私鉄沿線

野口五郎の「私鉄沿線」は、私の中では松田聖子の「赤いスィートピー」と並ぶ名曲です。これから先老いても尚、心の中に残りつづけるのではないでしょうか。特養ホームの中庭で日向ぼっこをしながら、ふと口ずさんだりするのかもしれません。

「おじいちゃん、いい歌ですねぇ。誰の歌ですか?」なんて、西野カナ世代の(いや、もっとあとか)ヘルパーの女の子に話しかけられたりするのでしょうか。しかし、私は、永井荷風のように偏屈で、岸部シローのようにネガティブな老人になりたいので、絶対に無視するようにします。「あっちへ行け!」なんて悪態が吐けたら上出来です。

昔は「私鉄沿線」を聴くと、なぜか大井町線の駅を思い出しました。一度だけ会社の女の子をアパートまで送ったことがあるのです。シャッターのおりた駅前の商店街をぬけると、住宅街の中の狭い路地に入りました。そして、何度か路地を曲がると、彼女のアパートがありました。「お茶でも飲んでいく?」と言われて、中に入ると、部屋の真ん中にハシゴがありました。それは天井とのわずかなすき間に造られたロフトに上がるためのものでした。

ココアかなにかをご馳走になり、ホントにお茶だけを飲んで帰ったのですが、それ以来「私鉄沿線」を聴くと、なぜかそのときの情景がオーバーラップしてなりませんでした。別にその子が好きだったというわけでもないし、今に至っては名前すら思い出せないのですが、ただ、その夜の情景だけはいつまでも心に残っています。

ところが、最近ちょっと困ったことになっています。「私鉄沿線」を聴くと、目の前にコロッケの顔が浮かぶようになったのです。パブロフの犬ではないですが、払っても払ってもヌエのように浮かんできます。

「おじいちゃん、誰の歌ですか?」
「コロッケ」
と答えたら面白いかもしれませんが、コロッケも知らない”ポスト西野カナ世代”のヘルパーの女の子から、「いよいよ認知がはじまったか」と思われるのもシャクですね。
2010.06.28 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
最近、自分でもまずいなと思っていました。かなり体重が戻っていたからです。しかも、薄着の季節になりましたので、「最悪のタイミングだな」と思っていました。上着をぬいでワイシャツだけになると、「お腹ポッコリ」が否が応でも目立ちます。

このところやけに大食いなのです。「これではいけない」と思いつつも箸が止まらないのです。チャーハン大盛り+餃子や唐揚げ定食大盛りや大カツ(カツ丼大盛り)なんて当たり前のように食べています。どこかで歯止めをかけなければと思いつつも、そう思えば思うほど煩悩具足の凡夫であることを思い知らされるばかりでした。

しかし、今日、ついに私は”神”、それも”救いの神”に遭遇したのです。知り合いの病院に行ったら、受付の女の子が私の顔を見るなり、「前から思っていたんですけど‥‥」となにやら言いたげな様子なのです。「エッ、なに? 愛の告白?」とお決まりのオヤジギャクをとばしたら、堰を切ったように口をひらいたのでした。

「最近、半端じゃなく太りましたよね?」
すると、隣の女の子も、
「顔なんてパンパンじゃないですか?」
「そのお腹ヤバイですよ」
「長州小力みたい」
「××ちゃん、長州小力って古いよぉ。もう終わってる」

私にはそれは天使の声に聞こえました。思わず、「ありがとうございます」とお礼を言ったくらいです。

これでやっとダイエットの再チャレンジができそうです。(オヤジを見くびるなよ)
2010.06.24 Thu l 健康・ダイエット l top ▲
ファミリー・シークレット

柳美里の『ファミリー・シークレット』(講談社)を読みました。

ご存知のとおり”未婚の母”である柳美里は、ADHD(注意欠陥・多動性障害)ではないかと言われた小学校4年生のひとり息子に対して、「どうして声を荒らげ、手を上げてしまうのか」という自責の念と、このままでは虐待がエスカレートして歯止めがきかなくなるのではないかという不安から、臨床心理士の長谷川博一氏にカウンセリングを受ける決意をするのでした。この本はそのカウンセリングの過程を記録したノンフィクションです。

