24447.jpg
著作者:starline/出典:Freepik)


■パンデミックがもたらした大きな変化


今回のパンデミックでいろんなものが変わったのはたしかでしょう。後世になれば、そのひとつひとつが「歴史の証言」として記録されるに違いありません。

キャッシュレス化がいっきに進んだとか、マイナンバーカードのような個人情報の管理がいっそう進んだとか、ウクライナ戦争とそれに伴う世界の分断と経済の危機が益々顕著になったとか、そういったことが記録されるのかもしれません。

と同時に、パンデミックは個人の生き方にもさまざまな変化をもたらしたのですが、そういった私的な事柄は記録されることはないのです。ただ、その時代を特徴付ける風潮や価値観として語られることはあるでしょう。

私の年上の知り合いで阪神大震災のとき、兵庫県西宮市に住んでいて被災した人がいました。家族で会社の社宅に住んでいたのですが、幸いにも社宅の倒壊は免れたものの、地震が収まったので外に出たら、外の風景が一変していて、思わずその場にへたり込みそうになったそうです。「考えてみろよ。目の前の風景が昨日までとはまったく違っているんだぞ。それを見て何もかも終わったと思ったよ」と言っていました。

彼が勤めていた会社は一部上場の大手企業で、既に年収も1千万円を超えていたそうですが、その翌年、会社を辞めて故郷に帰り、自分で小さな商売を始めたのでした。彼は、もし震災に遭わなかったら、会社を辞めてなかったかもしれないと言っていました。

「お前もそうかもしれないけど、俺たちは子どもの頃からお金より大事なものがあると教えられてきた。震災によってその言葉を思い出したんだ。仕事ばかりしていたので、もっと家族との時間も持ちたかったし、親も年を取ってきたので、親の傍にいることが親孝行になるんじゃないかと思ったんだ。そういうことがお金より大事なことだということに気付いたんだよ」

今回のパンデミックでも同じように思った人は多いのではないでしょうか。

私の知っている職場でも、パンデミックのあと、次々と人が辞めて人手不足で困っていると言っていました。その職場は公的な仕事を行なう非営利団体で、職員たちも公務員に準じた身分保障を与えられ、当然ながら定着率が非常にいい職場でした。ところが、パンデミックを経て辞めていく職員が続出しているのだそうです。私の知ってる元職員は、地方に移住して農業をやるつもりだと言っていました。故郷に帰った人間も何人もいます。

どうしてこれほど退職者が出ているのかと言えば、その団体がパンデミックに際して、COVID‑19に感染した生活困窮者をケアする仕事をしていたからです。中には充分なケアができずに亡くなった人も多く、職員たちが精神的なストレスを抱えることもあったようです。職員たちが目にしたのは、文字通り惨状と言ってもいいような光景だったのです。実際に精神的にきついと口にする元職員もいました。

戦争や自然災害においては、直接の被害者だけでなく、被害者をサポートした人たちもPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症するケースがあると言われますが、それと似たような話なのかもしれません。

■あるブログの閉鎖


私がここ数年愛読していたあるブログがありました。それは10年以上前から書き継がれていたブログで、山行(登山)を主なテーマにしていました。ブログ主は中年の女性で、初心者のときから徐々にステップアップして、北アルプスを縦走するまでになり、そして、再び奥多摩や奥武蔵(埼玉)の山に戻って、自分のペースで山歩きを楽しむ様子が綴られていました。

やがて、そんな日常に、地方に住む母親の遠距離介護がはじまるのでした。それでも、介護と仕事の合間に近辺の山に通っていました。実家に帰った際も、時間を見つけて故郷の山に登ったりしていたのでした。

ところが、そこにパンデミックがはじまったのです。実家で一人暮らしする母親を何としてでもコロナウイルスから守らなければならない、というような書き込みもありました。

遠距離介護は続いていましたが、おのずと山からは遠ざかっていきました。それまで月に2~3回は山に行っていましたが、半年に1回行くかどうかまでになり、そして、とうとう今年の春にブログも閉じてしまったのでした。山に行くのが生き甲斐みたいな生活でしたので、閉鎖すると聞いてショックでしたが、パンデミックによって山より大事なものがあることに気付いたのでしょう。

そんなに細かくチェックしているわけではありませんが、いわゆる登山系のユーチューバーの中でも、更新を停止する人がこのところ多くなっています。公式に停止を表明する人もいるし、停止したまま放置する人もいます。

更新を停止する理由を見ると、身内の不幸や転職や離婚などがあげられています。もちろん、配信料のシステムが変わり収入が減ったということもあるのかもしれませんが、ただ、もしパンデミックがなかったら、登山までやめるという決断はなかったのではないかと思ったりもするのです。人生の転機においても、パンデミックによって、それがより大きなものになったり切実なものになったということはあるのではないでしょうか。

■”お気楽な時代”の終わり


こんな言い方は誤解を招くかもしれませんが、何だか“お気楽な時代”は終わった、という気がしないでもありません。

パンデミックによって、ある日突然、感染したり命を落としたりすることが他人ひと事ではなくなり、自分の生活や生き方を見直すきっかけになったということはあるのではないか。入院もできずに自宅で一人苦しみながら死を迎える人の姿はたしかにショックでした。日本は先進国で豊かな国だとか言われていますが、これが先進国の国民の姿なのかと思いました。訪問して来た医者が、「どこか入院できるように手を尽くしたけど受け入れ先がないんですよ。ごめんなさい。申し訳ない」と患者に告げているのを見ながら、どこが先進国なんだと怒りを禁じ得ませんでした。

ちょうど2年前に、私は、このブログで次のように書きました。

昨日の昼間、窓際に立って、ぼんやりと表の通りを眺めていたときでした。舗道の上を夫婦とおぼしき高齢の男女が歩いていました。買物にでも行くのか、やや腰が曲がった二人は、おぼつかない足取りで一歩一歩をたしかめるようにゆっくりと歩いていました。特に、お婆さんの方がしんどいみたいで、数メートル歩いては立ち止まって息を整え、そして、また歩き出すということをくり返していました。

お婆さんが立ち止まるたびに、先を行くお爺さんも立ち止まってお婆さんの方を振り返り、お婆さんが再び歩き出すのを待っているのでした。

私は、そんな二人を見ていたら、なんだか胸にこみ上げてくるものがありました。二人はそうやって励まし合い、支え合いながら、コロナ禍の中を必死で生きているのでしょう。

関連記事:
『ペスト』とコロナ後の世界


まだこの先も感染拡大が起きる可能性はありますが、私は、個人的にこのパンデミックをよく生き延びることができたなと思っています。私自身が、受け入れ先もなく、一人で苦しみながら息を引き取ることだってあり得たかもしれないのです。感染もせずに何とか生き延びたのは、たまたま運がよかったにすぎないのです。

余談ですが、先日、横浜市に、姉妹都市であるウクライナのキーウから副市長らが訪れた際、横浜市長が「復興に役立てて貰いたい」として、コンテナを繋ぎ合わせて、その中にCTなどの医療機器や入院用のベットを設置することで、応急的な治療施設ができるシステムを紹介した、というニュースをテレビでやっていました。私はそれを観ながら、じゃあどうしてパンデミックのときにそれやらなかったんだ?と思いました。そんな応急的な施設があったなら、受け入れ先もなく適切な治療も受けずに亡くなった人たちの何人かは助かることができたでしょう。市民よりウクライナの方が大事なのか、と言ったら言いすぎになるでしょうが、何だか割り切れない気持になりました。

たしかに、パンデミックを経て、多くの人々はみずからの人権より給付金を貰うことを優先するような考えに囚われるようになったのは事実です。今の異次元の少子化対策もそうですが、わずかな給付金のために、国家にみずからの自由を差し出すことに何のためらいもなくなったように思います。ただ、その一方で、目先のお金よりもっと大事なものがある、といった考えに立ち戻った人々もいるのです。そういった価値の”分断”も、はじまったような気がしてなりません。
2023.05.22 Mon l 日常・その他 l top ▲
DSC_0062~2


昨夜も山に行こうと準備万端整え、目覚ましをセットして寝ようと思ったその矢先、スマホの着信が鳴りました。

九州の高校時代の同級生からでした。そして、“男の長電話”で延々2時間近く昔話をするはめになり、電話を切って時計を見たら午前2時近くになっていました。

山に行くには遅くとも午前4時過ぎに起きる必要があります。これから寝たのでは起きられないでしょうし、もともと寝つけが悪い人間なので、寝るチャンスを逃すとすぐには眠れないのです。それに、眠らなければと思うとよけい眠れなくなるという面倒臭い癖も人一倍あります。

で、結局、また山行きはあきらめて、今、このブログを書いている次第です。

■寺山修司


昨日も散歩に行って1万歩以上歩きました。最近は散歩に行くのが唯一の楽しみのようになりました。

いつものように鶴見川の土手を歩きました。日曜日で天気もよかったので、土手の上は散歩やジョギングする人たちの姿が多くありました。

新横浜の日産スタジアムの近くまで歩いて、そこから引き返しました。山に行く予定だったので軽めにして、歩いた距離は7キロくらいでした。

途中、川の近くまで下りて、コンクリートの護岸の上でコンビニで買って来たおにぎりを食べて、しばらくまったりとしました。近くではテントを張って昼寝している人もいました。

また、叢の上に座って川を眺めている女性もいました。「山に行く人」というのは、その服装や雰囲気で何となくわかるのですが、私もその女性を見たとき、「山に行く人」ではないかと思いました。帰るとき、足元を見たら、案の定、トレッキングシューズを履いていました。足慣らしを兼ねて散歩していたのでしょう。

川にはいろんな水鳥が生息していることを知りました。水面をスイスイ泳いでいる鳥もいれば、一か所に留まってときどき水の中に半身を潜らせている鳥もいるし、川岸で羽根を休めている鳥もいました。そんな光景を眺めていたら、「ああ、春だったんだな」とどこかで聞いたことがあるような台詞が浮かびました。

年を取ると、春という季節が遠く感じるようになります。春のイメージで抱くような出会いや別れとは無縁になるからでしょう。あのわくわく心踊らせながら、それでいてどことなくせつなくもの哀しい春が持つイメージから、いつの間にか疎外されている自分を感じるようになりました。

昔、大田区の大森の町工場で、旋盤工として働きながらルポルタージュを書いていた小関智弘氏の本が好きでよく読んでいたのですが、その中で『春は鉄までが匂った』(ちくま文庫)というタイトルの本がありました。なんてロマンティックな響きなんだろう、タイトル自体がまるでひとつの歌のようだと思いました。でも、そういった感覚も遠いものになってしまいました。

自分の青春を考えるとき、寺山修司の歌を抜きにすることはできません。あの頃は何かにつけ寺山修司の歌集を開いていました。その歌集がどこかに行って見つけることができなかったのですが、当時好きだったのは次のような歌です。


吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず

マッチ擦るつかのまの海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや

きみのいる刑務所の塀に自転車を横向きにしてすこし憩えり

アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり 母は故郷の田を打ちていむ


私も二十歳はたちのとき、寺山修司と同じように長い入院生活を送ったのですが、(これも既出ですが)そのときに寺山修司を真似て次のような歌を詠みました。


裏山で縊死せし女のベットには白きマリア像転がりてをり

帰るべき家持たぬ孤老の足音今宵も聞こへり 盂蘭盆さみし

小さき花愛でてかなしき名も知らねば 君の肩に降る六月の雨

熱ありて咳やまぬなり大暑の日 友の手紙封切らぬまま


でも、もうこういった拙い感受性とも無縁になりました。いくら川面を眺めても言葉は浮かんできません。それどころか、最近は日常で使う言葉さえ忘れるくらいです。

■『人生の視える場所』


また、若い頃、岡井隆の『人生の視える場所』(思潮社)という歌集も好きでした。『人生の視える場所』は、先日、たまたま本棚の上から落ちてきたので、今、手元にあるのですが、その中で私が〇印をつけているのは、次のような歌です。尚、奥付を見ると、「1982年8月1日初版」となっていました。


を下げてパンをげてしわれさきへやとがるこころをもてあましをり

つきあたりてけがれては抜けてゆく迷宮のごと一日はりぬ

独り寝るさむき五月の夜の闇に枝寄せてゐる風音きこゆ


先程、色あせた『人生の視える場所』をめくっていたら、次のような歌が目に止まりました。


晩年をつねくらめたるわれを思ふしかもしづかに生きのびて来ぬ


もちろん、若い頃の「人生の視える場所」と今の「人生の視える場所」はまったく違うものです。

昨夜の電話の相手の同級生も東京の大学に通っていたのですが、休みで帰省した折に、私が入院していた病院に見舞いに来たときの話になりました。

ベットの横で話をしていたら、掃除のおばさんがたまたま病室にやって来たのですが、同級生はおばさんの顔を見るなり、立ち上がって「あっ、こんにちわ」と挨拶したのでした。おばさんも「○○君!」とびっくりした様子でした。そのおばさんは、小学校のときの担任の先生の奥さんだったそうです。先生が若くして亡くなり寡婦となったので、生活のために掃除婦をしているんだろうと言っていました。「ちょっとショックだけどな」と言っていましたが、同級生はそのときの話を未だにするのでした。


関連記事:
ロマンティックという感覚
2023.04.10 Mon l 日常・その他 l top ▲
IMG_0002.jpg
(20代の頃)

この季節になると、いろんなところから定番のクリスマスソングが流れてきます。

仕事で渋谷に日参していた頃は、駅前のスクランブル交差点を囲うように設置されている電光掲示板から流れていたのは、山下達郎の「クリスマス・イブ」、稲垣潤一の「クリスマスキャロルの頃には」、ジョン・レノン&ヨーコ・オノ「ハッピー・クリスマス」などでした。それからクリスマスソングではないですが、TRFの「寒い夜だから」もよく流れていました。

その後、渋谷に行くこともなくなり、クリスマスとも無縁になってしまい、街中でクリスマスソングを聴くこともなくなりました。むしろ、ここ数年のクリスマスは、山に行って山の中を一人で歩いていたくらいです。

クリスマスと無縁になると、街を歩いていてもそういった年末の華やかなイベントから疎外されている自分を感じていましたが、最近は疎外感さえ感じることがなくなりました。

そんな中、スマホでラジコを聞いていたら、BOAの「メリクリ」が流れて来て、何だかわけもなく私の心の中に染み入ってきたのでした。もちろん、「メリクリ」が発売されたのは2004年の12月ですので、私が渋谷に日参していた頃よりずっとあとです。だから、渋谷の駅前の電光掲示板から流れていたのを聴いたわけではありません。

でも、何故か、BOAの歌声が、当時の私の心情をよみがえらせてくれるようなところがありました。

BOAメリクリ

「メリクリ」とはそぐわない話かも知れませんが、人生は断念の果てにあるのだ、ということをしみじみ感じてなりません。私たちはそんな切ない思い出を抱えて最後の日々を生きていくしかないのです。老いるというのは残酷なものです。

今日の朝日新聞に評論家の川本三郎氏が「思い出して生きること」という記事を寄稿していました。

朝日新聞デジタル
(寄稿)思い出して生きること 評論家・川本三郎

川本三郎氏と言えば、『朝日ジャーナル』の記者時代、取材で知り合った京浜安保共闘の活動家が起こした朝霞自衛官殺害事件を思い出します。川本氏は、事件に連座して、証拠隠滅罪で逮捕・起訴されて朝日新聞を懲戒免職になりました。その体験は、のちに『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という本で書かれていますが、朝日を辞めたあとは小説や映画や旅や散歩などとテーマにした文章を書いて、フリーで仕事をしていました。私は、『マイ・バック・ページ』以後は、永井荷風について書かれた文章などをときどき雑誌で読む程度でした。

その川本氏も既に78歳だそうです。朝日を退社したあと、当時美大生だった奥さんと結婚したのですが、その7歳年下の奥さんも2008年に癌で亡くなり、現在は荷風と同じように一人暮らしをしているそうです。「悲しみや寂しさは消えることはないが、もう慣れた」と書いていました。

そして、柳宗悦の「悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる」(「妹の死」)という言葉を引いて、次のように書いていました。

 悲しみや寂しさを無理に振り払うことはないのだと思う。

 家内の死のあと、保険会社の女性に言われたことがある。

 一般的に夫に死なれた妻は長生きするが、妻に先立たれた夫は長く持たない、と。だから、長生き出来ないと覚悟した。

 それでもこの14年間なんとか一人で生きている。悲しみや寂しさと共にあったからではないかと思っている。


記事では、家事が苦手なので外食ばかりしていたら、ある日、酒の席で倒れて病院に運ばれ、医者から「栄養失調です」と告げられてショックを受けたとか、おしゃれすることもなくなり洋服はもっぱらユニクロと無印良品で済ませているとか、猫が好きだったけどもう猫を飼うこともできなくなった、というようなことが書かれていました。

そして、記事は次のような文章で終わっていました。

 「私は生きることより思い出すことのほうが好きだ。結局は同じことなのだけれど」

 フェリーニ監督の遺作「ボイス・オブ・ムーン」(90年)の中の印象に残る言葉だが、年を取ることの良さのひとつは、「思い出」が増えることだろうか。

 ベルイマン監督「野いちご」(57年)の主人公は、いまの私と同じ78歳の老人だったが、最後、一日の旅のあと眠りにつくとき、若い頃のことを思い出しながら心を穏やかにした。

 78歳になるいま、私も入眠儀式として、亡き家内とともに猫たちと一緒に暮らしたあの穏やかな日々を思い出している。思い出は老いの身の宝物である。


川本氏がどうして、京浜安保共闘の革命戦争にシンパシーを抱いたのか、私の記憶も定かではありませんが、『マイ・バック・ページ』でもそのことは明確に書いてなかったように思います(もう一度確認しようと本棚を探したのですが、『マイ・バック・ページ』は見つかりませんでした)。言うまでもなく、京浜安保共闘は、のちに赤軍派と連合赤軍を結成して、群馬の山岳ベースでの同志殺し(連合赤軍事件)へと暴走し、日本の新左翼運動に大きな(と言うか致命的な)汚点を残したのでした。

当時、革命戦争を声高に叫んでいた新左翼の思想について、既出の『対論 1968』(集英社新書)の中で、笠井潔氏は、「“革命戦争”とは、本土決戦を日和って生き延びることで繁栄を謳歌おうかするにいたった戦後社会を破壊することだった」「本土決戦を日和って延命した親たちに、革命戦争を対置したわけです」と言っていました。

川本三郎氏の場合、取材の過程で事件に巻き込まれて、心ならずも手を貸してしまったというのが真相なのかもしれません。ただ、その一方で、「本土決戦を日和って延命した親たち」に対置した革命戦争の思想に対して、どこか”引け目”を感じていたのではないか、と思ったりもするのです。だったら、世代的にはまったくあとの世代である私にもわかるのでした。

『対論 1968』でけちょんけちょんに批判されていた白井聡氏は、『永続敗戦論』の中で、(既出ですが)本土決戦を回避した無条件降伏について、次のような歴史学者の河原宏氏の言葉を紹介していました。

日本人が国民的に体験しこそなったのは、各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。
(『日本人の「戦争」──古典と死生の間で』講談社学術文庫)
※『永続敗戦論』より孫引き


「近衛上奏文」に示されたような「革命より敗戦がまし」という無条件降伏の欺瞞。その上に築かれた虚妄の戦後民主主義。

新左翼の若者たちは、そういった戦後の「平和と民主主義」に革命戦争=暴力を対置することで、無条件降伏の欺瞞性を私たちに突き付けたのです。当時、新左翼党派の幹部であった笠井氏は、「暴力は戦術有効性ではなく、ある意味で思想や倫理の問題として受け止められた」と言っていましたが、新左翼の暴力があれほど私たちに衝撃を与えたのも、そういった暴力に内在したエートスによって、“引け目”や”負い目”を抱いたからではないか(“引け目”や”負い目”を強いられたからではないか)と思います。

でも、年を取ると、革命に対するシンパシーも切ない恋愛も一緒くたになって、「悲しみや寂しさ」をもたらすものになっていくのです。

1971年の大衆蜂起(渋谷暴動)の現場になった渋谷の駅前では、20年後、私たちは電光掲示板から流れるクリスマスソングをBGMにして、恋人と手を取り合ってデートに向かっていたのでした。あるいは、輸入雑貨の会社に勤めていた私は、人混みをかき分けて最後の追い込みに入ったクリスマスカードの納品に先を急いでいたのでした。先行世代が提示した革命戦争の「思想や倫理」は、欠片も残っていませんでした。私は、自分の仕事と恋愛のことで頭がいっぱいでした。

最近、ふと、倒れるまでどこまでも歩いて、「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」と日記に書いた森鴎外のように、山の中で人知れずめいっぱい泣きたい、と思うことがあります。年甲斐もなく、しかも、突然に、BOAの「メリクリ」にしんみりとしたのも、そんな心情と関係があるのかもしれません。最後に残るのは、やはり、「悲しみや寂しさ」の思い出だけなのです。
2022.12.22 Thu l 日常・その他 l top ▲
先日、新宿三丁目駅で副都心線に乗ろうとしたら、突然、後ろにいたおばあさんから「これは新丸子に行きますか?」と訊かれました。それで、「はい、行きますよ」と言ったら、おばあさんも私の後につづいて電車に乗ってきました。見ると、80歳近くになろうかというかなり高齢のおばあさんでした。

ちょうどシルバーシートがある乗車口だったのですが、シルバーシートは初老のおっさんやおばさんとスマホ中毒の若者に占領されていました。休日になるとこれに子ども連れのファミリーが加わるのですが、いづれも電車の座席に座ることが人生の目的のような人たちです。

私とおばあさんは、ドアを間にして向い合せに立ったのですが、おばあさんはドアの横の手すりに身を持たせるように立っていました。そして、心許ない手付きでショルダーバックから手帳を取り出すと、それを読み始めたのでした。私は最初、文庫本かなと思ったのですが、文庫本ではなく同じサイズくらいの手帳でした。

電車が揺れるので、手すりにしがみつくように掴まり如何にも読みにくそうにしながら、上体を折り曲げるようにして読んでいました。

なんだろうと思って手帳を目をやると、人体のようなイラストがあり、その下にびっしり文字が書き込まれていました。ただ、私の距離では何が書いているのか判別できませんでした。

東横線に乗り入れている新副都心線は、新宿三丁目の先の北参道や原宿・表参道で降りる客が多くていっきに車内が空くのですが、やはり、北参道をすぎるとシルバーシートに空きができました。しかし、おばあさんは座ろうとせず、相変わらず手帳に目をやっているだけです。

これは決してオーバーではなく、私は今まで、あんな高齢者が電車でずっと立っている姿を見たことがありません。あり得ないとさえ思いました。しかも、原宿・表参道の先は渋谷なので、また電車の座席に座ることが人生の目的のような人たちが目を血走らせて乗ってきます。

私は、おっせかいかなと思いつつも、「うしろの座席が空きましたよ」と言いました。しかし、おばあさんは「ありがとうございます」と言って座ろうとしません。そのうち電車は渋谷駅に着きました。案の定、ニワトリのように首をキョロキョロさせ目を血走らせた人々が乗り込んでくると、座席はあっという間に埋まってしまいました。

新宿三丁目から乗ったのは各駅停車だったのですが、各駅停車は渋谷までで、渋谷から先の東横線内は急行になりますという車内放送がありました。となれば、新丸子は急行は停まらないので、自由が丘で各駅停車に乗り換えなければなりません。

私はおばあさんに近づいて、「渋谷から急行になりますので、自由が丘で各駅に乗り換えてください。新丸子は急行は停まりませんので」と言いました。おばあさんは、半分きょとんとした感じでしたが、「はあ、そうですか。ありがとうございます」と言ってました。

しかし、不安なのかそれから反対側のドアの上にある路線図にしきりに目をやっていました。そして、電車が次の中目黒駅に着く寸前でした。突然、おばあさんは私に向って「どうもご親切にしていただいてありがとうございました」と言って頭を下げ、ドアの方に身体を向けて見るからに降りる体勢を取ったのでした。

私はあわてておばあさんに近づいて、肩を叩きながら、「次は中目黒ですよ」「ここで乗り換えてもいいけど、自由が丘まで行けばホームの反対側に各駅停車が停まってますので、自由が丘で乗り換えた方がいいですよ」と言いました。そして、おばあさんが不安に思っているようなので、「私も自由が丘で乗り換えますので大丈夫ですよ」と付け足しました。

そうするうちに、電車は中目黒駅に到着しました。中目黒も乗降客が多いので、再びシルバーシートに空きができました。それで「座ったらどうですか。自由が丘に着いたら案内しますので心配しなくていいですよ」と言いました。すると、「どうもありがとうございます」と言って、やっと座席に腰を下ろしたのでした。

やがて電車は自由が丘の駅に着きました。私は、座席から立ち上がると、おばあさんに向かって「自由が丘に着きましたよ」と言いました。ドアに向って立っていると、後ろから「お上りさんなので何にもわからなくて」というおばあさんの声が聞こえてきました。シルバーシートの横に座っていた人にそう言ったようです。

「お上りさん」ということは東京に住んでいるんじゃないんだ、だから不安そうにしていたんだなと思いました。ただ、服装はとても地方から来たとは思えないような普段着です。しかも、エコバックのような布袋を手に持ち、肩からやはり布製のかなり使い古された感じの小さなショルダーバッグをたすき掛けに下げているだけです。「お上りさん」ならもっと他所行きの恰好をしているだろうにと思いました。

自由が丘駅に着いて、反対側のホームに停まっている各駅停車のドアのところまで一緒に行って、「これに乗って三つ目の駅で降りてください。三つ目が新丸子ですから」と言いました。おばあさんは「どうもありがとうございました。ご親切にしていただいて助かりました」と何度も頭を下げていました。私も同じ電車に乗るのですが、ちょっと照れ臭かったので、おばあさんと別れて隣の車両に乗りました。

電車が新丸子駅に着いたとき、注意して外を見ていたら、ホームに降りてエスカレーターの方に歩いて行くおばあさんの姿がありました。それを見て、ホッとしたものの、取り越し苦労症の私は、同時に不安な気持も湧いてきたのでした。

