朝日新聞の日曜版に連載されている「家族」に先週、読者からの手紙として女優の江角マキコさんの手紙が掲載されていました。

昨年、弟さんが癌で亡くなったことを綴った手紙でした。

昨今、勇ましい言葉ばかりが飛び交っている風潮の中で、愛しい人との別れと家族への愛を自分の言葉で等身大に語った江角さんの手紙は、それだけにいっそう胸を打たれるものがありました。

江角さんが高校1年のときお父さんが急死し、そのとき、中1の弟さんは「部屋に閉じこもり『お父ちゃん、お父ちゃん』と何度も叫んで、泣いていた」のだそうです。それから20年後、今度は弟さんが36才の若さで奥さんと3人のお子さんを残して旅立ったのです。

「去年、桜を見て、私たちは何度、泣いたことでしょう」と江角さんは書いていました。

一昨年、胃癌だと診断されて胃の全摘出手術を受けて退院したものの、去年の4月、癌が脳に転移していることが判明、「余命1年」の宣告を受け再入院してひと月後、弟さんは還らぬ人となったのです。

弟さんから「母さんには言わないで」と言われていた江角さんは、お母さんに病状のことは内緒にしていたものの、亡くなる3日前に打ち明けたのだそうです。

病院の階段のおどり場で「母さん、本当は良くないんだよ。しっかりしてね」と言うと、「真紀ちゃん、私は母親だけん、わかっちょったよ。あんたがどんどんやつれていくのを見て、わかっちょった」

人は誰しも大なり小なりこのような悲しみを抱えて生きているのではないでしょうか。だからこそ、江角さんのように、「今日がある―。こんな当たり前のことが私たちにとっては、幸せです」と言えるのではないでしょうか。それが仏教で言う「還相(げんそう)」ということかもしれない、と私は思いました。

生命科学者の柳澤桂子さんは、「死によって生が存在する」と言ってました。「死は生の終着点のように思われていますが、けっしてそのようなものではありません。死は生を支え、生を生み出します。」(『永遠のなかに生きる』)

仏教に「人身受け難し今すでに受く」という言葉がありますが、受精のメカニズムを考えるとき、私達がこの世に生を受けたこと自体奇跡に近いとさえ言えるのです。そして、私達の中には40億年の人類の歴史が書き込まれた遺伝子が受け継がれており、さらにそれは次の世代へと永遠に受け継がれていくのです。

「我々は遺伝子を運ぶ乗り物にすぎない」と言ったのは、『利己的な遺伝子』のリチャード・ドーキンスですが、まさに私達は生きているのではなく生かされているのだ、と言っても決して過言ではないでしょう。

今日一日を精一杯生きる、こんな言葉がいつにもまして重く感じられる手紙でした。


2007.05.22 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
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ラゾーナ川崎(正確にはラゾーナ川崎プラザ)に行きました。

ここのウリはなんといっても川崎駅から直結した立地のよさです。首都圏のターミナル駅の横にこれほど広大な土地が残っていたとは驚きですが、といっても別に空き地だったわけではなく、東芝の工場跡地だそうです。

私も以前はよく川崎に行ってましたが、たしかに反対側の東口しか記憶になく、そもそも西口なんてあったのという感じでした。ちなみに、私が川崎に通っていたときにちょうど駅ビルの川崎BEがオープンしたのですから、やはり、昔日の感があります。

ところで、この建物の構造はどこかと似ているなと思ったら、先日紹介した横浜ららぽーととそっくりなのです。それもそのはずで、こっちの方が半年早かったようですが、運営しているのが同じ三井不動産です。

ただ、ラゾーナ川崎の場合、地権者である東芝不動産と共同開発だそうです。そのため、建物内のエレベーターは、みずからの負担で取り付けたビックカメラを除いて、全て東芝製になっているという鋭い指摘がウィキペディアにありました。

ということは、屋上に鎮座ましましているミニ出雲大社(!)も東芝がらみなのでしょうか。縁結びの神様であるにもかかわらず、若いカップルから「なに、これ?」「出雲大社だって」と一笑に付されていました。

