大晦日。

3月16日から東急東横線と地下鉄の副都心線の相互乗り入れがはじまり、それに伴って今の東横線の渋谷駅がなくなるため、大晦日の渋谷駅や渋谷周辺の写真を撮りに行こうと思っていたのですが、当日になるとなんだか面倒くさくなって、結局、いつものようにみたくもないテレビをみて過ごすことになりました。

ちなみに、東横線の駅は3月から今の地下鉄副都心線の駅になります。というか、渋谷駅が終点でも始発でもなく、単に通過駅でしかなくなるわけですから、東横線の駅が廃止になると言ったほうが正確なのかもしれません。

あの海外の駅を思わせるようなクラシックなプラットホームの光景がもうみられなくなるのかと思うと、やはり一抹のさみしさを覚えます。もっとも渋谷駅の駅舎自体が地上43階建ての高層ビルに建て替えられるため、東横線のホームだけでなく、今の渋谷駅の光景はいづれ記憶のなかにしか存在しなくなるのです。

43階建ての新駅ビルには、東急ハンズ渋谷店も移転するのではないかと噂されていますが、完成予定が2027年ですから、正直言って、私たちにはあまり関係のない話かもしれません。43階建ての新駅ビルができたとき、自分はどうしているのだろう、と思ったりします。

東京の街は短いサイクルでめまぐるしく変貌していきますが、私たちの感覚はとてもじゃないけどそれに追いついていけません。それにいつまでもその変わりようをみることもできないのです。

時代のサイクルと人生のサイクルはまったく別に存在します。「国家」や「社会」というのも、私たちの人生とは別のサイクルで動いているのです。埴谷雄高が言うように、「政治の幅は生活の幅より狭い」のは当たり前なのです。そう考えると、政治なんて「どうでもいい」わけで、まず私たちは日々の生活を、そして自分の人生をしっかり生きていくことだとあらためて思います。

昨日の深夜、TBSラジオ「文化系トークラジオ Life」をベットのなかで聴いていたら、水無田気流だか誰だかが、フリーで生きていくにしても、就職して会社を知ることは大事で、そうやって社会的訓練を受けているかどうかは、将来フリーで生きる上でも重要になってくる、と言ってましたが、私の経験から言ってもたしかにそのとおりだなと思いました。

さしずめその”好例”は、最近よく話題になっている、40をすぎてもフリーターをつづけている”中年フリーター”たちでしょう。運送会社の集荷場でアルバイトしている若い男の子も、「30代40代になってもフリーターをつづけている人がホントに多いんですよ」と言ってました。彼らはフリーターの第一世代であり、アニメやアイドルなどサブカルチャーの洗練を受けた最初の世代でもあるのですが、たしかにこの社会で生きていく上で、社会的訓練を受けてないことが「致命的」になっているのは否定できない気がします。

こんな言い方はしたくないですが、中高年のひきこもりだけでなく、先頭集団がやがて50代にさしかかろうかという”中年フリーター”の存在も、社会的コストとしてこれから大きな負担になることは間違いないでしょう。フリーターは、必ずしも経済学者が言うような「多様な生き方の選択」のなかにあるわけではないのです。ただ、だからと言って「就職氷河期で職にあぶれた世代」といった見方も、一面的すぎる気がします。むしろ”宮崎勤の世代”、あるいは”オウムの世代”と言ったほうが的確かもしれません。

彼らは十全に社会に適応できなかった分、総じて”人がいい”ところはありますが、しかし、政治的な話になると、とたんにネトウヨもどきの過激な発言をするのが常です。「人生がうまくいかない」負の感情のはけ口として、まるで彼らには「尖閣」や「在日」や「ナマポ(生保)」が存在しているかのようです。

でも、はたからみれば、どう考えても「ナマポ」は彼らの明日の姿です。福祉の予備軍と言ってもいいような人間たちが、一方で「ナマポ」叩きに躍起になっているというのは、文字通り”ゆがんだ現実”と言わねばならないでしょう。

彼らには、このように「明日は我が身だ」という当たり前の想像力や、まず大事なのは自分の人生や生活だという当たり前の観念が、決定的に欠けています。それはやはり、社会的訓練を受けてないからではないでしょうか。社会的訓練というのは、なにも「社畜」になる訓練ではありません。いわば現実を生きる訓練でもあるのです。

