
宮台ファンの小林武史もFMラジオでこの本のことに触れていましたが、宮台真司と
大塚英志の対談集『愚民社会』(太田出版)は、とても示唆に富んだためになる(!)本でした。
大震災・原発事故後に語り下ろされた第1章の「すべての動員に抗して」では、現実(特に原発問題)にアクティブにコミットする宮台真司と、大震災・原発事故に遭遇してもなおなにも変わらないと語る大塚英志は、きわめて対象的にみえます。宮台は、<任せて文句を垂れる社会>から<引き受けて考える社会>へ、<空気に縛られる社会>から<知識を尊重する社会>へという、共同体自治へのシステムの変更を提唱します。具体的には「世田谷モデル」と言われる世田谷区での実験がそれです。一方、大塚は、日本人が「近代を忌避し、思考停止の中で生きている状態」を「土人」と差別的に呼ぶのですが、日本人としての自分たちの自画像も、ラフカディオ・ハーンに代表されるような外国人が語る日本人論が原型になっているこの国では、大震災や原発事故もただ「そういう『土人』ぶりが図らずも露呈した」にすぎないと言います。
「ひとつになろう日本」の空気に水を差すようですが、私のなかには、ダボス会議で渡辺謙が訴えた日本人の美徳としての「絆」なるものに対して、どうしても違和感を禁じえない自分がいます。実家が津波の被害に遭って家族が仮設住宅で生活しているという知人は、「絆」のその裏にある被災地のドロドロとした現実を語っていましたが、それはテレビカメラを引き連れてボランティアに訪れる芸能人たちには決して理会(©竹中労)できない現実なのでしょう。私は、「旦那」である東電を正面から批判できないマスコミが、東電の情報操作そのままに安全デマを流しつづけたことと、復興にあたって上から目線で偽善的に流布される「絆」なるものは、それこそパラレルな関係にあるように思えてなりません。「絆」こそ責任の所在をあいまいにして、すべてをチャラにする「動員」の思想と言うべきでしょう。
一方、対談は、これから日本が向かわざるえない”アジア主義”や原発事故で露わになった日本的な(母性的な)ファシズムなどの話に広がっていくのですが、特に私が興味を覚えたのは、”アジア主義”についてです。二人の話を読むにつけ、私はふと
竹内好の「方法としてのアジア」ということばを思い出しました。
大塚英志は、次のように言います。
大塚 中国の新幹線だってそうです。今の段階では、かつての日本の文化がそうであったように、まがい物、コピーですよね。ただ、コピーをつくっていくときにコピーの反復の中で技術や表現に化学変化が起きます。だから、これは中国が好きとか嫌いではなく、そうした化学変化の余地はどう考えたって中国にある。そういう投資をしている。
韓国だって一方では日本文化を吸収しながらアンチ日本的な心情があったのでハリウッド的なもの、アメリカ的なものを意識的に受容しようとしています。例えば韓国のまんがというのは日本のまんがよりもアメリカのまんがに文体が近いんです。
宮台 そうですか。
大塚 表面だけ見ると日本に似ているといいますけれど、文体が違うんです。技術論が違う。台湾もそうです。なぜかというと反日みたいな感情が、今度はアメリカの文化を積極的に取り入れるという方法論につながっていったから。アメリカのマーケットでは韓国まんがは「アンファ」といって日本のマーケットを喰っているわけです。
大塚は、「日本人は日本のアニメが世界に通用するってニュースを国内で流して満足している」「自演乙」しているだけだと言うのです。
大塚 (略)そこで日本はリスペクトされている、と満足しておしまい。しかし、彼らは日本との歴史問題を抱えてもなお、日本を呑み込むことが必要だと考えている。日本を呑み込み、かつ日本が達成できてない部分の「西欧化」を経済でも文化でも進めている。宮台さんがおっしゃったように韓国映画は表層的には日本の文化を引用しているのだけれど構造的な部分はむしろ西欧的なんですよ。例えば、韓国映画の場合はカット割りは日本のまんがの文体を使うわけです。でも、制作システムはハリウッド的です。日本の映画監督は日本のまんがの映画的な文体を異様に嫌悪しますから三池崇史が例外的に使う以外は使わないわけです。つまりまんが的文体は韓国映画が止揚している。
大塚英志も指摘していましたが、K-POPなども同様でしょう。K-POPは、あきらかに日本の歌謡曲を模倣することから出発しながら、それをアジア全域、ひいては世界に通用するように「止揚」しているのです。先日のテレビで、フィリピンでは日本以上に熱狂的なK-POPブームが起きている様子が紹介されてましたが、日本人はK-POPは日本だけでブームになっていると思っているのです。電通の陰謀だ、だからけしからんと。でも、実は日本だけではないのです。既にアジアを席巻しているのです。それどころか、松田聖子やPerfumeのアメリカ進出などとははるかに違うレベルで、世界に進出しようとしている。大塚英志は、K-POPや韓流ドラマなど「サブカルチャーの領域ではそういう形での上位概念へのスパイラルが始まっているのに、それをこの国が否定して背を向けていくのは愚か」だと言ってました。
家電や自動車を見てもわかるように、日本は製造業が強いという神話も既に過去のものになっています。そして、文化でもどんどん押しまくられているのが現状です。
大塚 (略)アジア的なものの普遍性を「つくる」努力がこれから必要です。その意味で「アジア」主義なわけです。ヨーロッパ的な普遍性はもう老いつつある。アメリカ的な普遍性もある限界を迎えている。イスラム的普遍性はかなり元気がある。もしかしたら、この後、アフリカ的な普遍性とか、南米的な普遍性が出てくるかもしれないというときに、では日本は「アジア」という普遍性を構築していくという意味での「アジア」主義をつくれるか、あるいはそこに参画できるのか、そこから孤立して没落していくのか。
好きか嫌いかではないのです。好きか嫌いかにとどまっている限り、多極化する世界のなかで自閉するしかないように思います。そうならないためにも、もう一度「方法としてのアジア」に立ちかえり、アジアの「近代の可能性」のなかに日本の、そしてアジアの普遍性をさぐるべきではないか。そんなことを考えました。