横浜や鎌倉など地元の人達と話をしていたら、みんなが口を揃えて「横浜って田舎だよね~」「横浜は地方都市だよ」と言うので私は面食らってしまいました。だって世間では横浜はオシャレな街だというイメージがありますし、地元の人達も同じような認識を持っているはずだと思っていたからです。地方出身者の必読書『東京人のしきたり』(KAWADE夢文庫)という本にも以下のような記述がありました。

 (東京人が)実はかっこいいなぁとひそかに憧れを抱いているのが、横浜の人です。
 東京人は一応自らを都会的だと思っているわけですが、なぜか横浜には頭が上がりません。その昔、ハマトラなる清潔感あふれるお嬢様スタイルが流行ったときは、タツノオトシゴのマークの刺繍が右胸に入ったフクゾーの服と、ぺったんこなミハマの靴、Kのロゴが付いたキタムラのバックを求めて東京から女子大生が大挙して横浜の元町に押し寄せました。フェリス女学院の学生は全員美人だと思っていた東京人もいました。
 それ以来、東京人は横浜には一目置くようになったのです。それを知ってか知らぬか、横浜の通称ハマっ子も、「どこに住んでいるの?」と聞かれて、「神奈川」とけっして言いません。さりげなく、「ヨコハマ」と言います。たとえ家が横浜市の端っこのほうであってもです。


しかし、現実には地元の人達は横浜がオシャレだとはちっとも思ってなくて、むしろ東京に行くとその都会ぶりに圧倒されるのだそうです。たしかに、東京は日本中のお金の半分以上が集まっているお化けのような大都会ですが、しかし、お金があることとオシャレだということは別問題です。そう反論しようと思ったものの、ふと、彼らの言うことも一理あるかもしれないと思いました。

横浜に来て常々思っていたことなのですが、横浜の人達は歩くのがとてものろいのです。そのため、万年工事中の横浜駅の人ごみの中を歩くたびにいつもイライラします。それに、エスカレーターに乗る際も横からどんどん割り込んで来るので、律儀に列の一番後ろに並んだ人はいつまで経ってもエスカレーターに乗れなくてバカを見るはめになります。地元の人間に言わせれば、それはマナーが悪いのではなく、マナーを知らないだけなのだそうです。そう言えば、横浜駅周辺を見るにつけ、たしかに周辺の郡部から買物などで中心部の繁華街に出て来る、ひと昔前の(”ファスト風土化”する前の)地方都市の光景と似てなくもありません。

ところが、そんな横浜の中にあって山手だけは別格なのです。彼らも「あそこは特別だよ」と言ってました。ある意味で、我々が求める横浜らしさが残っている唯一の場所と言ってもいいかもしれません。「山手って田園調布より高級かもしれませんね?」とおべんちゃらを言ったら、「当たり前だよ!」と語気を強めて言い返されました。

山手洋館

今でもフランス山やイタリア山という名前が残っているように、開港当時、山手は欧米人を中心とした外国人の居留地だったところです。かつてこの日本も欧米列強に植民地支配されていた時代があったんじゃないかと思うほど、当時、山手が別世界だったことは容易に想像できます。文字通り丘の上にはお屋敷(それも洋館の)が建ち並んでいたのですね。(もっとも洋館の大半は関東大震災で倒壊し、現存する建物は震災後建て直されたり保存のために移築されたものだそうです)

山手中央通り

山手電話ボックス_edited

今でも山手の通りを歩くと、丘の下の喧騒が嘘のように静かで落ち着いた雰囲気を漂わせています(ただ週末は観光客が押し寄せるので騒がしくなるようですが‥‥)。そんな中に、フェリス女学院や横浜雙葉や横浜共立学園や横浜女学院など偏差値の高いお嬢様学校が点在しているのです。

今流行りのセレブという言葉にはどこか”成金(それも趣味の悪い!)”というニュアンスが含まれている気がしないでもないですが、山手のお屋敷にはセレブではないホンモノの上流階級が住んでいるような錯覚さえ覚えます。三島由紀夫が『午後の曳航』の舞台に山手を選んだのはなんとなくわかる気がしますね。

外人墓地

大昔の学生時代、後楽園球場で弁当売りのアルバイトをしていたとき、やはりアルバイトに来ていたフェリスの女の子と親しくなったことがありました。当時は今ほどお嬢様学校というイメージはありませんでしたが、そうか、あの子は石川町の駅から毎日坂道を上りここに通っていたんだな~と思ったら、柄にもなくちょっとセンチメンタルな気分になりました。

