
ポプラ社から出ている『ワーキングプア・日本を蝕む病』(NHKスペシャル「ワーキングプア」取材班)を読みました。知り合いの書店員の話ではよく売れているそうです。それだけ格差社会に対する関心が高いということなのでしょうか。
『文藝春秋』(9月号)の書評欄でもタレントの麻木久仁子さんがこの本を取り上げていましたが、その中で麻木さんは次のようなエピソードを紹介していました。
この国で当代随一の人気司会者は、自身の番組で格差問題を取り上げた時にこう言ったことがある。
「格差とは何のことかわからない。一生懸命働く人と、そうでない人に格差があるのは当然。最低賃金を決めることすらおかしい。最低賃金なんて保証すると、努力しない若者が増える」
内容もさることながら、これが視聴者の空気を読むことに天才的に長けている人物の発言であることに怖さを覚えた。
この言葉を広く受け入れる空気が今の世の中にあるということなのだろうかと。
自己責任・自助努力・甘え‥‥、ある意味でこれらは何と便利な言葉なんでしょう。そして、そうやってレッテル貼りをすることで、所詮他人事として現実から目をそらし思考停止する人間達の何と多いことか。しかし、そんな彼らも明日はわが身かもしれないのです。
家賃滞納で都営アパートを追い出され、電車内や駅のホームで集めた古雑誌を生活の糧に路上生活を送っている青年。経営難と妻の介護で生活費にも事欠くような生活を送るキャリア40年の洋服仕立人。昼夜二つのアルバイトをかけ持ちしながら(ダブルワーク!)、睡眠時間4時間で二人の子供を育てているシングルマザーの女性。アルミ缶拾いをして得た月5万円の収入で極貧の生活を送る無年金の老夫婦etc‥‥。
病気・事業の失敗・離婚・失業等、そこには私達がいつ遭遇するかもしれない人生のアクシデントがあります。そのために、国がサポートするいわゆるセーフティネットとしての福祉があるはずなのです。本書でも指摘されているとおり、憲法でも「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(第二十五条)と謳っているくらいです。
父母の介護を抱え、子供を育てながら仕事をしているという女性ディレクターが、番組放映後、プロデューサー宛に送ってきたメールの一部が「あとがき」で紹介されていましたが、そこにも「決して他人事ではない」という思いが込められているように思いました。
わが家を振り返ってみて、誤解を恐れずに言えば、人にはどうしようもない運命、というものはあるのだと思います。でも、その人自身の運命を大きく変えるのは無理だったとしても、その運命を支えている社会は、少しでも何かができるかもしれない。「あなたに必要な命だ」と言ってあげられるかもしれないと思います。
メールを紹介したプロデューサーは、「このディレクターのメールの中に、『ワーキングプア』の解決の糸口が垣間見えたような気がしました。」と書いていました。
私は最近、横浜の寿町によく出かけるのですが、20数年前、やはり、寿町に通っていた頃と比べると住人は高齢化し、かつてのような殺気立った雰囲気はすっかり影をひそめています。その代わり、杖をついて足をひきずって歩いているような高齢の住人の姿が目につくようになりました。彼らはドヤ(簡易宿泊所)に定住しながら生活保護などを受給しているケースが多く、寿町に関しては支援者の努力もあって行政の施策はそれなりに機能しているように思います。
しかし、一方で、”偽装請負”の問題でクローズアップされた派遣労働の例を引くまでもなく、「『IT技術をもってさえいれば、億万長者になれる国』で、『工場で朝から晩まで額に汗して働いても、日々の暮らしもままならない』というのは、何かが間違っているのではないだろうか」という本書の問いかけには首肯せざるを得ません。
自己責任・自助努力・甘え‥‥、そんなレッテル貼りで現実から目をそらすのではなく、私達に必要なのはまず現実を直視することではないでしょうか。そして、明日はわが身かもしれないという真っ当な想像力を取り戻すことではないでしょうか。あらためてそう思いました。