昨日、用事があって練馬区のとある住宅街を歩いているときでした。角をまわると、家の間にぽつりと神社が現れました。5~6歩も歩けば祠にたどり着くような小さな神社でした。

ふと目をやると、祠の前で一心に手を合わせている若い女性の姿がありました。脱色された長い髪にミニスカートの、いかにも今どきの女の子という感じでした。

その姿に妙に心を打たれる自分がいました。神様にお願いしているのは、恋の成就なのか、あるいは病いの快癒なのか、それとも試験の合格なのか。願いが叶うといいなと思いました。

しばらく歩いて、後ろを振りかえると、ちょうど彼女が神社から出てくるところでした。彼女は、道に出るといったん立ち止まって身体を神社のほうに向け、ぺこりと頭を下げて、急ぎ足で歩いて行ったのでした。

「神はまず悲哀の姿して我らに来たる」と言いますが、こういう謙虚な心にこそ神様は降りてきてもらいたいものだと思いました。
2012.06.29 Fri l 日常・その他 l top ▲
都会の片隅の病院で、誰からも看取られることもなくひっそりと息をひきとる老人。そして、深夜、裏口から当直の看護師に見送られて搬送されていく亡骸。先日、そんな話を医療関係者から聞きました。

路地の奥の裏口から、白い布に包まれストレッチャーに乗せられて運び出される遺体。ガチャガチャという車輪の音が寝静まった路地に響き、そして、ひときわ大きな金属音とともにストレッチャーが寝台車に載せられ、ドアが閉められる。

「では、出発します」 担当者があたりを憚るように低い声でそう言うと、寝台車はゆっくりと動きだす。外灯の薄明かりのなか、寝台車に向かって無言で頭を下げる看護師たち。

そんな光景が目に浮かびました。

消費税増税や民主党の分裂や原発再稼動などに関係なく、ひとりさみしく死を待つ人々。それは、もしかしたら明日の自分の姿かもしれません。「家族がいるとホッとする」と関係者は言ってました。

生活保護受給者のことを「福祉」と呼ぶそうですが、そんな「福祉」専門のような病院があります。外来が開店休業状態の病院も多いので、私たちもその存在に気づかないことも多いのです。なかの様子を初めて目にした人は、「こんなところで人生の最期を迎えるのか」と暗澹たる気持になるそうです。

今、「社会保障と税の一体改革」なるものに関連して、生活保護がやり玉にあがっていますが、そんな「福祉」の現場から生活保護の問題を考えることも必要ではないかと思いました。現場で働いている人で、小説やノンフィクションを書くような人が出てくればいいのにと思います。

「でも、なかには身内でもないのに、毎日のように見舞いに来て、面倒をみる人もいるんですよ」
「それは誰ですか?」
「友達や知り合いのようですね」
「へぇ、他人なのに?」
「そう、他人なのに、親身になって世話する人がいるんです。最期も立ち会ったりして」
「そんな人がいると、救われますね」
「そうですよ。よかったなあと私達も思いますよ」

人間の尊厳ってなんだろう。善意ってなんだろう。そして、人の一生ってなんだろう。そんなことをあらためて考えさせられました。
2012.06.23 Sat l 社会・メディア l top ▲
VOCALIST VINTAGE

最近、徳永英明の「VOCALIST VINTAGE」というカバーアルバムをダウンロードして聴いています。

カバーされているのは、「夢は夜ひらく」「人形の家」「再会」「ブルーライトヨコハマ」など、いわゆる昭和歌謡の14曲です。もちろん、私とてすべてを同時代的に聴いていたわけではありません。

しかし、いつの間にかこれらの歌にしんみり聴き入っている自分がいます。昭和歌謡には今の歌にはないあふれるような叙情があります。歌は世につれではないですが、それは私達の若い頃の心情とどこか重なるものがあるように思うのです。

