何年か前にも同じことを書きましたが、年の瀬も押しせまると、いつにもまして「人身事故」で電車がとまることが多くなります。そのニュースが流れない日はないくらいです。

ニュースも、あくまで「事故」によって電車がとまり、何万人の乗客に影響が出た(要するに「迷惑した」)という内容です。今や自殺は電車に飛び込んだときだけ「事故」扱いで、あとは誰にも見向きもされないのでしょうか。自殺者が年間3万人を超えるようになった頃から、練炭自殺がまれに記事になるくらいで、新聞から自殺の記事も消えてしまいました。

専門家によれば、自殺者の背後には、その10倍の自殺未遂者がいると言われているそうです。ということは、年間三十数万人の人間がみずから命を断とうとしていることになります。こんなすごい現実が私たちのみえないところに存在するのです。

私も昔、仕事の関係で、多くの自殺の事例を真近でみたことがありますが、言うまでもなくひとりひとりの死の背後には、それぞれの人生の軌跡があり、また、それにまつわるさまざまな事情が伏在しているのです。死というのは、きわめて個別具体的なものなのです。でもそれも、自殺という現実とともに、人々の目に触れないように隠されてしまうのです。

石原吉郎は、『望郷と海』に所収の「確認されない死のなかで」という文章で、つぎのような強制収容所での体験を書いていました。

(略)ある朝、私の傍で食事をしていた男が、ふいに食器を手放して居眠りをはじめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応をうしなっているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった。


しかし、戦後60年以上経った現在、私たちのまわりにもこのような多くの「確認されない死」が存在しているのです。前に、ビルの屋上から飛び降りた女の子は、夜明け前、屋上への階段をどんな思いでのぼって行ったんだろう、泣きながらのぼって行ったんだろうか、と書いたことがありましたが、今このときにも、同じように泣きながら死への階段をのぼっている人間がいるかもしれないのです。しかし、それは、想像も及ばないくらい私たちの日常と遠く隔たっているかのように思えます。

石原吉郎は、「死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちになんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう」と書いていましたが、まぎれもなく私たちは、そんな「頽廃」した生のなかにいると言うべきかもしれません。

今年の紅白歌合戦は、「パワーをもらった」「勇気を与えた」「がんばろう」なんていう空疎なことばが飛び交い、如何にもといった感じの歌い手たちによる”便乗商法”のオンパレードになるだろうことは想像に難くありません(そして、彼らはそのあとはいつものように、ブランドの服で着飾ってハワイへ休暇に出かけるのでしょう)。私はそんな紅白歌合戦はみたくありません。それこそそれは、多くの自殺者と同じように、震災の犠牲者を「確認されない死」に追いやる傲慢不遜な行為だとしか思えません。

では、良いお年をお迎えください。
2011.12.30 Fri l 訃報・死 l top ▲
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朝日新聞の「回顧2011・文学」では、「圧倒的な現実を前にした時、フィクションに何が出来るのか――作家らは常に問うてきた」として、米国の評論家で作家の故スーザン・ソンタグが9.11から半年後に語った「物事の複雑な様相を示すのが作家の仕事だし、作家にはその責任がある」ということばを紹介していました。もちろん、この記事では、「圧倒的な現実」が東日本大震災を指しているのは言うまでもありません。しかし、私は、現代の文学にとっては、そんな大事件よりまずこの日常こそが「圧倒的な現実」なのではないか、と思うことがあります。そして、文学はその「圧倒的な現実」を前に限りなく後退しているように思えてならないのです。

同じ朝日新聞の文芸季刊誌『TRIPPER(小説トリッパー)』の最新号(2011年冬号) に掲載されていた、金原ひとみと窪美澄の対談「可視化された”母”の孤独」を読んでも、日常という「圧倒的な現実」を前に、あまりにも無防備な作家たちの姿が垣間見えているような気がしてなりません。

情報のフラット化が進んだ社会では、ことばは何にでも化けることができ、何でも創ることができる、あたかも万能であるかのようなイメージがあります。でも、文学が求めることばは、そんなことばではないはずです。