柳美里は、カウンセリングを受ける決意をした理由について、つぎのように書いていました。

 「本人は過去を忘れても、過去は本人を覚えている」
 トラウマには、自分の身に起きたことを無意識に繰り返してしまう「再演化」という性質があるそうだ。
 わたしは、自分の内に同在する被害と加害を書くことによって変容させて、小説や戯曲のかたちで意識的に「再演化」してきた。
 小説や戯曲の中に、加害者でもあり被害者でもある自分を匿ってきたのだが、わたしは、過去に見つかってしまった。逃げるものなら、息がつづく限り、逃げていたいが、息子を産み、自分の家を建てたときから「再演」の幕が開いていたのだろう。
 しかし、わたしは、この芝居に出演したくない。
 この芝居を、息子に「再演」させたくない。
 わたしは、母と父から受け継いだこの芝居に幕を下ろすために、「虐待」という問題に関わるつもりだ。


それは、自分の過去を辿り心の闇をさぐるつらい”旅”でもあります。横浜の在日朝鮮人の家庭に生まれ、やがて両親が別居。「バイキン」と呼ばれいじめに遭ったり、近所の同級生の父親に性的虐待を受けていた小学生時代。「母は生活用品を盗み、父は犬を盗んだ」ような環境の中で身に付いた盗癖。母親の夢を背負って入学した山手のお嬢様学校を素行不良で中退。そして、自殺未遂と鬱病。

カウンセリングと併行して彼女は、取材で訪ねた「虐待母」や秋田連続児童殺害事件の畠山鈴香被告や酒井法子にも自分と同じ心の闇を見るのでした。親から虐待された経験のある人間は、どうして自分の子どもを虐待するのか。長谷川博一氏は、この虐待の世代連鎖について、小さい頃から恐怖と暴力によって服従させようとするような環境で育つと、そういった人間関係を日々学習して身につけてしまうからだ、と言ってました。つまり、虐待される子どもにとっては、いつの間にかそんな暴力に裏打ちされた倒錯した関係こそが当たり前になるというわけです。人間は高度な学習能力によってさまざまな文化を生み出してきましたが、人間が本来もっている学習能力が虐待の世代連鎖を生むなんて、なんと哀しい「文化」なんだろうと思いました。

 母性がなにか解らないひとがうまく接しようとしてもね、母性的に接しようと努めるれば努めるほど、母性が解らないこころは軋んで、その軋みが自分の願いとは正反対のかたちで暴走してしまう。それが、柳さんの今。


(略)肝心の自分を慈しむこと、自分に優しくすることが、柳さんにはできない。優しくされた、慈しまれたことがないから、それがどういうものか解らないんですよ。


「親になることは簡単だが、親でありつづけることはむずかしい」という言い方がありますが、長谷川博一氏の言葉は、まさに親でありつづけることのむずかしさを語っているようにも思いました。

一方、”旅”は柳美里自身だけでなく、家族の心の闇にも敷衍していかざるをえません。カウンセリングに父親が登場するにつれ、父親の心の闇も晒されることになるのでした。ただ、それは、波乱に満ちた在日朝鮮人の家庭では別にめずらしい話ではないように思います。私も知り合いの在日の人間から似たような話を聞いた経験があります。

30年間黄金町のパチンコ屋で釘師として働きながら、家庭をかえりみず酒と博打に明け暮れた人生。いつも子ども達に金を無心し、年老いた今も「年金と二人の息子の送金で」博打を打っている父親。

私はたまたま『ファミリー・シークレット』の前に、江藤淳の『成熟と喪失』(講談社学芸文庫)を再読したばかりなのですが、ここにも江藤の言う「父の崩壊」と「母の不在」があるように思います。ただ、この在日の家庭には、「第三の新人」達が描いたような、近代化された日本の中産階級の家庭がもっている「恥ずべき父」の姿はありません。父親失格のような父であっても、「恥ずべき父」ではないのです。もちろん、在日の家庭にも「家」や「世間」はありますが、「世間」に対して、日本の中産階級のように「恥ずかしい」という感覚はないのです。むしろ、「それでも父は父だ」というような感覚さえあります。ありていに言えば、どんな父親であっても心のどこかに「父権」は存在するのです。それが日本的な農耕社会が生んだ「母の文化」と大陸的な「父(天)の文化」の違いではないかと思いました。

崩壊する前の家族が暮らしていた保土ヶ谷の家では、現在、父親が娘ほど年の離れた韓国人女性と暮らしているのですが、カウンセリングのあと、父親を送るために久しぶりに訪ねたときのつぎの箇所が印象的でした。ここには、柳美里が言う「家族という檻」に対する、「逃げるものなら、息がつづく限り、逃げていたい」けど逃げ切れない、”宿命”のような思いが吐露されているように思いました。(文中の「コモ」というのは「父方の伯母」という朝鮮語なのですが、柳美里は、保土ヶ谷の家で同居していたコモ=父親の姉が実は父親の”実の母”であり、父親はコモの”私生児”であったことを父親のカウンセリングで確信したのでした)