私は中学を卒業すると親元を離れて、いわゆる街の高校に入ったのですが、そのときから深夜放送を聴くようになりました。また、まわりの影響で洋楽にも興味をもちました。

しかし、ストーンズがいいとかザ・フーがいいとかグランドファンクがいいとか言いながら、その一方で、子どもの頃ラジオから流れていた、聞き覚えのある歌謡曲に耳を傾けている自分がいました。また、入院中に枕元のイヤホーンから流れてきた歌には、今でも当時の思い出がオーバーラップしてきます。それはちょっと垣間見た大人の世界で、斎藤綾子の『結核病棟物語』ではないですが、恋もあったけど死もありました。

昭和歌謡には、「しんみり」ということばが似合います。思い出は遠くなるばかりですが、しんみりする気持ちはいつまでも残っているのです。

中沢新一が「エコレゾウェブ」での小林武史との対談(「いま、僕らが探さなければならないこと」)で、「音楽には『みぞおちの辺りが疼いてくる』というようなものと求めている」という細野晴臣のことばを紹介していましたが、「しんみり」というのはそういうことなのでしょう。

>> 『結核病棟物語』
2012.06.22 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
オウムの手配犯、菊地直子の逮捕を受けて、彼女の両親がつぎのような心情をつづった文章を公表しました。

 娘、直子が多くの皆様に大変なご迷惑をおかけしました。長く逃げていて社会に不安を与えました。親として、被害者・遺族の方々に、深く深くおわび申し上げます。私どもなりに、直子をオウム真理教と引き離そうとしてきましたが果たせず、1990年の出家後は全く連絡が取れず、このようなこととなってしまい、親としての力の無さに愕然(がくぜん)とするばかりです。

 娘直子へ。あの時、直子の気持ちを分かってやれず、ごめんなさい。あの時は、何をどうしたら良いか分からなかった。直子、生きていてくれて、本当にありがとう。ぐっすりと眠って、疲れを取って下さい。

 今日、高橋克也も逮捕されたと聞きました。

 直子、オウム真理教は理想郷を作れず、作りませんでした。もう分かっていると思います。オウム真理教はとてもひどいことをしました。直子、ご遺族や友人はもう殺された人に会えないんです。被害者は生きていたかったんです。直子はそのオウム真理教の一員だったんです。どうか、事実を直視していってください。

 直子、あなたに会いたい気持ちで一杯です。皆さまには申し訳ないことですが、娘に会いたい気持ちであることをどうかお許しください。

 ここに改めて皆様に深くおわびし、また直子に伝えます。

 2012年6月15日


カルトに走り犯罪に手を染めた娘をいつまでも思う親心が出ていて、とてもつらくせつない文章です。「こんないい親がいるのにどうして?」と思いますが、入信したのが高校生のときで、大学に進学してすぐに出家したのですから、親のありがたさに思い至らなかったのも無理はないのかもしれません。それにしても、若気の至りというには、あまりにも浅慮で取り返しのつかないことをしたものだと思います。同じ一生を棒に振るにしても振りようがあるだろうと思います。

逃亡中の”純愛”も、ここに来てちょっと違った話が出てきました。

高橋克也は供述のなかで、菊地直子の同居人に、オウムの手配犯であることをネタに300万円だかを脅し取られたと言っているそうです。そもそも手配写真と似ても似つかない現在の彼女が、どうして菊地直子とわかったのか。警視庁に情報提供したのは、一体誰なのか。ホントにただの市民だったのか。逮捕のあと、そういった疑問があがっていました。

週刊誌によれば、通報したのはどうやら同居人の身内だったようです。しかも、その身内もお金に困っていたらしく、菊地にお金をたかっていたと言われています。また、菊地と高橋は、それぞれ1千万円近くの現金をもっていたことがわかっていますが、奇妙なことにふたりとも留守中に空き巣被害に遭って、多額の現金を盗まれているのです。

同居人は、菊地逮捕の際、別れた元妻や子供たちと久しぶりに会っていたそうですが、それも身内が1千万円の懸賞金目当てに通報するのを知っていて、出頭前に「最後の別れ」をしたのではないかと言われています。いづれにしても、菊地直子がオウムの手配犯であることを同居人は身内に打ち明けていたのです。

