四方田犬彦氏の『月島物語』が昨年、『月島物語ふたたび』(工作舎)という書名で復刊されたのを機に再読したら、月島に行ってみたくなり、久しぶりに月島に出かけました。車では何度か行ったことがありますが、電車で出かけたのは今回が初めてでした。

『月島物語』は集英社の『すばる』という文芸雑誌に1990年1月号から1991年7月号まで18回にわたって連載されたものですが、私は連載中からこのカルチュラル・スタディーズの先駆けとも言うべきエッセイを愛読していました。

月島橋

四方田氏は、昨今の下町ブームにおける”月島人気”について、「明治中期にさながら植民地のように開発された月島は、真性の下町である本所深川が跡形もなく消滅してしまったため、今日では一挙にガラパゴス島的な意味あいで下町と見なされるに至ったのだ」と書いていました。

月島は明治以降に埋め立てられた歴史の浅い埋立地であるにもかかわらず、東京大空襲の被害を受けず、また、東京オリンピック開催に伴う再開発からもまぬがれたことで、長屋や路地などの昔ながらの風景が偶然にも残ったのでした。そのため今日では下町の代表のように見なされるようになったというわけです。しかし、四方田氏によれば、実際の月島は「日本のモダニズムの政治―社会―文化的な結節点であり、『下町情緒』といった抽象的な紋切型(ステレオタイプ)とはまったく別の表情」があるのだそうで、私はその月島の「別の表情」にこそ興味がありました。

西仲通り商店街

富国強兵のスローガンの下、近代国家への脱皮を目指す殖産興業によってこの新開の埋立地に造船業をはじめ、鉄工業や金属加工など多くの工場が設立され、それに伴い「故郷を離れ、根を絶たれた自由労働者が大量に流入」することによって月島の歴史ははじまったのです。当時の月島はこのようにいわば殖産興業の最前線でもあったのです。“もんじゃストリート”として有名なわりにはやや寂れた感はまぬがれない西仲通り商店街(写真上)も、かつては何十という夜店が並び、過酷な労働を終えた労働者達が一時の休息とウサ晴らしをする繁華街だったそうです。そして、その背後に彼らの住居でもある長屋が連なっていたのです。

月島に流入した「自由労働者」の中に若き日の大泉黒石きだみのるがいたというのは、なんだか「見事」と言ってもいいような因縁さえ感じます。明治の頃、日本橋や京橋など対岸の街では子供達は親から叱られるとき、「言うことをきかないと、島にやっちまうよ」と言われたのだそうですが、それくらい在来の人間にとって月島というのは異境の地だったのでしょう。そんな月島にそれぞれの事情を抱え故郷を出奔してやって来た住人達は、江戸時代からの漁村であった隣の佃島と違って、お互い一定の線以上には立ち入らないというゆるやかで柔軟性に富んだ独特の共同体意識を根付かせてきたのです。その象徴として路地の風景があったのです。

月島路地

一方で、月島に生まれ育った人達の中には、当然ながら故郷としての月島に対する二律背反的な思いもあったはずで、月島出身の吉本隆明氏を論じた「エリアンの島」では、「私を拒絶する風景」という『固有詩との対話』の中の言葉を手がかりに、月島に対して「“喪失”と“隔たり“の意識」を持つ氏の屈折した心情を描き出していました。「私を拒絶する風景」というのは、個人的にもすごくよくわかります。そして、そういった屈折した心情があるからこそ、「エリアンの島」で引用されていた「佃渡しで」のような叙情的な美しい詩が書けるのだと私は思います。(娘を連れて対岸の明石町から渡船で佃を訪れたときの詩だそうです)

「佃渡しで」

佃渡しで娘がいつた
〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう
ずつと昔からそうだつた
〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ掘割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行つた
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいつた
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞つていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちよつとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあつたか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあつた

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいつて
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いつさんに通りすぎる


時代が変わり、街が変わるのは仕方ないとしても、古い街がどうして大事なのかと言えば、そこに暮らしてきた人々の記憶の積層があるからです。その記憶の積層の中から人生を慈しむ気持や人を思いやる気持や、そして、こんな美しい詩も生まれるのだということを私達は忘れてはならないのではないでしょうか。
2008.05.21 Wed l 東京 l top ▲
ずっと一緒さ


山下達郎の「ずっと一緒さ」はいい歌ですね。聴くたびにしんみりとします。現在(いま)は断念の果てにあるというのは文字通りの実感ですが、そんな断念の果てに残った、かけがえのないものをいとおしく思う気持がじみじみと表現されているように思います。

先日の深夜、NHKテレビを見ていたら、小学校高学年の娘さんとお父さんの二人の暮らしを数年に渡って撮ったドキュメンタリーを放映していました。お母さんが病気で急死したため、突然二人暮らしになった父娘の日常を淡々ととらえた、とてもいい番組でした。番組のあと、タレントの関根勤さんが感想を述べていましたが、その中で「人間というのは、自分のためより誰か人のためという方が頑張れるんですよね」と言っていたのが印象的でした。

釈尊(釈迦)の元に子供を亡くして悲嘆にくれる母親がやって来て、「苦しくて苦しくてたまりません。どうかこの苦しみから逃れる方法を教えてください」と訴えたところ、釈尊は、「苦しみから逃れる方法を教えてもよいが、それにはひとつ条件がある。自分より幸せな人間を見つけて来なさい。そうしたら苦しみから逃れる方法を教えよう」と言ったのだそうです。それで、子供を亡くした母親は家々をまわって自分より幸せな人間を探したのだそうです。しかし、そんな人間はどこにもいなかったのだとか。人間というのは、誰しもが同じような悲しみを抱えて生きているのです。それが人生だと釈尊は言うのですね。だから、まずそんな人生と向き合うことが大事だと。

いくつもの悲しみを
くぐり抜けたそのあとで
つないだ手の温かさが
全てを知っている

本当の強さは
「ひとりじゃない」って言えること

こんな歌詞が心に浸みるのは、やはり私達もそれぞれ同じような悲しみを抱えて生きているからではないでしょうか。釈尊が言うように、だから人生なのでしょう。
2008.05.13 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