりでブツブツ言いながら登っている20~30代の青年もいました。

下山地の「払沢の滝入口」のバス停に着いたのは、15時過ぎでした。バス停の前にある有名豆腐店の前では、滝見物の観光客の行列ができていました。その行列を眺めながらバスを待ちました。

帰りはいつものように武蔵五日市駅から拝島駅、拝島駅から立川駅、立川駅から南武線で武蔵小杉駅、武蔵小杉駅からは東横線で最寄り駅まで帰りました。武蔵小杉までの車内ではほとんど寝ていました。最寄り駅に着いたときは、19時近くになっていました。

追記:
栃木県足利市の山火事は6日目(25日現在)になりましたが、鎮火の見通しはまったく立ってないそうです。最初に火の手が上がったのは、両崖山山頂近くのベンチなどが設置されているハイキングコース内の休憩場所だそうで、山メシを作るためのバーナーの火が飛び火したか、あるいは煙草のポイ捨てが原因ではないかと言われているみたいです。さもありなんと思いました。特に今の時期は、落ち葉(枯葉)が多いので、風が強いと瞬く間に燃え広がっていくでしょう。
もちろん、火事だけではありません。食べ残したものを山に捨てると、熊が人間の食べ物に興味を持ち、人間に接近してくるようになると散々警告されてきました。しかし、一部のハイカーには馬の耳に念仏なのでした。食べ残したものを山に捨てるのは、熊などの野生動物に迷惑をかけることになるのだという最低限の認識さえ持てないハイカーも少なくないのです。
しかも、こういった軽薄な登山を登山雑誌やネットが「今風の登山スタイル」であるかのように喧伝しているのです。テン泊だと、テン場のような管理された場所で火器を使うので、一応マナーの周知もできますが、日帰りの場合、どこでも野放図に火を使うことになります。足利のような山火事がどこでも起こり得ることだけはたしかでしょう。前も書きましたが、鳩ノ巣駅の待合室で焚火をするようなとんでもない不心得者さえいることを忘れてはならないのです。


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浅間尾根登山口バス停(数馬方面の建物)
檜原街道沿いのバス停はこういった屋根付きが多く、バス待ちするハイカーにはありがたいです。
ここは前に反対側の笹尾根から下りたことがあります。
写真のバス停の上は、「中央区の森」になっています。

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檜原街道から林道に入り、橋を渡って進む

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上から橋を見る

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林道を左折して民宿(看板)の方へ進む

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登山道
とても歩きやすい

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同上

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同上

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同上

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尾根の上に着いた(数馬分岐)

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以後、尾根道を歩く

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ところどころで御前山が見える

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チェックポイントの「サル石」
猿の手形が付いているとかなんとか言われている石

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こういった尾根道を尾根のピーク(浅間嶺)に向けてひたすら歩く

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同上

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浅間尾根の尾根道も、昔は村人が峠越えするための生活道路だったので、至るところに地蔵像や古い道標や小さな祠があります。
山に行ったときだけですが、ひとつひとつお賽銭を上げて手を合わせています。そのためお賽銭用の10円玉を忘れずに持って行くようにしています。

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少し崩落した箇所もある

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朽ちた橋
通行注意の札が下げられていた

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人里峠の道標
前回はここに登ってきました。

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最初の伐採地
御前山とその奥の小さく映っているのが雲取山と飛龍山

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大岳山
大岳山の山容は特徴があるのですぐわかります。

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スマホで撮影
カメラの露出を間違えただけなのにカメラが壊れたと思って、スマホで撮りました。

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巻き道と尾根道の分岐標
前回は巻き道に行ったので、今回は尾根道を選択

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ここがホントの山頂?

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山頂の祠は壊れていた
でも、手を合わせました。

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休憩所

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休憩所の建物の向こうに大岳山

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休憩所の裏の坂を登ると展望台

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山頂標識は展望台にある

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展望台からの眺望

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同上

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払沢の滝に向けて下る
このあたりは霜が溶けてドロドロでした。転ばないように慎重に歩きました。

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あたらしい伐採地
下で作業をしていた

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鋸尾根と鋸山(左側の尖っている山)

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石ころだらけの沢沿いの道

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前回も紹介しましたが、「ぽつんと一軒家」に出た蕎麦屋
現在は経営者が変わっているみたいです(11月~4月まで休業)。

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これも前回も紹介しましたが、「甲州古道」の表示

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峠の茶屋(閉店)の前からの眺望

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車両通行止めの林道を歩いて時坂峠に向かう

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このような注意書きもありましたが、鎖を外して入って来たのか、中年の男性が運転する一般車両が走って来たのでびっくりしました。また、時坂峠では、普通の恰好をしたお母さんと小さい女の子が登って来たので、それにもびっくりしました。

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時坂峠からの下り

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前回台風で崩落していた箇所に新しく橋が架けられていました。

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集落のすぐ上の道
柚子が沢山落ちていました。
黄色の花も至るところに咲いていました(あとで福寿草だと知った)。

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「払沢の滝入口」バス停
2021.02.22 Mon l l top ▲
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新宿駅~奥多摩駅~水根バス停~【六ッ石山】~石尾根縦走路~奥多摩駅~青梅駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約7.5時間(休憩等含む)
※山行距離:約16キロ
※標高差:960m(登り)1140m(下り)
※山行歩数:約29,000歩
※交通費:2,713円


一昨日 おととい(6日)の土曜日、奥多摩の六ッ石山(1478メートル)に登りました。六ッ石山の水根ルートも、奥多摩三大急登に数えられる急登です。六ッ石山には去年の3月にも登っていますので、これで二度目です。

いつものように、新宿駅から6時45分発のホリデー快速おくたま号に乗って奥多摩駅に向かいました。乗客は前回の本仁田山のときより多く、座席がほぼ埋まるくらいでした。それでも通勤電車並みに混雑するコロナ前に比べると、半分くらいです。

奥多摩駅に着いて駅前のバス停に向かうと、既に長蛇の列でした。どうやら定時のバスとは別に臨時バスが出るみたいです。私も列の後ろに並びました。水根のバス停までは15分くらいですが、バスの中は超満員で、乗車口のステップの上にも乗客が立っていました。普通のバスと違って乗客がそれぞれ大きなザックを持っているので、奥の方にいると、途中で降りるのが大変です。それで、降りやすいように、前の降り口に近いところに立ちました。

水根で降りたのは二人だけでした。しかし、水根は六ッ石山だけでなく鷹ノ巣山の水根沢ルートの登山口でもあるので、歩いて5分くらいしか離れてないひとつ先の奥多摩湖のバス停で降りて、水根まで歩いて来るハイカーも多くいました。しかも、現在、水根のバス停の前にあるトイレが建て替え中で利用できないため、よけい奥多摩湖で降りる人が多いみたいです。

水根のバス停からは車道を渡って脇の林道を登ります。二度目なので勝手知ったという感じで登って行きました。既に隣の奥多摩湖のバス停からも次々にハイカーがやって来て林道を登り始めていました。

鷹ノ巣山の水根沢ルートの道と岐れ、さらに右の方へ林道を登って行くと、民家の脇に手すりの付いた登り口が見えました。バス停から15分くらいです。

登山口に入ると、さっそく樹林帯の中の九十九折の道がはじまります。10分くらい歩くと、産土(うぶすな)神社の鳥居と祠が目の上に現れました。去年登ったときはピストンでしたので、登るときと下りのときに産土神社で手を合わせましたが、今回は山頂から奥多摩駅へ石尾根を縦走するので、手を合わせるのは一回きりです。いつものように、登山の安全を祈り、お賽銭をあげて柏手を打ちました。

これから先には、風の神土(かぜのかみつち)とトオノクボの二つのチェックポイントがあります。トオノクボまではずっと急登が続きます。特に、前回は風の神土・トオノクボ間が一番きつかった記憶があります。

しかし、今回は、タイム的には順調でした(それでも一人に追い抜かれたけど)。スタートの時間は、前回とほぼ同じだったのですが、30分くらい早いペースで登っていました。

しかも、急登はトオノクボまでで、トオノクボからは防火帯の広い道になり、登りもなだらかになります。それまでの急登と比べると別世界のようで、あれよあれよと言う間に山頂に着いた感じでした。このまま行けば、去年より30分はやく山頂に到着するはずでした。

ところが、防火帯に入ると途端にペースが落ちて、足がまったく前に進まなくなったのでした。去年はあれほど急登から解放されてルンルン気分だったのに、まるで悪魔に取りつかれたみたいでした。太腿の筋肉が痙攣を起こし、挙句の果てには踵の靴擦れが我慢できないくらい痛くなりました。それで、雪の上にしゃがみ込んで、靴と靴下を脱ぎ、持参したマメ用のパットを貼りました。パットのおかげで靴擦れは緩和しましたが、痙攣は間断なく続きました。

結局、トオノクボから山頂まで、去年と比べて30分よけいかかりました。そのため、到着時間は去年とまったく同じでした。

どうして今年は後半にあんなにバテてしまったのか。つらつら考えるに、いわゆるシャリバテだったような気がします。ダイエットをしているということもあって、前夜はコンビニのサンドイッチを食べただけで、朝はなにも食べてなかったのです。持って行ったのは、行動食がドーナツ1個で、昼食はミニクロワッサンの4個入りのパンでした。登る途中で食べたのは、ドーナツだけでした。おしっこも血尿が出ているんじゃないかと思うようなドロドロした濃い色で、あきらかに水分不足を示していました。

なんだか登山に対する慣れと惰性によって、杜撰な面が出ているように思います。私は、予備がないと不安症候群なので、非常に慎重な一面がある一方で(だから、なかなかステップアップできない)、始末の悪いことに杜撰な面もあるのです。たしかに登山でステップアップするには勇気が必要ですが、しかし、それと杜撰であるということはまったく別でしょう。

六ッ石山の山頂は、私のように六ッ石山を単独で登った人間より、隣の鷹ノ巣山から石尾根を下る途中に立ち寄るハイカーの方が多いくらいでした。しかも、20代~30代くらいの若い男性が多く、ほとんどがソロでした。夫婦やグループで登って来る人はまったくと言っていいほどいませんでした。

当日は春を思わせるような晴天でしたので、山頂からの眺望もこれ以上ないくらい恵まれました。午後になっても雲がかかることなく、どこまでも青空が広がっていました。

ただ山頂周辺はまだ雪が残っていました。六ッ石山の山頂にはベンチがないので、皆さん、残雪の上にシートを敷いて座っていました。私は、近くに座った70をすぎたとおぼしきベテランハイカーの男性と、お喋りをしながらパンを食べました。男性は、バーナーでお湯を沸かしてインスタントラーメンを食べていました。

男性とは、現天皇が皇太子時代に登った際に各地の山に作られたと噂されている「プリンスルート」について話が弾みました。中でも有名な新潟の平ヶ岳の「プリンスルート」には(このブログでも日の出山の記事で触れていますが)、男性は実際に登ったことがあると言っていました。

水根バス停から六ッ石山山頂までは4.7キロですが、これから歩く石尾根は10キロ以上あります。大体3時間くらいを予定しているのですが、私は日没にならないか心配でした。「大丈夫ですかね?」と訊いたら、「今日は快晴なので全然大丈夫ですよ」と言われました。

また、山頂あたりはまだ雪が残っているので、チェーンスパイクを装着しなくて大丈夫か訊いたら、「必要ないですよ」と言われました。しかし、そういった他人の言葉を信じた私が浅はかで、あとでチェーンスパイクを装着しなかったことを後悔しました。石尾根縦走路は北側に巻く道が多いのですが、北側の巻道には雪が残っていて、しかも踏み固められた雪がカチカチに凍っている箇所も多く、うっかり滑って転んだりしたら斜面に滑落する危険性があります。それで、なるべく踏み跡を避けて山側の雪の上を歩くようにしました。ところが、そのために、再び太腿の筋肉が痙攣しはじめたのでした。

下りの3時間は文字通りの苦行でした。別に道に迷うようなところはありませんでしたが、途中で歩けなくなり遭難するんじゃないかという不安が頭を掠めました。下まで下りて林道と合流すると集落が見えてきましたが、集落の家にしばらく休ませて貰うよう助けを求めようかと思ったくらいです。しかし、今のご時世では、それこそコロナの使徒みたいに忌み嫌われるだけでしょう。家の住民がキャーと叫びながら裸足で逃げ出すかもしれません。

それで、林道をショートカットした途中にあった神社の境内でしばらく休みました。その神社には、昨年だったか?熊が出没したそうです。

昨年の秋から、私はいわゆるガレージブランドのウルトラライトのザックを使っているのですが、一昨日はやたら腰が痛くてなりませんでした。腰ベルトがなく、全て肩で背負うようになっていますが、おそらくパッキングが下手なので、過重に偏りが生じて、それが背面の歪みになって腰に無用の負担を強いたのだと思います。片手でザックの底を少し持ち上げるようにすると、全然楽になりました。

靴擦れと痙攣と腰痛、まさに三重苦で踏んだり蹴ったりでした。ウルトラライトのザックを使うのはやめて、また前のザックに戻ろうと思いました。ウルトラライトのザックの場合、ザックだけ軽くしてもダメで、中身も軽くしなれば意味がないのです。たとえ日帰りでも、荷を軽くするために中身を削るというのは、やはり登山の装備としては本末転倒しているように思います。

予定どおり3時間かかって、午後4半近くに奥多摩駅に戻ってきました。まだ日没まで30分くらいありました。下りでは4人から抜かれましたが、皆さん、ホントにびっくりするくらい速足なのでした。と言って、私のペースが極端に遅いというわけではありません。いつも利用している登山アプリのコースタイムとほぼ同じくらいのペースです。

もちろん、私と違って彼らは健脚なのでしょう。体力があるということは、それだけ余裕を持って登山ができるという安全面でのメリットはたしかにあるかもしれません。しかし、一方で、過信が生まれ、それが無謀につながる懸念もあるように思います。実際に、山の遭難事例を見ると、下山時の転倒や滑落は道迷いに匹敵するくらい多いのです。ハイカーの構成比から言って、高齢者が多いのは当然ですが、しかし、20代や30代の若者もいないわけではありません。トレランや登山サイトの山行記録の影響なのか、一部にコースタイム至上主義のような風潮がありますが、そういった軽薄な風潮が滑落事故等のリスクを招来している面がないとは言えないでしょう。

まるで何かに急かされるように急ぎ足で下りて行く人たちを見ていると、なんだか電車が来てもないのに駅のエスカレーターを駆け下りて行くサラリーマンの姿が連想されてならないのでした。

奥多摩駅の前のベンチで30分くらい休憩して、いつものように奥多摩から青梅、青梅から立川、立川から南武線で武蔵小杉を経て、東横線で最寄り駅に帰りました。

ちなみに、スマホのアプリでは、一昨日の歩数は32000歩、歩行距離は22.85キロになっていました。


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奥多摩駅ホーム(スマホで撮影)

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駅前のバス停(スマホで撮影)

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車道を渡って右の林道に入る

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正面が鷹ノ巣山の水根沢ルート、右方面に進むと六ッ石山の登山口

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登山口

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産土神社

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神社の謂われ

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急登は続く

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風の神土

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さらにトウノクボまでの急登

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防火帯を過ぎると雪景色

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やっと山頂

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山頂標識

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山頂の様子

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南アルプスの間ノ岳や北岳?もかすかに見える

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山頂から石尾根分岐までの道

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三ノ木戸山分岐

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北側の巻き道は残雪

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北側を外れると、雪の代わりに落ち葉が膝近くまで積もっている

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石尾根縦走路の標識

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こういう危なっかしい橋もあった

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稲荷神社(チェックポイント)の鳥居

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やっと三ノ木戸林道と合流

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羽黒三田神社
ここで休んだ
2021.02.08 Mon l l top ▲
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新宿駅~奥多摩駅~【本仁田山】~鳩ノ巣駅~青梅駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約6.5時間(休憩等含む)
※山行距離:約8.5キロ
※標高差:875m
※山行歩数:約24,000歩
※交通費:2,776円


昨日(17日)の日曜日、本仁田山(ほにたやま・1224.5m)の大休場尾根(おおやすんばおね)に登りました。

大休場尾根は、山と渓谷社のガイドブックで、「涸沢と北穂高との標高差に匹敵する」と書かれているくらいの名にし負う急登で、奥多摩三大急登に数えられています。

尚、奥多摩の山で、平均勾配(斜度)が20度以上の急登は以下のとおりです。平均勾配というのは、標高差(m)÷距離(m)×100で出された数値(%)です。

本仁田山・大休場尾根 35.5度
鷹ノ巣山・稲村岩尾根 26.5度
六ッ石山・水根ルート 24.0度
天祖山・表参道 22.0度
御前山・大ブナ尾根 20.2度

出典:
徒然なる登山ブログ
奥多摩三大急登とは?

これを見ると、大休場尾根がダントツです。山頂までの距離が短い上に、緩やかな道がほとんどないので、平均勾配が大きくなるのでしょう。とにかく、最初から最後まで急登の連続でした。たとえば、三頭山のヌカザス尾根も急登ですが、平均勾配は17.1度でした。途中にゆるい勾配のところがあるからです。

日本山岳会奥多摩支部のグレーティングによれば、大休場尾根は、登山道グレードや技術力グレードは星2つでしたが、体力グレードは星4つでした。

大休場尾根は、地元では「鉄砲尾根」と呼ばれているそうです。そして、大休場尾根を登ることを「鉄砲登り」と言うのだとか。

距離は短いものの、急登による体力の消耗が激しいので、大休場尾根では何件かの遭難事故も発生しています。昨日も、登っていたら下から腰にカラビナやロープを下げた男性二人が登って来ました。ヘルメットを見ると、「警視庁」と書かれていました。「どうしたんですか?」と訊いたら、「ちょっと捜索しているんですよ」と言ってました。「この辺だよな」「どこかに引っかかるはずなんだけどな」なんて話していました。

また、やはりロープの束を肩から下げた地元の山岳会のメンバー?とおぼしき人たちが5~6人、登山道から斜面に下りていました。

最初は訓練なのかと思ったのですが、捜索だと言うのでびっくりしました。ただ、見た感じではあまり緊張感はなさそうでした。

小さな岩場を登っていたら、上から下りてきた先程の隊員から「あっ、コース外れていますよ」と言われました。たしかにロープがあったのですが、ロープがゆるんで地面に垂れていたので、そのまま登ったのでした。どうやらそれは通行止めのロープだったようです。

「ホントは横を巻くんですよ」「そんなに難しくはないけど、上に一枚岩のような岩があって、それを登るので気を付けてください」と言われました。

もうひとりの隊員からは、私のぶざなま姿を見かねたのか、「きついでしょ?」と言われました。「そうですね。噂通りきついですね」と言ったら、「奥多摩三大急登ですからね」と笑っていました。

今回も、前回の大寺山のときと同じ新宿駅6時46分発のホリデー快速に乗りました。緊急事態宣言下でしたが、前回よりハイカーは多く乗っていました。もちろん、コロナ前の休日に比べたら全然少なく(4 分の1以下?)、ゆったり座って行くことができました。

大休場尾根は、奥多摩駅から直接登ることができます。8時半前に奥多摩駅に着きましたが、駅前のバス停には既にハイカーが列を作っていました。青梅街道を走る奥多摩湖(丹波や鴨沢)方面のバス停には10人前後、日原(にっぱら)街道を走る川苔山の百尋ノ滝(ひゃくひろのたき)方面のバス停には20人近くが列を作っていました。日原街道を走るバスはマイクロバスなので、かなりギューギュー詰め(つまり、密)になるでしょう。

私は、バス停のハイカーたちを横目で見ながら、奥多摩駅を出ると右の方に進みました。奥多摩町役場の前を通って、石灰石の工場の前を左折し、日原川に架かる北氷川橋(きたひかわばし)を渡って氷川国際ます釣場の方に向かいます。二つ目の女夫橋(めおとばし)を渡ると、右手に氷川国際ます釣場がありますが、大休場尾根の登山口は、左手の除ケ野(よげの)集落の中の坂道を登って行きます。九十九折の山の中の坂道を45分くらい登ると、安寺沢(あてらさわ)という集落の奥に大休場尾根の登山口がありました。

本仁田山の標高は1200メートル超で、山頂までの距離も2.2キロですが、単純標高差は800メートルを越します(登山口からは720メートル)。距離が短い分斜度が大きく、奥多摩の低山おなどるなかれを象徴するようなコースでした。低山をバカにする山のシロウトには、一度登ってみろと言いたいです。北アルプスに行くためのトレーニングで奥多摩の急登を登るというハイカーも多いのですが、たしかに筋力トレーニングするには最適だと思いました。私も、最近はゆるゆる登山ばかりしていたので、下りは完全に足に来てつらい思いをしました。帰りに駅の階段を下りるのもひと苦労でした。

登山口に向かう際、私の前を中年のカップルが歩いていました。途中で追い抜いたのですが、急登で再び追い抜かれました。その際、少し話をしたのですが、やはり夫婦ではないみたいでした。

また、途中で立ち止まって休憩していると、後ろから登ってきた中年の女性と30代くらいの男性が追い抜いて行きました。とにかく皆さん驚異の脚力で、気が遠くなるような急登もガンガン登って行き、あっと言う間に姿が小さくなっていきました。その脚力には圧倒されました。やはり、他の山と違って、熟達者というか上級者が多い気がしました。

大休場尾根を登るのも大変ですが、下りはもっと大変な気がします。しかし、反対側の杉ノ殿尾根が一部に急登があるものの大休場より全然楽なので、杉ノ殿尾根を登りに使って、下りに大休場を選ぶハイカーも結構いるみたいです。

頂上付近で、上から下りて来た老夫婦とすれ違いましたが、「なに、これ?」「大変だよ」などと言いながら、おぼつかない足取りで急斜面を下りていました。しかし、そこはまだ序の口で、下に行けば足を滑らせると滑落の危険性がある激下りが待っているのです。

ほうほうの体で山頂に辿り着いたら、山頂では外人の若い女性が二人、弁当を食べていました。喋っていた言葉は英語でした。私たち外人もワクチンを打ってもらえるんだろうかと言っていました。そして、弁当を食べ終わると、大休場尾根の方へ下りて行きました。彼女たちもおそらく杉ノ殿尾根を登って来たのでしょう。これから待ち構えている試練を知らないんだなと思いました。

私は、このブログにも書いていますが、前に杉ノ殿尾根をピストンしたことがあるので、本仁田山は今回で二度目です。着いたときは曇り空で、眺望はあまり望めませんでした。ベンチに座っていると急に身体が冷えて来ました。それで、登り始めに脱いだ上着をもう一度羽織りました。前に来たとき、山頂には誰もいなくて、ベンチに座ってひとりでパンを食べていたら、わけもなく泣きそうな気持になったことを思い出しました。

外人の二人組が下りたあと、登って来る人もなく、前回と同じようにひとりになりました。しかし、今回は疲労困憊で、前回のようなロマンティックな?気分に浸る余裕はありませんでした。と、ぼつぼつ下ろうかと思っていたときでした。やにわに空が明るくなってきて、長沢背稜の背後に忽然と富士山が姿を現したのでした。それは、文字通り忽然という表現がピタリとするような感じでした。山の天気は変わりやすいのですが、それは必ずしも悪いことばかりではないのです。

杉ノ殿尾根を40~50分下ると、林道(西川林道)と交差したところにある大根ノ山ノ神(おおねのやまのかみ)に着きました。ここは杉ノ殿尾根と川苔山をそれぞれピストンした際に通りましたので、これで三度目です。

大根ノ山ノ神から鳩ノ巣駅までは30~40分くらいです。鳩ノ巣駅に向けて登山道を下っていたら、下から登って来た高校生とおぼしき若者の二人組とすれ違いました。ただ、手にペットボトルを持っているだけの軽装でした。途中で拾ったのか、木の枝を杖代わりにして、ハアハア荒い息を吐きながら登って来ました。まさかそんな恰好で川苔山や本仁田山に登るとは思えません。面倒くさいので声はかけませんでしたが、ネットでも話題になっている峰集落の跡地に”探検”に行くのかもしれないと思いました。

奥多摩の山を歩いていると、こんなところにと驚くような場所に人家の跡があったりしますが、峰集落もそのひとつです。大根ノ山ノ神から西川林道を少し下ると、1972年に最後の住人が山を下りて「廃村」になった峰集落の跡地があります。昔、集落の子供たちは、今、私たちが登山の恰好をして登っている鳩ノ巣駅から大根ノ山ノ神の道を毎日歩いて学校に通っていたのだそうです。峰集落については、ヤマップの「活動日記」にも次のような記述がありました。

峰集落とは鎌倉末期から大正末期まで500年以上も木材、炭焼きで繁栄した村で昭和47年に最後の住民が下山して廃村となりました。
柳田國男も滞在して研究したと言われる伝説の村です。

YAMAP
本仁田山と峰集落


柳田國男もこの道を歩いて峰集落に行ったのかと思うと、(足は筋肉痛で悲鳴をあげていたけど)なんだか感慨深いものがありました。そして、柳田國男の『山の人生』をもう一度読み返したい気持になりました。

尚、峰集落については、下記の文春オンラインに掲載されている記事(訪問記)に詳しく書かれています。

文春オンライン
これぞ東京の秘境! 1972年に廃村になった奥多摩山中の「峰集落」へ行ってみた

鳩ノ巣駅に着いたのは、15時すぎでした。私が使っている登山アプリ(ネットから登山届を提出することができるアプリ)のコースタイムとほぼ同じでした。

鳩ノ巣駅からは青梅線で青梅駅、青梅駅から中央線で立川駅、立川駅から南武線で武蔵小杉駅、武蔵小杉駅から東横線で最寄り駅に帰りました。最寄り駅に着いたのは19時前でした。

途中の電車も、それから青梅駅や立川駅や武蔵小杉駅も、緊急事態宣言下とは思えないほど人が多く、普段の日曜日より若干少ない程度でした。皆、「不要不急の外出自粛」などどこ吹く風の不心得者です。もちろん、かく言う私もそのひとりなのでした。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

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石灰石工場の横の坂を下り、最初の橋(北氷川橋)を渡る

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石灰石工場全景

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二番目の橋(女夫橋)を渡る

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氷川国際鱒釣場

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安寺沢の集落に向かって車道を登る

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登山口

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いきなり急登

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尾根に迷い込んで滑落したケースがあったので、こういった看板を立てたのかもしれません。

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登山道を上から振り返る

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六ッ石山?

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山頂

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山頂標識

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忽然と姿を現した富士山

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木に括りつけられた瘤高山の山頂標識

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瘤高山からの眺望
都心も見えた

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大根ノ山ノ神
今回もお賽銭をあげて手を合わせた

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麓の集落に戻って来た

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鳩ノ巣駅全景

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改札口

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待合室の中にあった注意書き
鳩ノ巣駅は無人駅なので、待合室で夜明かしするのに焚き火をする人間がいるのでしょうか。山の中でもときどき焚き火の跡を見かけますが、駅の待合室で炊き火とは凄い話です。もう放火のレベルと言っていいくらいです。
2021.01.18 Mon l l top ▲
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新宿駅~拝島駅~奥多摩駅~深山橋バス停~【大寺山】~深山橋バス停~奥多摩駅~青梅駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約6キロ
※標高差:430m
※山行歩数:約18,000歩
※交通費:3950円


冬の低山ハイク第4弾。正月三が日の1月3日、奥多摩町(東京都)と丹波山村(山梨県)の都県境にある大寺山(982m)に登りました。奥多摩周辺の山に登ったとき、遠くの山の上に白い建物が見えることがあります。あれは何だろうとずっと気になっていました。

ネットで調べたら、その建物は法華宗系の宗教団体である日本山妙法寺の仏舎利塔であることがわかりました。そう言えば、別府の実相寺という丘の上にも同じような仏舎利塔がありました。あれと同じようなものかもしれないと思いました。

日本山妙法寺と言えば、今でも反原発や反核の運動ではおなじみの宗教団体ですが、私も若い頃、三里塚の支援集会などで、団扇太鼓を打ち鳴らしながら「南無妙法蓮華経」とお経を唱えていた僧侶の一団を見かけたことがあります(でも、日本山妙法寺はのちに運動から離脱し、敵前逃亡だと批判を浴びました)。

また、常岡浩介氏の『チェチェンゲリラ従軍記』 (アスキー新書)にも、ウクライナのキエフでチェチェン人難民を支援している寺澤潤世上人の話が出ていますが、そうやって世界の紛争地で非暴力の平和運動を行いながら広宣流布を行っているのです。

大寺山自体は、奥多摩湖に面した標高が1000メートルにも満たない低山ですが、奥多摩特有の急登が続く山だという紹介がネットにありました。それで、仏舎利塔と急登に惹かれて登ってみることにしたのでした。

大寺山は片道3キロ弱の距離しかなく、コースタイムも1時間30分くらいなので、通常は大寺山からさらに1時間30分かかる鹿倉山を縦走して丹波山温泉に下りる場合が多いようです。ただ、その場合、奥多摩駅に戻るバスが一日に4便しかないため、3便目の15時台のバスに間に合うかどうか微妙なのでした。それに乗り遅れると最終便の18時台のバスしかありません。それで、今回はピストンすることにしました。

新宿駅から土日と祝日だけ運行されている6時46分発のホリデー快速おくたま号に乗りました。それでも終点の奥多摩駅に着いたのは8時21分でした。

いつものホリデー快速だと、大きなザックを背負ったハイカーたちで通勤電車並みに混むのですが(新宿駅ホームのその光景は壮観です)、やはりコロナ禍の中、拍子抜けするくらいガラガラでした。ホリデー快速は、途中の拝島駅で奥多摩駅行きと武蔵五日市駅行きに切り離されるのですが、私が乗った車両にはハイカーは5~6人くらいしかいなくて、むしろ通勤客の方が多いくらいでした。ちなみに、1号車から6号車までが奥多摩行き(おくたま号)、7号車から10号車が武蔵五日市駅行き(あきかわ号)になります。

奥多摩駅に着くと、駅前のバス停には既にハイカーが並んでいました。そのバス停から8時35分発の丹波行きのバスに乗ります。ハイカーご用達のバスは、青梅街道を走るこの路線と日原街道を走る東日原行きに大別されますが、東日原行きは2019年10月の台風19号の被害でずっと運休になっていました。しかし、先月(2020年12月1日)、1年2ヶ月ぶりに運行が再開されたばかりです。ただ、道路の復旧が完全に終わっていないのか、通常の大型バスではなく小さなマイクロバスが運行されていました。

東日原行きのバスに乗っているのは、川苔山の百尋ノ滝コースを歩くハイカーが大半だと思いますが(百尋ノ滝コース自体も台風の被害から復旧したばかりです)、冬の凍結時期ということもあってか、数人しか乗っていませんでした。他に東日原からは、鷹ノ巣山の稲村岩尾根コースもあるのですが、稲村岩尾根コースは台風19号の被害で未だ通行止めになっているのでした。

一方、私が乗った「鴨沢方面丹波行き」のバスは8割程度の乗車率でした。全員ハイカーです。途中でいちばん降りる人が多かったのは、奥多摩駅から8個目の奥多摩湖のバス停でした。御前山か隣の水根沢から鷹ノ巣山に登るハイカーたちなのでしょう。私は、34個目のやはり奥多摩湖沿いにある深山橋(みやまばし)のバス停で降りました。降りたのは私ひとりだけでした。

バスには数人残っていましたが、彼らは39個目の鴨沢のバス停で降りて、雲取山か七ツ石山に登るハイカーたちなのだろうと思います。

深山橋は、三頭山のムロクボ尾根ルートの最寄りのバス停でもあります。バス停を降りて、奥多摩湖にかかる緑色の橋(深山橋)を渡ると、陣屋という蕎麦屋さんがあります。その蕎麦屋さんの横(ほとんど敷地内のようなところ)を入ると、「鹿倉山・大寺山登山口」の古い看板がありました。ちなみに、大寺山に登る途中には、道標は二つしかありませんでした。いづれも奥多摩湖方面を示す、手作りのかなり古い道標でした。あとは踏み跡とピンクテープを頼りに登るしかありません。ただ、ピンクテープも、色が褪せたり吹き飛ばされたものが多く、あまり数も多くありません。

登り口からいきなり急登でした。私は靴擦れになり、途中から足の後ろの部分が痛くてなりませんでした。ただ、距離が短くて時間も長くないので、それほどつらい感じはありませんでした。尾根に辿り着くと、今度は両側が切れた痩せ尾根が続きました。そして、痩せ尾根のあとは再び急登になり、息を切らして登ると目の前に山頂の白い建物が忽然と現れました。

私は、尾根に上がった際、道を見失い尾根の上とは反対側の谷の方に向かってしまいました。典型的な道迷いのパターンです。この時期ではよくある話ですが、落ち葉によって踏み跡が消えていたのでした。ピンクテープも見つからず、しばらくウロウロした挙句、かすかに踏み跡らしきものがある(気がした)谷側に歩いて行ったのでした。スマホのGPSで確認しましたが、GPSが示す方向は間違ってないのです。

でも、やはりおかしいなと思って、尾根の上に上がることを考えました。それで急斜面を木を掴みながらかなり強引によじ登りました。途中、掴んだ木がポキッと折れて滑り落ちたりしました。

尾根の上に上がると、案の定、踏み跡がありました。尾根の上は風が強いので、落ち葉もそれほど積もっていなくて踏み跡も明瞭に残っているのです。ここで20分~30分時間のロスをしました。

最後の急登の手前では、特別天然記念物のニホンカモシカに遭遇しました。5分くらい睨み合いましたが、その間カメラのシャッターを切り続けました。

山頂の仏舎利塔は、別府にあったものと同じでした。日本山妙法寺は全国各地の山に同じ仏舎利塔を建てているみたいで、大寺山の仏舎利塔には「帝都仏舎利塔」という石碑がありました。

仏舎利塔は、上の円筒の部分が工事用の鉄パイプで囲われており、補修工事が行われている様子でした。ペンキは塗り替えられているみたいですが、建てられてかなり時間が経っている感じがしました。ネットで調べると大寺山の仏舎利塔は1974年に落慶しています。設計したのは、浅草寺本堂や川崎大師平間寺本堂などを設計した建築家の大岡實氏だそうです。別府の仏舎利塔は1981年に建てられています。尚、日本山妙法寺を創建した藤井日達の母校がある大分県臼杵市にも、大寺山と同じ1974年に仏舎利塔が建てられています。仏舎利塔は、海外も含めて48塔あるそうです。

仏舎利塔のまわりにはベンチが設置されていました。ベンチに座っていつものように温かいお茶を飲み、どら焼きと羊羹を食べてまったりとしました。結局、山頂には1時間近くいました。歩いている途中でも山頂でも誰にも会うこともなく、私にとっては願ってもない山歩きになりました。

帰りは急登を下るのが面倒なので、林道を下ろうかと考えました。しかし、林道だと別のバスの路線の小菅村に下りることになり、バス便が極端に少くなるのです。それで、登って来たルートを戻ることにしました。

道に迷った尾根まで戻ると、たしかに踏み跡は消えていましたが、ピンクテープが2か所ありました。そのテープを見逃していたのでした。

広い尾根で落葉などによって道が消えている場合は、尾根の先端に行けば大概下り口があります。両側の谷筋に下りるのは危険で、それは下りの基本中の基本のようなものです。一方、登りで道がわからなくなったときは、尾根の上に出るのが基本です。今回のように、心理的には巻き道を選択しがちですが、やはり上が正解なのです。と、あとで冷静になればわかるのですが、そのときはどうしても焦ってしまい楽な方に気持が傾きがちです。道に迷ったら、まず水かコーヒーを飲んでひと息つけと言いますが、たしかにそうやって冷静さを取り戻すことが大事だと思いました。大寺山のような距離の短い山で遭難はあり得ないでしょうが、ただ道に迷って滑落する危険性はないとは言えません。

登山口に下りてきたのは、13時15分でした。深山橋のバスの時間は13時50分ですのでちょうどいいタイミングでした。帰りのバスに乗ると数名のハイカーが乗っていました。しかし、奥多摩湖に着くと、多くのハイカーが乗り込んできて、バスは満員になりました。奥多摩湖以降に乗って来た乗客は座ることもできないほどでした。

奥多摩湖の駐車場には多くの車が停まっていて、湖畔を散策する人たちでいっぱいでした。軽トラのキッチンカーも出ていました。しかし、再び緊急事態宣言が出されたら、前と同じようにこの駐車場も閉鎖されるのだろうかと思いました。奥多摩の住民たちも、小池都知事に煽られて、また「登山者が怖い」などと言い出すのかもしれません。

山田哲哉氏が主宰する「風と谷」のサイトには、「山を止めるな」というバナーが貼られていましたが、日本山岳会なども、また(偉そうに)登山の自粛を呼びかけるのかもしれません。そういった愚劣で翼賛的な光景が再び繰り返されるのかもしれません。

「ファシスト的公共性」によって、感染を避けひとりで静かに山を歩く行為まで禁止されるのです。山に行く電車やバスが問題だと言われますが、これ以上の密はないような都心の通勤電車が放置される一方で、山に向かうガラガラの交通機関がやり玉にあがるのでした。それこそ常軌を逸した”自粛警察的屁理屈”と言えるでしょう。もはや病理の世界だとしか思えません。”自粛警察”は、「欲しがりません勝つまでは」という戦中の日常生活を監視した隣組の現代版のようなものです。

昨日、田舎の友人と電話で話していたら、田舎では新型コロナウイルスに感染すると、どこの誰だということがすぐ特定されるため、家に落書きされたり感染を非難する電話がかかってきたりするそうです。そのため、感染した人が自殺したケースさえあったそうです。まさに感染者は非国民なのです。そこにあるのは、国家と通底した市民としての日常性を仮構する”差別と排除の力学”です。この社会は戦前と何も変わってないのです。でも、そういった悲惨な事件は、感染者を特定するのにメディアもひと役買っているからなのか、何故か大きく報道されることはないのでした。

奥多摩駅に着いのは14時20分すぎでした。奥多摩駅から青梅、青梅から立川、立川から南武線で武蔵小杉、武蔵小杉から東横線で帰りました。最寄り駅に着いたのは、16時すぎでした。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

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深山橋バス停

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深山橋

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登山口

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いきなり急登

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同上

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同上

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この尾根で迷った

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尾根の上の踏み跡

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痩せ尾根

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同上

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巻き道

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ニホンカモシカ

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最後の急登

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山頂の手前にあった糞
熊じゃないのか?

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仏舎利塔

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四面にこのような座像や立像、涅槃像が設置されています。

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同上

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同上

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同上

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山頂からの眺望(樹木に遮られている)
遠くに雲取山も見えました。

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道標(この二つのみ)

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同上

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奥多摩駅
2021.01.06 Wed l l top ▲
新宿バスタ~山中湖平野バス停~【石割山】~【平尾山】~山中湖平尾バス停~新宿バスタ

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約8キロ
※標高差:432m
※山行歩数:約19,000歩
※交通費:5138円


一昨日(24日)、山梨県の山中湖畔にある石割山(1412m)に登りました。石割山の場合、通常は隣接する平尾山や大平山を合わせて登るケースが多いみたいですが、しかし、それだと、行きと帰りのバス停が異なるため、バス便との連絡が面倒になります。電車だと富士急の富士山駅からバスに乗らなければならないのですが、富士山駅からは一日に2便しかありません。

アクセスにいい方法が見つからず、いったんは諦めたのですが、あとて新宿から高速バスを使う手があることに気が付いたのでした。

ただ、高速バスも、途中の富士急ハイランドや河口湖までは頻繁に出ていますが、登山口がある「山中湖平野」まで行くのは、いちばん早い便で10時9分着(新宿バスタ7時45分発)しかありません。午前10時というのは、日の短い秋冬の山行では遅すぎますが、都内から公共交通機関を使って行くにはそれしかないのです。

それで、石割山と隣の平尾山(1318m)を登って「山中湖平野」に戻ることにしました。

このようにバスを使う場合、帰りのバス便との時間の調整が難しく、今回も”予備がないと不安症候群”の私の性格によって、自分で自分をふりまわすことになりました。

帰りのバスは、15時10分と15時25分、それに16時40分があります。当初は、15時10分を予約していました。しかし、私が使う登山アプリのコースタイムだと下山時間が15時05分になっています。時間的にギリギリです。それで、前夜、時間的な余裕をもって16時40分の便に変更したのでした。

今まで高速バスは何度か利用していますが、コロナ以後、どの便も乗客は少なくて気の毒なくらいでした。今回も新宿バスタの待合室は人も少なく、椅子も空いていました。

ところが、私が乗った「富士五湖~新宿線」のバスは違っていました。

高校生とおぼしきグループが20人以上乗ってきたのでした。しかも私は後部の座席を予約していたのですが、後部の座席は彼らで占領されていました。これはたまらんと思って、運転手に「座席を変えてもらえますか?」と言いました。運転手も「そうですね、団体さんに囲まれていますねえ」と言って、タブレットの座席表を示し、「この印が空いている席です。どこがいいですか?」と言われました。それで、前の方の席に変更しました。しかし、前の方も後ろほどではないですが、やはり同じグループの高校生たちが座っていました。おそらく冬休みになり、クリスマスイブでもあるので、仲のいいグループで富士急ハイランドに遊びに行くのでしょう。高校生以外の乗客は、私のほかに若い女性の二人連れがいるだけでした。

高校生たちは男子6女子が4くらいの割合でしたが、遠足気分なので「会話はお控え下さい」という放送もどこ吹く風、とにかくうるさくてなりませんでした。

そして、案の定、高校生たちは富士急ハイランドで降りました。高校生たちが降りて行くと、なんだかバスの中は嵐が去ったあとのように静かになりました。また、若い女性の二人連れも河口湖駅で降りて、以後終点の「山中湖平野」まで乗客は私ひとりになりました。

24日の東京の新規陽性者は語呂のいい888人で過去最高だったそうです。外出自粛の呼びかけにもかかわらず、私も出かけているのですから他人(ひと)のことをとやかく言えないのですが、GoToトラベル停止以後、高齢者や家族連れが行楽地に出かけるのは急速に減ったように思います。しかし、若者は別なのです。彼らは感染しても重症化するリスクも少なく、軽症か無症状なので、感染など恐れずに足りずというのが本音なのでしょう。

外出自粛は主に重症化リスクの高い高齢者に向けて呼びかけられていますが、むしろ、呼びかけるべきは感染拡大の主因である若者たちに対してではないのかと思います。ミツバチのようにウィルスの運び屋になっている若者たちを軽視しているのは、どう考えても解せない話です。

「家庭内感染が多くなった」という話もありますが、これほどバカバカしい話はありません。「家庭内感染」は副次的な感染で、どういう経路で家庭内に感染が持ち込まれたかが問題でしょう。職場か、飲み屋か、あるいは通勤電車か、それを突き止めなければ意味がないのです。

「山中湖平野」のバス停は、立派なバスターミナルになっていました。構内には観光案内所があり、隣にはコンビニもあります。観光案内所の中には、トイレや休憩所もありました。

バス停から石割の湯に向かう県道を10分くらい歩き、ひとつ目の赤い鳥居が立っている分岐を左折してさらに10分くらい歩くと、もうひとつの赤い鳥居が見えてきます。分岐からは石割神社の参道になっているみたいです。

二つ目の赤い鳥居がある場所には、登山者用の駐車場やトイレもありました。二つ目の赤い鳥居に向かって坂道を登る途中、下から車が何台か登って来ましたが、ナンバーを見ると東京や埼玉のナンバーばかりでした。歩いて登山口に向かっているのは私だけでした。

小さな橋を渡って赤い鳥居をくぐると、「天まで続くような石段」が目の前に現れます。日本山岳会による石割山の案内には次のように書いていました。

石割山は長い長い天まで続くような石段を登っていきます。約400段あります。修業です。でもこれがあるから、山頂から見る大展望のご褒美がこたえられません。途中の石割神社には、真っ二つに割れた巨大な岩があります。この岩の割れ目を3回通ると幸運が開けるそうです。山頂からは三角形の美しい姿の富士山が真っ正面に見え、下山のコースは、富士山を見ながら、山中湖を左に見て下っていきます。なだらかな尾根道が続きます。
http://jac.or.jp/oyako/f16/e701010.html


しかし、目に見える石段はまだ半分でした。それを登りきると、また次の石段が目の前に現れるのでした。まさに修行でした。

石段から次のチェックポイントである石割神社まではなだらかな道でした。石割神社には、上記の案内文にもあるように、岩の割れ目を3回まわると運が開けるという言い伝えがあるそうです。私の前を歩いていた夫婦のハイカーは3回まわっていました。そして、「これで初詣の代わりができた」などと言っていました。しかし、私はそういったことにはまったく興味がないので、まわりませんでした。ただ、神社にはいつものようにお賽銭をあげて手を合わせました。

神社から山頂までは20分弱ですが、至るところに張られたトラロープを頼らざるを得ないような結構な急登でした。

石割山の山頂に到着すると、噂にたがわず富士山の雄大な景色が目に飛び込んできました。山頂には既に6人のハイカーが休憩していました。いづれも30代から40代くらいのカップルです。またあとからやはり50代くらいのカップルが登って来ました。

カップルを見ていると、夫婦と思しきカップルは2組くらいで、あとは夫婦とは違うような感じでした。どうしてそう思うのかと言えば、男性がやけにテンションが高くウキウキしているのがよくわかるからです。夫婦だったらあんなにテンションは高くないでしょう。

女性がひとりで山に行くのに不安を抱くのはよくわかります。また、ここにも書いているとおり交通手段も悩みの種です。それで、色目を使うかどうかは別にして、男性に同行を求めるというのはあり得る話でしょう。中には登山系のSNSやツイッターを使って同行者を探すケースもあるようです。SNSで出会いを求めるのは若者ばかりではないのです。 

石割山の山頂にはベンチがないので、それぞれシートを敷いて弁当などを食べていました。私も100円ショップで買ったレジャーシートを持って行きましたが、シートを広げるのが面倒なので、草の上に座っていつものようにどら焼きを食べました。

