今月の初めから楽天のショップで「申し訳ございません。ただいま、店舗の改装中です。しばらくお待ち下さい」という表示が出て、サイトを閉じていたショップがありました。ところが、楽天に詳しい人間に言わせれば、こういうメッセージが出るのは、大概閉店(撤退)した場合なのだそうです。契約が終了し再開の予定がないにもかかわらず、いかにも思わせぶりで顧客を惑わすようなメッセージを出すというのは、楽天は「確信犯」と言われても仕方ないでしょう。

このショップも、「改装中」の表示が出た時点で、運営会社は倒産の手続きに入っていたようです。当然、その表示が出る寸前に入った注文は放置されました。中には商品代金を振り込んだり、クレジットカードの番号を入力した顧客もいたかもしれません。事前の告知もなくショップが閉鎖されれば当然、タイムラグで「被害」が発生します。いつまでも「しばらくお待ち下さい」などど表示を掲げているのは、「被害」の自覚を遅らせるだけで、あまりにも無責任と言わねばなりません。

業界の人間に聞くと、会社は以前より「経営不振」の噂があったそうです。昨年の初めからネットのショッピングモールにつぎつぎに出店して直販をはじめたのですが、口さがない業界スズメたちは「スカンクの最後っ屁だろう」と言っていたとか。よくある話ですが、いちかばちかでネットで起死回生をはかろうと思ったのでしょう。しかし、ネットで儲かるのは、金を掘った者ではなく金を掘る道具を売った者です。にもかかわらず、もしかしたら金脈を掘り当てるかもしれないと幻想を抱く、情弱で誇大妄想な経営者はあとを絶たないのです。

会社のサイトには、一流デパートや専門店など錚々たる「お取引先」が記載されていましたが、以前、旧知の店の担当者と会った際、メーカーでありながら顧客を強引に自社の直販サイトに誘導するようなやり方に対して、担当者は、「節度がなさすぎる」ときびしい見方をしていました。たしかに、ひと昔前では考えられないことで、「ネットならなんでも許される」「ネットは治外法権」のような”勘違い”もあったのかもしれません。

一方、苦しいときのネット頼みで、方々のショッピングモールに出店すると、Google のアルゴリズムでは、優良サイトからのリンクが集まったと見なされ、サイトが検索順位の上位に表示されることになります。これもおかしな話で、今年の初め、いきなりその会社のサイトが上位に登場したときは口をあんぐりでした。そのときも業界の人間は、「店舗運営責任者の名前を見ろよ。しょっちゅう変わっているだろう。倒壊する家からネズミが逃げ出しているんだよ」と言ってましたが、たしかにそのとおりでした。

また、楽天内のショップのレビューも口をあんぐりでした。店舗が閉鎖されたあとも、「とってもいい商品でした」「新商品が楽しみです」「信頼できるショップです」などと目を疑うようなレビューが書き込まれていたのです。なんとそれは昨日までつづいていました。でも、3週間も前に店舗は閉鎖されているのです。この季節外れのオバケのようなレビューはなんなんだと思いました。

つまり、こういったネットのいかがわしさや無責任さやおそまつさを見極めるのが、ネットのリテラシーというものでしょう。そう考えると、ネットユーザーは、あまりにも無防備すぎます。そのために、いいように「軽く見られている」「軽く扱われている」ように思えてなりません。まして目先のポイントに釣られて、既に倒産した会社を「信頼できるショップです」なんて書くようでは尚更でしょう。
2012.08.28 Tue l ネット l top ▲
2012年8月21日01

ダイエットはいっこうに進んでいません。3キロくらい減ったのですが、その後、一進一退をくり返しています。もっとも、以前のように熱が入っていませんので、それも当然ですが。

今日もふと思いついて、夕方から散歩に出かけました。なんと10日ぶりくらいの散歩でした。定番の大桟橋から赤レンガ界隈を歩きました。

大桟橋に向かっていると、海からの風に乗って潮の香りが漂ってきました。なんだか子どもの頃の別府の海を思い出しました。最近、『絵はがきの別府・古城俊秀コレクションより』(松田法子著・左右社)という本を買ったばかりなので、なにかにつけ別府のことが思い出されてならないのです。

この『絵はがきの別府・・・』は感涙ものでした。郷愁をそそられるにはあまりある本です。以下は、Amazonで紹介されている「内容」です。

古城俊秀コレクション…大分萩原郵便局局長を務めた古城俊秀氏による驚くべき絵はがきコレクション。明治末期から昭和初期、絵はがきの黄金時代に発行されたはがきから、大分に関するもの、各種交通機関、干支、こどもの遊びなどのテーマで収集され、総数はおよそ6万枚にもおよぶ。本書では別府の近代をテーマに都市史専門家の手で厳選された、資料的価値、図案の巧みさ、色彩の美しさに優れた600枚をはじめて公開する。ひとつの都市の近代史が、表情豊かな写真絵はがきから甦るさまが驚きとともに感じられるだろう。
(「BOOK」データベースより)


