石田純一   

芸能ネタを。

朝、テレビをつけたら、デヴィ夫人がえらい剣幕で「こんなのおかしいわよ!」と叫んでいる場面が目に飛び込んできました。なんだろう?と思ったら、石田純一とプロゴルファーの東尾理子が、ギリシャのエーゲ海で”公開プロポーズ”したことに対して怒っていたのでした。

デヴィ夫人曰く、”公開プロポーズ”なんて要するにプライバシーを切り売りしているだけだ。プロポーズはもともと二人だけのもので、公開するようなものじゃない。石田純一のコメントはすべてがわざとらしくて計算されたものでしかないと。

ごもっともですね。私も”公開プロポーズ”を見るにつけ、村西とおる監督ではないですが、芸能人というのはやはり「カタギ」ではないなとあらためて思いました。

石田純一にすれば、今更トレンディドラマでもないでしょうから、そうやってみずからのプライバシーを切り売りすることで、バラエティやイベントの引き立て役として芸能界で生きていくしかないのかもしれません。生産手段をもたないプロレタリアはみずからの労働力しか売るものがないと言ったのはマルクスですが、芸が枯渇した芸能人はもはやプライバシーを売るしかないのでしょうか。芸能人というのは並みの神経ではできない職業であることはたしかですね。

フェラーリに乗りつづけるために石田純一も必死なのでしょうが、ただ、テレビの前に鎮座するのが市民社会の公序良俗を旨とする「お茶の間の論理」であることを考えれば、そうそう計算どおりにいくとは限りません。一歩間違えば、プライバシーを切り売りする「いやらしさ」が鼻につく場合だってあるのです。

ほかならぬ私自身も、今まではこの22歳の年の差カップルにみずからを重ねあわせてひそかに期待するものがありましたが、今度は一転して”理子パパ”の気持になっている自分がいます(笑)。なんだか世間知らずの東尾理子は名うての結婚詐欺師に籠絡され、一途な気持をいいように利用されている気がしないでもないのです。

ホントにこのまま順調にいくんだろうか、もしかしたらそのうち目がさめてひと波乱あるのではないかと期待半分で思ったりしますが、しかし、そうなればそうなったでしばらくはマスコミの関心を引くことができるわけで、石田純一はどっちに転んでもタダでは起きないようになっているのですね。

いづれにしても、バラエティ番組ではややずれた(KYな)存在として重宝されているデヴィ夫人ですが、今回の”公開プロポーズ”に関しては至極マトモだったように思います。
2009.09.30 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
歩け、歩け

今日はいつもと散歩コースを変えてみました。

最寄駅とは反対方向に歩いて、鶴見川の土手に出ると、いつも上流の新横浜の方に散歩するのですが、今日は反対の下流の方へ歩くことにしました。土手を下ると河川敷に遊歩道がのびており、既に川岸には背丈ほどのススキの穂が風にゆれていました。遊歩道は鶴見川に沿って大きく湾曲し、20分くらい歩くと、やがて河川敷にある自動車学校のコースの先に東横線の鉄橋と大綱橋が並んでかかっているのが見えてきました。いつもの見慣れた風景をこうして下から見ていると、午後の陽ざしを浴びて鉄橋の上を走っている赤いラインの入った東横線の車両がなんだか新鮮に見えました。

いったん土手をのぼって大綱橋を渡り、今度は対岸の土手を折り返して上流に向かって歩くことにしました。対岸の綱島側は、駅からも近く土手のすぐ下はマンションなどが立ち並び、土手もコンクリートで整備されていることもあって、大倉山側と違って人が多くて賑やかでした。なんだか「フーテンの寅さん」の冒頭にでてくる荒川の土手みたいで、昼寝をしている人、読書をしている人、おしゃべりをしているカップル、それに河川敷ではバーベキューをしているグループもいました。また土手の上はジョギングや犬の散歩をする人やベビーカーを押して散歩する家族連れなどがひっきりなしに行き交っていました。

堀田善衛の小説に『広場の孤独』というのがありますが、たとえば新宿や池袋の人ごみの中にいるときの孤独感と、こうして郊外ののんびりとした時間に中にいるときの孤独感を比べると、私はやはり後者の方がきつい気がします。ときに底なしの孤独感のようなものを抱くことさえあります。