それでも彼女は、逃亡をつづけたのは「彼を失いたくなかったから」だと言っているそうです。もしかしたら、手配犯だという弱みに付け込まれ、いいように利用されていたかもしれないのにです。なんと一途で純情で、そして世間知らずなんだろうと思います。

そう考えれば考えるほどかなしいものがあります。まして両親にしてみれば尚更でしょう。
2012.06.21 Thu l 社会・メディア l top ▲
どん底

高山文彦著『どん底』(小学館)を読みました。

これは、福岡県立花町(現八女市)を舞台に、平成15年11月から平成21年1月まで5年以上にわたってくり広げられてきた部落差別自作自演事件を扱ったノンフィクションです。著者は、この事件を「なんとおぞましく、悩ましい、人間とはかくも不気味で奇怪な存在であることかと立ち竦まされてしまう事件」と表現していました。

この事件は、飛鳥会事件とともに部落解放運動に深刻な打撃を与えたと言われていますが、時期的にはちょうど部落解放同盟が飛鳥会事件で大きくゆれているときに、この自作自演事件もはじまったことになります。

立花町の町長や学校長、社会教育課長などに送られてきた44通の差別ハガキでターゲットになったのは、立花町の嘱託職員で、部落解放同盟の副支部長でもあった「山岡一郎」(仮名)でした。

彼は、”ムラ”と呼ばれる町営住宅に住んでいました。被差別部落である”ムラ”はもともと別の場所にあったのですが、小集落地区改良事業によって町営住宅として造成され、そこに”ムラ”の人々が集団移転してきたのでした。

そして、事件に対しての反響が大きくなるにつれ、被害者の「山岡一郎」は、まるで”悲劇のヒーロー”のように、各地の人権団体や労働組合の会合に講演に出かけるようになったのでした。それどころか、彼の妻や子供たちまでも善意の人々の前に立ち、差別ハガキに対する怒りや悲しみを涙ながらに訴えるようになったのです。

ところが、平成21年7月、福岡県警が差別ハガキを出した犯人として偽計業務妨害の疑いで逮捕したのは、なんと当の「山岡一郎」だったのです。今まで「山岡一郎」を差別事件の被害者として支えてきた部落解放同盟や町の関係者たちに、衝撃が走ったのは言うまでもありません。

本人の供述によれば、動機は雇用不安でした。経済的にきびしい生活状況のなかで、1年更新の雇用契約を打ち切られることをなによりおそれたからです。差別事件の被害者であれば、組織も町も自分を守ってくれるはずと考えたのです。

”ムラ”の人たちのなかには、「胸をえぐる」ような結婚差別を体験した人も多くいます。本人によれば、「山岡一郎」自身も若い頃、結婚差別を体験したと言われています。

部落解放同盟による糾弾学習会でも、出席した”ムラ”の人々から、その点についてきびしい追求が行われました。でも、「山岡」の反応は、「糠に釘、暖簾に腕押し」で、糾弾学習会は「差別意識の形成過程についてはついにひと言も聞き出せず」むなしい結果に終わったのでした。

ただ、私は、(部落差別の当事者でないからそう言えるのかもしれませんが)「山岡一郎」に対しては、どこか「罪を憎んで人を憎まず」のような気持をもちました。「よりによってどうして?」という気持は当然ありますが、一方で、雇用不安から犯行に及んだという心情はわからないでもないのです。

飛鳥会事件とは比べようもないくらい悲しくもせつない事件ですが、差別を利用して利益を得ようとする動機は共通しています。この本では、どちらかと言えば、「山岡」個人のキャラクターに焦点を当てて事件を描いていますが、事件は単に個人の人格の問題だけにとどまらず、解放運動にはびこる問題とも無縁ではないように思います。むしろ「山岡一郎」は、飛鳥会事件の小西某と同じように、そんな運動内部の”風潮”を利用したとも言えるのです。

私は、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と謳った水平社宣言の胸を打つ崇高なことばと糾弾学習会のつぎのような発言の間に横たわる”乖離”をどうしても感じざるを得ませんでした。

あげなハガキばいっぱい出しとって、ムラを出て行こうともせん。とても自分ならそげなこたしきれんと、私は山岡に言うたとですよ。ムラのみんなを裏切ってきたくせに、解放運動で勝ちとった住宅にずっとおろうとする根性が、私には理解できんとです。


