今日、産経新聞が配信した
写真(11月12日17時32分配信)は、朝日新聞の愛読者ならずともショックなものでした。
私は、それをみて、昔、韓国のマスコミが国内向けに流したある写真を思い出しました。それは日本の政治家が韓国を訪問して当時の朴正熙大統領に挨拶している写真なのですが、この写真のように、まるで拝謁しているかのような構図の写真でした。軍事独裁政権下の韓国では、独裁者の権威を誇示するために、そういった写真が意図的に掲載されていたという話を聞いたことがあります。
朴正熙や全斗煥などの軍事独裁政権は、日本の自民党政権と癒着して「売国的」な政策を推し進めていた一方で、みずからの政権を維持するために、そうやって「反日」なポーズをとり「反日的」な世論を煽っていたのでした。これは韓国に限らず、どこの国でもそうですが、そうやって二つの顔を使い分けていたのです。
低頭平身する朝日新聞出版の幹部たち。それを直立不動で見下ろしているかのような橋下氏は、まるでどこかの国の独裁者のようです。そして、この写真を掲載した産経新聞や写真撮影を許可した橋下氏の意図が、まるで透けてみえるような写真でもあります。
『週刊朝日』の連載記事を巡るトラブルは、連載中止、編集長更迭を経て、とうとう『週刊朝日』の発行元である朝日新聞出版の社長の引責辞任にまで至り、橋下氏の完全勝利に終わったと言えます。「腎臓を売って金を返せ」などと脅して債務者を追い込み社会問題化した商工ローンの顧問弁護士をしていただけあって、橋下氏の喧嘩上等ぶりはさすがです。
私も昔、仕事で”怖い人”たちとトラブった経験がありますが、彼らは決して私のような小物を相手にしないのです。彼らが相手にするのはあくまで会社です。ある日、出勤したら、応接室で、会社の総務部長が見覚えのある強面の人と対面しているので、「なんで?」と思ったのですが、そのときは既に私の知らないところで”手打ち”が行われていたのでした。橋下氏が相手にしたのも、あくまで親会社の朝日新聞本社でした。喧嘩のやり方がプロだなと感心せずにおれません。
『週刊朝日』の記事は、私も病院の待合室で読みましたが、内容そのものは既に『週刊新潮』や『週刊文春』で書かれていることの焼き直しにすぎません。それに佐野眞一氏お得意のえげつなさが加味されただけです。『新潮』や『文春』のときは、部落解放同盟が抗議したようですが、橋下自身氏はTwitterで「バカ文春」とかなんとか罵倒しただけで、今回ほど公の場で執拗に抗議は行いませんでした。今回は「朝日」が相手なので、橋下氏もことさら声を荒げたということはないのでしょうか。ポピュリストにとって、「アカい朝日」を相手にすることはアピール度も高いはずです。
今回の抗議にしても、最初、朝日新聞出版と朝日出版(全然別の会社)を間違えたり、母親のもとには取材に行ってないのに事実誤認して抗議したりと、非常に杜撰なものでした。にもかかわらず週刊朝日はわずか2日で謝罪したのでした。
あえて言えば、「だったら(こんなに腰が弱いのなら)最初から書くな」と言いたいですね。そもそも今回の連載は、一部で指摘されているように、『新潮』や『文春』が書いているから大丈夫だろうというあざとい”便乗商法”だったのは間違いないでしょう。しかも、執筆は佐野眞一氏です。佐野氏については、私も木嶋佳苗被告の記事で批判しているとおりで、最近はノンフィクションライターとしての姿勢に、とかく問題がありました。佐野氏を起用したこと自体、間違っていたのです。こういうところにも『週刊朝日』の見識のなさが露呈しているように思えてなりません。
朝日新聞本社の対応は、なにより読者の反発による部数減をおそれたからだと言われていますが、しかし、こういった弱腰と見識のなさをさらけ出したことで、逆にますます部数減に拍車がかかるのは避けられないでしょう。ジャーナリズムとして、この弱腰と見識のなさは致命的だとさえ言えます。
そして、結局は、いつものように、差別表現の問題だけでなく差別問題そのものも封印する(タブー視する)だけで終わるのです。これで「反省」と言えるのでしょうか。私には単なる「ごまかし」「臭いものには蓋」ようにしかみえません。こういう問題が起きるといつも決まって、「差別表現の議論を喚起する方向に向かうべきだ」といった声が出るのですが、今回もどう考えてもそのような方向に向かうようにはみえません。
『日本の路地を旅する』の著者・上原善広氏によれば、大新聞は「二年前、ぼくの『日本の路地を旅する』が発刊されたとき、『同和問題はどのような本であれ、紙面では紹介できない。ただし大宅賞をとったら載せてあげても良い』と豪語」したそうですが、今回の「謝罪」もそんな事なかれ主義の姿勢から一歩も出てないのです。こんなことで、今後、朝日新聞は、政治家橋下徹を自由に忌憚なく報道することができるのでしょうか。とてもそうは思えません。
上原善広氏は、今回の問題について、みずからのブログ「
全身ノンフィクション作家」で、「いまもっとも話題の政治家・橋下氏の記事としては許される範囲」だとして、つぎのような感想を述べていました。「朝日」の「おわび」や「検証」のような事なかれ主義の作文ではなく、こういう見識のある意見を手がかりに、今回の問題を考えていくことが大事ではないでしょうか。
まず差別的にしろ、なんにしろ、ぼくは路地について書かれるのは全て良いことだと思っています。それがもし差別を助長させたとしても、やはり糾弾などで萎縮し、無意識化にもぐった差別意識をあぶりだすことにもなるからです。膿み出しみたいなものですね。それで表面に出たものを、批判していけば良いのです。大事なのは、影で噂されることではなく、表立って議論されることにあります。そうして初めて、同和問題というのは解決に向かいます。
(橋下氏についての週刊朝日連載 2012/10/18)
橋下氏は、路地(同和)どころか、大変な困窮家庭から、想像を絶する苦労を強いられながら這い上がってきた男です。度胸もあり、頭もズバ抜けてかしこい。さらに仕事が早い。感性と理性の両方を兼ね備えたスーパースターです。このような人物に、路地という出身は、実はあまり意味をもちません。彼のようなスーパースターは、すでに「土地」を超越してしまっているからです(詳しくは書きませんが)。彼の出自について書くならば、まずそれを最前提にしてからでないといけません。
(週刊朝日の謝罪 2012/10/19)
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