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(大船山)


■中野重治の歩調


中野重治の「村の家」を久しぶりに読みました。中野重治は、1924年東京帝国大学独文科に入学後、新人会(戦前の学生運動団体)に入会し、天皇制国家の弾圧下にあった日本共産党が指導するプロレタリア芸術運動に加わります。

そして、1931年、29歳のときに日本共産党に入党しますが、1932年、治安維持法違反で逮捕されるのでした。しかし、1934年、転向を申し出て保釈され、福井県の日本海に近い寒村にある実家に帰郷するのでした。

「村の家」は、その実体験に基づいて書かれた短編小説です。発表されたのは、昭和10年(1935年)5月です。

「村の家」は、筆を折って(小説を書くことをやめて)村で農業をやれと説得する父親に対して、転向による深い心の傷を抱えながらも(だからこそ)文学への復帰を決意する、主人公の葛藤と覚悟が私小説的な手法を用いて描かれているのでした。

天皇制国家のむき出しの暴力と命を賭して対峙する当時の共産党員にとって、転向は屈服以外の何物でもありません。今の時代では考えられませんが、みずからの存在意味をみずからで否定するような“人生の自殺”に等しいものです。でも、文学というのはそういうところから生まれるものです。

「村の家」は、リゴリスティックで党派的な転向概念から零れ落ちる、個別具体的で人間的な感情を描いているという点で、従来のプロレタリア文学とは一線を画していると言えるでしょう。

私は、ちくま文学全集の中野重治の巻に収められていた作品を読んだのですが、加藤典洋氏は「解説」の中で、中野重治の小説を次のようなキャッチ―な言葉で評していました。

一度、極端にうつむいたことのある人が、気をとり直し、そろそろと日なたの中を歩む。それが中野の歩調だ。


■父親からの手紙


実家では69歳の父親の孫蔵と62歳の母親のクマが農業を営んでいます。父親の孫蔵は、村では、口喧嘩ひとつもしたこともない温厚な性格で、寺の行事でも必ず会計係を申し付けられるような正直者で通っています。そして、「ながくあちこち小役人生活をして、地位も金も出来ないかわりには二人の息子を大学に入れた」のでした。

しかし、長男は大学を出て1年で亡くなります。そのときも、孫蔵は愚痴ひとつこぼさなかったそうです。娘も三人いましたが、嫁いでいた次女は子どもを出産したあと肺病(肺結核)が悪化し、子どもとともに亡くなります。しかも、次女の看病をしていた長女にまで肺病が移ってしまったのでした。それに加えて、次男が治安維持法違反で二度目の逮捕をされたのです。出所して帰郷した際も、3つの新聞社から記者が実家に取材に訪れたほどで、世間から見れば売国奴の“過激派”なのでした。

孫蔵は、「七十年ちかい生涯を顧みて、前半生の希望が後半生にきて順々にこわされていったこと、その崩壊が老年期 ー 老衰期にはいってテンポを高めたことを感じ」ていたのでした。

「村の家」は、夕餉の卓の父親と母親を次のように描写していました。

 分銅のとまった柱時計の下で、孫蔵、タマ、勉次、親子三人が晩めしを食っている。虫の糞のこびりついた電燈がぶらさがって、卓袱台の上の椀、茶碗、皿、杯、徳利などを照らしている。孫蔵は右足を左股へのせたあぐらで桑の木の飯椀でがぶがぶ口を鳴らしている。ときどき指を入れて歯にはさまったものを取りだす。大きな黄いろい歯が三十二枚そろっている。(略)
 タマは前かがみでどことなくこそこそと食っている。髪の毛をぶざまなひっつめにして、絣の前かけをして、坐ったとも立膝ともつかぬ恰好をしている。鼻汁はなをすすったり、足を掻いたりする。肩を落としている。小さい三角の眼が臆病そうに隠れて、そっ歯で、口を閉じるとおちょぼ口になる。上くちびると鼻とのあいだに縦皺がよっている。からだ全体痩せていかにも貧相だ。


獄中にある勉次のもとへ孫蔵から手紙が来るのですが、その中には自分たちのことだけでなく、村の人たちの近況が綴られているのでした。たとえば、こんな文面です。

「一月九日の手紙を見ました。元気で厳寒を征服した事を悦びます。父母も無事に六十九歳と六十二歳の春を迎えました。雪は只今は平地三尺位の物でしょう。世間は少しも思うように行かぬものと見え、稲垣信之助さんが本月に入りてから、十歳を頭(かしら)に四人の子供を残して亡くなりました。高松定一さんは(高松の本家の養子)足掛三年中気で床にあります。小野山登さんは足掛三年越しに発狂しております。松本金吉さん方には昨年夏次郎という男子と十八になる妹が一ヶ月の間に肺病で亡じ、今は老夫婦だけになりました。隣家と北はよく働くから少々ずつ貯金が出来て行くようで喜んでいる。里窪の池内も一家こぞって努力するから大いに喜んでいる。
 堂本の子供達が少し頭が悪いので心配しております。俗に八丈というが六丈どころでないかと思う。なお寒さを大切に。」


私も、遠く離れて暮らすようになると、ときどき田舎の父親から手紙が来ましたが(大概はお金を無心して現金を送って来た際に同封されていた手紙でしたが)、父親の手紙もこんな感じで、読んでいて昔が思い出され胸が熱くなりました。

見覚えのある独特の文字で綴られた文章の間から、田舎での暮らしや親の心中が垣間見えて、ちょっと切ないようなしんみりとした気持になったことを覚えています。

■子どもに対する遠慮がちな理解


孫蔵は、家には5千円(今で言えば1千200万円くらい)の借金があり、土地を売っていくらか精算しようと思っても、田舎の土地は売れないのだと言います。また、逮捕された勉次の元へ面会に行ったときも、腕時計を質に入れ、さらに親戚からお金を借りて旅費を工面したと話すのでした。

二度目の逮捕だったので、「小塚原こづかっぱらの骨になって」(つまり、処刑されて)帰って来るものと覚悟していたのに、転向して保釈されたと連絡が来たので驚いて、取るものも取らず東京に向かったのだと言います。

このように、自分の息子がアカい思想に染まり天皇様に盾突いても、父親の孫蔵は意外なほど淡々としています。普通ならもっと感情的になって親子の縁を切るような話が出てもおかしくないのです。そこには、「ながい腰弁生活のうちに高くないながらおとなしい教養を取りいれて」「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」父親の姿があるのでした。

若い頃、仕事で農村のとある家に行った際、そこは夫婦二人で農業を営んでいる家でしたが、私にあれこれ質問したあと、自分の家の息子の話になったのです。息子は大学に行っているそうで、母親が「近所の同い年の息子さんはもう家の仕事(農業)をしながら農協に勤めて立派になっているけど、うちの息子はまだお金がかかって困っちょるんよ」と嘆いたのでした。

すると、父親が「バカたれ。それだけ本を読んで勉強することはお金に換えられんもんがあるんじゃ。それがわからんのか」と大声で叱責したのですが、それを見て私は、良い父親だなと思いました。

私は一応進学校と呼ばれる高校へ行ったのですが、現在のように必ずしもみんなが経済的に恵まれていたわけではないにもかかわらず、同級生の親たちも同じようなことを言っていました。また、長じて親の立場になった同級生たちも、やはり、同じようなことを言っています。それが子どもにとって、良いことかどうかとか、費用対効果がどうだったか(元を取ったか)とかに関係なく、みんな「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」のでした。

■吉本隆明の評価


中野重治に対しては、日本共産党との関係を取り上げて批判する向きもありますが、文学の評価はそんなものとはまったく関係ないのです。

中野重治の小説には、イデオロギーで類型化された人間観とは違った、人に対する温かい眼差しがあります。私は、中野重治の詩も好きなのですが、「雨の降る品川駅」や「歌」や「夜明け前のさよなら」のような抒情あふれる戦いの詩を生み出したのも、彼が持つ温かい眼差しゆえでしょう。そのナイーブな感性を考えるとき、田舎で実直につつましく懸命に生きながら、「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」父親の存在をぬきにすることはできないように思います。

吉本隆明は、戦前の転向を、「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換」(『転向論』)と規定し、その本質は「大衆からの孤立(感)」によるものだったと言っていましたが、そんな吉本はこの「村の家」を転向小説として高く評価しているのでした。吉本は、「『村の家』の勉次は、屈服することによって対決すべき真の敵を、たしかに、目の前に視ているのである」(『転向論』)と書いていました。

次のような孫蔵の話を胸に受け止めながら、勉次はそれでもなお、みずからの転向を引き受けた地点から、みずからの文学の再出発を決意するのでした。

「よう考えない。わが身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。‥‥里見なんかちゅう男は土方に行ってるっちゅうじゃないかして。あれは別じゃろが、いちばん堅いやり方じゃ。またまっとうな人の道なんじゃ。土方でも何でもやって、そのなかから書くもんが出てきたら、そのときにゃ書くもよかろう。それでやめたァおとっつぁんも言やせん。しかしわが身を生かそうと思うたら、とにかく五年八年とァ筆を断て。これやおとっつぁんの考えじゃ。おとっつぁんら学識ァないが、これやおとっつぁんだけじゃない。だれしも反対はあるまいと思う。七十年の経験から割り出いていうんじゃ。」


勉次は、自分の考えを論理的に説明できないもどかしさを覚えます。一方で、孫蔵の言葉を罠のように感じるのでした。しかし、そう思った自分を恥じるのでした。そして、「自分は破廉恥漢なのだろうかという、漠然とした、うつけた淋しさ」を感じながらも、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。」と答えるのでした。


関連記事:
知の巨人たち 吉本隆明

2023.04.30 Sun l 本・文芸 l top ▲
悪党潜入300日ドバイ・ガーシー一味


■朝日新聞の事なかれ主義


一足先に電子書籍で、伊藤喜之氏の『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』(講談社+α新書)を読みました。

伊藤氏は、朝日新聞ドバイ支局長としてドバイに赴任していたのですが、伊藤氏がガーシー(東谷義和)に初めて接触したのは、2022年4月だそうです。その後、取材をすすめ、ガーシーのインタビュー記事をものにしたのですが、本社のデスクから「東谷氏の一方的な言い分ばかりで載せられない」と「掲載不可」を告げられ、同年8月末で朝日を退社して独立。以後、ドバイに住み続けて取材を続け、本書の出版に至ったというわけです。

本書には、その没になった記事が「幻のインタビュー『自分は悪党』」と題して掲載されていますが、それを読むと、「東谷氏の一方的な言い分ばかりで載せられない」と言った、本社のデスクの判断は間違ってないように思いました。

本書も同様で、「悪党」「潜入」「一味」という言葉とは裏腹に、ややきつい言い方をすれば「ガーシー宣伝本」と言われても仕方ないような内容でした。「潜入」ではなく「密着」ではないのかと思いました。ガーシー自身や、ガーシーの「黒幕」と言われる秋田新太郎氏が、それぞれTwitterで本書を「宣伝」していた理由が納得できました(ほかにも本書に登場する人物たちが、まるで申し合わせたようにTwitterで「宣伝」していました)。

私は下記の記事で、「元大阪府警の動画制作者」「朝日新聞の事なかれ主義」「王族をつなぐ元赤軍派」という目次が気になると書きましたが、「朝日新聞の事なかれ主義」というのは、単に掲載不可で辞表を出した著者の個人的な“恨みつらみ”にすぎなかったのです。別に朝日の肩を持つわけではありませんが、「事なかれ主義」と言うのは無理があるように思いました。

関連記事:
ガーシーは帰って来るのか?

■元大阪府警の動画制作者


著者は、ガーシーには「過去に不始末などを犯し、日本社会に何らかのルサンチマン(遺恨)や情念を抱える『手負いの者たち』が東谷のそばに結集し、暴露ネタの提供から制作まで陰に陽にさまざまなかたちで手を貸している」(「あとがき」)として、彼らを「ガーシー一味」と呼んでいましたが、「元大阪府警の動画制作者」もそのひとりです。

名前は池田俊輔氏。本書ではこう紹介されています。

東京都内の映像制作会社の社長で、40歳。20代のころは大阪府警の警察官として外国人犯罪を取り締まる国際捜査課に所属していた、という異色の経歴を持つ。警察官人生の先行きに憂いを感じたこともあり、早々に見切りをつけて退職。独立して番組制作を手掛ける会社を立ち上げたが、4年前からYouTubeの動画制作をメインに据え、これまでに約70チャンネルを手がけていた。
(本書より。以下引用は同じ)


ガーシーの「東谷義和のガーシーch【芸能界の裏側】」は、ガーシーの発想で始まったのではないのです。本書によれば、ガーシー自身はYouTubeで暴露することに、むしろ逡巡していたそうです。それを説得したのが秋田新太郎氏だったとか。そして、おそらく秋田氏が依頼したのではないかと思いますが、「ガーシーch」を企画立案したのが池田氏です。

本書を読むと、「ガーシーch」が綿密な計算のもとに作られていたことがわかります。暴露動画の効果をより高めるために、「ネガティブ訴求」という「切り口」を参考にしたと言います。

(引用者註:ネガティブ訴求の)過去例としては、「○○を買ってはいけない」「○○を知らないとヤバい」「販売中止」「絶対に○○するな」「放送中止」などがあった。ネガティブに煽っていく切り口の動画がヒットしたことを示している。
 ここから発想を展開し、たとえば、「芸能界で○○するな」「芸能界の裏側」「テレビの放送事故」など、東谷が動画をつくれそうな切り口を検討してもらったという。


取り上げる芸能人も、「ネット上でどれだけ検索されているか」「検索ボリューム」で調べた上で、リストの中から「誰を優先的に暴露していくか順番を検討」したのだそうです。

 その資料をみると、検索ボリュームが比較的高い芸能人の中には野田洋次郎(RADWIMPS)、TAKA(ONE OK ROCK)、佐藤健、新田真剣佑、TKO木下隆行など、比較的初期に東谷が暴露対象とすることになった芸能人の名が見える。
 池田はいう。「すでに東さん自身が配信でも振り返っていますが、芸能人暴露にはYouTubeで広告収益を得て、何よりもまず東さんの借金を返すという目的がありました。そのためにも再生数が伸びそうな芸能人は誰かということもかなり意識して撮影スケジュールを決めていきました」


また、8分以上だと2本の広告が付くことを考慮して、動画の尺を9分20秒にしたり、動画の拡散のために、「東谷のBTS詐欺疑惑を最初に晒した」Z李に協力を仰いだりしたのだとか。

動画の撮影を始めたのは、2022年2月6日でした。大阪府警の捜査の手から逃れるために、ガーシーが、秋田新太郎氏の誘いに応じてドバイ国際空港に降り立ったのが2021年12月18日でしたから、それから僅か2ヶ月足らずのことです。

場所は、秋田氏の婚約者が経営しているレストランの社員寮の部屋でした。モロッコ人スタッフと相部屋で、床は埃が溜まり靴下が汚れて閉口するような部屋だったそうです。モロッコ人スタッフが仕事で部屋を空けている時間帯に撮影し、しかも、ドバイということを悟られないように、カーテンを閉め、ガーシーの服装も日本の季節に合わせたものにするなど、細心の注意を払って行われたそうです。

■王族をつなぐ元赤軍派


「王族をつなぐ元赤軍派」というのは、大谷行雄という人物です。重信房子氏の弁護人を務めた大谷恭子弁護士の弟で、現在は、UAE北部のラスアルハイマという街に住み、経営コンサルタントをしているそうです。

大谷氏については、重信房子氏が出所した際に、伊藤喜之氏が朝日にインタビュー記事を書いており、私も「そう言えば」といった程度ですが、読んだ記憶がありました。

朝日新聞デジタル
赤軍派高校生だった私の「罪」 獄中の重信房子元幹部から届いた感想

大谷氏は、秋田新太郎氏と関係があり、ガーシーが参院議員になったあとに、秋田氏の依頼で懇意にしている王族に何度か引き合わせたことがあるそうです。それで、ガーシーが子どものように「王族になる」と言い始めたのでした。

大谷氏は、著者の取材で、ガーシーのことを次のように言っていました。

「秋田氏にガーシー議員を紹介されて、ご協力できることはしたいとラスアルハイマの王族の皆様に引き合わせました。私はガーシー氏の暴露行為についてすべてを肯定しているわけじゃありませんが、彼の既存体制と権力に対する破壊的精神を買っています」


著者は、「まさに元赤軍派らしい発言」と書いていましたが、私にはトンチンカンな駄弁としか思えませんでした。そもそも「元赤軍派」と言っても、高校時代に、赤軍派結成に至る前のブント(共産主義者同盟)の分派活動をしていたにすぎないのです。

■ワンピースの世界観


ガーシーの周りには、秋田新太郎氏のほかに、FC2の高橋理洋氏、元ネオヒルズ族で、2022年3月に無許可で暗号資産の交換業を行っていたとして関東財務局から名指しで警告を受けた久積篤史氏、ハワイ在住のコーディネーターの山口晃平氏、小倉優子の元夫でカリスマ美容師の菊地勲氏、大阪でタレントのキャスティングや動画配信の会社を経営する緒方俊亮氏、年商30億円以上を誇ると言われる33歳の実業家の辻敬太氏などが集まっているのでした。

著者は、「皆がそれぞれに後ろ暗い過去を持つが、東谷はそこにむしろ任俠組織の絆のようなものを感じ取っている」と書いていましたが、そこで登場するのがあの「ルフィ」の『ワンピース』です。ガーシーはマンガ好きで、「雑誌では週刊少年ジャンプとヤングジャンプは電子版でかかさずに定期購読している。なかでも何度もインスタライブなどの配信で言及しているのが尾田栄一郎の人気漫画『ワンピース』だ」とか。

 血縁関係がない者同士が盃を交わすことで疑似的な血縁関係を結び、兄弟になったり、親子になったり。仁義や交わした約束などが重んじられるシーンも数多い。これは日本の伝統的な任俠組織のシステムと同一であり、ワンピースはそんな世界観で成り立っている。


著者は、「ガーシー一味」をそんな世界になぞらえているのでした。

本書にも名前が出ていますが、ほかに有名どころでは、エイベックスCEOの松浦勝人氏や自伝本『死なばもろとも』(幻冬舎)の編集者の箕輪厚介氏、コラボの見返りにガーシーに4000万円を貸した医師の麻生泰氏などが、ドバイを訪ねてガーシーを持ち上げています。また、ガーシーが芸能界で人脈を築くきっかけを作ったと言われるタレントの田村淳に至っては、ガーシーは未だ友達だと言って憚らないのでした。

しかし、実際は、それぞれが何程かの打算や思惑や義理で近づいているはずで、著者が書いているのは後付けの理屈のようにしか思えませんでした。だったら(そんな”錚々たる”メンバー”がホントに義侠心で馳せ参じているのなら)、暴露系ユーチューバーなどという面倒くさいことをやらずに、みんなでお金を出し合って助ければよかったのです。そうすれば、ガーシーの借金など簡単に清算できたはずです。BTS詐欺の”弁済金”も、麻生氏に借りるまでもなかったのです。そう皮肉を言いたくなりました。

■トリックスター


著者は、こう書いていました。

(略)トリックスターを体現する「ガーシー」という存在は東谷がただ一人で生み出したものでもないのだろう。東谷自身が、ワンピースの「麦わらの一味」や水滸伝の108人の盗賊団とどこかで自分を重ねていることを踏まえても、東谷本人とその周囲の仲間たちが共同作業で創り出しているのが「ガーシー」だととらえることができる。


「トリックスター」という言葉は、西田亮介氏も朝日のインタビュー記事で使っていました。

朝日新聞デジタル
除名のガーシー議員 既成政党への不満が生んだ「トリックスター」

実は、かく言う私も、上の関連記事で「トリックスター」という言葉を使っています。しかし、私は、「トリックスター」という言葉を聞くと、前に紹介した集英社オンラインの記事のタイトルにあった「だって詐欺師だよ…」というガーシーの知人の言葉を思い出さざるを得ないのでした。

集英社オンライン
〈帰国・陳謝〉を表明したガーシー議員、それでも側近・友人・知人が揃って「帰国しないだろう」と答える理由とは…「逮捕が待っている」「議員より配信のほうが儲かる」「だって詐欺師だよ…」

「トリックスター」に「詐欺師」とルビを振れば、ガーシー現象がすっきりと見えるような気がします。身も蓋もない言い方になりますが、結局、その一語に尽きるように思いました。


追記:
この記事は朝アップしたのですが、午後、警視庁は著名人らに対して脅迫を行った容疑で、ガーシーに逮捕状を請求したというニュースがありました。まるで除名処分を待っていたかのような警視庁の対応には驚きました。

結局、ガーシーは、ドバイに行って墓穴を掘っただけと言っていいでしょう。しかも、どう考えても、これが”とば口”にすぎないのはあきらかなのです。

また、ドバイで動画制作に関わったとみられる男性(記事参照)に対しても、逮捕状を請求したそうです。上記で書いたように、動画の中で、暴露相手を追い込むようなガーシーの激しい口調も、「ネガティブ訴求」として意図的に採用されたのです。

容疑の「常習的脅迫」に関しては、本書の中に次のような記述がありました。ガーシーに「密着」した本が、逆に容疑を裏付けるという皮肉な結果になっているのでした。

 そうした(引用者註:任侠組織と同じような)価値観は暴露にも反映され、その一つが暴露では本人だけでなく、その周囲の人物も晒すという東谷独特のやり口がある。(略)そんな情け容赦ない喧嘩術はある種、ヤクザ的である。東谷は「その人のアキレス腱を攻める。周囲の人を暴露したら一番嫌がるのはわかっている。それが俺のやり方やから」と悪びれずに繰り返し述べている。

2023.03.16 Thu l 本・文芸 l top ▲
デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場


■栗城劇場


遅ればせながらと言うべきか、河野啓著『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(集英社文庫)を読みました。

栗城史多(くりきのぶかず)は、2018年5月21日、8度目のエベレスト登頂に失敗して下山途中に遭難死した「登山家」です。享年35歳でした。しかし、死後も彼を「登山家」と呼ぶことをためらう山岳関係者も多く、彼のエベレスト挑戦は、登攀技術においても、経験値においても、そして基礎的な体力においても「無謀」と言われていました。

最後になった8度目の挑戦も、AbemaTVで生中継されていたのですが、彼のスタイルは、 YouTubeやTwitterを駆使し、また、日本テレビやNHKやYahoo!Japanや AbemaTV などとタイアップした、「栗城劇場」とヤユされるような見世物としての登山でした。それを彼は、「夢の共有」「冒険の共有」と呼んでいました。

■登山ユーチューバーの先駆け


自撮りしながら登る彼の山行は、言うなれば、現在跋扈している登山ユーチューバーの先駆けと言っていいでしょう。

本の中に次のような箇所があります。

 栗城さんは山に登る自分の姿を、自ら撮影していた。
 山頂まで映した広いフレームの中に、リュックを背負った栗城さんの後ろ姿が入ってくる。ほどよきところで立ち止まった彼は、引き返してカメラと三脚を回収する。
 クレバス(氷河の割れ目)に架かったハシゴを渡るときは、カメラをダウンの中に包み込んでレンズを下に向けている。ハシゴの下は深さ数十メートルの雪の谷。そこに「怖ええ!」と叫ぶ栗城さんの声が被さっていく。


ときに登頂に失敗して下山する際の泣き顔まで自分で撮っていたのです。

彼は、「ボクにとって、カメラは登山用具の一つですから」と言っていたそうです。これも今の登山ユーチューバーを彷彿とさせるものがあるように思います。

■単独無酸素


栗城史多は、みずからの目標を『単独無酸素での七大陸最高峰登頂』と掲げていましたし、メディアにおいてもそれを売りにしていました。しかし、七大陸最高峰、つまりセブンサミットの中で、通常酸素ボンベを使用するのはエベレストだけで、あとは誰でも無酸素なのです。そういったハッタリもまた、今の登山ユーチューバーと似ている気がしますが、彼の場合、それが資金集めのセールスポイントになっていたのでした。

「単独」と言っても、ベースキャンプには日本から同行したスタッフや現地で徴用した10数人のシェルパやキッチンスタッフがいました。実際に登山においても、エベレストの案内人であるシェルパたちが陰に陽に彼をサポートしていたのです。それどころか、実際は酸素ボンベを使っていたというシェルパの証言もありました。

2009年9月、栗城は、初めてチョモランマ(エベレストの中国名)の北稜北壁メスナールート(標高8848メートル)に挑戦したのですが、7950メートル地点で体力の限界に達して下山を余儀なくされました。以後、8回挑戦するもののことごとく失敗するのでした。その初めての挑戦の際、当時、北海道のテレビ局のディレクターとして栗城を密着取材していた著者は、次にように書いていました。

 この十一年前の一九九八年秋、登山家、戸高雅史さんは、同じグレート・クーロワールを、標高八五〇〇メートル地点まで登っている。シェルパもキッチンスタッフも雇わない、妻と二人だけの遠征だった。戸高さんはこの絶壁をどういうふうに登ったのだろうかと夢想してみたりもした。
《せっかくプロの撮影スタッフが大がかりな機材を携えてここまで登ったのに……なんてもったいないんだ……》とも感じた。
 それにしても、頂上までの標高差は一〇〇〇メートルもあった。この差を栗城さんは克服できるのだろうか……?
 私には難しいと思えた。


戸高雅史さんは大分県出身の登山家ですが、これを読むと、栗城が言う「単独」が単なるメディア向けのセールトークにすぎなかったことがよくわかるのでした。

エベレストのような“先鋭的な登山”は別にしても、登山というのは、もともと戸高雅史さん夫妻のような孤独な営為ではないか。私などはそう考えるのです。だからこそ、戸高雅史さんのような登山は、凄いなと思うし尊敬するのです。

■登山の評価基準


登山には「でなければならない」という定義などはありません。それぞれが自分のスタイルで登るのが登山です。それが登山の良さでもあるのです。それが、登山がスポーツではあるけれど、他のスポーツとは違う文化的な要素が多分に含まれたスポーツならざるスポーツだと言われるゆえんです。

著者もこう書いていました。

 登山は本来、人に見せることを前提としていない。素人が書くのはおこがましいが、山という非日常の世界で繰り広げられる内面的で文学的な営みのようにも感じられる。


一方で、登山も他のスポーツと同じように、「定義」や「基準」が必要ではないかとも書いていまいた。

 しかし明快な定義と厳格なルールは必要だと、私は考える。登山はどのスポーツよりも死に至る確率が高い。そのルールが曖昧というのは、競技者(登山者)の命を守るという観点からも疑問がある。また登山界の外にいる人たちに情報を発信する際に、定義という「基準」がなければ、誰のどんな山行が評価に値するのか皆目わからない。
 栗城さんがメディアやスポンサー、講演会の聴衆に「単独無酸素」という言葉を流布できたのは、このような登山界の曖昧さにも一因があったように思う。 登山専門誌『山と溪谷』が、栗城さんについて『「単独・無酸素」を強調するが、実際の登山はその言葉に値しないのではないかと思う』とはっきりと批判的に書くのは、二〇一二年になってからだ。


私は、著者の主張には首を捻らざるを得ません。たとえ“先鋭的登山”であっても、登山に評価基準を持ち込むのは本来の登山の精神からは外れているように思います。はっきり言ってそんなのはどうでもいいのです。

■メディアと提携


栗城史多は、北海道の地元の高校を卒業したあと上京し、当時の「NSC(吉本総合芸能学院)東京校」に入学します。「お笑い芸人になりたかった」からです。しかし、半年で中退して北海道に戻ると、1年遅れて大学に入り、そこで(実際は他の大学の山岳部に入部して)登山に出会うのでした。

そして、NSCに入学したときから10年後の2011年、彼は、「よしもとクリエイティブ・エージェンシー(現・吉本興業株式会社)」と業務提携を結ぶことになります。著者は、「ある意味、十代のころの夢を叶えたのだ」と書いていました。

メディアと提携した「栗城劇場」の登山が始まったのは、2007年5月 のヒマラヤ山脈の チョ・オユー(8201メートル)からでした。

日本テレビの動画配信サイト「第2日本テレビ(後の日テレオンデマンド。二〇一九年サービス終了)」と提携して、連日、栗城自身が撮影した動画が同サイトに投稿されたのでした。それを企画したのは、「進め!電波少年」を手掛けた同局の土屋敏男プロデューサーでした。栗城史多には「ニートのアルピニスト」というキャッチコピーが付けられたそうです。

その壮行会の席で目にした次のような場面を、著者は紹介していました。

 二〇〇七年四月、栗城さんがチョ・オユーに出発する前日のことだ。東京都内の居酒屋でささやかな壮行会が持たれ、BCのカメラマンとして同行する森下さんも参加していた。
 土屋敏男さんともう一人、番組関係者と思われる四十歳前後の男性がそこにいた。栗城さんとはすでに何度か会っているようで親しげな様子だったという。その男性の口からこんな言葉が飛び出した。
「今回は動画の配信だけど、いつか生中継でもやってみたら? 登りながら中継したヤツなんて今までいないよね」


また、2009年からはYahoo!Japanともタッグを組み、同年7月のエベレスト初挑戦の際は、特設サイトが作られて、登山の模様が連日動画で配信され、山頂アタックの際は生中継もされて、パソコンの前の視聴者はハラハラドキドキしながら見入ったのでした。

その際、高度順応するための3週間の間に、栗城自身がカラオケとソーメン流しをして、それをギネスに申請するという企画も行われたそうです。しかし、その「世界最高地点での二つの挑戦」は、「危険を伴う行為なので認定できない」とギネスからは却下されたのだとか。

■「いい奴」と一途な性格


栗城史多は、お笑い芸人を夢見ていたほどなので人懐っこい性格だったようで、彼を知る人たちは、無茶をするけど「いい奴」だったと一様に証言しています。彼自身も、「ボク、わらしべ登山家、なんですよ」と言っていたそうで、そんな性格が人が人を呼んでスポンサーの輪が広がっていったのでした。人の懐に入る才能や営業力は卓越したものがあり、むしろ事業家の方が向いているのではないかという声も多かったそうです。

当時、私は、栗城史多にはまったく関心がなく、Yahoo!の中継も観ていませんが、ただ、彼が亡くなったというニュースだけは覚えています。北海道の時計店を経営しているという父親が、テレビのインタビューに答えて「今までよくがんばった」と言っているのが印象的でした。見ると、父親は身体に障害があるようで、それでよけいその言葉に胸にせまってくるものがありました。

でも、その一方で、父親には、「仰天するエピソードがある」のでした。「温泉を掘り当ててやる」という信念のもとに、店は従業員に任せて自宅の傍を流れる川の岸を16年間一人で掘りつづけて、1994年、ついに源泉を発見したのです。そして、2008年には温泉施設に併設したホテルが建築され、そのオーナーになったそうです。

栗城史多は「尊敬するのは父親です」といつも講演で言っていたそうですが、彼自身もその一途な性格を受け継いでいるのではないかと書いていました。

■「冒険の共有」


しかし、エベレスト挑戦も回を増すと、ネットでは登山家ではなく「下山家」だなどとヤユされるようになり、スポンサーからの資金も思うように集まらなくなって、彼も焦り始めていくのでした。

2012年の挑戦の際には、両手に重度の凍傷を負い、翌年、両手の指9本を第二関節から切断することになったのですが、しかし、その凍傷が横一列に揃えられた不自然なものであったことから、自作自演ではないかという疑惑まで招いてしまうのでした。

2016年には、下記のようにクラウドファンディングで資金を募り、2000万円を集めています。

CAMPFIRE
エベレスト生中継!「冒険の共有」から見えない山を登る全ての人達の支えに。

その中で、栗城は、「冒険の共有」として、次のように呼びかけています。

人は誰もが見えない山を登っています。山とは、自分の中にある夢や目標です。山に大きいも小さいもないように、夢にも大きいも小さいもなく、自分のアイデンティティーそのものです。

その自分の山に向かうことを誰かに伝えると、否定されたり馬鹿にされることもあるかもしれません。しかし、今まで挑戦を通して僕が見てきた世界は、成功も失敗も超えた「信じ合う・応援しあう」世界でした。

今までの海外遠征で僕が一番苦しかったのは、実は2004年に最初に登った北米最高峰マッキンリー(6194m)でした。

「この山を登りたい」と人に伝えると、「お前には無理だよ」と多くの人に否定されました。

そんな時、マッキンリーへ出発する直前に空港で父から電話があり、一言「信じているよ」という言葉をもらいました。その言葉が今も自分の支えになっています。

本当の挑戦は失敗と挫折の連続です。

このエベレスト生中継による『冒険の共有』の真の目的は、失敗も挫折も共有することで、失敗への恐れや否定という社会的マインドを無くして、何かに挑戦する人、挑戦しようとしている人への精神的な支えになることです。そんな想いから、今年も「冒険の共有」を行います。

皆さんと一緒にエベレストを登って行きます。応援よろしくお願いします。

栗城史多


しかし、その挑戦も失敗します。そして、2018年の死に至る8度目の挑戦へと進んでいくのでした。

■死に至る最後の挑戦


それは、追いつめられた末に、みずから死を選んだのだのではないかと言う人もいるくらい、切羽詰まった挑戦でした。 栗城が選択したのは、エベレストの中でも「「『超』の字がつく難関ルート」であるネパール側の南西壁のルートでした。しかも、AbemaTVとの契約があったためか、風邪気味で体調がすぐれない中での山行でした。案の定、標高7400メートル付近に設置したC3のテントで登頂を断念して、その旨BC(ベースキャンプ)に連絡を入れます。それで、ただちにC2に待機していたシェルパが救助に向かったのですが、しかし、栗城はシェルパの到着を待たずに下山をはじめるのでした。そして、途中、ヘッドランプの電池が切れるというアクシデントも重なり、滑落して遺体で発見されるのでした。

栗城の死について、ある支援者は、「淡々とした口調」で、こう言ったそうです。

「死ぬつもりで行ったんじゃないかなあ、彼。失敗して下りてきても、現実問題として行くところはなかった。もぬけの殻になるより、英雄として山に死んだ方がいい、って思ったとしても不思議はないよね。『謎』って終わり方だってあるしね。頂上からの中継はできなかったけど、エベレストに行くまでの過程で十分夢は実現した、と考えたのかもしれないし」


そして、こう「付け加えた」のだそうです。

「戦争で死ぬよりずっといいじゃないの」


著者の河野啓氏は、エベレストを舞台にした「栗城劇場」について、次のように書いていました。

 たとえば陸上競技の短距離走で「世界最速」と言えば、誰もが、ジャマイカのウサイン・ボルト選手を思い浮かべるはずだ。しかし「最初に百メートルで九秒台を記録した選手は?」と聞かれて名前が出てくる人は、よほどのマニアだろう。どのスポーツでも記録は上書きされ、「新記録」を樹立した選手に喝采が贈られる。
 だが、登山は違う。
 山の頂に「初めて」立った人物が、永遠に色褪せない最高の栄誉を手にするのだ。その後は「厳冬期に初めて」とか「難しい〇△ルートで」といった条件付きの栄光になる。
《そんなのイヤだ! 面白くない! 誰もやってないことがあるはずだ!》
 その答えとして、栗城さんは山を劇場にすることを思いついた。極地を映した目新しい映像と「七大陸最高峰の単独無酸素登頂」という言葉のマジックで、スポンサーを獲得していく。
 登山用具の進歩が一流の技術を持たない小さな登山家をエベレストの舞台に立たせ、テクノロジーの革新が遠く離れた観客と彼とをつなげた。


■見世物の登山


前の記事でも書きましたが、まるで栗城史多の死をきっかけとするかのように、2018年頃からネット上に登山ユーチューバーが登場するのでした。それはさながら、栗城史多のミニチュアのコピーのようです。

ニワカと言ったら叱られるかもしれませんが、彼らは、登攀技術や経験値や体力などそっちのけで、自撮りの登山をどんどんエスカレートしていくのでした。そこにあるのもまた、孤独な営為とは真逆な見世物の登山です。

そして、コロナ禍の苦境もあったとは言え、栗城を批判していた登山家たちまでもが人気ユーチューバーに群がり、まるでおすそ分けにあずかろうとするかのようにヨイショしているのでした。しかも、それは登山家だけではありません。登山雑誌も山小屋も山岳団体も同じです。無定見に栗城を持ち上げた日テレやNHKやYahoo!JapanやAbemaTVなどと同じように、“ミニ栗城”のようなユーチューバーを持ち上げているのでした。

その意味では、(もちろん皮肉ですが)栗城史多の登場は、今日の登山界におけるひとつのエポックメイキングだったと言っていいのかもしれません。

もっとも、その登山ユーチュバーも、僅か数年で大きな曲がり角を迎えているのでした。既にユーチューバーをやめる人間さえ出ていますが、それは栗城史多に限らず、ネットに依存した見世物の登山の宿命と言ってもいいでしょう。詳しくは、下記の関連記事をご参照ください。


関連記事:
ユーチューバー・オワコン説
2023.03.09 Thu l 本・文芸 l top ▲
グレイスレス


最近は芥川賞にもまったく興味がなかったので知らなかったのですが、鈴木涼美が最新作の「グレイスレス」で芥川賞の候補になっていたみたいです。それで『文學界』の2022年11月号に載っていた同作を読みました。

私は、このブログでも書いていますが、鈴木涼美が最初に書いた『身体を売ったらサヨウナラ』を読んで、まずその疾走感のある文章に「一発パンチを食らったような感覚」になりました。再掲ですが、『身体を売ったらサヨウナラ』は、次のような文章ではじまっています。

 広いお家に広い庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的な余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ、そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
 シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート、プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(略)
 でも、全然満たされていない。ワタシはこんなところでは終われないの。1億円のダイヤとか持ってないし、マリリン・モンローとか綾瀬はるかより全然ブスだし、素因数分解とかぶっちゃけよくわかんないし、二重あごで足は太いしむだ毛も生えてくる。
 ワタシたちは、思想だけで熱くなれるほど古くも、合理性だけで安らげるほど新しくもない。狂っていることがファッションになるような世代にも、社会貢献がステータスになるような世代にも生まれおちなかった。それなりに冷めてそれなりにロマンチックで、意味も欲しいけど無意味も欲しかった。カンバセーション自体を目的化する親たちの話を聞き流し、何でも相対化したがる妹たちに頭を抱える。
 何がワタシたちを救ってくれるんだろう、と時々思う。


あれから8年。彼女が小説を書いているのは知っていましたが、私は、まだ読んでいませんでした。ちなみに、「グレイスレス」は二作目の創作です。

ブログでも書きましたが、鈴木いづみを彷彿とするような文章なので、さぞや小説もと思いましたが、しかし、小説の文体はやや異なり、鈴木いづみのようなアンニュイな感じはありませんでした。『身体を売ったらサヨウナラ』に比べると小説向きに(?)抑制されたものになっており、宮台真司の言葉を借りれば「叙事的」です。やはり、鈴木いづみの文体は、あの時代が生んだものだということをあらためて思わされたのでした。

AV業界でフリーの化粧師(メイクアップアーティスト)として働く主人公。彼女は、鎌倉の古い洋館に祖母と二人で暮らししています。

小説はAVの撮影現場で遭遇する女たちとの刹那的な関りと、鎌倉の家を通した家族との関わりの二つの物語が同時進行していきます。それは刹那と宿命の対照的な関りと言ってもいいものです。しかし、それらを見る主人公の目は、如何にも今どきな感じで、どこか突き放したような冷めた感じがあります。AV業界をAV女優ではなく、化粧師の目を通して描いているというのもそうでしょう。

AVの現場での仕事は、その役柄に応じて映像に見栄えるように化粧を施すだけではありません。AV女優の顔面や頭髪に放出された精液を落とす作業もあります。しかし、主人公には嫌悪感など微塵もありません。むしろ、その仕事に職人的な誇りさえ持っているかのようです。AV業界での化粧師という仕事に、みずからのレーゾンデートルを見出しているようにさえ見えるのでした。

鎌倉の洋館は、父方の祖父が住んでいた家で、両親が離婚する際に母親が父親から譲り受けたものです。ところが、現在、両親はイギリスで元の鞘に収まったような生活をしているのでした。そこには、上野千鶴子が言った「みじめな父親に仕えるいらだつ母親」も、「母親のようになるしかない」という「不機嫌な娘」も、もはや存在しないのでした。

