ここ数日の雨ですっかり秋めいてきましたが、こうやって季節は巡っていくんだな、とあらためて思いました。

ところで、昨日、仕事の合間に、原宿のクエストホールで開催中の”国境なき医師団写真展”「POSITHIV+~エイズINアフリカ」を観に行きました。

過酷な現実を伝える写真を前にして、貧困とは何かを考えさせられました。当然、そこには貧困を生み出す世界の構造があるはずです。

最近、格差社会だとか勝ち組・負け組だとか、安易に口にする風潮があり、特に若い人たちはあたかも自分たちが勝ち組になれるような甘い夢を見ているところがあります。

しかし、実際には彼らの大半は負け組になるしかないのです。勝ち組になれる人は全体の10%にも満たないと言われており、決して平等にチャンスが与えられているわけでありません。それがこの社会の構造なのです。

ただ単に「かわいそうだ」とか「悲しい」とかいった観念に流されるのではなく、まず貧困を生み出す構造をこそ見る必要があるのではないでしょうか。そして、それは、今、我々が直面しようとしている格差社会の構造とも重なってくるはずです。

折りしも、先日、かのブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが貧困とエイズ対策のためチャリティ基金を設立し、「グローバル・アクション・フォー・チルドレン」と「国境なき医師団」にそれぞれ100万ドル(約1億円)を寄付したというニュースがありました。
2006.09.27 Wed l 社会・メディア l top ▲
Google Earth earth.gif


14日、あのGoogle Earthの日本語版の提供がはじまったというニュースを観て、早速、ダウンロードして使ってみました。

噂にたがわず「凄い!」のひと言です。

もっとも、最新型のナビなどを見慣れた人たちにとって、Google Earthの画像は特段目新しいものではないでしょう。それよりも、私が「凄い!」と思ったのは、これだけの技術が無料で提供されることです。

それがGoogleがGoogleたる所以なのですね。そして、これこそがweb2.0じゃないか、と思いました。

最近いろんな雑誌でWeb2.0の特集が組まれていますが、なんだかweb2.0という言葉だけがひとり歩きしているような気がしてなりませんでした。

先ごろ東証マザーズにに上場したミクシィがweb2.0の代表的な企業だなんて言われても、「はぁ~」と思うだけでした。まして、かのカンブリア宮殿(東京12チャンネル)で、「次世代のネットビジネスの主役だ」なんて言われると、ミクシィには悪いですが、よけい眉に唾したくなります。

それにしても、グーグルが次々と打ち出すサービスはインターネットの次の時代を予感させるものばかりですが、やがてそれがマイクロソフトとの最終戦争に行き着くのは必然のような気がします。

2006.09.16 Sat l ネット l top ▲
週刊誌というのは、文字通り”俗情との結託”なのかもしれません。そのため、ときに過激すぎて物議をかもすことになるのでしょう。

私は、中村うさぎさんと酒井順子さんのファンなので、以前より『週刊文春』をよく買っていますが、今週号(9/21号)に思わずニヤリとするような記事が出ていました。

”ハンカチ王子”から感じる不思議 「高校球児の眉毛はなぜ細いのか」

実は私もそう思っていました(笑)。

最近、KAT-TUNの亀梨和也クンみたいな眉毛をしている選手が多く、マスコミが演出する”さわやかな高校球児”のイメージとはどう考えてもそぐわないのです。毎晩、カガミの前で眉毛のお手入れをしている彼らの姿をつい想像してしまいます。

私は、ゲジゲジ眉がトレンドだった(ナウかった?)郷ひろみや石原真理子の世代ですので、たとえば、「サプリ」(フジテレビ)で伊東美咲が亀梨クンに恋心を抱いただけですごいショックを受けたほどです。

それで、仕事先の女の子に「あんなヤンキーみたいな眉がカッコいいの?」と訊いたら、「お・じ・さ・ん」と言われてしまいました。
2006.09.13 Wed l 社会・メディア l top ▲
先日、高校時代の同級生からメールが来ました。

高校時代にアイドルのような存在の女の子がいたのですが、彼女が九州から上京するので久しぶりに会う予定になっているらしく、「お前も出て来ないか?」というのです。

高校時代の彼女はいつもニコニコして決して他人の悪口を言わない子でした。YMCAでボランティア活動もやっていて、学校の成績も優秀でした。

高校3年のとき、私はイタズラがすぎて謹慎処分になったことがありました。謹慎が解けた日、「クラスのみんなにどんな顔をすればいいんだろう」「嫌だな~」と思いながら登校しました。

そして、教室に入ったら、彼女がいつもの笑顔で真っ先に「おはよう!」と言ってくれたのです。それで救われたような気持になったことを覚えています。

もっとも、当時の私は他の女の子に夢中だったので、彼女と特に親しい間柄ではありませんでした。

だからというわけではないのですが、当日、仕事の関係でどうしても時間が取れず、行くことができませんでした。

で、昨日、同級生に「彼女はどうだったか? 幸せそうだったか?」とメールを送りました。

すると、「弟がガンで亡くなったと言ってたが、でも、昔のままだったな。そんなに苦労しているようには見えなかった。幸せみたいだ」と返事が来ました。

私は、それを読んでなんだかホッとしました。

誰かの台詞ではありませんが、人生いろいろです。ときに悲しいことやつらいこともあるかもしれませんが、彼女にはいつまでもあの笑顔を持ちつづけてもらいたいなと思います。

そして、またいつか彼女と会うことはあるんだろうか、と思いました。
2006.09.12 Tue l 日常・その他 l top ▲
今日、元一橋大学学長で歴史学者の阿部謹也氏が亡くなったという記事が出ていました。私もかつて氏の『「世間」とは何か』や 『日本社会で生きるということ』などを読んだ記憶があります。

九州の片田舎で生まれ育った人間にとって、世間というのは実にやっかいな存在でした。なんだか払っても払ってもつきまとってくるやぶ蚊のような存在でした(笑)。

先日、ある本を読んでいたら、社会学者がアメリカと日本でどれだけ他人を信用しているか、実験した話が出ていました。その結果、アメリカ人の方が他人を信用しているらしいのです。普通は逆のイメージがありますから、意外な気がしました。

日本の場合は、自分の利益より集団の利益を優先しなければならないという相互監視と相互規制のしくみが存在しているので、一見他人を信用しているように見えるだけなのだそうです。

その相互監視と相互規制の役割を日常的に担っているのが、世間なのではないでしょうか。

裏返して言えば、日本人は無理している分、人間関係にストレスを感じているのかもしれません。それがこの社会にイタズラ電話や痴漢など陰湿な犯罪が多い所以でもあるように思います。それは、いわば、世間の陰画(ネガ)と言っていいかもしれません。

ネットは世間の延長であるという言い方がされますが、たしかに掲示板の書き込みなどを見るまでもなく、非常にいびつなかたちで世間(の陰画)が存在している気がします。

そんなネットの書き込みやアンケートなどを取り上げて、テレビや新聞など既存のメディアは、「ネットでは圧倒的な支持」「抗議が殺到」「ブログ炎上」なんて言い方をしてますが、(何度も同じことをくり返しますが)それがホントにまともな世論と言えるのでしょうか。識者の中には「同調圧力」なんていうわかりにくい言葉を使う向きもありますが、単に付和雷同しているだけではないのでしょうか。

世間という概念がなくなりつつあるとか世間の縛りが緩んできたとかよくいわれますが、どっこい世間はより隠微なかたちで生き延びているように思います。日本人の精神性に根ざしている限りそう簡単になくなるものではないでしょう。
2006.09.09 Sat l 社会・メディア l top ▲