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用事で元町に行ったついでに散歩して帰りました。山下公園から赤煉瓦倉庫、そして、万国橋の手前のいつものベンチで暮れなずむ運河を眺めながらしばし休憩したのち、汽車道を通って横浜駅まで歩きました。

元町は中高年の街です。中高年の成金夫婦がこれ見よがしに高級車に乗ってやって来るのをよく見かけますが、彼らにとって元町はやはり特別な街なのでしょう。ただ、写真のビルも1階の奥や写真に映っていませんが右側のスペースはテナントが撤退したままになっており、元町の今を象徴しているような気がしました。もっとも、元町は、もともと若者の街ではありませんでした。平岡正明は、『横浜的』で元町のことをつぎのように書いていました。

ファッショナブルな街並みにはちがいないが、舶来ブランドを輸入して横文字でダマして法外な値段で売るといった町ではない。オーダーメイドの職人経営者の町だ。外国人の注文に応じて服や家具や食器や靴やらをあつらえたことから始まっているから、作って売るという本来の商人のありかただろう。
(モトマチ「横濱繪看鈑」でメタ都市論を)


過ぎ去りし青春の光と影というわけなのか、元町では未だにハマトラのイメージを追いかけている元祖女子大生の女性達も多く見かけます。また、週末になると、ハマトラに合わせたかのような全身コテコテのアイビールックのおじさんを見ることもできます。そもそも元町に行くのによそいきの格好をすること自体がアナクロだと思いますが、知り合いの若い子に言わせれば、その気持が健気でかわいいのだとか。若い子達にはちょっとおしゃれな巣鴨のように映っているのかもしれません。

山下公園の前の銀杏並木もすっかり色づいていました。公園の中も夕暮れを前にゆったりした時間が流れ、散歩するにはいい季節だなと思いました。

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ホテルニューグランド

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山下公園

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神奈川県庁

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いつものベンチ

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万国橋の上から

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汽車道

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2009.11.26 Thu l 横浜 l top ▲
日本大通り2009年11月

今日もこちらは真冬のような寒い一日でした。夕方から買い物に行ったのですが、キルティングのジャケットにマフラーをして出かけました。

ついでに、日本大通りから象の鼻パークを散歩しましたが、さすがに人どおりは少なく閑散としていました。日本大通りも既にクリスマスのイルミネーションの飾り付けが終わっていましたが、なんだか例年に比べて質素な感じを受けました。象の鼻パークもいつもの休日に比べるとカップルが少なかったうように思います。

そのあと、久しぶりに伊勢佐木町の有隣堂に行きましたが、裏の文具館から文具売場が移ってきたのに伴い、書籍売場はB1~2階と5階に縮小されていました。以前に比べると、明らかに品揃えも悪くなっていて、目当ての本はいづれも在庫がありませんでした。そのためか、休日とはいえ客の姿も少なくなっているように思いました。横浜は品揃えが豊富な書店がホントに少ないのですが、これではやはり都内に行くしかないのかもしれません。そういえば、みなとみらいのランドマークの中にあった有隣堂も既に閉店してくまざわ書店に変わっていました。大型書店の場合、日販トーハンなど大手の取次店による系列化が進んでいますが、有隣堂のような独立系の書店はその分シビアにならざるを得ないのでしょう。創業の地・伊勢佐木町から撤退するのではないかという噂もあながちウソではないのかもしれません。

ところで、有隣堂の入口では制服姿の警備員が立っていて、いかめしい表情で店内を見渡していました。警備員はときどき別の場所に移動したり、さらに吹き抜けになっている2階に上がって、上から1階のフロアを見下ろしたりしていました。客の立場からみると、なんだか監視されているようでいやな感じですが、恐らくそれは万引き対策というより、ホームレスや焼酎の臭いをプンプンさせている日雇い労働者のおっちゃんが店内に入って長居しないように目を光らせているのだと思います。これも伊勢佐木町の没落を象徴する光景かもしれません。

伊勢佐木町は外国人の比率も年々高くなっている気がします。もしかしたらイセザキモールを歩いているのは、外国人の方が多いんじゃないかと思うくらいです。たまたま警察官が無届営業の露店に注意をしていましたが、横を通りすぎていく外国人達が何度もうしろを振り返りやたら警察官を気にしていたのが印象的でした。私は以前は埼玉に住んでいましたので、池袋の西口もよく知っていますが、池袋と比べても伊勢佐木町の外国人はガラが悪く荒んでいる気がします。なんだか馳星周の小説に出てきそうな感じですが、このまま”暗黒街化”がすすめば、(横浜市立大を出ている馳星周は横浜のことをよく知っているはずなので)ホントに伊勢佐木町や黄金町を舞台にした作品が登場するかもしれませんね。ピカレスク小説が似合う街、それはそれで横浜らしいといえなくもありません。