金原ひとみは、『マザーズ』について、つぎのように語っていました。

私はデビューのころのほうがしんどかったかもしれません。血肉を切り刻んで、自分も死にかけながら死にかけた人の小説を書いているようなところがありました。でも、『マザーズ』は朝起きて子どもを送って十時から書き始める、というような、ものすごく健康的な生活のなかで生まれた小説でした。


毎日死ぬと思いながら生きていたのが、いまは、「ああ、生きているんだな。明日も生きていくんだな」と思いながら書いている。それが、ある種の自信にもなっている気がします。


でも、文学というのは、やはり「血肉を刻んで」「死にかけながら」書くものではないでしょうか。私のなかには、文学は、「絶望」や「破滅」や「不幸」のなかにあるものだという観念があります。だから、文学は日常を突き抜け、私たちの胸を打ち、私たちの感情を震わせ、私たちの生を抉ることばを紡ぎだすことができるのではないでしょうか。「絶望」や「破滅」や「不幸」は、いわば作家の宿命だとさえ言っていい。

日常を回収する予定調和のことばとは真逆にあるのが、文学のことばなのです。でなければ、『マザーズ』を読むよりは、テレビドラマでもみたほうがよっぽど泣けるし面白い。今、文学を語る人たちは、『マザーズ』がただ純文学だからありがたがっているようにしか思えません。

金原ひとみもまた、原発事故の「放射能でガツンと、本当に殴られたような衝撃」を受けたそうですが、それがただ保育園に通う子どもに弁当を持たせるような、日常を保守するような方向に向かうのであれば、彼女の文学も日常という「圧倒的な現実」を前に後退し埋没していかざるをえないように思います。文芸評論家の斎藤美奈子氏は、朝日の記事では『マザーズ』を本年度のベスト3のなかに入れていましたが(なぜか読売では入れてない)、私はやはり、金原ひとみは『蛇にピアス』の金原ひとみでいてほしいと思います。あえて言えば、そこにしか文学の生きる道はないように思うからです。

>> 金原ひとみ『マザーズ』 
2011.12.26 Mon l 本・文芸 l top ▲
昨日の朝、東横線に乗っているときのことでした。各駅停車の電車で、車内が空いていたので、私はシルバーシートにすわっていました。私は、普段は立っていることが多いのですが、空いているときはシルバーシートでもすわります。もちろん、お年寄りや身障者の方が来たら当然席を譲ります。どこかの誰かのようにタヌキ寝入りはしません。タヌキ寝入りするくらいならすわらなければいいのにと思います。

私がすわっていた席は、三人掛けでしたが、真中に一人分のスペースが空いていました。また、向かいの三人掛けの席(シルバーシート)もやはり真中に一人分のスペースが空いていました。向かって左側は30代くらいのサラリーマン風の男性で、右側のドア側の席には若い男性がすわっていました。しかも、彼は大きな紙袋をもっており、それを自分の席の横に置いていました。彼はいかにも今風に、毛先が遊びすぎている(!?)ボサボサ頭に、ダメージ加工なのかホントに洗濯をしていないのかわからないようなヨレヨレのフリースを着ていました。裾がほつれたジーンズに塗料の剥げたボロボロのフェイクレザー(要するに合皮)のブーツをはいて、座席に上体を投げ出すようにしてすわり、まるでペンギンのような短い脚を組んで(そのためによけい上体を投げ出すようにしてすわらなければならない)うたた寝をしていました。

と、そこへ杖をついた高齢の男性が乗ってきたのです。どうやら足が不自由な様子です。私が思わず立ち上がろうとしたら、その男性はなぜか前のペンギン男の横にすわったのです。ペンギン男もその気配に気づいて一瞬目を開けたものの、再びうたた寝(あるいはタヌキ寝入り)に戻りました。しかし、横に置いた紙袋が邪魔で、男性も窮屈そうでした。男性の顔には、あきらかに不快な表情がみてとれました。

やがて二つ目の駅にさしかかると、男性がおりる支度をはじめました。しかし、いかにも難儀そうに杖を支えに立ちあがりドアの方に進もうとしたら、ペンギン男の足が邪魔で前に進めません。すると、男性は「足が邪魔なんだよ!」と鋭い口調で言ったのです。でも、ペンギン男はまったく知らんぷりです。「邪魔だと言ってるだろう!」と男性はもう一度声を荒げて言いました。すると、ペンギン男は、やっと前で組んでいた足をうしろに引っ込めたのでした。

