ユーミン

人間というのは年を取るとやたら過去ばかり振り返るようになります。音楽を聴く場合も、どうしても過去の歌ばかりを聴いて思い出に浸るようになるものです。

先日たまたま用事で根岸に行った際、「ドルフィン」の前を通ったのですが、それ以来、ユーミンの歌を聴いています。「ドルフィン」はご存知ユーミンの「海を見ていた午後」で”山手のドルフィン”と歌われているあまりに有名なレストランですが、若気の至りと言うべきか、私も昔、ユーミンファンのガールフレンドと食事に行ったことがありました。当時と建物が変わっていましたが、今も健在なのはやはりユーミンのおかげかもしれません。むしろ、ユーミンファンも既に中高年になり金銭的に余裕が出てきたので、昔より客単価はあがっているのかも、なんてよけいなことまで考えてしまいました。

私は、ユーミンの歌ではこの「海を見ていた午後」と「ひこうき雲」と「雨の街を」が好きです。特に、マーケティングやタイアップと無縁だった(?)荒井由実時代の初期にいい歌が多いなと思います。彼女は八王子生まれで学校も立教女学院と多摩美ですが、なんとなくユーミンと横浜はイメージで重なるものがあります。横浜や湘南を連想させるような海を歌った作品が多いし、自身の結婚式も山手教会で披露宴はニューグランドホテルでしたので、横浜に対して特別な思い入れがあったのかもしれません。もっとも、八王子と横浜をつなぐJR横浜線は、もともと生糸を横浜に運ぶための鉄道で、いわば”日本のシルクロード”とも言うべき役割を担っていたのです。八王子出身のユーミンが横浜に強い思い入れをもつのも当然と言えば当然なのでした。

ユーミンの歌は同じ抒情でも日本人特有のベタっとしたものではなく、異邦人の目で見たようなどこか乾いた客観的なところがあるように思います。それが、舞台装置もさることながら、「都会的だ」と言われる所以でもあるのではないでしょうか。また、ユーミンの歌には”生活感”がないとよく言われますが、高度成長が完結し大衆消費社会が出現した「豊かな時代」では”生活感”が後景に退くのは当然で、そういった意味でも、70年代から80年代の若者達の時代感覚をポップなメロディに乗せて描出した彼女は、やはり、天才だったと言うべきでしょう。
2009.02.27 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
また憂鬱な季節がはじまりました。私の場合、今年は目からはじまった感じです。目玉を取り出して洗いたくなるほど痒くてたまりません。同病相哀れむ知人は鼻水に悩ませられていると言ってましたので、人によって違うようです。

既に目薬を3つも買って試していますが、どれも気休め程度の効果しかありません。飲み薬だとたしかに症状が改善されますが、しかし、その前に我慢できないくらい眠くなるので、ほとんど睡眠薬代わりにしか使えないのです。

ちなみに、花粉症市場は1500億円で、その中で市販薬の売上は約400億円だそうです。マスクだけでも100億円市場に拡大しているのだとか。(http://ocnspecial.blogzine.jp/weekly/2006/03/post_f518.html

そう言えば、知人も「高いよ」と嘆いていましたが、最近はマスクも高機能をうたい文句に値段の高いものが多くなりました。なんだか足元を見られているような気がしないでもありません。私は60枚入りで480円だとかいうような使い捨ての不織布マスクを使用していますが、ドラッグストアの店頭にあるのは値段の高い高機能のマスクばかりです。駅前のドラッグストアで、店員に「安い箱入りのマスクはないのですか?」と訊いたところ、「あぁ~」と言われて、店の奥の陳列棚に案内されました。一番下段の文字通り隅の方にぽつんと置かれ肩身が狭そうでした。

ところで、2月23日のヤフートピックスで紹介されていた医療介護CBニュース配信の記事によれば、理研(理化学研究所)横浜研究所の谷口克センター長(免疫・アレルギー科学総合研究センター)は、日本製薬工業協会が主催する「製薬協プレスツアー」の講演で、「花粉症などのアレルギー性疾患は文明病であり、人間が物質文明を追求したために生じた免疫機能失調症だ」と指摘、「子どもを花粉症にしないための9か条」として以下の項目をあげたそうです。

