3月16日から東急東横線と地下鉄の副都心線の相互乗り入れがはじまり、それに伴って今の東横線の渋谷駅がなくなるため、大晦日の渋谷駅や渋谷周辺の写真を撮りに行こうと思っていたのですが、当日になるとなんだか面倒くさくなって、結局、いつものようにみたくもないテレビをみて過ごすことになりました。
ちなみに、東横線の駅は3月から今の地下鉄副都心線の駅になります。というか、渋谷駅が終点でも始発でもなく、単に通過駅でしかなくなるわけですから、東横線の駅が廃止になると言ったほうが正確なのかもしれません。
あの海外の駅を思わせるようなクラシックなプラットホームの光景がもうみられなくなるのかと思うと、やはり一抹のさみしさを覚えます。もっとも渋谷駅の駅舎自体が地上43階建ての高層ビルに建て替えられるため、東横線のホームだけでなく、今の渋谷駅の光景はいづれ記憶のなかにしか存在しなくなるのです。
43階建ての新駅ビルには、東急ハンズ渋谷店も移転するのではないかと噂されていますが、完成予定が2027年ですから、正直言って、私たちにはあまり関係のない話かもしれません。43階建ての新駅ビルができたとき、自分はどうしているのだろう、と思ったりします。
東京の街は短いサイクルでめまぐるしく変貌していきますが、私たちの感覚はとてもじゃないけどそれに追いついていけません。それにいつまでもその変わりようをみることもできないのです。
時代のサイクルと人生のサイクルはまったく別に存在します。「国家」や「社会」というのも、私たちの人生とは別のサイクルで動いているのです。埴谷雄高が言うように、「政治の幅は生活の幅より狭い」のは当たり前なのです。そう考えると、政治なんて「どうでもいい」わけで、まず私たちは日々の生活を、そして自分の人生をしっかり生きていくことだとあらためて思います。
昨日の深夜、TBSラジオ「文化系トークラジオ Life」をベットのなかで聴いていたら、水無田気流だか誰だかが、フリーで生きていくにしても、就職して会社を知ることは大事で、そうやって社会的訓練を受けているかどうかは、将来フリーで生きる上でも重要になってくる、と言ってましたが、私の経験から言ってもたしかにそのとおりだなと思いました。
さしずめその”好例”は、最近よく話題になっている、40をすぎてもフリーターをつづけている”中年フリーター”たちでしょう。運送会社の集荷場でアルバイトしている若い男の子も、「30代40代になってもフリーターをつづけている人がホントに多いんですよ」と言ってました。彼らはフリーターの第一世代であり、アニメやアイドルなどサブカルチャーの洗練を受けた最初の世代でもあるのですが、たしかにこの社会で生きていく上で、社会的訓練を受けてないことが「致命的」になっているのは否定できない気がします。
こんな言い方はしたくないですが、中高年のひきこもりだけでなく、先頭集団がやがて50代にさしかかろうかという”中年フリーター”の存在も、社会的コストとしてこれから大きな負担になることは間違いないでしょう。フリーターは、必ずしも経済学者が言うような「多様な生き方の選択」のなかにあるわけではないのです。ただ、だからと言って「就職氷河期で職にあぶれた世代」といった見方も、一面的すぎる気がします。むしろ”宮崎勤の世代”、あるいは”オウムの世代”と言ったほうが的確かもしれません。
彼らは十全に社会に適応できなかった分、総じて”人がいい”ところはありますが、しかし、政治的な話になると、とたんにネトウヨもどきの過激な発言をするのが常です。「人生がうまくいかない」負の感情のはけ口として、まるで彼らには「尖閣」や「在日」や「ナマポ(生保)」が存在しているかのようです。
でも、はたからみれば、どう考えても「ナマポ」は彼らの明日の姿です。福祉の予備軍と言ってもいいような人間たちが、一方で「ナマポ」叩きに躍起になっているというのは、文字通り”ゆがんだ現実”と言わねばならないでしょう。
彼らには、このように「明日は我が身だ」という当たり前の想像力や、まず大事なのは自分の人生や生活だという当たり前の観念が、決定的に欠けています。それはやはり、社会的訓練を受けてないからではないでしょうか。社会的訓練というのは、なにも「社畜」になる訓練ではありません。いわば現実を生きる訓練でもあるのです。
「文化系トークラジオ」でも言ってましたが、今の時代は就業人口の70%がサラリーマンです。サラリーマンだけが人生ではない、起業もありだなんて言われていますが、実際は10人のうち7人はサラリーマンとして人生を送っているのです。
そんななかで、社会学で言う地域や世間や親族が「中間共同体」としての機能を失った現在、会社がその役割を一手に引きうけているという側面もあるのではないでしょうか。会社を通して(サラリーマンという人生を通して)、私たちは現実を生きる”常識”のようなものを学んでいるとも言えるのです。
中川淳一郎氏が言うネットの「バカと暇人」というのは、いわば現実感覚が欠如して自己を対象化できない”夜郎自大な人々”と言い換えてもいいのかもしれませんが、昔は”夜郎自大な人々”が言うことなんて社会的には無視されていました。そもそも発言権すらありませんでした。「その前にちゃんと働け」と言われるのがオチでした。ところが、ネットが登場したことで、そういった”夜郎自大な人々”の声が掲示板などを通して「類は友を呼び」、あたかも市民権を得たかのような錯覚が生まれたのでした。
片山さつきのように、お下劣な政治的野心のために彼らの負の感情を利用しようとしても、もちろん彼女が負っている(はずの)政治の課題はなにひとつ解決するわけではないのです。
本の感想文はまた後日あらためて書くつもりですが、私は、藤原章生著『資本主義の「終わりと始まり」 - ギリシャ、イタリアで起きていること 』(新潮社)という本を読み進んでいるなかでずっと頭のなかにあったのは、この”中年フリーター”たちのことでした。
『資本主義の「終わりと始まり」』のなかでは、「経済取引が第一原則ではなく、人間同士の交わりこそすべての基本になるような世界」を私たちは想像しなければならない、というギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスのことばが何度も出てきますが、私たちもまた、野暮とおせっかいを承知で、あえて彼らにこう言わねばなりません。
ネットが全てではない。面と向かって言えないことをネットだと言えるような世界はウソだ。真実は現実にある。世の中は陰謀史観で動いているわけではない。会社で働くことは大事だ。サラリーマンは偉い。フリーターは自由ではない。フリーターの先にある「不自由」でしんどい現実を直視すべきだ。「尖閣」や「在日」や「ナマポ」では自分の人生はごまかせない。
では、良いお年をお迎えください。