「これがムラを代表する考えかただった」と著者は書いています。

一方、この事件について、部落解放同盟福岡県連はつぎのような「最終見解と決意」を発表したのでした。

 今回の「差別ハガキ偽造」の行為の背景を考えると、公判でも明らかになったように、「就労の不安」というものに端を発し、「差別事件を偽造すれば糾弾がおこなわれ、行政当局が要求を受け入れる」という思惑が存在していました。しかしそのような発想や体質は彼個人の問題ではなく、県連の組織全体の問題として重く受け止めなければならないと考えます。
 つまり、私たちの運動の中に、あるいは同盟員の中に、「糾弾(会)で行政に圧力をかけ、屈服させ、自分たちの要求をのませる」という発想や風潮、体質がなかったのか。もし一部でもあったとすれば、これを徹底して排してきたのかという問題であります。今回の件は、まさにそのような悪しき体質が、ごく一部とはいえ、厳然として存在していたことが明らかになったということです。(略)


私は、この事件では、従来の運動のあり様も同時に問われているように思えてなりません。「ゆがんだ部落問題の実相」と書いていた書評がありましたが、たしかにそう言われても仕方のない側面があるように思います。「山岡糾弾会では、山岡を指導し支えてきた同盟指導部はひとりも糾弾される側に立たなかった」と著者は書いていましたが、部落問題が抱える重い課題をこの本は突きつけているように思いました。

>> 『日本の路地を旅する』
2012.06.17 Sun l 本・文芸 l top ▲
今日、東電OL殺人事件の再審請求審で、無期懲役が確定していたマイナリ元被告の再審を認める決定が出されました。東京高裁の小川正裁判長は、「新たなDNA型鑑定の結果から、元被告以外の男性が被害者を殺した疑いが生じた」との判断を示し、あわせてマイナリ元被告に対する刑の執行停止を決定。元被告は夕方、横浜刑務所から釈放され、東京入国管理局の施設に移送されたそうです。そして、今後は母国ネパールへの強制出国の手続きに入るとのことです。一方、メンツにこだわる検察が異議を申し立てていますが、関係者によれば、異議が認められる可能性は低いようです。

この事件では、元被告の知り合いに対して、就職を世話して証言を変えさせるなど、警察の荒っぽい捜査手法が指摘されています。それが冤罪を生んだ直接の要因ですが、そういった荒っぽい捜査の背景には二つのことがあるように思います。

ひとつは、マイナリ元被告が貧しい国から来た出稼ぎ外国人であったという事情です。どうせネパール人だからと人権を軽視する意識がなかったとは言えないのではないでしょうか。当初は日本国内で支援する組織もなく、またネパール政府も、最大のODA援助国である日本政府に遠慮して自国民を守ろうとしなかったために、元被告は異国の地で孤立無援の状態におかれていたそうです。そのため、警察にも緊張感が欠けていたのではないでしょうか。

もうひとつは、被害者が東電の社員であった。しかも、被害者自身にスキャンダラスな行状の事実があったということです(驚くべきことに、それは東電も承知していたと言われています)。東電の関連会社や関連団体に多くの公安・警察関係者が天下りしているのはよく知られています。一方で東電が、硬軟とりまぜたさまざまな手法で、反原発運動に対する監視・妨害工作を行っていたことも指摘されています。そういった”東電の闇”とこの事件の荒っぽい捜査は、ホントに無関係なのでしょうか。福島第一原発の事故が発生し、それまでタブーだった東電批判が噴出するようになってから、急にこの事件の問題点が明るみに出され、今日に至ったのです。それは単なる偶然なのでしょうか。

この事件の捜査に対してきびしい検証が求められるべきでしょう。

>> 「東電OL」再び
>> 『私という病』
>> 東電OL殺人事件
2012.06.07 Thu l 社会・メディア l top ▲
地下鉄サリン事件に関連して警視庁から特別手配されていた菊地直子が逮捕されたというニュースを見るにつけ、なんだかせつなく思えてなりませんでした。