ジャックの塔2009年11月

クィーンの塔2009年11月

象の鼻公園2009年11月
2009.11.22 Sun l 横浜 l top ▲
sweet sweet

今日はこちらは真冬のような寒さでした。しかも、冷たい雨まで降っていて、さすがに出かけるのもおっくうで、終日、家にこもっていました。

こんなときは暖かい部屋で音楽でも聴くのがいちばんです。たまたまラジオで耳にしたのあのわの「Sweet Sweet」という歌がいいなと思い、くり返し聴いています。たしかにcharaに似たところがありますが、この空気感というか、醸し出す雰囲気がなんともいえず都会的でオシャレなのです。せつない恋の歌にもかかわらず、私は、なぜか原宿や渋谷の路地裏にあったひと昔前の輸入雑貨の店を思い出しました。ちなみに、「Sweet Sweet」にも「つないだ手」という歌詞が出てきます。

ところで、今日は小林麻央が市川海老蔵と婚約?とかで、終日この話題で持ちっきりでした。これでは現場の記者達に同情せざるをえません。「オレ達が夜討ち朝駆けで取材しているというのに、歌舞伎役者やプロ野球選手とチャラチャラしてるんじゃねぇ~よ」という声が聞えてきそうです。

私はまだ読んでいませんが(というか、帯に山本モナの推薦文があったので買うのをやめたのですが)、柳美里の『オンエア』(講談社)もこういった世界を描いているのかもしれません。以前、モデルの女の子から、自分達がいかに業界の男達から欲望の対象として見られているかという話を聞いたことがありますが、女子アナもそういった世界と無縁だとは思えません。

雑誌『サイゾー』(12月号)のインタビューで、柳美里は、女子アナというのは同性に嫌われる傾向があると言ってましたが、なんとなくわかりますね。出自がよくて(いいとこのお嬢さんで)、容姿端麗で、一流大学卒なのですが、一方で、カマトトでどこか男に媚びているようなイメージがあるのです。女性にとって、「男に媚びる」というのは間違いなく嫌われる要素なのですね。テレビ局にすれば単なる視聴率稼ぎのお人形さんでしかないのかもしれませんが、それがどうして結構計算高く世渡り上手な面もあるのです。そういったところも同性の視聴者に反感をもたれる理由かもしれません。

そんな欲望や羨望や嫉妬などさまざまな視線にさらされる中で、今や女子アナという職業も女優やタレントと同じように「普通の(シロウトの)お嬢様にはできない」特殊な仕事になりつつあるのかもしれません。
2009.11.19 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
このところずっと忙しくて、これではいけないなと自分でも思っていました。それで、昨日今日と時間が空くので、久しぶりにどこかに出かけようかと思っていたら、あいにく雨でした。なんだかよけい気が滅入ってしまいました。

それでというわけではないのですが、突然、今流行りの歌を聴いてみたいと思いました。といって、何を聴いていいのかわからないので、いつも利用しているmoraで、邦楽の「楽曲ランキング」の中から女の子の歌を5曲選んでダウンロードしてみました。下記がダウンロードした曲です。ちなみに、この中で私が知っていたのは、いきものがかりと中島美嘉だけでした(Cil'BとRYTHEMは読み方もわかりません)。

いきものがかり「なくもんか」
Cil'B「つないだ手」
中島美嘉「流れ星」
西野カナ「もっと‥」
RYTHEM「ツナイデテ」

たまたまなのかもしれませんが、この5曲のうち「もっと‥」をのぞく4曲の歌詞に共通した言葉があることに気付きました。「つなぐ」という言葉です。心や手を「つないでいたい」「つないでいくんだ」というのです。「もっと‥」にも「どんな時でも離さない」というフレーズがありました。最近の歌にはこの「つなぐ」という歌詞がホントに多いのです。

恋をすれば、手をつなぎたい気持もわからないでもありませんが、大塚英志氏の言葉を借りれば、なんだか恋愛に仮託しながらみずからの実存を承認してもらいたい気持がありありと出ている気がして、これが今の若者の特徴なのかと思いました。

そう言えば(ちょっと小難しい話になりますが)、東浩紀より7才若い宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(早川書房)などを読んでも、どこかで群れることを志向しているような気がします。やはり、手をつなぎたいのかもしれません。

宇野は、国家や村のような伝統的な共同体や会社のようなコミュニティが求心力をもたなくなった今、グローバル化がもたらした「アイデンティティ不安」の受け皿として、「木更津キャッツアイ」のような「郊外型のコミュニティ」(中間共同体)が必要だと言っていました。でも、もしかしたら「木更津キャッツアイ」がそのノリでよさこいソーラン祭りになるかもしれないし、また「木更津キャッツアイ」にしても、宇野らが罵倒する派遣村とコインの表と裏でしかないのかもしれないのです。

いつでもだれでも入れ替え可能なシステム化された仕事しかなく、それに、どこまでがウソでどこまでがホントかわからないような膨大な情報(データ)に晒されて生きることを余儀なくされるこの時代は、若者達にとって生きにくい時代であることはたしかでしょう。でも、前にも書いたように、「絶望の虚妄なること、まさに希望と相同 じい」(魯迅)ではないですが、私は、寄る辺なき生は寄る辺なき生でいいじゃないか、そんな孤独に耐え絶望に耐えて生きていくことが人生じゃないかと思っています。