「文化系トークラジオ」でも言ってましたが、今の時代は就業人口の70%がサラリーマンです。サラリーマンだけが人生ではない、起業もありだなんて言われていますが、実際は10人のうち7人はサラリーマンとして人生を送っているのです。

そんななかで、社会学で言う地域や世間や親族が「中間共同体」としての機能を失った現在、会社がその役割を一手に引きうけているという側面もあるのではないでしょうか。会社を通して(サラリーマンという人生を通して)、私たちは現実を生きる”常識”のようなものを学んでいるとも言えるのです。

中川淳一郎氏が言うネットの「バカと暇人」というのは、いわば現実感覚が欠如して自己を対象化できない”夜郎自大な人々”と言い換えてもいいのかもしれませんが、昔は”夜郎自大な人々”が言うことなんて社会的には無視されていました。そもそも発言権すらありませんでした。「その前にちゃんと働け」と言われるのがオチでした。ところが、ネットが登場したことで、そういった”夜郎自大な人々”の声が掲示板などを通して「類は友を呼び」、あたかも市民権を得たかのような錯覚が生まれたのでした。

片山さつきのように、お下劣な政治的野心のために彼らの負の感情を利用しようとしても、もちろん彼女が負っている(はずの)政治の課題はなにひとつ解決するわけではないのです。

本の感想文はまた後日あらためて書くつもりですが、私は、藤原章生著『資本主義の「終わりと始まり」 - ギリシャ、イタリアで起きていること 』(新潮社)という本を読み進んでいるなかでずっと頭のなかにあったのは、この”中年フリーター”たちのことでした。

『資本主義の「終わりと始まり」』のなかでは、「経済取引が第一原則ではなく、人間同士の交わりこそすべての基本になるような世界」を私たちは想像しなければならない、というギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスのことばが何度も出てきますが、私たちもまた、野暮とおせっかいを承知で、あえて彼らにこう言わねばなりません。

ネットが全てではない。面と向かって言えないことをネットだと言えるような世界はウソだ。真実は現実にある。世の中は陰謀史観で動いているわけではない。会社で働くことは大事だ。サラリーマンは偉い。フリーターは自由ではない。フリーターの先にある「不自由」でしんどい現実を直視すべきだ。「尖閣」や「在日」や「ナマポ」では自分の人生はごまかせない。

では、良いお年をお迎えください。
2012.12.31 Mon l 社会・メディア l top ▲
中村勘三郎さんの葬儀には1万2千人が参列して別れを惜しんだそうです。また、平成中村座の公演を行ったゆかりの地・浅草では、三社祭りのお神輿が出て、葬列を見送ったのだとか。

葬儀の会場では、家族と旅行した際のプライベート映像も流れていたそうですが、そう言えば、数日前に特番で放送されたドキュメンタリー番組でも、湯布院に旅行したシーンが出ていました。

歌舞伎という伝統芸の継承を義務づけられた梨園の御曹司たちも、それはそれで苦悩はあるのかもしれませんが、しかし、生まれついて仕事は保障されているし、生活の心配もないし、プライベートではおもしろおかしく生きることも可能で、はたからみるとうらやましくもあります。

元来、歌舞伎者というのは、「河原乞食」と蔑まれ、天下の往来では編笠をかぶって歩かなければならないような被差別の存在でした。住居も、一般庶民から「暗所」とみられていたようなマージナルな区域に限られていました。でも、今はまったく逆に、梨園はセレブの代名詞のようになっています。

一方で、誰にも看取られることもなく、郊外の福祉専門のような病院でひっそりと息をひきとる老人たちもいます。もちろん、葬儀なんて望むべくもありません。

病院に入院して、もう二度と娑婆に戻ることが叶わないとわかれば、アパートも解約され、そのあとは福祉専門の病院を転々としながら死を待つことになるそうです。

「亡くなったとき、持ち物が紙袋や段ボール箱がひとつかふたつしかないケースが多く、それをみるとよけい悲しくなりますよ」と言っていた医療関係者がいました。故人が眠るベットの横に、全財産が入った紙袋や段ボール箱がぽつんと置かれた病室を想像すると、なんと悲しい光景なんだろうと思います。1万2千人のなかでひとりでもいいから、涙を流してくれる人はいないのかと思います。