昨日は暖かな天気でまったく寒さを感じることはありませんでした。そのためもあって、富士山にも徐々に雲がかかりはじめていました。

30分くらい休憩して平尾山に向けて別の道を下りました。下りはじめも急登で、やはりトラロープを掴んで慎重に下らないと、滑って転んで大分県になってしまいます。急登を下りきると、あとはなだらかな下りの道を歩くだけでした。

平尾山まで20分くらいでした。平尾山に着くと、富士山にも雲がかかっていました。平尾山から「山中湖平野」のバス停までは50分くらいでした。

「山中湖平野」のバス停に着いたのが14時前でした。登山アプリのコースタイムより1時間以上も早く戻ることができました。帰りのバスをネットで調べると、14時25分発があります。あわてて帰りのバス便の変更をしようとしましたが、時間切れで変更することができませんでした。

それで、15時10分発のバスに再び変更しました。1時間時間が空いたので、観光案内所で「この近くにラーメン屋さんはありますか?」と尋ねました。観光案内所には、若い女性と中年の女性が二人常駐していますが、左手と右手に二軒あると言うのです。しかし、今、やっているかどうかわからないので行ってみて下さいと言われました。

左手に5分歩くとラーメン屋の看板がありました。しかし、店の前には「準備中」の札が下げられていました。仕方なくUターンして、観光案内所から右手のラーメン屋に行ってみることにしました。

ところが、観光案内所の前を通り過ぎたとき、「すいません!」と言いながら、案内所の若い女性が駆け足でやって来たのでした。「今、電話でやっているかどうか問い合わせていますのでちょっと待ってください」と言うのです。観光案内所に戻ると、中年の女性が電話で問い合わせていました。そして、片手で丸を作って「やっているそうです」と言いました。私は、「ご親切にどうもありがとうございました」と言って、右手にある店に向かいました。店は老夫婦がやっている「くるまやラーメン」でした。味噌ラーメンと半チャーハンを頼みました。考えてみれば、外でラーメンを食べたのは1年ぶりくらいです。

食べているうちに予約した15時10分発のバスに間に合うかどうか心配になったので、ラーメンをすすりながらスマホで15時25分発のバスにもう一度変更しました(どうして15時台に限って15分後にバスが出ているのかと言えば、富士急と京王とバス会社が違うからです)。

結果的には、バス停に戻ったら15時10分発のバスがまだ出発していませんでした。

観光案内所に戻って、「どうもありがとうございました」「お陰でラーメンを食べることができました」ともう一度お礼を言いました。若い女性が「登山だったんですか?」と訊くので、「ええ、石割山と平尾山を登りました」と言いました。すると、「だったらラーメンを食べたくなりますよね」と言って笑っていました。

ホントに親切な人たちで心が和みました。コロナ以後、山に行っても前のように話をすることがなく、感染を懸念しているのか、心なしかハイカーたちも不愛想な感じの人が多いのです。特に山梨や長野など「外」の山に行くと、よけいそう感じます。奥多摩や奥武蔵の山の方がむしろ愛想がよくて親切な気がします。冷たい「外」の世界で、親切にしてもらって気持も暖かくなった気がしました。

「くるまやラーメン」で奥さんに「このあたりも感染が増えているのですか?」と訊きました。私はこのようにすぐ他人に話しかけるくせがあるので、その分冷たくされるケースも多いのです。すると、奥さんは「前は甲府の方だけで、全然いませんでした。しかし、最近この先の部落で感染が出たみたいで、怖いですよ」と言ってました。

私は、山梨でも「部落」という言い方をするんだなと思いました。「部落」は差別用語だとして、最近は禁句になっていますが、私の田舎でも昔は集落のことを「部落」と言っていました。でも、部落差別に対する啓蒙が広がるにつれ、公式には「部落」という言葉を使うことはなくなりました。私もこのブログでは、「部落」ではなく集落という言い方に変えています。

帰りのバスでもトラブルがありました。高速に入ったものの、火災で通行止めになり、大月の手前で下道の甲州街道に下りることを余儀なくされたのでした。甲州街道は文字通りの大渋滞で、新宿バスタ到着が17時55分の予定だったのですが、実際に着いたのは20時近くでした。

始発の「山中湖平野」から乗ったのは私だけで、河口湖駅から若い女性のグループが3人乗り、さらに新興宗教の施設と見まごうような富士急の「富士山駅」からハイカーが2人乗ってきました。また、富士急ハイランドからも2人乗ってきました。

新宿バスタからは、いつものように新宿3丁目駅まで歩いて副都心線&東横線で帰りました。最寄り駅に着いたのは21時すぎでした。クリスマスイブなので、駅前のスーパーに寄って、売れ残って割引になっている寿司とチキンを買って帰りました。


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行きのバスの中から(スマホで撮影)

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バス停から石割の湯方面の県道に入ります。

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県道から分かれ、途中の最初の赤い鳥居を左へ入る

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もう石割神社の参道

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坂を登ると二つ目の赤い鳥居
車はここまでで行き止まり
駐車場とトイレがあります。

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小さな橋を渡り、鳥居をくぐると「天まで続くような石段」が待ち構えています。

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一つ目の石段

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二つ目の石段

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やっと終わった

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上から見下ろす

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石段を登った上には東屋もあります。

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さらに進むと、神を祀る積石
死者を悼む意味もあるそうです。

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さらに進むと

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石割神社に到着

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石割神社から山頂までは急登が続きます。
トラロープの助けを借りる箇所も多くありました。

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同上

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同上

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同上

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同上

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山頂に着くと富士山がドーンと目の前に見えます。
ただ、バスの中で見たときより雲が多くなっていました。

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山頂の様子

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道標

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山頂標識

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案内板

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下りも急登でロープの助けを借りないと滑ります。
この日は乾いていましたが、ぬかるんでいるときは難儀するでしょう。

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同上

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急登を下りきると、あとはなだらかな下り道

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登山道にマスクが落ちていた。
この日だけで3枚落ちていました。

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平尾山との分岐
正面の道を下りて来ました。帰りは右の道に進みます。
カメラの方向に平尾山があります。平尾山に寄ってこの分岐まで戻ります。

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平尾山に向かう道
5分くらい歩くと、山頂に着きます。

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平尾山山頂

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富士山には既に雲がかかっていた。

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山頂標識

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分岐に戻って下山

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このような歩きやすい道が続きます。

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別荘地に入ります。

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同上

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別荘地内の道をショートカットすると二つ目の赤い鳥居に向かう道の途中に出ました。
ここから「山中湖平野」バス停まで10分くらいです。
2020.12.26 Sat l l top ▲
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池袋駅~小川町駅~坂本バス停~橋場バス停~粥新田峠~【大霧山】~旧定峰峠~経塚バス停~皆谷バス停~小川町駅~池袋駅

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約10キロ
※標高差:571m
※山行歩数:約21,000歩
※交通費:3,834円


冬の低山ハイク第三弾。一昨日(15日)、埼玉県皆野町の大霧山(766.7m)に登りました。

池袋駅から早朝5時半すぎの東武東上線の「小川町行き」の急行電車に乗り、1時間半かけて終点の小川町駅まで行きました。小川町駅からは東秩父村の「白石車庫行き」のバスに乗り換えて30分で「橋場」というバス停まで行きます。

この「白石車庫行き」のバスは、前にサンドイッチマンの「帰れマンデー」という番組にも出ていましたが、私にもお馴染みの場所なのでした。

何度も書いていますが、私は、横浜の前は埼玉の東武東上線沿いに10年以上住んでいました。その頃、白石峠を越えて秩父に行ったり、逆に秩父から白石車庫に下りたりしていたのです。おそらく何十回も行き来したと思います。

当時は、山には登っていませんでしたが、奥武蔵グリーンラインと呼ばれる林道をよく車で走っていました。今は、峠の下から歩いて上に登っていますが、当時は峠の上まで車で行って、1~2時間山のなかを歩いたりしていました。決してオーバーでなく、奥武蔵や秩父には100回近く行ったと思います。だから、グリーンライン上にある一本杉峠 · 顔振(かおふり)峠 · 傘杉峠 · 飯盛峠 · 刈場坂峠 · 大野峠 · 白石峠 · 定峰(さだみね)峠などはなつかしい場所なのです。

山には登らなかったけど、トレッキングシューズだけはずっと持っていました。バスに乗ったのは初めてですが、今回バスが走った道もいつも車で走っていました。

電車が小川町駅に着いたのは、午前7時5分でした。しかし、「白石車庫行き」のバスは既に出たあとでした。次は8時21分です。駅前で1時間以上もバスを待たねばなりません。駅前で客待ちをしていたタクシーの運転手に、「白石車庫までいくらかかりますか?」と尋ねました。すると、6000円くらいだ言うのです。6000円だとやはり躊躇せざるを得ません(3000円くらいなら乗ったけど)。

どこかモーニング(サービス)をやっている喫茶店はないか探したら、駅前に一軒喫茶店がありました。しかし、まだ開店していません。考えてみれば、群馬県に近い埼玉の最奥の町の駅前で、モーニング目当ての客などいようはずもないのです。

結局、駅前のベンチに座って次のバスを待ちました。登山では時間が貴重なので、この1時間はもったいない気がしました。

8時21分発の「白石車庫行き」のバスには、ハイカーが5名と一般客が2名乗りました。ただ、ハイカーを含めた乗客たちはいづれも途中のバス停で降りたので、いつものことですが、最終的に乗客は私ひとりになりました。

今回、大霧山に行こうと思い立ったのは当日の朝4時です。前夜、山に行く準備をして床に入ったものの、行く山は決まっていませんでした。そして、目が覚めた途端、ふと大霧山に行こうと思い付いたのでした。大霧山に関しては、名前は知っていたものの、標高も低いしあまり興味はありませんでした。

ただ、以前、八高線(八王子~高崎間を走るJR線)で隣合わせたおばさんから「大霧山はいいですよ」と言われたことを覚えていたのでした。そのおばさんは、小川町か寄居だかに住んでいて、若い頃から山に登っていたそうで、私の恰好を見て「山に行くんですか?」と話しかけられたのでした。若い頃は、北アルプスなどにも行ったりしていたそうですが、今は70歳を超えて病院通いするようになり、その日も毛呂山の埼玉医大病院に行く途中だと言っていました。

その話を思い出して、準備不足のまま、埼玉に向けて出発したのでした。

「白石車庫行き」のバスに乗っていると、「次は坂本です」とアナウンスが流れました。そのとき、登山アプリの地図にバス停が「坂本(橋場)」と書かれていたことを思い出し、とっさに降車ボタンを押して、「坂本」で降りたのでした。

しかし、降りてからスマホの地図を起動させると、登山口はもっと先の方にあります。ナビに従って川沿いの県道を進むと、次のバス停の「橋場」に着きました。なんのことはない、ひとつ手前のバス停で降りていたのです。ここでも時間のロスが生じてしまいました。

バス停の前の橋を渡り、林道のような県道を15分くらい進むと「登山口」の看板がありました。しかし、県道から外れた山道を15分くらい登ると、再び先程の県道に出ました。さらに県道を10分歩くと、今度は農家の横の林道を入るように看板が出ていました。車は通ることはできませんが、しかし、道幅は広く、登山道という感じではありません。その道を20分くらい進むと、粥新田(かゆにた)峠に出ました。

粥新田峠は、私は初めてでした。と言うのも、正確にはどこからどこまでを言うのかわかりませんが、奥武蔵グリーンラインは今回下山ルートに使おうと思っている定峰峠から「白石車庫」に下るようになっていたからです。つまり、飯能から登る奥武蔵グリーンラインは、東秩父村の定峰峠で終わっているのです。定峰峠と粥新田峠の間に大霧山があり、言うなれば大霧山によって尾根上の林道は遮られているのでした。

ただ、秩父から粥新田峠を経て(バスで通った)東秩父村から小川町に至る道は、正丸峠を越えて吾野に至る道などとともに、江戸時代の秩父往還の重要な道だったそうです。

山田哲哉氏は、『奥秩父 山、谷、峠 そして人』(東京新聞)で次のように書いていました。

秩父から飯能や小川町などを通り、関東平野へと抜ける峠は、 現在の交通手段が主流になる前は頻繁に人や物資の行き交いのあったところだ。 釜伏峠は秩父と熊谷間を結ぶメインの「熊谷通り」に対して「山通り」と呼ばれ、寄居へと抜ける幹線路として使われていた。小川へと越えていた粥仁田峠、 飯能へ向かう正丸峠などは関東平野、東京方面への重要な峠だ。


前も書きましたが、吾野から毛呂山に至る峠越えの道に「飛脚道」と呼ばれる道があるように、江戸時代、奥武蔵の山にはいくつもの道が存在し、それらの道を通して生活物資だけでなく文物も流通していたのです。そして、現在、私たちはそれらの道を登山道と称して息を切らして歩いているのです。

秩父の民衆が武装蜂起して臨時革命政府を作った、日本の近代史上特筆すべき秩父事件も、秩父往還の道をぬきにしては語れないのでした。

粥新田峠には東屋がありました。また、登山届を入れる箱もありました。正確には(?)ここが登山口と言えるかもしれません。私は、バス停から1時間近く歩いて来ましたが、林道が走っているので、車で来れないこともないのです。粥新田峠に車を停めれば、1時間もかからずに大霧山に登ることもできるのでした。

実際に私も昔は、同じようなことをして近辺の山を歩いていたのです。トレッキングシューズを履いていたものの、ザックを背負っていたわけではないし地図を持っていたわけでもありません。ただ、おにぎりとペットボトルが入ったコンビニの袋とタオルを持って山を歩いていただけです。当時は山を散歩しているような感覚でした。

あの頃は山でよく泣いていました。今は泣くことはないけど、でも、同じように泣きたい気分であることには変わりがありません。あの頃は、峠に車を停めて、暮れなずむ秩父の街を見るのが好きでした。大晦日に来たこともあります。また、星空を見るために、山のなかでひと晩すごしたこともありました。

粥新田峠の東屋で10分休憩したあと、大霧山に向けて、初めて登山道らしくなった道を歩きました。山頂直下に急登がありましたが、50分くらいで大霧山の山頂に到着しました。

途中の稜線では寒風にさらされて、凍えるくらいと言ってもオーバーではないような寒さに襲われました。ウインドーブレイカーのフードを被り、風を避けるようにひたすら下を向いて歩きました。

山頂に上がると、八高線で隣り合わせたおばさんが言っていたように、見事な眺望が目に飛び込んできました。武甲山の向こうには雲取山や長沢背稜の山々も見えました。また、正面には両神山の存在感のある山容が構えていました。さらにその向こうには、北横岳や赤岳などの八ヶ岳の山も見ることができました。また、北の方角には白根山も見えました。

ベンチに座って、サーモボトルに入れて持って来た温かいお茶を飲むと、なんだか人心地がついた気がしました。そして、いつものようにどら焼きを食べました。

山頂には30分くらいいましたが、誰も登って来る人はいません。山行中、まだ誰にも会っていません。

帰りに乗る予定にしている「白石車庫」のバスの時刻は14時40分です。これから定峰峠を経て「白石車庫」まで下りると2時間以上かかります。ぎりぎり間に合う気はしますが、しかし、時間的な余裕があまりありません。”予備がないと不安症候群”の私は、やはり、途中でアクシデントがあった場合のことを考えないわけにはいかないのでした。

定峰峠ではなく、旧定峰峠を通って「白石車庫」から三つ手前の「経塚」のバス停に下りるルートだと1時間くらい短縮できますので、余裕を持って旧定峰峠のルートを下ることにしました。

今の定峰峠は林道が造られてからそう呼ばれるようになったのでしょう。秩父往還の頃は、旧定峰峠の方を歩いたはずです。個人的にも旧の方に興味がありました。

新旧の定峰峠は途中まで一緒の道を下りるのですが、その下る手間で、トレランの二人組とすれ違いました。誰にも会わないのが当たり前のようになっているので、前から人がやって来るとドキッとするのでした。

大霧山から約1時間で「経塚」のバス停に着きました。ところが、逆に早すぎたみたいで、バスの時間まで1時間20分もありました。これだったら、定峰峠を通って「白石車庫」に下りても充分間に合った気がします。山のなかのバス停で1時間以上待っても仕方ないので、「経塚」から小川町駅へ向けて5つ先にある「皆谷」というバス停まで2キロの道を歩くことにしました。

この小川町駅から「白石車庫」に至る路線も、昨秋の台風19号によって途中の道路が陥没したため、「皆谷」までの折り返し運転が行われていたそうです。先々月(10月)の23日に、道路の復旧工事が終わって全面開通されたばかりなのです。

途中道路が新しくなっていましたが、道路周辺の風景には見覚えがあり、なつかしい気持になりました。「皆谷」のバス停の横にある商店では、手作りの饅頭を買った覚えがありました。

「皆谷」で20分待つとバスが来ました。小川町まで30分で着きました。バスに乗って気付いたのですが、「皆谷」は登り始めた「橋場」から二つ奥のバス停でした。

小川町駅に着いたのが15時15分で、それから池袋経由の副都心線&東横線で帰りました。最寄り駅に着いたのは17時半すぎでした。


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「橋場」バス停

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バス停の前の橋を渡って「三沢坂本線」という県道を進みます。

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「帰れマンデー」にも出ていた蕎麦屋

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最初の「登山口」

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しらばく歩くと県道に出た

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再び「登山口」に入る
この手前でみかんが一袋100円で売っていました。買いたかったけどみかんを持って登るのは面倒なので諦めました。

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集落の様子

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熊注意の看板が至るところに出ていました。

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道のあちこちにこのような積石がありました。「死者の追悼」の意味があるそうです。賽の河原の童という不気味なことばを思い出しました。

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瓶のなかにお賽銭を入れて手を合わせました。

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林道の合流点
ここにも熊出没注意

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道標

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粥新田峠に到着
ここまでは車で来ることも可能です。

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同上

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同上

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同上

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同上

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粥新田峠から大霧山に向かう登山道

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同上

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同上

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同上

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トラロープがある最後の急登

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山頂標識

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眺望
秩父から皆野にかけての街並み

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はるか向こうに八ヶ岳の山

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正面に両神山

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痛々しい武甲山の向こうに雲取山と長沢背稜(来年こそ歩きたいと思った)

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定峰峠に向けて下ります。

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関東ふれあいの道のハイキングコースなので歩きやすい

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このあたりでトレラン二人組とすれ違いました。

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定峰峠(旧定峰峠)に下る分岐点

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ここでも手を合わせました。

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旧定峰峠(定峰峠との分岐)

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いったん林道に出る

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数十メートル進むと、再びショートカットの登山道に入る

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再び林道に出る

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麓の集落が見えてきた

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「経塚」バス停

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県道を歩く(通行止めになっていた箇所)

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「皆谷」バス停
10月までここで折り返し運転が行われていた

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小川町駅(スマホで撮影)
2020.12.16 Wed l l top ▲
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武蔵小杉駅~立川駅~青梅駅~武蔵五日市駅~仲の平~【槇寄山】~仲の平~武蔵五日市駅~拝島駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約7.5キロ
※標高差:530m
※山行歩数:約17,000歩
※交通費:3,850円


昨日(8日)、槇寄山(1188m)に登りました。槇寄山は二度目です。槇寄山は、笹尾根にあるピークで、大沢山を経て三頭山へ縦走する(あるいは逆に三頭山から下山する)のによく使われる山です。

早朝5時に家を出て最寄り駅から武蔵小杉、武蔵小杉から南武線で立川、立川から中央線で青梅、青梅から青梅線で武蔵五日市に行きました。

武蔵五日市駅に着いたのは7時1分でした。武蔵五日市駅からは、いつものように数馬行きのバスに乗ります。バスは7時20分発です。しかし、駅前のバス停には、既に10人くらいが待っていました。そのあとも列のうしろに並んでいましたので、全部で20人以上はいたと思います。そのなかで、ザックを背負ったハイカーは8人でした。前回、槇寄山に行ったのはやはり昨年の12月でした。そのときと比べれば、ハイカーの数が多いように思いますが、やはり天気が良くて暖かったからかもしれません。昨日は、奥多摩でも気温が15度くらいまで上がり、絶好の登山日和でした。

笹尾根自体は、これで5回目です。まさに困ったときの笹尾根なのでした。田部井淳子さんではないですが、特にこの季節になると、冬枯れの笹尾根を歩きたいと思うのでした。

ただ、今回も馬頭刈山のときと同じように、午後の早いバスで帰りたいと思ったので、それを前提にコースを決めました。帰りのバスは、13時20分と14時50分、そのあとは15時台がなくて16時10分です。何度も言いますが、この季節の山は15時を過ぎるともう暗くなってしまいます。それに、自宅に帰るまで2時間半から3時間近くかかるので、14時50分のバスで帰っても、帰宅ラッシュに遭遇してしてしまいます。登山帰りの帰宅ラッシュはちょっとつらいものがあります。

その結果、目標どおり13時20分のバスで帰ることができました。13時20分のバスは、前回の馬頭刈山のときに帰りに乗ったバスと同じ便でした(馬頭刈山の帰りに利用した「和田向」も、同じ路線のバス停です)。「和田向」で乗ったのが14時2分でしたので、「和田向」は、今回乗った「仲の平」から武蔵五日市駅に向かって40分走った(逆に言えば40分手前の)バス停ということになります。

檜原街道沿いには、このように三頭山に向かって左に笹尾根、右に浅間尾根の登山口が点々とあります。私自身も、今まで入山時や下山時に7~8くらいのバス停を利用したと思います。

「仲の平」のバス停で降りたのは、今回で三度目です。「仲の平」は、終点の「数馬」のひとつ手前のバス停で、今回も途中から乗客は私ひとりになりました。「仲の平」に着いたのは、8時半前でした。武蔵五日市駅からは1時間ちょっとかかりました。

もうなじみのバス停なので、身支度をすると、勝手知ったる道という感じでいつもの道を笹尾根にある西原峠に向けて歩きはじめました。

昨日は霜も降りてなかったので、落ち葉も乾いたままで、文字通り落ち葉の絨毯の上をサクサク音を立てながら気持よく歩けました。途中でザックをおろして10分くらい休憩したのが返ってよかったみたいで、前回より20分くらい早く西原峠に着きました。

西原峠から槇寄山の山頂まで5分もかかりません。三頭山の方向に坂をひと登りすると山頂です。

槇寄山に登ると、予想通り冬空の彼方に富士山がくっきり姿を現していました。山頂には既に老夫婦が休憩していましたが、「どうしてラーメン食べないの?」「食べたくないんだよ」と口喧嘩をしていました。奥さんは明るい人ですが、旦那は逆に挨拶もしない暗い感じの人でした。「どうしてラーメン食べないの?」と言っていたのは奥さんの方です。「あなたはいつもそうなんだから」と不満たらたらの様子でしたが、しかし、こうやって連れだって山には来ているのでした。

二人はすぐに下りて行きましたので、あとは写真を撮ったり、どら焼きを食べたりしてひとりの時間を満喫しました。今回は、サーモボトルに温かいお茶を入れてきました。山頂では寒いので、温かいお茶がいいだろうと思ったのですが、昨日はそんなに寒くなかったものの、山に温かい飲み物を持って行ったのは正解でした。

帰りは、今回は笹尾根を30分くらい歩いて、数馬峠(上平峠)から下りました。数馬峠という峠は何故かいくつもあるので、このように括弧で山梨側の地名も付けられているのです。途中の田和峠からも富士山がよく見えました。田和というのも、山梨県の上野原側にあるバス停の名前です。当初、上野原の方へ下りようかと思ったのですが、上野原の方は一日に2便しかバスがなくて、もっと不便なのでした。

数馬峠までの笹尾根は前も歩いたことがありますが、前に歩いたときは霜が残っていてかなりぬかるんでいました。しかし、昨日は霜もなくとても快適でした。やはり、冬枯れの笹尾根はいいなあとしみじみ思いながら歩きました。なんだか子どものときに祖父に山の下刈りに連れて行かれたときに見た風景と似ている感じで、そのときのことが思い出され、涙が出そうになりました。

数馬峠(上平峠)から「仲の平」に下る道は、今回が初めてでした。この道は、守屋地図によれば、「往時の重要な交易路の一つだった」そうです。つまり、武州と甲州を結ぶ道のひとつだったのです。笹尾根にはこういった峠越えの道がいくつもあります。

下りの道はとても歩きやすいし、明るいところも多くて、私がいつも使っている(今回も登りで使った)道よりも全然いい感じでした。前に数馬峠で休憩していたら、この道から女性のグループが登ってきたことがあったのですが、私もこれからはこの道を使おうかなと思いました。昨日も男性がふたりベンチで休憩していましたが、彼らもこの道を登って来たのかもしれません。

ちなみに、今回、山で会ったのは、槇寄山の老夫婦とこの男性二人組だけでした。

しばらく下ると、大きな伐採地の上に出ました。この伐採地は、私が登った道からも見上げることができて、あそこに登りたいなと思ったばかりでした。伐採地の上に立つと、奥多摩の山の景色が目に飛び込んできました。目の前に何も遮るものがないので、三頭山や浅間尾根の稜線を手を取るように見ることができました。

最後に樹林帯のなかの急登を下ると、南秋川の川岸にある廃墟と化したキャンプ場に出ました。朽ちたバンガローがいくつも立っていて、炊事場の跡も残っていました。橋を渡って坂を登ると、檜原街道のバス停からすぐ下りたところに出ました。なんだここが登山口だったんだと思いました。なんだか灯台下暗しのような気持になりました。

初めて来たとき、バス停の近所の人から「この道を進んで一番上の家の横から登るんだよ。川の方に下りたらダメだよ」と言われたのですが、「川の方」というのはここのことだったのでしょう。もしかしたらその頃は昨秋の台風19号の被害がまだ残っていたのかもしれません(奥多摩は台風19号の被害が甚大で、未だ通行止めになっている登山道も多いのです)。

バス停に着いたのは、12時40分でした。予定より20~30分早く着きました。

今回は、8キロのザックを背負って登ったのですが、やはり休憩をこまめに取ったことがよかったのか、逆にいつもより軽快に歩けました。僅か4時間の日帰りハイクなのに、どうして8キロになるんだと思われるかもしれませんが、トレーニングのため、あえて重い荷物を背負って歩いたのでした。ちなみに、いつもは5キロ前後です。

もうひとつは、ガチガチの固い靴を履いたのもよかったのかもしれません。ガチガチの固い登山靴は重くて足が疲れるのですが、しかし、山を歩く上では安定していて非常に歩きやすいのです。これでお気に入りのノースフェイスのトレッキングシューズの出番はなくなるかもしれません。

13時20分のバスに乗り、武蔵五日市駅に着いたのは14時半近くでした。武蔵五日市駅からは拝島、拝島から立川、立川から南武線で武蔵小杉、武蔵小杉から東横線で最寄り駅に帰りました。自宅に帰り着いたのは17時前でした。


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「仲の平」バス停

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檜原街道から分かれた坂道を下ります。

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橋を渡って今度は坂道を登ります。

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川沿いの坂道

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登山道に入りました。

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とても歩きやすい道です。

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同上

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道標も古い

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国定忠治が遠見した?
国定忠治は、人口に膾炙されたヒーローだったので、こういった名所?もねつ造されたのでしょう。

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乾いた落ち葉を踏みながら歩くのは気持がいい。

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西原峠

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槇寄山の山頂に登ると、富士山が目に飛び込んできた。

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槇寄山山頂標識
古くて字が消えかかっている。
もうやむごとなき方が登らないので新調しないのかな?

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三等三角点

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山頂の様子

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数馬峠に向けて笹尾根を歩きます。

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冬枯れの笹尾根

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同上

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同上

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同上

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同上

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田和峠

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田和峠からの富士山

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田和峠道標

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さらに笹尾根を進みます。

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数馬峠(上平峠)の写真を撮り忘れましたが、既に分岐から下山道に入りました。

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こちらも乾いた落ち葉が気持いい。

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道標にこんな札もありました。

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何ケ所か倒木が道を塞いでいました。

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伐採地からの眺望

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左奥から、大沢山、三頭山、鞘口峠

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登山道は伐採地をぐるりと周回するようになっていました。

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南秋川の川岸に残るキャンプ場の跡

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同上

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同上

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キャンプ場から上がったところにある道標

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武蔵五日市駅のホーム(スマホで撮影)
2020.12.09 Wed l l top ▲
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新宿駅~立川駅~武蔵五日市駅~とうげん橋~【馬頭刈山】~和田向~武蔵五日市駅~青梅駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約5時間(休憩含む)
※山行距離:約8キロ
※標高差:650m
※山行歩数:約18,000歩
※交通費:3064円


一昨日(2日)、奥多摩の馬頭刈山(まずかりやま・884m)に登りました。馬頭刈山は前から気にはなっていたのですが、前の夜にふと思い付いて、あまり下調べもせずに行きました。

馬頭刈尾根について、山田哲哉氏は『奥多摩 山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)で、次のように書いています。

  東京都心から奥多摩を見ると、大岳山の左手に雄大に伸びる尾根がある。ひとつの山脈と言っても通じるほどに量感のある尾根は、武蔵五日市駅から近く、養沢川と秋川本流が合流する十里木(じゅうりき)に達している。この尾根の名は馬頭刈尾根。中間に馬頭狩山という展望に優れた山頂をもつ。


また、山田氏は、同書のなかで「この尾根からは、地図にもガイドブックにも書かれてない小さな道が、北秋川方向へ何本も分かれる」と書いていましたが、私はそのなかのひとつの千足尾根を登りました。この「千足尾根コース」(守屋地図)は、茅倉という集落から登るのですが、マイナーなコースなので、取りつきに行くにも道案内もないし、林道を登って集落の突端まで来たものの、すぐに登山口が見つからずあたりをウロウロしました。

一般的には、同じ千足でも隣の「千足沢コース」(同)と呼ばれる沢沿いのコースと、武蔵五日市駅に近い「軍道(ぐんどう)」や瀬音の湯、あるいは「十里木(じゅうりぎ)」に下る「馬頭刈尾根コース」(同)がよく使われているようです。

でも、私は、「千足沢コース」は長い林道歩きがあるみたいなので、あえてマイナーと言われている隣の「千足尾根コース」を歩くことにしたのでした。一応、地図にも登山道として記載されていますが、しかし、途中で「廃道」という表示もあったりして、一抹の不安を抱きながら登山口に向かいました。

新宿駅から6時12分発の快速高尾行きに乗り、途中の立川駅で青梅線の武蔵五日市行きに乗り換え、武蔵五日市駅に着いたのが7時36分でした。そして、駅前のバス停から7時43分発の「藤倉行き」のバスに乗り、「とうげん橋」というバス停で降りました。「とうげん橋」までは30分くらいでした。メインルートの「千足沢ルート」だとバス停は「千足」になりますが、「とうげん橋」はそのひとつ手前のバス停です(でも、林道の登り口は二つのバス停の中間にありどちらで降りても同じでした)。

バスには、途中の警察署や高校や小中学校などに出勤する人達が10数人が乗ってきました。しかし、それらをすぎると、バスのなかは私と同じ年恰好のハイカーの男性、通勤客とおぼしき男女二人、それと途中から乗って来た高齢の夫婦の6人になりました。バスは南秋川沿いの檜原街道をしばらく進み、やがて檜原村役場の前の橘橋を渡ると檜原街道から分かれ水根本宿線に入ります。ここからは川も分岐して、南秋川から北秋川になり、バスも北秋川沿いの都道を走ることになります。

やがて左上手に尖がり屋根が特徴の建物が見えてきました。「やすらぎの里」です。サイトを見ると、「やすらぎの里」は、「地域包括支援センター」「子ども家庭支援センター」「高齢者在宅サービスセンター」「老人福祉センター(ふれあいセンター)」「診療所」「保健センター」「福祉作業所」「児童館」の公共の複合施設だそうです。

バスは、北秋川にかかる橋を渡って「やすらぎの里」の構内に入って行きました。そのとき、私は、「あれっ、ここは前に来たことがあるな」と思いました。バスが構内に入って行ったのを覚えていたのです。でも、「藤倉行き」のバスに乗ったのは今回が初めてです。「いつ来たんだろう?」と考え込んでしまいました。

あとで調べたら、檜原街道を進んで行く「数馬行き」のバスのなかで、一日に何便か「やすらぎの里」を迂回する便があるみたいなのです。つまり、「やすらぎの里」でUターンして、再び橘橋から数馬に向かう便があり、それに乗ったことがあったのでしょう。

「やすらぎの里」で、通勤客と老夫婦が降車して、バスのなかはおっさんのハイカーふたりだけになりました。

私が降りるバス停の名前の「とうげん橋」というのは、「やすらぎの里」の構内に入るときに渡った橋のことでした。「やすらぎの里」の構内を出て再び橋を渡り、都道に出るとすぐにバスは停まりました。

バス停のなかで身支度をして、都道を「千足」のバス停の方に向かって歩きはじめました。しかし、登山口がある林道の入口らしきところに来たのですが、表示はなにもありません。あるのは「この先行き止まり」の看板だけです。

何度も言いますが、奥多摩の山は林道を登った先の集落のいちばん上の家の横に登山口がある場合が多いのです。そういった経験とGPSを頼りに林道を登って行きました。

15分くらい登ると林道のいちばん上まで来ました(ただ、左手では林道の延長工事が行われていました)。先端の家の周辺を見回しても登山口らしきものはありません。道標も見つかりません。延長工事をしている方向にあるのかと思いましたが、GPSを見るとルートを外れます。先端の家の人に訊こうかと思いましたが、わざわざ家を訪ねる勇気はありませんでした。

スマホにダウンロードした地図と見比べながら登山口の表示を探していたら、先端の家の上にある岩の影に古い道標を見つけたのでした。どうやらここが登山口のようです。マイナーなルートなので、よくある注意書きなどの類もいっさいありません。

それに、看板はあったものの道らしきものはありません。雑草の生えたところを恐る恐る入って行きました。すると、先の方に踏み跡が付いた登山道らしきものが出て来ました。

踏み跡はありましたが、道標は稜線に出るまでに古いものが二つあっただけでした。それで、GPSとピンクテープを頼りに、踏み跡を辿りながら登りました。しかし、道に迷うことはありませんでした。と言うのも、巻き道のようなものはほとんどなく、ただひたすら直登と言ってもいいような急登がつづいたからです。

馬頭刈山に関しては、標高がそんなに高くないし危険なところもないので、初心者向けのハイキングコースと紹介されているサイトもあれば、急登がつづくのである程度の経験と体力が必要と書いているサイトもあります。それはどちらもホントなのだろうと思います。選ぶコースによって難易度も違ってくるのです。それが山田哲哉氏も書いているように、馬頭刈山の特徴なのです。

どのルートを登っても、大岳山と馬頭刈山を結ぶ縦走路でもある稜線と合流します。あとは稜線を歩いて、どこまで行ってどこで下りるかなのです。それが山歩きの楽しみを味わえる馬頭刈尾根の魅力です。

稜線に出ると、やっと三本目の道標がありました。それに従って鶴脚山(つるあしやま)から馬頭刈山の方向に歩を進めました。20分くらい歩くと、鶴脚山(916m)に着きました。鶴脚山は稜線上にある小さな瘤のようなピークでベンチもありません。写真だけ撮ってさらに稜線を進みました。すると、今度は階段が現れていったん下りるようになっていました。この鞍部が馬頭刈山との境になるのでしょう。

その下りでこの日唯一のトレランの恰好をした若者と会いました。「軍道」から登って来て、これから大岳山まで走りますと言っていました。「がんばって」と言ったら、「はい、ありがとございます。お気を付けて」と言って頭をペコリと下げて登って行きました。グループで来るのはどうしようもない連中が多いけど、ソロで登って来る若者はホントに好青年が多いのです。

いったん下って再び登り返す途中に、下山に使う「泉沢尾根コース」(守屋地図)の道標がありました。やはりあまり使われてないみたいで、心細いほど薄い踏み跡しかありません。さらにそこから5分くらい登ると馬頭狩山の山頂に着きました。

山頂にはベンチが二つと、周辺の山名とハイキングコースが記載された案内板もありました。案内板を見ると、私が下山に使おうと思っているコースは記載されていませんでした。山田氏によれば、1970年頃まで馬頭刈山の山頂には「展望台というには立派すぎるコンクリートの見晴らし台があった」そうです。

ベンチに座っていつものようにどら焼きを食べて30分くらい休憩しました。この日は曇天で眺望はほとんどありませんでした。晴れた日には富士山を見ることもできるそうですが、厚い雲のカーテンに遮られてどこにあるのかさえわかりませんでした。もちろん、誰も登ってきません。

少し寒くなったので、引き返して「泉沢尾根コース」を下りました。このコースは、落ち葉も多くいっそう踏み跡がわかりにくくなっていました。ただ、途中には真新しい道標がいくつも立てられていました。踏み跡が消えたところでは、何度も立ち止まってGPSで確認しながら慎重に下りました。

一方、下っていると、木製の道標が至るところで噛み千切られているのに気づきました(下記写真)。人間がそんなご丁寧な悪戯をするわけがないので、野生動物の仕業なのでしょう。やはり、クマがいるのかと思いました。帰ってネットで調べたら、メインのルートの登山口には「クマ目撃情報あり」の注意書きが出ているそうです。また、新しい道標(指導標)がクマに齧られるのはめずらしくないのだとか。どうして新しい道標を齧るのかよくわかってないそうですが(塗料の臭いに惹かれるからではないかとか言われている)、どうやらクマの仕業に間違いないようです。

途中でウォーッという唸り声みたいものが聞こえてきたので、笛を吹きながら歩きました。また、何度もクマの糞らしきものも見つけましたが(下記写真)、あとで調べたらクマではなくハクビシンの糞のようでした。

ハイカーの多くは、クマに遭遇したことがないと言いますが、実際はクマに遭遇しているのです。ただ、人間が気付いてないだけです。クマの方が先に人間に気付いて、ヤブの中に身を隠したり、逃げたりしているので、人間は遭遇したことがないと思っているだけです。クマに襲われるのは、不意に鉢合わせになってクマがパニックになるからです。それは、クマに限らず犬でも人間でも同じでしょう。だから、鉢合わせにならないように、見通しの悪い場所では音を立てて自分の存在を伝えなければならないのです。そのためには、熊鈴だけでは不充分で、声を出したり笛を吹いたりすることが大事だと言われています。熊鈴を鳴らすと、自分の存在をクマに伝えるので逆に危険だという話がありますが、それは山に登らない人間の無知蒙昧な”都市伝説”のようなものです。

下山したのは13時半すぎでした。入山したのが8時半頃でしたので、約5時間の山行でした。

下りたのは、檜原街道沿いの「和田向(わだむかい)」というバス停です。ここは笹尾根や浅間尾根や三頭山に行くときに何度も通ったことがあります。このバス停には、6千万円かけて作った総ヒノキ造りのトイレがあるのです。それで、やむごとなき方々と同じように、そのトイレで一度用を足してみたいと思っていたのです。

なかに入ると、ヒノキの臭いがして、とても快適に用を足すことができました。また、横には休憩室がありましたので、そこでバスを待ちました。

登りながら、馬頭刈山もやはり奥多摩の山なんだなあと思いました。標高が低くても、奥多摩特有の急登とは無縁ではないのです。六ッ石山や本仁田山や川苔山(鳩ノ巣駅からの舟井戸コース)に似ているなと思いました。山田氏も「馬頭刈尾根から北秋川へと向かうたくさんの踏み跡を、気ままに下ったことがある」と書いていましたが、私もまたひとつ楽しみを見つけたような気がしました。

また、田部井淳子さんではないですが、冬枯れの人のいない山を歩くのはいいなあとあらためて思いました。特にこの時期は、山を歩くのにいちばん好きな季節です。

帰りは、14時2分のバスに乗り、武蔵五日市駅から青梅駅、青梅駅から立川駅、立川駅から南武線で武蔵小杉駅、武蔵小杉駅から東横線で最寄り駅に帰りました。最寄り駅に着いたとき、外はどじゃぶりの雨で、駅から自宅までは徒歩で7~8分ほどなのですが、あまりに雨脚が強いので駅前のドラッグストアでビニール傘を買いました。帰り着いたのは16時すぎでした。


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とうげん橋バス停

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やすらぎの里

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都道の脇にあった茅倉の滝

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同上

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登山口までの林道

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登山口

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登山道

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同上

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最初の道標

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登山道

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クマの糞かと思った。

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こんな登りがずっとつづく

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登ってきた道を上から見下ろす

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笹尾根のような平坦な道になったが、すぐまた急登がはじまった。

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ようやく先に稜線が見えてきた。

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稜線上の三つ目の道標

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稜線を歩く

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同上

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同上

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日の出山

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御岳山(左奥に大岳山)

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鶴脚山山頂標識

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道標

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再び稜線を歩く

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階段をいったん下る

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稜線上は道標が多く出てきます。

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泉沢の下山ルート(道標は立派だけど、やはりマイナーなルートです)

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馬頭刈山に向けて登り返す

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本日の下山ルートの看板

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先に馬頭刈山の山頂が見えた

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馬頭刈山山頂標識

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山頂の様子

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ここから下山

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下ってすぐ。落ち葉が積もっているのでよく滑ります。尻もちをつきました。

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逆光で見えにくいのですが、道標の半分が折られています。

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ここも齧られている

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このあたりは落ち葉で踏み跡がわかりにくくなっており、慎重に下りました。

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山は下刈りがされて人の手が入っているのがよくわかるので、歩いていて不安はありませんでした。

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この道標も半分が折られています。

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これもハクビシン?