母親も祖母も自由奔放に生きて来たような人物です。その影響を受けているはずの主人公は、しかし、彼女たちの生き方とは一線を引いているように見えます。鎌倉の洋館も、祖母は一階で暮らし、主人公は二階で暮らしているのですが、祖母は二階に上がって来ることはないのでした。

小説の最後に仕事を「やめる」ような場面があるのですが、しかし、主人公は、イギリスに住む母親との電話で、「いや、また気が向いたらいつでもやるよ」と答えるのでした。「やめる」に至った経緯も含めて、そこに、この小説のエッセンスが含まれているように思いました。

私は意地が悪い人間なので、もってまわったような稚拙な描写の部分にマーカーを引いて悪口を言ってやろうと思っていたのですが、最後まで読み終えたら、そんな意地の悪さも消えていました。久しぶりに小説を読みましたが、「やっぱり、小説っていいなあ」と思えたのでした。

小説の言葉は、私たちの心の襞に沁み込んで来るのです。私は、同時にノーム・チョムスキーの『壊れゆく世界のしるべ』(NHK出版新書)という本を読んでいたのですが、インタビューをまとめた本で、しかも翻訳されているということもあるのでしょうが、チョムスキーの言葉がひどく平板なものに思えたくらいです。

偉そうに言えば、『身体を売ったらサヨウナラ』の鈴木涼美は、読者の期待を裏切ることなく見事にホンモノの小説家になっていたのです。山に登るとき、きつくて「心が折れそうになる」と言いますが、私自身、最近は生きていくのに心が折れそうになっていました。ありきたりな言い方ですが、なんだか生きていく勇気を与えてくれるような小説だと思いました。いい小説を読むと、そんな救われたような気持になるのです。この小説にも、孤独と死という人生の永遠のテーマが、副旋律のように奏でられているのでした。


関連記事:
『身体を売ったらサヨウナラ』
ふたつの世界
2023.01.22 Sun l 本・文芸 l top ▲
岩波文庫 新編山と渓谷


田部重治の「数馬の夜」を読みました。

「数馬の夜」については、山田哲哉氏が「名文」だと書いていましたし、ネットでも何度も読み返したという投稿がありました。私も前から読んでみたいと思っていましたが、私が持っている山と渓谷社の『山と渓谷  田部重治選集』には何故か収録されていませんでした。それで、「数馬の夜」が収録されている岩波文庫の『新編   山と渓谷』をあらためて買ったのでした。

「数馬の夜」は、文庫本で3ページ半の短いエッセイです。

文章の末尾には、「大正九年四月の山旅」と記されていました。今から102年前の1920年、田部重治が36歳のときです。

山行について、本文には次のように書かれていました。

昨日は、朝、東京を出て八王子から高原を登りながら、五日市を経て南北秋川の合流点にある本宿もとじゅくの宿屋に平和な一夜を送ったが、今日は私は北秋川の渓流に沿うてその上流の最高峰御前ごぜん山にじてから、更に南秋川の渓谷を分けて此処へ辿たどりついたのである。


「此処」というのは、南秋川の最上流の数馬にある宿です。年譜で調べると山崎屋という旅館に泊まったみたいです。翌日は三頭山の三頭大滝を見てから山梨の上野原に下りて、東京に戻っています。

午後、「深山の静寂がひしひしと胸に迫ってく来る」数馬に着いて宿に荷を解き、山旅を振り返るのですが、それは、秋川の上流にある春の渓谷や山の風景に自分の心情を重ねた、内省的で情緒的なとても印象深い文章になっていました。

田部重治が秋川渓谷を歩いたのは10年以上ぶりで、当然ながら当時と比べて様子は変わっていますが、しかし、「南秋川の渓谷の奥では昔ながらの様子が残っている」と書いていました。そして、次のように綴るのでした。

道端の落ち着いた水車の響きや昔ながらの建物が平和な山奥の春を語って、一日の滞在が不思議なほど、私の周囲の生活の静まり返っている落着の姿を見せている。あたりの静けさ、渓河の響きは、私の心の奥底に真の自分と融け合っているような気がする。


田部重治は、「私はこの二、三ヶ月間絶えず不安な心持に動いて来た」と書いていましたが、文章からも懊悩の日々を送っていたことがわかります。そんなとき、ひとりで山に行きたくなる気持は私も痛いほどわかるのでした。

私たちにとってもなじみの深いパトス(pathos)というギリシャ語は、ロゴス(logos)との対で、感情、あるいは感性という意味に解釈するのが一般的ですが、宮台真司氏は伊藤二朗氏との対談で、パトスはもともと「降ってくるもの」という意味で、「受動態」という意味の「passive」と同じ語源だと言っていました。

宮台氏は、パトスは感情が訪れる、という意味だけでなく、山や川など自然があるのもパトスで、パトスという言葉は自然の中では人間は主体ではなく客体であるということを意味しているのだと言うのです。

自然が主体で人間は客体である(にすぎない)という考えは、自然保護の根本にも関わってくる話なのですが、私たちが山に行くと、自分が非力で小さな存在に感じたり、(俗な言葉で言えば)「山にいだかれる」ような気持になったりするのも、そこから来ているのかもしれないと思いました。

伊藤二朗氏は、対談の中で、雲ノ平の溶岩が季節や日や時間によって大きく見えたり小さく見えたりすると言ってましたが、仮にそれが”妄想”であっても、そういった”妄想”を誘うものが山にあるのはたしかです。「山に魔物が住んでいる」というような言い伝えも同じでしょう。

山に行くと、自分が自分ではないような感覚を抱くことがあります。若い頃によく言っていた、空っぽになるために山に行くというのも、山が空っぽにさせてくれたからでしょう。

(唐突ですが)平岡正明が『ジャズ宣言』の冒頭で掲げた下記のアジテーションはあまりに有名で、若い頃の私も心をうち震わせた人間のひとりですが、平岡正明が言うような激しい「感情」は登山とは無縁ではあるものの、このアジテーションも見方を変えれば、登山に通じるものがあるような気がしてならないのです。

  どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい。ジャズがわれわれによびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである。あらゆる感情が正当である。感情は、多様であり、量的に大であればあるほどさらに正当である。感情にとって、これ以下に下劣なものはなく、これ以上に高潔なものはない、という限界はない。


私たちは、電車が来てもないのに駅の階段を駆け下りていくような日常の中で、論理的一貫性とか整合性とか、そんな言葉で切り取られた「現実」に囚われてすぎているのではないか。そうでなければならないという強迫観念に縛られているのではないかと思います。もっと自由であるべきなのです。

田部重治は、自問自答をくり返したのち、夜のしじまに包まれていく宿で、次のように書きます。

  今日、見て来た自然は何と素朴的なものであったろう。温かき渓谷の春は、静かに喜びの声をあげて、その間を動く人間もただ自然の内に融けている。それは全くそれ自身において一致している。私たちはこれに理想と現実との矛盾を感ずることは出来ない。私は解放されたる動物のように手足を自由に延ばしながら秋川の渓谷を遡って来た。私はただ萌え出ずる自由を心の奥から感じつつ来た。


ここに書かれているものこそパトスであり、これが山に登る、山を歩くことの真髄ではないのかと思いました。

そして、「数馬の夜」は、次のような感傷的な文章で終わっているのでした。

  もう夜の闇は押し寄せて来た。南秋川の流れは、ただ、闇の中に白く光って、爽やかな響きを立てている。台所の馬子の唄も止んで、あたりが静寂の気に充ち、私の心はしんとして静かな大地に沈んで行くかのように思われる。私は何の為すべき仕事を持ってない。私は、ただ明日、この上流の大きな滝を眺めてから、上野原まで五里の山道を行けばそれでよいのである。

2022.08.02 Tue l 本・文芸 l top ▲
彼は早稲田で死んだ


元朝日新聞記者の樋田毅氏が書いた『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋)を読みました。

また私事から始めますが、私はロシア文学が好きだったということもあって、高校時代、早稲田のロシア文学科に行きたいと思っていました。先生にそのことを話したら、「早稲田の文学部に行ったら、お前、殺されるぞ」と言われたのです。

結局、学力が伴わなかったので、高校を卒業すると上京して、高田馬場にある予備校に通ったのですが、予備校の講師はほとんどが早稲田大学の教員でした。受験のノウハウを教えるのにどうして大学の先生がと思いましたが、まあ出題する側なのでそれもありなのかなと思いました。でも、授業も大学の講義みたいな通り一辺倒なものだったので、自然と予備校から足が遠のきました。

そのため、予備校から実家に、テストの成績はまあまあだけど何分にも受けた回数が少なすぎますという手紙が届いたほどですが、予備校に行かなくなった私は、アルバイトをしながら、アテネ・フランセの映画講座に通ったり、新宿や高円寺のジャズ喫茶に入り浸ったりする一方で、三里塚闘争に関係する集会などにも参加するようになっていました。当時は身近でも学生運動の余韻がまだ残っていたのです。集会では、「軍報」というチラシが配れて、そこには「本日、✕✕にて反革命分子✕名を殲滅」などというおどろおどろしい文字が躍っていました。既に熾烈な内ゲバも始まっていたのです。

そして、集会などに参加するうちに、革マル派というのはセクトのなかでも”唯我独尊”で怖い存在だというイメージをもつようになり、高校時代の担任の先生のことばが今更のように甦ってきたのでした。もちろん、『彼は早稲田で死んだ』で取り上げられている川口事件が起きたあとでしたが、川口事件によって、暴力を盾にその恐怖で支配する革マル派のイメージが逆に強くなっていったように思います。それはヤクザのやり方とよく似ているのです。以来、どこに革マルが潜んでいるかわからないので軽率なことは言えない、みたいな考えにずっと囚われるようになりました。

革マル派の”唯我独尊”について、「JR『革マル』三〇年の呪縛、労組の終焉」という副題が付けられた『トラジャ』(東洋経済新報社)の著者・西岡研介氏は、同書のなかで次のように書いています。

   63年の結成以来、10年余にわたって「革命的共産主義者同盟全国委員会」(中核派)や「革命的労働者協会」(革労協)など対立セクトと陰惨な”内ゲバ”を繰り返していたが、70年代後半からは組織拡充に重点を置き、党派性を隠して基幹産業の労組やマスコミなど各界各層に浸透。現在も全国に5500人の「同盟員」を擁すると言われており(18年1月現在 警視庁「極左暴力集団の現状等」)、極めて非公然性、秘匿性、排他性の強い思想集団だ。
(『トラジャ』)


『彼は早稲田で死んだ』の著者である樋田毅氏は、1972年一浪ののち、早稲田大学第一文学部に入学。愛知県から上京した著者は、新宿アルタにあるマクドナルドでアルバイトしたり、登山の同好会で丹沢や立山の山に登ったり、さらには体育会の漕艇部に入部して、埼玉県戸田市にある合宿所に移り、漕艇の練習と大学の授業に明け暮れる日々を送るのでした。学ランを着ていたのかどうわかりませんが、著者の樋田氏は「押忍(オスッ)」と挨拶するような体育会系の学生だったのです。

そんななか、1972年11月8日、文学部2年の川口大三郎君のリンチ殺人事件が発生します。11月9日の早朝、文京区の東大病院の構内に若い男性の遺体が放置されているのを出入りの業者が発見し、事件が発覚したのでした。前日、革マル派と対立する中核派のシンパと目された川口君は、文学部のある戸山キャンパスの構内を大学の友人3人と歩いていた際、革マル派の学生たちから、彼らが自治会室として使っていた文学部の教室に連行され、リンチの末殺害されたのでした。

学友たちは川口君が連れ込まれた自治会室に押しかけますが、見張り番の男たちに追い返されます。そのあと、連行されるのを目撃した学生の通報で大学の教員2人が二度自治会室にやって来ます。しかし、やはり見張り番の学生から「お前ら、関係ないから帰れ」「午後11時になると車が来るので俺たちも引き上げる」と言われると、部屋のなかを確認もせずにすごすごと帰って行ったそうです。

朝日新聞が報じた「東大法医学部教室による司法解剖の結果」によれば、死因は次のようなものでした。

死因は、丸太や角材でめちゃくちゃに強打され、体全体が細胞破壊を起こしてショック死していることがわかった。死亡時間は八日夜九時から九日午前零時までの間とみられる。
体の打撲傷の跡は四十箇所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった。
(『彼は早稲田で死んだ』)


当時、早稲田大学では、第一文学部と第二文学部(夜間)、それに社会科学部(当時は夜間)と商学部の自治会を革マル派が掌握しており、大学当局もそれを公認していました。そのため、学内では革マル派の暴力が日常化していたのでした。

革マル派が早稲田大学の第一文学部の自治会を掌握したのは、1962年頃だと言われているそうです。60年安保の総括をめぐって革命的共産主義者同盟が革マル派と中核派に分裂したのが1963年ですから、革マル派が正式に誕生する前から既に早稲田では革マル派系のグループが一文の自治会を握っていたのです。早稲田の一文は、革マル派の学生運動のなかでも原点、あるいは聖域とも言えるような特別な存在だったのです。

もちろん、授業料と一緒に徴収される自治会費がセクトの大事な資金源になっているのも事実で、そのためにも自治会は組織をあげて死守しなければならないのでした。

   当時、第一文学部と第二文学部は毎年一人一四〇〇円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。第一文学部の学生数は約四五〇〇人、第二文学部の学生数は約二〇〇〇人だったので、計九〇〇万円余り。本部キャンパスのある商学部、社会科学部も同様の対応だった。
(同上)


著者が入学式に向かうため、地下鉄東西線の早稲田駅で下車し、階段を上って入学式が行われる戸山キャンパスの近くの交差点に差し掛かると、両側面に黒色で「Z」と書かれているヘルメットをかぶった男たちが「曲がり角ごとに無言で立って」いて、「緊張した面持ちで辺りを見回し、睨みつけるような鋭い視線をこちらに送ってい」たそうです。

さらに、クラスの教室で行なわれたガイダンスの席には、担任の教授の横に「ワイシャツに、ブレザー、ジーンズ姿」の男が立っており、最初は副担当か助手だろうと思っていたら、男は自治会でこのクラスを担当することになったと自己紹介して、「これから、楽しく、戦闘的なクラスを一緒に作っていきましょう」と挨拶したのでした。しかも、数日後、まだ授業が行なわれていた最中に、突然、件の男が教室に入ってきて、腕時計を見ながら、「後半の三〇分間は自治会の時間です。授業は終わってください」と教授に言い、「この自治会の時間は、第一文学部の学生運動の歴史の中で勝ち取った権利なのです」と説明したそうです。

このように革マル派が学内を我が物顔で支配するのを大学当局は黙認していたのです。と言うか、むしろ主体的に革マル派と癒着していたのです。

それは、のちの国鉄分割民営化の際、旧動労の委員長でありながら分割民営化に際してコペルニクス的転回をはかり分割民営化に全面協力し、分割民営化後のJR東日本労組の委員長(会長)及びその上部団体のJR総連の顧問を務めた松崎明氏と、JR東日本などJR各社との関係によく似ています。国鉄分割民営化の目的のひとつに”国労潰し”があったことが関係者の証言であきらかになっていますが、そのためにとりあえず「敵の敵」である革マル派を利用したとも言えるのです。革マル派とJRの関係については、上記の『トラジャ』とその前に書かれた『マングローグ』(講談社)に詳しく書かれていますが、人事にまで口出しして社内で大きな権限を持った松崎明氏は、JR東日本では「影の社長」とまで言われていたのでした。

松崎氏は、革マル派創設時の副議長で、当時も最高幹部のひとりと言われていました。革マル派内では、「理論の黒田(黒田寛一議長)、実践の松崎」と言われていたそうです。しかし、本人は革マルとは手を切った、転向した、今は自民党支持だと言って「自由新報」にまで登場し、かつて「鬼の動労」と言われた動労を率いて分割民営化に協力したのでした。しかし、それは革マル派特有の戦略だと言われていました。

   (略)労働組合など既成組織への”もぐり込み”、それら組織の理論や運動の”のりこえ”、さらにはそれら組織内部からの”食い破り”は、「加入戦術」で知られるトロッキズムの影響を色濃く受けた、革マル派の基本戦略といわれている。
(『トラジャ』)


『彼は早稲田で死んだ』のなかでも、警察のKと革マルのKを取った「KK連合」ということばが出てきますが、「KK連合」というのはもともと中核派が革マル派を攻撃するために使っていたことばです。そのため「KK連合」ということばを使うだけで中核派の手先みたいに言われるのですが、しかし、『彼は早稲田で死んだ』を読むと早稲田などでは一般学生の間でも使われていたことがわかります。

「KK連合」は、効率的な治安対策を行なうための公安警察の深慮遠謀による「敵の敵は味方」論だと言われていましたが、内ゲバがどうしてあんなに放置されたのかを考えると、それも単なる謀略論と一蹴できない”深い闇”を想像せざるを得ないのでした。『彼は早稲田で死んだ』でも「社会の闇」という言い方をしていましたが、当時、内ゲバをとおして新左翼運動に絶望した多くの人たちが似たような疑念を持っていたのはたしかでしょう。組織を温存拡大することを基本戦略として、権力との対立を極力回避するある種の待機主義をとりながら、一方で敵対セクトとは「殺るか殺れるか」の「革命的暴力」を容赦なく行使する革マル派の二面性は、警察や大学やJRなどにとって”利用価値”があったと言えるのかもしれません。

余談ですが、私は後年会社に勤めていた際、会社には内緒で原宿に個人的な事務所を持っていました。仕事で知り合った人間と共同で事務所を作ったのですが、その際、取引先でアルバイトをしていた女の子をくどいて電話番兼留守番をして貰っていました。彼女はまだ現役の大学生でしたが、どこか暗い感じの大人しいでした。彼女のお母さんは某難関国立大を出て郵便局で働いているというので、正直言って(郵便局員には悪いけど)奇異な感じがしました。彼女の友人に訊くと、幼い頃、両親が内ゲバで対立セクトに襲われ、お父さんが亡くなったのだそうです。しかも、襲われたのは就寝中だったので、彼女は目の前でそれを見ていたのだとか。それを聞いて、内ゲバの悲劇がこんな身近にもあったのかと思って慄然としたことを覚えています。でも、党派の論理では、そんな個人的な感情などどこ吹く風で、すべては「反革命」の一語で片付けられてしまうのです。

川口君虐殺の直後、一般学生たち600名が一文自治会の田中敏夫委員長らに対する糾弾集会を開いた際も、大学側の要請で機動隊がやって来て、壇上の田中委員長ら革マル派6名を救出するという出来事もあったそうです。

本書のなかでは、そのあたりの事情について、第一文学部の元教授の話が出ていました。

「当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。」


著者も、本のなかで、「大学当局は、キャンパスの『暴力支配』を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための『番犬』の役割を期待していたのだろう」「私たちは大学当局が革マル派の側に立っていると考えざるを得なかった」と書いていました。

実際に「川口君一周忌追悼集会」では、大学当局が革マル派の集会のみを許可して、革マル派に批判的な新自治会や他の団体の集会は機動隊によって学外に排除されたのでした。そうやって機動隊に排除されるのは、一度や二度ではなかったと言います。しかも、その頃は既に、革マル派に目をつけられた100名近くの学生が学校に通えなくなっていたのです。川口事件以後、戸山キャンパス内に革マル派の防衛隊が立哨するようになり、敵対セクトの活動家やそのシンパを暴力的に排除していたのです。

著者は、川口事件をきっかけに漕艇部を辞めて、事件の真相究明と学内の革マル派の暴力支配に反対するために、一文(第一文学部)に革マル派のダミーではない新自治会を創る運動に没頭することになるのでした。そして、新自治会の臨時執行部委員長に選出されるのですが、著者もまた、のちに革マル派から襲撃され、鉄パイプでメッタ打ちにされて負傷し入院するのでした。臨時執行部委員長に選出される前、学生運動の先輩から「君は革マル派から必ず狙われる。委員長に選出されたら、日本全国、どこまでも逃げまくれ。命を大切にしろ」と言われたそうですが、それが現実になったのです。

当然ながら、新自治会のなかでも、暴力をエスカレートする革マル派に対して、他のセクトの武装部隊の力を借りて革マルと戦うべきだという武装路線派が台頭します。でも、著者は「非武装」「非暴力」を主張し、それを貫こうとするのでした。

その信念を支えるのはフランス文学者・渡辺一夫氏がユマニスム(ヒューマニズム)について書かれた次のような文章でした。それは同じ運動をしているフランス文学専修の先輩から教えられたもので、1951年に執筆された「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という随筆のなかの文章でした。

過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容になってよい、、という筈はない。
(同上)


しかし、結局、「川口君虐殺」に怒り革マル派の暴力支配からの脱却をめざした「非武装」「非暴力」の運動は、僅か1年も持たずにとん挫してしまいます。事件の舞台になった一文二文の自治会は非公認になりましたが、その一方で、早稲田における革マル派の支配は、以後20年以上も続くことになったのでした。

もしその頃の早稲田に自分がいたらと考えると、やはり私も武装路線を主張したかもしれません。非常に難しい問題ですが、早稲田の悲劇はユマニスムの悲劇でもあるように思えてなりません。

長くなりますが、その後、早稲田大学が20年かかって革マル支配から脱した経緯について、著者は「エピローグ」で次のように書いていました。

(略)大学本部側は、川口君の事件の後も、革マル派が主導する早稲田祭実行委員会、文化団体連合会(文科系のサークル団体)、さらに商学部自治会と社会科学部自治会の公認を続けた。大学を管理運営する理事会に革マル派と通じた有力メンバーがいるという噂まで流れていた。
   事態が変化したのは、一九九四年に奥島孝康総長が就任してからだった。「革マル派が早稲田の自由を奪っている。事なかれ主義で続けてきた体制を変える」と就任後に表明し、翌九五年に商学部自治会の公認を取り消した。その時点まで、商学部は約六〇〇〇人の学生から毎年一人二〇〇〇円ずつの自治会費を授業料に上乗せして集め、革マル派の自治会に渡していた。つまり、年間一二〇〇万円の自治会費代行徴収を続けていたのだが、これもやめた。社会科学部の自治会にも同様の措置を取った。
   さらに、九七年には満を持して早稲田祭を中止し、早稲田祭実行委員会から革マル派を排除した。それまで、大学は早稲田祭実行委員会に対して年間一〇〇〇万円を援助し、入場券を兼ねた一冊四〇〇円の早稲田祭パンフレットを毎年五〇〇〇冊(計二〇〇万円)「教員用」としてまとめ買いしていたが、いずれも全廃。早稲田祭は翌九八年に、新体制で再開された。(略)
  奥島総長は、革マル派から脅迫、吊るし上げ、尾行、盗聴など様々な妨害を受けたが、これに屈することなく、所期の方針を貫いた。


早稲田の革マル支配は、ユマニスムではなく別の政治力学によって終焉することになったのでした。

『彼は早稲田で死んだ』には、もうひとつ大きなテーマがありました。それは、当時の一文自治会の幹部のもとを半世紀近くぶりに訪ねて、当時の暴力支配と川口大三郎君虐殺事件について、現在どう思っているのか問いただすことでした。

まず訪ねたのは、当時の一文自治会の委員長と殺害の実行犯の書記長の二人の人物でした。二人とも獄中で「自己批判書」を書いて転向し、革マル派から離れています。特に委員長であった田中敏夫氏は、殺害当日は他の場所にいて直接関与はしていないのですが、学生葬の際、革マル派からただひとり参加して、「会場を埋めた学生たちの怒りと悲しみを、一身に受けていた」そうです。当日の毎日新聞には、「両手で顔を覆って泣き続ける川口君の母、サトさんの前で、深く頭を垂れる田中さんの写真が大きく掲載されて」いたそうです。

しかし、著者が群馬県高崎市の自宅を訪ねたとき、田中氏は前年(2019年)に急性心筋梗塞で亡くなったあとでした。田中氏は1975年、事件から3年後に横浜刑務所を出所すると高崎に帰郷し、父親が経営する金属加工会社の跡を継いだそうです。しかし、ずっと会社を閉じることばかり考えていた田中氏は、55歳のときに会社を畳むと、それからは「周囲との人間関係もほとんど断ち、ひたすら読書と油絵を描くことに時間を費やした」そうです。事件についてはほとんど口を開くことはなかったものの、まれに次のようなひとり言を呟いていたのだとか。

「集団狂気だった」
「ドフトエフスキーの『悪霊』の世界だった」
「全く意味のない争いだった」
「彼らは、川口君を少し叩いたら死んでしまったと言った。だけど、そんなことはあり得ない」
「すべてわたしに責任がある」
(『彼は早稲田で死んだ』)


一方、書記長だった実行犯のS氏は、インタビューに応じて、悔恨の思いを吐露しているものの、インタビューの内容を掲載することにはかたくなに拒否したそうです。ちなみに、川口事件に関しては、5名の革マル派活動家が逮捕されたのですが、S氏が逮捕後完全黙秘から一転して事件の詳細を供述、「自己批判書」を公表してひとり分離裁判を選択したことで、リンチ殺人としての事件の内容があらかたあきらかになったのです。ただ、リンチ殺人と言っても、誰も”殺人罪”では起訴されていません。いづれも傷害と暴力行為で、刑期もS氏が5年、あとは4年でした。

私は、田中氏が生前口にしていたという、「集団狂気だった」「ドフトエフスキーの『悪霊』の世界だった」ということばに、上記の内ゲバで父親を殺された女の子のことを重ねざるを得ませんでした。川口事件が私たちに突き付けたのは、日本の新左翼運動が陥った、よく言われる「大きな過ち」どころではない、もはや”救いようがない”としか言いようのない散々たる世界です。

そして、その”救いようがない”散々たる世界は、「半世紀を経ての対話」というタイトルが付けられた最終章(第7章)にも、これでもかと言わんばかりに示されているように思いました。

それは、当時の一文自治会の副委員長で田中氏が逮捕されたあと委員長になり、「革マル派の暴力を象徴する人物」と言われた大岩圭之介氏との対話です。2012年、事件から40年を機に開かれた川口君を偲ぶ会の席で、大岩氏が「辻信一」という別の名前を名乗り、文化人類学者、「スローライフ」を提唱する思想家、環境運動家として何冊もの著書を出し、明治学院大学で教鞭を取っていることが話題になったそうです(2020年退職。現在は同大名誉教授)。

大岩氏は、事件後革マル派を離れ(と言っても、「自己批判」したわけではなく、ただそう「上司に電話した」だけだそうです)、アメリカとカナダを放浪したあと、カナダのモントリオールのマギル大学に転学した際、同大学で教鞭を取っていた鶴見俊輔氏の知遇を得て、帰国後、鶴見氏の紹介で明治学院大学に職を得たと言われています。その間、アメリカのコーネル大学で文化人類学の博士号も取得したそうです。

大岩氏の”変身”は、学生運動の仲間内では早くから知られていたみたいで、文芸評論家の絓秀実氏も、2013年にTwitterで大岩氏のことに触れていました。別のツイートでは、大岩氏との関係は鶴見俊輔氏の黒歴史だと言ってました。

猫飛ニャン助
@suga94491396

スガ秀美2

スガ秀美1

大岩氏との対話は、あれは若気の至りだった、若い頃に罹る麻疹のようなものだったとでも言いたげな、人を煙に巻くような大岩氏の発言に翻弄され、結局、会話はかみ合わないまま終わるのでした。

大岩氏は、革マルのことは何も知らなかった、暴力も革命云々など関係なく、ヤクザ映画のような幼稚な美学で行使していたにすぎないと言います。さらに、次のような開き直りとも言えるようなことを言うのでした。

大岩  僕はプラグマティズムに惹かれていたのですが、それはすごく簡単に言えば、何事にも絶対的な正しさというものはないという考え方です。正しい人間が間違って悪いことをするのではなくて、むしろ僕たちの人生そのものは間違い得るものであり、人間というのはそういうものであると。
(同上)


大岩氏は、自分の学生運動の体験をそこに重ねるものではないと言っていましたが、なんだか親鸞の悪人正機説を彷彿とするような開き直り方で、これでは殺された川口君は浮かばれないだろうなと思いました。私は、大岩氏の開き直りに、革マル派の呪縛からまだ解き放されてないのではないかと思ったほどです。

相当数の革マル派が浸透していると言われ、最高幹部の松崎明氏が我が世の春を謳歌していたJR東日本労組は、2018年、3万5千人が大量脱退して、現在は組合員が5000人にも満たない少数組合に転落しています。革マル派は早稲田でも長年の基盤を失い、影響力を持つ自治会も団体もほぼなくなりました。革マル派本体の同盟員も現在3000人足らずになったと言われており、同盟員の高齢化、組織の弱体化はあきらかです。

また、教祖・黒田寛一氏亡き後、中央の政治組織局(革マル中央)とJRのフラクション(JR革マル)の対立が深刻化して、実質的な内部分裂が起きているという見方さえあります。

「KK連合」も、早稲田の大学当局との癒着も、過去の話になったのです。つまり、過渡期の「敵の敵は味方」論の蜜月が終わり、用済みになった”革マル切り”が進んでいるということかもしれません。

なによりこういった本が書かれるようになったというのも、革マル派に対する恐怖が薄らいできた証拠と考えていいのかもしれません。
2021.12.16 Thu l 本・文芸 l top ▲
令和元年のテロリズム2


前にBAD HOPについて書いた際に紹介した『ルポ川崎』(CYZO)の著者・磯部涼氏の最新刊『令和元年のテロリズム』(新潮社)を読みました。

今回の本では、2019年5月28日の朝、神奈川県川崎市登戸のバス停で、市内にあるカリタス小学校のスクールバスを待っていた同校の小学生や見送りに来ていた父兄が、2本の包丁を振りまわしながら走ってきた男に次々と襲われ、15名が負傷し2名が死亡した「川崎殺傷事件」。その事件から数日後の6月1日に、練馬区早宮の自宅で、元農林水産省事務次官の父親が長男を刺殺した「元農水省事務次官長男刺殺事件」。さらにそれから1ヶ月半後の7月18日に、京都市伏見区のアニメ制作会社・京都アニメーションの第1スタジオが放火され、36人が死亡、33人が負傷した「京都アニメーション放火事件」。令和元年の5月末から7月までの2ヶ月間に起きたこれらの事件を取り上げています。また、終章では「上級国民」という新語を生んだ、元通産省工業技術院院長の87歳の老人が運転する車が東池袋の都道で信号を無視して暴走し、11名を撥ね、うち横断歩道を渡っていた母子を轢死させた「東池袋自動車暴走死傷事件」についても、「元農水省事務次官長男刺殺事件」との関連で取り上げていました。

個人的な話からすれば、前に勤めていた会社にカリタスを出た女の子がいました。父親が会社を経営しているとかいういいとこの娘でしたが、彼女の話によれば、カリタスでは挨拶する際「こんにちわ」ではなく「ごきげんよう」と言わなければならないのだそうです。その話を聞いたとき私は爆笑したのですが、カリタス学園はそのくらい時代離れした「上流階級」の幻想をまとった学校のようです。でも、もちろん、この国には「上流階級」なんて存在しませんので、実際に通っているのはぽっと出の成金か、せいぜいがその二代目三代目の子どもたちにすぎません。

また、元農水省事務次官が長男を刺殺した早宮小学校に隣接する自宅も、私が一時仕事の関係で親しくしていた人の家の近くでした。何度か行ったことがあったので、もしやと思って地図で調べたらすぐ近所でした。その頃はまだ道路も整備されておらず、狭く曲がりくねった昔の道が住宅街のなかを走っていました。そのため、車で行くと駐車するのに苦労した覚えがあります。東大法学部を出て当時は農水省の審議官をしていたエリート一家は、平成10年、そんな練馬の路地の奥に、場違いとも言える瀟洒な洋館を建てて引越してきたのでした。

こんな個人的な話と何の関係があるんだと思われるかもしれませんが、ただ、自分の思い出を重ねることで、牽強付会かもしれませんが、事件はそう遠くないところで起きているんだという感慨を抱くことはできるのでした。

それだけではありません。知り合いでアパート経営している人がいるのですが、その人が以前語っていた話もこれらの事件との関連を思い起こさせました。

この10年から15年くらいの話だそうですが、仕事をしていない無職の入居者が増えていると言うのです。入居時に仕事をしていても仕事を辞めるとそのまま無職で住みつづけるケースも多いのだとか。でも、家賃は遅れずに払われている。別に生活保護を受給しているわけではない。保証会社も保証してくれるので問題はない。

どうしてそんなことが可能かと言えば、「保証人がちゃんとしているから」だそうです。保証人は親です。親が無職の入居者を援助しているのです。しかも、無職の入居者は必ずしも若者とは限らないのだそうです。30代から50代くらいまでが多いと言っていました。

そこから見えてくるのは、現在、7040あるいは8050問題などと言われて社会問題化している中高年のひきこもりの問題です。自宅だけでなく、自宅外のアパートでもひきこもっているケースが少なからずあるということなのでしょう。そこには、問題を先送りする厄介払いという側面もあるのかもしれません。

この7040/8050問題について、同書では次のように書いていました。

   8050問題――あるいは7040問題とは、引きこもりが長期化した結果、当事者が40代~50代に差し掛かって社会復帰が更に困難になる上、それを支える親も70代~80代と高齢化、介護の必要に迫られ、家庭環境が崩壊しかねないことを危惧するものだ。ちなみに”引きこもり”という言葉が公文書で使われるようになったのは平成の始め、その後、同元号を通して抜本的対策が打てなかったことは、改元以前の平成31年3月に内閣府が発表した、40歳から64歳の引きこもりが推計で61万3000人存在するという衝撃的な調査結果に明らかである。平成28年、引きこもりは若年層の問題だとして15歳から39歳に絞り、54万1000人という調査結果を出していた。しかし中高年層の事例の指摘が相次ぎ、いざ上の世代を調査してみると、重複する部分もあるものの若年層以上の数が存在したわけだ。また、5割が7年以上、2割弱が20年以上にも亘って引きこもり続けていることが分かった。この調査は当事者に回答させる手法で、引きこもりの自覚のないものは対象外。数字は氷山の一角だという指摘もある。


『令和元年のテロリズム』で取り上げられた事件のなかでは、「川崎殺傷事件」と「元農水省事務次官長男刺殺事件」がその典型でした。

「川崎殺傷事件」の犯人は、幼い頃両親が離婚、親権を父親が持ちましたが、その父親も蒸発。そのため、父親の祖父母の家で伯父夫婦によって育てられます。伯父の子ども、つまり犯人の従姉兄たちは犯行の標的となったカリタス小学校に通いますが、犯人は公立の小学校に通っており、そのことが積年の恨みになっていたのではないかという見方があります。しかし、中学を卒業して職業訓練校に進み、就職してから趣味ではじめた麻雀にのめり込み、雀荘の従業員として30歳まで働いたあとに、伯父の家に戻り、以後、事件を起こす51歳まで20年間ひきこもった生活をしていたのを伯父夫婦は面倒を見ているのです。犯人が恨みを持ったとすれば、むしろ幼い頃両親が離婚して人生の歯車が狂うことになった自分の境遇に対してでしょう。

伯父夫婦も高齢になって訪問介護サービスを受けるようになり、老人介護施設に入ることを検討しはじめます。しかし、同居する甥のことが気がかりで、市の「精神保健福祉センター」に相談しているのでした。そして、センターからの助言で、甥の部屋の前に「今後についての意思を問いただす手紙」を置いたのでした。すると、甥は伯父夫婦の前に姿を現わして、「『自分のことは自分でちゃんとやっている。食事や洗濯だって。それなのに”引きこもり”とはなんだ』と言った」そうです。それを聞いて、伯父夫婦は「本人の気持を聞いて良かった。しばらく様子を見たい」とセンターに報告したそうです。しかし、それをきっかけに犯人は犯行の準備をはじめたのでした。伯父夫婦と顔を合わせたのもそれが最後だったそうです。

最近、兵庫県稲美町で、同居しながら家族とほとんど顔を合わせることがなかったと言われる51歳の伯父が、両親の留守中に家に放火して小学生の二人の甥を焼死させたり、鎌倉でもひきこもっていたとおぼしき46歳の男が78歳の伯父を刺殺するという事件が起きましたが、それらの事件のニュースを見たとき、「川崎殺傷事件」の犯人のことを思い出さざるを得ませんでした。おそらく、事件にまで至らないものの、同じようにひきこもり追いつめられている人間たちは、私たちが想像する以上に多いのではないでしょうか。それを「自業自得」「自己責任」の一語で片付けるのは簡単ですが、しかし、そうやって臭いものに蓋をする世間に、まるで刃を向けるかのようなこの手の事件は今後もつづくように思います。また、電車内の無差別刺傷事件も立てつづけに起きていますが、それも同じ脈絡で捉えることができるように思います。

一方、「元農水省事務次官長男刺殺事件」で44歳のときに父親に刺殺された息子も、大学進学を機に実家を出て母親が所有する目白の一軒家で一人暮らしを始めるのでした。しかし、就職がうまくいかず、やがてひきこもった生活をするようになります。息子は、大学を出たあとアニメーションの専門学校に進むほどアニメ好きなのですが、それがひきもこる上で恰好の拠り所になり、ゲーム三昧の生活を送るようになるのでした。SNS上では、「ドラクエX」の”ヲチ”として有名だったそうです。

中学2年の頃から家庭内暴力が始まり、それまでも遠縁の精神科の病院に入院したり、ネットが炎上したことでパニックになって措置(強制)入院させられたこともあったそうです。最初は統合失調症の診断を受け、のちに精神医療をめぐる時代の変化でアスペルガー症候群の診断を受けています。ただ、アスペルガー症候群と診断されたのは40歳になってからでした。

入院も長くは続きませんでした。本人の「退院したい」という意向に家族が従ったためです。そのため、病院で適切な治療を持続的に受けることができなかったとも言えます。それどころか、薬を処方してもらうのに、本人ではなく父親が変わりに病院に出向いていたそうです。

また、悲惨なことに、兄のひきこもりが原因で縁談が破談したことを苦にして、長女が事件の5年前にみずから命を絶っているのでした。しかし、息子のひきこもりや家庭内暴力、それに娘の自殺については、極力外部に伏せていたみたいで、周辺の人間たちもそんな家庭内の問題があったことは誰も知らなかったそうです。狂牛病問題で事務次官を更迭されたあとも、駐チェコ日本国特命全権大使に任命されるほどのエリートだったので、もしかしたら息子や娘のことは「世間体が悪い」と考えていたのかもしれません。

著者も書いているように、誤解を怖れずに言えば、ひきもこりが何らかの精神的な失調を発症しているケースも多いのです。そのためにも適切な治療が必要なのです。同書のなかでも、息子によるSNSの書き込みが紹介されていましたが、それは、選民思想と差別主義、かと思えば自虐と露悪趣味のことばが羅列された、攻撃的で支離滅裂なひどい内容のものでした。もちろん、病気だからなのですが、でもネットでは、似たような書き込みを目にすることはめずらしくありません。

「元農水省事務次官長男刺殺事件」については、下記の公判の際の検察側とのやり取りに、この問題の根っこにあるものが顔を覗かせているように思いました。

尚、文中に出て来る固有名詞の「英昭」は父親、「富子」は母親、「駒場東邦」は息子が通っていた高校、「英一郎」は息子の名前です。

   検察側からは英昭に対しても子育てについて質問が投げかけられた。そしてその答えは所々富子と食い違う。例えば英昭によれば駒場東邦時代のいじめを学校側に相談しようと考えたが、英一郎に拒否されたのだという。並行して起こった家庭内暴力に関して行政へ相談することは、親子関係の悪化を懸念して出来なかった。「それはメンツの問題ではないですか?」。検察側が訊くと、英昭は「答えにくい質問ですね。そうだとも、違うとも言える」と述べた。


この三つの事件は、時間の連続性だけでなく、いろんな側面において関連しているように思えてなりません。

それをキーワードで表現すれば、メンヘラと身内の自殺です。もとよりメンヘラ(心の失調)と自殺のトラウマが無関係ではあり得ないのは、今更言うまでもないでしょう。

「京都アニメーション放火事件」の犯人は、昭和53年に三人兄妹の次男として生を受けました。でも、父親と母親は17歳年が離れており、しかも父親は6人の子持ちの妻帯者でした。当時、父親は茨城県の保育施設で雑用係として働いており、母親も同じ保育施設で保育士として働いていました。いわゆる不倫だったのです。そのため、二人は駆け落ちして、新しい家庭を持ち犯人を含む三人の子どをもうけたのでした。中学時代は今のさいたま市のアパートで暮らしていたそうですが、父親はタクシーの運転者をしていて、決して余裕のある暮らしではなかったようです。