築地本願寺で盛大に葬儀が執り行われる梨園の御曹司でも、段ボール箱ひとつを残して亡くなっていく老人でも、同じ日本人です。日本を愛するというのは、みんな同じ日本人じゃないかという気持を共有することではないでしょうか。

新しい政権が言う「日本」や、ネットで飛び交っている「日本」には、福祉専門の病院で人知れず亡くなっていく老人たちは入ってないかのようです。それどころか、そういった老人たちのために使われる医療費は「無駄金」みたいな考えすらあるように思えてなりません。

どうしてこんなに冷たい国になったんだろうと思います。しかも、「愛国」の声が大きくなればなるほど、冷たい国になっていくような気がしてならないのです。
2012.12.28 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
マスコミには「文壇タブー」というのがあって、とりわけ作家などのスキャンダルを書くのは、暗黙のうちにタブーになっていると言われています。

実際に、『週刊文春』や『週刊新潮』などが石原慎太郎氏のスキャンダルを取り上げることはまずありません。石原氏が率いる旧太陽の党と合併した維新の会がもっとも恐れるのは、石原氏のスキャンダルだという声もあるようですが、しかし、『文春』や『新潮』がそれを記事にすることは決してないでしょう。

実際に石原氏に関しては、マイナスになるような記事は皆無と言ってもいいほどです。それどころか、フジテレビなどは、なにかにつけ石原氏にご意見を伺ってはその発言を流し、まるで芸能界のご意見番・和田アキ子と同じような扱いなのです。その結果、カワードな性格の裏返しである強気な発言と相まって、週に2日しか登庁しない不真面目な都知事であったにもかかわらず、あのような「リーダーシップをもった政治家」のイメージが定着したとも言えるのです。これじゃ小心者の常でますます傲岸不遜になるのも当然でしょう。

一方、好きか嫌いかは別にしても、小沢一郎などはあることないこと書かれてほとんどサンドバック状態でした。これほどマスコミの餌食になった政治家もめずらしいのではないでしょうか。小沢を叩けば売れると言われ、”小沢叩き”はエスカレートするばかりでした。これはどう考えてもフェアではありません。

ひと昔前でしたら、週刊誌や新聞などで書けなかった記事が『噂の真相』などに持ち込まれて日の目を見ることがありましたが、そんなタブーをものともしないゲリラジャーナリズムも壊滅してしまった現在、内心忸怩たる思いをしているジャーナリストも多いはずです。そのまんま東ではないですが、「どうせ長くないんだから」と思っているとしたら、それこそ石原氏に失礼というものです。長年「文壇タブー」で庇護されてきた石原氏は、スキャンダルの宝庫かもしれません。タブーに挑戦する勇気あるメディアはいないのかと言いたいですね。
2012.12.23 Sun l 本・文芸 l top ▲
血圧計

ステルス広告であぶく銭を稼ぐあぶく芸能人ではないですが、先日、血圧計を買いました。

とっても安く買いました。びっくりするくらいお得で、しかもデザインがカワイイ。あたしのお気に入りで~す。詳しくはココを見てね。

というのは冗談ですが、先日の健診で、何度深呼吸しても以前のように血圧が下がらなかったことが気になったからです。

それにしても、とうとう自分も血圧計を買う年齢になったかと思いました。最近、セサミンEXも飲みはじめたのですが、こうして知らず知らずのうちに老人のアイテムが揃っている感じです。この次は杖と膝サポーターでしょうか。あるいは電動ベットかポータブル便器か。

ところで先日、知り合いで、20キロ近くのダイエットに成功したという人に会いました。1日1食ダイエットを3ヶ月つづけたのだそうです。まずお腹まわりが痩せて最後に顔が痩せたと言ってましたが、たしかに顔つきが変わっていました。ただ、若い人と違ってその分顔の皺も増えているのです。はっきり言って、顔が皺クチャになっていて、森の奥の古い洋館に住む老女のような顔になっていました。

