文藝春秋三月特別号

話題の芥川賞受賞作「共喰い」を読みました。実は『文藝春秋』の3月号を買った時点で既に読んでいたのですが、感想を書こうかどうしようか迷っていたのです。というか、今更書くのが面倒くさかったのです。「共喰い」については、ネットでも多くの人が感想を書いています。そのなかで、「情景描写はとてもうまいけど、話が作り物じみていている」という声がいちばん多かったように思いますが、私も同じような感想でした。

私は最近お気に入りのSEKAI NO OWARIを聴きながらこの小説を読んだのですが、SEKAI NO OWARIの歌ととてもマッチしていて、17才の頃のあの夏の昼下がりの感覚がよみがえってくるような気がしました。しかし、ただそれだけでした。読後の余韻はあまりありませんでした。

「共喰い」は、高樹のぶ子が選評で書いているように、中上健次を彷彿とさせるような父と子にまつわる「血と性の生臭い」話ですが、しかし、中上の小説のように「土着熱」が発する息苦しさややり切れなさはあまり感じられません。なんだかすっきりとおさまっているような感じです。

私が生まれたのは九州の片田舎の温泉地ですが、近くにかの有名な由布院温泉がありました。同じ温泉地でも知名度はそれこそ天と地の差がありましたが、しかし、私から見ると、由布院はまるで”箱庭”のようでした。すべてが作り物じみてウソっぽい気がしてなりませんでした。当時の感覚で言えば、藪蚊や埃にまみれた道端の草や馬糞の臭いのない田舎は田舎ではないのです。「共喰い」にも似たような感想を持ちました。

一度も働いた経験がなく、しかもネットとも無縁だというのは、小説を書く上では大きなハンディのはずです。ただ一方で、だから「共喰い」のような小説が書けたと言えなくもないのです。「共喰い」では、生母の仁子さんが非常にリアルに魅力的に描かれていますが、それは作者にとって母親が唯一の社会との接点だったからかもしれません。

作者は、川端康成と谷崎潤一郎と三島由紀夫によって文学に「開眼」させられ、「それまで本というのは役に立つものだと思っていたのに、役に立たなくてもいいんだとわかった」そうです。しかし、いい小説を読むと、胸を打たれます。そして、せつさなとかやり切れなさとか哀しさとかいった文学のことばによって、私たちは自分の人生と向き合うができるのです。川端だって谷崎だって三島だって、みんな人生の辛酸をなめているのです。そこから彼らのことばが生まれたのです。

言い方は悪いですが、「共食い」は文学オタクが書いた小説のような感じです。あくまでそれは”箱庭”なのです。今どきこういう小説をありがたがる小説家や編集者というのは、由布院のような作り物じみた温泉地に、勝手に「むら」や「ふるさと」をイメージして心の安らぎを求める都会の観光客と同じようなものでしょう。

皮肉なことに、選考委員のなかでは、Cowardな都知事閣下がいちばん正論を吐いているように思いました。
2012.02.28 Tue l 本・文芸 l top ▲
同じような話ばかりで恐縮ですが、先日、いとうせいこう氏のTwitter を見ていたら、「さようなら原発1000万人アクションの賛同人にジュリーも署名」という書込みがありました。「さようなら原発1000万人アクション」のサイトを見ると、沢田研二はつぎのようなメッセージを寄せていました。

美しい日本を護るために一人でも多くの覚悟が不可欠です。
個人としては微力ですが、歩を進めましょう。
声なき声を集めて。さあ!