そのなかで母親は子どもたちを残して出奔します。そして、父親は交通事故が引き金になって子どもを残して自死します。実は、父親の父親、つまり犯人の祖父も、馬車曳き(馬を使った運送業)をしていたのですが、病気したものの治療するお金がなく、それを苦に自殺しているのでした。また、のちに犯人の妹も精神的な失調が原因で自殺しています。

犯人は定時制高校を卒業すると、埼玉県庁の文書課で非常勤職員として働きはじめます。新聞によれば、郵便物を各部署に届ける「ポストマン」と呼ばれる仕事だったそうです。しかし、民間への業務委託により雇用契約が解除され、その後はコンビニでアルバイトをして、埼玉県の春日部市で一人暮らしをはじめます。その間に母親の出奔と父親の自殺が起きるのでした。

さらに、いったん狂い始めた人生の歯車は収まることはありませんでした。犯人は、下着泥棒をはたらき警察に逮捕されるのでした。幸いにも初犯だったので執行猶予付きの判決を受け、職安の仲介で茨城県常総市の雇用促進住宅に入居し、郵便局の配達員の職も得ることができました。

しかし、この頃からあきらかに精神の失調が見られるようになり、雇用促進住宅で騒音トラブルを起こして、家賃も滞納するようになったそうです。それどころか、今度はコンビニ強盗をはたらき、懲役3年6ヶ月の実刑判決を受けるのでした。その際、犯人の部屋に踏み込んだ警察は、「ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じた」そうです。

平成28年に出所した犯人は、社会復帰をめざして更生保護施設に通うため、さいたま市見沼区のアパートに入居するのですが、そこでも深夜大音量で音楽を流すなど騒音トラブルを起こすのでした。著者は、「再び失調していったと考えられる」と書いていました。そして、そのアパートから令和元年(2019年)7月15日、事前に購入した包丁6本をもって京都に向かうのでした。彼の場合も、精神的な失調に対して適切な治療を受けることはなかったのです。

生活困窮者を見ると、たとえばガンなどに罹患していても、早期に受診して適切な治療を受けることができないため、手遅れになってしまい本来助かる命も助からないというケースが多いのですが、精神疾患の場合も同じなのです。

不謹慎を承知で言えば、この「京都アニメーション放火事件」ほど「令和元年のテロリズム」と呼ぶにふさわしい事件はないように思います。私も秋葉原事件との類似を連想しましたが、著書も同じことを書いていました。

また、著者は、小松川女子高生殺人事件(1958年)の李珍宇や連続射殺魔事件(1968年)の永山則夫の頃と比べて、ネットの時代に犯罪を語ることの難しさについても、次のように書いていました。

「犯罪は、日本近代文学にとっては、新しい沃野になるはずのものだった。/未成年による「理由なき殺人」の、もっともクラシックな典型である小松川女子高生殺し事件が生じたとき、わたしはそのことを鮮烈に感覚した。/この事件は、若者が十七にして始めて自分の言葉で一つの世界を創ろうとする、詩を書くような行為としての犯罪である、と」。文芸評論家の秋山駿は犯罪についての論考をまとめた『内部の人間の犯罪』(講談社文芸文庫、平成19年)のあとがきを、昭和33年の殺人事件を回想しながらそう始めている。ぎょっとしてしまうのは、それが日々インターネット上で目にしているような犯罪についての言葉とまったく違うからだ。いや、炎上に飛び込む虫=ツイートにすら見える。今、こういった殺人犯を評価するようなことを著名人が書けばひとたまりもないだろう。
    秋山は犯罪を文学として捉えたが、犯罪を革命として捉えたのが評論家の平岡正明だった。「永山則夫から始められることは嬉しい」「われわれは金嬉老から多くを学んできた。まだ学びつくすことができない」と、犯罪論集『あらゆる犯罪は革命的である』(現代評論社、昭和47年)に収められた文章の書き出しで、犯罪者たちはまさにテロリストとして賞賛されている。永山則夫には秋山もこだわったが、当時は彼の犯罪に文学性を見出したり、対抗文化と重ね合わせたりすることは決して突飛ではなかった。一方、そこでは永山に射殺された4人の労働者はほとんど顧みられることはない。仮に現代に永山が同様の事件を起こしたら、彼がアンチヒーローとして扱われることはなかっただろうし、もっと被害者のバッググランドが掘り下げられていただろう。では近年の方が倫理的に進んでいるのかと言えば、上級国民バッシングが飯塚幸三のみならずその家族や、あるいは元農林水産省事務次官に殺された息子の熊澤英一郎にすら向かった事実からもそうではないことが分かる。


この文章のなかに出て来る秋山駿の『内部の人間の犯罪』や平岡正明の『あらゆる犯罪は革命的である』は、かつての私にとって、文学や社会を語ったりする際のバイブルのような本だったので、なつかしい気持で読みました。でも、当時と今とでは、犯罪者が抱える精神の失調や、犯罪を捉える上での倫理のあり方に大きな違いがあるように思います。

しかし、いくら脊髄反射のような平板な倫理で叩いても、それは気休めでしかないのです。こういったテロリズム=犯罪はこれからもどとめもなく私たちの前に出現することでしょう。むしろ、貧困や格差の問題ひとつをとっても、テロリズム=犯罪を生み出す土壌が益々拡散し先鋭化しているのは否定できません。だからこそ、そのテロリズムの底にある含意(メッセージ)を私たちは読み取る必要があるのです。そこにあるのは、坂口安吾が言う政治の粗い網の目からこぼれ落ちる人間たちの悲鳴にも似た叫び声のはずです。

「京都アニメーション放火事件」の犯人はみずからも大火傷を負い命も危ぶまれる状態だったのですが、懸命な治療の結果、命を取り止めることができたのでした。「あんな奴、助ける必要ない」という世間の怨嗟の声を浴びながら、彼は「こんな自分でも、必死に治療してくれた人がいた」と感謝のことばを述べ涙を流したそうです。なんだか永山則夫の「無知の涙」を思い浮かべますが、どうしてもっと早くそうやって人の優しさを知ることができなかったのかと悔やまれてなりません。しかし、それは、彼個人の問題だけではないように思います。


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秋葉原事件
2021.11.26 Fri l 本・文芸 l top ▲
新版山を考える


今朝(日曜日)、用事があって西武池袋駅から午前8時前の電車に乗ったのですが、車内は中高年のハイカーでいっぱいでした。ホームで会った人たちを含めれば100人はいたかもしれません。しかも、その大半はグループ(団体)でした。

グループを見ると、男性だけの数人のグループもありますが、おおむね女性(つまりおばさん)が主で、そのなかにリーダー格の男性(つまりおっさん)が数名いるというパターンが多いように思いました。おばさんたちのテンションが高いのはいつものことですが、お山の大将みたいなおっさんたちも負けず劣らずテンションが高い上に、集団心理によるマナーの悪さも手伝って、まさに大人の遠足状態なのでした。電車に乗っていて、途中で遠足に行く小学生たちが乗り込んで来ると「今日はついてないな」と思ったりしますが、山に行くおばさんやおっさんたちもそれに負けず劣らず姦しくて、思わず眉をひそめたくなりました。彼らは、車内マナーだけでなく、身体も小学生並みです。山に登る人たちは、ホントに競馬の騎手みたいに身体の小さい人が多いのです。

今日は午後から雨の予報でしたが、それでも緊急事態宣言も解除されたし、新規感染者数も激減したし、ワクチン接種も済んだので、そうやってみんなで山に繰り出しているのでしょう。午前8時前に池袋を出発するような時間帯では遠くに行けるはずもなく、おそらく紅葉狩りも兼ねて西武池袋線沿線の飯能の山にでも登るつもりなのでしょう。

私は山に行くことができないので羨ましい反面、休日の人の多い山によく行く気になるなと思いました。とてもじゃないけど、私などには考えられないことです。

登山人口が高齢化して減少の一途を辿っているなかで(今が登山ブームだなどと言っているのは現実を知らない人間の妄言です)、この中高年ハイカーが群れ集う光景は一見矛盾しているように思われるかもしれませんが、そこは大都市東京を控える山なのです。腐っても鯛ではないですが、週末になると、田舎では考えられないような多くのハイカーの姿を駅で見ることができるのです。おそらく、今日のホリデー快速おくたま号(あきかわ号)が停まる新宿駅の11番ホームも、ザックを背負ったハイカーで通勤ラッシュ並みにごった返していたことでしょう。

でも、奥武蔵(埼玉)でも丹沢でも奥多摩でもそうですが、彼らが行く山は限られています。みんなが行く山に行くだけです。そして、リーダーの背中を見て歩くだけです。

そんな彼らを見ていると、私は、本多勝一氏が書いていた「中高年登山者たちのために あえて深田版『日本百名山』を酷評する」(朝日文庫『新版山を考える』所収)という文章を思い出さないわけにはいかないのでした。

本多氏は、生前の深田久弥氏と個人的にも交流があったようですが、しかし、「『日本百名山』という本を内実相応のものとして相対化する」ために、「ここであの世の深田さんには片目をつぶってウインクしながら、あまりに絶対化されたことに対するバランスをもどすべく(引用者註:「あまりに」以下は太字)、この本についての悪口雑言罵詈讒謗ばりざんぼうを書くことに」したと書いていました。

ちなみに、「中高年登山者たちのために」は『朝日ジャーナル』の1989年10月20日号に掲載されたのですが、その枕になっているのは、同年の『岳人』10月号の「日本百名山に登山はなぜ集中するのか」という座談会です。『岳人』の座談会について、本多氏は、「故・深田久弥氏の著書『日本百名山』をそのまま自分もなぞって喜んでいる『画一化登山者』たちを問題にしています。この種のモノマネ没個性登山者の急増は、中高年登山者の急増と関連しているという指摘に考えさせられるものがありました」と感想を述べていました。

余談ですが、『岳人』が百名山登山を批判する座談会を企画するなど、今の『岳人』には考えられないことです。当時の『岳人』は中日新聞が編集発行していました。でも、今はモンベルに買収され、モンベルの関連会社が発行元になっています。モンベルにとっては、百名山様々なので、百名山登山を煽ることはあっても批判することなど間違ってもないでしょう。それは『山と渓谷』も同じです。部数減で経営環境がきびしくなったとは言え、山に関しても、政治と同じで、昔の方が見識を持っていたし”骨”もあったのです。

本多氏はこう書きます。

  思うに、深田さんは確かに山が好きだったけれど、山と旅をめぐる雰囲気を愛したのであって、「山それ自体」への関心があまり深くなかったのではありませんか。その意味では「山に対する愛情の深さが、ひしひしと伝わってくる」ような本は、書きたくても書けなかったのでしょう。「山それ自体」とは「自然それ自体」であって、具体的には花であり木であり岩であり雪であり鳥であり魚であり虫であるわけです。抽象的な自然は存在しません。しかしそれらに対する関心が深田さんは薄かった。


だから、逆に言えば、NHKの番組も相俟って、人並みとモノマネを処世訓とする中高年ハイカーには受け入れやすかったのかもしれません。でも、本多氏は、そこに「深田百名山」のジレンマがあったのだと言います。

  生前の深田さんが最も忌み嫌っていた類の人間とは、これは確信をもって言えますが、はかならぬ深田百名山をそのままなぞっているような人々なのです。他人が選んだ山を盲目的になぞるだけ、独創性も自主性もない、すなわち冒険精神とは正反対の極にあるかなしきメダカ民族。「深田クラブ」が、もし深田さんの志を尊重するために存在するのであれば、そんなメダカ行為を直ちにやめて、自分自身の眼で山を選ぶことです。(略)
  もっときびしいことを言えば、もし「深田クラブ」が深田版『日本百名山』を契機に結成されたとすれば、これを解散することこそが深田さんの志にそうものかとさえ思われるのです。


でも、山のリストは今や『日本百名山』だけではありません。「深田クラブ」や日本山岳会などによって、「日本二百名山」「日本三百名山」、さらには作家の田中澄江が選んだ「花の百名山」もあります。それどころか、地方や県単位でも百名山が選定されています。そうやって登山人口の減少とは裏腹に、「自立した登山者であれ」という登山の精神とは真逆な「モノマネ没個性登山者」=おまかせ登山者は増加する一方なのです。
2021.11.21 Sun l 本・文芸 l top ▲
山と渓谷田部重治


奥武蔵(埼玉の山域)や奥多摩などの東京近郊の山をメインにする登山系ユーチューバーの動画を観ていたら、ユーチューバー自身が「北アルプスのような高い山に登るのが偉いことで、奥武蔵のような低山に登るのは一段低い登山だという風潮がありますが、あれには違和感を覚えます」と言っている場面がありました。たしかにそういったおかしな風潮があるのは事実です。もっともそういった風潮は、日本の近代登山の黎明期から存在していたのです。前衛的(戦闘的)なアルピニズム思想に対して、「静観派」、あるいは「低山派」「逍遥派」などと呼ばれ、当時から「一段低い登山」だと見做されていたのです。

「静観派」の代表的な登山家であり、登山の大衆化に思想的に寄与したと言われる田部重治は、1931年(昭和6年)6月発刊の『峠と高原』という雑誌に、「高山趣味と低山趣味」と題して次のように書いていました。

  山を愛する人にして、それが豪壮なるが故に好むものもあろう。或いはその優美なるが故に登るものもあろう。或いは深林美を愛するが故に、或いは渓谷を好むがために、或いは眺望を欲するが故に、或いはそれらの凡ての理由以外に、山に登ること、その事をたのしむためにすらも登る理由を見出す人もあろう。
(略)
  私は、いわゆる、低山と称せられるものに於いても、以上のごとき登山の条件を有するものの決して少なくないことを見出す。むしろ東京附近からの日帰りや一泊の日程に於いて登攀しうるものの内に、こういう条件に叶うものの多いことに驚いている。それらは多摩川の本流、支流の山々の於て、相模の山に於て、秩父の山に於て多く見出される。これらの山々は美わしき山容、深林、渓谷に於て、決して軽視することの出来ないものをもっている。
(略)
  私は特に、都会生活の忙しい間から、一日二日のひまをぬすんで、附近の五、六千尺(引用者注:1尺=約30cm)の山に登攀を試みる人々に敬意を表する。これらの人々の都会附近の山に対する研究は、微に入り細を究め、一つの岩にも樹にも、自然美の体現を認め、伝説をもききもらすことなく、そうすることにより彼等は大自然の動きを認め人間の足跡をとらえるように努力している。私はその意味に於て、彼らの真剣さを認め、ある点に於て彼らに追従せんことを浴している。

(「高山趣味と低山趣味」 ヤマケイ文庫『山と渓谷 田部重治選集』所収)


私などは感動すら覚える文章ですが、その対極にあるのがヨーロッパ由来のアルピニズムです。

「征服」とか「撤退」とか、あるいは「ジャンダルム」もそうですが、登山に軍隊用語が使われているのを見てもわかるように、アルピニズムが近代合理主義の所産である帝国主義的な征服思想と軌を一にしていたのはたしかでしょう。特にアルピニズム発祥の地であるヨーロッパのキリスト教世界では、山は悪魔の棲むところ、魔界だと思われていました。だから、山に登ることは「征服」することだったのです。原始的な採集経済のなかで、山を自然の恵みを与えてくれる存在として、畏敬の念をもち信仰の対象とした日本のそれとヨーロッパのそれとでは異なる精神風土があったのです。もとよりヨーロッパアルプスなどに比べて標高が半分以下の山しかない日本では、山に対する考え方だけではなく、山に登るという行為自体も根本的に違っていたはずです。

日本では、既に7世紀の後半には役小角えんのおづぬ(役行者)によって修験道が開祖され、修験者(山伏)が山のなかで修行していたと言われています。また、8世紀後半には男体山、9世紀後半には富士山に登った記録も残っているそうです。ヨーロッパでアルピニズムが生まれたのは18世紀と言われていますので、日本の登山の歴史はヨーロッパよりはるかに古いのです。「静観派」は、どちらかと言えば、日本の伝統的な登山の系譜に属するものと言えなくもないのです。

一方、「日本アルプス」を命名したウィリアム・ガーランドが来日したのは1872年(明治5年)、日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンが来日したのは1888年(明治21年)です。そして、彼らによって持ち込まれたヨーロッパのアルピニズムが日本の近代登山形成のベースになったのでした。日本の近代登山が、多分に帝国主義的な征服思想と結びついた「高い山に登るのが偉い」というような風潮に囚われるようになったのは当然と言えば当然かもしれません。でも、言うまでもなくそれは強者、勝者の論理にほかなりません。

私の田舎の山は九州本土では最高峰の山塊にありましたが、子どもの頃、6月の山開きの日にはそれこそ老若男女みんなこぞって山に登っていました。それは、「おらが山」とでも言うような山岳信仰の原初的な心情が人々のなかに残っていたからだと思います。ミヤマキリシマのピンク色の花が咲き誇る山頂に立って、自分たちの町(文字通り「おらが村」)を眺めるときの誇らしさをみんなで共有していたのです。そのために登っているような感じがありました。

私たちは、国威発揚のために山に登る昔の登山家でも、山岳ビジネスのため、あるいは自分の名前をコマーシャリズムに乗せるために山に登る現代のプロの登山家でもないのです。何か勘違いしていませんかと言いたいです。そして、そういった勘違いが、ユーチューブの俄か登山者や”北アルプス信者”や百名山登山などに散見される、自然に対する畏敬の念の欠片もなく、ただピークハントだけが目的のような軽薄な登山に繋がっているように思えてなりません。それだったら田部重治が言うように、「消防夫」や「軽業師」と変わらないのです。
2021.11.10 Wed l 本・文芸 l top ▲
山に行けないということもあって、青空文庫で加藤文太郎の『単独行』を再び読んでいます。

加藤文太郎が初めて北アルプスに登ったのは、今から95年前の大正15年7月、21歳のときでした。Wikipediaには「1923年(大正12年)頃から本格的な登山を始める」と書いていますので、登山歴はまだ3年くらいです。その2年前には、「神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)」に勤務しながら、兵庫県立工業学校の夜間部を卒業しています。尚、加藤文太郎が厳冬期の北鎌尾根で命を落としたのは30歳のときです。その登山人生は僅か10年ちょっとにすぎなかったのでした。

Wikipedia
加藤文太郎

7月25日の日曜日の早朝、長野県大糸線の有明駅に着いた加藤文太郎は、徒歩で5時間以上かけて登山口にある中房温泉に向います。そして、中房温泉でひと風呂浴びて昼食を食べたあと、たぶん今と同じ登山道だと思いますが、燕岳へ向けて歩き始めたのでした。

当時、登山は大変お金のかかる贅沢なスポーツで、ハイカーの大半は経済的にも恵まれたインテリ層でした。そんななかで、末端の工場労働者にすぎなかった加藤文太郎は異色の存在だったのです。しかも、今のように詳細な登山地図もなかったので、多くはパーティを組み山に精通している地元の人間にガイド(道案内)を頼んで登るのが一般的でした。そんななか、加藤はガイドもなくひとりで北アルプスや南アルプスなどの山を登攀したのでした。そのため、『単独行』を読むと、常に道に迷い、今で言う”プチ遭難”みたいなことをくり返しながら登っていることがわかります。日没になると、行き合わせた作業小屋に泊まったり、あるいは野宿をしながら山行を続けていました。当時はヘッドランプもなかったので、暗くなると提灯を提げて歩いています。しかも、夜9時頃まで山中を彷徨うこともめずらしくありません。

初めての北アルプスは、7月25日から8月4日まで11日間に渡りました。燕岳に登ったあと、翌日には「アルプス銀座通り」(今の表銀座)を縦走して大天井岳に登り、さらに東鎌尾根を経て槍ヶ岳に登っています。当時から、燕岳から常念岳に至る縦走路は「アルプス銀座通り」と呼ばれていたことがわかります。殺生小屋(今の殺生ヒュッテ)に宿泊したあと、南岳から北穂高に至る大キレットを通り、北穂に登頂。そのあとたまたま見つけた無人小屋に泊まり、翌日奥穂高岳にも登っています。奥穂からはさらに前穂高岳にも登り、途中の雪渓に苦労して道に迷い野宿しながら上高地に下りています。そのときのことを加藤は次のように書いていました。

途中道瞭らかならず偃松等をわけ、あるいは水の流れるところ等を下る、なかなかはかどらず。 されば谷を下ればよしと思い雪渓に出ずれば非常に急にして恐ろし、尻を着けアイスピッケルを股いで滑れば、はっと思う間に非常な速度にて滑り出し、止めんとすれども止らず、アイスピッケルにて頭等を打ち、途中投出され等して数町を下りたり。そのときもう駄目なりという気起り気遠くなる思いなり。岩にぶつかるならんと思い少し梶をとりようやくスロープ緩きところに止り幸いなりき、あやうく命拾いしたり。それよりアイスピッケルを取りに行く困難言葉に表わされず、小石を拾いてそれにて足場を作り一歩一歩進む。
(略)
かかる困難をせざりしならむにこれもまた後日のためならむか。経験得るところ多し。これらすべて実に偉大なる恐るべき山なり。穂高は実にアルプスの王なりとしみじみ感ぜり、神の力に縋らずして命を全うすることを得ざるなり、有難く感謝せり。


加藤の初めての北アルプスはこれにとどまりません。上高地に下りたあと、平湯(温泉)から安房峠を徒歩で越えて乗鞍岳に登り、さらに御嶽山から中央アルプスの木曽駒ヶ岳、宝剣岳、空木岳まで登っているのです。もちろん、今のように安房トンネルもありませんし、乗鞍スカイラインや駒ヶ岳ロープウェイなどあろうはずもありません。特に空木岳はきつかったみたいで、「道なきを進み疲れはてて九時頃山中へ一泊」と書いていました。

余談ですが、「北アルプス 初登山」の日記を読むと、登山が大衆化する前とは言え、燕岳などは95年前も今と変わらない登山風景があったことがわかります。燕岳の登山道では、「途中女学生の一隊多数下山するに逢う」と書いていました。ただ、当然ながら今のようなおばさん軍団はいません。

北アルプス 初登山

  A 大正十五年七月二十五日(日曜日)晴れ
  午前六時三十五分有明駅着、 少し休む。自動車あれども人多く自分は徒歩にて出発、自動道なれば道よし、有明温泉を経て川を遡る。名古屋の人(高商生) と一緒に行く。アルプス山間たる価値ありき、中房温泉着約十二時、名古屋内燃機の人四人(加藤という人もありき)と逢えり、温泉に入浴昼食をとり一時中房温泉発、急なる登りなり、四時半燕小屋着、途中女学生の一隊多数下山するに逢う。サイダーを飲み高い金を払う。軽装(ルックザックを置き)にて燕頂上へ五時着、三角点にて万歳三唱せり。途中立山連峰、白馬、鹿島槍を見、鷲羽連峰等飛んで行けそうなるほど近くはっきりと見え心躍る、燕小屋へ引返し午後六時泊、槍は雲かかりて頂上見えず。

  二十六日(月曜日)晴後雨
  燕小屋午前六時出発、この路アルプス銀座通りといい非常に景色よく道も良し、今朝の御来迎は相当よく富士などはっきり見え槍も見ゆ。大天井岳の前にて常念道、喜作新道の岐れ道あり、そこにルックザックを置き、大天井頂上を極む。三角点にて万歳三唱、豪壮なる穂高連峰、谷という谷に雪を一杯つめ、 毅然とそびえたるを見、感慨無量なり、もとの道に引返しルックザックをかつぎ喜作新道を進む。右高瀬川の谷を眺め、眺望よきこと言語に絶す。この辺の景色北アルプス第一ならむ。西岳小屋にて休み焼印を押し、昼食をなす。途中広島の人(東京の学校にいる)東京の人(官吏)と三人となり十一時半頃出発、途中にて人々に別れ、一人にて道を行く、殺生小屋着二時半、途中大槍小屋に行く道ありて、その辺より雨降り出す。雨を冒して槍の頂上へ出発、ルックザックは小屋に置き、急なる道を進み、四、五十分にて槍肩を経て頂上着、祠あり名刺を置き三角点にて万歳三唱、一時間くらい霧の晴れるを待つ、ときどき 天上沢、槍平方面の見えるのみ、下山、殺生小屋泊、人の多きことに驚けり。


こんなことを言うと顰蹙を買うかもしれませんが、登山をする者にとって、山中を彷徨うというのはどこか冒険心をくすぐられるものがあります。ソロのハイカーが遭難すると、世間からは非難轟々で、山に登らない人間たちからは捜索のヘリを出すのさえ税金の無駄使いだみたいに言われるのが常ですが(そもそも山岳遭難を報じる記事が、そういった非難を前提にするようなパターン化されたものになっているのです)、でも、なかには加藤と同じような山中を彷徨うことに冒険心をくすぐられバリエーションルートに入った者もいるのではないかと思ったりもするのです。山にはそんな魔力みたいなものがあるのです。

加藤文太郎の山行には、紙の地図どころかGPSの地図アプリが欠かせないアイテムになっていて、道を逸れると警告のアナウンスが流れたり、下山すると家族にもメールで連絡が行ったりするような(それどころか、今どこを歩いているか、リアルタイムに現在地を家族と共有できるサービスさえあります)、便利なシステムに管理された今の登山にはない、自分のスキルと体力をフルに使って山に登るという、言うなれば原初的な山登りの姿があるのです。加藤文太郎がいつの時代もハイカーのヒーローでありつづける理由がわかるような気がします。

最終日、加藤は次のように日記を締めくくっていました。

  四日(水曜日)曇
  早朝起き川原に出でんと下れば途中道あり、それを進む、川の左岸のみを行きて川原に出で尾根へ取付きなどしてなかなか苦しき道なり、ようやく小日向の小屋に出で見れば道標あり、自分の下りし道の他に本道とてよき道あり、本道を通らばかかる困難はせざりしに、これよりは道よく道標ありて迷うことなく 九時半飯島駅着、十時の電車にて辰野へ、中央線にて塩尻を経て名古屋へ、東海道線にて神戸へ無事五日午前一時着せり、同二時床につく。痛快言わん方なかりき。かかる大コースも神の力をかりて無事予定以上の好結果を得しはまことに幸いなり、神に感謝せり。ああ思いめぐらすものすべて感慨無量なり。


床に入ったものの、11日間の大冒険を終えた興奮になかなか眠れず、何度も寝返りを打っている加藤の姿が目に浮かぶようです。
2021.10.15 Fri l 本・文芸 l top ▲

大正四年の京都の御大典ごたいてんの時は、諸国から出て来た拝観人で、街道も宿屋も一杯になった。十一月七日の車駕しゃが御到着の日などは、雲もない青空に日がよく照って、御苑ぎょえんも大通りも早天から、人をもって埋めてしまったのに、なお遠く若王子にゃくおうじの山の松林の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が細々と立っていた。ははあ、サンカが話をしているなと思うようであった。


これは、柳田国男の『山の人生』のなかの有名な一節です。私は、柳美里の『JR上野駅公園口』を読んだとき、ふと、この文章が頭に浮かんだのでした。

現天皇は、学生時代、中世の交通史・流通史を専攻していますが、それは子どもの頃から登山が趣味だったということが関係しているのかもしれません。

山登りは中高年になってからその楽しみが増しますが、その意味では年齢的に「今から」というときに山登りを卒業せざるを得ないその境遇には、あらためて同情せざるを得ません。彼は、いにしえの人々の人生やその生活に思いを馳せながら、彼らがかつて行き来した道を辿ることはもうないのです。

交通史・流通史を専攻していれば、柳田国男の『山の人生』や宮本常一の『忘れられた日本人』も読んでいたはずです。上記の柳田国男の文章で示されているように、かつてこの列島には天皇制にまつろわぬ人々が少なからぬ存在していたことも、当然知っていたでしょう。

現天皇は、記録を見る限り、雲取山に三度登っていますが、交通史・流通史の観点から秩父往還の道に興味を持っていたのは間違いないでしょう。そして、その道が、天皇制国家に弓を引いた秩父事件で大きな役割を果たしたこともわかっていたに違いありません。

年を取り体力が衰えてくると、力まかせに登っていた若いときと違って、別の風景も見えてくるようになります。そのひとつが山中に人知れず行き交っている”道”です。

森崎和江は、五家荘の人々が古くから歩いていた道を「消えがての道」と呼んで同名の本を著したのですが、私が五家荘に行きたいと思ったのもその本を読んだからでした。しかし、先日、Googleのストリートビューで五家荘を見たら、中央線が引かれ至るところに標識が設置された立派な道路が走っており、あたりの風景も別世界のようになっていました。私が登った当時は、一応車道(林道)はありましたが、上りと下りは一方通行でした。つまり、離合(すれ違い)もできないような狭い道しかなかったので、上りのときと下りのときは別の道を利用しなければならなかったのです。当時は、五家荘は泉村と呼ばれていましたが、小学校は村内に七つの分校がありました。集落が離れているため、遠くて子どもたちが通えないからです。しかし、その「消えがての道」も、もう誰からも歩かれることがなく草木の下に消えてしまったに違いありません。

佐野眞一は、『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文春文庫)のなかで、上記の『山の人生』の一節を引用して、次のように書いていました。

   柳田はこの大正天皇の御大典に、宮内書記官として、衣冠束帯の古式の礼装に威厳を正して列席した。高級官僚であると同時にわが国民俗学の創始者でもあった柳田は、公式の席に列しながら、天皇にまつろわぬ民である非定着民のサンカの動向も、鋭く視野にいれることを忘れなかった。


『山の人生』は大正15年に発表されたのですが、柳田国男はそれ以前に書かれた『遠野物語』や『山人考』などでも、「非常民」に関心を寄せていました。しかし、東京帝大出の高級官僚(今で言う”上級国民”)であった柳田は、栄達の階段を上るにつれ、天皇制国家にまつろわぬ「非常民」への関心を失っていくのでした。

  (略)最後は貴族院書記官長までのぼりつめた柳田は、大正八年に官職を辞したにもかかわらず、『山の人生』以後、非常民にはほとんどふれず、常民と天皇制の基盤をなす稲作の世界に、日本民俗学の方向を大きくリードしていった。
(同上)


もしかしたら、現天皇も柳田国男と同じような心の軌跡を歩んでいるのかもしれません。眞子さんもそうですが、自由がきかないというのはホントに不幸なことなんだなとしみじみ思えてなりません。皇室に不幸という観念が存在するのかどうかわかりませんが、眞子さんの結婚だって、人間には幸福を求める権利はあるけれど、でも、必ずしもそうはならない場合もある、思いもよらない苦労をするのも人生だと考えれば(そう自分の胸に手を当てて考えれば)、あんなに目くじらを立てることもないのです。
2021.04.24 Sat l 本・文芸 l top ▲
登山家として知られているイラストレーターの沢野ひとし氏の『人生のことはすべて山に学んだ』(角川文庫)を読んでいたら、「文庫版あとがき」で、若山牧水の『木枯紀行』を読んで「胸がぎゅっと捕らえられた」と書いていました。そして、沢野氏自身も、牧水が歩いた十一月の初旬に、十文字峠から栃本集落まで歩いたのだそうです。

『木枯紀行』は青空文庫に入っていますので、私も早速、kindleにダウンロードして読みました。

牧水は、旧梓山村(現長野県南佐久郡川上村)から地元の老人に道案内を頼み、十文字峠を越えて秩父の栃本へ下ったのですが、調べてみると、牧水が『木枯紀行』の旅をしたのは、関東大震災があった1923年(大正12年)です。38歳のときでした。しかも、牧水自身、当時住んでいた静岡県の伊豆で震災を体験しているのです。震災があったのは9月1日です。それから2ヶ月後、牧水は、「御殿場より小淵沢、野辺山、松原湖、十文字峠、秩父への約十五日間」(『人生のことはすべて山に学んだ』)の旅に出るのでした。

牧水は、栃本集落について、次のように書いていました。

  日暮れて、ぞくぞく(註・原文はくりかえし記号)と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃本といふへ降り着い た。 此処は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其処では秩父四百竃の草分と呼ばれてゐる旧家に頼んで一宿さして貰うた。
  栃本の真下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど真角に切れ落ちた断崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい断崖でかえたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られてゐた。栃本の者が断崖を降り、渓を越えまた向う地の断崖を這ひ登つてその大根畑まで行きつくには半日かかるのださうだ。 帰りにはまた半日かゝる。ために此処の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の為事をして帰つて来るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に断崖の中途に引つ懸つてゐる様な村であつた。


私も、雁坂トンネルができる前に、栃本には何度か行っています。雁坂嶺にも登ったことがあります。雁坂峠や十文字峠は、秩父と信州を結ぶ秩父往還の道にある峠で、昔の人たちはこの標高2千メートル近くある峠道を交易路として行き来していたのです。

同じ道を歩いた沢野氏は、次のように書いていました。

  牧水が歩いた十一月の初旬にあわせて十文字峠から栃本とちもとまで約十六キロ。軽いザックを背に歩いてみた。一里ごとに観音様があり、手を合わせてお賽銭さいせんを置く。視界がないうっそうとした原生林の中をひたひたと歩くとやがてバス停の二瀬ふたせに出る。そして秩父鉄道の三峰みつみね口に着く。
  牧水の文庫本をポケットから時折取り出し、大きく溜息ためいきを吐く。牧水は登山家よりはるかに足腰が強い。中途半端な気持ちで来たことを反省していたが、あらたな山旅を発見した。
(『人生のことはすべて山に学んだ』)


牧水は、生前、日本の至るところを旅しています。それも、多くは街道ではなく山道を歩く旅です。そして、旅の途上で多くの歌を詠んでいたのでした。

『木枯紀行』のなかで、私が好きな歌は次の二首です。

  木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ

  草は枯れ木に残る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも

牧水は、その2年前には上高地にも行っていました。上高地から飛騨高山に下っているのですが、その際、焼岳にも登っていました。

旅と歌は切っても切れない関係にあったのでしょう。昔の歌人はよく旅をしていたようです。それも今風に言えば、ロングトレイルと言うべき道を歩いています。

九州の久住(くじゅう)連山の麓にある私の田舎にも、与謝野鉄幹・晶子夫妻が訪れ、歌を詠んでいます。また、山頭火も放浪の旅の途中に立ち寄っていることが、『山頭火日記』に記されています。『山頭火日記』では、私の田舎について、子どもたちは身なりは貧しいが道で会うとちゃんと挨拶するので感心した、というようなことが書かれていました。

『木枯紀行』を読んで、私も、栃本集落から雁坂峠や十文字峠を越える道をもう一度歩いてみたいとあらためて思いました。ただ、何度も同じことを書きますが、そう思うと、どうしても今の膝のことが頭を掠め、暗い気持にならざるを得ないのでした。


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2021.04.18 Sun l 本・文芸 l top ▲
山に生きる人びと


膝の具合ですが、その後、3回水をぬいてその都度ヒアルロン酸を注入しています。しかし、いっこうに改善の兆候はありません。ドクターも「もう水はたまってないと思っていたんですがねえ」と首をひねっていました。こんな調子ではいつ山に行けるようになるのかわかりません。そう思うと暗い気持になります。

だからというわけではないですが、民俗学者の宮本常一の『山に生きる人びと』(河出文庫)と柳田国男の『山の人生』(角川ソフィア文庫)を買って、山に思いを馳せながら、再び読み返しています。いづれもまだ20代の頃、友人と二人で、テントを担いで二泊三日で熊本の五家荘を縦走した際に読んだことがあるのですが、細かい部分はもう完全に忘れています。『山の人生』はkindleにも入っていますが、やはり紙の本でないとなかなか読む気になれず、そのままにしていました。

今、『山に生きる人びと』を読み終えたばかりですが、同書の冒頭は、次のような文章ではじまっています。尚、同書の単行本が刊行されたのは1964年です。

  山中の道を歩いていて、いったいここを誰が通ったのであろうと思ってみることがある。地図にも出ていない道であるのだが、下草におおわれながらもかすかにそこを何人かの人が通りすぎたあとがのこされている。人の歩いた部分はややくぼんでいて、草も生えていないか、生えていても小さい。木も道の上の空間はそれほど枝をさしかわしていない。といって一日に何人ほどの人が通るのであろうか。そういう道を歩ていると草が茂り木が茂って、とだえてしまっていることも多い。それからさきは人も行かなかったのであろうか。それとも雑木や雑草がうずめつくして通ることすらできなくなってしまったのであろうか。
  こうした道はまたどうしてひらいたものであろうか。古い道のなかには獣の通ったあとを利用したものもすくなくなかったようである。
  山の奥のどんづまりの部落でそれからさらに山中にはいり、峠をこえて向う側へ出ようとする道をたどろうとするとき、「どこそこからウサギ道になるから気をつけて行け」などと教えてくれることがある。ウサギ道とかシシ道というのが山の中にはあったうようで、山の中を往来する獣はおのずから道を定めてそこを通った。
(略)
  古い時代には野獣の数はきわめて多かった。そしてそれらが山の中を往来することによっておのずから道はできたわけであろう。その道を人もまた利用したのである。


今、私たちが登山と称して歩いている道のなかには、そんな古の道もあるのかもしれません。しかし、そこにはロマンなどとは別に、山に生きる(生きざるを得ない)人々の並大抵ではないつらい生活の現実があったのです。

著者の宮本常一が、戦前(昭和16年12月)、愛媛県小松から高知県寺川に行く山中で、ひとりの「レプラ患者」(註:ハンセン病のこと)の老婆に会ったという話には身につまされるものがありました。「ぼろぼろの着物を着、肩から腋に風呂敷包をかけていた。杖をついていたが手に指らしきものはなかった」老婆は、阿波(徳島県)から来て、伊予(愛媛県)の知り合いのところに行くのだと言う。どうやって来たのか訊くと、「四国には自分のような業病の者が多く、そういう者のみが通る道があって、それを通ってきた」と言っていたそうです。著者は、「阿波から石鎚山の東まで山道をよぼよぼ歩いて、五日や六日の日はかかったであろう。どこで泊って何を食べてきたのであろうか」と書いていました。

あとで泊めてもらった農家の人にその話をしたら、山中には「カッタイ道」というのがあって、「カッタイ病の者はそういう道を歩いて行き来している」と言われたそうです。

本書は、そういった山間に行き交う人知れぬ道とともに、長年のフィールドワークの賜物である、「狩人」「杣(そま)」「木挽」「木地屋」「鉄山師」「炭焼き」などの一所不在の人生を生きる人々の山の暮らしの様子が、エッセイ風に綴られていました。

私は山国育ちなので、私の原風景は山です。子どもの頃、見晴らしのいい峠に立って、彼方に見える尾根の先に思いを馳せ、いつかあの尾根を越えて行ってみたいと思っていました。

『山に生きる人びと』によれば、山奥で木地や杣(木こり)や狩猟のような山仕事と焼畑農業で生計を立てていた人々の多くは、里から山奥に入ったのではなく、多くは山を越えてやって来たのだそうです。だから、麓で稲作農業をしている里人たちとは没交渉だった場合が多いのだそうです。オーバーな言い方をすれば、別世界の人々だったのです。

たとえば、長野県下伊那郡上村下栗のごときもその一つである。この部落は遠山川の作った峡谷の上の緩傾斜にあるが、下の谷から上って村をひらいたものではなく、東の赤石山脈の茶臼岳をこえて、大井川の方からやって来たものであるという。


ちなみに、赤石山脈とは今で言う南アルプスのことです。茶臼岳はそのなかにある標高2,604mの山です。

(略)山中の村で奥から川や箸や椀が流れて来たのでいって見るとそこに村があったという話は八岐大蛇伝説のほかに広島、島根県境の村や、滋賀県山中できいたことがあるが、これらも山の奥は谷口の方からではなく、山の彼方から来て開いたもののあったことを物語る例であろう。このように山中には水田耕作をおこなわず、定畑や焼畑耕作によって食料を得ていた集落が、私たちの想像をこえたほど多かったのではなかろうか。


そういった一所不在の漂泊の民が通る道が、街道のような表の道とは別に山のなかに存在していたのです。

余談ですが、子どもの頃、父親と久住(九重ではありません!)の山に登ったとき、頂上から「あれが法華院だ」と言って父親が指差した先に、豆粒ほどの小さな建物がありました。法華院温泉の住所は、登山口と同じ久住町有氏(現竹田市久住町有氏)でしたので、父親の知り合いもいたみたいです。