痩せるのはいいが、あんなに顔が皺クチャになったら元も子もない気がしました。ダイエットしたらよけい老けるとはなんと哀しい話でしょう。やはり、年齢には逆らえないということなのでしょうか。なんだか夢も希望もないような気がして、逆に暗い気持になってしまいました。
2012.12.21 Fri l 健康・ダイエット l top ▲
吉本隆明氏のインタビューをまとめた『第二の敗戦期ーこれからの日本をどうよむか』(春秋社)を読んでいたら、つぎのような発言が目にとまりました。

 柄谷さん(引用者注:柄谷行人)たちのような人は、結局中途半端に、いかにも権力を取ることや、取ることを支援していくことが目標であるように振る舞っていますが、もう少し中産階級の下の方の人たちがどうしたらよいのか、ということを考えていかないとだめだと思います。(略)
 権力を取らなくても、格差をできるだけ縮めるとか、中小企業以下の企業が盛んになるようにするにはどうしたらよいかということをもう少し考えるべきだと思いますが、そういうことの方に彼らはあまり関心がないようです。やはり権力をまずいちばんに取ることが、規定(ママ)路線であると思い込んでいるわけです。


(略)具体的に中小企業、あるいは個人企業の人たちのところに重点を置けば、この社会全体がよく見えると考えています。だからレーニンやスターリン的な考え方というものに固執していたら、いま全然使えないし、問題にならないと思います。


今回の選挙は、愚劣な政治に失望するあまりより愚劣な政治を選んだと言えますが、もとよりそういう選択肢しかなかったのも事実で、仕方ない面もあったように思います。

改憲を危惧する声もありますが、「反戦平和」なんてことばも既に腐臭を放ちほとんど意味をなくしているのですから、それよりまず、どうして「反戦平和」が人々に見向きもされなくなったのかを考えるほうが肝要ではないでしょうか。敵失があると今にも世の中がひっくり返るかのように楽観論をふりまき、今回のように敵が得点するとまるで暗黒の世の中が訪れるかのように悲観論をふりまく、そんな左翼的常套句(おためごかし)に辟易しているのは私だけではないでしょう。

一方、あれだけ「脱原発」の気運が盛り上がったなかでの選挙だったにもかかわらず、壊滅的敗北を喫したことで、「脱原発」派は茫然自失の態ですが、これも「脱原発」に切実感がなく、ただの観念的なスローガンにすぎなかったからでしょう。それは、福島県内の選挙結果に端的に表れているように思います。「いやそうではない、フクシマの人たちの思いは別にある」と”プロ市民”たちは言うのかもしれませんが、それもいつものおためごかしでしかありません。

言うまでもなく私たちにとっていちばん大事なのは、日々の生活です。政治なんて二の次です。でも、だからと言って、「どうでもいい」とも言えないのです。年金問題ひとつとっても政治を無視することはできません。政治が私たちの生活に直結している部分はたしかにあります。ただ一方で、それ以上は「どうでもいい」という気持もあります。いづれにしても、坂口安吾の言う政治という粗い網の目からこぼれ落ちる存在である私たちは、選挙の結果などには関係なく、ただ日々の生活に戻るだけです。

吉本氏は、柄谷行人氏や蓮見重彦氏のような知識人や教養人は生活感がない、だからことばが「引っかってこない」と批判していましたが、それは真逆にいるネット住民たちも同様でしょう。2ちゃんねるやニコ動でくり広げられているのは、愚劣な政治に同伴する”動員の思想”のネット版にすぎません。

愚劣な政治を批判できるのは、政治からもっとも遠いところにいる生活者だけです。そんな人たちの「政治なんてどうでもいい」「選挙なんて関係がない」ということばが、政治に対するもっとも鋭い批評なのかもしれないのです。
2012.12.20 Thu l 社会・メディア l top ▲
インターーネット競売サイト・ペニーオークションの詐欺事件に関連して、「『ペニオク』虚偽紹介の芸能人20人超 報酬見返りに」という見出しで、朝日新聞デジタルにつぎのような記事が掲載されていました。