どうして「お上りさん」のおばあさんがひとりで新宿三丁目から新丸子まで行くのか。「お上りさん」と言いながら他所行きの恰好をしてないのはどうしてなのか。あの手帳は何なのか。

それからというもの、私の妄想は膨らむ一方でした。もしかしたら、おばあさんは認知症だったのではないか。あるいは、振り込め詐欺に遭って新丸子までお金を持って行くように指示されたのではないか。いや、カルト宗教の信者で、新丸子周辺での布教を指定され、それで向ったのかもしれない。あの奇妙な手帳は、講義を受けたときにメモした個別訪問の際の問答集が書かれているのではないか。

やっぱり、もっと詳しく新丸子に行く用事を訊くべきだったかもしれない。新丸子の駅に一緒に降りて、最後まで見届けるべきだったかも。とうとうそんなことまで考えて、後悔の念さえ覚える始末でした。

その数日前に、高齢者問題を扱った「NHKスペシャル」でも取り上げられたことがある某都営団地に行く機会があったのですが、そこで見たのはあまりにも哀しく切ない、そして、身につまされる老人たちの姿でした。そんな老人たちが目の前のおばあさんにオーバーラップして、余計気になったのかもしれません。

高齢者の老後まで、経済合理性=自己責任の論理で語られ、社会からまるで棄民のように扱われる老人たち。無防備な環境のなかで、悪徳訪問販売やカルト宗教の餌食になったり、既に自力で生活する能力を失った認知症の老人が、都会の団地の一室でまるで人目を忍ぶかのように暮らす光景。しかも、一人暮らしの老人も多いのです。

高齢者の老後に暗い影を落としているのが貧困です。生活保護受給世帯のうち、約半数は65歳以上の高齢世帯です。しかも、そのうち約90%が一人暮らし世帯です。そのように、とりわけ一人暮らしの高齢者の貧困問題は深刻です。

労働力の再生産過程から外れた老人たちは、もはや資本主義社会にとっては役に立たない用済みな存在でしかないのです。あとは孤独と貧困のなかで、人生の終わりを待つだけです。それが老後の現実です。

団地で会った高齢者たちは生きる気力さえ失い、ただ毎日をやり過ごしているだけのように見えました。何だか生きていることが申し訳ないとでもいうような感じすらありました。

もちろん、そんな老人たちは私たちの明日の姿です。でも、そう思っている人は少ないのです。多くの人たちは見たくないものとしてあえて目を遠ざけている感じです。そして、そうやって見て見ぬふりをすることが、経済合理性=自己責任の論理で老後を語る社会の冷たさを生み、「老いることが罪」であるかのような老後を強いることにつながっているのです。


関連記事:
『老人漂流社会』
車内でのこと
2022.04.17 Sun l 日常・その他 l top ▲
年末年始は本を読んで過ごしました。でも、あっという間に過ぎ、何だか年末と年始の区切りもないような感じでした。

年を取るとやたら昔のことが思い出され、センチメンタルな気分になるものです。正月もまた然りで、昔、正月は文字通りハレのイベントでした。しかし、今はさみしい風が吹いています。

子どもの頃、年の瀬も押し迫ると、親と一緒に近所の洋品店に行って、新しい服を買うのが決まりでした。下着はもちろんですが、セーターやジャンパーなども買って貰いました。そして、田舎だったのでどこに行くわけでもなかったけど、正月にはそれらを着て晴れがましい気持になったことを覚えています。

また、年末になると、どの家もそうでしたが、散髪に行くのが慣例になっていました。余談ですが、九州では「床屋」のことを「散髪屋」と言ってました。ちなみに、母親が行く美容院は「パーマ屋」でした。

その習慣は今でも私のなかに残っており、正月が近づくと必ず新しい下着を買っています。もっとも、今はAmazonで買っています。散髪にも欠かさず行っています。

母親たちも「パーマ屋」に行ってパーマをかけていました。そのため、正月はどの家のおばさんもみんな一緒の髪型をしていました。

子どもの頃、婦人会というのがあって母親たちはみんなそれに入っていました。しかも、えんじ色の婦人会の「会服」というのもあって、婦人会の旅行に行くときもそれを着て行ってました(先日、メルカリに当時の「会服」が出品されていてなつかしい気持になりましたが)。

母親が旅行から帰るとき、お土産を楽しみに家の前で待っていると、貸切バスを降りて通りの向こうから同じ髪型と同じ服装のおばさんたちの集団がやって来るのでした。

あの頃はまだマイカーもない時代でしたし(我が家は父親が「メグロ」のオートバイに乗っていました)地域のきずなも強かったので、とにかく貸切バスで日帰り旅行によく行ってました。商工会の旅行、水道組合(水道は公営ではなく自分たちで簡易水道組合を作って家庭の水を供給していた)の旅行、それから当時、田舎では町内会のことを「部落」と呼んでいたのですが、学校のバス旅行とは別に「部落」の子供会の旅行というのもありました。

そうやって九州の山間の温泉町から年に何回か”都会”(と言っても地方都市に過ぎなかったけど)に遊びに行くのが楽しみだったのです。旅行も現在のように神社仏閣や自然の景観を求めて行くのではなく、とにかく街場やその近辺の遊園地などに行くのが主でした。そのときも必ず散髪して、下着も新しいものを着て行ってました。

近所の洋品店の「おいさん」(おじさんのことを田舎では「おいさん」と呼んでいた)は、年に何回か別府から関西汽船に乗って大阪の船場に商品を仕入れに行っていました。大きな風呂敷包を何個も背負って仕入れから帰ると、近所のおばさんたちが新しく仕入れた洋服の品定めに行くのがならわしでした。あたらしく仕入れた洋服は、おばさんたちには、都会の風も一緒に運んできた流行はやりのものに映ったのでしょう。

年を取ると年々年賀状も少なくなります。そのわずかな年賀状のなかに田舎の友達からのものがありました。彼の年賀状はいつも三が日が終わってから届くのですが、それには理由があるのです。

大晦日、隣町の宮崎県の山に登り尾根の上から初日の出を撮影して、それを年賀状にして送って来るからです。もうそんな年賀状が10年近くつづいています。若い頃は子どもたちも含めた家族の連名で年賀状が届いていましたが、ある年から山の初日の出の年賀状に変わったのでした。

その年賀状のなかに「何度か電話したけど出ませんでした」と書いていました。それで、電話してみました。

すると、「見放されたのかと思ったよ」と言うのです。私が着信に気が付かなかっただけなのですが、借金の申し出の電話だと思われて電話に出るのを拒否されたのかと思ったそうです。

彼のことは前も書いた覚えがありますが、彼は田舎でも旧家で大きな商家の跡取り息子でした。叔父さんは私がかつて勤めていた会社の関連会社の社長をしていたし、彼も含めて姉弟もみんな東京の大学に進んだような分限者(金持ち)でした。

そして、彼は会社勤めを数年したあと、田舎に帰って家業を継ぎ、典型的なお嬢様育ちの女性と見合い結婚しました。私も結婚式に出席しましたが、それは盛大な結婚式でした。しかし、やがて商売がうまくいかなくなり家も没落。借金を抱え、奥さんとも離婚したのでした。

奥さんは実家に帰り、三人の子どもたちも母親の方に付いたので、以来、子どもたちとも音信不通になっているそうです。それどころか、子どもも既に結婚して孫も生まれたみたいだけど、孫の顔も一度も見てないと言っていました。もしやDVが原因なのではと思って問いただしたら、そうではなく、商売がうまくいかなくなり借金が嵩んだことが原因だと言っていました。そのため、今は老人ホームに入っているお母さんと二人だけの生活になったのです。年賀状が山の初日の出に変わったのはそれからです。

彼自身、この10年間は借金の返済に追われていたと言っていました。夜はホテルの皿洗いのバイトをしたり、土木工事のバイトまでやっていたそうです。重機など運転できないので、現場監督から怒鳴られながらスコップで土を掘り起こす「いちばんきつい仕事をやらされた」と言ってました。食事も山に行って取って来た山菜を使ったりして、出来る限りお金をかけない「昔では考えられないような」質素な生活をしていたそうです。アルバイトのあと、深夜の田舎道を軽自動車で自宅に帰る途中、死にたいと思ったことが何度もあると言っていました。そんな生活をつづけたお陰で去年借金を完済してひと息ついたそうです。「コロナが落ち着いたらまた帰っちきちょくれ。ゆっくり話したいことがあるけんな」と言っていました。

生まれ育った土地で、そんな没落した姿を晒して生きるのは、想像する以上にしんどいものがあったはずです。でも一方で、それまであまり付き合いのなかった高校時代の同級生が野菜を持って来てくれたり励まされたりして、田舎でも人の温かさを感じることはあったと言っていました。彼は「捨てる神もあれば拾う神もある」と言ってましたが、田舎に帰って嫌なことも多かったけど、それでも帰ってよかったと今でも「思っちょる」と言っていました。私は自他ともに認める人間嫌い、田舎嫌いの人間なので、なんだかそれは私に向けて言っているようにも聞こえました。

内田樹氏も、阪神大震災に遭遇した際に娘と二人で避難生活をした体験を語ったインタビューのなかで、人の情けが身に染みたと言っていましたが、晩年田舎で一人暮らしをしていた私の母親も、時折電話してきて、近所の○○さんがよくしてくれてありがたいというような話をしていました。他人にあんなに親切にするなんて普通はできないよと言っていました。

その近所のおばさんは私も知っていますが、しかし、少なくとも私が知る限り、我が家とそんなに親しい付き合いはしていませんでした。だから、母親からその話を聞いたとき意外な気がしたのですが、でも、ホントに親切心から母親の世話を焼いてくれていたようです。

年末年始に読んだ本のなかに、伊藤亜紗編『「利他」とは何か』(集英社新書)という本があったのですが、そのなかで編者の伊藤亜紗氏は、ジャック・アタリが主張する「合理的利他主義」について、次のように書いていました。

  合理的利他主義の特徴は、「自分にとっての利益」を行為の動機にしているところです。他者に利することが、結果として自分に利することになる。日本にも「情けは人のためならず」ということわざがありますが、他人のためにしたことの恩恵が、めぐりめぐって自分のところにかえってくる、という発想ですね。自分のためになるのだから、アタリの言うように、利他主義は利己主義にとって合理的な戦略なのです。
(『「利他」とは何か』)


伊藤氏は、「利他」を考える場合、個人的な感性に依拠した「共感」ではなく、「『自分にとっての利益』を行為の動機」にするような合理的な考え方(理性)の方が大事だと言います。何故なら、「共感」だけでは新型コロナウイルスのような「地球的規模の危機」に対応できないからだと書いていました。

「共感」には、仏教で言う「施し」のような観念がどうしても入り込んできます。そういった観念は、相手のためになることをすれば相手もそれを返してくれるという考えに行き着いてしまいます。『「利他」とは何か』でも書いていましたが、それでは相手を自分のコントロール下に置くことになるのです。しかし、人のためにすることがまわりまわって自分のためになるというふうに考えれば、義務感からも解放され、率直に優しい心や親切心を持てるような気がするのです。それは、たとえば一つの部屋にいて、他人を温かくすれば自分も温かくなるというような考え方です。

伊藤氏の「地球的規模の危機」の話に戻れば、たとえばコロナ・ナショナリズムで先進国がワクチンを独占して南の発展途上国にワクチンが届かなければ、今回のように変異株による感染に繰り返し襲われ、いつまで経ってもパンデミックから脱却することができないのです。今必要なのは、南の貧しい発展途上国の人たちが可哀そうだからというような「共感」より、同じ地球に住む人間みんなが同じようにワクチンを打たなければパンデミックは収まらないという事実を直視した(理性に基づいた)考えなのです。

彼はサラリーマン時代が短くあとは自営業だったので、年金も月に6万円くらいしかないそうです。「老後は月に6万円でどう暮らしていくか、それが課題じゃ」と言っていました。

でも、スーパーボランティアの尾畠さんだって月に5万円の年金生活で、ああやって全国各地にボランティアに出かけたり、地元の由布岳の登山道を整備したり、山に登ったりしていたのです。

高校時代、私は尾畠さんがやっていた魚屋の前を毎朝通って学校に通っていたのですが、ああいった精神というのもやはり登山が育んだ一面があるような気がしてなりません。私は最初、変な爺さんみたいにしか思っていませんでしたが、こうして再び山に登るようになり、だんだん年老いて行くと、尾畠さんの生き方の凄さが痛感されてならないのでした。

アドバイザー契約を結ぶメーカーから提供された馬子にも衣装のような登山服を着た著名な登山家が語る登山や、ユーチューバーがGoogleからの広告料を目当てに発信する軽薄な登山と、尾畠さんのそれとは似て非なるものですが、尾畠さんのような「吾唯知足」の生き方のなかにこそ自分たちの老後のヒントがあるのではないか。そんな話をして電話を切ったのでした。
2022.01.10 Mon l 日常・その他 l top ▲
昨日、仕事関係の知人に会ったらやけに元気がないのです。「どうしたんですか?」と尋ねると、身体の調子が悪くてずっと仕事を休んでいたと言うのです。

彼は、数年前に脳出血で入院したのですが、そのときの後遺症で未だに半身にしびれが残っているそうです。見た目にはわからないのですが、本人にとってはそれが憂鬱の種のようでした。

その脳出血に由来することかと思ったら、そうではなくて「ヘルニアが再発した」と言うのです。ヘルニアとは初耳でしたが、なんでも10数年前に発症して、そのとき手術を勧められたけど症状が治まったのでそのままにしていたのだそうです。

首の後ろが痛いと言っていましたので、頚椎椎間板ヘルニアだと思います。しかも、ヘルニアの影響なのか、半身の痺れもひどくなり、最近は字を書くのもままらななくなったと言っていました。

彼は、離婚してひとり暮らしです。お父さんとお母さんも既に亡くなっています。昔はお父さんが会社を経営していたらしく、一人っ子だった彼はおぼっちゃまとして大事に育てられ、有名な私立の学校も出ています。某女性タレントとも幼馴染だそうで、学校でも幼稚園のときからずっと一緒だったそうです。彼女はタレント同士で結婚したのですが、夫が前に結構大きなスキャンダルに見舞われたことがありました。そのときも、実際は話が全然違うのにと嘆いていたそうです。そんな話を彼から聞いたことがありました。

しかし、お父さんの会社が倒産して状況は一変します。それが原因なのかどうか、離婚しそれまで勤めていた会社も辞めたのだそうです。

私が知り合ったのは今の会社に転職したあとで、お母さんは既に亡くなり、お父さんと二人暮らしをしていました。しかし、お父さんが認知症になったため、世話するのに苦慮していました。それで、介護施設に入所させたのですが、ほどなくお父さんが亡くなったのでした。

たまたま私もよく知っている病院で亡くなったのですが、葬儀会社に搬送を頼み、彼だけが立ち会って都内の火葬場で荼毘に伏したそうです。荼毘のあとは、自分の車で遺骨を霊園まで運び、自分で納骨しようとしたけど、霊園の決まりで専門の指定業者でないと納骨できないと言われ、仕方なくその業者に頼んで納骨したのだそうです。「ただ墓石を動かして骨壺を入れるだけなのに4万円も取られたよ」と言っていました。

離婚したとき、死にたいと思って何度も駅のホームの端に立ったことがあったそうですが、やはり死ぬ勇気がなかったと言っていました。一人娘がいて、もう成人式も迎えたはずだと言っていましたが、離婚してから一度も会ったこともなく、どこに住んでいるのかもわからないのだそうです。「池袋や新宿を歩いていると、ばったり出くわすんじゃないかと思うことがある」と言っていました。

そんな彼が、またひとつ憂鬱の種を抱えることになったのです。決してオーバーではなく、神様はなんと無慈悲なんだろうと思いました。自分の身体がままならないということほど憂鬱なことはありません。病気だけではありません。怪我や離婚や失業などのアクシデントに見舞われ、人生が一変するのはよくあることです。私たちの日常はかくも脆く儚いものなのです。

別の年上の知人の姿が見えないのでどうしたのか訊いたら、彼もまた手術して入院しているということでした。みんな詳しくは知らないみたいですが、どうやら内臓のガンのようです。彼の場合、再雇用の嘱託なので、このままフェードアウトするんじゃないかなと言っていました。彼もまた独り者なのでした。子どもがいなくて奥さんと二人暮らしだったのですが、奥さんは10数年前にガンで亡くなり、以来ひとり暮らしをしていました。最近は、電話しても出ないので、どうなったかわからないと言っていました。

会社と言ってもその程度なのです。昔のように世話を焼いたり心配したりすることもないのです。もうそんな濃密な関係ではないのです。だから、よけい孤立感は深まるでしょう。

今までこのブログでも、孤独死した女性の話を何度か書いてきましたが、先日もまた同じような話を聞きました。30代の女性なのですが、何故か身寄りがなく福祉事務所からの依頼で転院してきたそうです。不治の病気だったそうで、数ヶ月入院して亡くなったということでした。

身寄りがなかったら、葬祭扶助を受けて無縁仏として葬られるしかありません。入院する際に持ってきた僅かな遺品を整理していたら、免許証が出て来たそうです。でも、免許証も3年前だかに有効期限が切れたままだったとか。

免許証の写真は、入院中には見たこともないような笑顔だったそうです。免許証を取得して未来に心を弾ませ、仕事に精を出していたときもあったのでしょう。もちろん、お父さんやお母さんと一緒に暮らしていた時期もあったかもしれません。それがどうして30代の若さで、身寄りもなく、孤独に死を迎えなければならなかったのかと思います。どんな思い出を胸に旅立ったんだろうと思いました。

この社会では、労働して(労働力としてみずからを資本に売って)その対価としての賃金を得て、それで生活し、さらに労働力としてみずからを売るという「労働力の再生産」の過程のなかに、私たちの人生は存在しています。それには健康な身体が前提です。その前提が崩れると、途端に再生産のレールから外れ、生活だけでなく人生も立ち行かなくなるのです。

それはちょっとしたはずみやちょっとした違いやちょっとした運にすぎません。私たちの生活や人生はかくも脆く儚いものなのです。「人間らしい」とはどういうことだろうと思わずにはおれません。そして、明日は我が身かも知れないとしみじみ思うのでした。


関連記事:
ある女性の死
女の一生
2020.11.25 Wed l 日常・その他 l top ▲
相変わらず憂鬱な気分はつづいています。昨日の朝も、山に行く準備をしていったん家を出て電車に乗ったものの、天気もすぐれなかったということもあって、なんだか行く気がしなくなり途中で引き返して帰ってきました。こんなことは初めてです。

ザックを背負って登山靴を履いた、見るからに場違いで大袈裟な恰好をした男が、駅に向かう人波をかきわけるように逆方向に歩いているのです。朝っぱらから何をやっているんだろうと思われたかもしれません。

最近は、些末なことでも自分の中では非常に大きなことのように思えて、執拗にこだわって一人相撲をとっているようなケースがよくあります。そして、被害妄想ではないですが、悪い方に解釈して必要以上にことを荒立てるようなことをくり返しています。

先日もネット通販であるものを買ったのですが、送られて来た商品は部品が欠けた不良品でした。それで販売元にメールすると、写真を送るように言われました。言われたとおり写真を送ると、今度は商品を送り返せと言われました。商品が戻って来たら、それを確認してから代替品を送るというのです。そういった説明に既に苛立っている自分がいました。

しかも、メールでやり取りしていると、相手はあきからに日本語の使い方におかしなところがあり、文章の中の漢字に中国の簡体字が使われていました。私は「中国人か」と思いました。すると、私の中に中国人に対する予断と偏見が頭をもたげてきたのでした。

返品したものの数日経ってもいっこうに連絡がないので、しびれを切らして催促したら、「今から確認します」と返事があり、さらに、工場が休みになったので代替品を送るのは1週間か10日後になると言われました。

サイトを確認すると、1週間休むという「お知らせ」が出ていました。私は、催促した途端に休みに入るのは不自然じゃないかとメールを送りました。すると、相手から「心配をおかけしますが、間違いなく送りますのでご安心下さい」と返事がありました。

私は、ショッピングモールを運営している会社のカスタマーセンターに、このショップは「怪しい」と連絡しました。カスタマーセンターからは、販売時のトラブルは原則としてお客様とショップの間で解決してもらうしかなく、運営会社は関与できないという返事が来ました。それで、今度はそういった姿勢は運営会社としておかしいのではないかとメールを送りました。

ところが、テレビを観ていたら、中国では国慶節の連休に入り、何億人かの人間が国内を移動するというニュースが流れていました。どうやら工場が休みに入ったという話は嘘ではないようです。しかし、だからと言って、在庫も抱えずに販売し、不良品の代替品もすぐに用意できないのは、やはり「変だ」と思いました。と言うか、そう自分に言い聞かせたのでした。

しばらくすると、カスタマーセンターから、ショップに対してクレームの内容を伝えた上で、真摯に対応するように連絡を入れましたとメールが来ました。それで、再度ショップにアクセスしてみると、なんとショップは跡形もなく消えており、「ただ今休店中です」という文字のみが表示されていました。これは、前にも書いたことがありますが、楽天でもYahoo!ショッピングでも、実際は閉店したことを意味するのです。

私は、「逃げられた」と思いました。運営会社のサイトで、損害金の補償を受けるにはどうすればいいのか調べました。でも、証明する書類が必要など如何にも面倒臭そうに書いていました。「くそったれ」と思いました。そして、どうせ返事は来ないだろうが、念の為に(うっぷん晴らしに)ショップに嫌味のメールを送りました。

ところが、なんと返事が来たのです。「ご心配をおかけして申し訳ありません。必ず届きますのでもう少しお待ち下さい」と書いていました。返事など来ないだろうと思っていたので意外でした。そして、翌日、代替品が届いたのでした。

最初に注文してから問題が解決するのに20日もかかったので、時間がかかりすぎたのはたしかです。しかし、「逃げた」わけではないし「騙された」わけでもないのです。すべては私の予断と偏見だったのです。ショッピングモールの運営会社を巻き込んでことを荒立てていただけなのです。

それで、次のようなメールを送りました。

今、商品が届きました。
今度は正常に稼働しています。
ありがとうございました。
言葉に言いすぎたところがあったかもしれません。お詫びいたします。


すると、すぐに次のような返信がありました。

いやいや、今回は当店が悪い買い物体験をお届けしてしまい、まことに申し訳ございません。


似たようなことは、日常的な人間関係においてもあります。こいつは嫌なヤツだとか、こいつはずるいヤツだとか勝手に決めつけて、まるで自分にとって有害な人物であるかのように見ていた人間が、実は全然悪意のない、むしろ正直な人間だったということがよくあります。なんのことはない、私が一方的に色眼鏡で見ていただけなのです。

そんなことが重なると、益々自分が嫌になります。人を傷つけることによって自分も傷つくというのは、若い頃に主に恋愛でくり返した自分の“悪癖”ですが、今、あらためてこの“悪癖”が思い出されてならないのでした。

自分はいい人だとかいい人でいたいという自己愛がある一方で、自分はなんと嫌な人間だろうという自己嫌悪の念もあります。そして、その狭間の中で、無用に悩み自分で自分を追いつめ、気を滅入らせるのでした。
2020.10.06 Tue l 日常・その他 l top ▲
昨日の朝、駅の近くにあるスーパーに行ったときでした。そのスーパーは私の行きつけで、Tポイントカードもそのスーパーで作ったほどです。

どこのスーパーもそうですが、そのスーパーでも、感染防止策でソーシャルディスタンスを取るべく、レジごとに床にラインが引かれてお客を誘導するようになっています。

昨日は、月初めの売り出しがあったみたいで、いつになく朝からお客でいっぱいでした。もっとも、お客の多くは年配者でした。

レジは5~6つくらい開いており、それぞれに長い行列ができていました。普通は、銀行のATMにあるようなフォーク式の並び方をするものですが、スーパーの構造上それもできないみたいで、行列はレジごとに商品の棚の奥に向かって延びているのでした。そのため、後ろに並ぶと隣の行列が長いのか短いのかもわからず、途中で短い方の行列に変わることもできないのです。

私は、ひと通り買い物を済ませると、重い買い物カゴを手にして商品棚の奥から行列の具合を確認しました。中にはかなり長く伸びている行列もありましたが、たまたまひとりしか並んでない行列があるのに気付いて、「ラッキー!」とばかりにその行列に並びました。

レジではひとりのお客が精算の最中でした。レジ係は、そのスーパーでは今まで見たこともない若い男性です。ところが、前のお客の精算が済んだので、私の前に並んでいたおばさんがレジに呼ばれるものと思っていたら、隣のレジの列に並んでいた別のおばさんが呼ばれて、レジで精算をはじめたのです。でも、隣のレジも女性のレジ係がいてちゃんと精算の作業を行っています。

それで私は、「おかしいんじゃないの?」と大きな声で抗議しました。すると、レジ係の男性は「この人たちの方が先なんですよ」と言うのです。先がどうか、そんなことは知らんがなと思いました。私たちは、列に割り込んだわけでも、列を無視したわけでもないのです。

「先かどうか知らないけど、その人は隣のレジの人でしょ。そんなこと言っていたらラインは意味がないじゃん」と言いました。しかし、レジ係の男性は私の方を一瞥しただけで、手に持った商品のバーコードを淡々と読み取るばかりでした。

しかも、次のお客も隣のラインから越境して、レジの近くで待機しているのです。なんのことはない、私たちは完全に無視され精算することができないのでした。

要するに、レジが混雑して行列が長くなったので、急遽隣のレジを開けて、行列のお客を二つのレジで捌こうとしているのでしょう。でも、あとから来た人たちはそんなことを知る由もありません。店が決めたルールに従って、レジの前のラインに沿って並んでいるだけです。にもかかわらず、ルールを無視したように扱われるのです。結局、私たちは列を離れて、別の列に並び直すしかありませんでした。

「おかしいじゃないか」と叫んだ私は、傍目には「キレる老人」と同じように見えたかもしれません。スーパーの店員たちも、あきらかに「またか」と言った感じで無視を決め込んでいる風でした。