今は、九重町(ここのえまち)の長者原まで車で行って、モンベルもあるような観光地化された長者原から徒歩で行くのが当たり前みたいになっていますが、同じ郡内からは、法華院温泉は山を越えて行くところだったのです。事実、江戸時代までは、法華院は竹田の岡藩の国境警備を兼ねた祈願所でもあったそうです。国境は山を越えた先にあったのです。山を越えるというのは、昔は当たり前のことだったのです。

そう言えば、前も書きましたが、秩父困民党の落合寅市は、明治政府からの弾圧を逃れるために、いったん高知県に逃亡した後、雁坂峠を越えて再び秩父に戻っていますが、おそらく官憲が把握し得ない山道を利用していたのでしょう。落合寅市だけでなく、幹部たちも信州や甲州や東京に潜伏しているところを捕えられています(なかには北海道まで逃走した幹部もいました)。官憲の目が光る街道ではなく、山の人間しか知り得ない逃走ルートが存在したのは間違いないでしょう。

秋田県檜木内(旧秋田県仙北郡檜木内村)にいた山伏は、「生涯に二度ほど熊野へまいったそうで」、その際「山から山へわたり歩いて熊野へ行った」のだとか。「羽黒に属している山伏は羽黒へ、熊野に属している山伏は熊野へ、一生のうち何回かは往復し、また高い山々の峰駆けもしている」のだそうです。

吉野(吉野山・大峰山)というのは、今の奈良県です。羽黒(羽黒山)は山形県の鶴岡市にある山です。今風に言えば、秋田から奈良まで山から山を伝ってトレランで往復したのです。

『山に生きる人びと』には、文政期(1800年代)、若い頃に東北への旅に出て、以後76歳で羽後(現秋田県)で客死するまで、郷里の三河(現愛知県)に戻ることのなかった菅江真澄という人が、旅の途中に郷里の知人に送った手紙が1年後返信されて戻ってきた話が出ていましたが、その「通信伝達の役目をはたした」のも山伏だったそうです。

ちなみに、山伏のなかには、麓の里から山麓の村まで物資を運ぶ「荷物持ち」(歩荷)のアルバイトをしていた者もいたそうで、「一人で二三~四貫の荷を背負った」ケースもあったと書いていました。1貫は3.75kgですので、86kg以上になります。前に甲武信ヶ岳から国師ヶ岳を縦走して大弛峠に下りて来たハイカーが背負っていたザックが20kgあるとかで、それを試しに背負わせて貰ったことがありました。よくこんな重いものを背負って山を越えて来たもんだなと感心しましたが、昔の山伏はその4倍以上の荷物を背負って山を登っていたのです。

「山に生きる」人生が、きびしい生活環境のもと、艱難辛苦に満ちた生涯であったことは想像に難くありません。落人伝説で語られる山の生活にしても、「世間の目をのがれて、きわめてひっそりと生きて来た」ようなイメージがありますが、実際は「決して安穏なものではなく、むしろそこにはたえず闘争がくりかされていた」そうです。平野部の「政治闘争」(領土争い)に果敢に参加した資料も残されているのだとか。「平野に住む農民たちよりはるかに荒々しい血をもっていたのではないかと思われる」と書いていました。

  元来稲作農民は平和を愛し温和である。日本文化を考えていくとき、平和を守るためにあらゆる努力をつづけ工夫したあとが見られる。にもかかわらず、一方には武士の社会が存在し、武が尊ばれている。しかもその武の中には切腹や首斬りの習俗が含まれている。それは周囲民族の中の高地民の持つ習俗に通ずるものである。それで武士発生の基盤になったものは狩猟焼畑社会ではなかったであろうかと考えるようになって来た。九州の隼人も山地の緩傾斜面で狩猟や焼畑によって生計をたて、関東武士も畑作(古くは焼畑が多かったと見られる)のおこなわれた山麓、台地を基盤にして発生しているのである。


著者は、「試論の域を出ない」と断った上で、このように書いていました。もとより、条件のきびしい山奥で生活するには、「荒々しい血」をもっていなくてはとても生き延びて行けないでしょう。

『山に生きる人びと』を読み返すにつけ、そんな古の人々に思いを馳せ、もう一度山道を歩いてみたい、特に子どもの頃の思い出のある故郷の山をもう一度歩いてみたいという思いをあらためて強く持ちました。一方で、今の膝の状態を考えると、よけい暗い気持にならざるを得ないのでした。
2021.04.08 Thu l 本・文芸 l top ▲
奥秩父 山、谷、峠そして人


31日から1日にかけては、ベットの上に寝転がって、山田哲哉氏の『奥秩父 山、谷、峠そして人』をkindleで読みました。私は、電子書籍より紙の本が好きなのですが、この『奥秩父 ・・・・』は初版が2011年なので、既に廃版になっているらしく、アマゾンでも中古本しか売っていませんでした。その中古本も5千円以上の値が付けられていました。まったくふざけた話です。それで、仕方なく電子書籍(1375円)を買ったのでした。

奥秩父は文字通り奥が深く、公共交通機関では日帰りするのが難しい山が多いのですが、昔、雁坂トンネルが開通する前に何度か行った栃本集落や雁坂峠(雁坂嶺)にはもう一度行ってみたいなと思いました。また、甲武信ヶ岳から国師ヶ岳に至る縦走路も、いづれ歩いてみたい道です。山田哲哉氏の本からは、よく練られた文章を通して、中学生の頃から通っているという奥秩父や奥多摩の山に対する造詣の深さと愛着がひしひしと伝わってくるのでした。

山が好きだから山に登るのです。でも、最近はスピードハイクやトレランやYouTubeの影響で、山が好きだから山に登るという、そんなシンプルな理由で山に登る人も少なくなっているような気がします。山が好きだというシンプルな理由だからこそ、その先にある奥深い世界と出会うことができるのだと思います。

ネットでは「低山」や「鈍足」をバカにするような風潮がありますが、そこにあるのは”強者の論理”です。”強者の論理”は、山を知らない人間の妄言と言うべきでしょう。ネットでは、そういう愚劣な言葉で山を語ることが当たり前になっているのです。山田哲哉氏の本には、山が好きだから山に登るというシンプルな理由をもう一度確認させられるようなところがあります。

本の中に、こんな文章がありました。

ここで、自分の履歴書には書かれることのない目茶苦茶忙しかった十数年に触れるつもりはないが、この飛龍山の三角点を踏んだときが、三里塚の土地収用代執行と沖縄返還協定調印の隙間を見つけ、あらゆる無理算段を重ねて得た至福の時間だったことが思い出される。忙しくても、いや、忙しかったからこそ、 どんなに睡眠時間を削っても、どんなに仲間に文句を言われて奥秩父の森の中を登りたかった。あれほどの強烈な山への思いは、自分の中に、もう二度と生まれることはないだろう。


私が山に行っていることを知っている友人からの年賀状に、「煩わしい人間社会より自然だよな。羨ましい限りです」と書かれていましたが、山が好きだという理由の中に「逃避」が含まれているのもたしかです。山の魅力について、「全てを忘れることができるから」と言った現天皇の気持も痛いほどわかるのでした。

私は若い頃、親しい人間から「人間嫌い」と言われていました。だからと言って、人見知りをするとかいうのではなく、むしろ逆で、山でも出会った人に積極的に話しかけるタイプです。しかし、一方で、誰にも会わない山を歩くのが好きです。心の中ではやはりひとりがいいなあといつも思っているのです。なんだか今の私にとって、もう山しか「逃避」するところがないような気さえするのでした。

奥秩父の山に関しては、次の一文にすべてが凝縮されているように思いました。

  奥秩父は峠から始まった山だ。それは、登山の山として人が通ったはるか前に、人や馬や絹が運ばれ、塩、炭が運ばれ、善光寺参りや三峰神社詣での人が越えた山だからだ。奥秩父の峠には、それぞれに人のつけた痕跡がある。 荷物の交易の「荷渡し場」があり、炭焼き窯があり、関所跡が残されている。いま、峠越えをしようとする者には、かつてそれを越えた人たちの希望や絶望、夢や落胆があちらこちらで感じられるはずだ。
  信州や甲州から見れば関東の入り口である秩父。そこへ向かう峠は、新しい何かを得ようとする者、何かを捨てて違う生き方を探す者が必ず通過すべき場所だった。たとえば、急激な「富国強兵」政策で経済発展とともに近代的専制国家へと変貌した明治維新政府 から派遣された憲兵隊と鎮台兵に、十石峠、志賀坂峠、十文字峠へと敗走させられた秩父困民党にとって、峠は最後の決戦の場所であると同時に、「自由自治」の旗をそこから広げていく出発、転進の場所だったにちがいない。


山にはこんなロマンがあるのです。山を歩くことは、昔人のロマンに思いを馳せ、そのロマンに浸ることでもあるのです。
2021.01.02 Sat l 本・文芸 l top ▲
未来への大分岐


斎藤幸平編『未来への大分岐』(集英社新書)を読みました。

私は、何事においても悲観論者なので、未来に対してもきわめて悲観的です。ただ、副題にあるように、現在が「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」の「大分岐」に差しかかっているというのはその通りでしょう。

本書のなかに、シンギュラリティということばが度々出てきます。技術的特異点(technological singularity)という意味の用語ですが、ウィキペディアでは以下のように説明されていました。

技術的特異点は、汎用人工知能(en:artificial general intelligence AGI)、あるいは「強い人工知能」や人間の知能増幅が可能となったときに起こるとされている出来事であり、ひとたび自律的に作動する優れた機械的知性が創造されると、再帰的に機械的知性のバージョンアップが繰り返され、人間の想像力がおよばないほどに優秀な知性(スーパーインテリジェンス)が誕生するという仮説である。


つまり、シンギュラリティというのは、AIが人間の知能や知性を凌駕する、その臨界点を表わすことばなのです。しかも、ウィキにも書いているように、それが2045年頃やって来るのではないかと言われているのです。そうなれば、私たちは人間ではなくAIに使われるようになるのです。私たちの上司は(実質的には)AIになるのです。サラリーマンの勤務評価もAIが行うようになるのです。入社の採否もAIが決めるのです。住宅ローンの審査も然りです(既にそれははじまりつつあります)。ありていに言えば、私たちはAIに支配されるのです。

もちろん、そうなれば私たち自身、つまり人間の概念も変わらざるを得ません。なんだかSFの世界の話のようですが、そんなSFの世界がもうすぐそこまでやって来ているのです。

本書のなかで、経済ジャーナリストのポール・メイソンは次のように言っていました。

  多くの宗教では、神が人間に魂を与えています。地球上の他のあらゆるものと、人間は異なる。私たちはもっと進んだ存在で、人間は自分たちの思考によって決断を下すことができる。魂は、人間の優越性の証でした。
   たとえば、人間は槍をライオンに向かって投げつけることができるけれども、ライオンはその槍がどこから来たのかさえ理解していない。私たちがなぜ魂を信じ、人間の優越性を当然視しているのかについて、唯物論的に説明すると、そうなります。
   ところが、二十一世紀半ばには、AIが私たちに向かって槍を投げつけるようになり、その槍がどこから来たのか、私たちにはわからないという状況に陥るでしょう。
   AIが私たちを出し抜き、優位に立つのです。人間があらゆる存在に対して優越しているという、多くの宗教が今まで主張してきた前提が融解してしまう。だからこそ、人間とは何か、という固有性についての答えは、人間の優越性ではない、何か別なものに根ざしたものでなければなりません。
(第三部・第四章シンギュラリティが脅かす人間の条件)


では、人間が人間たらしめるものは何になるのか?と斎藤はポール・メイソンに問います。それに対して、メイソンは次のように答えていました。

  それは、人間の自由(引用者:傍点あり)です。だからこそ、人間が機械を活用する必要があります。人間を必要性から解放し、できうる限り少ない労働ですむようにするために、です。
(同上)


こういった楽観主義はマイケル・ハートにも共通していました。マイケル・ハートも、今の情報テクノロジーをアントニオ・ネグリとともに提唱する「コモン」による民主的な管理が必要だと説いていました。「コモン」というのは、国家所有でも私的所有でもない共同管理(所有)というような概念です。むしろ、今の情報テクノロジーは現代資本主義の果実なのだから、その果実を利用しない手はないという考えです。なんだか東西の壁が壊れる前に、旧ユーゴで実験された自主管理型社会主義を思い出しました(でも、そのユーゴも東西の壁が壊れると、凄惨な内戦=民族間紛争に突入したのでした)。

マイケル・ハートは、情報テクノロジーの進化、つまりシンギュラリティの到来によって、むしろ人間は苦の労働から解放されるのだとさえ言います。そのためにも、「アルゴリズムという固定資本の管理権」を「コモン」が手にしなければならないのだと。

  人間のもつ知識が機械に集約・固定されれば、それは、大きな社会的進歩となる可能性があります。だからこそ、私たちが本当にしなくてはならないのは、アルゴリズムを拒否することではなく、アルコリズムという固定資本の管理権を求める闘いなのです。
(第一部・第四章情報テクノロジーは敵か、味方か)


斎藤幸平は、マイケル・ハートの言葉を「固定資本の管理権を手に入れる闘いは、非物質的労働の時代における生産手段をめぐる闘いだ」と解説していました。

しかし、工場がAIに制御されたロボットによってオートメーション化されるのは、ホントに苦の労働から解放されることを意味するのだろうかという疑問があります。工場で吐き出された鉄くずを集めたり、ゴミを捨てたりするのも、やはりロボットなのか。もしかしたら、そういった下働きは人間が担うようになるのではないか、と私などは思ってしまいます。

当然、オートメーション化によって労働者のかなりの部分はリストラされるでしょう。でも、それもマイケル・ハートによれば、苦の労働からの解放を意味するのです。労働力としてみずからを資本に売る、「労働力の再生産」から解放されることになるからです。そのために、マイケル・ハートはベーシックインカムを提唱しています。

となれば、ベーシックインカムのために、マイナンバーと銀行口座や所得額や職歴や学歴や婚姻歴や病歴などの個人情報が紐付けられても、それも良しとすることになるのでしょうか。「コモン」の共同管理のためなら、個人情報が一元管理されても問題はないと考えているのでしょうか。まして、本書のなかでも議論になっていましたが、ベーシックインカムも貨幣に変わりはないのですから、”貨幣の物神性”という問題は依然として残るのではないか。そんな素朴な疑問が次々と浮かんできました。

一方、マルクス・ガブリエルは、「啓蒙の復権」を主張していました。そうあらねばならないという倫理的な考えが大事なのだと言います。その基調にあるものも、ポール・メイソンやマイケル・ハートと同じです。

私は、なんと心許ない話なんだろうと思わずにおれませんでした。情報テクノロジーの進化ではいちばんわかりやすい中国の例を見ても、私にはAIに支配される未来の人間の姿しか浮かびません。

編者の斎藤幸平が「あとがき」で書いていた新しい社会主義像についても、私は楽観主義のようにしか思えませんでした。

  これは(引用者注:コモンは)、「上から」の共産主義、スターリン主義とは異なる、社会運動に依拠した「下から」のコミュニズム(communism)と言える。
  では、なぜ「上からの」社会変革ではだめなのか。現実の社会運動や共同参画に根付かない政策提案や制度改革による、「上からの」社会変革の戦略を、本書では「政治主義」と呼んだが、政治主義は、民主主義の闘争領域を選挙戦へと著しく狭めてしまうのだ。そして、専門家や学者による政策論は問題を抱えている当事者の主体性を剥奪する。
(おわりに―Think Big!)


現に日本では、前にも書きましたが、社民党の立憲民主党への合流に見られるように、社会運動に依拠した政治勢力は壊滅状態に追いやられているのです。これからは野党周辺においても、左派的な社会運動を排除する動きが盛んになるでしょう。「『下からの』コミュニズム」なんて絵に描いた餅のようにしか思えません。しかも、菅政権のデジタル庁構想に見られるように、「サイバー独裁」「デジタル封建制」の方がむしろ現実になりつつあるのです。
2020.12.01 Tue l 本・文芸 l top ▲
最近、老眼鏡をかけないと本を読めないということもあって、本を読む時間が少なくなっていました。しかし、そうなればそうなったでこれではいけないと強く思うのでした。本を読むことだけが自分の取り柄みたいなところがありますので、これで本から遠ざかったら何の取り柄もなくなってしまうじゃないか、と自分に言い聞かせているもうひとりの自分がいます。

若い頃は、2~3冊の本を同時に読んだりしていました。むしろ、それが当たり前でした。でも、今はそういう芸当もできなくなりました。年を取ると知識欲も減退するのか。しかし、それでは知性に敵対する元学ラン剃りこみ応援団員のどこかの国の総理大臣と同じになってしまいます。それではいけないと思って、本を買って来て自分で読書週間を設け、みずからを鼓舞して読み始めているところです。

買ってきたのは、仲正昌樹『人はなぜ「自由」から逃走するのか』(ベストセラーズ)、斎藤幸平編『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への分岐』(集英社新書)、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)、崔実『pray human』(講談社)の4冊です。

斎藤幸平は、今、話題のベストセラー『人新世の「資本論」』の著者で、久々に若手の左派の論客が登場したという感じです。世界が中世に逆戻りしているかような今の状況のなかで、なんだか“期待の星”にすら思えるのでした。

『未来への分岐』は、マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソンという世界的に著名な”左派“の論客と対談した本ですが、そこで語られているのは、「『上からの』共産主義、スターリン主義とは異なる、社会運動に依拠した『下からの』コミュニズム」(あとかぎ)を志向する、マルクスを現代風に解釈したエコロジカルで斬新でラジカルな革命論です。

まだ読み始めたばかりですが、『未来への分岐』のマイケル・ハートとの対談で、斎藤は次のように言っていました。

斎藤 (略)本来なら、カリスマ的なリーダー探しをするのではなく、現実の社会問題に地道に取り組む社会運動をいかに政治的な勢力に変容させるかを模索すべきだし、そうして生まれた政治的な勢力が、運動とのつながりを断ち切らないようにするにはどうしたらよいか、を考えるべきでしょう。
しかし、リベラル派はそのような思考をめぐらすことはせず、安倍に対抗できるくらい強力な政治権力をもつことによって――ただし今度は「立憲主義」の理念のもとで――社会変革をするのが、効率的な対抗戦略であると信じて疑わないのです。そして、主戦場はいつも選挙政治と政策提言になっていて、「投票に行こう」がリベラル派のお題目になってしまっています。


最近の社民党の立憲民主党への合流(吸収?)と重ね合わせて考えると、“愚劣な政治”はなにも右派の専売特許でないことがよくわかります。斎藤も本のなかで言っていましたが(私もこのブログで何度も書いていますが)シリザもポデモスもSNPも、そして、バーニー・サンダーズも、みんな社会運動のなかから生まれたのです。社会運動の基盤があったからこそ、あれほどの政治勢力になり得たのです。

社民党の立憲民主党への合流=実質的な消滅は、社会運動を放棄し、社会運動の基盤を否定するものです。社会運動の基盤を担う”戦う左派”を解体して、野党を中道保守の”戦わないリベラル”に糾合する「選挙政治」の最たるものと言っていいでしょう。言うまでもなくそれは、二大政党制という政治の翼賛化に通底する行為でもあります。そんなリベラル派に何が期待できるのでしょうか。

また、4年の沈黙を破って発表した途端に三島由紀夫賞の候補になった、崔実の『pray human』も楽しみです。眠れない夜など、この弛緩した感性がゆさぶられるようないい小説を読みたい渇望感に襲われることがあります。本を読んでよかったなと思えるような本に出会いたい、そんな干天の慈雨のような本に出会いたいと切に思うことがあります。


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崔実「ジニのパズル」
2020.11.24 Tue l 本・文芸 l top ▲
今日、アメリカで最も権威のある文学賞「全米図書賞」に、柳美里の『JR上野駅公園口』が選ばれたというニュースがありました。

朝日新聞デジタル
柳美里さんに全米図書賞 「JR上野駅公園口」英訳版

トランプの狂気が覆うアメリカ社会に、まだこういった小説を選ぶようなナイーブな感性が残っていることになんだかホッとさせられました。

格差社会によってもたらされたネトウヨ化やヘイトの蔓延は、日本も例外ではありません。もはや、他人(ひと)の振り見て我が振り直す“余裕”すらなくなっているのです。

海外旅行が趣味だという若者が、「日本人は外国人に比べて冷たい」「恥ずかしがり屋だとかいうのはウソで、そうやって冷たい自分たちを誤魔化しているだけなんだと思う」と言っていましたが、『JR上野駅公園口』が描く居場所のない人間のやり場のない哀しみこそ、「冷たい」日本人の心に向けて放たれた矢なのだと思います。

『JR上野駅公園口』が日本よりアメリカの文学界で評価されているという現実も、宮台真司の言う日本社会の「感情の劣化」を表しているように思えてなりません。


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柳美里『JR上野駅公園口』
2020.11.19 Thu l 本・文芸 l top ▲
女帝小池百合子


石井妙子著『女帝 小池百合子』(文藝春秋社)を読みました。

「救世主か? “怪物”か? 彼女の真実の姿」と帯に書かれた本書の肝は、なんと言っても、カイロ大学に留学していた際に、小池百合子と同居していた女性の証言です。小池百合子は、名門のカイロ大学を「正規の四年で(しかも首席で)卒業することのできた最初の日本人」と主張し、それが売りでメディアに登場して、現在の足場を築いたのでした。

ちなみに、小池百合子は、カイロ大学の留学時代に、アラビア語の語学学校で知り合った男性と学生結婚しています。それは、今回小池百合子の謎に包まれた”アラブ留学時代“を証言した「早川さん」と1回目の同居をはじめたあとの話です。小池百合子と「早川さん」が知り合ったのは、語学学校の共通の知人の紹介だったそうです。

その頃の小池百合子は、カイロ大学とは別の私立大学に通っていたそうですが、しかし、同居人の「早川さん」が「勉強しないでも平気なの?」と訊いたほど、本やノートを開くことはまったくなく、アルバイトに明け暮れていたということでした。お父さんが「石油を扱う貿易商」で、芦屋の「お嬢さま」だと聞いていたのに、親がまったく送金してこないので「驚いた」そうです。

関西学院大学を1年で中退してカイロにやって来た当時の小池百合子は、カイロ在住の日本人の中では飛びぬけて若く、日本人社会の中では「アイドルのような存在」でした。そのため、毎夜、二人が同居する家に商社マンなど男性が遊びにやって来るので、語学留学していた「早川さん」はこれではなんのためにカイロにやって来たかわからないと悩んだほどでした。

一方、結婚生活は、本人によれば「半年」とか「数ヶ月」とかで破綻してしまいます。ただ、小池百合子が再び「早川さん」の前に現れたのは、結婚するために引っ越してから3年後のことで、離婚後どこでどう暮らしていたのかはわからないと書いていました。そして、そこから二度目の同居がはじまったのでした。

結婚している間に、彼女は、父親の知り合いのエジプト政府の要人(副首相?)の紹介で、カイロ大学の2年に編入した(コネ入学した)と言われています。しかし、神戸にいた父親は事業に失敗して破産してしまいます。父親の仕事は、「石油を扱う貿易業」と言っていましたが、石油を直接輸入していたわけではく、「業転」(業者間取引の略)と言われる仕事をしていたにすぎません。

車に乗っていると、車体にエッソや昭和シェルやキグナスなどの石油会社の社名が入ってない無印のタンクローリーが走っているのを見かけることがありますが、あれが「業転」なのです。そういったタンクローリーは、メジャーの系列店とは別の安売りスタンドなどに、正規の流通で余った?ガソリンをスポットで納入しているのです。父親は、そのブローカーの仕事をしていたのです。

父親は、兵庫二区から衆院選挙に出馬するなど無類の「政治好き」でしたが、一方で、「大風呂敷で平気で嘘を吐く」「政治ゴロ」だったと陰で言う人もいます。破産後の小池家の”後見人”になった朝堂院大覚こと松岡良右氏は、父親の出馬について、「選挙に出て、あの家は傾いたんじゃない。傾いていたから一発逆転を狙って、後先を考えずに選挙に出たんやろ。議員になってしまえば、借金も返せると浅はかに考えて」と言っていたそうです。

父親の経歴について、本書は次のように書いていました。

   海軍中尉だったと語る一方で彼はまた、周囲に「満鉄経理部で働いていた」「満鉄調査部にいた」「満鉄の野球部で活躍した」とも語っている。だが、海軍にいたのなら満鉄にいられるわけはなく、満鉄にいたのならば海軍にいたとは考えにくい。


そういった「大風呂敷で平気で嘘を吐く」性格は、娘も受け継いでいるという声もあります。娘は父親を憎んでいたと言われており、事実、父親の話をすると不機嫌になったそうですが、しかし、二人は「一卵性父娘」だったと言う人も多いのです。

学歴だけでなく、芦屋のお嬢様だったという生い立ちも、間一髪飛行機事故を回避して命拾いしたという逸話も(それも二度も)、亡くなった父親や母親に関する美談も、もちろん、政治の世界に入ってからの数々の発言やパフォーマンスも、嘘とはったりで、「蜘蛛の糸を掴む」ようにして「虚飾の階段」を登るその過程でねつ造された「物語」だと書かれていました。

本書を読む限り、彼女の虚言は枚挙に暇がなく、学歴詐称はそのひとつに過ぎません。ただ、その後の彼女が歩んだ人生を考えれば、学歴詐称によって、小池百合子はルビコンの川を渡ったと言っていいのかもしれません。

先日、都議会で本書について自民党の都議から質問を受けた際、小池都知事は次のように答えたそうです。

自民党の清水孝治氏は、先日発売された「女帝小池百合子」というタイトルの書籍を手に質問。一部を音読するひと幕まであった。「百合子さん」と繰り返す清水氏に、小池氏は「これほど、本会議場でファーストネームで呼ばれたことは初めて」と、笑い飛ばした。

日刊スポーツ
小池知事、学歴詐称報道に「読んでいないので…」


本書を読むと、こういったはぐらし方こそ、如何にも彼女らしいなと思います。

学歴詐称問題は、今までも何度も取り沙汰されてきました。しかし、「嘘も百回繰り返せば真実になる」というナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの言葉を実践するかのように、こういったはぐらかしと強心臓で否定し続けてきたのでした。もちろん、学歴詐称が事実であれば、公職選挙法違反になるのは言うまでもありません。

アラビア語には、口語と文語があり、文語は非常に難解で、外国人が文語をマスターするのは至難の業だと言われているそうです。

  エジプトでは現在も、口語(アーンミンヤ)と文語(フスハー)が明確に分かれており、日常では口語が使われている。
  一方、文語はコーランに典型的な四世紀頃から続く古語で、アラブ各国のインテリ層の間では、この文語が共通語として使用される。
  ニュースや大統領の演説には、格調高いこの文語が用いられ、書物や新聞も当然、文語である。カイロの大学の教科書も、教授の講義も文語でなされる。文語は大変に難解で、エジプトの庶民階層に非識字者が多い理由もここにある。
(中略)
  アラビア語を母国語とする人でも苦しむ、この文語を外国人、とりわけ日本人が習得するのは並大抵のことではなく、だからこそカイロ大学を正規に卒業した日本人は数えるほどしかいないのだ。
(中略)
  アラビア語の口語すら話せなかった小池が、文語をマスターして同大学を四年で卒業する。そんなことは「奇跡」だと嫌味を込めて語る人は少なくない。


しかも、本人は、首席で卒業したと主張しているのです。

彼女の主張について、「ある国際関係の専門家」は、「あの小池さんの意味不明な文語を聞いて、堪能、ペラペラだ、なんて日本のマスコミは書くんだから、いい加減なものだ。卒業証書なんて、カイロに行けば、そこら中で立派な偽造品が手に入りますよ」と言っていたそうです。また、「日本在住のエジプト人女性が語った言葉も私には忘れられない」と著者は書いていました。

「たどたどしい日本語で、『私、東大出たよ、一番だったよ』と言われたら、日本人のあなたは、どう思いますか。東大、バカにするのかって思うでしょ。(略)」


ある日、同居人の「早川さん」が帰宅したら、小池百合子がしょんぼりしていたそうです。どうしたのと訊いたら、進級試験に落ちたと。しかも、よくよく聞けば、それは最終学年ではなく、3年から4年に進級する試験だったそうです。そのため、追試も受けられない。それで結局、彼女は、日本航空の現地スタッフとして働きはじめたのだそうです。

ところが、それからほどなく、サダト大統領夫人が日本に来るので帰って来いという父親からの連絡を受けて一時帰国し、父親が娘を「カイロ大学卒」として日本アラブ協会に売り込んだのが功を奏して、大統領夫人の接待係に採用されたのです。そして、それが彼女の人生の大きなターニングポイントになったのでした。

当時の東京新聞には、彼女のことが次のように紹介されていたそうです。

「この九月、日本女性として初めてエジプトのカイロ大学文学部社会学科を卒業し、十月中旬に帰国したばかり」(一九七六年十月二十七日)


日本から戻ってきた小池百合子は、「嬉しそうにスーツケースから新聞を取り出すと早川さんに見せた」そうです。

(略)早川さんは読み進めて思わず声をあげた。
「百合子さん、これって・・・・」
  見上げると小池の視線とぶつかった。驚く早川さんを見て、小池はいかにも楽しそうに微笑んでいた。そんな小池を目の当たりにして、早川さんはさらに当惑した。
「百合子さん、そういうことにしちゃったの?」
  小池は少しも悪びれずに答えた。
「うん」


カイロに戻ってきたのは、カイロでの生活を精算して日本に帰国するためでした。最後の夜、彼女は「早川さん」に次のように言ったのだとか。

「あのね。私、日本に帰ったら本を書くつもり。でも、そこに早川さんのことは書かない。ごめんね。だって、バレちゃうからね」


「早川さん」は現在もカイロに住んでいますが、しかし、小池百合子の”過去”を知る人間として、恐怖すら覚えるようになっているのだとか。政治家として権力を持った元同居人。しかも、現在のエジプトは「なんでもまかり通ってしまう軍事国家」です。なにより、民主的な法秩序より人治的なコネやツテが優先されるアラブ世界。こうして”過去”の話をあきらにしたのも、あえて声をあげることで、みずからの身を守ろうとしているのかもしれません。

日本に帰国した小池百合子は、日本テレビの朝の情報番組「ルックルックこんにちは」で、竹村健一の対談コーナーのアシスタントとしてデビューします。さらに、「東京12チャンネル(現テレビ東京)の天皇」と言われた社長の中川順氏に気に入られ、「ワールドビジネスサテライト」のキャスターに抜擢されるのでした。そして、「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを踏み台にして、政界に進出し、誇大妄想の泡沫候補で、「政治ゴロ」と言われた父親の夢を娘が叶えたのです。

政界に入ってからも、日本新党、新進党、自由党、保守新党、自民党と渡り歩き、その間、細川護熙・小沢一郎・小泉純一郎などの権力者に接近することで、「政界の渡り鳥」「爺々殺し」「権力と寝る女」などという陰口をものともせず、政治家としても華麗な転身を遂げていったのでした。そして、今や憲政史上初の女性総理大臣候補と言われるまでになっているのです。

彼女の政界遊泳術については、新進党時代の同僚議員であった池坊保子氏の証言が正鵠を得ているように思いました。

「(略)小池さんは別に政治家として、やりたいことはなくて、ただ政治家がやりたいんだと思う。そのためにはどうしたらいいかを一番に考えている。だから常に権力と組む。よく計算高いと批判されるけれど、計算というより天性のカンで動くんだと思う。それが、したたか、と人には映るけれど、周りになんと言われようと彼女は上り詰めようとする。そういう生き方が嫌いじゃないんでしょう。無理しているわけじゃないから息切れしないんだと思う」


現在、新型コロナウイルスを奇貨として、小池百合子東京都知事はまさに水を得た魚の如くお得意のパフォーマンスを繰り広げています。まるで日本の救世主=ジャンヌ・ダルク(彼女自身、「政界のジャンヌ・ダルクになりたい」と言っていた)であるかのようです。たとえば、彼女がぶち上げた「東京アラート」なるもので歌舞伎町がやり玉に上げられていますが、そんな彼女のパフォーマンスによって、多くの人たちが苦境に陥り、破産か自殺かの瀬戸際にまで追い詰められていることも忘れてはならないのです。もちろん、本書でも再三書かれていますが、彼女をここまで祭り上げたメディアの罪も大きいのです。

小池百合子が「カイロ大学を首席で卒業した」ことをウリに日本に帰って来ると、鼻の下を伸ばしたジャーナリストたちが中東通で才色兼備の彼女に群がり、政界や財界の要人たちとのパイプ作りに一役買ったのですが、なかでも、のちに『朝日ジャーナル』の編集長になった朝日新聞(元カイロ特派員)の故伊藤正孝氏は、今の政治家・小池百合子の”生みの親”としてあまりに有名です。

本人たちは否定していますが、彼女が結婚まで考えたという”元恋人”の舛添要一氏は、彼女の学歴詐称問題について、次のようにツイートしていました。

舛添要一6月6日ツイッター

私は、舛添氏のツイートを見て、木嶋早苗が逮捕された際、唯一金銭抜きで交際していた恋人(某新興宗教団体の本部職員だった男性)が警察から彼女の本名を聞かされて、その場に膝から崩れ落ちたという話を思い出しました。木嶋早苗は、本命の恋人にも本名を伝えてなかったのです。伝えていたのは偽名だったのです。小池百合子にも、似たような心の闇があるのではないか。そんな気がしてなりません。


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2020.06.08 Mon l 本・文芸 l top ▲
混迷を深めていたイギリスのEU離脱(ブレグジット)も、離脱の是非を問う下院の総選挙で、離脱強硬派のジョンソン首相が率いる与党の保守党が圧勝したことにより、来年1月末までの離脱が決定的になりました。

一方、離脱に対して賛成から残留に舵を切り、方針が一貫しなかった野党の労働党は大敗。党内最左派(オールドレイバー)のジェレミー・コービン党首は、責任を取って辞任することになりました。

かねてからブレイディみかこ氏は、ブレグジットについて、下層の労働者たちがどうして労働党に三下り半を突き付け、保守党を支持するに至ったかを、右か左かではなく上か下かの視点からルポルタージュしていました。私も、再三、このブログでブレイディみかこ氏のルポを紹介していましたので、離脱が決定的になった今、氏の最新報告を読みたいと思い、「UK地べた外電」というルポを連載していた晶文社のサイト・スクラップブックにアクセスしてみました。しかし、案の定、連載は昨年の3月から途絶えたままでした。

晶文社 スクラップブック
UK地べた外電

また、氏のオフィシャルブログも、最近は本の宣伝ばかりで、オリジナルの文章はすっかり姿を消しています。そのため、Yahoo!ニュース(個人)に転載されていた文章も、2017年6月から途絶えたままです。

その一方で、ブレイディみかこ氏はすっかり売れっ子になっており、毎日新聞や朝日新聞で「時評」を連載したり、新潮社から本を出したりしています。さらに、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)では、毎日出版文化賞の特別賞を受賞しています。

最近はよく帰国しているみたいなので、まだ保育士をつづけているのかどうかわかりませんが、オフィシャルブログに矢部太郎と対談したことを自慢げに書いている氏を見ていると、(私の感覚では)なんだか痛ましささえ覚えてなりません。

ブレイディみかこ氏には、「アナキズム・イン・ザ・UK」というブログもありますが、やはり2015年から途絶えたままです。売れっ子になったので、アナーキーな心情も忘却の彼方に追いやったということなのでしょうか。

私自身は全共闘運動に乗り遅れた世代ですが、私たちは、全共闘運動に随伴してさかんに学生たちを煽っていた“左翼文化人”たちが、運動が終焉を迎えると手の平を返したように豹変し、お得意の自己合理化をはかりながら体制内に戻って行ったのを嫌と言うほど見てきました。

それをある人は「新左翼ビジネス」と呼んでいました。今は右の時代なので、愛国ビジネスやヘイトビジネスが盛んですが、左も例外ではないのです。

"左翼文化人"たちは、左派のシンパの人間たち向けに、受けのいい文章を書いて禄を食んでいたにすぎないのです。でも、私たちは、"左翼文化人"が売文業者だったなんてゆめゆめ思っていませんでした。貨幣ならぬ”文字の物神性”のようなものに呪縛されている私たちは、文字になって”書かれたもの”を無定見に信じるがゆえに、いとも簡単に騙されてしまったのでした。

今のブレイディみかこ氏を見ていると、もうタダの文章は書かない(無料経済はやめた)、大手出版社と全国紙しか相手にしないとでも言いたげで、残念な気がしてなりません。


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2019.12.15 Sun l 本・文芸 l top ▲
津原泰水氏の『ヒッキーヒッキーシェイク』文庫化をめぐるトラブルで、津原氏の単行本の実売数を公表し物議を醸した見城徹氏が、各方面からの批判に耐えかねてとうとうTwitterの終了を宣言しました。本人のことばを借りれば「身から出た錆」とは言え、実にみっともない終幕を演じることになったと言えるでしょう。

同時に、AbemaTVの冠番組『徹の部屋』も、同番組のなかで終了すると宣言したそうです。どうしてAbemaTVに冠番組をもっているのか不思議に思いましたが、どうやら見城氏がテレビ朝日の放送番組審議会の委員長を務めていることが関係しているようです。言うまでもなく、AbemaTVはサイバーエージェントとテレビ朝日が共同で出資したネットテレビで、見城氏とサイバーエージェントの藤田晋社長も親しい関係にあります。なんのことはない、わかりすぎるくらいわかりやすいメディアの私物化なのでした。

『徹の部屋』には、今まで安倍総理や百田尚樹氏や有本香氏、それに見城氏と親しい秋元康や坂本龍一や村上龍や藤原紀香や郷ひろみなどが出演したそうです(坂本龍一にも今回の問題をどう思うか聞いてみたい気がする)。また、以前は出演拒否していたテレビ朝日の「報道ステーション」に安倍総理が出演するなど、最近のテレビ朝日と官邸の”蜜月ぶり”が話題になっていますが、テレビ朝日と官邸をつないだのも見城氏だと言われています。

見城氏は、慶応在学中はブント(共産主義者同盟)系の活動家として赤軍派にシンパシーを抱いていたという話があります。過去には、幻冬舎には場違いとも思える重信房子の本が出ていますが、それも見城氏の個人的な“負い目”が関係しているのかもしれません。

そのあたりの話は、下記のBLOGOSの記事でも触れられていました。

BLOGOS
ITビジネスに積極的だった見城徹氏のSNS終了宣言

今回の“騒動”について、私は、フリーライターの佐久間裕美子氏の「みんなウェルカム@幻冬舎plusをおやすみすることにしました」というブログと、花村萬月氏のTwitter上の発言に考えさせるものがありました。しかし、花村萬月氏は、既にTwitterのアカウントを削除しています(追記:後日確認したら、また復活していました)。

佐久間裕美子 明日は明日の風が吹く
みんなウェルカム@幻冬舎plusをおやすみすることにしました

佐久間裕美子氏は、上記のブログのなかで、つぎのように書いていました。

(略)先週、見城徹社長が、Twitter上で、幻冬舎からの出版が中止になった津原泰水さんの過去の作品の部数を「晒し」たということを知り、これまで感じたことのない恐怖感を感じました。出版社しか知りえない情報が、作家を攻撃し、恥をかかせるための武器として使われたのです。

自分が書いた文章を世の中に発表するーーそんな恐ろしい行為をありったけの勇気を振り絞ってやれるのは、後ろで背中を押さえていてくれる編集者がいるからです。そして、どうやら自分は、今まで出版社への信頼というものを、編集者との関係に置いてきたようでした。今回の件で、恐怖感を感じたのは、自分が置いてきた信頼というものが、書き手対出版社という関係性においてまったく脆いことがわかったから。そして、批判の声を上げた書き手が、出版社に守られるどころか、攻撃の対象になりうることがあると知ったときに、「みんなウェルカム」を幻冬舎プラスで続けていくことはできない、と思ったのでした。


まさに見城氏は「編集者失格」と言わねばならないでしょう。見城氏のふるまいは、まるで独裁国家の国営出版社の社長のようです。佐久間氏が感じたのも、それに連なる「恐怖感」だったのでしょう。

一方、花村萬月氏は、百田尚樹氏らが執拗に(!)攻撃する津原泰水氏の「粘着質な性格」について書いていました。仮にそうだとしても、個人的には付き合いたくないタイプだけど、しつこくて細かい性格は小説を書く上ではプラスになると書いていました。

