
■3年ぶりの浅間峠
前に山に行く準備をして寝ろうした矢先、友人から電話があり、深夜まで話し込んだので山行きを中止したという話を書きましたが、今、調べたら、2週間前の今月5日のことでした。
以来、準備をして布団に入るものの、結局眠れずに朝起きることができないということをずっとくり返していました。
山に行くためには、4時すぎに起床して5時すぎの電車に乗らなければなりません。薬箱を見たら「睡眠改善剤」というのがあったので、それを飲んで床に入っても、頭がボーッとして今にも眠れそうになるのですが、しかし、眠れないのです。睡魔に襲われるけど眠れないという感じで、文字通りベットの上でもがき苦しむばかりでした。
昔の嫌なことや悲しいことが頭に浮かんで来て、森鴎外ではないですが、「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」(夜中に突然起きて座り、ただ黙って泣きじゃくる)ようなことをくり返していたのでした。
不思議なもので、翌日が雨だったり土日だったりすると(土日は山に行かないので)、目覚ましをかけていなくても4時頃に電気のスイッチが入るみたいにパチッと目が覚めるのでした。
目が覚めないというのは、それだけ山に行くモチベーションが下がっているということでもあります。しばらく行かないと心理的なハードルも高くなるのです。
で、昨日のことですが、いつものように山に行く準備をして寝たら(と言っても、この2週間準備をした状態をそのままにしているだけですが)、どうしたのか午前3時に目が覚めたのです。
それでラッキーと思って、ザックを背負って駅に向かい、午前5時すぎの電車に乗りました。ブログには書いていませんが、前回の山行が昨年の11月25日でしたから、約5ヵ月ぶりです。
いつものように武蔵小杉駅で南武線に乗り換えて、さらに立川駅で武蔵五日市直通の電車に乗り換え、武蔵五日市駅に着いたのが午前7時すぎでした。そして、駅前から7時20分発の数馬行きのバスに乗りました。通勤客以外に武蔵五日市駅から乗ったハイカーは、4名でした。また、途中の払沢の滝入口のバス停から2名のハイカーが乗ってきました。払沢の滝の駐車場に車を置いて、先の方から浅間嶺に登って払沢の滝に下りるハイカーです。
檜原街道には多くのバス停から笹尾根や浅間嶺の登山口があり、私も大概のバス停を利用したことがありますが、途中、登山口のないバス停でハイカーが降りると「おおっ」と思うのでした。バスの中のハイカーたちも、(勝手な想像ですが)「どこに行くんだ?」と心の中がざわついているような気がするのでした。みんな、バスが走りはじめると、山中の停留所に降りたハイカーに視線を送っているのがわかります。そういったデンジャラスなハイカーは、奥多摩では尊敬と羨望の眼差しで見られる空気があるのです。
昨日行ったのは、2020年の1月と同じコースです。上川乗(かみかわのり)から浅間峠に向けて登り、浅間峠から笹尾根を三頭山の方に歩いて、日原(ひばら)峠から檜原街道に下る計画です。
前回は日原峠の先の小棡(こゆずり)峠から下りたのですが、膝が痛くて下山に時間がかかるのでその手前から下りることにしました。
上川乗のバス停に着いたのは8時すぎでした。そこから南秋川に架かった橋を渡って甲武信トンネルの方に進み、トンネルの手前から登ります。今回のコースはちょうど甲武信トンネルの上を横断するような恰好になります。
この川乗というのは、奥多摩の特産品であった川で採れる”のり”(食べるのり)のことです。海で採れる”のり”は「海苔」と書きますが、川で採れる”のり”は、奥多摩では「川苔」または「川乗」と書きます(一般的には「川海苔」と書くようです)。そのため、川苔山は川乗山とも書き、山名としてはどちらも正しいのでした。九州には川のりはないのか、私は川で採れる”のり”があるというのは、奥多摩の山に登るようになって初めて知りました。
既出の『奥多摩風土記』では、「川のり」について、次のように書かれています。