 捜査関係者によると、ほしのさん以外にも、人気お笑いコンビの男性や、グラビアアイドル、俳優ら20人以上が、摘発されていないものを含む複数のペニーオークションのサイトで、低価格で商品を落札したとの書き込みをしていたのが確認された。多くは「低価格で落札できた。そのサイトはこちら」とサイトのリンク先を紹介していたとされる。
(朝日新聞デジタル 12月14日(金)18時42分配信)


ちなみに、既に名前があがっている芸能人は、ほしのあき・ピース綾部・小森純・菜々緒・山下梨奈(山下智久妹)・東原亜季・永井大・熊田曜子・松金よう子・藤井梨花などです。詐欺の片棒を担いだわけですから弁解の余地はないでしょう。

私は、この話を聞いて、以前、賞味期限切れの食品だかを売ったスーパーが、レシートなしでも代金を返金すると告示したところ、それが朝からパチンコ屋に並んでいるような人たちの間に口コミで広がり、金髪の若者たちがわんさか押しかけたため、返金額が販売額をはるかにオーバーする事態になったという話を思い出しました。

この手の芸能人は、パチンコ屋にたむろするヤンキーや、振込め詐欺をやっている”半グレ”の元暴走族などと同じで、人を騙してお金を儲けることになんの痛痒も感じない部類の人たちなのでしょう。

もちろん、これが氷山の一角であることは言うまでもありません。別冊宝島(1867号)『誰も書けなかったネットビジネス 13兆円の危険な錬金術』(宝島社)のなかに、芸能人のブログを使ったステルス広告の実態が詳しく書かれていますが、それを読むと、いまやステルス広告が「もうひとつのおいしいビジネス」として、ネットビジネスの一角を占めていることがよくわかります。

その舞台のひとつに、アメーバの芸能人ブログがあります。どうしてアメーバにはあんなに芸能人のブログが多いのだろうと思った人も多いかもしれませんが、もちろんそれは”偶然”ではないのです。

芸能人はどうして買ったものや食事に行った店などをいちいち自慢たらしくブログで報告するんだろう、と疑問に思う人は、正常な感覚の持ち主で、ステルス広告に騙されることはないかもしれません。でも、そういった人は圧倒的に少数です。多くは、「カワイイ!!」「アタシも欲しい!!」とコメントする人たちと同類項なのです。だから、芸能人を使ったステルス広告の効果は絶大で、広告代理店のあらたなビジネスになっているのです。今回の騒動は、たまたま事件化されたので、その一端が表に出たにすぎません。

ただ、サイバーエージェントは、芸能人がブログで商品紹介をするのは、ステルス広告ではなく、「口コミマーケティング」だと言っているそうです。

 アメプロを運営するサイバーエージェントの「商材紹介資料」によると、これは「記事マッチ」、つまり「芸能人・有名人ブロガーに、御社の商材に記事を提供するマーケティング手法」だという。
「芸能人、有名人の知名度を生かしたブランド事業の向上」がセールスポイントで、価格は1回につき60万~300万円。
(上記別冊宝島より 「蔓延する『ステルス広告』の罠」一条茂・文)


もっともこれはネットに限った話ではなく、従来からテレビや雑誌などで使われていた手法をネットに応用したにすぎません。それどころか新聞記事にも、ステルス広告が紛れ込んでいると言われています。折しも衆院選の真っ最中ですが、ある意味で究極のステルス広告は、世論を特定の方向に誘導する大手新聞の政治記事なのかもしれません。

日本は外国に比べて広告代理店の力が大きいため、こういった”不都合な広告”がメディアをおおうことになるという指摘があります。ここまで巧妙に仕掛けられていると、なにがステルス広告でなにがそうではないのか、見極めるのさえ難しい気がします。そして、そんな”情報の罠”に囲まれている私たちは、踊らされてお金を使い、踊らされて「愛国」を叫び、踊らされて”やっぱり元の木阿弥党”に投票する、ただのマーケティングのターゲットにすぎないのかもしれません。
2012.12.14 Fri l ネット l top ▲
GALAXY NOTEⅡ