津原氏の作品を読むと、小説家というのは、妄想狂で文才のある人のことだというのがよくわかるのでした。優れた小説は、往々にして世間的な常識とは対極にあるものです。世間様が眉をひそめるような“非常識”のなかに、ものごとの(人間存在の)真実が隠されているかもしれないのです。

たとえば、山本一郎氏が書いているように(めずらしくマトモなことを書いている)、「五色の舟」を読めば、津原氏が百田氏など足元にも及ばない才能の持ち主であることがわかるはずです。「五色の舟」は、夢野久作や小栗虫太郎を彷彿とするようなフリークな世界を描いた傑作で、私は、久しぶりに「蠱惑的」ということばを思い浮かべたのでした。

どんな人間かなんて関係ないのです。作品がすべてなのです。もしかしたら性格破綻者や犯罪者が書いた小説が100年後も読み継がれるような名作になるかもしれないのです。だからこそ編集者は常にフリーハンドでなければならないのです。もとより編集者には、そんな名作を発掘する使命と誇りもあるはずです。

しかし、こんなことを見城氏に言っても、所詮は馬の耳に念仏でしょう。見城氏もまた、歌を忘れたカナリアになり晩節を汚したと言えるのかも知れません。いや、権力や権威に接近することで勘違いしてみずから墓穴を掘った、と言った方が適切かもしれません。今の見城氏には、BLOGOSの記事にある「滑稽」ということばがいちばんふさわしいように思います。編集者としても、経営者としても、ただの頓馬と言うしかありません。
2019.05.21 Tue l 本・文芸 l top ▲
津原泰水氏の文庫本出版の中止をめぐって、幻冬舎社長・見城徹氏の次のようなツイートが物議を醸しています(現在は謝罪の上削除)。

津原泰水さんの幻冬舎での1冊目。僕は出版をちゅうちょしましたが担当者の熱い想いに負けてOKを出しました。初版5000部、実売1000部も行きませんでした。2冊目が今回の本で僕や営業局の反対を押し切ってまたもや担当者が頑張りました。実売1800でしたが、担当者の心意気に賭けて文庫化も決断しました。


このもの言いからは、作家や作品に対するリスペクトなど微塵も伺えません。まして、実売数を晒すなど編集者としてあり得ない話です。何様のつもりかと言いたくなります。「クズ編集者」(ビジネスジャーナル)「編集者失格」(久田将義氏)という批判は当然でしょう。

津原泰水氏によれば、『ヒッキーヒッキーシェイク』の文庫化は、「ゲラが出て、カバー画は9割がた上がり、解説も依頼して」いたにもかかわらず中止になったのだそうです。そして、担当編集者から、「『日本国紀』販売のモチベーションを下げている者の著作に営業部は協力できない」と一方的に「通達」されたのだとか。どうやら幻冬舎から出ている『日本国紀』を批判したことがお気に召さなかったようです。

一方、トラブルが表面化したことで、幻冬舎に対して、多くの作家や読者から批判が寄せられています。そして、朝日や毎日が記事にするまでになっています。

津田大介氏は次のようにツイートしていました。


ホントかなと思います。「多くの作家や読者」と書きましたが、実際は「一部の作家や読者」が正しいのではないか。「多くの」作家は沈黙を守る、と言ったら聞こえはいいですが、要するに見て見ぬふりをするだけでしょう。それは、新潮や文春のときも同じでした。

幻冬舎のイメージが悪くなったのは事実でしょうが、だからと言って、読者の不買や作家の執筆拒否・版権引き上げにまで事態が拡大するかと言えば、それはとても”叶わぬ夢”のように思います。

見城徹社長は、角川書店にいた頃から、五木寛之氏のエッセイに登場するなどやり手の編集者として有名でした。幻冬舎という社名も、たしか五木氏が命名したような記憶があります(今、ウキペディアで確認したら、やはり、五木氏が命名したと書いていました)。

一方で、「幇間」「爺殺し」というレッテルも常に付いてまわっていました。最近では、安倍総理や石原慎太郎氏の腰巾着として知られています。五木氏に取り入ったのも同じなのでしょう。

五木寛之氏は、作家としてデビューした際、質(純文学)より量のエンタテインメント(中間小説でも大衆文学でもなく通俗小説)の世界で勝負したいと”宣言”して、芸術至上主義的な純文学の世界にうんざりしていた読者から拍手喝采を浴びたのですが、今になればそれが両刃の剣であったことがよくわかるのでした。86歳になった五木氏にこんなことを求めるには酷かもしれませんが、かつての五木ファンのひとりとして、この問題に対する五木氏の見解を聞きたいものです。”製造者責任”もあるのではないでしょうか。

また、津原氏と見城氏のバトルに参戦した花村萬月氏が、「ボクは小説は最後しか読まない」という若かりし頃の見城氏の「放言」を暴露したことも波紋を広げています。「それは文字通り、小説のラストだけ目を通して、すべてを決めるということで、雑念が入らぬぶん、当たりを出せるということ──らしい」と。

このツイートに対して、見城氏はなんと訴訟をチラつかせて反論したのでした(のちにやはり謝罪して撤回)。こういった対応ひとつ見ても、「編集者失格」と言われても仕方ないでしょう。

今回の問題について、花村萬月氏は次のようにツイートしていました。


まったくその通りで、作家にとって作品がすべてなのです。優れた作品なら、どんな人間であるかなんて関係なく無条件に評価されるべきなのです。もちろん、優れた作品かどうかということと、売れたかどうかということは別問題です。見城社長や編集とネットワークビジネスを混同したあのエキセントリックな社員は、出版社としての自社の看板にみずから泥を塗ったと言えるでしょう。


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2019.05.19 Sun l 本・文芸 l top ▲
左派ポピュリズムのために


先日、朝日新聞デジタルに、政治学者の山本圭氏(立命館大学準教授)の非常に示唆に富んだ寄稿が掲載されていました。

朝日新聞デジタル
極右に対抗「左派ポピュリズム」広がる 政治家に存在感

山本氏は、次のように書いています。

もとよりポピュリズムに対しては、「大衆迎合主義」と(誤って)翻訳されることが多いせいか、本邦ではことのほかネガティブな印象が強い。これが喚起するイメージといえば、デマゴーグによる人気取り政策、あることないこと放言する民主主義の腐敗、おおかたそんなところだろう。

 とはいえ、元来ポピュリズムとは、既存の政党政治からこぼれ落ち、疎外されてきた人々を、ひとつの政治勢力としてまとめあげる、そのような政治手法を指す言葉である。そのかぎりで、ポピュリズムこそ真に民主主義的である、という見方も当然成り立つ。

 近年、欧州や米国ではポピュリズムのこうした伝統が回帰している。それが〈左派ポピュリズム〉と呼ばれるものだ。ギリシャの急進左翼進歩連合(シリザ)やスペインのポデモスといった政党をはじめ、英国労働党のコービン、「不服従のフランス」のメランション、米国のサンダース、さらに最近になると富裕層への課税を訴える民主党のオカシオコルテスといった政治家らが存在感を示している。


また、ブレイディみかこ氏も、かつてみずからのブログ「The Brady Blog」で、左派ポピュリズムについて、次のように書いていました。

Yahoo!ニュース
ポピュリズムとポピュラリズム:トランプとスペインのポデモスは似ているのか

「ポピュリズム」という言葉は、日本では「大衆迎合主義」と訳されたりして頭ごなしに悪いもののように言われがちだが、Oxford Learner’s Dictionariesのサイトに行くと、「庶民の意見や願いを代表することを標榜する政治のタイプ」とシンプルに書かれている。
(中略)
EU離脱、米大統領選の結果を受けて、新たな左派ポピュリズムの必要性を説いているのは英ガーディアン紙のオーウェン・ジョーンズだ。

「統計の数字を見れば低所得者がトランプ支持というのは間違い」という意見も出ているが、ジョーンズは年収3万ドル以下の最低所得者層に注目している。他の収入層では、2012年の大統領選と今回とでは、民主党、共和党ともに票数の増減パーセンテージは一桁台しか違わない。だが、年収3万ドル以下の最低所得層では、共和党が16%の票を伸ばしている。票数ではわずかにトランプ票がクリントン票に負けているものの、最低所得層では、前回は初の黒人大統領をこぞって支持した人々の多くが、今回はレイシスト的発言をするトランプに入れたのだ。英国でも、下層の街に暮らしていると、界隈の人々が(彼らなりの主義を曲げることなく)左から右に唐突にジャンプする感じは肌感覚でわかる。これを「何も考えていないバカたち」と左派は批判しがちだが、実はそう罵倒せざるを得ないのは、彼らのことがわからないという事実にムカつくからではないだろうか。


左派ポピュリズムについては、私もこのブログで何度もブレイディみかこ氏のことばを引用して書いてきました。大事なのは、右か左ではなく上か下かだ、と。

そして、ブレイディみかこ氏やオーウェン・ジョーンズやポデモスのパブロ・イグレシアスに影響を与えているのが、ベルギーの政治学者のシャンタル・ムフです。

山本圭氏が邦訳した彼女の新著『左派ポピュリズムのために』(明石書店)は、現代の社会運動を担う人々にとってバイブルになり得るような本だと思いました。私は、本を読むとき、受験勉強のなごりで、重要と思う箇所に赤線を引いて、そのページに付箋を貼る習慣があるのですが、『左派ポピュリズムのために』は文字通り赤線だらけ付箋だらけになりました。

でも、その多くは、このブログで再三くり返していることです。

どこを引用してもいいのですが、たとえば、中道化するなかで新自由主義という”共通の土俵”に上がってしまった「社会ー民主主義」勢力(=左派リベラル)のテイタラクについて、シャンタル・ムフは次のように書いています。

 多くの国において、新自由主義的な政策の導入に重要な役割を果たした社会ー民主主義政党は、ポピュリスト・モーメントの本質を掴みそこねており、この状況が表している困難に立ちむかうことができていない。彼らはポスト政治的な教義に囚われ、みずからの過ちをなかなか受入れようとせず、また、右派ポピュリスト政党がまとめあげた諸要求の多くが進歩的な回答を必要とする民主的なものであることもわかっていない。これらの要求の多くは新自由主義的なグローバル化の最大の敗者たちのものであり、新自由主義プロジェクトの内部にとどまるかぎり、満たされることはない。
 (略)右派ポピュリスト政党を「極右」や「ネオファシスト」に分類し、彼らの主張を教育のせいにすることは、中道左派勢力にとってとりわけ都合がよい。それは右派ポピュリスト政党の台頭に対する中道左派の責任を棚上げにしつつ、彼らを不適合者として、排除する簡単な方法だからである。「民主的討議」から「過激派」を追い出すための「道徳的」フロンティアをつくり上げることによって、「善良なる民主主義者たち」は、自分たちが「不合理な」情念の台頭を止めることができると信じているのである。


でも、それは「政治的には無力である」とシャンタル・ムフは書いていました。

私たちは、右派ポピュリズムに学ばなければならないのです。生産諸関係のなかに「政治的アイデンティティ」を求めるような「階級本質主義」(労働者本隊主義の幻想!)から離別し、左派ポピュリズムに依拠することをためらってはならないのです。既存の政治から見捨てられた人々のなかに、もうひとつの”政治”を発見しなければならないのです。シャンタル・ムフは、「その結果として、平等と社会正義の擁護に向けた共通の感情を動員することで、『人民』の構築、すなわち集合的意志の構築が生じるだろう。これにより、右派ポピュリズムが推し進める排外主義政策と闘うことができるようになる」のだと書いていましたが、まさにそこにこそコミュニズムの現代的意味があるのだと思います。


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「市民的価値意識」批判
2019.02.20 Wed l 本・文芸 l top ▲
週刊読書人のウェブサイトを見ていたら、次のような短歌が目に止まりました。

見送ると汽車の外(と)に立つをさな子の鬢の毛をふく市の春風

これは、歌人の太田水穂の若かりし頃の歌で、1898年(明治31年)の作だそうです。

週刊読書人の「現代短歌むしめがね」というコラムで、歌人の山田航氏が紹介していました。

週刊読書人ウェブ
現代短歌むしめがね

山田氏は、同コラムで次のように書いています。

太田水穂は1876(明治9年)に長野県東筑摩郡広丘村(現在の塩尻市)に生まれ、長野市にあった長野県師範学校(信州大学の前身の一つ)に進学した。この歌は師範学校を卒業して、現在の松本市に小学校訓導として赴任するために、長野を汽車で去った体験にもとづく。
(略)
遠くへと旅立つ自分と、汽車の外から見つめてくる恋人。恋人の鬢の毛が春風に揺れている。実にロマンティックな一首だ。


1898年と言えば、今から120年前です。いつの時代も恋愛は存在したのです。

私がこの歌に目が止まったのは理由がありました。もしかしたら、前にも書いているかもしれませんが、二十歳のときに見たある光景が今でも心の中に残っているからです。この歌によって、そのときの光景が目の前によみがえってきたのでした。

当時、私は、九州の別府にある国立病院に入院していました。別府は、私が高校時代をすごした街でした。実家は、別府からだと汽車とバスを乗り継いで3時間近くかかる熊本県との境にある山間の町にありました。

今と違って、私達の頃は高校を卒業すると、地元を離れ、関西や関東の大学に行くのが一般的でした。私も、東京の予備校に通っていたのですが、身体を壊して帰省し、入院したのでした。みんな都会の大学に行っているので、別府に戻っても、親しい同級生は誰一人残っていませんでした。

その日、私は、外泊許可をもらい、実家に帰るために別府駅から汽車に乗りました。

4人掛けのボックス席の前の席には、70歳をとうにすぎたような年老いた男性が座っていました。そして、外を見ると、同じ年恰好の女性がホームに立っていました。二人は黙ったまま、時折ガラス越しに目を合わせていました。

やがて発車を告げるベルがけたたましく鳴り響き、汽車がゆっくりと動き始めました。二人は手を挙げるでもなく、ただ目を合わせているだけです。汽車がホームを離れ、見送りにきた女性の姿が見えなくなりました。すると、目の前の男性は、背広のポケットからハンカチを取り出して目頭を拭きはじめたのでした。

老いた二人のしっとりとした別れ。昔の恋人が久しぶりに会いに来て、再び別れるシーンだったのではないか、と私は勝手に想像していました。

そのあと、男性は、何かに思いを馳せるように、ずっと窓の外の風景に目をやっていました。

ロマンティックというのは、たしかに古い感覚ですが、しかし、いつまで私達の胸を打つものがあります。
2018.10.10 Wed l 本・文芸 l top ▲
滑走路


先日、朝日新聞で紹介されていた萩原慎一郎の歌集『滑走路』(KADOKAWA)を読みました。

歌集については、下記のような歌を挙げて、非正規の生きづらさを指摘する声があります。

ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼を食べる

今日も雑務で明日も雑務だろうけど朝になったら出かけてゆくよ

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている

しかし、私は、やはり中高時代に遭遇したいじめが大きかったように思います。いじめは、そのあとも彼の心に暗い影を落とし、その後遺症に苦しむことになるのでした。多感な時期にいじめに遭うということは、どれほど残酷なものでしょうか。

以来、彼はずっと精神の不調を抱え苦しんでいたのです。歌を詠むようなナイーブな内面を持っているからこそ、よけいいじめが残酷なものになったことは容易に想像できます。

自死の誘惑に抗いながら、次のような歌を詠んでいたのです。

木琴のように会話が弾むとき「楽しいな」と率直に思う

靴ひもを結び直しているときに春の匂いが横を過ぎゆく

この二首は、私が歌集の中で好きな歌です。しかし、こういった日常をもっても、彼は死の誘惑に抗うことはできなかったのでした。

癒えることなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ

疲れていると手紙に書いてみたけれどぼくは死なずに生きる予定だ

消しゴムが丸くなるごと苦労してきっと優しくなってゆくのだ

一方で、このように自分を奮い立たせるような歌も詠んでいますが、しかし、(当然ながら)残酷な記憶を消し去ることはできなかったのです。

前回、職場で息子ほど歳の離れた若い社員から罵声を浴びせられた知人の話を書きましたが、作者が抱いていた生きる苦しみや哀しみは、私達とて無縁ではないのです。

彼は、よく自転車に乗って界隈を探索していたようで、自転車の歌もいくつかありました。

公園に若きふたりが寄り添っている すぐそばに自転車置いて

春の夜のぬくき夜風吹かれつつ自転車を漕ぐわれは独り身

寒空を走るランナーとすれ違いたるぼくは自転車を漕いでいるのだ

私は、これらの歌を読んだとき、ふと寺山修司の次のような歌を思い出しました。

きみのいる刑務所の塀に 自転車を横向きにしてすこし憩えり

しかし、昨年6月、第一歌集の『滑走路』を入稿し終えたあと、作者の萩原慎一郎氏は、みずから死を選んだのでした。32年の短い人生でした。

作者も「あとがき」で名前を挙げていますが、歌人の岡井隆氏に『人生の視える場所』という歌集があります。しかし、「人生の視える場所」に立っても、眼前に広がるのは、必ずしもきれいな、心休まる風景とは限らないのです。

巨いなる寂しさの尾を踏み伝ふ一歩一歩の爪さきあがり
(『人生の視える場所』)

こういった歌も、作者の心の奥底にあるものを氷解させることはできなかったのです。

「悲しみ」とただ一語にて表現できぬ感情を抱いているのだ

作者は、そう歌っていますが、私は「むごい」という言葉しか持てませんでした。
2018.10.08 Mon l 本・文芸 l top ▲
渡部直己氏のセクハラ問題は、とうとう新聞各紙が報道するまでに至っています。

最初に渡部氏のセクハラを取り上げたのは、ビジネス誌などを出版するプレジデント社の「プレジデントオンライン」で、既に関連記事も含めて3本の記事をアップしています。

PREDIDENT Online
早大名物教授「過度な求愛」セクハラ疑惑
早大セクハラ疑惑「現役女性教員」の告白
早大セクハラ疑惑"口止め教員"の怠慢授業

1984年に出た渡部氏の『現代口語狂室』(河出書房新社)のなかに、四方田犬彦氏のつぎのような発言がありました。

四方田 「女子大生と記号学には手を出すな」ってタブーがあるの知っている? 日本のアカデミズムにさ。
渡部 知らない(笑)
(われらこそ「制度」である)


今になれば、皮肉のように読めなくもありません。もしかしたら、当時から渡部氏の”性癖”が懸念されていたのかもしれません。

渡部氏のセクハラについて、周辺では「別に驚くことではない」という声が多いそうです。栗原裕一郎氏によれば、女性ライターの間では「超有名」だったそうです。女性記者の間で「超有名」だったどこかの国の財務官僚とよく似ています。

もっとも、1984年当時は、渡部氏もアカデミズムの住人ではありませんでした。高田馬場にあった日本ジャーナリスト専門学校(通称「ジャナ専」)の講師にすぎませんでした。ただ、今回のセクハラの発覚に対して、当時「ジャナ専」に通っていた人間たちからも(もう相当な年のはずですが)、「ざまあみろ」という声が上がっているようです。やはり、当時からそのような風評は流れていたのかもしれません。

プレジデント社との兼ね合いで言えば、『現代口語狂室』のなかで、渡部氏は、『プレジデント』誌の表紙について、つぎのような辛辣な文章を書いています。同誌の表紙は、当時は今と違って、写真と見まごうようなリアルな人物の顔が描かれていたのです。モデルは、もちろん、功成り名を遂げた財界人や歴史上の英雄でした。

(略)『プレジデント』という誌名からしてすでに厚顔に勝ち誇った雑誌の、比類なく扇情的な表紙を視つめることは不可能なのだが、実寸大で掲げてしまえばたちどころに首肯されうるように、中川恵司なる人物が毎号面妖のかぎりをつくして制作するこの表紙は、もはや雑誌の顔などというものではない。それはまさに、「プレジデント」たちのむきだしの下腹部と称する他ない、非凡なまでに醜悪な突起物として、書店の棚に、文字通り身ヲ立テ名ヲ遂ゲヤヨ励ミつつ、にわかに信じられぬほどの異彩を放っているのである。
(『プレジデント』あるいは勝者の愚鈍なる陽根)


まさか30数年後の意趣返しではないでしょうが、どこか因縁めいたものを感じてなりません。

渡部氏の父親は統幕会議議長という自衛隊の大幹部だったのですが、この文章を読むと、もしかしたらその成育過程で、渡部氏のなかに男根至上主義的な刷り込みがあったのかもしれないと思ったりもします。三つ子の魂百までというのは、文学を持ち出すまでもなく、人間存在の真実なのです。

渡部氏は、絓秀実氏との共著『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』(太田出版)で、自分は絓氏に感化されて「新左翼」になったというような、冗談ともつかないようなことを話していました。その後、絓氏の引きがあったのかどうか、めでたく近畿大学文学部教授としてアカデミズムの一員になることができたのです。さらに、それを足がかりに、早稲田大学教授の地位まで手に入れたのでした。

それにしても、とんだ「新左翼」がいたものです。”SEALDsラブ”の老人たちと同じような「新左翼」のなれの果てと言うべきかもしれません。(以後、墓場から掘り出した死語を使って「新左翼」風に‥‥)指導教官あるいは『早稲田文学』の実質的な「発行人」という特権的地位を笠に、人民(女子学生)をみずからの性的欲望のはけ口に利用するのは、マルクス・レーニン主義に悖る反革命行為と言うほかありません。ブルショア国家の公的年金がもらえる年になったからといって、これ幸いに辞職するなどという反階級的な敵前逃亡を断じて許してはならないのであります。人民の名において革命的鉄槌が下されなければなりません。

「おれの女になれ」なんて、どこかで聞いたような台詞です。エロオヤジ的、あまりにエロオヤジ的な台詞です。しかも、渡部氏は、プレジデントオンラインの取材に対して、つぎのように文学的レトリックを使って弁解しているのでした。

「(略)過度な愛着の証明をしたと思います。私はつい、その才能を感じると、目の前にいるのが学生であること忘れてしまう、ということだと思います」


田山花袋でもなったつもりか、と思わずツッコミを入れたくなりました。

「電通文学」というのは、渡部氏の秀逸な造語ですが、渡部氏自身が電通の向こうを張るセクハラオヤジだったのですから、これほどのアイロニーはないでしょう。もっとも、『早稲田文学』も、今や「電通文学」の牙城のようになっているのです。

被害者女性が相談に行ったら逆に口止めされた「教員」が誰なのか、『早稲田文学』の購読者や「王様のブランチ」の視聴者なら簡単に解ける問題でしょう。

今回のセクハラ問題であきからになったのは、渡部氏がいつの間にか文壇村の”小ボス”に鎮座ましまして、早稲田の現代文芸コース(カルチャーセンターかよ)や『早稲田文学』を根城に、文壇政治を司る”権力者”に成り下がっていたということです。若い頃、渡部氏の本を読んで、目からウロコが落ちる思いがした人間にとっては、反吐が出るような話です。

この問題については、私が知る限り、作家の津原泰水氏のツイッター上の発言がいちばん正鵠を射ているように思いました。

津原泰水 (@tsuharayasumi) | Twitter
https://twitter.com/tsuharayasumi








2018.06.29 Fri l 本・文芸 l top ▲
安倍晋三沈黙の仮面



森友問題における財務省の佐川宣寿元理財局長の証言もひどかったですが、今回の加計問題での柳瀬唯夫元首相秘書官の答弁も、それに輪をかけてひどいものでした。愛媛県知事が怒るのも当然でしょう。野党や国民はもっと怒るべきでしょう。「官僚いじめ」だと言われたからと言って、怯んでいる場合ではないのです。

昨年の“森友国会”の際、安倍晋三首相は、野党からの追及を受ける佐川宣寿理財局長(当時)に、「もっと強気で行け」とメモを渡したそうですが、木で鼻をくくったような(国会や国民をバカにしたような)彼らの答弁には、たしかに、安倍首相の個人的なキャラクターが影を落としているように見えなくもありません。今になれば、「強気で行け」というのが、「強気で嘘をつけ」という意味だったことがよくわかるのです。

必死に言い逃れようとする二人を見て、「(東大の法学部まで出ていながら)惨めなもんだな」と思いましたが、しかし、当人たちは、逆に心のなかで、安倍首相に向かって「やりましたっ!」とVサインを送っていたのかもしれません。文字通り、「ハイルヒトラー!」の気分だったのかもしれません。彼らにとって、安倍首相を忖度することは、官僚としてのレーゾンデートルと言ってもいいくらい大事なことなのかもしれないのです。一方で、東大出に対して学歴コンプレックスを抱いている(後述の野上忠興氏)安倍首相にとっては、東大法学部を出たエリート官僚をまるで飼い犬のようにかしずかせるのは、これ以上ない快感に違いありません。

元共同通信社の記者で、(旧)安倍派の番記者を務めた野上忠興氏の『安倍晋三 沈黙の仮面』(小学館)に、安倍晋三氏の乳母・久保ウメさんが語ったつぎのようなエピソードがあります。

 夏休みの最終日、兄弟の行動は対照的だった。兄は宿題が終わっていないと涙顔になった。だが、晋三は違った。
「『宿題みんな済んだね?』と聞くと、晋ちゃんは『うん、済んだ』と言う。寝たあとに確かめると、ノートは真っ白。それでも次の日は『行ってきま~す』と元気よく出ます。それが安倍晋三です。たいした度胸だった。(略)」
 ウメは「たいした度胸」と評したが、小学校時代の級友達に聞いて回っても、宿題を忘れたり遅刻をしたりして「またか」と先生から叱られたとき、安倍は「へこむ」ことはなかったという。


「愛に飢えた」少年時代ゆえか、平然と嘘をつくのは、子どもの頃からの”得意技”だったのです。

久保ウメさんは、安倍晋三氏が2歳5か月のときから岸・安倍両家に40年使え、「安倍家のすべてを知る生き字引」と呼ばれている女性です。彼女は、本のなかで、安倍晋三氏について、「強情で芯の強い子ども」「泣かない子」「自己主張・自我が人一倍強い」と評していました。

あるとき、父親(安倍晋太郎)の大事なものがなくなり、居合わせた兄弟が詰問された際、父親の「怒気を含んだ声」に気圧されて半べそをかいていた兄の傍らで、弟の晋三は、「真っ白なハイハイ人形みたいな顔をして、ほっぺをプーッと膨らませてパパをにらみ返し、パパとにらみ合いが続いた」そうです。そして、とうとう父親は、「晋三、お前はしぶとい!」と言って「白旗を揚げた」のだとか。

平然と嘘をつく、そして、しぶとい。なんだか今の安倍政権を象徴しているようなエピソードです。支持率も下がり追いつめられているようなイメージがありますが、安倍総理にその意識はあまりないのかもしれません。これからも、誰からなんと言われようと、嘘に嘘を重ねてしぶとく居座るのではないでしょうか。

ウメさんも、つぎのような示唆に富んだ言い方をしていました。

「私はパパとのケンカで最後まで屈しなかった姿が頭に残っているから、政治家になったあの子(晋三)が、自分のしたいことから逃げない、自分が思わないこと、駄目だと思ったことには一切妥協しない特性がいつ出るかと思っているの。ただね、何でも我を通すことがいいことにはならないでしょう。とことん突っ張る分、反動が出たときはそれだけ大きいことを覚悟しなくてはいけないのよ。(略)」


著者も「あとがき」で、同じようなことを書いていました(一部既出です)。

(略)安倍氏は「気が強くわがまま」(養育係の久保ウメ)で、「反対意見に瞬間的に反発するジコチュー(自己中心的)タイプ」(学友)だ。それが、父・晋太郎が懸念した「政治家として必要な情がない」一面につながっている。
 気にくわない場面や意見に出くわすことは誰にでもある。いちいち過剰反応しては神経がもたない。ちょっと頭を巡らせ、ちょっと感情を抑え、つまり臨機応変に知と徳を働かせて言動を工夫する。そうして「懐が深くなった」と印象づけるだけでも、ずいぶん政治家として熟した姿を示せるはずだ。でも長年取材してきた安倍親子において、父にあって子に足りないのは、今もってそこだと感じる。


安倍晋三氏は、能力はともかく気質においては、独裁者になる条件を充分備えている(いた?)と言っていいでしょう。


関連記事:
薄っぺらな夫婦 青木理『安倍三代』
『拉致被害者たちを見殺しにした安部晋三と冷血な面々』
『宰相A』
2018.05.12 Sat l 本・文芸 l top ▲
月山


森敦の「月山」(文春文庫『月山・鳥海山』所収)を読みました。

最初に「月山」を読んだのは、二十歳のときでした。私は、当時、九州の実家に蟄居していました。東京の予備校に通っていたのですが、持病が再発したため帰省して、高校時代をすごした別府の国立病院で入院生活を送ったあと、退院して実家に戻っていたのです。実家は、別府から70キロ以上離れた、熊本県に近い山間の町にありました。

入院したのは三度目でした。つまり、持病が再々発したのです。さすがに三度目となると深刻で、周りが慌てているのがよくわかりました。担当した先生は、「寿命の短い患者を引き受けたな」「若いのに可哀そうだな」と思ったそうです。実際に、最初の数か月はほとんど寝たきりでした。

しかし、若かったということもあって、一年間の長期入院になったものの、なんとか退院することができたのでした。当分は通院しなければならないので、実家にいるしかなかったのですが、そのあとどうするか、もう一度上京して受験するか、志半ばで宙ぶらりんな状態に置かれた私は、思案に暮れていました。同級生たちはみんな、都会の大学に行ってましたので、なんだかひとりぽつんと田舎に取り残されたような感じでした。

私は、毎日、実家の二階の部屋で本を読んですごしていました。月に一度、バスと電車を乗り継ぎ片道3時間以上かけて病院に行くのが、唯一の外出でした。今のようにネット通販もありませんでしたので、そのときにひと月分の本を買い込んできました。

そのなかに、芥川賞を取ったばかりの「月山」があったのです。

「月山」は不思議な小説でした。仕事もせずに文学を志して放浪する「わたし」が、山形の鶴岡の寺の紹介で、十王峠を越えた先の、月山の「山ふところ」の集落にある寺を訪ね、そこでひと冬をすごす話です。

寺には、寺男の「じさま」がひとりいるだけでした。「じさま」が作る大根が入った味噌汁が毎日の食事でした。しかも、大根は、趣向を凝らすためか、毎日扇や千本や賽の目などにかたちを変えて切られているのでした。

冬が近づいてくると、「わたし」は、寒さを凌ぐために、寝起きしていた二階の広間の奥に、物置で見つけた祈祷簿で蚊帳を作ります。

雪に閉ざされた山奥の寺で、祈祷簿で作った蚊帳のなかで冬をすごす主人公。当時の私は、その姿に自分を重ねたようなところがありました。文字通り、世間から隔絶され、人生を諦観したような感じがしたのです。

「わたしは」こう独白します。

こうしてここにいてみれば、わたしはいよいよこの世から忘れられ、どこに行きようもなく、ここに来たような気がせずにはいられなくなって来たのです。


それも、当時の私の心境と重なるものがありました。

「寺のじさま」は、暇があると、「暗い台所の煤けた電球の下で割り箸を割っている」のでした。その姿に、「わたし」はつぎのように自問します。

寺のじさま、、、もそうして割り箸を割ることがまさに祈りであり、その祈りはただいま、、に耐えるというだけの願いなのに、その祈りによってもなおいま、、すら耐えられるものがあるのでしょう。


また、鉢のなかに落ちたカメ虫が、底から縁に何度も這い上がっては落ち、落ちては這い上がる様を観察しながら、つぎのように思う場面も印象に残りました。

ああして飛んで行けるなら、なにも縁まで這い上がることはない。そのバカさ加減がたまらなくおかしくなったのですが、たとえ這い上がっても飛び立って行くところがないために、這い上がろうともしない自分を思って、わたしはなにか空恐ろしくなって来ました。


しかし、40年近く経って再び読み返すと、「月山」はまた違ったイメージがありました。今の私のなかに浮かんだのは、生と死のイメージです。

十王峠を越えて、寺のある集落の七五三掛(しめかけ)へ向かう途中、「死の象徴」である月山を眺めながら、「わたし」は、つぎのように思うのでした。

月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそ私たちにとってまさにある、、べき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみ、、、、めいたものを感じさせるためかもしれません。


そして、つぎのような冬の夕焼けの情景にも、死と浄土のイメージが呼び起こされる気がするのでした。

(略)渓越しの雪山は、夕焼けとともに徐々に遠のき、更に向こうの雪山の頂を赤黒く燃え立たせるのです。燃え立たせると、まるでその火を移すために動いたように、渓越しの雪山はもとのところに戻っているが、雪山とも思えぬほど黒ずんで暗くなっています。こうして、その夕焼けは雪の山々を動かしては戻しして、彼方へ彼方へと退いて行き、すべての雪の山々が黒ずんでしまった薄闇の中に、臥した牛さながらの月山がひとり燃え立っているのです。かすかに雪の雪崩れるらしい音がする。わたしは言いようのない寂寥にほとんど叫びださずにいられなくなりながら、どこかで唄われてでもいるように、あの念仏の御詠歌が思いだされて来ました。

    〽彼の岸に願いをかけて大網の
     〽曳く手に漏るる人はあるじな

 それにしても、なにものもとらえて漏らさぬ大網を曳く手とはなんなのか。それほど仏の慈悲が広大だというなら、広大なることによって慈悲ほど残忍な様相を帯びて来るものはないであろう。‥‥‥


年を取ると、否応なく死というものを考えざるを得ません。それは、上の文章で言えば、「言いようのない寂寥」です。断念した果てに現在いまがあるのだとしみじみ思い知らされます。でも、大悲は「倦きことなくして常に我が身を照らしたまう」(『往生要集』)のです。そう信じてただ手を合わせ祈るだけです。

このように「月山」は、年を取って読むと、若い頃とはまた違った景色が見えてくる小説です。それが帯にあるように、この小説が名作である所以でしょう。
2018.05.10 Thu l 本・文芸 l top ▲
ルポ川崎


磯部涼『ルポ川崎』(CYZO)を読んだ流れで、ヒップホップグループBAD HOPのドキュメンタリーをYouTubeで観ました。

YouTube
MADE IN KAWASAKI 工業地帯が生んだヒップホップクルー BAD HOP

もう20年以上前ですが、川崎の桜本にある病院にお見舞いに行ったことがありました。そのとき、ちょうどロビーで赤ちゃんを抱いた若い夫婦に遭遇しました。出産した妻が退院するので夫が迎えにきたみたいです。

ただ、二人はどう見てもまだ10代の少年少女でした。しかも、髪はアイパーを当て剃り込みを入れた、見るからにヤンキーといった感じでした。一緒に行った友人は、「ああいった光景はここらではめずらしくないよ」と言ってました。

お見舞いのあと、車を病院の駐車場に置いて、友人が「朝鮮部落」と呼ぶ桜本や池上町を歩きました。友人もまた在日朝鮮人で、実家は都外にあるのですが、桜本や、多摩川をはさんだ対岸の大田区に親戚がいると言ってました。親戚の多くは、もともと鉄くずなどの回収業や土建業をやっていたそうです。

大きな通りから一歩なかに入ると、粗末な造りの家が密集した一帯がありました。しかも、路上に車がずらりと停められているのです。なかには、廃車にされたまま打ち捨てられているのでしょう、原形をとどめないほどボロボロになった車もありました。友人は「みんな、違法駐車だよ」「車庫なんてないよ」と言ってました。

BAD HOPのドキュメンタリーを観ていたら、ふとそのときのことを思い出したのでした。

ドキュメンタリーのなかで、「いちばん好きなライムってありますか?」と質問されて、リーダーのYZERRが答えたのは、つぎのような「Stay」のライム(韻)です。

14でSmoke Weed
15で刺青
16で部屋住み


「部屋住み」というのは、ヤクザの事務所に住み込んで見習いになることです。

「Stay」のBarkのパートには、つぎのようなリリック(歌詞)があります。

オレの生まれた街 朝鮮人 ヤクザが多い
幼い少女がチャーリー 絶えぬレイプ、飛び降り
金のために子どもたちも売人か娼婦へ
生きるために子どもたち罪を犯す罪人かホームレス
こんなところで真面目なんて難しい
積み重なる空き巣に暴行、毎夜の悪さは普通だし
15の頃には数十人まとめて逮捕
それでも一度のことじゃないから反省ない態度
とって繰り返し 気づけば暗がり 切れないつながり黒いつながり
進路は極道かハスラー なるようになったお似合いのカップル
(『ルポ川崎』より転載)


「チャーリー」はコカイン、「ハスラー」はクスリの売人という意味のスラングです。

言うまでもなく、ヒップホップは、70年代にアメリカの黒人やヒスパニックなどマイノリティの社会で生まれたアンダーカルチャーで、人種差別や貧困や犯罪などが背景にあります。川崎の少年たちが、ヒップホップに惹かれていったのは当然でしょう。BAD HOPのラップが体現しているのは、彼らの実体験に基づいた不良文化です。そして、そこで歌われているのは、都市最深部の風景です。

桜本のコミュニティセンター「ふれあい館」の職員であり、みずからも在日コリアンである鈴木健は、“川崎的なるもの”という「ドツボの連鎖」から抜け出すためにも、「BAP HOPの存在は大きい」と言います。

「(略)だからこそ、成功してほしい。これまでも川崎からはラッパーは出てきていますけど、“川崎なるもの”にとらわれて挫折してしまった人もいる。BAD HOPが起こしたムーブメントが大きくなって、どこに行っても彼らにあこがれた子どもたちがラップをしているような現在、仮に彼らが挫折してしまったら、ダメージを受ける子どもたちは多いだろうから」
(同上)


小学生が「将来の夢」の欄に、「ヤクザ」と書くような環境。ヤクザになることが、「普通に育ったヤツが高校に行くのと同じ感覚」のような人生。ヤクザになれないヤツは、クスリの売人か職人になるしかない現実。「そこにもうひとつ、ラッパーという選択肢をつくれたかも」と彼らは言います。自分たちは、ラップによって変われたのだと。先の「Stay」のなかで、Barkもつぎのように歌っています。

この街抜け出すためなら欲望も殺すぜ
ガキの頃と変わらない仲間と目にするShinin
We Are BAD HOP ERA 今じゃドラッグより夢見る売人


また、下記の「Mobb Life」でも、成り上がることを夢見るほとばしるような心情が表現されていました。

掃き溜めからFly
この街抜け出し勝つ俺らが
まだまだ足りない
数えきれんほど手に札束
誰にも見れない
景色を拝みに行くここから
収まらないくらい
俺ら仲間達と稼ぐMoney


YouTube
BAD HOP / Mobb Life feat. YZERR, Benjazzy & T-Pablow (Official Video)

『ルポ川崎』では、川崎を標的にしたヘイト・デモに対してカウンター活動をおこなっているC.R.A.C.KAWASAKIなども取り上げられているのですが、著者は川崎の若者たちで交わされるつぎのようなジョークを紹介していました。

 川崎の若者たちと話していると、いわゆるエスニック・ジョークのようなものが盛んに飛び交う。
「お前の親は北朝鮮だろ?」
「ふざけんな、韓国だよ」
「北朝鮮っぽい顔しているんだけどな」
「どっちも同じようなもんだろ。なんなら日本人も」
 端で聞いているとぎょっとするが、そのポリティカル・コレクトネスなど知ったことではないというような遠慮のなさは、外国人市民との交流のなさから生まれる被害妄想めいたヘイトとは真逆のものである。


今、読んでいる桐野夏生の新作『路上のX』は渋谷が舞台ですが、やはり都市最深部の風景を描いた小説と言っていいでしょう。『ルポ川崎』のなかに、「自由は尊いが、同時に過酷だ」ということばがありましたが、けだし資本主義社会は自由だけど、同時に過酷なのです。都市最深部の風景が映し出しているのは、差別や貧困や犯罪と共棲する(せざるをえない)過酷な現実です。


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ふたつの世界
2018.03.10 Sat l 本・文芸 l top ▲
昨日、ネットで、つぎのようなツイッターのつぶやきを目にしました。



まったく同感です。このブログでも書いたことがありますが、私も、えげつないヘイト本が本屋の平台を占領するようになって、本屋に行くのが嫌になり、前より足が遠のいています。

昔は本屋に行くのが楽しみでした。ワクワクしました。本屋で知らない本に出会うのが楽しみだったのです。本屋には知性がありました。こんな本があるよと教えてくれたのです。でも、今はそんな出会いは望むべくもありません。本屋大賞なんて片腹痛いのです。