「キレる老人」と言うと、年を取って頑固になった老人特有の病気、ある種の精神疾患のように言われますが、しかし、昨日の私の経験から、老人たちがキレるのも一理あるのかもしれないと思いました。さすがに「店長を呼べ」とは言わなかったけど、中にはそう言う人もいるでしょう。「店長を呼べ」と言う人の気持もわかるような気がしました。

先日、テレビのワイドショーに、レジ係とお客の間を仕切っているビニールシートを破った老人の動画が流れていましたが(勝手に動画を撮影してそれをテレビに提供したスーパーもおかしいと思いますが)、私はその気持もわからないでもないのです。レジ係の中には、声が小さい人間がいますが、マスクをした上にビニールシートの仕切りがあるのでよく聞き取れないことがあるのです。「エッ?」と聞き返しても、同じようにマスクの奥でなにやらムニャムニャ言うだけです。それでは、ビニールシートも破りたくなろうというものです。

また、そのあと別の列の最後尾に並んだときです。2メートルおきに立ち止まるように指定されたラインが引かれていますが、前のおばさんがいきなり私の方を振り返って、「ちゃんと線の上に並んで下さいっ」と怒気を含んだ声で言うのでした。と言っても、私は、前のおばさんにくっつくように並んでいたわけではありません。足元を見ると、走り幅跳びでフライングをした程度に、靴の半分くらいがラインをはみ出していました。

私は、そのとき先日電車で遭遇した(このブログにも書いた)「社会不安障害」の若者を思い出したのでした。それで、レジのラインのこともあったのでカチッと来て、「うるさいんだよ!」「このくらいでいちいち目くじらを立てるなんて頭がおかしいんじゃないか!」と、お上品とは言えないことばで、前のおばさんを怒鳴りつけたのでした。すると、おばさんは顔を真っ赤にして列を離れてどこかに行ってしまいました。

コロナで世の中がおかしくなっているのです。私もそうなのかもしれませんが、日常的におかしなことがあまりに多すぎます。別にお客様は神様だと言うつもりはありませんが、なんだか妙に店が高姿勢になっているような気がしてなりません。買い物の手順などについて、独自に細かいルールを作りそれをお客に従わせるというのも、コロナ以後にはじまったことです。しかも、昨日のように、そのルールも自分たちの都合で勝手に変更して、それをさも当然のようにお客に強要するのです。

ついでに言えば、ポイントカードも感染防止のためにお客が自分でスキャンしなければならないのですが、カードの差し込み口がレジ係の方にあるため、うまくスキャンできず何度もやり直さなければならないことがあります。そのたびに、レジ係は目の前のモニターにタッチして操作し直さなければならないみたいで、中にはまるで舌打ちでもするかのように「もっとゆっくり」「それじゃダメ」などと要領を得ない高齢のお客を叱責しているレジ係(多くはベテランのおばさんのレジ係)もいるくらいです。

どうして買い物するのに、こんなに無用にストレスを覚え、無用に卑屈にならなければならないのかと思います。いや、無用にストレスを与えられ、無用に卑屈にさせられているのです。ウイズコロナというのは、なんだか嫌な時代だなと思いました。

帰って、スーパーのサイトに苦情のメールを送ろうかと思ったら、フォームの字数が300字に制限されていました。ツイッターじゃないんだから300字ではとても説明しきれません。それで、バカバカしくなってやめました。

「キレる老人」と嗤うなかれ、大人気ないとお上品ぶるなかれです。何度も言いますが、こういった日常の些事というのは、私たちにとって、案外大事なのです。なぜなら、私たちが生きて行く上で必要とすることばの多くは、こういった日常の些事から獲得したものだからです。
2020.09.02 Wed l 日常・その他 l top ▲
排尿するとペニスに痛みが走るようになりました。それに、血尿も出ています。

昨日、病院に行って検査したら、石が膀胱の手前で止まっており、その影響だろうと言われました。このブログでも書いていますが、石が落ちたのは5月の初めで、もう3ヶ月になります。それでもまだ排出されていません。尿路結石はこれで5度目ですが、こんなに長くかかるのは初めてです。

「どうしてこんなに長くかかっているのですか?」と訊いたら、担当のドクターからは「いろいろですよ」とつれない返事が返ってきました。やはり加齢が関係しているのかもしれません。

さらに、レントゲン検査の結果、なんと次の石もできているらしいのです。私は、今回の石が排出されれば、しばらくは尿路結石から解放されると思っていたのでショックでした。今まではずっと左の腎臓でしたが、今度は右の腎臓だそうです。

「エエッ、またですか?」「もう勘弁して下さいよ」と思わず叫んでしまいました。すると、ドクターは顔も上げずに「体質ですからね~」と呟いていました。

「運動していますか?」と訊かれたので、「最近は山に行ってます」と答えたら、「今の天気は異常なので、熱中症になりますよ」と言われました。

「この時期は、室内で運動する方が安全ですよ」
「でも、先生。室内で運動するのはお金がかかるんです」
「家の近くに市のスポーツセンターがあるじゃないですか。あそこに行けば、お金がかからないでしょ」
「先生、今の時期のスポーツセンターはガキとジジババばかりなんです。あんなところに行ったら気が滅入りますよ」と言ったら、じろりと睨まれました。

山に行きたいのは山々なのですが(おやじギャク)、熱中症を避けるには早朝に出かける必要があり、そのため、なかなかタイミングが合わないのでした。

先日、スペインのネット通販で新しくトレッキングシューズを買い、それがやっと届いたので(スペインで買った方がサイズが豊富で、送料を入れても安く買えます)、早く履き具合を試したくてヤキモキしています。

それで、午後から近所の公園に散歩に出かけました。外は文字通りうだるような暑さでした。自宅の裏には、木々におおわれた丘があり、その中に「見晴らしの丘公園」というのがあるらしいのです。しかし、子どももいないので、その公園に行ったことはありません。

駅とは反対側にしばらく歩くと、丘の下の住宅街まで来ました。ただ、どこが上がり口なのかわかりません。道端に座って休憩していた作業服姿の男性に、「ここから先に行けば上に登ることができるんですか?」と訊いたら、「オレはここに住んでいるわけじゃないからわからんな」と言われました。

とりあえずそのまま住宅街の奥に進んでみました。すると、目の前に車両止めの柵が設けられた坂道が見えてきました。坂を登って行くと、大きなマンションが現れ、その前に広場がありました。どうやらこれが「見晴らしの丘公園」のようです。広場の端には送電線の鉄塔が立っていました。

広場はサッカーコートが優に入るくらいの広さがありましたが、一面膝丈くらいの夏草に覆われていました。そのためか、夏休みにもかかわらず人影はありませんでした。広場の真ん中には、クリスマスのイルミネーションの名残なのか、電球が巻かれたままのもみの木がポツンと立っていました。広場を囲うようにベンチが設置されていましたが、それがよけい寂寥感を漂わせていました。

私は、横のマンションを見やりながら、こんなところまでマンションが建っているのかと思いました。失礼ながら、パークサイドと言えばパークサイドですが、駅まではどうやって行くのだろう、買物も不便だろうなと思いました。もっとも私が登った坂道はマンションの裏側に通じる道で、別にマンション専用?の車道がありました。

公園を一周すると、奥の方に小さな階段がありました。どうやらその階段でも下に降りることができるみたいです。下に降りると、また別の住宅街が広がっていました。そのあたりも、バス通りから奥に入ったところで、駅からかなり離れています。さすがにマンションは見当たりません。ただ、昭和をイメージするような古い木造のアパートが点在していました。

こんな不便な場所にどうしてアパートがあるんだろうと思いましたが、昔は駅の近辺や川を渡った先などに工場があったので、工場で働いていた人たち向けに建てられたのかもしれません。

そのまま住宅街を進むと見覚えのあるお寺が見えてきました。そのお寺の前からは、最寄り駅の上にある別の公園に上がることができます。坂を登って、上の公園に行き、さらに坂道を下って駅の横に出ました。

腕時計のデータで確認すると、4.5キロの道を1時間15分で歩いていました。途中、一度も休憩していません。また、最近は心拍数を測りながら歩いているのですが、最高心拍数も120でした。前に比べれば少し体力が付いたように思います。

帰りにいつも買物をしているスーパーに寄ったら、顔見知りのレジのおばさんから「すごい汗ですね」と言われました。


近所の散歩1

近所の散歩8

近所の散歩3

近所の散歩2

近所の散歩4

近所の散歩5

近所の散歩6

近所の散歩7
2019.08.06 Tue l 日常・その他 l top ▲
10連休の最後の日。私は、開店したばかりの駅裏のスーパーに行きました。さすがにお客さんは数えるほどしか入っていません。

店の中では、多くの人たちが品出しをしていました。私は、レジに並ぶのが嫌なので、朝の開店間際に行くことが多いのですが、品出しをしている人たちの顔触れもいつも同じです。60代くらいの初老の人たち(それも男性)が目に付きます。早朝の品出しのときだけ仕事をしているパートの人たちなのでしょう。

レジも含めて、見事なほど若い従業員はいません。店内には、「○○(店名)では、働く仲間を募集しています。興味のある方はお近くの店員にお気軽にお声かけ下さい」という放送が繰り返し流れていました。

買物を終えレジに向かうと、まだレジは一つしか空いていませんでした。そこには、既に三人のお客さんが並んでいました。

いづれも70を越しているような高齢者でした。三人とも「みすぼらしい」と言ったら語弊がありますが、着古したヨレヨレの服を着て、おせいじにもオシャレとは言い難い、なんだか普段の生活の様子が伺えるような恰好でした。おそらく独り暮らしの老人たちではないでしょうか。

私が住んでいる街は、東横線沿線の人気の住宅地です。「どこに住んでいるのですか?」と訊かれて、駅名を言うと、「いいところに住んでいますね」とよく言われます。

そのため、一方で、若い女性や30~40代の若い夫婦も多く住んでいます。近所に近辺では人気の(と言われている)幼稚園がありますが、子どもを送り迎えするお母さんたちは、送り迎えするだけなのにどうしてと思うくらい、総じてオシャレな格好をしています。午後になれば、そんな幼稚園にお迎えに行ったあとの母子連れが買い物にやってきます。その頃は、品出しも終わっており、パートの人たちの姿も店内からは消えています。また、夜になると、店内は仕事帰りの若い女性たちの姿が目立つようになります。

そんな他の時間帯に比べると、開店間際の店内は圧倒的に高齢者の比率が高いのでした。

レジに並んでいる老人たちが手にしている買い物カゴの中は、質素と言えば聞こえはいいですが、哀しいくらいわずかしか商品が入っていません。私の前は、車椅子に乗っているかなり高齢の女性でしたが、160円の卵のパックと28円のモヤシが一つ入っているだけでした。その前の男性は、110円だかの食パン二つに、やはりモヤシが一つ入っているだけでした。みんな、財布から小銭をひとつひとつ出して精算していました。そのため、やけに時間がかかるのでした。

同じ老人でも、違う時間帯になれば、見るからに余裕がありそうな夫婦連れなどが多くなります。以前は、メディアでお馴染みの元金融エリートの「上級国民」の姿を見かけたことさえあります。それに比べれば、このつつましやかな光景はなんだろうと思いました。

そんな中で、私は、(嫌味に聞こえるかもしれませんが)カゴいっぱいの買物をして、4千円弱の代金をクレジットカードで払ったのでした。と言って、別に優越感に浸ったわけではありません。たしかに、老人たちをやや憐み、同情したのは事実ですが、でも、彼らと違うのは「今だけ」だというのが重々わかっているからです。まだ仕事にありついているので、経済感覚もなく買い物をしてクレジットカードで払う「余裕」があるだけなのです。

私と前に並んでいる老人たちは紙一重なのです。彼らは明日の自分の姿でもあるのです。憐み、同情しても、いづれ自分に返ってくるだけです。そう思うと、あらためて現実を突き付けられた気がして、否応なく暗い気持にならざるを得ないのでした。


関連記事:
明日の自分の姿
『老人漂流社会』
2019.05.06 Mon l 日常・その他 l top ▲
どうしてこんなに憂鬱なんだろうと思います。急に気分が落ち込みはじめ、それからはどんどん落ち込んで行くばかりです。

昔、パニック障害になったという女性がいました。付き合っていた男性からDVを受け、それ以来パニック障害になったと言うのです。外出するのが怖くて、いつも死にたいと思っていたと言ってました。

私のまわりでも死にたいと思っていたと言う人間は結構多いのです。みんなそうやって人生の苦難をくぐってきたのです。

警察庁によれば、2018年の自殺者数は2万598人で、2010年以来8年連続で減少しているそうです。ちなみに、ピークの2003年は年間3万5千人近くの人がみずから命を絶っていました。ただ、2018年の交通事故死が3532人ですから、減少したとは言え、それでも自殺者が如何に多いかがわかります。

専門家のなかには、自殺者の背後にはその10倍の自殺未遂者がいると言う人もいるそうです。その説に従えば、年間20万人以上の人が自殺未遂を起こしていることになります。

自殺や自殺未遂は、家族が他言することを避け隠そうとするので、私たちはその事実を知ることは少ないのです。しかし、統計から見る限り、私たちの身近にも自殺や自殺未遂が存在していてもおかしくないのです。

ふと思いついて、パソコンに保存している日記を開きました。日記は1999年からはじまっていますが、2013年からは途絶えたままでした。もう6年つけてないことになります。しかも、2013年は9月に一日つけているだけです。1999年から2010年まではほぼ毎日つけていましたが、それ以後は中断と再開のくり返しでした。私は、もともと二十歳の頃から手書きで日記をつけており、そのあとパソコンに切り替えたのでした。

日記を読み返すと、いっそうしんみりした気持になりました。人間というのは、いつまで経っても同じことをくり返す懲りない動物です。“人間嫌い”というのも、単にわがままなだけかもしれないと思ったりします。私は、小学校の頃から「協調性がない」と通知表に書かれるような人間でしたが、「協調性がない」のもわがままだからなのでしょう。

どうしてこんな人生になったのかなんて考え始めたら、それこそ底なし沼に落ちて行くような気持になります。四十にして惑わずと言いますが、老いても尚、人生に惑うことは、より残酷で絶望的なものにならざるを得ないのは当然でしょう。そこにあるのは、文字通りどうにもならない人生です。

また、日記には、病院でガンの疑いがあると言われ、検査入院しなければならなくなったときの心境を書いたものもありました。春だったのですが、病院から土手沿いの桜並木の下を歩いて帰っていたら、前を保育園の子どもたちが手を引かれ散歩していたのでした。それを見たら、途端に涙があふれてきたと書いていました。検査の結果、ガン細胞は見つからなかったのですが、しかし、これから年を取ってくると、いつかまた同じような場面に遭遇するかもしれません。

以前、久しぶりに旧知の人間に会ったら、別人のように太っていたのでびっくりしたことがありました。聞けば、鬱病を患い、無性に甘いものを欲し、毎日ケーキやチョコレートなどを食べまくっていたのだそうです。脳内の生理的なバランスが崩れ、そのために糖を過大に摂取して、感情をコントロールする神経伝達物質のセルトニンを多く分泌しようとしたのでしょう。

かく言う私も、もともと甘党なので、日頃からできる限り甘いものを控えるように気を付けているのですが、最近は我慢できなくてやたら甘いものを食べるようになっています。そのため、体重も増える一方です。

とは言え、エーリヒ・フロムではないですが、こうして文章(ブログ)に書いて自分を客観視できる間はまだ大丈夫でしょう。なにか気分転換をはからなければと思っています。知らず知らずのうちに、悩みを自分の方に自分の方に引き寄せようとする力がはたらいていますが、できる限り、突き放すようにしなければと思ったりもしています。突き放すと、それがたいしたことではないことに気が付くのです。
2019.03.24 Sun l 日常・その他 l top ▲
保証人の件ですが、電話だとどうしても感情的になって真意が伝わらないと思ったので、手紙を書くことにしました。そして、以下のような手紙を書いて投函しました(プライバシーに関わる部分は削除しています)。

投函したあと、ずっと憂鬱な状態がつづいています。友人は、見かけによらずナイーブな一面を持っているので、ショックを受けるのは間違いないでしょう。もしかしたら、裏切られたと思うかもしれません。でも、いつまでも"いい人"を演じるわけにはいかないのです。と同時に、お金が恨めしくもあります。

--------------------------------

×× 様

突然、手紙で失礼します。

電話をしようかと思いましたが、電話だと冷静に順序立てて私の気持をお話しできそうもないので、手紙を書くことにしました。

結論から先に申しますと、事務所にお伺いする件はキャンセルさせていただきます。また、リースの保証人の件もお断りさせていただきます。

そもそも私のような属性の人間は、保証人としての責務を果たせるとはとても思えません。信販会社からも、弁済能力に疑問が付けられるのは間違いありません。「通りやすいようにする」という営業マンのことばは、私には悪魔のささやきのようにしか聞こえません。

また、この年齢になれば、健康面でもいつどんなことがあるかもわかりません。お互いそういったリスクも考えないわけにはいかないでしょう。私にはリクスが大きすぎます。

貴殿には話していませんでしたが、私は、昔、身から出たサビで大きな債務を背負い苦労した経験があります。それが未だ私の中でトラウマになっています。

そのため、できるだけお金の苦労はしたくないという思いは強くあります。たかが「この程度」の保証人でと思われるかもしれませんが、私は「この程度」の生活しかしてないのです。ちまちまとでもいいから、できるだけ今を平穏に生きて行きたいと思っているのです。

年金も少ないので、間近にせまった”老後”も大きな不安です。そのためもあって、私は、極力ローンは避けたいと思って生活してきました。にもかかわらず、どうして他人の5年払いのローンの保証人にならなければならないのかという気持は、正直言ってあります。

非常に心苦しいのですが、事情をお察しの上、ご理解下さいますようお願いいたします。

お力になれなくて申し訳ございません。

お元気で頑張ってください。
2019.03.03 Sun l 日常・その他 l top ▲
一昨日、突然、友人から電話がかかってきました。私は、出かけていたので、電話に出ることができなかったのですが、スマホに何度も着歴が残っていました。

なんだろうと思って電話をすると、保証人になってくれと言うのです。私は、心の中で「キタ~~!!」と思いました。

それまで別の同級生に頼んでいたけど、彼が病気になり入院したので断られたと言うのです。

事務機器のリースの保証人だそうです。彼は、五年前に会社を辞めて、自分で事業をはじめたのですが、そのときに入れたコピー機のリースが五年で終了したので、再契約しなければならないのだと。

事業と言っても一人でやっているだけで、他の友人に聞いても決してうまく行っているようには見えないということでした。

友人は、大学時代、運動部に所属していて、いつもパンチパーマに学ランを着てのし歩いているような、典型的な右翼学生でした。今でも体重が百キロ超あり、一見ヤバい人に見える風貌をしています。そのためもあって、声も大きく押しの強い言い方をします。

「オレは保証人になれないよ。保証能力がないよ」
「いや、大丈夫だよ。頼むよ」「昔、お前がアパートを借りるとき、オレが保証人になったじゃないか」
と、大昔の話まで持ち出してくる始末です。しかも、印鑑と運転免許証を持って数日中に事務所に来てくれと言うのです。

「そんなこと言われても急に行けないよ。書類を送ってくれよ。よく見て検討するよ」
「それじゃ時間がないんだよ」
「前に、応援部出身で新宿でエグい仕事をやっているやつがいるって話していたじゃないか。オレなんかよりあいつに頼めばいいじゃないか?」
「本音を出して話せるやつと話せないやつがいるんだよ」
「じゃあ、兄弟がいるじゃないか? 兄さんはちゃんとした会社に勤めているじゃないか。オレなんかよりよほど信用があるだろう」
「兄弟でも頼めない場合があるんだよ」
「おい、そんなで大丈夫かよ」

とにかく、考えておくと言って電話を切りました。ところが、そのあと、スマホに知らない番号から電話が来るようになったのです。もちろん、登録をしていない番号です。当然、無視しました。しかし、一日に何度も着歴が残っていました。

翌日も友人から電話がかかってきました。事務所に来てくれの一本やりです。

「そんなの無理だよ」
「頼むよ」
「なんでそんなに急いでいるんだよ」
「時間がないと言われているんだ」
「それは営業マンの都合だろう。ノルマに追われているので、そう言っているだけだろう」

「じゃあ、月曜日(三日後)に来てくれ」
「無理だよ。書類を送ってくれよ」
「そんな時間がないんだよ」
「オレは契約の内容も知らない。それでいきなり保証人なんかなれないよ」

「リースっていくらなんだよ」
「月に三万五千円だ」
「三万五千円? だったら五年リースで二百万超すじゃないか? お前の仕事でそんなコピー機いらないだろう」
「いるんだよ」
「安いファックスとスキャナーを買ってパソコンでプリントアウトすればいいじゃないか?」
「お前みたいにパソコンができないんだよ」
「だからって二百万のコピー機をリースすることないだろう」
ホントにコピー機なんだろうかという疑問が私の頭をよぎりました。

彼の仕事は、(ちょっとカッコよく言えば)文化人や芸能人を相手にする仕事です。別にコピーを生業にしているような仕事ではありません。それに、社員もいない、「一人社長」の吹けば飛ぶような個人事業であることには変わりがありません。

友人と電話で話した途端に、知らない番号からの電話もピタリと止みました。やはり、友人が私の電話番号を教えていたのかもしれません。業者も一緒になって、私に保証人の依頼の電話をかけていたのか。

中には、この程度の保証人でと思う人もいるかもしれませんが、私はこの程度の生活しかしてないのです。

よく年を取ると人間が丸くなると言いますが、私の場合は、ますます嫌味たらしく且つ計算高くなっている気がします。もちろん、”いい人”でいたいという気持もありますが、若い頃に比べて損得勘定でものを考えることが多くなりました。

ときには、今までの人生で、ホントにお世話になった人間は何人いるだろうなんていやらしいことを考えたりすることもあります。

もちろん、人間関係が打算だけじゃないと言うのはわかります。打算で考えるのは下の下だというのも充々わかっています。でも、年を取るといろんな意味で余裕がなくなるので、打算でものを考えるようになるのです。

本音はもちろん断りたいのですが、だからと言ってはっきりと言い出せない自分もいます。

既出ですが、吉本隆明は、お金を借りに来た友人に次のように言ったそうです。

(前略)吉本は千円札を三枚、私の手に握らせると言った。
「俺のところもラクじゃない。しかし、この金は返さなくてもいいんだ。なあ、佐伯(注:筆者のこと)。人間ほんとうに食うに困った時は、強盗でも何でもやるんだな」

川端要壽『堕ちよ!さらば-吉本隆明と私』(河出文庫)


自分の事になると言うは易し行うは難しですが、こういうところに私たちの人生の現実があるのはたしかでしょう。と言うか、私たちは、ホントはこういった現実のなかでしか生きてないのです。私たちが持っていることばも、こういった現実の中から生まれたものです。そのはずなのです。


関連記事:
お金が全てではない
2019.03.01 Fri l 日常・その他 l top ▲
今日の早朝6時前、車で首都高を走っているときでした。既に車は多く走っていましたが、まだ流れは順調でした。

途中、前方にスピードの遅い車が走っていたので、追い越そうとドアミラーで確認して右に車線変更したときでした。後ろから猛スピードで車がやってきたのです。そして、私の車の後ろにピタリと付け、プープープーとけたたましくクラクションを鳴らしながら激しくパッシングするではありませんか。

ルームミラーで見ると、ボンネット型のバンです。どこかの営業車なのでしょう。私は、頭に来ましたが、まさか首都高の上で急停車するわけにはいきませんので、しばらく走ったのち、左に車線変更をしました。すると、私の方にわざと車を寄せながら走り去って行ったのでした。横にピタリと付けられた際、運転手を見ましたが、五十絡みの作業服のようなものを着た男性でした。しかし、運転手はこちらを睨みつけるでもなく、まるで何かに取り憑かれているかのように正面を凝視したままでした。私は、逆にそれが怖いなと思いました。

こう書くと、ただ急いでいるだけだろうと言う人がいるかもしれません。また、あおり運転を受けないために心がけることを書いた記事なるものを見たこともあります。まるであおり運転は仕方ない面もあり、あおられる方にも非があるのだと言わんばかりです。

でも、テレビニュースなどで取り上げられるような事例の方がむしろ特殊なのです。動画を見ると、車から降りて窓ガラスをドンドン叩いたり、暴言を吐いたり、車体を蹴上げたりしていています。なかには、酒を飲んでいたケースもあるようです。

あおり運転は、そんな特殊なものだけではないのです。もっと日常的にあるものです。車を運転している人だったら、普段誰しもが経験していることでしょう。むしろ、急いでいるのだろうとかトロトロ走っているからあおられるのだ、などというもの言いこそがあおり運転をはびこらせる要因になっているように思います。

あおり運転は、事故を誘発するケースも多いのです。中でも運転に未熟な人ほど、後ろからあおられたら、気が動転して運転を誤る危険性も大きいでしょう。しかも、運転に未熟な人ほど、あおり運転のターゲットになるケースが多いのです。

あおり運転もメンヘラの一種と言えないこともないでしょう。放っておくとどんどんエスカレートするという点も含めて、あおり運転はDVと似ている気がしないでもありません。警察は、特殊な事例をアピールすることで一罰百戒を狙っているのかもしれませんが、これほど社会問題になってもなおあおり運転をしているような人間には、もはや一罰百戒なんて効果がないのは明白です。

それは、歩きスマホと同じです。電車に乗ると、「歩きスマホは危険ですからやめましょう」とうるさいほどアナウンスしていますが、常識のある人間はもうとっくにやめています。今でも歩きスマホをやっている人間には、そんなアナウンスは馬の耳に念仏でしょう。それより、万歩計のような仕組みを利用して、歩行中にスマホを操作できないような機能をスマホ本体に組み込むべきです。HUAWEIがどうのといった陰謀史観に囚われる前に、まずそういった身近な問題を検討すべきなのです。