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下山口

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バス停に下りる林道の途中にあった貴布祢伊龍神社

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6千万円のトイレ外観(手前から休憩室、女子トイレ、男子トイレ)

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トイレのなかの休憩室

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和田向バス停

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同上(反対側)
2020.12.04 Fri l l top ▲
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池袋駅~飯能駅~名郷~【天狗岩】~名郷~飯能駅~自由が丘駅

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約7キロ
※標高差:530m
※山行歩数:約17,000歩
※交通費:3,584円


悪夢のような蕨山から3ヶ月、一昨日、再び名郷に行き、今度は武川岳に登りました。と正確に言えば、武川岳には登らずに途中の天狗岩で引き返しました。ただ、最初からその計画でした。

名郷から飯能駅に戻るバスは、14時28分のあとは17時01分まで便がないのです。この時期、17時と言えば既に暗くなっています。前の蕨山のときも、14時28分のバスに乗り遅れましたが、今回の武川岳は蕨山より山行時間が長いので、14時28分で帰るのは最初から無理な相談です。それで、14時28分のバスに合わせて、天狗岩で引き返すことにしたのでした。

それにしても、名郷のルートは私にとって鬼門です。と言うのは、棒ノ折山のときも、蕨山のときも、そして今回も、いづれも一睡もしないで出かけたからです。何故か、特に理由もなく、名郷に行くときはいつも眠れないのでした。

睡魔に襲われながら、途中で山に行くのはやめようかと何度も思いましたが、そう思いながら電車は飯能駅に着きました。しかも、飯能駅に着くまで、どの山に登るかという計画もまったくありませんでした。

前から何度も言っているように、奥武蔵(埼玉)や奥多摩(東京)で日帰りで行ける山はほぼ行っているので、いくら考えても行く山が思いつかないのでした。高尾山や陣馬山や高水三山などはまだ行っていませんが、そういった人の多い(特におばさんが多い)山は私のリストでははじめから除外されているのでした。

飯能駅には7時に着きました。飯能から秩父線に乗り換えて沿線の山に登るか、それともバスに乗って名郷に行くか、駅のホームに降りた時点でもまだ迷っていました。秩父線の電車は7時40分だかに出ます。名郷行きのバスは7時45分です。

ホームのベンチに座って思案した結果、上記のとおり武川岳の天狗岩に行こうと思い至ったのでした。岩登りが面白いので、天狗岩の岩がどんな感じなのか、見てみたいという気持がありました。それで、スマホで登山届を作成しながら駅の改札口を出たのでした。

バスの発車まで時間があったので、バス停の前にある吉野家で朝食を食べました。吉野家で朝食を食べるのは4~5年ぶりでしたが、前のしょぼい朝食と違って見違えるようにバージョンアップしていたのには驚きました。

吉野家を出たあと、バスの時間までまだ少しあるので、バス停から少し離れたところでバスを待っていました。バス停には、既にザックを背負った初老の夫婦が立っていました。と、突然、駅の階段からどどっと中高年のおばさんの一団が下りて来たのでした。「これはやばい」と思って、あわててバス停に並びました。おばさんたちは10人は優に越える団体でした。めずらしくおばさんだけで、男性はひとりもいません。おばさんたちは、ご多分に漏れずテンションが高く、バスのなかでもワイワイガヤガヤ姦しい限りでした。ソーシャルディスタンスなどどこ吹く風です。

バスは8割がた埋まっていましたが、通勤客は数人であとはハイカーでした。それも若者はひとりもいません。見事なほど中高年ばかりです。通勤客は、途中の中学校前などで降りて、あとは完全な登山バスになりました。45分くらい走ると、棒ノ折山の登山口の最寄りのバス停に到着しました。そこで団体のおばさんたちやほかの大半のハイカーも降りて行き、バスのなかはやっと静かになりました。

残ったのは、一番前に並んでいた初老の夫婦と高齢の男性ハイカー、それに私だけです。みんな、当然終点の名郷まで行くんだろうと思っていました。

ところがしばらく進むと、突然、高齢の男性のハイカーが降車ボタンを押したのでした。こんなところで降りてどこに行くんだろう?と私は思いました。すると、男性のハイカーは、料金を払う際、「さらわびの湯はどう行けばいいんですかね?」とバスの運転手に尋ねていました。運転手は、「先程団体さんが降りたでしょ。あそこにさわらびの湯があるんですよ。朝の便は中まで入って行かないですよ」と答えていました。男性は、「そうですか。じゃあ歩いて戻るしかないですね」と言って、如何にも重そうなザックを背負ってバスを降りて行きました。

終点の名郷は、団体が降りたバス停からさらに20分くらい進んだところにあります。蕨山のときはバス停の手前の橋を渡りましたが、武川岳はバス停の先の林道を進みます。一緒にバス停で降りた初老の夫婦も、同じ林道を歩いていました。やはり武川岳に登るのかと思いましたが、武川岳の登山口の方には曲がらずに、キャンプ場がある方へそのまま進んで行きました。それ以後はまったくの単独行でした。行きも帰りも誰にも会いませんでした。

民家が点々と建っているあたりを進み、二度ほど林道を横切り、急階段を登ると、武川岳の登山道に入りました。あとは樹林帯のなかをひたすら進みます。途中、結構な急登もあり、息が上がりました。

今回は、ハードなシャンク(ソールの芯)が入った重い登山靴を履いて来たので、アスファルトの道を歩いて来た時点で既に足の脛が疲労しているのがわかりました。靴底も固いので、足裏も痛くなります。

最近の山行では、コロナの“巣ごもり消費”で買ったノースフェイスのトレッキングシューズを履いていましたが、石や岩が多い道を歩いていると、足を捻ることがありました。登山靴とスニーカーの中間のような、靴底がやや柔いトレッキング用の靴なので、石や岩が多い道だとどうしても左右にぶれるのでした。足を捻るのは怖いことです。捻挫でもしたら歩けなくなってしまいます。まして、私は、いつもひとりだし、あまり人がいない山を歩くことが多いので、へたすると遭難になってしまいます。

それで今回は「本格的な登山にも適している」と謳われているハードなシャンクの入った靴を履いて来たのでした。ただ、その分足の疲労度が増すのは仕方ありません。

天狗岩にはバス停から1時間半くらいで着きました。一昨日は半袖でも充分なくらい、秋晴れの暖かな天気だったので汗びっしょりになりました。水もペットボトルを3本持って来たのですが、それでも足りないほどでした。

天狗岩は、「結構な」という言い方が適しているような岩場でした。蕨山のそれとは比較にはならないほどです。「上級者向け」という看板が出ていましたが、上級者というのはオーバーにしても、初心者には少し難度が高いかもしれません。標高差は約80m、距離が約230mの岩場だそうです。かなり斜度の高い登りもありました。足を滑らせると大きな怪我になる可能性もあります。特に下りは慎重を要しました。岩に正対して下りた方が安全な箇所もありました。今の時期は、岩に積もった枯葉の上に不用意に足を置くとずるっと滑るので、神経を使いました。

天狗岩からは、40分くらいで前武川岳に行けます。さらに前武川岳から20分で武川岳の山頂に着くそうです。まだ時間的には余裕があったので、前武川岳まで行こうかと思ったのですが、昼食も持って来てなかったので、余裕をもって早く下りることにしました。

麓から山の中まで紅葉がまだ残っており、色鮮やかな秋の山を堪能することができました。天狗岩の頂上の岩に座って、行動食の羊羹と饅頭を食べながら、断崖に広がる紅葉を眺めてしばらく休憩しました。

帰りは、途中寄り道をしたりしてゆっくり下りたので、1時間ちょっとかかりました。名郷のバス停に着いたのは12時半すぎで、バスの時刻表を見ると、13時28分のバスがあることがわかりました。前武川岳までの往復の時間を考えると、あのまま前武川岳まで行ったら、14時28分のバスにはギリギリ間に合うかどうかです。天狗岩で引き返したのが正解だったなと思いました。それに、時間を気にして急かされて歩くより、こうしてゆとりを持って歩いた方が山を満喫できていいなあと思いました。

名郷バス停には、登山者用の駐車場(1回500円)もありますが、朝停まっていたのは1台だけでした。しかし、帰る頃には7~8台停まっていました。ほとんどは蕨山方面に登っている人たちなのでしょう。

始発の名郷からバスに乗ったのは私だけでした。まだ午後の早い時間なので、いつも行列ができているさわらびの湯からも、数人ハイカーが乗っただけでした。しかし、途中から一般客が増えて、飯能の街に入る頃には立っている乗客もいたくらいでした。

いつもだと東飯能から八高線で八王子、八王子から横浜線で帰るのですが、まだ時間が早かったので、飯能駅から特急の「横浜・中華街行き」に乗り、自由が丘で各駅停車に乗り換えて帰りました。最寄り駅に着いたのは、16時半すぎでした。


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飯能駅北口バス停(右が吉野家)

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名郷バス停

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武川岳の登山口がある林道へ向かって歩きはじめる
前を行くのが初老の夫婦ハイカー

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既に名郷のバス停から1キロ歩いた

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林道から近道の階段を登る

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階段の上にあった紅葉

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登山道みたいですが、もう一度林道に出ます。

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8月に散々な目にあった蕨山

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再び林道に出てもう一度階段

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階段の上はロープが張られているほどの急坂

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ここから実質的な登山道
巻道が正解で、直登の「上級者向け」は現在死んでいます(採石場に迷い込むみたいです)。

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最初はゆるやかな巻道でした。

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やがて直登になり、息が上がりました。

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登って来た道を見下ろす

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登った先は採石場の金網
石を砕く音が間断なく聞こえていました。

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途中、登山道の右上に岩場がありました。天狗岩と間違えるみたいですが、天狗岩ではありません。でも、岩に登ってみました。

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岩の上を歩きました。

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同上

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岩場が終わり、登山道と合流してしばらく歩くと、目的の天狗岩に着きました。

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ザックをデポして、カメラとサコッシュ、それにズボンのポケットにペットボトルを入れて登りました。

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同上

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同上

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同上

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下る際はこのピンクテープが目印になりました(ピンクテープはホントにありがたい)。

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岩と岩の間に落葉が積もっているので注意です。

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同上

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天狗岩の上にある紅葉

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岩の上から見える紅葉

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天狗岩頂上の標識

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前武川岳に向かう道

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岩の横の断崖にある紅葉

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岩を下る途中

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同上

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同上

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麓に下りるとススキが風に揺れる風景も見ることができました。田舎の通学路でいつも見ていた風景です。

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入間川沿いにある大鳩園キャンプ場
テントが一張ありました。

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川岸の紅葉

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林道の上にあった小さな神社
お賽銭をあげてお参りしました。
2020.11.18 Wed l l top ▲
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東京駅~佐久平駅~高峰温泉~【水ノ塔山】~【東篭ノ登山】~池の平~高峰温泉~新宿バスタ

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約8.3キロ
※標高差:320m
※山行歩数:約18,000歩
※交通費:10,410円


昨日、東篭ノ登山(ひがしかごのとやま・2228m)に登りました。東篭ノ登山は、長野県(東御市)と群馬県(嬬恋村)の県境にある山です。近くには、知名度の高い黒斑山(くろふやま・2404m)があり、どちらかと言えば、黒斑山の陰に隠れたような存在の山です。

当初、黒斑山に登ろうかと思ったのですが、私がいつも参考にしている登山サイトで調べたら、黒斑山に比べて水ノ塔山(2202m)と東篭ノ登山をミニ縦走した方がコースタイムが長いみたいなので、水ノ塔山経由で東篭ノ登山に登ることにしたのでした。

と言うのも、帰りは登山口のある高峰温泉から出ているバスタ新宿行きの高速バスに乗る予定で、そのバスの出発時間が16時17分なのでした。行きは高速バスだと到着が午後になるので、新幹線で行きました。新幹線だと、駅からバスを乗り継いで登山口に到着するのが9時半すぎです。それから登ると、黒斑山だと下山が13時前になります。ホテルが1軒あるとは言え、バスの出発まであまりにも時間が余ります。まだしも東篭ノ登山の方が待ち時間がいくらか少なくなると思ったのでした。

それともうひとつは、登山者が少ない東篭ノ登山で、久しぶりにゆっくり山を歩きたいという気持もありました。

東篭ノ登山も黒斑山も、浅間連峰に属する浅間山の外輪山です。ちなみに、浅間山は昨年11月の噴火に伴い現在噴火警戒レベル2に指定され、火口周辺は入山規制されています。また、火口から2キロ以内は噴火時の噴石や火砕流の警戒が今も呼びかけられているそうです。地元の人は、「今の予報官は慎重な人なので、警戒レベルの解除には時間がかかるのではないか」と言っていました(各山に担当の予報官がいるとは知りませんでした)。

行きは、東京駅6時28分発の北陸新幹線はくたかで長野県の佐久平駅まで行きました。

佐久平駅から8時25分発の高峰温泉行のバスに乗車し、約1時間で終点の高峰温泉に到着しました。バス停のすぐ横に東篭ノ登山の登山口がありました。黒斑山の登山口はひとつ手前の高峰高原ホテル前のバス停にあります。もっとも、二つのバス停は数百メートル離れているだけです。

佐久平駅からバスに乗ったのは私を含めて二人だけでした。ひとつ先の小諸駅からさらに一人乗り、乗客は三人になりましたが、二人はいづれも途中で降りたので、以後乗客は私ひとりだけでした。バス料金は先払いで1470円でした。ちなみに、帰りの高速バスはGoToキャンペーンが適用されたらしく2200円でした(ネットで予約した際初めて知り驚きました)。高速バスは、佐久平駅までは路線バスを兼ねていましたので、2200円から1470円を引くと、佐久平駅から新宿までは730円の計算になります。新幹線だと6260円です。こんなことでいいんだろうかと正直思いました。

時間の調整が面倒くさいので、最初は前泊することを考えていました。まず、高峰高原ホテルに泊まって、黒斑山に登ることを考えました。そうすれば、16時まで高速バスを待たなくても、午後1番のバスで佐久平駅に戻って新幹線で帰ることができるのです。

ホテル代もGoToが適用されて1泊2食付きで11000円でした。しかし、ある理由で前泊はあきらめたのでした。それは、夕食です。夕食がフランス料理のコースらしいのです。しかも、それ一択。それがホテルのウリで評判らしいのですが、ナイフとフォークが両脇にずらりと並べられる光景を想像するだけでも気が滅入ってきます。それに、普段食べ慣れないものを食べると腹を壊して下痢をする懸念もあります。実際に上高地に行った際、人生が終わったような経験をしたことがあり、未だそれがトラウマになっているのでした。

そもそも山に登るのにどうしてフランス料理のコースを食べなければならないんだという気持もありました。それでホテルの前泊は取りやめたのでした。

次に終点の高峰温泉の旅館に泊まることも考えました。高峰温泉には「ランプの宿」として有名な日本秘湯を守る会推奨の旅館があります。サイトで予約する際は、日本秘湯を守る会に入会することが条件になっていました(入会は無料です)。しかし、宿泊数を一人にすると、どうしても予約できませんでした。二人以上でないと予約できないのかと思って予約をあきらめたのですが、下山時、旅館に寄ってそのことを話したら、GoToでずっと満室で予約ができない状態になっていると言っていました。

旅館の横からは林道(湯の丸林道)がさらに奥に延びており、4キロ先には大きな駐車場やインフォメーションセンターを備えた池の平という登山口もあります。近くには湿原もあるそうです。池の平からだと東篭ノ登山は1時間でお手軽に登れるので、シーズン中は家族連れも登るみたいです。しかし、湯の丸林道の入口はゲートが閉じられていました。既に11月4日から来年の4月末まで冬季期間の通行止めになっていました。私は、下山に池の平のルートを使ったのですが、駐車場もトイレもインフォメーションセンターも閉鎖され、まったく人影もなく閑散としており、えも言われぬ淋しい光景が広がっていました。池の平からは、4キロの林道を1時間かけて高峰温泉まで戻りました。

朝、高峰温泉に着いたとき、気温は氷点下3度でした。登山道に入ると、前に降った雪が残っていて、それが凍結していました。南側は雪が解けていましたが、北側はまだ真っ白でした。また、霧氷も至るところで見られました。ただ、念の為に軽アイゼン(スノースパイク)を持って行きましたが、使うことはありませんでした。

最初はゆるやかな登りの道でしたが、水ノ塔山の手前に来ると岩場が続きました。北アルプスに行く練習になるとネットに書いている人がいましたが、それはいささかオーバーにしても、たしかに西穂高の独標に似ていると言えばそう言えないこともありません。岩場は南に面しているので、残雪も少なく、それに凍結もしてなかったので、あまり苦労せずに登ることができました。山頂は岩の上にありましたが、南側がひらけているので、小海線沿線の小諸や東御市の街並みやその奥にそびえる八ヶ岳連峰の山並みを見渡すことができました。

水ノ塔山からは北の方に一旦下りましたが、低い灌木におおわれた道に入った途端、一面真っ白な世界が目に飛び込んで来ました。岩が剥き出した道をしばらく下ると、今度は南側に向けて登り返さなければなりませんでした。再び稜線に出ると、それからは「赤ゾレ」と呼ばれる崩落地の上を歩くことになりました。地図には「滑落注意」のビックリマークがありましたが、思ったより道幅が広いのでそれほど緊張感もなく進むことができました。崩落地はかなり規模が大きく、100メートルくらいの距離を二か所歩くことになります。崩落地を歩いていると、先の方に東篭ノ登山が見えました。

最後の東篭ノ登山に登る道では、今回の登山で初めて息が上がりました。そして、その道で唯一の登山者とすれ違いました。埼玉から来たそうで、何でも自然の家だかなんだかに5連泊していて、周辺の山を歩いているのだそうです。池の平から登って来たけど、水ノ塔山まで行ったら引き返すと言ってました。

標高差は200メートルちょっとしかありませんが、水ノ塔山と東篭ノ登山をミニ縦走すると、一旦下ってまた登り返しがあるので累積標高差は500メートルを越えます。

稜線を歩くと風が吹き曝しなので、寒くてなりませんでした。そのため、山の上ではほとんど座ることができませんでした。東篭ノ登山も一等三角点の山なので、四方がひらけている分、風を除けるものがなく、立って足踏みしながら持参した行動食の羊羹やまんじゅうを食べました。

池の平までの下山ルートは40分程度でしたが、池の平が閉鎖されているということもあって人の気配はなく、熊笹が生い茂った登山道は今にも熊が出てきそうな雰囲気で、鈴はもちろんですが、見通しの悪い箇所では笛を吹きながら歩きました。

林道を1時間歩いて、高峰温泉に横にあるゲートをくぐって登山口に戻って来たのは、15時前でした。バスの出発まであと1時間ちょっとです。バスは到着していましたが、旅館の人の話では運転手はバスのなかで昼寝しているそうです。バスのドアが開くのは出発の15分くらい前だそうで、それまで旅館の喫茶室で時間を潰しました。食事をしようとしたら既に定食が終わったというので、おはぎを頼み、そのあと温かいコーヒーを飲みました。

高峰温泉のすぐ下にはスキー場があります。でも、スキーブームが去ったということもあって(それにアクセスも設備もお世辞にもいいとは言えないので)、シーズン中でも平日は10~20人くらいしか来ないときもあるそうです。広大なゲレンデに10人とは、ある意味で穴場じゃないかと思いました。

たしかにこの前行った入笠山や北横岳のスキー場に比べると、環境面では雲泥の差です。プロが使う球場と草野球用の河川敷のグランドくらいの違いがありました。

帰りの高速バスに始発から乗ったのは、私以外に旅館に泊まっていた若い女子グループ3人の4人だけでした。小諸駅からは、若いカップルが二組乗ってきました。なんのことはない年配者で格安の高速バスに乗っているのは私ひとりだけでした。

行きの北陸新幹線は、GoTo効果なのでしょう、平日にもかかわらず結構混んでおり、予約する際も、二人掛けの座席で横が空いている席を見つけるのに苦労するほどでした。三人掛けの座席も8割くらいは埋まっていました。途中軽井沢を通りましたが、さすがにこの時期に軽井沢で降りる人は誰もいませんでした。出張のサラリーマンは別にして、観光客はほとんど金沢に行くのかもしれないと思いました。新幹線で目立ったのは、年配の夫婦や成人した子どもがいる家族連れでした。

バスタ新宿からは、いつものように新宿三丁目駅まで歩いて副都心線で帰りました。最寄り駅に着いたときは21時をまわっていました。

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佐久平駅

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駅前のロータリーにあった紅葉

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高峰温泉の水ノ塔山・東篭ノ登山の登山口

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同上

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凍結した登山道

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同上

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水ノ塔山の登りの岩場

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ひとつ越えるとまた岩場

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下から稜線を見上げる

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さらに稜線の先にある東篭ノ登山

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上から見えるスキー場

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右下の建物が登山口のある高峰温泉の「ランプの宿」

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正面に見えるのが水ノ塔山のピーク

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大きな岩

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水ノ塔山の山頂標識

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登って来たルートを振り返る

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遠くに小海線沿線の街と八ヶ岳連峰の山並み

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いったん北の方へ下りる

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北側に入った途端、白い世界

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北側からは菅平や嬬恋、軽井沢方面が見える
正面は四阿山?

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南側に登り返すと再び稜線
崩落地(赤ゾレ)

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崩落地と東篭ノ登山

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崩落地

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高峰の標識

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東篭ノ塔山山頂標識

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同上
横に一等三角点の石柱

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山頂の様子
とにかく寒い

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樹氷

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北側の風景
その先に見える山は、西篭ノ登山

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寒いので西篭ノ登山はパス

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池の平に下る

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熊に怯えながら歩いた

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池の平に到着

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こんな注意書きもあった

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湯の丸高峰自然休養林の看板

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駐車場(閉鎖中)

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トイレ(閉鎖中)。

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インフォメーションセンターも来年4月まで閉鎖

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熊出没注意の札がある東屋で休憩

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ゲートが閉まった林道を約1時間歩いて高峰温泉の登山口に戻る

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水ノ塔山

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縞枯れ現象?

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高峰温泉「ランプの宿」

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帰りのバスが既に待機していた
2020.11.11 Wed l l top ▲
先日、国師ヶ岳に登った際、70歳を優に超えているような高齢の女性がひとりで登っているのに遭遇しました。かなりきつそうで、少し歩いては立ち止まりまた歩いては立ち止まるということをくり返しながら登っていました。横を通り過ぎる際、「こんにちわ」と挨拶するとハアハア荒い息を吐きながら「はい、こんにちわ」と弱々しい声で挨拶を返してきました。

そして、山頂で休憩していると、やがてその高齢の女性も登ってきました。「やっと着いた」という感じで立ち止まると、額の汗を拭いながら山頂を見回し、如何にも嬉しそうな笑顔を浮かべていました。

見通しのいい岩に腰をおろすと、水を飲みながら地図を広げて、目の前に見える山と地図を見比べて山座同定していました。さらに山頂標識のところに行って、小さなデジカメで写真を撮っていました。また、地図を片手に山頂のあちこちに移動して四方の山に目を凝らし、山名を確認していました。

その様子を見ていると、如何にも山が好きだという感じで、表情も生き生きとしているのでした。

私は、女性の行動を目の端で追いながら、素敵な光景だな、自分もあんな風になりたいなと思いました。なんだかそこには、山が好きだから山に登るという本来の姿があるような気がしました。

前に山で会ったベテランの山岳ガイドの人が、高齢の男性がゆっくりしたペースで登って来ているのを指差しながら、「あの人の歩き方が登山の理想の歩き方なんですよ」と言っていたのを思い出しました。

登山はスポーツですが、しかし、競技ではないのです。それぞれのペースでそれぞれのスタイルで登ればいいのです。

脇目もふらず山に登り、山頂には少しの時間しかおらず、またあわただしく山を降りて行き、山と高原地図のコースタイムに比べて何分速かったとか言っている登山者もいますが、私は、(もうそんな登り方が叶わなくなったということもあって)彼らは何のために山に登っているんだろうと思うことがあります。それならわざわざ山なんかに来なくても、近所の河原を走ればいいのにと思います。そんな人たちに比べれば、高齢女性の山行はなんと贅沢なんだろうと思います。山に登るのなら、途中で立ち止まって山の景色やまわりの植物を見る余裕くらい持ちたいものだと思います。

しばらくすると、女性はザックからラップで包まれたおにぎりを出すと、それを両手で包むように持って食べ始めたのでした。そうやっておにぎりを頬張りながら、いろんな方向に目をやり山頂からの景色を楽しんでいました。

最近は、ユーチューバーなのか、スマホを取り付けた自撮り棒を片手で持ったり、ザックの肩ベルトに小型カメラを取り付けて登っているハイカーを見かけることが多くなりましたが、私はそれらは本来の登山とは違うように思えてなりません。

また、知り合いの若者は、「承認欲求で山に登る人がいるんですよ」と言っていましたが、そういった山行は高齢女性のそれとは真逆にあるもののように思えてなりません。

山を降りてから乗り合いタクシーの出発まで時間があったので、運転手の方と四方山話をしていた際、高齢女性の話をしたら、運転手も「そういう人がいますよ」と言っていました。年に6回だか都内からやって来る高齢の男性がいるのだそうです。その日も来ていると言っていました。運転手は名前も知っているようで「✕✕さん」と苗字を口にしていました。

「山に登るんですか?」
「いや、歳なんで山には登らないんですよ。小屋で時間を潰したりしていますね。山の雰囲気が好きみたいですよ」

上に登る体力はなくなったけど、それでも山の雰囲気を味わうために山を訪れるというのは、なんといい話なんだろうと思いました。

運転手自身も高齢で、シーズン中の運行日だけ臨時で働いていると言っていました(登山バスは11月いっぱいで今年の運行は終了するそうです)。若い頃はやはり山に登っていたみたいで、地元だということもあって「北岳や赤岳、間ノ岳や甲斐駒や仙丈ケ岳にも登ったことがありますよ」と言っていました。だから、山には登らないのに山の雰囲気を味わうために年に何度も通って来る高齢男性の気持がわかるのでしょう。

「山が好きだ」という気持は、私も痛いほどよくわかります。そして、その「山が好きだ」という気持と孤独の心は切っても切れない関係にあるように思います。ヘーゲル風に言えば、山に登るということは、「即自」でも「対自」でもなく「向自」的なところがあるような気がします。警察や山岳会などからは懸念されますが、やはり、山に登ることの本質は単独行にあるのではないかと思います。山の思い出というのは、孤独な心のなかから生まれるのではないか。他者(視聴者)を意識して自撮り棒で自分の顔を映したり、あるいはリーダーの背中を見て歩くだけのおまかせ登山では、ホントの山の魅力とは「理会」できないのではないかと思うのです。


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登山とYouTube
2020.11.03 Tue l l top ▲
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新宿駅~塩山駅~柳平~大弛峠~【国師ヶ岳】~【北奥千丈岳】~大弛峠~柳平~塩山駅~新宿駅

※山行時間:約3時間(休憩含む)
※山行距離:約2.7キロ
※標高差:260m
※山行歩数:約10,000歩
※交通費:11736円


昨日、奥秩父の国師ヶ岳(2592m)に登りました。国師ヶ岳は、所在地は山梨市で、山梨県と長野県の県境にあります。ついでに、国師ヶ岳から歩いて10分くらいのところにある北奥千丈岳(2601m)にも登りました。北奥千丈岳は、奥秩父の山塊の最高峰の山です。

大弛峠(おおだるみとうげ)は百名山の金峰山(2595m)の登山口として有名で、私も金峰山に登りたかったのですが、時間の都合で向かいにある国師ヶ岳に登ることにしたのでした。

というのも、電車やバスを利用して行くと、新宿・塩山間が特急で1時間25分、塩山駅から登山口まではバスと乗り合いタクシーを利用して1時間半もかかり、時間的にタイトだからです。

塩山駅から出ている登山バスは、週末のみの運行で、しかも行きが3便、帰りが2便しかありません。それに、登山バスは途中の柳平までで、柳平から大弛峠までは乗り合いタクシーに乗り換えなければなりません。また、利用するには前日までにネットか電話で予約する必要があります。

塩山駅に停車する特急かいじ(週末の臨時列車)の新宿発の始発は午前7時3分で、塩山駅に着くのは8時25分です。登山バスの1便は7時半なので、1便に乗るのは最初から無理な相談でした。2便が8時半で、それにギリギリ間に合うくらいでした。

帰りは、午後2時50分と4時の2便ですが、私は、午後2時50分発の1便を予約しました。登山開始が午前10時すぎになるので、それだと金峰山に登るには時間的に余裕がなさすぎます。

午後4時の2便を予約すれば金峰山に登ることも可能ですが、しかし、この時期の午後4時は既に暗くなり始めている頃でしょう。まして山のなかでは尚更です。正午までに目的地(山頂)に到着して、午後3時までに下山するという秋冬の山行の常識から言っても、それに私のスキルから言っても、金峰山はあきらめざるを得ませんでした。

当初、塩山駅の近くに前泊して1便で登ろうかと考えてネットで探したのですが、あいにく塩山駅の近くにビジネスホテルはありませんでした。

バスは前回の大菩薩嶺同様、補助席も使うほどの超満員でした。バスの運転手によれば、今年最高の人出だそうです。やはり、天気に恵まれたからかもしれません。

柳平に着くと、既に9人乗りのジャンボタクシーが5台待機していました。

乗り換え場所の前には、小学校がありました(下記写真参照)。休校中の牧丘第一小学校柳平分校の校舎だそうです。柳平は、標高1500メートルで、国内では最高峰の定住集落です。真冬はマイナス20度になることもあるそうです。柳平には昭和21年に8戸が入植し、現在も酪農を営んでいるのだとか。

また、同じ乗り換え場所には、金峰山荘という山小屋もありました(間違いやすいのですが、長野県側にも同名の山小屋があります)。

柳平から40分くらいで、大弛峠に着きました。びっくりしたのは、路上駐車している一般車の数です。駐車場は50台くらいのスペースがあるそうですが、それでも足りず、1キロくらいに渡って路肩に車が停められているのでした。道幅の狭い林道なので、ワゴンタイプのタクシーが通過するのも苦労するほどでした。

平日はマイカーしか来ることができないので、もともとマイカーで来る人が多いのでしょうが、それにしてもその光景には驚くばかりでした。運転手が言う今年最高の人出というのがわかりました。運転手も「離合もUターンもできないので困りますよ」と言っていました。

金峰山と国師ヶ岳の登山口は向い合ってありましたが、むしろ、国師ヶ岳の登山口の方が目立っていました。登山口のすぐ上に大弛山荘がありました。大弛山荘は、大弛峠で唯一の山小屋です。国師ヶ岳は、大弛山荘の横を通って登ります。途中の前国師ヶ岳というピークまでは、ひたすら木の階段を登らなければなりませんでした。それも結構傾斜の大きい階段がつづきました。山行時間は短いものの、階段嫌いの人には苦行に思えるかもしれません。途中の前国師ヶ岳からは、岩も多くなり登山道らしくなりますが、それまではあまり登山をしているという感じではありませんでした。私の場合、足が大きいので(今、いちばんよく使っているノースフェイスのトレッキングシューズは30センチです)、奥行きの短い階段の場合、靴を斜めに置かないと奥の段差の部分に靴が引っかかるので、特に下山するときは神経を使いました。

前国師ヶ岳(2592m)まで登るといっきに眺望がひらけました。富士山もよく見えました。また向かいにある金峰山の五丈岩も見えました。さらにその向こうには雪を頂いた南アルプスの山々を見渡すことができました。

さらに岩の道を進むと国師ヶ岳と北奥千丈岳の分岐が現れました。先に国師ヶ岳の方に進むことにしました。

登山口から約1時間で国師ヶ岳に着きました。国師ヶ岳の山頂は、岩峰の上にあります。一等三角点の山なので、山頂からはさらに眺望がひらけました。目の前に富士山がドンとそびえる眺望は、金時山に勝るとも劣らないほどです。予想外の快晴で、来てよかったなと思いました。大弛峠は先週雪が降ったみたいで、まだ雪が残っているのではないかと思い、チェーンスパイクを持って来たのですが、まったくの杞憂でした。長袖のTシャツにウインドブレイカーを羽織っていましたが、全然寒くありませんでした。これ以上ない登山日和と言っていいような天気でした。

山頂には6~7人くらい先客がいました。みんな「凄いね」「こんなに(富士山が)大きく見えるとは思わなかった」と口々に言っていました。最近、山に行くときはどら焼きを持って行くのですが、国師ヶ岳の山頂でも、岩の上に腰をおろししてどら焼きを食べながらしばらく眺望を楽しみました。

帰りは、分岐から北奥千丈岳に寄りました。北奥千丈岳の眺望にも目を見張るものがありました。南アルプスから中央アルプス、果ては北アルプスまで見渡せました。遠くの山の上に白いものが見えましたが、おそらく車山の山頂にある気象レーダーなのでしょう。

帰りは、夢の庭園を経由して40分くらいで登山口まで下りて来ました。登山口に着いたのが午後1時で、予約しているバス(タクシー)の出発まであと1時間50分もあります。タクシーは既に駐車場に待機していました。大弛峠の周辺を散策したあと、待機しているタクシーのところに行って、「中で待つことはできますか?」と訊きました。すると、高齢の運転手が「いいですよ。9人揃えばいつでも出発できるんですよ」と言うのです。ただ、乗り換えの柳平で後続のタクシーを待つことになるけどと言ってました。

既に女性が2人と男性1人が待っていました。それで、私が「じゃあ、あと5人探しますよ」と言って、峠に下りて来る登山者に「バスを予約している人はいませんか?」と声をかけました。すると、瞬く間に9人揃ったのでした。

柳平に着くと、既にバスが待機していました。それで、後続のタクシーが来るまで、バスに乗って待つことにしました。なかには、金峰山荘に行って時間を潰している人もいました。帰りのバスも補助席を使うほど超満員でした。

塩山駅に着いたのが午後4時すぎで、スマホで調べると午後4時27分発の特急かいじがあったので、スマホの「えきねっと」で予約してホームに下りました。すると、反対側のホームには、JR東日本が運行する豪華寝台特急の四季島が停車していました。職員がホームの下り口で、見学にやって来る親子に旗を配ったり、親子が記念写真を撮るのを手伝ったりしていました。私も(あまり興味はないけど)ホームの端に行って写真を撮りました。

新宿駅に着いたのは午後6時前で、それからいつものように新宿三丁目駅まで歩いて、東横線に乗り入れている地下鉄副都心線で帰りました。最寄り駅に着いたのは、午後7時前でした。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

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柳平の牧丘第一小学校柳平分校(休校中)

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校庭の裏にある紅葉

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バス停

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乗り合いタクシー

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足元の落葉

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大弛峠駐車場

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国師ヶ岳登山口

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大弛山荘

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登山道

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階段(前国師ヶ岳まで延々とつづく)

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金峰山(山頂の小さく尖っているのが五丈岩)

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前国師ヶ岳

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国師ヶ岳と北奥千丈岳の分岐

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国師ヶ岳からの富士山

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国師ヶ岳山頂の様子

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山頂標識

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もう一度富士山

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もう一度山頂標識

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南アルプス

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遠くに北アルプス

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北奥千丈岳山頂標識

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山頂の様子

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山頂からの眺望

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よく見ないとわかりませんが、ここにも縞枯れ現象がありました。

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北奥千丈岳の山頂と金峰山

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夢の庭園

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夢の庭園の階段から大弛峠の駐車場を望む

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金峰山登山口
金峰山まで3.6キロと書いていました。御前山や川苔山や本仁田山や六ッ石山より短いのです。金峰山に比べると、奥多摩の山は地味だけど登り応えのある山が多いことがあらためてわかります。

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大弛峠の様子
登山者以外に峠越えのライダーやヒルクライムのサイクリストも多くいました。

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四季島

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塩山駅のホームの先端にあったよそ者には意味不明の碑
2020.11.01 Sun l l top ▲
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武蔵小杉駅~立川駅~八王子駅~甲斐大和駅~上日川峠~【大菩薩嶺】~上日川峠~甲斐大和駅~大月駅~新宿駅

※山行時間:約4時間半(休憩含む)
※山行距離:約7.5キロ
※標高差:530m
※山行歩数:約21,000歩
※交通費:7310円



一昨日、早朝、4時半に起きて大菩薩嶺(2057メートル)に登りました。ネットで調べたら、通常土日しか運行していない登山バスが10月は今週と来週の二週間だけ平日も運行していることを知ったからです。登山バスに乗れば、登山口のある上日川峠までバスで行けるので、その分山行時間に余裕ができ、帰りのバスを心配しなくて済みます。

行きは武蔵小杉から南武線で立川、立川から八王子に行き、八王子で松本行きの普通電車に乗り換えて、最寄り駅から約3時間で登山バスが出ている山梨県甲州市の甲斐大和駅に着きました。甲斐大和駅から上日川峠までは、バスで45分くらいでした。

バスは29人乗り(?)のマイクロバスで、補助席をフルに使うほどの超満員でした。それでもバス停に並んでいた人は全員乗れず、十数人が取り残されていました。運転手が取り残された人たちに、「ちょっとお待ちくださいね」と言っていたので、おそらくすぐ引き返してピストンで運んだのかもしれません。

しかし、登山バスだからなのか、バスの感染防止策はほとんどないに等しいものでした。バス自体が何の設備もない、結構使い古されたバスで、しかも窓も締め切ったままでした。マスクの着用を促す放送もありません。

運転手は70歳を超えているような年恰好の人で、駅で待機しているとき居合わせた人たちと雑談していましたので、地元の一旦リタイアした元バスの運転手かなにかで、期間限定のアルバイトをしているのかもしれません。もちろん、スイカやパスモが使えるはずもなく、運賃は現金払いです。しかも、支払い箱もないので、運転手に直接手渡すと、運転手はまるで香具師のように腹巻のなかからお釣りを出して、と言うのはウソで、千円札が乱雑に入れられた菓子箱のような箱から釣銭を出していました。運転手もスーパーのレジ係のようにゴム手袋をしているわけではなく、素手でお金のやり取りをしていました。ちなみに、運賃は片道1020円でした。

感染防止策らしく見えたのは、運転席のうしろに申し訳程度に貼っているビニールくらいです。除菌スプレーもありません。乗り合わせた女性のハイカーは、「みんな一応マスクをしていたので(感染はないと)信じるしかない」と言ってましたが、その気持が痛いほどよくわかりました。

奥多摩に比べて中高年のハイカーの比率はやや低いように思いましたが、しかし、行きも帰りもバスの隣の席は高齢の男性ハイカーでした。こう言うと失礼かもしれませんが、山に来る高齢ハイカーは加齢臭が半端ない人が多いのです。山用のシャツや下着は速乾性を求める化学繊維のものが多いので、それも原因しているのかもしれません。マスクをしていても臭いが漂ってきて、野菜の値段と匂いに殊の外敏感な私は気分が悪くなるほどでした。

山小屋もそうですが、登山界隈には登山客に対して、山では多少のサービスの低下は仕方ない、それよりありがたく思えというような考えが存在しています。たしかに言いたいことはわからないでもないですが、しかし、それでは若者が(まして山ガールが)山に戻って来ることはないでしょう。大菩薩嶺の”超密”の登山バスだけを見ると勘違いするかもしれませんが、いわゆる山ガールブームから10年経った現在、登山人口は半減していると言われています。しかも、その3分の1は60歳以上の高齢者なのです。この冷徹な事実をもっと直視する必要があるでしょう。

一昨日も山小屋の主人が、お客が少なくて大変だ、コロナが終息してももう元に戻らないのではないか、と嘆いていましたが、それはいろんな業種に言えることで、山小屋も例外ではないのです。日本の“登山文化”にケチを付けるようですが、コロナ以前に、今の時代に小屋泊をするのは相当勇気のいることで(場合によっては、加齢臭プンプンの高齢ハイカーと一緒の布団に寝なければならないのです)、それを「仕方ない」のひと言で済ましてきたツケが、今、来ているように思えてなりません。

「山小屋を支援する」という考えは立派だと思いますが、しかし、ビジネスとして考えた場合、人の善意に頼るのはもうビジネスとして末路を辿っているように思えてなりません。人の善意ほどあてにならないものはないのです。山小屋の人出不足の問題も然りで、山が好きだという善意を利用した”やりがい搾取”が一因ではないかという指摘も、あながち的外れとは言えないように思います。いろんな意味で、山小屋が岐路に立たされているのは事実でしょう。一方で、山小屋がなくなると、登るのが困難になる山が出て来るのもまた事実です。だからと言って、解決策が人の善意しかないとしたら、これほど心許ない話はありません。

大菩薩嶺の登山道は、上日川峠にあるロッジ長兵衛という山小屋の横からはじまります。整備された登山道を20分くらい歩くと、次の山小屋の福ちゃん荘に到着しました。福ちゃん荘と言えば、赤軍派のメンバー50数名が凶器準備集合罪で逮捕された”大菩薩峠事件”を思い出さざるを得ません。1969年、新左翼セクトの赤軍派(共産主義者同盟赤軍派)のメンバーが大菩薩峠で軍事訓練を行うべく福ちゃん荘に集結していたのを、事前に情報をキャッチした警察に踏み込まれ、メンバー50数名が逮捕されたのでした。実際に50数名全員が宿泊していたのかどうかわかりませんが、得体の知れない若者たちが集団で泊っているのですから、不審に思われるのは当然でしょう。それどころか、軍事訓練の情報はメディアにも漏れていて、(ウキペディアにも書いていますが)福ちゃん荘には特ダネを狙った新聞記者もハイカーを装って宿泊していたのです。

今から見れば、まさに“革命ごっこ”としか思えませんが、当時の若者たちは真顔で軍事訓練を行なうつもりだったのでしょう。権力に対する異議申し立てを行った若者たちは、強大な国家権力の下で自分たちの非力を嫌というほど思い知らされ、そうやって大衆から遊離し追いつめられていったのです。それは、今の香港やタイの若者たちも同じかもしれません。

さらに福ちゃん荘から45分くらい登ると大菩薩峠の介山荘に着きました。介山荘というのは、言うまでもなく『大菩薩峠』を書いた作家の中里介山から取った名前です。

私は、頭上に建物が見えたとき、「あれっ」と思いました。さらに建物の壁に「介山荘」という文字を見つけるとなんだか狐に摘ままれたような気持になりました。と言うのも、ずっと唐松尾根を登って雷岩をめざしていたと思っていたからです。何をどう間違ったのか、本来であれば、下山に使おうと思っていたルートを逆に登っていたのでした。

大菩薩峠の周辺には、その名のとおり、親不知ノ頭とか賽ノ河原とか俗流仏教思想による”三途ノ川”を連想させるような場所がありましたが、それが文化財として価値があるものなのか、それとも後付けの単なる”観光名所”なのかよくわかりませんでした。

大菩薩峠からだと雷岩まではゆるやかな登りになっています。最近はストック1本で登っているのですが、ストックを使いながら登っていたら、岩場であやうく後ろに落ちそうになりました。あのまま落ちていたら大変な怪我をしたかもしれません。やはり、岩場ではストックは使うべきではなかったと反省しました。

雷岩の周辺では多くの人たちが休憩していました。しかし、山の上はガスが立ち込め、眺望はほとんどありません。と思ったら、やにわにガスが晴れて、西の空に富士山が姿を現したのです。すると、ハイカーたちから歓声が上がったのでした。また、前方の雲の上には雪を頂いた南アルプスの山々も忽然と姿を現し、私はむしろそっちの方に感動を覚えました。いつかはあの峰にも登りたいとあらためて思いました。

中腹から下の紅葉はまだ少し早い感じでした。あと1週間もすれば見頃になるのではないかと思います。

帰りは、唐松尾根を下りました。1時間足らずで上日川峠に着くと、午後2時発のバスが既にエンジンをかけて待機していました。帰りのバスも超満員で、隣の加齢臭にむせながら駅に戻って来ました。

甲斐大和駅は駅前には何にもないローカルな駅ですが、次の電車まで1時間待たねばなりませんでした。ホームに行くと、高齢のハイカーたちが、加齢臭と酒の匂いを辺りに振り撒きながらベンチで酒盛りをはじめていました。酒のツマミは、オレはこんな山に行った、こんな危険な目に遭ったというお決まりの”山自慢”なのかもしれません。

甲斐大和駅から高尾行の各駅停車の電車に乗ったものの、八王子で横浜線に乗り換えるか、来たときと同じように立川で南武線に乗り換えるか考えていたら、ふと、また特急で帰ろうと思い立ち、急遽、スマホのアプリで予約しました。そして、大月駅で特急かいじに乗り換えて、新宿経由で帰りました。特急かいじは、午後3時台の便ということもあってか、私が乗った車両は私を含めて4人しか乗っていませんでした。

新宿駅からは地下鉄の新宿三丁目駅まで歩いて、既に帰宅ラッシュがはじまった東横線直通の「横浜中華街行き」の地下鉄副都心線で帰りました。最寄り駅に着いたのは午後5時半すぎでした。


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上日川峠にある山小屋・ロッジ長兵衛
看板の宿泊料金、7を8に書き換えているのがバレバレでした(笑)。

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登山道入口

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ゆるやかな道を登ります。

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福ちゃん荘

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紅葉はまだはじまったばかり

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富士見山荘跡

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拡大するとわかりますが、カーブミラーがあります。このあたりはまだ林道のようです。

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勝縁荘
中里介山が泊まって『大菩薩峠』を執筆したという由緒ある山小屋。元主人は文学史家。現在は閉館しています。

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勝縁荘の横から再び登山道がはじまります。でも、登山道にしては道幅も広く整備されています。大菩薩嶺で登山道らしいのは、唐松尾根と丸川峠からのルートです。

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介山荘

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同上

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大菩薩峠山名標識

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稜線は一面ガスに覆われていました。

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雷岩及び山頂を目指して歩きはじめます。

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みんな、ガスの彼方を目を凝らして見ている。

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親不知ノ頭(おやしらずのかしら)道標

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親不知ノ頭

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賽の河原

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賽の河原道標

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願いが叶ったのか富士山が姿を現した。

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そして、南アルプスの山々も雲上に忽然と雪を頂いた雄姿を現した。下は甲府盆地。

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この岩場でこけそうになった。

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大菩薩湖(単なるダムです)

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雷岩の手前の眺望のいい場所でみんな休憩していた。

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再び南アルプスの山々を眺める。

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大菩薩嶺山頂標識。しかし、眺望はなし。山頂に来た人たちは「残念な山頂」と言っていました。

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雷岩まで戻ると、みんな遠くの風景を見ていました。私は、こういった光景が好きです。「山っていいなあ」という声が聞こえてきそうです。

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唐松尾根を下りはじめ、後ろの雷岩を振り返った。

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子どもの頃にいつも見ていた故郷の山の紅葉(下記の動画参照)とは比ぶべくもないけど、ところどころ色鮮やかな紅葉が見られました。

YouTube
水面も染める くじゅう連山の紅葉

関連記事:
どうして山に行くのか?
2020.10.22 Thu l l top ▲
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新宿駅~青梅駅~武蔵五日市駅~檜原都民の森~【三頭山】~檜原都民の森~武蔵五日市駅~昭島駅~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約4キロ
※標高差:541m
※山行歩数:約15,000歩


かなりいきあたりばったりだったのですが、奥多摩の三頭山(1531メートル)に登りました。

武蔵五日市の駅前からバスに乗るハイカーは、圧倒的に中高年のおっさんやおばさんのグループが多く、このブログでも何度も書いているように、おっさんやおばさんたちはとにかくマナーが悪いので辟易させられます。代表的なのは、あとから来た人間を「あっ、こっちよ」と手招きして、「今日はいい天気になってよかったね」「ホント」なんてお喋りしながらそのまま列に割り込ませる手口です。

駅前のバス停には既にザックを背負ったハイカーが20~30人くらい並んでいました。その時点では、私は漠然と笹尾根に登ろうと思っていました。関東地方のハイカーの間では、「(登る山に)困ったときは高尾山」というのがあるそうですが、私の場合は、「困ったときは笹尾根」のようなところがあります。

ところが、やって来たのは、「都民の森」行きの急行バスでした。平日は、朝に1本しか出ていない直通のバスです。それで、急遽、都民の森から三頭山に登ることにしたのでした。三頭山に登るのは、去年の11月以来10ヶ月ぶりでした。

武蔵五日市駅から都民の森まで1時間ちょっとかかります。バスは標高990メートルの都民の森まで九十九折の山道を登って行きますので、座席に座ることができなかったら悲惨ですが、幸いにも乗客は全員座れました。私は、二人掛けの椅子に座りましたが、横に座る人はいませんでした。

もちろん、バスのなかは、中高年のおっさんとおばさんのグループばかりでした。それ以外は、20代の男性と30~40代くらいの男性がそれぞれひとりいただけです。中高年のグループは、既にバスの中でも賑やかでした。特に、山に来るおばさんたちはやけにテンションが高いのでした。

都民の森に着いて、いざ登ろうと思ったら、前に登った三頭大滝から大沢山・ムシカリ峠を通るルートが台風被害のため通行止めになっていました。それで仕方なく、もっともポピュラーな鞘口峠を通るルートを登ることにしました。

しかし、登りはじめの分岐のところに来ると、そこにも「通行止め」の札が出ていて、どっちに行っていいのかわかりません。それで登り口にある森林館まで戻って、登山の準備をしていたおばさんたちにルートを訊きました。すると、そのまま登っていけばいいと言うのです。でも、登って行くにも通行止めになっています。

戸惑っていると、下から高齢のおばさん(というよりお婆さん)の二人連れが登って来ました。

「通行止めになっているのですが、どこを行けばいいのですか?」と尋ねると、実に横柄な態度で、「そっちがわからないの?」と言われました。そっちと言われた方を見ると、小さな木橋がありました。しかし、指導標(道しるべ)は何も出ていません。

それで、二人連れの婆さん、いや、高齢ハイカーのあとをしばらく付いて登りました。高齢ハイカーは、登りながら北アルプスの涸沢に行った話をしていました。(大岳山に登ったときの記事でも書きましたが)一般のハイカーを見下すような態度をとる、女性のベテランハイカーによくいるタイプです。不思議と男性にはそういうタイプの人は少ないのです(大言壮語の自慢話をする人は多いけど)。

山は初心者も熟達者もない。みんな平等にわけへだてなく受け入れてくれる。それが山の良さであり、山登りの精神だ。と言った山小屋のオーナーがいましたが、何故か女性のベテランハイカーには、そういった「山の精神」とは無縁な人が多いのです。

私たちが登っているのは「登山道」と書かれたルートでした。やはり都民の森がある御前山なども同じですが、都民の森のなかはハイキング向けの遊歩道が縦横に通っているので、どれが遊歩道でどれが登山道か、ごちゃごちゃしてややこしい場合が多いのです。もっとも、いづれの道もどこかでつながっているので道に迷うことはありません。