ヘイトな発言で有名な某作家は、講演料が200万円だそうです。前も書きましたが、元ニュースキャスターの”ネトウヨの女神”も、港区の数億円とも言われる白亜の豪邸に住んでいるそうです。彼らは愛国者なんかではないのです。ただのヘイトビジネスの商売人にすぎないのです。貧すれば鈍する書店は、そんなヘイトビジネスに便乗しておこぼれを頂戴しようとしているのでしょう。

出版文化に対する気概も見識もない書店なんて潰れればいいのだと思います。潰れてもざまあみろと思うだけです。

それは、テレビも同じです。最近は、100円ショップの商品を海外に持って行って、外国人に「ニッポン、凄い!」と言わせる番組がありますが、日本の「凄さ」はそんなところにしかないのかと思うと、なんだか情けなくなります。しかも、それらの商品の多くは中国製なのですから、もはや笑えない冗談です。



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Yahoo!ニュースの罪
夕暮れの横浜と「場末美」
2018.02.28 Wed l 本・文芸 l top ▲
ルポ ニッポン絶望工場


日本は公式には「移民労働者」を認めていません。しかし、下記の毎日新聞の記事によれば、2016年末の在留外国人数は238万2822人で、そのうち永住資格を持つ「永住者」が72万7111人もいるそうです。

在留資格のなかでは、「永住者」がもっとも多く、つぎに在日韓国・朝鮮人などの特別永住者(33万8950人)、留学生(27万7331人)、技能実習生(22万8588人)の順になっています。「永住者」は「1996年の約7万2000人から約10倍と大幅に増加」しているのです。

首都大学東京の丹野教授が言うように、「在留資格の更新が不要で職業制限もない『永住者』は実質的に移民」なのです。これが日本が「隠れ移民大国」と言われるゆえんです。

毎日新聞
在留外国人 最多238万人…永住者、20年で10倍

一方、「移民労働者」を認めない政府が、「国際貢献」や「技能移転」という建て前のもとに、外国人労働者の期限付きの受け入れをおこなっている「技能実習生制度」には、過重労働や低賃金など多くの問題が指摘されています。“現代の奴隷制度”だと指摘する人さえいるくらいです。

実習生の失踪も問題になっていますが、その主因になっているのが低賃金です。

実習制度を統括する公益財団法人「国際研修協力機構」(JITCO)が公表している2009年9月に「基本給が最も低い技能実習生」の平均給与額は、14.3万円です(なぜか2009年以降公表されてない)。しかし、そのなかからさまざまな名目で経費が引かれるため、実際に手にするのは10万円くらいだと言われています。

昨年度の大宅賞の候補になった『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α文庫)の著者・出井康博氏は、外国人労働者が置かれている実態について、「日本が国ぐるみで『ブラック企業』をやっているも同然だ」と書いていました。

どうして低賃金になるのかと言えば、背後にピンハネの構造が存在するからです。つまり、実習生たちが受け取るべき労働の対価の一部が、「会費」や「管理費」の名目で、監理団体や監理機関の「天下り役員たちの報酬に回されている」からです。

『ルポ ニッポン絶望工場』では、その「”ピンハネ”のピラミッド構造」について、具体的につぎのように書いていました。

 実習生の受け入れ先では、「監理団体」と呼ばれる斡旋団体を通すのが決まりだ。受け入れ先の企業は、監理団体に対して紹介料を支払うことになる。(略)一人につき約50万円の支払いが生じる。(略)
 実習制度には、民間の人材派遣会社などは関与できない。監理団体も表面上は「公的な機関」ということになっていて、実習生の斡旋だけを目的につくることは許されていない。しかし、そんな規制はまったく形骸化してしまっている。
 監理団体には一応、「協同組合」や「事業組合」といったもっともらしい名前がついている。だが、実際は人材派遣業者と何ら変わらない。しかも、実習生の斡旋を専業とする団体がほとんどだ。監理団体は業界に幅広い人脈を持つ関係者が設立するケースが多い。運営には、官僚に顔のきく元国会議員なども関わっている。
(略)
 受け入れ側の日本と同様、送り出し国でも公的な機関しか関われない決まりだ。しかし、それも建て前に過ぎず、実際には現地の人材派遣会社が送り出しを担っている。政府や自治体の関係者が送り出し機関を設立し、仲介料を収入源にしていることもよくある。
 送り出し機関にとっても、実習生は”金ヅル”なのである。一人でも多く日本へと送り出せば、毎月入っている「管理費」も増える。だが、実習生が失踪すれば管理費も途絶えてしまう。そこで失踪を防ごうと、実習生から「保証金」と称して大金を預かり、3年間の仕事を終えるまで「身代金」にしているような機関もある。
 一方、日本の監理団体は、実習生が仕事を始めると、受けれ先から「管理費」を毎月徴収する。送り出し機関と山分けするためのものだ。金額は団体によって差があるが、月5万円前後が相場である。だからといって、監理団体が実習生を「管理」してくれるわけではない。
 受け入れ先は、監理団体に年10万円程度の「組合費」も支払わなくてはならない。あの手この手で、監理団体が受け入れ先からカネを取っているわけだ。

 
こうしたピンハネ構造には官僚機構も加わっています。「国際研修協力機構」(JITCO)は、法務・外務・厚生労働・経済産業・国土交通の5つの官庁が所轄し、役員には各官庁のOBが天下りしています。しかも、JITCOは、監理団体や受け入れ先から年13億円の会費収入を得ているのです。

 受け入れ企業の上には監理団体と送り出し機関があって、さらに制度を統括するJITCOが存在する。このピラミッド構造を通じ、実習生の受け入れが一部の業界関係者と官僚機構の収入源となっている。そして陰では、官僚や政治家たちが利権を貪っているわけだ。その結果、実習生の賃金は不当に抑えられてしまう。


しかし、話はこれだけにとどまりません。実習制度の問題点が指摘されると、その「改善」と制度の拡充を目的に、あらたな法律(技能実習適正化法)が作られたのでした。そして、同法の成立に伴い、今年1月、JITCOとは別に、厚労省と経産省によって外国人技能実習機構(OTIT)という監理機関が設立されたのでした。しかし、OTITも受け入れ先企業や監理団体からの「会費」を収入源としており、またひとつピンハネ先と天下り先が増えたと言っても言いすぎではないでしょう。「転んでもタダでは起きない」如何にも官僚らしいやり方ですが、出井康博氏もあたらしい監理機関の設立について、「官僚利権」の「焼け太り」だと批判していました。

そのOTITのサイトに、先日、つぎのような「重要なお知らせ」が掲載されていました。

外国人技能実習機構(OTIT)
送出機関との不適切な関係についての注意喚起

でも、これがみずからを棚にあげたきれい事にすぎないことは誰が見てもあきらかでしょう。諸悪の根源は、国が主導する「”ピンハネ”のピラミッド構造」にあるのです。

しかし、“現代の奴隷制度”は、実習制度だけではありません。技能実習生の”悲惨な実態”を取り上げる新聞社に対しても、出井氏は批判の矛先を向けています。新聞社も決して他人事ではないのです。

今や都市部の新聞配達は外国人(特にベトナム人)留学生なしでは成り立たないと言われています。彼らは、留学ビザで来日していますので、就労は「週28時間以内」に制限されています。しかし、彼らの目的は勉学ではなく就労(出稼ぎ)です。日本語学校のなかには、手数料を取ってアルバイトを斡旋しているところもあるそうです。

人手不足に悩む新聞販売店は、(なにがあっても泣き寝入りするしかない)彼らの”弱み”に付け込み、「週28時間以内」の制限はおろか、法定賃金や法定休日を無視した違法就労を強いているのです。出井氏は、「外国人労働者で今、最もひどい状況に置かれているのは実習生ではなく、留学生」で、その典型が「新聞配達の現場」であると書いていました。

 朝日新聞本社社員の平均年収は約1237万円(2015年3月末)にも達する。そんな高給も販売所、そして配達現場で違法就労を強いられている外国人たちのおかげなのである。


まったくどこに正義や良心があるんだと言いたくなります。テレビやネットでは、相変わらず「ニッポン、凄い!」の自演乙が満開ですが、(大手企業の検査データ改ざんなどもそうですが)どこが「凄い!」のだろうと思ってしまいます。ホントに日本は世界の人々があこがれる「凄い!」国なのか。出井氏もつぎのように書いていました。

 シリア内戦で難民が欧州に押し寄せた際、日本も彼らを受け入れるべきだという声が出た。確かに日本は、欧米の先進国と比べて難民の受け入れ数は少ない。だが、難民にとっては日本は魅力的な国なのだろうか。事実、400万人にも達したシリア難民のうち、日本への亡命を希望した人はわずか60人程度と見られる。命がけで国を逃れたシリア人にとってすら、日本は「住みたい国」ではないのである。
 今、日本でも移民の受け入れをめぐっての議論が始まっている。だが、私から見れば、受入れ賛成派、そして反対派にも大きな勘違いがある。それは、「国を開けば、いくらでも外国人がやってくる」という前提で議論を進めていることだ。日本が「経済大国」と呼ばれ、世界から羨望の眼差しを注がれた時代は今や昔なのである。にもかかわらず日本人は、昔ながらの「上から目線」が抜けない。


外国人労働者の主流は、中国人や日系ブラジル人からベトナム人やネパール人に変わりつつあるそうです。中国人やブラジル人が少なくなっているのは、母国が経済発展して、もはや日本でお金を稼ぐ必要がなくなったからです。それは裏を返せば、出井氏が書いているように、日本が彼らに「見捨てられた」と言えなくもないのです。彼らにとって、日本はもはやお金を稼ぐ国ではなくなったのです。その魅力も必要性もなくなったのです。もちろん、そのうち、ベトナム人やネパール人からも「見捨てられる」ときがくるでしょう。

国家を食い物にすることしか能のない政治家や官僚たち。自分たちが坂道を下っているという自覚さえない国民。そこには、移民受け入れ是か非か以前の問題があるように思えてなりません。「ニッポン、凄い!」と自演乙しているのも、なんだか滑稽にすら思えてくるのです。


関連記事:
上野千鶴子氏の発言
2017.12.20 Wed l 本・文芸 l top ▲
誰がアパレルを殺すのか


「衣料品不況」と言われるほど、衣料品が売れてないのだそうです。

『誰がアパレルを殺すのか』(杉原淳一/染原睦美・日経BP社)によれば、「1991年を100とした場合の購入単価指数は、2014年度には60程度まで落ち込んでいる」のだとか。また、「総務省の家計調査によると、1世帯当たりの『被服・履物』への年間支出額は2000年と比べて3割以上、減少した」そうです。

本書では、その要因として、つぎのような”内輪の論理”=「負のサプライチェーン」を上げていました。

 中国で大量に作り、スケールメリットによって単価を下げる。代わりに大量の商品を百貨店や駅ビル、SCやアウトレットモールなど、様々な場所に供給することで何とか商売を成り立たせる。需要に関係なく、単価を下げるためだけに大量生産し、売り場に商品をばらまくビジネスモデルは、極めて非合理的だが、麻薬のように、一度手を染めると簡単にはやめられないものだった。ムダを承知で大量の商品を供給しさえすれば、目先の売り上げが作れるからだ。


その結果、ブランド名が違うだけで、似たようなデザインの似たような商品が店頭にあふれるようになったのです。ブランド名も、デパートなどとの取引上の都合のために、メーカーが空手形のように節操もなく生み出したものだとか。

しかし、私は、衣料品が売れなくなったのは、そういった業界の怠慢だけにあるのではないように思います。“内輪の論理”も、二義的な要因にすぎないように思います。もっと本質的な要因があるのではないか。デフレで服の原価を消費者が知ってしまったからなどというのも、表層的な要因のようにしか思えません。

私は、本書のなかでは、「メチャカリ」を運営するストライプインターナショナルの石川康晴社長の「アパレル不況の要因の一つは、洋服が生む高揚感が減っていることにある」ということばに、アパレル不況の本質が示されているように思いました。

既出ですが、吉本隆明は、埴谷雄高との間で交わされた「コムデギャルソン論争」のなかで、『アンアン』を読み、ブランドの服を着ることにあこがれる《先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち》が招来しているものは、「理念神話の解体」であり「意識と生活の視えざる革命の進行」である、とブランドの服にあこがれる若い女性たちを肯定的にとらえたのですが、あれから30年が経ち、今の若者たちは、もはやブランドの服を着ることにさえ高揚感を持てなくなったということなのかもしれません。

本書で紹介されていた「アパレル産業の未来」なるものも、とても「未来」があるようには思えませんでした。アパレル業界お得意の「ネット通販」がありきたりな発想にすぎないように、手作りの「別注商品」も、ユーズド商品を扱う「シェアリングエコノミー」も、私には気休めにしか思えませんでした。

モードの時代は終わったのです。資本主義は常に過剰生産恐慌の危機を内包しており、そのためにさまざまなマジックを使って購買意欲を煽るのですが、アパレルの世界ではそのマジックが効かなくなったということなのでしょう。中野香織氏が言う「倫理の物語」の消費もその表れでしょう。

要するに、おしゃれをする”意味”がなくなったのです。おしゃれをすることが”意味”のあることではなくなったのです。それは、街を歩けば一目瞭然でしょう。おしゃれをして街を闊歩する高揚感なんて、もはやどこにもないのです。

「アパレルを殺す」のは、業界の”内輪の論理”などではなく、時代の流れと言うべきでしょう。コモディティ化もそうですが、アパレルという文化的な最先端の商品に(最先端の商品であるからこそ)、先進資本主義の”宿阿”が端的に表れているということではないでしょうか。


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2017.11.14 Tue l 本・文芸 l top ▲
遠藤賢司が亡くなったというニュースもあって、久しぶりにYouTubeで高田渡の「夕暮れ」を聴きました。

YouTube
夕暮れ / 高田渡

年を取ると、「夕暮れ」の歌詞がよけい心に染み入ります。

「夕暮れ」は、黒田三郎の詩に高田渡がメロディを付けたものです(ただ、何ケ所か原詩に手が加えられており、原詩より諦念のイメージが強くなっています)。

原詩はつぎのようなものです。

「夕暮れ」 黒田三郎

夕暮れの街で
僕は見る
自分の場所からはみ出てしまった
多くのひとびとを

夕暮れのビヤホールで
彼はひとり
一杯のジョッキをまえに
斜めに座る

彼の目が
この世の誰とも交わらない
彼は自分の場所をえらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間

夕暮れのパチンコ屋で
彼はひとり
流行歌と騒音の中で
半身になって立つ

彼の目が
鉄のタマだけ見ておればよい
ひとつの場所を彼はえらぶ
そうやてったかだか三十分か一時間

人生の夕暮れが
その日の夕暮れと
かさなる
ほんのひととき

自分の場所からはみ出てしまった
ひとびとが
そこでようやく
彼の場所を見つけ出す


「その目がこの世の誰とも交わらない」(歌詞)「自分の場所」。孤立無援の思想ではないですが、そういう場所を選んで生きてきた人も多いでしょう。

親も亡くなり帰る場所もなくなった今、仕事帰りの人々が行き交う夕暮れの街をひとりで歩いていると、「遠くに来たもんだな」としみじみと思うことがあります。そのとき自分のなかに溢れてくるのは、慰安と諦念がない交った気持です。

私は、田舎に墓参りに帰るたびに、もうこれを最後にしようと思うのですが、戻って日が経つとまた帰りたいと思うのでした。田舎に帰っても、誰にも会わずに戻って来ようといつも思うのですが、ついつい昔の知り合いを訪ねて行く自分がいます。そして、あとで自己嫌悪に陥るのでした。

駅前の路地の奥にある定食屋で、背を丸め安飯をかきこんでいる老いた自分の姿を想像すると、さすがに気が滅入ってきますが、でも、誰も知らない土地で、孤独に生き、孤独に死ぬ、というのが理想だったはずです。

容赦なく老いはやってきます。どうやって老いるのか。「その目がこの世の誰とも交わらない」「自分の場所」で、どうやって黄昏を迎えるかです。
2017.10.25 Wed l 本・文芸 l top ▲
夜の谷を行く


桐野夏生の最新作『夜の谷を行く』(文藝春秋社)を読みました。

連合赤軍事件から40年。

主人公の西田啓子は、当時24歳で、「都内の山の手にある私立小学校の教師を一年務めてから、革命左派の活動に入ったという、異色の経歴」のメンバーです。山岳ベースに入った「革命左派の兵士の中では、最も活動歴が浅く、無名の存在」でした。

米軍基地に侵入しダイナマイトを仕掛けた勇気を買われ、永田洋子に可愛がられていました。しかし、山岳ベースでは、「総括」という名のリンチ殺人がエスカレートして凄惨を極め、兵士たちは疲弊していました。そんななかで、彼女は同じ下級兵士であった君塚佐紀子と二人でベースを脱走し、麓のバス停で警察に逮捕されるのでした。

他のメンバーと決別して「分離公判」を選択した彼女は、5年9カ月服役したあと、中央線の駅前のビルで学習塾を経営していましたが、それも5年前に閉じ、63歳になる今は、昭和の面影が残る古いアパートで、貯金と年金でつつましやかに暮らしています。「とにかく目立たないように静かに生きる」と決意して今日まで生きてきたのでした。逮捕によって親類とは疎遠になり、現在、行き来しているのは、実の妹とその娘だけでした。

しかし、2011年2月、そんな日常をうち破るように、永田洋子が獄死したというニュースが流れます。西田啓子は、永田の死に対して、「永田が二月のこの時期に亡くなるとは、死んだ同志が呼んだとしか思えない」と衝撃を受けます。

啓子は、あの年の二月に何があったか、よく覚えていた。四日には、吉野雅邦の子を妊娠していた金子みちよが亡くなった。大雪の日だった。そしてその日に、永田と森が上京したのだ。六日、自分が脱走する。


 あれは、金子みちよが亡くなった夜のことだった。雪が積もって凍り、キラキラと月に光る稜線を眺め上げていると、横に君塚佐紀子が立った。
 保育士だった佐紀子も、活動歴の浅さや地味な性格では、啓子と同程度だった。二人とも、ベースでは、森や永田、坂口ら指導部の連中など遠くて見えないような末席に座らせられていた。個室に炬燵、暖かな布団で寝られるのは指導部だけで、下級兵士は、板敷きに寝袋で雑魚寝である。
「凍えるね」
 啓子が呟くと、佐紀子が「うん」と頷いて啓子の方を見遣った。目が合った。目には何の色もなく、互いに互いの虚ろを確認しただけだった。
 その日、永田と森が資金調達に山を下りたのを契機に、二人とも何も言わずに荷物を纏めた。


永田洋子の死と前後して、昔のメンバーから電話がかかってきます。そして、かつて同志として結婚していた元夫とも再会することになります。元夫は、出所後、社会の底辺で生きて、今はアパートを追い出されホームレス寸前の生活をしていました。新宿で待ち合わせ、中村屋でカレーライスを食べているとき、突然、激しい揺れに襲われます。東日本大震災が発生したのでした。そして、啓子の生活も封印していた過去によって、激しく揺さぶられることになるのでした。

小説だから仕方ないでしょうが、連合赤軍事件については、薄っぺらな捉え方しかなく、興ざめする部分はあります。もっとも、当時のメンバーたちにしても、あるいはその周辺にいた人間たちにしても、事件について、真実をあきらかにし、ホントに総括しているとは言い難いのです。現実も小説と同じなのです。

啓子が、君塚佐紀子と再会したとき、つぎのように呟くシーンがあります。君塚佐紀子は、出所後、親兄弟と縁を切り、名前も変えて、今は神奈川県の三浦半島の農家に嫁いでいるのでした。

「(略)永田も坂口もみんな、死んだ森のせいにしている。でも、あたしたちだって、永田と森のせいにしているじゃない」


クアラルンプール事件での釈放要求を断り、みずから死刑囚としての道を選んだ坂口弘は、もっとも誠実に事件と向き合っているイメージがありますが、しかし、彼の著書を読むと、やはり「死んだ森のせいにしている」ような気がしてなりません。あさま山荘の銃撃戦には、リンチ殺人に対する贖罪意識があった、彼らなりの「総括」だったという見方がありますが、ホントにそうだったのか。

もとより私たちが知りたいのは、つぎのような場面における個的な感情です。そこにあるむごたらしいほどの哀切な思いです。そこからしか連赤事件を総括することはできないのではないか。私が、この小説でいちばんリアリティを覚えたのも、この場面でした。

「西田さん」
もう一度、金子がはっきりと呼んだ。
啓子は外の様子を窺ってから、金子の横に行って、顔を覗き込んだ。
「どうしたの」
金子は腫れ上がった目を開けて、じっと啓子を見上げた。「反抗的な目をしている。反省していない」と森や永田を怒らせた眼差しだった。
「こんな目に遭っても赤ん坊が動いているのよ。凄いね」
金子は小さな声で呟くように言った。笑ったようだったが、顔が腫れていて、表情はよくわからなかった。
啓子は胸がいっぱいになり、励まそうとした。
「頑張らなきゃ駄目よ」
少し経ってから、金子が聞いた。
「頑張ってどうするの?」
「赤ちゃん、産むんでしょう」
金子が微かな溜息を吐く。
「そんな体力は残ってないかもしれない」
「でも、頑張りなさいよ」
「ねえ、頼みがあるんだけど」
金子が低い声で囁いた。
「何?」
多分、金子の頼みを叶えることはできないだろう、と啓子は思いながら、聞き返した。
「子供だけでも助けて。西田さんも妊娠しているからわかるでしょう。この子を助けて、革命戦士にして」
「わかった」
啓子はそう言って、素早く金子のもとを離れた。テントの外に足音がしたからだ。


もちろん、『夜の谷を行く』はエンターテインメント小説ですので、最後に”どんでん返し”のサービスが待っているのですが、その“どんでん返し“もこの場面と対比すると、蛇足のように思えました。


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2017.05.16 Tue l 本・文芸 l top ▲
木嶋佳苗手記


『週刊新潮』(4月20日号)に掲載された木嶋佳苗被告の手記を読みました。

4月14日、最高裁第2小法廷は、木嶋被告の上告を棄却し、死刑が確定しましたが、手記は判決前に書かれたものです。

木嶋被告は無実を訴えていますが、一方で上告破棄を「覚悟」していたかのように、手記のなかで、死刑の「早期執行の請願」を行うことをあきらかにしていました。

 生みの母が私の生命を否定している以上、確定後に私は法相に対し、早期執行の請願をします。これこそ「ある決意」に他なりません。通常、全面否認事件での女子の執行は優先順位が極めて低いものですが、本人からの請願は何より強い“キラーカード”になる。
 まったくもって自殺願望ではなく、生きてゆく自信がない、それだけです。


木嶋被告は、実母との確執によって、「生きていく自信」がなくなったと書いています。以前、北原みのり氏が『木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』で、木嶋被告は幼い頃から実母との葛藤を抱えていたと書いていましたが、木嶋被告は、ブログで、北原氏を「『毒婦』ライター」と呼び、つぎのように批判していました。

「毒婦」ライター。彼女が私に関して語ることの7割は、事実じゃありません。3割は事実かって?それは、NHKのニュースで報道されるレベルのこと。彼女の取材能力は限りなくゼロに近いので、ルポルタージュを書けるライターじゃないですよ。

木嶋佳苗の拘置所日記
心がほっこりするイイ話


ところが、ここに至って木嶋被告は、実母との間にかなり深刻な確執があったことを認めているのです。それどころか、実父の死は、事故ではなく、夫婦関係が原因による自殺だったことをあきらかにしているのでした。もしかしたら図星だったから、あのように北原氏に対してヒステリックに反発したのかもしれません。

上記の引用文の前段にそのことが書かれています。

 私の父は妻である母に心を蝕まれた結果、還暦で自死を選びました。私が30歳のときです。4人の子ども達に残された遺言状を見るまで父の懊悩や2人の不仲など知る由もなかったし、限界まで追い詰められいたことに気付かなかった4人は遺骸の前で慟哭するほかなかった。母は父の親族から葬儀の喪主になることを許されなかったほどです。


木嶋佳苗被告が、父親の墓を実家のある北海道の別海町ではなく、わざわざ浅草の寺に造った理由も、これで納得がいきました。

このように実母との確執は、今にはじまったわけではないのです。昔からあったのです。私も以前、彼女の”売春生活”は、母親のようになりたくないという「不機嫌な娘」の意趣返しという側面もあったのではないかと書きましたが、まったく的外れではなかったのです。

ただ、それがどうして、早期の執行を求める理由になるのか。今更の感はぬぐえません。「自殺願望ではなく、生きてゆく自信がない」からという弱気な発言も、唐突な感じがしてなりません。まだ、「木嶋佳苗劇場」(木嶋被告の自己韜晦)は、つづいているような気がしてならないのです。彼女の心の奥底にあるものは、あきらかになってないように思えてならないのです。


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2017.04.17 Mon l 本・文芸 l top ▲
韓国の慰安婦(少女)像に対する、筒井康隆氏のつぎのようなツイート(既に削除)が批判に晒されています。

筒井康隆ツイート

元になった「偽文士目碌」の文章は、以下のとおりです。

偽文士目碌
http://shokenro.jp/00001452

新聞記事によれば、筒井氏は、批判に対して、「侮辱するつもりはなかった」「“炎上”を狙ったもので、冗談だ」と弁解しているそうです。

毎日新聞
筒井康隆氏 ブログで少女像への性的侮辱促す 韓国で反発広がる

筒井氏は、日本を代表する(と言ってもいいような)著名な作家です。そこらにいる「バカッター」とは違うのです。炎上狙いだなんて、あまりにもお粗末と言うしかありません。しかも、筒井氏は82才の高齢です。82才のじいさんがツイッターで炎上を狙ったなんて、「大丈夫か」と言いたくなろうというものです。

筒井康隆氏は、かつて社会や日常に潜在するタブーに挑む作家として、平岡正明らによってヒーローのようにもてはやされていた時期がありました。私が最初に筒井康隆氏の作品を読んだのは、『大いなる助走』や『農協月へ行く』だったと思いますが、メタフィクション的手法を用いたブラックユーモアが筒井作品のひとつの“売り”であったのはたしかでしょう。

『噂の真相』に連載していたコラムをまとめた『笑犬樓よりの眺望』や平岡正明の『筒井康隆はこう読め』などを今も持っていたはずなので、もう一度読み返したいと思い、本のなかを探したのですが、どうしても見つけることができませんでした。

唯一見つかったのが、1985年11月1日発行の『同時代批評』という季刊誌に載っていたインタビュー記事でした。それは、当時、巷間を騒わせていた“ロス疑惑“を特集したなかで、同誌を編集していた岡庭昇氏のインタビューに答えたものです。筒井氏は、そのインタビューで、「窓の外の戦争」というみずからの戯曲に関連して、「日本人の特性」をつぎのように批判していました。

(引用者注:「窓の外の戦争」の)戦争責任を追及するというのは、うわべのテーマであって、実際は、自分と関係のあることでも、あまり関係なさそうに客観的に見て、自分だけ逃れていこうとする。そういう日本人の特性がイヤだったんです。まあ、大きな声じゃ言えないけど、戦争に負けといて、今、日本人が一番うまいことをしている。それを別に恥ずかしいこととも思わないで、外国へ出かけていっては、やっぱり嫌われて戻ってきて、あるいは自分の国にも原因のある他国の災害とか戦争とか、そういったものをまったく関係のない、無関係の現象という目で見て、騒いで、無関係と思うからこそ騒げるわけです。(略)そもそもすべてのことを自分のこととして見ることができない特性というのが日本人にはあるんじゃないかと思うんですね。それを追及したかったんです。
(『同時代批評14』・星雲社)


この30年前の発言と「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」という発言がどうつながるのか。慰安婦と(筒井氏の世代にはなじみ深い)キーセンツアーを結び付けた皮肉なのかと思ったりもしますが、さすがにそれは牽強付会と言うべきでしょう。

「先生と言われるほど馬鹿でなし」という川柳がありますが、今や作家センセイは世間知らずの代名詞のようになっています。いちばん世間を知らなければならないはずの作家が、いちばん世間知らずになっているのです。にもかかわらず、彼らのトンチンカンぶりが、逆に“作家らしい本音”みたいに扱われるのです。それは、政治に対しても同様で、政治オンチな発言をしても、大衆(庶民)の心情を代弁しているみたいに、むしろ好意的に受け止められることさえあるのです。

でも、炎上狙いという点では、筒井康隆氏のツイートは、コンビニの冷凍ケースのなかに横になったり、股間をツンツンした指でコンビニの棚の商品をツンツンしたり、チェーンソーをもってクロネコヤマトを脅したりした、あの「バカッター」たちとほとんど変わらないレベルのものです。

『大いなる助走』も、『農協月に行く』も、断筆宣言も、ツイッターがない時代だったから見えなかっただけで、実際は今回のツイートと同じような底の浅い風刺や皮肉でしかなく、大西巨人が言う「俗情との結託」にすぎなかったのかもしれません。私も筒井氏のツイートに対しては、「おぞましさ」というより俗情におもねる「あざとさ」のようなものしか感じませんでした。

あらためて筒井康隆ってなんだったんだと思えてなりません。彼の作品をありがたがって読んでいた読者たちこそ好い面の皮でしょう。
2017.04.12 Wed l 本・文芸 l top ▲
あんぽん 孫正義伝


著者の佐野眞一氏は、ご存知のとおり、『週刊朝日』に連載した「ハシシタ 奴の本性」で批判を浴び、責任をとってペンを置いたのですが、この『あんぽん 孫正義伝』を読み返すと、あらためてこの本がすぐれたルポルタージュであることを痛感させられるのでした。ベストセラーになったのもよくわかります。

著者は、父親の正憲氏に焦点を当てることで、孫正義氏を典型的な“在日の物語”を背負った人物として描いているのでした。日本国籍を取得するに際して、それまで名乗っていた通名の「安本」ではなく、本名の「孫」を名乗ることを決心し、日本名としての前例がないことを理由に「孫」を認めない法務当局と何度も折衝の上、「孫」という朝鮮名での日本国籍取得を実現した孫正義氏の“こだわり”が依拠するのも、一家の“在日の歴史”です。孫氏は、日本国籍を取得するに際して、あらためて自分のルーツが朝鮮半島にあることを宣言したのです。

私がこの本でいちばん印象に残ったのは、功成り名を遂げた孫正義氏が鳥栖の駅前にふらりとやってきて、かつて自分が住んでいた場所を感慨深げに眺めていたという、つぎのシーンです。(文中の引用は、すべて『あんぽん』より)

 孫正義の一家がかつて住んでいた場所には、現在、ファミリーレストランが建っている。その周辺で聞き込みを続けていると、数年前にこのあたりでばったり孫正義に会ったというタバコ屋の主人に遭遇した。
 そのタバコ屋の主人によれば、鳥栖駅前で孫に会ったのは、ダイエーホークスが親会社ダイエーの経営難から売却され、球団オーナーがソフトバンクホークスに変わった年だったという。ということは二〇〇五年のことである。

「店の前をどこか見た人が通り過ぎたんですよ。誰やったかなあ……としばらく考えて、ようやく孫正義さんだと気がついた。結婚式場のあたりをぼけーっと眺めていた孫さんに駆け寄って声をかけると、『ああ、おじさん』って、私のことを覚えてくれていたんです。『懐かしいなあ、僕の家、どこやったかね』と言うので、ファミリーレストランの付近を指差して、このあたりだと教えてあげました。
 しばらく感慨深げにそのレストランを眺めていましたね。地味なジャンパーにスラックスという、普通の恰好をしていましたね。近所のおじさんという感じでした。たったそれだけのことですが、孫さんがひとりでふらっと鳥栖に寄ってくれたのは嬉しかったですね」


そこは、最盛期に数十戸のバラック小屋が軒を連ね、三百人くらいの朝鮮人が身を寄せ合って暮らしていた「朝鮮部落」でした。朝鮮人たちは、軒先で豚を飼ったり、密造酒を作ったりして、それを生活の糧にしていたのです。

当時の暮らしについて、「朝鮮部落」に住んでいた元住民は、つぎのように話していました。

「狭い豚小屋にぎゅうぎゅう詰め込まれて、残飯ばかり食わされ、糞も小便も垂れ流しです。足が腐った豚もいた。しかも、その場所で豚を締めるんです。解体して肉やホルモンをとる。食べる部分以外は、朝鮮部落前にあるドブ川に流していたから、すごい臭いなんです」


孫正義氏の従兄弟の話では、孫少年は、そんな「朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ建て小屋の中で、膝まで水に浸かりながらも、必死で勉強していた」そうです。著者の佐野眞一氏は、その話を聞いて、「孫正義という男をつくってきた背骨のありかが、よくわかった」と書いていました。

九州では、養豚業のことを「豚飼い」と言うのですが、私も子どもの頃、「豚飼い」の人が、豚の餌にする残飯をもらいにリヤカーを引いて近辺の家々をまわっていたのを覚えています。リヤカーに積んだ石油缶のような“残飯入れ”から放たれる強烈な臭いに、私たち悪ガキは、鼻をつまんで急ぎ足でその横をとおりすぎたものです。

九州で会社勤めをしていた頃、取引先に在日朝鮮人の社長がいましたが、その社長もやはり、親が「豚飼い」をしていたと言ってました。在日朝鮮人が戦後、生活のために「豚飼い」をしていたというのは、九州ではよく見られた光景だったのでしょう。

また、本には孫氏が子どもの頃、豚の金玉を七輪で焼いて食べていたという話が出てきますが、私も子どもの頃、遊び場のすぐ脇にあった豚小屋で、「金抜き」と呼ばれていた仔豚の去勢を見たことがあります。「金抜きがはじまるぞ」とはやし立てながら豚小屋に向かうと、ギャーギャー泣き叫ぶ仔豚を大人たちが押さえ付けていました。そして、息を呑んで見つめる私たちの目の前で、「金抜き」(金玉の切断)がおこなわれるのでした。「金抜き」のあと、切り落とされた金玉はそのまま草むらに放置されていましたが、朝鮮人たちはあれを七輪で焼いて食べていたのです。

もっとも、孫少年にとって、鳥栖駅前の「朝鮮部落」の生活は、小学校に上がるまでで終わります。と言うのも、父親の正憲氏が、北九州の黒崎に事務所を構え、八幡製鉄所の工員相手に金融業(サラ金のはしりのようなもの)をはじめたからです。商才に長けた正憲氏は、さらに金融業で儲けたお金を元手にパチンコ業に転身し、九州一のパチンコチェーンを築くまでになったのでした。最盛期には、孫一族がもっていたパチンコ店は、福岡と佐賀に56軒もあったそうです。

そうやって成功した父親からの潤沢な資金(仕送り)によって、孫少年は九州屈指の進学校・久留米大付設高校へ進学、さらに同校を1年の半ばで中退するとアメリカ留学へ旅立つのでした。

それは、「ウンコ臭い水があふれる掘っ建て小屋の中で、膝まで水に浸かりながらも、必死で勉強していた」頃からわずか10年後の話です。そうやって短期間に生活がジャンプアップしたことが、孫氏の「前のめりに突っ走る危うさ」や私生活の「子どもじみた」成金趣味につながっているように思えてなりません。

それはまた、両班(ヤンバン)の末裔だと言いながら、下品で粗野な朝鮮語を使い、お互いを罵り合うような孫一族の仲の悪さなどにもつながっているように思います。とは言え、孫正義氏もまだ在日三世にすぎないのです。差別と貧困の記憶が、心のなかに刻まれている世代でもあるのです。多くの在日朝鮮人の成功者と同じように、「子どもじみた」成金趣味に走るのも無理からぬものがあると言えるのかもしれません。

成金趣味と言えば、ソフトバンクが福岡ダイエーホークスを買収し球団経営に乗り出したのも、経営するパチンコ屋の店名に「ライオンズ」と付けるほど熱烈な西鉄ライオンズファンだった父親への「恩返し」ではないかという親戚の話がありました。実際に、正憲氏本人も、自分がホークスの買収を息子に進言したと証言しているのでした。

金貸し時代から20年間、父親の正憲氏の下で働いた夫人の弟(つまり孫正義氏の叔父)は、正憲氏のことをつぎのように証言していました。

「口癖は『信用できるのは、金と自分だけ』という人間でしたからね。確かに事業欲だけはすごかった。事業を常に大きくしていくことに執着していました。立ち止まるということを知らない人でした」

「メチャクチャ人づかいが荒かった。正直、奴隷みたいなものでした」

「義理人情の人ではない。人間的にはついていけませんでした。あの人から、優しさみたいものを感じたことは一度もありません」

「やめたいと言ったときには『わかった』と言って、すぐ椅子を振り上げるんです(笑)。いつもそうでした。気が短くてキレやすい」


別の「元ヤクザ」の義弟は、著者のインタビューで、正憲氏について、こう言っています。

「(略)あいつはとんでもないヤツだ。まともじゃない。東京に出てきたら半殺しにすると、あいつには、はっきり伝えてある」


もっとも、正憲氏自身もつぎのように言っていたそうです。

「顔を合わすと、いつも殴り合いのケンカですから、もう本当に『血はうらめしか』ですよ。血がつながった実の姉弟同士ですからね。本当に『血はうらめしか』です」


ちなみに、孫正義氏の両親は、取材時は別居していて、正憲氏は、インタビューでも、夫人のことを「くそババア」と悪態を吐いていたそうです。

でも、これは、在日朝鮮人の間では別にめずらしい話ではありません。知り合いの在日の身内には、それこそ朝鮮総連で活動している者もいれば、ヤクザまがいの金貸しや不動産屋もいるし、もちろん、土建屋や焼き肉屋やパチンコ店や芸能プロダクションを経営している者もいました。三世四世になると、医者や弁護士など“士業”が多くなるのもこの本に書いてあるとおりです。IT時代の前には、テレクラやゲーム機で大儲けしたという者もいました。父親の友人(頼母子講の仲間)には、誰でも知っているアイドル歌手や人気女優の父親などもいました。

もちろん、差別や貧困から這い上がってきた者に上品さや紳士的な素養を求めるのは無理な相談でしょう。それこそ並大抵の根性やバイタリティがなければ這い上がることはできないのです。孫正義氏が中学生のとき、「『僕のお父さんの知り合いにコワい人がいる。そんな人が家に出入りするのがイヤなんです』と担任に打ち明けた」のもわからないでもありません。

孫正義氏の家族もまた、典型的な”在日の一族”と言えるでしょう。著者が書いているように、それが一部の人たちから、孫氏がうさん臭く見られる要因にもなっているように思います。そして、いちはやくトランプに取り入る狡猾さ、節操のなさも、そういった生い立ちからきているように思えてならないのです。

在日朝鮮人の知り合いから「ぶっ殺してやるぞ」などと言われた人間からみれば、朝鮮人とお互いに理解し共存していくなんてとても無理なことのように思えます。少なくとも、左派リベラルのステレオタイプな在日像では期待を裏切られるだけでしょう。もし理解や共存の道があるとすれば、それこそヘイトぎりぎりの本音をぶつけ合うことからはじめるしかないように思うのです。

孫正義氏は、まぎれもなく在日のヒーローであり、現代の若者たちにとってもIT時代のヒーローです。でも、著者の佐野眞一氏は、その裏に、あまりにも人間臭い、在日特有のハチャメチャと言ってもいいうような一族の存在とその歴史があることを、丹念な取材であきらかにしたのでした。それが、この本が傑出したルポルタージュであるゆえんです。


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2017.02.12 Sun l 本・文芸 l top ▲
実話BUNKAタブー2016年2月号


トランプがツイッターで、LLビーンの商品の購入を呼び掛けたことで、逆にLLビーンの不買を呼び掛けるツイートが広がり、反トランプの不買運動がにわかに注目を集めています。

トランプが購入を呼び掛けたのは、創業者の孫娘がトランプを支持する政治団体に献金したからだそうです。トランプの政治観は、損得勘定だけだという批判がありますが、献金してくれたから購入を呼び掛ける、こういったところにもトランプの政治家としての資質に疑いをもたざるをえません。

就任式で、メラニア夫人が着ていたブランドはラルフローレンだったそうですが、私は、去年今年とたてつづけにラフルのダウンを買ったばかりで、なんだかこのニュースを見てラルフを着るのが恥ずかしくなりました。