言ってもわからない人間はいくら言ってもわからないのです。

新東名では、ヘリコプターであおり運転を監視しているようですが、ヘリコプターで監視して、果たして一日に何件摘発できるのでしょうか。

ヘリコプターで監視するような手間暇があるなら、私たちが普段利用する道路で日常的に行われているあおり運転をもっと摘発すべきです。警察庁は、あおり運転の取り締まりを強化して、2018年度は年間1万件以上摘発し、前年に比べ倍増したと胸を張っていますが、倍増であれなんであれ、あおり運転が日常的に繰り返されている現実は何ら変わりはありません。

私の経験では、トラックやバンなど営業車によるあおり運転が多いように思います。日頃からその道路を利用しているので、「オレたちの道路だ」「邪魔なんだよ」というような意識がはたらいているかもしれません。

昔から大型ダンプの運転が危険だと言われていますが、彼らはダンプカー協会という後ろ盾があるからなのか、我が物顔でやりたい放題のように見えます。また、深夜の「PRESS」と書いた新聞社の配送トラックや、収集を終えて湾岸部の清掃工場に向かう首都高のゴミ収集車もあおり運転の常習者です。「PRESS」ならあおり運転してもいいのか、ゴミ収集という公共サービスに携わっていればあおり運転をしてもいいのかと思ってしまいます。また、平日の夕方、環八の外周りなどでは、現場帰りの人夫送迎の箱バンがよく前の車をあおりトラブルになっているのを目にします。

あおり運転においても、後ろ盾(天下りの業界団体)のない一般車ばかりがやり玉に上がっていますが、常習的な”営業車”を重点的に取り締まれば、もう少し道路も平和になるでしょう。後ろのガラスに「後方録画中」というステッカーを貼っている車がありますが、自分を守るにはそんな方法しかないのかと思ってしまいます。あおり運転の問題にしても、悪貨が良貨を駆逐するような現実があるのです。あおり運転は、私たちの日常で半ば常態化しているのです。テレビで取り上げられる特殊なケースだけではないのです。
2019.02.13 Wed l 日常・その他 l top ▲
今日(1月7日)は昭和天皇崩御の日だそうです。もうあれから30年経ったのかとしみじみとした気持になりました。

昭和天皇の容態が予断を許さない状態であることが伝えられた年末から、日本中は自粛ムードでした。当時、私は、ポストカードやポスターを輸入する会社に勤めていたのですが、自粛ムードの煽りでクリスマスカードが売れず、会社ではみんな焦っていました。

話は飛びますが、「大喪の礼」(2月24日)の日、私は金沢に出張していました。ところが、出張先に社長から連絡があり、話があるのですぐ戻って来いと言われました。それで、私は、急遽、特急電車に乗って帰京し、そのまま新宿のホテルの喫茶室で社長に会いました。

社長は深刻な顔をして、クリスマスカードの販売不振が響いて会社の経営状態がよくないと言っていました(もっとも、前から会社の経営状態はよくなくて、自粛ムードでトドメを刺されただけです)。

「このままだと会社は潰れる。お前に東京より西の販路をやるので、独立しろ」と言われました。今だったら喜んで独立したでしょうが、”サラリーマン根性”が染み付いていた当時の私には、独立なんてとても考えられませんでした。私は、会社を縮小して、10人程度で再出発したらどうかと提案したのですが、社長はそれは無理だと言ってました。

それからほどなく会社は倒産し、私は同じ業界の別会社に転職。数年後、会社を辞め、結局独立することになるのでした。

平成元年は、個人的にも大きな出来事がありました。前年の秋に父親が入院し、平成元年の5月に亡くなったのです。父親の容態もまた予断を許さない状態がつづいていましたので、年末年始も九州に帰り、入院している父親の病院に詰めていました。母親は病院に寝泊りしていましたので(当時は、付き添いのために家族が病院に寝泊りすることができたのです)、実家には誰もいません。それで、大晦日も病院の近くのホテルに泊まったのを覚えています。

そんな状況のなかで、1月7日の崩御の日を迎えたのでした。私が崩御を知ったのは、通勤する電車のなかでした。スマホなんてありませんので、横に立っていたサラリーマンの会話が耳に入ったのでした。

「天皇陛下が死んだな」
「ああ、これで競馬も中止だよ」

サラリーマンたちは、そんな“不謹慎”なことを話していたのでした。ふと外を見ると、電車は鉄橋にさしかかり、鉄橋の下の川べりでは、魚を釣っている人がいました。それもいつもの光景でした。

会社に行くと、みんなは口々に「今日、どうすればいいんだろう」と言ってました。みんな、戸惑っていたのです。

会社の営業部門は、数か月前に荻窪の駅前のビルに移転したばかりでしたが、荻窪の駅前では、ヘルメットにタオルで覆面をした中核派のメンバーが40~50人くらい集まり、「天皇賛美を許すな!」と演説しながらビラを配っていました。そのため、機動隊も出動して、駅前は騒然とした雰囲気になっていました。私たちは、窓際に立ってその様子を見ていました。また、お茶の水の明治大では、革労協のメンバーが路上に火炎瓶を投擲したというニュースもありました。

私は、「昭和天皇より絶対長生きするんだ」と言っていた吉本隆明のことを思い出しました。正月に帰ったとき、母親は、「天皇陛下とどっちが先じゃろうか?」と言ってましたが、父親は昭和天皇より長生きしたんだなと思いました。と言っても、父親は戦争にも行ってませんので、昭和天皇に格別な思い入れがあったわけではありません。

仕事を終えた私は、池袋と新宿の間を何度も行き来しました。昭和の最後の日の街の様子を目に焼き付けておこうと思ったからです。今調べたら1989年1月7日は土曜日でした。新宿の駅ビルの入口には、ネオンが消えた薄暗いなかに、人がぎっしり立っていました。これから待ち合わせて週末の街に繰り出そうという人たちなのです。池袋でも同じでした。ネオンが消えた街は、いつもと違いおどろおどろしい感じでしたが、人々はいつもの日常を過ごそうとしていたのです。そんな様子を写真家の卵なのか、若い女性がカメラにおさめていました。

その日からテレビは追悼番組で埋め尽くされました。アナウンサーもみんな喪服を着ていました。ゲストで呼ばれた人たちも、一様に黒っぽい服装をして、沈痛な表情を浮かべ昭和天皇の人となりを語っていました。

当時、私は、埼玉に住んでいたのですが、翌日には街の至るところで異様な光景を目にしました。貸しビデオ屋の前に、車がずらりと列を作って並んでいたのです。その頃はまだTSUTAYAもなく、街のあちこちに地域のチェーン店や個人が経営する貸しビデオ屋がありました。追悼番組に飽きた人たちが貸しビデオを求めて、店に殺到していたのです。

そこにもまた、日常を切断された人々の”ささやかな抵抗”があったのです。こういった”ささやかな抵抗”は戦争中もあったそうです。でも、「公」に対して「私」はあまりに無力なのです。すべては何事もなかったかのように処理されるのでした。追悼一色に染まったメディアで、そんな”ささやかな抵抗”を報じたところはどこもありませんでした。

あれから30年。時間の経つのは速いものです。今日、新横浜に行ったら、駅ビルのなかに「10周年ありがとう!」という垂れ幕がありました。駅ビルができてもう10年になるのです。このブログにも、建設中の駅ビルのことを書いたことがありますが、なんだか10年が束になってやってくる感じで、年を取れば取るほど時間の経つのが速くなるというのはホントだなと思ったばかりでした。

一方で、平成の時代は、日本が経済的に沈み行く国だということがはっきりした30年でもありました。下記の平成元年と平成30年の時価総額ランキングの比較を見れば一目瞭然です。

DIAMOND online
昭和という「レガシー」を引きずった平成30年間の経済停滞を振り返る

時価総額比較

でも、相変わらず「ニッポン、凄い!」ブームはつづいています。また、現在、自粛ムードと同じように、徴用工やレーダー照射の問題をきっかけにメディアをおおっている嫌韓ムード(の再燃)などを見るにつけ、貧すれば鈍すではないですが、日本社会や日本人は益々余裕がなくなり、自分を客観的に(冷静に)見ることすらできなくなっているように思えてなりません。「日本を、取り戻す」という自民党のキャッチフレーズが象徴するように、いつまでも”過去の栄光”にすがり、成長神話というないものねだりを夢見るだけで、今の身の丈に合った国家観や社会観はどこにもないのです。前も書きましたが、坂を下る思想や坂を下る幸せだってあるはずなのです。
2019.01.07 Mon l 日常・その他 l top ▲
先日、年上の知人と会ったら、なにやら深刻な表情でしきりに嘆いていました。会社を定年で辞めて、嘱託(という名のアルバイト)で別の会社に勤めているのですが、そこで社員とささいなことからトラブルになり、30歳年下の、文字通り息子ほど年の離れた若い社員から、「この野郎!」「お前は何が言いたいんだ!」と襟首を掴まれ怒鳴り付けられたのだそうです。

「若い人間から『お前』呼ばわりされ罵声を浴びせられたら凹むよ」と言ってました。だからと言って、まだ住宅ローンが残っているので、おいそれと辞めるわけにもいかず、毎日、憂鬱な気分で会社に通っていると言ってました。

彼は、一流大学を出た、博識で頭脳明晰な人物です。怒鳴り付けた社員など足元にも及ばないインテリです。しかし、こう言うと、「いつまでも過去の栄光にすがっている老人」みたいに見られて、「だから自尊心の強い年寄りは使いにくいんだ」と言われるのがオチでしょう。

私は、何と殺伐とした風景なんだろうと思いました。新自由主義的な考えがここまで個人の内面を蝕んでいるのかと思いました。経済合理性が、人間や人生を見る目にも影が落としているのです。敬老精神を持てなんて野暮なことを言うつもりはありませんが、そこには相手の立場を思いやる一片の想像力さえないのです。

私は、知人の話を聞きながら、昔観た「トウキョウソナタ」という映画のワンシーンを思い出しました。会社をリストラされた主人公が、再就職先を求めて面接に臨むのですが、若い面接官から「あなたは会社に何をしてくれますか?」「あなたは何ができますか?」と詰問された挙句、けんもほろろに追い返され、絶望的な気持にさせられるのでした。それは、新自由主義に染まりつつあるこの社会を暗示するような場面でした。

「トウキョウソナタ」についても、このブログで感想文を書いていますが、今、確認したら、前の記事の「歩いても 歩いても」と同じ2008年の日付になっていました。

何度も言いますが、「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。私達は、そんな日常にまつわる観念の中で生きているのです。私達の悩みの多くは、その観念に関連したものです。もとより、”生きる思想”というのがあるとしたら、息子ほど歳の離れた人間から怒鳴り付けられるのを歯を食いしばって耐えるような、そんな日常から生まれた言葉の中にしかないでしょう。


関連記事:
「トウキョウソナタ」
2018.10.05 Fri l 日常・その他 l top ▲
昨日の夕方、副都心線に乗っていたら、酔っぱらったネパール人らしき若者が二人、渋谷から乗ってきました。二人はかなりの酩酊状態で、車両全体に響き渡るような大声で喋っていました。聞いたこともないような外国語でした。喧嘩でもしているのか、お互い興奮してまくし立てていました。

電車は、週末に都心の繁華街に出かけて、これから帰宅する人たちでかなり混んでいました。二人は足元も覚束なくて、電車が揺れるたびに、身体がふらつき周囲の人たちにぶつかっていました。しかも、一人が缶コーヒーを持っていたのですが、ふらつくたびに飲み口が横に傾き、中身のコーヒーが床にこぼれていました。床には液体の染みがあちこちにできていました。そのためもあって、いつの間にか二人の周りに空間ができていました。

私は、少し離れたところに立っていたのですが、注意しようかと思いました。今までも何度か、似たような場面で注意したことがありました。中には、相手の反発を招きトラブルになったこともありました。ホームでもみあいになって、駅員から「警察を呼びますよ」と言われたこともあります。友人から、「やめなよ。そんなことしているとそのうち刺されるよ」と忠告を受けたこともありました。

私は、「迷惑だ」は英語でなんと言うんだっけと思いました。ネパール語は無理だけど、英語だと通じるのではないかと思ったのです。「降りろ」は「get down」でいいのか、スマホのGoogle翻訳で調べようかなと思いました。

でも、そう思いながら、あらためて電車の中を見渡しました。週末で、しかも夏休みなので、若者や家族連れが多く、ネパール人の近くには髭を生やしたストリートファッションの若者もいました。小さな子どもをかばうように立っている若い父親もいました。でも、みんな、見て見ぬふりなのです。顔をしかめて彼らを睨みつける人間すらいません。みんな、知らんぷりしてスマホの画面を見ているだけです。

そこで私は思いました。私が注意してまたトラブルになり、ホームに降りろというような話になっても、みんな、自分たちの身に火の粉がかからないように見て見ぬふりをするだけなんだろうなと。へたに正義感を出して行動を起こしても、所詮バカを見るだけなんじゃないかと。自分の中に、そういった損得勘定のようなものが働いたのでした。

そして、いつの間にか、二人の酔っぱらいより、見て見ぬふりをしている乗客たちのほうに軽蔑の眼差しを向けている自分がいました。過去に、ホームでトラブルになったとき、「何、この人たち」というような冷たい目で見られた体験がよみがえってきたのでした。それに、相手がネパール人だと、レイシストと触れ衣を着せられる可能性だってあるでしょう。

もちろん、なにか背負った(しょった)気持があるわけではありません。「ちょっとした正義感」にすぎません。とは言え、行動を起こすには勇気もいります。しかし、あの冷たい視線を思い出すと、バカらしくなり気持も萎えてくるのでした。

電車の中で、マナーの悪い乗客に対して、「何だ、お前は」みたいに注意すると、逆に周りから白い目で見られるのはよくあることです。見て見ぬふりをするのは、彼らの処世術なのです。そうやって「善良な市民」としての日常の安寧と秩序が保たれているのです。私は、電車の中を見回しながら、「卑怯な大衆」という言葉を頭に浮かべていました。

オウム真理教の死刑執行も然り、杉田水脈の”悪魔の思想”も然りです。みんな、見て見ぬふりなのです。自分たちの社会の問題なのに、所詮は他人事なのです。少しでも考えることすらしないのです。

この社会には、見て見ぬふりをすることが誠実に生きている証しだみたいな“大衆民主主義”のイデオロギーがあります。他人を押しのけて我先に座席に座る人々も、それが懸命に生きている証しであるかのようなイデオロギーがあるのです。

「小さなお子様連れ」という文言をいいことにして、週末のシルバーシートがベビーカーの家族連れに占領されているのをよく目にします。しかし、「小さなお子様」は通路を塞ぐベビーカーに乗っていて、シルバーシートに足を組んでふんぞり返って座っているのは、「小さなお子様」の親たちなのです。それがさも当然の権利だと言わんばかりです。

でも、そんな親たちを批判すると、この国は子育てをする母親に冷たいなどと、識者から批判を受けるはめになります。シルバーシートに足を組んでふんぞり返って座っている親たちは、子育てに無理解なこの国で苦労している、”恵まれない大衆”でもあるのです。たとえ武蔵小杉のタワーマンションに住んでいてもです。そのため、自民党から立憲民主党や共産党までが、彼らの歓心を買おうと耳障りのいい(そして、ほとんど大差ない)子育ての施策をアピールしているのでした。

あの杉田水脈でさえ、問題になった『新潮45』の文章では、「子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うという」のは、「少子化対策のためにお金を使うという大義名分」があると言っています(一方で、子供を産まない、「生産性」のないLGBTのために、どうして税金を使わなければならないのかと言うのです)。今や左右を問わず、子育て支援は最優先課題なのです。間違っても彼らを「卑怯な大衆」なんて言ってはならないのです。

私は、「ちょっとした正義感」に身を委ねるのは、もう「や~め~た」と思いました。その結果、自分も見て見ぬふりをする一人だと見られても、それでもいいと思いました。なにより「バカらしい」と思ったのでした。


関連記事:
雨宮まみの死
2018.08.05 Sun l 日常・その他 l top ▲
このところ体調がすぐれず、ずっと寝てすごしていました。先日、病院に行ったら、また一つ薬が増えました。これで毎日4種類の薬を飲まなければなりません。

田舎に帰って高校時代の同級生と食事に行ったときのことです。食べ終えると、向かいの席の同級生は、やにわにカバンから「内服薬」と書かれた袋を出して、テーブルの上に薬を並べたのでした。私は、それを見て思わず苦笑しましたが、もちろん、私とて例外ではありません。私たちの年代になると、食後と就寝前の薬が日課になってくるのです。

年を取ってくると、身近なことに思い煩わされるようになります。所謂「大状況」より「小状況」が切実な問題になってくるのです。言うまでもなく、その先にあるのは「死」です。しかし、死に至るまでにも、身過ぎ世過ぎの苦悩はつづくのです。

体調がすぐれないと、ひどく弱気になっている自分がいます。深夜、ひとり湯船に浸かり、水滴のついた天井を見上げながら、無性に悲しい気持になることがあります。人生に対して後悔の念に襲われ、いたたまれない気持になるのです。「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」という森鴎外の気持が痛いほどわかるのです。

「ナマポ老人」などと自嘲しながら、本や政治などについて精力的に記事を書いていた高齢者のブロガーがいました。昨日、久しぶりにブログにアクセスしたら、昨年の11月から更新が途絶えていました。しかも、昨年は3本の記事しかアップされていません。本や政治などの発言はすっかり影を潜め、生活苦を訴える書き込みが並んでいるだけです。

低年金のために生活扶助を受けている人間は、「生活保護」ではなく「年金生活者(生活保護併用)」と呼ぶべきだと書いていました。「ナマポ老人」などという、世間の顰蹙をものともしないような“開き直り”も影を潜めていました。

吉本隆明が言うように、ホントに困ったら強盗でもなんでもするしかないのです。生活するのに切実な状況に陥ったら、本や政治などの話をしている余裕はなくなるのです。「大状況」なんて衣食足りた上での話です。

そう考えれば、森友文書改ざん問題に関する参院予算委員会の集中審議を見て、「自民党はどうして青山某や和田某のような下等物件(©竹中労)を質問に立たせたんだろう?」「自爆しようとしたのか?」などと憤慨したり呆れたりするのも、まだまだ若い証拠なのかもしれません。政治に悪態を吐いているうちが華かもしれないのです。


2018.03.20 Tue l 日常・その他 l top ▲
元日は大手のスーパーは休みなので、夜、近所の食品だけを扱っているミニスーパーに行きました。

店内に入ると、数人の先客がいました。いづれも中年の男性ばかりでした。レジにはアルバイトと思しき若い男の子と女の子が立っていました。

奥の飲み物などを置いている棚のところに行くと、そこにも一人の男性が商品を物色していました。ところが、私の姿を見ると、ヨーグルトをひとつだけ手に持って売り場を離れ、入口の脇にあるレジに向かったのでした。棚のあるところはレジから死角になっています。私は何気に男性の後ろ姿を目で追いました。

すると、男性はレジを通り抜けてそのまま外に出たのでした。たしかに手にはヨーグルトのカップを持っていたはずです。

私は、レジに行って、「今の人万引きだよ」と言いました。「手にヨーグルトを持っていたはずだよ」。

しかし、レジの若者は、「そうですか」「わかりませんでした」と言うだけで慌てる様子はありません。「こらっ!」と叫びながら追いかける場面を想像していたので、なんだか拍子抜けしました。アルバイトの彼らには、どうだっていいことなのでしょう。私は、この店は万引きし放題だなと思いました。万引き犯も、それを知ってやったのかもしれません。

万引き犯は、40~50歳くらいで、ジャンパーを着た見るからにさえない感じの男性でした。バックを肩から下げていましたので、もしかしたら仕事帰りなのかもしれません。

元日に、ヨーグルトを1個万引きする中年男性。なにが哀しくてそんなことをしなければならないんだろうと思いました。吉本隆明は、お金を借りにきた友人に、「人間ほんとうに食うに困った時は、強盗でも何でもやるんだな」と言ったそうです。たしかに、強盗だったらまだしも納得ができます。どうしてヨーグルト1個だけなのか。

メンヘラで万引きをするケースも多いそうですが、男性はそんなふうには見えませんでした。もちろん、腹を空かした子どもが家で待っているようにも思えません。おそらく浅慮なだけなのでしょう。捕まったら「レジでお金を払うのが面倒くさかったから」なんて言い訳をするのかもしれません。カギのかかってない自転車を拝借したり、目の前の忘れ物をこっそり懐に入れたりするのも同じでしょう。もっと飛躍すれば、人を押しのけて座席に座る人や、歩きタバコや歩きスマホをする人も似たようなものかもしれません。

そんな人たちをどう考えるかというのも、大事な思想です。ヒューマニズムでは、あんなやつはゴミだと切り捨てることはできないのです。もとより「ゴミ」なんてことばは使ってはならないのです。

抑圧された人民。そんなステロタイプな考えだけでは捉えられない現実が私たちのまわりには存在します。政治などより、そんな日常にある現実のほうがホントは切実なのです。モリ・カケに対する怒りより、駅のホームで列に割り込まれたときの怒りのほうが、私たちにとっては大きなことなのです。

平岡正明のように「あらゆる犯罪は革命的である」と考えれば、そう言えないこともありません。でも、私はやはり、情けないという思いしかもてないのでした。

このようにヒューマニズムの思想は、私たちの日常やそこにある個人的な感情の前では無力、とは言わないまでも非力なのです。だから、見ないことにしたり(見て見ぬふりをしたり)、取るに足らないことだと無視を決め込んだりするのかもしれません。それが現実をかすらない所以のように思います。


関連記事:
知の巨人たち 吉本隆明
2018.01.01 Mon l 日常・その他 l top ▲
毎年書いていることですが、年の瀬はどうしてこんなに淋しい気持になるんだろうと思います。年を取ると、よけいその気持が強くなります。しかも、そこには少なからず侘しさも伴っているのです。

クリスマスの時期になると、最近はどこもイルミネーションばやりですが、カップルや家族連れなどがさも楽し気に嬌声をあげている前を通るのは、苦痛で仕方ありません。そのため、気が付いたら、いつの間にかイルミネーションを避け、遠回りして歩くようになっている自分がいました。

イブの日、野暮用で渋谷へ行ったら、革命的非モテ同盟という集団(と言っても十数人)のデモに遭遇しました。

革命的非モテ同盟
https://kakuhidou.fumizuki.net/

「クリスマス粉砕!」「恋愛資本主義反対!」「街中でイチャつくのはテロ行為。テロとの戦いを貫徹するぞ!」「セックスの回数で人間を差別するな!」「セックスなんかいくらやったって無駄だ!」(サイトより)などというスローガンを掲げてデモをしていましたが、立ち止まってデモが通り過ぎるのを見遣りながら、心のなかで拍手喝さいを送っている自分がいました。

でも、考えてみたら、「非モテ」も若い人の話なのです。年を取るのは、「非モテ」以前の話です。

私たちが若い頃はちょうどバブルの真っ只中でしたので、クリスマスは恋人とディナーを楽しみ、都心のホテルで一夜をすごすのが定番でした。

当時、私は六本木にある会社に勤めていたのですが、イブの夜、仕事を終え駅へ向かう途中、あるレストランの前を通りかかった際に目にした光景を今でもよく覚えています。その店は半地下になっていて、通りから店内が見渡せるのですが、見ると、壁際の席に女性が、反対の通路側に男性がお行儀よく一列に並んで座っているのでした。まるでおやつの前に勢ぞろいさせられた幼稚園児のようでした。しかし、当時の私もまた同じようなことをしていたのです。

赤坂プリンスホテルは「赤プリ」なんて呼ばれ、イブの夜をすごすカップルにとってはあこがれのホテルでしたが、煌々と灯る客室の明かりを見上げながら、あのそれぞれの部屋でみんないっせいにセックスをしているのかと思うと、なんだかホテルの灯りも妖しく揺れて見えたものです。

でも、今は昔、私は背を丸め、白髪交じりの頭をうつむけて、これからイブの夜を楽しむカップルや家族連れとは逆方向に家路を急いでいるのでした。

クリスマスが終わると、学校も冬休みになり、電車もいっきに空いてきます。それにつれ、キャリーバックを持った乗客の姿も目に付くようになりました。

一方で(これも毎年書いていることですが)、人身事故で電車が遅れることも多くなります。

おせっかいなテレビが、年末年始を一人ですごしている人間のアパートをアポなし訪問して、どうして一人ですごしているのか事情を訊く番組がありますが(私だったら水をかけて追い払うけど)、私もいつの間にか、そんな「一人正月」の人間になっていたのです。

でも、今、イルミネーションの前で嬌声をあげている若者たちも、そのうちイルミネーションを避けて歩くようになるでしょう。そうやって時はめぐって行くのです。

年は取りたくないものだと思います。しかし、容赦なく年は取って行くのです。それもあとで考えれば、あっという間なのでした。
2017.12.26 Tue l 日常・その他 l top ▲
年を取っても、社会に媚を売るような衛生無害な好々爺なんかではなく、永井荷風のような好色で偏屈な老人になりたいと思っていますが、好色はともかく、偏屈ぶりはそれなりに身に付いている(身に付きつつある)気がします。

今日、最寄りの駅で改札口を出ようとしたときでした。その改札機はいつも出口専用に設定されているのですが、なにを勘違いしたのか、前からやってきた初老の男性が、私に先を越されまいとするかのように、急いで財布を取り出しセンサーのところにタッチしたのでした。当然、エラーが出て通ることができません。

すると、男性は再び財布をセンサーに(前より激しく)タッチしたのでした。結果は同じです。男性は、髪の毛がヘルメットのようにベタッと貼り付いた、見るからにむさ苦しい感じで、パスモ(かスイカ)が入っている財布もボロボロに使い古されたものでした。

男性は、みずからの勘違いに気付かず、何度も同じ行為を繰り返しています。私は、改札機の前で男性の行為が終わるのを待っていました。しかし、学習能力のない男性の行為は終わりそうもありません。

すると、そのとき、しびれを切らした私の口からつぎのようなことばが発せられたのでした。

「違うだろ、タコ!」

最近、この「タコ」ということばがよく口をついて出るのです。そのため、相手が怒ってときどきトラブルになることがあります。

男性は、私のことばでやっと自分の勘違いに気付いたようで、隣の改札機に移ったのでした。ただ、改札機を通るとき、「なんだ、こいつは」というような目で私のほうを見ていました。