しばらく歩くと、最初に道を訊いたおばさんたちのグループが東屋で休憩していました。私は「あれっ」と思いました。いつの間に私たちの先を行ったのか。

すると、おばさんが私の顔を見て、「あっ、おじさん、よかったわ。間違って教えたみたいで気になっていたんですよ。遠回りの道を教えてごめんなさいね」と言いました。どうやら、私たちが歩いたのは遠回りのルートだったみたいです。でも、私は、それより「おじさん」ということばが胸にずしんと突き刺さりました。おばさんからおじさんと言われる筋合いはないと思いましたが、かく言う私もここでおばさんと書いているのです。

「いや、いいんですよ。気にしないでください」と言いながら、なんだか昔話に出て来る歯がぬけた翁のような口調になっている自分に気付きました。たしかに、登っている格好も腰の曲がった爺さんのようです。

小雨が降りはじめたので、途中でレインウエアを着ている間に、おばさんたちのグループに追い抜かれました。しかし、そのあと先行するおばさんたちのグループも、お婆さんの二人連れも追い抜いて、1時間ちょっとで最初のピークの東峰に到着しました。

東峰に行くと、中年のカップルが写真を撮っていました。私は、てっきり夫婦と思って「写真を撮りましょうか?」と言いました。すると、女性から嫌な顔をされて「結構です」と言われました。男性は、さもバツが悪そうに「へへへ」というように笑いを浮かべながら「どうも、ありがとうございます」と言ってました。よく見ると、二人はそれぞれのスマホで写真を撮り合っていました。そして、そのあとは東峰の横にあるテーブル付きのベンチに移動して「お弁当にしようね」なんて言い合っていました。

私は、「なんだ、夫婦じゃないんだ」と思いました。不倫カップルかもしれません。もしかしたら、ヤマレコかどこかのSNSで知り合ったおっさんとおばさんなのかもしれないと思いました。そう思ったら気持が悪くなり、早々に東峰をあとにしました。

三頭山は名前のとおり、東峰・中央峰・西峰の三つのピークがあります。東峰・中央峰とまわって、最後の西峰で休憩しました。しかし、ベンチはいづれも埋まっています。仕方なく、地べたに100円ショップで買ったシートを敷いて、さらにその上にモンベルで買った昼寝用のマットを敷き、持参したパンを食べました。西峰には、10人くらい休憩していましたが、見事なほど中高年のおっさんやおばさんばかりでした。来るときのバスで一緒だった人たちもいました。しかし、空は厚い雲に覆われて、山頂からの眺望はまったく望めませんでした。

帰りは、通行止めになっている三頭大滝の遊歩道にう回路があると言うので、指導標に従って三頭沢という沢沿いの道を下りました。ところが、下まで降りたところで、再び登るように指示票が出ていました。何のことはない途中まで登り返えして、通行止めになっている遊歩道の上にある巻道を歩かなければならないのでした。

都民の森に下りて来たのは午後2時前でした。ちょうど2時30分発のバスがあったのでそれに乗って帰りました。しかし、帰りのバスは満員で、さらに帰りは隣の「数馬」までの連絡バスしかなく、「数馬」から通常の路線バスに乗り換えなければならないので、途中から乗車する人も多く、立錐の余地もないほど”超密”の状態でした。バス会社の対応も、新型コロナウイルスが既に終息したかのようなおざなりなものでした。


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都民の森の駐車場から登山口の方向を映す。

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おなじみの標識。

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登山口はトンネルをくぐって行く。トンネルの上にあるのは、体験施設の森林館。

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東峰山頂標識(1527.5m)。

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中央峰山頂標識(1531m)。

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中央峰の様子。

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西峰へはいったん下って登り返します。

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西峰山頂標識(1524.5m)。実は西峰がいちばん標高は低いのです。しかし、山頂が広いので実質的な山頂扱いです。標識も奥多摩の主要な山ではおなじみの石造りの標識です。

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西峰の様子。

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下山。沢沿いの道を下る。

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野鳥観察小屋の方に登り返す。

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下山時の遊歩道から見えた笹尾根。手前に数馬峠の伐採地、奥の方に前に歩いた生藤山・熊倉山・浅間峠が見渡せました。
2020.10.01 Thu l l top ▲
私は、アニメにはあまり詳しくないのですが、登山関連のYouTubeを観ていると、特に女性のユーチューバーの場合、どうも「山と食欲と私」を意識しているような気がしてなりません。また、「クマ撃ちの女」のイメージを参考にしているようなサバイバルをウリにしたユーチューバーもいます。特に再生数が多い女性のユーチューバーの動画には、この二つのアニメの要素が垣間見えて仕方ないのです。

もとよりユーチューバーとして収入を得ようとすれば、イメージ作りとそれに伴う“企画力”が重要であるのは言うまでもありません。今どきの女性が、そのヒントをアニメに求めるのは当然と言えば当然と言えるのかもしれません。

さらに身も蓋もないことを言えば、女性の登山系ユーチューバーの場合、若くて(それなりに)カワイイというのが視聴者を集める大きな条件であるのも否定し得ない事実です。所詮はネット、見た目なのです。

一方、YouTubeの視聴者は、登山系と言っても、日頃から山に登っている人間は少数のように思います。前に記事で取り上げた総務省統計局の「社会生活基本調査」で示されたような、年に5回前後ハイキングに行くようなビギナーか、実際は山に登らないけど如何にも山に登っているかのように装う、ネット特有の“なりすまし登山者”が圧倒的に多い気がします。

一般的な感覚では信じられないかもしれませんが、登山に限らずネットにはこの“なりすまし”が驚くほど多いのです。

”なりすまし登山者”に関しては、一部の男性ユーチューバーの動画のコメント欄にも散見されます。どう見ても無謀としか思えない山行に対して、その無謀さを指摘するより「凄い!」というコメントばかり集まるのも、視聴者に山に登る基本的な知識と経験がないからでしょう。知識と経験がないから、無謀な登山が「凄い!」と映るのでしょう。

もっとも、ユーチューバー自身も、「オレ、凄いだろう?」式の自己顕示欲から自由になれない傾向があるのは事実です。だから、「凄い!」というコメントも、”なりすまし登山者”による煽りだということがわかってないのかもしれません。もしかしたら、”なりすまし登山者”相手にヒーローになっている気分なのかもしれません。

前に埼玉の低山に息も絶え絶えに登っているヘロヘロ動画をアップしていた男性が、数ヶ月後、北アルプスの山を颯爽と歩いている動画をアップしているのに唖然としたことがありました。私は、それを見て、やはり、「オレ、凄いだろう!」式の自己顕示欲を捨てることはできないんだなとしみじみ思いました。

その点、女性ユーチューバーの動画は、身近な低山も多いし、ハアハア息を切らして登っているシーンもちゃんと入っています。「ガーン! また階段が、、、」というようなクレジットも忘れないのです。女性ユーチューバーの動画の方が親近感を抱くというのもわからないでもありません。

ただ、中には「企業案件」と呼ばれるスポンサー企業とのタイアップが増えて、山に登ることを忘れてしまった女性ユーチューバーもいますが、それはユーチューバーとしても、アウトドア系のアイドルタレントとしても、末路を歩みはじめたようにしか思えません。登山系、あるいはアウトドア系というのは、所詮は狭い自己満足の世界なのです。その中でチヤホヤされたからと言って、外の世界で通用するほど外の世界は甘くはないのです。そこにも大きな勘違いがあるように思います。

こう考えると、YouTubeってなんだろうと思えてなりません。実際の登山とはまったく関係のない世界で、関係のない人々によって、登山がまことしやかに語られているのです。ユーチューバーに関する掲示板では、「基地外」「ナマポ」「底辺」などという差別語が平然と飛び交っています。そんな差別語で山が語られているのです。それは、ネトウヨと政治の関係によく似ています。

でも、当人たちは自分たちがキッチュであるとは微塵も思ってないのです。だから、その勘違いを指摘されると、感情むき出しで激しく反応するのでしょう。

最近は、登山系の女性ユーチューバーのなかで、生配信でスパチャと呼ばれる投げ銭を得る(スパチャ目当てで生配信をする?)ユーチューバーまで登場していますが、投げ銭するようなコアなファンが「基地外」「ナマポ」「底辺」などという差別語で山を語るような連中だということについて、どう思っているのか訊きたい気持さえあります。

パタゴニアのフリースがお気に入りだと言ったら、パタゴニアはイルカの追い込み猟やクジラ漁に反対するグリーンピースに資金提供している「反日」企業だというコメントが殺到し、ユーチューバー本人が「軽率な発言でした」と謝罪する出来事もありました。まったくバカバカしい限りですが、そういう連中がなりすましで山を語っているのです。

もちろん、女性ユーチューバーの場合、登録者数が増えて人気が出ると、前に棒ノ折山の記事で書いたようなストーカーもどきとも無縁ではなくなってくるでしょう。顔出し動画は、そういったリスクと背中合わせでもあるのです。

そもそも自撮り棒のカメラに向かってお喋りをしながら山に登ること自体、多分にいかがわしいと言わざるを得ません。YouTubeの動画の場合、あくまで山に登る自分が主役なのです。そこには、「オレ、凄いだろう」とか「アタシ、カワイイでしょ」とかいった過剰な自意識があるだけです。山は自分を引き立てる脇役にすぎないのです。

ホントに山が好きなら、YouTubeに動画をアップすることなど考えずに、自分のスタイルで山に登り、山の中の自分の時間を大切にするはずです。それは、自撮り棒でYouTube用の動画を撮影する行為とはむしろ対極にあるものです。そのはずなのです。


関連記事:
登山系ユーチューバーと登山人口の変移
2020.09.22 Tue l l top ▲
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新宿バスタ~駒ヶ根バスターミナル~(ホテル泊)~駒ヶ根駅~しらび平~【木曽駒ヶ根岳(乗越浄土)】~しらび平~駒ヶ根駅~岡谷駅~新宿駅

※山行時間:約2時間(休憩含む)
※山行距離:約2キロ
※山行歩数:約5,000歩


ゆるゆる登山、第三弾。中央アルプスの木曽駒ケ岳(2956メートル)に登りました。しかし、とんだ顛末になり、「撤退」せざるを得ませんでした。

木曽駒ケ岳に登るべく、14日から長野の駒ヶ根に行きました。余裕があれば、隣の宝剣岳(2931メートル)にも登りたいと思っていました。ただ、時間的に日帰りは無理があるので、GoToキャンペーンを利用して前泊することにしました。いったんは15日・16日で予約していましたが、16日が雨の予報に変わったのでキャンセルして、日程を一日早めて14日・15日で再度予約し直しました。

14日は泊まるだけなので、新宿バスタから午前11時20分発の高速バスに乗りました。駒ヶ根バスターミナルに着いたのは、午後3時半すぎでした。新宿バスタから乗ったのは7人だけで、いづれも伊那インターまでで降りたので、それ以後は乗客は私ひとりだけになりました。

駒ヶ根バスターミナルは、バスターミナルと言えば聞こえはいいですが、別に始発のバスが待機しているわけでも、バスが何台も停まることができるスペースがあるわけでもなく、建物の中に切符売り場と待合室があるただの停留所です。昔、私の田舎にあったバスの停留所とよく似ていました。しかし、今週末だかに建物自体が閉鎖され、切符売り場と待合室もなくなるみたいです。ちなみに、自分の田舎の停留所は、閉鎖どころかバスの路線そのものがとっくの昔に廃止になっています。

昔は、電車(汽車)で駒ヶ根にやって来る人が多かったのでしょう。駅近辺のホテルや旅館に泊まり、翌日、バスターミナルからバスに乗って観光や仕事に出かけたい違いありません。しかし、車社会になった今は、電車とともにバスを利用する客も、めっきり減ったのでしょう。現に、高速バスでも、駒ヶ根バスターミナルまで乗るような奇特な客は私以外いないのです。また、JR飯田線はSuicaも使えない単線なので、電車の本数も少なく、利便性がいいとはおせいじにも言えないのでした。

駒ヶ根バスターミナルでは、下車してすぐに駒ヶ根駅からしらび平のロープウエイ駅までのバスとロープウエイがセットになった往復乗車券を買いました。4640円でした。

東野幸治が木曽駒ケ岳に登ったときの動画がYouTubeにアップされていますが、窓口で往復乗車券を買ったら4130円だったので、「高ッ!」と驚いていました。東野幸治がバスに乗ったのは、途中の菅の台バスセンターからです。ロープウェイの山麓駅があるしらび平まではマイカー規制されているため、車で直接行くことはできません。通常は、駐車場が整備されている菅の台バスセンターでバスに乗り替えなければならないのです。と言うことは、駒ヶ根駅から菅の台バスターミナルまでの運賃が差額の510円ということになります。時間にして10分くらいの距離です。私もあらためて「高ッ!」と思いました。どうりで地元の人が乗らないわけです。ちなみに、新宿バスタから駒ヶ根バスセンターまでの高速バスは、ネット予約で片道3800円です。それと比較すれば、往復のロープウェイ代が含まれているとは言え、バスの運賃が如何に高いかわかろうというものです。

駒ヶ根バスターミナルから駒ヶ根駅までは、歩いて5分くらいの距離でした。駒ヶ根の駅前通りも、典型的な地方都市の悲哀が漂っており、まるでゴーストタウンのようでした。最初、月曜日なので商店街が定休日なのかなと思ったけど、通りを歩くと、閉店してシャッターを下ろした店ばかりでした。しかも、看板を見ると、チェーン店ではなく、昔からやっていた地元の商店です。時代の流れと言えばそうなのかもしれませんが、こうやって個人商店がどんどん潰れて、商店街がゴーストタウンのようになって行くのは、この国の基底にある経済が(ささやかでつつましやかな庶民の生活が)崩壊していることを意味しているのだと思います。郊外のチェーン店とは、その存在の意味合いが根本的に違うのです。”保守”を名乗る政治家が、「規制緩和」の名のもとに、ネオリベラリズムに拝跪してこの国の基底にある経済(地域経済)を崩壊させているのです。「愛国」とは何かということをあらためて考えざるを得ませんでした。

前から歩いて来た女性に、「駅はどっちですか?」と尋ねたら、怯えたような表情をしてやや後ずさりしながら「あ、あっちです」と言ってました。もしかしたら対人恐怖症かなんかじゃないかと思ったけど、でも、考えてみたら、私の恰好も普通ではないのです。185センチを超える大男がパンパンに膨らんだザックを背負って(しかもザックのサイドポケットからは変な棒のようなものが出ている)、大袈裟なハイカットの登山靴を履いているのです。そのため身長も2メートル近くになっているはずです。しかも、面倒くさかったので3日間髭も剃っていません。まるで山にエサがなくなって里に下りて来た熊みたいで、女性が怯えるのも無理はないのです。

駅に行ったのは、翌日、駅から駒ヶ根ロープウェイ行きのバスに乗るので、その乗り場を確認するためでした。私は“予備がないと不安症候群”なので、このように事前にリサーチしないと不安で仕方ないのです。ところが、確認もなにもバス停は二つ?しかなく、閑散とした駅前ではひと目でそれとわかりました。

ふと見ると、駅の真向かいに食品スーパーがありました。駅前通りではちょっと離れたところにコンビニが1軒あったきりなので、スーパーで夕食の弁当を買って行こうと思いました。ところが、店のドアは閉められおり、店を出入りする人もいません。「休みなのか?」と思って、店に近づき、ガラス窓に顔を寄せて中の様子を伺うと、店内には制服を着た店員の姿がありました。ホッとして中に入ると、ちゃんとした食品スーパーでした。弁当や総菜もそれなりに充実していました。ただ、レジも含めて店で働いているのは、50代~60代くらいのおばちゃんばかりでした。やはり、ゴーストタウン化した駅の近くは、若い人も敬遠するのかもしれません。

スーパーで買った弁当を持ってホテルに向かうと、私が予約したホテル以外にも、周辺には数軒のホテルや旅館がありました。ただ、(私が泊まったホテルも含めて)いづれもさびれた感じで、おせいじにも繁盛しているようには見えませんでした。駒ヶ根は、私の田舎と同じように、昔は登山の拠点で、多くの登山者が前泊していたのでしょう。登山やハイキングを「山岳観光」と言うそうですが、ホテルや旅館は、そんな古き良き時代の名残りのように見えました。

最近、昼夜が逆転した生活がつづいているため、前夜もほとんど寝ていませんでした。そのため、ホテルに入ってすぐに寝てしまい、目が覚めたのは午後11時すぎで、それから弁当を食べて、再びベットに入ったものの、翌朝までまんじりともしませんでした。

翌日は、駒ヶ根駅から午前7時発のロープウェイ行きのバスに乗りました。駅からバスに乗ったのは11名でした。いづれもザックを背負ったハイカーでした。バスを待っていると、横に並んでいたのはホテルで見かけた老人でした。「あれっ、同じホテルだったですよね」と言ったら「そうかもしれませんね」と言っていました。さらに隣の女性も、「私もです」と言っていました。聞けば、二人はバスではなく、飯田線の電車でやって来たのだそうです。

「あのホテル、臭くありませんでした?」と私。
「たしかに」
「私は一晩中窓を開けて寝ましたよ。でも、途中で寒くなったので暖房を入れました」
「でも、ネットで検索したら駒ヶ根駅の近くではあのホテルしか出て来なかったんですよ」

たしかにそうなのです。私はじゃらんを利用したのですが、駒ヶ根駅近くでは私たちが利用したホテルしかヒットしなかったのです。GoToキャンペーンを利用して3500円だったので、あまり文句も言えないのですが、ネットのレビューを見ると「部屋が臭い」「ボイラーの音がうるさい」と書かれていました。いづれもその通りで、ネットのレビューも一概に無視できないなと思いました。

バスは途中何人かのハイカーを乗せて、菅の台バスセンターに着きました。ところが、車内から見えたバス停の光景に目が点になりました。と言うか、恐怖を覚えました。数百人のハイカーが長蛇の列を作っているのです。そのため、バスは密どころではなく、補助席も使うほどの”超密”の状態になりました。もうメチャクチャです。自粛警察が乗り合わせたら発狂したかもしれません。サングラスにマスク姿の月光仮面のように完全武装したバスの運転手も興奮して、もっと詰めろとマイクでまくし立てていました。まるで収容所に移送される捕虜のようでした。今までのゆるゆる登山で行った入笠山や北横岳とは雲泥の差です。

身動きもとれない”超密”の中、離合にも苦労するような狭い山道を30分くらい走ると、しらび平の山麓駅に到着しました。バスから降りると、そのままロープウェイの乗り場に並びました。もちろん、ソーシャルディスタンスなどどこ吹く風で、登山の恰好をした囚人たちは押すな押すなで我先に並んでいました。

私たちが乗るのは始発のロープウェイなので、数分待てば改札が始まるはずでした。ところが、時間になっても改札口が開きません。そうするうちに、次のバスもやって来たみたいで、乗り場も混雑してきました。改札口から続く列も長く延びていました。

すると、「只今、ロープウェイの点検に時間がかかっております。もうしばらくお待ちください」というアナウンスが流れました。さらに、「これから整理券を配りますが、整理券が40番以降のお客様は次の便になりますので、列を離れてお待ちください」というアナウンスが流れました。

バスで一緒だった老人がやって来たので、「こんなことはよくあるんですか?」と訊いたら、「しょうっちゅうですよ。2時間も待ったことがありましたよ」と言ってました。老人は相模原からやって来たとかで、木曽駒ケ岳にも何度も登っているそうです。山にも詳しく、登る途中に、あれが何山と山座同定をしてくれるので、まわりにいたハイカーたちも次々と老人に山名を訊いていました。

老人によれば、菅の台バスセンターで、今日はいっぱいなので帰ってくれと言われたこともあったそうです。

ロープウェイは、結局、30分遅れて出発しました。約8分で山頂駅に着いて、駅を出た途端、目の前に飛び込できた千畳敷カールの雄大な景色に思わず心の中で感嘆の声をあげました。実際に、「キャー、すごい!」と叫んでいた山ガールもいました。

山頂駅からは300メートル強の標高差を約2時間で登るのですが、登山口の標高が既に2600メートルで空気が薄いため、すぐに息が切れます。そのため、何度も立ち止まって息を整えながら、ほうほうの体で稜線の乗越浄土(のっこしじょうど・2858メートル)に辿り着きました。休憩時間を除けばほぼコースタイム通りでしたが、それでもきつかったイメージしかありませんでした。

ネットやガイドブックなどでは、木曽駒ケ岳は初心者向けになっていますが、「これが初心者向け?」と思いました。たしかに、ロープウェイを使えば、片道で僅か2キロ足らずの距離です。しかし、距離が短いとは言え、登山道は稜線の乗越浄土までは岩の急登で、初心者はあまり経験しない道です。落石が出ないようにネットで補強していましたが、下る際、躓いたりすれば滑落する危険性もあります。登山者が多いので、他の登山者を巻き込む怖れさえあるでしょう。

東野も動画で、こんなのはチョロいみたいな言い方をしていました。動画の中でもハアハア息を切らして登っているシーンは皆無でした。まるで鼻歌でも歌いながら登っているような感じでしたが、それがYouTubeのウソなのです。登っている山の名前もろくに言えず、しかも、自分が登る山がどの山かもわからずに山に登って、こんなのチョロいと言われたのでは、山をバカにするのもいい加減にしろと言いたくなろうというものです。でも、登山系ユーチューバーの動画の多くは、東野の動画と似たか寄ったかなのです。

乗越浄土まで登れば、あとは登山道もゆるやかになり、残り1時間で木曽駒ケ岳の山頂に到着します(その予定でした)。乗越浄土で写真を撮り、先にある山小屋(宝剣山荘)に向けて歩いていると、小屋の前で男性と女性がなにやら叫んでいました。山荘からは宝剣岳と木曽駒ヶ岳に分岐するのですが、両方に向かって叫んでいるのです。

前から夫婦とおぼしき二人連れの登山者が引き返して来ました。「どうしたんですか?」と訊いたら、「ロープウェイが停まるらしいので引き返せと言われた」と言うのです。私は、とっさに今朝、点検のためにロープウェイが遅れたことを思い出しました。スマホで検索すると、たしかに本日のロープウェイは運休となっていました。でも、奥さんはあきらめきれないらしく、「どんどん人が登って来ているじゃない。もう一度確かめてよ」と言うと、旦那さんは再び山小屋に行きました。そして、戻って来ると、「やっぱりホントみたいだ」と言ってました。私が、「もしロープウェイに乗れないとどうやって下ればいいんですか?」と尋ねると、「伊那前岳から北御所に下りるしかないですね」と言います。奥さんは「いやだあ」と言ってました。

それで、私も仕方なく乗越浄土で引き返すことにしました。でも、下からは次々とハイカーが登って来ています。登りと下りで渋滞が生じるほどでした。「どうなっているんだ?」と思いましたが、下の方まで下りるともう登って来るハイカーの姿はありませんでした。

サイトで運休の告知があったのは9時半すぎなので、私たちがちょうど乗越浄土に着いた頃です。だから、それまでは何便か動いていたのかもしれません。遊歩道まで下りると、登りのときとは違った剣ケ池の方の道を歩いて、千畳敷カールを散策して駅に向かいましたが、駅でもそんなに待たずにロープウェイに乗ることができました。

駒ヶ根駅までのバスも、菅の台バスセンターまでは補助席を使うほど超過密でしたが、途中から乗客は私ひとりになりました。駅に着いたのは午前11時半すぎでした。しかし、次の新宿行きの高速バスは3時間後です。それで、駒ヶ根駅から飯田線で伊那を通り岡谷まで行って、岡谷駅から特急あずさに乗って帰ることにしました。

岡谷駅で特急に乗り換える際、ホテルで一緒だった老人にまた会いました。乗るときは気が付きませんでしたが、駒ヶ根から同じ電車だったみたいです。老人は、特急で甲府まで行って、甲府でぶどう?を買って帰ると言ってました。

老人は、山小屋の呼びかけを無視して途中の中岳まで行って引き返したそうで、「中岳まで行くと、御嶽山が見えるんですよ」「木曽駒の楽しみは御嶽山が見えることですよ」と言ってました。私がロープウェイの運休について、「あんなことはよくあるんですか?」と尋ねると、「よくはないけど、ときどきあるみたいですね」と言ってました。「初めての人は戸惑うかもしれないけど、よく知っている人はまたかと言う感じで動じないですよ」と言っていました。

「整理券を配るにしても、やっていることが変でしょ?」と言ってました。そう言えば、整理券を配るのはいいけど、改札が開く前に整理券を回収するのです。改札口を通る際に回収すればいいものを、どうしてそんなわけのわからないことをするのだろうと思いました。
「第三セクターで上は公務員の天下りなので、トラブルに巻き込まれないようにあんなややこしいことをしているんだと思いますよ」
でも、あんなことをすると、整理券を貰ってない人間が割り込んで乗るケースもあるでしょう。なんだか公務員特有の事なかれ主義のような気がしないでもありません。
「今日もお客とのトラブルが面倒なので、いち早く運休にしたのでしょ。でも、実際は下りは動いているのです」
(追記:翌日は、点検の結果異常はありませんでしたので、朝から運転しますと告知されていました。結局、異常がなかったのです。なんじゃらほいというような話です)

ネットでも、木曽駒ヶ岳に関して、ロープウェイの係員の説明や整理券の配布に「だまされた」というような書き込みがありましたが、たしかに会社の対応は竜頭蛇尾で場当たり的なところがあります。ハイカーもそれがわかっているので、引き返すようにという呼びかけも無視して登って来るのでしょう。

途中で会ったおばさんたちは、「運休と言っても、いったん登った人間を無視することはできないでしょ」と言いながら、そのまま登って行きましたが、おばさんたちも下りが確保されていることがわかっているのかもしれません。

余談ですが、今回乗った高速バスも、同じ路線でも経路が微妙に違う伊那線と飯田線があることがわかりました。登っている途中で、以前奥多摩の御前山で会った若者とばったり再会し、しばらく立ち話をしたのですが、私が前泊したと言ったら、「エエッ、前泊ですか」と驚いていました。彼によれば、飯田線のバスに乗って駒ヶ根インターで降りて、「女体」というバス停からロープウェイ行きのバスに乗り替えれば日帰りも充分可能なのだそうです。しかも、午前7時発の飯田線のバスは、駒ヶ根インターまでノンストップなので時間もはやいのだとか。私が乗ったのはどうやら伊那線だったようです。同じ路線に伊那線と飯田線があるなんてまったく知りませんでした。

御前山で会ったとき、まだ山に登りはじめて1年ちょっとの初心者ですと言っていましたが、今回は木曽駒でテン泊したのそうです。宝剣岳にも登ったと言うので、どうだったと訊いたら、「思ったより難しくないですよ」と言ってました。なんだか前に会ったときよりたくましくなったみたいで、若いって羨ましいなあと思いました。

追記:
帰ってから当日のネットの山行記録を読んでいたら、乗越浄土まで登って引き返した人に対してもバスとロープウェイの往復券の払い戻しが行われたみたいです(太っ腹な話ですが)。しかし、私たちは何も知らされてなかったのでそのままバスに乗って帰りました。少なくとも私と一緒にロープウェイで引き返した人たちはみんな知らなかったと思います。クレームがあったので払い戻したのかもしれませんが、こういうところも実にいい加減なのです。煩悩具足の凡夫である私は、なんだか4640円損したような気持になりました。しかも、翌々日には、運休に関する「お知らせ」と「お詫び」も、何もなかったかのようにサイトからきれいさっぱり消えていました。お見事としか言いようがありません。


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駒ヶ根市の駅前通り。平日の午後3時すぎの光景です。

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ホテルの部屋。夜中に撮ったので部屋が暗い。

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ロープウェイの中。60人の定員を40人に限定しているそうですが、このように通勤電車並みの密です。

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山頂駅を降りると、千畳敷カールの雄大な景色が目に飛び込んできました。

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遊歩道(登山道)の入口にある駒ケ岳神社。

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途中から振り返ると、雲海の向こうに南アルプス(赤石山脈)の山々を望むことができました。甲斐駒ヶ岳・仙丈岳・北岳・間ノ岳、右端に荒川三山。その上に富士山もちょこっと頭を覗かせていました。

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山頂駅と千畳敷ホテルの建物も徐々に小さくなります。

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急登の八丁坂に差しかかりました。いわゆる胸突き八丁という意味でしょう。

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乗越浄土(2858メートル)に到着。あとはなだらかな稜線歩きになります(なるはずでした)。

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左が宝剣山荘。右は天狗荘。

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中岳。木曽駒は中岳を越えた先です。

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宝剣岳。

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宝剣岳の岩峰。混雑にはうんざりだけど、宝剣岳には登りたい。

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仕方なく引き返しましたが、登山道は激混みでした。

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下まで降りると嘘みたいに人がいなくなった。

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登りとは別の遊歩道を歩いて帰りました。

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これぞアルプスという感じの風景。九州ではお目にかかれない山容です。

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よく目を凝らすと、左手の白い帯状の登山道にハイカーの姿が見えます。

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千畳敷から宝剣岳を見上げる。
2020.09.16 Wed l l top ▲
新宿駅~茅野駅~北八ヶ岳ロープウェイ~【北横岳】~北八ヶ岳ロープウェイ~茅野駅~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約3時間(休憩含む)
※山行距離:約4.5キロ
※標高差:250m
※山行歩数:約11,000歩


酷暑を避けたゆるゆる登山の第二弾は、長野県の北八ヶ岳の北横岳です。余談ですが、八ヶ岳という単体の山はありません。山があるのに山梨県と長野県にまたがるひとつの山塊を指してそう言っているだけです。さらに、八ヶ岳を南八ヶ岳と北八ヶ岳に分けているのです。

また、南アルプスや中央アルプスや北アルプスというのは、山域(山脈)をそう言っているだけです。国道246線を青山通りや玉川通りと呼ぶのと同じです。

ちなみに、南アルプスは長野県・山梨県・静岡県にまたがる赤石山脈、中央アルプスは長野県の木曽山脈、北アルプスは富山県・岐阜県・長野県・新潟県にまたがる飛騨山脈のことです。そして、それらを総称して日本アルプスと呼んでいるのです。

なかでも八ヶ岳は、高原リゾート地のブランドになっており、軽井沢や那須と同じように、別荘地として開発されています。

前回の入笠山と同じように、新宿から特急・あずさに乗り、前回の富士見のひとつ先の茅野で降りました。ただ、今回はGoToキャンペーンを利用して前泊しました。

北横岳に登るには、一般的には北八ヶ岳ロープウェイを利用します。最寄りのJRの駅は茅野駅ですが、茅野駅からロープウェイの山麓駅まではバスで1時間近くかかります。そのバスも、本数が少なく、平日だと2時間に1本くらいしか出ていません。しかも、平日はあずさとの連絡が悪く、朝いちばんのあずさに乗っても、茅野駅からは10時すぎのバスしかありません。それだと、ロープウェイの山頂駅に着くのは、午前11時半すぎになるので、いくらゆるゆる登山でも、帰りのロープウェイの時間に追われてゆっくりできないのではないかと思って、前泊することにしたのでした(でも、それは考えすぎでした)。

幸いにもGoToキャンペーンがあったので、ホテル代は35%OFFになり、5千円もかかりませんでした。新宿駅から午後4時20分発のあずさに乗り、茅野駅に着いたのは午後6時すぎでした。

茅野も地方都市の御多分に漏れず、駅周辺にはコンビニもありません。コンビニや弁当店などは、郊外の国道沿いに集中しているのでした。

着いたのがちょうど帰宅時間帯でしたが、駅で見かけるのは高校生ばかりでした。一応駅ビルらしきものもありましたが、閑散としており、階段では高校生のカップルが座り込んで乳繰り合っていました(表現が古い)。その脇をザックを背負ったおっさんが、「すいません」と言って通り過ぎで行くのです。その際、短いスカートの下から露わになった女子高生の太腿が目にまぶしく映りました。おっさんは、いくら年を取っても油断も隙もないのでした。

夕食に弁当を買って行こうかと思っていたのですが、駅のキオスクは既に弁当が売切れ、また駅ビルに唯一入っているデイリーヤマザキも同様に弁当が売切れていました。それで、仕方なく、インスタントラーメンを買ってホテルに向かいました。

翌日は、駅前から出ている午前7時55分発の北八ヶ岳ロープウェイ行きのバスに乗りました。その際、朝飯の弁当を買おうと駅のキオスクに行ったら(デイリーヤマザキはまだ開店前でした)、キオスクではそもそも弁当は売ってなかったのです。売っているのはおにぎりだけでした。

それでおにぎりを2個買ってバスに乗りました。茅野駅から乗ったのは6人でした。そのうち通勤客が4人で、北八ヶ岳に行くハイカーは私を含めて2人だけでした。

もうひとりのハイカーは、帰りのバスも一緒だったのですが、30代くらいの若者でえらく重装備でした。別に、テント泊か何かに備えた歩荷トレーニングというわけでもなさそうで(そもそもトレーニングならロープウェイには乗らないでしょう)、あきらかに場違いなオーバースペックです。見ると、40リットルのザックをパンパンに膨らませていました。

彼は、登山家の竹内洋岳に似た長身痩躯に長髪の風貌で、私は一瞬、竹内洋岳ではないかと思ったくらいです。でも、どこか変わった感じがしました。行きも帰りもそうでしたが、とにかくバスに最初に乗って、いちばん後ろの席に座らなければ気が済まないという感じでした。バスは混んでなかったのでそんなに気に留めることはなかったのですが、バス停はソーシャルディスタンスを守って少し間を空けて並んでいるのをいいことに、平気でいちばん前に割り込んで来るのです。それも、バス停のポールにくっつくようにして立ち、なにがなんでもいちばんに乗り込もうとするのでした。

北横岳に登っている途中に、彼が後ろから来たので、道を譲ったのですが、その際も無言のまま通りすぎて行きました。また、上の方でも降りて来る人が脇によけて道を譲っていましたが、やはり無言のまま通りすぎていました。中には、「こんにちわ」と挨拶する人もいましたが、まったく無視していました。

山にはコミュ障のような若者がよく来ていますが、彼もその類なのかも知れないと思いました。騒音公害のような若者グループの一方で、彼のようなタイプの若者もいるのです。若者でも年寄りでも、変わった人間が多いのも山の特徴です。

ほかに、山頂でスティックで山を指差しながら、ひとりでブツブツ言っているハイカー(40代くらいの男性)もいました。下山時、北横岳ヒュッテのところに七ッ池という標識があったので、七ッ池に寄ってみました。そして、登山道に戻る途中、前から短パン姿の若い女性のハイカーがやってきました。すると、そのあとから、ブツブツ男もやって来たのです。

妄想癖のあるおっさんは、七ッ池には誰もいなかったので、ヤバいんじゃないのと思いました。しかし、その若い女性のハイカーも帰りのバスで一緒だったのですが、別に変った様子はありませんでしたので、おっさんの勝手な妄想だったようです。

何度も言いますが、山では「こんにちわ」と挨拶するので“登山者性善説”のようなイメージがありますが、山には泥棒も痴漢もいます(大言壮語の嘘つきは掃いて棄てるほどいる)。下界と一緒なのです。だから、女性がひとりで山に登るのは、トイレの問題だけでなく、治安の面でも勇気のいることなのです。

茅野駅の標高は790メートルで、奥多摩の高水三山とほぼ同じです。ロープウェイの山麓駅は1771メートルで、山頂駅は2237メートルです。茅野駅から山麓駅までの標高差1000メートルを、バスは1時間近くかけて高原のなかの道を登って行きます。ロープウェイの標高差は466メートルですが、約7分で山頂駅に着きました。

ロープウェイの山麓駅に至る蓼科高原の道沿いは名にし負う別荘地で、有名企業の山荘なども多くありました。また、フレンチやイタリアンやインドなどのおしゃれなレストランの看板も多く見かけました。

中には、「小津安二郎の無藝荘」という看板が掲げられた建物もありました。どうやら小津の旧別荘の建物みたいです。また、近くには「小津安二郎の散歩道」という小道もありました。バカバカしいのですが、これも星野リゾートと同じようなハッタリ商法と言うべきかも知れません。

山頂駅を出ると、溶岩台地に高山植物が群生する坪庭と呼ばれる散策路が広がっていました。また、散策路の途中から、北横岳(2480メートル)の登山道が分岐しています。ロープウェイの山頂駅から北横岳の山頂までは、標高差がわずか250メートル足らずで、コースタイムは1時間強です。

山頂駅周辺は冬はスキー場になっています。山頂駅の建物にも、スキー客のためのさまざまな設備が付設されており、夏場は建物の半分くらいは使われていませんでした。ロープウェイの乗客の大半は、坪庭を散策する観光客で、北横岳に登るハイカーは1割くらいだそうです。

坪庭を訪れる観光客の中には、家族に手を引かれた高齢者もいました。そんな歩行にも苦労するような高齢になっても山に来ているのです。そんな姿を見ると、山国育ちの私はわけもなく感激するのでした。そして、山でよく聞かれる「山っていいなあ」ということばをあらためて思い出すのでした。

山が観光地化されることについてさまざまな意見がありますが、しかし、そうやって体力や身体面でハンディのある高齢者や身障者でも2000メートル強の山にも登ることができるというのは、掛け値なしにいいことだと思います。山というのは、体力的にすぐれた”強者”のためだけにあるのではないのです。先鋭的登山が、ときに翼賛的な全体主義思想と結びついたのも、そこに”強者”の思想が伏在していたからでしょう。日本の登山者の中では未だ”強者”の思想が支配的なのも、登山が戦争犯罪に与した負の歴史に対する検証が疎かにされたからかも知れません。

ただ、ゆるゆる登山と言っても、標高2000メートルを越える高山なので、登山道は岩が剥き出しになった箇所も多く、結構な急登でした。分岐から30分くらい歩くと、ヒュッテ北横岳という山小屋がありました。そこからさらに息を切らして登ると20分足らずで山頂に着きました。

北横岳は、北峰と南峰の二つの山頂をもつ双耳峰で、箱庭から登ると最初に着くのが南峰です。南峰から5分くらい歩くと北峰へ着きます。眺望は南峰の方がすぐれていますが、いづれも目の前には女性的な山容の蓼科山(2531メートル)がどっかりと対峙しています。また、遠くには、南八ヶ岳の硫黄岳・横岳・赤岳・中岳を連ねる稜線や中央アルプスや北アルプスの峰々も見渡すこともできました。

北横岳からは、大岳を経て双子池に足を延ばすこともできますし、蓼科山へ縦走することもできます。また、坪庭に下りてから隣接する縞枯山(2403メートル)や茶臼山(2384メートル)に登ることもできます。いづれも山頂駅からの標高差は200メートル足らずなので、同じようにゆるゆる登山ができるのです。しかし、私は、下山時、坪庭をぐるりと一周しただけで、正午前には山頂駅に戻って来ました。わずか3時間足らずの山行でした。帰りに通った坪庭の出口からは10分も歩けば縞枯山荘がありますが、山荘にも寄りませんでした。

べつにバテたわけでも、足が上がらなかったわけでもないのです。心拍数が上がって身体がだるくて仕方なかったのです。もちろん、標高が高く空気が薄いということもあるのでしょうが、とにかく、モチベーションが低下して、それ以上歩く気にならなかったのです。

先週受けた健康診断でも、前に再検査を指摘された心電図も今回は正常でした。でも、なぜかやたら身体がだるく、山に登っても、前とは疲労の質が違っているのを痛感するのでした。どうも標高が高いという理由だけではないような気がします。

そういった身体の変調も関係しているのか、最近、山に行くと落とし物をすることが多くなりました。前回は、銀行のキャッシュカードを落としました。今回は、カメラのレンズフードと小銭入れを落としました。それも、帰りの電車に乗って初めて気付くようなあり様でした(キャッシュカードは翌日気付いた)。

山頂駅に着いても、茅野駅行きのバスは午後2時55分なので、あと3時間近くもあります。それで、山頂駅にある展望台でアイスクリームを食べて時間を潰し、さらに山麓駅に下りてからも1300円のカツカレーを食べて時間を潰しました。それでも時間を持て余しました。ところが、ふと思い付いて、ネットでバスの時刻表を確認したら、午後1時すぎに茅野駅行きのバスがあったのです。でも、それを知ったのは既にバスが出たあとでした。

ゆるゆる登山とは言え、一応山に登るので、まさか午前中に下山できるとは思ってもみませんでした。また、時間があれば縞枯山にも足を延ばそうと思っていたので、午後1時台のバスなどまったく念頭になかったのです。

結局、バスの時間まで山麓駅の下にあるベンチで横になり、ザックを枕にして昼寝をすることにしました。あとでバス停に行ったら、バス停でもベンチに横になって寝ているハイカーがいました。

茅野駅からは午後4時20分発のあずさに乗って、2時間弱で八王子で下車。八王子からはいつものように横浜線で帰って来ました。あずさも前回に比べて乗客が増えていました。私が乗った車両でも、窓際の席は予約の青ランプが点灯してほぼ埋まっていました。

帰りのあずさのなかでは、なんだか空しさを覚えてなりませんでした。またしても落とし物をしたことに気付いたということもありますが、1泊2日で長野まで行ってわずか3時間足らずのゆるゆる登山で終わったことに対して、なんのために行ったんだろうというような気持になりました。これでは山に登るモチベーションは下がる一方です。

八王子からは、帰宅時間帯だったということもあって、ずっと立ちっぱなしでした。横浜線も見事なほど”密”が復活していました。みんな、どうしてあんなに我先に座席に座りたがるんだろうと思います。通勤電車だけソーシャルディスタンスの”治外法権”に置かれ、曲学阿世の御用医学者たちが「電車内ではみんな同じ方向に向いているので感染のリスクは低いですよ」などと言い、電車内での感染は「感染経路不明」にされるのでした。乗客のPCR検査をしたら、岡田晴恵女史も卒倒するくらいすごいことになるだろうなと思いながら帰って来ました。


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ホテルの部屋。

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茅野駅。

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北八ヶ岳ロープウェイ山麓駅。

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ロープウェイ内。もちろん、マスクの着用を求められます。

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山頂駅を出ると坪庭入口。

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同上。

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案内板。

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坪庭をめぐる散策路。と言っても、ゴツゴツした岩の道です。

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途中から山頂駅を見渡す。

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登山道との分岐。

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登山道はこのような大きな岩が剥き出した急登が多くありました。

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同上。

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北横岳ヒュッテ。

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残り15分の急登。

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最後の階段を登ると山頂(南峰)です。

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南峰の山頂標識。

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南峰の様子。

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南峰からの眺望。

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南八ヶ岳の山々。

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南アルプス。

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北峰。

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同上。

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南峰に戻って下山します。

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七ッ池。

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山名にもなっている縞枯れ現象。

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坪庭を逆コースで歩く。

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同上。

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同上。

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山頂駅に戻って来ました。
2020.08.26 Wed l l top ▲
新宿駅~富士見駅~富士見パノラマリゾート~【入笠山】~富士見パノラマリゾート~富士見駅~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約3時間(休憩含む)
※山行距離:約4キロ
※標高差:179m
※山行歩数:約10,000歩


昨日8月10日は「山の日」でした。と実は、「山の日」が祝日だということは知りませんでした。今、このブログを書くに際して初めて知った次第です。

今調べたら、「山の日」の祝日は2016年に制定されたみたいです。どうりで現天皇(浩宮)が、2016年に上高地で行われた「山の日」の式典に家族で参加したわけです。

昨日が休日だと知らないまま、「山の日」なので山に行きたいと思って、昨日の朝、新宿駅から7時15分発の特急あずさ71号に乗りました。南アルプスの入笠山(にゅうかさやま)に行こうと思ったからです。

夏の低山は先日の蕨山で懲りたので、標高1995メートルの入笠山だと灼熱地獄とは無縁に山に登ることができるのではないかと思ったのでした。それに、入笠山は麓のゴンドラ駅が既に標高1000メートルで、そこからゴンドラに乗って700メートル超をいっきに上がるので、山頂駅から山頂までは標高差が200メートルもないのです。そのため、約1時間のゆるゆる登山ができると聞いたので、のんびり山を楽しみながら歩きたいと思ったのでした。

特急あずさは、増発され15分おきに出ていました。あずさは普段は1時間に1本なので、臨時便が出ているみたいです。ただ、今年に関しては、お盆の帰省シーズンだからというより、感染防止のため(密を回避するため)という意味合いの方が大きいみたいです。新幹線も増発されているそうですが、あえて赤字便を運行するのですからJRも大変だなと思います。私が乗った午前7時15分発のあずさ71号も臨時便で、ネットのえきねっとで予約したのですが、座席を指定するのにあまりの空席だったので間違いじゃないかと思ったくらいでした。私が乗った車両には数人しか乗っていませんでした。なんだかJRが気の毒に思いました。

反対側のホームから出たひとつ前の7時発のあずさ1号には、結構な数のハイカーが乗っていました。早めに着いたので、ホームの待合室に入ったら、そこにも数人のハイカーが座っていました。いづれも60代くらいの男性のソロのハイカーでしたが、みんな、本を読んで時間を潰していました。なんだか子どもの頃によく見た昔のハイカーを思い出しました。昔は、山に登るのはお金もかかったということもあって、学生や学校の先生などインテリが多かったのです。待合室のハイカーたちは、7時発のあずさの乗車開始のアナウンスが流れると、みんないっせいに出て行き、私ひとりが残りました。

八王子に着くと、ホームにハイカーの姿が多くありましたので、八王子で乗り換えて大菩薩嶺に登る人が多かったようです。

あずさは、2時間15分で長野県の富士見という駅に着きました。富士見は、八ヶ岳連峰の麓にある小さな駅です。富士見駅から無料のシャトルバスに10分ほど乗ると、富士見パノラマリゾートのゴンドラ乗り場に着きました。

シャトルバスは、密を回避するため、座席はひとつ置きに座るようになっていました。そのため、定員の半分しか乗れません。しかし、二台のシャトルバスがピストンで運行されていました。乗る前に必ずマスクを着用し手を消毒しなければなりませんでした。運営母体が第三セクターとは言え、やはり、リゾート施設だからなのか、運転手の方も対応が丁寧で親切でした。日頃、社会主義国家のような市営バスを利用している(利用しなければならない)横浜市民にとっては、まるで別世界のような勤務態度でした。