私は身体が大きいので、普段はアメリカの(安い)ブランドばかり買っているのですが、LLビーンもそのひとつです。折しも今日、LLビーンからカタログが届いたばかりで、今年の冬は、ラフルのダウンにLLビーンのセーターとコーデュロイのスラックス、それにニューバランスのスニーカーが定番でした。役員がトランプ支持を表明したニューバランスも不買運動の対象になっていますので、これでは不買運動が歩いているようなものです。

不買は過剰反応ではないかという声もありますが、それだけトランプに反発する声が大きいということでしょう。アメリカの反トランプデモを見ると、「FASCIST」という文字をよく目にしますが、日本ではなぜかそういった見方は少ないようです。

メディアの報道も危機感の欠けた的を外したものばかりです。80年前のナチス政権誕生の際も、おそらくこんな感じだったのではないかと想像されますが、しかし、今回は日本の“宗主国”の大統領なのです。その影響はヒットラーの比ではないでしょう。

「宰相A」同様、いち早くトランプタワーを訪問し、トランプをヨイショした孫正義氏は、さすがネットの守銭奴の面目躍如たるものがあると言えるでしょう。幼少期、在日朝鮮人として差別を経験した人間が、長じてヘイトクライムの権化のような人物にすり寄り揉み手しているのです。

『あんぽん 孫正義伝』(佐野眞一著・小学館)によれば、孫正義氏が生まれたのは、佐賀県の鳥栖駅に隣接する「豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いがする朝鮮部落」だったそうです。そして、多くの朝鮮人の子どもたちと同様、日本人から汚いとか近寄るななどと言われて石を投げられた経験があり、そのときの傷跡が今でも頭に残っているそうです。それが今では石を投げる人間の側に立っているのです。かつての自分と同じように差別に苦しんでいる子どもたちがいることなど、まるで頭にないかのようです。お金のためなら悪魔にでも魂を売るのでしょうか。私は、そこに人間のおぞましさのようなものさえ覚えてなりません。そして、編集権の独立と無縁なYahoo!ニュースが、トランプ批判にどこか遠慮がちなのもわかる気がするのです。

一方、日本では、南京大虐殺を否定する元谷代表の著書を客室に常備しているアパホテルや、東京MXテレビで沖縄ヘイトのニュース番組を制作しているDHCなど、トランプまがいの社長が率いる会社が批判を浴びています。

1年前の『実話BUNKAタブー2016年2月号』(コアマガジン)には、『日本会議の研究』の著者の菅野完氏が書いた(と本人が明らかにしている)「愛国ネットウヨ企業大図鑑」という記事がありました。記事では、不買運動をしたくなるような、トンデモ思想に染まった「ネトウヨ企業」がずらりと紹介されていました。

アリさんマークの引越社、ゴーゴーカレー、アパグループ、イエローハット、カドカワ(ニコ動とKADOKAWAの持株会社)、DHC、フジ住宅、高須クリニック、播磨屋おかき。大企業では、出光興産、九州電力、ブリヂストンサイクル、JR東海などの名があがっていました。しかも、そのなかには、ブラック企業として知られている会社も多いのです。

今後、孫正義氏のように、トランプ詣でする経営者が続出するのは間違いないでしょう。これも「本音の時代」のひとつの姿と言えるのかもしれません。
2017.01.23 Mon l 本・文芸 l top ▲
島尾敏雄の妻・島尾ミホの生涯を書いた評伝『狂うひと  「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子著・新潮社)を読んでいたら、たまらず『死の棘』を読みたくなり、本棚を探したのですが、島尾敏雄のほかの作品はあったものの、なぜか『死の棘』だけが見つかりませんでした。それで、書店に行って新潮文庫の『死の棘』をあたらしく買いました。奥付を見ると、「平成二十八年十一月五日四十八刷」となっていました。『死の棘』は、今でも読み継がれる、文字通り戦後文学を代表する作品なのです。

まだ途中までしか読んでいませんが、『死の棘』も、若い頃に読んだときより今のほうがみずからの人生に引き寄せて読むことができ、全然違った印象があります。

愛人との情事を克明に記した日記を妻が読んだことから小説ははじまります。ある夏の日、外泊から帰宅した私は、仕事部屋の机の上にインクの瓶がひっくり返り、台所のガラス窓が割られ、食器が散乱しているのを目にします。それは、妻の発病(心因性発作)を告げるものでした。それ以来、二人の修羅の日々がはじまります。

来る日も来る日も、妻は私を責め立てます。一方で、頭から水をかけるように言ったり、頭を殴打するように要求したりします。詰問は常軌を逸しエスカレートするばかりです。私も次第に追い詰められ、自殺を考えるようになります。

夫を寝とった愛人への暴力事件を起こした妻は、精神病院の閉鎖病棟に入院し睡眠治療を受けることになります。その際、医師の助言で、私も一緒に病院に入ることになるのでした。

     至上命令
敏雄は事の如何を
問わずミホの命令に
一生涯服従す
    如何なることがあっても順守
    する但し
    病氣のことに関しては医師に相談する
                    敏雄
 ミホ殿


これは、『狂うひと』で紹介されていた島尾敏雄自筆の誓約書の文面です。しかも、それには血判が押されているのでした。

愛人との情事を克明に記録し、しかも、それを見た妻が精神を壊し、責苦を受けることになる。それでも作家はタダでは転ばないのです。小説に書くことを忘れないのでした。文学のためなら女房も泣かす、いや、女房も狂わすのです。

週刊文春ではないですが、不倫を犯罪のようにあげつらう風潮の、まさに対極にあるのが『死の棘』です。だからこそ、『死の棘』は戦後文学を代表する作品になったのです。

もちろん、『死の棘』も“ゲスの文学”と言えないこともないのですが、しかし、ゲスに徹することで、人生の真実に迫り、人間存在の根源を照らすことばを獲得しているとも言えるのです。

昔、付き合っていた彼女は、男が約束を破ったので、ナイフを持って追いかけまわしたことがあると言ってました。さすがに私のときはそんなことはありませんでしたが、旅行の帰途、車のなかでお土産の陶器を投げつけられ、今、ここで車から降ろせを言われたことがありました。そして、薬を買うので薬局の前で停めろと言うのです。

また、早朝5時すぎにアパートのドアをドンドン叩かれ、大声で喚かれこともありました。深夜、死にたいと電話がかかってきたこともありました。しかも、私を殺して自分も死ぬと言うのです。

別れたあと、私はいつか刺されるのではないかと本気で思いました。でも、刺されても仕方ないなと思いました。土下座して謝りたいと手紙を書いたことがありましたが、返事は来ませんでした。

しかし、それでもそこには愛情がありました。哀切な思いも存在していました。それが男と女なのです。愛するということは修羅と背中合わせなのです。

誰だって大なり小なり似たような経験をしているはずです。『死の棘』を読めば、自分のなかにあることばにならないことばに思い至ることができるはずです。公序良俗を盾に、他人の色恋沙汰をあれこれ言い立てる(国防婦人会のような)人間こそ、本当はゲスの極みだということがわかるはずです。彼らは、人間や人生というものを考えたことすらないのでしょう。人間や人生を洞察することもなく、ただ身も蓋もないことしか言えない不幸というのを考えないわけにはいかないのです。
2016.12.13 Tue l 本・文芸 l top ▲
「愛国」ばやりです。どこを向いても「愛国」の声ばかりです。それは、ネットだけではありません。テレビや新聞など、既存のメディアにおいても然りです。今や「愛国」だけが唯一絶対的な価値であるかのようです。言うまでもなく、安倍政権が誕生してから、日本は「愛国」一色に染まっているのです。

しかし、現在(いま)、この国をおおっている「愛国」は、実に安っぽいそれでしかありません。自分たちに不都合なことは詭弁を弄して隠蔽する、まるでボロ隠しのような「愛国」です。無責任で卑怯な、「愛国」者にあるまじき「愛国」でしかありません。「愛国心は悪党たちの最後の逃げ場である」(サミュエル・ジョンソン)ということばを、今更ながらに思い出さざるをえないのです。

さしずめ石原慎太郎や稲田朋美に代表される「愛国」が、その安っぽさ、いかがわしさをよく表していると言えるでしょう。それは、みずからの延命のために、国民を見捨て、恥も外聞もなく昨日の敵に取り入った、かつての「愛国」者と瓜二つです。

私は、「愛国」を考えるとき、いつも石原吉郎の「望郷と海」を思い出します。そして、私たちにとって、「愛国」とはなんなのかということを考えさせられるのでした。

1949年2月、石原吉郎は、ロシア共和国刑法58条6項の「反ソ行為・諜報」の罪で起訴、重労働25年の判決を受けて、刑務所に収容されます。そして、シベリアの密林地帯にある収容所に移送され、森林伐採に従事させられます。しかし、重労働で衰弱が激しくなったため、労働を免除。1953年3月、スターリンの恩赦で帰国が許可され、同年12月舞鶴港に帰還するのでした。

石原吉郎もまた、「愛国」者から見捨てられたひとりでした。

海から海へぬける風を
陸軟風とよぶとき
それは約束であって
もはや言葉ではない
だが 樹をながれ
砂をわたるもののけはいが
汀に到って
憎悪の記憶をこえるなら
もはや風とよんでも
それはいいだろう。
盗賊のみが処理する空間を
一団となってかけぬける
しろくかがやく
あしうらのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
しろくかがやく
怒りのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
(陸軟風)

 海を見たい、と私は切実に思った。私には渡るべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、海ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なにより海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へ変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。
 私が海を恋うたのは、それが初めてではない。だが、一九四九年夏カラガンダの刑務所で、号泣に近い思慕を海にかけたとき、海は私にとって、実在する最後の空間であり、その空間が石に変貌したとき、私は石に変貌せざるをえなかったのである。
 だがそれはなによりも海であり、海であることでひたすら招きよせる陥没であった。その向こうの最初の岬よりも、その陥没の底を私は想った。海が始まり、そして終わるところで陸が始まるだろう。始まった陸は、ついに終わりを見ないであろう。陸が一度かぎりの陸でなければならなかったように、海は私にとって、一回かぎりの海であった。渡りおえてのち、さらに渡るはずのないものである。ただ一人も。それが日本海と名づけられた海である。ヤポンスコエ・モーレ(日本の海)。ロシアの地図にさえ、そう記された海である。
 望郷のあてどをうしなったとき、陸は一挙に遠のき、海のみがその行手に残った。海であることにおいて、それはほとんどひとつの倫理となったのである。
(石原吉郎『望郷と海』)


この痛苦に満ちたことばのなかにこそ、「愛国」とはなんなのかの回答があるのではないでしょうか。私たちは、「愛国」を考えるとき、無責任で卑怯な「愛国」者たちによって見捨てられた人々の声に、まず耳を傾けるべきなのです。


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『永続敗戦論』
2016.10.11 Tue l 本・文芸 l top ▲
乳がんで闘病生活を送っている小林麻央が連日、病床から更新しているブログが話題になっています。おとといのブログでは、痛みなどを緩和するためにQOLの手術を受けたことや、がんの進行度が末期のステージ4であることを告白していました。

彼女が今置かれている状況を考えると、こうやってブログを更新していること自体、“驚き”としか言いようがありません。もし自分だったらと考えると、とても信じられないことです。

小林麻央は先月ブログを再開した際、「なりたい自分になる」と題して、がんと闘う決意を表明していました。自分の病状を公表するのは、その決意の表れなのでしょう。

吉本隆明は、言葉について、「自己表出」と「指示表出」という分け方をしています。「自己表出」というのは、自分に向けられる言葉で、「指示表出」というのは、他者とのコミュニケーションに使われる言葉です。吉本隆明は、これを一本の木に例えて、幹と根が自分に向けられる言葉(=沈黙)であり、枝や葉や実に当たるのがコミュニケーションに使われる言葉だと言ってました。そして、言葉の本質は、「沈黙」であると言うのです。

自分のことを考えてみても、自分に向ける言葉(沈黙)に“本音”があることは容易にわかります。他者に向けると、言葉に別の要素が入ってきて、“建前”とは言わないまでも、“本音”とは少し違ったものになるのです。

西欧の言語学でも、従来、話し言葉(パロール)のほうが書き言葉(エクリチュール)より発話者の観念を正確に表現するという考え方が主流でした(現代思想は、そういった伝統的な二項対立の考えに異議を唱えたのですが)。

書き言葉だと、さまざまな文章表現の制約もあり、うまく自分の考えが表現できないというのも日ごろ感じることです。なにより、そこには既に「自己表出」を「指示表出」に変換(翻訳)する作業がおこなわれているのです。ブログでも同じです。読者を想定している限り、内外のさまざまな制約から逃れることはできないのです。

末期のがんを前にして、自分の最期の姿を書き残したいという思いもあるのかもしれません。だとしたら尚更、自分の思いを正確に書き記すことができないもどかしさを感じることはないのだろうかと思います。

また、末期がんというきわめてプライベートでセンシティブな事柄について、SNSという公の場で、詳細な病状が公表されたり、家族間でやり取りがおこなわれたりすることに、私は、どうしても違和感を覚えてならないのです。世間には、小林麻央のブログに勇気をもらったとか元気をもらったとか励まされたとかいった声がありますが、他人の不幸で勇気をもらったり元気をもらったり励まされたりするのは、むしろ「蜜の味」と紙一重の心根と言えるでしょう。

例えは悪いですが、禁煙やダイエットなどと同じように、あえて口外することで、それをみずからの(闘病の)モチベーションにしたいと考えているのかもしれませんが、結果的にメディアに格好のネタを提供することになっているのは事実です。芸能ニュースの反応がまったく気にならないと言ったらウソになるでしょう。まして芸能人のブログは、アフィリエイトと無縁ではあり得ないのです。況やアメブロにおいてをやです。

不謹慎と言われるかもしれませんが、私は、小林麻央のブログに、芸能人の”悲しい性(さが)”とともに”したたかさ”のようなものさえ感じてならないのです。
2016.10.04 Tue l 本・文芸 l top ▲
文藝春秋2016年9月号


芥川賞を受賞した村田紗耶香の「コンビニ人間」(『文藝春秋』9月号)を読みました。

この小説を「現代のプロレタリア文学」と評した人がいましたが、つぎのような表現をそう解釈したのかもしれません。

(略)かごにセールのおにぎりをたくさん入れた客が近づいてくるところだった。
「いらっしゃいませ!」
 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。


 朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。


選考委員の村上龍は、選評で、みずからが司会を務める「カンブリア宮殿」で見聞きしたことを引き合いに出して、企業の教育やトレーニングに共通している「挨拶」の徹底は、「一種の『規律』であり、いろんな意味での、会社への同化・帰属意識の醸成である」と書いていましたが、しかし、これってただ当たり前のことを言っているにすぎないのです。それをさも自分が“発見“したかのように、フーコーまがいの表現でもったいぶって書いているだけです。

村上龍が働いたことがあるのは、デビューする前に、霞が関ビルでガードマンのアルバイトをしたことくらいで(その際、エレクトーンを弾いていた奥さんと知り合い結婚したと言われています)、彼は、私たちが想像する以上に“世間知らず“なのです。だから、「カンブリア宮殿」に出てくる海千山千の「社長」たちをあのように「すごい」「すごい」と言って感嘆するのでしょう。

「コンビニ人間」を「現代のプロレタリア文学」と評するのも、村上龍と同じような“世間知らず“の読み方だとしか思えません。

この小説に“社会性“があるとすれば、大学1年のときから18年間、就職もせずに同じコンビニでアルバイトをつづけている、36歳・未婚・恋愛経験なしの主人公に向けられる“世間の目”に、かろうじて見ることができるだけです。

 コンビニで働いていると、そこで働いているということを見下されることが、よくある。興味深いので私は見下している人の顔を見るのが、わりと好きだった。あ、人間だという感じがするのだ。


差別する人には私から見ると二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。


そして、そんな“世間の目”を代弁するような屁理屈をこねまわす同じ「万年フリーター」(私の造語です)の男と出会い、奇妙な同居生活をはじめることで、この小説は、作者の真骨頂とも言うべき「普通ではない」世界に入っていくのでした。

しかし、「普通ではない」世界から陰画のように描かれた「普通」の世界(世間)は、今どきのテレビドラマでもお目にかかれないような、単純化され戯画化されたそれでしかありません。

「コンビニ人間」は、緻密な心理描写を排した簡潔な文体で、しかもユーモアもあり、とても読みやすい小説です。おそらく芥川賞受賞の話題性で映像化されるでしょうが、映像化に適している作品とも言えます。ユーモアもお笑い芸人のギャグレベルのもので、その意味でも面白くて受け入れやすいと言えるでしょう。でも、それだけです。読んだあとになにか考えさせられるような小説の奥深さはありません。予定調和のウケを狙った小説と言えないこともないのです。

今や小説家は、“世間知らず“の代名詞になっているかのようです。選評を読んでも、トンチンカンなものが目立ちます。なかでも川上弘美のトンチンカンぶりは相変わらずですが、今回の選評では、崔実の「ジニのパズル」をどう評価するかに、彼らの小説家としての”現実感覚”が試されているように思いました。

選評では、高樹のぶ子と島田雅彦が「ジニのパズル」を推していることがわかります。

高樹のぶ子は、「ジニのパズル」について、つぎのように書いていました。

 一読したとき、頬を叩かれたような衝撃を受けた。(略)
 胸を打つ、という一点ですべての欠点に目をつむらせる作品こそ、真に優れた作品ではないのか。かつて輝かしい才能が、マイノリティパワーとして飛び出して来たことを思い出す。


一方、山田詠美は、「ジニのパズル」を散々にこき下ろしていました。

『ジニのパズル』。ここにも、のっけから<感受性>という言葉が出ているよ。今度は感受性ばやり? そして、文章が荒過ぎる。特に比喩。どうして、こんなにも大仰な擬人化? <雨の滴が窓ガラスに体当たりするようにぶつかって、無念だ、と嘆きながら流れ落ちていった>だって…! わははは、滑稽過ぎるよ。


島田雅彦は、「コンビニ人間」と「ジニのパズル」をそれぞれ「能天気なディストピア」「マイナー文学の傑作」と評して、つぎのように書いていました。

 タイトルとテーマ、コンセプト、そしてキャラだけでもたぶん小説は成立するだろう。叙述や会話のコトバから一切オーラを剥奪しても、心理の綾をなぞることを省いても、ギリギリセーフだ。セックス忌避、婚姻拒否というこの作者にはおなじみのテーマを『コンビニ人間』というコンセプトに落とし込み、奇天烈な男女のキャラを交差させれば、緩い文章も大目に見てもらえる。


 全世界的に外国人排斥と自民族中心主義が広がる中、移民二世、三世は移民先の文化に適応するか、ルーツの民族主義に回帰するか、あるいはハイブリッド文化を構築するか、パンク文化するか、やけっぱちのテロリズムに走るか、これは文化の未来を左右し、文化の不安をかき立てる。在日三世の韓国人が日本の学校から、なぜか朝鮮学校を経て、米オレゴン州へと向かった少女の反抗と葛藤の記録は肉弾的リアルティに満ちている。(略)試行錯誤のパズルを繰り返すジニの姿こそが世界基準の青春なのかもしれない。荒削りで稚拙な表現を指摘する委員が多かったが、それは受賞作にも当てはまるので、この作品の致命的欠点とはいえない。受賞は逃したが、『ジニのパズル』はマイナー文学の傑作であることは否定できない。


芥川賞の選考委員なんて町内会のお祭りの実行委員みたいなものなので、マスコミ受けする又吉の「火花」のつぎは、読者に迎合して「大目に見てもらえる」小説を選んだのかもしれません。


関連記事:
崔実「ジニのパズル」
2016.08.15 Mon l 本・文芸 l top ▲
サッカーと愛国


清義明氏の『サッカーと愛国』(イースト・プレス)の感想文を書こうかと思っていたら、リテラが同書を取り上げていました。

リテラ
リオ五輪、W杯最終予選直前に考える、サッカーは右翼的ナショナリズムやレイシズムと無縁ではいられないのか

最近リテラの記事を引用することが多いので、リテラを真似したように思われるのではないかと気にしています。自意識過剰と思われるかもしれませんが、ネットというのは、かように自意識過剰になり自己を肥大化しがちなのです。相模原殺傷事件の犯人も、ネットで夜郎自大な自分を極大化させ、ヘイトな妄想を暴走させたと言えるのではないでしょうか。

リテラは、芸能人の誰々が安倍政権を批判したとか改憲に懸念を表明したとか、そんな記事がやたら多いのが特徴ですが、私は、そんな姿勢には以前より違和感を抱いていました。なかには書かれた芸能人もさぞや迷惑だろうと思うような牽強付会な記事もあり、なんだか負け犬根性の染みついたリベラル左派の”友達多い自慢”のようで、見ていて痛々しささえ覚えるのです。

でも、リテラの「人気記事ランキング」を見ると、常にその手の記事が上位を占めています。芸能人や有名人が自分と同じような考えをもっていることを慰めにしている人たちも多いみたいです。そんな人たちは、無定見にSEALDsを支持し、官邸デモの盛り上がりに、「政治が変わる」「夜明けは近い」と思っているのかもしれません。それが”お花畑”と言われるゆえんでしょう。

明日、リオ・オリンピックでサッカーの初戦・ナイジェリア戦がありますが、今日も知り合いのサッカーファンたちの間では、その話題で持ちきりでした。

清義明氏は、『サッカーと愛国』で、「サッカーは右派的なスポーツではない」と題して、つぎのように書いていました。

(略)もともとナショナルチームというのはサッカーの大会のカテゴライズのひとつにすぎない。多くのサッカーファンは各国の代表チームではなく、それよりもクラブチームを重視している。例えば、Jリーグの熱狂的なサポーターで、毎週末に日本中のどこだろうとアウェーの自分のチームの試合を追いかけていくような部類の人でも、日本代表の試合となると、スケジュールすら知らないという人もたくさんいる。代表チームは、自分のチームの選手が選ばれている時だけしか興味を示さないという人も多いのだ。むしろ、クラブチームに入れあげれば入れあげるほど、そうなる傾向が強い。


日本戦のあと、渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをして騒いでいるサッカーファンなんて、急ごしらえの俄かサッカーファンにすぎないという指摘は頷けるものがあります。そして、そんな俄かサッカーファンたちがメディアに煽られて安っぽいナショナリズムを叫び、都知事選で桜井某に11万票を投じたのでしょう。

自民党政権が60年安保の盛り上がりに怖れをなして、ヤクザを台頭する左翼の対抗勢力とすべく、”右翼”として組織し利用したのは有名な話ですが、それと同じように、ヨーロッパの民族紛争では、サッカーのサポーターたちが民族排外主義者に利用され、“民族浄化”の先兵として殺戮行為に加担していた例があるそうです。

著者が言うように、「サッカーの起源はマチズモ(引用者:男性優位主義)に満たされ、排外主義的な思想を招きやすいのは否定できない事実」ですが、しかし一方で、ヨーロッパで育まれたサッカー文化には、リベラルで啓蒙主義的な面があるのも事実なのです。

ISのテロで露わにされたヨーロッパ社会の二重底。自由と博愛の崇高な精神を謳う西欧民主主義の裏に張り付いた人種差別の根深さ。そのため、ヨーロッパのサッカーは、常に高いハードルを科してレイシズムと戦わなくてはならないのです。

2008年、欧州連合は、「人種・皮膚の色・宗教・血統・出身国・エスニックな出自による差別を罰するように求め、これに懲役刑を定めるように要請する」「枠組みの決定」を採択したのですが、UEFA(欧州サッカー連盟)も、それに同調する方針を打ち出し、それがサッカーにおける「世界基準」になっているのです。

でも、日本の現状が、ヨーロッパのそれに比べて遅れているのは否めないのです。以前、このブログでも取り上げましたが、浦和レッズのサポーターが「JAPANESE ONRY」の横断幕を掲げ、無観客試合の制裁を受けた事件の背景には、「韓国選手を獲らない」というクラブの方針と李忠成の加入があるのではないかという指摘などもその一例でしょう。

また、Jリーグの国籍規定が「鎖国的」だという指摘もあります。プロ野球の場合、日本の学校に3以上在籍した選手は外国籍扱いしない(外国人枠の対象外)という規定があるのですが、Jリーグはあくまで国籍がすべてです。ところが、在日の有望選手が多いため、3名の外国人枠とは別にわざわざ1名の「在日枠」を設けているのだそうです。一方、FIFAは、二重国籍など国籍の概念が多様化している現状を考慮して、ナショナルチームの選手の資格を判断するのに国籍よりもパスポートを優先しているのだとか。だから、チョン・ホセ(鄭大世)は、韓国籍であるにもかかわらず北朝鮮の代表に選ばれたのです。チョン・ホセの家は、父親とホセが韓国籍で、母親が朝鮮籍だそうです。

サッカーと在日は切っても切れない関係にあります。かつて幻の最強チームと言われた在日朝鮮蹴球団。また、東京の朝鮮高校も高校では最強のレベルでした。帝京高校が強くなったのも、近所に朝鮮高校があったからだと言われていました。日本の強豪校は、朝鮮高校と定期戦をおこないレベルアップをはかっていたのです。

李忠成の家族も、祖父が朝鮮籍で父親が韓国籍、そして忠成が日本籍だそうです。李忠成の父・李國秀は、かつて横浜トライスター(横浜フリューゲルスの前身)の選手で、その後、多くのJリーガーを輩出した桐蔭高校の監督を10年務めた、指導者として知られた人物です。

その李國秀のインタビューは、「サッカーと愛国」を考える上でも興味深いものがありました。

李忠成が韓国U-19代表の合宿に召集された際、在日であるがゆえに「差別」を受け、そのために韓国の代表に選ばれなかったという話がありましたが、李國秀はつぎのように否定していました。

「それよりも、パク・ジュヨンとポシションがかぶっていたね。うまく溶け込めなかった。ちょうどU-19のチームのスタイルを固めようとしているときにあいつが入っていった。そうしたらサッカーが合わない。中国との練習試合の時に、あいつがヒールパスを出したんだけど、誰も反応できなかった。メイド・イン・ジャパンのサッカーなんだよ。スタイルが違う。フィジカル重視のスタイルに合わない。スペースにボールを蹴り込んで走っていくスタイルに、あいつがヒールパスを出したり、パスをスルーしても違うんだね」
「差別」は代表に選ばれなかった理由ではないというわけだ。
「いくら韓国の血であっても、小中高と日本のサッカーをやってきたら、サッカーのアイデンティティは日本なんだ」


さらに、つぎのような李國秀の話には、私たち日本人が知り得ない在日の歴史の重みがあるのでした。李忠成の曽祖父が、一旗揚げようと朝鮮半島から博多にやってきて、沖仲仕の仕事をはじめたのが100年前だそうです。そこから李一家の在日の歴史がはじまったのです。

李忠成の祖父は、戦争中は特攻隊員だったそうです。ところが、戦争が終わった途端に「日本人」から「外国人」になったのです。

「(略)親父(引用者:李忠成の祖父)は終戦後、今でも日本国籍になってないし韓国籍でもない。それは親父の妹が北朝鮮に帰還事業で帰っているからなんだ。兄が日本国籍を取得したことがバレたら、妹が強制収容所にでも送られてしまうかもしれないって理由で。
 一方で俺は忠成と一緒に韓国籍になった。親父はまだ朝鮮籍。だからウチは、長男の三代が、日本籍、韓国籍、朝鮮籍として一緒の家に住んでいるわけです。全員パスポートが違うんですよ(笑)。
 これが幸せなのか不幸なのか、よくわからないな。親父は日の丸を命を張って守ろうとして軍隊まで行ったのに、俺は『パッチギ!』の世界ですよ。そして忠成は新しい人生で日の丸を背負っている。これが100年の歴史なんですよ。なんで在日が日本にいるんだって人もいるだろうけど、社会とイデオロギーに翻弄されている歴史をわかってほしいよね。そうやって翻弄されながら生きてきていることは、人間の弱さなのかもしれないし、強さかもしれない。それはよくわからない」


サッカーには、レイシズムの誘惑という負の部分と、まったく正反対にリベラルな文化という顔もあります。私たちは、ある日突然、日本人から外国人になった経験もなければ、二重国籍の現実も知りません。もちろん、「永住許可」という制度に縛られることもないのです。だから、国籍規定の疑問点を指摘されたJリーグの理事のように、「自由にやりたきゃ日本国籍をお取りなさい」というようなタカピーな発言になるのでしょう。浦和の横断幕も横浜マリノスの「バナナ事件」も、根底にあるのは、このような「民族主義サッカー」の考えです。それが渋谷駅前の俄かサッカーファンにも投影されているのではないか。
2016.08.04 Thu l 本・文芸 l top ▲
3・11後の叛乱


しばき隊初期のメンバーで、先頃『サッカーと愛国』(イースト・プレス)を上梓したばかりの清義明氏は、『3.11後の叛乱』(集英社新書)について、ツイッターで、この本は野間易通氏の「プロパガンダの書」で、それを笠井潔氏がロマンチックに「ポジショニングしようとしている」と書いていましたが、言い得て妙だと思いました。

清義明 (@masterlow) | Twitter
https://twitter.com/masterlow?lang=ja

清義明2016年7月ツイッター1

清義明2016年7月ツイッター2

おそらくこの本を読んだ多くの人たちも、清氏と同じように、チグハクと思ったのではないでしょうか。なかでも笠井潔氏の言説をトンチンカンに思った人も多いはずです。

笠井潔氏は、60年代後半は構造改革派の共産主義労働者党のイデオローグでした。そして、70年代に入ると「マルクス葬送派」として左翼論壇で存在感を放っていました。共労党やその学生組織に属していたメンバーのなかには、のちにメディアで名を馳せた人が多いのですが、笠井潔氏もそのひとりでした。

笠井氏は、反原発や反安保法制で国会前を埋め尽くした群衆こそ、ネグリ/ハートが『叛逆』で規定した新たな大衆叛乱の姿だと言います。それは、<1968>後の「新しい社会運動」たる反グローバリズム運動をも乗り超えた、<2011>後の大衆叛乱なのだと。その主体となるのは、「何者でもない私」である「ピープル」です。

 分子的な無数の主体(シトワイヤン)がブラウン運動を続けながら、創発的に自己組織化し、やがてピープルを実現する。無数の微粒子としての主体は「何者でもない私」である。ピープルという創発的なシステムに、決定論的で機械論的なシステムであるネーションが対立する。ネーションを構成するのは、その国籍を有し国家に権利を保障される者、ようするに「何者かである私」だ。ピープルが流体リキッド的な分子運動の産物だとしたら、ネーションはステートという鋳型のなかで凝固した均質な固形物ソリッドにすぎない。


これは、SEALDsのデモで発せられた「国民なめんな」のコールが、「近代の国民概念を先鋭化しているとか、国民主体から排除されているマイノリティに差別的だという批判」に対しての反論であり、SEALDsを擁護する論拠です。私は、最初、皮肉ではないのかと思ったほどでした。

笠井氏は、しばき隊の後継組織であるあざらしについても、つぎのように書いていました。

 興味深いのはあざらしが、声なき声の会に始まる「市民」性と全共闘的な「大衆」性の双方を、意識的・無意識的に継承しているらしい点だ。同じ陣営に属すると見なされていた進歩派教授を全共闘が徹底批判したように、「しばき隊」はヘサヨや大学の文化左翼などに容赦ない攻撃を浴びせかける。


辺見庸氏の言う元全共闘の「ジジババども」が反原連やしばき隊やSEALDsにシンパシーを覚えるのは、こういった理由なのかと思いました。

一方、野間易通氏は、「官邸前デモでは規範や規律が重視されていて、はみだし者が自由に参加する余地があまりない」という素人の乱(福島の原発事故直後に高円寺の反原発1万人デモを主催した人たち)の批判に対して、つぎのように反論しているのでした。

(略)私は、「大衆というのは、はみだし者の集合ではない。そのはみだし者が忌避するような、規律を好む穏健で目立たない普通の人たちの集まりである」と反論した。デモや抗議行動が奇異な恰好で反社会的行動を好んでとるようなはみだし者の集まりになるとそれは同好の士の集いにすぎなくなり、ひいてはデモそれ自体が目的化してしまう。官邸前に集まっている人々のあいだに「反社会的で暴力的なアンチヒーローを望む声」などなく、ただ政策を変更してほしいと訴えているだけなのだと。


だから、デモの参加者に対して「おまわりさんの言うことを聞け」とか「選挙に行こう」などと呼び掛けていたのでしょう。となると、デモに参加している「規律を好む穏便で目立たない普通の人々」は、「何者でもない私」というよりむしろ「何者かである私」ではないのかと思ってしまいます。さしずめSEALDsはその典型ではないのか。彼らが体現しているのは、どう見ても共産党や民進党に一票を投じればなにかが変わるというような、それこそ<1968>の運動で否定された古い政治の姿です。

しかし、笠井氏の論理はエスカレートするばかりです。しばき隊の運動に、初期社会主義運動の理論家で、「武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取と人民武装による独裁の必要を主張した」(ウキペディアより)ルイ・オーギュスト・ブランキの「結社」の思想を重ね合わせるのでした。

特定の行動という一点に目標を絞り込んで、他の一切を排除するところにブランキ型の<結社>の特異性がある。これは近代的な政治運動や社会運動の団体としては異例、むしろ異形である。レイシストしばき隊の特異な組織思想は、ブランキの<結社>と時代を超えて響きあうところがあるように感じられる。


笠井氏は違った見解をもっているようですが、ブランキの思想は、18世紀末のフランス革命におけるジャコバン派の独裁政治を起源とし、パリコミューンで実践されたことにより、レーニンの「プロレタリア独裁」にも影響を与えたと言われています。笠井氏は、しばき隊を日本左翼の悪しき伝統であるボリシェヴィズム(ロシアマルクス主義)の対極に据えているのですが、そういった論理自体が既に矛盾していると言えなくもないのです。

 大衆蜂起が自己組織化され、市民社会の諸分節に評議会という自己権力機関が形成される。大小無数の評議会が必要に応じて連合し、下から積みあげられて政治領域まで到達する。最終的には、政府が評議会の全国連合に置き換えられる。


ここまでくると、たしかにロマンチシズムと言うしかないでしょう。なんだか片恋者の妄想のようです。

清氏が言う「書かれていないこと」がなにを意味するのかわかりませんが、鹿砦社の『ヘイトと暴力の連鎖』でとりあげられていたしばき隊のスキャンダルもそのひとつかもしれません。「リンチ事件」でも、被害者に対して、ツイッターで執拗に誹謗中傷がおこなわれ、被害者の氏名や住所、学校名までネットで晒されるという二次被害が生じているそうです。野間氏自身も、個人情報を晒すなどの行為により、ツイッター社からアカウント停止の処分を受けたのだとか。

私は、ネットで個人情報を晒すという行為に対して、新左翼の内ゲバの際、対立する党派のメンバーが勤めている職場に、「おたくの××は、過激派の○○派ですよ」などと電話をして、対立党派の活動家=「反革命分子」を職場から追放するように仕向けていたという話を思い出しました。襲撃して殺害するよりはマシと言えますが、そういった”内ゲバの論理”としばき隊がネットでやっていることは似ているような気がしてならないのです。

そして、私は、やはり(今や幻となった)辺見庸氏のSEALDs批判を思い出さないわけにはいかないのでした。

だまっていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし「帰れ!」コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?だまっていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。
よしんばかれらが××派だろうが○○派だろうが、過激派だろうが、警察に〈お願いです、かれらを逮捕してください!〉〈あの演説をやめさせてください!〉と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強してでなおしてこい。古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘をさすとしずくがかかってひとに迷惑かけるから雨合羽で、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。絶対安全圏で「花は咲く」でもうたっておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ。下痢がおかげさまでなおりました、とさ。コール「民主主義ってなんだあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。

かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで「勝った」だと!?おまえらのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれじしんもなんだかわからなくなって、けっきょく、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。Happy birthday to me! クソッタレ!