大桟橋では、しばらく夕闇に沈む海を眺めました。「くじらのせなか」には、同じように海を眺める人たちが集まっていました。こういった光景が身近にあるというのが、横浜の魅力です。

夏の夕方、海辺の町に行くと、近所の人たちが防波堤にすわって、おしゃべりに興じながら海を眺めている光景によく出くわしますが、横浜にも似たような光景があるのです。潮の香りとともに、すごくなつかしい気持になりました。

何度も同じことをくり返しますが、思えば遠くに来たものです。こうしてひとりで横浜の海を眺めているのも不思議な気さえします。

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2012.08.21 Tue l 横浜 l top ▲
最近、休日に街に出ると、以前に比べてひとりで歩いている若者が目に付きます。電車でも、ひとりで買い物に出かけたとおぼしきショップの袋を手にさげて乗ってくる若い女性をよく目にします。もちろん、休日の街はカップルや家族連れが多いのですが、意外とひとりで来ている人間も多いのです。

最寄り駅の近くのビルの1階にファミレスのガストがあり、通りから店内がよく見えるのですが、平日はもちろん、休日でもひとりで来ている客が多く、壁際の席に一人客がずらりと並んですわっている光景もめずらしくありません。郊外の駐車場付きの店舗になると様子は違ってくるのでしょうが、街中にあるファミレスはむしろ単身客のほうが目立つくらいです。先日もそんな話をしていたら、その場にいた20代後半の女性が「私もよくひとりで行きますよ」と言ってました。

実際に恋愛をしない・恋人がいない若者も多く、恋愛をテーマにしたドラマや映画や雑誌の特集なども、以前ほど支持されなくなっているそうです。「恋愛ができない」のではなく、無理に「しない」のです。

そして、恋人はいなければいないでもいいという考えは、いい出会いがなければ別に結婚しなくてもいい(無理して結婚する必要もない)という考えにつながっているように思います。それは統計でも裏付けられています。

政府が発表した2012年度の「子ども・子育て白書」によれば、生涯独身率(50才の時点で一度も結婚したことがない人の割合)は、男性が20.1%、女性が10.6%だそうです。ちなみに、1980年度は男性が2.6%、女性が4.5%だったそうですから、男性に至っては10倍も増えているのです。

年代別の未婚率は、25才~29才で、男性が71.8%、女性が60.3%。30才~40才では、男性が47.3%、女性が23.1%だそうです。

もっとも、これは全国平均の数字なので、東京など都会ではもっと単身者の割合は高いはずです。私のまわりでも、男女を問わず30代後半から40代にかけての独身者がホントに多いのです。よく非正規雇用の増大など、経済的な理由で結婚できないと言われますが、私のまわりは逆で、それなりの仕事を持って安定した生活が送れるなら、無理して結婚する必要もないという感じです。

私も以前、このブログで「恋愛は人生の花だ」と書いたことがありますが、最近は無理して恋愛する必要もないんじゃないかと思うことのほうが多くなりました。

もちろん、単身者の増加は、「ひとりでも困らない社会」になったという側面も大きいのです。農村の家父長的な大家族から都会の核家族化、そして、離婚率の上昇と今のような単身者がめずらしくない社会。それは農業中心の社会から工業化社会、そして脱工業化社会へという時代の流れと無縁ではありません。ある意味では、時代の要請でもあるのです。

吉本隆明の受け売りではありませんが、GDPに占める個人消費の割合が1995年を境に60%を超えるようになったとか、第三次産業の就業者が全体の67%(平成17年の統計)を占めるようになったとか、そういった社会構造の変化と無縁ではないように思います。存在が意識を決定するではないですが、社会が変れば人の生き方や人間関係が変わるのも当然でしょう。

吉本隆明は、この社会構造の変化に伴って、労働というのも生産点で考えるのではなく、消費の観点から考える必要があると言ってました。労働とか労働者とかいう概念も変わるべきだと言うのです。そして、消費というのは時間と空間をずらした生産である、という言い方をしていました。