▽生後早期にBCGを接種させる▽幼児期からヨーグルトなど乳酸菌飲食物を摂取させる▽小児期にはなるべく抗生物質を使わない▽猫、犬を家の中で飼育する▽早期に託児所などに預け、細菌感染の機会を増やす▽適度に不衛生な環境を維持する▽狭い家で、子だくさんの状態で育てる▽農家で育てる▽手や顔を洗う回数を少なくする


子どもの頃からなるべく細菌に感染させることで逆に免疫機能を高めるという発想は、文字通り目から鱗が落ちる気がします。多田富雄氏の『免疫の意味論』(青土社)を思い出しました。
2009.02.23 Mon l 健康・ダイエット l top ▲
文藝春秋2009年3月号

村上春樹のイスラエルの文学賞・エルサレム賞の受賞スピーチに対して、ある高名なブロガーが「日本人の誇りだ」などと絶賛していましたが、村上春樹というと、皆さん、どうしてそんなに有難がるのでしょうか。今や村上春樹は裸の王様になったような感さえあります。

「壁」と「卵」という喩えも、いつものことながら、思わず吹き出してしまいそうなレベルのものでしかありませんが、そういった声はほとんど聞かれません。邦訳された受賞スピーチ(記念講演)の全文をいくつか読みましたが、天の邪鬼な私にはやはり、”カマトト”や”弁解”という言葉しか浮かびませんでした。まあ、それが村上ワールドだと言われればたしかにそうなのですが‥‥。

さて、『文藝春秋』(3月号)に掲載されていた第140回芥川賞受賞作・津村記久子氏の「ポストライムの舟」を読みました。ポストライムというのはどんな植物なんだろうと思って、ネットで検索したのですが、なかなか出てきませんでした。そして、やっと見つけたのが下記のブログです。

http://plaza.rakuten.co.jp/12140716/diary/?ctgy=2

私は「ポストライムの舟」のような小説は好きです。奈良の築50年の実家で母親と二人暮らしの主人公・ナガセは、ある日、契約社員として働いている工場の休憩室で、NGOが主催する世界一周旅行のポスターに目が止まり、突然、その費用163万円を貯めようと決意するのでした。それは手取り13万8千円の彼女の給料のほぼ1年分の金額でした。

 生きるために薄給を稼いで、小銭で生命を維持している。そうでありながら、工場でのすべての時間を、世界一周という行為に換金することもできる。ナガセは首を傾げながら、自分の生活に一石を投じるものが、世界一周であるような気分になってきていた。


砂を噛むような味気ない毎日、そんな毎日を生きるせつなさとやり切れなさ、そこに「一石を投じる」ことで、何かが変わるような気がするのは私達も経験することです。生きるということはそういうことなのです。地方で暮らす30歳を前にした女性の等身大の日常を通して、そういった人生の断面を見事に描いていると思いました。

 日本がもしコミュニストの国になったら(それは当然ありうることだ)、僕はもはや決して詩を書かず、遠い田舎の町工場の労働者となって、言葉すくなに鉄を打とう。働くことの好きな、しゃべることのきらいな人間として、火を入れ、鉄を灼き、だまって死んで行こう。


これは、石原吉郎さんの1960年8月6日の「ノート」に記されていた文章ですが、少なくとも戦後の文学はこういった視点から出発したはずなのです。そして、こういった日常こそがなによりも価値があるのだということを私達も既に知っているはずです。選評で、山田詠美が「『蟹工船』より、こっちでしょう」と書いていましたが、私もそう思いました。
2009.02.17 Tue l 本・文芸 l top ▲
町田001

かつて業界では、柏(千葉県)と大宮(埼玉県)と町田(東京都)が東京近郊で最も元気のある街だと言われていました。たしかに、夕方に行くと、駅前の商店街などは都心の繁華街に負けないくらい大変な活気がありびっくりさせられます。後年、そのネタ元がアクロスであったことを知りましたが、要するに、都心へ向かう買い物客をそれらの街が途中で堰きとめていると言いたかったのかもしれません。

後述の『新・都市論TOKYO』でも紹介されていましたが、町田を舞台にした三浦しをんさんの小説『まほろ駅前多田便利軒』(文春文庫)で描かれているように、町田には「スーパーもデパートも商店街も映画館も、なんでもある」のです。私も「若者達のジモト(地元)志向」なんていう言葉を耳にすると、必ず町田を連想します。もっとも、私の場合は、かつて同じ会社に勤めていた女の子から、学生時代はいつも厚木のベースのアメリカ兵と町田で遊んでいたという話を聞いたことがあり、そのイメージが未だに残っているからかもしれません。ちなみに、彼女は小田急線沿線の新興住宅街に住んでいて、幼稚園から大学まで玉川学園に通っていた典型的な東京近郊のプチブル家庭の子でしたが、今にして思えば、町田という街を考える上で格好のサンプルになるような女の子だったように思います。