(辺見庸「日録1」2015/09/27)

※Blog「みずき」より転載
http://mizukith.blog91.fc2.com/


「左翼の終焉」はそのとおりだとしても、それがどうして反原連・しばき隊・SEALDsになるのか、私にはさっぱりわかりません。「教義も修道院も持たない新たなレフトの誕生」(野間氏)なんて片腹痛いと言わねばなりません。私たちは、前門の虎だけでなく、後門にも狼がいることを忘れてはならないのです。
2016.07.31 Sun l 本・文芸 l top ▲
ヨーロッパ・コーリング

ヨーロッパ・コーリング帯

私は、よくこのブログで、「右か左ではなく上か下の時代だ」というブレイディみかこ氏のことばを引用していますが、その箴言が帯に麗々しく掲げられた本が出版されました。

ブレイディみかこ氏の新著『ヨーロッパ・コーリング』(岩波書店)です。と言っても、書き下ろしではなく、Yahoo!ニュース(個人)に書いた記事をまとめたものです。

表紙の写真は、イスラエルのパレスチナ自治区のベツレヘムで撮った、バンクシーの有名な「The Flower Thrower」です。装丁もとてもセンスがよくて、見た目もカッコいい本になっています。

折しもイギリスでは、EU離脱をめぐって国民投票がはじまりました。日本時間で今日にも投票結果が判明すると言われていますが、EU離脱をめぐっても、右か左ではなく上か下かの時代が色濃く表れているように思います。EU離脱は、ブレイディみかこ氏が書いているように、単に移民問題だけでなく、反緊縮・反グロバーリズムの側面があることも見過ごしてはならないでしょう。

一方、この国は参院選の真っ最中ですが、メディアの情勢調査では、与党が改選過半数を越える勢いで、改憲派が改憲の発議に必要な3分の2の議席を確保する可能性が高いと伝えられています。

与野党党首の演説を聴いても、私には与党と野党の違いがわかりません。特に、経済政策についてはどこも同じなのです。安倍総理は、成長の果実を社会保障の充実や介護や子育てに分配するためにも、アベノミクスのさらなる進化が必要だと演説していましたが、野党の党首たちも物言いは異なっても、成長と分配という基本的な考えはほとんど同じです。

左派の劣化は、たとえば公務員の給与問題などにも端的に表れているように思います。公務員の給与は下がっている、公務員は大変だと言われますが、それは今や公務員の半分を非正規雇用が占めている現実がそういったイメージを作り出しているにすぎないのです。

私の田舎は、交付金の5割近くが人件費に消えていくと言われるほど県内でも上位の”高給自治体”ですが、高齢者が多く住民の所得が低い田舎では、市役所の職員はまさに”特権階級”です。横浜も、かつてスパイラル指数で日本一になったほどの”高給自治体”です。ただ、横浜の場合、大都会なので、田舎のように“特権階級“ぶりが目に付きにくい面があり、それが彼らに幸いしているだけです。もっとも、自治労や左派に言わせれば、それは偉大なる階級闘争の成果であって、高給を批判(嫉妬)する者は労働者の敵、保守反動ということになるのでしょう。

自民党と同じ”成長神話”にとり憑かれた左派。公務員問題をおおさか維新のようなファシストの専売特許にさせてしまった左派のテイタラク。民進党は左派ではありませんが(リベラルですらありませんが)、公務員と原発の二つのタブーを抱えたあんな政党が支持を受けるわけがないのです。何度も言いますが、民進党(旧民主党)は、もはや自民党を勝たせるためだけに存在していると言っても過言ではないのです。今度の選挙でも、民進党が野党第一党であることの不幸を痛感させられることになるのは間違いないでしょう。

一方、プロレタリア革命を掲げ”革命左派”を自認する新左翼のセクトも、自治体労働者に対する”賃下げ攻撃”を階級的反撃で打ち砕けと訴えていますが、それは、公務員のシンパからのカンパに頼っている財政的な事情もあるのではないかと穿った見方をしたくなります。レーニンは『国家と革命』のなかで、公務員の給与は全労働者の賃金の平均を越えてはならないと戒めていますが、それは社会主義国家がその性格上官僚主義=「役人天国」に陥る傾向があるのをレーニン自身がよくわかっていたからでしょう。

自治労の組合員たちをプロレタリアと言ったら、もはやギャグでしかないでしょう。右か左かなんてほとんど意味をもたないのです。

先進国で最悪の格差社会を招来したこの国にこそ上か下かの新しい風が待ち望まれますが、そのためにはまず、徹底的に敗北し、徹底的に絶望することでしょう。そうやって「勝てない左派」と決別することでしょう。

 難民問題で右傾化していると言われる欧州では、実のところ左派が猛烈な勢いで台頭している。それは「与党も野党も大差なし」と醒めていた人々に、いまとは違う道は存在することを示す政治家たちが登場したからだ。彼らは、勝てる左派だ。勝てない理由を真摯に受け止め、あらためて、敗けるというお馴染みの場所でまどろむことを拒否した左派だ。この欧州に吹く風が、地球の反対側にも届くことを祈りながら本書をぶち投げたい。
(帯より)



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2016.06.24 Fri l 本・文芸 l top ▲
群像6月号


第59回群像新人文学賞を受賞した崔実(チェシル)の「ジニのパズル」(『群像』6月号)を読みました。

主人公のジニは、アメリカのオレゴン州の高校に留学している在日の少女です。下宿先の主は、ステファニーという絵本作家です。ジ二は、ハワイの高校を退学してオレゴンにやってきたのですが、オレゴンの高校も退学処分になろうとしています。

 全校生徒、全員のロッカーが並ぶ長細い廊下に腰を落ち着けた。廊下の端から端までは、ゆっくり歩いたって二分は掛からない。
 ガムテープでぐるぐる巻きにしただけの悲惨な修理が施されたヘッドフォンを耳にかけて、レディオヘッドのセカンドアルバム『ザ・ヘンズ』を流した。そうして視線の先を行きかう靴を眺めるのが、私の日課だった。


ジニは、そんな孤独ななかにいます。10代の在日の少女が抱く孤独と焦燥。それを主人公は、「空が今にも落ちて来そう」という言い方をするのでした。

「人生の歯車が狂い始めたのは、五年前のことだ」とジニは言います。それは、中学進学を機に、日本の学校から北区十条の朝鮮学校に入ったことです。そこからジニの告白がはじまります。

ジニの母親のアッパ(父親)は、家族を日本に残して北朝鮮に帰国しています。そのアッパから娘(ジニの母親)に届いた手紙がジニの告白の途中に挿入されています。最初は「北朝鮮は、とても住み心地が良い国だぞ」「こっちに来て正解だったと思う。どんどん発展していくぞ」と書いていましたが、そのうち「アッパのことは、忘れるんだ。いいな。どうか、次の手紙は待たないでくれ」と書いてくるようになります。そして、やがて、アッパは病院にも行けないような極貧のなかで亡くなるのでした。

朝鮮語を話せないジニにとって、日本語が禁止の朝鮮学校はまったくの異世界で、常に違和感がありました。なにより気になったのは、教室の正面に恭しく掲げられている金日成と金正日の肖像画でした。いつも誇らしげに微笑んでいる二人。それはジニにとって「気持の悪いもの」でしかありませんでした。

肖像画が掲げられているのは、「終戦後、日本に残った在日朝鮮人が自らの文化を守り、教育を受ける為の支援として、北朝鮮がお金を出してくれたことへの感謝の気持ちなのだという」のです。しかし、北朝鮮に渡ったあと収容所に入れられた家族を取り戻すために、大金を使って交渉し、奇跡的に日本に「帰国」させることができた話を親戚のおばさんがしているのを聞いたジニは、つぎのように思うのでした。

 一体、誰を返してもらえたのだろうと、その晩考えた。一体どれほどのお金を払ったのだろうか。北朝鮮では奇跡が起これば、人の命をお金と交換できる。なんて素晴らしい国なのだろうか。そのような素晴らしい国に作りあげ、いつまでも支配している金一家の肖像画を私は学校に行くだけで毎日拝むことが出来る──。
 間違いだ!
 私は、間違いを発見した。どうして、こんなにも簡単な間違いを見つけられなかったのか。教室にある肖像画は間違いである。学校中に飾られている肖像画は間違いである。


テポドンが発射された日、朝鮮学校の生徒たちは、チマチョゴリを鞄のなかに入れて、体操着で通学するよう連絡が来ます。チマチョゴリ姿だと心ない日本人から嫌がらせを受けるからです。学校にも水道に毒を入れたとか、女生徒を拉致し裸にして吊るなどという脅迫が殺到します。しかし、友人のニナが忘れたせいで、ジ二にはその連絡がきませんでした。そのためにチマチョゴリで家を出たジニは、電車のなかで乗客たちの冷たい視線にさらされるのでした。うっかりして急行電車に乗ったジニは、池袋で下車し、十条に引き返そうとします。しかし、その前にふと懐かしくなってパルコの地下のゲームセンターに入るのでした。

そこで、警察を名乗るスーツ姿の三人の男に囲まれたジニは、ゲームセンターの外に連れ出され、「朝鮮人ってのは、汚い生きものだよな」などということばを浴びせられた上、性的な嫌がらせを受けるのでした。その日以来、学校を休んだジニは、やがて「革命」を起こすことを決意するのでした。

ジニは、「革命」を決行するために三週間ぶりに登校します。真っ先に教室に入ったジニの目には、つぎのような光景が映っていました。

誰もいない教室は、とても神聖な場所に見えた。ベランダの窓から差し込む太陽の日差しは半分カーテンに遮られ、柔らかい光の影が教室を優しく照らしていた。教室がより一層、愛おしく見えるように演出されているみたいだ。その光の中に舞うチリのような白い埃までも、まるで小さな妖精みたいだ。ただ、黒板の上に居座る、いつもの金一家がそれを汚していた。北朝鮮は支配できても、国境を越えた日本の朝鮮学校までいつまでも同じだと思うな。こんな学校の体制のせいで、くだらない大人の誇りのせいで、大切な友達まで傷付くようなことになったら、学校もろともぶっ壊して、お前等にだって地獄を見せてやる。


そして、ジニは、天国のハラボジ(おじいさん)に訴えるのです。

朝鮮学校に通っているのに、どうして今現在の北朝鮮から目を逸らすのだろうか。学校と政治は関係ないと言われた。だったら、どうして政治的なものが校内にあるの。感謝の気持ちを表しているものだなんて、そんな理由があるか。感謝している人だけ、心で勝手に感謝して、子供たちのために、取り外せば良いじゃない。大人って、ずるいよ。
 子供相手に脅迫してくる日本人も、子供が犠牲になっても変わらぬ学校の連中も、いとも簡単に人の命を奪う金の糞独裁者も、みんなみんな、糞食らえだ。ハラボジ、私は、絶対に目を逸らさない。逸らすもんか。会ったことがなくても血の繋がった家族が北朝鮮にいるんだ。だから、ハラボジ、私は、絶対に目を逸らしたくない。全員を敵に回しても、目を逸らしたくないよ。


私は、この小説を読んで、その熱量に胸苦しささえ覚えました。そして、若い頃親しくしていたガールフレンドを思い出さないわけにはいきませんでした。彼女もまた十条の朝鮮学校を出ていたのです。この小説の主人公と同じように、中学から朝鮮学校に入ったと言ってました。

どうして朝鮮学校に入ったのか訊いたら、親が朝銀から融資を受けるためだったと言うのです。融資をあっせんする代わりに、子どもたちを朝鮮学校に入れることを総連から「指導」されたらしいのです。

彼女は、本を読むのが好きで、特に林真理子のファンでした。モデルをしていたのですが、ショーのあと、楽屋に林真理子が来て直接話をしたこともあるそうで、感激したと言ってました。ただ、一度か二度手紙をもらったことがありますが、日本語で文章を書く訓練を受けてないので、それはまるで子どもが書いたようなたどたどしい文章でした。私は、手紙を読んで、これから日本の社会で生きていくのは大変だろうなと思いました。

まだ拉致問題がマスコミに取り上げられる前でしたが、既に一部の人の間ではその噂がささやかれていました。彼女は、李英和の『北朝鮮 秘密集会の夜』を読んでショックを受けたと言ってました。それで、私は、崔銀姫と申相玉の『闇からの谺』を読むことを勧め、その感想を聞いた覚えがあります。

親たちは、帰国した人間たちのなかには厄介払いされた人間も多いと言っていたそうです。帰還事業には、建て前はともかく、鼻つまみ者を祖国建設の美名のもとに厄介払いで帰国させる、そんな一面もあったのでしょう。

彼女も、学校の集会で、このたび何々トンム(君)が祖国に帰国することになりました、皆さんでお祝いの拍手を送りましょうなどと校長から紹介されるのを見ながら、「バカじゃないの。あんな貧しい国に帰ってどうするの」と思っていたそうです。実際に朝鮮学校の生徒ほどブランド好きはいないと言っていました。大人はベンツやロレックス、子どもはヴィトンやプラザが大好きなのです。

また、朝鮮大学から北朝鮮の大学に留学して帰国した知り合いが、突然行方不明になり、家族から居場所を知らないかと電話がかかってきたこともあったそうです。そういった不可解なことも身近で起きていたのです。

金日成が死んだとき、「悲しくないの?」と聞いたら、「なんで私が悲しまなければならないの?」と言ってました。テポドンなんてまだない頃でしたので、金日成が死んでまた北朝鮮のことが話題になるのが嫌だなと言っていました。

その彼女もやがて小説の主人公と同じように、アメリカに旅立って行ったのでした。アメリカに行くのに、朝鮮籍より韓国籍のほうが便利なので、韓国籍に変えると言ってましたので、おそらく韓国籍に変えたのでしょう。

朝鮮学校の日常が小説になったということは特筆すべきことです。また、拉致やテポドン以後の北朝鮮に対する若い在日の葛藤が小説になったということも特筆すべきことと言えるでしょう。在日という理不尽な存在。理不尽なものにしているのは、旧宗主国の私たちの社会です。ヘイト・スピーチはその一端にすぎません。それより、大多数の日本人のなかにある”サイレントヘイト・スピーチ”のほうがはるかに問題でしょう。在日の問題は、私たち日本人の写し鏡でもあるのです。

選評では、「素晴らしい才能がドラゴンのように出現した!」(辻原登)、「何としても世に送り出さなければならない作品だ」(野崎歓)と絶賛されていましたが、少なくとも又吉直樹なんかよりホンモノであるのは間違いないでしょう。この作品によって、文学が国家や民族や政治的イデオロギーなどからまったき自由であり、自由でなければならないのだということを再認識させられたのはたしかです。

ジニは、ステファニーから「逃げたら駄目よ。逃げたら、そこで終わりなの」と言われます。「だけど、私には過去がくっ付いてくる。それこそ、逃げ場のない過去だよ」とジ二は言います。だから、受け入れるしかないんだとステファニーは言います。それがどんな空であれ、落ちてくる空を受け入れるのだと。すると、ジニは、ステファニーの腕のなかで「赤子のように声をあげて泣いた」のでした。

 もしかしたら、私は待っていたのかもしれない。いつか、誰かが私を許してくれる日を。落ちてくる空を。それが、どんな空であれ、許し、受け入れることを。誰かに、良いんだ、と。それで良いんだ、と。認めてもらえる日をずっと待っていたのかもしれない。


作者は、「受賞のことば」のなかで、「作家として生き抜いてやりたい」と書いていました。上の文章はその覚悟のようにもとれます。文学という苦難の道をどう生き抜くのか、作者の今後の作品を待ちたいと思いました。


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2016.05.21 Sat l 本・文芸 l top ▲
消えがての道


今回の地震は、正式には「平成28年熊本地震」と言うのだそうです。しかし、私には、「熊本地震」とか「熊本と大分の地震」とか言うより「九州の地震」と呼んだほうがピタリきます。

今回の地震をきっかけに、あらためて自分は九州の人間なんだとしみじみ思い知らされています。地震がきっかけで、私は、森崎和江の『消えがての道』(花曜社)を本棚の奥から出して読み返しました。これは、1983年に刊行された本です。

この本の帯には、「九州に生き、九州を旅する」という惹句がありました。その「九州」という文字がいつになく胸にせまってきました。

九州に生きる。私も、この本を読んだ当時はそう思っていたのです。私は、地元の会社に勤めていて、まあそれなりに順調でしたので、おそらくこのまま地元で暮らして行くんだろうなと思っていました。

読んだのが先だったかあとだったか覚えていませんが、この本に出てくる五家荘に、著者と同じように私も訪れたことがあります。阿蘇側にある旧矢部町から旧泉村(五家荘)に登り、「五木の子守唄」で有名な五木村へと尾根を越えたのでした。2泊3日の山旅でした。

私たちが登った2~3年前から林道を車で上ることができるようになっていましたが、ただ一方通行でした。だから、下るのは別の林道を利用しなればならなかったのです。また、村内には小学校の分校が7つあるという話も聞きました。ひとつひとつの集落が離れていて徒歩で通学するのが困難だからです。

私たちは、昔の人たちが利用したであろう山の斜面に刻まれた急峻な道を登り、適当なところで野営しながら尾根を越えて行ったのでした。九州では既に絶滅していたので熊の心配はなかったものの、その代わり怖かったのは、”山犬”と呼ばれる山で野生化した犬の群れでした。

五家荘は、学校の教科書にも出て来るような秘境で、その生活には、私たちの想像も及ばないような苦労があったに違いなく、私は、そういった山里離れた山奥に定住した柳田国男の言う「山の人生」に、ロマンのようなものをかきたてられたのでした。

 山の暮らしといっても、町には町ごとに表情があるように、山村にもひとつひとつ面影があるのだと、近年うっすらと知ったようだ。阿蘇山や九重高原の村は空が広い。たとえ民家は谷あいにあっても、眺望がきくひろがりを山々が持っている。が、九州の屋根といわれる五家荘・米良荘の山は隣接する山々にはばまれて生活空間は空と地が呼応しつつ、筒のようにこんもりとしている。他郷の空へは鳥が渡るように天の川を伝って思いを馳せるほかない。と、そう思うほど、村は孤独で独自の天地を持っている。
(『消えがての道』第三章・尾根を越えて)


 かつては牛馬の通う道もなかったと聞いた。足で歩き、荷はすべて人の背に負った。わたしは対馬や天草の山の中の細道も歩いたが、それらの山の一軒家は、なるほどひっそりとした一軒家だったが、馬が通い牛が通った。傾斜がなだらかで、家畜も人も歩けたのである。
 が、五家荘にはそのような斜面はめったにない。皆無といっていいほどの急斜面が谷へながれて、いくつもいくつも重なっている。かつて人びとはこの崖を、木の根草の根を頼りによじ登って他郷との用を足した。
(同上)


五家荘には当時親しくしていた知人と一緒に行きました。彼は、地元でも知られた大百姓の跡取り息子で、国立大学の農学部を出て、実家の農業を継いでいました。彼とは島根大学の安達生恒教授が主催する農業や農村を考える集まりで知り合いました。彼はまた、写真が趣味で、その点も私とは気が合いました。彼は大学時代山岳部だったので、彼が持っているテントを担いで二人で出かけたのでした。

しかし、五家荘から帰ってほどなく、彼は海外青年協力隊に志願して、タイへ行ったのです。そして、帰国後、同じ海外青年協力隊のメンバーであった女性と結婚、一時地元に帰ったものの、すぐに群馬か栃木だかに行ってしまったのです。あれだけ農業や農村の問題を真剣に考えていた人間が、農業を捨てふるさとを捨てたのです。そのため、地元では彼の評判はガタ落ちでした。

彼は、農業にも地元にも実家にも失望したと言ってました。私は、その話を聞いたとき、彼の気持がわかるような気がしたのです。というのも、私自身も既にその頃は地元に骨をうずめるという気持がぐらつきはじめていたからです。そして、それから数年後、私も会社を辞めて再び上京したのでした。

「アジアはひとつ」という有名なドキュメンタリー映画がありましたが、最近、あらためて汎アジアならぬ「汎九州」の思想について考えることがあります。それは、谷川雁のコミューン思想や五木寛之の『戒厳令の夜』などで示されていた、ナショナル(土着)なものを掘り下げて行けばインターナショナルなものに行き着くという考えです。九州に生きるということは、アジアに生きるということでもあるのです。九州から出て行ったうしろめたさもあるのかもしれませんが、九州の地震が、このような九州に対するpatrioticな思いを私のなかに呼び覚ましているのでした。
2016.04.30 Sat l 本・文芸 l top ▲
最近、暇なとき、よくインスタグラムを見ています。私は、写真屋の息子でしたので、他人の写真を見るのは昔から好きでした。

インスタグラムにアップされている写真を見るにつけ、ホントにみんな写真を撮るのがうまいなと感心させられます。

写真館をやっていた父親は、いつも私たちに、写真を撮るときはどんどん前に出てシャッターを押せと言ってました。恥ずかしいとか邪魔になるとか思ったらダメだ、遠慮なく前に出て撮った写真がいい写真なんだと言ってました。

家には小さい頃から、「アサヒカメラ」や「カメラ毎日」や「日本カメラ」などのカメラ雑誌がありましたが、そのなかの写真コンテストの入選写真を見ると、たしかに28ミリの広角レンズで(前に出て)撮った写真ばかりでした。インスタグラムに掲載されている写真にも、そんな「前に出て撮った」写真が多いのです。デジタルの時代になり、写真は手軽で身近なものになりましたが、父親が言っていたいい写真、上手な写真がホントに多いのです。

ただ、一方で、テクニックは申し分ないものの、なにかが足りないような気がしてならないのです。それは、テクニックとは別のものです。そして、私は、大塚英志が『atプラス』27号(太田出版)に寄稿した「機能性文学論」のなかで書いていた、つぎのような文章を思い出したのでした。

(略)何年か前、まんがの書き方を大学で教えていて印象深かったのは、かつて「ペンタッチ」と呼ばれた描線のくせ(註:原文は傍点)を彼らの多くが、忌避したがるという傾向だった。確かにまんがの描線は「きれいで細やかだが単調」というのが主流になっている。ペンタッチに作画上の個性を求めるという、ちょうど文学における「文体」に近いものがまんが表現でも忌避されているわけだ。


大塚英志によれば、堀江貴文(ホリエモン)は、かつて『ユリイカ』2010年8月号(青土社)の”電子書籍特集”で、「どうでもいい風景描写とか心理描写」をとっぱらって、尚且つ「要点を入れて」あるような小説をみずからの「小説の定義」としてあげていたそうです。それは、文学における文体の否定であり、文学に作者性=個性はいらないという、文字通り身も蓋もない”暴論”です。そこには、守銭奴の彼が信奉する経済合理性と通底する考えが伏在しているのでしょう。

ただ、大塚英志は、時代の流れのなかに、ホリエモンのように文学に「情報」(機能性)のみを求める傾向があるのもたしかだと言います。そして、「まんが表現における『ペンタッチの消滅』」は、「自我の発露である『文体』の消滅」とパラレルな関係にあるのだと言うのです。(余談ですが、私は、文体の消滅=「文学の変容」に関して、又吉直樹の『火花』と芥川龍之介の『或阿呆の一生』の同じ花火に関する描写を比較した部分がすごく説得力があって面白かったです)

それは写真も同じではないでしょうか。風景・心理描写やペンタッチをうっとうしいとか恥ずかしいとか思ったりする今の傾向は、写真においても個性の消滅というかたちで表れているのではないか。たしかに、インスタグラムにアップされている写真から見えるのは、個性より「情報」です。そこにあるのは、パターン化された構図と撮る人と撮られる人(もの)との無防備で弛緩した関係性です。おそらく二者の間になんらかの緊張感のようなものが存在すると、うっとうしいとか恥ずかしいとかいう感覚になるのでしょう。こんな機能性ばかりを求める摩耗した感覚こそ”今様”と言えるのかもしれません。

でも、これだけは言えるのは、いくら文学やまんがや写真の表現が「変容」しようとも、私たちの人生は「変容」しようがないということです。「快適」や「癒し」だけが人生ではないのです。他人から勇気やパワーをもらったりできるほど、人生は単純ではないということです。
2016.04.10 Sun l 本・文芸 l top ▲
バカラ


桐野夏生の新作『バカラ』(集英社)を読みました。帯には、「今、この時代に、読むべき物語。」という惹句とともに、「ノンストップ・ダーク・ロマン」という語句がありました。どういう意味だろうと思ってネットで調べても、『バカラ』以外にこの語は出てきませんので、もしかしたら造語なのかもしれません。

しかし、私は、この小説は「ノンストップ」では読めませんでした。途中、何度も挫折しそうになりました。「面白くていっきに読みました」というレビューを見ると、別に皮肉でもなんでもなく、すごいなと思います。こんなのが面白んだと感心します(これは皮肉です)。

群馬県O市で生まれたブラジル日系人の子ども「ミカ」。彼女は、家庭不和から夫と別れあらたな職を求めて渡航した母親に連れられて、中東のドバイに渡ります。ところが、母親は現地で知り合った情人に殺害され、「ミカ」は養子売買のシンジケートに売られるのです。ドバイのショッピングモールの奥にあるベビースーク。そこで売られている子どもたちは、全員「バカラ」と呼ばれています。「バカラ」とは、”神の恩寵”という意味です。2歳の「ミカ」=「バカラ」は、2万ドルで売られていました。

日本人の女性に買われて日本に戻った「バカラ」。しかし、東日本大震災によって、「バカラ」の運命は、さらに大人たちの思惑に翻弄されるのでした。福島原発の爆発直後に養父に連れられてフクシマに入った「バカラ」は、被爆して、のちに甲状腺ガンになっていることがわかります。「悪の権化」のような養父の手から逃れ、置き去りにされた犬とともに「警戒区域」の納屋のなかにいるところをペットを救済するボランティアの「爺さん決死隊」に発見された「バカラ」は、反原発派のメンバーとともに全国を放浪する旅に出ます。

当時の日本は、東日本は「警戒区域」に指定されて人口が激減し、首都も大阪に移り、東西二つに分裂した状態になっており、カルト宗教や排外主義(レイシズム)が跋扈する荒廃した世相にあります。そんななかで、被害を隠蔽し原発事故の収束をはかりたい推進派や警察は、さまざまな陰謀をめぐらし反対派の抹殺を狙っています。その数奇な運命から反原発派のシンボルのようになった「バカラ」の周辺でも、親しい人がつぎつぎと不可解な死に方をするのでした。

しかし、私には、この小説は”荒唐無稽”としか思えませんでした。エンタテインメントとは言え、話の展開が取ってつけたようにめまぐるしく変わるため、登場人物も尻切れトンボのように、途中であっけなくいなくなります。その唐突感は、『だから荒野』とよく似ていました。

それは、この小説も”反原発”とかいった観念が優先しているからではないか。小説というのは、絶対的に自由なものです。あらゆる観念から自由だし、自由でなければならないのです。まず”反原発”(それは、”社会主義バンザイ”や”戦争反対”でも同じですが)ありきでは、ステレオタイプで皮相的なつまらない作品になるのは当然です。自由であるからこそさまざまな人間も描けるし、奥行きのある面白い小説になるのです。自由であるということと”荒唐無稽”ということは、必ずしもイコールではないのです。

ジャンルは違いますが、たとえば、井上光晴の『地の群れ』などを対置すれば、それがよくわかります。戦後文学、特に左翼体験をひきずっていた近代文学派(系統)の作家たちにとって、観念との格闘は切実なものでした。ブレイディみか子氏の「右か左かではなく上か下か」ということばを借りれば、文学もまた「右か左かではなく上か下か」なのです。

「桐野文学の最高到達点」という惹句もありましたが、『ハピネス』などと比べてもとてもそうは思えませんでした。


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2016.04.01 Fri l 本・文芸 l top ▲
帝国の慰安婦


いわゆる「従軍慰安婦」問題に関する日韓合意について、私は、朴裕河(パクユハ)著『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)をとおして考えてみたいと思いました。

小熊英二の『<民主>と<愛国>』(新曜社)の帯に、「私たちは『戦後』を知らない」という惹句がありましたが、私たちは、戦後はもちろん、あの戦争についても実はなにも知らないのです。知らされてないのです。

90年代に再浮上した「従軍慰安婦」の問題は、私たち戦争を知らない世代にとっても、正視に耐えないようなおぞましくショッキングなものでした。できれば見たくなかった歴史の赤裸々な現実でした。それは、「強制性」があったかどうか、「自発的な売春婦」であったかどうかなんて関係なく、人として国家として、その根幹に関わる恥ずべき行為、恥ずべき歴史だと言えます。

慰安所の行列のなかには、間違いなく私たちの祖父や父親たちがいたのです。いくら「従軍慰安婦」の存在を否定しようとも、その事実は否定しようがないのです。そして、彼らは、そのおぞましい記憶を胸の奥に秘匿したまま戦後を仮構してきたのです。

慰安所の利用を常識とし、合法とする考えには、その状況に対する恥の感覚が存在しない。しかし、一人の女性を圧倒的な多数の男性が欲望の<手段>としたことは、同じ人間として、恥ずべきことではないだろうか。慰安婦たちが尊厳を回復したいと言っているのはそのためでもある。彼女たちの羞恥の感覚はおそらく、人間ではなく、<もの>として扱われた記憶による。
『帝国の慰安婦』(以下引用は同じ)


慰安婦問題の日韓対立は、記憶の対立で、そこに記憶の隠蔽と抑圧が存在していると言うのは、そのとおりでしょう。著者が見ようとしたのも、「強制」と「自発」の不毛な対立の先にある植民地支配の「矛盾と悲惨」であり、当事者の私的な記憶の回復です。国家としての公的な記憶や被害者史観に基づいた共有の記憶ではなく、元慰安婦たちのなかにある個別具体的な汚辱と協力と悲しみの記憶なのです。

著者が本の前半で、「韓国に残っているのは、あらゆるノイズを――不純物を取り出して純粋培養された、片方だけの『慰安婦物語』でしかない」と韓国内の取り組みに手厳しいのも(そのために元慰安婦の名誉を傷つけたと訴追されたのですが)、そういった理由によるものなのでしょう。

著者は、日本軍の関与だけが強調される一方で、慰安婦たちを直接集め管理し搾取した朝鮮人業者たちが不問に付されている現実に対しても、被害者史観に基づいた記憶の抑圧と批判しているのでした。「日本も悪いが、その手先になっていた朝鮮人のほうがもっと悪い」という元慰安婦の声は、支援者たちには無視され、日本の否定論者たちには、「責任転嫁の材料しにしか使われなかった」のです。

朝鮮人慰安婦は、ほかのアジアの慰安婦とは異なる存在だったと言います。たとえば、スマラン事件(インドネシアのジャワ島のスマランの民間人収容所に入れられていた17歳~28歳のオランダ人女性35名を日本軍が強制的に慰安所に拉致して、輪姦し売春させた事件)のような事例とは、同じ慰安婦でも質的に異なるのだと言います。それは、彼女たちが植民地人、つまり、「二番目の日本人」だったからです。そのため、如何にも日本的な名前を名乗らされ、着物を着て、「大和撫子」を装い、文字通り日本兵を慰安する役割を担わされたのでした。そこに朝鮮人慰安婦の「矛盾と悲惨」があるのだと言います。

 性を媒介とした日本軍と朝鮮人女性の関係は、しいて区別すれば文字通りレイプを含む拉致性(連続性)性暴力、管理売春、間接管理か非管理の売春の三種類だったと考えられる。オランダ人、中国人などを含む「慰安婦」たち全体の経験はこの三種類の状況を併せ持つものと言えるが、朝鮮人慰安婦の体験は、例外を除けば管理売春が中心だった。


もちろん、だからと言って、日本帝国主義が犯した罪が免罪されるわけではありません。「朝鮮人慰安婦問題は、普遍的な女性の人権問題以上に、<植民地問題>であることが明白だ。そして個人を過酷な状況に追い込む制度を国家が支えていた以上、『軍の関与』はまぎれもない事実となるほかないので」す。

慰安婦の発生起源は、近世以降の日本文化の伝統や、それを効率的に利用できるようにした近代的制度にあった。そこに帝国内の人々が動員されたのは、あくまで彼らが日本国民とされていたからである。もっともそのようなゆるやかな国家動員を可能にした直接の体制は、ファシズムや帝国主義である。しかし慰安所とは、あくまで<移動>する近世的遊郭が、国家の勢力拡張に従い出張り、個人の身体を国家に管理させた<近代的装置>だった。


かつて山崎朋子や森崎和江が書いたように、日本には年端もいかない少女たちが、「出稼ぎ」名目で、ボルネオやシンガポールなどアジアの娼館に売られていった「からゆきさん」の歴史がありますが、朝鮮人慰安婦たちは、公娼制度の最下層に組み入れられることで、そういった日本人の「代替」という側面もあったと言います。著者は、慰安婦の前身は「からゆきさん」であったと書いていました。

しかも、慰安婦問題は、決して過去の問題ではないのです。戦後、韓国は、日本と同じように、「共産主義から国を守る」ためにアメリカに従属したのですが、その過程で、慰安婦が再び「動員」されることになるのでした。

「沖縄でアメリカの軍属たちは一二歳ないし一三歳の沖縄少女たちを米軍基地にある捕虜収容所に入れて兵士たちへの性的なサービスを強制した。フィリピンでアメリカ軍の部隊長は積極的に売春を奨励し、彼らのうち一部は自分所有のクラブを持って売春婦たちを団体で管理した。一九七〇年代の韓国では軍用バスが一日に二〇〇人もの女たちを東豆川基地村から近くのキャンプケイシに運んだりした。このとき部隊長はそういうことを暗黙裡に見逃すか積極的に加担した」(引用略)のです。

さらに、韓国が経済成長した2000年代に入ると、東豆川基地村から韓国人の姿がなくなり、中国人朝鮮族やロシア人やフィリピン人やペルー人に取って代わったそうです。「これはまさしく、大日本帝国時代に日本人慰安婦がしていたことを朝鮮人慰安婦がするようになったのと同じ構造である」と著者は書いていました。

また、ベトナム戦争では、アメリカの傭兵として参戦した韓国人兵士たちが、「過去に日本やアメリカがしてきたことをベトナムでした」のです。著者は、「いつかベトナムの女性たちがアメリカや韓国に『謝罪と要求』をしてくる日が来ないとも限らない」と書いていました。

今回の日韓合意の背後にアメリカの意向がはたらいているのは間違いないでしょう。韓国の支援団体が慰安婦の少女像をアメリカに建立しているのも、アメリカ政府やアメリカの世論に訴えるためですが、そこには虎の威を借りたい狐の意図がミエミエで、あらたな「植民地支配の矛盾と悲惨」をくり返しているように思えてなりません。著者が言うように、「旧帝国(日本)の罪を、ほかの帝国(オランダ)と提携してもう一つの旧帝国(アメリカやイギリスやヨーロッパ)に問うて審判してもらうというような、今の運動における世界連帯は、その意味ではアイロニーでしかない」のです。

「帝国は崩壊したが、冷戦体制は依然として東アジアを分裂させ」、冷戦の思考をひきずったままなのです。それは、「強制」と「自発」をめぐって対立する両国の自称「愛国」者たちも同じです。

慰安婦問題が戦争も戦後も知らない私たちに突きつけた問題の在り処は、あまりに広く深いと言えるでしょう。それをひとつひとつ丹念に拾い上げ、真摯に向き合うことで、私たちは戦争や戦後を知ることができるのだと思います。もとより私たちは、戦争や戦後を知らなければならないのです。
2015.12.29 Tue l 本・文芸 l top ▲
拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々


元共同通信政治部記者の野上忠興氏が書いた『安倍晋三 沈黙の仮面 その血脈と生い立ちの仮面』(小学館)のなかに、「安倍が異様なまでに安保法案を『9月18日』にこだわったのはなぜだったのか」という文章があります。

 実はこの日程は、安倍が売りにしてきた拉致問題に絡んでいた。「9月18日」は、北朝鮮が日本政府に「1年程度を目標に再調査結果を報告する」と通告してきてからちょうど1年目にあたる日だったのである。
(略)
 この日が安保法案の参院強行採決と重ならなければ、新聞各紙には「北朝鮮の拉致被害者調査再開から1年、進展なく」などと北朝鮮外交の失敗が大きく報じられていたはずだ。国民的関心も高く、安倍にとって「売り」であった拉致問題での失敗は、当然ながら本人が株価とともに最も気にする内閣支持率に大きな影を落としかねない。それが安保法案にかき消され、拉致被害者調査が暗礁に乗り上げている実相は国民の目に触れないまま忘れられる格好になった。


2014年7月の日朝局長級協議で、拉致被害者らの「再調査」のための「調査委員会」の設置合意を受けて、安倍政権は北朝鮮に対する経済制裁の一部解除を決定したのですが、「再調査」の報告はその後再三延長された挙句、結局、「反故」にされたと日本政府は説明しています。

そのため、日本政府は、朝鮮総連の許宗萬(ホ・ジョンマン)議長の次男らをマツタケの不正輸入の容疑で逮捕して圧力を強めていますが、もし日本政府の言うことが本当であれば、拉致問題を政治的なパフォーマンスに利用するだけの安倍政権に対して、北朝鮮が一枚も二枚も上手だった、したたかだった、という見方もできるでしょう。

一方、拉致被害者・蓮池薫氏の実兄で、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」の事務局長であった蓮池透氏は、新著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社)で、北朝鮮が報告をしたくても日本側の都合で報告できないのではないか、と書いていました。もちろん、「再調査」とか「報告」とかいったものがまったくのカマトトであるのは言うまでもありません。常識的に考えても、全体主義国家が、拉致被害者や残留日本人(妻)の動向(生死)を把握してないはずがないのです。

また、拉致問題に詳しいジャーナリストのなかには、非公式に「報告」を受けているけど、政治的な事情で、日本政府がそれを公表できないのではないかという見方もあります。このように拉致問題は、「再調査」の「報告」ひとつとっても、一筋縄ではいかないのです。

問題は、蓮池氏も書いているように、拉致問題の解決の「定義」がはっきりしてないことでしょう。要するに、”落としどころ”が決まってないからです。これでは、「報告」のたびに、北朝鮮に対するバッシングだけでなく、日本政府の”弱腰”にも批判が集まるのは当然で、そんな解決の糸口が見えない状況に”苦慮”しているのは、日本政府も同じだというわけです。

私は以前、事務局長を解任されたあとの蓮池氏の講演を聞いたことがありますが、同書は講演のときにも触れていなかった「家族会」やその支援組織である「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)の”内情”を赤裸々に書いているので驚きました。それは各章の見出しによく表れています。

序章 「救う会」に乗っ取られた「家族会」
第一章 拉致を使ってのし上がった男
第三章 拉致被害者を利用したマドンナ
第五章 「救う会」を牛耳った鵺
第七章 カンパを生活費にする男

「拉致を使ってのし上がった男」や「拉致被害者を利用したマドンナ」や「『救う会』を牛耳った鵺(ヌエ)」や「カンパを生活費にする男」」が誰を指すのか。獅子身中の虫は誰なのか。拉致問題に少しでも詳しい人たちには明々白々でしょう。

「家族会」は収支決算報告をしたことがないそうです。著者が「横田ファンド」と呼ぶカンパで集まった億単位のお金は、横田滋氏がひとりで管理しているのだとか。「家族会」から「救う会」に渡った1千万単位のお金。「家族会」の事務局専従としてM氏に支払われた給与。挙句の果てに、「家族会」も「救う会」もお金がらみで内紛が起きるのでした。

この本のなかで、私があらためて興味をもったのは、2004年6月に蓮池薫・祐木子夫妻が上京し、赤坂プリンスホテルで、横田めぐみさんの情報を家族に伝えたその内容です。蓮池薫氏は、「たとえ、めぐみさんの消息にとってネガティブな情報であったとしても、断腸の思いで話した」と言っていたそうです。

①めぐみさんは、精神的にかなり病んでいた。
②めぐみさんのDVが激しく、娘のウンギョンさんは、たびたび同じ招待所に住む弟、蓮池薫の家に避難してきた。弟は、ウンギョンさんを歓待した(ウンギョンさんは、うちの三番目の子どものような存在だ、と弟は語る)。
③めぐみさんは、自分の髪の毛を自身の手で切る。洋服を燃やすなどの奇行を繰り返していた。
④めぐみさんは何度かの自殺未遂をしている。
⑤めぐみさんは、北朝鮮当局に対して、「早く日本に帰して」「お母さんに会わせて」と、盛んに訴えていた。弟は何度も止めるように促したが、彼女は受け入れなかった。
⑥夫の金英男氏は、めぐみさんとの結婚について、当局に騙されたといっていた。
⑦めぐみさんは二回、招待所からの脱走を試みた。一回は平壌空港を目指し、もう一回は万景峰(マンギョンボン)号が係留される港を目指した。その際、北朝鮮当局に発見され、拘束された。
⑧このため、弟一家や同じ招待所に居住する地村さん一家は連帯責任を問われ、「山送り(=強制収容所行き)」の危機に晒された。だが、弟たちの必死の請願により、それは免れた。その代わり、めぐみさんは、義州(ウィジュ)という場所にある四九号予防院(精神科病院)へ送られることとなった。
⑨その後、夫の金氏は、「何があっても一切の異議を申し立てない」という誓約書を書かされた。
⑩一九九四年三月、病院に向かうめぐみさんが乗ったクルマを見送った。それ以降、めぐみさんに会うことはなかった。
⑪夫の金氏は、数年後に再婚し、息子をもうけた。


しかし、母親の横田早紀江さんは、話自体を否定するのだそうです。蓮池薫氏は、「せめて、聞いたけれども信じたくないといってほしい」と嘆いていたのだとか。

ちなみに、横田夫妻は、滋氏が「宥和派」 、早紀江さんが「強硬派」で、意見が噛み合わず喧嘩になることもあるそうです。一方で、そういった意見の相違を利用して、北朝鮮は横田夫妻にさまざまなゆさぶりをかけているのです。

ジャーナリストの田原総一郎氏は、「横田めぐみさんらの拉致被害者は生きていない。外務省もそれをよく知っている」とテレビで発言し、1千万円の慰謝料を求める民事訴訟を起こされたのですが、蓮池氏も書いているように、「拉致問題に関して、日本政府の政策や『家族会』の意向に異論を唱えることがタブー化している」のは事実でしょう。

北朝鮮が「報告」できない理由(日本政府が「報告」を受けていても発表できない理由)は、このあたりにあるのかもしれません。

拉致問題を利用した政治家や反共(反北朝鮮)運動の活動家たち。「経済制裁をすれば北朝鮮はもがき苦しむ。そして、どうしようもなくなって日本に助けを求めてくる。ひれ伏して謝り、拉致被害者を差し出してくる」とか、北朝鮮に自衛隊(?)を派遣して奇襲作戦で拉致被害者を奪還するとか、そんな荒唐無稽な「強硬論」を利用し偏狭なナショナリズムを煽ることで名を売って、権力の階段を一気に駆け上がったのが安倍晋三氏です。しかし、小泉訪朝で拉致被害者5名が帰国した際、北朝鮮との約束だからと北朝鮮に戻ることを一貫して主張したのが、ほかならぬ当時小泉内閣の官房副長官であった安倍晋三氏なのです。そして、荒唐無稽な「強硬論」を煽ることで自縄自縛になり、その勇ましい声とは逆に拉致問題を停滞させたのも彼なのです。

私たちを政治利用する国会議員は、党派を問わず、タカ派と呼ばれる人が多い。見分け方は簡単である。そういう人は、間違いなくブルーリボンバッチを付けている。そして、必ずといっていいほど、北朝鮮に対して強硬な主張をする。
「今度帰ってこなければ、制裁復活だ。さらに追加制裁を要求する」と。


巻末では、蓮池透氏とジャーナリストの青木理氏が対談をしていましたが、そのなかで、青木氏はつぎのように安部首相の姿勢を批判していました。

 拉致問題を最も政治的に利用したのが安倍さんだったといっても過言ではないと思います。経済制裁をやるだけなら、誰でもできるでしょう。


日朝首脳会談後の日本の姿勢、特に安倍政権の対北政策は、ひたすら圧力をかけていれば北朝鮮が困って折れてくるはずという、単純皮相なものでした。


中国ばかりか韓国との関係すらぶち壊しておいて、日朝関係や拉致問題が前進するわけがないということです。歴史問題や靖国問題で中国や韓国を怒らせておいて、拉致問題の解決に向けた協力は得たい、というのはムシがよすぎる。


また、拉致被害者・蓮池薫氏のつぎのような発言も考えさせられるものがありました。

「頭でわかっていても抑えられない感情が相手にあることを理解するべきだ。それを刺激してはいけない。日本と朝鮮半島の過去の事実を踏まえながら今後の関係を発展させていくヒントはそこにある」


でも、こういった声も、安倍晋三氏には馬の耳に念仏でしょう。いつものようにせせら笑うだけでしょう。それがこの国の総理大臣なのです。
2015.12.21 Mon l 本・文芸 l top ▲