夏が近づいたある日、突然、「夏休みになったら軽井沢に遊びに行かない?」と言われて、九州の片田舎から出て来てアルバイトに明け暮れる毎日を送っていた私は、その軽井沢という言葉にめまいを起こしそうになりましたが、日常の中に山手や元町があった彼女にしてみれば、それは特別なことではなかったのかもしれませんね。げに環境とは恐ろしきかな。

山手坂道

丘の上と下はいくつもの坂道でつながっているのですが、帰りはケモノ道のような細い坂を下ることにしました。下界が近づいて来るにつれ何だか現実に戻っていくような気がしました。坂の途中、朽ちたまま野ざらしにされている廃屋がありました。そして、坂を下ると山手トンネルの手前に出ました。

麓の元町商店街はもともと居留地の外人向けの商店が発展してできたのだそうで、だから昔はあこがれの欧米文化を直接吸収できるオシャレな場所だったわけです。元町を歩いていると、犬を散歩している人を時折見かけました。そうやってわざわざ元町の商店街の中を散歩させていると、あたかも丘の上の住人であるかのように思ってしまいますが、しかし、私には彼らは絶対に違うだろうという妙な確信のようなものがありました。
2008.03.25 Tue l 横浜 l top ▲
大船商店街01

大船と言えば、かつて松竹の大船撮影所があった場所として有名で、俳優の笠智衆さんによる『大船日記―小津安二郎先生の思い出』という本もあるくらいです。

しかし、実際の大船は、一般的な鎌倉のイメージとは違ってきわめて庶民的な街です。特に東口の仲通り商店街は活気に満ちあふれています。地元の人に聞くと値段も安いそうです。大船駅でもご多分にもれずJRがエキナカなるものを作り利用客の囲い込みを行っていますが、エキナカなんてクソ食らえ!と言ってるようで頼もしい限りです。その意味では大船にはまだ街が残っている(街が殺されていない!)と言ってもいいかもしれません。

大船の商店街では買い物カゴを下げたお年寄りをよく見かけますが、やはり、それだけ歴史の古い住宅地だからなのでしょう。特に女性が元気な街のような気がします。撮影所の跡地に女子大ができたということもあって、街を歩いている若者も女の子の方が溌剌としています。一方で、意外にも大船は大手メーカーの工場なども多く、そういった関係で一番街のような渋い飲み屋街も健在です。

大船のような等身大の街を歩いていると、やっぱり街はいいもんだな~とあらためて思いますね。それは、「楽しい生活」だの「おしゃれな生活」だのといった、それ自体ほとんど意味のないお仕着せのイメージで塗り固められた駅ビルやショッピングセンターでは絶対に味わえない感覚です。

大船大仏01

西口にはご存知、観音さまが鎮座ましましています。と言っても、胸から下は土に埋まっており、木立の間からひょっこりと上半身を現しているその姿は異様な感じがしないでもありません。私などは不謹慎にも東京タワーの背後に屹立するモスラを連想してしまいます。しかし、ネットで調べたところ、この大船観音は意外と歴史が古く、(信仰する人達には失礼な話ですが)思っていたほどいい加減なシロモノではないことがわかりました。特にアジアからの参拝客が多いというのは面白いなと思いました。夜になるとライトアップされるためいっそうその異様さが増し、個人的には夜の方が一見の価値ありだと思います。
2008.03.14 Fri l 横浜 l top ▲
新港埠頭0306


このブログでもお馴染みになりましたが、最近は自宅の近くより横浜港界隈を散歩することが多くなりました。

既定のコースは、横浜駅東口のスカイビルの横から地上に出て築地橋を渡り、みなとみらいの未整備地区→マリノスタウン新港パークパシフィコ横浜→新港埠頭(赤レンガ)です。さらに新港埠頭からは山下臨港線プロムナードという遊歩道を通って山下公園に行くか、汽車道を通って桜木町駅に行くか、二つに分かれるのですが、最近は遊歩道が改良工事で閉鎖中ということもあって、もっぱら汽車道の方を歩いています。さらに時間があれば桜木町駅から野毛を通って伊勢佐木町まで足を延ばします。