歩け、歩け、そんな感じでした。歩いていると、いろんなことを考えいろんな思いにとらわれますが、同時に歩くことでふり払うものもあるように思います。荷風もこうしてなにかをふり払うために歩いていたのかもしれません。

しばらく歩いていると、正面の陽ざしが徐々に西の空に傾いていくのがわかりました。自転車で横をすりぬけていった外人が、先の方で自転車を停めて、陽ざしにカメラを向けてシャッターをきっていました。

やがて電機メーカーの物流センターの先に新羽橋が見えてきました。ここが今日の散歩の終点です。歩数を確認したら、1万5千歩を越えていました。
2009.09.27 Sun l 健康・ダイエット l top ▲
ヘヴン


川上未映子の新作『ヘヴン』(講談社)を読みました。

斜視が原因で、学校で「ロンパリ」と呼ばれ暴力的ないじめにあっている14歳の「僕」が、四月の終わりのある日、<わたしたちは仲間です>という手紙を受け取るところからこの物語ははじまります。ふで箱に小さく折りたたまれて入っていたその手紙は、同じクラスの女生徒「コジマ」からのものでした。彼女もまた汚い身なりが原因で、クラスの女の子達から「ゴミ」などと言われ同じようにいじめにあっていました。

それから二人の手紙のやりとりはつづき、二人の奇妙な友情は深まっていきます。「コジマ」に誘われて、彼女が「ヘブン」と呼んでいる一枚の絵(シャガールの「誕生日」?)を見に美術館に出かけたときの二人は、なんだか「小さな恋の物語」を思わせるような初々しさがあり、それだけにせつなくてやりきれないものがありました。

 それからしばらくしてコジマが泣いているのがわかった。
 声をたてずに顔を少し背けて、ごしごしと目をこすり、手のひらで垂れてくる涙をほおにのばしていた。僕は生温かくなった飲みものの容器を両手でにぎったまま、地面を見ていた。隣で音をたてないように泣いているコジマになにか言葉をかけたかったけれど、その気持が頭のなかをめぐるだけで言葉はうまく見つからなかった。
「色々なことが、あるから」コジマはしばらくしてから小さな声で言った。それから手のひらで顔をもむようにしたあと、きこえるかきこえないかの声で僕にむかってごめんね、と謝った。
「せっかくなのに」コジマは泣き顔をごまかすように、そしてきまりが悪そうに笑って僕を見たけれどまだ泣いてるみたいに見えた。


ところが、そんな弱々しく見えた「コジマ」が、やがて独特な考えをもっていることに「僕」は気づきます。「コジマ」は、イジメの原因になっている「僕」の斜視を「とても好きだ」と言うのです。それは「大事なしるし」だからと。そして、自分が汚い身なりをしているのも、離婚して孤独で貧しい生活をしている父親を忘れないための「しるし」なのだと。

ここでこの小説のキーワードである「意味」が登場します。「コジマ」は、いじめられるのも「意味」があるし、弱いことは悪いことではない、むしろ正しいのだと言います。だから、現実をあるがままに受け入れるべきだと。そうやって試練を乗り越えることで、自分達は弱い立場から強い立場になれるのだと言うのです。「しるし」というのは、そういった”強い意志”をもつための、いわば与件なのでしょう。しかし、いじめを誰にも訴えることもできずただ不条理な現実を嘆くだけの無力な「僕」は、「コジマ」のそんな”強い意志”に次第に齟齬を感じるようになるのでした。

もうひとり、この小説の軸になる人物が登場します。それは、直接手を下すわけではないが、いつも背後からいじめをさめた目で見ているクラスメートの「百瀬」です。彼は、「コジマ」とはまったく逆の考えをもっていました。「僕」がいじめられるのも斜視が原因ではないと言うのです。そして、いじめにもなにか特別な「意味」があるわけではないと。

「べつに君じゃなくって全然いいんだよ。誰でもいいの。たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなものがあって、たまたまそれが一致したってだけのことでしかないんだから」