川のりは海藻の海苔(のり)に似ていますが、冷涼な渓流の燧岩系の岩石に主として生育する緑藻です。海のりより鮮やかな緑色をした香気高い嗜好品で、初夏から秋にかけて採取します。生育条件が限られていて現在のところ養殖の方法がなく、狭い範囲の自然採取だけですから、一般的な土産品とするほどの数量は得られません。
上川乗のひとつ手前には下川乗というバス停もありますが、昔は街道に沿って流れる南秋川で川苔が採れたのでしょう。
登るときは膝の痛みはさほどなく、ただ息があがるだけです。まともな山行から遠ざかっているので体力の衰えは半端ではなく、完全に最初に戻った感じです。山に行くモチベーションが下がっているのもそれが原因かもしれません。
それ以上に精神的にしんどいのが下りです。膝の痛みが出るので辛くてならず、通常より倍以上の時間がかかるのです。そのため、前より早い時間に下山しなければならないし、距離が長いと身体的にも時間的にもやっかいなことになりかねないので、短い距離の道を歩くしかないのでした。
上川乗から浅間峠に登るのは、下りだけ使ったことも入れると、これで三度目です。笹尾根は山梨と東京(主に檜原村)の県境にある尾根で、私たちが歩いている登山道は、地域の人たちが山仕事に使った道であるとともに、甲州と武州の村人たちの交易路でもあったのです。そのため、檜原街道のバス停からそれぞれの峠に向けて道が刻まれているのでした。また峠の上からは山梨(上野原市)側にも同じような道があります。また、笹尾根の上にはそれらを結ぶ縦走路が走っています。文字通り自然にできたトレイルなのです。
前も書きましたが、1909年、田部重治と木暮理太郎が笹尾根を歩いたのですが、山田哲哉氏は、笹尾根を「日本初の縦走路」と書いていました。その際、二人は浅間峠のあたりで野営したそうです。そして、私のブログでもおなじみの三頭山の手前の西原(さいばら)峠まで歩いているのでした。
今までも何度も書いていますが、笹尾根は特に眺望がいいわけではないし、途中、アップダウンも多くて結構疲れるのですが、私は笹尾根が持つ山の雰囲気が好きです。普段でも人は多くないのですが、特に人が途絶える冬の笹尾根が好きです。冬枯れの山の森閑とした風景は、田舎の山を思い出すのでした。
笹尾根は山の形状から最初の登りがきつくて峠に近づくと登りが緩やかになります。もちろん、下山時はその逆になります。
九十九折の道がやっと終えた地点で、ふと足元を見ると、地面に「トヤド浅間」と書かれた小さな手作りの標識があるのに気付きました。「トヤド浅間」へは登山道は通ってないのですが、奥多摩の熟達者の間では知る人ぞ知るピークで、私もずっと気になっていました。
しばらく立ち止まって、かすかな踏み跡が続く「トヤド浅間」への登りを見ていたら、浅間峠の方から一人のハイカーが下りて来ました。もう山で人に話しかけるのはやめようと思っていたのですが、いつものくせでまた話しかけてしまいました。
「この『トヤド浅間』へ行ったことはあります?」
「いやあ、ないですね」
「そうですか、気になってはいるんですけどね。でも道がわかりにくと聞いているのでどんなものかなと思いましてね」
その50代くらいのハイカーは上野原市に住んでいて反対側から登ってきたそうです。しかも一旦 上川乗まで下りてまた登り返して来ると言っていました。トレーニングをしているようです。それから膝を痛めた話などをしました。「じゃあ、またどこかで」と言って別れるのもいつもの決まり文句なのでした。
浅間峠には1時間50分くらいかかりました。前回が1時間35分くらいです。途中、休憩しましたので、それを入れるとほぼ同じかなと思いますが、ただ足を止める回数などは前回と比べようもありません。
浅間峠でしばらく休憩してから日原峠に進みました。こんなにアップダウンがあったかなと思うほど、結構な傾斜の上り下りが続きました。アップダウンが続くのが笹尾根の縦走路の特徴です。
日原峠までは1時間近くかかりましたが、途中ですれ違ったのは一人だけでした。
■ハセツネカップ