テレビなどは、「被害者のことを考えると」というおなじみの”枕詞”を使って、彼女に対する同情心を払拭するのに躍起になっていますが、でも、同じような気持を抱いた人は多いのではないでしょうか。

サリン製造に関与したとか言われていますが、実際はただの使い走りだったようで、彼女自身が言うように、「何を造っていたか知らなかった」というのが真相なのでしょう。

高校生のときに親の反対を押し切って入信、大学に進んですぐに出家した彼女は、あまりにも生真面目で純粋で世間を知らなすぎたのです。そこには、カルトにはまる若者の典型的な姿があるように思います。

それにしても17年は長いなと思います。昨今の厳罰主義の流れを受けて、2010年に刑事訴訟法が改正され時効が廃止になるまで、殺人罪の時効は15年だったのですが、彼女を見ると、やはり「時効」という考え方はあってもいいのではないかと思ったりします。

もっとも関与の度合いから言っても、彼女の場合、殺人罪や殺人未遂罪による起訴は無理ではないかという意見もあります。彼女は、末端の出家信者にすぎなかったわけですから、逃亡しなければ、ここまで「大物」扱いされることもなかったように思います。すべてが教団に翻弄されたという感じですね。

結婚を申し込まれたとき、自分の素姓を正直に告白したというのは、彼女の愛が本物だったからでしょう。そのとき、彼女は初めてカルトの洗脳からぬけた”本当の自分”に出会ったのではないでしょうか。木嶋佳苗は、逮捕されるまで「恋人」に本名を伝えてなかったのですが、それに比べればなんと純粋で一途なんだろうと思います。

逮捕されたとき、「もう逃げなくていいのでホッとした」と言ったそうですが、その言葉に嘘がなければ、彼女はもう充分罰せられているという気がしないでもありません。
2012.06.05 Tue l 社会・メディア l top ▲
鶴見川土手968

ダイエットは継続していますが、いっこうに体重が減りません。1~2キロくらいの間を行ったり来たりしているだけで、ほとんど誤差の範囲と言ってもいいでしょう。

今までと比べると、緊張感が欠けているような気がします。「絶対体重を落とすぞ」という強い気持が足りないように思います。

歩くのは、比較的よく歩いています。ほぼ毎日、1万歩以上は歩いていますし、時間が許せば2万歩近く歩くこともあります。

問題は、食事です。食べる量はやや減らしていますが、規則正しく食べるとか、野菜を多く摂るとか、そういった細かい工夫がまったくないのです。

どうしてかと言えば、どうせダイエットしてもまたリバウンドしてもとに戻るだけだろうという気持があるからです。そういったネガティブな気持を払拭することができないのです。

今までの経験でも、ちょっと気を許せばすぐもとに戻ってしまうのです。だからと言って、これから未来永劫に、常に体重のことを考えて生活するなどとても無理です。

そんなことを考えると、心が折れそうになるのです。

今日も早朝、環七を車で走っていたら、いかにもウォーキングをしているといった感じの初老の男女が目の前の横断歩道を渡っていました。それを見ていた私は、「でも、病気になるときはなるし、死ぬときは死ぬんだよなぁ」とぽつり呟いたのでした。隣にすわっていた友人は、黙ったままただ前方を見つめているだけでした。

やたらそういうむなしさにおそわれてならないのです。
2012.06.03 Sun l 健康・ダイエット l top ▲
今日の朝日新聞(asahi.com)に、「東電値上げ『出来レース』か 経産省が事前にシナリオ」という見出しで、つぎのような記事が出ていました。

 経済産業省が、東京電力から家庭向け電気料金の値上げ申請を受ける前の4月に、あらかじめ「9月1日までに値上げ」という日程案をつくっていたことがわかった。東電は7月1日からの値上げを申請したが、経産省は審査に時間がかかることまで計算し、申請から認可、値上げまでのシナリオを描いていた。

 朝日新聞は、経産省資源エネルギー庁が庁内の関係者向けに4月につくった「規制電気料金認可に係るスケジュール等について(案)」という文書を入手した。値上げが妥当かどうかを審査する経産省が、東電の申請前から、値上げを延期したうえで認可するという「出来レース」を組み立てていた可能性があり、審査体制が適正かどうかが問われる。(以下略)