建築家の隅研吾氏は、清野由美氏との対談集『新・都市論TOKYO』(集英社新書)の中で、町田について、次のように書いていました。

町田にはどこからか染み出てきたような、あか抜けしない泥臭さのようなもの―それをリアリティと呼んでもいいだろう―が、私鉄的なフィクションの隙間から顔を出し、流れんばかりの勢いで、街全体を覆っている。


今回、私は初めて横浜線で行きましたが、新横浜からわずか7つ目なのに、町田が近づくにつれ車内の様子が変わってくるのが不思議でした。短髪でやや剃りこみを入れたようなチンピラっぽい若者や電車の床に座り込む高校生のグループなどが目に付くようになりました。そして、これが「私鉄的なフィクション」に対するJR的な「リアリティ」なのかと思ったものです。

隅氏は対談の中で、町田には「”都市”が噴出している」と言ってましたが、しかし、その”都市”はどこかにひらかれているわけではなく、「文化と人間が流れつく最果ての場所」(『まほろ駅前多田便利軒』)なのです。同じ”都市”に生きるさみしさでも、町田のそれはどんづまりのさみしさがあるのではないでしょうか。それが、都市化した郊外の街がときに凶悪な犯罪の舞台になる背景でもあるように思います。

可視的である(なんでもわかっている)というのは、”俺様主義”の今時の若者には楽で居心地がいいのかもしれませんが、しかし、自分の人生に少しでも謙虚に向き合おうとするようなナイーブな人達には、やはり、このどんづまりのさみしさは耐えられないのではないでしょうか。駅ビルからつづく通路の上から、「なんでもある」駅前の通りを眺めながら、そんなことを考えました。
2009.02.14 Sat l 東京 l top ▲
石原吉郎

「夜がやって来る」

駱駝のような足が
あるいて行く夕暮れがさびしくないか
のっそりとあがりこんで来る夜が
いやらしくないか
たしかめもせずにその時刻に
なることに耐えられるか
階段のようにおりて
行くだけの夜に耐えられるか
潮にひきのこされる
ようにひとり休息へ
のこされるのがおそろしくないか
約束を信じながら 信じた
約束のとおりになることが
いたましくないか


これは私が好きな石原吉郎の「夜がやって来る」という詩ですが、ときどき石原吉郎の詩を無性に読みたくなるときがあります。8年に及ぶシベリア抑留生活での過酷な労働と飢えから生還した詩人の、絶望の淵から生まれた言葉の数々は、私達の弛緩した日常を激しく揺り動かさずにはおれません。まさに現在(いま)は断念の果てにあるのだという、人生の実相を実感させられる気がします。

もっとも、私が石原吉郎を知ったのは詩ではなく散文(エッセイ)によってでした。今でも鮮明に覚えていますが、大学受験に失敗して東京の予備校に通うべく九州から上京して間もなく、渋谷の大盛堂書店で『望郷と海』(筑摩書房)という本を初めて手にとり、その中に収録されていた「ペシミストの勇気について」という文章に衝撃を受けて、石原吉郎という詩人に興味を持ったのでした。

「絶望の虚妄なることまさに希望に相同じい」というのは魯迅の『野草』の中の言葉ですが、文学というのは本来そうやって絶望を見据えた中から生まれるものではないでしょうか。だからこそ言葉が私達の胸を打つのだと思います。

絶望の果てに見たものはなにか、「世界がほろびる日に」はそれを詩人の言葉で語っているように思います。石原吉郎は、8年間の抑留期間中、「事実上失語状態に近い経験」をしたと書いていましたが、そこにはもはや「失語」の一歩手前のような平易な言葉しかないのです。

「世界がほろびる日に」

世界がほろびる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に掛けておけ


折しも「梶ピエールの備忘録」という大学教員の方のブログを読んでいたら、『差別とハンセン病」は今も』の著者である信濃毎日新聞の畑谷史代記者が、同紙に石原吉郎に関する記事を長期連載されていたことを知りました(長野からのメッセージ)。単行本化されるのを楽しみにしています。

>>『差別とハンセン病』
2009.02.03 Tue l 本・文芸 l top ▲