そのあと、私は、駅前のスーパーに行きました。買い物を終え、レジで精算し、台の上で買った食品を買い物カゴからレジ袋に移そうとしたときです。レジ袋のサイズが小さくて、買ったものがはみ出すほどでした。

そこで、私は、レジ係の女性のもとへ歩み寄り、こう言ったのです。

「ケチらないで、もっと大きな袋をくれないかな」

レジに並んでいたお客たちは、一様にキョトンとした顔で私を見ていました。

とは言え、永井荷風は行きつけの天ぷら屋で、いつも座っている席に他の人間が座っていたら、その後ろに立って、わざと大きな咳払いをして席をのかせたそうで、それに比べれば私などはまだ初心者です。永井荷風の域に達するには、まだまだ修行が足りないのです。


関連記事:
永井荷風と岸部シロー
2017.12.04 Mon l 日常・その他 l top ▲
在日朝鮮人のことを口にするのが、なんだか憚られる空気があります。それは、ありもしない“在日特権”なるものを妄信するネトウヨが街頭にまで進出し、耳を塞ぎたくなるような差別的暴言を垂れ流した反動と言えるのかもしれません。萎縮する(させる)ということと差別を解消するということは、まったく別問題でしょう。むしろ悪質な差別を地下に潜らせる結果にもなりかねないように思います。

ここで言う「在日朝鮮人のこと」というのは、在日の歴史的な経緯や政治的な側面のことではありません。身近にいる在日との付き合い方のことです。「身近にいる在日」というのは、エリートやインテリや、あるいは政治的思想を共有する人たちのことではありません。たとえば、『あんぽん』で描かれていた孫正義の身内のような、私たちと生活圏を共有し社会の基層を形成している、(私たちと同じように)矛盾だらけの人生を生きるごく普通の人たちのことです。

このブログでも書いていますが、私自身、若い頃、在日の女性と8年近く付き合った経験があります。もちろん、二人にとって、在日が置かれた歴史的な経緯や政治的な側面など、まったく関係のないことでした。とは言え、そういった側面が二人の意図とは別に、ときに顔を覗かせることがあったのも事実です。

朝鮮総連に勤める叔父さんから襟首を掴まれ、「お前のような日本人には××(彼女の名前)はやらんからな」と言われたとき(それも招待された親戚の結婚式の席で)、差別というのは、差別する側だけでなく差別されるほうにも深刻な問題をもたらすものだなと思いました。だからと言って、日本人は「朝鮮の人たち」にひどいことをしてきたのだから、「朝鮮の人たち」が言うことは謙虚に受け止め、まず謝ることが大事だ、そして、相手の立場になって話せば許してもらえるはずだ、なんて考えはまったくありませんでした。ただ「なんと礼儀知らずのバカなんだろう」と思っただけです。

「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。私はたまたま在日朝鮮人の家庭に生まれた女の子と出会い恋に落ちただけです。歴史や政治と恋をしたわけではないのです。

もちろん、日本人と朝鮮人との違いを感じることは多々ありました。私は、彼女と付き合っている間、ずっとその違いについて考えてきたつもりでした。

前も書きましたが、私はよく彼女に「朝鮮人は勝ったか負けたか、損か得かでしか判断しない」と言ってました。一方、彼女は、「日本人はずるい、表と裏があるのでなにを考えているかわからない」と言ってました。

最近、私は、仕事の関係で在日朝鮮人とトラブルを経験しました。それは、仕事そのものより、人間関係におけるトラブルと言っていいでしょう。そこにも、日本人と朝鮮人との違いがよく出ているように思います。

一緒に仕事をはじめた当初、相手はやたら私にケンカを吹っかけてきました。何かにつけケンカ腰で、すぐ怒鳴りはじめるのです。それで、私も怒鳴り返したりしていましたが、そこには日本人と朝鮮人の他人に対する考え方の違いが出ているように思いました。

朝鮮人にとって、他人は「勝ったか負けたか」の競争相手、ライバルなのです。他人との関係において、まず優位に立つことが大事なのです。それは、霊長類かおこなうマウンティングを想像すればわかりやすいかもしれません。

朝鮮人に協調という観念はあまりありません。日本人の場合、小学校の通知表にも「協調性」の項目があるように、まず協調することが大事とされます。そのためには、本音と建て前を使い分け、みずからを殺して気を使い、空気を読まなければならないのです。それはそれで、とても疲れることです。でも、朝鮮人にはそういった屈折した感情はありません。

そのため、朝鮮人同士だと、我の強い人間がお互い(直情的に)自己主張するわけですから、当然ケンカになります。知り合いの韓国人に聞くと、ソウルなどでは夜になるとあちこちでケンカをしているそうですが、朝鮮人がよくケンカをするというのは故なきことではないのです。

相手がケンカを吹っかけてきても、それにひるんでいると益々かさにかかってきます。ひるむと負けになり、優劣が決せられるのです。負けるが勝ちなんて考えはないのです。朝鮮人が体面を重んじるというのも同じです。「ソウル(東京)を火の海にする」「いつでも核戦争の用意はある」などという北朝鮮の大言壮語も同じでしょう。

「勝ったか負けたか、損か得か」で価値判断をする朝鮮人にとって、大事なのは結果です。結果がすべてで、途中の論理的な整合性や倫理的な妥当性などは二の次です。「嘘を付いてでも言い張る」というのはちょっと言いすぎかもしれませんが、とんでもない屁理屈で自己を正当化するのにびっくりすることがあります。朝鮮人が総じて口達者で雄弁なのも、そういった背景が関係しているように思います。

対馬の寺で仏像三体が盗まれた事件で、窃盗団は韓国で逮捕され有罪判決が出ました。しかし、盗まれた仏像は(行方不明の一体を除いて)一体は返却されたものの、もう一体が未だ返ってきていません。韓国の寺が、盗まれた仏像はもともと韓国に所有権があり、日本が不当に略奪したものであるから返還する必要がないと訴え、裁判所もその訴えを正当と認める判決を出したからです。もっとも、その根拠は、神功皇后や豊臣秀吉の時代の話です。

仮に略奪されたものだとしても、被害にあった対馬の寺は法律で言う「善意の第三者」です。不法な手段によって盗まれたものが現状回復されるのは、法律のイロハだと思いますが、韓国の裁判所には近代法の常識さえ通用しないかのようです。そこにも、論理的な整合性や倫理的な妥当性を問わない韓国人特有の屁理屈が表れているように思います。

朝鮮人は、「日本人と付き合うのはめんどうくさい」と言います。なかでも彼らがよく口にするのは、日本人の「お礼の習慣」についてです。協調や協力という観念に乏しい彼らにとって、たとえばものを貰ったり借りたりしたらお礼をしてお返しをするような習慣は、たしかにめんどうくさいものでしょう。

朝鮮人は、みずから進んで仕事をするという意識がやや欠けるところがあります。それを指摘すると、逆に、(仕事をしろと)言わないのが悪いのだという屁理屈が返ってきて唖然としたことがありました。

朝鮮人は、日本人のように細かくなく、おおざっぱなのです。それは、個人だけでなく、社会的な慣習や制度においても同様です。文化の違いは、私たちが想像する以上に大きいのです。それを認識し指摘することは、ときに言い方に粗雑な部分があっても、決してヘイト・スピーチとは言えないでしょう。

通販でものを買うのに、電話口で通販会社の担当者を怒鳴り付けているのを聞いたとき(買った商品についてのクレームではなく、今から注文するのにその説明が悪いと難癖を付けているのです)、「日本人をなめているのか」と言ってケンカになったことがありますが、そんな民族性に還元するようなもの言いも、ヘイト・スピーチになるのだろうかと思いました。一方で、そうやって怒鳴り合いをするくらいでなければ、相互理解の道は拓けてこないのでないか、と思ったりもするのです。


関連記事:
『あんぽん 孫正義伝』
崔実「ジニのパズル」
『帝国の慰安婦』と日韓合意
2017.07.25 Tue l 日常・その他 l top ▲
夕方、突然、外からお囃子のような音が聞こえてきました。カーテンを開け、ベランダに出ると、近所のスーパーの駐車場に、いつの間にかテントが張られ、提灯に囲われたヤグラが組まれていました。日が落ちた住宅街のなかで、その一角だけが灯りに照らし出され、幻想的な雰囲気さえ醸し出していました。そう言えば、商店街の掲示板に、盆踊り大会を告示する貼り紙があったことを思い出しました。

ただ、上京して30年近く経つものの、未だに7月の盆踊りには戸惑いを覚えてなりません。と言うのも、田舎ではお盆は月遅れの8月におこなわれるのが普通だからです。私のなかには、盆踊りは夏の終わりを告げるイメージがあるのでした。お盆がすぎると、川に泳ぎに行くことも禁止されました。日中、近所の子どもたちの嬌声が飛び交っていた川べりも人影がなくなり、いつもの風景に戻っていくのでした。お盆がすぎると、そんな祭りのあとのさみしさのような気持になったものです。

表の道路を見ると、浴衣姿の子供たちが、親に手を引かれてスーパーの駐車場に向かっていました。私たちが子どもの頃、浴衣は普段着(寝巻)でした。それが今では、祭りや花火大会や盆踊りなどハレのときに着るものに”出世”し、華やかなイメージさえ付与されています。派手な帯などを見るにつけ、なんだかコスチュームのようで、花火大会の日に、これ見よがしに電車に乗り込んで来る若者たちは言わずもがなですが、私は、子どもたちの浴衣姿にも、違和感を覚えてならないのでした。

昔、夏の夕暮れどきになると、近所の大人たちは外に出て、家の前にある椅子や花壇の端に腰かけ、よくおしゃべりに興じていました。男たちは山下清が着ていたようなランニングシャツにステテコ姿で、話をしながらしきりに団扇で寄って来る蚊を払いのけていました。女たちは、一様に割烹着姿で、頭には手ぬぐいを姉さんかぶりに巻いていました。

私たち子どもは、手足が真っ黒になるまで遊んだものです。遊び疲れて帰ってくると、母親は「さあ、さあ、ご飯にしようかね」「早く手と足を洗いなさい」と言って腰を上げるのでした。家のなかからは、夕餉の匂いとともに裸電球の橙色の灯りが漏れていました。そんな光景を思い出すと、なんだか胸を突き上げるようななつかしさを覚えます。あのとき、家の前で夕涼みをしていた父親も母親も、そして、近所のおいちゃんやおばちゃんも、もう誰もいないのです。

今は田舎でもそんな光景を見ることはなくなりました。せいぜいが外から帰ってきた猫を見つけて、「ミーちゃん、さあ、さあ、ご飯にしようかね」なんて言うくらいでしょう。

ベランダからスマホで盆踊りの様子を撮ったのですが、パソコンに保存する際、操作を間違えて画像を消去してしまい、残念ながら画像はありません。
2017.07.23 Sun l 日常・その他 l top ▲
ときどきこのブログをやめようかと思うことがあります。特に「社会・時事」のカテゴリーに入っている記事をすべて削除したい衝動に駆られるのです。あとで読み返しても、くだらない床屋政談としか思えません。これではネトウヨと変わらないでしょう。

私のブログで「社会・時事」カテゴリーの記事が多くなったのは、3.11以後です。しかも、「社会・時事」カテゴリーの記事が多くなるにつれアクセスも伸びてきました。世の中の人たちも、3.11以後、原発事故などにより政治的な関心が高くなったのでしょう。スマホによるSNSの普及がそれに輪をかけたような気がします。私も、いつの間にか、反原発や反ヘイト・スピーチや反安倍の周辺にいるような人物が発信するTwitterを定期的にチェックするようになっていました。

しかし最近は、その手のTwitterも、所詮は“政治ごっこ”にすぎないのではないかと思うようになりました。ネットによって政治が身近になったと言われますが、しかし、夜郎自大にそう錯覚しているだけのような気がしてなりません。

一方で私は、アナーキストなどが使う“反政治”ということを考えるようになりました。政治なるものに対して徹底的に絶望し、あらゆるものを否定する。今の世の中でいちばん欠けているのは、そういった絶望する思想なのかもしれません。

私が書きたかったのは、下記のようなブログです。ことばの端々に人生が投影されているような、そんな「私語り」のブログ。その技量があるかどうかは別にして、世の中に向けて発信するというような大それた(勘違いした)ものではなく、日々の移ろいを記録する、そんな自分に向けたブログをホントは書きたかったのです。

神戸市公式サイト
「ごろごろ、神戸2」
第7回 私の東京

私たちは、普段政治なるものを考えて生きているわけではありません。私たちにとって、政治なんてどうだっていいのです。それこそ「取るに足らないもの」です。もっとほかに考えなければならないことはいくらでもあります。本末転倒した床屋政談のようなブログが、あとで読み返して自己嫌悪に陥るのは当然と言えば当然かもしれません。


関連記事:
政治なんてものはない
2017.07.14 Fri l 日常・その他 l top ▲
小さき花愛でてかなしき名も知らねば
                       君の肩に降る六月の雨


このところ体調がすぐれず、家では寝ていることが多いのですが、そうやって床に臥せっていると、やたら昔のことが思い出されてならないのでした。

実家では、子どもの頃、ジョンという名前の犬を飼っていました。私がまだ小学校の低学年のとき、父親が捨てられていた仔犬を拾ってきたのです。雑種の赤毛の犬でした。

最初は、床の下で飼っていたのですが、大きくなると裏の物置小屋のなかで飼っていました。食事は、もちろん残飯でした。私たちが食べ残したご飯に味噌汁をかけたものが多かったように思います。

ずっと繋がれたままなのでストレスがたまっていたのか、人を見るとやたら吠えて飛びかかるような犬でした。それで、よけい繋がれることが多くなりました。

当時は、今のように散歩なんて洒落た習慣はなく、放し飼いの犬も多かった時代です。私たちもよく犬に追いかけられていました。犬に追いかけられ木に登って難を逃れたものの、犬が木の下から退かないので木から降りられなくなり、半べそをかいたなんてこともありました。

発情期になると、オス犬たちが群れをなして通りをうろついていました。通りで犬が交尾をしている光景もよく目にしました。私たちがはやし立てると、恍惚の表情のオス犬はさらに興奮して激しく腰を振るのでした。

近所の大人がやってきて、「子どもが見るもんじゃない」なんて言いながら、交尾をしている犬に水をかけるのでした。すると、臀部がくっついた二匹の犬は、ベーゴマのように通りの真ん中でクルクル回り続けるのでした。

また、馬喰(家畜商)のオイさん(オジサンのことを九州の田舎ではそう言ってました)が、釜を持って交尾した犬を追いかけたこともありました。私たちは、その様子を手を叩いて笑いながら見ていたものです。

あるとき、近所の朝鮮人のオイさんがやってきて、ジョンを見るなり、「こういう赤犬が美味しいんじゃ」と言ったのです。私は、ジョンが食べられるんじゃないかと心配しました。父と母は、「子どもの前であんなことを言って」と怒っていました。私は、そのことを「うちのジョン」という題で作文に書きました。

二十歳の入院したときに、ジョンは亡くなりました。見舞いに来た父親からそう告げられたとき、窓の外を眺めながらしんみりした気持になったのを覚えています。

つぎに我が家に犬が来たのは、もう私が会社勤めをしているときでした。休みで実家に帰ったら、こげ茶色の仔犬がいたのです。姉が知り合いからもらってきたということでした。既に名前もウタと付けられていました。

ウタの食事は、残飯ではなくドッグフードでした。犬や猫も、既にペットと呼ばれるようになっていたのです。ウタは柴犬で、家の土間で飼っていました。もうその頃は、犬を放し飼いする家もなくなっていました。と言っても、今のように街中でトイプードルやチワワを見かけることはめったにありませんでした。小型犬を飼う家はまだ少なかったのです。

ウタは、私が実家に帰ると、私の足にしがみついて離れようとしませんでした。また、私が傍に行くと、すぐゴロンと横になってお腹を見せるのでした。

あるとき、ウタが行方不明になったことがありました。相変わらず犬を散歩する習慣はなかったので、朝と夜、トイレのために外に放していたのですが、そのまま帰って来なったのです。連れ去られたか、あるいは交通事故に遭って死骸を捨てられたのでないかと親たちは話していました。

ところが、それから1週間経った頃、父親が裏山を歩いていたら、竹藪のなかからこちらを伺っているウタに気付いたのだそうです。驚いた父親が近付いて行くと、ウタは逃げるのだとか。それで、父親は名前を呼びながら懸命に追いかけ、やっと捕まえて家に連れて帰ったということでした。

しかし、そのときのウタはガリガリに痩せて、全身がダニだらけで汚れていたそうです。往診に来た獣医(と言っても、日ごろは馬や牛を診るのが専門ですが)は、車かなにかにぶつかってパニックになり、山に逃げ込んだのではないかと言っていたそうです。

ウタが亡くなったのは、私が上京したあとでした。早朝、母親から電話がかかってきて、沈んだ声で「今、ウタが死んだよ」と告げられたのでした。その数年前には、既に父親も亡くなっていました。

ジョンが死んだときは、死骸を裏山に埋めたのですが、ウタは業者に頼んで火葬して永代供養したそうです。田舎にもいつの間にかペットの時代が訪れていたのです。

ペットロスになったという女性は、姑が死んだときより愛犬が死んだときのほうが数倍悲しかったと言ってましたが、その気持はわからないでもありません。

こうして体調が悪く弱気になっているときに、まるで走馬灯のように昔飼っていた犬の思い出がよみがってくるというのも、自分のなかで彼らがいつまでも変わらない存在としてあるからでしょう。人との関係は、身過ぎ世過ぎによって、ときにその関係が元に戻らないほど変化を来すことがあります。でも、ペットとの間で私たちは傷付くことはありません。だから、(人間の手前勝手なエゴを慰謝するものであるにせよ)ペットは良い思い出として、いつまでも心に残るのでしょう。


2017.06.03 Sat l 日常・その他 l top ▲
20170521_152619.jpg


知り合いからチケットをもらったので、今日の午後、川崎の等々力陸上競技場でおこなわれた「セイコーゴールデングランプリ陸上2017」を観に行きました。

8月にロンドンでおこなわれる世界陸上の代表選考会も兼ねた、国際陸連公認の大会でしたが、しかし、向かい風が吹いていたということもあって、記録は総じて平凡でした。

大会名を見てもわかるとおり、セイコーが「特別協賛」し、TBSテレビでも中継されたのですが、そのためか、なんだかショーのような要素が強い大会でした。大会を盛り上げ、運営費をねん出するには仕方ない面もあるのもしれませんが、レースを終えた有名選手たちに、メディアの撮影用に、観客席に行って観客たちとハイタッチをするように進行役のスタッフが促すのでした。参加標準を突破できず不本意なレースに終わった福島千里選手も、スタッフから促され、撮影用(?)に設えた観客席に行って、お定まりのハイタッチをしていましたが、なんだかかわいそうな気がしました。

私の隣の席の中年女性は、カメラマニアのようで長尺の望遠レンズが付いたカメラを構えていましたが、隣で長尺のレンズを振り回されると邪魔でなりませんでした。その隣も同じような中年男性で、夫婦かと思ったら全然関係のないカメラマニアのようでした。

また反対側の席や前の席は、真夏日を記録した暑さのなかで、半分抱き合って観戦しているような若いカップルでした。彼らもまた、ケンブリッジ飛鳥やサニブラウンが目当てだったようです。

マニアと言えば、ロイヤルファミリーの婚約者が私が同じ街に住んでいるというニュースが流れた途端、駅前通りなどで、カメラやスマホで通りの様子を撮影している人たちを見かけるようになりましたが、心なしかこの週末は、いつもより人通りが多い気がしました。

婚約者が通った幼稚園がすぐ近所にあるのですが、ニュースのあと、幼稚園の駐車場にはテレビ局の中継車が何台も停まっていて、幼稚園も臨時休園したようでした。

たまたまニュースが流れる前日、散歩の途中に、婚約者が住んでいるマンションの前の道路を歩いたのですが、もちろんそのときはまだいつもの夕暮れの住宅街の光景がありました。しかし、近所の人の話によれば、今は道路も交通規制され、マンションの前には常時制服の警察官が立っているそうです。

朝、SPとともに駅に向かう婚約者の姿がテレビに出ていましたが、これからああいったことが毎日つづくのだろうかと思いました。テレビには、「知名度が上がってうれしい」というような商店街の人たちの「喜びの声」も出ていましたが、たしかに青息吐息の商店街にとって、今回のニュースは(ややオーバーに言えば)「天佑」と言えるのかもしれません。ただ一方で、ミーハー相手の商売に明日はあるのだろうかと思ったりもします。個人的には、そんなことより狭い舗道を広げるほうが先決のような気がします。
2017.05.21 Sun l 日常・その他 l top ▲
先日、Yahoo!ニュースに下記のような記事が掲載されました。

Yahoo!ニュース・ビジネス
「もう立っている方がいい」狭すぎてハラハラする都内の“痛勤”電車のイス

記事を書いたのは、西日本新聞の東京支社に勤務する記者のようです。

この記事は、一時、Yahoo!ニュースの「経済総合」のアクセスランキングで1位になっていました。それだけ多くの人たちが共感したのでしょう。

私たちは、日々、この記事に書かれているような日常を生きているのです。そして、わざと咳ばらいをしたり、相手を睨みつけたり、あるいは肩で相手の身体を押しやったりしながら、どこかの総理大臣夫人が言うような「修行」の時間をすごしているのです。それは理屈ではないのです。どんなに高尚な思想を持っている人でも、このようなゲスな感情から自由にはなれないのです。

以前、電車で日本共産党のシンパとして有名な映画監督と遭遇したことがありました。監督は、まだ下車する人がいるのに、待ちきれないかのように人をかき分けて乗り込んで来ると、餌を探しているニワトリのようにキョロキョロと車内を見まわしていました。そして、7人掛けなのに6人しか座ってない座席を見つけると、急いで歩み寄り、わずかに空いたスペースに身体を押し込め、身体を奥にずらすと、上体を反らせ腕組みをして目を瞑ったのでした。

そこでは、反戦平和の主張も、社会的不公平に対する怒りも、抑圧された人々に対する連帯感も、どこかにすっ飛んだかのようでした。ただ、自分が座席にすわればそれでいい、それが当然の権利だとでも言いたげでした。

何度も言いますが、「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。私もこの記事の記者と同じで、すわって嫌な思いをするより立っていたほうがいいと考える人間ですが、日々、目の前で繰り広げられる「電車の座席にすわることが人生の目的のような人たち」の暗闘を見るにつけ、政治なんてものはホントは取るに足らないものなんだなと思わざるをえません。もし「電車の座席にすわることが人生の目的だ」というような思想があるなら、これほど最強なものはないでしょう。

吉本隆明が言うように「政治なんてものはない」のです。生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられたら、もう泥棒でも強盗でもなんでもして生き延びるしかないのです。善か悪かなんて二の次です。それが生きるということでしょう。そこに政治的な考えが介在する余地なんてないのです。

本来、思想とはそういったところから生まれるものではないでしょうか。ドフトエフスキーの『罪と罰』でラスコーリニコフが苦悩したのも、そういった場所でした。
2017.04.15 Sat l 日常・その他 l top ▲
昨日は仕事納めで、今年も残すところあと三日となりました。既に学校も休みに入ったので、電車も空いています。車内では、帰省する人たちなのでしょう、旅行バッグを持った乗客も見かけるようになりました。

おととしの年の瀬、私は「母、危篤」の知らせを受け、帰省客に交じって羽田空港行きの電車に乗っていました。それ以来、年の瀬になると、あのときの哀しい感情が思い出されてならないのです。

地元の空港に着くと、あちこちで出迎えの家族と再会を喜ぶ光景が見られました。みんな、笑顔が弾けていました。そんななか、私は、ひとり、母が入院している病院に向かったのでした。

最近は、飛行機のチケットに、「介護帰省割引」というのがあります。親の介護で、定期的に帰省する人も多いのでしょう。

若い頃は、希望に胸をふくらませた「上京物語」しかありませんでした。しかし、年を取ると、介護や見舞いや弔事など、人生の哀しみやせつなさを伴った帰省が主になるのです。まして私の場合、もう帰るべき家もなく、笑顔で迎えてくれる親もいません。ふるさとにあるのは、苔むした墓だけです。

先日、ネットで、ハフポスト日本版の「2016年に亡くなった人々」の「画像集」を見ていました。今年もいろんな人が鬼籍に入ったんだなとしみじみ思いました。なんだか例年になく若い人が多いような気がしました。

The Huffington Post
プリンス、ボウイ、アリ、巨泉...2016年に亡くなった著名人(画像集)

また、年末になると、人身事故で電車が止まるニュースが多くなるのも毎年のことです。

みんな死んでいくんだなと思います。たしかにみんな死んでいくのです。そして、やがて自分の番になるのです。

司馬遼太郎ではないですが、いつまでも「坂の上の雲」を仰ぎながら坂をのぼって行くことはできないのです。思い出を胸に坂をくだって行く人生だってあるのです。

それは、国も同じです。いつまでも成長神話に憑りつかれ、背伸びして世界のリーダーたることに固執しても、それこそ米・中・露の大国の思惑に翻弄され、貧乏くじをひかされるのは目に見えています。先日の安倍・プーチン会談のトンマぶりがそれを象徴しています。

従属思想を「愛国」と言い換え、市場や国民の資産をグローバル資本に売り渡す一方で、中国への対抗意識から世界中にお金をばらまいて歩いて得意顔の「宰相A」を見ていると、ホントにこの国は大丈夫かと思ってしまいます。成長神話に憑りつかれている限り、格差や貧困の問題が二の次になるのは当然でしょう。

個人においても、国家においても、坂を下る思想が必要ではないのか。いつかは坂を下らなければならないのです。哀しみやせつなさを胸にどうやって坂を下るのか。上る希望もあれば下る希望もあるはずです。
2016.12.29 Thu l 日常・その他 l top ▲
朝、駅前のスーパーに行ったときのことです。開店直後のスーパーはお年寄りのお客が多いのですが、今朝はいつになく店内が混雑していました。レジも既に行列ができていました。

