文庫の発売から23年(単行本の発売から25年)、『松田聖子論』が復刊されるほど、今また松田聖子に関心が寄せられているというわけなのでしょうか。
『文藝春秋』の文章もそうですが、やはり三度目の結婚というニュースが大きいのかもしれません。ただ、私自身は、前の記事(『松田聖子論』)でも書いたように、木嶋佳苗被告の事件も無関係ではないように思うのです。
木嶋佳苗被告に関しては、前の記事のくり返しになりますので、言及するのは避けますが、次のような文章を読むにつけ、私は、木嶋佳苗被告が、バッシングされる松田聖子を「好きだ」と言った理由がよくわかるのです。(以下、引用はすべて第4章からです)
度重なる不倫騒動、そして神田正輝との離婚という激動の三十代を経て、本人は辛かったでしょうが、聖子はますます輝いていきました。現在ではスキャンダルを超越した存在にまで到達したといってもいいでしょう。
これだけのスキャンダルにまみれても、彼女が潰れなかったのは、女性という生き物が他人の視線の数で自己の存在を確認する生き物だということをよく理解しているからです。バッシングによって一時、雲隠れしても、しばらくするとフラッシュを浴びたくなる自らの性質を自分で分かっているのです。
男性は、社会的地位、家柄など自己確認できるものはありますが、現代の女性は他人の視線なしに自信を持つことが難しいのです。まして芸能界にいる女性なら尚更です。
小倉千加子氏は、松田聖子は美空ひばりのような国民的歌手になっていくのではないかと書いていましたが、美空ひばりの頃と違って、もはや「国民的歌手」なんて存在する時代ではありませんので、いくらなんでもそれは買い被りというものでしょう。
それよりも、やはり、現代の母娘関係における松田聖子の存在のほうがよりリアルな気がします。それは、次のようなものです。
今の日本の母親たちの最大の問題点は、娘に依存しないと生きられないということです。これが娘の晩婚化の最大の原因になっているといってもよい。だから娘の自立を恐れるという感情が強い。夫に何も期待できない五十歳前後の母親にとって、幸せになるために必要なのは自立するための経済力と娘の自立です。
(中略)
多くの母親は、娘に恋人ができて結婚が近づくと、「しなくていいわよ」と本能的に動いてしまう。しかし聖子の場合、娘の自立=結婚を妨げようとする必要はない。なぜから彼女はワーキングウーマンとして経済的に自立しており、女性としての資源を身に付けているからです。
「身体は嫁いでも心は実家に置く」娘。「将来は介護士にもなりうる」娘。そういう娘にとっても、あるいは、そうやって娘に頼って(娘を縛って)生きていかざるをえない母親にとっても、松田聖子は自分たちができないことをやってのけるあこがれの存在なのでしょう。ポイントは単に経済的な自立だけのような気もしますが、女性の人生にとって、それがいかに大変かをいちばんよくわかっているのも女性なのです。
同時代的に松田聖子に喝采を送った世代の女性たちの関心が、最近、韓流スターに向いているのがやや気になりますが、ワンレン・ボディコンを謳歌した女性たちにとって、でも、日本的土着性から自由になれなかった女性たちにとって、女性性を逆手に取って自分の手で時代を切りひらいていった松田聖子が、いつの時代も輝いて見えるのは当然でしょう。
ただ、小倉千加子氏も書いているように、今回の(三度目の)結婚にいくらか守りが入っている感はなきしもあらずで、結婚でどう変わるのか、今までどおり輝きつづけることができるのか、ファンならずとも興味があります。「ただのおばさんになりたい」なんて言い出さないことを願うばかりですが、いづれにしても、これほどまでに時代と世代を越えて女性たちに影響を与えつづけてきた松田聖子が、日本のアイドルのなかで傑出した存在であることは間違いないのです。
>> 『松田聖子論』
>> 松田聖子という存在