 わたしは「アニョイゲシプショ(お元気で)}と会釈して家を出た。
 外は真っ暗だったが、葉と枝のシルエットで、家を隠すように生えている大きな木が、枇杷(びわ)だということが判った。
 枇杷は、コモが住んでいた二階の窓まで届いていた。
 わたしが生まれた日の朝、父は床屋に行って髪と髭を整え、母に食べさせるために枇杷をひと箱買って、わたしに逢いにきた。
 「ありがとう」
 父はひと言だけそう言うと、涙ぐんだという。
 昨年の誕生日に、枇杷の苗を買った。
 「家に枇杷を植えると、死人が出る」「枇杷を植えると、家が滅びる」「病人がいる家には枇杷の木がある」という言い伝えがあることは知っていたが、枇杷の苗にこころが吸いついて離れなかった。
 わたしは、家と向き合う場所に枇杷の苗を植えた。




2010.06.18 Fri l 本・文芸 l top ▲
HMVにとって日本進出1号店で、文字通りの旗艦店であった渋谷店が8月いっぱいで閉店だそうです。このままいけばHMVは日本から撤退することもあるんじゃないか、と思ったら、なんのことはない既に日本法人のHMVジャパンの株は大和証券の関連会社に譲渡されており、経営上はとっくに日本から撤退していたのでした。尚、HMVジャパンの株は、近々大和証券グループからTSUTAYAのカルチュア・コンビニエンス・クラブに譲渡される予定なのだそうです。

今回の閉店はCD販売の不振や若者の街・渋谷の地盤沈下などが要因であるのは言うまでもありません。渋谷の大型店としては、ほかにTSUTAYAとタワーレコードがありますが、要するに、渋谷とて大型店が3店も存立しえなくなったということなのでしょう。ちなみに、TSUTAYAのバックには取次大手の日販(日本出版販売)が付いており、書店でもセゾンが母体だったリブロも現在は日販の子会社になっています。

私もフリーター時代、日販のお茶の水の本社でアルバイトをした経験がありますが、このように、ネットの影響をもろに受け業態の転換をせまられているレコード店や書店などは、大手の印刷会社や取次会社による系列下が急速に進められています。これはいわゆる”残存者利益”を確保するための行動と言えなくもありません。レコード店や書店に限らず、いろんな業界でこのように資本集中がどんどん進んでおり、市場の再編が行われています。そして、こういった市場再編の梃子になっているのが、小泉改革でもたらされた(市場原理主義的な)”新自由主義経済”なのです。

「起業のすすめ」とかいった掛け声だけはさかんですが、少なくとも既存の分野で独立自営を志すには、益々環境がきびしくなっているのが現状です。折しも、今日の朝日新聞に、経済産業省が11日に発表した「消費者向け電子商取引実態調査」の記事が出ていました。私のところにもNTTデータを通してアンケートが来ていましたが、それによれば、「インターネット販売などを利用した小売店やメーカーの8割は、売上高が3千万円未満」で、「1事業者当たりの従業者数は約3人で、小規模の会社や個人事業主が多くを占める産業構造が明らかになった」ということでした。既存の分野で「起業」のチャンスを見つけるのが益々むずかしくなっている中で、「起業」しようとすると、真っ先に思い浮かぶのがネット販売だというのはゆえなきことではないのです。まるでそこにしかチャンスがないかのようです。

実際に産業構造の転換が急速に進むリアル世界で「起業」するには、よほどの個性とアイデアが必要です。私達の親達を見てもわかるとおり、昔の方が商売するにもはるかにチャンスがありました。この20年、どれだけ多くの街のレコード屋さんが店じまいをして、どれだけ多くの店主達が人生の苦境に陥ったことでしょう。時代の流れで店じまいをせざるをえないのは仕方ないとしても、問題はそのあと人生をやり直す余地がほとんどないということです。

「第三の道」だとか言ってますが、民主党の菅政権にもこのような新自由主義的な要素がかなり含まれているように思います。前に民主党政権は両刃の剣だと書きましたが、その負の部分がはやくも出てきたような気がします。「起業のすすめ」なんて言いながら、実際は益々寄らば大樹の陰のような生き方を強いられ、会社人間こそ人生の生きる道みたいなドグマに拝跪しない限り、希望もくそもないような世の中になっているのです。しかも、多くの人間は会社人間すらなれず、使い捨ての駒でしかない「非正規労働」の身分に甘んじなければならないのです。