芸能界ではほかに吉永小百合や竹下景子なども署名していました。

私は、先日の「『愚民社会』」の記事のなかで、渡辺謙がダボス会議で訴えた「絆」に違和感があると書きましたが、その後、渡辺謙は同会議でつぎのような発言をしていることを知りました。

国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし 度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物 質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に 頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。
(東京新聞 TOKYO Web 2012年1月26日配信)


渡辺謙もまた、原発から再生可能エネルギーへの転換を訴えていたのです。しかし、新聞やテレビはそういった発言はほとんど無視して、ただ「絆」の部分だけを切りとって報道したのでした。こういったところにも今回の原発事故でマスコミが果たした役割が垣間見える気がします。

別に有名人に限らないでしょうが、多くの人たちが今回の原発事故を通して、電力会社や政府だけでなくマスコミや原発事故を解説する専門家などに対して不信感を抱いたのは間違いないでしょう。私のまわりでもどこにでもいるようなおっさんやおばさんが、「どうして東電を潰さないのか?」「こんな理不尽なことが許されるのか?」などと怒っていましたが、それは多くの人たちが共有する感覚でしょう。

にもかかわらず、マスコミは相変わらず東電をはじめ電力会社を正面から批判することを避けています。たとえば、7~8年前に発覚した耐震偽装事件のときと比較すればよくわかりますが、あのときは関係者の会社や自宅に押しかけて、テレビカメラの前でマイクを突き付けて詰問したものです。ことの是非は別にして、会社が小さかったり個人だったりすると、マスコミは容赦なく本人への直撃取材や周辺取材を行います。しかし、今回、同じように東電の経営者の自宅に押しかけて、マイクを突き付けたか。そんな場面は一度だってありません。それどころか、逆に政府や東電が操作する「ただちに健康に影響はない」キャンペーンや「電力不足」キャンペーンのお先棒を担いだのでした。斉藤和義ではないですが、「ウソ」はまだつづいているのです。

そんな中で、民主党が「今夏の電力不足を懸念して原発再稼働を容認」という報道がありました。これでストレステストも単に原発再稼働のための机上の儀式であることがはっきりしました。しかも、ストレステストの結果に対する専門家の意見聴取会を仕切り、「妥当」のお墨付きを与えたのは、ほかならぬあの原子力安全・保安院なのですから、あいた口がふさがらないとはこのことでしょう。あの原発事故は一体なんだったんだ?と言いたくなります。

すべてを元の木阿弥にしようとする政府・民主党・経産省やマスコミ・電力会社の姿勢は、「どうして東電を潰さないのか?」「こんな理不尽なことが許されるのか?」という真っ当な感覚をまるであざ笑うかのようです。
2012.02.16 Thu l 震災・原発事故 l top ▲
いくらメンズビゲンで白髪を隠して若づくりしても、やはり寄る年波には勝てないのか、最近、なにかにつけ苛立つ自分がいます。まるで偏屈オヤジの予行演習でもしているかのように、いつもブツブツ文句ばかり言っています。香山リカの『キレる大人はなぜ増えた』や藤原智美の『暴走老人!』の現実が、早くも自分の身の上に訪れたかのようです。

今日も駅へ向かっていると舗道の先に若いカップルがちんたら歩いていました。駅前の舗道は二人がやっとすれ違うことができるくらい狭いのですが、そんなことはいっこうにお構いなしです。そのため、うしろからやってきた人たちも追い越すことができず糞詰まり状態になっていました。見ると、男の子はひょろと背が高くて、メガネをかけたタケノコのような感じでした。隣の女の子は森ガールのようないでたちで、玉ねぎのような髪型をしていました。

私も糞詰まりの行進に加わっていましたが、そのうちしびれを切らして、メガネタケノコと玉ねぎのカップルに突進することにしました。うしろから「すいません」と声をかけると、メガネタケノコと玉ねぎのカップルは、びっくりしたようにうしろをふり返り、「なに、この人?」みたいな顔をしているのです。どうやら自分たちが迷惑をかけているという認識はないようでした。そうなると、つい余分なことを口走りたくなるのがオヤジの習性です。

「邪魔っ!」

すると、玉ねぎは「怖い!」とでも言いたげに、メガネタケノコの腕を掴んだのでした。そして、二人は身体をずらしながら、「信じられない!」というような顔で私の方を見ていました。

私は、「信じられないのはお前たちだろう」と心の中で悪態を吐きながら、さっさと二人をぬかして歩いて行きました。でも、ほかの人たちは相変わらずメガネタケノコと玉ねぎのうしろで糞詰まりの行進をつづけているのでした。

