
来るべき老後に備えての予行演習というわけではないのですが、今日は巣鴨に行きました。と実は、私にとって巣鴨は思い出のある街なのです。
高山文彦氏の『エクストラ-中上健次の生涯』(文春文庫)を読むと、中上健次も私と同じ高田馬場の予備校に通っていたようですが、私もまた中上健次と同じように名ばかりの予備校生で、当時はほとんど住所不定の状態でした。それで一時、巣鴨の地蔵通りのすぐ脇に入ったところにある友人のアパートに居候していたことがありました。ある夜、友人が「明日は5時に起きる」と言うのです。聞けば、毎月4の付く日がとげぬき地蔵の縁日なのですが、縁日の翌朝は早く起きて、地蔵通りに落ちているお金を拾って歩くのだとか。これが結構な金額になるのだそうで、「早く行かないとホームレスに先を越されるからな」と言ってました。
当時は縁日になると、包帯を巻いて杖をついた傷痍軍人の物乞いが地蔵通りの入口に立っていることもありました。もちろん、戦後40年以上経って、傷痍軍人などいようはずもありません。あるとき、歩道橋の下で休憩している彼らに、友人が「儲かりますか?」と訊いたらしいのです。すると、途端に鬼のような形相になり、襟首をつかまれて「ぶっ殺すぞ!」と言われたのだとか。友人は、「あいつらには近づかない方がいいぞ」と言ってました。

車ではしょっちゅう通っていましたが、こうしてのんびり地蔵通りを歩くのは久しぶりでした。巣鴨は舗道も広くゆったりしていますし、知る人ぞ知るときわ食堂をはじめ、定食屋も多く、今も昔もひとり者には暮らしやすい街だと思います。地蔵通りから一歩中に入ると、まだ昔の民家も残っていました。もしやと思って、友人のアパートがあった路地に入ってみましたが、さすがに友人のアパートは残っていませんでした。
地蔵通りにはきれいな娘がいる蕎麦屋があって、娘目当てに好きでもない蕎麦を食べに行ってました。娘が
オスカー・ピーターソンのファンであることまで聞き出したのですが、なぜかそのあとの記憶が残っていません。なにか記憶を消したくなるような出来事があったのでしょうか。その蕎麦屋を探したのですが、残念ながら見つかりませんでした。
また、サラリーマンの頃、フランス帰りの芸術家崩れで占有屋をやっていた知人がいて、彼が巣鴨のビルを占有していたことがありました。私も一度訪ねて行ったことがあるので、そのビルを探したところ、今は立派な会社が入居するビルになっていました。ちなみに、占有屋の知人は、ある日突然連絡がつかなくなり、以後音信不通のままです。

とげぬき地蔵の本殿の前では、やや素人ばなれした背広姿の中年男性が、横綱の土俵入りのような大仰な動作で、二礼二拍一礼してお参りしていました。でも、とげぬき地蔵は、高岩寺というれっきとした曹洞宗のお寺のはずです。さらにあろうことか、男性はお地蔵さんの前でも同じように二礼二拍一礼していました。
ビートルズ以後の世代である我々は、年をとっても巣鴨詣でをすることはないだろうと思っていますが、ホントにその心配はないのでしょうか。仮に永井荷風が現代に生きていたとしても、荷風は絶対に巣鴨へは行かなかっただろうと思います。そういう老人になりたいものです。とか言いながら、ビートルズもローリングストーンズも関係ないくらい老いさらばえると、やはり、念仏をとなえながらお地蔵様の膝や腰をタオルでこすっていたりするのかもしれません。巣鴨には縁起ものの赤い下着を売る店がありますが、赤いパンツをはいて塩大福を食べている自分の姿なんて想像したくないですが。

帰りは、地蔵通りからそのまま庚申塚をぬけて大塚駅まで歩きました。大塚駅の前では、会社帰りのサラリーマンといった感じの初老の男性が、駅から出てくる若い女性に片端から声をかけている姿が目に入りました。以前は渋谷のセンター街でそういった光景をよく目にしましたが、大塚にもラブホテルがありますので、おそらく「お金をあげるのでホテルに行かない?」と”援交ナンパ”をしているのだと思います。「おっさん、なに考えてるの?」と言いたくなりますが、世の中にはそういった煩悩にまみれた、救いようのない人間もいるのです。しかし、仏教に「摂取不捨」という言い方がありますが、仏教ではこういう煩悩熾盛の人間こそ救われる、救われなければならないと言うのです。特に親鸞以後の考え方はそうです。巣鴨詣での善男善女にすれば、「じゃあ、あたしたちはなんなのよ」と言いたくなるでしょうが、仏教というのはときに理不尽に思えるほど慈悲深いのです。
一方で、つらつら考えるに、そんなアホなおっさんと私達はどう違うんだろうという思いもあります。私達だって、煩悩熾盛の人間であることには変わりがないのです。「摂取不捨のご利益」というのも、実は誰も救われないという逆の意味もあるんじゃないか。ふとそう思いました。私達のまわりを見ると、むしろそう考えた方が納得できるような気さえします。ホントは善男善女なんてどこにもいないのかもしれないのです。夕暮れの大塚駅前で発情しているおっさんを見ながら、凡夫の私はそんなことを考えました。