「意味なんてなにもないよ。みんなただ、したいことをやってるだけなんじゃないの、たぶん。まず彼らに欲求がある。その欲求が生まれた時点では良いも悪いもない。そして彼らにはその欲求を満たすだけの状況がたまたまあった。君をふくめてね。それで、彼らはその欲求を満たすために、気ままにそれを遂行してるってだけの話だよ。(略)」


「コジマ」の”強い意志”と「百瀬」のニヒリズムの間で右往左往する「僕」は、いわば私達の姿でもあるのかもしれません。「良いか悪いか」「善か悪か」といった二者択一的な価値観にとらわれ、ものごとを倫理的にしか解釈できない私達。しかし、現実はいかようにも解釈可能なのです。いじめの原因であった斜視がわずか1万5千円の費用で容易に手術できることを知り、手術を終えて帰宅する途中、目の前の風景がまるで違ったものに見えて感動するラストシーンが、なんだかそれを暗示しているようでした。

一方で、カルト的な宗教がさまざまなイニシエーションを使って人生の風景を違ったものに解釈して見せたとき、多くの若者が狂信的に帰依したのを私達は知っています。私達はこんな危うい人生の現実を生きているのです。「意味」なんていくらでも書き換え可能なのです。

この小説を作者が影響を受けた永井均教授のニーチェの思想に引きよせて解説したり、あるいは「百瀬」のニヒリズムをドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場する大審問官になぞらえて解説する向きもありますが、むしろ私は、そういった先入観とは無縁な、現代社会の真っただ中で生きる普通の(!)若者達の率直な感想を聞きたいと思いました。それがこの作品の評価のすべてではないでしょうか。というのも、作者がいじめを題材にとったのも、前作までの饒舌体を封印して平易な文体で作品を作り上げたのも、自分の言葉がどこまで若者達に届くかという企図があったように思うからです。

>>「乳と卵」
2009.09.21 Mon l 本・文芸 l top ▲
my Classics!

平原綾香が「Jupiter」を携えて私達の前に現れたときは衝撃的でしたが、新しいアルバム「my Classics!」もその衝撃の延長上にあるようなとても聴きごたえのあるアルバムでした。たまたま今、川上未映子の『ヘブン』を読んでいるのですが、「my Classics!」をかけながら読んでいたら、いっそうせつない気持になりました。

「Jupiter」やテレビドラマ「風のガーデン」の主題歌でおなじみの「ノクターン」は別にして、来月シングルカットされて発売予定の「AVE MARIA」も独自の世界を描き出していて、胸がしめつけられるようないい歌でした。やはり、歌がうまいということは大きな武器です。

人生はいつも力強く前向きに走りつづけることができるわけではなく、ときに歩をゆるめ、フッとため息をついて遠くの景色に目をやることがありますが、そんなとき平原綾香の歌を聴きたくなります。

当たり前のことですが、歌も文学も心の琴線に触れてなんぼなんだとあらためて思いました。
2009.09.17 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
自民党の研究

床屋政談を。

民主党政権の閣僚人事のニュースが飛び交っていますが、天の邪鬼な私は、ふと思い出して、自民党の国会議員でもあった栗本慎一郎氏の『自民党の研究』(カッパブックス)を読み返しました。

これは今から10年前の1999年に出版された本ですが、まさに今の自民党の体たらくを予言しているような、未だ今日的な意味を失っていないアクチュアルな本です。つまり、自民党にとって、今日の状況は既に10年前からはじまっていたと言えるのではないでしょうか。

 ただ強い奴だけ勝ち残れというのなら、簡単なことだ。それは、新しい時代を迎えるということではなく、弱い者を殺すというだけのことなのだ。その結果、強い者もやがて死んでいくことになる。(略)
 新保守の政策が、ただたんに世界的な勝ち組につながるだろう人びとや企業を庇護し、保護し、バックアップするだけだとすれば、勝ち組が誰もいない社会ができあがるだろう。金を持っているがゆえに金が儲かると思い、それを実践していく者は、持っている金が世界的なパニックによって一気に価値を失う危機が来ることを知る。