レジに並んでいるお客を見ると、なぜかいつもと違ってぎっしり商品が入っているカゴを手にしている人が多いのです。

店内の棚を見ていた私は、ほどなくその理由に合点がいきました。今日は「安売りの日」だったのです。卵の10個入りのパックが98円で売っていました。私がよく買うコーラゼロも1.5リットルのペットボトルが118円でした。気が付いたら私のカゴもいつの間にかいっぱいになっていました。

開店直後のスーパーに来ている人は、年金暮らしのお年寄りも多いのでしょう。そのため、「安売りの日」に押しかけて買いだめしているのだと思います。

やがて買い物を終えた私は、重いカゴを床に置いて行列の最後尾に並びました。前に並んでいる人たちを見ると、ほとんどが年金世代とおぼしきお年寄りばかりでした。

レジで品物のバーコードを読み取っている店員も、初老の女性でした。と、そのとき、急に彼女の手が止まりました。トラブルが発生したみたいです。彼女は慌てて、隣のレジの女性になにか聞こうとするのですが、隣のレジも長蛇の列で混雑しているため、相手にしてくれません。すると、女性は、店内に向かって「すいませ~ん!」と大声で叫びました。でも、誰も反応がありません。レジはずっと止まったままです。なかには、私たちの列を離れて隣の列に並び直す人もいました。

私はイライラしはじめ、心のなかで舌打ちをしました。そして、「どうなってるんだ?」とひとり言ちたのでした。すると、そのとき、「機械が変わったんで大変なんですよ」という声が後ろから聞こえてきたのです。振り返ると、とうに70をすぎているような高齢の男性がニコニコした顔で立っていました。横にはカゴを乗せたカートが置かれていました。

レジのほうを見ると、たしかにバーコードを読む機械の先に銀行のATMを小さくしたような機械が設置されていました。知らないうちに、最初の機械で金額を読み、次の機械でお金を入れて清算するように変更になったみたいです。レジの女性たちは、直接お金のやり取りをすることがなくなったのですが、ただ、システムの変更で読み取る機械も変わり、それで戸惑っているのでしょう。

私のなかでは、いつの間にかイライラする気持が消えていました。後ろの男性のひと言で我に返ったという感じでした。レジが止まった事情がわかると、感情的な気持も消えたのです。

どうやらレジの女性は、割引券の処理の仕方がわからなかったみたいで、やがて若い店員がやってきて、その方法を教えると行列は再び流れ始めました。初老の店員は、あとにつづくお客ひとりひとりに対して、「お待たせして申し訳ございませんでした」と謝罪していました。

やがて私の番になりました。女性の額には汗がびっしょり噴き出していました。私は、「いつから変わったんですか?」と尋ねました。女性は、下を向いて手を動かしながら、「おとといからなんですよ」と言ってました。「慣れるまで大変ですね」と言ったら、「いえ、ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません」とさも恐縮した様子で答えていました。

私自身、さっきまでイライラしていたのがウソのようでした。あのとき、後ろの男性のひと言がなかったら、私はずっとイライラしたままで、もしかしたらそのイライラをレジの女性にぶつけていたかもしれません。

たしかに、年を取ってくるとキレる人が多く、「キレる老人」に遭遇するのもめずらしくありません。私自身、若い頃に比べてイライラすることが多くなったのを自分でも感じます。

香山リカに言わせれば、「キレる老人」というのは、年を取って世の中の流れに付いていけない自分に苛立ち、その苛立ちを他人にぶつけているところがあるのだそうです。そこには、デジタル化して急激に変わる社会や現役を引退して経済的な余裕がなくなったことなど、さまざまな背景があるのでしょう。もっとも、それは、老人に限った話ではないのです。

今の“貧困叩き”にも、似たような背景があるように思えてなりません。長谷川豊の暴論も、彼が金銭トラブルでフジテレビを辞め(辞めざるをえず)、フリーになったことと関係しているのではないかと思ったりするのです。彼にも、単なる炎上商法だけでない、どこか荒んだものがあるのではないか。

朝、駅に行くと、必死の形相で改札口をぬけ、エスカレーターを駆け上っている人を見かけます。寝過ごしたのかなと思うのですが、よく見ると、いつも同じ人物なのです。しかも、別に電車が来ているわけでもないのに、まるで強迫観念に駆られ、なにかに急き立てられるように駆け上っているのです。

資本主義が高度化して経済が金融化し、第三次、四次、五次産業の比率が高くなれば高くなるほど、“資本の回転率”は高くなります。その分、商品のサイクルも短くなり、人々の欲望のサイクルも短くなります。そして、そのサイクルは生活の隅々にまで貫かれるのです。システムが要求するスピードに常に急き立てられ、それに付いて行けるかどうかでその人間の能力が問われるのです。

そんな日常化した強迫観念と、“貧困叩き”や長谷川豊のような荒んだ心とは、背中合わせのような気がしてなりません。些細なことでわけもなくイライラするのも同じでしょう。

貧困や病気は、明日の自分の姿かもしれないのです。でも、彼らは、もはやそういった想像力さえ持てないのです。社会保障費が財政を圧迫しているからと言って、その原因を経済政策や社会構造に求めるのではなく、手っ取り早く個人に求め、自己責任論で他者を攻撃するだけなのです。そこにあるのは、想像力と理知の欠如です。

私たちには、後ろの男性のように、「機械が変わったんで大変なんですよ」と冷静に言ってくれる人がもっと必要なのかもしれません。
2016.10.01 Sat l 日常・その他 l top ▲
昨日、大リーグのファンだという人と話をしていたときです。彼は、イチローが所属するマーリンズのホセ・フェルナンデス投手が事故死したニュースを見たら、ショックで朝までまんじりともできなかったと言うのです。

私は、大リーグなんてまったくと言っていいほど興味がありません。もちろん、イチローやダルビッシュのことは知っていますが、ときに彼らが所属するチーム名も忘れて、野球好きな人と話をしている最中にこっそりスマホで確認することもあるくらいです。

私は、彼の話を聞いて(スマホでそのニュースを確認しながら)、すごいなと思いました。たかが、と言ったら叱られるかもしれませんが、野球選手が急死したくらいで、朝まで眠れなかったなんて、自分にはとても考えられないことだからです。

ファンかどうかという以前に、私には他人の死に対してのナイーブな感覚が失われているのではないかと思うことがあります。そもそも他人対する感覚が鈍磨しているような気さえするのです。

最近は特に、舗道を歩いていても、電車に乗っていても、いつも不機嫌になっている自分を感じます。たしかに他人の迷惑を考えない”自己中”の人間が多いのも事実ですが、そういった人たちに対して、寛容な気持が持てなくなっているのです。さすがに表に出すことはありませんが、心のなかではいつも舌打ちをしています。

電車のなかのベビーカーに対しても同じです。あれはベビーカーがどうとかいうより、ベビーカーを押している親たちが問題だと思うのです。週末の自由が丘の駅のホームで傍若無人に行き交うベビーカーに遭遇すると、とても寛容な気持にはなれないのです。「乳幼児をお連れの方」という表示をいいことに、ベビーカーで通路をふさいで、家族でシルバーシートを占領している光景を見ると、やはり心のなかで舌打ちをしている自分がいます。

ホセ・フェルナンデスの死にショックを受けてまんじりともできなかったという人は、離婚して子どもとも別れ、既に親も亡くなり、身寄りもない天涯孤独な人です。しかも、爆弾のような病気も抱えており、いつ死んでもいいというのが口癖です。それでも、他人の死にショックを受けるようなナイーブな感覚を失ってないのです。それに比べると、自分はなんと独りよがりで冷たい人間なんだろうと思ってしまいます。
2016.09.28 Wed l 日常・その他 l top ▲
私は、NHKで深夜に放送されていた「MUSIC BOX」という番組が好きでしたが、最近、たまたまYouTubeに、その映像がアップされていたのを見つけて感激しました。アップ自体は違法なのかもしれませんが、かつての番組ファンにとっては感涙ものでした。

YouTube
NHK MUSIC BOX 80年代邦楽 「恋におちて」 小林明子
NHK MUSIC BOX 1991年邦楽 「PIECE OF MY WISH」 今井美樹

ただ、放送した年がはっきりしないので、いつこの番組を見たのか、ずっと気になっています。と言うのも、この番組を見ていた当時の自分の心境が、特別なものであったような気がするからです。

映像の左上にある数字は、放送されていた時刻です。どうしてそんな時間まで起きてテレビを見ていたのか。誰かに、深夜に放送されているNHKの番組が好きだという話をしたような記憶もあります。なにがあって眠れぬ夜をすごしていたのか。それが気になって仕方ないのです。失恋か。仕事の悩みだったのか。

「MUSIC BOX」に映し出されている80年後半から90年代にかけては、私は、六本木にあるポストカードやポスターなどを輸入する会社に勤めていました。バブルが弾ける前でしたので、結構、分不相応なことも経験しました。「恋に落ちて」という曲にも思い出があります。それで、よけいセンチメンタルな気分になって見ていたのかもしれません。

考えてみれば、時間は容赦なく過ぎていくのです。文字通り容赦なく、それも駆け足ですぎていく。

先日の新聞に出ていましたが、「金妻」の舞台になったような、かつての「あこがれのニュータウン」も、今は住民が高齢化して街も寂れ、さまざまな問題が生じているそうです。「恋におちて」も今は昔なのです。「金妻」たちは、老後を前にした現在(いま)、どんなことを考えているのだろうかと思いました。やはり、あのキラキラ輝いていた時代をときどき思い出し、追憶に浸ることはあるのだろうかと思いました。


関連記事:
『33年後のなんとなく、クリスタル』
2016.09.24 Sat l 日常・その他 l top ▲
私は、「とと姉ちゃん」は病院の待合室で一度見たことがあるだけですが、主題歌の「花束を君に」はとてもいい曲で、何度もくり返し聴いています。宇多田ヒカルが亡き母親にあてて歌った歌であるのは、歌詞からも容易に想像されます。

いい音楽というのは、聴く人間の感性を激しくゆさぶり、いろんな思いや考えを誘うものです。「花束を君に」を聴きながら、ふと自分の帰る場所はどこなんだろうと考えました。既に親も亡くなった現在、もう帰る場所はどこにもないように思います。母親の死を機に本籍も横浜に移しましたので、田舎は本籍地でさえないのです。書類に書くとき、間違えないように本籍地の番地を暗記していましたが、もうその必要もなくなったのです。

帰る場所はどこなのか。どこに帰ればいいのか。そう考えたとき、やはり、頭に浮かぶのは、藤枝静男の「一家団欒」でした。今や故郷に残る唯一のよすが(縁)になってしまった菩提寺の墓。そこに眠る祖父母や父母のもとに帰るしかないのではないか。そう思うのでした。両親が生きているときは散々不義理したくせに、勝手なものです。「一家団欒」の章と同じように、泣いて懺悔するしかないでしょう。

先日の記事で紹介した吉本隆明の「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬという生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである」ということばや、どんな人生を生きたかよりどんな人生でも最後まで生きぬいた、ただそれだけですごいことなんです、と言った五木寛之のことばが示しているのは、仏教の思想です。「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」(『歎異抄』)存在として私たちがいるのです。

今、私ができることは、できる限り田舎に帰って、父母らが眠る墓に手を合わせることでしょう。もう私はそんなことしかできないのです。


関連記事:
墓参りに帰省した
宇多田ヒカル
2016.09.16 Fri l 日常・その他 l top ▲
昨日の夜遅く、喉が渇いたので冷たいものでも飲もうとキッチンに行ったら、キッチン全体が熱気におおわれ、サウナ風呂のようになっていました。

なんとキッチンに置いていた卓上電気グリルのコンセントをさしたままになっていたのでした。そのためにグリルが過熱して、異常な熱を発していたのです。

夕食に電気グリルで塩サバを焼いたのですが、そのままコンセントをぬくのを忘れていたのです。電気グリルにはガラス製の蓋が付いていますが、蓋の取っ手も素手では持てないくらい熱くなっていました。

前も書きましたが、味噌汁を温めようと電子レンジの戸を開けたら、前に温めたまま取り出すのを忘れていた味噌汁が出てきたなんてことはよくあります。それどころか、一度などは温め終えた味噌汁を取り出そうとしたら、中から味噌汁が二つ出てきて、狐に摘ままれたような気持になりました。前に取り忘れた味噌汁が入っているのに気付かないまま、またあらたな味噌汁を入れていたのです。年をとると、このように毎日がハリーポッターの世界です。

先日のことです。部屋にいると、ピンポーンとチャイムが鳴りました。モニターで見ると、白いワイシャツ姿の男性が立っていました。私は、どうせ怪しいセールスだろうと思ってそのまま無視しました。チャイムは何度か鳴ったのち、鳴りやみました。

ところが、それからしばらくして、再びチャイムが鳴ったのです。モニターで見ると、前と同じ男性が立っていました。私は、「うるさいな」と思いました。文句を言ってやろうかと思いましたが、我慢しました。そんなとき、出ていくと、大概怒鳴り合いになるからです。年も年なので、無用なトラブルを避けるのが賢明でしょう。

チャイムが止んだあと、ふとベランダの窓越しに外を見ました。すると、道路をはさんだ反対側の駐車場に数人の男性が立ってこちらを見ているのに気付きました。上着を着ているのはひとりだけで、あとは白いワイシャツ姿でした。私は、一瞬「警察?」と思いました。刑事たちが犯人宅を遠くから監視するテレビドラマのシーンによく似ていたからです。上着を着ているのは宅麻伸演じる「係長」なのか。

と思ったら、またピンポーンとチャイムが鳴ったのでした。でも、私は、やはり無視しました。チャイムが鳴り終えたあと、気持が悪くなったので玄関のドアの確認に行きました。するとびっくり。ドアにカギがかかってなかったのです。カギもドアチェーンも外れたままになっていたのです。

私は、またしても狐に摘ままれたような気持になりました。毎日がハリーポッターであることを考えれば、ドアのカギをかけ忘れたということは充分考えられます。彼らはそのために何度もチャイムを鳴らしたのか。

あの駐車場に立っていた男性たちは誰だったのか。ドアが開いていることを誰かが通報して警察が来たのか。でも、制服の警官ではなく、私服の刑事というのもちょっと解せません。それも、ドアが開いているだけで、まるで殺人事件のように何人も来るでしょうか。

やはり、新聞の勧誘員かなにかセールスの人間だったのか。彼らは、“絨毯爆撃”のように、その地域をグループでいっせいに飛び込みセールスするのはよくあることです。

「あの部屋、ドアにカギがかかってないぞ」
「部屋に誰かいるのか?」
「わからん」

そう話していたのかもしれません。「もう一回確認して来い」と言われて、チャイムを鳴らしたのかもしれません。あのまま部屋に入って来られたら、もう怒鳴り合いどころではなかったでしょう。

毎日がハリーポッターも一歩間違えば、笑い話では済まされないことになるのです。

2016.08.03 Wed l 日常・その他 l top ▲
一昨日、私は、紙の爆弾2016年7月号増刊『ヘイトと暴力の連鎖』(鹿砦社)と笠井潔・野間易道『3.11後の叛乱』(集英社新書)の二冊の本を買いました。二冊の本の副題には、それぞれ「反原連・SEALDs・しばき隊・カウンター」「反原連・しばき隊・SEALDs」と同じ文言が並んでいます。

言うまでもなく、これらの本は、反原発の官邸前デモを主導した反原連(首都圏反原発連合)と反安保法制デモで脚光を浴びたSEALDs、それにヘイト・スピーチへの抗議活動で名を馳せた「しばき隊」を論じたものです。しかし、その姿勢は正反対です。

鹿砦社は福島第一原発の事故以後、『NONUKES』という「脱原発情報マガジン」を発行している関係もあって、反原連に対して2015年だけで300万円のカンパをしていたそうです。しかし、反原連がおこなった中核派・革マル派・顕正会排除宣言に対する松岡利康社長の苦言が反原連の逆鱗に触れ、絶縁状を突き付けられて訣別したのだとか。

松岡利康社長と作家の笠井潔氏は、全共闘運動の闘士として知る人ぞ知る有名な人物ですが、いみじくも「反原連・しばき隊・SEALDs」に対しては、まったく正反対の立場に立っているのでした。

まだ途中までしか読んでいませんので、この二冊の本を読んだ感想は後日あらためて書きたいと思いますが、それとは別に、私は、『ヘイトと暴力の連鎖』のなかで、つぎのような文章が目にとまったのでした。

それは、「しばき隊」内部の「リンチ事件」に関連するものです。記事によれば、「リンチ事件」の被害者に対して、相談者として接触してきた在日の「歌手」がいたのですが、彼は被害者に会ったあと、「リンチ事件」の現場にいて(本人は途中から帰ったと主張)、被害者に事件の「謝罪文」も送っている在日の女性ライターと「会談」した途端、事件は被害者の「嘘と誇張」によるものだと百八十度違うことを言い出したのだそうです。記事では、「一夜にして寝返った」と書いていました。ちなみに、「リンチ事件」では、刑事告発された実行犯三名に罰金刑が言い渡され(上記の女性ライターは無罪)、現在は民事訴訟が進行中です。

(略)録音データはじめリンチ事件の実態が一目瞭然の数々の証拠資料、特に事件直後の凄惨な顔写真を趙(引用者:「歌手」の姓)は見ているのに、たった一時間の会談で、人間こうも変わるのか!? 何かあったとしか思えない。弱みを握られ、これを突きつけられたのか? あるいは、甘い蜜を与えられたのか? 私の信頼する在日の人は「私は最初からこうなると判っていましたよ」と私に言った。この言葉の意味するところがまだ理解できないが、彼には在日同士の心の中の襞のようなものが実感できるのだろうか。
(「急展開した『しばき隊リンチ事件』の真相究明」松岡利康)


在日の人間と身近に関わってきた人間のひとりとして(今も身近に在日の人間がいますが)、「私は最初からこうなると判っていましたよ」ということばの意味がなんとなくわかる気がするのです。一見、在日同士は信用できる、日本人は信用できないみたいな話に聞こえますが、それだけではないように思います。

私は、身近な在日の人間に対して、「(朝鮮人は)勝ったか負けたか、得か損かでしか判断しない」と言って、いつも反発を受けていました。もちろん、そういった損得勘定は誰にもあります。でも、在日とつきあっていると、ときに呆気にとられるほど(人間同士の信義を越えるほど)露骨な場合があるのもたしかなのです。

私も、在日の人間とトラブルを経験したばかりで、それまで親しくしていた人間がまるでヤクザのように豹変する姿を見たとき、ふと上のことばを思い出したのでした。「一夜にして寝返る」どころではなく、一瞬で手の平を返して、ヤクザ口調で「ぶっ殺してやる!」なんて怒鳴りはじめる姿を前にすると(もっとも、それは、どこかの国がソウルや東京を「火の海にしてやる!」と叫ぶのと同じオーバーアクションなのですが)、「朝鮮人はうっとしくて嫌だな」と思います。

もちろん、日本人が相手だと「日本人はうっとうしくて嫌だな」とは思わないのです。その個人を嫌悪するだけです。そこに嫌悪と差別の分かれ道があるのかもしれません。私が「朝鮮人はうっとしくて嫌だな」と思うのは、考えようによっては既に差別していることになるのかもしれないのです。

でも、在日の”多様性”みたいなものももっと考える必要があるように思います。在日の問題を考えるとき、もちろん戦争責任や植民地支配の歴史的な背景をぬきにすることはできませんし、ヘイト・スピーチをあげるまでもなく、日本の社会に差別が存在するのは否定しようのない事実です。しかし、一方で、そういった視点からだけでは捉えられない在日の姿というのも当然ながらあるのです。

『韓国人を愛せますか?』((講談社+α新書)の著者・法政大学教授のパク チョンヒョン(朴倧玄)氏は、韓国人の世間や他人に対する考え方について、著書でつぎのように書いていました。

外でケンカしてきた子供に対して、日本人の親は「相手を殴るより殴られてくるほうがいい」なんて言う人も多いようだが、韓国人の親は「どうせケンカするなら、殴られるより殴るほうがいい」と思う人が多い。人を殴るという行為を、日本人は「相手に迷惑をかける行為だ」と解釈するかもしれないが、韓国人は「勝負に勝った、男らしい」と解釈するからだ。


韓国人の親が子供に望むのは、他人に迷惑をかけないことではなく、他人に対して肩身が狭くならないこと、他人に対して臆さないこと、自信のある態度を取れること、遠慮ばかりしないことだ。それは、負けず嫌いの韓国人の性格を表すものかもしれない。


在日の男性がどうしてあんなに虚勢を張り、強面に振る舞うのかと言えば、日本人には負けたくない、バカにされたくないと意識過剰になっているからだと思っていましたが、実はそれだけではなくて、世間や他人に対する朝鮮人特有の考え方が根底にあるからなのでしょう。

上の文章で言う、在日同士の「心の中の襞」というのは、そういうことではないかと思います。


関連記事:
「在日」嫌い
2016.07.18 Mon l 日常・その他 l top ▲
散歩の途中、いつものように山下公園のベンチにすわって本を読んでいるときでした。なんだか臭いのです。ケモノ臭がするのです。それで目を上げて周囲に見ると、いつの間にか隣のベンチに犬を連れた女性がすわっていました。スマホを操作している女性の足元には、黒の柴犬が前足を揃えて行儀よくすわっていました。

山下公園は犬を散歩する人が多いので、植え込みの周辺はいつもケモノ臭が漂っていますが、ベンチがあるあたりは海に面しているのでそうでもありません。私は、思わず顎に下げていたマスクをひっぱり上げて鼻を覆いました。

実家ではジョンという雑種とウタという柴犬を二代つづけて飼っていました。小学校の低学年から30すぎまで、ずっと犬とともに暮らしていたのです(と言っても、実家にいたのは中学まででしたので、そのあとはときどき帰るだけでしたが)。

犬のかわいいところもよくわかります。今でも散歩している犬を見ると、かわいいなと思います。もちろん、犬が放つケモノ臭も昔は身近にあったのです。それは当然のこととして日常のなかにありました。だから、このケモノ臭に対する拒否反応に自分でも驚きました。

そう言えば、2月に帰省した折、サルで有名な高崎山に行ったのですが、そのときも餌場全体に漂うケモノ臭と糞の臭いに閉口しました。高崎山に行ったのは小学校のとき以来だったのですが、もう二度と行きたくないと思ったくらいです。

人間というのは現金なもので、煙草をやめた途端、他人の煙草の臭いが気になり、へたすれば顔をしかめるようになるのです。あれと同じなのでしょう。

若い頃と比べて、自分が変わったことと言えば、時間を厳守するようになったことと予備がないと不安症候群になったこととこの臭いに敏感になったことです。若い頃は自他ともに認める遅刻魔だった人間が、今では時間厳守の権化のようになっているのです。年を取ると不思議なことが起きるものです。

隣の柴犬は、柴犬にしてはめずらしく人懐っこい性格のようで、ときどき尻尾を振りながら媚びるような目で私のほうを見ていました。しかし、今や立派な偏屈オヤジになった私は、そんな視線を無視して、心のなかで「臭い、臭い」と呟きながらベンチを立ったのでした。
2016.06.08 Wed l 日常・その他 l top ▲
先日、突然、見覚えのある名前でメールが届きました。それは、以前取引していた雑貨店で働いていた女の子の名前でした。びっくりしてメールを送ると、当時働いていた仲間で、最近LINEのグループを作ったので入りませんかという、LINEへの招待でした。

私が彼女たちの店に行っていたのは、もうかれこれ15年くらい前です。店は都内のターミナル駅の商業ビルのなかにあったのですが、しょっちゅう顔を出し、おしゃべりをしたり、ときには店の手伝いもしていました。

単なる取引業者であったにも関わらず、職場の飲み会にも出席していましたし、クリスマスやバレンタインなど忙しいときは応援に駆り出されたりしていました。店の性格上、店長以外働いているのは若い女の子ばかりでしたが、それほど違和感もなく溶け込んでいたのです。

彼女たちの何人かは既に結婚し、LINEで子どもに作った弁当の画像を見せ合ったりしていました。そんな様子を見ていると、みんな確実に人生を前に進めているんだなとしみじみ思いました。

あの頃はみんな若かったのです。私だけがあの頃からおっさんでしたが、それでも、今よりずっと若い感覚のなかで生きていました。LINEで「あの頃はいつも楽しそうにしていましたね」と言われましたが、実際はそうでもなかったのです。10年近くつづいた恋愛が終わり、親友と仲たがいし、借金も抱え、結構深刻ななかにいました。

しかし、それでも傍目に楽しそうに見えたというのは、まだどこかに”余裕”があったのかもしれません。それだけ若かったということなのでしょう。今から考えれば、なにより身体が元気だったことが救いだったように思います。元気であれば、バイタリティもわいてくるのです。

長い間会ってないということもあるのでしょうが、LINEをやっていると、今のほうがなんだかわけもなく疎外感のようなものを覚えるのでした。自分のメッセージがどこかトンチンカンのように覚えてならないのです。LINE特有の空気を読むことができないのです。

団塊の世代の橋本治は、『いつまでも若いと思うなよ』(新潮社新書)という本のなかで、人間は自分という「アク」がたまって大人になるんだと書いていました。

 アクが溜まって大人になる。大人になるということは、そのように「自分」が蓄積して行くことで、「自分」が溜まってしまうと、そう簡単に身動きが出来なくなる。体が重くなるし、思考もまた重くなる。
 山菜や野草と同じで、人間も若い時にはアクが出ない。でも年と共に「鍋の中にそんなに安い肉入れるなよ、アクばっかりだ」状態になる。「アク」というのは短絡して「老い」と錯覚されるが、「アク」は「老い」ではない。「アク」は、自分の中から生まれる自分で、それが生まれなければ老いることも出来ない。
(略)
 かく言う私だって、四十を過ぎてアクだらけになる前に、「自分の体にアクが出ている、もう若くはない」ということは承知している。別に見る気もないのに、鏡や窓ガラスに映った自分を見ると、「今までに見たことないような自分」がいる。つまり、アクが出たということなのだが、そんな事実を突然突きつけられたって、どうしたらいいのかは分からない。だから、「もうアクは出ているけど、なかったことにしよう。まだごまかせるから」と思って、ないことにする。