新港看板0306

横浜港界隈は平日だとそんなに人が多くなく、しかも、カセットレコーダーで音楽をかけダンスの練習をしているようなガキ‥‥、いや、失礼、アーティスト志向の少年少女達もいないので、のんびりと落ち着いた時間を満喫できます。ひとりでベンチに座り海を眺めて過ごしているような人もチラホラ見かけます。ただ、夕方以降になると、やけに息遣いの荒い若いカップルがどこからともなくやって来て、あたりかまわず抱擁をはじめるので、それが要注意ですが‥‥。

帰りに、馬車道のとある洋食屋で夕飯を食べました。B級グルメのサイトでは評判の店です。某ミステリー作家も贔屓にしている店だそうで、オフィシャルサイトを見るとたしかにベタ褒めでした。

ハンバーグ定食を食べましたが、正直言って”がっかり”でした。不味くはないけれど、ネットで言うほど美味しくはありません。私がいちばんがっかりしたのはご飯でした。ご飯が不味いのです。これはある意味で致命的だと思いました。

私の知っている洋食屋の若いオーナーは、独立して店を出すとき、師匠から「米だけは絶対にいいものを使え」と懇々と言われたのだそうです。ご飯が不味いと全てが台無しになる。これは鉄則ではないでしょうか。

ネットで書かれていることは鵜呑みにできないなとあらためて思いました。
2008.03.06 Thu l 横浜 l top ▲
梅0305


この時期、最寄り駅ではリュックを背負った中高年のグループをよく見かけます。中にはバスガイトのような小旗を持って、改札口から出て来る人を出迎えている世話役の老人もいるほどです。皆さん、先週からはじまった大倉山公園の梅祭りを訪れる人達なのです。

それで、私も梅を見に駅の横の坂道を上りました。

以前住んでいた埼玉も越生の梅林が有名ですが、梅林の規模から言えば比較になりません。文字通り小さな公園と言った感じです。梅林の中央にはテントが張られ仮設の休憩所が設けられていました。そして、お決まりの雅楽がテープで流されていました。

ただ、気になったのは、そのすぐ側で近所の子供達が野すべりをしていたことです。もともと野すべりをするような場所ではないので、子供達の嬌声もさることながら、彼らが乗ったダンボールによって傾斜面の草が剥がれ、至るところ地肌がむき出しになっているのです。小さな子供が多かったので、お母さん達も一緒でしたが、ちょっと首を傾げざるを得ない光景でした。
2008.03.06 Thu l 日常・その他 l top ▲
3月3日、詩人の松永伍一氏が亡くなったという記事をネットで見ました。

私は若い頃、松永氏の本を愛読していた時期がありましたので、またひとり人生の先達がいなくなったのかと思うと、やはりさみしさを覚えてなりません。松永氏のことは、松永氏と同郷の五木寛之の本を通して知りました。

私は、松永氏に二つのことを教えられた気がします。

ひとつは、ふるさとというものについてです。当時、田舎に蟄居していた私にとって、ふるさととはなんだろうという疑問がいつもつきまとって離れませんでした。ふるさとはいいものだとは言えないし、だからといってふるさとはくだらないとも言えない、そんな相反する二つの気持が私の中にありました。そんな中、松永氏の『ふるさと考』(講談社現代新書)という本の中に、「愛憎二筋のアンビバレンツな思い」という言葉を見つけて、文字通り自分の気持を言い当てられたような気がしました。松永氏は、ふるさとというのは求心力のようであって実は遠心力でもあるのだ、と書いていました。

もうひとつは、ナショナルリズムについてです。それはご自身が影響を受けた谷川雁の考えを源流とするものかもしれませんが、松永氏は、ナショナルなものを掘り下げていくとインターナショナルなものに行き着くと常々言ってました。五木寛之が『戒厳令の夜』で描いたのもそういった土俗的なナショナリズムが反転した先にある、汎アジアからヨーロッパへと連なる壮大なインターナショナリズムの世界でした。実際、九州の歴史や習俗などを辿っていくと半島や大陸や南島に行く着くのはよく知られているとおりです。もとよりかつて九州には渡来人もいたし熊襲もいたし隼人もいたのです。私達九州の人間の中にはそんないろんな民族の血が混じっているのはたしかでしょう。

ちなみに、松永氏と親交のあった俳優の西郷輝彦は、危篤の知らせを受けて病院に駆けつけ臨終に立ち会ったそうで、ご自身の西郷輝彦のつぶやきblogの中で松永氏に寄せる思いを綴っていました。
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