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仕事の合間、恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館で開催中の写真展「”TOKYO”マグナムが撮った東京」を観に行きました。

マグナムというのはロバート・キャパが設立し、今年で60周年を迎える自他ともに認める世界最高の写真家集団で、私も個人的にユージン・スミスエリオット・アーウィットらの写真集を持っています。(余談ですが、ウィキベディアには何故か「マグナム」の項目がないのです。不思議です)

ちなみに、アーウィットの写真展も現在銀座のシャネルで開催中のようです。(エリオット・アーウィット写真展「パーソナルベスト パーソナルチョイス」

写真展には1950年代から2005年までのマグナムの写真家達が撮った「東京」の写真150点が展示されていましたが、正直言って、やや違和感を禁じ得ませんでした。

これは「東京」ではなくただのパターン化された「アジアの風景」にすぎないんじゃないか、と思ったのです。もしかしたら、彼らは、ソウルや上海やハノイに行っても同じような写真を撮るのではないのか、と。また、欧米人(特にインテリ)が「アジア」を見るときは、やはり、このように上からの視点になるのかな、と思いました。

人によって東京への思いはさまざまで、とりわけ、我々のような地方出身者には、東京に対して屈折した思いがあるのは事実です。

希望と絶望、憧憬と失望、そんなアンビバレントな思いがない交ぜになって、それぞれの東京が存在しています。坂口安吾は「恋愛論」だったかで、悪女ほど魅力のある女性はいない、と書いていましたが、東京という街も、裏切られても裏切られても恋しつづける悪女のような魅力があります。

もちろん、そういった極私的な東京を彼らに期待するのは無理な相談ですが、ただ、彼らが写し撮った東京と、東京の片隅で蝋燭の炎のようなか細い生を営む我々が片恋的に思いを寄せる東京とは、やはり、似て非なるものだと言わざるを得ません。

だから、「東京」ではなく「TOKYO」なんだ、と言われればそれまでなのですが‥‥。
2007.04.23 Mon l 本・文芸 l top ▲
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早朝、郵便局に行く途中、しばし橋の上から落ち葉がたゆたう川面を眺めながら、前日、学生時代の友人から届いた手紙のことを考えていました。

それは、同級生の女の子の訃報を知らせる手紙でした。癌だったそうです。

その手紙には、手術して一旦元気を取り戻したとき、一緒に上野の美術館に行って楽しいひとときをすごしたのがいい思い出です、と書いていました。

別の友人にその話をしたら、「運命だよ」と言ってました。冷たい言い方に聞こえますが、しかし、私達はもはやそんな言い方をするしかないのかもしれません。

死にたいやつは死なしておけ、俺はこれから朝飯だ

これは、昔、作家の吉行淳之介さんのエッセイの中で紹介されていた詩の一節です。作者の名前も詩の題名も覚えていないけど、このフレーズだけが何故か頭に残っている、と吉行さんは書いていました。

この作者の気持はすごくわかりますね。「運命だよ」と言った友人の気持も同じだったのではないでしょうか。

このところ、以前親しくしていた人の悲しい知らせがつづいています。いづれも鬼籍に入るにはまだ早すぎる年齢の人達ばかりです。

先日も仕事で親しくさせていただいた方が亡くなりました。

別に胸騒ぎがしたわけでもないのですが、ふと思いついて、その方の仕事先を訪ねたところ、事務の女性から「エッ、知らなかったんですか? 昨日、葬儀だったんですよ」と言われてびっくりしました。仕事を終えて職場を出た途端倒れて、そのまま還らぬ人となったのだそうです。

お宅に伺うと、奥さんから「連絡しなくてすいませんでした」と言われました。急に亡くなったので、住所録もどこに仕舞ってあるかわからなかったのだそうです。

その方からもらったメールが今も受信フォルダに残ったままです。そのメールを読み返すたびに悲しくもあるけれどなんだか不思議な気持になります。

「倶会一処」

人生は出会いと別れのくり返しと言いますが、これからも何度も何度もこの言葉を胸の内でくり返さなければならないのでしょうか。
2007.04.18 Wed l 訃報・死 l top ▲
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昨日、NHKスペシャル(再放送)の「松田聖子、女性の時代の物語」を観ました。

私のまわりでも、特に仕事を持っている30代40代の女性で彼女のファンというのはホントに多いのです。

ちなみに、私も若かりし頃買った「Pineapple」というアルバムを今も大事に持っています。

もっとも、番組のタイトルに関しては、今更「女性の時代」もないだろうと思いました。また、番組中、彼女にインタビューしていた脚本家の大石静さんが、「世間に大見得を切った最初の女性」と言ってたのもいささかオーバーじゃないかと思いました。

実際、インタビューの中でも、彼女の口から出て来る言葉はどれもありきたりで、特に「すごい」と思うようなものは何もありませんでした。それに、彼女が切望したアメリカ進出も、どう考えても失敗でしかないし、そもそも彼女にアメリカ進出するだけの実力があったとはとても思えません。