笹尾根の縦走路は、ハセツネカップという歴史のあるトレランの大会が開かれることで知られています。去年の10月にも開催されたのですが、しかし、登山道を2千名のランナーが走ることで表土の剥離や崩落の問題が指摘されています。しかも、笹尾根は国立公園内にありますので、普段山を管理する人たちからも問題が指摘され、環境庁も指導に乗り出すという話がありました。
私もこのブログで次のように書きました。
(略)東京都山岳連盟が実質的に主催し笹尾根をメインコースとするハセツネカップ(日本山岳耐久レース)が、今年も10月9日・10日に開かれましたが、ハセツネカップに関して、国立公園における自然保護の観点から、今年を限りに大会のあり方を見直す方向だ、というようなニュースがありました。
私から言えば、ハセツネカップこそ自然破壊の最たるものです。大会の趣旨には、長谷川恒男の偉業を讃えると謳っていますが、トレランの大会が長谷川恒男と何の関係があるのか、さっぱりわかりません。趣旨を読んでもこじつけとしか思えません。
笹尾根のコース上には、至るところにハセツネカップの案内板が設置されていますが、それはむしろ長谷川恒男の偉業に泥を塗るものと言えるでしょう。それこそ「山が好きだ」というのとは真逆にある、YouTubeの軽薄な登山と同じです。
丹沢の山などが地質の問題も相俟ってよく議論になっていますが、登山者が多く訪れる人気の山には、登山者の踏圧によって透水性が低下し表土が流出することで、表面浸食がさらに進むという、看過できない問題があります。ましてや、2000名のランナーがタイムを競って駆けて行くのは、登山者の踏圧どころではないでしょう。ランナーたちが脇目も振らずに駆けて行くそのトレイルは、昔、武州と甲州の人々が行き来するために利用してきた、記憶の積層とも言える古道なのです。
東京都山岳連盟は、「この、かけがえのない奥多摩の自然を護り育むことは、私どもに課せられた責務である」(大会サイトより)という建前を掲げながら、その問題に見て見ぬふりをして大会を運営してきたのです。都岳連の輝かしい歴史を担ってきたと自負する古参の会員たちも、何ら問題を提起することなく、参加料一人22000円(一般)を徴収する連盟の一大イベントに手弁当で協力してきたのです。
ちなみに、コースの下の同じ国立公園内に建設予定の産廃処理施設も、都岳連と似たような主張を掲げています。これほどの貧すれば鈍する光景はないでしょう。
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登山をめぐる貧すれば鈍する光景
実際に歩いてみると、剥離して土がむき出しになっている部分がかなりありました。笹尾根の土壌は黒い粘土質のものなので、剥離してむき出しになると踏圧で深く削られたり雨が降ると崩落したりすることになるのです。
■日原峠
日原峠からの道はあまり歩かれてないみたいですが、最初はゆるやかで快適でした。膝にも優しく、それほど痛みも出ませんでした。40分くらい下ると林道に出ました。林道は地図にありません。戸惑いつつ方向を確認していると、林道の横から下に延びている踏み跡がありました。標識も何もないのですが、どうやらそれが登山道のようです。
そして、そこから笹尾根の特徴の九十九折が現われるのでした。道幅も狭いし、倒木もそのまま放置されたままだし、しかも、長雨の影響なのでしょう、途中、道が崩れたところが何箇所かありました。膝への負担も増し痛みも出て来て、益々時間がかかっしまいてました。
森の中で倒木に腰かけて休憩し、その際、買ったまま食べてなかった卵サンドイッチを食べたのですが、それが悪かったのか、以後、吐き気も催してきて、まるで閻魔様から仕打ちを受けているような気持になりました。
ほうほうの態で下山口に辿り着きました。日原峠からちょうど2時間かかりました。古い橋を渡って石段を登ると、檜原街道に出ました。人家もないところで、ガードレールの間から人が現れたので、車で通りかかった人たちは、怪訝な目で私を見ていました。バスが通りかかったたら、中のハイカーたちから「おおっ」と思われたかもしれません。
