「なにをしているんですか?」
「お天道さまにお願いしているの」
「なにをお願いしているのですか?」
「無事に往生できるようにお願いしているの」
「ああ、それなら大丈夫ですよ」
「早くお迎えが来ないかなと思ってるけど、なかなかお迎えが来んのです」
訊けば、もう89才だそうです。「こんなに長生きするとは思わんかった」と言ってました。
私は、その姿をみて、この人はきっと幸せな最期を迎えるに違いないと思いました。こういう信心する気持というのは、私たちが久しく忘れたものですが、最近大事なことじゃないかなと思うようになりました。
昔、母親にも同じようなことを言った覚えがあります。病院に入院していた父親の病状が予断を許さない状態になったという連絡を受けて、九州に帰ったときのことです。その頃、我が家では、父親の病気だけでなく、ほかにも難問が山積していて、母親はそれをひとりで背負った格好になりひどく苦悩していました。
病院の廊下の長椅子にふたりで座って話をしていたときでした。母親は涙を流しながら、我が家にふりかかった深刻な問題とそれに苦悩する自分の胸の内を私に訴えていました。すると、「家庭の幸福は諸悪の根源である」などとうそぶいて、東京で好き勝手に生きているバカ息子は、「なにか宗教でも信仰したらいいんじゃないの」と母親に言ったのでした。
母親は「エッ」とびっくりしたような感じで顔をあげて、私を見ていました。まさか私の口からそんな言葉を聞くなんて思ってもみなかったのでしょう。でも、私は、母親の傷んだ心はもはや宗教でしか救えないような気がしたのです。今回の震災でもそうですが、私たちがもっている言葉は、まったく無力でとるに足らないものです。
みずからのはからいではもうどうにもならないことがあります。仏教では、ものごとを分別する知恵を身につけることで、逆に無明の闇をさまようことになると言います。小さな身体をさらにまるめて無心に手を合わせている老女こそ、「摂取不捨のご利益にあずけしめたまう」(「歎異抄」)存在なのでしょう。それに比べて、私のような欲心の多い人間は、さまざまな執着にしばられもがき苦しみながら死んでいくに違いないと思いました。