携帯(スマホ)をGALAXY NOTEⅡに換えました。私は手が大きいので、大判のスマホがいいんじゃないかという、ベタな理由からです。サイズは、通常のスマホとタブレット端末の中間くらいで、ポケットに入れて歩くにはぎりぎりの大きさといった感じです。

画面が大きいメリットはいろんなところで感じられ、どうしてauやソフトバンクは、このサイズのスマホを発売しないんだろうと思うくらいです。

ところが、私の周辺ではGALAXY NOTEⅡがえらく評判が悪いのです。その理由はただひとつ、韓国のサムスン製だからです。例の竹島問題以降、嫌韓の空気がここまで広がっているのか、とあらためてびっくりしました。

これがネットになるともっと極端で、韓国製を使う人間はもちろん、キムチを食べる人間も「反日」といった有様です。それではテレビも観れないのではないかと思ってしまいます。テレビ自体が日本製であっても、液晶パネルの多くは韓国製なのですから。それくらい韓国製品は世界を席巻しているのです。

そして、そういった嫌中・嫌韓の風潮は、じわじわとネットの外まで広がっているように思います。おそらく今回の選挙でも、排外主義的な政策を掲げて「強い指導者」を演じる政治家が支持を集めるのは間違いないでしょう。

この国はこのように”過去の栄光”にいつまでも拘泥し、そのため現実との乖離に遭遇すればするほど、現実に背を向け自閉していくばかりなのです。そして、逆に中国や韓国のしたたかさが際立つという寸法です。

以前紹介した『愚民社会』で大塚英志が言っていたように、中韓は「反日」という感情を抱えながらもなお、一方で日本を利用し日本を凌駕していく姿勢をとってきました。それがアジアから世界に打って出るには、もっとも合理的な方法だったのでしょう。

中国にしても、昔は「日本人民から学びたい」といったことばをよく口にしていましたが、もちろん、彼らは腹のなかでは舌をベロッを出していたはずです。

日本の製品をコピーして、なおかつそれをオリジナリなものに作りかえ、その上で世界の市場で勝負するのが彼らのやり方でした。そして、サムスンや少女時代のように、その成果が徐々に表れてきているのです。そんな状況に対して、日本人が苛立つ気持はわからないでもないですが、だったら、どうしてそれに背を向けたりせずに、逆に彼らを取り込むような努力をしないのか、そういった気概と戦略を持たないのか、と思います。

GALAXY NOTEⅡが韓国製だからダメだ、アップルのモノマネをしているからダメだと負け惜しみを言っても仕方ないのです。問題はどうしてGALAXY NOTEⅡのような製品が日本から生まれないのかなのです。そのことをもっと深刻に考えるべきでしょう。
2012.12.12 Wed l ネット l top ▲
健康診断に行ってきました。初めての病院でしたが、検診センターの待合室には、午前9時前にもかかわらず既に数十人の受診者が作務衣のような検診用の病衣に着替えてすわっていました。そして、つぎつぎと名前を呼ばれ、指示どおりに手際良く検査を受けるのでした。

検査の結果は後日郵送されてきますが、前日ほとんど眠らずに行ったため、結果はあまり期待できそうにありません。

案の定、血圧が130を越して高めでした。今までは10回深呼吸をすると血圧が下がったのですが、今日は何度深呼吸をしても数値は変わりませんでした。また、以前よりその傾向があるのですが、耳がやや遠いのです。特に高音域が聞き取りにくいのです。と言って、話す声がやや大きくなるくらいで、日常生活に特別支障があるわけではありません。

視力も0.4と0.5と、従来より落ちていました。もっとも先月、運転免許の更新があったのですが、その際の検査では0.9でした。

ひと通りの検査が終わったあと、最後はドクターの問診がありました。女性のドクターでしたが、説明の際、しきりに「血圧が高くなりつつありますね」とか「耳も遠くなりつつありますね」とか「視力も衰えつつありますね」というような言い方をするのです。なんだか「年だから」と言われているようで、ショックでした。

でも、耳が遠いのは昔からだし、目も老眼ではなく近視のはずです。血圧が高いのも、どっちかと言えば睡眠不足とメタボ気味の体重に関係があるような気がします。「つつありますね」なんて言い方をされると、避けられない老化現象が訪れ「つつ」あるような気がして、気持も沈んでしまいます。