土日になると、舗道にはベビーカーを先頭に横一列に並んで歩いている家族連れがいますが、そんな”家庭の幸福”御一行様が前からやってくると、どうすればいいんだ?と一瞬足が止まってしまいます。知人は「”家庭の幸福”を舗道にまで持ち込まないでくれよ」と言ってましたが、ここにも「私」と「公」の区別がつかない身勝手でけじめのないものの考え方が露呈されているように思います。「私」と「公」のどっちを優先するかということはないのです。「私」と「公」の区別がつかないことがだらしがないのです。

また、昨日はこんなこともありました。駅裏に東横線の線路の下をくぐるV字状の細い道があるのですが、自転車で通る人たちは、手前の下り坂ではずみをつけて先の上り坂をのぼろうとするために、みんな猛スピードで駆け抜けて行くのです。歩行者と接触したら大きな事故になりかねません。特に塾帰りの子どもたちに遭遇すると、壁に背をつけて彼らをやりすごさなければならないほどです。自転車の走行を禁止にすればいいのにと思いますが、なぜか横浜市はなんの対策もとっていません。それどころか、自動車も走行可能なのですから驚きます。(もっとも自動車といっても、軽自動車がぎりぎり通れるくらいの道幅しかないのですが)

夕方、その道を歩いていたら、前から小学生の女の子が猛スピードで駆け下りて来るのです。思わず「危ない!」とことばが吐いて出たほどでした。それこそ私の身体ぎりぎりのところを駆け抜けて行くので、自分がシールを売っていることも忘れて、「おい! 危ないじゃないか!」と自転車の女の子に向かって言いました。すると、あとから下りて来たお母さんが私に「あなたはなんですか?」と言いながら、「早く行きなさい!」と女の子を促して駆け上って行きました。道の上にはほかのお母さんたちもいて、みんなで私の方をジロジロ見ながら「いやね~」というような顔をしていました。私はまるで変質者のような扱いでした。

でも、盗人にも三分の理ではありませんが、偏屈オヤジにも三分の理はあるのだと思います。特に『愚民社会』を読んでからは、そんな場面に出くわすたびに、宮台真司の「田吾作」や大塚英志の「土人」ということばが頭に浮かんでなりません。

こうして苛立つのは、『キレる大人はなぜ増えた』や『暴走老人!』が言うように、年をとって時代からとり残される焦りのようなものもあるのかもしれません。たしかにみっともないし心が狭いのかもしれません。しかし、同じように無神経で身勝手な行為に苛立っている人は多いはずです。都会で生活する上ではこういった苛立ちは、むしろ日常的な光景だと言ってもいいかもしれません。

それどころか、電車に乗るときに人を押しのけて座席にすわろうとする人や、スーパーやコンビニのレジで前の人がまだ清算しているのにうしろからせかせるように買物カゴを差し出す人や、他人の迷惑をかえりみず舗道を我がもの顔で歩いているような人たちが、一方で「反戦平和」だとか「原発反対」だとか言っても、私は絶対に信用できないという気持があります。「反戦平和」や「原発反対」は正義なんだから、無条件に正しいのだ、というような考えには、私は組みしたくありません。「反戦平和」でも「原発反対」でもなんでも、そこにはなんらかの「留保」があるべきだと思います。『愚民社会』の中で、子どもを盾にした「原発反対」は母性的な(日本的な)ファシズムに通じていると二人が言っていたのも、同じような理由からでしょう。

大塚英志は、日本の自然主義文学はどうして私小説に帰結せざるをえなかったのか、そこに日本の近代のとん挫した姿があるというようなことを言ってましたが、たしかに私たちの「私」は近代の洗礼から生まれた「私」ではないのですね。それは近代がとん挫した悲しくもせつない「私」として在るのだと思います。そう考えると、「私」と「公共」の区別がつかないのも仕方ないのかもしれないと思ったりもしますが、でもやはり苛立つ。
2012.02.15 Wed l 日常・その他 l top ▲
夕方、芥川賞の受賞作が掲載された『文藝春秋』を買おうと駅前の本屋に行ったら、ちょうど店員の女性が『文藝春秋』の山を両手に抱えて品出ししているところでした。見ると、カウンターの端にはまだ『文藝春秋』の山が二つもありました。

