今日、友人から携帯に電話がかかってきました。

「おお、どうしてた? 何回も電話したけど出なかったんでなんかあったのかと思ったよ」

そう言えば、先月から何度か携帯に着歴が残っていました。いづれも電話に出ることができなかったのです。

「また、電話がかかってくるんじゃないかと思ってな、そのままにしていたんだよ」
「そのままって、電話があったらかけてくるのが礼儀だろう?」
「オレから電話はしたくなかったんだよ」
「どうしてだ?」
「前にお前に電話したとき、電話代が1万2千円もかかったからだ」

先々月、友人から電話がかかったときもすぐに出ることができなくて、あとで電話したのですが、途中で携帯の電源が切れるまで長電話をしてしまったのです。その結果、1万2千円の請求がきたのでした。

「考えてみろよ。春秋航空だったら上海を往復できるぞ。若い女の子ならまだしも、なんでおっさん相手に1万2千円も出さなきゃならないんだ?」
「それで電話をしてこなかったのか?」
「そうだ。そっちからまた電話がかかってくるのを待っていたんだ」
「・・・、あっ、ごめん、お客がきた。また電話する」

なんだ、一緒じゃねえか、と思いました。

私は自分から電話をかける方ではないのですが、いったん電話すると話が長くて、昔から”男の長電話”と言われていました。若い頃、つきあっていた彼女と10時間電話をして、文字通り耳にタコができたこともありました。当時は電話代が月に4万とか5万とかはざらでしたが、でも今のように「バカらしい」と思うことはなかったですね。彼女の親は、「もったいない」「そんなに電話代をかけるなら、逢ってご飯でも食べる方がよっぽど安上がりじゃない」と言ってたそうですが、まさに正論ですね。彼女は、「電話代大変でしょ? 私もいくらか出すからね」とよく言ってましたが、一度も出したことはありません。

固定電話はIP電話の普及などで劇的に安くなりましたが、携帯は相変わらず高止まりしたままです。そのために、こういったかけ引きが必要になるのです。ただ、携帯でもSkypeに対応する機種が徐々に出はじめたりしていますので、いづれ固定電話と同じように”価格破壊”が行われるのではないでしょうか。でも、そうなった頃は、私にはせいぜい市役所からかかってくる安否確認電話くらいで、もう長電話する相手もいないのでしょう。Skypeで恋をする時代に生まれたかったとしみじみ思います。
2010.10.29 Fri l 日常・その他 l top ▲
今日眠りについたのは朝でした。「めざましテレビ」の”今日のわんこ”を見たことまでは覚えています。そして、目が覚めたのが午後0時すぎでした。「笑っていいとも」の”テレフォンショッキング”が気になりましたが、クロネコヤマトが集配に来るのが午後4時半なので、起きるなりあわてて発送の作業をはじめました。

なんとかぎりぎり間にあってホッとしたのもつかの間、いつの間にかベットで夢の世界に入っていました。次に目が覚めたとき、既に時計の針は午後10時をまわっていて、テレビでは「やりすぎ都市伝説」をやっていました。なんのことはないこれで1日が終わったのです。さすがに自己嫌悪に陥らざるをえませんでした。

先日、病院に行った際、新しいクスリが処方されたのですが、私は「先生、このクスリはいつまで飲むのでしょうか?」と尋ねました。すると、とりあえず6ヶ月飲んでみて効果があるようだったら、「ずっと飲んだ方がいいですね」と言うのです。

「ずっとというのはいつまでですか?」
「ずっとです」
「えっ、ずっと?」
「そうです」
「ということは、一生ですか?」
「一生といえば、まあそうですね」
「ええっ、一生ですか?」

「一生」と言われて私は少なからずショックを受けたのですが、しかし、考えてみれば、そんなに途方もなく長いというわけではないのです。「それくらいはありかな」と思えるくらいの長さです。いつの間にか「一生」も想像の範囲内におさまるくらいになっていたのです。とは言え、あらためて「一生」と言われると、「死ぬまで」と言われていることと同じような気がして、やはり心中おだやかではありません。