マスコミは、東電の家庭用電気料金の値上げ申請について、有識者による電気料金審査専門委員会での審査など手続きが手間取っているため、値上げは8月以降にずれ込むと報道していましたが、なんのことはない全ては経産省が描いたシナリオだったのです。「手間取る」のも国民の批判をかわすために、最初から仕組まれた「やらせ」にすぎなかったのです。これほど国民を愚弄した話はないでしょう。

今日の昼間のテレビ朝日「ワイドスクランブル」では、この記事を紹介した際、コメンテーターのテレビ朝日の記者が、「官僚たちが日ごろやっていることを考えると、別に驚く話ではありませんよ」としたり顔でコメントしていましたが、だったらそれを記事にしろよ、と言いたくなりました。

「ちょっと東電を批判してみせたりする」枝野経産相の”二枚舌”も同じなのでしょう。政治家たちは単に官僚に操られた腹話術の人形にすぎないのです。そして、原発再稼働&電気料金の値上げも、最初から決められた既定路線だったのでしょう。

ここで示されているのは、原発問題が”原子力ムラ”どころではない、国家の構造そのものに関わる問題であるということです。この国家の構造は、何度政界再編が行われても、どんな政党が出てきても、どんな政治家が出てきても、決して揺らぐことはないのです。それに比べれば、橋下徹大阪市長の大飯原発再稼動問題における腰砕けとみにくい弁解など、まだかわいいものです。

河本につづいてキングコングの梶原が登場した生活保護の「不正受給」問題も然りでしょう。彼らが「社会保障と税の一体改革」のスケープゴートにされたのはあきらかです。そして、これからミソもクソも一緒にした「生活保護の不正」&「見直し」キャンペーンが展開されるのだろうと思います。

もともと”生活保護叩き”はネットのお家芸のひとつでしたが、それをうまく利用されたという気がします。ネットで河本や梶原を叩いている人間たちは、所詮は国家を食い物にする既得権者たちの掌の上で踊らされているにすぎません。間違っても「ネットが現実を動かしている」のではないのです。狡猾で巧妙な”国家”に対して、彼らはなんと無邪気で無防備で単純なんだろうと思います。

フリーライターの安田浩一氏は、このような(人生が)「うまくいかない人たち」による「守られている側」への攻撃について、好著『ネットと愛国』(講談社)のなかで、ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムのつぎのような一文を紹介していました。

 普通の発展過程では金や力を獲得する機会のほとんどない何十万というプチブルが、ナチ官僚機構のメンバーとして、上層階級を強制して、その富と威信の大きな部分を分けあたえさせたということが問題であった。ナチ機構のメンバーでない他のものはユダヤ人や政敵からとりあげた仕事をあたえられた。そして残りのものについていえば、かれらはより多くのパンは獲得しなかったけれども「見世物」をあたえられた。これらのサディズム的な光景と、人間の他のものにたいする優越感をあたえるイデオロギーのもたらす感情的満足によって、かれらの生活が経済的にも文化的にも貧困になったという事実をおぎなうことができた。
(『自由からの逃走』日高六郎訳・東京創元社)


河本や梶原を攻撃しているのも、ここで言う「パンは獲得しなかったけど、『見世物』をあたえられた」人々なのかもしれません。しかも、それはネットの一部の人間たちだけの話ではないのです。安田氏は、今の経済状況のなかで、「うまくいかない人たち」の負の感情の「地下茎」が一般社会にも広がっていることを指摘していました。私が前の記事(河本準一の「問題」と荒んだ世相)で、渋谷駅で通行人を刺した「32才アルバイトの男」と、負の感情で河本を叩いている人間たちがどこか重なって見えると書いたのも、同じ理由からです。

しかし、私は彼らを全面的に否定する論理をもちあわせていません。私とて彼らとそんなに遠いところにいるわけではないからです。だから、逆に「怖いな」と思うのです。


2012.06.01 Fri l 社会・メディア l top ▲