でも、自分のことを考えると、もはやなかったことにしたり誤魔化したりできないほど「アク」だらけなのです。LINEにうまく乗れないのも、「アク」だらけだからでしょう。

言うまでもなく、昔はなつかしいのです。ただ、年を取ってくると、なつかしいだけではなく、せつないとか哀しいとか、そんな別の感情が付随してくるようになるのです。

私は、彼女たちがまぶしくてなりませんでした。昔は年は離れていても、そんな気持を抱くことはありませんでした。私だって同じように恋愛をしていたし、同じようにいろんなものに関心をもっていたからです。仕事柄、今流行っているものはなにかとか、これから流行るものはなにかなんてよく話していましたし、そういった最先端の若者の風俗にも興味をもっていました。逆に同年代のおっさんたちと話をするのが退屈なくらいでした。

金原ひとみが『蛇とピアス』で出てきたときも、かつて私が扱っていた商品が小説のなかに出ていたということもあって、世代は違っても、私がいた場所の近くで書かれた小説だという認識をもつことができました。でも、金原ひとみも年を取ったけど、私も年を取ったのです。

たしかに、誰かも言ってましたが、あの頃は若かったと思うことほど痛ましいことはないのです。
2016.05.07 Sat l 日常・その他 l top ▲
今日、都内に出た際、ふと思い付いて高校時代の同級生に電話して、一緒に昼食を食べました。会ったのは10年ぶりくらいでした。

彼とは高校時代からずっと仲がよくて、東京に出てきてからも、一時彼のアパートに居候していたこともあったくらいです。彼は、大学の空手部出身で、学生時代はパンチパーマにいつも学ランを着ていました。一方、私は、肩までかかるような長髪に無情ヒゲのまったく逆のタイプの人間でした。

当時はまだシゴキなどもありましたので、「1年坊」(彼らはそう呼んでいたように思います)の頃は、シゴキで怪我をして入院したこともありました。彼が空手をはじめたのは、大学に入ってからで、どうして空手なんかはじめたんだと訊いたら、心身を鍛えて心技体の充実した強い人間になりたいんだとかなんとか、どこかで聞いたようなセリフを口にしていました。彼をとおして空手部の連中とも顔見知りになりましたが、彼らは一見強面でしたが、ひとりひとりはとても気のいい連中でした。

私が病気をして九州に帰り入院生活を送っていたとき、彼に頼んで本を買って病院に送ってもらっていたのですが、「お前から頼まれた本って左っぽいのが多いので、学ランを着たおれらが買いに行くと変な目で見られるんだよな」と嘆いていました。

大学を出ると、彼は公益法人の政治連盟なるものに勤めたのですが、やがてそのときの同僚たちと会社を興して、イベントや出版の仕事をはじめました。頭はパンチパーマで体重は100キロ近くあり、しかも大きな声で押しの強い喋り方をするので、傍目にはいかにも”危ない人”に見えるのでした。あるとき一緒に街を歩いていたら、たまたまそれを取引先の女の子が見たみたいで、後日、店に行ったら、「あんな人と知り合いなんですか?」と言われたことがありました。「そうだよ、彼は××組だよ」と言ったら、「ウソ―」と叫んでいました。

東京にいるので、会おうと思えばいつでも会えるのですが、なぜかなかなか会う機会がありませんでした。最近は、九州の友達から彼の近況を聞くほどでした。

久し振りに会った彼はさらに体重が増え、120キロになったと言ってました。家族の写真ももってきてましたが、子どもたちも見違えるほど変わっていて、「これじゃ道で会ってもわからないな」と言ったら、「お前がわからなくても向こうはわかるんじゃないの」と言ってました。

それから、お互いの近況を延々と話しました。知らない間にいろいろ苦労もあったみたいで、そんな話を他人にしてもいいのかというような、結構深刻な話もありました。彼のことばには重みがありました。それは、なにより体験に裏打ちされているからでしょう。体験から得たことばは、実にシンプルなのです。むずかしい言い回しは必要ないのです。リアルというのは、そういうことではないかと思いました。

彼は、「お前とこんなに話をしたのは久し振りだな。話ができてよかったよ」「電話をくれてうれしかったよ」としみじみ言ってました。「他人は信用できない」「特に東京の人間は信用できない」と何度も言ってました。そして、「子どもたちが片付いたら、女房と二人で九州に帰るつもりだ」と言っていました。

駅で別れるとき、体重120キロの坊主頭の強面のおっさんが、改札口に入った私に向かっていつまでも手を振りつづけるのです。その姿を見たら、なんだか胸にこみあげてくるものがありました。そして、こういうのを旧交を温めるというんだなと思いました。
2016.04.08 Fri l 日常・その他 l top ▲
知り合いの若者が、明日(1/11)成人式なんですと言うので、私は、「エエッ、成人の日って15日じゃないの?」って言ったら、彼は怪訝な顔をしていました。最近、若者とあまり接触がなかったので、成人の日が資源ゴミの日と同じ1月の第二月曜日に変ったことをすっかり忘れていたのです。

もっとも私の田舎では、成人式は夏のお盆休みにおこなわれていました。自分の成人式のとき、私は、東京のアパートで、体調を崩して学校にも行かず床に伏せることの多い毎日を送っていました。そんな私を見るに見かねた友人が、たまたま通学する途中のバスのなかで見たという、渋谷の山手通り沿いの病院に連れて行ってくれたのです。

診察した結果は、持病の再発でした。既に私は、中学のときと高校のときに二度入院していたのです。先生から「かなり悪いですね。まだ若いんだから田舎に帰って、もう一度身体を直してやり直したほうがいいですよ」と言われ、レントゲン写真などを渡してくれました。しかし、私は田舎に帰ることをまだためらっていました。すると、友人が私に内緒で田舎の親に連絡して、父親が東京まで迎えに来たのでした。

そのとき、父親がもってきたのが成人式の写真でした。と言うのも、写真館をやっていた父親は、毎年役場に頼まれて成人式の集合写真を撮っていたからです。私は、父親に説得されて東京の生活を引き払い、結局、九州の国立病院に1年間入院することになったのですが、そんななかで手にした成人式の写真には、卒業以来会ってない中学時代の同級生たちのちょっと大人になったなつかしい顔が映っていました。

また、翌年の1月15日の成人の日には、病院から記念のアルバムをもらいました。その頃は病状が芳しくなく、ほとんど寝たきりの状態でした。主治医の先生や婦長さんたちが病室にやってきて、「ご成人、おめでとうございます!」と言われて、のし紙に「祝成人」と書かれた記念品のアルバムをもらったのでした。そのとき、私は、成人の日というのは、社会的にも特別な日なんだなとしみじみ思ったことを覚えています。

今のコスプレまがいの奇抜な格好や”荒れた成人式”などを見ると、成人式もハロウィンなどと同じように、ただのイベントにすぎなくなった気がします。もし私の時代に今のような成人式だったら、あのような感慨を抱くことはなかったと思うのです。
2016.01.11 Mon l 日常・その他 l top ▲
夕方、本を買うために、散歩がてら新横浜まで歩いて行きました。

途中、横浜アリーナの周辺は、若い女の子たちであふれていました。コンサートかなにかの入場待ちなのでしょう。近くの公園には、京都や大阪や豊橋ナンバーの貸切バスが停まっていました。

公園の片隅では、人の輪から離れ、ひとりでベンチに座ってパンを食べている女の子がいました。好きなアーティストのライブを見るために、遠くからやってきたのでしょう。私は、その姿がまぶしく見えてなりませんでした(帰ってネットで調べたら、flumpoolのライブがあったみたいです)。

駅ビルに行くと、いつもに比べて人が多く混雑していました。なかでも、これから新幹線に乗って帰省するのでしょう、キャッリーバックを引いた家族連れの姿が目立ちました。

思えば、1年前、私は、死の間際の母に会うために、そんな帰省客に混ざって大分行きの飛行機に乗っていたのです。それは、とてもさみしいものでした。まわりの光景から自分ひとり隔絶されているような感じでした。

空港に着いたら、出迎えの家族と笑顔で対面しているような光景があちこちで見られましたが、私は、病院に直行しなければなりません。空港から大分市街までバスで1時間近くかかるのですが、窓外に流れるふるさとの風景を眺めていたら、胸がしめつけられるような気持になりました。

本を買ったあと、階下の食品売り場に行くと、おせち料理を売っていました。どうしようか迷ったのですが、ひとりで食べるおせち料理ほどわびしいものはありません。それで、この正月は焼肉とカレーにすることにしました。

私の田舎では、「歳取り」と言って、大晦日におせち料理を食べる風習があります。そういった「歳取り」の風習は、北海道・東北・長野・新潟の一部と、鹿児島・熊本・大分・宮崎など九州に残っているのだそうです。

そのため、帰省する場合、大晦日の「歳取り」までに帰るようにするのが一般的です。「歳取り」に間に合ったとか間に合わないとか、よくそんな言い方がされるのです。

私の場合、もう家族で「歳取り」をすることはないのです。「歳取り」は、子どもの頃のなつかしい思い出になってしまったのです。若い頃はそんなものはどうだっていいと思っていましたが、こうして年を取ってくると、「歳取り」のない大晦日がいつにも増してさみしいものに感じられるのでした。
2015.12.31 Thu l 日常・その他 l top ▲
今日、日本郵便の「お客様サービス相談センター」に、つぎのようなメールを送信しました(一部プライベートに関する部分などの表現を変更しています)。

*****************

本日、代金引換郵便を渋谷郵便局の窓口に出した際のやりとりについて、確認したくメールを差し上げました。

私は、仕事(ネット通販)の関係で、よく代金引換(普通郵便とゆうパック)を利用させていただいており、ラベルの印字も近くの郵便局にお願いしています。

通常は近くの郵便局を利用することが多いのですが、今朝は所用で渋谷に行ったついでに、渋谷郵便局に伺いました。渋谷郵便局は今までも何度も利用させていただいたことがあります。

窓口で郵便物を出すと、「身元を確認できるものがありますか?」と言われたので、健康保険証を出しました。すると、窓口の担当者(若い女性)は、保険証だけでなく、「口座(振替口座)の名義を証明するものがありますか?」と言うのです。

ちなみに、振替口座の名義は屋号で、差出人名は、屋号と名字(個人名)が併記されています。もちろん、住所は保険証と同じです。

しかし、いきなり振替口座の証明と言われてもなにもありません。ご存知のとおり振替口座の場合、通帳もキャッシュカードもありませんので、証明するものなんて普段もっていません。

私は、「そんなこと言われたのは初めてです。いつも保険証や免許証で確認をしていますが、それじゃダメなんですか?」と言いました。すると、彼女は、少しふて腐れたような感じで、「でも、それじゃ受け付けることはできません」と言うのです。それで、私は、「今まで何百通も出したけど、いつも保険証か免許証で確認するだけですよ」と再度強い口調で言いました。

窓口の女性は、ふくれっ面をして「上司に相談します」と言って、奥の席に行きました。そして、上司とおぼしき男性職員が出てきて、今まで何度も見た「代金引換郵便の身元確認の厳格化」を説明した紙を差し出し、「住所は確認できましたが、この口座が本人のものか確認する必要があるのです」と言うのです。

それで、私は、「たしかに窓口での確認が厳格化されたのは知っていますが、口座を確認するものまで必要だと言われたのは初めてですよ」と言いました。すると、「いつもどこの郵便局に出しているのですか?」と訊かれたました。

「港北郵便局や大倉山の郵便局や横浜中央郵便局などです」
「それじゃ、そんな郵便局が間違っていますね」
「エエッ、全部、間違っているのですか?」
「そうです」

上記にあげた郵便局以外にも、横浜や都内のさまざまな郵便局で代金引換郵便を出しましたが、どこも保険証や免許証の確認だけで済みました。

「じゃあ、何を出せばいいのですか?」
「たとえば、口座の名義が書かれた通知票か名刺などです」

受払通知票(註:入金や出金や送金があった場合、その都度郵送されてくる入出金を記録した葉書大の用紙)なんて普段持ち歩いているはずがありませんし、あんな単なる印刷物がホントに証明になるのでしょうか。それに、私は入金確認や送金などはもっぱらネットでおこなっているのですが、最近、ゆうちょ銀行は通知票に代わりネットで確認できるようにぺーパーレスをすすめており、もしペーパーレスに切り替えたら、もはや「口座を確認するもの」がなくなってしまいます。まして、名刺など、いくらでも偽造が可能で、口座を確認するための証明にはとてもなり得ないと思います。

結局、たまたま財布のなかに、前回送った際のラベルの控えがありましたので、「これじゃダメですか?」と言ったら、しぶしぶ(文字通りしぶしぶ)、それと保険証をコピーして「今日はこれで手続きしますが、もしお客様に迷惑がかかってもいっさいの責任はもちません」というようなことを言われました。そして、「今後は口座を証明するものを持ってきてください」と念を押されました。

保険証や免許証など以外に、口座を証明するものがホントに必要なのですか? 担当者が言うように、他の郵便局はすべて「間違っている」「手抜きしている」のですか? 臨機応変に対応するという現場の判断も認めず、全て住所氏名以外に口座を証明するものの提出を「義務付けている」のでしょうか? 身元確認をするという趣旨は充分理解できますが、あまりにも杓子定規で、通知票の問題ひとつとっても、きわめて非現実的で対応に苦慮します。

もし今日の渋谷郵便局のように(同じ渋谷郵便局でも他の方の場合は、保険証や免許証で済みましたが)、口座を証明するものの提出を求められた場合、どうすればいいのでしょうか?

長くなりまして申し訳ございませんが、今後のこともありますので、今日の対応についてご見解をお聞かせいただき、今後どうすればいいのか、ご教示いただけないでしょうか。

ご回答をよろしくお願いいたします。

*****************

代金引換郵便を利用した犯罪(送り付け詐欺や薬物売買)に対応するために、去年から郵便局が発送時の身元確認を厳格化したのですが、しかし、それこそ何百通も出したなかで口座の証明まで求められたのは初めてでした。もちろん、通帳やキャッシュカードがあればことは簡単ですが、振替口座(当座口座)にはそれがないのです。

言うまでもなく、口座の身元確認はゆうちょ内部でできるはずです。それをお客に証明しろというのは、本末転倒しているようにしか思えません。そもそも代金引換で問題になったのは、代金を口座に入金するケースではなく、為替で送金するケース(郵便為替をゆうちょ銀行の窓口で現金化する方法)です。それだと、口座がないため、発送時の確認はできるけど、入金時の確認ができないからです。そのため、代金引換における為替送金は、禁止になりました。

身元確認の厳格化は、郵便局の「内規」だそうです。おそらく警察当局の要請で、そういった「内規」を設けたのでしょう。

一連のやりとりのなかでつくづく感じたのは、有無を言わせない杓子定規な対応です。それは、どう見ても官尊民卑の旧体質をひきずった公務員のものです。厳格化という「内規」がいつの間にか(役所特有の)事なかれ主義に転化しているのです。私たちに対する姿勢も、「お客様」ではなくあくまで「利用者」のそれなのです。

渋谷郵便局の窓口は5つありましたが、今朝、稼働しているのは2つしかありませんでした。あとの3つは、年配の職員が担当していましたが、なにやらラベルにスタンプを押したりとほかの作業をしていて(しかも、おせいじにもテキパキとは言い難いペースで)、窓口を一時的に閉じていました。そのため、開いている2つの窓口の担当者(いづれも女性)があきらかに苛立っているのが見て取れました。それで、嫌な予感がしたのですが、案の定、途方に暮れるような”厳格な対応”に遭遇することになったのでした。

個人情報保護法が成立して、たとえば病院で知人が入院しているか尋ねても、「個人情報」を盾に回答を拒否されたり、学校の保護者会で連絡網を作ろうとしても、やはり「個人情報」を盾に作れないなどの現実がある一方で、一民間会社(!)が警察に協力するために、サービスの前提として「個人情報」の提出を「内規」で設け、窓口でさも当然のことのように「個人情報」の提出を求め、さらにそれを(照合するだけでなく)当然のことのようにコピーするという現実があるのです。しかも、そんな風潮は、ますますエスカレートするばかりです。コピーした「個人情報」は、ラベルの控えにホッチキスで止められて背後の箱に無造作に入れられていましたが、その後どのように管理されるのか私たちは知る由もないのです。
2015.12.28 Mon l 日常・その他 l top ▲
若い頃、私は、いわゆる「在日」の女の子とつきあっていたことがありました。つきあい出してしばらくしてから、突然、「あたし、日本人じゃないの」と言うのでびっくりしました。

「エッ、じゃあ、何人?」
「朝鮮人なの」
「ああ、そうなんだ」

彼女は、そんな私の軽い反応が意外だったそうです。妄想癖のある私は、最初「日本人じゃないの」と言われたとき、(冗談ではなくホントに)宇宙人かと思ったのです。

彼女もまた本を読むのが好きで、妄想癖がある女の子でした。学校の成績はあまりよくなかったと言うので、頭はよさそうなのにどうして?と訊いたら、「授業中外を見て物思いに耽ってばかりいたから」と言ってました。

ただ、つきあっているうちに、一見似ているけど実は微妙に似てない面があることに気付きました。わかりやすく言えば、日本人がこだわる部分を朝鮮人はこだわらなくて、朝鮮人がこだわる部分を日本人はこだわないのです。その違いは、似ているだけによけい際立つところがあり、ときに「根本的な」違いのように思えるのでした。

私はよく朝鮮人は勝ったか負けたか得か損かでしかものを見ないと「悪口」を言ってました。すると、彼女は、日本人は冷たくてずる賢くてなにを考えているかわからないと「悪口」を言い返してきました。その損得勘定と狡猾さというのは、たしかに似ているようで似てないのです。日本人と朝鮮人のなかにある”情”にしても、当事者にしかわからないような微妙な違いがあるのです。それは、儒教の影響の濃淡だけでなく、大陸に連なる半島と島国の精神風土の違いも関連しているように思えてなりません。

私は、お姉さんの結婚式にも招待されて出席しました。朝鮮人の披露宴は、日本人の披露宴のような席次表がありません。親戚のテーブル以外は、基本的にどこに座ってもいいのです。聞けば、招待されなくてもやってくる人がいるそうです。それで、戸惑って立っていたら、彼女のお父さんがやってきて、おばさんが多く座っているテーブルに案内してくれました。そこは、お父さんとお母さんの友達が座っているテーブルでした。

おばさんたちは驚くほどきさくで、新郎新婦とどんな関係なのか訊くでもなしに、「お兄ちゃん、どんどん食べなさいよ」「なにが好きなん?」と言って料理を皿に取ってくれるのでした。

披露宴の途中、彼女がやってきて「大丈夫?」「まわりはバリバリの朝鮮人ばかりだよ」「お父さんに、なんであんな朝鮮人のテーブルに連れて行ったの?って文句を言ったの」と言ってました。

ところが、トイレに行った際、叔父だという人から呼び止められ、「××(彼女の名前)は、お前のような日本人にはやらないからな」とドスのきいた声で言われたのです。披露宴のあと、「あのやくざみたいな叔父さんは、なんなんだ?」と文句を言ったら、彼女は泣いていました。お母さんの弟で金融業をやっているということでした。

たしかに、普通の披露宴と違って、妙にコワモテの人間が多かったのは事実です。駐車場にベンツが多く停まっていたので、「親戚や友達にそんなに金持ちが多いの?」と訊いたら、「なに言ってるのよ、みんな朝鮮人よ。あれが朝鮮人なのよ」と言っていました。

最近、知り合いが仕事の関係で「在日」の人間とトラブルになって困っていると言うので、私も相手に会いに行きました。ひと言で言って、”年取ったチンピラ”でした。如何にもという感じで両足を外に向けて座り、威圧するように鋭い目でこっちを睨みつけながら、分厚い胸から野太い声を出して、感情を露わにまくしたてるのでした。

知り合いは、「だから『在日』は嫌なんだよ」と言ってました。それを聞いて、私は彼の気持はわからないでもないけど、でもそれは短絡すぎるのではないかと思いました。

たしかに、朝鮮人特有の気質と呼べるようなものはあるし、日本人との違いはあります。日本人だけには負けたくない、バカにされたくないという、日本人に対する対抗心のようなものも感じることはあります。だからあのように虚勢を張るのでしょう。それは、私たちから見ると、あまりにも意識過剰でうっとうしく感じることも事実です(もちろん、その背景に差別の歴史があるのは言うまでもありませんが)。

ただ、よく考えてみれば、日本人のなかにもやくざっぽい人間はいるし、トラブルになるとやっかいな人間はいくらでもいるのです。庇を貸して母屋を取られるような気持になるのは、なにも「在日」に限った話ではないでしょう。それをすべて「民族性」とか「国民性」などということばで括るのは、やはり短絡的だし予断と偏見に満ちていると言わねばならないでしょう。

「古本屋の覚え書き 」というブログにつぎのような「抜き書き」がありました。私は、どちらの本も読んでいませんが、「民族」という概念の薄っぺらさをよく言い表しているように思います。薄っぺらな概念だがらこそ、排外主義のような暴力的な感情に訴えなければならないのかもしれません。

古本屋の覚書
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/

 民族という概念そのものは18世紀の西欧の発明であり、これは「血と土」を意味するドイツ語のBlud und Borden(ブルート・ウント・ボーデン)およびVolk(フォルク)「民」からきている。これを明治前期に民族と造語した。現代中国語の民族(ミンズー)は、明治中期に日本から輸出された熟字である。それ以前の中国語にはなかった。昔から日本は原料加工製品輸出がうまかったのである。(以下略)

【『無境界の人』森巣博〈もりす・ひろし〉(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100309/p1


 民族という現象は実に厄介です。誰にでも眼、鼻、口、耳があるように、民族的帰属があると考えるのが常識になっていますが、このような常識は、たかだか150年か200年くらいの歴史しかないのです。アーネスト・ゲルナーたちの研究(※『民族とナショナリズム』岩波書店、1983年)の結果では、民族というものが近代的な現象であると、はっきりとした結論が出ています。民族的伝統と見られているものの大半が過去百数十年の間に「創られた伝統」に過ぎないのです。

【『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)】
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20091101/p2


月並みな言い方をすれば、日本人だって、朝鮮人だって、中国人だって、ロシア人だって、アラブ人だって、フランス人だって、みんな五十歩百歩なのです。相手の醜さは自分の醜さでもあるのです。私たちの前にはいつもそういった合わせ鏡があるのだということを忘れてはならないでしょう。


関連記事:
『ハンサラン 愛する人びと』
「かぞくのくに」
2015.11.24 Tue l 日常・その他 l top ▲
久しぶりに高校時代の同級生にメールしたら、入院しているお母さんの容態が悪くて、病院から何度も呼び出しを受け、仕事も休んで待機している、と返事がきました。私は、なんと返信していいかわからず、そのままにしています。

また、昨日は突然、田舎の姉から電話がありました。妹の携帯がつながらなくなっているけど、妹からなにか連絡があったかという問い合わせでした。でも、家の電話はつながるそうなので、ただ、携帯を換えただけなのでしょう。

どうしてわざわざそんな電話をかけてきたのかよくわかりません。母親の一周忌のことで姉妹の間で意見の相違があるらしく、私にはさっぱり事情が掴めない愚痴をこぼしていましたが、そんな姉の声がいつになく年寄りじみて聞こえました。私は、電話の内容よりその声になんだかひどく気が沈んだのでした。

もちろん自分も含めてですが、みんなすっかり年老いてしまったのです。文字通り、黄昏の時間を迎えているのです。年をとればとるほど自分でままならないことが多くなり、そうやってひとり気をもんで取り越し苦労をするのでしょう。

電話を切ったあと、テレビから流れてくるワイドショーのキャスターの甲高い声が耳触りでなりませんでした。それに、彼らがもっともらしく喋っていることもなんだかいかがわしく聞こえて、嫌悪感すら覚えるのでした。

藤枝静男が61歳のときに書いた「厭離穢土」(1969年)という小説に、こんな場面があります。入院している「私」のもとに姪が見舞いにきて、83歳になる母親の、金銭や性に執着する「耄碌ぶり」についてひとしきり愚痴をこぼして帰ったあと、「私」はこう思います。

 姪が立ち去ったあとで夕食が来たが、食べる気にならなかった。肉親の叔母が、いま抑圧のとれた痴呆の世界に入ってやっと本来の自分に帰り、そして何十年のあいだ胸中にヘシ曲げられていた彼女の厭わしい欲望がぞろそろと正体を白日のもとに現しはじめたと思うと、何だか眼の前の膳のうえの魚がきたなく見えた。そしてやはりこの魚が結局は自分自身の姿であることを思い、厭世的な気分がゆっくり自分の胸を閉ざして行くのを感じた。


さらにその夜、「消灯してから眠れぬままに叔母のことをいろいろ考え」ます。さまざまなしがらみや因習のなかで農家の嫁を全うした叔母の人生。叔母も近いうちに小学生の頃通学路の脇にあったあの共同墓地に行くのだなと思います。そして、同時にみずからの死についても考えるのでした。

(略)来るべき死に対する恐怖の内容は、自分自身の硬直した死体とか、死臭とか、腐敗とか、焼亡とかいうような厭わしい肉体の崩壊を空想する生理的恐怖と、それに伴って永遠の闇黒世界に消え去って無に帰する自分への執着から生まれる恐怖である。
 私は、自分がどう理屈をつけようと、感覚的には到底この恐怖にうち克つ見込みのないことを観念している。「諦めきれると諦め」ている。結局、私はせめて死をEkelに満ちた自己から脱却し得る手段と考え、いくらかでもそれをバネにして最期の時を迎える他ないのであろう。


どう自分に死を納得させるのかと言っても、とても納得なんかできないでしょう。医師として医学的に死を熟知している藤枝静男にしても、みずからの死に対しては恐怖と苦悩を抱くのでした。そんな彼が思い出したのが、学生時代に学んだdas Ekel(嫌悪)というドイツ語の単語だったのです。それはトーマス・マンの「道化者」という短編小説に出てきた単語でした。