一方で、人生も折り返し点をすぎ、ぼつぼつゴールが見える地点に差しかかってきたのかな、と思ったりしました。いつまでも見ないふりをしてごまかすわけにもいかないだろう、と。しかし、そう言いながら、相変わらずこのように無為に時をやりすごしているのが凡夫たるゆえんなのです。
2010.10.27 Wed l 日常・その他 l top ▲
最近、文学賞の新人賞で「盗作」事件がたてつづけに発生して、ちょっとしたニュースになりました。もっとも、今や文学なんて一部の好事家の手慰みのようなものでしかありませんので、あくまでそれは「ちょっとしたニュース」にすぎません。

ひとつは、文藝賞(河出書房新社主催)に内定していた作品が、「インターネット上のアイデアを無断で使っていたため」受賞を取り消されたという事件です。

もうひとつは、福岡県柳川市が主催する「白秋献詩」で、最高賞の文部科学大臣賞を受賞した秋田県の中学3年生の女生徒の作品が、インターネットの投稿サイトに掲載されていた作品の盗作だったことが判明して、受賞を取り消されたという事件です。この生徒の場合、いわば盗作マニアだったようで、ほかにも群馬県前橋市主催の「詩(うた)のまち前橋若い芽のポエム」というコンクールの中学生の部の最高賞や、第19回「詩と思想」新人賞(土曜美術社出版販売主催)の作品も盗作だった疑いがあり、いづれも取り消しになったそうです。

新聞の記事は、自分達も身に覚えがあるからなのか、なぜか妙にやわらかい表現をしていますが、要するにパクリです。今どきの若者らしくネットからコピペしていたのです。

それにしても、河出書房にしても土曜美術社にしてもいいようになめられたもんだなと思います。なにより編集者の怠慢は責められて然るべきでしょう。文藝賞なんてことさら若い書き手に受賞させて、その話題性で一発当ててやろうという魂胆がミエミエの賞でしたので、まあバチが当たったと言えばそう言えるのかもしれません。選考委員こそいいツラの皮ですが、はたして彼らにそこまでのプライドがあるかは疑問です。

とにかくここ20年くらいの新人賞は、若いというよりもはや「幼い」としか言いようのないような年端もいかない書き手の受賞が目立っていました。もしかしたらそこには、出版不況の中で、賞味期限の短いアイドルを粗製濫造してとりあえずその場をしのいでいくという、文壇アイドル=自転車操業説が実際に存在したのかもしれません。そういった編集者達のあざとい根性がシッペ返しを受けたという意味では、私にはある種痛快でした。

今の若者達にコピペは当たり前でしょう。それに、今どき文学なんてやろうという若者がいるわけがないのです。文芸誌なんてわずか数千部の実売しかないのに(実際はもっと少ないという説もある)、新人賞の応募だけがやたら多いのは、要するに腹にいちもつのニートやフリーターが多いからであって、それを文学青年や文学少女がまだ現存していると勘違いしているだけです。若者達にとって、ブログであれ論文であれ読書感想文であれ、パクリやコピペは当たり前なのです。そんな若者にとって、文学賞の新人賞にコピペして応募するなんてお茶の子さいさいで、おそらく「夢の印税生活」か懸賞に応募するくらいの感覚しかないのでしょう。

まったく、若けりゃいいのかと言いたいです。文学は若者だけのものなのか。ある夜、みんなが寝静まった深夜の病室の洗面所の薄明かりの下で、一心に本を読んでいた老女のことを思い出しました。「なにを読んでいるのですか?」と訊いたら、黙って表紙を見せてくれました。それは藤枝静男の『悲しいだけ』でした。私は、なんだか見てはいけないものを見たような気がして、なにも言えずその場を立ち去りました。編集者達は、こういったところにかろうじて文学が残っていることを知らなすぎるのです。
2010.10.26 Tue l 本・文芸 l top ▲
セゾン文化は何を夢みた

永江朗著・『セゾン文化は何を夢みた』(朝日新聞社)を読みました。著者の永江朗氏のことは、『噂の真相』の「メディア異人列伝」で知っていましたが、かつてセゾンの子会社・ニューアート西武の社員で、池袋のアール・ヴィヴァンや渋谷のカンカンポアで働いていたというのは初耳でした。著者がセゾンに勤務していたときと私が西武(セゾン)を担当していたときはちょうど時期的に重なるのですが、あの頃がセゾンにとっていわばいちばんいい時代だったと言えるのかもしれません。