そんな凡庸な一面があるにもかかわらず、松田聖子という存在はいつも輝いているし、人々を惹きつける磁力を持っているのです。まさにそれがスターたる所以ではないでしょうか

フェミニストの小倉千加子は、『松田聖子論』(朝日文庫)の中で、松田聖子の世界には、近代的家族制度への「反抗と回帰の間で揺れながら、最終的には『ママのようなつまらない生き方』を自ら繰り返そうとしない<決断>」があると書いていましたが、それがファンたちが彼女に魅かれる、もうひとつの理由なのかもしれません。

数々のスキャンダルやバッシングにもめげずに前へ前へと進んでいく彼女の姿も併せて、ファンは松田聖子の世界に共感し憧れるのでしょう。そんな彼女に対して、私は同じ九州の人間として、九州の女子(おなご)の強さを感じます。

女性がこの社会で自分らしく生きていくのが如何に大変であるかは、今更言うまでもないでしょう。まだまだ「女性の時代」と言うにはほど遠い現実があることも事実なのです。

女性の知人からよく「男はいいよね~」「女というだけで損することが多いんだよ」と言われますが、たしかに、女性であるというだけで軽んじられ悔しい思いをすることが多いのも事実でしょう。

そんな中で、いつまでも若く、そして、ときに世間的な価値に抗って自分の生き方を貫いている彼女を多くの女性達が支持するのはなんとなくわかるような気がします。もし松田聖子が今もまだ幸せな結婚生活をつづけていたら、こんなに多くの女性達に支持されることはなかったのではないでしょうか。

番組では、「女性の時代」を強調するあまり、起業家や管理職の女性ばかりを取り上げていましたが、松田聖子ファンの中ではむしろそんな女性達は例外ではないでしょうか。

お金やポストだけで力強く生きていけるほど人生は単純ではないし世間は甘くはないし、それに、誰しもそんなチャンスに恵まれるわけではありません。だからこそ、女性性を逆手にとってたくましく且つしたたかに生きている松田聖子が支持されるのだ思います。



>> 『松田聖子論』復刊
>> 『松田聖子論』
2007.04.13 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
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都内では今日の夕方、みぞれが雪に変わり、黄昏の空に白いものが舞っていました。4月の雪は19年ぶりだそうです。近くの川ではビルの灯りに照らし出された川面をピンクの花びらがゆらりゆらりと揺れながら流れていました。こうして桜の季節も終わるんだな~と思いました。

今、話題の本、『下流志向』(内田樹著)を読みました。三浦展氏の『下流社会』以来、”下流”という言葉もすっかり定着した感があります。

学級崩壊やニートの問題を引き合いに出すまでもなく、昨今、「学ばない子供」や「働かない若者」がマスとして出現していることには誰も異論はないのではないでしょうか。

そして、その先にあるのが”下流”(名著の誉れ高い山田昌弘氏の著名に従えば「希望格差社会」)のきつい現実です。

では、どうして彼らのような子供達が出現したのでしょうか。

著者によれば、80年代以降の子供達は最初から消費者として社会経験をスタートさせており、それが以前と決定的に違うことなのだそうです。つまり、子供のときから既に消費社会の一員として組み込まれるようになったというわけです。

それはすごくよくわかる話です。

私達が子供の頃は子供は消費者ではありませんでした。つまり、市場の外に置かれていたのです。

たとえば、洋服だって上からのお下がりか、親が買ってきたものを一方的に着せられるだけでした。だから、早く大人になって自分で好きなものを買いたい、つまり、一人前の消費者になりたいと思ったものです。

しかし、今や、休日に原宿や渋谷の通りを歩いている子供達を見るまでもなく、子供向けのファッションは一大マーケットになっています。

お店に行けば、子供であっても既にひとりの消費者として遇される(「お客様は神様」扱いされる)のです。そして、みずからの趣向で自由に商品を選ぶことができるのです。もちろん、それは、ファッションだけに限った話ではありません。

その結果、子供達は、学ぶことや働くことさえも「どんな役に立つのか?」「どんな得があるのか?」などと経済合理性=費用対効果で考えるようになり、それに対して親や教師が納得できるような回答を与えることができなくなっているのだとか。何故なら、学ぶことや働くことは、本来そんな経済合理性で測ることができるようなものではないからだ、と著者は言います。

教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができないということにあります。(教育の逆説)

つまり、学ぶことや働くことについて、あらかじめ「どんな役に立つのか?」「どんな得があるのか?」と考えること自体、間違っているというわけです。著者は、「答えることのできない問いには答えなくてもよい」とまで言ってました。

私が思うに、消費するということは快楽なんですね。で、最初にそんな快楽を知ってしまった子供達が、学ぶことや働くことといった、ときに苦痛が伴うような地道な努力をバカらしいと思うようになったというのは当然と言えば当然ではないでしょうか。

もちろん、それを「自己責任」の一語で片付けるのは簡単ですが、むしろ、私は、消費社会という資本主義のメカニズムに翻弄される無防備な子供達の姿を考えないわけにはいきませんでした。その姿にはある種痛ましささえ覚えてなりません。
2007.04.04 Wed l 社会・メディア l top ▲