いわんやいくら道徳教育を復活させて、アナクロな国家観や家庭観を押し付けようとしても、この社会がもとに戻ることはないし、人々の生き方がもとに戻ることもないのです。それはこの国の経済が、もはや”世界資本主義”の構造とそのメカニズムから逃れることができないからです。大風呂敷を広げれば、休日の単身者の光景は、資本主義の発展段階における私たちの社会の構造的な変化を映しているとも言えるのです。
2012.08.20 Mon l 社会・メディア l top ▲
先日、Yahoo!ニュースBUSINESSに、経済学者の吉本佳生氏の「なぜ失敗しそうな事業から撤退できないのか」という記事が紹介されていました。これは、経済誌『プレジデント』に掲載された記事なのですが、吉本氏は、企業が採算の合わない事業からなかなか撤退できないのは、「サンクコストの呪縛」にとらわれ、経済合理性に則った冷静な判断ができないからだと言ってました。

「サンクコストの呪縛」とはどういうことか。吉本氏は、個人の例を出して、つぎのように説明していました。

 運動不足が気になって、スポーツクラブに入会したとしよう。入会金に5万円を払い、会費は毎月2万円かかる。最初の1、2カ月こそ熱心に通っていたが、仕事が忙しくて足が遠のき早1年。「通わないのならさっさとやめればいいのに」と周りは言うが、本人は退会する気になれない。
 なぜか? 「サンクコストの呪縛」にかかっているからである。

 サンクコストとは埋没(サンク)した費用、つまり、すでに支払って、今後も回収できない費用を指す経済用語だ。この例でいえば、入会金と1年分の会費を合わせた29万円がサンクコストにあたる。今後、奮起して運動を再開する意欲もないのに、すでに払った29万円にとらわれて、ずるずると会費を支払い続ける。その結果、無駄な出費がますます嵩む。サンクコストの呪縛により、合理的な判断ができないのだ。
(プレジデント 2012/8/6 12:10)


別にむずかしい話ではなく、私たちにもありがちな心理です。たとえば、身近な例で言えば、赤字であるにもかかわらずショッピングモールから撤退できないネットショップなどもそうでしょう。

ショッピングモールというのは、思った以上に「経費」がかかるそうで、以前、出店している知り合いのショップに、「経費」の明細を見せてもらったことがありますが、こんなにかかるんだとびっくりした覚えがあります。出店料だけかと思ったら、とんでもない、クレジットカードの手数料は無論ですが、それ以外にも売上げに対するロイヤルティや諸々のシステムの利用料など、その何倍もの「経費」が必要なのです。買い物をすると、そのあとメルマガが頻繁に送られてきますが、あれもタダではないのです。それどころか、ショップが顧客データをダウンロードするのにも手数料がかかるそうです。

ネットでは、パチンコと同じで儲かった話しかしないので、”真実”がなかなか表に出てこないのですが、一説では70%のショップは赤字ではないかという話もあるくらいです。出店している知り合いのショップに訊いたら、「当たらずと言えども遠からずだろう」と言ってました。

年間売上げで上位にランクされていた”ベストストア”を、数年後に確認したら、既に3分の2が閉店していたとか、マスコミに「人気のお取り寄せ」と紹介されたショップが、ある日突然姿を消したとか、そんな話は枚挙にいとまがありません。まさにゴールドラッシュで儲けたのは、金を掘った者ではなく、金を掘る道具を売った者なのです。

それでもなかなか撤退に踏み切れない。そこには、今までかけてきた経費が無駄になるのがもったいないとか、せっかく獲得したお客さんを失うのは忍びないとか、モールの集客力が魅力だとか、さまざまな理由があるようです。でも、それこそが「サンクコストの呪縛」と言うべきでしょう。そして、ネットに対する幻想が、「サンクコストの呪縛」をさらに強固なものにしていると言えます。

もっとも、究極の「サンクコストの呪縛」は、やはり原発でしょう。もはや「呪縛」と言うより「犯罪」と言ってもいいかもしれません。もちろん、すべてを経済合理性ではかることはできませんが、原発のように本来経済合理性ではかるべきものがそうなってない現実を、宮台真司氏は「悪い心の習慣」と言っていました。

「サンクコストの呪縛」は、個々の心の問題なのか、あるいは組織のメカニズムの問題なのか。私たちをとりまく現実を考える上で、ひとつのヒントになるように思いました。
2012.08.10 Fri l 仕事 l top ▲
最近、Googleの検索順位に大きな変動がありました。それは、好むと好まざるとに関わらず常にGoogle の検索結果に左右される運命にあるネットショップにとって、看過できない出来事でした。幸いにも当店は逃れることができましたが、なかには下位に飛ばされて存続の瀬戸際に立たされたショップもあります。