それにして、この本の中でも、阿部和重(作家)・常磐響(デザイナー)・保坂和志(作家)・中原昌也(音楽家/作家)・佐々木敦(批評家)・車谷長吉(作家)・田中りえ(作家)などの名前が出てきますが、現在活躍しているクリエーター達の中にセゾンOBが多いというのは、今更ながらに驚かされますし、と同時に納得もできます。

あるとき、売場の係長が朝礼で、「先日、会長はぜひこの本を読むようにとおっしゃったそうです」と言って、市川浩の『精神としての身体』を紹介したのだそうですが、いかにも西武(セゾン)らしいエピソードだなと思いました。会長というのは、もちろん堤清二氏のことです。

著者は、「それもセゾン系の空気だったのだ」と言います。「ボードリヤールやフーコーやコジェーヴを語ることと、洋服や本やテーブルを売ることがつぎ目なしに連続していると信じられる空気」、そういった空気がセゾンをセゾンたらしめていたのだと。

ただ、この本では著者が在籍した美術や書籍関係の部門を中心にとりあげているために、やや偏ったところがなきにしもあらずでした。もっとも、私が担当していた「十一階から下」にしても、ほかのデパートに比べて西武がハチャメチャに際立っていたことはたしかです。これほど刺激的で面白くてワクワクするデパートはありませんでした。阿部和重は、「シブヤ系」より「セゾン系」と呼ばれる方がリアルだと言ったそうですが、その気持ちはよくわかります。

そのセゾン文化の司令塔が西武百貨店文化事業部であり、そして、最前衛に位置するのが、堤清二氏が「時代精神の根據地」と呼んだ西武美術館(セゾン美術館)でした。80年代、西武百貨店に入社する新卒者の8割が文化事業部を希望していたという逸話も、あながちウソではなかったのかもしれません。

では、我々のまわりでも多くの信奉者を生んだセゾン文化とはなんだったのでしょうか。「七八年にジャスパー・ジョーンズを池袋の人に見せる、八一年にマルセル・デュシャンを池袋の人に見せる。そのとき、大衆を啓蒙しようという気持ちはおありでしたか」という著者の質問に対して、辻井喬(堤清二)氏は「ないです」と即答したのだとか。啓蒙なんて大それたことではなく、「単純に、見せたいから見せた」だけだと。しかし、エゴン・シーレだって西武美術館で回顧展がひらかれるまでは日本ではほとんど無名だったのです。そう考えれば、やはりすごいことだし、ほかのデパートではまず「ありえない」ことなのです。

しかし、世間の目には、それはセゾンの「文化戦略」あるいは「イメージ戦略」と映っていました。そして、セゾングループが行き詰ったのも、そういった本業をおろそかにした“文人経営”が原因だと言われました。そのことについて、著者はつぎのように書いていました。

 セゾン文化について否定的に語る人びとは、文化を商売の道具に使った、文化を口実に儲けようとした、というふうに言う。
 だがその危険性と矛盾については、堤清二も紀国憲一(引用者注:元文化事業部長。のちに常務取締役)も百も承知だったのだ。商売にすれば、文化はただの商品になる。しかし人間の営みとしての消費という行為を考えたときに、そこでは文化がとても重要なものとなる。文化が事業として成り立ち、事業が文化として成り立つとすれば、そこにしかないだろう。


「文化は事業になっても、芸術は事業にならない」というのは、堤清二氏の有名な言葉ですが、その言葉の意味するものがここに集約されているように思います。そして、それがセゾン文化のエートスだったと言ってもいいのではないでしょうか。

紀国氏は、「堤さんが一生懸命考えたのは近代の超克ということであって、近代はどこまでつくりえるのか、どこまでつくりえたのかということがあの人の最大のテーマだった」と言ってましたが、そう考えれば、著者が「あの時代のユーロ・コミュニズムと、あの時代のセゾングループあるいは堤清二が目指していたものとに、私は似た匂いを嗅いでいた」と言うのも、なんとなくわかる気がします。私も前に、セゾングループは堤清二氏らオールドコミュニスト達の見果てぬ夢だったのではないかと書きましたが、でもそれは、どこまで行っても見果てぬ夢にすぎなかったように思います。