一方で、会社がすべてではないんだから、会社人間なんかならずに自由な生き方を選択すればいいじゃないか、だから「非正規労働」もありだ、という考え方もあります。私も基本的には同意しますが、ただ、現実はこのように自由で多様な生き方を選択する余地は少なくなる一方で、逆にそういった生き方のリスクは大きくなる一方なのです。

HMVが撤退しても、TSUTAYAへの資本の集中があるだけです。ネットやグローバリゼーションによる産業構造の転換は、当初言われていたこととは逆に、私達に不自由な生き方しかもたらしていません。規制緩和して”新自由主義経済”になれば、チャンスも増え人生の選択の幅も広がるという喧伝は、どう考えてもデマゴギーだったとしか思えません。
2010.06.11 Fri l 社会・メディア l top ▲
自宅で仕事をするときはずっとRadikoでFMラジオを聴いていますが、先日、びっくりすることが二つありました。

ひとつは、ある番組に7~8歳の女の子が出ていたときです。パーソナリティーの女性がその子に「××ちゃんはSMAPは好き?」と質問したのです。すると、まったく予想外の答えが返ってきたのでした。

「SMAPって名前は聞いたことがあるけど、よくわかりません」
「エエッ、そうなんだ?」

あとで話題になっていましたが、彼女達の世代ではもうSMAPは「過去の人」なのですね。「質問するなら嵐の方でしょ」と誰かが言ってましたが、私も「へぇ、そうなんだ」と思いました。私なんてついこの前まで「スナップ(SNAP)」だと思っていて、若い女の子から指摘され(ついでに笑われて)、初めて「スマップ(SMAP)」だということを知ったばかりなのですが。

もうひとつは、あるJ-POPのカリスマシンガーのご主人でもあるミュージシャンの某氏のことです。彼がパーソナリティーを務める番組に、鹿島茂氏がゲストで出たとき、某氏が「僕は本を読まない人なんで、小説なんてまったくわかりません」と言ったのです。番組のアシスタントの女性も、「そうですよね。××さんは本を読まないんですよね」と言ってました。

考えてみれば、とっくに50歳をすぎている某氏はネット世代でもないわけで、と言うことは若い頃からずっと本を読まなかったんだろうかと思いました。たしかに、都会のボンボンの中には、ろくに本も読んでないくせにやけに口だけが達者な屁理屈人間が多いのですが、彼もそうだったのかと思いました。それにしても、「恋愛の教祖」のご主人が本をまったく読まない人間だったなんて、ちょっと”奥さん”のメージとそぐわないような気がしてなりません。「いつまでも少年のような心をもっている」というのは案外そういうことかもしれない、なんて思いました。
2010.06.07 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
山下公園1・20100605

関内で用事をすませたあと、山下公園でしばらく読書をして、そして、いつものように山下臨港線プロムナード・赤レンガ倉庫・みなとみらい・横浜駅のコースを散歩して帰ってきました。

山下公園のベンチでは、松本聡香著・『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』(徳間書店)を読みました。カルト教団の教祖の四女として富士宮の教団施設で生まれ、上一色村のサティアンで育った著者が、生まれて20年、地下鉄サリン事件から15年の壮絶な人生をつづった本です。

妻妾が同居した異常な環境で育った幼少期。地下鉄サリン事件後、差別といじめにさらされる学校生活。そして、放浪と自殺願望で身も心もボロボロになっていく思春期。

運命とは言え、たしかに「壮絶」としか言いようのない20年の人生です。ただ、一方で、「ホントかな?」という読後感は消えることがありませんでした。それは一連の報道の中で、いやというほど目にした「どんなウソでもつく」教団のイメージがぬけきれないからでしょう。友人にこの本の内容を話したら、読んでもいないのに「ウソばっかり」と言ってました。

それに、淡々とした筆致にやや興ざめの感は否めませんでした。もしかしたらゴーストライターが書いたのかもしれません。

著者は家族や教団や残党信者達に対して、多分に冷めた目で見ているのですが、ホントはもっと複雑で微妙な思いもあるはずです。しかし、手慣れた文章では、そういう思いがいまひとつ伝わってきません。その点が残念でした。

幼い頃から教祖として接することを強要され、ときに暴力を振るわれ、「殺されるんじゃないか」という恐怖心を抱くことさえあった父親ですが、その一方で、わずかに残る「やさしい父親」の思い出を追憶する著者に、田舎でよく耳にした「血は汚い」という言葉を思い出しました。どんな父親であれ、子どもにとって父親であることには変わりがないのです。だから、洗脳が解けていけばいくほど、現実とのはざまで苦しまなければならないのでしょう。