Google は、今回の変動をコードネームで「パンダアップデート」と呼んでいます。パンダアップデートは、昨年2月下旬にアメリカで導入されたのを手始めに、その後、各国に展開され、先月中旬から日本語にも適用されたのでした。Google は、パンダアップデートについて、ウェブマスター向け公式ブログでつぎのように説明していました。

このアルゴリズムの変更では、低品質なサイトの掲載順位を下げ、同時に、良質なサイトの掲載順位をより適切に評価します。例えば、ユーザーにとってあまり価値のないサイト、利便性の低いサイト、他のサイトからのコピーで構成されているようなサイトの掲載順位は下がります。一方、独自の研究や報告、分析など、ユーザーにとって重要な情報を提供しているサイトの掲載順位はより適切に評価されるようになります。


たしかに、広告主の宣伝文や画像をコピペしただけのアフィリ(アフィリエイト)サイトや自動生成サイトや最近問題になっているまとめサイトなどが上位にずらりと並んでいるのは、邪魔でうざいのは事実です。以前、ブログの40%はスパム(ゴミ)だというニフティの調査もありましたが、そういったスパム(ゴミ)の掃除が必要だというのは理解できます。

ただ、一方で、それをアルゴリズムのような機械的(数学的)な評価基準だけで実施すると、矛盾が出てくるのも事実です。なかでもいちばん大きいのは、”権威”の台頭です。実際に、同じコピー(まがいの)サイトでも、個人の通販サイトはペナルティが与えられて下位に飛ばされ、メーカーの通販サイトは逆に上位にあがっているケースがありました。

ネットショップを運営している人間から、よく「仕入先にネットの話をしたら、いつの間にか仕入先が似たようなショップをはじめていた」というような話を聞きますが、小売店のサイトの繁盛ぶりを横目で見て、そのアイデアとノウハウを盗んで立ち上げたとしか思えないようなメーカーのショップなんて、モノマネとハッタリが横行するネットでは別にめずらしいことではありません。しかし、メーカーが個人の通販サイトをコピーするとどうなるかと言えば、伊勢神宮の式年遷宮と同じで、メーカーという”権威”や楽天という”権威”が作用して、コピーがオリジナルになり、オリジナルがコピーになるのです。サイトに集まるリンクの量や質を評価するGoogle のアルゴリズムだと、そういった”権威”が高い評価につながることは避けられません。

身も蓋もない言い方をすれば、弱小サイトのコピーはスパムだけど、ネームバリューのあるサイトのコピーはOKなのか、ということです。下位に飛ばされた個人の通販サイトは、どう考えても商売としては成り立たず、やがて消えていく運命にあるのは間違いないでしょう。弱肉強食と言えばそれまでですが、しかし、弱小サイトに降りかかったこの運命は、少なくとも一時期までGoogle が体現していた(と言われていた)”インターネットの精神”から逆行しているように思えてなりません。それは、民主的で自由で反中央集権的で反権威的であろうとする精神です。いわば「富はあまねく遍在する(遍在しなければならない)」という考え方です。

「ウェブ2.0」の頃、そういった”インターネットの精神”がさかんに喧伝されました。そして、”Don't be evil”というスローガンを掲げて登場したGoogle がヒーローになったのでした。私たちは、Google に”インターネットの精神”を見ていたのです。でも、今、そんなことを言うと笑われるだけでしょう。

情報技術の進展を一番享受し成長を遂げたのは、情報そのものを扱う企業群ではなく、情報を扱おうと取り組む企業に対して技術や製品を提供する企業群なのである。これはマイクロソフトなども含まれるが、要は、ゴールドラッシュが起きたとき最も儲けた者は、金を掘り出した者ではなく、金を掘り出す工具を売った者や、金を掘る者にジーンズを売った者や、金脈に人を送り込んで運賃を払われた者なのだ。
山本一郎『ネットビジネスの終わり』(PHP研究所)


そして、著者の山本氏は、今のネット業界について、「有象無象が数多いた街金、サラ金の世界から、少数が勝ち残って大手消費者金融へと成長していく産業の栄枯盛衰と何ら変わらない」と書いていました。

情報革命といわれ、誰もが居ながらにして便利で現代的な社会生活を送る技術革新でバラ色の未来図を楽観的に思い描いていたネット業界も、結果を見てみれば社会のフラット化どころか、適切な競争戦略や規制のなかった分、より露骨な資本の論理に挟まれ、従来の業界以上に強者と弱者が激烈な分裂を遂げるという悲惨な実情だけがあらわになったと言える。


パンダアップデートも、所詮はこういったネットの秩序化・権威化・反動化に符合していると言えるのかもしれません。
2012.08.02 Thu l ネット l top ▲