病院を出て「ショックだなぁ」と思い「つつ」、ふと前を見ると、通りの向かいにある吉野家の看板が目に飛び込んできました。そして、その看板に引かれるように店に入り、牛丼の大盛りを注文したのでした。牛丼をかき込みながら、「この旺盛な食欲のどこが老化なんだ?」「おれはまだ若いんだぞ」と言いたい気持でした。
2012.12.10 Mon l 健康・ダイエット l top ▲
Crossfire Hurricane

夜中にふと目が覚めたら、つけっぱなしになっていたテレビ(フジテレビ)で、ローリング・ストーンズ結成50周年記念の公式ドキュメンタリー映画「Crossfire Hurricane(クロスファイアー・ハリケーン)」をやっていたので、いっぺんに目が覚めてしまいました。

「Crossfire Hurricane」は、先月、1週間限定で全国で上映されたばかりなのに、もうテレビで放映されるとはびっくりですが、これも来週のDVD発売に合せた企画なのかもしれません。

映画では、主に60年代から70年代のストーンズの活動を丹念に追っていましたが、ただあくまで「公式」のドキュメンタリー映画なので、たとえば、コアなストーンズファンが指摘しているように、ブライアン・ジョーンズの脱退についても、メンバーの口からは当たり障りのない”公式な発言”しか出てこないなど、やや物足りない部分もありました。

ローリング・ストーンズと言えば、どうしてもクスリと暴力のイメージがつきまといます。ビル・ワイマンはバンドを脱退する理由として、「クスリから家族を守りたかった」と発言していましたが、この映画でもその場面がふんだんに出てきます。なかでもキース・リチャードのヤク中ぶりが際立っていましたが、それは、ミック・ジャガーが「キースが車を運転するのはやめてほしいと思っていた」「家に帰っても事故の電話があるんじゃないかといつもビクビクしていた」と言うほどです。やがてキースは、大量のヘロインを持ち込んだ罪で、カナダの警察当局に逮捕・拘留され、それを機に精神療法によってヤク中から脱出する決意をするのですが、映像は逮捕のシーンからいっきに2006年の「Shine a Light(シャイン・ア・ライト)」のコンサートシーンに飛んで、好々爺になったかのような60代の彼らが登場して終わるのでした。

1969年、サンフランシスコ郊外のオルタモントでのコンサート(このコンサートでは4名が死亡したと言われています)で発生した刺殺事件、いわゆる「オルタモントの悲劇」に至る会場の殺気立った異様な雰囲気からは、60年代後半のヒッピー文化に代表される時代の緊張感(ハチャメチャぶり)がひしひしと伝わってきます。私は、それをみて、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が『群像』新人賞を受賞した際の選評で、埴谷雄高が言っていた「ロックとファックの時代の汚なさの美学」ということばを思い出しました。60~70年代初頭にかけてのローリング・ストーンズは、まさに存在自体がスキャンダラスだったのです。

私は、この映画をみているうちに、もしかしたらネットのない時代のほうが自由だったのかもしれない、なんて思ったりしました。折しも愚劣な政治の八百長ゲームがはじまりましたが、どうして現代の若者は、あんなにみずからすすんで愚劣な政治や国家に拝跪したがるのでしょうか。そして、どうしてわざわざ自分で自分の生き方を窮屈なものにしなければならないのかと思います。それが「ヘタレ」と言われるゆえんですが、まるでネットに囲い込まれることによって、ただ国家に愛されたいだけのいじましくも哀しい飼い猫になったかのようです。

この映画には、ストーンズのメンバーだけでなく、当時のファンの若者たちも含めて、私たちが久しく忘れていた、国家や時代を逸脱する(逸脱せざるをえない)魂が描かれているように思いました。年寄りじみた言い方になりますが、若者というのはもともとそういう逸脱する存在だったはずです。そこからあたらしい文化や風俗も生まれたのです。その意味では、若者が若者でなくなった今の時代のほうが”異常”だと言えるのかもしれません。

>> 「シャイン・ア・ライト」
>> ローリング・ストーンズ
2012.12.05 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