ラゾーナ川崎もターゲットはファミリー層だそうですが、そのためか、テナントもむしろリーズナブルなショップが目に付きました。

ユニクロもあるしロフトもあるしプラザ(旧ソニプラ)もあるしビックカメラもあるしサザビーもあるしアカチャンホンポもあるしディズニーストアもあるし‥‥、ホントになんでもあるって感じです。

また、飲食のテナントが多いのもここの特徴です。それも、やはり、ファミリー層を意識してラーメン屋だとか鯛焼き屋だとかいった、どちらかと言えば庶民派の店が多く見られました。

私が行ったのは土曜日の午後だったのですが、たしかにどこを見ても家族連ればかりで、その中にカップルが混じっているという感じでした。その意味では狙い通りかもしれません。

そんな中、夜勤の仕事に出かける途中に立ち寄ったとおぼしき、ショルダーバックを肩から下げた初老の男性が、明らかに戸惑った様子でショップの案内図を見上げていたのが印象的でした。

開店当初、アルバイトをしている青年がみずからのブログに、「ここは原宿か」と興奮気味に書いていたのを読んだ記憶がありますが(笑)、半年が経ち開店景気がすぎつつある今、正面の広場に集う家族連れを見るにつけ、意外にショップの袋を持っている人が少ないのがちょっと気になりました。

屋上では父子がキャッチボールをしているほほえましい光景が見られましたが、住宅棟も併設しているので、そういった日常に隣接したショッピングセンターというのがラゾーナ川崎のもうひとつの特徴と言えるのかもしれません。つまり、よそ行き(ハレ)の場所ではないのです。

もっとも、同じ川崎市民でも東京(渋谷)や横浜への親近感が強い中原区や高津区や宮前区の住人達が、週末になると”ギャンブル路線”などとヤユされるあの南部線に乗ってわざわざやって来る(南下して来る)とはとても思えません。

それに、これからの季節、広場が茶髪にストリートファッションの川崎少年達の溜まり場と化すのではないか、と私はひそかに心配しています。広場のオブジェがスプレーで落書きだらけなんてことになったら目も当てられません。

とは言え、ターミナル駅に直結するという立地条件が最大の強みであることはたしかなのですから、これからパターン化された店舗構成が徐々に修正され、川崎という土地にふさわしいショッピングセンターに変わっていくのではないでしょうか。それが適者生存の法則というものでしょう。
2007.05.15 Tue l 横浜 l top ▲
昨日、帰宅したら留守電に九州の母親からメッセージが入っていました。

「大分の××××(氏名)と言います。ゆうべ、夢を見て、気になり電話しました。元気にしてますか?」

私は、それを聞きながら、胸が塞がれるような気持になりました。すぐに電話しようかと思いましたが、どうしても電話することができませんでした。電話して母親の声を聞くといっそう哀しくなると思ったからです。

そして、先日、日本経済新聞に載っていた作家の盛田隆二さんの「幼児のように泣く父」というエッセイを思い出しました。

80才を越えてボケの症状がひどくなってきたお父さんを介護老人施設に入居させることを決意し、施設に連れて行って、盛田さんが帰ろうとすると、お父さんが突然、幼児のように泣き出したのだそうです。

そのときの盛田さんの胸中は察してあまりあるものがあります。

人間は誰しも老いから逃れることはできません。でも、親の老いた姿はどうしてこんなに哀しいんだろうと思います。

10数年前、入院していた父親の容態が急変したという連絡をもらって九州に帰ったときのことでした。母親は既に父親に付添って毎日病院で寝泊りしていました。

容態が持ち直したので再び東京に戻る日、「じゃあ、ぼつぼつ帰るよ」と言って病室をあとにした私を母親は階段のところまで見送りに来ました。

「じゃあ、また」

そう言って階段を下り、途中の踊り場でふと階段の上を振り返ったときでした。母親が両手で顔を覆って泣いていたのです。

私は見てはいけないものを見たような気がして、急ぎ足で階段を下りて行きました。

「哀しみは人生の親戚」と言いますが、その言葉は私の中ではあのときの母親の姿と重なっています。

結局、人生というのは、最後は「哀しい」という言葉でしか表現できないものなのでしょうか。
2007.05.10 Thu l 故郷 l top ▲