ゴンドラ乗り場でも、切符を買う際に、感染が発生した場合に備えて名前と住所と連絡先を記入し、手の消毒が義務付けられていました。

富士見パノラマリゾートは、もともとはスキー場ですが、スキー人口が減少したのに伴い、雪のない期間はマウンテンバイクやハングライダーなど、ほかのアウトドアスポーツに力を入れているようです。特に、スキーのゲレンデを利用したマウンテンバイクは盛んなようで、ハイキングの客よりも多いくらいでした。地元の人に聞くと、入笠山(富士見)は今や国内でも有数のマウンテンバイクのメッカになっており、愛好家の間では有名なのだそうです。

ゲレンデのリフトは、マウンテンバイク専用になっていました。ゲレンデを走るのは、子どもや初心者なのだとか。上級者向けには、ゴンドラに乗って山頂駅の1780メートルの地点から麓のゲレンデまでいっきに下るコースがあるのだそうです。ゴンドラ乗り場でも、私の前にはマウンテンバイクを押したヘルメット姿の中年女性が並んでいました。また、帰りの時間になると、ゴンドラの乗り場は、ハイキング客に代わってマウンテンバイクの若者たちに占領されていました。

昨日の入笠山には多くの家族連れがハイキングに来ていましたが、登山者の高齢化はどこでも深刻な問題です。しかも、何度も言いますが、あと10年もすれば、登山人口の30%を占める多くの高齢者は山に行くことができなくなるのです。一方、入笠山のマウンテンバイクは、逆に若者や子どもが多く、あらためて登山がアウトドアとしては過去の遺物になっている現実を痛感させられた気がしました。「山の日」の祝日化に浮かれている場合じゃないのです。

ゲレンデでは、ハングライダーの講習も行われていました。山頂駅の先にはハングライダーの滑走場も設置されているのでした。

山頂駅の周辺には、山野草公園や湿原がありました。登山道と言えるのは、湿原を越えたあたりからです。後半の15分くらいにかなりきつい急登がありますが(その15分が長かった)、でも、小さな子どもも登っていました。また、家族連れやお年寄りの中には、山頂に登らずに山野草公園や湿原を散策している人も多くいました。ゴンドラはペットも可なので、犬を連れている人も多く、急登では、舌を出したワンちゃんがハアハア息をあげながら休憩していました。

私は、携帯用の植物図鑑を持って行ったのですが、ゴンドラの切符を買った際、「入笠に咲く花」というガイドブックを貰いました。ガイドブックには、詳細な花の図鑑が色別に載っており、それと照らし合わせて写真を撮りながら登りました。

ゴンドラに乗る場合も、マスクの着用と手の消毒が必要でした。しかも、ゴンドラは8人乗りですが、知らない人と乗り合うことはなく、家族やグループ単位で乗るようになっていました。私の場合ひとりでしたので、行きも帰りもひとりでゴンドラに乗りました。

山頂に行くと、多くの人で賑わっていました。四方に眺望がひらけており、標高が高い山の特権を享受することができました。山頂でも特に目立ったのが家族連れでした。みんな、ピクニック気分で弁当を広げていましたが、私は、帰りにマナルス山荘で昼食を食べるつもりだったので、岩場に座って水を飲んだだけでした。後ろの方から、「やっぱり山っていいよねえ~」という声が聞こえてきました。そんな声を聞くと、なんだか私まで嬉しくなるのでした。気温も下界と10度くらい違うようで、蕨山に登ったときのような多量の汗に苦しむこともありませんでした。

今回は、化学繊維のタオルのほかに、山ではタブーとされている綿のタオルを3枚持って行きましたが、綿のタオルは2枚使っただけでした。また、同じように山ではタブーとされている綿の下着の着替えも持って行きましたが、着替えることはありませんでした。

下着やタオルも、山で推奨されている速乾性のある素材のものは水分の吸収がよくないので、かえって綿の方が快適なのです。ただ、綿は速乾性がないので、あくまで着替え用にしか使えません。

帰りのマナスル山荘の昼食は、うっかりして山荘の前を通らないコースを下りたため、食べることができませんでした。そのため、山頂駅に併設されているレストランで、「山賊焼き定食」を食べました。

それにしても、観光地と言うこともあるのでしょうが、事細かに感染対策が取られていて、都内とは雲泥の差です。

行くたびに手の消毒を求められ、全部で5~6回消毒したかもしれません。山を歩くときもずっとマスクをしていました。まわりに人がいないときは顎にかけ、人とすれ違うときに鼻と口を覆いました。ただ汗で濡れるので、替えのマスクも3枚持って行きました。ほかに、携帯用の除菌シートと除菌スプレーも持って行きました。

このように感染防止を求められると、おのずと感染防止に気を使うようになるのです。それが「正しく怖れる」ためのキモです。富士見パノラマリゾートの感染対策に比べると、都内の通勤電車や繁華街などはメチャクチャの一語に尽きます。ここに至っても密などどこ吹く風で、我先に電車の座席に殺到しているサラリーマンやOLたちは、正気とは思えません。小池都知事に至っては、相変わらず「感染拡大」のボードを掲げて感染の恐怖を煽るだけで、有効な感染防止策はほとんど取っていません。再び外出自粛を言い出していますが、自粛なんて誰でも言えるのです。言うまでもなく、自粛は経済的な自殺行為です。そんな安直な方法ではなく、社会経済活動と並行した「正しく怖れる」ための感染防止策が必要なのです。

PCR検査は3割?の偽陰性が生じるので、のべつまくなしに検査しても意味がないと医師会をはじめ医療の専門家たちが言っていますが、そんなことを言っているのは日本だけです。陰性だと思って安心すると他人に感染させる懸念があると言いますが、今のように検査をせず自分が感染していることも知らずに他人に感染させる状況と比べて、どっちがマシかという話でしょう。科学者として(疫学的に)、3割の誤判定と7割の正しい判定のどっちに重きを置くかでしょう。そんなことを言っているから、日本だけ極端に検査数が少ないのです。そのくせ、(桁違いに検査数が少ないにもかかわらず)医療崩壊だけが取り沙汰されているのです。

日本の医療は世界の最先端にある、日本人は優秀、と言うのはホントなんだろうか、もしかしたらそれも「ニッポン、凄い!」の自演乙にすぎないのではないか、と思ってしまいます。

感染防止の無作為を棚にあげて、人々の恐怖心を煽るのは犯罪的ですらあります。そのために、この国には無神経と自粛警察の両極端しか存在せず、「正しく怖れる」知識や対策がなおざりになっているのでした。

下山後は、富士見駅から16時発のあずさ7号に乗り、八王子で横浜線に乗り換えて帰ってきました。


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登山の自粛要請とマナーの問題


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富士見駅のホーム。特急あずさを見送る。

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駅前のシャトルバスの乗り場。既にハイカーがバスを待っていました。

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富士見駅。

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シャトルバス。

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富士見パノラマリゾートのゴンドラ地上駅。

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夏のゲレンデ。

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同上。

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ゲレンデの先にゴンドラ乗り場があります。

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お盆休みで尚且つ「山の日」なので、既に長蛇の列。

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ゴンドラの中から前方を眺める。

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後方を振り返ると遠くに街並み。

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山頂駅の出口。

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ハイキングコースの入り口の横にある休憩所。帰りにここでソフトクリームを食べました。

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ハイキングコースの入り口。ここにも係員が立って道案内をしていました。

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入笠湿原。

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同上。

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同上。

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山彦荘。

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マナスル山荘。ビーフシチューのほかにパンも評判です。パンの売り場には行列ができていました。

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御所平。

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岩場コースと迂回コースの分岐。岩場コースを選択しました。

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急登を登りきると、山頂が見えてきた。

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山頂の人々。みんな笑顔でした。

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下山開始。

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帰りのゴンドラから。
2020.08.11 Tue l l top ▲
池袋駅~飯能駅~名郷~【蕨山】~東飯能駅(泊)~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約6時間(休憩含む)
※山行距離:約7キロ
※標高差:718m
※山行歩数:約17,000歩


昨日(8/4)、埼玉の旧名栗村の蕨山(わらびやま)に登りました。西武線池袋線で飯能まで行き、飯能駅からさらに1時間近くバスに乗って、旧名栗村(現在は飯能市と合併)の「名郷」というバス停で降りました。

飯能駅からバスに乗ったのは10人ちょっとくらいでした。そのうち3~4人は地元の通勤客で、残りのハイカーも棒ノ折山の登山口がある「河又名栗湖入口」で降車し、以後、バスの乗客は私ひとりだけになりました。「河又名栗湖入口」から「名郷」までは、さらに20分くらいかかります。

蕨山は、バス停から山頂まで4.5キロです。通常は「名郷」から登り、下りは「河又名栗湖入口」の近くにあるさわらびの湯に降りるか、その逆ルートを歩く人が多いのですが、私は初めての山なので自分のルールに従い、ピストンすることにしました。

私が普段参考にしている某登山アプリのコースタイムでは、上りが2時間半、下りが2時間弱になっていました。このアプリのコースタイムは、自分のペースとほぼ同じなので、登山を計画する際にいつも参考にしています。それで、休憩時間を含めても3時間前後で登れるだろうと思っていました。

しかし、自粛明けでやっと山に登れると思ったのもつかの間、今度は長雨でひと月以上山行が途絶えたので体力が元に戻ってしまったのか、あるいは前夜ほとんど眠ってないことも影響したのか、とにかく最初から息も絶え絶えで休憩時間も入れると山頂まで3時間半近くかかりました。登山道も急登続きで、しかも途中2か所トラロープ(虎柄のような山でよく見るロープ)が設置された岩場もありました。私の感覚では、御前山や川苔山よりきつく感じました。山行中会ったハイカーはひとりだけでした。

ほうほうの体で”山頂”(標高上の山頂ではなく、浅間嶺などと同じような山頂の代わりをしているハイカー向けの展望台)に着いたら途端に眠気に襲われ、ベンチに横になってしばらく眠りたいほどでした。吐き気も覚え持参したおにぎりを食べる気にもなりません。実際にベンチに横になったものの、このまま眠り込んで夕方になったら大変なことになると思って、水を飲み、早々に下山することにしました。登りに予想外に時間がかかったため、帰りに乗る予定だったバスにも間に合いそうもなく、もう残るは最終バスしかなくなりました。

下りもずっと睡魔に襲われ、何度も地べたに座り込む始末でした。下りは2時間ちょっとでしたが、その時間の長いことと言ったらありませんでした。下山して林道に着いた途端、再び地べたに座り込んでしまいました。

岩場だけでなく、転倒したらそのまま崖下まで滑落するような急坂が何ケ所かありましたが、何とか自分を奮い立たせて降りることができました。岩場では慎重を期して後ろ向きで降りました。

林道を20分くらい歩くとバス停に戻ることができます。午後4時46分だかの最終バスまで1時間以上待たなければなりませんでした。ぐったりしてベンチに座わりウトウトしていたら、山で会った唯一の人(40代くらいの男性)が降りて来て、「どうしたんですか?」と訊くので、睡眠不足とこの暑さで疲労困憊だということを話したら、「駅まで送って行きますよ」と言ってくれたのです。その人は車で来ており、バス停の前の駐車場に車を停めていたのですが、私の様子を見て心配して声をかけてくれたようです。ホントにありがたくて、他人(ひと)の情けが身に沁みました。

水は500ミリリットルのペットボトル3本と、凍らせた経口補給水のゼリーを2個、それにアミノバイタルを1個持って行きましたが、それでも足りないほどでした。汗がとどめもなく噴き出して、全身が水をかぶったような状態で、下山してからも汗が止まらず、ベンチに座っていてもまるでおしっこを漏らしたようにベンチがべっとり濡れるほどでした。

車で八高線の東飯能駅まで送ってもらいましたが、とてもじゃないがこのまま八高線と横浜線を乗り継いで帰る気力もなく、とにかくこの睡魔を満たしたい気持でいっぱいでした。それで、ブッキングドットコムで駅近くのビジネスホテルを予約して、そのままホテルにチェックインすることにしました。

ホテルの部屋に入るなり、文字通りベットに倒れ込み、爆睡しました。午前0時近くに一度目を覚ましてシャワーを浴び、そのあと再び眠って、次に目を覚ましたのは翌日の午前7時すぎでした。

午前9時すぎにホテルをチェックアウトして、いつものように八高線と横浜線を乗り継いで帰宅したのは午前11時すぎでした。帰りの電車は既に通勤時間帯をすぎていましたので空いており、ずっと座って帰ることができました。

それにしても、蕨山に苦戦したことのショックは大きく、今後の山行に対しても不安を抱かざるを得ません。

真夏に低山を登る大変さと、しかも睡眠不足で登った無謀さを痛感させられました。いつまでも若いんだという勝手な(思い上がった)意識に対して、ものの見事にシッペ返しを受けた感じです。少しでも山から遠ざかるとすぐ体力が衰えるのは、それだけ年を取った証拠なのでしょう。そういった自分を素直に認める必要があるのです。

突飛な話ですが、石田純一が新型コロナウイルスに感染して2ヶ月近く入院と自宅療養を余儀なくされた話を思い出しました。完治したあとの記者会見で、彼は、2ヶ月間外を歩くことができなかったので、歩くのもままらないほど筋力が衰えてしまいショックだったと言っていました。ところが、ほどなくゴルフを再開し、挙句の果てには(ウソかマコトか)コンペ後の食事会で「美女をお持ち帰り」したと芸能マスコミから報道されていました。

喉元すぎれば熱さも忘れるとはよく言ったもので、私も石田純一を笑えないのです(とここまで書いて、石田純一を持ち出したのは適切だったかなという疑問を持ちましたが)。別に年寄りらしくあれと言うのではないのですが、もっと自分の体力や自分の年齢に謙虚にならなければならないのです。つくづくそう思いました。


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バス停の横の指導標。

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橋を渡って林道を歩きます。

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林道の突き当り。ここから右に下りて沢を渡り登山道に入りました。下り口がわかりにくくて、唯一山で会った人は、林道をそのまま進んで道に迷ったと言っていました。

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登って来た林道を振り返る。

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登山道に入るとすぐ渡渉。数年前の写真を見ると、丸太で作った橋があったようです。台風で流されたのでしょう。

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登山道は少し荒れています。

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こんな石があったのでしょうか。私もお賽銭をあげて手を合わせました。

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崩落している箇所もあった。

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二度目の渡渉。

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ここから急登になりました。

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ほぼ半分まで来ました。ここまでは順調だったのですが‥‥。

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しばらく尾根道を歩く。

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初めて眺望のいい場所に出ました。

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最初のロープ。

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登りきると、次の眺望のいい場所がありました。

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旧名栗村の集落が遠くに見えます。

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岩場が多くなりました。

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上から下を見下ろしたところ。帰りにこれを下るのかと思うと嫌になります。

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山でよく見かける昭和のギャグ。

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尾根道も細くなりました。

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注意書きも多くなりました。

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やっと稜線に出た。

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展望台の山名標識。

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展望台の様子。夏の午後なので眺望は望めません。

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同上。既に吐き気がしてフラフラでした。

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帰りに岩場を再び上から見下ろす。

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やっと林道まで降りてきた。道ばたにへたり込んで撮った写真。

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「名郷」バス停。

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ホテルの部屋。
2020.08.05 Wed l l top ▲
山に行くようになって、ときどきYouTubeにアップされている登山の動画を観るようになりました。行く予定の山のアクセスや登山道の状況を確認するという目的もあるのですが、ただ山の情報に関しては、YouTubeより登山愛好家のブログなどの方が全然参考になります。

いわゆる登山系ユーチューバーの動画は、必要以上に手が加えられ動画のイメージにこだわったものが多く、実際に山に行く上ではあまり参考になりません。それもシロウト感覚の編集なので、鼻白むことも多いのです。

実際は「なぜ来たんだろう」とか「もう帰りたい」とかそんなネガティブな気持と戦いながら、ハアハア息を弾ませ鼻水を垂らして登っているはずなのに、そんな素の部分は微塵も見せないのです。

若いユーチューバーの動画ほどその傾向が強く、きれいでカッコいいシーンで構成されたものが多いのです。そして、そんな動画から垣間見えるのは、”あざとさ”です。既に一部のユーチューバーの動画には、「企業案件」と呼ばれる、登山メーカーとタイアップしてギアなどを紹介する動画も存在していますが、これは一時問題になったステマのYouTube版のようなものです。

ホントに山が好きなんだろうか、山に登ることを楽しんでいるんだろうかと思ったりしますが、もとより彼らには、はなからそんな感覚はないのかもしれません。山が好きだから動画を撮ったというより、お金を稼ぐ素材として山を選んだと言った方が適切なのかもしれません。

しかし、現実には登山関連のマーケットは非常に小さく、登山系ユーチューバーとして生活するのは至難の業です。あてがはずれたお金目的のユーチューバーは、早晩、YouTubeを投げ出してフェードアウトするのがオチのような気がします。あるいは、キャンプなどの方がまだしもマーケットが大きいので、同じアウトドアでも他に方向転換するか、どっちかでしょう。

結局、ユーチューバーとして残るのは、それなりにかわいい顔をした若い女性が顔出している動画だけ、という身も蓋もない話になるのかもしれません。若い女性の動画なら、登山と無縁なスケベーなおっさんも観てくれるからです。実際に、女性ユーチューバーの中には、どう見ても”中の人”にプロデュースされているとしか思えないような、”アイドル志向”の人物も登場しています。

ただ、『ランドネ』あたりで”元祖山ガール”として売り出された四角友里や仲川希良などは(あまり詳しくないので二人しか名前が出て来ませんが)、まだしも”あるべき登山“に拘る従来の登山スタイルを保持していますが、今の”アイドル志向”の女性ユーチューバーには、そんな拘りはまったくありません。むしろないことがウリになっているのです。それは、男性のユーチューバーも同じです。

でも、一方で、お金に対する欲望は臆面もなく剥き出しなのです。ヤフオクやメルカリの転売に象徴されるように、シロウトぶっているけどお金には結構えげつない、そういった二律背反もネットの特徴です。

YouTubeがいつの間にか”向銭看”たちの欲望が渦巻く場になったのに伴い、ネット通販と同じように、金を掘る人間より金を掘る道具を売る人間の方が儲かるという、シロウトの浅知恵に付け込んだ“ここを掘れワンワン商法”の草刈り場と化していったのは、当然の成り行きでしょう。

しかも、(何度も言いますが)登山関連のマーケットが先細りになるのは目に見えているのです。

5年に一度実施される総務省統計局の「社会生活基本調査」の平成28年版によれば、15歳以上で登山・ハイキングに行った人は、972万7千人(男性494万5千人、女性478万2千人)だそうです。

総務省統計局
登山・ハイキングの状況-「山の日」にちなんで-(社会生活基本調査の結果から)

これだけ見ると、すごい数字のように思うかもしれませんが、これはあくまで年間1回以上登山やハイキングに行った人の数です。登山やハイキングを趣味にする人の数ではないのです。

年齢別で多いのは、やはり60歳以上の高齢者です。男性では、65~69歳がもっとも多く、全体の13.2%、次に60~64歳の12.7%。女性は、60~64歳が12.0%でもっとも多く、次が55~59歳の11.0%です。60代以上の高齢者に限って言えば、男性が36.8%、女性が30.4%を占めています。

マーケティングの年齢別区分に数字を置き換えてみると、以下のようになりました。

男性
M1層(20~34歳)25.5% 平均行動日数5.2日
M2層(35~49歳)19.6% 5.3日
M3層(50歳以上)61.5% 11.8日

女性
F1層(20~34歳) 27.9% 5.3日
F2層(35~49歳)20.1% 4.7日
F3層(50歳以上)43.3% 7.1日

実際に山ですれ違う登山者たちと比べると、これでも若い人の割合が高いように思いますが、この数字はあくまで年間1日以上登山やハイキングに行った人の割合なので、実際と乖離があるのは当然でしょう。

何度も言いますが、あと10年もすれば、男性で36.8%、女性で30.4%を占める高齢者の多くが山に行くことができなくなるのです。いや、その前にコロナ禍で山登りをやめる高齢者が続出する可能性だってあるでしょう。ポストコロナでいろんな業界の風景が一変するのではないかと言われていますが、登山も例外ではないような気がします。高尾山や御岳山や大山などを除けば、山が閑散とするのは目に見えているように思います。奥多摩駅や武蔵五日市駅のバス停の行列も、そのうち見られなくなるかもしれません。

山ガールブームも今は昔で、山ガールの年齢層も(既に山ガールとは言えないほど)上昇しているのは、山によく行く人間なら気付いているでしょう。つまり、後ろの世代が山に来てないのです。しかも、山ガールたちは、奥多摩で言えば、せいぜいが大岳山か三頭山か高水三山くらいで、それ以外の山に足を踏み入れることはほとんどありません。また、丹沢(神奈川)では、大山以外に表尾根で少し見かけるくらいです。奥武蔵(埼玉)や奥秩父も、棒ノ折山以外はほとんど見かけません。もっとも、年間5日前後の山行(?)ではそれが現実なのかもしれません。

こう考えると、一攫千金を夢見る登山系ユーチューバーのアクセス数が思ったほど伸びず、ほとんど自己満足の世界でマスターベーションしているだけというのもわからないでもないのです。趣味でYoutubeをやっている人は別にして、実利を求める彼らが山から遠ざかり、YouTubeを投げ出すのは時間の問題のような気がします。
2020.07.31 Fri l l top ▲
池袋駅~西武秩父駅~三峯神社駐車場~【霧藻ヶ峰】~三峯神社駐車場~西武秩父駅~東飯能駅~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約8キロ
※標高差:437m
※山行歩数:約19,000歩


おととい(25日)、奥秩父の霧藻ヶ峰に登りました。

前夜、山に行く準備をしたものの、どこの山に行くかはまだ決まっていませんでした。そして、布団に入ってあれこれ思案していたとき、「そうだ、この前行けなかった霧藻ヶ峰に行こう」と思い立ったのでした。

霧藻ヶ峰は、三峯神社から雲取山に行く三峯ルートの途中にあるピークです。三峯ルートは、片道だけで10キロ強の長丁場ですが、霧藻ケ峰は、三峯神社から歩いて3分の1くらいのところにあります。

三峯神社の奥の院の妙法ヶ岳に登った際、前方に雲取山に向かう稜線が見渡せたのですが、その稜線の下に林道が走っていてトンネルがあることに気付きました。私は、埼玉に住んでいた頃、秩父の峠道もよく車で走ったのですが、その林道とトンネルは走ったことがありませんでした。霧藻ヶ峰は、トンネルの上の稜線を歩いた先にあります。地図を見ていたら、ふと、妙法ヶ岳から見た風景を思い出し、あの稜線を歩いてみようと思ったのでした。

池袋駅から6時50分発特急ちちぶ3号で西武秩父に行きました。秩父駅からは9時10分発の三峯神社行きのバスに乗り、三峯神社の駐車場に着いたのは10時半前でした。バスには、10人くらい乗っていました。その中でハイカーは4人だけでした。

秩父駅では雨が降っていましたが、三峯神社に登ると雨は上がっていました。ただ、一面濃い霧に覆われており、バスから降りたハイカーのおばさんは、「これじゃ何も見えないよ」と連れのおばさんに嘆いていました。

駐車場からは、三峯神社とは反対の方向の妙法ヶ岳に登ったときと同じ道を歩きます。しかし、反対の方向に歩き出したのは私だけでした。他のハイカーはどこに行ったんだろうと思いました。

二つ目の鳥居で、妙法ヶ岳方面と霧藻ヶ峰・雲取山方面の道が分岐します。霧藻ヶ峰は、鳥居をくぐらずに右手に進みます。登山道は、途中まで緩やかな登りですが、ずっと樹林帯の中を歩かなければなりません。それに、森の中も霧が立ち込めているので、幻想的と言えばそう言えますが、薄暗くまったく見通しがききません。しかも、少し登ると、急に雨が降りはじめました。あわててレインウエアを着て、カメラにも雨用のカバーを付けました。レインウェアを着たので、汗がいっそう噴き出し、雨粒と混ざって首筋からタラタラとしたたり落ちていました。

今回は、心拍数が上がらないように、「ゆっくり」「ゆっくり」と自分に言い聞かせながら歩きました。特に、平坦な道では、努めてゆっくり歩くようにしました。平坦だと(時間を稼ぐために)どうしても急ぎ足になりがちですが、とどのつまりそれは次の登りのためのエネルギーを浪費することになるのです。そのため、登りになった途端、心拍数が上がって足が進まなくなってしまうのです。

霧藻ヶ峰は標高1523メートルですが、三峯神社との標高差は400メートルちょっとしかなく、山行時間も短いので、ほとんど休憩を取らずに最後まで登ることができました。ただ、こんなユルユルの登山をすると、一方で、何か手抜きをしたような後ろめたさを抱くのも事実です。

妙法ヶ岳と分岐する手前で、三峯神社の奥の院(妙法ヶ岳)から下りてきた4人の家族連れとおぼしき人達とすれ違った以外、上りも下りも誰とも会いませんでした。

三角点のある霧藻ヶ峰の山頂?は、植生を守るためか、ロープが張られて「立ち入り禁止」になっていました。しかし、山ではよくある話ですが、「立ち入り禁止」の札が外され、明らかに立ち入った形跡が見られました。

何度も言いますが、山ではすれ違うときに「にんにちわ」と挨拶するので、山に来る人間は如何にも“善人”のように思われますが(登山者性善説?)、実際は下界と同じなのです。マナーの悪い人間はいくらでもいるし、泥棒だっています。下界の人間が登って来るのですから、そんなに”善人”がいるわけないのです。

前の記事でも書きましたが、昔のように明るい道を歩いて、ときどき立ち止まっては、目の前の風景に心の中で感嘆の声をあげながらしばらく見入るような、ゆったりした気持で山に登ることは、もう叶わなくなったのです。「非日常性」とか「ストレスの解消」とか、そういったものを求める気持も希薄になっているのかもしれません。たしかに、樹林帯の中をただ下を向いて歩くだけの今の登山では、ゆったりした気持を持てるわけがないのです。

トレランの影響なのかどうか知らないけど、地図のコースタイムと競争しているような、文字通り下界の論理をそのまま持ち込んだような登山者に、マナーを求めるのはないものねだりの子守唄(懐かしの中原理恵「東京ららばい」)なのかもしれません。

山頂から10分くらい下ると、大きな岩に秩父宮夫妻のレリーフがありました。その先には、霧藻ヶ峰休憩所とベンチがありました。休憩所は、平日は閉鎖され、週末だけ小屋番が来て開けているそうです。

私は知らなかったのですが、霧藻ヶ峰という山名は、昭和の初めに秩父宮によって命名されたのだそうです。それまでは黒岩山と言われていたとか。ここにもやむごとなき登山の痕跡が存在するのでした。まるで神様のような扱いですが、それと「自立した登山者であれ」という登山が持つ”自主自立の精神”は、どう折り合いを付けているんだろうと思いました。

日頃、登山者に対して、しかめっ面で偉そうな態度の小屋のオヤジが、皇族が来たら別人のようにヘラコラして、皇族が来たことを殊更アピールする。それは、会社の上司にも見られる如何にも日本人的な”二面性”と言えるのかもしれません。そんな嫌な光景を想像しました。

妙法ヶ岳のときも書きましたが、秩父と言えば秩父困民党のことを思い出さないわけにはいきません。生糸価格の下落によって生活に窮した秩父の自由党員たちが秩父困民党を組織して武装蜂起し、秩父に「臨時革命政府」を樹立して、明治政府と対峙したのでした。そして、革命を鎮圧せんとする天皇制国家の武装警察や憲兵隊との間で、奥秩父や上武(今の埼玉北部や群馬南部)の山域でゲリラ戦を展開したのでした。

奥多摩もそうですが、秩父でも峠道を人々は自由に行き来していたのです。生活物資だけでなく、自由民権思想などの文物も峠を越えて流通していたのです。

秩父在住の高校の先生で、登山家であり秩父事件の研究者でもある安谷修(ハンドルネーム)氏は、自身のサイトに掲載した「秩父山地の歴史と文化」という文章の中で、秩父事件について、次のように書いていました。

1882年ごろから、政府によるデフレ誘導政策によって、生糸など農産物の価格が暴落し、養蚕地帯では、人々の暮らしは破滅に瀕していた。そうした中で自由党員によって組織された人々が「秩父困民党」を名乗り、専制政府打倒をめざして武装蜂起したのである。秩父地方は困民党によって制圧され、秩父郡役所には革命本部がおかれた。
 政府は警察だけでなく、陸軍の東京・高崎鎮台兵、憲兵隊を動員して秩父地方を包囲し、事件の鎮圧をはかった。困民党軍は、熊谷・川越方面への出口にあたる三沢村(現在皆野町)の粥仁田峠で警官隊と衝突し、本庄方面への出口にあたる金屋村(現在児玉町)で東京鎮台兵と銃撃戦の末敗北したが、軍を立て直して藤倉村(現在小鹿野町)の屋久峠を越えて群馬県に逃れ、さらに十石峠を越えて長野県佐久地方に進出した。困民党軍が壊滅したのは11月9日、東馬流(現在小海町)における高崎鎮台兵との銃撃戦及び海ノ口(現在南牧村)での銃撃戦においてである。
 ゲリラ戦や組織化の過程では、城峰山を主峰とする上武山地の山々が主舞台となった。ここには、秩父と群馬県の各集落を結ぶ、多くの峠道がある。平地では陸軍の圧倒的な火力に敗北したが、網の目のように張りめぐらされた峠道では、困民党が自在なゲリラ戦によって、警官隊を翻弄した。この中には廃道も多いが、現在なお使われている道もある。
 秩父事件の舞台は、ここ秩父の里山からじつに長野県八ヶ岳山麓までを含む、広大な山岳地帯なのであるが、秩父事件の話はここで終わるわけではない。 蜂起の際の最高指導者田代栄助は、秩父市を見下ろす武甲山に潜伏の後とらえられた。長野への転戦の指導者、北相木村の菊池貫平は、故郷の名山である御座山に潜伏の後、甲府へ逃れた。秩父事件の発起人のひとり落合寅市は、いったんは高知県に逃亡した後、雁坂峠を越えて秩父に戻ってきた。

山と渓ときのこと酒と
秩父山地の歴史と文化
http://www.yasutani.com/prof/titibun.htm


私たちは、現在、その峠道の一部を登山道としてザックを背負って歩いているのです。

ちなみに、現天皇(浩宮)は、雲取山には3度登っています。三頭山と雲取山は、やむごとなき登山の”聖地”と言っていいのかも知れません。

嘘かホントか、現天皇のやむごとなき登山に際して、雲取山の避難小屋が新しく建て替えられたのだとか。真偽はともかく、その手の話は珍しくありません。檜原村にある6千万円をかけた総ヒノキ造りのトイレといい、三頭山の避難小屋や遊歩道といい、我々下々のハイカーは、(主権在民の世の中であるにもかかわらず)やむごとなき登山のおこぼれを頂戴して喜んでいるのです。


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歩きはじめの道も霧が立ち込めていました。

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最初の鳥居。鳥居をくぐって進むのですが、間違えて右へ行ってしまいました。

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よく間違える人がいるみたいで、このような警告板がありました。

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二つ目の鳥居。ここから右へ分岐します。

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道標(指導標)を確認。

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樹林帯の中も濃い霧。

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炭窯跡。私の祖父も自家用の炭を焼いていたことがあり、小学生のとき、一度だけ炭俵を背負子で担いで家まで運んだことがあります。きついというより恥ずかしかったので、二度とやりませんでした。

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炭窯跡。

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雨も上がり、明るくなってきた。

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季節柄、登山道にヒキガエルがやたら出ていました。行きと帰りに4匹遭遇した。私たちは、子どもの頃、ヒキガエルを「バッコン」と呼んでいました。

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光が差し込むと、幻想的と言えないこともない。

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地蔵峠に到着。道標。

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地蔵菩薩。

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霧藻ヶ峰まで300メートル。

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表札が逆光で見えにくい。

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道を上下すると、小高い上にトイレ。

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さらに進むと、大岩にレリーフ。ここで山開きが行われるらしい。

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記念碑とレリーフの案内板。

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レリーフの岩をまわると休憩所の建物があった。

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休憩所前のベンチ。ここで持参したコンビニのおにぎりを食べた。

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霧藻ヶ峰休憩所(看板は「休憩舎」)の全景。

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休憩所の前はまぶしいくらいの新緑に覆われていた。空が晴れて陽が差してきたので、汗と雨でぬれたTシャツをベンチの上に広げて干したら、すぐ乾いた。

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雲取山へ行くには、休憩所の前を通って、お清平に下ります(ここから白岩山に向けてきつい上り下りがあるらしい)。

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帰りにレリーフを撮り直した。

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三角点。

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三角点からも真っ白で眺望はなし。晴れていれば、三峯神社の方向が見えるそうです。

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地蔵峠の表札も、あらためて撮り直しました。

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登山口に近づくと、また霧。
2020.06.26 Fri l l top ▲
奥多摩の奥の方の山に行きたいなと思います。いわゆる公共交通機関を利用した日帰り登山だと、どうしても行く山が限られてしまいます。同じ日帰りでも、早朝から登ればもっと行く山の範囲が広がるのですが、このブログでも書いているように、横浜の自宅から早朝5時すぎの始発電車に乗っても、実際に山に入ることができるのは早くて8時すぎ、奥の方だと9時半すぎになってしまいます。

公共交通機関を利用した日帰り登山では、(人が多くて意識的に避けている山を除いて)登ることのできる山はもうほとんど登ったと言っていいかもしれません。それで、昔みたいに前泊しようかなと思っています。奥多摩駅の近くに前泊すれば、6時ちょっと過ぎの始発のバスに乗ることができるのです。あるいは、山小屋に泊まって1泊2日で山行するか、どっちかでしょう。

私の田舎でもそうでしたが、昔は今のように車で日帰り登山という発想がなかったし、道路事情も悪く公共交通機関(バス)も便利ではなかったので、山に登るときは前泊するのが当たり前でした。奥多摩でも、奥多摩駅(昔は氷川駅)の近くの日原川沿いに、始発のバスに乗る登山者ご用達の山小屋(旅館)があったそうです。

調べると、私と同じように考えているハイカーがいるみたいで、奥多摩駅の近くにハイカーがよく利用する格安の民宿がありました(おせいじにもキレイだとは言えないと書いていたけど)。

私も子どもの頃、近所の旅館に泊まったハイカー達が早朝薄暗いうちから登山口に向かって歩いて行く姿を見たことがあります。大きなリュックを背負い、列を作ってやや前かがみになりながら、黙々と歩を進めて行くそのうしろ姿が、子ども心にとても印象的でした。

前も書きましたが、我が家は一時、本業とは別にアイスキャンデー屋(つまり、アイスクリームの製造販売)をやっていたことがあり、そのときは夏の登山シーズンになると、山の中腹の休憩場所でアイスキャンデーを売っていました。休憩場所までは馬で運んでいたそうです。

先日、丸山で会った高齢のハイカーの方から、昔の奥多摩の山の話を聞いたら、ますます昔の奥多摩を知りたいと思いました。それで、昔の奥多摩を写した写真がないかと思ってネットを検索したら、下記のサイトが見つかりました。

ロッジ山旅
横山厚夫さんのちょっと昔の山
http://yamatabi.info/yokoyamaindex.html#y1

これは、横山厚夫さんという登山家の方が撮った写真を、山梨県北斗市の「ロッジ山旅」というロッジのオーナーが、みずからのサイトに掲載して公開したものです。こういった写真を公開して残すというのはホントに貴重なことだと思います。

私は、ここに掲載された半世紀前の写真を見ていたら、同じ登山でも今と昔とでは全然違うことを痛感させられました。それは、今、山に登りながずっと抱いている違和感につながるものです。

たとえば、先日登った川苔山の写真などが一目瞭然です。

http://yamatabi.info/yokoyamaq3.html

1963年と言いますから、57年前の川苔山です。今と比べると、同じ山とは思えません。同じ尾根でも、その眺望はまったく違います。今のように植林が行われていなかったので、奥多摩の山の上の方はカヤトが多く、明るい道だったのです。真ん中の写真には、説明にもあるとおり、山頂下の東の肩にあった売店の建物が写っています。今の東の肩は樹林帯を登った上に忽然と現れる休憩場所といった感じですが、昔は遠くからも目印になるような開けた尾根の上にあったのです。

いちばん下の獅子口小屋の写真ですが、丸山で会った高齢のハイカーが話していたのは、この獅子口小屋のことかも知れません。一度、小屋跡を訪ねてみたいけど、獅子口小屋跡に行く大丹波川沿いの林道が台風19号の後遺症で通行止めになっているため、今は行くことができません(昨秋の台風19号の奥多摩の被害は甚大で、今も多くの登山道が通行止めになっています)。

昔の登山道は、このように開けた明るい道が多かったのです。特に尾根道はそうでした。

私の田舎は、家の外に出ると、いつも背後に久住連山(「くじゅう連山」「九重連山」というのは最近の呼び方で間違い)が聳えていましたが、三つの山の中でいちばん右手にあった黒岳だけが登山者が少なく人気がありませんでした。どうしてかと言えば、黒岳は原生林に覆われた山で、見通しが悪く登山道が暗かったからです。

昔の登山は、眺望が開けた明るい道を歩くのが普通だったのです。ちなみに、私の田舎の山は植林が行われてないので、今でも昔と変わらない山相が保たれています。

下記の「三国峠、浅間峠」は、ちょうど自粛前の4月に生藤山から笹尾根を歩いて浅間峠を降りたときとまったく同じコースの写真です。

http://yamatabi.info/yokoyamaq1.html

こんなに眺望が開けていたとは信じられないくらいです。途中の熊倉山も「周りの木が育って眺めは少ない」と書いていますが、今と比べると全然明るくて眺望にめぐまれています。

下記の「三国峠越え」のいちばん上の写真は、佐野川峠から甘草水を経て三国峠(三国山)までの桜並木の写真だと思われますが、今は植林されたまま放置された樹木に覆われ(しかも、桜の木の多くは病気で花も咲いてない)、まったく違った風景になっています。

http://yamatabi.info/yokoyamaq49.html

御前山も、今は眺望が少ない暗い(地味な)山になっていますが、昔はカヤトと笹の多い明るい山だったことがわかります。

http://yamatabi.info/yokoyamaq15.html

今、奥多摩の山を歩いていると、登りの多くは樹林帯の中の暗い道を歩かねばなりません。眺望もないので、ただ下を向いて歩くだけの苦行のような山登りを強いられるのです。それでは、コースタイムに対して何分速いとか遅いとか、地図のコースタイムと競争しているような、何のために山に登っているのかわからない軽薄な登山者が多くなったのは当然かもしれません。

私は、横山厚夫さんの写真を見て、「そうだったよな、昔の山は明るかったよな~」としみじみ思い、しばし昔を(子どもの頃を)懐かしんだのでした。
2020.06.24 Wed l l top ▲
池袋駅~飯能駅~芦ヶ久保駅~【丸山】~芦ヶ久保駅~東飯能駅~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約6時間(休憩含む)
※山行距離:約9キロ
※標高差:658m
※山行歩行数:約21,000歩


おととい(17日)、奥武蔵(注:埼玉の山域)の丸山に登りました。去年の9月にも登っていますので、10ヶ月ぶり2度目です。登りは前回と同じ西武秩父線の芦ヶ久保駅から登りました。下りは前回は大野峠を経由して赤谷という集落に降りたのですが、今回は登りと同じルートをピストンしました。

朝の西武秩父線の電車は、平日にもかかわらずハイカーの姿が目立ちました。自粛前と比べても、むしろ多いくらいでした。ただ、さすがに団体はいませんでした。

平日ということもあって、ハイカーの大半は中高年です。と言うか、高齢者が目立ちました。飯能駅で西武秩父線の電車を待っていたら、ホームで「ちびくろサンバ」のバターになった虎のように、ベンチの周りをぐるぐる回っていた夫婦とおぼしき高齢のハイカーがいました。山歩きの準備運動をしていたのでしょう。また、電車の中でも、芦ヶ久保のひとつ手前の正丸峠が近づいてくると、やにわに立ち上がってストレッチをはじめたお爺さんもいました。新型コロナウイルス対策なのか、覆面にサングラスの月光仮面のような恰好をした男性もいました。山に行くのは変わった人間が多いと言われますが(私もそのひとり?)、自粛明けでいっきに奇人変人が姿を現したという感じでした。

芦ヶ久保駅で一緒になった72歳の男性と途中まで一緒に歩きました。若い頃山に登っていたものの中断し、70歳をすぎてから再び山に行き出したそうです。再開してまだ1年ということでしたので、私とほぼ同じです。

やはり、人がいない山をひとりで歩くのが好きだと言ってました。丸山は初めてだと言うので、登山口まで案内する格好になり、それからしばらく一緒に歩きました。しかし、自分のペースで歩けないので、いつもより息が上がって調子が狂ってしまいました。もっとも、丸山自体も、標高差(高低差)は650メートルで、登りの累計標高差も1000メートルもなく、登山道も奥多摩の山に比べて全然登りやすいにもかかわらず、なぜか地味にきつい山なのです。

そのため、幸か不幸か、途中から遅れはじめて、完全に置いて行かれました。それどころか、あとから来た5~6人からも追い抜かれました。山頂に上がって、話をしたら、追い抜いて行った人たちもみんな70代でした。なんだか自分が情けなくなりました。

途中で何度も心拍数をはかりましたが、160まで上がっていました。年齢からすれば「非常にきつい」状態で、それでは足を止めたくなるのも当然です。70代の老人たちから「160は上がりすぎですよ」「普通は130くらいですよ」と言われました。下りのときにはかったら130でした。たしかに、130だったら普通に歩けるのです。

前回と比べたら、山行時間はほとんど同じでした。前回はストックを使わなかったのですが、今回はストックを使って登りました。それでも変わらなかったのです。この10ヶ月間山に行っても、まったく進歩がないのです。愕然とはしなかったものの、少し落ち込みました。

たしかに、日常においても、体力が付いたという認識はありません。駅の階段を上るときも、相変わらず息が上がりますし、電車を途中で降りて3つくらいの駅間をよく歩くのですが、前となにか変わったかと言えば、そんなに変わったようには思えません。年齢を経ると他人より歩くのがめっきり遅くなりましたが、ときどき他人に合わせて急ぎ足で歩くとすぐ筋肉痛になります。

そんな話をしたら、山頂で会った老人たちから「そうですかぁ」と怪訝な顔をされました。みんなは、山に来るようになって「体力が付いた」という自覚があるそうです。

心拍数についてネットで調べると、運動時に心拍数が上がること自体は悪いことではなく、むしろ、安静時の心拍数の方が重要だそうです。安静時に心拍数が高いと問題なのだとか。また、運動中も、休むとすぐ心拍数が下がれば特段問題はないと書いていました。心筋梗塞を発症するようなケースでは、安静時の心拍数が高く、且つ運動しても心拍数があまり上がらないのだそうです。

私の場合、安静時の心拍数はそんなに高くなく「普通」です。山に登ると、160くらいまでいっきに上がりますが、足を休めると130まですぐ下がりますので、それも問題があるとは思えません。

心拍数が上がりやすいというのは、それだけ体力がない証拠なのかもしれませんが、だったら1年近く山に行っているのにどうして体力が付かないのかと思います。心拍数が上がりやすいというのは、心肺能力自体に問題があるのか、それとも体力がないからなのか、なんだかニワトリと卵のような話ですが、それを知りたいと思いました。

それで、帰った夜に、さっそく通販でパルスオキシメーターを注文しました。これからは、山に行くときはパルスオキシメーターを持って、登山中も心拍数だけでなく血中酸素濃度もはかろうと思っています。

丸山の山頂でも何人かの”月光仮面のおじさん”がいました。山頂標識の前でスマホで写真を撮ってほしいと言われたので(スマホを差し出しながら「写メをお願いします」と言っていた)、「仮面を取らなくていいんですか?」と皮肉を言ったら、「いいんです」と言ってました。

「写メ」を撮った”月光仮面のおじさん”は74歳とかで、昔の秩父や奥多摩の山の話をしていました。ソーシャルディスタンスで2メートル以上離れて立ち、しかもマスクをして喋るので山の名前がよく聞き取れなかったのですが、「〇〇山にも50年前は山小屋があったんですよ」などと言ってました。

山小屋だけでなく、昔は奥多摩の御前山や川苔山や本仁田山の山頂には売店もあったという話を聞いたことがあります。地元の人がジュースなどを売っていたそうです。御前山の山頂の粗末な小屋の前で、割烹着姿のおばんさんが接客している写真をネットで見たこともあります。

昔は今のようにコンビニもないし、ましてや道の駅もなく、マイカーによる日帰り登山も少なったので、登山客の便宜をはかるために、売店や山小屋が至るところにあったのでしょう。登山口の周辺でも、地元の人が営む売店や食堂があったみたいで、今もその名残りを見ることができます。もちろん、ハイカーも今とは桁違いに多かったのです。前も書きましたが、1969年に西武線が秩父まで延伸する前までは吾野駅が西武線の終点でした。吾野駅が終点だった頃は、週末の奥武蔵の山は今では考えられないくらい多くのハイカーで賑わっていたそうです。

山から降りたあとは、地元の食堂や売店を廃業に追いやった芦ヶ久保駅の下にある道の駅で、アイスクリームを食べてしばらく休憩しました。

東飯能から八高線で八王子、八王子から横浜線で帰りました。電車の中は、休校処置が終わった高校生たちでいっぱいでした。

帰って体重をはかったら2キロ減っていました。


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芦ヶ久保駅。

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登山口に行く途中から見えた、秩父の象徴武甲山。

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登山道に入ってすぐのところにある無人の売店。

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道標にある「川越山の家」には昔、車で行ったことがありますが、今は閉鎖されています。バブルの頃は、奥武蔵の山の中に、別荘の分譲地もありました。

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きれいに手入れされた防火帯。

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防火帯で”月光仮面のおじさん”に追い抜かれた。

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去年の台風の爪痕?

