
紅葉狩りに行かなければと思いつつも、なかなか暇がなくて時間ばかりがすぎています。そのうち紅葉の季節が終わるかもしれません。そう思ったらやけに苛立ってなりません。どうしてこんなに紅葉にこだわるんだろうと自分でも思います。柳美里は、『創』(12月号)のエッセイ「今日のできごと」で、鬱の進行により「廃人寸前の」最悪の精神状態にあることを吐露していましたが、(柳美里に比ればなんと牧歌的なんだろうと思いますが)もしかしたら私がこうして紅葉にこだわるのも、一種の”メンヘラ”かもしれないと思ったりします。
今日は午後から仕事関係の知人と会うために渋谷に行きました。週末の渋谷は人人人で、さすがにうんざりします。最近、渋谷などを歩いていても、見るからにナルシシストの男の子が多いなと感じます。この手の男の子は一見草食系に見えますが、実はDVも多いのだとか。なんとなくわかる気がします。
通りが見渡せる喫茶店で、おじさん二人はそんな「今の若いもんは」みたいな話をして溜飲を下げ同病相憐れむのでした。いやだねぇ~。
そのあと知人はアップリンクに「ベオグラード1999」という映画を観に行くので、一緒に行かないかと誘われました。私もこの映画には関心がありましたし、今夜の上映後のトークショーのゲストが映画評論家の松田政男さんだというので行きたい気持はやまやまでしたが、あいにく明日は朝早くから出かけなければなりません。そのために帰って済ませておかなければならない仕事があるので、泣く泣く断りました。
待ち合わせの前に本屋で本を探していたら、『希望の作り方』という書名の本が目に入りました。買わなかったのでどんな内容かわかりませんが、よく「希望」がなければ生きていけないなんて言いますが、ホントに「希望」がなければ生きていけないんだろうか、と考えました。そもそも人生に「希望」なんてあるんだろうかと思います。自分の人生を見ても、どこに「希望」があるんだと思います。
All it needs is courage, imagination, and a little dough.
(人生に必要なものは、勇気と想像力とほんの少しのお金だ)
これは映画「ライムライト」の中のチャップリンの有名な台詞です。寺山修司は「マッチ1本の幸せ」と言ってましたが、マッチ売りの少女だって、マッチのほのかな灯りの中で、つかの間の夢を見ることで生きていけたのです。たしかにそれを「希望」と言えばそう言えるのかもしれませんが、だからと言って、無理して「希望」を探したり「作ったり」、「希望」があるかどうかにこだわったりする必要もないように思います。それよりも、なにかして楽しいと思えるような気分とか、なになにが好きだとかいうような気持とか、そういった日常の些事の中にあるちょっとした気分や気持が大事な気がします。
人間というのは、「希望」がなくても生きていけるのです。それどころか「絶望」の中にあっても生きていける。というか、生きていかなければならないのです。
わたしには、養わなければならない息子が在る。
書かなければならない小説が在る。
いま、自殺するわけにはいかない。
生きる―。
柳美里はこう書いていましたが、たしかに柳美里ならずとも生きていくのはしんどいなと思います。(何度も同じことを書きますが)哀しみは人生の親戚と言いますが、哀しみだけでなく苦しみもせつなさもやりきれなさもみんな人生の親戚です。でも、なんとしてでも生きていかなければならない。生きることにこそ価値があるのだと思います。傲慢であろうが卑劣であろうが身勝手であろうが、それが我らが凡夫の道です。
そんな脈絡もないことを考えながら、おじさんはナルシシスト達をかき分けて帰ってきました。