5分くらい歩くと、下和田というバス停がありました。初めて利用するバス停でした。バス停に着いたのが14時ちょっとすぎで、次の武蔵五日市駅行きのバスまで1時間近く待ちました。
■産廃処理施設と「顔の見えすぎる民主主義」
檜原村は、ちょうど村長選挙と村議会選挙の真っ最中で、バスを待っていると、ひっきりなしに候補者の名前を点呼する選挙カーが通り過ぎて行きます。道が狭いからでしょう、ほとんどが軽の車でした。窓から手を出している候補者は、私の姿を見つけると一瞬手を上げそうになるのですが、恰好で村の人間ではないことがわかると上げかけた手をもとに戻すのでした。それが滑稽でした。
檜原村には産廃施設の建設が計画されていたのですが、統一地方選の直前、業者が計画を取り下げるというニュースがありました。
東京新聞 TOKYO Web
檜原村の産廃焼却場計画が白紙に 事業者が取り下げ願、東京都が受理
私もこのブログで計画のことを書いていますが、「白紙」になったのは慶賀すべきことです。しかし、その裏にはまだ予断を許さない政治的思惑が伏在しているという見方もあります。人口2千人の村の地縁・血縁を逆手に取った「顔の見えすぎる民主主義」のためにも、村長選と村議会選の結果が注目されるのでした。
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檜原村の産廃施設計画
バスには5~6人のハイカーが乗っていました。ところが、朝、私が降りた上川乗にさしかかると、バス停に20名近くの団体客が待っているのが目に入りました。私は思わず「最低」と口に出して席を移動しました。大半はおばさんハイカーでした。あとから来たおばさんを「こっち、こっち」と手招きして、バス待ちの列に平気で割り込ませる、武蔵五日市駅前でおなじみのおばさんたちでした。
一方で、これも前に書いた記憶がありますが、西東京バスの運転手の応対は非常に丁寧且つ親切で、日頃横浜市営バスに乗っている横浜市民は感動すら覚えるほどです。
朝のバスには、途中のバス停から払沢の滝入口のバス停の近くにある小中学校まで通学する子どもたちが乗るのですが、その際もバス停や周辺の道路には揃いのジャンパーを着て小旗を持った地域の人たちが子どもたちの安全を見守っていますし、村の駐在所の巡査も必ず近くの横断歩道で交通整理をしています。また、朝のバスには村の診療所がある「やすらぎの里」を迂回する便もあるのですが、そのバスに乗って来る高齢者に対しても、バスの運転手は乗り合わせた人間の心まで温かくなるような親切な応対をするのでした。
私も田舎の出なので、田舎で生活することのうっとうしさもわかっているつもりですが、そこには400年間どことも合併しなかった小さな村で試みられようとしている、「顔が見えすぎる民主主義」の発想の原点があるような気がしました。
武蔵五日市駅からは、来たときと同じように、立川で南武線に乗り換えて武蔵小杉、武蔵小杉から東横線で帰りました。ちょうど夕方のラッシュに遭遇しましたが、私はほとんど寝ていました。最寄り駅に着いたのは18時すぎでした。
帰ってスマホの歩数を見たら、15.3キロ23000歩になっていました。スマホも登山アプリも距離は正確ではありませんが、山自体を歩いたのは、8~9キロで17000歩くらいだと思います。歩く速さ(時速)は、普段は4.4~4.5k/1hですが(膝を痛める前は4.7k/1hだった)、今日は3.4h/1hになっていました(これも参考程度の数値です)。山で会ったのは二人だけでした。
※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

上川乗バス停



北秋川橋

登山口


登山道が崩落したみたいで、以前にはなかった橋

この祠のところで最初の休憩


トヤド浅間の案内板

浅間峠



昔の生活道路だったので至るところに祠や石仏







日原峠の石像

ハセツネカップの道標

案内板も古いまま

崩落した跡





階段から林道に下りてきた

林道から左に入る


北秋川に架かる橋


下和田バス停