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別の”月光仮面のおじさん”からも追い抜かれた。

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最後の階段を登ると、山頂が見えてきた。

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山頂標識

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展望台からの眺望(展望台には望遠鏡も設置されています)。

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同上。

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宝くじの収益金で建てられた立派な展望台。

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来た道を戻ります。

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登山口の近くにある獣除けの柵。

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麓の集落が見えてきた。

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登山口の脇に繋がれている名物の犬。いつも激しく吠えるのですが、夏バテなのか、ぐったりして吠えることもなく大人しかったです。「バイバイ」と言ったら、顔を上げて「なんだ、お前は」みたいな感じでこっちを見ていました。なんだかさみしそうでした。
2020.06.19 Fri l l top ▲
武蔵小杉駅~立川駅~青梅駅~鳩ノ巣駅~【川苔山】~鳩ノ巣駅~青梅駅~拝島駅~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約8時間(休憩含む)
※山行距離:約13キロ
※標高差:1043m
※山行歩数:約31,000歩


昨日、川苔山(川乗山・かわのりやま)に登りました。

午前5時6分の東横線に乗って、武蔵小杉駅で南武線に乗り換えれば、立川で奥多摩行きの始発電車に連絡するので、乗り換えのための待ち時間も少なく(青梅線や五日市線は、とにかく待ち時間が長いのが悩みの種です)、午前7時には、川苔山の最寄り駅の鳩ノ巣駅に着く予定でした。

ところが、東横線に乗ってウトウトしていたら、武蔵小杉駅を乗り越してしまったのです。あわてて隣駅で下車して武蔵小杉駅に戻ったのですが、当初乗る予定だった南武線の電車には間に合いませんでした。

そのために、スムーズな乗り換えができなくなり、立川駅で青梅行きに、青梅駅で奥多摩駅行きに乗り換えることを余儀なくされて、鳩ノ巣駅に着いたのは、予定より1時間以上遅れてしまいました。

このように、横浜の自宅から奥多摩に行くには、電車だけでも片道2時間はかかります。奥多摩の山に登る場合、多くは奥多摩駅や武蔵五日市駅からさらにバスに乗らなければならないので、移動時間は3時間は見なければならないのです。

ちなみに、丹沢に行くのも、小田原に近い小田急線の駅からバスに乗らなければならないので、やはり同じくらいかかります。丹沢の場合も、横浜より都内からの方がむしろ便利なのです。

自分のミスによるものとは言え、時間的に一抹の不安を覚えながら、鳩ノ巣駅から登山口に向かいました。鳩ノ巣駅は、本仁田山に登ったときに利用しましたし、途中の大根ノ山ノ神の分岐点まではそのときと同じ道を歩きますので、勝手知ったような感じで登りはじめました。ところが、久しぶりの登山なので、足が重く息が上がってなりませんでした。

1時間くらい歩くと、大根ノ山ノ神の分岐に到着します。大根ノ山ノ神では、いつものようにお賽銭をあげて手を合わせました。大根ノ山ノ神からは本仁田山への道と分かれ、林道を10メートルくらい下がると川苔山の登山口の階段があります。余談ですが、奥多摩の山は、バス停から集落の中の坂道を登り、いちばん上の家の横に登山口がある場合と、今回のように、斜面に造られた階段を登って行く場合が多いのです。

川苔山は、奥多摩屈指の人気の山で、登山ルートもいろいろありますが、いちばんの人気はなんと言っても百尋ノ滝を経由して登る川乗橋ルートです。川乗橋ルートは、大半と言ってもいいくらい多くのハイカーが利用する定番コースですが、昨秋の台風19号による被害で、日原への道路が長い間通行止めになっていたためアクセスが途絶えていました。先月、道路はやっと復旧したのですが、登山道の木橋に崩落の危険性があるとかで、登山ルートは依然通行止めになっています。山頂付近でも川乗橋に向かう道は、ロープが張られて封鎖され「通行止め」の札が下げられていました。

私が今回登ったルートは、川乗橋から登って来た人たちの下山ルートに使われるケースが多いようです。また、本仁田山から隣接する尾根を使って登る人も多いみたいで、私もあとになってそうすればよかったと思いました。

なにしろ、今回のコースは、距離が(いづれも往復)13キロ弱、時間にして休憩時間も含めると8時間以上かかるのです。

川苔山の登山道に入った途端、拍子抜けするような平坦な道に代わり、身体も慣れてきたということもあって、最初に抱いた不安もいつの間にか消えていました。ところが、1時間近く歩き、水の涸れた沢を何度か越えると、徐々に傾斜がきつくなりました。もっとも、単純標高差(高低差)でも1000メートルを越えるので、きついのも当然なのです。

しばらく歩くと、上から下りて来るハイカーとすれ違うようになりました。全部で7~8人すれ違いましたが、全員ソロのハイカーでした。おそらくすれ違ったハイカーたちがこの日に川苔山に登った全員だと思います。主要ルートが通行止めのため登山者も少なく、川苔山は今までになく静かな山になったのです。だから、私も登ろうと思ったのでした。

下山して来たハイカーたちに訊くと、距離が長いためか、皆早朝から登っているみたいです。何のことはない、皆が下山している中で、私ひとりが遅れて登っているのでした。秋冬だと日没になり無謀と言えますが、今の季節だと日没前の下山は可能なので、このまま山頂を目指すことにしました。

そして、文字通りほうほうの体で山頂に着きました。もちろん、誰もいません。30分くらいいて、持参したおにぎりを食べましたが、誰も登って来ませんでした。やはり、私が最後の登山者だったみたいです。

ちなみに、すれ違ったハイカーでマスクをしていたのはひとりだけでした。それも、銀行ギャングのようなバンダナ風のマスクをしていたので、一瞬ギョッとしました。

下山にも3時間強かかりましたが、腿の筋肉が悲鳴をあげ、途中でロキソニンのテープを貼って、騙し騙し下りました。

山田哲哉氏は、『奥多摩 − 山、谷、峠、そして人』の中で、「僕は、奥多摩に通いだした人には、この川苔山と大岳山に一度は登ることを勧めている」と書いていました。

   川苔山はボリュームがあり、周囲の尾根からいったん大きく標高を下げて再び隆起する山容からは独立峰のような強い印象を受ける。そして本仁田山へと続く尾根を筆頭に、四方に尾根を延ばし、そこに食い込む急峻で明瞭な沢によって極めて複雑な山容をつくりだしている。山頂からは、東京都と埼玉県を分ける長沢背稜に続く山脈とのつながりが見てとれる。雲取山へと続く尾根の位置関係、雲取山から延びるもう一本の尾根・石尾根の様子もよくわかる。奥武蔵の山とのつながりなども手に取るように見えるため、多摩川北岸の山々を理解する上で、ぜひ登ってほしい山なのだ。「次は、あの山」「あの山にも行かなくちゃ」と、登りたい山々が次々と生まれてくる。


きつくて、ときどき心が折れそうになりましたが、でも、一方で、久しぶりの山行だったので、「山っていいなあ」とあらためて思いました。そして、そう思うと、なんだか胸奥に熱いものが込み上げて来るのでした。

帰りは、いつものように拝島から八高線で八王子、八王子から横浜線で帰って来ましたが、乗客は普段に比べて少ないものの、座席に座っていると、「電車の座席に座ることが人生の目的のような人々」が容赦なく座って来てスマホをいじりはじめるのでした。なんだかスマホをいじるためには「密」をも厭わない感じで、これが麻生財務相の言う「民度の高い」民族であるゆえんなのでしょう。身体が密着するだけでなく、時折咳ばらいをする人も多く、ソーシャルディスタンスなどどこ吹く風なのでした。何度も言いますが、通勤電車の「密」を黙認しながら、一方でソーシャルディスタンスの感染防止策を要望するのは、文字通り頭隠して尻隠さずのような話でしょう。苦境に陥っている個人経営の飲食店や商店などを見るつにつけ、正直者がバカを見る世の中なんだなとしみじみ思います。


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鳩ノ巣駅からこのような集落内の坂道を歩いて登山口に向かいます。

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本仁田山に登ったときと同じ登山道を歩いて、大根ノ山ノ神の分岐に向かいます。

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大根ノ山ノ神。

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川苔山の登山道。1キロくらい平坦な道が続きました。

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昨秋の台風19号の名残なのか、倒木が登山道を塞いでいました。

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最初の渡渉(ただし水はありません)。

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いつの間にか新緑の季節になっていた。

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この時期は、山にとって裏ベストシーズンです。みんな山に行こうよと言いたい。

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徐々に岩が出て来た。

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新緑の中に、川乗橋ルートと合流するチェックポイントの「東の肩」が見えて来た。

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道標に下げられたさまざまな注意書き。

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通行止めのロープ。

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さらに進むと山頂が見えてきた。

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山頂の様子。

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おなじみの山頂標識と三角点。

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ここにも通行止めのロープ。

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山頂はガスがかかっていました。雲取山がかすかに見えました。

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登山道脇の木の枝にぶら下げられたマスク。

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川苔山の登山口。入山時撮り忘れたので、下りた際、あたらめて撮りました。
2020.06.05 Fri l l top ▲
首都圏1都3県と北海道の緊急事態宣言が解除されましたが、しかし、地元の自治体が「県をまたいだ移動の自粛」の継続を要請する可能性もなきにしもあらずです。

何度も言いますが、山を歩くのにどこが「密」なんだと思います。挨拶のときに唾が飛ぶとか、電車やバスが「密」だとか、地元民が感染の恐怖を覚えるとか、そんなバカげた理由によって登山も自粛の対象にされたのでした。

そして、日本山岳会や日本勤労者山岳連盟などの山岳団体が、自治体の自粛要請を無定見に受け入れ、登山の自粛を呼びかけると、それが登山者を縛る大義名分になったのでした。何のことはない、日本山岳会や日本勤労者山岳連盟などの山岳団体が、反知性主義の極みの“自粛厨”になったのです。

しかし、登山の自粛は、いろんなものをごちゃ混ぜにした極めて大雑把且ついい加減な論理で進められています。たとえば、北アルプスのような山と奥武蔵や奥秩父や丹沢や奥多摩の山が一緒くたにされているのです。また、山小屋があるような奥の深い山と日帰り登山が中心の里山の延長のような山も、一緒くたにされています。さらには、ハイキングやキャンプや峠道を走るバイクやサイクリングも、区分けされずに一緒くたに論じられています。まったくバカバカしいとしか言いようがありません。

ただ一方で、感染の怖れ云々は論外としても、これを機会に登山が抱えるさまざまな問題を考えるのも無駄ではないように思います。中でもマナーの問題は、新型コロナウィルスに関係なく、前々から指摘されていたことでした。地元自治体のさも登山者を迷惑扱いするような牽強付会な自粛要請にも、日頃の登山者のマナーに対する地元民の”悪感情”が露呈しているような気がしないでもないのです。

そんな中、私は、下記の南アルプスの入笠山の山小屋の方が書いたブログの記事を興味深く読みました。

マナスル山荘・あれこれ
平時の異常

ブログは次のように書いていました。

登山再開時は公共交通機関ではなくマイカーでの登山を薦めるメディアも多い。山での密集を考えれば、駐車場の台数で入山者制限は必要だと考える。観光行政や営業施設はあふれる車をどのようにコントロールするのか?マイカー登山より、鉄道、バス、ロープウェー・ゴンドラなどの交通機関は入山者をコントロールしやすいと考えるが。

SNSで集まった登山グループを山でよく見かけるようになった。不特定の人が集まり、山で騒ぐ(この手のグループはたいてい山で大騒ぎしている)この手のグループ登山はコロナ後に淘汰されるべきだと思うが、そのような発信をしている山のメディアは今のところ見たことがない。この手の登山者たちが主な支持者だからだろうか?

グループでしか登れない、単独では無理という登山者は登山を止めるか、レベルを落として一人でも安心して登れる山からやり直したらいい。いままでの登山のカテゴリーが自分のレベルを超えていたことに気づくべきだ。もしくはガイドを雇うこと。自粛が解除されるステップとして、ガイド登山はあらゆる面で有効だと考えている。山岳ガイドと一緒に歩いている登山者はSNSのグループ登山者などに比べて格段に品がいい。日本山岳ガイド協会はもっと各ガイドのマーケティングやマネジメントに取り組むべきだと思うが。


同じようなことは、私もこのブログで何度も書いています。車で来る登山者の、特に駐車マナーの悪さはどこの山でもめずらしいことではありません。下山していると、こんなところにまでとびっくりするくらい上の方の林道の脇に登山者の車が停まっていることがあります。そのため、林道を鎖などで車両通行止めにしている山もあるくらいです。そして、車が上の方まで上がることができる山は、空き缶やペットボトルなどゴミが多いのも事実です。

山に行くのに、電車やバスは「密」になるとして、車を推奨する声もありますが、前も書いたように、都心とは逆方向の電車やバスが「密」になるのは週末だけです。「密」を回避するなら、週末の電車やバスの運行をコントロールすればいいだけです。

「SNSのグループ登山者」というのも、何も若者に限った話ではありません。これも何度も書いていますが、SNSでつながった中高年の団体登山のマナーの悪さは、今や山の”定番”と言ってもいいほどです。安全面から単独行がいつもやり玉にあげられますが、しかし、リーダーの背中を見て歩くだけのおまかせ登山では、上記のブログでも書いているように、いつまで経っても登山のレベルは上がらないし、マナーが身に付かないのは当然でしょう。

山への登山者の集中、マイカーの違法駐車等の問題、山小屋の衛生管理、登山者のマナー、山岳遭難防止の取組、自然公園の利用方法、山岳ガイドの役割、違法テント泊・・・平時に表に出なかった問題がいろいろあったはずだ、それがいつの間にか登山界では当たり前のことになってしまっていたのではないか。登山自粛だけを声高らかに叫び、今後のことには何も手を付けなかった登山界は本当にこれでいいのか?
(同上)


たしかにその通りで、新型コロナウイルスをきっかけに、今まで放置してきた問題が露呈したのは事実でしょう。一方で、山岳団体や有名登山家にまったく当事者能力がなく、役人の使い走りでしかないこともはっきりしました。登山雑誌や登山関連のサイトも、自立した登山者とは真逆な無様な姿を晒すだけでした。なんだか個々の登山者が孤立させられているような気さえするのでした。

私たちのような下々の登山者は、国家と通底した組織やそれに付随したさまざまなしがらみとはまったく無縁な存在です。だからこそ、山岳団体のバカバカしい呼びかけにこれ以上引きずられないためにも、新型コロナウイルスをきっかけに、山のことや自分たちのマナーのことについて、問題意識を持って考えるべきではないかと思うのです。

たとえば、オーバーユースと入山料の問題を考えるのもいい機会ではないでしょうか。山の崩落が進んでいる丹沢などが典型ですが、登山道の荒廃防止や植生を守るためにも、入山者を”調整”することを真剣に考える時期に来ているように思います。もちろん、”調整”と言うのは、山の監督者が権限で規制するとか言うのではなく、入山料を徴収すればおのずと登山者の数が減るという意味で言っているにすぎません。

多くの山が国立公園や国定公園の中にありながら(と言っても、国立公園の40%は民有地ですが)、登山道の整備を山小屋のスタッフや地元のボランティアの篤志に頼っているのはたしかにおかしいのです。でも、ありがたいと思っている登山者は多いけど、おかしいと思っている登山者はそんなにいないようです。登山者自身がもう少し「受益者負担」の考えを持ってもいいのではないかと思うのです。

よく「登山文化」とか「山の文化」とかいった言い方がされますが、登山はスポーツであるとともに文化でもあるのです。私たちがこんなに山が好きなのも(息を切らして登りながら「山っていいなあ」と思うのも)、山登りが多分に文化的な要素の強いスポーツだからでしょう。むしろ、登山がスポーツだと言われると、面食らうくらいです。

山小屋にしても、このままでは(少なくとも政府の言う「新しい生活様式」に従えば)山小屋という日本独特の登山文化も廃れてしまうでしょう。荷揚げに欠かすことのできないヘリの問題もそうですが、近年山小屋をとりまく環境が非常に厳しくなっている中で、さらに新型コロナウイルスが追い打ちをかけた格好で、多くの山小屋が存続の危機に陥っていると言っても過言ではないでしょう。

登山の魅力について、非日常性とか達成感とか自己克己とか、あるいは具体的にストレス解消とか絶景との出会いとか体力の限界の挑戦とか、いろいろ言われますが、私にとって、山に登ることの魅力は、何と言っても自由ということに尽きます。山に登ると、何もかも忘れることができるのも、自分に対して謙虚になれるのも、自由だからです。誤解を怖れずに言えば、危険を伴う(ときに命を落とす)ほどの自由があるからです。遭難事故が起きるたびに世間サマから袋叩きに遭うのも、整備された道しか歩いたことのない世間サマから見れば、登山がそれだけ放縦に(自由に)見えるからでしょう。

そんな登山の魅力である自由を守るためにも、そろそろ登山の文化を「守る」という発想も必要ではないかと思います。身も蓋もないと思われるかもしれませんが、入山料や入山者の”調整”もそのひとつの選択肢ではないかと思うのです。
2020.05.25 Mon l l top ▲
新宿駅~高尾駅~上野原駅~石楯尾神社バス停(登山口)~三国山~【生藤山】~熊倉山~浅間峠~上川乗バス停~武蔵五日市駅

※山行時間:約6時間(休憩含む)
※山行距離:約10キロ
※標高差:638m
※山行歩数:約25,000歩
※交通費::3,274円

人によっては三頭山から高尾山までを「笹尾根」と呼ぶ人もいますが、厳密には三頭山から浅間峠までを笹尾根と呼ぶのが一般的なようです。その浅間峠より東側の尾根上で、前から気になっていた生藤山(しょうとうさん)に登りました。

私は、高尾山やその周辺の山には一度も行ったことはありません。このブログを読んでいただければわかるように、ひとりで山を歩くのが好きなので、あの人の多さは最初から選択肢に入ってないからです。

生藤山も、私の中では“高尾山グループ”の中に入る山のようなイメージがありました。実際に、(高尾山周辺の地理には疎いのですが)、生藤山から陣馬山や高尾山まで縦走する人も多いようです。

でも、実際に登ってみたら、“高尾山グループ”とはまったく別の山であることがわかりました。ちなみに、山で会った人たちの間では、陣馬山も非常に評判がよくて、私が“高尾山グループ”の話をすると、「高尾山とは関係なく行くことができるので、毛嫌いしないで一度行ってみたらいいですよ」「お勧めですよ」と言われました。

新宿駅から午前6時48分発のJR中央特快・高尾行きに乗りました。そして、高尾で中央線に乗り換えて、山梨県の上野原駅で下車しました。上野原駅は、駅舎が建て替えられたばかりのようで真新しく、駅前もきれいに整備されていました。Googleのストリートビューで見ると、バス停のある南口周辺は、以前は草ぼうぼうの原っぱだったようです。

上野原駅から「井戸」行きのバスに乗って、終点のひとつ手前の「石楯尾神社(いわておのじんじゃ)」というバス停で降りました。終点の「井戸」にも登山口はありますが、私は、「石楯尾神社」から登ることにしました。私が乗ったのは、8時32分発のバスでしたが、次は14時台しかありません。

バス停の係の男性に訊いたら、「井戸」行きのバスを利用するのはほとんどが登山客だそうです。しかし、今は平日だけでなく、土日も「ウソみたいに」乗客が少ないと言ってました。

今日、上野原駅から乗ったのは、私も含めて8人でした。彼らは、不要不急の外出は控えて下さいというお上の要請を無視して、弁解の余地のない不要不急の外出をしている不心得者です。

8人のうち6人は女性でした。いづれも2人連れが3組で、残りの男性は子どものように身体が小さい高齢者と年齢のわりに若作りの大男(私)の2人です。その中で、男性2人と女性1組の4人が「石楯尾神社」で降りました。あとの4人(女性2組)は、終点の「井戸」から登るようです。

「石楯尾神社」で降りた女性の2人連れは、60歳前後でどうやらどこかの登山グループに入っているみたいです。グループ内で計画されていた山行が、自粛ムードでことごとく中止になった話をしていました。計画されていた山行の責任者なのでしょう、「〇〇山の✕✕さん」というような言い方をしていましたが、「申し込んだけど、メールで中止の連絡が来て」と言っていました。

そうやって中高年のおっさんやおばさんたちが山を介してメールで連絡を取り合っているのでしょう。語弊があるかもしれませんが、なんだか気持が悪いなと思いました。単独行が好きな私には、まったく考えられない世界の話です。

生藤山の手前に、昔は三国峠(さんごくとうげ)と呼ばれていた三国山があり、三国山から生藤山までは10分くらいです。今回のルートの休憩ポイントは、甘草水(かんぞうすい)という湧き水がある地点と三国山、そして生藤山です。いづれもベンチ(と言っても3つか4つ)があります。バスで一緒だった人もほかのルートから登って来た人たちも、それらのポイントで休憩していました。

生藤山の手前には岩が剥き出しになった急登がありますが、それ以外は子どもの遠足でも使えるような、まったく危険な箇所もなく登りやすい道でした。今日は絶好の登山日和でしたので、峠を越えると木々の間から雪化粧した富士山を眺めることができました。三国山までのピストンなら、子ども連れのハイキングにはうってつけのルートだと思いました。

生藤山はヤマザクラで有名ですが、途中で会った男性の話では、桜の木は病気になってほとんど花が付いてないそうです。登山道を登り詰めた佐野川峠(ほかのルートから合流する)から甘草水の休憩ポイントまで一緒に歩いたのですが、「昔はこのあたりは桜並木だったんですよ」「この時期になると大勢の登山者で賑わっていましたよ」と言っていました。しかし、今は見る影もありません。

見ると、桜の木は手入れがされてないため、大きくなりすぎているように思います。これは桜に限らず、60年代から70年代に植えられたスギやヒノキは、その後、外国産の安い木材が入ってきたり、林業の人出不足などで、手入れがされず放置され荒廃した山も多いのです。

男性の話では、桜の時期は甘草水のベンチで「酒盛りが行われていた」そうです。

次の三国山や生藤山でも、休憩しているのはほぼ同じ顔触れでした。男性は単独で、女性は2人連れとその構成が決まっていました。そして、自然と自粛ムードの中で山に来た話になりました。

「休日は目立つので、出かけにくいですね」
「そうそう、平日なら通勤客に紛れることができるけど(笑)」
「でも、どうしても他人の目が気になって」
「それで、電車の中ではずっと寝たふりをしていましたよ(笑)」

みんな、そんな話をして盛り上がっていました。なんだか同類と会えて、ホッとしている感じでした。

上野原のバス停で、とっくに70歳をすぎているような女性の2人組(終点の「井戸」で降りた)が「これが最後と思って来ました」と言っていたので、私は、もう歳なので人生最後の山行で来たのかと思いましたが、どうやらそうではなく、緊急事態宣言の発令も近いので、そうなったら山に来れなくなるからという意味だったみたいです。なんだか新型コロナウイルス=戦争、緊急事態宣言=戒厳令のようです。社会を覆いつつあるこの全体主義の空気に、ファシストたちは、してやったりとほくそ笑んでいることでしょう。

生藤山からは、熊倉山などいくつかのピークを越えて浅間峠まで歩きました。浅間峠は、1月に笹尾根を歩いた際に登っています。今回は前回とは逆コースで、浅間峠から檜原街道の「上川乗」のバス停まで下りました。生藤山から先は誰にも会いませんでした。私にとってはこれ以上のない山行になりました。

考えてみれば、自粛ムードのあとの山では、ハイカーはまだしもトレランのランナーはすっかり姿を消しています。ハセツネカップという有名な大会のコースでもある今回の尾根でも、ひとりも会いませんでした。トレランの大会がことごとく中止になっているということもあるのでしょうが、トレランの人たちは権力に弱いヘタレな人間が多いのかと思いました。もとより、ブームに乗る(乗せられる)人間というのはそういうものかもしれません。

帰りは、いつもの五日市線・八高線・横浜線・東横線を利用して帰ってきました。最寄り駅に着いたのは午後6時をまわっていましたが、駅前のスーパーに寄ったらレジの前は勤め帰りのサラリーマンやOLで長蛇の列でした。店内の棚も空いているところが目立ちます。週が明けたばかりなのにどうしたんだろうと思ったら、明日、緊急事態宣言が発令されるというニュースが流れたことがわかりました。扇動され動員される人々(そういう役割を担った衆愚たち)の愚行がまたはじまったのです。これからは、彼らのようなミニ・アイヒマンたちによって、自粛を破った者たちに対するバッシング(不謹慎者狩り)がはじまるのでしょう。


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上野原駅南口

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石楯尾神社の隣にあった蠶影神社(こかげじんじゃ?)。蠶は蚕(かいこ)のことで、要するに養蚕業が盛んだった頃のお蚕さんを奉る神社のようです。尚、石楯尾神社は、日本武尊の東征に関連したこの地方ではよくあるおなじみの神社です。

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登山口までの車道。

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麓の集落には至る所に春の花が咲いていました。

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登山口。

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祠。ここでもお賽銭をあげて手を合わせました。

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登山道。

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『山と渓谷』の付録の「山の花ポケット図鑑」を持って行きましたが、ページを開くことはなかった。

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佐野川峠に到着。

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佐野川峠道標。

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本家の笹尾根よりこっちの方が笹が多い。

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甘草水の休憩ポイント。

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ここから生藤山の山頂までは富士山を見ることができます。

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甘草水の休憩ポイントにあった桜の花。

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甘草水の謂われ。甘草水も、日本武尊が東征の際、喉の渇きを潤したとかいった謂れがあるそうです。ウソばっかりと心の中で呟いている自分がいました。

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三国山。ここにも休憩ポイントがあり、上の生藤山が狭いので、三国山で昼食を食べる人もいました。

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生藤山。狭い山頂にベンチが4つありました。団体が登って来たら一般の登山者はさぞ迷惑でしょう。生藤山や三国山では、地元の登山者から口頭で山座同定をしてもらいました。そのため、お喋りばかりしていて写真を撮るのを忘れてしまいました。

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三国山から浅間峠(せんげんとうげ)に向けて歩きます。以後、誰にも会わず文字通りの単独行。

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最初のピーク軍刀利神社(ぐんだりじんじゃ)の元宮。別名・軍刀利山。軍刀利神社も日本武尊に由来する神社だそうです。関東一円にある日本武尊の東征神話は、朝鮮半島からの渡来人(日本式で言えば帰化人)による日本制圧の英雄譚です。

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次のピークが見えてきた。

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熊倉山。

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さらに登り返しが続き、次のピークが見えてきた。

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名もなきピークの道標。

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登ったり。

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下ったり。

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栗坂峠。

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栗坂峠からはもっぱら下りになります。

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そして、最後のポイント浅間峠が見えてきた。

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浅間峠。3ヶ月ぶりです。ここでリュックを降ろして、食べ残していたパンを食べました。

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足元には、新緑が芽吹いていました。ウグイスも鳴いていました。「春だったね」という吉田拓郎の歌を思い出しました。

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あとはひたすら下るだけです。生藤山の道に比べると、傾斜が大きい。

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ここでもお賽銭をあげて手を合わせました。

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木道を渡ると登山道は終わりです。

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上川乗バス停。バスを待っていると、2人のハイカーがやって来ました。反対側の浅間領から下りてきたのだと思います。
2020.04.06 Mon l l top ▲
新宿駅~立川駅~青梅駅~奥多摩駅~奥多摩湖バス停~サス沢山~惣岳山~【御前山】~体験の森(奥多摩都民の森)~境橋バス停~奥多摩駅

※山行時間:6時間30分(休憩を含む)
※山行距離:10キロ
※標高差:877m
※山行歩数:25,000歩
※交通費:3,069円

昨日、御前山(1405メートル)に登りました。先月に続いて2度目です。前回の山行の写真が残ってないことがずっと心残りになっていましたので、あらためて写真を撮りたいという気持もありました。

前回は境橋から「栃寄コース」を歩きましたが、今回は奥多摩湖から「サス沢山コース(大ブナ尾根コース)」を登り、「栃寄コース」は下山に使いました。尚、「栃寄コース」は、正確には「栃寄沢コース」と言うのですが、現在、沢沿いを歩くコースは木橋の崩落で通行止めになっており、「体験の森」までは車道(林道)を歩かなければなりません。それで、(勝手ながら)便宜的に沢を外して「栃寄コース」としました。

いつものように奥多摩駅から8時43分発のバスに乗って、先週、六ッ石山に登った際に利用した水根バス停のひとつ先の奥多摩湖バス停で降りました。バスにはハイカーが10人くらい乗っていましたが、そのうち奥多摩湖で降りたのは8人でした。8人のうち6人が御前山の登山口に向かいました。残りの2人は、首から一眼レフのカメラを提げた若者二人組で、どうやら奥多摩湖周辺を散策して写真を撮るのが目的みたいです。

トイレに行ったり、服装を整えたりしていたら、登山口から登ったのは私がいちばん最後になりました。そして、みるみるうちに先行者から離され、やがて先行者の姿は見えなくなりました。

今回の「サス沢山コース」も、ご多分に漏れず急登でした。先週、六ッ石山に登ったので心が折れることはありませんでしたが、六ッ石山よりむしろ疲れた感じがしました。マイナーな山と違って、どうしてもほかのハイカーを意識してしまうので、マイペースで歩けないからだと思います。

途中で木を揺らす音が聞こえたので、熊かと思って笛を吹いたら、下から高校生のような若いカップルが登ってきました。聞けば、男の子が杖代わりに使う木の枝を取った音だったみたいです。二人ともザックも背負ってなくてまったくの手ぶらでした。ただ、足元を見ると、一応トレッキングシューズを履いていました。歩くスピードは、私の倍くらいあり、息も絶え絶えの私を尻目に、キャーキャーお喋りをしながらどんどん登って行くのです。そして、あっという間に姿が見えなくなりました。

年齢を考えれば、私は彼らの半分以下の心肺能力しかないので、それも仕方ないと言えば仕方ないのですが、なんだか情けない気持になりました。もっと若い体力のあるうちに山に登りたかったなあとしみじみ思いました。

山頂の手前の惣岳山で休憩をしていたら、小河内峠の方から男性が登って来ました。「小河内峠から登って来たのですか?」と訊いたら、「そうです。途中まで車で来ました。奥多摩湖からだときついじゃないですか? こっちの方がいくらか楽じゃないかと思って」と言っていました。

年齢は71歳だそうで、「70を越すと急に体力がなくなって、山を歩くのもしんどくなってしまいました」と言うので、「そういう話はよく聞きますね」と私も言いました。一眼レフカメラを首から下げているので、「写真を撮りながら登っているんですか?」と訊いたら、「植物を撮るのが趣味なんですよ」と言う。

御前山はゆり科の花のカタクリの群生地として有名で、登山が趣味だった脚本家の田中澄江が御前山を「花の百名山」として紹介したことで、御前山に中高年ハイカーが押し寄せるようになったと言われています。しかし、近年は鹿の食害によって数も少なくなり、かつての群生地としての面影はなくなっています。登山道からも、まだ蕾でしたが、ぽつんぽつんとしか見つけることができませんでした。

惣岳山から山頂に登っていると、近くで鹿の鳴き声が聞こえていましたが、奥多摩でも鹿の増加が問題になっているのです。奥多摩町には鹿肉処理場もありますが、それでも問題の解決には至ってないようです。ただ、男性は、「鹿が食べても根は残るので、また芽を出すはずなんだがなあ~」と言っていました。

『奥多摩- 山、谷、峠、そして人』(山田哲哉著・山と渓谷社)によれば、昔は頂上付近も一面タカクリが群生していたそうです。カタクリが減り出したのは30年くらい前からで、原因は鹿の食害のほかに、地球の温暖化もあるのではないかと書いてました。また、昔の御前山は、「北面を中心に茅原に覆われ、南面には広葉樹が広がり、明るい山頂だった」そうです。

この『奥多摩- 山、谷、峠、そして人』は、登山ガイドの山田哲哉氏が『山と渓谷』誌に連載していた同名のエッセイをまとめたものです。奥多摩の山を歩いていると、気候や風土の違いはあれ、いつの間にか奥多摩と九州の田舎を重ね合わせている自分がいて、山田氏の本を読むと奥多摩がよけい身近に感じられるのでした。

また、奥多摩の歴史や風土も知りたいと思うようになり、『奥多摩風土記』という古本をネットで見つけて買いました。昭和55年初版で、奥多摩の役場に勤めていた人が書いた本です。山行の途中に遭遇する廃屋など見るにつけ、こういった山奥に住んでいた人たちがどんな生活をしていたのか、興味をそそられるのでした。

余談ですが、今のようにウイルスが脅威になった要因として、森林開発により人間と野生動物の距離が近くなったことがあると言われています。それからもうひとつ見逃せないのは、実験用の動物(主に霊長類)の輸入だそうです。アメリカでは年間2万頭の霊長類が実験用に輸入されているそうで、『感染症の世界史』でも、「実験用霊長類が、欧米に新たなウイルスを持ち込む主要なルートになった」と書かれていました。

山頂付近では蕾でしたが、下の「体験の森」では蕾が開きかけたカタクリもありました。山では秋は上から春は下からやって来る、という言葉を思い出しました。

下山も先月より今回の方が疲れました。アイゼンを付ければ、雪道の方がむしろ歩きやすいのです。先月は誰にも会わない文字通りの単独行で、とても印象深い山行になりましたので、写真がないことがかえすがえすも残念でなりません。

下山して境橋のバス停から16時25分のバスに乗ったのですが、いつものように奥多摩駅から青梅線・中央線・八高線・横浜線・東横線を乗り換えて最寄り駅に着いたときは、午後7時をまわっていました。

駅前のスーパーに寄ったら、棚はガラガラで、野菜も肉も魚もほどんど残っていません。米もありませんでした。そのくせ、この前まで品不足だったティッシュペーパーは残っていました。まったくバカバカしいとか言いようがありません。


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奥多摩湖(小河内ダム)。

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奥多摩湖バス停の広場(管理事務所や交番まであります)。「水と緑のふれあい館」は、新型コロナウイルスの自粛要請で休館していました。

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堤防の上を歩いて登山口に向かいます。

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いきなり急登の洗礼を浴びました。

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途中、こんな平坦な尾根道もありましたが、それも僅かな距離です。

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ちょうど中間点に当たるサス沢山(940メートル)に到着しました。ザックを降ろして休憩しました。

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サス沢山には展望台がありました。

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展望台からの眺め。

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新しいザック。他人が持ってないものが欲しいと思って、パタゴニアのザック(36リットル)を買いました。パタゴニアかミステリーランチか、どっちにするか迷ったのですが、パタゴニアを選びました。容量もたっぷりだし、軽くていいのですが、機能的にはノースフェイスのテルスに劣ります。写真のように荷物が少ないと、雨蓋が下に垂れてカッコ悪い。

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岩も多くなりました。

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この尾根道はいったん下ったあと、登り返しがありました。

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カタクリの蕾。

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惣岳山(1341メートル)に到着。御前山の山頂まであと600メートルです。ザックを降ろして休憩して、持参したパンを食べました。

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惣岳山にあった道標。

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御前山山頂への道。惣岳山からは20分くらいです。

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おなじみの山頂標識。

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山頂からの眺望。前方に見えるのが、先週登った六ッ石山です。

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山頂の遠景。

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先月と同じ「栃寄ルート」で下ります。

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少し下ったところにある避難小屋。先月は周辺に30センチくらいの雪が積もっていました。

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この道も雪に覆われていました。僅か1か月半で、風景が一変しています。

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「体験の森」に入ると、道標が至るところにあります。

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「カラマツの広場」の中の東屋。「体験の森」の中にはこういった施設も多くあります。

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カタクリの説明板。

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登山道では、アイゼンでキズが付いた石を多く見かけました。

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途中からは登山道を外れて「体験の森」の遊歩道を歩きました。

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「わさび田の広場」にあるトロッコ。これもツアーに参加すれば乗ることができるのかもしれません。奥多摩は、昔はわさびの栽培も盛んだったそうです。今でも山奥でわさび田を見かけることがあります。

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カタクリ?と思ったら、ハシリドコロというナス科の毒草のようです。よく似ていてまぎらわしい。

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先月はこのあたりがアイスバーンのようにカチカチに凍っていて、歩くのに怖かった。

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いちばん下にある「トチノキの広場」の東屋。先月はここでアイゼンを装着し、帰りもここでアイゼンを外しました。

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林道から見えた”無名”の山。周辺には、このようなハイカーも足を踏み入れない”無名”の山が方々にあります。

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標高650メートルの栃寄集落にある宿泊施設・栃寄森の家。新型コロナウイルスの自粛要請で休館していました。

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バス停のある境橋の下は深い渓谷になっています。下を流れるのは多摩川です。

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橋の上からは、遠くに境地区の集落が見えます。

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境橋のバス停。先の方に標識が立っています。
2020.03.28 Sat l l top ▲
新宿~立川~青梅~奥多摩~水根~【六ッ石山】~水根~奥多摩

※山行時間:6時間(休憩を含む)
※山行距離:9キロ
※標高差:1037m
※山行歩数:25000歩
※交通費:3040円

昨日(木)、六ッ石山(1478メートル)に登りました。

諸説ありますが、六ッ石山の水根ルート(ハンノ木尾根コース)は、奥多摩三大急登に数えられるほどの急登です。しかし、電車とバスを乗り継いで行くと、麓のバス停に着くのが午前9時で、さらにバス停から登山口まで15〜20分くらい歩かなければなりません。そのため、山に入るのは9時半近くになるのです。距離はそんなに長くありませんが、日が長くなったとは言え山の中は陽が陰るとすぐ暗くなるので、”日没恐怖症“の私としては、明るいうちに下山できるか不安です。それで午後1時まで登れるところまで登り、午後1時をすぎたら下山することに決めて出かけました。

奥多摩駅からバスに乗り、登山口のある水根のバス停で降りました。バスには、登山姿のハイカーが10人くらい乗っていました。その中には、おそらく鴨沢から雲取山に登ってテン泊するのでしょう、大きなザックを背負った中年のハイカーもいました。ほかには、高校生くらいの(あるいは大学生?)男女混合の若者のグループもいました。見るからに真面目で利発そうな若者たちで、どう見ても山岳部という感じではありません。休校なのでみんなで山登りに来たのかもしれません。今日は中高年の団体がいないのでホッとします。逆に、若い人がいると気持も明るくなってきます。

水根で降りたのは私だけでした。水根は青梅街道沿いの奥多摩湖畔にある集落で、寺島進主演でシリーズ化されているテレビドラマ「駐在刑事」の舞台になっているところです。しかし、商店もなにもなく、ただ山ひだに転々と家が建っているだけの小さな集落でした。

六ッ石山の登山口も、ほかの奥多摩の山と同じように、集落を上り詰めた民家の横にありました。案の定、最初からからきつい登りでした。考えてみれば、奥多摩の山は、中腹まで奥多摩湖(小河内ダム)の水がめになっており、山のすそ野は水の中なのです。だから、いきなり急登なのは当然と言えば当然なのです。

途中からさらに傾斜が大きくなり、見上げるようなけわしい斜面を直登しなければなりません。しかも、樹林帯なので、眺望もなく、ただひたすら足元を見て登るだけの苦行のような登山でした。そうやって息を切らして登っていると、上方に人影が見えました。初めて遭遇したハイカーです。すると、間もなく人影は斜面に腰をおろしました。どうやら休憩したようです。

追いついたので「こんにちわ」と挨拶しました。しかし、返事がありません。耳が聞こえないのかと思って、さらに大きな声で「ここの山はきついですねっ」と言ったら、「こんなのたいしたことない」とヤマレコのユーザーのような返事が返ってきました。それも、ぶっきらぼうな言い方です。

六十歳をとうに越した感じのダルマのような身体をしたメタボなハイカーです。肩でハアハア息をしていて、かなりきつそうです。横に置いたザックを見ると、ミステリーランチのクラシックなタイプで、テント泊の際に使用する折りたたみ式のマットを取り付けていました。

それを見ると、初心者には見えません。「どこかに泊まるんですか?」と訊いたら、「いや、帰る」と言う。しかも、鷹ノ巣山と水根山を縦走するんだと言うのです。話が二転三転するので、どこまでが本心なのかわかりませんが、見た感じでは縦走なんて無謀としか思えません。

いくら話してもラチが明かないので、「お先に」と言って歩きはじめたら、「お先になんて言う必要ない」「一緒に登っているんじゃないんだから、勝手に行けばいいんだ」と悪態を吐く始末でした。

途中から登りが緩やかになったということあって、午後1時前に山頂に到着しました。山頂には、三頭山や大岳山や御前山と同じように、石造りの山頂標識が建っていました。しかし、眺望はいまひとつで、ベンチもありません。

六ッ石山は、登る途中もベンチがありませんでした。六ッ石山レベルの山で、ベンチがひとつもない山なんて初めてです。そのくせ、場違いな(?)山頂標識だけはあるのです。そのアンバランスさには戸惑うばかりでした。

仕方ないので、地べたに携帯用の座布団を敷いて、その上に座り、30分休憩しました。いつものように、コンビニで買ったサンドイッチを食べました。しかし、誰も登って来ません。あのハイカーも登って来ません。もしかしたら、途中で死んでいるんじゃないかと思ったくらいです。

六ッ石山の場合、下山は石尾根を通って奥多摩駅まで下るのが一般的ですが、今回は慎重を期して、登って来たときと同じルートを下ることにしました。

山頂から少し下ったら、赤い機体の東京消防庁のヘリコプターが近づいてきて、轟音を響かせながら山頂のあたりでホバーリングをしていました。しばらくホバーリングしていましたが、やがて去って行きました。私はふと、あのハイカーの救助に来たのではと思いました。未だ登って来ないというのは、いくらなんでも時間のかかりすぎです。

しかし、私の心配は杞憂でした。ルートの半分くらいまで下ったら、前方に姿が見えたのです。ちょっと安心しました。件のハイカーは、私の顔を見ると、「糞したくなって、糞していた」と言っていました。それで、私が「野糞は気持がいいですからね」と皮肉を言ったら、「そんな問題じゃない」とまた悪態を吐いていました。「オレは石尾根を下るわ」と言うので、「気を付けて」と言って別れました。

もう時間は午後2時半すぎです。最初に会ったのが10時すぎですから、あれから4時間半も経っているのです。それなのに、1キロも進んでいません。これから山頂に登って石尾根を下れば、日が暮れるのは間違いないでしょう。想像するだけでも恐ろしい光景です。

でも、世の中にはこんな人間もいるのです。病気をしても、人の言うことを聞かずに、「オレの身体はオレがいちばんよくわかっているんだ」なんて言って、ろくに治療もしないで死んでいく人間がいますが、それと同じ部類の人間なのでしょう。こんな人間こそ、遭難者予備軍と言うべきじゃないかと思いました。

当然ながら、下りも気を許すと転がり落ちるような急坂です。滑らないように慎重に下りました。そのため、腿の筋肉がブルブル震えて悲鳴を上げていました。それで、筋肉痛用のローションを塗ってごまかしながら下りました。ところが、登山口の近くまで下りて、「今日は転ばなかったな」と思った途端、すってんころりと転びました。でも、足に力が入らないので、なかなか起き上がることができませんでした。

休憩時間を除くと、登りは3時間強、下りは2時間でした。

帰りは、いつものように八高線と横浜線を乗り継いで帰りました。水根から午後3時半すぎのバスに乗ったのですが、八王子から間違えて「逗子行き」の電車に乗ったため(ホントは「東神奈川行き」に乗らなければならない)、横浜の自宅に着いたのは午後7時半をまわっていました。


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水根バス停。すぐ先は奥多摩湖(小河内ダム)です。

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登山口に行く途中の集落から見えた奥多摩湖。

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登山口に入ってすぐのところ。

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少し登ると産土神社という小さな祠がありました。こう見えても、私は、山の中の祠には必ずお賽銭をあげて手を合わせるようにしています。

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登りはじめの急登を上から見たところ。

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こんな登山道をひらすら登ります。

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直登(九十九折ではなくまっすぐ登って行くこと)。

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風の神土の祠。ここから次のポイントのトキノクボまで、さらにけわしい急登になりました。

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ずっと直登がつづきます。

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岩も出て来た。

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トキノクボをすぎると防火帯の草原の中を緩やかに登る道になりました。

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先日の雪が残っているところがありました。

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前方に山頂が見えてきました。

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おなじみの山頂標識。

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山頂標識の横の道標。
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山頂からの眺望。

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ホバーリングするヘリコプター。

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山座同定しなかったので、山名は不明。

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登ってきた道をひらすら下る。

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このあと転びました。

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集落の坂道を下っている途中の民家の前にあった二宮金次郎?の像。でも、この二宮金次郎は、歩きスマホならぬ歩き読書はしてなくて、なぜか座って休んでいます。
2020.03.20 Fri l l top ▲
新宿~立川~武蔵五日市~人里(へんぼり)バス停~人里峠~【浅間領】~時坂(とっさか)峠~払沢の滝入口バス停

※山行時間:4時間30分
※山行距離:8キロ
※標高差:409m
※山行歩数:24000歩
※交通費:2265円


昨日、奥多摩の浅間嶺に登りました。

新宿から6時48分発のJR中央線中央快速高尾行きで立川、立川からJR青梅線五日市行きで武蔵五日市。五日市駅に着いたのは7時59分で、これもいつものコースです。

前に、笹尾根を繋いだのでしばらく武蔵五日市に行くことはないだろうと書きましたが、ゆっくり山を歩きたいと思ったとき、やはり思い付いたのは武蔵五日市駅から登る山でした。それで、前言を翻してまた武蔵五日市駅に向かったのでした。

浅間嶺は、笹尾根と同じ檜原街道沿いの浅間尾根にあるピークです。笹尾根にはいくつかのピークがありますが、浅間尾根の場合は浅間嶺が唯一のピークです。

笹尾根と浅間尾根は、檜原街道沿いのバス停が共通しており、簡単に言えば、バス停を降りて進行方向の左に登れば笹尾根で、右に登れば浅間尾根です。浅間尾根のピークはひとつしかないので、浅間尾根はどのバス停から登っても、めざすのは浅間嶺になります。私は、人里(へんぼり)のバス停から登りました。

