
中野香織氏の『モードとエロスと資本』(集英社新書)が面白かったです。
中野氏は、ドイツの経済学者・ヴェルナー・ゾンバルトが1921年に著した『恋愛と贅沢と資本主義』を引き合いにだして、モードの起源をつぎのように説明していました。
宮廷では、宮廷に仕える女性の愛と好意を得るためにパーティーが繰り広げられ、そのためにドレスや宝飾品といった贅沢品の需要が高まる(愛妾経済の始まり)。贅沢品は主に海外で生産され、それを取り扱う商人がブルジョワジーとして台頭する。彼らは「新貴族」となり、大都市を形成し、資本主義を発達させていく。奢侈が一度発生すれば、それをより派手にして他人にぬきんでようという衝動が生まれる。(略)
つまり、こういった違法恋愛が贅沢を生み、贅沢の競い合いがシーズンごとに変わるモードを生み、資本主義の発展に寄与した。その担い手となるブルジョワジーは都市を発展させ、そこにおいて恋愛と贅沢が手を携えた舞台装置として劇場やレストランが栄えていった、というわけである。
しかし、そういった19世紀~20世紀の「富の誇示」としての消費から、21世紀は「良心の誇示」としての消費に変化したというのが、この本の主旨です。
では、「良心の誇示」とはどんなものか。それは、「エシカル・ラグジュアリー(倫理的な贅沢)」と呼ばれる、資本主義の行き詰まりの中で登場した、あえて言うならばいかにも今日的なエコなものの考え方です。その一例として、アメリカ『ヴォーグ』誌の編集長アナ・ウィンターやイギリスのチャールズ皇太子夫人のカミラが公式の席に何度も同じ服を着て出かけたエピソードをあげていました。同じ服を着まわすという我々下層貧民には当たり前のことが、有閑階級の人々にとっては、今までの常識を覆すような新しいモードに対する考え方になるのです。「倫理的な贅沢」とはよく言ったものです。
一方、高級ブランドだけでなく、欧米に比べて5年遅れで現在日本の市場を席巻しているファスト・ファッションに対しても、ただ「安けりゃいい」というものの考え方から、どうして安価で且つ短いサイクルで大量生産できるのか、それを疑問視するような見方も出ているのだとか。
例外も多々あろうが、多くの場合、安価なのは、非人道的な条件下で労働を強いられている人々の犠牲があるから。次々とトレンディなデザインが生まれるのは、デザイナーが苦労して生み出したランウェイ(コレクションが発表される花道)の作品を、安易にコピーしたりしているから。
貧困に苦しむ人に不公平な労働を強制し、模造品やパクリのデザインが平気で横行し、熟練職人が技能を発揮する機会を失うことで文化や伝統が失われていき、安い原材料に残る化学成分や有毒物質が健康を害し、大量生産と迅速な流通のためにエネルギーを浪費し、流行遅れの大量廃棄でゴミを増やし‥‥こんなサイクルがいつまでも続くわけがない。
そして、「恋愛の物語」に代わって、こういった「倫理の物語」がモードの原動力になったのが21世紀の特徴だ、と著者は言います。
(略)モードの最先端にいる倦み疲れた人々が、倫理や環境の物語を唱え始め、人々はその倫理の物語を消費するようになっている。
倫理がモードを引っ張っていく。これは、長いファッション史のなかには見られない珍しい現象である。
こうしてモードと恋愛の蜜月関係が解消されるにつれ、現代のおしゃれは、異性に自分の魅力をアピールすることより、むしろ自己満足や同性間の承認の手段というのが主要な目的になったのです。それはエロスも同様で、「エロかわいい」という言葉が向けられるのは、もはや異性ではなく自分や同性なのです。もともと女性のおしゃれには「自分のため」(自己目的化)という要素がありましたが、それがついに恋愛のくび木を解かれひとり歩きをはじめたということかもしれません。
また、そういったファッションの自己目的化の流れは、ブランドと手をたずさえてモードをけん引してきたファッション誌の影響力の低下をもたらし、「代わって古着などをミックスした個性的なスタイルを称揚するストリートスナップが、メディアとして影響力を高め」ることになったのです。そう言えば、休日に原宿や渋谷に行くと、通りでカメラを構えているカメラマンがなんと多いことか。ここ5・6年特に顕著になった気がします。
おじさんの目で最近のファッションを見ると、転形期にふさわしくより自由度が広がって、自分で工夫した、それこそ着くずしたようなファッションが多くなっているように思います。おしゃれというのは、どれだけ工夫する余地があるかで競っているような感じです。これみよがしに(お仕着せの)ブランドのバックを持っているのがカッコ悪いというのはよくわかります。
この倫理がトレンドになった時代をデザイナーのカール・ラガーフェルドは、「世界のクリーニングアップ(総整理)」と言ったそうですが、問題はつぎにどんな時代が来るかです。著者はそのひとつの流れとして、「伝統回顧」「原点回帰」を指摘していました。たしかにテーラードのジャケットが流行ったりするのはその流れかもしれませんが、ただ、倫理のあとが「伝統回顧」や「原点回帰」では、あまりにも芸がないと言わねばなりません。
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