
読みたい本があったので、帰りに横浜駅でみなとみらい線に乗り換えて、みなとみらいに行きました。ランドマークプラザのくまざわ書店に行こうと思ったのです。ところが、電車を降りてエスカレーターに乗ったら、どの店もシャッターが下りて閑散としていました。「休館?そんなことがあるんだ」と思って、そのまま外に出て伊勢佐木町まで歩きました。あとで調べたら、設備点検のために休館していたのは手前のクィーンズスクエアだけで、奥のランドマークタワーは営業していたそうです。なんとも粗忽な人間です。
伊勢佐木町に行ったのは、言うまでもなく有隣堂に行くためです。しかし、イセザキモールは夕方なのに人もまばらで、有隣堂もますます客が少なくなっており、案の定、目当ての本もありませんでした。伊勢佐木町の衰退にはもはや歯止めがかからない感じです。
ただ、途中の関内あたりはなんとも言えない雰囲気があって、日頃横浜の悪口ばかり言っている私もあのあたりに行くと「横浜っていいな~」と思うのです。いわゆる"ハマっ子"の知り合いの女の子も、「横浜らしいのはホンの一部なんだけどね」と言ってましたが、日本大通りから本町、馬車道あたりがその「ホンの一部」なのでしょうか。
関内あたりは人も少なくて、落ち着いた雰囲気があります。威圧するような大きなビルもないので、ゆったりした気持になれます。ときにビルの間から「ボーッ」と汽笛が聞こえてきたりして、そんな暮れなずむ街をひとりで歩いていると、いつの間にかセンチメンタルな気分になっている自分がいます。平岡正明は、野毛の魅力は「場末美」だと言ったのですが、それは横浜そのものにも言えるのかもしれません。つまり、東京から見れば、横浜はある意味で「場末」なのです。
横浜には東京のような華やかさはありません。それが横浜の魅力です。通りに面したレストランでは白いエプロンをしたウエイターがぽつんと人待ち顔で外を眺めていました。横浜の街はひとりの方が似合うように思います。よく手をつないで歩いているカップルを見かけますが、あれは横浜でも渋谷でも新宿でもどこでも同じなのでしょう。
歩き疲れたので、開港資料館前のベンチでしばし休憩しました。そして、今日が2月22日だったことをあらためて思い出しました。私にとって2月22日は忘れたくても忘れられない日なのでした。
自分は自分。仮に人生をやり直したとしても、やはり同じことをくり返すのではないでしょうか。それが自分なのだと思います。舗道を行き交う人達を眺めながら、少しせつない気持になりました。こんなときは石原吉郎の詩が胸に響いて来るのでした。
位置
しずかな肩には声だけがならぶのではない
声より近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備な空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
(現代詩文庫『石原吉郎詩集』より)