これが10年前の文章だということを考えれば、すごい予言ですね。これを読むと、まさに小泉政権が自民党の自滅を加速させたことがよくわかります。

小泉政権はアメリカのグローバリズムに拝跪して新自由主義的な政策を打ち出す一方で、靖国参拝を演出してナショナリズムを煽るわけですが、これなども理念の一貫性がないという点では如何にも自民党的だと言えなくもありません。

栗本氏は、自民党というのは「理念なき政治家達」の集まりで、自民党の国会議員達にとって政策は「天から降ってくる」ものでしかなく、それが理念よりも人と人のつながりを重視する「日本型の集団」としての自民党の特質である、と書いていました。自民党にあるのは「政策」ではなくあくまで「権益」であって、「自民党において、政策通といわれる議員のほとんどは、この手の業界の事情に詳しいというだけのことだ」と。なぜなら政策は官僚が作るものだからです。理念なき自民党が自民党であり得たのは、まさに政権与党であったからなのです。

私は懐疑的ですが、仮に二大政党制が定着するとしても、政界再編もあるでしょうから、自民党がその一翼を担うという保証があるわけではありません。私は、このままでは自民党は解党するか、あるいは親米的な(対米従属的な)右翼政党として政界の片隅で細々と生きるしかないと思っていますが、そうならないためにももう一度原点に立ち返って、「保守」とはなにかということを考える必要があるのではないでしょうか。

少なくとも、選挙中から今に至るまで民主党に対するネガティブキャンペーンを執拗に行っている産経新聞の「正論」路線などを「保守」だと勘違いしているようでは未来はないように思います。また、MSNもヤフーもニュースは産経の記事が中心ですが、選挙の顔として麻生首相を担ぎ出した自民党はそういったネットしか見ない若者達の声を「世論」だと勘違いしていたフシさえあります。特に小泉政権以後、こういったアナクロ(アナクロニズム)派に引きずられた自民党が方向感覚を失っていくのは当然でしょう。

自民党再生について、世代交代が必要だという声がありますが、こういった没理念的な考え方はいかにも自民党的だなと思いますね。今の自民党にとって必要なのは、まず「保守」とはなにかというしっかりした理念を打ち出し、時代に応じたリベラルで気高い「保守」主義をよみがえらせることではないでしょうか。もっとも、今の自民党にはもうそんな骨のあるリベラル派は残ってないという指摘もありますが。

民主党政権の誕生は、来るべきドル崩壊後の”アジアの時代”に対する、ある意味で「時代的な要請」でもあったように思いますが、このままでは自民党の出番は益々なくなっていき、時代からとり残され過去の遺物と化すのは自明な気がします。
2009.09.15 Tue l 社会・メディア l top ▲
やっと病院に行きました。とっくに薬は切れているのですが、なかなか時間がなくて行けなかったのです。

午前中に行くつもりだったのですが、我慢できずにおしっこをしてしまったため、やむを得ず午後から行くことにしました。と言うのも、おしっこの勢いの検査をするため、おしっこをためてきてくださいと言われていたからです。

おしっこの勢いの検査は、最初にエコーで膀胱にたまっているおしっこの量を測定して、そのあと、バケツのような容器におしっこをするだけでした。すると、おしっこの勢いと時間がグラフで表示される仕組みになっているのです。

検査の結果は、「かなりひどい排尿障害」とのことで、ちょっとショックでした。それで、利尿剤のハルナールをさらにひと月分処方してもらいました。また、次回は前立腺ガンの検査(PSA検査)をしましょうと言われましたが、「あれっ、まだPSA検査をしてなかったんだ?」と思いました。前立腺も通常より大きいらしく、「まだ若いので、これから進行する可能性がありますよ」と言われました。

帰りは地下鉄で新横浜まで行って、新横浜から歩いて帰ったのですが、「ひどい排尿障害」が尾を引いているのか、いつもより身体がだるい気がしてすっかり病人気分でした。

新横浜駅の三省堂書店で、川上未映子の新作『ヘブン』(講談社)を買おうと思ったのですが、既に品切れでした。そんなに売れているのかと思いました。また、そのあと立ち寄った環状2号沿いのソフマップでは、ウォークマンを衝動買いしてしまいました。ウォークマンは半年前に買い替えたばかりなのですが、バージョンアップしたタイプを見ているうちに我慢できなくなったのです。もしかしたら嫌なことを忘れるために、ドーパミンかなにか脳内物質がはたらいたのかもしれません。
2009.09.09 Wed l 健康・ダイエット l top ▲
今日、田舎の母から小包が届きました。送り状に「ピオーネ」と書いていましたので、ブドウのようです。ふがいない息子は小包を開ける勇気さえなくそのままにしています。老いた母のことを考えると、すごく責められているような気がしてつらい気持になります。