だからと言って、セゾンが完全なオリジナルなものだったのかと言えば、そうとも言えない部分があったことも事実です。渋谷ロフトのオープンの際、品出しのために初めて店舗の中に足を踏み入れた私は、思わず心の中で叫びました。「これはアピタのパクリじゃないか!」と。名古屋の名駅のアピタとそっくりだったからです。しかも、担当したインテリアデザイナーも同じでした。むしろ商品構成ではアピタの方が一日の長がありました。しかし、西武(セゾン)には間違いなく思想がありました。アピタにはそれがなかったのです。

あれから20有余年、ロフトはそれこそ雨後の筍のように全国各地にできました。しかし、もはやセゾンはセゾンではないのです。もちろん、ロフトもロフトではない。そこには「事業としての文化」という思想も「時代精神の根據地」という戦略もありません。堤清二氏は、セゾングループからなんとかして「西武」の名前を消したいと思っていたそうですが、それも叶わぬ夢に終わりました。

ただ、たとえ著者が言うようにセゾン文化が同床異夢であったとしても、西武(セゾン)という時代を牽引する「すごい」デパートがあったという事実は、強調しても強調しすぎることはないと思います。そのためにも、この本をきっかけに、もっといろんな角度からセゾンの歴史は書かれるべきだし、語り継がれるべきでしょう。もう二度とあんなデパートが生まれることはないでしょうから。

>>渋谷と西武
2010.10.17 Sun l 本・文芸 l top ▲
今朝、病院に行こうと横浜駅から市営地下鉄のブルーラインに乗りました。しかし、まだ時間があったので、病院の下のマクドナルドでバリューセットを食べて時間を潰すことにしました。そして、受付時間になったので、病院の前で財布から診察券と保険証を出そうとしたら、どこにも財布がないのです。バッグの中をいくらさがしてもありません。まるで狐につままれた感じで、焦れば焦るほど全身から汗が噴き出してきました。

横浜駅でブルーラインに乗る前に、構内の売店で新聞を買ったのですが、そのときたしかに財布から千円札を出した記憶があります。もしかしたら、そのとき落としたのかもしれません。マクドナルドではポケットにあった小銭を使ったので、財布は出していないのです。

手元には200円ちょっとの小銭しかありません。これじゃ病院どころではありません。最寄りの交番に行って遺失届を出すことにしました。

財布の中には現金のほかに、銀行のキャッシュカードやクレジットカード、それに運転免許証や健康保険証などが入っています。中でも銀行のキャッシュカードをなくしたことがいちばんの痛手でした。というのも、私は銀行の通帳をもってないからです。もっぱらネットバンクを利用しているため、最初から通帳のない口座ばかりなのです。だから、キャッシュカードが再発行されるまでは現金を引き出すことができないのです。

で、自宅に帰っていろいろ思案をめぐらした結果、昔使っていた通帳付きの口座があったことを思い出したのでした。机の引き出しの中をかきまわしたら、奥の方からヨレヨレになった通帳が出てきました。見ると、残高は28円でした。救われたと思いました。

ネットは使えますので、ネット経由で通帳のある口座にお金を振り込み、窓口でお金を引き出すことにしました。そして、振込みをしたあと、通帳と印鑑をもって新横浜の店舗まで歩いて行って、どうにか当面の生活費を引き出すことができました。そのあと、再び地下鉄に乗って病院に行きました。健康保険証も診察券もなかったのですが、事情を話して診察を受けました。

まったく、あやうく路頭に迷うところでした。

銀行のコールセンターに電話した際、担当の女性から「お客様、念の為に残高を確認させていただきたいのですが、残高は×××円でよろしいでしょうか?」と訊かれました。しかし、私は、もっとあるはずだと思ったので、「そんなに少ないはずはありません。もしかした下ろされたのかもしれません」と答えました。すると、担当の女性は冷静な口調で、「お客様、今、わたくしの方でご利用明細を確認しておりますが、本日、引き出されたような形跡はございません」と言うのです。いつの間にそんなに減っていたのか。財布を落としたことより、なんだかそっちの方がショックが大きく、途端に暗い気持になりました。これは分をわきまえて倹約に努めろという神のお告げなのかもしれません。
2010.10.13 Wed l 日常・その他 l top ▲
表参道_2971