いわゆる「恋愛至上主義」にしても、「生きがい」を与えてくれた会社共同体が機能不全になったため、個人的な人間関係にしか人生の意味を見いだせなくなり、その結果、「友人関係と家族関係を媒介する」恋愛が特権的な人生の価値になったというのですが、考えてみれば、それは今にはじまったことではありません。伝統的な共同体や会社共同体が十全に機能していた神代の昔から恋愛は特権的でした。だから、坂口安吾だって「恋愛は人生の花だ」と言ったのです。

そもそも人生に「生きがい」なるものがあるとしても、私は、恋愛のようなものにしかそれはないように思います。その意味では、「個人的な人間関係にしか人生の意味をみいだせなくなった」今の状況はむしろいいことだと思います。要は、好きなものを好きだという感覚と、『無印ニッポン』で三浦展氏が言っていた「ものを見て、かわいいとか、楽しいとかいう感覚」、この二つを肯定できれば、共同体などに依拠しなくても人生はそれなりに幸せなものになるのではないでしょうか。そう考えると、女子の方がはるかに時代を自分のものにしているという気がします。手をつないでいないと不安で仕方ないのは男子の方なのでしょう。
2009.11.14 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
先日、FM横浜の「濱ジャズ」という番組を聴いていたら、茅ヶ崎在住の南佳孝がゲストで出ていて、「最近、音楽をやる情熱が薄らいできた」と言ってました。それを聴いて私は加藤和彦のことが頭に浮かんだのですが、どうして情熱が薄らいてきたかというと、「結局、なんだかんだ言っても売れてなんぼみたいなところがあるから」だと言うのです。問答無用の市場原理主義におおわれた昨今の風潮は、音楽もまた例外ではないのでしょう。

南佳孝の発言に対して、番組を担当しているDJのゴンザレス鈴木氏が、「本や音楽やファッションとかいったものがホントは時代を作っているんですけどね。それは変わってないと思いますよ」と言ってました。しかし、南さんは、「それはそうなんだけど、ただ、最近のファッションもどこがいいのかよくわからないよ」と言ってました。

私は、南佳孝の発言を聴いて、本や音楽やファッションといったような「文化」が時代を作っているという認識自体がもう通用しなくなっているのではないか、と思いました。たとえば、若い世代を代表する批評家(といっても団塊ジュニアですが)・東浩紀氏は、大塚英志氏との対談の中で、そんな状況を「データベース消費」という言葉で表現していました。

前近代では家族との関係が基本だった。つまり小さな物語しかなかった。ところが近代では、地域共同体や家族といった「小さな物語」の世界が崩れて、国家レベルの「大きな物語」が登場する。しかし、ポストモダンではその「大きな物語」も崩壊して、文化的なデータベースにリンクして自分の人格を形成するという方向になってきた。
(大塚英志+東浩紀 『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)


つまり、「どう生きるべきか」とか「この社会はどうあるべきか」とかいったような「物語」は必要とせず、人はただ文化資本が提供するデータベースにリンクして自己イメージを形成し、「興味のあるもの」に生理的に反応するだけの、そんな無機質な社会になったのだと言うのです。東氏は、それを別の言い方で「動物化」とも言ってます。明治時代、学生の間では「煩悶」という言葉が流行ったそうですが、もはや「自分とはなにか」と煩悶することなんてなくなったのでしょうか。

この高度情報社会では既にさまざまな個人情報がひとり歩きしていますが、実際に私達も、そのひとり歩きした個人情報のイメージに規定されている”自分”を実感させられることはよくあります。そして、そこで必要とされるのは、単なる定型=ステレオタイプな物語であって、南さんのように、自分らしいこだわりも愛着も必要ないのです。つまり、そこにあるのは、個人の自由な感覚ではなく、あらかじめ与えられた”定型”なのです。

話を大きくすれば、ひとは無意味なものでも感動できてしまうのだ、文化とは結局のところ脳の生理的反応のことなのだ、というパンドラの箱が開かれたんだと思います。たとえばいままで宗教的な悟りだと考えていたものが、ドラッグによっても実現可能だと分かってしまう。日本のオタク系文化もアメリカのハリウッド映画も、規模や見え方こそ違うけれどその基本的な変化は共有していて、オタクであれば萌え要素の組み合わせと物語の定型によって、ハリウッドであれば視聴覚的な刺激と物語の定型によって、かつて「感動」と呼ばれていたもののかなりの部分まで置き換えることができる、そういう信念のもとに動いている文化です(略)

南佳孝の発言もそういった時代の空気を感知した中から出てきたものではないでしょうか。加藤和彦も亡くなる前に、「もう世の中は音楽を必要としてないのかもしれない」と言っていたそうですが、それも同じような気持だったのかもしれません。そして、そういった「データベース消費」の時代の空気とネオリベラリズム(市場原理主義)を支える心性は見事に波長が合っているような気がしてなりません。それが今の時代というか、今の若者達のリアルな風景なのです。
2009.11.08 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