財産をひとり占めした身勝手な永井荷風は、実家を継いだ弟から絶縁状態におかれていました。そのため、実家に帰ることもままなりませんでした。母親の病状が悪いと告げられた日、荷風は『断腸亭日乗』にこう記しています。

昭和十二年四月三十日。 くもりにて南風つよし。午後村瀬綾次郎来りて母上の病す々みたる由を告ぐ。されど余は威三郎が家のしきみを跨ぐことを願はざれば、出で々浅草を歩み、日の暮る々を待ち銀座に飯(注:原文は旧字)し富士地下室に思ふ


そして、母親が亡くなったときも、臨終に立ち会うこともなく葬儀にも出なかったそうです。しかし、次のような句を詠んで、ひとり夜を泣きあかしたのでした。

泣きあかす夜は来にけり秋の雨
秋風の今年は母を奪いけり

以後、荷風は、母親の形見である裁縫セットを生涯大事にして、戦争で疎開するときも肌身離さず持ち歩いたのだそうです。

荷風のこの気持は痛いほどわかります。
2009.09.08 Tue l 故郷 l top ▲
ストリートビュー

Googleのストリートビューですが、総務省からの要請を受けて、ストリートビューのサイト上に「現在撮影中のエリア」という欄を設け、撮影中の地域の情報を公表することになったそうです。でも、なんだか気休めのような気がしないでもありません。

「現在撮影中のエリア」によれば、神奈川県の「横浜・川崎」が撮影中となっていましたが、私も先日、関内で天井にLadybug2を設置したプリウスに遭遇しました。実物を見ると、たしかに異様な感じがしますね。デジカメで撮影しようと思ったのですが、すぐに信号が青に変わって走り出したため、残念ながらシャッターチャンスを逃してしまいました。

ストリートビューは、民主党の高速道路無料化や農家の戸別所得保障と同じで、まったく無駄なサービスだとしか思えません。Googleルはマイクロソフトを横目で見ながら「(マイクロソフトのように)邪悪にならない」ことをポリシーにしてさまざまなサービスを展開し、結果ネットユーザーから絶大な支持を集め、今日の繁栄を築いてきたわけですが、Google自身がマイクロソフトのように「邪悪な存在」となる心配はホントにないのでしょうか。

余談ですが、今回のYahoo!とマイクロソフトの検索広告分野の提携によって、検索分野におけるプレイヤーが実質的に二つ(Googleとマイクロソフト)になるというのは、ネットの多様性ということから考えればそれに逆行するような話ですし、考えようによっては由々しき問題でもあります。しかし、ネットの情報通でそういった視点をもっている人はごく少数です。多くはただ現実を追認することに腐心するばかりで、寄らば大樹の陰なのです。これはネットの大きな特徴でもありますね。これでは「ネットが現実を動かす」なんて百年早いと言わねばなりません。

そもそもネットユーザーを「善人」と見做す前提が間違っているような気がしてなりません。Googleと同じじように、ネットの可能性に限りない期待を表明していた梅田望夫氏も、最近、やっと日本のネット状況に対する失望感を口にするようになりましたが(日本のWebは「残念」梅田望夫さんに聞く)、こういったストリートビューのようなサービスは、(実際に特定の地域の画像を差別的な意図で別サイトに転載するケースなどが発生しているようですが)それこそネットに常駐している「バカと暇人」(中川淳一郎氏)に格好の遊び道具を提供するようなものだと言えなくもありません。

そして、その先に待っているのがネット規制でしょうか。なんだかそのシナリオが見えるようです。

>>10年目のGoogle
>>ストリートビュー
2009.09.06 Sun l ネット l top ▲