このところずっと忙しくて、これではいけないなと自分でも思っていました。それで、昨日今日と時間が空くので、久しぶりにどこかに出かけようかと思っていたら、あいにく雨でした。なんだかよけい気が滅入ってしまいました。
それでというわけではないのですが、突然、今流行りの歌を聴いてみたいと思いました。といって、何を聴いていいのかわからないので、いつも利用しているmoraで、邦楽の「楽曲ランキング」の中から女の子の歌を5曲選んでダウンロードしてみました。下記がダウンロードした曲です。ちなみに、この中で私が知っていたのは、いきものがかりと中島美嘉だけでした(Cil'BとRYTHEMは読み方もわかりません)。
いきものがかり「なくもんか」
Cil'B「つないだ手」
中島美嘉「流れ星」
西野カナ「もっと‥」
RYTHEM「ツナイデテ」
たまたまなのかもしれませんが、この5曲のうち「もっと‥」をのぞく4曲の歌詞に共通した言葉があることに気付きました。「つなぐ」という言葉です。心や手を「つないでいたい」「つないでいくんだ」というのです。「もっと‥」にも「どんな時でも離さない」というフレーズがありました。最近の歌にはこの「つなぐ」という歌詞がホントに多いのです。
恋をすれば、手をつなぎたい気持もわからないでもありませんが、大塚英志氏の言葉を借りれば、なんだか恋愛に仮託しながらみずからの実存を承認してもらいたい気持がありありと出ている気がして、これが今の若者の特徴なのかと思いました。
そう言えば(ちょっと小難しい話になりますが)、東浩紀より7才若い
宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(早川書房)などを読んでも、どこかで群れることを志向しているような気がします。やはり、手をつなぎたいのかもしれません。
宇野は、国家や村のような伝統的な共同体や会社のようなコミュニティが求心力をもたなくなった今、グローバル化がもたらした「アイデンティティ不安」の受け皿として、「木更津キャッツアイ」のような「郊外型のコミュニティ」(中間共同体)が必要だと言っていました。でも、もしかしたら「木更津キャッツアイ」がそのノリでよさこいソーラン祭りになるかもしれないし、また「木更津キャッツアイ」にしても、宇野らが罵倒する派遣村とコインの表と裏でしかないのかもしれないのです。
いつでもだれでも入れ替え可能なシステム化された仕事しかなく、それに、どこまでがウソでどこまでがホントかわからないような膨大な情報(データ)に晒されて生きることを余儀なくされるこの時代は、若者達にとって生きにくい時代であることはたしかでしょう。でも、前にも書いたように、「絶望の虚妄なること、まさに希望と相同 じい」(魯迅)ではないですが、私は、寄る辺なき生は寄る辺なき生でいいじゃないか、そんな孤独に耐え絶望に耐えて生きていくことが人生じゃないかと思っています。
いわゆる「恋愛至上主義」にしても、「生きがい」を与えてくれた会社共同体が機能不全になったため、個人的な人間関係にしか人生の意味を見いだせなくなり、その結果、「友人関係と家族関係を媒介する」恋愛が特権的な人生の価値になったというのですが、考えてみれば、それは今にはじまったことではありません。伝統的な共同体や会社共同体が十全に機能していた神代の昔から恋愛は特権的でした。だから、坂口安吾だって「恋愛は人生の花だ」と言ったのです。
そもそも人生に「生きがい」なるものがあるとしても、私は、恋愛のようなものにしかそれはないように思います。その意味では、「個人的な人間関係にしか人生の意味をみいだせなくなった」今の状況はむしろいいことだと思います。要は、好きなものを好きだという感覚と、『無印ニッポン』で三浦展氏が言っていた「ものを見て、かわいいとか、楽しいとかいう感覚」、この二つを肯定できれば、共同体などに依拠しなくても人生はそれなりに幸せなものになるのではないでしょうか。そう考えると、女子の方がはるかに時代を自分のものにしているという気がします。手をつないでいないと不安で仕方ないのは男子の方なのでしょう。