
今年の流行語大賞は「政権交代」だそうですが、その「政権交代」を特集していた
『現代思想』(10月号)で、
吉本隆明氏が、つぎのように発言しているのを読んで、「わぁ~、なつかしいなぁ」と思いました。かつてこういったもの言いというか言説が半ば常識であった時代があったからです。
自民党が負ければ負けるほどいいと思ってはいますが、私はしかし、選挙の結果には何の興味もありません。選挙などというものとは離れたところで考えてきたからです。民主党が何と言おうが、何の関係もない。共産党とか社民党が何を言おうが、どうなろうが、それも関係ありません。(「大衆の選択」)
もっとも、吉本氏の場合、単に政治的な意味合いでそう言っているわけではありません。その根底に「私的利害を優先する意識」こそがなにより大事なんだという、氏特有の「自立思想」が在るのは言うまでもありません。
吉本氏は、かつて大衆のあり様をつぎのように書いていました。
たとえ社会の情況がどうあろうとも、政治的な情況がどうであろうとも、さしあたって「わたし」が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が直接にあるいは間接に「わたし」の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それをかんがえる必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。(『自立の思想的拠点』)
つまり、大衆にとって、今のこの生活がなにより大事なのであって、生きていくのはそれ以上でもなければそれ以下でもない。そして、そういった人生の現実の前では、政権交代がどうだとかいったようなことは、「考える必要もないし」「語ること自体が意味がない」。それが大衆=生活者なんだというわけです。
たしかに、テレビのニュースやネットのニュースサイトで仕入れた情報をネタに、毎日飽くことなく民主党がどうだ自民党がどうだ社民党がどうだとネットの掲示板に書き込んでいる若者達は、”脊髄反射”などとヤユされるその単細胞な頭もさることながら、自前の生活を営んでないただの暇人(ニート)だというのはホントかもしれません。自分で生活していればもっとほかに考えることがあるだろうというのが普通の感覚ではないでしょうか。
いわんや経済的に切実な状況になったり、病気で苦しんだり、失恋して打ちひしがれているときなどは、「政治」なんてどうでもいいし、そもそもそういったものが意識の中に入ってくる余地さえありません。私達にとって、「政治」なんてたかだかその程度のものなのです。これは当たり前すぎるくらい当たり前のことです。
政治的な意識をもつとか政治的な関心をもつことは、本来、生活する上ではなんの関係もないし、どうでもいいことなのです。そうあるべきだというのではなく、人生というのはもともとそういうものだということです。