東京第5検察審査会による小沢強制起訴の議決のニュースで、いろんなことを考えました。この問題は、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件や大阪地検特捜部の改竄隠ぺい事件など一連の問題とどこかでつながっているように思えてなりません。小沢氏は側近の議員に「これは権力闘争だぞ」と言ったそうですが、その言葉が全てを物語っているのではないでしょうか。権力内部ですさまじい暗闘がくり広げられていることは容易に想像できます。

ただ、ひとつだけ言えるのは、ドルが崩壊してアメリカが超大国の座から転落するのは間違いない。そして、世界は多極化し、アジアは中国とインドを中心にまわっていくのも間違いない。いづれアメリカがアジアから手を引くのも間違いないのです。アメリカからけしかけられて高上りした対米従属派も、いつなんどき梯子を外されるとも限らないのです。

もうひとつ、ホッとしたニュースがありました。ノーベル文学賞で村上春樹が受賞を逃したことです。まかり間違って受賞なんてことになったら、マスコミは連日、村上春樹マンセー!の連呼になるでしょう。とりあえずそんな悪夢のような光景を見ずに済んだことは、慶賀すべきことです。

いつものように午後から郵便局に行きました。しかし、二つある窓口がいづれも手続きに手間取っていたため、順番待ちの白線の前で待つことになりました。奥の席では職員達が談笑していましたが、誰も応対する者はいません。

そして、やっと窓口が空いたので私の番だと思ったら、横から主婦らしき女性が割り込んできてさっさとカウンターに郵便物を出したのでした。それで、私は、「あのね~、見たらわかるでしょ? みんな、待ってるんだから。ちゃんど順番にやろうよ」と言いました。すると、割り込み主婦はぶうたれたような顔をして、郵便物を手に列のうしろに並んだのでした。どう考えても並んでいるのを気が付かないわけがないです。わかっているけど、注意されなければもうけものと思っているのでしょう。見て見ぬふりをする窓口の職員にも「注意ぐらいすべきじゃないの?」と言ったら、やはりぶうたれたような顔をしてこっちを見ようともしません。小言幸兵衛みたいでいやになりましたが、まったくどいつもこいつもと思いました。

そのあと、原宿と渋谷に行きました。朝、体重計に乗ったら、「停滞期」の体重をやや下回っていたので気が緩んだのか、久しぶりにまい泉でかつ重(しかも大盛)を食べました。表参道は見事なくらい有名ブランドのショップが並んでいますが、通りを歩きながらこういうのってもう古いよなとあらためて思いました。有名ブランドがけん引する”モードの時代”はもう終わりつつあるのではないでしょうか。すれ違う女の子達を見ていると、一見自由のように見えるけどホントは息苦しいほど不自由なんじゃないかなと思いました。

原宿から渋谷まで歩いて用件を済ませたあと、疲れたので休憩しようと東急ハンズの前のルノアールに行きました。ルノアールに入って禁煙席に座ったものの、分煙といっても形だけで窓際は仕切り板が途中までしかないのです。そのために、禁煙席まで煙が入ってきて、店全体が煙草臭くてなりませんでした。それで、すぐに出ました。ルノアールファンとしては残念ですが、やはり全店禁煙のスタバなどが無難だなと思いました。

帰って再度体重計に乗ったら、1.5キロ増えていました。あのかつ重大盛が1.5キロもあったのかと思いましたが。

2010.10.07 Thu l 日常・その他 l top ▲
四谷_2966

早いもので、もう10月です。今年も残すところあと3カ月。

10月は私の誕生月ですが、この年になると誕生日なんて来なけりゃいいのにと思いますね。先日、70才すぎてもなお、現役のピアニストとして仕事をされている方に会った際、敬老の日の話になりました。