定期的に通っている病院のシャトルバスの運転手のおじさんが、70歳になり派遣会社から「雇い止め」されたと聞いたので、「お世話になりました」と挨拶したら、「定年になってからそのあとが長いんだよなあ」としみじみ言ってました。年金が少ないので、今度は牛乳配達のアルバイトをするのだそうです。

黄昏を生きると言っても人さまざまですが、でも、生活のために働かなければならないというのは、(もちろんそれはそれで大変でしょうが)かえって幸せなことではないかと思いました。


関連記事:
『33年後のなんとなく、クリスタル』
2015.11.04 Wed l 日常・その他 l top ▲
昨日、用事で隣県のある街に行きました。そこは、若い頃10年近く付き合った彼女(今風の言い方をすれば「元カノ」)が住んでいた街でした。私は、休みになると、当時住んでいた埼玉から100キロ近く離れたその街に、いつも車で彼女を迎えに行っていました。

高速道路のインターを降りると、さすがにまわりの風景は変わっていたものの、街中に向かう道路は昔のままでした。私は、「このカーブはなつかしいな」「この交差点もなつかしいな」などと心のなかで呟きながら運転していました。

見覚えのある駅前の通りを走っていると、今でも舗道を歩いている彼女にばったり出くわすような気がしました。しかも、歩いているのは、20数年前の彼女なのです。

別れる前年、彼女のお父さんがガンで亡くなったのですが、亡くなる半月くらい前に病院にお見舞いに行って、病室で二人きりになったとき、お父さんから「××(彼女の名前)のことを頼みますね」と絞り出すような声で言われました。私はそのお父さんの気持も裏切ってしまったのです。

終わった恋愛に対して、女性はわりと切り替えが早く、男性はいつまでも引きずる傾向があると言われますが、私もやはり未だ引きずっている部分があるのかもしれません。

車を運転しながら、私はなんだか胸が締め付けられるような気持になりました。と同時に、もうあの頃に戻ることはないんだなと感傷的な気分になっている自分もいました。もちろん、そのなかには多分に悔恨の念が混ざっているのでした。

恋愛に限らず他人から見ればどこにでもあるような話でも、当人にとっては、唯一無二の特別なものです。それが私を私たらしめているのです。

世の中の人たちは、なにか利害がない限り自分に関心などもってくれないけど、そのなかで利害もなく自分に関心をもってくれる相手を見つけるのが結婚だ、と言った人がいましたが、恋愛も同じでしょう。

どこにでもあるようなありきたりな話でも、それを特別なものとして共有できる相手を見つけるのが恋愛なのです。坂口安吾は、「恋愛は人生の花である」と言ったのですが、その「花」はときにつらさや切なさやかなしみをもたらすものでもあるのです。

用事を終え、再びインターに向かって国道を走っていると、前方の空が夕陽に赤く染まっていました。その風景も昔何度も見たような気がしました。

思い出と言えばそう言えますが、年を取ると、このように何ごとにおいても悔恨ばかりが募るのでした。そして、そんな悔恨を抱えて、これから黄昏の時間を生きていかねばならないのだなとしみじみ思いました。


関連記事
『33年後のなんとなく、クリスタル』
2015.09.23 Wed l 日常・その他 l top ▲
他人にはどうでもいい「私語り」の記事ばかり書いていると、よけい昔のことが思い出されるのでした。何度もくり返しますが、思えば遠くに来たもんだとしみじみ思います。

これも既出ですが、私も最近は、「夜中、忽然(コツゼン)として座す。無言にして空しく涕洟(テイイ)す」(夜中に突然起きて座り、ただ黙って泣きじゃくる)という森鴎外と似たような心境になることがあります。

ネットには、年寄りを生かしつづけるのは税金の無駄使いだ、とでも言いたげな書き込みが多くありますが、年を取るのは自分の責任ではないのです。そんな若者たちだって、年を取れば「無言にして空しく涕洟」することもあるはずです。そんな想像力さえはたらかないのだろうかと思います。

先日、帰省した折、前回の記事に書いた、昔の勤務地の山間の町を訪ねました。私は、20代の頃、その町に5年近く住み、そして、その町で恋もしました。

当時、商店街のなかに「H」という名前の喫茶店がありました。「H」は、その町の若者たちのたまり場になっていました。当然、「H」は出会いの場でもあり、その際、いつも仲をとりもっていたのが「H」の「ママ」でした。「ママ」は当時、40代の半ばで独身でした。

人の話では、同じ町内に住む男性と不倫関係にあり、それは「ママ」が20代の頃からつづいているということでした。私も何度か、店にやってきた不倫相手の男性を見たことがあります。既に70近くの背の高い老人でした。「あの人がそうよ」と「H」で知り合った彼女から耳元でささやかれたこともありました。

相手の男性の評判は、「ママ」の周辺では最悪でした。みんな口をそろえて「嫌なやつだ」と言ってました。「店の売上げもつぎ込んでいるらしいよ」「あれじゃだたのヒモだよ」「ママもバカだよ」と言ってました。しかし、私たちはまだ若かったので、そこまで現実的な見方をすることはできませんでした。一途に愛を貫いている、そういう風に考えていました。狭い町内に男性の奥さんや子どもがいるのに、それでも関係をつづけているというのは、”すごいこと”だと思っていたのです。

私は、レンタカーで、商店街のなかをゆっくり進みました。商店街の光景もずいぶん変わっていましたが、見覚えのある店もいくつか残っていました。しかし、銀行の隣にある「H」までやってくると様子がおかしいのです。外観は残っているものの、なかはもぬけの殻になっていたのでした。閉店していたのです。それも閉店してまだ間がないみたいです。

そのあと、やはり当時よく通っていた居酒屋に行って、「H」のことを聞きました。居酒屋の主人の話では、相手の男性はとっくに亡くなり、「H」の「ママ」も、去年、店を閉じると、誰にも告げずに町を出て行ったそうです。町内に住んでいる弟に聞いても、「県外に行った」としか言わないのだとか。もういい年なので、どこかの老人福祉施設か病院にでも入ったんじゃないか、と言ってました。居酒屋の経営者夫婦も昔は「ママ」と仲がよかったのですが、最近は付き合いもなくなっていたと言ってました。

「愛を貫いた」と言えばそう言えないこともありませんが、下賤な言い方をすれば、愛人のまま一生を終えたのです。愛人と言っても、生活の面倒を見てもらっていたわけではありませんので(逆にお金を渡していた?)、経済的にはちゃんと自立していたことになります。生まれ育った町でそんな生き方をするには、当然肩身の狭い思いをしたこともあったでしょう。それでも、町に住みつづけ、結婚もしないで「愛を貫いた」のです。

今思えば、私たちが「H」に通っていた頃が、「ママ」にとっても、「H」にとっても、いちばんいい時期だったのかもしれません。みんな、若くて、みんな元気で、みんな明日がありました。「ママ」は、そんな常連客たちといつも楽しそうにおしゃべりをして、夏山のシーズンになると、一緒に山登りなどもしていました。

私が会社を辞めて再度上京すると決めたとき、多くの人たちは「どうして?」「もったいない」と言ってましたが、「ママ」は「やっぱりね」「そんな気がしていたわ」と言ってました。そして、「二度と大分に戻るなんて思わないで、がんばりなさいよ」と言われました。最後に訪れた日、店の前で笑顔で手を振って見送ってくれたのを今でも覚えています。

おそらく「ママ」は、このまま県外の見知らぬ土地で、一生を終えるのでしょう。年老いて生まれ故郷を離れた今、どんな思いで自分の人生をふり返っているのでしょうか。その術はありませんが、聞いてみたい気がします。やはり、眠れぬ夜の底で、「無言にして空しく涕洟」しているのかもしれません。人生いろいろですが、こんな「女の一生」もあるのです。

Yahoo!ニュースを見て政治に目覚め、ネトウヨになるような若者なんてどうだっていいのです。「シルバー民主主義の弊害」とかなんとか、国家のあり様や人の生き様を経済合理性で語ることしかできない、ゼロ年代の批評家や拝金亡者の経済アナリストなんてどうだっていいのです。私は、年寄りの「私語り」を聞きたいと思います。そんな人生の奥にある”生きる哀しみ”のなかにこそ、私たちの人生にも通じるリアルなことばがあると思うからです。
2015.06.09 Tue l 日常・その他 l top ▲
私は、朝日新聞デジタルに連載されている「花のない花屋」というシリーズが好きなのですが、そのなかの「定年退職を迎える、男手ひとつで育ててくれた父へ」(2013年2月21日)という記事に、つぎのような記述がありました。

父はよく「自分以上の生活を子どもにさせたい」と言っていました。「できるだけいい大学へ入って、いい企業に入りなさい。そうすれば人生の自由度が高くなるから」と。

朝日新聞デジタル
定年退職を迎える、男手ひとつで育ててくれた父へ


身も蓋もない言い方ですが、しかし、案外真実を衝いているとも言えるのです。もちろん、「いい大学」だけが人生ではないし、「いい会社」だけが人生ではないのは言うまでもありません。でも、身近な例を見ても、「いい大学」に行って「いい会社」に入ると、「人生の自由度が高くなる」という”世間智”は、あながち否定できないように思うのです。

大学だけでなく高校もそうで、「いい学校」というのは、校則もゆるくて自由で、友人関係も含めて「いい環境」にめぐまれるものです。まわりの環境に影響を受けやすい思春期においては、それは大事なことです。

もちろん、「いい大学」や「いい会社」に入っても、挫折や失敗もあります。「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」というのは井上靖のことばですが、要は、努力すること、努力する大切さを忘れないということでしょう。資本主義社会では、努力する目的が「いい学校」や「いい会社」や「お金(経済的余裕)」というような現世的な身も蓋もないものになりがちです。だからと言って、努力をしなくていいいということにはならないはずです。努力をする大切さまで否定してはならないのです。

関連記事:
『野心のすすめ』林真理子
『下流志向』
2015.05.31 Sun l 日常・その他 l top ▲
部屋にちょっとした工事が入ることになったので、部屋中に積み重ねていた本を整理しようと本棚を買いました。全部で5本買いました。廊下の壁にずらりと本棚が並んだ光景は、(自分で言うのもなんですが)なかなか壮観です。それでも、本は半分も収まっていません。もうこれ以上、本棚を入れるスペースがないのです。

一応、転倒防止用の伸縮棒で固定しましたが、大きな地震が来たら、本も散乱するでしょうから、玄関から脱出するのはとても無理でしょう。ベランダから脱出するしかありません。ベランダには避難梯子がありますが、それだけでは不安なので、別に脱出用のロープも買って用意しました(でも、ホントにレンジャー部隊のようなことができるか不安ですが)。

雑誌類は資源ゴミに出すことにして紐で束ねましたが、10数個ありました。これでは、両手に持っても、部屋と回収場所まで5回以上往復しなければならず、考えただけでもうんざりです。

柳美里が、本を捨てられないので、引っ越すときが大変だ、とブログに書いていましたが、それは私も同じです。どうしても捨てることができないのです。ただ、25年前、九州から東京に出てくるときは、引っ越し費用の関係で、泣く泣く処分しましたので、今あるのは25年分ということになります。

若い頃から、どんなにお金がなくても本を買うのを優先してきました。不思議と、本代が惜しいと思ったことはありません。入院しているときは、病院の近所の本屋さんがわざわざ御用聞きにきていたくらいです。また、九州にいた頃、人口2万あまりの小さな町の営業所に勤務したことがあるのですが、そのときも町に唯一ある本屋さんがやはり会社に御用聞きに来ていました。お金は月末にまとめて払っていました。その当時、月に3~4万円は使っていました。でも、今はその半分くらいです。年をとると、食欲も●欲も落ちますが、読書量も落ちるのです。

将来、乏しい年金から(もしかしたら生活扶助費から)本代をねん出するのは無理かもしれませんので、そのときは今ある本を読み返して老後をすごすつもりです。私の場合、孤独死の可能性が高いと思いますが、今の状態では本に埋もれて死んでいた(腐ったバナナのように、本の間で腐乱していた)ということになるのかもしれません。でも、それはそれで本望と言うべきでしょう。
2015.05.20 Wed l 日常・その他 l top ▲
やはり年のせいなのか、最近わけもなく悲しい気持になることがあるのですが、深夜、たまたまYouTubeで、「きたやまおさむ 九州大学定年退職記念 さよならコンサート」の映像を見ていたら、なんだか昔が思い出されて、また悲しい気持になりました。

これは、九大で教授を務めていた北山修氏が定年で退職するのを記念して、2010年3月21日に九大医学部の百年講堂でおこなわれたコンサートの映像です。北山氏のほかにアルフィの坂崎幸之助が出演し、ゲストに杉田二郎と南こうせつ、それに作詞家の松山猛氏が出ていました。

私がフォーク・クルセダーズの歌を聴いたのは、坂崎幸之助と同じように、中学生のときでした。当時、私が通っていた田舎の中学では、まだ同級生の3分の1くらいが集団就職する時代でしたので(私たちがその最後の世代だったと思います)、そんな塾もなにもないような田舎の中学から都会(まち)の普通科の高校に進むのは、結構大変でした。それで、親と先生が話し合って、私は、年が明けると学校に行かずに、家で受験勉強することになったのでした。

私は、祖父母の家の二階で、終日、ひとりで受験勉強をしていました。その際、窓際に置いたラジオからよく流れていたのが、フォークルの歌でした。

ある日のことです。外から聞き覚えのある声が聞こえてきたのです。窓から見ると、同級生たちが、前の道をおしゃべりをしながら楽しそうに歩いていました。わずかな間会わなかっただけなのに、なんだかすごくなつかしい気がしました。しかし、私は、彼らに声をかけることができなかったのです。なぜか声をかけるのがためらわれたのでした。それが自分でもショックでした。そして、私は、中学を卒業すると田舎を離れ、同じ中学の出身者が誰もいない遠くの街の高校に進学して、中学の同級生たちとも徐々に疎遠になっていったのでした。

フォークルの歌を聴くと、2ヶ月間寝起きした祖父母の家の部屋の様子とあのときの悲しくせつない気持が思い出されるのでした。

北山氏によれば、「さよならコンサート」は、加藤和彦の家で二人で話し合って決めたのだそうです。にもかかわらず、加藤和彦はコンサートを迎えることなく自死したのでした。北山氏は、コンサートのなかで、「加藤と作った歌は、喪失と悲しみの歌が多い」と言ってました。

映像のなかで、私が好きなのは「イムジン河」です。今の北への制裁や嫌韓の風潮からは想像もできませんが、まだこのように素朴に感傷的に南北に引き裂かれた朝鮮半島の人々を思う時代があったのです。その思いは、今もいくらか私のなかに残っています。

YouTube
イムジン河 悲しくてやりきれない きたやまおさむ 坂崎幸之助 南こうせつ

北山氏のことばを借りれば、人生は「喪失と悲しみ」の過程にあるのだと思います。もしかしたら青春とは、その「喪失と悲しみ」を初めて垣間見る時期なのかもしれません。

余談ですが、このYouTubeの映像の合間に流れるAdobeのCMがすごくカッコよかったです。

関連記事:
加藤和彦さんの死
2015.05.18 Mon l 日常・その他 l top ▲
今日の夜、新横浜のとあるホテルの喫茶店で、オシャレに(?)お茶しているときでした。

突然、若い女の子たちがドドドッとホテルのロビーになだれ込んできたのです。私はびっくりして、ロビーのほうに目をやりました。すると、女の子たちは我先にフロントのカウンターの前に並んで、チェックインの手続きをはじめたのでした。どうやら彼女たちは、今宵のホテルの宿泊客みたいです。

窓の外を見ると、向かいの舗道がいつの間にか若い女性で埋まっていました。そして、その群れは、上下にうねりながら駅の方に向かって進んでいました。もっとも、若い女性たちが舗道を埋め尽くす光景は、新横浜ではめずらしいことではありません。横浜アリーナでイベントがあったときのおなじみの光景です。

ただ、ホテルまで彼女たちに占領されているとは思いませんでした。サラリーマンのおじさんたちは会社のお金で宿泊するのですが、彼女たちは自腹でホテルに泊っているのです。こういうのをイベントマーケティングとでも言うのか、周辺のホテルにも思わぬ波及効果を生んでいるのでした。

騒々しくなってきたので、私はホテルを出ました。そして、遅くまでやっている駅前の本屋に行こうと、女の子たちの後ろに付いて舗道を進んで行きました。みんな口々に、「よかったね」「チョー感動したよ」なんて言ってます。「今日の席は自慢できるよ」と言っている子もいました。よほどいい席が当たったのでしょう。

しばらく歩くと、「只今サービス券を配っています! 今だけの特典です!」と呼び込みをしている声が聞こえてきました。マクドナルドでした。売上の低迷で赤字に転落したマクドナルドは、イベント帰りの女の子たち目当てに必死の営業をしているのでした。これも便乗商法と言えるでしょう。

呼び込みが功を奏したのか、マクドの店内も若い女の子たちであふれていました。私は、そんなマクドを横目に、二軒先にある本屋に行きました。ところが、本屋の前にも女の子たちの人盛りができていたのです。

店頭のワゴンに写真集を並べて売っていたのです。おそらくコンサートの出演者たちの写真集なのでしょう。私は、女の子たちの脇をすりぬけて店内に入りました。そして、しばらく本を物色したのち、1冊の新書を手に取るとレジに向かいました。すると、びっくり、レジはいつの間にか写真集を手にした女の子たちで列ができていたのです。

仕方なく、私も列の最後に並びました。でも、並んだことをすぐに後悔しはじめました。精算にえらく時間がかかって、いっこうに前に進まないのでした。写真集を買うと、特典で生写真(?)をプレゼントするみたいなのですが、6種類あるサンプルのなかから1枚選ぶのに、とんでもなく時間がかかるのでした。「どうしよう」「迷っちゃう」とかなんとか言いながらなかなか決まらないのでした。

写真集も高価で、客単価は優に5千円を越えていました。みんな、気前よく万札で支払っていました。そんななか、800円の新書を手に、如何にもイラついた様子で、何度も首を伸ばして前をうかがっているおっさんは、あきらかに場違いでした。

AKBの人形使いではないですが、こんなところにも私たちが知らない市場があったのです。そこでは想像できないくらいの大金が使われているのです。 それは、衣食住とは関係のない消費です。

それにしても、彼女たちはなんと楽しげなんでしょう。みんな、笑顔がはじけ、口々に今日体験した感動を語り合っているのでした。月並みな言い方をすれば、そこにあるのは、間違いなく”消費する喜び”です。たとえそれが仕掛けられた”感動”であっても、彼女たちは、会社に勤めたりアルバイトをしたりして貯めたお金で、その”感動”を買い、みずからを解放しているのです。

吉本隆明は、かつて埴谷雄高との間で交わされたいわゆる「コムデギャルソン論争」のなかで、『アンアン』を読み、ブランドの服を着ることにあこがれる《先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち》が招来しているものは、「理念神話の解体」であり「意識と生活の視えざる革命の進行」であると言ったのですが(1985年刊『重層的な非決定へ』)、私は、あらためてそのことばが思い出されてなりませんでした。

帰ってネットで調べたら、今日、横浜アリーナでおこなわれたコンサートは、「Kiramune Music Festival 2015」というアニメの声優たちが出演するコンサートだったようです。しかし、出演者を見ても、誰ひとり知っている名前はありませんでした。コンサートは、今日明日と2日間おこなわれるみたいで、ホテルが若い女性たちに占領されていたのも合点がいきました。それより驚いたのは、チケット料金が全席指定で1万円もするということです。それを見て、ラーメンが何杯食えるんだ?と思った私は、未だ「理念神話」に呪縛された”反動オヤジ”と言うべきなのかもしれません。
2015.05.09 Sat l 日常・その他 l top ▲
Yahoo!の「ネタりか」に、「メンタルが強い人の特徴」という記事が紹介されていましたが、それを読んで妙に納得する自分がいました。

ネタりか
知らなきゃ負け組に?ぜひ真似したい「メンタルが強い人」の特徴6個

■1:いつもメンタルが安定している

メンタルの強い人は、どんな状態であっても、情緒不安定になりません。いつ、チャレンジしなければいけない事態になっても、冷静な判断ができるように、常に気持ちを平穏にし、頭を明快にしています。


■2:常に幸せでいようとは思わない

過度に幸せになろうとはしません。メンタルが強い人は、自分の否定的な感情に関して、それを避けることはせず、ポジティブとネガティブな感情を両方とも、受け止めます。


■3:楽観的である

失敗すると、誰もが自信を失ったり、反省したりします。ただ、メンタルの強い人は、転んでも、失敗しても、すぐに立ち上がります。反省する代わりに、問題の解決法を見出す方に力をいれます。クヨクヨ悩まないのです。メンタルの強い人は、とても楽観的なのです。


■4:今を生きようとしている

メンタルの強い人は、過去を振り返って悩んだり、未来に不安を抱いたりせず、今を生きようとします。そして、世界の動きに注意深い傾向にあるそうです。世界の動きに注目していると、情緒不安定な状態が緩和され、ストレスや不安を減らしてくれるといいます。


■5:夢に対しての粘り強さがある

心理学者が出した研究結果で、挫折を何度も繰り返しながらも、夢をかなえた人が優れていたポイントは、IQでも美貌でも、健康でも、感情指数でも、強運でもなく、“粘り強さ”だったと明らかになりました。


■6:人生が好き

人生には必ず障害や壁があります。メンタルの強い人は、それをわかっていて、壁が立ちはだかっても、それにより気付かなかった幸せを知ったり、壁を乗り越えることで得る幸せを楽しもうとします。つまり、人生の障害すらも楽しんで生きようとしているのです。


別に人生に成功したいとは思いませんし、第一そんなことを思ってももう手遅れなのですが、ただ、人一倍メンタルの弱い人間としては、メンタルが強かったらどんなに人生が楽だったろうと思うことがあります。

私は、ここであげられている6項目すべてにおいて、真逆の人間です。ちょっとしたことでも動揺して冷静な判断ができず、何事にも悲観的でクヨクヨして、いつも過去を振り返って悩んだり、未来に不安を抱いているし、一度挫折すると立ち直れず、当然、こんな人生が嫌いです。

寺山修司だったかが、人生のかなりの部分は性格に規定されているというようなことを書いていましたが、たしかに自分の人生をつらつら考えるに、性格の要素は大きいように思います。しかし、性格は変えられないのです。そう言うと、「いや、性格は変えられますよ」と言う人が必ず出てきます。でも、そう言う人は、大概、自己啓発や自己発見のセミナーや宗教系の人です。

「僕は精神が好きだ」と言ったのは、大杉栄ですが、大杉栄が言う「精神」とここで言う「精神」とは別のものです。でも、大杉の言う「精神」も大事だけど、ここで言う「精神」も案外バカにできないように思います。お手軽な自己啓発や自己発見の本が売れるのもわからないでもないのです。だからと言って、自分は精神を自己啓発や自己発見で盛って暗示がかけられるほど素直ではありません。

老後を生きる上でもメンタルが強いほうが楽なんだろうかと思います。年金が少なくても、そんなにクヨクヨしないで日々をすごせるのか。足腰が立たなくなり、糞尿の臭いが漂う老人病院の大部屋に入れられても、嘆かずに平気でいられるのか。死を前にしても、ジタバタせずに冷静に死を迎い入れることができるのか。

そんなことをあれこれ考えました。そして、この6項目を書き写して、机の前の壁に貼っておこうかと思いました。
2015.03.16 Mon l 日常・その他 l top ▲
新年あけましておめでとうございます。

今年の正月は、ちょっと暗い気分ですごしています。昨日の大晦日も、年越しのイベントがおこなわれている赤レンガ倉庫や大桟橋に行こうかと思ったのですが、やはり気分が乗らず、結局、家で紅白歌合戦を観てすごしました。でも、紅白歌合戦はぜんぜんつまらなかったです。中森明菜も松田聖子も期待外れでした。

唯一、サザンの「ピースとハイライト」が痛快だったくらいです。

都合のいい大義名分(かいしゃく)で
争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は…狂気(Insane)
20世紀で懲りたはずでしょう?


案の定、「ピースとハイライト」によって、桑田佳祐はネトウヨたちから「在日」認定され、「反日」だ「極左」だとさんざんの叩かようですが、まさに今、私たちの前にあるのは、そんな「狂気」の時代なのです。

そういえば、天皇陛下も「新年の感想」のなかで、今年が戦後70年の節目に当たることをあげて、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と述べていましたが、これもまた「裸の王様が牛耳る世」を念頭においた発言であるのはあきらかでしょう。ナチスの例をあげるまでもなく、”カルト化するニッポン”というのは、「狂気」の時代の謂いでもあるのです。

私は、死の淵をさまよっている母の顔が未だ瞼の裏に焼き付いたまま離れません。スー、スーと大きな呼吸をくり返しているものの、それがいつピタリと止むかもしれないのです。それはなんの予告もなしに突然やってくるのです。私たち家族は、まるでその一瞬を見逃すまいとするかのように、一心に母の顔を見つめていました。

そこにあるのは、”絶望”です。でも、その”絶望”のなかに、まぎれもなく人生の真実があるのでした。

私たちは、母の顔を見つめながら、いつの間にか母に関する思い出話をしていました。それは、母に関する思い出であると同時に、私たち家族の思い出話でもあります。なんだか死の間際にいる母を前にして、私たちはホンの一時子どもの頃に戻ったかのようでした。

何度も同じことをくり返しますが、私たちは、生きる哀しみやせつなさをしっかり見つめることが大事なのだと思います。戦地にいる弟に、「君死にたまふことなかれ」と詠った与謝野晶子のように、「狂気」の時代に対置できるのは、生きる哀しみやせつなさを見つめる(人として当たり前の心のあり様である)個の論理だけなのです。私たちに必要なのは、「狂気」に動員される”政治のことば”ではなく、自分自身の胸の奥にある”私のことば”なのです。
2015.01.01 Thu l 日常・その他 l top ▲