唯一著者の感情が出ていたのが、小管の拘置所に面会に行ったときのつぎの場面です。

 とりとめのない話をしているうちに、30分の面会時間は終わりました。
 「お身体に気をつけてください」
 私が席を立ち上がった時、父は何かを呟きましたが、この時は聞き取れませんでした。
 私はドアのところでもう一度振り返り、面会室を出て行く父の背中に向かって「大好き!」と叫び、そのまま駈け出しました。
 面会室から帰る廊下で私はずっと泣いていました。


しかし、話はそれだけでは終わりません。その日、普段はまともな会話もできない父親(麻原彰晃)に対して、著者は「やっぱり詐病だったんだ」という確信を深めるのでした。それがつぎの箇所です。

 自分でも何をトンチンカンなことを言っているんだろうとおかしくなってしまいました。父も声を立てて笑いました。
 そして、その笑いに乗じて父が言ったのです。
 「さとか‥‥」
 それは私にだけ聞こえるくらいの小さくて懐かしい父の声でした。父は右手で自分の口を覆い隠すようにして、笑い声でごまかうように私の名前を呼んだのです。看守は気づかなかったようですが、私には聞きとれました。(略)もしかしたら、父は私の話をちゃんと聞いて理解しているのだろうか。ふと、そんな気がしました。


山下公園2・20100605

病気の悩みはつづいています。知り合いの病院関係者から、その道では有名な大学病院の先生を紹介してあげるので相談してみたらと言われました。時間的な猶予はまだあるのですが、しかし、いづれ結論を出さなければなりません。それだけは間違いない。

梅雨の前の今は散歩にいい季節です。目の前の海を行き交う船を眺めながら、ひとりはさみしいけれど、やっぱりひとりがいいなとしみじみ思いました。ふと見上げると、澄み切った6月の空がやけにまぶしく感じられてなりませんでした。
2010.06.06 Sun l 社会・メディア l top ▲
今日は朝から「鳩山・小沢ダブル辞任」のニュースが飛び交っていましたが、辞任は当然で、むしろ遅すぎた感さえありますね。

政権交代から8ヶ月、どうして期待が失望に変わったのか、それは政策的な後退もさることながら、民主党に自民党的な古い政治の姿を見たからではないでしょうか。政治が変わった(変わってほしい)と思っていたのに、なんにも変わってなかったということです。そんな「政治が変わってほしい」という期待やその反動の「支持政党なし」「政治的無関心」という態度には、もしかしたら既成政党が背負いきれないくらいラジカルな要素も含まれているということかもしれません。少なくとも時代に政治が追いついてないことはたしかで、その意味ではこれからも政治的混乱はつづくのはないでしょうか。

今朝はふと思いついて、横須賀線の保土ヶ谷駅で途中下車して、国道1号線を横浜駅まで歩きました。駅前の松屋で朝食の「焼魚定食」を食べて、それからいつも車窓から見ていた沿線の風景の中をひたすら北東の方角に歩きました。

途中、久保町付近には自動車の修理工場が点々とありましたが、あのあたりはもともと自動車関連の店が集中する地域だったのかもしれないと思いました。東京でも同じ業種が集まる地域というのがあって、たとえば東麻布なども、昔は中古の自動車部品を扱う店が多くあったのだそうです。街の転変が激しいので、昔の面影をさがすのはなかなかむずかしいのですが、そういった街の成り立ちを考えるのも面白いです。

久保町の先には1階が24時間営業の肉のハナマサで、2階がキリスト教の教会になっているマンションがあり、そのコントラストも面白かったのですが、残念ながらカメラを持ってなかったので写真を撮ることができませんでした。また、ずっと気になっていた平沼橋の商店街も歩きました。ややひなびた感じの商店街の建物の上を京急(京浜急行)の赤い電車が横切って行く光景がとてもよかったです。横浜の中心部の京急は高架になっているので、味わい深い光景が多いです。

初めての街を歩くときは、どこか心がはずみます。そして、何気ない風景でもいつまでも印象が残ります。車でさっと通りすぎるだけではそんな気持にはなれません。やはり歩くというのはいいもんだなと思いますね。一方で、田口ランディの「空っぽになれる自分」ではないですが、歩きながら自分の中に沈殿する余分なものを捨てているようなところもあります。余分なものを捨てるというのは大事なことで、そうしないとこの心の中からわずかな希望でも見つけることができない気がするのです。
2010.06.02 Wed l 日常・その他 l top ▲