「敬老会に行くんですか?」
「行くわけないわよ」
「老人会から招待されないんですか?」
「だから、老人会に入ってないのよ。老人会に入ってなければ関係ないのよ」
「じゃあ、田舎と違うんですね? 田舎の場合、ほとんど強制的に敬老の日には敬老会に招待されて、公民館などで婦人会がご馳走を作って接待するんです。だから、65才になったら自分の意思に関係なく老人扱いですよ」
「まあ、それこそお節介よね。田舎じゃなくてよかった」
「これから老人になる人間から言わせもらえば、敬老の日なんてなくなればいいのにと思いますね」
「あたしもそう思うわ」
「民主党も郵政改革法案なんかより敬老の日廃止法案でも出してもらいたいですよ」
「ホント、敬老の日なんてありがた迷惑よね」

こうして誕生日が来るということは、あの悪夢のような「敬老の日」が1歩づつ近づいているということなのです。「敬老」と言うなら年金をなんとかしろと言いたい。口先だけで「おじいちゃん、おばあちゃん、長生きしてくださいね」と言うのは簡単なのです。

先週の『週刊東洋経済』では、「第2の就活 70歳まで働く! 」という特集が組まれていましたが、私だって70才になっても75才になっても元気なうちは働きたいと思っています(というより働かなければならない)。真昼間から用もないのにホームセンターや家電量販店の中をウロウロして、木の実ナナのような私服警備員から尾行されるくらいなら、元気な老人は働いた方がいいと思いますが、だからと言って、高齢や病気で働けなくなった、特に(官僚が好きな)「自助努力」ができなくなった生活困窮者の老人が見棄てられるような現実は、決して見すごせるものではありません。厚労省が全廃を決定している療養型病床の問題ひとつをとっても、菅政権の言う「最小不幸社会」は悪い冗談だとしか思えません。

「今の菅さん達を見ても、松下政経塾を出たような若い人達が多くて、あの人達は頭はいいのかもしれないけど、政治をただ観念的にシステムとしてしか捉えてないような感じで、人が見えてない気がする。それって怖いわよ」 この老ピアニストの言葉は、今の菅政権の本質を衝いているのではないでしょうか。

四谷土手_2957

今日は午後から慶応大学病院に行く用事があったのですが、久しぶりの晴天だったので、渋谷から青山通り・神宮外苑を通って信濃町まで歩きました。私は会社を辞めてから、5年間くらいほぼ毎日のように神宮外苑から信濃町の慶応大学病院の前を通って四谷三丁目まで車で通っていたことがあります。それで、同じルートを歩いてみようと思ったのです。

また、用事を終えたあとも、四谷三丁目から新宿通りを四谷駅まで歩いて、さらに四谷雙葉の前からお濠沿いの土手を歩きました。四谷の土手は特に木がこんもりと茂っていて、都心とは思えないくらい緑にあふれています。

四谷にももう20年近く通っていますが、都心の街にしてはめずらしくそんなに大きな変化は感じません。小さな飲食店でもつづいているのは、それなりに商売ができているということなのでしょう。四谷という街は、案外住んでいる人が多いということもあってか、ほかの街に比べて「地元意識」のようなものが強いように思います。

今日も新宿通りを歩いていたら、「久しぶり、元気?」と声をかけられました。私は一度も行ったことはないのですが、しんみち通りだかにあるレストランのご主人でした。知り合いの会社で何度か顔を合わせているうちに、顔見知りになったのですが、そういう気さくな一面があります。

土手を歩いている途中、ふと思いついて、近くの会社に勤めている知人に電話をしたところ、市ヶ谷駅の近くのルノアールで待ち合わせることになりました。せきしろの『去年ルノアールで』ではないですが、私達の世代はやはり、ルノアールが落ち着きますね。知人と一緒に某総合誌の元編集者だという人もやってきました。知人の知り合いらしいのですが、有名出版社の裏事情など、いろいろ面白い話を聞きました。特に、社会が騒然としていた70年前後の保守論壇の動向などは興味をそそられました

知人と別れたあと、再び、麹町の旧日テレ通りを上って新宿通りを四谷三丁目まで戻りました。途中、上智大学の前では、ゼッケンをつけた数人の学生がアジ演説をしていました。夕暮れの近代的なビル群の中に、彼らの拡声器の声がやけに大きく反響していました。

帰って万歩計を見たら、1万9千歩でした。


四谷駅_2955
四谷駅

上智大グランド_2963
上智大グランド
2010.10.01 Fri l 東京 l top ▲