武蔵五日市駅から人里までは、バスで50分かかります。しかし、駅に着いても、バスの時間まで1時間待たなければなりません。これもいつものことです。

駅前のコンビニで行動食のチョコレートと昼食のサンドイッチなどを買って、バス停のベンチに座ってバスを待つことにしました。武蔵五日市駅の場合、待合室がないのでバス停のベンチに座って待つしかないのです。

バス停のベンチには、既に3人の60代くらいの女性が座っていました。3人とも登山の恰好をしており、私が乗ってきたのと同じ電車で来たみたいです。おそらく女性たちも浅間嶺に登るのだと思います。

横で話しているのを聞くと、どうやら団体(グループ)で登るようで、同行者たちは次の電車でやって来るみたいです。平日は定期便の1台で充分ですが、これが週末になると100人以上が行列を作り、臨時バスも出ます。浅間嶺はアクセスがよくて、しかも登りやすいので、特に中高年の登山者に人気なのです。

8時半近くになると、次の電車で来た人たちがバス停にやって来ました。その中には、女性たちの同行者もいました。やはり60~70代の既にリタイアしたとおぼしき男性ばかりで5人いました。これもよくあることですが、男性たちは列の後ろに並ばないで、先頭にいる女性たちのところでおしゃべりをしていました。私のうしろには、既に20人近くが並んでいました。

私のうしろでは、温泉にでも行くのか、かなり高齢の男性がやって来て、「ベンチに座らせてもらえませんか」と言っていました。それで、ベンチに座っていた人たちが間を詰めていました。しかし、先頭のグループはそんなことはおかまいなしにおしゃべりに興じていました。

それにしても、山に来る団体の中高年女性たちはどうしていつもこんなにハイテンションなのだろうと思います。年甲斐もなくと言ったら叱られるかもしれませんが、キャーキャー言いながら大声でお喋りに夢中です。男性たちにとって、そんな女性たちはマドンナのような存在なのか、話の中心はいつも女性たちのことでした。

しかし、男性たちも、登山者にありがちな「オレ、凄いだろう」式の自己誇示も忘れないのです。「あの✕✕山はきつかったわ」と女性が言うと、「あんなもんはたいしたことない」と男性。「あんな山は、コースタイムの0.7くらいで充分だ」と言ってましたが、「お前、ヤマレコか」と突っ込みたくなりました。

やがてバスが来ました。ところが、先頭の女性のところにいた男性たちも、女性につづいてバスに乗り始めたのです。それで、私は、「お前たち、みんなが並んでいるのがわらないのか」「山に行く人間で、そのくらいのマナーも守れないのか」と言いました。すると、まだバスに乗ってない人間は、びっくりした様子で足を止めていました。

週末だとバス会社の人間が出てきて、カラーコーンを並べて整列乗車を呼び掛けるのでまだマシですが、平日はこのような光景はめずらしくないのです。

ネットに中高年登山禁止条例を作ってくれないかなという書き込みがありましたが、集団心理もあるのか、団体の登山者のマナーがよくないのはたしかです。ホントに中高年団体登山禁止条例を作ってもらいたいほどです。

警察が発表する年代別の遭難者のデータによれば、遭難者は70代がいちばん多いそうです。数年前までは60代が一番多かったけど、登山者が年を取り、中心の年齢層が60代から70代に移ったのに伴って、遭難者も70代が一番多くなったそうです。と言うことは、あと10年もすればマナーの悪い団体客は自然淘汰されるのです(そのはずです)。

運の悪いことに、このグループは帰りのバスでも一緒でした。払沢の滝(ほっさわのたき)入口のバス停まで下りて、ついでに払沢の滝を見に行ったときでした。滝はバス停から15分くらい歩かなければなりません。滝の近くまで行って、岩に乗って写真を撮っているときでした。足場が悪いので、ひとりつづ順番に写真を撮るような暗黙のルールがあるにもかかわらず、私のすぐ横に来てカメラを構えている高齢の男性がいました。見ると、ザックを背負って登山の恰好をしていました。

写真を撮り終えて横の石段に戻ろうとしても、男性がすぐ横に立っているので戻ることもできません。それに、男性がバランスを崩すと私も巻き添えを食って下の岩場に落ちる危険性さえあります。しかし、男性は私のことなどお構いなしにカメラを構えています。

「ちょっとのいてもらいますか?」と言っても、知らん顔です。それで、再度強い口調で「のいてもらえるかな」と言ったら、やっと石段に戻って行ったのでした。

男性を見ると、石段から滝つぼの脇に下りる際も、石段が狭いにもかかわらず、下から登って来る人がいても、「のけ」と言わんばかりに強引に下りて行くのでした。下から登ってくる人たち(大半は若い人たち)は、石段の横に設置された鎖を握って身体を横向きにしてよけていました。「なんだ、あの爺さんは」と思って見ていたら、下でキャーキャー言いながら男性たちを待っていた女性に見覚えがありました。朝のあのグループだったのです。

私がバスを降りるとき、彼らはまだバスに乗っていましたので、先にある浅間尾根登山口のバス停あたりから登ったのでしょう。そして、私と同じように払沢の滝に下りて来たのでしょう。マナーの悪い連中は、どこに行ってもマナーが悪いんだなと思いました。中高年向けの登山サークルのサイトに、「ナンパ目的で入会する方へ」という注意書きがあったことを前に書きましたが、もしかしたらマドンナ(と言っても60すぎの婆さん)が一緒なので、爺さんたちも気分が高揚して分別を失っているのかもしれません。顰蹙を買うかもしれませんが、なんだか“老人ホームの恋“を連想しました。

それに比べると、浅間嶺の展望台で会った高齢の夫婦は対照的でした。展望台に行くと、とっくに70を越えているような高齢の夫婦が望遠鏡で遠くの山を見ていました。そして、二人で手元の地図と見比べながら「山座同定」をしていました。何度もその作業をくり返していて、如何にも山に来たことを楽しんでいるといった感じでした。

私がベンチで昼食のサンドウィッチを食べていたら、「お先に」と言って、二人は払沢の滝方面に歩いて行きました。しかし、少し歩くとまた立ち止まって、二人で奥多摩の山塊を指差してなにやら話をしていました。

ハイキングとしては、こっちの方がよほど「健全」に見えますし、山歩きの本来の姿があるように思います。ヤマレコやヤマップの影響なのか、中高年の中には同じ山に何度も登って、コースタイムがどうのと自慢するような人たちが多いのですが、その背景にあるのは「オレはいつまでも若いんだ」という誇示と自己承認を求める気持でしょう。おまかせ登山のおばさん相手にお山の大将になりたがる心性も同じなのだと思います。

人里バス停から浅間嶺までは3キロ弱、浅間嶺から払沢の滝までは6キロくらいでした。登りは休憩を除けば1時間半くらいで、払沢の滝バス停までの下りは、2時間弱でした。久し振りの軽めの登山で、その分余裕を持って山を楽しむことができました。

帰りは、いつものように武蔵五日市から拝島、拝島から八高線で八王子、八王子から横浜線で帰ってきました。武蔵五日市を出たのが午後4時前だったということもあって、電車は空いており、今回もずっと座って帰ることができました。

不思議なのですが、山に行っている間は花粉症の症状がまったく出ないのです。昨日は、春を思わせるようなポカポカ陽気でしたが、くしゃみをしたり目がしょぼしょぼしたりとか、そんなことはまったくありませんでした。ところが、帰宅して夜になるとくしゃみが出たり、目が痒くなったりするのです。前回の本仁田山に行ったときもそうでしたが、たぶん街中のようにアスファルトに落ちた花粉が舞い上がることがないからかもしれません。



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人里バス停。

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浅間尾根登山口へ。

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登山口は民家の脇から入ります。

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登山口に入り上から見たところ。登山口までのアスファルトの坂道がきつかった。

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登山口に入りうしろを振り返る。

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登る途中にあった祠。

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ふと見上げると民家が・・・・。

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テレビの「ポツンと一軒家」で紹介された民家でした。しかし、今は無人です(敷地内は自由に見学できます)。

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庭の奥にある400年前から出ているという湧き水。とてもおいしかった。水筒を持って来なかったことを後悔しました。実家の水道も天然の湧き水でしたので、田舎を思い出しました(このルートを登るなら、水筒は必携です)。

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尾根に着きました。時間にして約1時間。

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ここからは尾根筋を歩きます。

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見晴らしのいいところに出ました。奥多摩の山塊が一望できました。しばらく立ち止まって見入ってしまいました。

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御前山。

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大岳山。

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見晴らしのいい尾根道。

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浅間嶺休憩所の東屋。『奥多摩風土記』(大舘勇吉著・有峰書店新社)には、「浅間嶺(略)の嶺上に近い所に浅間神社の祠があり、明治の頃までお堂と五輪塔がありました」と書いていましたが、たぶんこの場所だったと思われます。お堂と五輪塔は「仙元社」と呼ばれ、尾根の麓にある下川乗(しもかわのり)地区の古民家に保存されていた絵地図には、天正10年(1582年)武田氏滅亡の際に武田勝頼の最期に準じた家臣や女中を祀っていたことが記されているそうです。武田信玄の四女の松姫が武田家滅亡の際、甲斐の国(今の山梨県)から八王子へ逃亡する際に、浅間尾根でひと息ついて、「郷国の霊山富士の見えるここから兄勝頼に殉じた人々の手向けを行なったものでしょう」、と『奥多摩風土記』には書いていました。

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はじめて会ったハイカー。このあと展望台に登ったら、休憩していました。

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展望台の山頂標識。浅間嶺の最高標高地点は展望台ではないのですが、実際は展望台が山頂のような扱いになっています。

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展望台からの眺望。

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展望台には3人の先客がいました。このあと女性の2人組が登って来ました。

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展望台をあとにして払沢(ほっさわ)の滝バス停までの下り。

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このような石ころだらけの道もありました。

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峠を下る途中にあった蕎麦屋。この蕎麦屋も「ポツンと一軒家」で紹介されたそうです。そのあと閉店したと聞いていました。しかし、看板を見ると、12月~3月は冬季休業で、4月~11月は営業しているようです。

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このあたりの「関東ふれあいの道」は、「甲州古道」と呼ばれていますが、明治時代までの甲州街道です。明治時代までは「駄馬道」で、今の「払沢の滝入口」のバス停横の坂道を登り、このように浅間尾根を越え、小菅から大菩薩峠を越えて塩山に下っていたのです。現代の私たちは、その一部をザックを背負い登山靴を履いたご大層な恰好でヒーヒー息を切らして歩いているのです。

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林道の途中にあった大山祇(おおやまつみ)神社。山の神様で各地にあります。今も奥多摩の山林が東京の水源地として保護されているように、山の神ということは水源・水利の神でもあり、山から恵みを得ていた地域の人たちに信仰されていました。

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大山祇神社の下には、閉店した「峠の茶屋」の建物がありました。

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上記の蕎麦屋は、峠の茶屋の本家でもあったのでしょうか?

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前の駐車場からも絶景が広がります。

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商店の窓ガラスに貼ってあった「東京のスイス」檜原村の観光地図。そう言えば、私も子どもの頃、冗談半分で自分の田舎を「九州のスイス」と呼んでいました。

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遠くに都心のビル群も見えました。

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下る途中の分岐で、鎖で閉鎖されていた「車両通行止め」の方の林道を進むと、時坂(とっさか)峠に着きました。

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時坂(とっさか)峠から急坂の登山道を下ります。

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降り口に「危険」と注意書きがあった崩落箇所。思ったより危険ではありませんでした。

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払沢の滝に行く途中にあった雑貨店。昔の郵便局の建物を利用しているそうです。

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払沢の滝。

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2020.03.12 Thu l l top ▲
武蔵小杉駅~立川駅~鳩ノ巣駅~本仁田山~鳩ノ巣駅~青梅駅~拝島駅~八王子駅~菊名駅

※登り3時間28分(休憩約40分)
※下り2時間10分(休憩時間10分)
※山行時間:5時間38分
※山行距離:9.4キロ
※標高差:904m
※山行歩数:26000歩
※交通費:2514円

奥多摩の本仁田山(ほにたやま・1224メートル)に登りました。本仁田山は、奥多摩駅から登る大休場尾根コースが一般的ですが、大休場尾根コースは奥多摩の三大急登に数えられるほどの急登で、今の私では荷が重いので、今回は奥多摩駅から二つ手前の鳩ノ巣駅から登る杉ノ尾根コースを選びました。

とは言え、奥多摩の山は標高のわりにきつい山が多いので、杉ノ尾根コースも後半は急登が続き、ヘトヘトになって山頂に辿り着きました。前半は順調だったのですが、後半のバテ具合が半端ない(!)のです。持久力がないと言えばそうなのでしょうが、やはり体重が6キロ増えたことも大きいのかもしれません。6キロと言えば、山に登る人間が背負うザック1個分の重さです。それでなくても、私は身体が大きいので、ほかの人より2つか3つ余分にザックを背負っているようなものですが、さらにまたひとつ増えたのです。つまり、平均的な日本人と比べれば、ザックを4つ背負って山に登っているようなものです。これではもはや歩荷の世界です。

アンクルウエイト(足首に付ける重し)を買って足の筋力を付けることも大事ですが、その前にダイエットが必要でしょう。いくらまめに山に行って体力を付けようと思っても、体重が増えたのでは自分で自分の足をひっぱっているようなものです。そんなことを考えながら、山を下りました。

今日も早朝5時半すぎの東横線に乗って、武蔵小杉で南武線に乗り換え、さらに立川で青梅線の奥多摩行きに乗り換えました。鳩ノ巣駅に着いたのが8時前でしたので、ちょうど2時間かかったことになります。

やはり、車内はいつもより空いており、そのため、いづれの電車でもずっと座って行くことができました。

鳩ノ巣駅は、まわりになんにもないローカルな駅です。コンビニはもちろん、商店もありません。ただ、山だけでなく近くに渓谷もあるので、駅前にはハイキング客向けの立派なトイレがありました(ハイキングのあとに汚れた靴を洗う水道もあります)。

もっとも、山と言っても、本仁田山以外では川苔山(川乗山)があるくらいです。それも、いづれもマイナーなルートの登山口で、どっちかと言えば、鳩ノ巣駅は本仁田山や川苔山の下山ルートで使われる場合が多いのです。

登りでは3人会っただけでした。また、途中、大根ノ杉ノ神という分岐点で休憩していたら、上から2人下りてきました。

登る途中、2人から追い抜かれましたが、山頂に行ったら誰もいませんでした。おそらく2人も川苔山に向かったのではないかと思います。川苔山のメインのルートである日原街道から百尋ノ滝を経て登るルートが、昨秋の台風19号によって日原街道が通行止めになり利用できないため、今は鳩ノ巣から登るしかないのです。

先日、棒ノ折山で会った人に川苔山の話をしたら、「冬は百尋ノ滝に行かない方がいいですよ」と言われました。冬は滝に行く道が凍結するので、滑落事故も起きているそうです。「氷瀑とか言いますが、百尋ノ滝はそうまでして観に行くほどの価値はありませんよ」と言っていました。

また、その話を別の人に話したら、その人もほかの人から同じようなことを言われたと言っていました。こういう話は、ネットでは知ることのできない”生の情報”です。ネットはウソとハッタリが多いので、書いていることを鵜呑みにすると、登山の場合、命にかかわることにもなりかねません。川苔山に関しても、逆コースから下りて百尋ノ滝に行ったけど、全然問題なかったみたいなお決まりの書き込みがありますが、自分の技量を鑑みながら割り引いて読む必要があるでしょう。むしろ、斜に構えて読むくらいがちょうどいいのです。

それは、コースタイムも然りです。山行記録を共有するサイトのコースタイムは、あまり参考になりません。コースタイムは修正できるみたいなので、さも健脚のように修正しているのではないかと思ってしまいます。中には、説明文の時刻と添付した写真のEXIF情報の時刻が違っている場合もありました。ちなみに、個人的にいちばん参考になるのは、登山届を作成する際に利用するコンパスのコースタイムです。

山頂には40分くらいいましたが、誰も登って来ませんでした。非常に暖かないい天気だったので、汗でぬれたパーカーを木にかけて干しました。奥多摩の山々の向こうには、富士山もくっきりと姿を見せていました。ちょうど昼の12時すぎだったので、ベンチに座って持参したピザパンを食べました。ピザパンにかじりついていたら、なんだか胸がつまってきて涙が溢れそうになりました。若い頃、定食屋でひとりで食事していると、わけもなく涙が出そうになったりしましたが、あのときと似た感じでした。いくら年を取っても、そういった感情は残っているのです。

それでもやはり、ひとりはいいなあと思いました。山頂をひとり占めできるなんて、これほど贅沢な話はないのです。

山から下りて駅に戻って来たら、ちょうど5分後に来る電車があったので、ホームまで走りました。帰りは、いつものように拝島で八高線に乗り換え、八王子から横浜線で帰りました。

途中から帰宅ラッシュの時間になったのですが、通学する学生が少ないので電車は空いていて、ずっと座って帰ることができました。ただ、私服姿の高校生とおぼしき若者たちがワイワイ騒ぎながら乗って来て、八王子や町田などで降りて行きました。一斉休校と言っても、これ幸いに遊び歩いているじゃないかと思いましたが、かく言う私も、「不要不急の外出を控えるように」という呼びかけに背いて山に行っているのですから、あまり他人(ひと)のことは言えないのです。

一方で、安倍首相は、新型コロナウイルス対策のために、あらたに緊急事態を想定した法整備の必要性を表明しています。新柄コロナウイルスを奇貨に、私権を制限する”緊急事態法”の拡大が目論まれているのです。検査もろくにしないでなにが緊急事態だと思いますが、東日本大震災のときと同じように、再び”動員の思想”が前面に出ているのでした。トンチンカンな東浩紀などは、またぞろ震災のときと同じように、国家がせり出している今の状況に誇りを覚えると言い出すのかもしれません。あれから「ニッポン、凄い!」が始まったのです。そして、今のようなボロ隠しの「愛国」が支配する「バカっぽい」国になってしまったのです。

本気で市中感染を防ぐつもりなら、もっと簡単にPCR検査を受けることができるようにすることが先決ですが、ここに至っても検査体制は何も変わってないのです。検査が保険適用され自己負担分も国が負担すると言いながら、実際は「指定感染症」として保健所が統括する「帰国者接触者相談センター」が窓口であることには変わりがなく、軽症レベルの患者が検査を申し込んでもハネられるのは目に見えています。

重症化するか感染者の濃厚接触者でなければ検査が受けられないのですから、感染している自覚がないままに、意図せず感染を拡大させることになるのは当然でしょう。にもかかわらず、感染者は、あたかも無責任な行動でウイルスをばらまいた”迷惑人間”のように言われ、指弾されるのです。国の怠慢(と隠蔽工作)がそのような理不尽な責め苦を感染者個人に強いているのです。感染の拡大を防ぐためには、なにより早い段階で感染しているかどうかをはっきりさせて、感染を防ぐべく手当てすることが大事なのは、子どもでもわかる話でしょう。

横浜線に乗っていたら、橋本駅からトイレットペーパーの束を両手に下げたおばさんが乗って来ました。おばさんは、次の相模原駅で降りたので、トイレットペーパーを求めて橋本まで「遠征」したのかもしれません。

私も思わず二度見してしまいましたが、ほかの乗客も、ある人は眉をひそめて、ある人は羨ましそうな目で、おばさんの手元を見ていました。「あんたとこの家族は、そんなにウンコするの?」とツッコミたくなりました。

メディアは、「トイレットペーパーは充分な在庫があります。買い占めをやめることで、品不足も解消されます。買い占めをやめて、みんなに行き渡るようにしましょう」と言っていますが、それって東日本大震災のときも耳にした台詞です。

メーカーも表向きには「在庫は充分あります」と言っていますが、今の品不足が消費ではなく買い占めによって起きているのはわかっているので、店頭に商品がなくても生産能力を上げることはしないでしょう。そうすれば、やがて過剰在庫になるのがわかっているからです。

そもそも、中国人が買い占めているから品不足が起きているんだと言いながら、せっせせっせと自分たちで買い占めていた日本人に、「みんなで分かち合いましょう」みたいなことを言っても馬の耳に念仏でしょう。腐っているのは総理大臣だけではないのです。

そんなことを考えながら帰って来ました。


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鳩ノ巣駅

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登山口に行く途中の風景

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登山口
民家の脇を入ります。

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ちょっと荒れた道

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本仁田山の特徴は石が多いことです。
登山道も石が多く、歩きにくくて足にこたえます。

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大根ノ山の神
川苔山への分岐はいくつかありますが、ここが最初の分岐です。

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「あれっ、車が」と思いましたが、よく見ると林道が通っていました。車は、東京都の森林組合の車でした。

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道を間違えて林道を進みました。
「林道を歩くはずはないんだが」と思いながらもどんどん進んで行ってしまいました。
GPSの地図を拡大して見たら、登山道から微妙にずれていることがわかり、引き返しました。

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大根ノ山の神の分岐まで戻って来たら、こんな注意書きがあることに気が付きました。
最初は気が付かなかった。間違える人が多いのでしょう。

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車が停まっている広場の奥に登り口がありました。
こういった登り口はよく見落とす。

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杉ノ尾根

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最初のピーク殿上山

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本仁田山?

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尾根道をすぎると・・・・

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噂の急登

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途中から見た風景

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さらに急登は続く

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登り切ると再び尾根道

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二つ目のピーク瘤高山(コブタカ山)
個人的には、このあと山頂までの100メートルの登りの方がきつかった。

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山頂標識
三頭山や御前山や大岳山や川苔山の立派な石造りの標識と比べるとこのやっつけ感。
奥多摩での本仁田山の位置付けが伺えます。

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天気がいいので、富士山が見えました。

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山頂の様子

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同上
山頂も石が多い。

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個人的にいちばんきつかった山頂直下の登り
下山時に撮りました。

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登山口まで戻って来ました。
入口(出口?)の手前。
2020.03.03 Tue l l top ▲
池袋駅 06:04~07:00 飯能 07:45~08:36 河又名栗湖入口バス停 08:46~09:20 白谷沢登山口 09:20~12:15 棒ノ折山 13:05~14:40 滝の平登山口 14::40~14:45 河又名栗湖入口バス停

※登り:175分(休憩含む)
※下り:95分(休憩含む)
※山行距離:8.3 キロ
※標高差:745m
※山行歩数:23,000 歩
※交通費:3,471円

おととい(木曜日)、棒ノ折山に登りました。棒ノ折山は、東京都奥多摩町と埼玉県名栗村の境にある標高969mの山です。

棒ノ折山は、飯能の高校生を主人公にした「ヤマノススメ」というアニメに登場する山として有名で、そのため聖地巡礼(?)の若者の登山者が多い山でもあります。

埼玉側の登山口は名栗湖(有間ダム)にあり、ゴルジュ(狭い峡谷)を登る白谷沢コースは、特に人気のコースです。棒ノ折山は、標高が1000メートルも満たない低山ですが、標高差は700メートル強あり、結構登り応えのある山です。

山行時間だけで言えば、「初心者向け」と言えないこともありませんが、ただ、滑りやすい沢の中の岩歩きや、土が流出して段差ができた階段がつづいていたり、一面剥き出しになった木の根に覆われていたりとやっかいな急登もありますので、初心者だけで行くのはリスクがあると思います。ネットの「たいしたことない」自慢には、くれぐれも気を付けた方がいいでしょう。やはり、単独行の私が言うのもなんですが、経験者と一緒に行った方が安心だと思います。

飯能駅からは、登山口の最寄りのバス停に当たる「河又名栗湖入口」まで約50分バスに乗らなければなりません。尚、週末には「河又名栗湖入口」から数分のところにある「さわらびの湯」行きのバスが出ます。しかし、平日は本数が少ないので、時間帯によっては別の路線の「河又名栗湖入口」を利用しなければならないのです。

飯能駅に着いたのが思ったより早かったので、駅前の吉野家で、久し振りに「すき焼き御前」を食べました。朝からすき焼きとは「これ如何に」(なつかしいギャク)という感じです。

私は、前夜まったく寝ないで出かけたので、登りはじめからヘロヘロでやたら息が上がり、足が動きませんでした。沢歩きよりも、そのあとの急登の方がきつく、私にとっては苦行の山登りになりました。

ただ、前半の沢歩きは、子どもの頃を思い出してなつかしい気持になりました。子どもの頃、近所の友達とよく遊んだようなところを、この年になって登山と称し、重いザックを背負い、登山靴をはいて歩いているなんて、なんだか変な感じもしました。しかも、子どもの頃は平気だったのに、今はぜぇーぜぇー言いながら歩いているのです。

バス停には7~8人くらいが並んでいましたが、登山客は、夫婦とおぼしき40代くらいの男女とやはり30代後半くらいのソロの男性の3人だけでした。

「さわらびの湯」のバス停にもトイレがあるようですが、「河又名栗湖入口」の近くにも、ご丁寧にも登山客のための休憩所とトイレがありました。ご丁寧に衣類を干すポールまでありました。

登る準備をするために休憩所に行くと、同じバスで来たソロの男性もベンチに座って準備をしていました。私は、山に行くと異常に愛想がいいので、「こんにちわ」「棒ノ折山は初めてですか?」と話しかけました。しかし、男性の反応は「ハァ?」とつれないものでした。意外な反応に、休憩所は嫌な空気になりました。あわてた私は、「あっ、私も初めてなので‥‥」とどうでもいい言い訳をしたりして、よけい気まずい空気にしてしまいました。もちろん、腹の中では「なんだ、こいつは?」と悪態を吐いている自分がいました。「いい歳して挨拶もできないのか」と思いました。

ところが、棒ノ折山の山頂では、男性の違う一面を見ることになったのでした。

山頂にいると、次のバスで来たとおぼしき若い女性の二人組が登って来ました。若いと言っても、山ではありがちですが、30歳は優に超えています。すると、山頂の端にいた件の男性が、やにわに立ち上がって山頂をウロウロしはじめたのでした。そして、徐々に女性の方に近づいて行くではありませんか。あきらかに女性が目当ての様子です。

山頂ではよくあることですが、女性から「カメラのシャッターを押してもらえませんか?」と声をかけられるのを待っているのかもしれません。最近、山頂で山ガールと知り合って一緒に下山するナンパが一部で流行っているそうなので、それを狙っているのかもしれません。

私は、東屋の中で、登る途中で知り合った二人のおっさんと昼食を食べながら、山の話をしていました。ひとりは60歳を超えたばかりで、棒ノ折山には100回以上登っているというツワモノで、都心の高層ビルの26階にある勤務先のオフィスには、毎日エレベーターを使わずに階段を歩いて上っているそうです。他にジョギングもしているとかで、同じ“山好き”でも自分とは桁違いのレベルの人物です。

もうひとりは、50歳のトレランのランナーで、練習のために登ってきたそうです。体脂肪率を訊いたら、「測ったことがないのでわからない」と言ってましたが、見るからにアスリート向きの筋肉質の体形をしていました。「すごい体形していますね?」と言ったら、「でも、メタボでトレランしている人の方が、逆にすごいと思いますよ」と言っていました。

今はトレランは一大ブームになっています。家に帰ってから、ランナーの彼に教えてもらった下記のサイトを見たら、そこにびっしり記載されていた大会の日程にびっくりしました。毎月、日本各地でこんなに大会が行われているのかと思いました。

TrailRunner.jp
トレイルランニング大会情報

私が、不愛想な男を目で追いながら、「なんだ、あの男、ただの女好きだったんだ」と言ったら、「どうしたんですか?」と訊くので、登る前の休憩所でのいきさつを話しました。すると、「ああ、そういう男は山にはよくいますよ」「山で会う人間は善人が多いと思っている人が多いけど、山でも街でも同じですよ」と二人は口々に言っていました。「だから、女性がひとりで山に登るのは、ある意味すごいことですよ」と。

そもそも山登りが趣味の男が女性にモテるわけがないのです。「山ガール」はメディアが作ったイメージにすぎません。そのことがわかってないという点でも、ナンパ目的で山に来る男は(私から言わせれば)”変態”です。

ナンパではないですが、山にも「変な人間」はいます。以前、登山口近くまで下山したときでした。前から見るからに「変な人間」が登って来ました。挨拶しても返事はありません。「なんだ、挨拶もできないのか」と思いながらすれ違いました。ところが、気が付くと、いつの間にか男がUターンして私のあとを付いて来ていたのです。私は、嫌な予感がしました。それで、地面にあった拳大の石を拾いました。後ろから襲われたら、石で反撃しようと思ったのです。しばらくそんな緊張した状態がつづきましたが、足音が聞こえなくなったなと思ったら、どこに行ったのか男の姿が消えていました。

奥多摩では、実際に登山者が山中で襲われる強盗事件があったそうです。それどころか、30年以上前の話ですが、奥秩父の山小屋では、小屋番が宿泊していたソロの女性ハイカーを強姦して殺害し、その遺体を山に放置するという事件もあったくらいです。前も書きましたが、山には泥棒もいます。強盗だって性犯罪だってないとは言えないでしょう。おっさんたちが言うように、「山でも街でも同じ」なのです。

女性たちは、自分たちのまわりをうろつく男に何かを察したのか、わざわざ私たちの方にやって来て、「すいません、写真を撮ってもらえませんか?」と言うのです。それで、ツワモノのおっさんが、山頂標識の前で、慣れないスマホの操作に戸惑いながら、ピースサインをしている二人の写真を撮っていました。

今は山に行ったあとに、ヤマレコやヤマップのような山行記録を共有するサイトに自分の記録をアップする人間も多く、山頂で会った時間をヒントにすれば、あのときに会った人間がアップしたのだということがすぐわかります。私の経験でも、結構人物が特定できるケースが多いのです。中には、挨拶したとか写真を撮ってもらったと言った程度ですが、私のことに触れている記録もありました。

山行記録を見ると、山では不愛想で嫌な感じだった人間が、ネットでは反対に明るいおちゃらけな感じでコメントを書いている場合が多いのです(と言うか、ほとんどそうです)。私の知る範囲では、山行記録のサイトに書き込みをしているのは40代~50代が多く、ヤマレコよりヤマップの方が若い感じです。

共有サイトでは、男性に比べて女性の書き込みの方が「いいね」の数が多いのが普通で、中でも書き込んだ本人が映っている写真(目隠しをしているけど)が添付されていると、「いいね」が異常に多くなる傾向があります。なんのことはない、山行記録の共有サイトは、いい歳したおっさんたちが、「友達リスト」などを利用して、出会い目的で使っている一面もあるのです。共有サイトで自己承認を求めたり自己顕示欲を満足したりする心性のさらにその奥に、ドス黒い性的な欲望が伏在していることも忘れてはならないでしょう。もっとも、サイトを運営する側からすれば、そんなネット特有の(出会い目的の)要素を入れないとアクセスを稼げないという事情もあるのでしょう。

下りでは、主に下り専用で使われているコースを歩いたので、誰にも会いませんでした。2時間足らずのコースでしたが、木の根が剥き出しになった急坂がつづいたということもあって、やたら長く感じました。それどころか、途中で寝不足のために意識朦朧と言ったらオーバーですが、やや意識が散漫になって、霜が融けたドロドロの地面に足を取られ2メートルくらい滑り落ちました。片方のトレッキングポールは衝撃で折れて、下まで落ちて行きました。サックやズボンが泥だらけになり、泣きたいような気持になって、しばらくその場に座り込んでいました。

自分ではいつまでも若いと思っているけど、身体は正直なのです。眠らないまま山に行くなど、無謀以外のなにものでもないでしょう。

下りたあと、休憩所の洗面所でタオルを濡らし、泥を落としてからバスに乗って帰りました。さわらびの湯にも寄らないままでした。

帰りのバスは途中の東飯能駅で降りて、いつものように東飯能から八高線で八王子、八王子から横浜線に乗り換えて帰って来ました。電車の中では、幸いにも座ることができたので、ずっと爆睡していました。


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河又名栗湖入口バス停

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看板の左側の橋を渡って行く。

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橋を渡った先にある休憩所とトイレ

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さわらびの湯の前を通り、坂道を登って行くと有間ダム(名栗湖)。

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ダムの周遊道路をしばらく進むと、登山口(白谷沢登山口)がありました。

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最初はこんなおだやかな登山道

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沢に近づくと徐々に岩が多くなる。

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渡渉

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沢歩きが始まる。

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何度も渡渉する。

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最初のゴルジュ

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上から振り返る

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滝の横を登って行く。

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次のゴルジュ

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ゴルジュの先には鎖場

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鎖場は、二~三歩腕を使って登らなければならない箇所がありますが、あとは足を掛けるところがあります。

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鎖場を上から見下ろす

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とは言え、足を滑らせると危険です。

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沢歩きも終わりで、沢から岩を登って行く。

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林道沿いの休憩場所に出ました。ここから「心臓破りの急登が始まる」と書いていたサイトがありましたが、その言葉に偽りはありませんでした。ここで途中で会った人と30分近く話し込みました。

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一旦「岩茸石」というポイントに着きます。

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さらに急登がつづく。土が流れ出た階段は落差が大きく、とてもまともに歩けません。

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今度は異様に張り出した木の根の上を歩く。

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山頂

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山頂の広場

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山頂標識は「棒の嶺」です。

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山頂は、北東側がひらけています。奥武蔵、栃木(谷川岳や日光)、茨城(筑波山)の山が同定できます。

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下山開始。滝ノ平尾根コースを歩きます。

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「岩茸石」まで戻り、今度は岩の横に回り込んで下山ルートを進みます。

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棒ノ折山は、ほかにもいろんな呼び方があります。「棒ノ峰」と書かれた古びた案内板。

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名栗湖が見える。

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下りでは、階段と木の根がやっかいです。
ネットの書き込みに、下山が大変だったという話がないのが不思議です。棒ノ折山のポイントは、ゴルジュだけではないのです。ヌカザス尾根のように距離は長くないけれど、急坂の下りも大きなポイントです。

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2020.02.22 Sat l l top ▲
池袋駅07:30(特急レッドアロー号)~08:59西武秩父駅09:10~10:25三峯神社10:30~12:00妙法ヶ岳12:30~13:40三峯神社15:30~16:45西武秩父

※登り90分 下り70分
※山行距離 4.5キロ
※標高差:243m
※山行歩数 13000歩
※交通費 5094円

秩父の妙法ヶ岳(1332m)に登りました。妙法ヶ岳は、三峯神社の奥の院(奥宮)がある山です。

前回の御前山のミスを繰り返さないために、今回はカメラのメモリーカードを二枚(一枚は予備)持って行きました。山に行くときは万一のことを考えてスマホを2台持って行った方がいいんじゃないかと思っているほどの”予備がないと不安症候群”の私としては、前回は痛恨のミスと言うしかありません。未だそのショックを引き摺っていますので、今回は何度もカメラを開いてメモリーが入っていることを確認しました。

ホントは奥多摩の六ッ石山に行く予定だったのですが、朝の出発が遅くなったので、予定を変更して妙法ヶ岳に行くことにしたのでした。

六ッ石山に登るには、遅くとも奥多摩駅から8時台のバスに乗らなければなりません。それには、新宿から6時台の電車に乗る必要があります。ただ、それでも、日没を考えると時間的にタイトなのでした。また、前夜に六ッ石山が奥多摩三大急登のひとつに数えられていることを知って、あまり寝ていないので尻ごみしたということもあります。

池袋駅7時30発の特急(レッドアロー号)に乗って秩父に行きました。秩父駅から三峯神社までは、さらにバスで1時間15分かかります。三峯神社に着いたのが10時半近くでした。ただ、妙法ヶ岳までは非常に近くて、往復でも3時間もかかりません。

三峯神社に関連して、三峰山(みつみねさん)という山名をよく耳にしますが、三峰山という単独の山はありません。三峰山というのは、妙法ヶ岳・白岩山・雲取山の三つの山の総称です。それにも、関東周辺の神社あるあるの日本武尊(ヤマトタケルノミコト)神話が関係しているのでした。

三峯神社も、日本武尊神話に基づいて創建された神社です。日本武尊を祭神として崇め、狛犬の代わりに狼が守護神という点も、青梅の御嶽神社(武蔵御嶽神社)などとまったく同じです。

日本武尊神話というのは、蝦夷(東日本)や熊襲(九州)など日本列島の原住民を「征伐」(討伐)して日本列島を支配せんとした、渡来人由来の天皇制権力を神話化したものにほかなりません。

狼が守護神なのは、東国征伐した日本武尊が武蔵の山に立ち寄った折に、狼が案内したからだそうです。その際、日本武尊が目の前にそびえる妙法ヶ岳・白岩山・雲取山の絶景に感銘して、三山を三峰山と命名したのだとか。ホンマかいなという話です。

中世のヨーロッパでは、山には悪魔が住んでいると言われたのですが、アフリカやラテンアメリカやアジアなどの農耕社会では、山に神が住んでいるという”山岳信仰”が総じて見られます。それは、大いなる自然を畏怖する古代人の観念の発露であって、“絶景”もそのひとつなのでしょう。絶景に感銘したのは、日本武尊ではなく当時その地域に住んでいた人々なのです。

妙法ヶ岳は、山行時間の短い”お手軽な山”ですが、しかし、山頂直下は岩場で、階段や鎖場もありました。また、途中、北側の斜面をトラバースする道には雪が残っており、しかも、ところどころ凍結しているので、安全に歩くにはアイゼンが必要でした。人がやっとひとり通ることができるような狭い道なので、滑って転ぶと斜面を滑落する危険があります。

”お手軽な山”だけに、大山などと同じように、三峯神社を訪れた観光客がついでに登るケースが多いのか、三峯ビジターセンターでもしつこいくらい警告を発していますが、しかし、登山の装備をしていない軽装で妙法ヶ岳に登る人が後を絶たないのが現実のようです。ネットでも、途中ですれ違った軽装の登山者に注意したという話がいくつも出ていました。

ただ、軽装で妙法ヶ岳に登るのは、「ついでに登る」人だけではないようです。奥の院の祠に説明文がありましたが、奥の院の御朱印は、奥の院=妙法ヶ岳に登らないと貰えないそうです(どう証明するのか知らないけど)。そのため、御朱印マニアなどが無理して登っているのかも知れません。なんのことはない、危険な軽装登山には三峯神社が一枚かんでいたのです。無粋な話ですが、ビジターセンターは、危険な登山に警鐘を鳴らす前に、三峯神社にクレームを入れるべきでしょう。

山頂に登って、奥の院をカメラで撮影していたら、後ろから女性が登って来ました。登る途中は誰とも会いませんでしたし、ときどき後ろを見ても下から登ってくる人影はなかったので、なんだか突然現れた感じでびっくりしました。40代くらいの暗い感じの女性で、街でよく見る白っぽいコートに黒い革靴のようなものを履いていました。スニーカーですらないのです。そんな恰好でよくあの雪道を歩いて来たなと思いました。

私は、山では愛想がよくて、誰でも気さくに話しかけるのですが、女性はそんな私でさえ話しかけずらい雰囲気を漂わせていました。私は、お参りを済ますと、山頂から一段下がったところにあるベンチに腰を降ろして、行動食のチョコレートを食べながら、目の前に広がる奥秩父の山々を眺めました。女性は、祠の後ろに行ったのか姿が見えません。妄想癖のある私は、まさか身投げするんじゃないだろうなと思いました。しかし、どうでもいいやと思いました。30分くらい休憩して下りたのですが、その間、女性の姿は見えないままでした。

下る途中では、おじいさんと孫とおぼしき男性の二人組とすれ違いました。二人ともリュックも背負ておらず、木の枝を杖代わりに持っていました。足元を見ると、普通のスニーカーです。それで、私は、途中150メートルくらい雪道があり、スニーカーでは滑って危ないですよと言いました。また、山頂直下の岩場のことも話しました。でも、「そうですかぁ」「参ったなぁ」と言うだけで、そのまま登って行きました。

なんだか登山の恰好をしている自分がバカみたいに思えてきました。しかし、臆病な私には、彼らの安易さはとても考えられません。山で遭難すると、事情がわかってないネットの「バカと暇人」が、「税金を使って」「迷惑をかけて」という常套句を使って、遭難者に罵声を浴びせるのが常ですが、軽装で安易に山に登る人間と運悪く遭難した登山者を一緒にしないでくれと言いたいです。

もっとも世の中には、山だけでなく、下界でも理解に苦しむ人間は多いのです。朝、池袋駅で特急電車を待っていたときのことでした。西武の池袋駅では、特急電車だけホームが別になっており、私は、特急用のホームに設置されている待合室で、出発を待っていました。到着した特急電車からも、多くの通勤客が降りてきました。特急だと座席が指定され座って来ることができるため、埼玉の奥から通勤するのに特急電車を利用する人も多いのでしょう。

電車から降りた乗客は、待合室の前を通って改札口に向かうのですが、一部の客が待合室の自動ドアを開けて中に入って来るのです。そして、空いた椅子に座るとそのまま目を瞑ってい居眠り(?)を始めるのでした。それもひとりやふたりではありません。空いている椅子がすべて埋まるくらいやって来るのでした。みんな、椅子に座るや決まって目を瞑るのでした。

私は、なんだかとても奇妙な気がしました。早く会社に行けばいいのにと思いました。そして、わけもなく”気持の悪さ”を覚えてなりませんでした。サラリーマンの頃、池袋駅で乗り換える際、駅の通路にある本屋で立ち読みをしている人たちを見るたびに、朝っぱらから立ち読みしているこの人たちは一体何なんだろうと思っていましたが、それを思い出しました。

妙法ヶ岳から下りたあとは、せっかくなので三峯神社に参拝しました。社殿の鮮やかな色使いに、私は朝鮮や中国などの神社仏閣を連想しました。三峯神社に行くバスの中では、神社の謂れを日本語と英語と中国語で説明するテープが流れていましたが、しかし、新型コロナウイルスの影響なのか、中国人観光客は見事なほどひとりも乗っていませんでした(と言うか、外国人観光客はひとりも見かけなかった)。もし、中国人観光客が三峯神社の社殿の色使いを見たら、「なぁんだ、オレたちと同じじゃん」と思ったことでしょう。このように、三峯神社でも、”日本的なもの”が実は中国的であり朝鮮的であるということにあらためて思い至ったのでした。

お参りしたあと、境内の茶店でわらじカツ丼を食べました。同じわらじカツ丼でも、秩父駅のフードコートのものと違って美味でした。しかし、なぜか食欲がなくてやっとの思いで完食しました。このところずっと胃の調子が悪く、胃薬ばかり飲んでいるのですが、私は自他ともに認める大食漢で、今まで「やっとの思いで完食した」ような経験がなかったので、少なからずショックを受けました。

それにしても、秩父は遠いのでした。妙法ヶ岳から下りたのは午後1時すぎなのに、帰宅したのは午後8時をすぎていました。妙法ヶ岳から雲取山への縦走路の途中にある霧藻ヶ峰までは往復2時間弱で行けるので、余裕があれば足を延ばそうかと思っていたのですが、行かなくて正解でした。ちなみに、雲取山までは三峯神社から6時間くらいかかります。雲取山にも登りたいけど、現実的には三峯神社からの日帰りは難しいのでした。

帰りは、いつものように西武秩父から東飯能で八高線に乗り換え、八王子からさらに横浜線に乗り換えて帰ってきました。


※何度も恐縮ですが、サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

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駐車場
以前はロープウェイがありましたが(私はロープウェイが廃止になったことを知りませんでした)、今は1時間に1本のバスか車で来るしかありません。

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駐車場から見える奥秩父の山塊

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三峯ビジターセンター
写真に映っている人たちは、三峯神社に向かう人たちです。
妙法ヶ岳や雲取山に行くには、逆方向(手前)に進みます。

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三峯神社神領民家
三峯神社の神領の旧三峰村にあった民家を移築したもの。

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2000メートル級の山が連なる奥秩父の山塊
登山者あこがれの風景です。

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最初の鳥居
奥の院まで4つの鳥居をくぐらなければなりません。

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登山届投入箱

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軽装登山に対する警鐘

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ここから登山道に入ります。

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二つ目の鳥居

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妙法ヶ岳と雲取山方面の分岐
雲取山まで9.4キロ!

