
堤清二氏と三浦展氏の対談『無印ニッポン 20世紀消費社会の終焉』(中公新書)を読みました。
最近、高級ブランドのヴェルサーチが事実上日本から撤退するというニュースがありましたが、ヴェルサーチだけでなく、他の高級ブランドも店舗の閉鎖や計画の見直しなどがつづいているようです。変われば変わるもので、今やこれみよがしにブランドのバックをもっているのは「カッコ悪い」「頭が悪そう」というようなイメージさえあります。これはファッションだけでなく、ベンツやBMWに乗っているのも同じです。
”リーマンショック”がきっかけだったとはいえ、人々は”お仕着せの消費”を否定し、”消費の主体”たるみずからを再び取り戻そうとしているのかもしれません。そして、そんな「20世紀消費社会」の終焉を先取りしたものとして無印良品があったのだと、無印良品の生みの親とそのイデオロギーを推進した二人は主張するのでした。ただ、無印良品の鬼っ子とも言えるユニクロに対してのつっこみは、当然ながらやや甘いものがあるように思いました。「20世紀消費社会」の先にあるのがユニクロだというのではシャレになりません。
一方、”消費の平等化”によってもたらされた郊外化=「ファスト風土化」については、この本でも大半を割いてその”罪”が語られていました。
三浦氏は、なぜ大型店がいけないかについて、アメリカで聞いた「シチズンシップ」という言葉を使って説明していました。「シチズンシップ」というのは、「地元への愛着や誇り、責任」という意味だそうです。つまり、郊外化=「ファスト風土化」によって、駅前の商店街にある地元密着の個人商店がなくなるのは、「地元への愛着や誇り、責任」が失われることを意味するのだというのです。もちろん、それは地方に限った話ではありません。三浦氏は、表参道ヒルズや六本木ヒルズやJRの”駅なか”も「都市のイオン・モール」だと言って批判していました。
三浦◎(略)パッサージュ(街路)をどんどんなくしていって、みんなパッケージの中に閉じ込めるというモール型手法が都市にまで及んでくるのは問題だと思う。都市はパッサージュ型でなければいけないんです。駅ビルもいまは駅地下、駅中開発によって、どんどんパッケージになってしまった。JRも悪い。駅から出さない。全部駅の中ですませるという、開発の仕方になっている。そういうふうになっていくと、都市文化の衰退につながると思います。
また、堤清二氏は、三浦氏の「シチズンシップ」と同じような意味で「ローカリティ」という言葉を使っていました。
堤◎(略)個人の誇りというのは「人と違っても俺は大丈夫だ」ということでしょう。しかし、他人と違うということに耐えきれるのは、ごく少数の人だけでしょう。ふつう、どんな人でも、ローカリティに支えられて、その上で個性を保っていると思うんです。そのローカリティの部分が根こそぎになって、浮遊してしまっているのが、現在の日本人ではないでしょうか。
私は田舎(故郷)がいやでいやで仕方なく、田舎にいた頃、「田舎はどういう人間が住みやすいか」ということばかり考えていました。どうして田舎がいやだったかと言えば、田舎には決まった生き方しかなく、生き方の選択肢がまったくなかったからです。私達のような地方出身者にとって、都会(=東京)に出てくるということは、「解放」や「自立」を意味したのです。
私は、寄る辺なき生は寄る辺なき生でいいじゃないかという考えです。そんな孤独に耐え絶望に耐えて生きていくことが人生じゃないかと思っています。それは、「強い」とか「弱い」とかいうことではありません。私にとって街というのは、そんな自分の人生を投影するようなきわめて観念的なものとしてあります。
私が個人商店の街が好きなのは、そこにはいろんな人がいていろんな人生があるからです。そういったいろんな人やいろんな人生に自分自身や自分の人生を映すことができるからです。人生にはうれしいことや楽しいこともあるけれど、それ以上に挫折や悲哀があります。そんないろいろな人生があるんだということがわかるだけでもどんなに支えになるでしょう。郊外のショッピングセンターではそういった人生を感じることはできません。田舎と同じようにやはりひとつの決まった生き方しかないのです。
ショッピングモールが掲げる”おしゃれな生活”や”かがやく生活”などといった、そんな空疎な「生活」のために人間は生きているのではありません。九州では生活することを「いのち(命)きする」といいますが、いのちきすることは、もっと個別的でもっと具体的でもっと泥くさいものです。二人がいう「フレンドシップ」や「ローカリティ」もそういった意味で使われているのであって、単なるジモト(地元)意識の称揚や古き良き共同体(的日常)の郷愁ではないことは言うまでもありません。
なぜ個性が大事かというと、人生にはいろんな生き方がありいろんな幸せの尺度があるからです。街が殺されるというのは、そういった個性的な生き方が殺されるということであり、ひとつの決まった生き方を強要される息苦しい社会になるということなのです。それは、ある意味で「20世紀消費社会」の当然の帰結と言えるのかもしれません。
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