「すごいですね」と言うと、「すごいですよ」「もう値段も暗記してしまいました」と笑いながらレジを打っていましたが、まったく田中慎弥様々です。私もあの発言がなかったら、今回の受賞作は読まなかったかもしれません。

そのあと、トマトジュースを買おうとスーパーに行ったら、棚の中でトマトジュースだけが品薄になっていました。トマトに中性脂肪を下げる物質が見つかったと京都大学が発表した影響でしょう。男性客のカゴの中にやたらトマトジュースのペットボトルが入っていたのには思わず笑ってしまいましたが、私もそのひとりなのです。

若い頃、私はトマトジュースばかり飲んでいた時期がありました。当時はまだペットボトルがありませんでしたので、家では缶ジュースを箱ごと買っていました。上京してからもトマトジュース好きはつづいていて、毎朝、最寄り駅の自動販売機で缶ジュースを1本飲んで、それから改札口に入るのが日課になっていました。ただ、こうして中性脂肪が気になる年齢になり、そのためにトマトジュースを飲まなければと思うと、若い頃のようにおいしく飲めないのです。なんだか鼻をつまんで無理して飲んでいるような感じです。

人間というのは、ミーハーなくせに、それでいてめんどくさい生き物だなとしみじみ思います。
2012.02.12 Sun l 日常・その他 l top ▲
愚民社会

宮台ファンの小林武史もFMラジオでこの本のことに触れていましたが、宮台真司と大塚英志の対談集『愚民社会』(太田出版)は、とても示唆に富んだためになる(!)本でした。

大震災・原発事故後に語り下ろされた第1章の「すべての動員に抗して」では、現実(特に原発問題)にアクティブにコミットする宮台真司と、大震災・原発事故に遭遇してもなおなにも変わらないと語る大塚英志は、きわめて対象的にみえます。宮台は、<任せて文句を垂れる社会>から<引き受けて考える社会>へ、<空気に縛られる社会>から<知識を尊重する社会>へという、共同体自治へのシステムの変更を提唱します。具体的には「世田谷モデル」と言われる世田谷区での実験がそれです。一方、大塚は、日本人が「近代を忌避し、思考停止の中で生きている状態」を「土人」と差別的に呼ぶのですが、日本人としての自分たちの自画像も、ラフカディオ・ハーンに代表されるような外国人が語る日本人論が原型になっているこの国では、大震災や原発事故もただ「そういう『土人』ぶりが図らずも露呈した」にすぎないと言います。

「ひとつになろう日本」の空気に水を差すようですが、私のなかには、ダボス会議で渡辺謙が訴えた日本人の美徳としての「絆」なるものに対して、どうしても違和感を禁じえない自分がいます。実家が津波の被害に遭って家族が仮設住宅で生活しているという知人は、「絆」のその裏にある被災地のドロドロとした現実を語っていましたが、それはテレビカメラを引き連れてボランティアに訪れる芸能人たちには決して理会(©竹中労)できない現実なのでしょう。私は、「旦那」である東電を正面から批判できないマスコミが、東電の情報操作そのままに安全デマを流しつづけたことと、復興にあたって上から目線で偽善的に流布される「絆」なるものは、それこそパラレルな関係にあるように思えてなりません。「絆」こそ責任の所在をあいまいにして、すべてをチャラにする「動員」の思想と言うべきでしょう。

一方、対談は、これから日本が向かわざるえない”アジア主義”や原発事故で露わになった日本的な(母性的な)ファシズムなどの話に広がっていくのですが、特に私が興味を覚えたのは、”アジア主義”についてです。二人の話を読むにつけ、私はふと竹内好の「方法としてのアジア」ということばを思い出しました。