さらに男性はドアの前まで進むと、ペンギン男の方に向けてこう言い放ったのでした。「お前みたいなやつは、人間のクズと言うんだ!」 しかし、ペンギン男はまったく表情を変えることもなく、再び足を組むと目をつむってうたた寝をはじめたのでした。

私は、そのことばを聞いて、だったら世の中「クズ」だらけじゃないか、と思いました。その伝でいけば、東横線の乗客の4分の1は「クズ」です。沿線にある某有名私立大生の3分の1も「クズ」学生と言わねばなりません。たしかにペンギン男の態度はお話にならないくらい無神経でハタ迷惑です。男性はよほど腹にすえかねたのでしょう。その気持もよくわかります。ただ一方で、不用意にそんなことばを吐く男性に対して、私は違和感を抱かざるをえませんでした。これじゃどっちもどっちじゃないか、と思いました。

あえて言えば、シルバーシートというのは、「当然の権利」ではないはずです。優先席ではあるけれど、あくまでそれは、思いやりやいたわりといった他人の心遣いの範疇にあるものです。ましてこの場合、すわれなかったわけではなく、邪魔だったからにすぎません。もしかしたら、男性はすわることができたかどうかより、自分たちの”聖域”であるシルバーシートに、若者が大きな態度ですわっていること自体が気に入らなかったのかもしれません。男性のなかに、「当然の権利」「自分たちの特権」という意識がなかったとは言えないのではないでしょうか。

そもそもシルバーシートなんて必要なのだろうかと思ってしまいます。シルバーシートは、言うなれば鉄道会社のお節介のようなものです。シルバーシートが空いていてもすわらない人も多いのですが、そういった人たちは「マナーがいい」というより「面倒だから」すわらないのではないでしょうか。善意に便乗した中高年のおばさんから、いかにも「アンタどきなさいよ」と言わんばかりに前に立たれたりするのは、たしかに「面倒」なのです。

実際、シルバーシートに善意なんてほとんど存在しないと言ってもいい。そこにあるのは、善意の強要と「当然の権利」だという過剰な権利意識とそれに便乗するいやしい心根と君子危うきに近寄らず式の事なかれ主義です。ホントに高齢者や身障者をいたわるマナーを啓発しようと思うなら、むしろシルバーシートをなくして、どこの席でも誰にでもマナーの向上を訴えた方がよほど意味があるように思います。高校生などをみればわかりますが、シルバーシートがあることによって、逆にほかの座席のマナーが悪くなっているという側面もあるのではないでしょうか。

もとより絶対的な正義や絶対的な善なんてないのです。たとえ”弱者”であろうが誰であろうがそれを振りかざす権利はない。まして鉄道会社がそれを代行するなんて、”気持の悪さ”すら覚えてなりません。
2011.12.23 Fri l 日常・その他 l top ▲
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サラリーマンではなくてもたまには日曜日らしいことをしようと、夕方から桜木町に食事に行きました。そして、ついでにいつものようにみなとみらい界隈を散歩しました。最近は忙しくて散歩もご無沙汰していましたので、帰ったらくたくたでした。ちなみに万歩計は1万5千歩を超えました。

最近、デジカメを流行りのミラーレスの一眼レフに買い換えたものの、まだ一度も使っていませんでしたので、試し撮りも兼ねて写真を撮りまくりました。しかし、カメラは変われど写真は同じで、いつも同じような写真ばかりで芸がないなと自分でも思います。

休日の横浜は、カップルと家族連ればかりですが、カップルを見てもうらやましいと思うような女の子はひとりもいませんでした。先日発表された電通の調査結果では、23才~49才の独身女性のうち7割は彼氏がいないそうですが、別に恋なんてしなくてもいいのではないでしょうか。私のまわりでもそうですが、今は「いい女」ほど恋をしないのです。

先日の『週刊新潮』(12/8号)のインタビュー記事では、新潮社の作家タブーをいいことに、阿部和重と川上未映子が思い切りバカップルぶりを発揮していましたが、あれじゃ『すべて真夜中の恋人たち』のような薄っぺらな恋愛小説しか書けないわけだと納得できました。