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ここが問題のトラバースの道

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三つ目の鳥居

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四つ目の鳥居

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山頂が近くなると、岩場に入ります。

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階段も始まります。

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注意書きがやたら多い。

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山頂直下の石段

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最後に鎖の付いた一枚岩を登ります。上から見たところ。

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奥の院(奥宮)の石祠

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白石山(その奥が雲取山)

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ここにもやむごとなき登山の痕跡が・・・・。

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いつかあの嶺を歩きたい。

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山頂直下の鎖場を下から見上げる。

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三峰神社の三ツ柱鳥居

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遥拝殿
正面にあるのが奥宮(妙法ヶ岳)
遥拝殿は、旧表参道を登り詰めたところにあります。

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遥拝殿から奥宮を遥拝する。
正面の突端が先程までいた妙法ヶ岳の山頂。

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三峯神社本殿

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西武秩父駅

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駅にある温浴施設・祭りの湯(宿泊も可)
9月27日から2月16日まで、露天風呂が「別府の湯」だそうです。でも、その仕組みがよくわからない。お湯を九州から運んで来るのか? それともバスクリンのようなものを入れるのか?
2020.02.12 Wed l l top ▲
武蔵小杉駅05:19~06:01立川駅06:12~07:30奥多摩駅07:38~07:44境橋バス停07:50~12:25御前山12:37~15:20境橋バス停15:35~15:45奥多摩駅

※登り3時間55分 下り2時間40分
※山行時間6時間35分
※標高差:1059m
※歩行距離11キロ
※歩数31,154歩

御前山(1405m)に行きました。奥多摩三山にこだわったわけではないのですが(奥多摩三山で、御前山だけ登ってなかった)、奥多摩でそれなりの標高があり、日帰りが可能な山を考えたら御前山しか浮かばなかったのです。

実は、昨日行く予定にしていました。夜、準備をして寝たのですが、何故か朝起きるのがおっくうになり、再び寝てしまったのです。

それで、今日に予定を変更したのでした。早朝5時前に家を出て、東横線の始発電車に乗りました。今回はいつもと違って、武蔵小杉から南武線に乗って立川経由で行くことにしました。

始発電車であるにもかかわらずホームには結構な人が電車を待っていました。武蔵小杉からの南武線も、8割くらい座席が埋まっていました。

立川からは青梅線に乗り換えて終点の奥多摩まで行きます。車内放送で、到着ホームの反対側から10分後に「奥多摩行き」が出発しますと案内していました。しかし、反対側のホームに停まっていたのは「青梅行き」でした。ただ、ホームの電光掲示板には、10分後の「奥多摩行き」も表示されています。でも、肝心の電車がどこにも停まっていません。「青梅行き」のあとに到着するのかと思いましたが、「青梅行き」はいっこうに出発する様子はなく、「奥多摩行き」の発車時刻がせまるばかりです。

なんだか狐に摘ままれたような感じで、私は焦りはじめました。それで、開店準備をしていた立ち食い蕎麦店の女性に、「このホームから奥多摩行きが出る予定なんですが、電車が停まってないんです。今、停まっているのは青梅行きですし、奥多摩行きはどこから出るんですかね?」と尋ねました。すると、女性は、「この電車が、途中で奥多摩行きに分かれるんじゃないですかね。そういうのがよくありますよ」と言うのです。そこで、私は、以前乗ったホリデー快速おくたま号を思い出したのでした。あのときも、拝島(だったか?)でおくたま号とあきかわ号に分離されたのです。私は、車両の行先表示を確認しながら、小走りでホームを移動しました。すると、途中から電車の表示が「奥多摩行き」に変っていたのでした。

奥多摩駅には思ったより早く着きました。当初、8時3分に駅に着いて、駅前から8時5分発のバスに乗る予定でしたが、電車が着いたのは7時15分でした。そして、駅前に出ると7時38分発のバスがあることがわかりました。既にバス停には、一般客に混ざって登山の恰好をした人が数人並んでいました。

これだったら、当初の予定より30分早く山に入ることができます。今の時期は日没が早く、自分の脚力では一抹の不安がありましたので、ありがたい誤算でした。

青梅街道を10分くらい走り、境橋という橋の真ん中にある停留所でバスを降りました。降りたのは、私だけでした。境橋は、前後をトンネルに挟まれており、橋の下はバンジージャンプにうってつけのような深い渓谷が広がっていました。あとで調べたら、橋の下を流れているのは、昨秋の台風19号で武蔵小杉のタワーマンションにブランド価値下落の深刻な被害をもたらした多摩川の上流でした。私は、登山用の地図アプリに従って、奥多摩駅方向のトンネルの手間から林道に入りました。

御前山は、小河内ダムからサス沢山・惣岳山経由で登り、今回の栃寄コースを下るのが一般的です。ただ、小河内ダムからのルートは急登で知られており、私にはヌカザス尾根のトラウマがありますので、今回はできるなら避けたいと思いました。それで、山行時間は長くなりますが、栃寄コースを登ってそのまま下ることにしました。それともうひとつは、北向きの栃寄コースは、まだ先日の雪が残っているようなので、雪道を歩きたいという気持もありました。

ただ、栃寄コースも台風19号の被害が残っており、沢沿いの登山道は未だ通行止めになっています。そのため、上の登山口まで1時間近く舗装された林道を歩かなければなりません。御前山の栃寄コースの多くは、「体験の森」という都民の森(こちらは奥多摩都民の森で、三頭山の方は檜原都民の森です)になっており、標高650メートルの栃寄の集落には宿泊施設があり、また御前山の中腹には散策コースが整備されています。ちなみに、「体験の森」のサイトを見ると、女性を対象にした初心者向けの登山講習や御前山登山、それにこの時期限定のスノーハイキングなどの催しも行われているようです。

境橋から「体験の森」の宿泊施設までは、奥多摩特有の九十九折の急坂が続きます。2.5キロくらいあり、歩いて40〜50分かかります。ちょうど出勤時間帯だったので、従業員が乗っているとおぼしき車が次々とうなり音を上げながら横を過ぎて行きました。雪が降ったり凍結したときは大変だろうなと思いました。

宿泊施設の手前と奥に駐車場があり、登山者の車も停めることができるようになっていましたが、1台も停まっていませんでした。駐車場まで車で来れば、1時間近く山行時間を短縮できるのです。それになりより、九十九折の林道をテクテク歩かなくてもいいので、体力も温存できます。

丹沢などでも、車だとかなり上の方まで行くことができますので、電車やバスを利用する人たちとは条件が違います。それで、塔の岳や丹沢山を何時間でピストンしたなどと言われても鼻白むばかりです。ヤマレコなどに巣食う自己顕示欲満載のコースタイム至上主義者は、このタイプが多いのです。

登山道に入ると、程なく雪道になりました。栃寄コースも急登とは無縁ではなく、斜度の大きい樹林帯を登って行かなければなりません。

途中の行きも帰りも、誰にも会いませんでした。山頂でひとり会っただけでした。文字通りの単独行で、聞こえて来るのは、ザクザクという雪を踏みしめる自分の靴の音だけでした。息を弾ませて登りながら、さまざまな思いが去来しました。私の場合、山に行くのは”自己処罰”のような一面もあります。なんだか懺悔しながら登っているような感じです。細い登山道の横は急斜面です。足を滑らせて下に落ちたらどうなるんだろうと思ったりしました。

一応、山岳保険には入っていますし、登山届もネットで提出していますが、家族がいないので、緊急連絡先は自分のメールアドレスにしています。ネットの登山届では、登山届を提出したときと下山したときに、緊急連絡先に自動的にメールが発信されるシステムになっていますので、友人や知人を緊急連絡先に指定すると、山に行くたびに「只今、登山届が提出されました」「只今、下山通知を確認しました」と連絡が行くことになります。それでは受ける方も迷惑でしょうし、それにいくら親しい間柄とは言え自分の行動がいちいち知られるのは、私の性分では耐えられません。

緊急連絡先が自分だと、山に行ったきり帰って来なくても「捜索願い」を出す人間がいないのです。これでは、登山届を出す意味がないような気がしないでもありません。捜索に入るのは、かなり時間が経ってからでしょうから、捜索と言っても遺体を収容するくらいでしょう。

ひとりで山に行くのはリスクが大きく、警察なども、ひとりで山に行くのはやめましょうと呼び掛けています。それでも、やっぱりひとりがいいなあと思います。誰にも会わないのは最高です。

2時間以上雪道を登ったので、さすがに疲れました。ホウホウの体で山頂に着いたら、中年の男性がひとりでベンチに座って昼食を食べていました。男性は、小河内ダムから登って来たそうで、やはり、誰にも会わなかったと言ってました。と言うことは、今日、御前山に登ったのは二人だけかもしれません。来るときのバスには他に数人の登山者が乗っていましたので、彼らは小河内ダムから御前山に登るのではないかと思っていたのですが、違ったみたいです。山頂で男性と話をしていたら、雪がチラつきはじめました。

男性も下りは栃寄コースを歩くそうですが、食事のあと片付けをしている男性に、「お先に」と言って山頂をあとにしました。下りもアイゼンのおかげでトラブルもなく歩くことができました。ただ、カチカチに凍結している箇所は、アイゼンの刃が刺さらないので慎重に歩きました。

境橋に着いてバスの時刻表を見たら、次のバスは10分後でした。登りと下りの林道が地味にきつかったけど、いつもの自分のペースで雪道を堪能することができました。暖かくなったら、今度は小河内ダムからも登ってみたいと思いました。

と今、写真を整理しようとしたら、カメラにメモリーカードが入ってないことに気付きました。メモリカードを外したまま入れるのを忘れていたのでした。いつものように200枚くらい撮りましたが(途中、電池交換するくらい撮った)、すべて無駄骨でした。そう言えば、メモリーカードがどうのという警告が出ていましたが、まったく気に留めることもなく撮影していました。なんというミスでしょう。そのため、今回は(証拠の?)写真がありません。
2020.02.04 Tue l l top ▲
新宿駅~立川駅~青梅駅~武蔵五日市駅8:58~9:58仲の平バス停10:00~11:50西原峠~12:18田和峠~12:48数馬峠~笹ヶタワノ峰13:07~13:30大羽根山~14:35浅間尾根登山口バス停

前回につづいて、三度(みたび)笹尾根に行きました。個人的な都合と天気のタイミングが合わずストレスがたまっていましたが、晴天ではないものの雨は降らないという予報でしたので、いつものように新宿から中央線に乗って武蔵五日市に向かいました。前の二回で歩けなかった部分を歩いて、笹尾根を繋ごうと考えたのです。

ただ、考えることは誰でも同じみたいで、武蔵五日市駅前の「数馬行き」のバス停には、100人以上のハイカーが行列を作っていました。そのため、定期便以外に2台の臨時バスが出ました。

私は、運よく2台目の先頭近くになりましたので、座ることができました。いつものことですが、今日も団体が多く、それが混乱に拍車をかけたようです。途中の登山口にあるバス停にも、前の便で来ていた団体のメンバーが後続組を待っており、どこもハイカーでいっぱいでした。11月に三頭山に行ったときは、平日だったということもあって、バスは満杯だったものの臨時バスが出ることはありませんでした。また、前回も、連休中でしたが、こんなにハイカーの姿はありませんでした。たぶん、明日の日曜日が雨の予報なので、土曜日に集中したということもあるのかも知れません。

団体は、言うまでもなく判を押したように中高年ばかりです。それにしても、おばさんたちのあのハイテンションはなんとかならないものかといつも思います。帰りの電車でも、武蔵五日市駅のホームは山から下りてきたハイカーであふれていましたが、武蔵五日市駅が始発駅だということもあって、電車が着くと、まだ降りている乗客がいるのも構わず、おばさんたちは列を無視して我先に電車に乗り込もうとするのでした。

また、電車の中でも煎餅を食べながら座席を跨いで大声でお喋りをするので、うるさくてなりませんでした。そのため、煎餅の醤油を焦がした匂いが電車の中に漂っていました。まるで小学生の遠足みたいでしたが、もっとも、小学生でも電車の中ではものを食べたらいけないと注意されるでしょう。傍目から見れば、年齢も近いので、私も同類項と見られていたかもしれません。そう思うと、同じ山に行く人間として恥ずかしくてなりませんでした。

行きのバスは、終点の「数馬」のひとつ手前の「仲の平」で降りました。「仲の平」は12月につづいて二度目です。そのときと同じように、「仲の平」のバス停から西原峠に登り、今度は槇寄山とは逆の東の方へ歩こうと思ったのでした。笹尾根の中では西原峠や槇寄山がいちばん標高が高いので、前回と違って今回は下りが基調で、拍子抜けするくらい楽に歩けました。

「仲の平」から西原峠までが唯一の登りでしたが、前回より早く着きました。相変わらず咳が残っていて体調は芳しくないので、自分でも意外でした。

各バス停に蝟集していた中高年ハイカーたちは、笹尾根ではなく、反対側の浅間尾根の方に向かったみたいで、笹尾根ではそれらしき団体と会うことはありませんでした。

「仲の平」のバス停にも30人くらいいましたが、笹尾根に向かったのは私も含めて2人だけでした。また、西原峠への登りで会ったのは、ソロのハイカー3人だけで、他に数馬峠で休憩していたら、6~7人の女性のグループが下から登ってきました。笹尾根を歩いている途中で会ったのは、やはりソロのハイカー2人とトレランのランナー3人だけでした。朝の混雑がウソのように、のんびりと冬枯れの山を満喫することができました。

笹尾根と言っても、笹があるのは一部にすぎません。その笹のあるところで、ハイカーとすれ違った際、「このあたりがいちばん笹尾根らしいですね」と言ったら、「はあ」みたいに怪訝な顔をされました。そんなことも考えずに山を歩いているのかと思いました。山を歩くスタイルが違うと言えばそう言えるのかもしれませんが、子どもの頃から山に親しんできた山国育ちの身には、その反応は信じられませんでした。コースタイムにこだわるだけだけなら、別に山に来なくても近所の河川敷を歩けばいいのです。

笹尾根は北側にあるので雪が残っているのではないかと思ったのですが、雪はほとんど消えていました。ただ、霜柱によって一部歩きにくいところがありました。また、下りでは、落ち葉がぬれていたので滑りやすく、何度もこけそうになりました。

数馬峠から20分くらい歩いた笹ヶタワノ峰の先に大羽根山に向かう下り道がありました。その道を通って浅間尾根登山口のバス停まで下りました。

ただ、下りの道は、前回の小棡峠のときと違って、森林保全に関心が高い中央区の森になっているため、踏み跡も明瞭で道標も至るところにあり、前回のように立ち止まって、GPSや紙地図で確認することもありませんでした。もしかしたら、前回と同じように踏み跡が不明瞭ではないかと思い、(予備がないと不安症候群なので)山と高原地図の地図アプリと国土地理院の地形図のGPS、併せてそれらの紙地図も持って行きましたが、まったく出番はありませんでした。また、雪が残っている場合を想定して8本爪のアイゼンも持って行きましたが、アイゼンも出番はありませんでした。

帰りのバスも臨時便が出たみたいで、2台つづいてやって来ました。朝ほどではありませんが、途中のバス停にも大勢のハイカーがバスを待っていました。

これで、笹尾根は一応区切りがついたので、しばらく行くことはないと思います。武蔵五日市駅も、しばらく行くことはないでしょう。

ただ、丹沢と比べると、奥多摩は魅力のある山が多いので、交通費がかかるけど(今日も5千円近くかかりました)、これからも奥多摩通いはつづくと思います。でも、週末は絶対に行かないと肝に銘じました。



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西原峠への道
山の上の方はガスがかかっています。

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西原峠

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今日は、槇寄山や三頭山とは反対側へ進みます。

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霜柱が残るぬれた道
靴やズボンが泥で汚れました。

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すれ違ったトレランのランナーの後ろ姿

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斜面にわずかに雪が残っているところがありました。

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笹尾根いちばんのビューポイント、数馬峠からの眺望

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笹のある道(笹ヶタワノ峰)

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ここから下ります。

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樹上の不思議な光景
逆光で見えにくのですが、熊棚のように見えなくもない。

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「シャッターポイント」と書かれた地点からの眺望

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大羽根山
下山コースのちょうど中間に当たります。下山コースは、「中央区の森」の中を通ります。

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大羽根山からの眺望

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白樺は、前回下った小棡峠からのルートの方が多かったです。

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「ぬた場」遠景

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「ぬた場」という、野生動物が集まる”ぬかるみ”がありました。「ぬた場」という呼び方は、初めて知りました。

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ネットで調べたら、狐の糞のようです。

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最後の急登(急坂)

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「中央区の森」の中には、炭焼き小屋を復元したものもありました。

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炭焼き小屋

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浅間尾根登山口バス停
2020.01.25 Sat l l top ▲
おととい(1月13日)の成人の日。再び奥多摩の笹尾根に行きました。これが今年最初の山行です。

いつものように、武蔵五日市駅から数馬行きのバスに乗りましたが、休日のダイヤは、6時18分が始発で、次が7時06分、その次が8時56分です。

新宿駅からだと快速に乗っても1時間半以上かかるため、7時06分のバスに乗るのは至難の業で、どうしてもそのあとの便にならざるを得ません。さらに、武蔵五日市駅から檜原街道沿いの登山口までは、近くて40分、奥の方に行けば1時間以上かかるため、山に入るのは10時近くになります。そういった時間的な制約が、笹尾根が人が少ない理由なのかも知れません。

今回も前回と同じ8時56分発(平日は9時発)のバスに乗りました。登山口の最寄りのバス停である上川乗(かみかわのり)に着いたのは9時半すぎでした。

連休ということもあって、出発時、五日市駅前のバス停には40人くらいの人たちが並んでいました。乗客の大半は登山の恰好をした人たちでした。

ただ、横の駐車場では、トレランの団体が何組か輪になってミーティングを行っていましたし、檜原街道では、峠越えのサイクリストたちも多く見かけました。トレランのランナーやサイクリストたちは、中高年が中心の登山者と比べて、みんな若いのでした。彼らから見れば、登山というのは、老人が支配し古い慣習や精神論や自己顕示欲にとらわれた面倒くさい世界なのかも知れません。何度も言いますが、あと10年もすれば老人たちは山に登れなくなるのです。私は、あらためて、旧態依然とした登山が時代から取り残されつつあるのを痛感させられた気がしました。

登山用品の専門店でアルバイトをしている女の子が言ってましたが、店のスタッフの中で山に登るのは彼女だけで、あとはカヤックやキャンプなど他のアウトドアが好きな人間ばかりだそうです。登山用品の専門店と言っても、実際はアウトドア全般に間口を広げていますので、登山に関する専門的な知識もそんなに必要ないのだとか。今や山登りは圧倒的に少数派なのです。

上川乗で降りたのは、私を含めて4人でした。私以外は3人の中高年男性のグループで、バスを降りると、道路の脇で大きな掛け声を上げて準備体操をしていました。私もバス停のベンチに座って身なりを整え、そのあとグループの横をすり抜けて登山口に向かいましたが、それでもまだ準備体操はつづいていました。やけに丁寧に体操をするんだなと思いました。その後、グループの姿を見ることはありませんでしたので、おそらく反対側の浅間嶺に登ったのでしょう。

バス停から登山口までは、檜原街道を左折して、上野原方面の都道33号線の坂道を登って行きます。分岐してすぐの南秋川橋を渡る際、舗道が凍結していて、歩くのに神経を使いました。

10分くらい歩くと、道路脇に退避場所のようなスペースがあり、数台車が止められていました。表示はありませんが、どうやら駐車場のようです。そして、その奥に登山道の入口がありました。

停められている車の中には、「杉並」や「世田谷」のナンバーもありました。見ると、それぞれの車のサイドミラーはカラーコーンと紐で結ばれていました。盗難防止なのか、それとも駐車許可の印なのか、不思議な光景でした。

余談ですが、そのまま都道を進むと甲武トンネルがあります。甲武トンネルは、笹尾根の下を通っている全長1キロ弱のトンネルです。甲武とは、律令制時代の旧国名の甲斐国(甲州)と武蔵国(武州)のことで、甲斐国は現在の山梨県で、武蔵国は現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部がそれに当たるそうです。

笹尾根は、東京(檜原村)と山梨(上野原市)の都県境にある尾根です。両国の住民たちは、昔は笹尾根を登り峠を越えて行き来していたのです。現在、私たちが登山の恰好をしてハアハア息を切らせながら登っている登山道は、昔人の生活道路だったのです。笹尾根の標高は800~900メートルで、尾根筋には1000メートルを越えるいくつかのピーク(山)が連なっています。そのため、何度か登り返しがあり、思った以上に体力を使います。

笹尾根は、広義には三頭山から高尾山までを言う場合もありますが、普通は槇寄山から今回登った浅間(せんげん)峠の間を指すそうです。距離は14キロで、コースタイムは5~6時間くらいです。

ただ、コースタイムには休憩の時間は含まれていませんので、途中で休憩したり、山を眺めたり、植物を観察したり、写真を撮ったりして、のんびり歩くともっと時間が必要になります。

私は、年明け早々風邪を引いて、まだ咳がつづいており、万全の体調とは言えませんでした。そのためもあって、前回の山行から20日も間が空いてしまい、1時間半あまりの登りも身体が重くていつになく息があがりました。そのあとの登り返しもきつくて何度も足が止まりました。ホントは、笛吹(うずしき)峠から大羽根山を通って浅間尾根登山口に下る予定でしたが、途中の小棡(こゆずり)峠で既に午後2時近くになりましたので、予定を変更して小棡峠から下りることにしました。

余談ですが、笹尾根に関連する地名には、小棡(こゆずり)・笛吹(うずしき)・人里(へんぽり)・扁杯(へはい)・六藤(むそうじ)など、読み方が難解なものが多いのも特徴です。

小棡峠から笛吹バス停までのルートはあまり使われてないようで、踏み跡も不明瞭なところが多く、特に落ち葉が積もった広い尾根ではルートがわからず、登山アプリのGPS、それに紙地図とコンパス(ほかに腕時計のコンパスも)を総動員して進む方向を探しました。山を歩く上で、いい勉強になりました。

小棡峠からのルートは道標が少ないので、ピンクリボンがあるとホッとしました。ただ、台風の影響なのか、吹き飛ばされたものも多いようで、斜面に埋まっているピンクリボンもありました。

休日にもかかわらず、山行中に会ったのは4人だけでした。3人は60代~70代の男性、もう一人は40代くらいの女性で、いづれもソロの人たちでした。笹尾根は三頭山の方から歩く人が多いのですが(そっちの方が標高差が小さくて、体力的には楽だそうです)、私は“逆コース”を歩いたので、会ったのは前方から来てすれ違った人だけでした。たぶん後ろからは誰も来てなかったと思います。

1時間半くらいで麓の集落に下りました。集落の中を歩いていたら、散歩をしている男性がいて、私に気付くと「上から下りて来たの?」と声をかけられました。

「はい、小棡峠から下りて来ました」
「エエッ、小棡峠? 歩きにくかったでしょ?」
「あまり人が歩いた形跡がなかったですね」
「そうだよ。小棡峠から下りて来る人はあまりいないよ」

小棡峠と笛吹峠からの道は麓の近くで合流するので、男性は笛吹峠から下りて来たものと思っていたようです。

時刻表を見ると、次のバスは1時間後でした。幸いにも屋根付きのバス停だったので、バス停の中で、山で食べずじまいだったおにぎりを食べたりして時間を潰しました。しかし、日が陰り寒くなりましたので、フリースの上にダウンのベストを着て、さらにその上にパーカーを羽織りました。

武蔵五日市駅に着くと、ホームには東京行きのホリデー快速あきかわ号が停車していました。しかし、反対側のホームに停まっていた拝島行きの電車の方が先に出発するというので、そっちに乗って、いつものように拝島から八王子行きの八高線に乗り換え、八王子からさらに横浜線に乗り換えて帰りました。休日なので、ずっと座って帰ることができました。

帰って確認したら、山行時間は5時間25分でした。


※サムネイル画像をクリックすると、拡大画像がご覧いただけます。

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上川乗バス停

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登山道入口

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登山道入口の斜面にへばりつくように古い家が建っていた。今は使われてない別荘なのか。

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浅間峠への登山道

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登る途中にあった祠

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傾斜のゆるい登山道だったけど、とにかく足が重く息があがりました。

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浅間峠

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浅間峠全景
登山道は旧生活道路なので、それぞれの峠からは山梨県(甲州)側に下りる道があります。

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次の日原峠に向けた尾根道

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同上

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同上

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先の小さなピークが日原峠

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日原峠の道標

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土俵岳への登り返し

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土俵岳

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次は小棡峠に向かいます。

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同上

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同上

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小棡峠

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小棡峠から下ります。

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斜面には5~10センチくらい落ち葉が積もっていました。

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登山道がかろうじてわかる程度です。

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こういう道標があるとホッとします。

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道なのか雨で抉られた跡なのか、わからないところもありました。

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踏み跡が不明瞭な広い尾根は、先端に行くと大概下り口があります。左右の斜面は要注意。

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笛吹バス停
檜原街道の奥の方に行くと、このように屋根付きのバス停が多いので助かります。
2020.01.15 Wed l l top ▲
年が変わるのをきっかけにして、ブログとは別に「山行記録」を残すべくメモを整理しています。まだ20座ちょっとなので、今のうちに整理しておこうと思ったのでした。

山に行くようになって、山行を記録する大切さを知りました。山に登るのもひとつの旅ですので、”旅の思い出”を残すということもありますが、それ以外に次回の山行の参考にするという目的もあります。自分の上達度を知る上でも、「山行記録」は非常に役に立つのです。

最初はメモを残すことはしていませんでした。しかし、山に行くまでの電車やバスの時間などを前もってメモしておく必要があり、小さなメモ帳を買ってそれに書いていました。すると、途中のポイントまでの時間をメモするようになりました。そうするうちに、さらに、休憩中に気が付いたことを書くようになったのでした。

ただ、普通のメモ帳なので、サコッシュから出し入れするうちに、表紙がボロボロになりました。また、汗がかかると紙がヨレヨレになったり、文字が滲んだりしました。

他にいいメモ帳はないかとネットで検索していたら、登山する人たちの間で「測量野帳」という測量用のメモ帳を使っていることを知りました。コクヨのそれは「隠れたベストセラー」だそうです。私も早速、ロフトに行って「測量野帳」を買いました。

山行の際は、スマホの登山アプリにダウンロードした地図を使っていますので、メモもスマホにすればいいようなものです。ただ、山行中に気が付いたことなどをメモするとなると、やはり紙に書いた方が手っ取り早くてしっくりするのでした。

飛行機や電車を使った旅だと、そこまでメモに残すということはありませんが、登山だとどうしてメモを取るのか(取ろうとするのか)。それは、やはり、自分の足で歩くということが大きいのだと思います。山に登るというのは、ルートの設定などの計画から当日の行動まで、すべて自分で立案し自分で実行しなければなりません。山に登っていると、息を切らして苦しい思いをすることもありますし、足が痛くてつらい思いをすることもあります。また、日没や道間違いで怖い思いをすることさえあります。

そのように、飛行機や電車の「おまかせの旅」とは違って、登山というのは全てのリスクを自分で背負わなければならないのです。それは、きわめて即自的で「身体的」な行為でもあるのです。私たちは息を切らせて山に登ることで、みずからの内にある「身体的」=原初的なものと向き合っているとも言えるのです。それは、とても新鮮で刺激的な体験です。

前も書きましたが、山の中では、自分を大きく見せるために虚勢を張る必要もなければ、狡猾に計算高く振舞ったり、卑屈になって他人の目ばかり気にする必要もないのです。自然に対して謙虚な自分がいるだけです。だから、山に行くと、浮世の憂さを忘れ「空っぽになれる」のでしょう。
2020.01.01 Wed l l top ▲
今年最後の山はどこに行こうかと迷いましたが、まだ足に不安があるので、時間的に余裕のある山をのんびりと歩きたいと思い、日の出山にしました。日の出山は、名前のとおり、東京の奥多摩の日の出町にある山です。すぐ隣には御岳山(青梅市)があります。

日の出山へのバスも、先週と同じ武蔵五日市駅から出ています。先週の槇寄山は2番のりばでしたが、今日は3番のりばでした。

新宿駅から6時26分発の中央特快高尾行に乗り、途中の立川で五日市線に乗り換え、武蔵五日市に着いたのが7時半すぎでした。それから、8時5分発の「つるつる温泉」行きのバスに乗って、約20分で終点のひとつ手前の「日の出山登山口」に着きました。ちなみに、終点の「つるつる温泉」と「日の出山登山口」は、歩いて数分の距離しかありません。

駅からは7~8人乗客はいましたが、いづれも途中で降りて、最後までバスに乗っていたのは、私を含めて2人だけでした。もうひとりは、終点のつるつる温泉の従業員とおぼしき初老の女性でした。

日の出山の登山ルートは、いくつかありますが、代表的なのは御岳山から登ってくるルートです。日の出山(902メートル)は、御岳山(929メートル)より低いので、御岳山からだと下りがメインで、1時間くらいで来ることができるそうです。もっとも、御岳山自体も、ケーブルカーを利用すれば、登山という感じではありません。むしろ、ロックガーデンを訪れるには、遊歩道から下に下りなければならないのです。

日の出山を紹介するサイトに、「ケーブルカーを使ってハイキング」と書いていましたので、日の出山にもケーブルカーがあるのかと思いましたが、それは御岳山のケーブルカーのことでした。

日の出山は、都心方面の見晴らしがいいので、初日の出を見る人たちが多数訪れるそうです。おそらくそれも、御岳山経由で来る人が多いのでしょう。

私が選んだのは、直下の「日の出山登山口」から登るルートでした。登りは2時間、下りは1時間半でした。

他にもいくつかルートがありますが、山頂にいると、三室山方面から登ってくる人たちも結構いました。三室山のルートも、途中でつるつる温泉に下りることができるみたいですが、多くは尾根を歩いた先にある奥多摩線の日向和田駅や二俣尾駅から登って来ているのでしょう。また、御岳山から来て、三室山の方に下る人たちもいました。

私も、三室山に下ろうかと思ったのですが、やはり、最初に決めたルートを歩くのが山行の鉄則だという、三頭山で言われたことばを思い出し、当初の計画通り「日の出山登山口」に下りました。

日の出山は、山頂直下の600段以上あると言われる“階段地獄”を除けば、拍子抜けするくらい登りやすい山でした。登りもゆるやかで、“階段地獄”以外息が上がることもありませんでした。今日は、「後半で差を付ける」アミノバイタルを忘れずに飲みましたが、後半の“階段地獄”にはまったく効果はありませんでした。

おとといだったか、関東の内陸部に雪の予報がありましたが、日の出山にも雪が降ったみたいで、山頂やその手前の登山道にはまだ雪が残っていました。僅かな距離ですが雪の中を歩かなければなりませんでした。特に、下りのときは滑るので気を使いました。

山頂に行ったら、東屋のベンチを70代くらいの男性が占領していて、まだ時間は午前10時すぎなのに昼食なのか、テーブルの上でお湯を沸かして弁当を食べながらインスタントのみそ汁を飲んでいました。

見るからに偏屈そうで、「こんにちわ」と挨拶してもギョロと睨み返すだけで返事もしません。頂上には数人の先客がいましたが、彼らは下の雪が積もってないベンチを見つけて座っていました。あきらかに東屋を避けている感じです。

そうするうちに、あとから登ってきたソロの女性が老人の真向かいに座って、ザックをテーブルの上に置いたのです。すると、老人は「テーブルなんだからザックは下に置けよ」と吐き捨てるような言い方で注意したのです。そもそも東屋に来たのが気に入らない感じでした。女性は、びっくりした様子で、あわててザックを手に取ると下のベンチに移動しました。他の人たちが、東屋を避けて下のベンチに座っているのは、そういうことだったのかと合点が行きました。

一方で、男性は、山頂にみそ汁の匂いを漂わせながら、持参した携帯ラジオを大きなボリュームでかけているのです。ラジオからはNHKのニュースが流れていました。

私も、最近は堪え性がなくなり、「キレる老人」になりつつありますので、それを見たら我慢できず、すかさず男性の方に向かって行って男性の目の前に立つと、「お前のラジオこそ迷惑だろ」「消せよ」と言いました。

思わぬ展開に男性はあたふたした様子で、それからほどなく荷物を畳むとそそくさと下山して行きました。下山したあと、近くのベンチに座っていた男性が、「このあたりは、ああいった我が物顔の人が多いんですよ」と言ってました。

カメラで山頂標識を撮っていたら、雪で覆われた方位盤の台座に「皇太子殿下浩宮様 平成二十四年一月十三日御登頂 ここより皇居を望む」と銘文が貼られているのに気付きました。横には、「平成二十四年一月十三日御登頂」という木柱も立てられていました。「ここより皇居を望む」とは、まるで日本武尊のようです。この時代にわざわざそんな大仰な言い方をするかと思いました。

下記の「皇太子・登山一覧」で調べると、2012年1月13日に御岳山経由で登っていることがわかりました。御岳山からのルートが整備されているのはそのためかもしれません。もしかしたら、方位盤も来ることがわかってあわてて設置したのかもしれません。

新天皇は、皇太子時代に170以上の山を登ったそうで、日本山岳会の会員(特別会員)でもあります。「皇太子・登山一覧」を見ると、北アルプスのリスクの大きい山を除いて、主だった山は総なめという感じで、山登りが趣味だったのは間違いないでしょう。

皇太子・登山一覧
http://seiyou.ehoh.net/seiyou/+yama.htm

そう言えば、先週行った笹尾根も、笹尾根から三頭山に登ったそうで、檜原街道にある蛇の湯温泉には、浩宮様が入った風呂というのがありました。おそらく笹尾根に登った際、入ったに違いありません。

でも、”やむごとなき登山”は我々の登山とは違います。単独行なんて夢のまた夢です。まわりの人間たちは、「すごい体力をお持ちで」と決まり文句のように持ち上げますが、一方で、お付きのおっさんたちのためか、10分おきに休憩していたという話もあります。

下のkojitaken氏のブログは秀逸で、私も愛読しているのですが、皇太子の登山に関して次のような記事がありました。

kojitakenの日記
新天皇・徳仁と山小屋

各地にあると言われる「プリンスルート」については、『裏声で歌へ君が代』(丸谷才一)ではありませんが(小説の内容とはまったく関係ありませんが)、ベテラン登山者の間でひそひそ話として語られていたのを私も知っています。

前に紹介した『週刊ダイヤモンド』の「山の経済学」が書いているように、国立公園であるにもかかわらず、登山道の整備などにはほとんど予算が割かれず、民間のボランティア任せになっている「お寒い現状」があるのですが、もちろん、”やむごとなき登山”は別なのです。トイレも見違えるようにきれいになるそうです。言うなれば、私たち下々の登山者は、そのおこぼれに与っていたようなものです。しかし、これからはおこぼれに与ることもできないのです。ホントに山が好きだったみたいなので、やむごとなき家に生まれた宿命とは言え、かわいそうな気がしないでもありません。

思い出のアルバムをめくりながら、あるいは、皇居の木々を眺めながら、在りし日の山行に思いを馳せ、しんみりした気持になることはあるのだろうか。下々の人間はそんなことを想像するのでした。

また、天皇の「四大行幸啓」のひとつである全国植樹祭についても、次のような鋭い指摘がありました。

同上
「植樹祭」は悪質な自然破壊だ

笹尾根にはそれらしき形跡は残っていませんでしたが、三頭山へは別に都民の森からも登っていますので、都民の森の立派な森林館や三頭山の整備された登山道も、”やむごとなき登山”と関係があるのかなと思いました。

帰りにつるつる温泉に寄ろうかと思っていましたが、下山したらちょうど武蔵五日市駅行きのバスが来たので、寄らずに帰りました。

来たのは、機関車トーマスのような観光用のバスで、ワンマンではなく車掌が乗車し、昔のようにマイクで次の停留所の案内をしていました。でも、中に乗っているのは、山帰りの小汚いおっさんとおばさんで、なんだかみんなバツが悪そうでした。途中から乗ってきたおっさんは、テン泊でもしたのか、異様に大きいザックを背負っていたのですが、そのザックが通路の角にひっかかって前に進めず、足が空回りしていました。何度やっても同じなのに、性懲りもなく何度もくり返しているのです。まるでドリフのギャグのようで、私は、思わず吹き出しそうになりました。

武蔵五日市からは、先週とまったく同じルートを乗り継いで帰りました。途中、電車が遅れたので、最寄り駅に着いたのは午後4時近くになりました。

夕飯のおかずを買うために、いつも行く駅前のスーパーに寄ったら、入口を入ったすぐのところに特設コーナーが設けられて、サンタの衣装を着た若い女の子たちが、「ケーキいかがですか!」「チキンはいかがですか!」と大きな声を上げながら、ケーキやローストチキンなどを売っていました。「そうか、今日はイブだったな」と一瞬思いましたが、そのまま通りすぎて、いつもの総菜売り場に向かいました。


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下にも雪が残っていました。

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目印にもなっている有名な(?)オブジェ

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同上

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登山道は真ん中の階段から登って行きます。

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関東近辺の神社や山ではおなじみの日本武尊!
それにしても、顎をかけた岩って・・・・。なんでもありです。

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馬頭観音もおなじみ

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途中からの眺望

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いい感じの尾根道

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登山道にも雪

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山頂直下の石段

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山頂からの眺望

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方位盤の台座

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下山時、”階段地獄”を振り返る

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これも

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これも

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一ケ所だけ路肩が崩落したところがありました。

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苔むした路傍の石仏
2019.12.24 Tue l l top ▲
昨日(月)、奥多摩の槇寄山(まきよせやま)に登りました。槇寄山は、檜原村にあり、先月登った三頭山の下山ルートによく使われる山です。

武蔵五日市駅前のバス停から、三頭山に登ったときと同じ路線のバスに乗りました。ただ、三頭山の登山口がある都民の村への直通バスは、12月~3月(休日は12月~2月)まで冬季運休しているため、都民の森の手前にある「数馬」行のバスに乗りました。

先月三頭山に登ったときは、バスは満員で座れない人もいたくらいでしたが、昨日は駅から乗ったのは数人でした。しかも他の乗客は途中の檜原村役場までで全員降りたので、それから先は乗客は私ひとりでした。

武蔵五日市駅から1時間20分バスに乗り、終点のひとつ手前の「仲の平」というバス停で降りました。既に時間は午前10時をまわっています。新宿からは3時間半かかりました。

「仲の平」のひとつ手前には、「数馬温泉センター」というバス停があります。「数馬温泉センター」の前にある数馬の湯は、食事処なども併設された温泉施設で、三頭山から槇寄山を縦走して数馬に下りる人たちの多くは、下山後に数馬の湯で汗を流すのが目的なのでした。尚、「数馬」「仲の平」「数馬温泉センター」のバス停は、それぞれ歩いて数分の非常に近い距離にあります。

槇寄山は、標高1188メートルで、笹尾根という尾根にあるピークのひとつです。笹尾根は、丹沢の表尾根ほど有名ではありませんが、奥多摩を代表する尾根のひとつで、最終的には高尾山まで(距離にして33キロ)つづいています。私が先月、下山に使ったヌカザス尾根とはちょうど反対の南側にあります。笹尾根は、ヌカザス尾根のような急登はなく、平坦で歩きやすいので、ハイキングに使う人たちも多いそうです。今は亡き田部井淳子さんが、笹尾根を好んで歩いたという話はよく知られています。

槇寄山には2時間弱で登りました。難所もなく、初心者向けのハイキングにはうってつけの山だと思いました。途中、樹林の間から三頭山や大岳山を見ることもできました。

登りも下りも誰にも会いませんでした。ただ、山頂で休憩していたら、ソロのハイカー二人が登ってきました。

槇寄山は、笹尾根の通過点のような扱いなので、山頂手前の西原峠にある道標には槇寄山の表示がなく、どっちに行っていいのかわからず戸惑いました。結局、三頭山と表示された方向に5分歩くと山頂に着きましたが、そういったところもぞんざいな扱いになっているのがよくわかります。

でも、山頂に行くと、「おおっ」と思わず声を上げました。眺望を確保するために木を伐採したのか、富士山の方角の南側が拓けており、丹沢の山々の背後に聳える富士山の雄大な姿が目に飛び込んできたのでした。冠雪した富士の嶺は、奥多摩の山の風景の中に、ひときわその存在感を放っていました。私は、ここは穴場だなと思いました。

山頂には、テーブルが二つあるきりです。山頂標識も、槇寄山の文字が消えかかった古い木の柱があるだけです。

ベンチに座って行動食で持ってきたチョコレートを食べていたら、40代くらいの男性が登って来ました。見ると、トレランの恰好をしています。

「トレランですか?」
「はい、一応、そうです」
「走って登ってきたのですか?」
「いや、登りはさすがに走れなかったです」

聞けば、三多摩地区の某市に住んでおり、最初はマラソンをしていたのだそうです。

「最初は都心の方に向かって走っていたんですよ。でも、それに飽きたので、山の方に向かって走っていたら、いつの間にか山の中に入るようになったんです(笑)」
「なんだか、マンガみたいな話ですね(笑)」
「そうなんです。マンガみたいな話ですよ(笑)」

マラソン歴は長いけど、トレランはまだ1年くらいだと言ってました。ただ、体形は見るからにアスリート向きの細い身体をしています。体脂肪率は11パーセントだそうで、体脂肪率23パーセントの人間から見れば驚異の体形です。

「すごいですね!」
「いや、トレランをする人は、体脂肪率が一桁の人が多いですよ。私も一桁が目標なんですが、これが限界なのか、なかなか一桁にならないんですよ」
「食事制限などはしているんですか?」
「いや、全然」

運動をしている人に「食事制限」は愚問だったかなと思いました。

彼もまた、単独行が好きなタイプの人間で、トレランの同好会などの雰囲気が好きではなく、彼らとは距離を置いているそうです。

前にレースに出場した際、下り坂で顔から転倒して大けがをしたので、それ以来、下りに対する恐怖心を払拭することができないでいるという話から、山での歩き方などの話になって、結局2時間近く話し込みました。単独行が好きな者同士で波長が合ったのかもしれません。

山に行っているうちに、登りの際、身体が(特に上下に)ブレるとひどく疲れることがわかりました。マラソン中継の解説でも、身体のブレや揺れがどうのという話が出てきますが、登山も同じなのだと思います。

山から帰った夜、テレビで「帰れマンデー」という旅番組を観ていたら、マラソンの高橋尚子がゲストで出ていましたが、彼女は山道を歩くシーンで、手を後ろに組んで歩いていました。そうやって身体がブレるのを防いているのでしょう。山に登るときも、前で腕を組んだりしますが、あれも同じで、姿勢を保ち身体がブレるのを防ぐという意味もあるのだと思います。

山では、「徐々に体重(重心)移動しろ」と言われますが、一方で、「腰で歩け」とも言われます。腰を使うというのが、体重(重心)移動のポイントのように思います。

私は、岩や階段に片足を乗せた際、次の動作に移るのに心持ちワンテンポ遅らせるようにしています。そして、腰を使って下の足(軸足)から上の足へ体重(重心)を移動するのです。そうやってひとつひとつの動作を、意識して行うように心がけています。登山というのは、2万5千歩から多いときは3万5千歩くらい歩くので(しかも足への負担が半端ない山道を歩くので)、一歩一歩の違いが大きな違いになって表れるのです。

若い頃に無茶をして膝を痛めると、膝のキズは一生残ることになります。よく言われますが、関節は筋肉などと違って鍛えることはできないのです。それが関節とほかの部位との根本的な違いです。

山に行くと、(若い人に多いのですが)ドカドカドカと力まかせな歩き方で追い抜いて行く人たちがいますが、そんな人たちは、やがて膝を痛めて山に来れなくなる可能性が高いでしょう。彼らは、歩行技術などどこ吹く風で自己流で山に登っているのでしょうが、もったいないなといつも思うのでした。

姿勢が大事だというのも同じことです。「体幹を使って歩く」という言い方をする人もいますが、頭が下がり前かがみになって歩くと、どうしても膝に負担がかかってしまいます。オーバーな言い方をすれば、体重や歩行の衝撃を膝で支えるような恰好になるからです。頭を上げ背筋を延ばして正しい姿勢で歩けば、身体の軸(体幹)で身体を支えるようになるので、その分膝の負担が軽減されるのです。

また、以前『山と渓谷』の膝痛に関する記事の中で、体重(重心)を受ける足の膝は、伸ばした方が膝の負担が軽くて済むとカイロプラクターの方が言ってましたが、考えてみればその方が理に叶っているように思います。普通、下りでは、膝を曲げ膝をクッションにして歩けと言われますが、階段など段差の大きなところでは、着地したらなるべく膝を伸ばして軸足からの体重(重心)移動を受けるというのも、大事なポイントのように思います。

記事の中でカイロプロテクターの方は、山登りで重要なのは筋力よりバランス感覚だとも言ってました。ベテランの登山ガイドの方なども、よくそう言います。中高年に転落・滑落事故が多いのは、年齢とともにバランス感覚が衰えるからだそうです。スクワットをして膝を痛めるより、バランスボールなどを使ってバランス感覚を養った方がいいと言われますが、たしかにそうかも知れません。

私自身、若気の至りで膝に古キズがあり、しかも、長身で猫背なので、自分の歩き方と照らし合わせるとよくわかるのでした。

そんなことを話していたら、三頭山の方からやはり40代くらいの女性が登って来ました。聞けば、ヌカザス尾根から三頭山に登り、これから私たちと同じ「仲の平」へ下山するのだとか。

三頭山から槇寄山に来たのは、「笹尾根をつなぎたかったから」と言ってました。今まで二回に分けて高尾山まで歩いているので、今回で笹尾根の縦走が完結するのだそうです。「今年中に完結したいと思っていたのでよかったです」と言ってました。

私が、ヌカザス尾根を下った話をしたら、「エエッ、あれを下りたんですか? 登っていたとき、これは下りの方が大変そうだなと思いましたよ」と言ってました。

彼女は、奥多摩湖から三頭山の山頂まで4時間かかったそうです。今日は三頭山の山頂には誰もいなくて、ヌカザス尾根でもすれ違ったのはひとりだけだったとか。

彼女もまた、単独行が好きなんだなと思いました。おこがましいですが、私は、加藤文太郎の『単独行』を読むと、ひとりで山に行く勇気のようなものを貰います。同じように、こうやってソロで山にやって来ている人たちと話をすると、共感するところが多いのでした。

私は、あらためてひとりがいいなあと思いました。そして、最後はこうしてひとりで死んでいくんだろうなと思いました。

二人がそれぞれ下山したあと、私は、しばらくひとりで山頂に残り、それから下山しました。1時間ちょっとで「仲の平」のバス停に戻りました。

しかし、次のバスまで45分くらい時間があります。「仲の平」のバス停にはベンチしかないので、隣の「数馬温泉センター」まで歩きました。数馬の湯は定休日でしたが、前には屋根付きの立派なバス停がありましたので、そこで食べ残したおにぎりを食べて、バスを待ちました。

武蔵五日市駅に戻って来たのは、夕方の6時すぎでした。それからJR五日市線に乗って、いつものように拝島で八高線、八王子で横浜線、菊名で東横線に乗り換えて帰りました。最寄り駅に着いたときは、午後8時半をまわっていました。

時間の短いお手軽な山行でしたので、足の調子も良くて、いいリハビリになりました。


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武蔵五日市駅 ※スマホで撮影

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駅前のバス停。誰もいない。※スマホで撮影

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「仲の平」バス停

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西原峠

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槇寄山の山頂標識。文字が消えかかっていて読み取れない。

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山頂の様子

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数馬の湯
2019.12.17 Tue l l top ▲
一昨日(金)、東丹沢の仏果山(ぶっかさん)に登りました。仏果山は、神奈川県の清川村と愛川町の境界にあり、宮ヶ瀬ダム沿いに主要な登山口があります。

朝7時15分、新宿発の小田急ロマンスカーに乗り、本厚木で下車。本厚木からバスに乗って、約30分で「仏果山登山口」のバス停に着きました。今回は初めてなので、「仏果山登山口」からのいちばんわかりやすいルートで登ることにしました。ネットで調べたとおり、バス停のすぐ後ろに登山口の階段がありました。