大塚英志は、次のように言います。

大塚 中国の新幹線だってそうです。今の段階では、かつての日本の文化がそうであったように、まがい物、コピーですよね。ただ、コピーをつくっていくときにコピーの反復の中で技術や表現に化学変化が起きます。だから、これは中国が好きとか嫌いではなく、そうした化学変化の余地はどう考えたって中国にある。そういう投資をしている。
 韓国だって一方では日本文化を吸収しながらアンチ日本的な心情があったのでハリウッド的なもの、アメリカ的なものを意識的に受容しようとしています。例えば韓国のまんがというのは日本のまんがよりもアメリカのまんがに文体が近いんです。
宮台 そうですか。
大塚 表面だけ見ると日本に似ているといいますけれど、文体が違うんです。技術論が違う。台湾もそうです。なぜかというと反日みたいな感情が、今度はアメリカの文化を積極的に取り入れるという方法論につながっていったから。アメリカのマーケットでは韓国まんがは「アンファ」といって日本のマーケットを喰っているわけです。


大塚は、「日本人は日本のアニメが世界に通用するってニュースを国内で流して満足している」「自演乙」しているだけだと言うのです。

大塚 (略)そこで日本はリスペクトされている、と満足しておしまい。しかし、彼らは日本との歴史問題を抱えてもなお、日本を呑み込むことが必要だと考えている。日本を呑み込み、かつ日本が達成できてない部分の「西欧化」を経済でも文化でも進めている。宮台さんがおっしゃったように韓国映画は表層的には日本の文化を引用しているのだけれど構造的な部分はむしろ西欧的なんですよ。例えば、韓国映画の場合はカット割りは日本のまんがの文体を使うわけです。でも、制作システムはハリウッド的です。日本の映画監督は日本のまんがの映画的な文体を異様に嫌悪しますから三池崇史が例外的に使う以外は使わないわけです。つまりまんが的文体は韓国映画が止揚している。


大塚英志も指摘していましたが、K-POPなども同様でしょう。K-POPは、あきらかに日本の歌謡曲を模倣することから出発しながら、それをアジア全域、ひいては世界に通用するように「止揚」しているのです。先日のテレビで、フィリピンでは日本以上に熱狂的なK-POPブームが起きている様子が紹介されてましたが、日本人はK-POPは日本だけでブームになっていると思っているのです。電通の陰謀だ、だからけしからんと。でも、実は日本だけではないのです。既にアジアを席巻しているのです。それどころか、松田聖子やPerfumeのアメリカ進出などとははるかに違うレベルで、世界に進出しようとしている。大塚英志は、K-POPや韓流ドラマなど「サブカルチャーの領域ではそういう形での上位概念へのスパイラルが始まっているのに、それをこの国が否定して背を向けていくのは愚か」だと言ってました。

家電や自動車を見てもわかるように、日本は製造業が強いという神話も既に過去のものになっています。そして、文化でもどんどん押しまくられているのが現状です。

大塚 (略)アジア的なものの普遍性を「つくる」努力がこれから必要です。その意味で「アジア」主義なわけです。ヨーロッパ的な普遍性はもう老いつつある。アメリカ的な普遍性もある限界を迎えている。イスラム的普遍性はかなり元気がある。もしかしたら、この後、アフリカ的な普遍性とか、南米的な普遍性が出てくるかもしれないというときに、では日本は「アジア」という普遍性を構築していくという意味での「アジア」主義をつくれるか、あるいはそこに参画できるのか、そこから孤立して没落していくのか。


好きか嫌いかではないのです。好きか嫌いかにとどまっている限り、多極化する世界のなかで自閉するしかないように思います。そうならないためにも、もう一度「方法としてのアジア」に立ちかえり、アジアの「近代の可能性」のなかに日本の、そしてアジアの普遍性をさぐるべきではないか。そんなことを考えました。
2012.02.06 Mon l 本・文芸 l top ▲