休日の横浜で愛を語るカップルや芸能人気取りの芥川賞カップルなんかより、私は、深夜の寝静まった病室の薄明かりの下で、一心に藤枝静男の『悲しいだけ』を読んでいた老人や、目尻から一筋の涙を流しながら、病床でふるさとの思い出を語っていた老人のほうが興味があります。

クリスマスムードに彩られたみなとみらいのなかを歩きながら、私は、”生きる哀しみ”ということを考えました。もし神様がいるなら、せめてクリスマスのときだけでも、神様はそんな哀しみに寄り添いともに涙を流し慰めてもらいたいなと思います。切にそう思います。

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2011.12.18 Sun l 横浜 l top ▲
今日の新聞に「単身女性、3人に1人が貧困 母子世帯は57%」という見出しで、つぎのような記事がありました。

 勤労世代(20~64歳)の単身で暮らす女性の3人に1人が「貧困」であることが、国立社会保障・人口問題研究所の分析でわかった。2030年には生涯未婚で過ごす女性が5人に1人になると見込まれ、貧困女性の増加に対応した安全網の整備が急がれる。

 07年の国民生活基礎調査を基に、同研究所社会保障応用分析研究部の阿部彩部長が相対的貧困率を分析した。一人暮らしの女性世帯の貧困率は、勤労世代で32%、65歳以上では52%と過半数に及んだ。また、19歳以下の子どもがいる母子世帯では57%で、女性が家計を支える世帯に貧困が集中している。

 貧困者全体の57%が女性で、95年の集計より男女格差が広がっていた。非正規雇用などの不安定な働き方が増え、高齢化が進むなか、貧困が女性に偏る現象が確認された形だ。
(asahicom(朝日新聞) 2011年12月9日3時14分配信)

 
厚生労働省の労働力調査(2011年1~3月期)によれば、非正規雇用の74.5%は女性だそうですが、単身女性や母子家庭の母親たちにとって、貧困は現実な問題としてすぐそばにあるのです。私の身近にも似たような境遇の女性がいますが、そのために彼女たちの生き方が非常に卑屈になったり制限されたりして「生き生きとした人生」を選択できなくなるのです。意に反して男性に頼らざるをえないような生き方をして、みずから墓穴を掘ってしまう女性も多いのです。格差社会のなかで、女性にとって「自立」は益々遠くなっていくばかりなのです。

一方で、今日、国家公務員に冬のボーナス(期末・勤勉手当)が支給されたという記事がありました。それによれば、管理職を除く一般行政職(平均年齢35.8歳)の平均支給額は約61万7100円で、前年同期に比べ約2万4200円(約4.1%)増えたのだそうです。この二つの記事を並べると、なんと対照的なんだろうと思ってしまいます。

たまたま今日、九州の友人からメールが来たのですが、彼が住んでいる市では市民の平均年収が184万円なのだそうです。全国的にも温泉で有名な観光地なのですが、生活の現実はそんなものなのです。

前も書きましたが、左が大労組中心の”労働組合主義”に、右が偏狭な民族排外主義にしばられ、時代状況を見失っているなかで、扇動的な公務員批判に代表されるように、民衆のルサンチマンを巧みにすくい上げることによって出てきたのが大阪の橋下現象だと言えます。既成の政治がしっかりしていれば、橋下現象なんて生まれなかったのです。

東日本大震災の復興財源に充てるために、臨時特例で2年間だけ国家公務員の給与を平均7.8%減らす国家公務員給与削減法案さえも連合の横やりでとん挫した一方で、まるでなにかにとり憑かれたかのように消費税の引き上げに執心する野田内閣をみていると、民主党政権というのは、自民党VS社会党の55年体制の悪いものばかりを取り込んだ、最悪の政権ではないかとさえ思えてきます。

こんななかで「貧困」という言葉に象徴されるような格差は、益々広がっていくばかりなのです。そして、本当にめぐまれない人たち、社会的にハンディを背負いながら懸命に生きている人たちは、置き去りにされるだけなのです。
2011.12.09 Fri l 社会・メディア l top ▲